屈折したプリズム・キューブ
性表現あるって言っても、微妙。
夏の熱に浮かされる少年少女の話。
彼女の名前を正しく言えば叢雲風華。僕は彼女の名前を言いあぐねて、いつも「ねえ」とか「君」などと適当な呼びかけをして誤魔化していた。女と会話をあまりしない僕にとってこれは当然の事であり、ある意味、女に対した遠慮というものであった。
彼女との関係は家の近い同級生であるが双方の両親が昔馴染みらしく、家の交流は盛んである。僕と彼女との関係はそれほど親密ではないが、思い出せる初めての印象は物静かであり、一言二言だけで判るほどの思慮深さを兼ね備えた、髪の長い女だったことだけである。記憶がないころに引っ越してきた僕と彼女は幼い頃から一緒で、近くに同じ年の人間が居なかったから僕が彼女に対して興味を抱くのは当然のことだった。小学生までは中の良い友人。思春期が始まる中学生のときは少し気になる女の子。段々落ち着いてきた高校生では気軽に話せる親友、と言ったところか。
そして、僕は彼女に告白した。自分の気持ちを。案外あっさり受け入れられたので面食らったことを覚えている。彼女と少しだけ接近したことで、彼女の印象は変わった。意外と彼女は快活な人物であった。いきなり「海へ行こう」と言えば、すぐに身支度をさせられ、自転車をこがされ海へ行き、突然「山へ行こう」と言えば、すぐに準備をさせられ、重い荷物を持たされ山へ行く。さらに言えば彼女は負けず嫌いであり、特に勉強の事となるとひどいもので、テストで気に入った点数が取れなかったときは次のテストの三週間前からテスト勉強し始め、僕も巻き込んでくれる。ありがたいことにそのテストの点数は上位十名に食い込めるほどの勉強会をしてくれる。まあ、嫌いじゃないから文句はなかったけれど。
彼女の印象が再度変わったのは長期夏季休業中のある日であった。僕の両親が仕事の都合で一週間前から九州へ行ってしまい、何から何まで自分でしなければならないが束縛もない自由な堕落した生活を送っていた。その日は確か我が高校の野球部の誉れある甲子園の一回戦であったが、面倒臭さという理由と責任者がいないのでそういった旅行もとい応援に参加できないという理由があったため、テレビの前で応援しているなどという空言でお茶を何とか濁したのである。
田舎の長期休業にありがちな目標の無い倦怠に襲われた僕は昼まで蒲団の上にいた。全く脳が覚醒しなかったのだ。特筆するような病弱な体質ではないが、暑さには耐性がない。我が家にクーラーなどという先進的文化財はあらず、扇風機と自然のエアコンが我が家の清涼剤である。唯一の救いがあるとしたら、それは畳敷きの僕室の風通しが最高であることだろう。そこに冷凍庫とアイスがあれば文句の一つ出るはずもないが、残念ながら叶わぬ夢である。
我が家は日本海岸沿いに住居を構え、冬は寒く夏は暑い。内装和風の自然を生かした現代風の家だといっても辺りが田んぼでは風景が調和するはずもなく奇妙な違和感を覚えてしまう。夏は青が一面に敷き詰められ、秋には金色がそこらじゅうに見られるが、悲しいことに美しい景観を我が家が壊してしまっている。壊してしまって、なんて少し傲慢だろうか。汚していると変えた方が適当だ。しかし、我が家からの風景は壮観だ。違和感は視界には入らないのだから、当然と言えば当然だろう。ついでに言えば彼女の家はそれほど遠くない。歩いて一、二分の場所にある。田んぼ一つ挟んだ隣だった。
十二時を告げるサイレンが鳴った。そろそろ昼食をとらねば死んでしまう。そういえば朝食すらとっていなかった。これほど面倒なことはない。どこからか湧いて出てこないものだろうか。
いくら物ぐさでもこの年で死んでしまうのはいささか滑稽で、そんな醜態をさらすことはご免だ。適当に余りもので済ましてしまおう。台所の電気は付いているはずもない。静寂が床から湧いているような感覚。どうせ湧くなら孤独ではなく、実用性のある食事とかがいいだろうに。
冷蔵庫の中は台所の静けさと違って賑やかであった。しばらく手を加えなくとも誰かが寂しい思いをせずにいられるだろう。まあ、今からそんな仲を裂こうとしている僕は言うなれば悪漢。無慈悲な蹂躙を行う暴虐の徒。発想が面白い方向へ飛び出していったが思考は変な所へ着地してしまった。殺人的暑さで頭が殺されてしまった模様。もう一度息を吹き返させるには栄養補給が必要で、ともかく取り出したヨーグルトでも食べよう。冷たさが頬の温度を下げ、弱った内臓に染み付くようだ。流動食で少し調子は戻った。野菜でも食べようか。確か適当な大きさに切った野菜がタッパーにある。タッパーの中に少量の水を入れてレンジにかければあっという間に温野菜ができる。それにごまドレッシングをかけて食べた。ごまドレッシングの味しかしない詰まらなさが鎮座していた。しかし、ビタミンをとらないといけない。幸いごまドレッシングの味は嫌いじゃないので完食する。
一通り食事をして、腹が満たされた頃、家のチャイムが鳴った。玄関にやってくると、幼馴染みがいた。白いTシャツと、デニムのショートパンツ。今日は割とラフな格好である。
「上がっていいかい?」
などと聞いてはくるものの、既に上がっている。別に気心を知る仲であるから、抵抗感はない。
用事は聞かないが恐らく帰ってくる返答は何となくであろう。わざわざ聞くまでもない。玄関から近い茶の間へ行く。我が家の茶の間は広く台所とつながっている。畳敷きで、大きめの座卓の傍には座布団が何枚か散らかっている。彼女はそれらをまたいで台所の冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを取り出し、中身を飲み干した。
「いや、今日は暑いな」
などと言いながら、ペットボトルを捨てる。何故か夏には常備される彼女専用のボトルだ。そう思っていたら彼女はテレビの電源を入れる。番組は野球。それも甲子園だ。
「確か今日、うちの野球部の試合だね」
「ああ」
確か「テレビの前で応援します」などと先生に言った覚えがある。
「応援、しようか」
分かった、と僕は言いながらテレビを見る。四回の表、三対ゼロ。どうやら勝っているらしい。彼女は「凄いね、勝っちゃうんじゃないか」などと半ば笑って言ったが、僕は「どうだろうね」と笑って画面を眺めていた。カメラはマウンドに向けられている。ピッチャーはうちの高校の高橋だった。
「こうして見ているとなかなか高校球児っていうのは凛々しいものだね」
「そうかな」
と、気の抜けた返事をしたところで、会話が止まってしまった。僕はこの沈黙が嫌いだ。きっと彼女もつまらないことだろう。心苦しいのと彼女の心情を図りかねるのとで困惑する。ちらりと横を見ると彼女の表情は何も語らない。それが僕に嫌な思いをさせた。言葉にならない言葉が胸に詰まって息が苦しくなる。僕はあえてテレビに顔を向けた。集中して同級生の雄姿を眼に収めんとしようとする振りをするのだ。
試合は四回の裏に回った。バッターボックスに六番の背番号を背負った青年が入る。彼の表情は硬い。大舞台で失敗は許されない。それが彼の肩にのしかかっているのだろう。彼はピッチャーを見据える。バットをぐるりと一回転させ、斜に構える。それを当てるためにこぶし大しかない一つの白球のみに己の全集中力を使うのだ。
天は雲一つなくただ青く、陽は容赦なく人々を照らし、目下の敵はグローブをつけた手で汗をぬぐう。長く、永い緊張が続く。
注意が逸れたのは、ぶうんと空を切ったバットの音だった。
急いで隣にいる彼女を見る。テレビにご執心のようで、じっと画面の中の学友を見ている。
長く艶やかな髪。整った眉。長い睫。元々大きい目。潤いのある瞳。つんと尖った鼻。そして、唇は今し方作り終えた具合で柔らかそう。どこまでも赤くて張りのある――。
手で頭を打って思考を中断した。
テレビに目をやると一人は塁に出ていた。赤いランプは二つ。黄色は一つ。青は二つ付いていた。
そういえば、と彼女は唐突に口を開いた。目はテレビを向いたままだ。
「あのキャッチャーの彼。名前は何て言ったっけ?」
「あいつの事か? あいつは……草部だな。間違いない」
「そう、草部君」
「そうだ」
「彼の話、聞いたことあるかい?」
僕は強く目を瞑った。記憶の有無を確かめる時はいつもそうする。
「なんだよ、それ」
「彼の彼女との話」
僕は唸った。答えに窮したのだ。
「さあ」
「彼、彼女と放課後教室にいたらしいね」
「それがどうしたんだ」
「日も傾いた夕暮れ時、誰もいない教室」
「ふむ」
「初夏、青春の熱に浮かされた少年少女」
「ほう」
「――君、もしかしてこういう話嫌い?」
「いや別に。意外だなって」
「意外って、私が色恋沙汰を話すことが」
「そう」
「私だって一端の乙女だ。恋話位するさ」
沈黙で答える。
「君には一言二言言いたいことがあるが、話を戻そう。どこまで話したっけ」
「草部と彼女がキスしたって所」
「そう、その彼と彼女が――ってなんで知ってるの!」
「見てたから」
「見てたからって……知らないって言ったじゃない」
「知らないとは言ってない」
「そうだったかしら。僕も詳細は知らないから教えて」
心の中で笑いながら、無表情を貫く。窓の外は雲一つない天気。田舎特有の混じり気のない空気がそこらじゅうに充満していて、透き通る青が目に刺すほど輝いていた。
「別に。キスして、終わり」
「終わりって……他には、ないのかい?」
僕はそこで「ない」と断言してそっぽを向いた。
外の蝉の声がやけに耳につく。テレビの画面に集中するふりをするけれど、彼女の内情を測りかねて苦しい思いをした。
現実を逃避するように、その日の教室の扉の前で見たことを思い出した。
僕はその日持ち帰るべき宿題の紙束を忘れてしまい、教室に向かっていた。空も暗くなり始め廊下の白色電燈が外よりも明るく、早く家に帰りたい心情を煽ってくる。窓は先生か校務の人が閉まったのか、廊下は蒸し暑く不快だ。一刻も早くこの校舎から出たい思いで廊下を走っていた。
教室の前に着くと、廊下に体育着と誰かのエナメルバックが置かれているのを見かけた。その形態から察するに野球部のもの。
それから目を離して扉についた大きめの窓から教室を伺い見る。本来ならば、生徒がいることをあまり喜ばれない時間帯だ。ばれてしまっては理由も相まって情けない。そんな思いで教室の中を見ると、坊主頭の男と髪を短めに切った女が教室内にいた。
坊主頭であることと友人たちからの情報から推察するに草部と、最近そいつと彼女になった同じクラスのマネージャだろう。その時は教室に行く前に友達といたので、行きがけにそんな話をしていたのだ。もしも彼らが教室で何かをしていたらあとで教えろと言ってきたので、そんなおいしい話をお前らみたいな口軽なんぞに教えてたまるかと、言い返して走って行ったのを覚えている。
そんな話があってあるものか、と扉の窓から中を見ると実際に彼らがいたのだ。多分小説ならば「そんな都合のいい話なんてあるわけがない」と思うだろうが、実際にあったのだ。その時は僕はそんなに驚きはしなかった。頭は冷静に「感づかれてはいけない」とだけ静かな警報を出し、息をひそめて、扉には寄りかからずに鼻息が当たるほどの距離で教室の一部始終を見ようとした。
彼らは朱に染まった教室の窓際にいた。つかず離れずの距離を保ったまま何かを話している。その光景は当時の僕にとってどうでもよいものだった。ただ内心は彼らに僕の存在を悟られぬようなことばかりを考えていた。だから僕は呆然とその光景を眺めているばかりである。
夕焼けの赤に染まっているのか、そもそも血流で赤くなっているのか、お互いの赤い頬を近づけて、彼らは特別な儀式のようにキスをした。
唇を触れ合わせるだけのキス。少しだけその状態を保った後、すっと離れた。
「か……帰ろうか」
と、緊張に震える草部の声で僕は正気に戻った。音をたてないように、かつ、素早くその場から離れる。幸い教室の近くにはトイレがある。その個室に隠れれば気取られることもない。
息を殺して和式便器が備え付けられている個室に入る。外の声はまだ聞こえない。自分の鼓動だけがやけに耳につく。もしかしたらこの鼓動も彼らに気づかせる要因になり得るかもしれないと言う妄想さえもしてしまうくらいに焦っていた。
顎の下を垂れていく汗。粘度の高い唾液はかえって喉に絡みつく。
静かに二人分の足音が近づいてくる。気が付くな、と必死で祈るように目を瞑る。
トイレの前を通過し、そのまま足を止めることなく音は遠ざかっていた。
しばらく音が聞こえなくなるまで僕は声と息をひそめていた。そうして音が聞こえなくなってはじめて大きなため息をついた。
そうして僕はトイレから出て荷物を探した。そこから友人たちの所へ走って追いついた。その間ずっと僕の鼓動は逸ったままだった。
別に情事を見た訳でない。マネージャに恋していたわけでない。
その時の僕は唯々動揺していただけだが、キスの現場を見てしまったと言う罪悪感、と今では解釈している。
ごくり、と唾をのんだ。現実に戻ってものどがカラカラで、唾の粘度は高い。彼女の方はまだ向けない。野球は七回まで進んでいた。七回の表、我が校の攻撃。先頭バッターは、バットの振り方を見るとセンターの高階と分かった。
「一体なんだって聞かされたんだ?」と、僕は聞いた。
「別に」
「誤魔化すなよ。言えない事でも聞いたのか?」
と、僕が茶化して言うと彼女は俯いた。
「セックス」
と、彼女は小さくつぶやいた。確かにはっきり聞こえたが僕は「今、なんと言った」と聞き返した。
「だから、セックス、だってば」
僕は答えに窮した。彼女と肌と肌とが触れ合う距離に座っていた僕はさあっと血が引いた音を聞いた。彼女の体温が相対的に熱くなった気がした。
「ごめん」と僕は謝った。何に対しての謝罪だったのか、今でも分からない。
しばらくの沈黙が続いた。流れ出す冷や汗、妙に意識する彼女の存在。離れたいはずなのに、遅々として離れないこの体に腹が立った。
「いいよ。気にしない」
ありがとう、と言いかけて彼女の声が重なる。
「その代わり、質問に答えて頂戴」
もちろん、と頷いた。
「私の事、好き?」
僕は口角を下げた。
「答えてって言ったじゃない」
顔を赤らめさせ、俯いて非難している。その時僕は何とも言えない理由があった。つまらない事だと今では思っているが、その時は頑なに無言を貫く理由があった。
「陽子と草部君との話を聞いて、不安になったんだ。間違った情報だったけれど、彼女たちがセックスしたって聞いて、私焦ったんだ。私は君を愛しているのか。私は君に愛してもらっているのか。確信が持てないんだ」
「君、僕たちは付き合ってるじゃないか」
「陽子たちみたいに、恋人らしくしてる?」
「人によって恋人らしさ、なんてあるものじゃないか?」
「じゃあ、私たちにとっての恋人らしさって、何?」
それは、と言いかけて口が塞がった。思い出せない。僕は彼女に何をしてやれたのだと言う疑問が頭の中を駆け巡る。彼女は僕を海へ山へ連れて行った。勉強も教えてくれた。でも、僕自身は彼女に何をしてやれたのか、思い出せなかった。
「いつから、私の手も握ってくれなくなったかな。確かに私は君を振り回している自覚はあるよ。だけど、ついてきてくれるだけじゃ、不安なんだ」
私の目を見つめて、続けた。
「ねえ、彼女たちよりも先に、進んでみない?」
彼女の目が怪しく光る。さっきまで意識してなかった彼女の香りに気が付いた。甘い、脳を揺らすような香り。ごくり、と喉を鳴らした。
「セックス、してみない?」
魅力的な提案だったが、僕は答えに窮して唸った。本当に答えが見つからなかったからだ。
「したくないと言えば、嘘になる」
頭で渦巻く感情をすべてカットして答えた。顔は依然として暑いが口角を下げて、目を半開きにする。多分、この時の僕は夏の暑さに浮かされてこんなことを口走ってしまったんだと思う。
「だったら――」
だが、と彼女の言葉を遮った。
「校則で不純異性交遊は厳禁だと決まっていることは君も知っているはずだ。だから僕は君の求めには応じられない」
そんな生真面目な言い訳をした。これなら彼女の暴走を止められると、思いながら。
「じゃあ君に対するこの恋慕は、不純とでも言いたいのかい?」
「そうじゃない。学業に支障をきたしたらいけないだろう」
「要は子供が出来なければいいのだろう。避妊具だってある。いざとなればピルだって正しく服用すればいい」
「誰かに知られたら……」
「辺りは田畑でここまでくる人間は僕たちの家族以外いない。君が吹聴しなければいい話だ」
「避妊具だって絶対じゃない」
「避妊できなかった人たちは誤用したんだ。正しく使えば間違いはない。大体、ゴムを精子が通過できるか? 君も授業を聞いていれば知っている知識だろう」
確かに彼女は正しい。これ以上反論は出来なかった。彼女に対して反論できない口惜しさと超えてはならない境界線を越えようとする恐怖で、僕は目を瞑った。
その時はぼんやりとした認識しかなかったが、確か今と同じような考えを雷に打たれたように脳内を駆け巡ったことを覚えている。
例えうら若き高校生だとしても、いや、小さな小学生だとしても人である限り性と切り離すことは出来ない。動物である限り子孫を残そうとするし、生殖可能な年齢は決まっている。確か当時、ニュースでぼんやりと見ていたのだが、インドの辺りで小学生くらいの女の子が成人した男性と結婚して、その夜、レイプまがいのセックスで死んだらしい話を見た気がする。それもその時思い出していたはずだ。彼女はなぜ死ななければならなかったのか、という問いよりもまず先に頭の上に降ってきた疑問は、セックスで死ぬこともあるのだろうかという素朴そうで猥雑な好奇心だった。ニュースを見ていた時はそれだけを少しの間だけ考えたのだったが、その時また別の疑問が僕の中で浮上してきたのだった。体が未熟な彼女がもしもその嵐のような一夜を生き延びられたとしたら、果たして子を成し、育み、この世に出すことが来たのだろうか、と。確かにどこかの世界記録に彼女と同じくらいの少女が妊娠し、生んだと言う事実がある。しかし、彼女はその偉業というべきなのか異形というべきなのか分からないが、その記録を再現することが出来たのだろうかと。
目を開けても彼女はこちらを真摯に見ていた。そうして僕の右肩に触れた。
「私は君の支えになりたいの。ずっと」
痛みがまた増してくる。野球人の生命を絶たれた肩は熱を持ち始める。いや、違う。熱を帯び始めたのは僕の心だった。
彼女を、独り占めしたい。そんな独占欲。
「野球だって、忘れさせてあげる。なんだってしてあげる。君が望むこと、君がしてほしいこと。私が連れまわして頭を混乱させてあげる。だから、さあ――」
彼女の手が僕の胸を撫でる。顔は目と鼻の先だ。目の前が揺れる。肺は彼女の甘い匂いでいっぱいだ。ごくり、と確かに僕は喉を鳴らした。その要求は余りにも魅力的で、蠱惑的だった。
理性を失うほどに。
結局、そのまま僕は彼女を貪った。
肩を壊して甲子園に行けなくて傷ついていた僕は、暴力的ともいえる思いと共に感情を彼女にぶつけた。痛かったと思う。だけど、その時の彼女の笑みが、何となくそんな僕を許してくれたようで、流されてしまった。
僕の中の劣情と怒りを何度彼女に吐き出しただろうか。僕は疲労で彼女の柔らかい胸に顔をうずめた。僕の匂いと彼女の匂いとが混ざり合って、虚脱感を促進させた。
「ふふ、くすぐったい」
頭の方から声がしたので目をそちらにやると、彼女は微笑んで僕の頭を撫でた。
安心したのか、愛おしいと思ったのか、彼女にかけていた左腕で彼女を抱きしめた。反射的にした行動に僕は驚きを覚えながら、笑いかけた。
「これで良かったのかい、風華」
彼女は頷いた。
「あれ程名前を呼ばれて、抱きしめられたら感じずにはいられないでしょう」
ふう、と僕は息を吐き出した。
「ちょっと疲れた。もう少し、このままでいてもいいかな」
「ええ、好きなだけ」
まどろみながら、僕は考えていた。野球も出来ない、勉強もいまいちな僕が彼女を抱きしめてもいいのか。自信と言うものがなかった。だから、少し一線を引いた関係を求めていたのかもしれない。いつ別れてもいい様に名前を呼ばなかったのかもしれない。
もう必要のないお守り。その重圧から解放されたかのように、僕は静かに眠った。
あの時、僕は拒否べきだったのか、そのまま流されて良かったのか、今の僕にも分らない。だけど、彼女の安心した微笑みだけで、何となくこれが良かったんだと思うばかりである。
日が出てきた。硝子からさす光が、プリズムを通ったように分散している。紫から赤にかけてのグラデーションがフローリングの床を照らしている。どれ程屈折したって、色はある特定の波長を指し示す。どんな色だとしても、光であることは間違いない。
反射した光に目をくらませ、僕は瞳を閉じた。
屈折したプリズム・キューブ
愛についての小説の大会に出したかったけど、どう着地させても性表現が抜けなかったのでこんな感じに。
恋愛と性は切り離せるのか、とか、性行動は果たして愛につながるのか、とかいろいろ考えてごちゃごちゃになったのがこの作品。
初恋愛ものとしてはよくやったと思ってる。