復活の為の習作集
序説
これは、河野つかさの錆び付いた文章表現力を再起させるための習作であり、書道における筆おろしと同等のものである。
我が心が言語表現、それも文字という記号をもって行われる表現の魅力にとりつかれて以来、かくも長きにわたってその活動を停滞させたことはない。
日常の些末な感情の表出を除けば、それはまれに見る長期停滞であり、言葉の歯車が錆び付き機能しなくなるまでに十分な時間を与えるものであった。錆は歯車の奥へと浸透して、無理に力を加えればその形すら失いかねず、さすればいかに今後願おうとも、かつての運動を取り戻すことはかなわないであろう。軸そのものの腐敗を逃れていたことは幸運以外の何ものでもなく、たとえ歯を失おうとも、軸を回転させる力は精神の奥底に封印されたに過ぎず、正しいか過ちかを問わずして、その起動を開始させることは不可能ではないにしても、やはり、時間とエネルギーとを要する膨大な作業であることは、疑うべくも無い。
されば、まずは習作とて、まっとうな中途作品を手がけるに値する力量を回復させるまでの、つなぎをここに記す。あるときに描いた短編叙情詩のごとく、魂の赴くままに書き散らす愚作であることは明確だが、さもありなん、それなくして、人目にさらしうるレベルでの文体にはとうてい及ばないことは、たしなめられる以前に自覚するものである。
我が心の小景を、最も愛すべき手法にて表出しうる喜びこそ、我が魂がここに存在する証と価値である。
習作一 敬愛する宮沢賢治に準じて 『蛙と蟷螂』
空はため息を落として、その弾みにいつもより早く落日の時をもたらしました。川縁に咲く水仙が一斉に驚いて頭を垂れ、それでもおそるおそるというように、黄色い花弁の端から空の機嫌をうかがっております。
川の水は、我関せず、とどまることを知らず、空も土も念頭にないように、どうどうと小石を巻き上げながら休むことなく過ぎていくだけです。
その向こうで、今昇ろうと構えていた月が、相棒の動きの変わったのを見て、さて、自分はどうしようか、と隣のヴィナスに問うてみましたが、惑いの星は気にした風もなく、ただ負けじと輝きを増すだけでした。
と、その川縁の水仙の間から、不意に這い出してきたものがありました。黄昏時の幻想色をした風を感じてしばらくじっと動かずにいるところなどは、一個のまぁるい石のようであり、それでいて、わずかに上下するのどの膨らみ、縮む様子は、明らかにそれが生物であることの証であるようです。
風が水仙の筋の鋭い葉を一斉に川下に押し倒し、それが跳ね返ると同時に、何を油断していましたのか、一匹の蟷螂(かまきり)が、暗緑色の繊細なブロウチのように、ぽとり、と土の上に転がりました。ゆるゆると緩慢に姿勢を立て直し、さて、体におかしな所はないか、と体長のわりに大きな鎌をふりあげつつ、目玉をぎょろつかせて、一本ずつ足を上げたり下げたりしている間、太陽は先ほどの急ぎ足を取り戻すように、さらにゆっくりと、ほとんど下るか下らないかの早さで西の空の中程から赤い光の腕を川面に伸ばしておりました。
「やぁ」
と、石のようであったそれは、つぶやきました。
蟷螂は一瞬動きを止めましたが、また、そしらぬ様子で身体の具合を見ております。
「やぁ、そこの旦那」
と、石蛙は言いました。
そこでようやく、蟷螂は自分を見下ろすふたつの目玉が、すぐ上にあることに気づいて、息を飲み込みました。
「身体の具合はどんなものかね。さっきはずいぶんひどく打ち付けたようだったが、傷んではいないかね」
親切そうな物言いをしながら、蛙は長い舌で目玉をなめています。
蟷螂はすっかり肝をつぶして、じっと知らぬふりをしようか、すぐにでも飛び跳ねて逃げようか、それとも覚悟を決めて、ふた振りの鎌を掲げようか、と思案しましたが、どうにも左奥の後ろ足の具合が良くないのを自覚していましたから、それはそれで、どうにもなすすべがないと、半ば青い身体をさらに青くして、ほんの一寸、後じさっただけでした。
「ご親切にどうもありがとう」
蟷螂は背中の羽をこすり合わせて、ハッとしたように固まってしまいました。
「おや、どうやら背中を痛めたようだね」
蛙は目を細めました。天敵である蛇すら思わせるような目で、蟷螂をじっと見下ろす様子は、すでに心を決めているかのようです。
「羽の具合が悪いのではないかね」
「いえ、そんなことはちっともありません」
蟷螂はじりじりしながら、ほんの数刻前までは何でもなかった背中をちらりと見ました。片羽が本来の場所からずり落ちて、千切れかけています。いくら暗みを増した葉陰とはいえ、蛙もちゃぁんとそのことに気づいていて、蟷螂の逃げられないことを知って意地悪をいうのでした。
蟷螂はもう、情けないやら、ご先祖に申し訳ないやら、昼間に食べた小蠅が腹の中でもぞもぞするような心持ちで、今はもう、動くことをやめてしまいした。
「まぁ、まだ時間はあるさね」
蛙はまた、目をまるく開いて、落ち着かないように舌でなめてはまばたき、なめてはまばたきしつつ、蟷螂を見下ろしているのです。
「ほれ、そこの緑の草の下をごらん。まだ、夜露が落ちていないじゃないか。それに、おてんとうさんも、あんなにながぁく光っておる」
「ですがね」
蟷螂はもう、自分の運命を覚悟していましたから、腹の蠅には済まないことをしたと思いつつも、ジッとしたまま、
「あのおてんとうさんは、今日はまた、ずいぶんとゆっくりじゃありませんか。お月さんはとっくに待っているのに、あれじゃぁあんまり辛抱なりません」
蛙は仄白いのどを膨らませたり縮ませたりしながら、
「そう、せくことはない。なに、今までが早すぎたのだ。今日くらいでちょうどいいじゃないかね」
「ですが……」
と、せかしかけて、蟷螂は、はたと言うのをやめました。のろのろではありましたが、確かに太陽は沈みかけておりますし、いかに明るいお月さまやヴィナスの光があったにせよ、蛙というものはそれほど目の良いものではありませんから、夜には逃げられるかもしれない、ここは時間を余計に使った方がよいのではなかろうか、と思いついたのです。
さて、そう思えば、何かものを言わねばなりません。今は目玉をこすっているあの舌が、いつ自分を持ち上げて、アッという間に平たい口の中に巻き込んでしまうかもしれません。
「ところで」
と、蟷螂は言いました。言いましたが、その後を考えてはいませんでした。何か蛙が夢中になりそうな話はないものか、と、かすみ始めた目をくるくるさせてあたりを見ますが、ゆらりゆらりと揺れる水仙の葉の他に、目につくものと言ったら、蛙ばかりです。
いっそ、さっき吹いたのと同じような強い風でも一陣きて、自分を吹き飛ばしてくれまいか、また、どこか痛めるかもしれないが、ここから連れ去ってくれるだけで、もう、感謝しよう、という心持ちで祈るばかりです。
蛙の方はといいますと、とっくに晩食のつもりでこの小さな相手を見ておりましたので、たとえさっきのようなつむじ風がいたずらに吹いてきても、敏捷にその舌で取り込んでしまおう、と決めておりました。
「ところで」
と、今度は蛙がいいました。
「旦那は随分と運がいい。わしは今、さほど腹が減ってはおらんのだ」
蟷螂はにわかにそれを信じた訳ではありませんが、幾分か身体を持ち上げました。蛙はそれに気を良くしたようで、結んだ口の端を動かしました。
「何しろ、昨日は雨が降ったろう? 雨降りの後はいつもより土が盛り上がって、ジッとしているだけでも、向こうの方からこちらの口元へやってきてくれるもんだ。ああ、蚯蚓(みみず)のことだがね。やつらときたら、明るいか暗いか、湿気ってるか乾いてるかしかわからんからね。試しに舌を伸ばしてじぃっとしていたら、ほれ、わしの舌が湿っているものだから、これはおあつらえに土の中に戻れた気がしたと見えて、そのまま向こうさんから入ってくれる。こっちは口を閉じれば良いだけなのだ。そうしたら、暗くなるだろう? それで余計にこれは安全だと思ったらしく、わしの口の中をうろうろするのだ。それが面白くて、しばらくそうしていたのだが、そのうち、さすがにどうも様子がおかしいぞ、ということになって、ひどくのたぐるのだ。わしもくすぐったくて勘弁ならん、というところで、そのままごくりとやると、それっきりだ」
蟷螂は、話を聞きながら、もう、青くなったり緑になったり茶色くなったりしていましたが、最後にはとうとう、生まれたての時のように真っ白く色失せて、ガクガクと震えながら、節を折り曲げて土の上にひれ伏しておりました。
蛙はグゥと喉を鳴らして、それっきり、また目を細めておりましたが、いよいよ、蟷螂が小さくなって参りましたので、もう、そろそろか、と頃合いを見ながら、また、話し始めました。
「いいかね、旦那。そういう訳で、わしは今日、たらふく、ここが大事だが、たらふく、蚯蚓を馳走になったのだよ。午後の間じゅう、そこの浅瀬で涼みながら、乾かぬように舌さえ伸ばしていれば、不自由なかったのでね。だから今、わしは腹が減ってはおらんという訳だ。そうでもなければ、とっくに旦那をぺろりとやっているだろう? そうは思わんかね?」
蟷螂はもう、怖くて怖くて、物も言えませんでしたが、少しでも蛙の機嫌を損ねまいと、震えながらうなずきました。
「まっこと、おっしゃる通りです」
小蠅の羽音のように、蟷螂はカサカサとささやきましたが、蛙には聞こえません。それでも、満足そうに蛙はまた、ぐぅ、とやりました。
そんなことをしているうちに、もう、さすがにくたびれたおてんとうさまが、よろよろと地平線へすべってきて、川面は一層赤くなり、茂みは暗くなりました。
待ちくたびれたお月さまは一気に空へ駆け上がり、夕暮れの川縁に白い光をさらさらと投げかけましたが、ヴィナスの方は凜として動きません。ヴィナスのような星は惑い星で、気まぐれなので、他のお星さまたちも相手にせず、星座の仲間には入れませんでした。
あたりがようよう見えにくくなってきますと、蛙としても、さて、食事時だろうと心構えをして、目の前の蟷螂に顔を近づけて言いました。
「やぁ、随分とお疲れでございますようで。旦那、羽の具合が酷い有様ですな。これでは満足に飛ぶことはできませんでしょう。このあたりはまだぬかるんでおりますから、飛べないことには十分に安全な所へ隠れるのも、容易ではありますまいて。こうなったからには、もう、覚悟をお決めなさって……」
と、言い終わらぬうちに、突然茂みから矢のように飛び出した一匹の蛇が、丸呑みに蛙をかっさらって、また茂みに消えて行きました。
後にはただ、お月様と同じ色をした蟷螂だけが、きらきら光る土の上に残されたばかりでした。
習作二 我が心の師たるジョン・ウィンダムに準じて 『横取り』
カザフスタンの国境からほど近い小さな町の、こじんまりとした大学の実験室で、エディは頭を抱えたり、眼鏡のつるを直したり、またはレンズを磨いたり、顔を拭いたり、意味もなく歩き回ったりと、まったくもって、落ち着きとは無縁の行動を繰り返していた。
対称的に助手のサットンの方はジッと自分の椅子に座り、背中を机のへりにもたせかけて、にらみつけるような形相で壁を見つめたままだ。
「まぁ、考えてもみたまえ」
何度も繰り返した台詞を、エディはまた、頭をかきながら口にした。
「私たちがここに、こうしていることが、どういう意味を持つのか。これは人類史上最後で最大の発見であるということがわかるかね」
エディは興奮で酷く汗をかいていたが、白衣を脱ごうという気も、窓を開けて新鮮な風を吸い込もうという気も起きないようだった。もっとも、そうしたくても、その実験室には窓というものが無かったのだが。
「わかっていますよ、教授」
優秀な大学院生のサットンは、二十歳以上も年上の、せわしない上司に、同じ言葉で何度も答えている。
「いや、君はまだ、現実を直視してはいない」
エディは自分を落ち着かせようとして、さっきから無駄な努力を続けていた。愛用の葉巻入れをポケットの中でカチャカチャと開け閉めするのは、こんな時の彼の癖だった。
「わかっていない。まだ、十分には」
「とにかく、お座り下さい、教授」
サットンは空いたままのエディの椅子をちらりと見て、
「今は、待つしかないのですから。もう、三時間もしたら、教授の研究を検証するために、ブラッド博士たちが到着します。それからでも遅くはないでしょう」
「いや!」
と、エディは鋭く助手を止めた。この若い片腕は優秀ではあるが、情熱という意味では自分より冷めた人種で、若さの割に冷静だった。
「これはまずいかもしれない、サットン君。ブラッド博士に知らせたのは、私の人生で最大の過ちかもしれないのだ。わかるかね? 仮にだ。仮に……我々が見つけた所のこの現象が正しいと追試されたならば、ブラッド博士はどうすると思う? この研究成果に目がくらまないほど、彼は人徳者だろうか」
サットンは茶色い短い巻き毛を掻き上げた。エディの熱弁を聞いていると、さほど不快ではない実験室の気温が跳ね上がる気がしてくる。
「サットン君。我々はもっと、慎重に相手を選ぶべきだったのだ。いや、それでも十分とは言えまい。追試の前に、先手で発表するべきだったのではないかね? 追試など、世界中の科学者にゆだねればよいのだ。まずは、これが間違いなく、私の……いや、君も含めて、我々二人の、だが……たどり着いた成果であることを世間に知らしめることこそ、重要だった」
「追試は必要です」
サットンは、ついにこらえていたため息をついた。
「このままでは、万が一、万が一ですよ、教授の……僕たちの研究が根本から誤っていた場合、教授の名前に傷がつくことになります。いえ、僕は一介の学生ですから、かまいません。しかし、教授がこの研究に賭けてきた年月を思えば、慎重に行うべきことです」
エディはしごくもっともな若者の意見を、しばし足を止めて聞いていたが、やはり我慢ならない、というように首を振った。
「君が冷静で理知的で慎重で、そう、私が求めるよりもはるかに慎重な人間であることは、十分理解しているつもりだ。何より、私を気遣ってくれていることには、感謝すらしているのだよ。だから、誤解はしないでもらいたいのだが、今回に関しては、君の助言を聞いて他の学者連中に裏付けを求めた判断が性急だったと、私は私を責めているのだ。いいかね、君を、責める気はないのだよ。ブラッド博士を選んだのは私だし、決断は全て私が下したのだからね。しかし、人間というものは実に不可解なもので、時にそれが天恵のように思われ、最善の策であると確信してなお、実行するとその後で迷いが生じてくるのだ。本当にこれで良かったのか、結果を急ぐあまりに、軽率だったのではないか、とね。いや、何も言わなくていい。あくまで、これは私個人の問題なのだ、サットン君。君も知っての通り、私はこの研究に没頭してきたし、そのためにはらった犠牲たるや、人生そのものの幸福全てであったと言っても良い。だからこそ、もっと、慎重に……君が言ったのとは別の方向で慎重に扱わなければならないものだったのではないか。これが私の成果であることは、君が誰よりも証人となってくれるだろうが、逆に君しか証人たりえないということが、私を不安にさせるのだよ。ああ、気を悪くしたら許してほしい。決して君を信用していない訳ではないのだ。もし、君を疑うような心があろうものなら、私は助手など頼まなかったわけで、最後までひとりで研究の完成を待っただろう。そう、今までもそうだったのだからね。ずっと一人で行ってきたことだ。君が私の研究室にいた時も、私はこの研究について、一言も漏らしはしなかったろう? なぁ、そうだろう? 君たち学生は、私が深夜までこの実験室にこもって、何をしているのだろうと、いろいろ想像しては楽しんでいたじゃないか。時には私を馬鹿にすることもあったろう。腹を立てたりはしないよ。秘密にされればされるほど、知りたくなるのは当然のことだし、隠されていれば何かやましいことがあるのではないか、と勘ぐるのは人として当然の興味だ。君たちには、私の研究内容をあれこれ考える権利があるし、それくらいの好奇心がなければ、科学という分野で何かを残すことは難しいからね。だから、私は私の研究を君たち学生の酒の話題にされることも、一向に構わなかったのだ。おお、話がそれてしまった。何だったかな、そうだ、私の研究成果の横取りについてだ! うむ、横取り、というのは通俗的で科学者が使うべき言葉ではないな。盗作、か、横領、か……」
「横取り、でいいんじゃないですか?」
もう、半分投げ出したように、サットンは言った。
「教授、とにかくあなたは落ち着くべきです。ええ、心配はごもっとも。ですが、まだ何も変わっちゃいませんよ。この結果は、あなたと僕しか知らないわけでしょう? ブラッド博士を呼んだことを後悔なさるのならば、門前払いする役目は僕が引き受けてもいいんです。先に追試を、と勧めたのは僕ですからね。そうすれば、確かにブラッド博士は機嫌を損ねるでしょうし、常識的に見ても非礼であることは否めませんが、あなたの心の安定は保たれて、ひとまず、椅子に腰掛けるくらいのことはしてくれるでしょう? このままでは、博士が来る頃には、教授の方が参ってしまって、断ることさえできないでしょうし」
助手が言うよりも早く、エディは相当疲れたものと見えて、そわそわと白衣の裾をいじりながら、それでも回転椅子に腰を下ろした。
「サットン君」
エディは深呼吸をし、自分ではいくらか頭が冷えたと思った頃に、再び口を開いた。
「君が言うようにしようじゃないか。ブラッド博士には、失礼を承知で今回はお引き取り願おう。そして、非礼にあたらないよう、博士やその助手たちの宿泊の手配をして、今夜は一晩、ホテルで過ごしてもらうとしよう。その上で、明日、改めて追試を頼むかどうか、決断を伝えよう。これで、私には少なくとも十二時間ばかり、覚悟を決める時間が増えるわけだ。それでも、私の決心がつかないようなら、やはり、追試は見送ろう。そして、論文の執筆にかかることにしよう。いや、博士に渡すための雑駁なものは用意してあるが、このままという訳にはいかないからね。正式な発表となれば、それなりの体裁を整えていかないとならん。君にはタイプを頼みたい。私はどうも、タイプライターが性にあわんのでね。口頭で言うから、それを活字にしてもらいたい。ああ、話し言葉を書き言葉に変えるのに、いちいち私の許可はいらないよ。君なら正確に直せるだろうし、出来上がったものは私が何度も読み込んで、確認するから。君の責任は問われないよう、そこは私がきちんと対応しようじゃないか。面倒だろうが、これが同時にどれほど栄誉なことか、君ならわかってくれるだろうね?」
そこまで一気にまくしたてて、エディはひとまず、息を吸い込んだ。その一瞬の隙に、サットンが割り込む。
「わかりましたよ。教授のおっしゃる通りにしましょう。そして、ホテルの手配から、タイプまで、僕がやりましょう。ぬかりなくいたしますんで、ご安心下さい。これがどれほど名誉なことなのか、僕なりにわかっているつもりですから、精一杯力を尽くすとお約束します」
助手のその言葉で、幾分かエディは安心したらしかった。その証拠に珍しく短く、コーヒーをくれ、とだけ言って、また黙り込んだ。
サットンは、薬品が混ざらないよう、実験室のすみに置かれている食品テーブルに近づくと、コーヒーメーカーをうならせながら、携帯電話の記録から近所のホテルの番号を選び出した。
エディに言われてブラッド博士に連絡をした時、博士を含めて四名の学者たちが来る、と告げられていた。人数分のシングルを用意しよう。もしかしたら、女性がいるかもしれない。まさか、客人を待たせるのにそのような配慮のなさがあってはいけない。
サットンはホテルを呼び出して電話を耳にあてがい、豆を挽く音のノイズを避けて、デスクの方へ向き直った。何気なく顔を上げると、目の前の回転椅子に、エディの姿がない。とはいえ、さほど広くはない研究室で、彼がどこかに隠れている様子もなかった。
「教授?」
電話を片手にテーブルの下や薬品棚の間、最後には衣服ロッカーの中まで開けて探しまわったが、どこにもエディを見つけることはできなかった。
『はい、こちらは電話番号案内です。お調べするご住所をどうぞ』
受話器から、女性の声が聞こえて来た。サットンは黙って通話を切った。
「教授?」
誰もいない実験室に、サットンの声が響く。
「どちらです?」
返答はなかった。
コーヒーメーカーが、空回りする音がする。
見る間に、サットンの顔に疑惑が浮かぶ。
それはすぐに困惑と、動揺に変わり、慌ただしい手つきで、コーヒーメーカーのスイッチを切った。
その瞬間、激しい爆音と共に、香ばしい煙と液体が宙に舞い、室内は哀れな青年もろとも、まる焦げに焼けて、跡形をなくした。
「追試は、これで完了だ」
頑強なドアの向こうで、白衣の男はにんまりとつぶやいた。そして、ポケットから葉巻を取り出し、一服深く吸い込むと、吐き出すのを待たずして、その場に棒切れのように倒れて果てた。
習作三 文章の扉を開いてくれたエドモンド・ハミルトンに準ずる 『愛ゆえに』
「なぜ、人間は殺し合うのだろう」
そう、呟いて涙を流した彼女の手には……
暗い丘の上に、彼は立っていた。
僕は陣営を離れて、ひとり、味方の目を盗んでそこを目指した。月明かりの無い、暗い丘に、大きな木が二本並び、彼はその間に持たれるようにして、僕を待っていた。
草の下から、土の匂いが辺り一面に立ちこめ、真夏の夜は、ただそれだけで息苦しかった。
「来ないかと思った」
彼は、草を踏み分ける僕の足音を聞いて、こちらを振り返ったようだった。手にしていたランプの中の炎を吹き消すと、まさに周囲は闇に染まり、僕は視界を塞がれて、その場に立ちすくんだ。彼の方は、もう長い間この暗がりにいたため、目が慣れているのだろう、まっすぐに僕をとらえているようである。
「さもなくば、一人では来ないか」
彼の声は懐かしくて、僕は思わず名を叫びそうになり、必死に飲み込んだ。
「どうやら、あの鳩はお前を忘れてはいなかったようだ」
僕にこの密会を知らせてくれた手紙、それを運んだのは、ヒナの頃から愛情をかけて育てていた、一羽の灰バトだった。別れの時、僕はその愛鳥を彼に託し、何かあった時には空に放ってくれるよう頼んだ。まさか、それが、こんな皮肉な再会を運んでくるなんて……
「どうして?」
僕は高鳴る心臓を押さえて、震えた声で問いかけた。
「どうして、僕があなたを裏切ったりするものか」
木の間の彼の影が揺れて、まっすぐにこちらに向き直るのがわかる。暗さに慣れてくるに従い、彼が軽装の鎧すらまとわず、僕がよく知る頃の、あの、優しい文官のローブをまとっているのがわかった。一振りのレイピアさえ、腰に履いてはいなかった。彼の太刀筋に憧れ、文官候補生の身でありながら、護身術に必死に取り組んだ二年前が、まるで昨日のことのようだ。
「裏切る、か。若いな」
彼は数歩、僕に歩み寄った。
「俺はお前に、国政の何たるか、そして、戦場において軍師たる者が果たすべき非情な策略について、十分に教え込んだつもりだったのだが」
「学びました。けれど、決断するのは僕だ」
うっすらと、色白い彼の表情が動くのがわかる。
「強くなった、ということか」
「いいえ、僕はまだ、あなたに遠く及ばない。それは承知している。だけど……」
「彼女のため、か?」
全てを見透かすその思考は健在だった。彼には何一つかなわないし、隠せるはずもない。僕は正直にうなずいた。
「強くなった」
彼は柔らかな声色で繰り返した。
「自分の心を認められるだけ、おまえは成長したのだろう」
唇を噛む。拳を握りしめる。なぜだろう、こみ上げてくるこの涙は、彼のせいじゃない。自分への蔑み…… 弱い自分が情けないだけ……
「だが、同時に、まだ、中途半端だということだ」
ああ、彼にはすべて、お見通しなのだ。僕の生半可な気持ちなど、全て、何もかも……
「僕は……」
言い訳だとわかっていても、声を出さなければそのまま、泣いてしまいそうで、僕は答えの明確な言い訳を口にした。
「僕は、彼女を愛している。守ると誓ったんだ」
「ならばなぜ、止めなかった?」
そうだ、僕には止められなかったのだ。
国を思い、自らその手に剣を握った愛する女性ひとり、力づくでも止める事ができなかった。
「どうして、彼女を、この戦場に連れて来た?」
穏やかで、同時に鋭く突き刺さるその言葉に、僕はうつむいた。
「臆病者」
彼の言葉に、ゾッと背筋が凍った。
「卑怯者」
返すこともできず、僕は目を閉じた。甘んじて受けるしか無いその言葉……
「お前は弱く、自己中心的な青二才のままだ。二年前と、変わらない」
彼の言う通りだ。何もかも。
「僕は……彼女を……」
「おまえに彼女を愛する資格はない」
わかっている! そんなことは、言われなくても、僕自身が一番わかっている……
「ひとりにはなれなかったのだろう? 彼女の影を追い、その優しさに触れていたかった、甘えたガキのままじゃないか」
「僕は……守る。必ず、彼女を守ると決めたんだ。そばにいて、そして……」
「ならば何故、ひとりで俺の所へ来た?」
「……それは……あなたを、不意打ちになどできないから…… そんな卑劣なことは……」
「俺はお前に、軍師は聖人であれ、とでも教えたか?」
「…………」
「何度も言ったはずだ。裏を読み、寝首をかけと。どんな汚い方法を用いても、自軍を勝利へ導くことが、俺たち戦場文官の務めなのだと。当時もおまえは納得してはいなかったな。奇麗事で戦争ができるのか? おまえの采配一つで、何千の命が救われもすれば、失われもする。そんな基本的なことすら、学べなかったとは……」
「覚えている。あなたの言葉は全て、この胸に刻んで来た」
「知識と、行いとは一致してこそ、結果が見えるのだ。私情に流され、愛する者を危険にさらし、尚、軍師として汚れることもできないおまえは、男でもなければ軍人でもない」
「たとえ、軍師として半人前でも……彼女だけは守る!」
くぐもった、彼の笑い声に、僕はハッとして顔を上げた。そして、確かに、彼の背後に動いた影に気づいた。
一歩、彼は前に踏み出した。いや、倒れまい、と踏みとどまったのだろう。
その時、雲が静かに流れて、月明かりがまぶしいまでに、丘に降り注いだ。
「……それでいい」
彼が、わずかに顔をゆがめるのがはっきりと見えた。
そして、その後ろで、大きく肩で息をつきながら、よろめいて後じさったのは、そこに、いるはずのない人で……
「なぜ、人間は殺し合うのだろう」
そう、呟いて涙を流した彼女の手には、月の銀色を赤く染めた短剣がしっかりと握られていた。
「師よ。それだけは、やはり、あなたを手にかけてなお、わからないのです」
うめくような彼女の声。まさか、後をつけられたというのか!
自分の鈍さに、愕然とする。
「そうだな」
心臓を背中から貫いた傷から、吹き出す血しぶきが、草の上に不気味な音を立ててこぼれ落ちて行く。
「こうなった今でも、俺にもわからない。だがな……」
彼はゆっくりと彼女を振り返った。
瞬時に、僕は飛び出した。もう、一瞬でも長く、彼と彼女とを近づけておいてはいけない!
「俺の命ひとつで、明日の戦の勝敗は変わるだろう。少なくとも、貴女を守ろうという愚かな男がいる限り……は……」
自分でも、止められなかった。
駆け寄るが速いか、彼女の手から短剣をもぎ取ると、僕は彼の喉笛にその切っ先を突き立てた。
泣いていた。彼女も、僕も、彼も。
みんなが、泣いていた。
それでいい。
彼の唇が、そう動いた。
僕は短剣ごと、彼を地面に突き倒し、同時に、きびすを返して、崩れ落ちそうな彼女を抱きしめた。
「師よ……あなたは……私たちを……」
それ以上、聞きたくなかった。彼女に、残酷で悲しすぎる現実を語らせたくはなかった。
僕は言葉も出せぬほど、強く彼女の顔を胸に押しあて、共に震えて涙を流し続けた。
国を裏切った軍師をひとり、暗殺した。
それだけの、ことである。
それだけの、ことであるのだから。
やがて、倒れた彼の苦しげな呼吸が途絶え、虫の音があたりに満ちて行く。
僕は守ろう。
決して、彼女にだけ背負わせることはしない。
彼がそうしたように。
彼がそうしたように、この命を賭して、彼女を愛そう。
己が命をも、策略のために……
かつて、学び舎で彼が語った言葉が、今、僕たちをつないでいた。
復活の為の習作集