大人になれない
以前書いた「女子高生」というタイトルのものを書き直しました。
卒業式も、最後のホームルームも終わって、空っぽの教室に、胸に薄紫の花を挿した少女が一人。『卒業おめでとう!』だの『ずっとともだち!』だのと、色とりどりのチョークで彩られた黒板に背を向けて、少女は教卓の上に座り、ぼんやりと蛍光灯を眺めていた。
その姿は、ここですごした三年間を懐かしんでいるようでもあり、いつまでも来ない迎えをじっと待っているようでもあった。
「まだ、帰らないんですか?」
教室の後ろの扉を、少しだけ開いて、一人の青年が声をかけた。彼は教室にいる少女のクラスメイトの後輩で、つまり彼と少女とは赤の他人だった。けれど、今日、このとき。この教室に自分を呼びに来るのは、きっと彼だろうと、少女はもうずいぶん前から確信していた。
「ああ、やっぱり君が来たんだね」
「あれ、僕たち面識ありましたっけ」「一度廊下ですれ違った程度の仲」
「……どうして、僕が来るってわかっていたんですか?」
「ふふ、君は匂いが違ったから」
「匂い、ですか」
青年は面白そうに笑うと、教室に一歩足を踏み入れた。
「あなたもずいぶん、普通の人とは匂いが違いますがね」
「だろうね、だって普通じゃないもの」
少女も、おかしそうに笑う。
――少女は、女子高生だった。いや、女子高生であると、そう言ったほうが誤解がないかもしれない。
卒業式を迎え、卒業証書をもらい、確かに三年間、在学していたけれど、少女は明日も明後日も、半月後も、来年も、未来永劫ずっと女子高生なのだった。
少女はこれから姿かたちを変え、また高校生を始めるのだ。
少女を人間でないと言うのは簡単だが、少女を何だと断定するのは難しい。少女はそれほどに不安定な存在なのだ。青年はそれを知っていたから、少女が姿を変えるこの瞬間に、その様を見に来たのだった。
と、少女の影がゆらり、とほんの少し揺らいだ。
青年は、それを見逃さないよう、さらに少女に近づく。
「影、揺らぎましたね」
「まあね、だってそろそろだから」
「変わるのが?」
「そう、変わるのが」
少女は、とんっと教卓から飛び降りた。床を踏んだ衝撃で、少女の影がまた揺らぐ。
「不安定、なんですね」
「だから誰にも会いたくなかったんだけどなあ」
顔を保っているのがやっとなんだ、と少女。
制服で隠した腕も胴も、それからタイツで包まれた足も、今どうなっているのか、少女自身にもわからないのだった。
「だと思ったから会いに来たんです」
「だと思った。君、意地悪が顔から滲んでいるもの」
「心外だなあ」
「どの口が」
くすくすと、しばらくお互い笑いあっていたが、少女の影が大きく揺らいだので、二人は顔を見合わせた。
そろそろ終わりが近づいているようだった。
「あと少しで、君のほうが先輩になるんだね」
「そうですね」
「最初で最後の先輩命令、聞いてくれる? 目を閉じていてほしいんだ」
少女が笑っていたのか、泣いていたのか、青年にはわからなかった。
少女の顔がすでに、少女のそれでなかったので。
「……わかりました」
「ありがとう」
青年が瞼を閉じるとすぐに、ばきぼきと何かが折れる音がしだした。それからズルズルと何かが床を引き摺り動く音も。その音を聞きながら、青年は少しだけ、やっぱり見ていればよかったと思った。
けれど先輩命令なわけだし(といってもその先輩という設定は今日、消え失せるのだけれど)、途中で覗き見ようとは思わなかった。今はただ、少女が先輩の記憶から消えた時、『学校史上一番の美少女』という役の欠員は、一体どうやって埋まるのだろうか、と不思議であった。
「もういいよ、お待たせ」
さっきまでの少女の声とは、少し違う声がした。目を開くと、そこにいたのは、どこにでもいそうな一人の少女であった。
「ああ、やっぱり女の子ではあるんですね」
「まあね、私は女子高生だから」
少女の腰まであったミルクティ色の髪は見る影もなく、夜のように黒い髪が、二本の三つ編みになっていた。
真っ白だった肌には、ぽつぽつとかわいらしい雀斑が並び、少女をクールに見せていた切れ長の目は、ころりとしたたれ目になっていた。
ただ、右の鎖骨にぽつりとあったホクロだけ、変わらずそこにあった。
「なるほど、すごいですね。全くの別人だ」
「そりゃあそうでしょう、そうじゃなきゃ今まで女子高生を何度もやっていられないよ」
ふ、と一息ついて、少女は目を伏せた。それから胸ポケットから取り出した黒縁の眼鏡をすっとかけて、青年を見上げる。
「ねえ先輩。おかえりにならないんですか?」
少女はもう、青年と話す気はないようだった。彼らは正真正銘の他人に、この瞬間、なったのであった。
「はは、そういうこと」
青年は仕方ない、と言ったように肩を竦めた。
「ずるいな。聞いてすらくれないなんて」
なんて悪食癖。と少女は思ったが、何も言わずに青年に背を向けた。
少女が女子高生でいるためには、何にも縛られない自由の身でなければならなかったので。
この世で一番自由で一番不自由。孤独を愛し、孤独を毛嫌う。そういった矛盾を抱していることこそ、少女が女子高生たる所以。
少女が誰かにつかまり、誰かのものになったとき、少女は卒業するのだろう。少女の長い長い青春から。
大人になれない