紫の形代

1

東京駅から10分ほど、皇居の堀に面したホテルのバー。
イギリスからの旅行者であるミラージュはカウンター席でぼんやりとウィスキーを嘗めていた。
初めてとなる来日の観光初日は悪くなかった。
ゆっくりと皇居を観光して、中にある皇族の衣装展示館では自国とは異なった刺繍の技を見ることが出来たし、丸ビルの寿司屋も悪くなかった。
人々の動きも感情表出の仕方もマナーに適っていて整然としていたし、どの店でも応対は悪くない。
節度を十分すぎるほどわきまえたこの街に、ミラージュは満足していた。
そしてその満足と適度な疲労をホテルに備え着いているバーで酒に委ねようと席に着いたのが、30分ほど前。
ミラージュが左手に見下ろす夜景はきらきらと、まるで開かれた宝石箱のよう。
空を翔る鳥のごとく目を放てば、色とりどりの貴石は決して大粒ではないにしろバランスよく配されている。
繊細な印象画のようだと思った。
繊細。
思い浮かんだその言葉に、あぁ、これが私のこの国の印象なのだとミラージュは思った。
街に行きかう人を見ても、特にそれは女性に顕著であったが、計算された配色に華奢なスタイル、頑健さからは程遠いそれは、危うい均衡の上に保たれた美、何か一点損なわれれば脆くも崩れてしまうガラス細工を思わせた。
西洋の、権威をそのまま具現化しようと試みる建築や、自然さえ克服せんとする文化とはおおよそ異なる、もっと小柄で任務的に洗練された、建造物で言うならば正確な設計と行き届いた清浄さ、しかしこちらを圧倒する偉大さは感じられない、それが今日ミラージュの見た日本という国の首都だった。
しかしその見解が印象の域をでないのは、ミラージュは日本についてよく知らないためだ。
知っている事といえば本国と同じく王族が、統治はしない形で存続しているということや、独特な文化の形容である「ワビ、サビ」という言葉くらいなものだ。
こんな時に日本人の友人でもいれば、観光に付き合って熱心に教えてくれるのかもしれないが残念ながらそれもミラージュの場合なかった。
バーテンを相手に観光地案内くらい願ってもいいかもしれないが、なんとなくそれも気乗りしない。
結局文化史の本の一冊でも読んでくるべきだったと、自分の不勉強を後悔しつつ消極的な理由から今夜の相棒は酒と決め付けた。
そんな時。
「お一人ですか」
誰かが英語で声をかけてきた。
見ればミラージュの右側に一人の東洋人が立っている。
黒い目黒髪の、華奢な人だ。
一見女性かとも思われたが、発せられたその声が男性だと告げている。
にこやかな、しかし馴れ馴れしさは感じられない表情で。
「隣、失礼しても?」
どうやら日本人が話しかけてきたらしい。内的な思考に没していた頭はその事を理解するのに数瞬要し、気づいたときには「どうぞ」と答えていた。
「ありがとう」
青年は礼を述べて、するりとミラージュの横に腰掛けた。

2

注文はワインだ。銘柄はまかせるらしい。「ご旅行ですか」
見たところ二十三、四、二十七のミラージュよりも四歳ほど年下だろうか。外見の年齢よりずっと大人びた口調で青年はミラージュに問いかける。
「ああ、今日イギリスから来たところなんだ。―皇居を見てね、明日はアサクサの方に出てみようと思うけれど」
「そうですか。京都や奈良には行かれない?」
「いや、行こうと思ってるよ。一週間ほどいるつもりなんだ。だから日程の後半で」
「いい季節ですよ、まだ紅葉はないけれど。風がすっかり秋めきましてね、物思いしがちな、寺社に行けば空しさなんて観じてみたくなりますよ」
「空しさ?面白いことを言うね、君は」
若いのに、とミラージュは笑った。
笑いながら、青年の口からなめらかに滑り出す英語にある特徴を見出していた。
面白がるようにミラージュは問う。
「ところで君、フランス生まれかい」
青年が虚をつかれた様に首をひねる。
「まさか。生まれてこの方一度も日本を出たことはありませんよ。―どうして?」
「君の英語、フランスなまりだ」
カウンターに席を並べるミラージュは左眉頭を器用に跳ね上げて、片頬だけ吊り上げた。
すると青年は東洋人的な繊細なつくりの顔で少し鼻白むように、そう、ちょっとした秘密をばらされたように、困ったな、と呟いた。
「これを教えてくれた人がね、フランスの血が入っていて、よく向こうに行くんですよ。だからかな。」
「ふうん、ではそれは定めし恋人だろう。そこまで上手くなるには愛の会話が不可欠だ」
自分の推理があながち外れでもなかった事に興を覚えたのだろう。
どうだ、というようにミラージュは畳をかける。
しかしミラージュはすぐに前言を後悔することとなった。
青年が、一瞬、確かにその色をなくしたために。
「―…」
瞬間的な沈黙に、しまったとミラージュは視線を落とした。
ミラージュの手の中で、ロックの氷がからりと滑る。
さては終わった愛の傷跡に触れてしまったかと、我ながら軽率にプライベートに踏み込んでしまったものだと思った。
そのまま数瞬、会話が落ちたまま、そっと目を青年の方にやると、しかしそこには予想外に打って変わった柔らかな微笑があった。
「―外れですよ、探偵さん」
「おや」
ミラージュは意外そうに瞳を開く。
「―異母兄です、僕にこれを教えてくれたのはね。」
「お兄さん?」
「ええ。二人で暮らしてた時期がありましてね、大層なスパルタで、英語じゃなきゃ口も聞いてくれなかったんですよ。おかげでそれなりに、あなたとちょっとしたお話はできるようになりましたね」
「そうか、では兄上に礼を言わなくてはね。今夜の礼を」
そう言ってこの場にもたれる会話を祝うかのようにミラージュはグラスを軽く掲げる。
青年もあわせてワイングラスを掲げた。
それからしばらく他愛ない話が続いた。
日本の観光地の、特に京都、青年がよく行くという大覚寺という寺や隣接する祇王寺の白拍子の話だとか、ミラージュの国の歴史、ヘンリー8世とキリスト国教会の話、旧約聖書の話題など、会話は枝葉を広げた。
ミラージュは話の中で、青年は教養があって、よく自分で思考する人だと思った。
歴史の知識があることはさして珍しくはないが、そこには実に控えめな表現であるにせよ(これを日本人的というのか、それとも彼特有のものかは判別つき難かった)彼の見解がそえられており、その見解はミラージュの知らない伝統的思想をバックグラウンドとして、更に彼独自の思考が経られているように見受けられた。
ミラージュは青年のその思想に興味を持った。
青年の意見を引き出そうと水を向ける。
「君、本は読む?そう、例えば文学とか」
すると青年は少し考えるような仕草で言葉を選ぶように答えた。
「僕ね、偏見はないのだけれど―…失礼があったらごめんなさい。けれど、西洋の文学はあまり読まないんですよ」
「ふぅん、どうして?」
「何かな、わからない。食わず嫌いかもしれませんよ。けれどね、論理的な文章が、苦しいんです」
「苦しい、か」
「だから手を出してちゃんと読めたのなんて片手で足りるほど。カミュの異邦人、ワイルドのサロメ、それから―…サガン」
「不健全だな、その趣味は」
ミラージュは苦笑した。
「どうして?サガンは健全でしょう?」
「あれはね、麻薬中毒の作品だよ。ジゴロなんて作品はとても胸に迫る切なさもあるけれどね、彼女は破滅する自由を欲した人だ。」
「―そう。そうか、だから好きなのかもね」
青年は本気とも冗談とも取れる口調で言った。
「とにかく、そう、僕は東洋の事しかわからないんです。あなたにお話できるとすれば日本か、中国か…」
「是非聞きたいね」
「そう、じゃあ…」
「暇つぶしね、面白い話をきかせてあげますよ」
唇に指を当てて、ちらりとミラージュに視線をよこす。
「源氏物語、この国の最高作と言われる古典のお話。」

3

キャンドルが灯され、明かりのしぼられた店内。
語る声は煙草のけむのように一時とどまって、逃げてゆく。
ミラージュは跡を残さず消え行く言葉を捕まえようというように、青年に耳を傾けた。
―昔々、貴族文化が華々しい時代。
光り輝くような皇子、人呼んで光源氏という若き貴公子がいました。
「美しく、誰よりも深くあわれを理解する彼は多くの女性に恋心を運び、多くの女性が彼に夢中になりました。」
グラスを傾けて、青年は一口ワインを口に含む。
赤の渋みは広がりとろけて、恋慕の夢を思わせた。
「けれど彼は決して恋をしてはいけない人を、一番深く愛してしまった。」
―父帝の妻、彼の継母を。
「その継母は父帝に比べまだ若く、そして何より、彼が物心着く前に亡くした母親の生き写しだと言われていた。彼は、継母に恋しい恋しい、けれど顔さえ覚えていない母親を見てしまった」
青年はするりと視線を横目に逃がした。
その目はまだ十代の貴公子が道ならぬ恋に身を焦がす様を見るかのようだ。
光源氏ののぼせた瞳を一見傍観的に眺めるように。
「彼は言って見れば母親を愛したともいえる」
―母親をしたう情が、継母を恋する情に。
人の情はわかりにくく複雑怪奇なようで時に酷く単純で、あわれだ。
青年はそんな風に、言う。
ミラージュは彼の母親を愛すという言葉に、オイディプス王を思い浮かべていた。
父を殺し母を娶り、ある意味光源氏がその若い血のたぎりの中で夢想したと思える所業を、運命の悪戯によって行った王は、どうしようもない悲劇に身をゆだねることとなる。
洋の東西はあれども母という存在を愛の対象として求めるのは男性の本能であり、同時に叶わぬ夢、叶えば悲劇しか待たぬものだとミラージュは思っていた。
「結局光源氏はとうとう継母と密通し、子までできてしまう。けれどそれはあくまで極秘のお話。父帝も息子の子と勘付きながら、己の子として育てる事となる。おぞましい、お話。」
青年はもう一口、ワインを飲み干す。
たんたんと語る青年の、その心は何を思っているのだろうか。
口調にも表情にも、その物語の登場人物たちに対する感情の動きを見て取る事はできなかった。
「けれどやはり正式に結ばれる事などありえない。犯した罪の大きさに継母は光源氏を避けるようになり、会うということも叶わなくなる。若い光源氏の胸には継母への恋慕が消えることのないうずみ火のように燃え続けることとなりました。」
忘れられない人、許されない愛、その結果の子供。
随分と人間くさい古典だとミラージュは思った。
品の悪くない青年の口ぶりと語られる背徳的な話は、矛盾するようで反面それが最も相応しいとも思われた。
貴族にはそういうものがある。
傍目には美しく節度ある振る舞いをしながら、その心中立場上表現できない屈折した感情を抱えている。
それが表に現れるとき、恐ろしい結果を引き起こすことがある。
―どうしてだろうか。人があってはならない想いに強く惹かれてしまうのは。
「―どうして愛してはいけないとわかりながら人は愛してしまうのだろうね。一度冷静になって考えれば、事の重大さなんてすぐにわかるはずなのに。どうして、人はそうやって罪を犯すのだろう?」
ミラージュは根本的な疑問を呈する。
「情の前に道理がどれ程の役に立ちますか」
その時無感情だった青年の声にわずかな熱がこもるように思われた。
読めない青年の心の糸口がちらりとのぞくように。
「だが欲のままに生きるのは動物と同じだ。我々は人間である以上おのずから守るべき規範というものがある」
「それは重々承知の上で、しかしそれでも抑えられないこともあるのですよ。―…熱に浮かされるかの様に。」
「まるで知ったような言葉だな。なにかそういう経験でも?」
「古今いくらでもあるでしょう、そんな話は」
青年はひらりと身をかわす様に応じる。
ミラージュは猫が獲物を取り逃がしたような物足りなさを思いながら、「そんなものかな」と笑った。
青年は話を戻すようにまた語りだした。
「―…光源氏もきっとそうだった。いけないと思えば思うほど、夜毎継母の香の匂いを夢現に追いかけて目覚めるような日が続く。そしてその満たされない身と心を埋めようと、花を渡り歩くような生活。それは若さが加担したものとも言えますがね…」
「だが花は美しく女達は彼を誘い閨(ねや)に愛を営みはするが、源氏の恋に彩られた心にある空虚さを埋めることはない。彼は飽くことのない空しさを紛らわすために、美しい顔を綻ばせて毎夜目新しいときめきを探し歩く。」
青年が一旦口を閉じた沈黙はミラージュにヒカルゲンジが華々しい恋を繰り広げる様を思い浮かべる時を与えた。
ミラージュの目の前で貴公子は様々な女性と恋を繰り広げ、けれど全ては通り過ぎてゆく。
女性たちは若き王子の心に多くの情緒を教えはするが、しかし誰一人として彼の心を満たし切れはしない。
絢爛たる恋の熱が冷めた時、いつもヒカルゲンジはやはり母を求め、継母を思い浮かべる。
ふと一種の哀れさが、ミラージュの胸を過ぎった。
ミラージュが描いた彼は酷く魅力的な、しかしながら大人になりきれない一人の少年であった。
女の柔肌に母親の温もりを想像する、いたいけな子ども。
彼は恋に溺れるようで、その実母親の慈愛を求めさまよっているのかもしれなかった…。
はっと、ミラージュは一度目をしばたいた。
我知らず古典の世界に引き込まれた自身を覚まさせるように。
気づくとワインを干した青年に、バーテンがす、と寄ってくる。
同じものを。青年は短くそう言ったらしい。
手元を見ればロックの氷は氷解しつつある。
残りを流し込んで青年に習い新しいものを求めた。
「少しウェットになったかな」
青年は首を少し傾げて、届いた宝珠のような液体をグラス越しに玩具にしながら言った。
ミラージュはその言葉に自分が思い浮かべた貴公子像と、催した同情めいた感情を見透かされたように思った。
会話というゲームの主導権を握られている感じ。
何となく、面白くなかった。
話の攻守を逆転させようと、ミラージュは問いかけた。

4

「どうおもうね、君は」
「何がです?」
「愛と言うものについて。」
「漠然とした問いかけですね。それは光源氏の恋について?それとも僕個人、ひいては一般論として?」
「後者の、特に君の経験談に大変興味を惹かれるが、今はヒカルゲンジについて」
青年は少し笑って、
「そうですね、光源氏の恋について言うのならば、今の話、まだ若い彼の恋は若葉のように新鮮で、しかし未熟な、未知の世界を探検している心持に近いと思いますよ。」
「探検ね。女というひどく魅力的な、蟲惑的な、けれど謎が多くて毒も多い、常に危険と隣り合わせの生き物を解き明かそうと言うわけだ」
「そう。命をかけて得るものはきっと香辛料や金よりも価値がありますよ」
「どうかな、私は香辛料や金の方がいいと思うよ。女は恐ろしい生き物だ、そしてそこまでして手に入れる甲斐のあるものかな…」
「そういえばいましたね、バージンクイーンに新大陸の一州を捧げた冒険家。結局彼も愛に迷って断頭台の露と消えましたけれど…」
「ウォルター・ローリー卿か。良く知ってるね。なにせ“処女王”の愛人を務めたんだ。万死に値して当然というものだろうよ」
そういってミラージュは戯言のように、くつくつと笑って見せた。
青年は笑うでもなく、じっとミラージュを見ている。
そして一言、
「男女の恋情は儚い。けれど、それが生きるということの一部」
だとしたら生きるということも儚いでしょうか?
青年は問いかけるように顔を斜めに傾けて、ミラージュの目を見る。
ふと香っては逃げる香水、もしくは、シャンパンの泡に託されるような、男女の出会い、別れ。
それはそう、確かに掴みようのない夢のようなもので…。
「けれどね、君。」
ミラージュは青年の感傷をとどめる様に、
「男女の仲は儚いというが、それだけではないものもある。最初のときめきは愛に育つということもあるのだよ」
ミラージュの大人らしい諭すような言葉に、青年は遠い眼差しで応えた。
「愛、そう、愛ね…」
グラスの中の赤い海。
それを悪戯に波立たせる青年は、愛という言葉に含みを持つように二度呟いた。
それは愛の実在を否定しないながら、どこか懐疑の闇が纏うような、複雑な色を持った声だった。
「恋多き光源氏も、愛した人がいました。」
一人、と人差し指を軽く立てる青年の目はやはり遠いまま、何を見ているのやら。
「継母を忘れることのできない光源氏は、ある日覗いた家のある少女に心を奪われてしまった」
名を若紫という。
意味はね、若い紫色のお嬢さん。
戯れる様に青年が言う。
簡単に英訳されたミラージュは、うら若い、いやまだ幼いという程の少女がその名の衣装をまとった様を描いた。
紫は神秘の色。
数多い女性たちの中でその名を与えられた少女は、成る程ヒカルゲンジにとって特別な存在となるのだろうと思った。
「よくね、継母に似ていたのですよ、彼女は」
青年も少し酔ってきたのかもしれない。
その遠い目は少女をまるで慈しむように見ているかのようだ。
「光源氏はその子の祖母にかけあって何度も妻として迎えたいと言うんだけれど、まだ子供過ぎてお相手にはなりませんでしょう、と断られてしまう。―それでね、ある日別居していた父親が連れていくという話を耳にした光源氏は、とうとうこっそりとそのお姫様をさらってしまうんです」
人差し指を口元にあてて、内緒ごとを言うように。
ミラージュは呆れたようにこめかみに手を当てた。
「犯罪じゃないか」
「まあね。光源氏はなに、幼い人の一人ほど隠したところで大したことではない、なんて踏んでいたようですけどね」
「ワカムラサキの気持ちも考えないのか」
「全くおっしゃるとおりですよ。最初のころね、おばあさんがいないって、よく泣いたようですよ。…まぁ、しばらくしたら子供のことで、新しい環境にも慣れたようですが」
ミラージュは事なげに言う青年と対照的に、嫌なものが心をかすめるのを自覚した。
継母との密通、不義の子、父帝への裏切り、少女の連れ去り。
どれもこれも、ヒカルゲンジの心ひとつに起因した事だ。
どうしてヒカルゲンジという男は自分の欲を抑えられないのだろうか、と思った。
きっと継母は犯した罪に慄き、生まれた子は自分の出生を疑い、父帝は屈辱とわが子への愛に身を裂かれるようであり、少女は親しんだ祖母から離された。
あまりに美しく魅力的なこの一人の王子は、関わるすべての人々を苦悩と苦痛に陥れているようにミラージュには思えてならなかった。
「嫌な男だね、ヒカルゲンジとは」
ミラージュはこらえきれない様に呟いた。
青年は驚くでもなく、簡単にそうですね、と応えた。
「確かに嫌な面がある。けれどね、そんな風に自分の勝手をやる彼はしかし、どうしても愛されてしまう。誰からも愛されてしまう。皆怨みながら、同時に光源氏を厭えない。そういう不思議な男なのですよ」
「ワカムラサキも?」
「そう、彼女も結局―…」
そう言った青年は、何故だろうか、とても遠い目で苦しげな息を一つついた。
ミラージュはそこに青年の確かな心の動きを見はしたが、しかしそれがどういった類のものなのかわかりかねた。
「彼女、継母によく似た若紫は光源氏の手によって、源氏の理想の女性へ育てられることとなる。そして、彼女も結局光源氏を愛してしまう」
青年は軽く掲げた右手を握りこんだ。
それは光源氏が欲したものを手に入れた表現にも見え、また泡沫がはじける様にも見えた。
話のひと段落がついたようにワインを含む青年に、ミラージュは胸に残る不愉快さを表明するように皮肉気な口調で、
「それで、めでたしかい?」
問い詰めるように問う。

5

青年は横目でミラージュを見、受け流すようにもう一度ワインを飲み下して、そんな訳ないでしょう、と小さく呟いた。
「光源氏もね、結局同じ目に合うのですよ。不義の子をおのれの子として育てるという、ね。言ってしまえば、因果応報の話とも見ることはできますが…」
―…けれどね、僕はそんなことに興味はないんです。
さらりと、そう一片の関心もなしに光源氏を襲う一身の不幸を言い放つ青年に、ミラージュは思わず相手の顔を覗き込んでいた。
その報いの劇的性と興味がないという言葉の冷たさ、言い換えれば容赦なさの対比は冷え冷えとするほど鮮やかだ。
「僕が興味があるのはね―…」
頬杖をついて、青年が見返してくる。
黒と茶のきれいに分離した瞳は透き通っている。
その目はミラージュの持つ倫理的価値観や好悪の感情、ミラージュ自身を培ってきた西洋文化そのものまで見通し、その上で素知らぬふりで静かに存在しているかのような感をミラージュに抱かせた。
酔ってきただろうか。
しかしそれが酒のためか、それともこの目の前の謎の多い東洋人によるものなのか、わからなかった。
「光源氏は継母に母の幻を見、若紫に触れる事の叶わない継母を見た。どちらも、そう、慕う人の影を見ているということ。」
青年は、重大な秘密を漏らすように。
「本当の意味で本人に惹かれたわけでは、ない。」
一瞬、ミラージュが言葉に詰まる。
ミラージュが視線を逃がすように目をやるグラスの氷は、カウンターに灯されたキャンドルによってあぶられるかのよう。
青年のいう意図は先ほどと同じ、光源氏への冷ややかな断罪を予期させた。
何故そうしてしまうのか自身でもわからぬまま、軽い焦りを感じながら青年を宥めるようにミラージュが言う。
「…けれどそれは本人を愛していない事は意味しないだろう。きっとヒカルゲンジは継母の事もワカムラサキのことも愛していたよ」
「だがその間も、ワカムラサキを愛しながら継母を想う。継母の麗しい顔に向かいながら母を見出し続ける。それは投影されるものには耐え難いことですよ、きっと。」
青年は上目遣いに、ミラージュを見た。ミラージュの言葉の、ことの複雑さを解さない事を咎めるように。
言われてミラージュは考える。
誰かの代わりに、愛されるとはどんなことだろうか。
自分が例えばそう、容姿が似ているという理由で情熱的に好意を持たれたとする。
その情熱はきっと本物だろう。
しかしその恋は自分の容姿を通して見知らぬ誰かに向けられていたとしたら。
どんな気持ちだろうか。
誰でもなく己に与えられる恋情。
自分を求める貴公子。
彼は言葉の限りを尽くして私の愛を求める。
けれどその目に映っているのは果たして誰なのだろうか。
私の姿と得られぬ恋人を重ね合わせて、彼は熱烈に恋している。
私と見知らぬ誰かと。
その二つの影は重なって、彼は一人の新しい、存在しない人を造り上げているのではないだろうか…。
それは彼にとっての恋だとして、私にとっての恋になりえるのだろうか…?
思いながらも女の心は弱い。
ほだされるようにその恋を受け入れてゆくだろう。
そうして私が、投影される誰かではない私自身が光源氏を愛した時、その彼の目が私を通して誰かを見る事に果たして耐えられるものだろうか…?
愛して欲しい。
その言葉に彼は愛していると答えるだろう。
私の訴えを満たすように優しく時に激しく睦言を囁いてくれるだろう。
しかしその本質、あなたは一体誰を愛しているのかという問いかけは私の中でこだまし続ける。
彼の腕の中で心の一部が、少しずつ傷を負うかのように痛み出す。
その痛みはじりじりと広がって、満たされるものと満たされないものの間に埋めることの出来ない溝を作って行くかのようで…。
ミラージュが苦しげに息をついた。
その沈み込み共振する感情に応えるように、青年は歌うように言う。
―大切にされる。自分を必要としてくれる。
けれど見詰め合う瞳に、光源氏の瞳に時々、自分の知らない影が差す。
いつもの愛しんでくれる目とは違う、間違い探しをするかのような目。
そんな時決まって光源氏はするりと傍を離れてゆく。
そして背を向けて、外の景色を見たりする。
自分では満たしきれない彼の心。
一体なんだろうか、このしみじみと、波が引いては返すように身に染む悲しさは。
なんと名づけたらよいのだろうか―…。
青年は言い終わると、ついと視線を夜景に向けた。
相変わらず美しいそれは、しかし青年の視線を追ったミラージュには先ほどと異なって見えた。
きらきらと美しいのにどこか寂しげで、繊細な、そう繊細な悲しみを織り上げているかのようで―…。

6

くらくらする。
ミラージュは軽く頭を振った。
あまりに深く入り込みすぎだ。
胸が苦しい。
まるで自分がヒカルゲンジを愛してしまったかのように、だ。
馬鹿げてる。
口元に苦笑を作って、渦巻く情動を抑え込む。
悪酔いしたようだ。
酒ではない、きっとこの青年が語る幻影に。
水をもらいたいようにも思ったが、それも無粋で飲み込んだ。
「ねぇ、残酷な愛でしょう、これは」
青年が言う。
残酷。
そう、女の側から見ればこれはとても残酷な愛の形だ。
愛し愛されながら、その根本的なところで満たしきれないせつなさがあるなんて。
それはそう、疎まれるより、恨まれるよりももっと複雑な苦しさで―…。
苦しい。
もう、ご免だと思った。
ミラージュは青年から少し顔をそむけて、応えを避ける。
酔いを醒ましたい。
あまりに、身に切実に思われる苦しさから、逃れたい。
できることなら青年が紡ぐ物語の世界の、哀切の流れから岸に上がろうと思った。
「君はどう思うんだ」
多少強引に、青年の同意を求める言葉でミラージュの心中にあたった焦点を拒否するように、問い返した。
「僕?僕ですか―…?」
青年は話の流れをふっつり切られたような顔をして、ミラージュの言葉を迎える。
ミラージュは主導権を奪い取ろうと言うように、まだ考えのまとまらないまま続けた。
「残酷といえば成程女たちにとってこれほど葛藤に満ちた、こんがらがった愛もないだろう。確かにそう、それはそうだ…」
そこで言葉を切って、ミラージュは口元に指を持っていきながら考える。
残酷。それはそうなのだ。ミラージュの胸に描かれた姫君は皆、ヒカルゲンジに愛され、翻弄されている。
愛欲の世に身を焦がしている。
けれどなんだろう。ストーリーを語った、ある意味その世界を作り出した青年の裏側に、隠された情念。
絵物語のような世界へ誘う青年の、言葉の端々に見え隠れする、無関心を装った根深い何か。
胸にわだかまるそれを追いかけるべく、ミラージュは青年の言葉を捕まえることとした。
「君は先ほど、ヒカルゲンジが不義の子を育てることになるという結果を、関心がないと言っただろう」
「ええ、まぁ、言いましたね」
「どうして?」
青年は質問の意味を解しきれない様に、目を瞬いた。
「もし君が様を見ろ、だとかいい気味だというのならわかるよ。美しくて情緒的で官能的な若き王子、彼が心の欲するままに振舞うたび、誰かが傷つく。まるで剣舞を踊っているようだ、魅せられて触れようとすれば、切りつけられる。でもその舞から目を逸らすことができない。罪深い男だ。そんな彼が、運命の復讐を受ける。自業自得。普通はそれで、留飲を下げるものだろう」
―けれど君はそんなことに関心がない。
あるのは、ヒカルゲンジの愛が常に代替的であること、その、残酷さ。
その断罪は一般的なそれよりももっと深刻で、根深い。
「僕の見方は少し穿っていますか」
青年は茶化すように愛嬌よく小首を傾げ、両手を広げて笑って見せた。
暗に拒否された気がして、このまま追及しても逃げられるなとミラージュは思った。
ミラージュは別の方向から、青年の霧にかすむ心うちを探ることとした。
「君は、継母をどう思う?」
「どう、ですか?」
「そう、どう思う?どんな人だろうか」
意表を突かれたようになりながら、青年は考える。
視線が、グラスを一度、なぞった。
「そうですね、心弱い人、かな。」
「心が弱い?」
「そう。継子を拒み切れない心の弱さ。そしてその子を宿した、因果な人。逃げれば逃げるほど、源氏の恋の炎を燃え上がらせる哀れな人でもある」
語る言葉は淀みなく。
そこに先ほど感じられた激しい情動は窺えない。
継母は白か。
ミラージュは内心呟いた。
「では、ワカムラサキは?」
ミラージュは慎重に次の人物の名を挙げる。
するとその言葉を引き金に、二人の間の、否青年を取り巻く空気がじわりと色を変えた。
それは感傷が見え隠れする、不思議に綺麗な色。
青年は浅く眉を引き寄せ、言いよどむ様にためらって、そうして一つ息をついた。
「…さっきね、彼女は幼い時に攫われて来たと、言ったでしょう」
「ああ」
「最初の頃、光源氏は若紫を引き取って兄妹のように暮らしたのですよ」
ミラージュは成る程、妻にするには幼すぎる少女、自然一緒に暮らすとなればそうなるだろうと思った。
「雛遊びなんかしましてね、若紫はとても懐いていたんですよ。優美で優しい兄、嫌う理由などないでしょう、子ども心には」
「その貴公子の、裏に欲の隠れた愛情の中で、姫様は日に日に美しくなってゆく。筆の手を見ても大様な、雅やかさの見える、麗しい人でしてね。若紫は無邪気に源氏に親しんでいた。」
青年の、長めの前髪がうつむき気味な面に影を作り出す。
それは間接照明に浮かび上がる半面と言い得ない陰陽を現し、源氏の懐で子供らしい春を謳歌する少女の、行く手に待つ暗さを暗示するかのようで。
「けれどある晩突然―…」
青年はここで、にこりと笑って見せた。
それは苦しげな微笑で、わかるでしょう、と同意をミラージュに求めるように。
ミラージュは気まずげに視線を外した。
「妻として扱った」
いたいけな少女、兄と慕った相手が一晩で夫に変わる。
それはまだ大人になり切れない少女の胸にどんな記憶を刻んだのだろうか。
しばらく無言で、ミラージュはグラスを手に取った。
琥珀のウィスキィーが氷に溶かされて、淡く模様を描いてゆく。
それは、何かが胸に染み入るかのようで。
「―…傷ついただろうね」
数瞬置いて紡がれたミラージュの感想。
それは、青年の感傷に湿度を与えたかのようだ。
空を見ながら、
「そう、とても傷ついた。…取り返しようのないほどに」
瞳を覗き込まれることを拒む様に呟く言葉には、悲壮に近いものが感じられた。
まるでミラージュの言葉に、自身が傷ついたかのように。
―自身が傷つく?
ふと、思った。
結局この話、ワカムラサキが傷ついたという事も、青年が数え上げたヒカルゲンジの罪だ。
それに、何故青年が傷つく?
言ってしまえばこれは作り上げられたもの、フィクションだ。
ヒカルゲンジの罪づくりな美貌も、ワカムラサキも、継母も。
誰もこの世には存在しない、よくできたお話だ。
にも関わらず、青年のヒカルゲンジへの弾劾はどうだろう。
まるでその人が実在するかのように、罪を数え上げ、主人公を締め上げてゆく。
そして挙げられた罪に同意すれば、青年自身が傷ついたかのようで。
それはそう、神父の前に罪を告白する、許しを求めるような―…
自身の罪。
―あ…。
その言葉に行き当たった時、ミラージュはとうとう、青年に宿る情念の正体を知った気がした。
ミラージュの中で、バラバラだった登場人物と語られるストーリーが確かな形を持ち始めた。
青年を見る。
白い肌に、下がりがちな二重の目。
話しかけてきたときよりも血色のいい頬はアルコールのためだろう。
やや長めの前髪は影をつくり、その瞳に見透かせない謎を残している。
女にしてしまいたいほど男らしさとは無縁の、東洋人的な美しさを備えた容姿は、ヒカルゲンジとはこのような男ではなかったかという思いをミラージュにさせた。

7

そう、彼はヒカルゲンジになぞらえて、その胸に収めきれない自身の体験を語っているのではないだろうか。
道理を知りつつ情に屈し、亡き母への思慕、それを通じて継母を求め少女を娶った貴公子を誰より鋭く非難するのは、同じ罪を犯した自責の念のなせる業と言えないか。
そう理解した時、解せなかった青年の情動が綺麗な円を描くように、ミラージュに感じられた。
不可解さが、さながら雪の結晶がとけて雨粒が姿を現したかのように了解できるものになってゆく。
一人得心がいった風情のミラージュには気づかず、青年は若紫について語り続ける。
「幼いころから源氏に囲われて成人した若紫は結局のところ、愛も憎しみも彼から学んだと言えるでしょう。そういう意味で彼女は源氏しか知らない。光り輝く唯一無二の貴公子しか知らない。
ある点においては誰もが羨む源氏第一の妻、ある点においてはその境遇しか知らない、また継母の、もっと言えば生母の形代として愛されたという不幸な人ともいえる。―…僕はそんな風に思いますね」
「その晩のこと、夫の裏切りを彼女は許しただろうか」
「さぁ、僕が思うに許しはしないでしょう。」
青年はいささか熱っぽく言った。
それは良心の呵責にのたうつ罪人から、とかく俗っぽい情の海原の真っただ中に立つ、一人の男に変じたとも見える。
「けれど男女の情に愛も憎悪もつきものでしょう?傷つけられたからと言って、憎いからと言って、されど愛おしい。そんな明暗を内包しながら発展してゆくのが情愛とも言えませんか」
「ワカムラサキの心がヒカルゲンジから離れることはないと?」
「ないと、思いますよ」
その言葉には先ほどの湿度、傷心の痕跡も見いだせないくらい、青年は断ずるように言った。
ミラージュにはそれが青年のワカムラサキの想いに対する強固な自信と受け取れた。
勿論それは登場人物を影絵にした、青年がワカムラサキに擬した女性の青年に向ける愛への確信と理解したが。

8

ミラージュはなんとも形容しがたい不快感に再度襲われた。
それは先ほどヒカルゲンジの身勝手な愛に覚えた反発をそのまま青年に投げかけた結果、また『被害者』であるワカムラサキの離反をないと決めてかかる傲岸さに対するものと思われた。
しかしそれと同時に、青年の語るヒカルゲンジという人格に、なにか、そう、描き切れなさを覚える自分がいた。
継母はヒカルゲンジを愛した。ワカムラサキも彼を愛した。他の多くの女性たちも。
その理由を青年の語るところでは全て、美貌、才能、情緒といった事に帰結させている。
果たしてこれ程周囲を眩惑する男の魅力がそんな簡単に語られ得るものだろうか。
確かにこれが古い古い創作物で、作り事の域を出ないものと考えればそれでもいいのかもしれない。
しかし仮にも青年が始めに言ったように長く伝えられてきた傑作だとするならば、それはあまりにお粗末な話と言えないだろうか。
その上これは今古典の域を出て、目の前の一人の男が己の所業を仮託している物語なのだ。
自然ヒカルゲンジに擬される彼が、そこまで完璧で同時に安っぽいキャラクターとは考えにくいし、またそれでは興ざめだった。
美しく才能あふれ情緒的。
これらの言葉は最高の賛辞でもありながら、同時に顔のない人間、つまり特徴のない顔としか言いようのないものだ。
しかし実際ワカムラサキが愛した『彼』はそんな無欠で特徴のない貴公子ではなく、もっと人間的で、利己的ですらある血の通った男だったはずだ。
だからこそ憎みもし、愛しもするのではないか。
闇夜に浮かぶ明りのような、人を惹きつけずにおかなかった『彼』の横顔をもっと明確に、人間的に捉えられた時、初めてワカムラサキの複雑に絡まった愛が理解できるのではないか。
またそうしてこそヒカルゲンジの、つまりは青年の隠そうとして隠し得ない、同時に告白を希求する真の姿が現れるのではないか。
そんな風にミラージュは思った。
「…どうして、ワカムラサキはヒカルゲンジを愛したのだろうね?」
「え?」
青年が不意をうたれたように疑問符を返す。
ミラージュはその端的な問いかけを補足するように続けた。
「君が言うようにヒカルゲンジがやることは女にとってとても残酷だし、傲慢でさえあると私は思う。けれどそんな彼に、そんな男に女性たちは囚われてしまう訳だ。それも衝撃的な体験を持つはずのワカムラサキでさえ。彼女がヒカルゲンジを愛してしまうのは何故だろう?君のいう美貌だとか才能だとかではとても彼の引力を説明しがたいと思うのだけどね」
―つまり、ヒカルゲンジとは一体どういう男で、どういう訳で人を惹きつけずにおかないのだろうか。
「……」

9

青年は黙った。
視線がさまよって、しばらくすると手元に落とされる。
ワインはまだグラスに満ちていて、一時の猶予を得るためのオーダーもできそうにない。
その沈黙をあえて打ち払うこともせず、ミラージュは時の流れるに任せる。
青年の沈黙は、ある意味最もな事だった。
ミラージュが思うに青年は間違いなく己の秘密を忍びきれずに、古典というフィクションを隠れ蓑として語っている。
そしてヒカルゲンジの罪を弾劾し、同時に罪の告白の痛みに傷ついてる。
そんな彼にあえて気づかないふりで、暗に『君』は一体どういう男なのだと問いかけているのだから。
自身で鞭打ったその正体を、自身の言葉で晒せと言っているに等しい。
「光源氏は―…」
そう言って口を切ったのはどれ程の時の後だろうか。
青年がぽつりと呟いた。
「とても華やかな人、情緒的で美しくて…。けれど常に亡き母親を求めて、満たされない心を持て余す男…」
その言葉にミラージュの脳裏に一人の男の後姿が現れた。
美しくて華やかで、得ようのない亡き人を思い続ける男。
愛し愛され、満たされない男。
「そしてその満たされない心が育む愛が多くの女性を、そして若紫を傷つけるのでしょう」
その男の背を一人の女が見つめている。
彼女はさめざめと声を立てずに、泣いているのかもしれなかった。
青年がうつむいた。
それは自分の行いと愛が、どう彼女を傷つけているかを言葉にさせられる苦しみかとミラージュは思った。
「ではそれなのに、何故ワカムラサキは彼を愛したのだろう」
「…きっとそれは、彼が不幸だったからですよ」
「不幸?」
ミラージュは思わず問い返していた。
描いた男の周囲がふと暗くなる。
泣いているのは、ワカムラサキだけではない?
「若紫は幼いころから源氏に愛されながら、きっと成長するにしたがって彼の心の空洞、どこまでも続くような空虚さに気づいたんでしょう。そして自分では源氏を満たしきれないことに悲しみを覚えた」
言う青年の瞳の湿り気は、どういった感情の表れだろうか。
―自己憐憫?
思ったが、本当のところはどうだろうか。
「それと同時に若紫はどうあっても満たされない源氏に対する憐れみを感じたんじゃないでしょうか。人のうらやむものは何でも持ってる男。なのに決して満たされない。彼はきっと不幸だと、若紫の目には映ったのではないでしょうか…」
華々しい身辺、光り輝く王子。
その一身に羨望や恋情を受けて、彼は立っている。
しかし青年が言ったその一言が、彼に当たるスポットライトが作り出した影法師に視線を移させる。
その影は長く、人々の称賛が高じれば高じるほど濃くなってゆくようで。
「若紫は、彼の、不幸を愛したんですよ」
青年の瞳には確かな水滴が形作りつつあるように見えた。
ミラージュは一瞬自分の視点が定まらなくなるのを感じた。
泣いているのはヒカルゲンジか、はて、誰だったか―…。

10

「不幸な男と女。結びつくにはそれで十二分だと思いませんか。一方は母の愛を求めさまよい、一方はそんな男の哀しくて身勝手な愛に傷ついている。そして源氏に育てられた身にはそれが全てなんでしょう。男女の仲を世の中と言ったりしますけど、彼女にとっては本当にそうだったと…」
語尾が曖昧にかすれる。
青年が誤魔化すように軽く笑った。
「そう…そうだね」
ミラージュは同意の言葉を口にしながら、目の前の、ワカムラサキを不幸にしながら哀れむ勝手な、しかしその罪の意識にまた苦しむ一人の男を見た。
空虚さを胸に、周りを魅了する男。
羨まれるもの全てを手にして幸せでなかったら、それほど救いようのない話があるだろうか。
ワカムラサキが愛したのは、そんな哀れな男。
そして、彼自身が、そんな不幸な男。
「けれど…」
ミラージュは迷った。
青年の話はフィクションとノンフィクションの間を行き来して、一つの幻の世界を紡ぎだした。
そしてその根底にあるのはどうしようもない罪の意識と、己の不幸せへの憐憫と思われた。
それを指摘するのは容易い。
しかし言葉にして明らかにして、青年に突きつけることが果たしていいことなのだろうか。
彼はあくまで古典の話として通したいのかもしれない。
自分の犯した罪を認めることに耐えられず、架空の事として語ってしまいたかったのかもしれない。
その心はよくわかる。
人は自身の良心の前に懺悔することはひどく苦しいことであり、また難しいことだ。
けれど同時に、ここまで踏み込んでしまった彼のストーリーに気づかないふりを押し通すには、自身があまりに感情的に巻き込まれてしまっているとミラージュは思った。
それに、果たしてそれが本当の意味で彼にとって良いこと、なのだろうか?
彼は物語を影に体験を語った。
それは誰かに聞いてほしい、隠し続けるに忍びきれない秘密だったということだろう。
そうであるならばやはり、ミラージュ自身にとっても青年にとっても、真実を明らかにしてしまうことが有益なことではないだろうか。
それが一体どんな結果をもたらすかはわからないとしても…。
そう思って、ミラージュは、口を開いた。
ミラージュは青年の反応を見ようと言うように、上目づかいで青年の目を見た。
「…けれど、これは全て架空のお話だ」
その言葉に青年は刹那目を広げて、急に現代に戻されたタイプスリッパーよろしく、くるりと店内を見回した。
今、ここ、東京のホテルのバー。
幻達が、ミラージュの言葉ににじんでゆく。
光源氏はいない。継母も、若紫も。
いるのはミラージュと青年。
全ては昔々作られた傑作と、
「まるで君の話は、そう―…」
そこに何かを託して語る青年。
そしてそれはきっと―…
「自分の事を、話しているみたいだよ」
ミラージュの言葉に、
青年の酔いがさめてゆく。
上気した頬は色あせて、
「君のヒカルゲンジに対する断罪は、結局のところ罪の告白によく似ている」
瞳が、虚ろになってゆく。
物語という虚構は姿を消して、
残ったのは秘密を胸に隠すに忍びきれなかった、一人の男。
ミラージュの瞳にはそう、映った。

急にあはははは、と青年は一声高く笑って、それはどこか空しさの色を含ませた笑い声だった。
そうどこか、やりきれなさといったものだろうか、なんとも言えない空虚さが感じられるものだった。
「―…すごいですね、どうやら本当に名探偵のようだ、あなた」
笑いを収めて、青年は言った。
額に肘をついた右手を当てて、半面だけをミラージュに向ける。
「けれどね、名探偵さん。あなたの推理、少し間違いがある」
「どんな」
「残念ながらね、僕は光源氏ではないんですよ」
ん?と解せないようにミラージュが。
青年は少し疲れたように息をついて、どこか皮肉げに。
「―…僕ね、父親の血が入ってないみたいに、母親似なんです」
ミラージュが煙草を置いて青年を見る。
そう確かに華奢な体といい、その顔といい、ミラージュも最初彼のことを女性だと思ったほどだ。
しかし、それがどういう―…
先ほどの源氏物語のストーリーを辿りなおす。
―光源氏は義理の母親に恋をした。
―そしてその義母によく似た少女をさらって育てて妻にした。
くゆる紫煙は昇るごとにほどけてゆく。
ミラージュの推理もだんだんと、途切れ途切れにしか見えなかった姿が、霧が晴れるように全体像を現すかのようだ。
「異母兄に、よく言われるんですよ」
愛の会話を経たかのような言語の上達。
恋人かと問われて一瞬黙って、異母兄だと答えた青年、彼はまるで女のようで、よく母に似ているという―…。
「名探偵さん、もうわかるでしょう?」
そういう青年は今にも泣き出しそうに笑いながら、
「僕は、若紫なんですよ」

紫の形代

紫の形代

イギリスからの旅行者のMirageは来日初日の東京観光に満足していた。 その疲れを酒に委ねようとホテルに備えついたバーに入ったのが、30分ほど前。 バーテンと話すわけでもないMirageに、一人の青年が話しかけてきた。 彼は謎の多い目で笑いながら、最大傑作とも言われる日本の古典、源氏物語について話し始めるのだった―…。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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