よろず屋新兵衛開業記

 
思い通りにならぬ世を

怨むも笑うも悲しむも

すべては運命と諦めて

日々を送りて一人寝の

枕に偲ぶ面影を

涙を呑んで忘れんと

すれど未練の窓の月

菩薩の如く輝けど

地上に届くは影のみか

この我が心の憂いを晴らす

その手立ては果たして何処に



                                  揺れる木札


 「さあさ、長屋の衆、この人が、徳三さんが住んで居た部屋に引っ越してきた新兵衛さんだ。ちゃんとした知り合いの紹介だから、皆安心して宜しくお付き合いくださいよ。」「ただいま、大家さんからご紹介頂きました新兵衛と申すもんで御座います。どうか宜しくお付き合いの程を、これは大したもんじゃあございませんが、お近づきの印しにどうぞ皆さんでお分けくださいやし。」そう言って善介長屋の新しい住人は、灘の銘酒の一斗樽と大盛りの鮓桶を差し出した。「おおっ、豪勢じゃあねえか新兵衛さんとやら、こちとらこそ宜しく頼むぜ。なあみんな。」「そうともよ、徳さんが居なくなって、寂しい思いをしてたが、あんたみたいな人なら大歓迎でえ。さあみんな、せっかくの新兵衛さんのお気持ちだ。遠慮なくいただこうじゃあねえか。」「じゃあ新兵衛さん、ご馳になりますよ。」和やかに酒を酌み交わし、活きのいい鮓に舌鼓を打つ長屋の住人を見乍ら、新兵衛は帰ろうとする善介と目で合図を交わすと「さあ、一杯どうぞ、宜しくお願い
い致しますよ。」と言いながら一人一人に酒を注いで挨拶をして回った。木戸に一番近い新住民の軒には、あくる日から大きな白木の札が下がっており、それには黒々とした墨で、こう書かれていた。 ― よろず相談承り候 萬屋新兵衛 ―  
                                                                       

 「湯島天神下の善介長屋?近くにいい女でも居るのかい兵さん。」「いえ、ただ徳三郎殿が病の為、役を降り、国元に帰られて空きが出来ました故。」後で艪を操る新兵衛の忠告も聞かず、侍は被っていた役者手拭をかなぐり捨てた。「こんな船の上まで顔を隠せなんて野暮は言いっこなしだぜ、せっかくの夜釣りの興が失せらあ。」 華やかな提灯を揺らせながら、夕涼みの屋形船が何処かの御大臣を乗せ、華やかな芸者衆のはしゃぎ声を夏の川面に響かせながら、時々二人を乗せた猪牙船の傍を通り過ぎて行く。そのたびに新兵衛は船頭や乗客の振る舞いに眼を光らせねばならなかった。いつぞやは屋根に居た船頭が振り向きざまに毒を塗った吹矢を射かけてきたり、火のついた松明を投げ込まれたりしたこともあったからだ。足の速い猪牙船に乗るのも緊急の場合、いち早く岸に着け難を逃れるためである。自分が仕える主人の我が儘さ故に、己の命さえ危ういめに何度もあっているのだが、何故か憎めぬその理由を未だに掴めぬ新兵衛であった。― きっと前世の因縁で繋がってるのかもしれぬなあ― 新兵衛は、子供のような真剣さで棹をふる主人の横顔を眺めながら、そう思った。     
                                  


      八百屋の女房
 

 「こんにちわ、こんにちわ・・・。あの~すみません。」「はい!今開けますからちょっとお待ちくださいよ。」入口の障子を開けると四十前後の女が立っていた。「あの新兵衛さんで?」「はい、新兵衛は私ですが。」「こちらでは、困った事があれば相談にのってくれるとか、ちょっと気になることがありまして、お伺い致しましたが。」「ああ、それなら、ここではなんですから、むさ苦しい処ですが、どうぞ、中でお話をお聞きいたしましょう。」 女は、近くの八百屋の女房で、店に時々來る客の子供二人の姿が最近急に見えなくなったというのである。「で、その親達は何と言ってるんです?」「子育てに費用がいるもんで友稼ぎをしなければならなくなって、川越の実家に預けて来たんだと。」「なるほど、それなら何も心配しなくて良いのではないんですか?」「それが、その二人の子は最近引き取った孤児なんですよ。なんでもこの前の大火事で実の親が焼け死んだとかで。」「里親ですか。」「ええ、それにこの前買ってもらった茄子を置き忘れたもんですから、店を閉めた帰りに届けに行って、入口で声を掛けようと思ったんだけど、子供たちが寝ていて目を覚ましちゃあ可哀想だと思って、そっと障子を開けようとしたら、中から夫婦の声が聞こえたんですよ。いや、別に盗み聞きしょうと思った訳じゃないんですけどもね。」「それで、その夫婦は何と言ってたんですか?」「妹のお小夜は二十両にはなるが、兄の方は大した金にゃなりゃあしないって・・。」「つまり、あなたがおっしゃりてえのは、その里親が引き取った幼い二人の兄妹を、どこかに売りとばしたんじゃあないかと、そう思うんですね。」「ええ、そのとおりです。お小夜ちゃんも太朗坊もそりゃあ、可愛くっていい子で、どうかお願いです新兵衛さん。あの二人を見つけてくださいな。私等夫婦には子供がおりません。もし見つけて頂いたら私たちが引き取って、宝物のように大事に育てますから、この通り後生ですから、お礼は出来る限りさせて頂きますんでどうかあの子たちを救ってやって下さいな、この通り、この通りですから。」そう言って、八百屋の女房は、涙ながらに両手を合わせ、何度も頭を下げた。「分かりました、それではお引き受けいたしましょう。」「本当ですか!?有難うございます。どうか宜しくお願いいたします。」

                                                                        
                                     
        福の神

 「おあ兄いさん、さっきやあ随分と負けが込んで、気の毒でごぜえやしたねえ。」博打場を出て、居酒屋でヤケ酒を飲んでいる男に声を掛ける者がいた。「なんでえ、お前さんもあの博場にいなさったのけえ。」「まあ、お近づきの印にいっぺえどうぞ・・。」「こいつああ、すまねえ、遠慮なしに頂くぜ。」「実あ、あっしも、すっからかんにやられたもんで・・。何か手っ取り早く稼げるいい仕事はありやせんかねえ。」「あんたも遊び人風に見えるが、女房持ちかい?」「昔、それに近い女がおりやしたが。」「博打がやめられずに逃げられたのかい?」「まあ、そんなとこで・・。かかあが居りゃあ、なにかいいことでもあるんすかい?」

 「おい、お多岐、客人をお連れしたぜ。おう新佐さんとやら、此処が俺んちでえ、さあ遠慮はいらねえ入ってくんな。」破れ障子の入り口を開けて、酔いつぶれそうになった二人の男は長屋の上り口に倒れ込んだ。「なんだいお前さん、又酔っぱらってるのかい。それに誰だい?この人は。」中にいた女房らしき四十前後の女がそう言って、煙草をふかしながら、亭主が連れてきた男をじろじろと見た。「いやあ、この兄さんの知り合いに、この前の火事で親を亡くした女の姉妹がいるって話を聞いたもんだからよ。」その一言で女の態度が一変し、「まあまあ、さようでございますか。私どもにはこの人からお聞きになったと思いますが、子供が欲しいのに授からなくって、誰か養子になってくれる子がいたらなあと、ついこの間も、この人と話していたんですよ。もしあなたさまのお知り合いに、そのような可哀想な身の上の女のお子さんがいらっしゃるのなら、ぜひとも家で引き取り大切に育ててあげとうございます。ねえお前さん。」そう言って亭主の顔を見た。「そうともよ、この新佐さんは俺たちに福をもたらす為に神様がお連れになったお人に違いねえ。なあお多岐。」そう言いながら、二人は顔を見合わせて、にんまりと笑った。
                                                                               


     命乞い
 

「ねえ、新佐さんとやら、もう随分歩きましたが、その姉妹が預けられているっていう佐平さんの家ってえのは、まだ先なんですか?」不安そうにお多岐が訊ねた。「いやあ、もうすぐそこですよ。」「しかし新佐兄い、この先やあ確か鈴が森、家なんぞはあるんですかい?」浜蔵も訝しげな顔つきで先を行く新佐の背中に呟いた。それに日暮れが近付き、辺りも次第に薄暗くなってきた。鬱蒼として人っ子一人いない林の中に分け入り、小さな荒れ果てた祠の前で新佐の足が止まった。そして振り返るなり不敵な笑いを浮かべ、こう言った。「おめえ達の行く先やあ、とっくに決まってる。地獄の一丁目さ。」そう言って懐から出した手には、ギラリと光る匕首が握られていた。「な、何しゃがんでえ!俺たちゃあ人に恨みを受けるようなこたあ、何にもしちゃいねえぜ。」「そうとも、この人にゃあ何があったか知らないが、あたしゃあ何にも知らないよ!」「うるせえ!とぼけるのもいい加減にしろい!俺はなあ、何の罪もねえいたいけな子供を、人買いに売りとばしたてめえ達を、地獄のような苦しめを味あわせた後に、あの世に送ってくれと頼まれた人殺しの請負人よ。せいぜい可愛がった後に息の根を止めて八つ裂きにし、山犬の餌食にしてやるから覚悟しな・・。」慌てて逃げようとした二人の背後に、もう一人の黒い頭巾で顔を覆った侍らしき男が、スラリと刀を抜いて立ち塞がった。囲まれた二人は腰が抜けたようにその場に座り込み、「頼むよ、この通り!なんでもするから命だけはお助けを!あれや博打の借金を返すために脅かされ、仕方なくやったんでえ。ほんとうだよ!嘘だと思うんなら五郎蔵親分に聞いてくれよ。俺たちゃあ子供を、あの連中に引き渡した後のこたあ、何にもしらねえ、悪いのはあいつらでえ、俺たちは脅かされてやっただけなんでえ。だから、後生だから殺さねえでくれよ!俺はこんなとこで死にたくねえ頼むよ!」「あたしもまだ死ぬのはいやだ。お願いだから、どうか殺さないでおくれな!」そういって二人は、何度も何度もその場にひれ伏した。
                                                                     

    舟提灯     
                                 

  「親分。沖の親船から合図がありやした。」「ようし運び出せ!」真夜中の丑三つ時近く、川に面した土蔵の裏口が開いて、中から両手を後ろ手に縛られ猿ぐつわを噛まされた、まだよちよち歩きの女の子から年ごろの娘までの十数名が押しだされ、二艘の小舟に乗せられて新月の闇夜の大川を、沖に向かって漕ぎ出して行った。そのあとから数人の男たちを乗せたもう一艘が後に続く。船着き場を三丁ばかり離れたところで、娘たちを乗せた前を行く二艘が突然大きく揺れたかと思う、それぞれの船頭二人がほぼ同時に川に投げ出された。「なんでえ、いってえどうしたんでえ!」後の男連中が騒ぐ中、しばらくしてずぶ濡れになった船頭二人が川面に浮きあがり、船によじ登って後ろの男たちに向かって頭を下げ何事も無かったように再び漕ぎ出した。「野郎、二人とも大事な取引の晩に酒を食らってに酔っぱらってやがったな。ふてえ野郎だ!後でとっちめてやる!」そう怒鳴る後ろの連中をよそに、遅れを取り戻そうとしたのか、娘たちを乗せた二艘の船は早さを増し次第に遠ざかって行った。そしてその船の舳先に付けていた提灯の灯りが、ふと風に消えたのか見えなくなってしまった。後ろの船の真ん中にどっかと座っていた五郎蔵が立ち上がり、「野郎ども、何をしてやがんでえ!早く追わねえと前の舟を見失っちまうじゃあねいかい!」そう叫んで前を見渡すと、やっと追いついたのか前の船の灯りが見えだした。「どいつもこいつも、やきもきさせやがって、頼りねえ野郎どもだ!」そう言って腕組をし座り直した時、前の二つ灯りが四つに別れたかと思うと、それがさらに別れて、数を増し
ながら自分達の舟の周りを取り囲み始めた。そしてその明かりの輪が次第に近付き、黒々と太い墨で御用と書かれた提灯の字が眼に入り、ようやく事態に気付いて慌てふためく船内の者達に向けて、辺りにかん高い声が響き渡った。「南町奉行所与力、菊池勘左衛門である!龍ノ口の五郎蔵およびその手下の者ども!おとなしく縛に付けい!」


 「お小夜ちゃんも太朗坊も、新しいこのおとっちゃんと、おっかちゃんの言うことをようく聞いて、元気に暮らすんだぜ・・。」子供たちの手を曳いて嬉しそうに何度も会釈をし、遠ざかる八百屋夫婦を見送りながら、新佐 は思った。ー 俺も一度でいいから、あんな両親のもとで暮らしたかったなあ。 -
                                                                     
                                                                         

                                     
   呉服屋の怪


「あたしゃあもう怖くて怖くて・・・。明神様の御札を貼っても、近くの巫女さんにご祈祷してもらっても、まるで効き目がないんです。もうどうしたらいいもんか、新兵衛さん、お願いです、どうか助けてくださいな。」もと深川の芸者で呉服屋伊勢屋の後妻となった、お豊は声を震わせながらそう訴えた。「それでその、家の戸が真夜中にがたがた揺れるってえのは、何時頃から始まったんです?」「確か、あたしが御店に来てから10日程たった頃からだったと思いますが。」「なるほど。」「あのう新兵衛さん・・。ひょっとして私が後釜に入ったのを恨んで、先妻のお信さんの幽霊が家に入れてくれと墓場から毎晩やって来てるんじゃあないでしょうね。あの人の新盆も近いし、ああいやだ!考えただけでもぞっとする!ねえ、新兵衛さん、あたしゃどうしたらいいんでしょうねえ。うちの人に言ったらそんなもの風か何かの音で、気にするなと、相手にしてくれないんですよ。あたしがこんなに怖がって夜もろくに寝られりゃあしないっていうのに・・・。」「そりゃあお困りでしょう。分かりました。この相談お引き受けいたしましょう。」「有難うございます。それから、ここに相談に伺ったのは、どうかうちの人には内緒にしておいてくださいな。」「分かりました。この話は私と女将さんと二人だけのことに、他の誰にも話しませんから、どうぞ、ご安心くださいませ。」「ありがとうございます。ではよろしくお願い致します。」そう言って女将は、外の人気のないのを確めると帰っていった。


                                                                    
      梟の眼
  

 その日も、朝から夏の強い陽射しが容赦なく照り付け、やがて陽が落ちて、風も無く蒸せかえる寝苦しい夜が来た。寄合後の宴会で酒が入っている亭主は、隣でぐうぐういびきを掻いて寝入ってしまっている。お豊は今夜も眠ることが出来ないでいた。やがて真夜中の丑三つ時になると、離れにある寝所の廊下を隔てた雨戸が小さく揺れ出し、その音が次第に大きくなり、ガタガタガタ・・・と畳の床を伝わってきた。「あああ・・・なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ、どうぞ成仏しておくれ、なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ・・・・。」お豊は、布団を被り、耳を押さえて、身体を震わせながら一心に念仏を唱えて、その音が消えるのをじっと待っていた。庭に聳える桜の大木の枝から、ジュジュッと一声泣いて蝉が何処かに飛んで行った。その枝葉の中に光る眼が、音を出して揺れる雨戸をじっと見ていた。「なるほど、音がすれども姿は見えぬか・・。」しかし暗闇の中でも、鍛え抜かれた梟の様なその眼は、外に通じる格子戸も、雨戸の揺れに合わせて微かに動き、外の茂みの草も同時に野鼠が動いたほどに、微かに揺れているのを見逃さなかった。ふわっと音一つ立てずに庭に降り立った黒い影は、易々と垣根を跳び越えると、茂みの向うに遠ざかる人影を追った。ガチャガチャとくつわむしが鳴く林を、巻き取った三味線糸を懐に入れ、足早に抜けようとする手拭でほうかむりをした男の前に、地から湧いたように黒い影が現れると、道を塞いで立ちはだかった。驚いた男は、後ろを振り向いて逃げようとしたが、何故か身体が金縛りにあったように動かない。「お前は、何処の誰だ。安心しろ、お前に危害を加えるつもりはない。」 


                               
     針の跡

  
 誰もいない真夜中の墓地に、土をほる音が止むと、続いて、掘り出された棺桶をこじあける音がした。「ちょいと見にゃあ、ただの女の仏に見えますがねえ・・・。」「首を横にしてみてくれ。やぱり思った通りだ。弟の繁蔵の話によると、このお信は舟遊びの最中にいきなり倒れそのまま、その場で息きを引き取ったそうだ。心の臓の発作で突然死んだんだろうと周りの者は疑わなかったようだが、ほら、この首の横に黒い小さな針で付いたような傷があるだろう。」「そういやあ、そんなふうに見えやすねえ。何ですかこりゃあ。」「おそらく毒針で刺された跡に違いない。」「え!ってえことは、この先妻のお信ってえ女は誰かに殺されたってえことですかい?」「ああ、そう考えて間違いはあるまいな。」「でも舟遊びの最中じゃあ、あの伊勢屋のことだ。他に芸者衆や仕業仲間も乗り合わせ、人目が多い中で一体どうやって・・。」

 新兵衛は、小石川療養所の近くにある、砥ぎ政と書いてある暖簾を潜った。「旦那、ご冗談を。いってえ何の事だか、あっしにゃあさっぱり・・。」包丁を砥ぎながら男が言った。「俺は、お前を奉行所に突き出すつもりはないし、お前のような稼業が、この世には必要かもしれねえと思ってる。ただ、俺が頼まれた客の想いを叶えるにはお前に確かめねえと、前に進まねえんだ。」「あっしにどうしろと?」「今から俺が言うことに間違いがあれば顔よ横に、その通りならば、頷くだけでいいんだ。そうすれば、今回のことにゃあ、眼を瞑ろう。」「ようがす、言ってみなせえ。」「お前は、或る呉服屋の亭主に頼まれて、その夜、舟遊びの最中の屋形船に漕ぎ寄せて近付き、船べりで酔いを覚ましている女房の首筋に毒を塗った吹き矢を打ち込んだ。」砥ぎ師は、手を止めずにゆっくりと頷いた。「そして、すぐさまその亭主は倒れた女房に近寄り、どうしたんだと抱き起すふりをして、首に刺さった吹き矢を引き抜くと、人に見られないように、そっと川に投げ捨てた。」砥ぎ師は、再び取り上げた包丁の砥ぎあがりに満足そうに、にんまり笑うと、ゆっくりと頷いた。



    新盆の夜

  
  新盆の夜にもかかわらず、伊勢屋五平は得意先の旗本の侍たちを吉原のなじみの店に招き、ほろ酔い気分で帰宅した。「お豊、今帰ったよ。お豊!ああそうだった。あいつは実家に帰ってたんだよな。」そう言って離れの寝所に転がり込むと、そのまま寝入ってしまった。真夜中にふと目を覚ますと廊下の障子にぼうっと人影が浮かんだ。「なんだい、お豊、いつの間に帰って来てたんだい。さあ、そんなとこに突っ立ってないで中へお入り。」そう呼びかけても影は無言でじっと動かない。「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。」
五平はよろよろと立ち上がって、障子に手を掛け開いたとたんに、大きく眼を見開いて「わあああ!!お、お前は、お、お、お信!・・・。」と叫び、腰を抜かしたのか畳に尻餅をついて慌てふためいた。見慣れた着物に髪をふり乱した蒼い顔は、半分白骨化しており、だらりと下げられた両手首も骨だけであった。 「ままま、迷うたなあ・・。」酔いも何処かに吹き飛び、身体中に走る氷のような戦慄に、ぶるぶる震えながら五平は正気を失ったように畳に両手をついて「悪かった!悪かった!私が悪かった!殺すつもりはなかったんだ!ほんとだよ、本当に殺すつもりはなかったんだよ。ありゃあ、魔が差したんだ。いやあ、あのお豊てえ女が悪いんだ。あの女がわたしを色仕掛けでそそのかし、お前を殺してくれといって、私は嫌だといったのに殺し屋を雇ってお前を殺させたんだ。嘘じゃあない!嘘なんかいうもんか。本当に私は何もしていない!すべてあの女の仕業なんだよ。だからお信、怨むならあの女を怨んで取り殺すなり、好きにすりゃあいいんだ。だから助けてくれ、どうかわたしをあの世に連れて行かないでおくれ、この通りだ、この通り・・。」そう言って五平は、何度も両手をこすり合わせて 畳に頭を擦り付け、両手を頭の上で合わせたままで、お信の幽霊が消えてくれるのを待った。しばらくすると先ほどまで感じられていた冷気のようなものが去り、そっと顔を上げてみると、そこにお信の姿はなかった。五平は冷や汗を拭いながら大きく何度も息を吐くと、気が抜けたように、へなへなとその場に倒れ込んだ。その瞬間 ガラッと押入れの襖が開いて二人の男が躍り出て来た。眼玉が飛出るほど驚いた五平に向かって「伊勢屋五平!今の一部始終はこの押入れの中でしかと聞いた。南町奉行所同心、松井啓次郎。こいつあ俺の手下で三次だ。前の女房、お信殺害の罪でお前を捕らえに出向いた。神妙にお縄を頂戴しろい!」


  「あれでよかったんですかねえ。」芝居茶屋の二階で、新兵衛の差し出す盃を受けながら菊三郎が言った。「あんたと組むのは、久しぶりだが、さすが玄人役者、物言わぬ演技にやあ惚れ惚れしたよ。今は中村座かい?」「ええ、明日が初日で。いつもながら初日の前の晩は寝付かれなくて・・。」「へえ、あんたのような年季が入った女形でもかい。」「ええ、うちの師匠でもやはり。」「あの大看板が!?役者も見た目より大変な商売らしいなあ・・・。」

                                                              
                                                                                                                                               
        初出の夜
                                    
「あっしゃあ、まだ駆け出しの大工見習いで、歳もまだ十九だし、この銭あ、棟梁の女将さんから用を頼まれた時の駄賃をこつこつ貯めたものでさあ。たりねえ分は、借金してでも何とか用立てやすんで、どうかこれでお光ちゃん、助け出しておくんなさい。どうかお願えいたします。この通りで。」そう言って新吉は、土下座して新兵衛の顔を見た。「そのお光という娘さんは、吉原のどの店に連れて行かれたんだい?」「確か連れに来た男が、仲野町の浮島楼だとか言ってやしたが。」「それで博打のかたに連れて行かれたらしいが、お光さんの父っつあんの借金の額はいくらだい?」「三十両だと。」「そいつああ、大金だ。でお前さんとお光さんの中を知るものは?」「棟梁の女将さんには、話しましたが他の者にゃあ言っちゃあいません。」

「まだ十六の我が娘を博打の借金のかたに、渡すような父親のもとにゃあ、返せませんねえ。まだ花も実もある若え二人の為に、江戸っ子の意地てえもんを見せてやろうじゃあありませんか。」 新佐 は、茶店の団子をほうばりながら、背中合わせの新兵衛にそう言って立ち上がった。「今夜は久しぶりに、大門を潜るとしやしょうか。」

「この娘かい?歳や幾つだい?」浮島楼の女将は、連れて来られた娘を頭から、足の先までじろじろ見つめると、「まあまあだが、三十両は高いね。二十両なら置いて帰りな。それが嫌なら他の店に当たるんだねえ。」「女将さん御冗談を、この娘や磨けばこの店の看板になろうってえ位の玉ですぜ。三十両だって安いぐらいだ。」「じゃあ二十五両、それ以上はびた一文だって出しゃあしないよ。」「しかたがねえ、女将さんの顔を立てて、それで手を打ちやしょう。」「よし、これで決まった、ちょいと誰かこの小便くさい小娘を風呂に入れて、髪を結い直し、ましな着物を着せておやり。」

「旦那、まだ男を知らない十六の小娘をお望みで?水揚げにゃあ、少々費用が嵩みますが、よう御座いますかい。」「あたしゃあ、材木屋仲間でも多少名の知れた男だ。金に糸目は付けはしないよ。」「さようで、実は丁度頃合いの十六のいい子が居るんですよ。まだ男を知らない生娘でさあ。」「ほんとかい?じゃあ、早速呼んでおくれ!」「まだ、今日が初出で、優しく扱っておくんなさいよ。」「万事心得ているよ。さ、じらさないで早く連れて来ておくれな。」

                                                                     
                                   
       月夜の下り舟  

    
「おい、お種。二階の材木屋の新兵衛とかいう助兵衛爺じい、どうやらうまくやってるのか、いやに静かじゃあねえか。ふつうは初めての客の時にゃあ、嫌がって泣き叫ぶもんだが・・。」「そんなこたあどうでもいいさね。二十五両で手に入れたものを水揚げ料百両、差し引きに七十五両の儲けになるんだ。助兵衛爺じい様さまじゃあないか。はははははは・・。」そう言って夫婦顔を見合わせにんまりと微笑んだ矢先に、二階がやけに騒がしくなった。「何だい、客が喧嘩でもおっ始めたのかい!?」そこに、雑用係の女が駆け込んで来た。「女将さん!大変です!あの、今日初出の小娘が、客が厠に行ってる隙に首を吊って!」「何だって!?」慌ててお種が二階の客部屋に飛び込むと、天井からだらりと首をうなだれた娘がぶら下がっていた。その足元に腰を抜かし放心した顔つきの客が遺体を見上げていた。「一体、どうしたんです旦那!何でこんなことに!?」「あたしが、厠に行って戻ってみると、この子がこんな姿でぶら下がって居たんで、あたしゃあびっくりして腰が抜けちまって動けなくなっちまったんだ。」「あんたたち、見せもんじゃあないんだ!出て行っておくれな!」そう
言って襖をぴしゃりと閉めると、「新兵衛さんとやら、あたしゃあこれから御役人を呼びに行ってくるから、あんたは此処にいて御役人が来たら、こうなったいきさつをちゃんとを話してくださいよ。ごたごたに巻き込まれるのは金輪際御免なんだから、全くもう・・。」そう言って出て行った。

「この部屋で、御座いますよ、その娘が首を吊ってるのは・・。」役人を引き連れてきたお種が襖を開けると、そこには誰も居なかった。「あいすみません。部屋を間違えたようで。確か牡丹の間だったと思いましたが、隣の桜の間だったようです。」そう言って、慌てて隣りの襖を開けると、「何をしやがんでえ!いきなり開けやがって・・。」そこに居た男女が布団を身体に巻いて飛び起きた。戸惑うお種は、わけが分からなくなって慌てふためいた。「女将!その首を吊ったという娘は何処だ!一体何処に居るのだ!」と詰め寄る役人に返す言葉もなく、「あたしゃあ、一体どうなっちまったんだい!さっきまで天井にぶら下がって居るあの娘を、この目で確かに見たつもりなのに、何処にもいやしないなんて。ああ!もう訳が分かんなくなっちまったよう・・・。」そう言って頭を抱え込んで、その場にうずくまってしまった。役人たちは顔を見合わせ、「女将、酒でも飲み過ぎて頭がおかしくなったんじゃあないのか。人騒がせな奴だ。」そう言って帰って行った。


 深夜、大川を下る一層の小舟があった。「うまくいきやしたねえ・・。」 艪を漕ぎながら新佐が言った。「お光坊、怖がらせてすまなかったなあ。ああしないと他に助ける方法がなかったんだよ。」「いいえ、ちっとも怖くなかった・・・。」「そうか、偉いぞお光坊は勇気があるなあ。ただ、悪いがお父っあんの家には戻すことは出来ない。あの博打好きが治らないとまた、お光坊が同じ目に会わないとも限らないからなあ。新吉さんと所帯をもって一生懸命働いて、暮らしが良くなったら、お父っつあんを引き取ってやれば。私が腕のいい立派な大工の棟梁に新吉さんを弟子にするよう頼んであげよう。」「おじさん、本当に何とお礼を言っていいか・・・。」「お礼なら、私にではなく、お光坊を助け出してくれと頼みに来た、お婿さんになる新吉さんに言うんだなあ。」


                                                                         
                                  
     美人女将

                                         

  ピー!ピー!とあちこちで呼子が鳴り、近くで捕り物騒ぎがあるのか、「御用だ!御用だ!待て~!」と、大勢の捕り方が走る音が路地に響いていた。手がけた事件を、控え帳に書き込んでいる新兵衛の家の入口の障子がいきなりガラッと開き、はあはあと息きを切らした一人の男が飛び込んで来ると、後手で障子を閉めて新兵衛を見つめ、こう訴えた。「あ、あっしゃあ・・やった覚えのねえ、主人殺しの罪を着せられ、追われておりやす。どうか・・どうか見逃してくだせえやし・・・。」そこへ、入口の戸を押し開き、捕り物装束に身を固めた同心らしき男が、数名の捕方を従えて押し入って来た。「米問屋近江屋の手代千吉!主人喜兵衛殺しの罪で捕縛いたす。神妙にお縄を頂戴しろ!」「あっしゃあ、旦那様を殺しちゃあいねえ!濡れ衣だ、誰かに濡れ衣をきせられたんです!本当です!全く身に覚えがねえんですって!」「この場に及んでまだしらを切るきか!問答無用ひったってい!」「いやだああ・・。私じゃあない私は何もしていない!放せ放してくだせえ・・・!」そう言いながら、その男は捕りかたに縄を打たれ、外に連れ出されて行った。

「千吉ってえのは、柳橋にある米問屋の手代で、部屋で血まみれになって死んでいる主人の傍に、血の付いた出刃を持って震えながら立っていたのを家族の通報で駆け付けた役人が捕まえて外に連れ出したところ、それを振り切って逃げだし、あんたの家に飛び込んだらしいんだ。」硅次郎はそう言って新兵衛の差し出す湯呑みを手にして続けた。「本人は、殺しちゃあいねえと言ってるらしいが、捕まった時の状況をみりゃあ、言い逃れは出来ないだろうなあ 」「千吉が、何故自分の主人を手に掛けたのか動機は?」「噂じゃあ、美人で評判の女将に横恋慕した千吉が、それに気づいた亭主に咎められカッとなって殺したんじゃあないかと。」「そんなに美人なのかい?その女将は。」「ああ、うっとりするほどのねえ。あれじゃあ千吉が惚れるのも無理はねえよ」

                                                                   
  
    不義の疑い

                                                                                    

 喪が明けて間もなく近江屋は店を開き、美人でしっかり者の女将お冴の人気もあって、元どうりの賑わいを取り戻していた。「じゃあ行ってくるから、店を頼んだよ、昼前にはかえるからね。」「はい、いってらっしゃいませ・・。」 

  「こんにちわ。ちょいとお願いが有って参りました、柳橋の米問屋近江屋のお冴と申すものでございますが、新兵衛さまはいらっしゃいますでしょうか?」澄んだ声に引き戸を開けると、三十前後のいかにも商家の女将らしい身成の整った、美しい顔立ちの女が立っていた。綺麗に結い上げた髪には品のいい簪が挿してあり、袂ににおい袋でも入れているのか、周りにほのかな香りを漂わせている。「これは、これは女将さん、遠路はるばるようお越しくださいました。むさ苦しい男所帯ではございますが、どうぞお入りになって、今お茶でも入れますので、かけて御足を休めてくださいませな。」「有難うございますどうぞ、お構いなく、いきなり押しかけて来て申し訳ございません。」「この度は、とんだことでございましたねえ、女将さんもさぞ大変だったことでしょう、お心の内お察し申し上げます。」
「有難うございます。私もあまり突然の、思いもよらぬ出来事でございましたので、もうどうしたらよいものかと慌てふためきましたが、お客様、お取引先の方々、同業者の、みな皆様に支えられたお陰をもちまして、何とか店を再開することにこぎ付けました。まことに有り難いことだと思うております。」「ところで、きょうお越しになった、御用向きとは?」「はい。他のことではございません。主人喜兵衛を殺めた罪で伝馬町に送られた私共の店の手代、千吉のことでございます。」

千吉の無実の証をしてくれと?」「ああ、あの女将の言いぐさじゃあ、やはり二人は道ならぬ恋に落ちていたことは間違いねえだろうなあ。」「お冴さんはそれを認めなすったんですかい。」新佐の問いに新兵衛は腕組みをしながら答えた。「あの女将は、人柄も出来た人で、頭も切れる。そんなことを一言でも洩らせば、千吉の罪がさらに重くなるばかりか、使用人との不義密通の疑いが掛けられ、自分の身が危うくなることぐらいは百も承知だ。それはきっぱり一切ありません、と言い切ったよ。」「へえ、別嬪の上にそんな気立てのいい女にゃあ滅多に巡り合えねえ。一度顔を拝んで見たくなりましたねえ・・。」

                                                                       
                                
      謎の通報者


 「これを私に!?」お登勢は手渡された簪に眼を輝かせながら新兵衛を見た。「ええ、少しだけお話をお聞きしたいことが御座いまして。実は私もうずいぶんと前から小間物の売り買いをさせていただいて居りますが、ある得意先のお客様から、あなたがお勤めの近江屋さんにおられました手代の千吉さんが最近お店にでてお出でにならないので、その訳を聞いて来て欲しいと頼まれまして、そのお客様は私に
とっては上得意様、断り切れずに承知してしまいましたが、近江屋さんとは一度もお取引が無かったもんで思案しておりましたら、この茶店のご亭主が、近江屋さんの女中さんで、お登勢ちゃんという可愛い娘さんが、よくお団子を食べにくると聴いたもんですから・・。そんな物しかお礼差し上げられませんが、もしご迷惑でなければお話を聞かせて頂けないでしょうか?いえ決して他の者にやあ、洩らしはいたしません。この小間物屋重吉も商い人のはしくれ、信用に掛けてお約束いたします。」

 
 「じゃあ、お登勢の話が本当だとすると、近江屋の旦那が殺された夜にゃあ、女将のお冴は組合の寄合に出かけて留守で、御店にゃあ、千吉以外にだれ一人雇われ人は居なかったっていうんですかい?」「ああ、だか役人は家族の通報で駆け付け、死んでいる主人の傍に血だらけの出刃包丁を手に立っていた千吉を見つけた、と言っている。同心の松井硅次郎の話じゃあ、その役人に通報した者は男で歳は二十七、八、そして主人が殺されたから直ぐ来てくれと言ったそうだ。」「じゃあ、その者はいってえ・・。」「誰で、なぜ近江屋の主が死んでいるのを知っていたのか。それに殺された主は腹に三か所刺し傷があったようだ。ならば刺した犯人は、夥しい返り血を浴びて居るはずが千吉の着物や身体には、一滴の血も付いてはいなかった。」「じゃあ、通報したその二十七、八の野郎が近江屋の主を殺したか、或はなにか事情を知ってるか、てえことになりますねえ。」そう言って新佐は無精ひげを撫でさすった。
                                                                                                                         

      深川芸者
  

 「ああ、だめだめ。あのお冴さんは、そりゃあ身持ちが固くて、芸は売っても身は売らぬってえ意地を通す深川芸者衆の中でも評判の姉さんで、近江屋の女将に成るまで、操を守り抜いたってえ辰巳芸者の鏡みてえな女だ。あれだけの器量よしに加えて頭も切れる、あんたがどんな大店のお方かは知りやせんが、それこそ与之助みてえに、あの女将さんを秤にかけ、それと同じ重さの小判を用意しても決して首は縦に振らないでしょうねえ・・・。」そう言いながら、開けたばかりの居酒屋の店主は、冷酒をとんと新佐の前に置くと奥の板場に入って行った。「浮いた噂は一つも無しか。」「知り合いの芸者衆の話じゃあ、お冴さんは向島辺りの百姓の出で、深川で茶店をしていた叔父に
子供がねえため養女になり、その後叔父が亡くなり店が他人の手に渡ったんで、芸の道に入ったとか。生れながらの器量よし、それに身持ちがよくて、頭も切れる。忽ち評判の売れっ子芸者になり、数多の男が言い寄って来たが誰にも靡かず、その意気地がさらに評判を呼び、さる御大名からも呼び声が掛かったこともあったんだ、と言っておりやした。」「そりゃあ大した貞女振りだ。しかし話が出来過ぎてるなあ、まるで芝居の筋書みたいじゃねえか。そこがしっくりこねえなあ。それに何故近江屋との間に子供が出来なかったのか、それも気になるところだ。あんな別嬪なら子供の二、三人は産んでもおかしくはねえはずなのに。何かあると思わねえかいい新さん。」話を黙って聞いていた新兵衛が、そう言って新佐を見た。「確かにそう言われてみりゃあ、話が出来過ぎてますねえ。もうしばらくお冴さんの身辺を洗ってみましょうか。」「お冴さんの叔父がやっていた茶店の事情を良く知る者の話も聞きたいもんだなあ。」「ようがす早速当たってみやしょう。」

 

      娘の頃
                                                                            
 「お杉さんてえのは、あの人ですよ。」老舗の料亭の台所で、釜戸に槇をくべている飯炊き婆さんを指さして、配膳を並べている仲居の女が言った。「耳が遠いから近くでしゃべらなきゃあ聴こえないよ。」「そうかい、有難うよ。おい、お杉さんとやら、ちょいと話があるんだが、いいかい?」

 「お杉さん、汁粉をすするのはいいが中の餅をのどに詰めないでおくんなさいよ。」「新佐さんでしたかねえ。この歳になると今聞いた名前さえ忘れちまうんだよ。歳は取りたくないもんだねえ。ああ、その店ならまだあたしが六十二、三の頃であの頃は元気だった。二升炊きの釜を軽々と持ち上げたもんだよ。そう言えばあの店の旦那夫婦にゃあ子供が無くて、旦那の姪だという十二、三の女の子で、ええっと、名前はなんだったっけなあ・・。」「お冴さん?」「ああ、そうだ、確かお冴とかいう名だったねえ。よく笑う可愛い子だったよ。
あたしが余りご飯で握り飯を作ってあげると、いつもありがとう!って言ってねえ。あたしがほっぺに着いたご飯粒を取ってあげたのを今でもよく覚えているよ。ほんとに優しい思いやりのあるいい子だったよ。あっ!そうそう今思い出したんだけど、その子が急に黙りこくって泣いているんで皆でどうしたんだい?何か悲しいことでもあるのかい?生れた家が恋しくて泣いてるのかい?て聴いても何にも言わないで一日中泣いていたことがあったっけ。あの日は女将さんが藪入りで実家に帰り留守だったんで、きっと旦那に何か失敗でもしてきつく
怒られたんじゃあないか、みんなで可哀想だねえって、もらい泣きしたもんだったよ・・・。」「へえ、そんなことがあったんですか。」
「ねえ、これやあ、あたしの勝手な想像なんだけどさ。ひょっとして、その子、その叔父さんとやらに手込めにされたんじゃあないのかい?」「でも相手はまだ十二、三の子供だぜ!?」「何言ってんだい、十二ともなりゃあ月のものだってあるし身体はもう立派な女だよ。」「しかし、その・・。」「あんたはまともな男で分かんないかも知れないけれど、あたしがお座敷に上がってた頃は、まだ若い年端のいかない娘だけご執心な男を沢山みてる。男ってなあ見かけによらないもんさね。そのお冴ちゃんの叔父ってえのもわかりゃあしないよ。」行きつけの居酒屋末広の女将お浜はそう言ってのけた。「じゃあ、もしそうなったとして、その子、つまりお冴ちゃんが、一生男を受け付けなくなるってえこともあるのかい?あっしゃあ男だから、その辺のことはぴんとこねえんだが・・。」新佐の問い掛けにお浜は俯いてしばらく答えなかったが、一息つくと「それやあ、あるかも知れない。」そして最後にこう付け加えた「あたしも、そうだったから・・。」お浜さんおめえ・・・。」 ことばを失った新佐の顔を見つめながら、お浜はゆっくりと頷いた。

                                                                                                        
    妹思い

「お冴、お冴・・・どっかで聞いた様な名だねえ。」百姓の男は畑を耕すのを止めて、鍬に凭れてしばらく考え込んでいたが、「お~い!弥七!ちょいとこっちにきてくれねえか~!」そう言って、隣の畑の男に呼びかけた。「何だい?政やん。」「こちらさんが、このあたりの村で昔、お父っつあんの兄弟に貰われて行った。お冴ってえ当時十一か十二、三才くらいの女の子の事を、訪ねてなさるが、あんた知らねえかい?」「ああ、それならほら、田平んちのとなりにあった、文佐衛門とこだよ。ほら今はねえが、軒に大きな柿の木があってさ。子供の頃よく黙って柿を取ってあそこの親爺に怒られたじゃあねえか。」「ああ、ああ思い出した。そう言えばあの家には、男の子とちっちゃな可愛い女の子が居たっけ。あの妹が確かお冴ちゃんだったよな。」「ああ、笑うとほら、ここんとこに可愛いえくぼができてさあ~。あの子が貰われていったなあ、確か冬の寒い日だった気がするんだけど。」「あの年に母親がはやり病で亡くなって、それで親戚に養女に出されたんだよ。」「ああ、そう言えば、そんなことがあったっけ、もう十年以上も昔の話だねえ・・・。」「その、お冴さんの残された男兄弟は、その後どうなったんです?」「文左衛門さんは、跡取りにと思って家に置いておいたが、いつの間にか家を飛び出しちまって行方知れずさ。妹の事が心配で後を追ったんじゃあねいかと皆噂をしたっけ、なんせ妹思いのいい兄貴だったからねえ、おれも可愛い
もんだから妹の気をひこうとちょっかいだしたら、飛んできてさ。有無を言わさず、拳骨を食らったもんだよ。」「ああ、おいらもちょっとあの子と口をきいただけで、平手打ち食らった。」「へえ~。そんなに妹思いの兄さんだったんですかい・・・。」 新佐は二人の話を聴いてそう呟いた。「ところで、そのお冴ちゃんの兄貴の名は?」

「お冴に常吉か。そんなに妹思いの兄貴なら、家を出た後も叔父に貰われたお冴の傍近くにいて、いつも見守っていたに違いない。ひょっとして、近江屋の主が殺されたと役人に届けた後、姿を消した若い男ってえのは・・。」「お冴さんの兄貴の常吉だとすると、話の辻褄があいますねえ。確かその兄貴はお百姓の話だと、お冴さんの一つ上だったとか。」「しかし、もしその常吉が近江屋の主を手に掛けたとなりゃあ、やっかいだなあ。血のつながった実の兄貴 を、お白洲に引っ張ることになり、お調べ次第でお冴さんもそれに手を貸したと疑われ、兄弟そろって死罪になるやも知れぬからなあ。」新兵衛はそう言って、腕を組み考え込んだ。開け放たれた茶屋の二階には涼しい秋風がときより吹き込み、せわしない、つくつく法師の鳴き声が聞こえていた。

                                                                            
                         天井の目撃者

                                       
                                    

 「北町奉行、大岡越前之守様、ご出座~!」声とともに正面の襖があき、裃に袴姿の奉行が座に付き、白洲に控える二人の者を見据えた。「米問屋近江屋喜兵衛の女房お冴。その兄の常吉。面を上げい!」その言葉に縄を打たれた常吉と、お冴えはおもむろに頭を上げて檀上の奉行の顔を仰いだ。
「その方儀、近江喜兵衛殺害の新事実が判明したによって、再吟味致す。両名ともさよう心得よ。まず、お冴。その方主人喜兵衛が殺害された晩、同業者の寄合に出て自宅には居なかった。これに相違ないか。」「はい、さようで御座います。」「うん。さてお冴の兄、常吉。その方米問屋喜兵衛がその妻お冴、お前の実の妹に対する常軌を逸する虐待に腹を立て、喜兵衛を殺害せんと事件当日深夜に喜兵衛宅に侵入し、懐に隠し持った出刃包丁にて喜兵衛を刺殺したと自供せし旨調書にあるが、これに相違ないか。」「はい、間違いございません。
私が勝手にやったことであり、横に居ります、お冴には全く関わりなきことにございます。」「黙れ!両名とも、この越前の眼を節穴と思うてか!」「はあ!?何のことか私どもにはさっぱり・・。」「ええい!しらじらしや!そなたたちの申し開きはすべて嘘、偽りであること既に判明しておるわ!良いかよく聞けい!あの事件の晩、喜兵衛が殺害された一部始終を天井裏から見ていた者が居り、その者がこう証言したと調書にある。その者、盗っ人の新兵衛は人が少ない晩を選んで米問屋近江屋に金銭を盗まんと侵入。天井裏に潜み様子を窺って
いたところ、寄合が早く開けて帰り付いていたお冴えが、合図の石つぶてが庭の池に投げ込まれた音に気付き、裏口の戸を開けて実の兄、常吉を自室に招き入れ懇談していたところに、間男と情をかわしていると勘違いした喜兵衛が出刃包丁を持って乱入、常吉と争いとなり、両者が激しくもみ合ううちに酒に酔っていた喜兵衛が足を滑らせ転倒。そのはずみで出刃で自らの腹部を刺し貫き絶命したのを目撃した、とある。これが、米問屋主人喜兵衛殺害事件の真相でありることは明白で、もはや疑いの余地はない。よって当奉行所は次の判決を下す。
近江屋の手代千吉は無罪放免。お冴の兄、常吉は偽証により一月の江戸処払い、お冴はこの件に一切関わりなしによって咎なしとする。直、この件に関してのこれ以上の訴え及び詮議は一切無用。この一件これにて、落着! 

 次の罪人を引き出せい!」      
                                                                                

 「よく、あのお奉行様が、すんなり言うことをお聞きなさいましたねえ。」「なあに、あのお方は、わしに借りはないが、わしが今仕える雇い主に借りがあるらしい。聴くところによると幕閣の一人に取り立てられ、今の地位に着けたのも、そのお人の計らいによるものらしい。」「で、そんなに偉えお人ってえのは、一体何処の、誰なんです?」新佐の問いに、新兵衛は笑いながらこう答えた。「なあに、普段は、ある吉原の花魁にぞっこんで、釣りが何よりも好きな、唯の飲ん兵衛さんだよう。」


                                                                                 
                               起請文
 

「じゃあ、新兵衛さん宜しくおねがいしますよ。じゃあ・・・。」そう言って、白髪頭の上総屋の主人は、杖に縋りながらよろよろと帰って行った。その後姿を見送りながら新兵衛は呟いた。「佃煮屋の幸吉か。あんな年老いた親に気苦労をさせるたあ、親不孝な野郎だなあ。」

「な。花魁、ほら欲しがってた三味線だ!そんじょそこらの安物たあ訳が違わあな。ほらみて見な、この棹の艶、象牙の特上の撥、なあすげえだろう?」「ほんに、わちきが夢にみたのとおんなじでありんすわいなあ。うれしゅうござんす、幸吉さん。でもこんな立派な三味線なら、包む袋もいりやんす。」「あ!そうか、そうだな。ようし今度くるときゃあ、金襴緞子で拵えた吉原一の袋を買って来てやろう!」「ほんとうでありんすか!?嬉しい・・。そんな事言って実は、他の女に浮気をしていて、わちきをごまかすためにこんな品物をもってきているのでは?もしそんならこの夕影は咽喉をきって、死ぬでありんすわいなあ。」「そんなんじゃあ、ねえって。俺がお前にぞっこんなのはわかってるだろう?おまえこそ、俺にあいそをつかし、他の男になびきやあしないかと夜も寝られやあしないんだ。」「この前渡した起請文に、幸吉こそわが命と書いたわちきの本心を疑うと?」「いやあ、そういうわけじゃあねえんだよ。ただ・・その。」「何でありんす?」「おめえを身請けするにゃあ大枚五十両てえ金がいるんでえ。何とか借金してでも都合をつけるから、もう少しだけ待ってくれ。」「早くしてくれないと、わちきはあの嫌いな、身体に触れられただけで鳥肌が立つ、金貸家の辰巳屋の大旦那に身請けされてしまうでありんす。」「分かってる、分かってるって、ようし!じゃあこの月中に金を持ってくるからよう。なんとかうまく引き伸ばしてくれよ。」
「ほんとでありんすか!?嬉しいこの夕影は、誰のものでもない。未来永劫、幸吉さんだけのものでありんすわいなあ・・。」「夕影・・・。」

 
 「ちょっと、お兄いさん。急いでるんで一緒に乗っけてもらうぜ。」そう言って、帰りの幸吉のちょき船にやくざ風の男2人が乗り込んできた。断ろうと思ったが頬の深い傷跡と、まくり上げた両腕の般若と蛇の絡み合った刺青を見て怖くなり、頷いてしまった。出来るだけ関わり合いになってはと、幸吉は黙って遠慮がちに座っていると、二人が話し出した。「おう、しかし、あの夕影てえ花魁は俺があの店に、岡場所で夜鷹をして居たのをつれてきた女だが、見っけもんだったなあ。」「ええ、兄貴が連れて来てから、まだ、半年もたっちゃあいねえのに花魁までのし上がり、店の亭主も稼ぎがいいんで大喜びでさあ。」「そうともよ。起請文を何十人という色ぼけの男どもに渡しているのによう。自分だけにくれたと信じ込んでるんだから、あきれてものがいえねえや。」「この頃は佃煮屋の幸吉とかいう馬鹿野郎が熱を上げて、もう少しでまとまった金を持ってくると言ったらしいですぜ。」「馬鹿な野郎だ、騙されてるとも知らずによう、そのうちに佃煮屋の身代まで貢上げ、気が付いて首でも吊ってくたばるのが落ちだあな。」「もし、夕影が本気であの幸吉に靡くようなら、どうしやす?」「この前の、材木問屋の馬鹿息子同様、ぶち殺して簀巻きにし大石を付けて、大川に放り込んじまやあいいのよ。大事じな金ずるの夕影を手放すわけにゃあいかねえからなあ。」「しかしそれに付けても、その佃煮屋の幸吉とかいう助兵衛野郎、今頃は何にも知らずに、いい夢でも見てるんでしょうねえ。馬鹿なやろうだ、はははははは・・。野郎がもし金を持ってこない日にゃあどうしやす?」「なあに、佃煮屋の店に押しかけて、俺の女に手をだしゃあがって、ただじゃあおかねえぞ!と脅しゃあ、いちころよ。」「違いねえ。ははははは・・・ははは・・・。」

「新兵衛さん、あれから息子の吉原通いが、ぷつっと止んで、まるで人が変わったように商いに精を出すようになって、家内とともにびっくりするやら、嬉しやらで、一体どんな手を使って息子を覚らせたんです?」「まあそんなことはともかく、幸吉さんにどこかの商家からでも、いいお嫁さんをお貰いになって身を固めさせてあげたら、きっと本人も落ち着き、三代目の可愛いお孫さんが出来るのでは?」「いやあ実はもうそのお話が・・・。」

                                                                            

                              湯治場の客  


 湯煙の露天風呂で、二人の男が小声で話し込んでいる。「・・・そんなに!?それじゃあ、ざっと見積もって元手の百両が三百両に!。」「しっ!田島屋さん。お声が大きすぎますよ・・。もしお上の耳にでも入ったら。」「ああ、そうだった・・。しかし、そんなに儲かるなら私も一口乗せてくださいな。」「一口と言わずに長い付き合いの辻屋さんのことだ。何口でも、お世話しますよ。こんなご時世だ、こんな儲け口は滅多にありませんからなあ。」「その通り、その通りふっふっふっふ・・・。」「はっはっはっは・・。」その時、ばちゃっと湯の音がして一人の年老いた男が傍に近寄って来たので、二人は慌てて、口を閉じた。「へっへっへっへ・・・。今の話、ほんとうですか?」「何のことだい?私たちは何も・・・。」「心配なさらなくても結構、わたしゃあ、お役人とはなんの縁もゆかりもない、もんですよ。あんたがたと同じ、金もうけが飯よりも好きな人間、いわばあなた方と同類だ。仲間に入れてくださいな。」「しかし、あんたとはただの湯治場であった見知らぬお人、そう言われても、ねえ田島屋さん。」「ああ、そうとも。」「こりゃあ、申し遅れました。わたしゃあ、猿若町の近くで金貸し業を四十年近くもやっている、辰巳屋八兵衛、又の名を仏の八兵衛という年寄でございます。」「ああ、そう言えば聞いたことがある。容赦ない取り立てで尻の毛まで抜き取るという尻毛の八兵衛、と噂されているお人はおまえさんかい?」「人聞きの悪いことは言わないでくださいよ!そんな噂は、払い癖の悪いお客の誰かがたてた、根も葉も唯の噂ですよ。困った人にお金を貸して、世の中の人に喜んで頂く立派な仕事に精を出して、何が悪いか聞きたいもんだねえ。そんなことは、どうでもいいんだ。さっきの、百両の元手が三倍になって返ってきたってえ話、もっと聞かせてくださいな。」

 「でも、そんなご禁制の抜け荷なんぞに手を貸しちゃあ、島送りになるか或はこの首が飛んじまうんじゃあないかね。」「ね。だから部外者にゃあ無理だって最初から言ってるのに、あんたが話に割り込んできたんじゃあないか、ねえ、田島屋さん。」「ああ、わたしたちゃあ、ただお金を、ある人に預けるだけで何かあっても、その連中が捕まるだけで、わたしたちにまで害が及ばないといくら説明してもだめなんだ。あんたの金貸し業もふつうの商いよりは暴利をむさぼれるんだ。まあせいぜい、それに精をだすんだねえ。さ、辻屋さん夜も更けたし、そろそろ部屋に戻って休むとしますか。」「そうですね。ああ、無駄な時間を過ごしてしまったなあ。せっかくの儲け話を、けち臭い金貸し連中は、我々大店を切り回すものに比べちゃあ、度胸も裁量も無いことがようく分かった。さあ部屋にもどって、次の取引の話でもしますか。」「ああ、それがいい、それがいい・・。」「ちょ、ちょっと待っておくれ。でも五百両は多すぎる、もうすこし少ない額なら何とか用立てることができるんだが・・。」「又、その話しかい?何度も言ってるように、相手の連中は、それこそ命懸けで取引してるんだ。初めての者が加わるには、それぐらいの金が有ると見せなきゃあ信用できないのさ。まあ、あんたにゃあ無理だねそんな、唯の五百両くらいで顔色を変えるようじゃ。縁が無かったと諦めるんだねえ。」「さ、あたしたちゃあ、忙しいんだ、あしたはもう江戸に戻らなきゃあ、これで失礼するよ。」「分かった、わかったよ。そうまでこけにされちゃあ、物笑いの種になっちまう。私だって商人の端くれだ。ようし、腹を括って五百両耳を揃えて用意しようじゃあないか。何時、何処に持っていけばいいんだ。言ってもらおうじゃあないか!」「そんな事言って、一夜明けて江戸に戻った日にゃあ、またおじけづいて、尻毛の八兵衛が尻割りの八兵衛になるんじゃあないのかい?」「ば、馬鹿にするな!馬鹿にするんじゃあないよ・・。私も仏の八兵衛と言われた男だ。たかが五百両そこらで、おじけづいたりするもんか!さ、言ってもらおう。いつ何処に届けりゃあいいんだ!?」

「どうも、ありがとうございます。これを元手に、又商いを始めることが出来ます。なんとお礼を申し上げてよいやら。それにあの辰巳屋の八兵衛は昨日、首を吊って死んだとか、これであいつに苦しめられて大川に身を投げて死んだ両親も、・・・きっと浮かばれることでしょう。」「ああ、よかったですねえお嬢さん、ご両親はあなたを、道連れにせずに良かったと、きっと草葉の陰でお喜びなさっておられますよ。」 新兵衛は、そういって新佐と目を合わせて頷いた。「あっ、お嬢さん、せっかくの元手を誰かに奪われちゃあ大変だ、あっしが家までお送りしやしょう。」そういって、新佐は娘の後を追った。「野郎、若い娘となると、眼の色を変えやがって、しようのないやろうだぜ・・・。」 秋風に乗って、祭囃子が聞こえてくる、晴れた日の午後であった。

                                                                        

                                襲撃者                                 


 「どうやら、撒いたようだな・・。」「ええ、両側の岸にも屋根の上にも、人影は見当たりません。町医者の善庵先生の家はもう一丁ほど先ですが、傷の具合は如何ですか?」「ああ、左肩に奴らの手裏剣を受けたのだ。かすり傷だが、この痺れ方は毒が塗られていたらしい・・。」「じゃあ、急がないと少し揺れますが 我慢しておくんなさい。」新佐は、足元の莚の中に横たわる新兵衛にそう声を掛けて、艪を速めた。― あの動きは、伊賀でも甲賀でもない。ひょっとすると風魔か。しかし小太郎はすでに忍者狩りに会い、この世にはいないはずだが・・・。― 新三の背中で遠のく意識を感じながら新兵衛は、先ほどの襲撃者たちの素性を考えあぐねていた。

「気が付いたかい?」眼を開けると、町医者らしき総髪を束ねた五十過ぎくらいに見える男が、新兵衛の顔を覗き込んでいた。起き上がろうとすると、「いけねえよ。起きても足がふらついて動けやしないよ。この物騒な品物に塗られていた毒は、あんたの症状 からしてトリカブトのようだな。」「あんたが、善庵先生?」「ああ、新佐さんとは、古い付き合いでね。あの人が危ない仕事をしてきて怪我をするたび、俺の家に転がり込んできたのさ。他にもやばい連中のお抱え医者で食ってるのよ。ただ、あんたは少々毛色が違うようだが・・。」そう言って、善庵は薬湯の茶碗を持つと「こいつを飲みな、そんじょそこらじゃあ手に入らねえ南蛮渡りの薬だあな。眠くなるが二、三日すりゃあ、帰れるだろう。心配えはいらないよ。ここには怪我人や、病人以外は誰も来ねえよ。」「ああ、それからしばらくの間、あんたの部屋の軒のたれ札は、外しておくからと、新佐さんが言ってたぜ。じゃあ、俺は下に患者が待ってるんでね・・。」そう言って善庵は階段を下りて行った。枕元に置かれた十字型の手裏剣を手に取り、臭いを嗅いだ新兵衛の眼の色が変わり、もう一度嗅いでみてこう呟いた。「この匂いは女の・・・さてはあの中に、くの一が居たのか。」それは、人並み外れた臭覚を持つ、新兵衛にこそ判別できる微かな香りであった。

                                                                              
  
                                   よぎる面影

 
 「このおいらを狙うならともかく、兵さんを狙うとはどういう了見だい?」「皆目見当が。」「付かねえってえのかい。」「はっ。」主の釣り餌を付け替え乍ら新兵衛が答えた。「ただお前さんは、このおいらに雇われる前にゃあ、数多くの人の下で動いてる。そんな中で知らねえうちに恨みをかってるかもな。」そう言われてみれば、今まで生きてきた中で、命のやり取りや、様々な策謀を用いて人や組織、中には藩までも窮地に追い込んだりしたことも無いわけではなかった。「それに、おいらに比べて兵さんの氏素性、特に女に関しちゃあ一言もしゃべらねえあんたにも、ひとつやふたつくれえ色恋ざたもあったんじゃあねえのかい?」「・・・・。」「ほら、その顔。その俯いて黙りこくってるあんたの心の内を覗いて、映っている女の顔を一度でいいから見てみてえもんだなあ・・・。おっとっと!来やがったこいつああ大物だぜ。兵さん!ほら、ぼうっとしてねえで、網、網!早くしねえと逃げられちまうじゃあねいか!」


― 「なぜ父を!えい!えい!えい!」「待ってくれ!お嬢さん!これにはわけが!」「そんなわけなど聞きとうはない!父を手に掛けんがために私に近付いたくせに!」「違う!それは違う!郁江さん、私は心からあなたを・・。」「この場に及んで、まだそんな言いぐさを!許せぬ!えい!えい!」  ― 

「随分探したぞ猿蔵・・。」耳元で囁く声に眼を覚ますと、黒ずくめの頭巾を被った鋭い眼が覗き込んでいる。驚いて起き上がろうとすると「おっと、動くんじゃあねえ、ちょっとでも動いたら、おめえの首に熊の罠が食い込みあの世行きだぜ。」「おめえは誰だ。どうして俺をこんな目に・・。」「俺を忘れたか。」そう言って男は頭巾を脱いだ。「おめえは、しん、新兵衛!」「目明しの文吉に化けたたあ、考えたもんだな。奉行所の動きは手に取るように分かり、商売の泥棒稼業もやりやすいだろうからなあ。」「俺に一体、何の用だ。」「あの時、俺をはめたのは誰の差し金だ。答えて貰おうか。」「俺にゃあ何の事だかさっぱり分からねえや・・。」「そうかい。そりゃあ残念だなあ。」そう言って立ち上がると、新兵衛は罠を首にはめられ、いつの間にか両手両足を縛られていて動けない文吉の布団の周りに油を撒きはじめた。「可哀想に。猿蔵、いや目明しの文吉か、せっかくあの修羅場を潜り抜けたのに、まだ三十そこそこの若さで今度は火事に会い焼け死ぬとはなあ・・。」そう言って行燈に灯をともすと、それを傾けひっくり返そうと手を掛けた。「待ってくれ!分かったよ、知ってるこたあ何でも話すから、殺さねえでくれ!俺にゃあ言い交わした女が居るんでえ。命だけは助けてくれよ、頼むよ、新兵衛さん。」「ほう、どうやら真面に話す気になったらしいな。」       
                                                                                  
                                                                                     
                                  
                                    遺恨   
 
                                      
 病いに倒れ、間もなく死を迎えんとする老藩主の後継者争いに乗じて、藩を取り潰そうと機会を伺っていた幕閣の命令を受け、その地に潜入していた新兵衛は、藩の重鎮の一人が、戦国時代から領地内に屋敷を与えられ、近隣の諸藩の情勢を探るのをその生業としていた或る忍びの一族に、次期藩主の有力候補たる藩主元永の嫡男、秀之助の暗殺を依頼している事実を掴んだ。しかし同時に、首尾よく使命を果たした後にこの一族を、幕府の干渉を退けんがため、口封じに内密に葬り去ろうとする計画があることも掴んでいた。行き倒れの旅人を演じて、首尾よく屋敷内に取入り、この地を離れたことのない宗家の美しい一人娘の郁江に近付き、江戸の話を面白可笑しく話すなどしているうちに、お互いの若さ故か、新兵衛はいつの間にか、この娘と情を通じる仲になってしまっていた。しかしさすがの新兵衛も、策略に長けた反秀之助派の中心人物、国家老の立原道玄の息の掛かった者が、屋敷内に居ることまでは予測できなかったのである。その者達とは、後継ぎの男子に恵まれなかった宗家が、他家から養子に迎えていた芳太郎とその従者、猿蔵だった。この宗家の後を継ぎ、美しい郁江を妻に迎えんとしていた芳太郎にとって、何処の馬の骨ともわからぬ行きづりの男に、次第に心を奪われていく郁江の姿を見るのは、耐えられない屈辱であった。これを道弦が見逃すはずはなかった。芳太郎に、宗家を殺害して、その罪を行きずりのその男に着せれば、一族の統領の座も、美しいその娘の身も心も、同時に手に入れることが出来る、と持ちかけたのである。今まで、自分に眼を掛けてくれていた宗家さえも、娘可愛さのせいか、次第に自分に冷たい素振りを見せるのも気に入らなかった芳太郎は、遂に道弦の要望を受け入れた。或る夜に、宗家の部屋を訪れ、いつものように肩を揉みましょうと言って油断させ、後の床の間に掛かっている刀を抜いて、首を斬りつけ殺害。そして、郁江の部屋で話し込んでいる新兵衛に、「宗家が部屋に一人で来いと呼んでいる。」と声を掛け、新兵衛が部屋に向かったのを確めると、渡されていた呼子を二度吹いた。それを合図に、裏と表門から同時に数十名の槍、弓矢で武装した藩士たちが屋敷内に雪崩れ込み、それを率いる馬上の道弦の声が、辺りに高々と響いた。「藩主御嫡男、秀之助君を暗殺せし謀反人共め!構わぬ一人残らず斬り捨てい!」 その声に慌てて父の部屋に駆け込んだ郁江の目に、信じられない光景が移っていた。父が無残にも首を斬られ死んでおり、その傍らに、血刀を持った新兵衛が茫然と立ち尽くしていたのである。
一瞬のうち何事とが起こったのかを覚った郁江は、咄嗟に胸の懐剣を引き抜くと、「なぜ父を・・。えい!えい!」と悲壮な表情に涙を浮かべながら、死に物狂いで新兵衛に切り掛かって来た。「待ってくれ!お嬢さんこれにはわけが・・。」「そんなわけなど聞きとうはない!父を手に掛けんがため、私に近づいたくせに!」「違う!それは違う!私は心からあなたを・・・。」「この場に及んでまだそんな言いぐさを・・。許せぬ。えい!えい!えい!」 ― この修羅場を切り抜けるには、女連れは無理だな ― 新兵衛は、郁江に当身を打って気を失わせ、畳を上げて床下に隠すと再び畳を閉じ、ふわりと舞い上がると、天井板の裏に消えた。  道弦一派の、その後の必死の捜索にもかかわらず、宗家の娘と行きずりの男おそらくは幕府の隠密、それに隙を見て馬小屋につながれていた馬に飛び乗り、逃げおおせた芳太郎の従者一人の行方は、妖として知れなかったのである。                                                         
                                                                             

                            見せ物小屋

                                    
                      

善介長屋の新兵衛の部屋に久しぶりに灯りがともり、主人が二か月ぶりに戻ったことを示していた。「奴ら、又来ますかねえ。」「ああ、私が生きていると知ったら、又現れるさ。」「ここに居ちゃあ、殺されるのを待ってるようなもんだ。何処かに身を隠した方がいいんじゃあないですかい?」新佐が心配そうに言った。「奴らの尻尾を掴むには、おびき寄せるしか手が無いんだ。まあ見てな。」 長屋の片隅でコオロギが鳴いている。その声がふと止んだと同時に入口の障子を破って黒い物が飛び込んできた。ドカーン!と辺りに耳を劈く音がして、新兵衛の入り口の戸が家財道具の破片とともに吹き飛ばされ、辺り一面に煙硝の強い臭いがする白煙が立ち込めた。「何だい!?どうしたんだい今の大きな音は・・。」驚いて飛び出してきた長屋の住人は、粉々に吹き飛んだ新兵衛の部屋を茫然と眺めていた。閉められた
木戸の外から集まって来た野次馬たちの一人が、急いでその場を離れ足早に走り去って行った。それを屋根伝いにましらのように後を追う黒い影が居るのに気付かず、その男は川辺の小舟に飛び乗ると、堀から大川に出て両国橋のたもとに漕ぎ寄せ、火除け地にある見世物小屋の莚の入り口に消えた。「唐人芸の見世物小屋か、なるほど・・。」新兵衛はそう呟くともと来た道へと引っ返して行った。


                             
                                      従者の告白 


「 さあさあ、通行中の皆さん!これ見て行かないと後悔するアルよ。くるくるまわる綺麗な娘さんに向かって手裏剣が雨の如く降り注ぐ!もし娘さんに当たったら、大変なことになるアルよ・・・。昨日までは助かってたけど、さあ今日の娘さんの運命は!?さあさあ、はいって観なきゃあ損アルよ~!!。」賑やかな橋のたもとで、口髭を生やし、一本のお下げ髪を肩に垂らした唐人が大声で客寄せをしていた。
 一日の興行を終え、疲れ切って寝入っている唐人服の娘の肩をゆする者が居た。目を開けると男が顔を覗きこんでいた。驚いて声を出そうとすると、「しっ!静かに・・。」そう言って男は、娘の口を塞いだ。「お嬢様、私です・・・。猿蔵です。お忘れでしたか?」「おまえは・・猿蔵!?どうして此処に、なぜ私だとわかったの!?」 郁江は驚いて、かつて自分に仕えていた男の顔を見つめた。「あの夜、運よく、騒ぐ馬の様子を見に行ってたところだったので、隙を見て馬で逃げて山に隠れ、難を逃れたのです。お嬢様はどうして江戸に?」「私が気が付くと、家の床下に倒れていました。襲った者達が居なくなったのを確め、夜に屋敷を抜け出して隣村の乳母の家にしばらく居り、後に村人の伊勢参りの講に加わり、江戸に入りましたが、着くなり旅の疲れか病に罹り、この橋のたもとで行き倒れとなっている処を、この一座の人々に助けられたのです。そして猿蔵。遂に私を欺き、父を手に掛けた憎っくき新兵衛を、見つけました!湯島の天神様に親の仇に廻り合わせ給え、と願を掛けた帰り道、天神様のご利益か偶然通りかかった長屋の軒先に、萬屋新兵衛と書かれた下がり札を見つけ、もしやと思い、もの蔭から除いていると出てきた者の顔が、探し求めていた仇、あの新兵衛だったのですよ、猿蔵、あ奴はお前にとっても主人の仇。ともに力を合わせて、打ち取りましょうぞ!」「お嬢様・・。驚かないでくださいませ。実はあなたの御父上を手に掛けたのは新兵衛殿ではなく、別の人物だったのです。」「何を馬鹿なことを言ってるの!?私はこの目で、父を殺して、血刀を手にしている新兵衛をはっきりと見たのですよ!」「いいえ、お嬢様は、血刀を手にしている新兵衛殿を見ただけで、殺すところは見ておりませぬ。」「何と・・。それでは、あの時父を手に掛けたのは一体誰だと!?」「私の主人、御父上の御養子、芳太郎様です。」「何!芳太郎様が?何故、芳太郎さまが父上を。わけを、わけ申せ!」
                                                                     「で、兵さん。その娘を何処に隠したんだい?心配はいらねえよ。おいらは、世話になってるあんたの女にまで、ちょっかいを出すほど、野暮じゃあねえよ。その女と祝言をあげるときにゃあ、おいらも忘れねえで呼んでくんな。」「は。」「何でえ、その気のねえ返事は・・分かったよ。遠慮しとくよ。」「はい!」

「さあさあ、長屋の皆さん!新兵衛さんと郁江さんはたった今、晴れて夫婦と成られた。いやあ実に目出度い!今夜はこの大家の驕りだ。料理は千代膳、酒は灘の生一本。心ゆくまで、食べて飲んで歌おうじゃあないか!さあ遠慮なくやってくれ!」 久しぶりの祝い事に善介長屋の秋の夜は、賑やかな笑い声と供に、ゆっくりと更けていった。

                                                                           

                                    夜泣き神輿


 「あっしゃあ、もう気味が悪くって、あの声聴いた時にゃあ、おっかなびっくりで腰が抜けて、どうやって家に逃げ帰ったかも覚えちゃあおりませんでした。新兵衛さん、祭まであと半月あまり、このままじゃあ祟りを恐れて皆怖がって神輿に近づこうともしやせん。どうしたらいいんでしょうねえ。」祭りの世話役の長吉はそういって困り果てた顔で新兵衛を見た。「実を言うと、うちの町内は貧乏人住いが多く、去年の祭りの折にうちの神輿が隣町の神輿と勢いの余りぶつかって壊れちまったんだが、修繕する金が集まらねえ。困っていた矢先に、ぶつかった隣町の世話人から、川向こうの町内が新しく神輿を拵え、古い神輿の譲り先を探しているってえ、話を聞いたもんだから言ってみると、確かに古いが、まだ組のしっかりした立派な神輿がありやしてね。こちらの事情を話すと、そりゃあ、気の毒だ良かったら寄付が集まり新調が出来るまでの間、この神輿を使ってくれと言ってくれやしてね、それは有り難てえと、皆でうちの町内まで運び、小屋に納めておきやした。そして、夕べのこと一年ぶりに小屋の入り口を開けた途端に、あの声がしたんですよ。まるで地の底から響くような低い大きな声で、あっしに向かってこう言ったんですよ。― 「返せ~、返せ~元の小屋へ、返せ~」― って何度も何度も、恨みに満ちたような声でね。ああ、くわばらくわばら!今、思い出しただけでもぞっとすらあ・・・。」 そう言って長吉は身体をぶるぶる震わせた。「なるほど、夜泣き神輿か。それやあ驚かれたことでしょう。しかし世話役さん、その借りた神輿がそんなに傷んでないなら、それを使えばいいものを、どうして川向こうのその町は新しいのを拵えたんです?」「そりゃあ、新兵衛さん江戸っ子のみえってえもんですよ。隣り町が新しい神輿を作ったんなら、ようし!こちとらも隣町よりもっと立派な神輿を作ってやろうじゃあねいかと、ね。」「でも立派な神輿を作るにゃあ、相当費用が掛かるでしょう。」「そこです。あの町内じゃあねえ、八幡神社で富くじをだしたんですよ。富くじを売り出して集めた銭を使って神輿を新調したらしいですよ。」「へえ~、そりゃあいい考えだ。でも当たった人にゃあ賞金をださなくちゃあいけませんよねえ。」「ところがどっこい。どういうわけか、当たり番号を神社の開き戸に張り出してから、もう一月余りも経つというのに、未だに当選者が金を受け取りに来ないんだそうですよ。」「へえ?もったいない話ですねえ・・・。でもそのお陰で、集めたお金は全部神輿の代金に注ぎ込める。」「確かに、でもまさか!最初からそのつもりでやったんじゃあ・・。」「さあ、そのあたりから調べてみることにいたしましょう。」
                                                                                    

                                      神輿職人
                                                                                 

 「ここですよ。ちょっと待っておくんなさい今扉を開けますから・・。」新兵衛ともう一人の男を案内してきた長吉は、そう言って神輿を収めている祠の古い木戸の錠を外し、左右にを開いた。「じゃあ、栄蔵さん。お願いしますよ。」「へい!じゃあ、ちょっと御免なすって・・。」神輿職人の栄蔵はそう言って草履を脱いで、板間に置かれた神輿を調べ始めた。」「こりゃあ彫り物といい、組み方といいなかなかの出来だ。熟練の腕のいい職人の手によるものですねえ。」「中を見られますか?」「へえ、ちょっと待っておくんなさい。この台は少なくとも出来てから7,8年は経ってる。丁寧に外さないといけやせんので・・。神輿は釘を一本も使わず、すべて填め込み細工で出来ているんですよ。」重い屋根の部分を三人がかりで取り外し、次第に骨組みを外して行って、最後の底板まで開けてみたが、中には何も入ってはいなかった。「何にも有りやせんねえ。彫り物や組木、飾り細工も特別に変わった様子はありやせんでした。」「ああ、栄蔵さん、お手間を掛けましたねえ。ご苦労様でした。これは少ないが手間賃、納めてくださいな。」「これやあどうも、お役に立ちませんで、あいすいやせんでした。」そう言って神輿職人は返って行った。「長吉さん、この祠は去年閉めてから、昨夜開けるまでの間は誰一人入ったものは居りませんか?」「へえ、そうですとも。祭りのとき以外はこんな場所に用が有るものなぞ、おりやせんからねえ。」「ああ確かに。でも昨夜あなたが聴いた声がこの神輿を元に戻せと言ったのなら、きっと何か理由があるはず。ひとつ解ったことは、この神輿そのものには問題は見当たらないということです。川向こうの連中は真新しい神輿があるのだから、この神輿はいらないでしょう。この神輿の中に何か値打ちの或るものが隠されてもいなかった。だからこの神輿そのものが欲しがる者もいない、とすると考えられるのは、この場所にこの神輿が有れば困る者の仕業だと考えれば辻褄が合うんじゃあないでしょうか?」「なるほど。でもこんな場所で一体この神輿が、何の邪魔になると言うんでしょうかねえ?」「問題はそこですよ。先ほどのあなたの話によると、この祠には一年あまりの間人っ子一人入りはしなかった。でもよく見てください。床も周りの棚も、埃が溜ってないばかりか、まるで時々掃除されたように綺麗だと思いませんか。最初の入った職人さんの足跡さえ付いていない。」「あっ、そう言われてみれば、家財道具は見当たらねえが、誰かが最近まで住んで居たかのように、いやにこざっぱりしてますねえ。でも入口にゃあ錠が掛かってるのに、どうやって出入りを。」「いいところに気が付かれました。そんな事が得意な連中といやあ。」「盗っ人ぐれえのもんだ・・・。えっ!ま、まさか新兵衛さん。ここが、その、盗っ人連中の巣だとでも言うんですかい?」「盗っ人の仕業ならば、こんな錠前を開けることなぞ造作もないが、盗品を隠す場所なら毎年開かれる神輿小屋じゃあ都合が悪いでしょう。それに周りを掃除する必要もない。」「あっしにゃあ、チンプンカンプンでさっぱり見当がつきませんや。」「今日は下見ということで、もう閉めてかえりましょうか。」


                                    世間話


 「三日の間、寝ずの番をしてみましたが、だあれも出入りする物はいやせんでした。」新佐はそう言って、蕎麦をすすった。「ならば、ひょっとすると床下の穴から出入りをしているのかも知れぬ。それにあの祠のこじんまりさには、なんとなく女の気配を感じるな。」「女の気配?」「ああ、昔から男やもめにやあ、蛆が湧くって言うが、女ってえのは子育てをするせいか、母燕が巣の中を掃除するように周りを綺麗にしねえと気がすまぬらしい。それに盗っ人の女がそんな事をするとは想えぬ。」「確かに女は綺麗好きだ。じゃあ盗っ人連中じゃあないとすると、いってえ誰が何の為に・・・。」「もしもあの祠に通じる穴が掘られていたとしたら、厄介なことになるやもしれぬなあ。」新兵衛たちの横で、大盛りの蕎麦をたいらげた大工らしき男らが、爪楊枝を使いながらこう話していた。「今年の花火や、派手にやるそうだぜ。去年は生憎雨が降りだしさんざんだったがよう・・。」「それやあ楽しみだ、ガキが喜ぶぜ。たしかこの月の十五日だったっけ。今日は七日か待ちどうしいなあ・・・。あっ!それで思い出したが、俺の知り合いの花火職人から聞いた話しなんだけどよう。先月、蔵に一年かかって造り貯めしていた花火が、ごっそりと盗まれたそうだぜ、それも大玉ばかりだってよう。そんな危ないもの盗んでいってえどうするつもりなんだろう、ほら何年か前に花火蔵が爆発して、えれえことになったことがあっただろう?」「ああそうそう、あのときゃあ俺んちの床までものすごい地響きがして、眼の玉が飛出るほど驚いたっけ。」その話を聞いていた新兵衛の顔色が変わった。そして、蕎麦代を膳の上に放り投げると、あっけにとられる新佐には目もくれず、脱兎の如く通りに飛び出していった。「あの、あわてようは、唯事じゃあねえなあ。親爺ここに置いとくよ!」「へい、毎度あり。」

                                                                                        
                                                                               
 「そりゃあ、いくら兵さんの頼みでも無理だなあ。日光詣では歴代の将軍職の御決り行事だ。簡単には取りやめられねえ。」「そこを何とか、例えばお身体の調子を崩されたとか、何とか理由を付けて、でないと上様の御命に係わる重大事が起きる恐れがございます故に。」「もし、取りやめたとしてもその連中は又狙うだろうし、もし、その企みが天下に知られでもしたら幕府の権威は失墜し、泰平の世は揺らぎ乱れるやもしれぬ。その企てを誰にも知られることなく未然に防ぎ、民の心を安んず事こそ、兵さん、あんたの仕事じゃあ、ねえのかい?」「・・・・。」「兵さん、あんたを、頼りにしてるんだぜ。この世の中の、誰よりもよう・・。頼まれた件だが、此処十数年の間に取り潰された藩で、主の娘として生まれた女は五人、その中で病死が二人、他家に嫁いだ者は一人、養女に貰われたものが一人、後の一人は行方不明だそうだ。」「その、行方が分からなくなっている姫君の名は、何と申される。」


                                       二つの事件

                                                                              
 「何処で、それを?確かにここ四、五年の内に井戸掘りや元金山や銀山で働いていた穴掘り職人ばかりが、届出だけで八人が姿を消している。いずれも家族には何も告げずに、いつものように働きに出てそのまま帰らなかったらしい。」大川端の柳の影の屋台で、ところてんを食べ終えた硅次郎が言った。「雇い主を知っているものは、誰もいなかったので?」「確か、春とかいう井戸掘り職人の女房が、見知らぬ浪人姿の男が亭主を迎えに来ていたのを見たと言っていたなあ・・・。」「それで、出て行ったあと、家族に何か連絡はあったんですか?」「いやそれっきり消息を絶ったらしい。」「なるほど・・。」「それに、花火蔵に盗っ人が入り、大玉花火を持ち去った一件には、花火師の弟子の一人が関わっていたことが分かったが、賭博がらみの喧嘩に巻き込まれ浪人に斬られて死んでいる。それで調べは絶ち切れとなったんでえ。」新兵衛は黙って頷くとこう言った。「硅次郎の旦那、今は言えませんが、近いうちにあなたのお力をお借りすることが起きると思います。その時は宜しくお願いしますよ。」「ああ、あんたの本当の正体はおいらにもよくは分からねえが、今までの関わりから見て信用出来る男だ。あてにしているぜ。おいらまだ見回りの途中だあな。じゃあまたな・・・。」そう言って硅次郎は席を立った。

                                                                             

尼寺の密談

「江戸城大手門を夜半に出た社参の行列は、先代の将軍と同じ道順を経て、日光へ続く御成道へと向かうことになっております。そして、この町内の道が一番狭くなる、このX印の上に将軍の駕籠が達した時に、我らの大望が叶う ことになるのです。」浅草にほど近いある尼寺の一室で、若い一人の尼僧を囲んで、数人の浪人姿の侍たちが蝋燭の明かりに照らされて密談を交わしていた。「私は、気が進まぬ。」「何を仰います姫!涙を呑んで病に倒れた御主君の御恨みを,お忘れになったのでございまするか。それもひとえに幕府の無謀なお家取り潰しの故ではござりませぬか。それがなければ姫様も何れかの大名家に嫁がれ、お幸せにお暮しできたものを・・・我ら家臣とて、行くあてもなく路頭に彷徨う身となり、困窮のあげく妻を女郎に売る羽目に陥った者もござりまする。そんな我らにあまりにも情けないお言葉、この数年我らは、この大望を果たすためだけに、忍び難きを忍び、屈辱に耐えて来たのでございまするぞ。」「それは、私とて同じ、よう分かっておる。ただ、罪もない人々を巻き込むことになるのではと、心が痛むのだ。それに雇った穴掘り職人達は、何時家に帰れるのですか。三年もの長きにわたって行方知れずでは、家族の者がさぞ心配しているであろう。」「まもなくです。」

浪人たちが去り、一人仏壇の花を差し替えている尼僧の頭上から声がした。「郁姫様、あ、そのまま聞こえぬ振りをして作業をお続け下されい。寺男忠吉殿から確かにお話を受け賜り申した。このことは決して他人に漏らさぬ故、御安心を。」「私は、何をすれば・・。」「何時も通り、今の暮らしをお続け下い。よくぞ打ち明け下された。あなた様のなされたことは決して間違ってはおりませぬ。御相談を受けた以上はこの新兵衛、命に代えて姫様の願いが成就するよう力を尽くしましょう。」「恩着ます。新兵衛殿とやら、頼みましたよ。」「はっ。では、御免。」尼僧は献花を終えると、静かに仏壇に向かって手を合わし、経を唱え始めた。


水浴び


丑三つ時を知らせる鐘の音が、どこからともなく響いてくる神社の境内に動く、二つの影があった。無言で祠の錠を外して扉を明け、中に消えた。「なるほど、ここですか。」「今、奴らは尼寺で最後の打ち合わせをしている。坑道内には誰もいないはずだ。おそらく火薬を仕掛けてある近くに、穴掘り職人立ちが閉じ込められているはずだ。将軍の駕籠を吹き飛ばすと同時に、彼らも始末する手はずに違いない。」「何の罪もない人々を・・ひでえことしやがる。」「頼んだ手筈は?」「へい、仲間を助けるならと喜んで力を貸してくれました。」「とにかく職人たちを見つけ避難させよう。」床の板を外し、二人は穴の中に入っていった。

江戸城の大手門を、まだ夜の明けきらないうちに出発した行列は、一路日光街道を目指し延々と続いていた。やがて日が昇り正午近くになってやっと幾重にも警護の従者たちに囲まれた 将軍の駕籠が、門を出た。 市中の見物人の背後で、身を居酒屋の障子に隠し行列を見ていた浪人者に、もう一人が駆け寄り、片手で耳打ちをした。「三左衛門、火付け役の甚左が朝早く穴に入ったまま未だに戻らぬ。ふた時程前に様子を見に入った佐平ら三人からも何の連絡もない。」「何?一体どうしたというのだ。」「わしにも分からぬ 。昨夜の打ち合わせでは、路上で様子を確かめたのち、甚佐が付けに入る手筈なのに・・。まさか彼らが裏切ったのではあるまいか。」「彼らは禄を追われてから七年の長きにわたって、我らと労苦をともにしてきた間柄、それはありえぬ。」「ならば、どうしてこの場に現れぬのだ。」「よし、まだ駕籠が目的の場所に着くまであと半時ほどかかる。様子を身に行こう。」

「甚佐!佐平!何処にいる!返事をしろ!」二人は松明をかざしながら、さらに奥に進んだ。「松之助!職人たちの牢に誰もいないぞ!」「何!?」「奴らは何処に消えた。この場所を知っているのは、我ら仲間七人のみのはず、さてはやはり彼らが裏切ったのか!」「見ろ!三左衛門。どうやらまだ火薬の樽は無事のようだ。もう時間があまりない。こうなれば我ら二人でやるしかあるまい。」「ようし、それでは出口近くまで導火線を伸ばして火を付けよう。」二人が松明の明かりを便りに導火線を伸ばし始めたとき、洞穴の奥から聞こえてくるある物音に動きを止めた。「何だあの音は・・・だんだんとこっちに近づいて来るぞ・・・。」 二人はようやくその音が何かと気付き、顔を見合わせて同時に叫んだ。「み、水だあ!逃げろ!」二人は導火線をその場に投げ捨て、松明も振り捨てながら出口を目指し一目散に駆け出した。水は容赦なくごおごおと音を立てながら、恐ろしい勢いで彼らの背後に押し寄せてくる。ものの二十歩も駆けぬうち、二人は水に飲み込まれ、排水溝から水と一緒にどぶ川に吹き飛ばされた。やっとのことで石垣を這い上り、大きく息を弾ませ、立ち上がろうとすると、目の前に黒い足袋の草履がある。恐る恐る顔を上げると、十手を肩に乗せて笑っている男の顔に出くわした。「おおお・・・こんなどぶ川で水浴びをするたあ、変わった野郎たちだぜ。遊びは終わりだ。南町奉行所同心、松井啓二郎だ!神妙にしろい!。」

「新兵衛さん、こんなに御馳になっていいんですか?仲間を救ってくれたあげく、こんなことしてもらっちゃあ、申し訳ねえや、なあみんな。」「そうともよ。それに八百善の料理なんてなあ、俺たちの稼ぎじゃあめった食えやあしない。」「いやいや、皆さん方が横穴を掘って水を流してくれたからこそ、大事に至らなかったんですよ。お礼を言いたいのはこちらのほうですよ。さあさあ、遠慮なくやっておくんなさいよ。お酒もうまいのを揃えていますから・・・。」「そいつは有難てえ、じゃあお言葉に甘えていただきやす。」

「今頃、将軍様はもう大権現様を拝んでらっしゃいますかねえ・・。」 新佐のつぶやきに新兵衛は、大きく頷き「あの神輿がしゃべってくれなきゃあ今頃あのお方は間違いなく、閻魔(えんま)様を拝んでいたことだろうよ。」そう言って、苦笑いをした。



幼い人質

「お願いです・・どうか、あの子をお美代を助けてください・・後生ですから、 どうかあの子をお助けくださいませ・・・。」「どうなすったんですか?・・まあおあがりになって、詳しく事情をお聞かせくださいな。家の人も間もなく帰ってまいりますから・・・・。」郁江はそういって、泣き叫ぶ三十前後に見える女を家に入れ、長屋の連中の眼を気にしながら、入口の障子を 閉めた。

「それで、お梶さん、その繁蔵とかいう別れたご亭主は、お美代坊の手習いの帰りを待ち伏せして連れ去ったんですね。」新兵衛の問いに、日本橋の料亭で仲居をしているという三十前後の女は、涙を袖で拭きながら言った。「はい、そうだと思います。同じ寺子屋に通っている長屋の子供たちの話では、知らないおじさんがお美代ちゃんに話しかけ、抱いてどこかに連れて行ったといっていました。」「それが、別れたご亭主だと、どうして分かったんですか。」お梶は黙って懐から一通の手紙を取り出して見せた。「仕事を終えて家に帰ると、お美代の姿はなく、この手紙が上り口に置かれていました。」新兵衛が中を開くと、その手紙にはこう書かれていた。 《 お梶、お美代は俺が預かっている。会いたかったら、暮れ六つまでに子育て稲荷の裏の地蔵堂に一人で来い。役人や連れがいたら、お美代の命はないと思え。 繁蔵 》 「それで、その繁蔵さんは、あなたに会って何をするつもりなのか心当たりは?」「あいつは、私と(より)を戻そうとしているんですよ。実は、お美代の父親はあの子が産まれて間もなく、はやり病に罹り死んじまいましてね。働き手を失ったわたしは、あるお人の口利きである料亭で仲居をさせていただいておりましたところ、客の一人だった繁蔵と知り合い一緒に暮らすようになりましたが、知り合った頃は気が付かなかったんですが、博打好きで酒癖が悪く、酔っぱらうと毎日のようにに私を殴るけるの暴れよう、しまいにはお美代にまで手を出す始末、たまりかねたわたしは、夜繁蔵が酔いつぶれて寝てしまった隙に家を出て、知り合いの処に身を寄せ、仕事場も変えてこの近くの長屋に住むようになったのでございます。なのに蛇のように執念深いずうっととわたしを捜しまわていたらしく、ある日お店の二階のお座敷を掃除している折に、ふと見ると、通りに立ってお店の中の様子を窺っているあいつを見たのでございます。その時は慌てて障子の影に隠れて難を逃れましたが、人の口に戸は立てられぬとか、きっと店の誰かにわたしのことを聞きだし、住んでいる長屋や、お美代の寺子屋までも突きとめたに違いありません。そしてお美代を人質に取って、また私を言いなりにしようと、こんな手紙を・・。」「ようく分かりました。あなたは今夜はこの家にいてお美代ちゃんを待っててあげてください。必ず無事に連れて帰りますから、それに後のこともわたしにお任せを。」「ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。」


夜鷹の誘い


「お梶のやろう、やけに遅いじゃあねえか、何をしてやがるんでえ・・。」「ねえ、おじさん、おっかちゃんはいつ来るの?」「ああ、もうすぐ来るからよ。もうちょっと待ってような。」その時外に足音が近づいてきた。「やっときやがったらしいな。」繁蔵はそう言って、祠の扉を開くといきなり一人の女が中に入ってきた。「てめえは誰だお梶はどうした!」そう怒鳴りつけると相手は怯ことなく「あんたこそ何だい、人の寝蔵に勝手に入り込みやがって早く出て行きな!」見れば女は(むしろ)を片手にした夜鷹であった。それもこの辺の夜鷹には珍しく若く美しい女であった。「それとも何かい。あたいといいことでもしようと思って・・待っててくれたとでもいうのかい。」女は急に態度を変え、色目遣いに繁蔵の肩に背中を押し当てていった。「見れば、あんた、なかなかいい男じゃあないか。きょうは外はあいにく雨が降って来てさあ商売あがったりなんだよう。・・ねえ、此処であったもなんかの縁、二人でいいことして楽しもうよ、あんたのようないい男なら、商売抜きでいいから。可愛がっておくれえな。それとも、あたしみたいな女じゃあ・・・不足とでもいうのかい?」「いやあ、そういうわけじゃあ、ただそばにガキがいられちゃあ・・。」「それもそうだね。」女はそういうと屈み込み、女の子のこの頬にそっと手を触れると、「おばちゃん、この人と大事なお話があるんだよ。いい子だから、ちょっとの間外で待っててくれない?はい、これあげる・・。」そう言って懐から大福餅を取り出して手に握らせた。「うわあ、これ大好き、ありがとう。」そう言って微笑むと、女が開いた戸の外に出て行った。「さあ、これで邪魔者はかたずいたよ・・・。」そう言って、蓆の上に身体を横たえると頭に掛けていた白い手拭いをはずして繁蔵をみた。「どうしたのさ、まさか女を知らないわけじゃあないだろう・・。」繁蔵が女の上に覆いかぶさろうとした時、「てめえ、俺の女に何をしやがる!」と言う声とともに、いきなり(まげ)を毛が抜けるほどに強い力でつかまれ床にひっくりかやされた。見れば遊び人風の男が立っており、いつの間にか床に寝ていた女が、震えながらその男の背中にすがり付きこちらを見ている。そして繁蔵を指さしてこういった。「あたしが嫌だって言うのに、この人が無理やり手籠めにしようとしたんだ。」「何い!てめえよくも俺の女房に手を出してくれたなあ。ただじゃ済まねえから覚悟しろ、ぶっ殺して簀巻きにし大川に放り込んでやる!」男はそういうと繁蔵の胸倉を掴み引きずり起こして詰め寄った。「待ってくれこの人があんたの女房とは知らなかったんだ。俺はてっきり夜鷹かと思ってついその気になって・・。」「何い!夜鷹だあ!よくも俺の女房を売女(ばいた)呼ばわりしやがったなあ。俺を怒らせればどんな目に会うか思い知らせてやる!」「待ってくれ、悪かった!俺が悪かった!どんなことでもするから、命だけは助けてくれ。この通りだ、この通りだ!」そう言って繁蔵は半泣きになりながら、土下座をし何度も何度も頭を下げた。


海風

繁蔵は昨夜のできごとを、何とか思い出そうとしているが頭がぼんやりとしてよく思い出せなかった。知り合ったばかりの若い夫婦に家に誘われて酒を振る舞われ酔うて眠り込んだまでは覚えているが、その後のことがどうしても思い出せない。それに、昨夜の酒がまだ抜け切れていないのか身体が上下左右に大きく揺られている気がする。さらに何やら先ほどから吹かれている風に潮の匂いがするような、耳に聴こえるのは海鳥の声か・・・それに波のような音も・・・。顔に水しぶきが掛かったたような気がして、ふと目が覚め辺りを見回した。「此処は・・此処は一体え・・何処なんだ・・・。」すると周りを人に囲まれているのに気付いた。その男たちは髭ぼうぼうの顔で、皆同じ無地の地味な色の着物を着ている。そのうちの一人が仰向けに寝ている自分に尋ねた。「おめえ、一体何をやらかしたんだ・・。」「何をやらかしたって、俺は何にもしていねえ・・。」それを聞いて周りの男たちは一斉に大声で笑いだした。そして誰かが言った。「なにもしねえ者が、二度と帰れねえ鬼界ガ島 なんぞに送られるかよ!」その時,繁蔵はやっと気付いた、自分が大海原に浮かぶ船の上にいることに、そして、自分も周りの者たちと同じ着物を着せられ、腕には黒々と罪人の証である刺青がほられていることにも・・・。

「お梶さん、もう心配はいりませんよ。あの男は二度とあなたの前には現れません。」「新兵衛さん、奥さん、本当にありがとうございました。これで親子ともども安心して暮らせます。」「お美代ちゃん、良かったね」「おばちゃん、大福もちありがとう。あの時おなかがすいてたからとっても美味しかったよ。」「そう、また今度作った時、お家に届てあげるわね。」「うん、たくさん持ってきてね。」「まあ、この子ったら・・・。」「はいはい、たくさん持って行ってあげる。さようなら。元気でね。」「うん。」嬉しそうに何度も振り返って頭を下げる親子を見送りながら、郁江が呟いた。「やっぱり、女の子がいいな。」そう言ってちらっと顔を見たが、新兵衛は聴こえぬふりをしてこう言った。「あの、お美代坊の眼にはこの世の中、一体どんな風に映ってるんだろうねえ・・・。」



浮世絵師

下総(しもうさ)の百姓の三男坊で、実の母親が死に、後添えの継母と折り合いが悪く家を飛び出して江戸に出て、好きな絵で飯が食えたらと歌麿のの孫弟子の北村幸麿の弟子になり、描いた絵を蔦屋に持ち込んだところ版元の重三郎が気に入り、小町娘を描かせて評判になったのがきっかけで、一躍人気絵師の仲間入りをしたらしい。」「そんなに、人気があるんですか?その比子麿(ひこまろ) っ てえ浮世絵師は。」新兵衛はそう言って、啓次郎に入れたばかりの茶を勧めた。「ああ、一時は歌麿の絵よりもよく売れたそうだ。」「へえ、それは大したもんだ・・。」「それが、この間の事件だ。比子麿が書いた小町娘の一人、築地の楊枝屋桔梗屋(ようじやききようや)の看板娘のお与禰(よね)が習いものの帰りに襲われ、喉を剃刀(かみそり)のような鋭い刃物で切り裂かれ殺された。その十二日後、今度あ浅草寺の境内にある茶店のお(てる)てえ娘が同じ手口で湯の帰りに殺されている。この娘も前の月に比子麿の描いた浮世絵が売り出されていた。そして昨日の夕方、仕立てた着物を届けに行った日本橋の呉服屋桂屋(ごふくやかつらや)のお時の帰りが遅いので迎えに行ったところ、これも喉を切り裂かれ川掘りに浮かんでいた。お時も三日前に売り出された比子麿の浮世絵に書かれた娘の一人だった。三人とも互いに付き合いは無く、顔を合わせたこともない。ひとに恨まれるような処はまったく見当たらず、親兄弟もまともな連中ばかりで、男関係を当たってみても問題のあるような野郎は一人も見当たらねえ。ただ三人とも比子麿に絵を描かせた後に襲われ命を落としている。」啓次郎はそう言って湯飲みの茶を飲み干し、出された桜餅を口に放り込んだ。 「ところが、その噂が広がると、ますます比子麿の名が江戸中に知れ渡り、刷るのが追っつかねえほどの大当たりで、蔦屋の前は連日、比子麿の絵を買おうとする客で黒山の人だかりだそうだ。」「片方で大事な娘さんたちが、命を奪われているってえのにですか。」「ああ、世間なんてえのは皮肉なもんだな。俺の手下たちも日がな一日聞き込みに走りまわっちゃあ入るが、裏の連中に聞いても心当たりがあるものは、今んとこは見あたらねえ。そこであんたにも手を貸してもらえねえかと、寄ったのよ。このままだと、何時、次の犠牲者が出てもおかしくねえ、こうしている間もその人殺し野郎は次の女を狙っているかも知れねえんだ。何の罪もねえ今を花よと生きている娘たちが、次々と奴の毒牙に掛るのを黙って見ているわけにゃあいかねえんだ。」で、その絵に描かれた娘ってえのは、この江戸に何人いるんですか?」「いまのところ、全部で三十二人今日も書かれていなけりゃあの話だが。」「そりゃあ、大人数だ。殺された娘さんたちにゃあ、何か共通点がありゃあしませんでしたか、例えば、背が高いとか、黒子があるとか、来ている着物の好みが似ているとか、色がしろいとか。」「つまり、おめえさんが言いてえのは狙ったやつが、なぜその娘を狙ったのか分かれば、次の狙われる娘が割り出されるてえのかい?」「分かりませんが、当たってみる価 値はあると思いますが。」「なるほど、おめえの言う通りかもしれねえ。その所をもう一度探って見るか。」「それに、殺された娘たちの絵も比べてみたら、何か分かるかもしれません。」「ああ、それなら、ここに持ってるぜ。」「そう言って啓次郎は、畳の上に三枚の絵を広げて並べた。「どうでえ、何か気が付いたかい?」「いえ、三人とも髪型、指物、着物や持ち物、顔や背格好もみんな別々で、なんの似通ったもんも無いように見えますねえ。」「そうだろう、おいらも何度も見直したが、ただのそこいらにいる町娘の一人にしか見えねえ。」


【 新版浮世絵 】

「旦那。この蔦屋重三郎、商い人には違いございませんが決して金の亡者じゃあございません。当店の刷った浮世絵でお嬢さん方に、良縁が舞い込むならともかくも、命を狙われ殺されるのを黙って観ていると想われちゃあ、人で無しよと名指しされるようなもの。そのようなことを望む訳がございません。下手人を捉えるために、この蔦屋重三郎に出来ることがあれば、どうぞご遠慮なく、仰ってくださいませ。喜んでやらしていただきましょう。」「さすが、江戸随一といわれる版元だけあって、筋の通った物の言い方をするじゃあねえか。実は、頼みというのは・・・。」啓次郎は、蔦屋の耳元で何事かを囁いた。「ようく、分かりました。仰せの通りにいたしましょう。」

「さあさ、皆様ご覧あれ、この月の諸節比子麿(もろふしひこまろ)の新版はこの三枚で御座いますよ。まず第一枚目は神田広川町の料亭の若女将で御年十八歳の上総屋お六、そして第二枚目には目黒不動前の蕎麦屋信濃屋の看板娘のお信、そして最後は両国橋の屋台で風車を売るお由美、いずれ劣らぬ名花一輪、この江戸の五月の空のように益々冴えわたる、当代隋一の浮世絵師、比子麿の精魂傾けたる美人画を見逃す手はござりませぬぞ。さあさあ、とくとご覧あれ!」開店と同時に、呼子の声に長蛇の列をなす人々から 「いよ、待ってました!」「比子麿、日本一!」などの声が懸かり、蔦屋の店内は比子麿の刷り絵を買い求める客で身動きも出来ぬほどの賑わいであった。前月に比べて描かれた人数が三枚しかないと不満を漏らす客もいたが、いつもに増しての色合いの良さや、細かい筆遣いに満足したのか、初版は
瞬く間に売り切れとなり、後から来た客をがっかりさせる始末となった。


【 孤児の友 】

「それやあ弥吉んちの、芳蔵(よしぞう)のことじゃああんめいか。なあ為やん。」「ああ、そうに違いねえ。弥吉さんはマチさん言うて隣の村から嫁に来た人と暮らしていなさったが、マチさんは三人目の芳蔵を産んでから産後の日立ちが悪く三十そこそこで死んじまった。そのあとお菊さんという名の後添えをもらいなさったが、このお人は先妻とは大違いの気の強い女で、言うことを聞かないと言って、まだ幼い芳蔵を再三にわたってせっかんするのを見て見ぬふりをする弥吉さんに堪りかねて、近所のもんが気の毒に思って止めに入ったこともあるほど、だったよ。その芳蔵はたしか十二の時だったと思うが、村を跳びだして以来いまだに行方知れずになったままなんだ。」初夏の日差しの中汗を拭きながら、二人の村人は鍬の手を止めて新兵衛にそう語った。「他の二人の兄弟はどうしたんですか?」「長男の市蔵さんが田畑を受け継ぎ、次男の二郎さんは隣村に養子にいったよ。」「そうでしたか、いやあお忙しいのにお手間を取らしてありがとうございました。」そう言って帰ろうとする新兵衛に、近寄ってきた為の女房がこういった。「芳蔵が居なくなった時に、もう一人一緒に居なくなった子がいたよねえ。ほら、あの竹藪のとこにあった掘っ立て小屋にさあ、近所の人たちから食べ物をもらって暮らしてた孤児(みなしご)が居たじゃあないか。名前はええっとなんて言ったっけ・・・。」「ああいた、ぼろぼろの着物を着て髪も伸び放題の男の子だったっけ、名前は・・ああ思い出した。伊助という名だったよ!」「ああそうそう、伊助てえ名だったねえ。よく芳蔵となかよく遊んでいて、お菊さんに追い散らされていたっけ。小柄で悪賢くって鼠のようにすばしっこい子だったねえ。」「なるほど、孤児の伊助てえ子ですか・・。」


【 生い立ち】

「あんたが比子麿、いや芳 蔵さんかい?」「旦那、どうしてあっしの名をご存知なんです?」「まあいいってことよ・・。まあ一杯やんな。」そう言って啓次郎は、差し出した芳蔵の盃に酒を注いだ。「おい親父!適当に見繕って出してくんな。」「へい。」通りから明るい初夏の陽が差し込む居酒屋の入り口近くの席で、蔦重の計らいによって会うことのできた江戸の人気絵師、諸節比子麿を啓次郎はしげしげと眺めていた。「旦那、いっておきやすが、今回のあっしが描いた娘さんが次々と殺されなすったことには一切関わりはございません。」「ああ、娘たちがやられた時刻にゃあ、あんたが別の場所に居たことはちゃんと調べがついてる。」「じゃあ、いったい何の用であっしをお呼びになったんで?」「おめえさんは気がつかねえが、おめえさんと何かつながりがある者の仕業かもしれねえから、ちょいと話を聞いておこうと思ってな。おめえさんに何か心当たりはねえのかい?」「あっしの知り合いには、そんな大それたことをする奴はいません。ですから一向に見当がつきません。」「そうかい。ところでおめさんが家を跳びだして江戸に来た時に一緒にいた、伊助ってえ幼馴染の連れはどうなったんでえ。」「旦那はそんなことまでご存じで、へい、確かにあっしは下総の村を出るとき伊助と一緒でした。あっしは絵師になりたかったんですが、伊助の奴は芝居の役者になりたかったんです。江戸に出た後、食うに困り旦那にゃあ言えねえこともやりましたが、あっしが今の師匠に弟子入りができた二、三か月後に現れ、市村座のある脇役の付け人になって楽屋に出入りを許されたと言ってておりやしたが、それっきりで ここ七、八年は顔を見せませんが。」「そうかい。その伊助の生い立ちについて何かおめえさんに話はしなかったかい?」「うちの村に流れてくるまでは、旅芸人の一座に居たって話は聞いたことがありますが、詳しいことは聞いても口をつぐんで何もいいませんでしたから。」「旅芸人の一座にねえ・・・。その座長の名は言ってなかったかい?」「今思い出してみるとそういえば、梅姉さんにはかわいがって貰ったとかよく言ってましたねえ。座長さんの名かどうかは分かりませんが」「梅姉さん。そういったのかい?」「はい。」「あのう、旦那、まさか今度のことに伊助が関わりがあると、お考えなんですかい?」「いやあ、ただの下調べよ。根掘り葉掘り聞くのが、俺たちの仕事なのさ。」そう言って、啓次郎は飲み干した芳蔵の盃に、再び酒を注いだ。

「いい季節になりましたねえ。御贔屓筋のお屋敷の庭には、きれいな躑躅が咲いておりました。」芝居茶の二階で新兵衛の盃を受けながら菊三郎が言った。「今日はあんたに、頼みたいことがあって来たんだ。芝居仲間内に、昔旅役者をしていた女座長で梅と名がつく人を知らないか聞いて貰おうかと思ってねえ。」「梅、ですか?分かりました。当たってみましょう。」

「ああ、梅婆さんなら、向かいの三軒目だよ。さあ、真面(まとも)に話が分かるかどうか、なんてったって八十を越えた年寄りだからねえ。」新佐が入口の破れ障子を開けると、一人の老婆が擦り切れた畳の上に背中を見せて横たわっていた。「じゃまするよ。あんたが昔、旅芸人をしていた梅さんかい?」呼びかけても返事がない。「梅さん。梅さん聞こえるかい、聞こえたらちょいとこちらを向いてくんな。」老婆はゆっくりとこちらに寝返りを打った。そして眼を見えにくそうに細めながら「あんた、どこの誰だい。見慣れない顔だねえ。」しわがれ声で言うと体を起こそうとしたが、支えきれず倒れそうになるのを、「危ねえ!大丈夫かい。」そう言って抱え起こす新佐に「ありがとう・・どなたさんかは知らないが、歳を取っちまって体が言うことをきかないんで困っちまうよ。あたしみたいな身寄りのない年寄りに、一体何の用があってきなすったんですか?」「いえ、あっしは新佐というもんで、実は昔あんたが旅暮らしの役者さんだったと聞いて、その頃にあんたが面倒を見てたっていう伊助てえ子のことについてちょいと聞きてえことがあって訪ねて来たんですよ。」「伊助?聞いた名だねえ、ちょっと待っておくれ今思い出すから・・・伊助・・ああ!思い出したよ。あの子については忘れもしない。ありゃあまだあたしが三十そこそこのまだ若くて元気な頃の話だが、ちょうど今頃、そろそろ茶摘みが始まる頃だったと思うんだけど、あたしの一座が相模の国の田舎の林の傍を通り過ぎようとしていた時、若い衆の一人が突然、静かに!何処かで赤ん坊の泣き声がする、と言いだしたんで、皆立ち止まって耳を澄ますと確かに何処かで泣き声がするじゃあないか、近くに家は無いし林の中から聞こえる気がするんで、若い衆が中に分け入ってしばらくして、おおい!みんな来てくれ!早く来てくれ!て大声で呼ぶもんで急いで駆けつけてみると、一人の若い女が首から血を流して倒れていて、その傍らにまだ生まれて三月ぐらいの赤ん坊が泣いているじゃあないか!あたしゃあびっくりして、すぐに近くの村に人をやってお役人に知らせ調べてもらったところ、倒れていた母親は近くの村のすゑという名の百姓の女房で、三日ほど前に赤ん坊を連れたまま、村から行方知れずになっていて、村中総出で探したが見つからなかった。まさかこんなところで、こんな目にあっているとはと、駆けつけた村の衆も口々に話していました。それに、その嫁さんはどうも隣村の若い男と駆け落ちしたらしく、その赤ん坊もその男との間ににできた子じゃあ無いかと疑った夫や両親は、赤ん坊を引き取るのを嫌がり、親類縁者も知らぬ顔 をする始末、それを見ていたあたしは若気のいたりでみんなが止めるのを押し切って、そんならあたしが引き取って育てますと、つい口走っちまったんですよ。その時ちょうど、一座に乳飲み子を抱えた夫婦も居たもんだから、お乳を分けて貰って、伊助という名をつけて一座の皆で面倒を見て何とか育てることができましたが、ちょうど十二の時に突然いなくなっちまった。皆で四方八方手を尽くして探しましたが、とうとう見つからず、それっきり二度と戻って来ませんでした。きっと誰かから自分の実の母親の話を聞き出して、それがもとであたしのもとを離れていったんじゃあないか、今頃ぐれて悪い仲間に入って悪さをして世間様に御迷惑をおかけしてるんじゃあないかと、思いだす度に心配しておりました。自分がお腹を痛めて産んだ子じゃあないけれど、本当に自分の子だと思って育ててきたのに、あの時は本当に情けないったらありゃあしませんでした。」そう言って、梅婆さんは涙を拭った。


【 楽屋の名優】

座頭(ざがしら)、忙しいのにすまねえな。」「いえとんでもございません。で、私になんの御用で?」わずかな幕間に化粧を落とした後、弟子の差し出す手拭いで汗を拭きながら、向き直った二代目は啓次郎に訊ねた。「実あ師匠、この座に七、八年前に弟子入りした伊助ってえ名の若え者を探しているんだが、誰か心当たりはねえかい?」「私共に弟子入りをしたいとやってくるものは大勢言いますが大概の者は、長続きはせず途中でやめていく中で、残るもはわずか。その中で伊助ってえ名の者は、わたくしの覚えている限りは思い当たる者はございませんが。」「そうかい。でその残っている者は何人で、名はなんてえのか、教えてほしんだがわかるかい?」「はい。半太夫の弟子の寅蔵と、寿恵太郎の養子で名は孝蔵の二人でございます。」「で、その二人には今会えるのかい?」「生憎、孝蔵は今の時期、四国の金毘羅様の舞台を務めるためにこの江戸にはおりませんが、寅蔵は半太夫の楽屋にいるはずでございます。」「そうかい。」「じゃあ、ちょいと寄ってみるよ。いや、師匠忙しいのに世話かけてすまなかったまあ。」「いえ、私共で、お役に立てることがあれば、何なりとお申しつけくださいまし。」「ありがとうよ、邪魔したな。」 啓次郎は座頭の付け人の案内で、名わき役と評判の高い市森半太夫の楽屋の暖簾を潜った。「ちょいと、邪魔するよ。」「はい、どんな御用件でございましよう。」振り向いた当代随一といわれる女形を目の前にして、その妖艶な美しさに啓次郎は「これは・・・。」と息をのんでしばし見とれた。「おお、これはすまねえ。さすが当代随一言われる女形だけあって、師匠、いや~あたいしたもんでえ。俺に気がある小唄の師匠とは、くらべものにならねえくらいに色ぽいねえ~!」「これは、恐れ入ります。」「実は、あんたの弟子で寅蔵てえもんが、この楽屋に入ると聞いて、ちょいと聞きてえことがあって来たんだが、いるかい?」「はい。寅蔵なら先ほど椿油を買いに行かせましたが、ほどなくもどるとおもいます。 寅蔵が何か世間様のご迷惑になるようなことをしでかしたんでございましょうか?弟子の不始末は、師であるわたくしの不行き届きの故、どうかお話しくださいませ。」「なあに、てえしたことじゃねえ。安心しな。で、寅蔵ってえのはどんな男だい?」「はい。あれは、七、八年もまえでしたか・・・楽屋の外が騒がしいので気になり出てみると、十七、八のぼろを纏った子が外に放り出されるところでございました。その子は 、わたくしの顔を見るなり周りの手を振りほどき、その場に土下座して何度も何度も頭を下げ、弟子にしてくれと必死に頼むのを見てつい情にほだされ、ちょうど身の回りの世話をするものが流行り病に倒れていたものですから、見習い弟子に雇ったのでございます。二、三年後に端役をやらせましたところ、お客様の評判も良く稽古熱心な上、役者としての心構えも身につけていましたので今では、私の二番弟子となっております。」「そうかい。根っから芝居が好きなんだなあ。で寅蔵は昔のことは何か話さなかったのかい?」「はい。あまり話したがらないので、さぞ苦労したのでございましょう。聞くと涙ぐんで黙り込んでしまうことが多かったので、ついわたくしも、そっとしておいたほうがと・・・。」「なるほど・・どんな人間にも、探られたくねえことの一つや二つはもってるもんだ。」ひとりの付け人が、入ってきた。「師匠。楽屋の入り口の足元に、これが置いてありましたが・・。」そう言って、椿油の入れ物を差し出した。啓次郎はそれを見るなり、「野郎、ずらかりゃあがったな!」慌てて外に飛び出してみたが、通りには見物の人波の中、それらしき人影は、見分けようもなかった。

「そうですか・・。寅蔵の正体が伊助で、奴が小町殺しの下手人だったとすれやあいまごろは無宿人のたまり場にしばらく身を潜め、頃合いを見計らって旅芸人の一座にでも紛れ込み上方にでも出て、名を変えてまた逢坂の何処かの芝居小屋で食い口を見つけるつもりかもしれませんねえ。」新兵衛はそう言って啓次郎の盃に酒を注いだ。「それに、蔦屋からの言伝(ことづて)によると、ちょうどおいらが寅蔵、つまり伊助を取り逃がした夜に芳蔵も何処かに雲隠れしちまったそうだ。」「腐れ縁てえやつですかねえ・・。」「ああ、人の一生ってのは何処でどう転ぶかわからねえ。片一方は継母(ままはは)(いじ)められ、もう片一方は不義密通の落し子で生まれながらに天涯孤独。二人ともいい家族に恵まれて育っていりゃあ違った、もちっとましな生き方をしてたかも、理不尽だねえ・・・世の中てえなあ。」そう言って二人は同時に盃を飲み干して、しばらく黙りこくっていた。縄のれんの外は轟音の雷とともに、大粒の雨が乾ききった路地に叩きつけるように降り注いでいた。


【 隠し財産の行方】


「これはこれは相模屋のお嬢様、お名前は確か、おゆみさんでしたね。この度はお父様があんなことになってしまって、大変なことでございましたね。ここでは人目が、ささ中にお入りくださいな。うちの人も小半時ほどしたら戻るでしょうから」ささどうぞ中へ・・・」郁江はそう言って娘を中に入れた。相模屋市兵衛は浜町でも指折りの呉服屋だったが、資金繰りに行き詰まり首吊り自殺を図って果て、残された女房と娘のおゆみは家と財産を差し押さえられ、親戚の家に身をよせていたのであった。茶を飲みながら悔やみを言って居ると、新兵衛が帰ってきた。「ちょいとやぶ用で出掛けておりまして・・・お待たせしていたようで早速ご用件を伺いましょうか。」

「私に何かあった時はこれ開けと、そう言っていたんですね?」新兵衛は、おゆみに手渡された桐の小箱の紐を解きながら言った。蓋を開けると、中に一巻の見返しに美しい挿絵が書かれた経文が見えた。「『妙法蓮華経観世音菩薩品偈』、これは観音様にお唱えする御経ですね。」「ええ、お父っつあんはとても信心深くて、いつもこのお経を唱えており、浅草の観音様の縁日にはお参りを欠かさぬ人でした。」「これを見る限りは、造りは豪華なものですが、ただのお経にしかみえませんねえ。」「でも、それならなぜお父っつあんは、自分の身に何か起きた時はこれを開けと言ったんでしょうか?」「分かりません、これをしばらくの間お借りして宜しいでしょうか。何か分かりましたら真っ先にお知らせいたしましょう。」「ええ、どうか宜しくお願い致します。おっかさんに黙って出てきたんで、心配するといけないんで暗くならないうちに。」そう言っておゆみは帰って行った。

「あっしが調べたところによりやすと、相模屋市兵衛が江戸に出てくる前は、何処で何をしていたかを知る同業者はいませんでした。」屋台に腰かけ、蕎麦をすすり乍ら新佐がいった。「じゃあ、市兵衛って名前も偽名なのかも知れぬな。しかしあんな大店をいきなり始めるたあ、よほどの貯えがなくては出来まい。まだ三十そこそこでそんな大金を、いったい何処でどうやって稼いだのかな。」そう言って新兵衛は意味ありげな眼で新佐を見た。「おっと、あっしは今は真っ当な暮らしを・・。でも確かに妙ですね、誰かの財産をくすねなきゃあ無理な話だ。それも相当な大金をねえ・・。」「もう一つ分からないのは、市兵衛は中々の商売上手で今年の春ごろまでは順調に稼いでおり死ぬ二ケ月ほど前か急に資金繰りが悪化したらしい。このわけも調べてくれないか。」「わかりました。やってみましょう。」

「はい、確かに私どもは相模屋さんに上方から仕入れた、主に京の友禅染めの反物を納めさせて頂いておりましたが、此処二ヶ月は 控えさせて頂いております。」 「そりゃあまたどういうわけだい?」新佐は房の付いた十手らしきものを懐にしまいながら訊ねた。「実は同じく相模屋さんに縮緬を下ろしていた組合仲間から、どうも相模屋さんは危ないらしいと聞いたもんですから、それにその前の月に納めた品物の代金が滞っていましたので・・。」 新佐が当たった相模屋の他の取引先の話も同様であった。

「いきなり大店を開いた何処の馬の骨ともわからない相模屋相手に、良く商いができたもんだなあ。普通は信用がなけりゃあ、物を廻さないだろうに・・。」新兵衛が言った。「それが、相模屋は何処の問屋ででもいきなりにやって来ては目ぼしいものを買いあさり、眼の前で懐から小判を取り出して支払ったんだそうで。」{へえ~小判でねえ・・・。で、その相模屋が危ないっていう噂の出どころは分かったのかい新佐さん。」「それが、はっきりしないんで。根も葉もない噂でも、火のない処に煙は立たず、とか、生き馬の目を抜くといわれる商いの世界で生き残るにやあ、どんなちっぽけな噂でも聞き逃すと命取りになりかねませんからねえ。」 

「どうだい、値打ちもんかい?」「なんでえ、兄さん久しぶりに顔を見せたと思えば、なんだか線香臭え品物を持ち込んで、坊主にでもなるつもりですかい?」「馬鹿言うんじゃねえよ、これはくすねたもんじゃあなくて、人にたのまれたんだよ。でどうなんでえ、おめえは江戸中の盗品を捌いてるんだろう?」「まあ金目の物じゃあないことはたしかですねえ、ただ、こいつああ紙や表装から見て相当古いものだ。それも何百年も前、いやあもっと前かも。もっと詳しいことを知りたけりゃあ日本橋の桔梗屋てえ骨董屋にもってきなよ。あそこの店主は仏具や仏像に詳しいと聴きやしたぜ。」「そうかい、いやあ邪魔したな。」

 天眼鏡を取り出して、巻物の隅々まで目を通した桔梗屋の店主は、巻きなおしながらしばらく黙り込んでいたが、新佐の顔をじっと覗き込むと、「あんた、この品物を誰から手に入れなすったんだい?」「これやあ俺も持ち物じゃあねえ、人にたのまれたんだが、何か言われのある物なのかい?」「確かなことは言えないが、私はこれと同じものを一度だけ見たことがある。」「本当かい、で何時、何処で見たんだい?」店主は周りを見回して、手をかざして新佐の耳元で何かを囁いた。「え!?なんだって、そいつああ本当かい?」

「店主が言うには、この経文は、若い頃に西国を放浪した時あの日本三景の一つで有名な厳島神社に立ち寄った際に或る氏子の紹介で宮司が見せてくれた、何でも源平の昔、ほら平家物語に出てくる平清盛が、一門の安泰と繁栄を祈願して収めた『平家納経』にそっくりだっていうんですよ。こりゃあ一体どういうことなんでしょうね。」「もしこれが桔梗屋のいうように、『平家納経』だとするとそれがどういう経緯で市兵衛の手元にあったのか、そして何故自分の身に何かあった時はこれを開けと言ったのか、皆目見当がつかぬな。」新兵衛はそう言って溜息をついた。

「頼まれた件の逢坂東町奉行からの返事だが、三年前の暮に逢坂の堂島の米問屋や札差をばかりを荒らしまわった盗族を追い詰めた際に、網に掛かったのは雑魚ばかりで、主だった連中は逃げおおせ、その後なりをひそめているらしい。捕まえた者たちに口を割らせたところ、その頭目の名が厳島の平八といい、名の由来は奴の生まれた厳島にある日本三景の一つ、厳島神社から盗み出した経文を持っていることから仲間がそう呼ぶようになったらしい。ほらこれが奴の似顔絵よ。」硅次郎の差し出した絵を見ていた新兵衛は「もしこれが死んだ相模屋市兵衛だとしたら話の辻褄が合いますねえ。」「じゃあ、大阪から逃げ出した厳島の平八ってえ盗っ人が相模屋市兵衛の正体だってえのかい。」「残された家族に見せないと確かなことは言えませんが、九分九厘まちがいないでしょう。お手数をお掛けいたしました。この埋め合わせは後日かならず。」

新兵衛の予想どうり親子とも似顔絵を見て、少し痩せてるようにも見えるが良く似ている、首下の黒子は確かに市兵衛にもあったと証言した。「じゃあその厳島の平八ってえ野郎は、逢坂で盗みを働いて稼いだ金を元手に相模屋市兵衛と名を変え江戸で呉服屋を始めったってわけですかい?そして、それを知った逃げおおせた他の盗っ人仲間に見つかり、世間に正体をばらすと脅され商売で設けた財のほとんどを奪われて商売が立ち行かなくなり首を吊っった。」新佐の言い分に新兵衛は大きく相槌を打った。「それが本当ならその仲間達は市兵衛、いや厳島の平八は自分が首を吊ったらもう金ずるが消えちまって、自分の家族には手を出さないとふんで自ら命を絶ったことになりやすねえ。」「だが市兵衛がまだ盗んだ金の残りをどこかに隠しており、それが奴らに知られたら今度は残された家族が危なくなる。」「で、どうしやす。」「鼠を捕まえるにはまず、餌が必要だ。」「つまり、死んだ市兵衛には隠し財産があるらしいてえ噂を、裏の連中に流すんですね。」「おっ、さすがは元取った杵柄、察しがいいねえ。」「よしてくださいよ、ちゃかすのは・・仕方ねえ、これも身から出た錆か。ようがすやってみやしょう。」


相模屋の残された女房、お咲きの二つ年上のお梅は 、同じ表通りに面した八百屋に嫁いでおり、お咲きは娘おゆみと一緒に昼は店を手伝い、夜には休憩場所である二階の空き部屋に寝泊まりをしていた。姉とその亭主は裏長屋で暮らしで手狭ぜまな上妹親子に気を使わせまいというお梅の計らい故のことであった。「もう桜咲こうかという陽気なのに、夜はやはり冷えるわねえ・・。」そう言いながらいつも通り店を閉め、姉が届けてくれた夕飯を娘と世間話をしながら済ませ、夜も更けたので床に入ろうとすると店の戸を叩く音がした。女二人の
仮住まい、用心のため雨戸を閉めたまま、どなたかと訊ねると男の声で、「あっしは、お梅さんの住む長屋の向かいのもんですが、お梅さんの亭主の平蔵さんが先ほど急にお倒れになり、直ぐ妹さんのお咲きさんを呼んできてほしいと、お梅さんに頼まれましたんで迎えにめえりやした。」「それやあほんとですか!?じゃあただいま開けますからちょっと待っておくんなさいよ・・。」そう言って戸を開けると、いきなり手拭で顔を隠した二人の男が飛び込んできて、そのうちの一人が叫び声を上げようとしたお咲きの口を手で塞ぎ、抜き放った刃物をその頬に当てるとこう言い放った。「命が惜しかったら、静かにしろい!おい、三五郎、娘が二階に入るはずだ、連れてこい!」
言われた男はにんまり笑うと、階段を上がって行った。しばらくして、猿轡を噛まされ、帯締めで後ろ手に縛られたおゆみが連れて来られた。「兄貴、この娘は上玉だ。さんざん可愛がったあげくに吉原にでも売りとばしゃあ、五十両くらいにやあなりますぜ。」「そんな事より金の方が先だ。おい、てめえの亭主は俺たちの金を独り占めにして逃げやがった、金は何処だ!」「あたしにゃあ何の事だかさっぱり見当がつきませんよ。あんたたちは一体誰なんです、うちの人がお金を持ち逃げしたなんて、そんないい加減な言いがかりはよしてくださいな!」「さすが平八が見初めただけあって大した海女だ。ようし仕方がねえ、三五郎その娘を好きにしな・・。」「へっへっへ、じゃあ兄貴、先に頂きますよ。」そう言うと三五郎は、いきなりおゆみを仰向けにして馬乗りになり帯を解き始めた。「待って、待っておくんなさいな!分かりましたいくらあの人が命を絶ってまでの残してくれたお金だけれど、大事な娘にやあ変えられない。お金ねの隠し場所に案内しますから、娘だけには手を出さないと約束してくださいな!」「最初から、そういやあ手荒な真似はしなくてすんだんでえ。今からすぐにその場所へ案内しな・・。」

 四人は月明かりの中、町外れにある竹藪を抜けるとその先にある小さな地蔵堂の前で歩みを止めた。「ここですよ。」お咲きが言った。「このお地蔵様の台座の下に千両箱が有るんです。」「いい加減なことをぬかしゃあがると、ただじゃあおかねえぞ!」「嘘だと思うんなら、確かめたらどうなんです。」「言うまでもねえや、おい三五郎見てこい。」「合点だ・・。」兄貴分の男がおゆみに匕首を突き付けたままなので、お咲きはどうすることも出来ない。しばらくして何かをひっくり返す音が暗い堂内から聞こえたが、その後何の音も
しなくなった。「おい、三五郎、金はあったのか。どうなんでえ、返事をしろい!」そう呼びかけたが反応がない。「おい三五郎!返事をしねえかい!。なぜ黙ってやがるんでえ、おい三五郎!」その様子見ていた、お咲きが言った。「あの人は、きっとお金を独り占めしたくなったんじゃあないのかい。」「何だとお・・。」「だってそうじゃあないか、山分けにすりゃあ自分の取り分がすくなくなるからねえ・・。あんただって、実のところそう思ってるんじゃないのかい?」「うるせえ!この、あまあ余計な口きくんじゃねえ!」「あんたが入るのを待っていて、入るなりぐさりとやるつもりなのかもね。」「うるせえ!黙れって言ってるだろうが!」「じゃあ入って、確かめてみたらどうなのさ。怖いのかい?あんたも、あんがい見掛け倒しなんだねえ・・。」それを聞いた男は、おゆみを突き放すと匕首を片手に構えたままそうっと入口の格子扉を明け中に入ろうとした瞬間、どすんと言う音とともに外に弾き飛ばされ地面に転がり落ちた。「野郎よくもやりゃあがったな!」そう言って傍に落ちた匕首を拾おうとする手を、力いっぱい踏みつけた者が居た。その袴を伝い恐る恐る見上げると、にんまり笑う男の顔があった。「やい悪党!まんまとひっかかったな。南町奉行所同心、松井硅次郎だ。神妙にしろい!てめえの仲間は、ほらあの通りよ。」堂内から、猿轡を噛まされ後ろ手に縛られた三五郎と一人の男が出てきた。「おう、新佐。ご苦労だったな。」「どうやらうまくいきましたね。それにしても、お咲きさん、さすがはもと辰巳芸者の鏡と言われただけあって、大した度胸だ、関心しましたぜ。」「正直言って生きた心地がしませんでしたよ。」お咲きはそう言って大きくため息をついた。

「まだ、この件は決着がついいちゃあいない。奴らはお縄にしたが、隠された金の問題が残ってる。」市兵衛が何かあったら開け、と家族に言い残した経文の桐箱を手に新兵衛がいった。「この経文を見てもらった知り合いの寺の住職による、と別に掛かれている文字にや何も変わったところはないと、言っておりやしたが・・・。」それを聞いていた新兵衛が、「ひょっとして経文に意味はなく、この箱に意味があるのかも知れぬ。」「確かにそういやあ、あまり入れ物の桐箱にゃあ気が付きませんでしたねえ。」 じっと桐箱を調べていた新兵衛が、火箸を手に取るとそれを何度か箱の枠の角に出し入れをした後に、それを逆さに返して手の平の上でトントンと叩くと底板が剥がれた
、「思った通りだ!」そう言って新兵衛は外れた底板を裏返して新佐に見せた、その裏には墨で、『新しきひの下を見よ』と書かれていた。 「何です?これやあ・・・一体どういう意味なんでしょうねえ。」「私たちにゃあ気が付かないが、家族に見せると何か解るかもしれない」 お咲きに見せると、「この『新しきひ』って言うのはもしかして、台所の釜戸の火って言う意味じゃないでしょうか。あの人が亡くなる前に、あたしが煮炊きをし易いようにといって台所の釜戸をもう一つ作らせたたことがあったんですよ。」

  しばらくして、人手に渡る寸前の元相模屋市兵衛の家屋敷を、残された妻子が買い戻したらしい、と言う噂が流れたがその際に支払われた何百両という金子の出どころについて、二人は硬く口を閉ざし、一切語らなかったという。



*この物語は完全なるフィクョンであり、登場する人名、地名、その他すべての事物は、実際に存在するものとは一切関係がありません。

                                               (筆者敬白) 


 

よろず屋新兵衛開業記

よろず屋新兵衛開業記

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-28

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