早稲田大学百号館-3
すこし、長くなってしまいましたが
青いクレヨンが・・・
第五十話
前期の試験が終わって、後は夏休みを待つだけとなったら、皆さんはどうしてます?
僕らの時はバイトですね。夏休みに思いっきり遊ぶための資金稼ぎをしたものです。
第一話で話した佐々木ね、彼は居酒屋の店員をやりました。顔がキムタクに似ていてイケメンでした。イケメンで車を持っていますから、たちまち職場の女子の人気の的になりました。まあ、自然の成り行きですよ。
そこで、この佐々木が調子に乗らなきゃいいんですけど、これも、成り行きですかね。店の女子と問題を起こしてしまいました。当然首です。妊娠させてしまったんですから。
あ、誤解しないでくださいね。妊娠したと言われただけで、本当はそんな事なかったんです。彼ははめられたんだと思いますよ。だってね、女の後ろに暴力団が付いていたんです。
かわいそうに佐々木はせっかくため込んだ貯金を全部巻き上げられて、文字通り無一文になってしまいました。しかも、やくざが彼のアパートにまで押し寄せて騒ぐもんだから、大家にすっかり嫌われて、とうとうアパートまで追い出されてしまったんです。
さあ、こうなっては友人として見捨てておく訳にはまいりません。僕らは金を集めて佐々木のために部屋を探しました。夏休みのお楽しみなんかぶっ飛んでしまったわけです。とにかく、安い物件を探さなくてはいけません。なんといっても佐々木は無一文なんですから。
僕らの仲間には、田中という秀才がいましてね、こいつは頭がいいので教授に見込まれて助手のバイトにありつきました。この田中が、すごい物件を見つけてきました。なんでも、教授の紹介とかで、永い事空き家になっていた郊外の一軒家です。一軒家と聞くとすごく高いと思うでしょ?ところが、月二万でいいと言うのです。誰も住まないので取り壊す予定になっているけど、学生が三四年住むくらいならなんとか持つだろうという事でした。二万って言ったらあなた、僕らのぼろアパートよりずっと安いです。
僕らはすぐ飛びつきました。家を見に行く前にもう田中を説き伏せて契約してしまいました。早い者勝ちだと思ったんです。
さて、その家を見に行って僕らはびっくりしてしまいました。相当なぼろ家だと覚悟して行ったのですが、あにはからんや、すごく立派だったんです。
二階建てで下に台所、風呂、トイレ、六畳と八畳、二階に六畳が二つありました。佐々木と加藤と田中と僕、四人で住んでも十分暮らせる広さでした。大学からは少し遠くなるけど、佐々木も加藤も車を持っているので問題はありません。
速攻、ルームシェアだという事になったんですが、ここにきて、加藤がいやだと言い出しました。この家がこんなに安いのはおかしい。きっと何か秘密があるんだ、止めた方がいいと言うんです。
むりもありません。加藤は前に住んでいたマンションで、恐ろしい事件に遭遇して、引っ越したばかりです。
でも、僕ら三人の気持ちは決まっていました。もう契約もしたんだし、こんないい物件、二度と見つかりっこありません。掘り出し物とはこういうのを言うんです。僕らは引っ越しを決めました。加藤はとうとう来ませんでした。
金持ちの加藤に抜けられて、懐は大いに痛みましたが、当初考えていたよりずっと余裕ができました。
三人の共同生活は快適でした。隣の家とも離れていて、夜中に多少騒いでも文句を言われないし、好きな時間に飯食って、好きな時間に風呂入って、飲んで騒いで気楽なもんです。
あの日、田中が変な事を言い出すまでは、極楽の日々でした。
田中は一人で二階に住んでいたんですが、夜中に変な音がすると言うんです。カリカリと壁を引っ掻くような音だそうです。
そりゃあネズミだとみんな言いました。僕らは薬学科ですから、ネズミなら平気です。だって、ネズミは実験動物ですから、大学にいくらでもいます。ネズミ、モルモット、ウサギの類はどの研究室にも必ずいます。毎日、生かしたり、殺したり、ちょん切ったり・・・いや、これは余談ですね。
それでも、田中はなぜか二階を嫌がって下で寝るようになりました。
そんなある日、田中が一人でいる時に、大学から電話がかかってきました。用件をメモしようと紙とペンを探していると、青いクレヨンがコロコロと手元に転がってきました。妙なものがあるなと思いましたが、まあこれでもいいかとそれを使ってメモしました。
ところが、みんなが帰って来てそのメモを見ても、誰もクレヨンなんて持っていないと言うんです。
そりゃあそうでしょう。大学生にもなってクレヨンはおかしい。第一、絵を描くなんて高尚な趣味を持っている奴は僕らの仲間にはいません。じゃあ、あのクレヨンは?と探してみると、今度はそのクレヨンがありません。僕も佐々木もそんな事はたいして気にはしていませんでしたけど、田中はおかしい、おかしい、といつまでも言っていましたね。
佐々木のガールフレンドが二階の部屋に泊まった日がありましてね。
今度はまともな女でした。やくざは付いていません。
なんと彼女、青いクレヨンを持って二階から降りて来ましてね。階段の途中にあったと言うんです。誰がそこまで持って行ったか、という事になりましたが、誰も名乗り出ません。クレヨンはあの日無くなって以来誰も見ていないのです。
彼女は、きれいな色だからとそのクレヨンをもらって行きました。
まあ、僕らには必要ない物だし、持ち主もいないんだから、誰も何も言いませんでした。
不思議な事があるもんです。それから幾日もしないうちに、また、クレヨンが出て来たのです。前と同じ色の青いクレヨンです。やはり階段に落ちていました。
二階はその頃誰も使っていませんでしたが、荷物や本などをしまってあったので、たまたま田中が何かの資料を取りに二階に上がって見つけました。僕たちが、彼の悲鳴のような大声を聞いて階段を上がって行きますと、田中は、クレヨンを指さして言ったのです。
「見ろよ、前と長さが違っている。こっちの方が長い」
見るとその通りでした。まだいくらも使っていない長さです。前のは半分位の長さでした。でも、色はまったく同じです。なんで、こんな物が何度も家の中に出て来るのでしょう。さすがに、僕たちは少し気持ち悪くなりました。
それでもまあ、生首とか、滴る血とかが出るわけじゃありません。この家に何かいるなんて事はこの時点では誰も思っていなかったのです。
そうこうしているうちに夏休みになりました。
田中と佐々木は帰省しました。帰省と言っても二三日程度のものです。まあ、こずかいの無心に行くわけですね。
僕たち四人はこの夏休みに沖縄旅行を企てていました。佐々木の一件でなかば諦めかけていたんですが、この家を見つけて引っ越してから、かなり節約ができました。やっぱり行こう、って事になり、足りない分を親に出させる作戦です。
僕だけは留守番に残りました。僕の家は貧乏で金策の期待ができない上に、実家が北海道と遠く、往復の旅費を考えると、赤字になり兼ねません。
みんながいない間、僕は旅行のスケジュールを決め、予約の手配などをしました。これは楽しい仕事ですよ。みなさんも覚えがあるでしょ? 高速の地図やら観光ガイドに囲まれてすでに旅行者気分です。
ふと、沖縄へ行くなら、一つ沖縄の歴史を覚えておいてあいつらに自慢しようと言う気になりましてね。しまい込んでいた本を探しに二階へ上がりました。
本を好きな方なら誰でもそうでしょうが、僕は本を探しに書庫へ入ると、ついつい関係のない本に見入ってしまって、えらく時間がかかってしまうたちでして、その時も懐かしい写真など見つけまして、外が暗くなるのも気がつきませんでした。
突然、ガタンと大きな音がしまして、はっと我に返った僕は、今の音はどこからだろうと、耳をすませましたが、それっきり何の音も聞こえません。
僕らが荷物置き場にしていたその部屋の向かいに、廊下を挟んでもう一つ部屋がありまして、最初、田中が使っていました。その田中が、夜中に変な音がして気持ち悪いと、部屋をかわった事を思い出して、今のがその音だろうか、別に気持ちの悪い音でもないじゃないか。安定の悪い置き方をした荷物が倒れただけだろう。
そう思いながら、僕は向かいの部屋へ行ってみる事にしました。
廊下に出た僕は、さすがにおやっと思いました。カタカタと言うかコンコンと言うか・・・ちょうどそうだな・・・黒板にすごい勢いで数式を書く先生がよくいるでしょ。そんな音がしてるんですよ。まあ、ネズミが壁をかじってると思えば、そう聞こえなくもありません。
僕は、ネズミは田中の使っていた部屋だ!と見当をつけると、そっと戸を開けて中に入りましたが、中はがらんとしていてネズミの姿はありません。
そして不思議な事に、カタカタいう音が急に小さくなってほとんど聞こえないのです。
僕はあちこちの壁に耳を付けて、ネズミの居場所をさぐりました。
すると、裏側の、つまり玄関と反対側に面した壁の中に確かにネズミがいるようです。そう、ネズミと思ったんです、初めはね。
だけど、他のものも聞こえてしまったんです。
僕はなんて運が悪いんでしょう。よりによってみんなが留守で一人の時に、あんなものを聞いてしまって・・・
それはね・・・子供の泣き声です。しかも、もう長い事泣いて疲れ果てたみたいな、しくしくとしゃくり上げる声。泣きながら壁をコンコン叩いているのです。
びっくりした僕は、急いで部屋を出ました。そしてさらに驚きました。音は廊下の方が大きくはっきりと聞こえているのです。
もう、僕はパニックですよ。転がるように階段を降りて外へ飛び出しました。飛び出したのはいいが、こんな田舎に金も携帯も持たず、いったいどうしたらいいのでしょう。家の中には絶対入りたくありません。どうしたと思います?
僕はね、五分ほど歩いて、隣の家へ助けを求めたんです。
そりゃあ恥ずかしかったですよ。引っ越した時は挨拶にも行かず、どんな人が住んでいるのかまるで知らなかったんですから。しかも、夜七時過ぎと言うとちょうど夕食の時間でしょ?家族そろっている所へ飛び込んで行くわけですから。
ところがですね、それは取り越し苦労でした。農家ですから家はでかいんですが、住んでいるのはじいさんとばあさん二人っきりでした。僕は突然の訪問を詫びて、電話を貸してもらったんです。友人たちにすぐ戻って来てくれと頼みました。
すると、そのじいさんが僕の電話を聞いていて、事情がすっかり分かったらしく、二十年前にあの家で起こった恐ろしい事件の話しをしてくれたのです。
あそこの地主の娘が、離婚して男の赤ちゃんを連れてかえってきた。世間体を気にした親は、あわてて土地や財産を娘に付けて無理やり再婚させた。男は財産が目当てだったので、子どもを可愛がるわけがない。それどころか、子どもがだんだん成長するに連れて、せっかんがひどくなって行き、五歳の時にとうとう殴り殺してしまったんです。
両親は逮捕され、地主は土地を売ってどこかへ行ってしまったそうです。家はそのままですが、土地はバラバラに区画され、転売を重ね、もうそんな事件を覚えている人もいなくなった、と言うんです。
三時間ほどして、加藤がやって来て、夜中までに全員そろいました。朝まで待った方がいいと、親切に言ってくれるばあさん達を振り払って、僕らは自分たちの住んでいた幽霊屋敷に戻りました。
家の前に立ってみると、その家って言うのがね、こう、まるで大きなサイコロのようにポツネンと建っているわけです。僕ら四人ともしばらくは入るのをためらっていたんですが、いつまでも外に立っている訳にもいかず、結局恐る恐る中に入りました。
僕らは無言のまま、各部屋を回って、何か聞こえるかどうか確かめました。下の階は何もありませんでした。
いよいよ、二階へ上がる階段へ差し掛かった時、田中がものすごい悲鳴を上げてひっくり返りました。何かにつまづいて転んだようです。
いやあ、びっくりしましたよ。状況が状況だけにね、みんな緊張してますから・・・心臓が喉から飛び出そうでした。田中はみんなに散々文句を言われて、起き上がった訳ですが、その時、手に握っていたのは、あの、青いクレヨンでした。なんか・・・気味の悪い色ですよ青って・・・
二階の二部屋も、僕が聞いたような音はもうしていないようでした。僕は子どもの泣く声が聞こえた壁がどうしても気になって、神経を集中させていると、やはり、何か聞こえるような気がしてきます。
「おい、ここ、何か聞こえないか?」
「どれどれ・・・うーん・・・わからないな・・・ん!・・・あ!なんだろう・・・おい、泣き声だぜ・・・」
ほんとに微かなんだけど、確かにシクシクと子どもの泣く声が、やっぱり聞こえるんです。
加藤が廊下に出て、みんなを呼びました。廊下の突き当たりの壁に耳を当てています。僕らもそこに並んで耳をそばだててみました。ここでも、同じようにすすり泣きが聞こえます。
「外だぜ、外に誰かいるんじゃないか?壁の中って言うより、もっと遠い所から聞こえてると思わないか?」加藤がぼそりといいます。
「そりゃあそうだろ、あの世から聞こえてるんだ。遠いよ」
佐々木の冗談に笑う奴なんかいません。じっとその泣き声を聞いていると、怖いというより、なんだかとてもかわいそうになって来ましてね。
加藤は「変だな、やっぱり壁の中じゃない・・・」と、首をかしげていたと思ったら、いきなり外に出て行ってしまいました。
僕らはなぜか、声が聞こえなくなるまでその場を離れられませんでした。子どもが泣き疲れて、寝てしまうように泣き声がしだいに途切れ途切れになって、ついには何も聞こえなくなってしまいました。
そこでやっと僕らは加藤を追って外へ出ました。
加藤は声がした北側の壁をじっと見上げていました。僕らが出ていくと、
「お前ら、今まで住んでいて気付かなかったのか。この家の形を見ろよ。真四角だぜ。なんで一階があんなに広いのに二階に二部屋しかないんだよ。いいか、下が六畳と八畳だろ、その他に台所、風呂、便所、玄関だ。それをそっくり二階に持って行ってみろよ。どう考えても二階にもう一部屋ないと広さが合わないだろ」
いやあ、びっくりしましたね。初めは加藤が何を言っているのか解らず、みんなポカンとしていたんですけど、だんだんその意味が解ってきて、僕らは二階に駆け上がってみました。
ほんとうに、加藤の言う通りでした。二階が狭すぎるんです。いや、部屋が足りないと言った方が正しいでしょう。僕らの視線は、自然と廊下の突き当たり、さっきまで泣き声を聞いていた壁に向けられます。
ここだ!足りないもう一つの部屋はこの壁の向こうだ。誰もがそう思いました。
そして、そこには、父親にせっかんされた五歳の男の子がまだいるんだ、そんな感覚にとらわれてしまったんです。
おかしいでしょ?事件は二十年も前の事です。もし、その子が生きていたとしても、そのころ五歳だった子どもがいまだに子どもでいるはずがありません。でもね、僕らにはその子の姿が見えるような気がしたんです。
早く助けなくては・・・僕らは壁を念入りに調べました。すると、案の定、ドアくらいの大きさに、少し新しい壁紙が貼ってある事に気が付きました。新しいと言ってもずいぶん古いんですよ。柄は同じだけど、明らかに後から張ったような跡が付いているんです。
それからはもう夢中でした。紙の下にはべニアが打ち付けてありました。その板をむりやりはがすと、本当に、ドアが出て来たんです。そりゃあもうめちゃくちゃに釘を打ち付けてありました。僕ら四人がかりでその釘を抜いたんですが、最後の一本を抜き終わった時は、もうすっかり朝になっていました。
ドアを取り外して、一歩中に足を踏み入れた僕らは、その場で・・・固まってしまいました。
部屋の中は、壁と言う壁、天井と言う天井、床、机、ベッドにいたるまで、幼い文字が青いクレヨンでびっしりと隙間なく書きなぐってあったのです。
「オトウサン ゴメンナサイ オトウサン ダシテ オトウサン ゴメンナサイ オトウサン ダシテ・・・」
早稲田大学百号館-3