常識を問う
酒井信雄 作
序章 導入
先月、『文藝春秋SPECIAL』という季刊雑誌が創刊された 。創刊号のお題は「米韓中日本包囲網 平成ナショナリズムは日本人を幸せにするのか」。肝心の内容はと言えば、「自分の頭で考える人の新しい雑誌」という宣伝文句の通りと言うべきか、総合雑誌としては悪くはないという印象であるが、ここで問題なのはこの雑誌の評価ではなく、そこに載っている幾人かの社会学者の「放言」についてである。その詳細はあとで検討するとして、さしあたり指摘しておきたいのは、彼らは自らの学問的知性を如何なく発揮し、読者に対して斬新な知見を提示しようとしていたと思われるのだが、残念ながらその試みは失敗しているということである。少なくとも私は、彼らの立ち振る舞いに激しい嫌悪感を覚えた。彼らは暗黙のうちに、というより、無邪気にも、自分の考えが他者に伝わると、自分の考えが他者の共感を呼ぶと、自分の考えが他者に感銘を与えると、高を括っているのである。彼らに欠けているのは、自己と他者が否応なくも別の存在であるという現実に対する切実な自覚であると同時に、別の存在である自己と他者はどこかで意志疎通ができてしまっているという現実に対する驚きの感覚である。つまり、彼らには常識がない。
常識は、存在するようでもあり存在しないようでもある。だが、私たちの目の前にある現実が、曖昧模糊とした常識の存在をほのめかす。自己と他者は違う存在であり、しばしば両者の間で誤解が生じているにもかかわらず、どこかで相手のことがわかってしまっているという現実を説明する概念として、私は「常識」という言葉を使うことにしよう。「共通前提」「共通感覚」といった言葉で理解してもらっても構わないが、私は「常識」という言葉を選択する。
常識を失うとき、人は大きく分けて三つの症状を呈する。第一に、他者を絶対不可侵の超越概念に祭り上げ始める。これは左派に多い。第二に、自己と他者があたかも同一存在であって、全てがわかり合えるし、わかり合えないはずがないと錯覚し始める。これは右派に多い。第三に、そもそも自己と他者が存在するという現実と、両者の間で何らかの意思疎通がおこなわれている現実に無自覚・無関心・無配慮な態度を取り始める。概して前二者の「熱い語り口」に対し、第三の症状は「クールな語り口」が特徴的である。これが本稿で扱うパターンであり、多くの社会科学者や所謂評論家にみられる症状である。
常識を問うことは、特定の学問分野に属するものではない。だが、何かを考え意見を表明することの前提を問うという意味で、この問いは、すべての学者、特に社会に何らかの影響を与える社会科学者や所謂評論家が閑却することを許さない。無論、かく言う私自身が常識を持っているのかという問題は重大であり、看過することはできるものではない。本稿では常識を問う私自身の常識もが問われることになろう。
第一章 症例
私は本章で『文藝春秋SPECIAL』に掲載された、社会科学者による二つの論考・対談を取り上げる。
まずは、「観客ナショナリズムの時代」を書いた若手社会学者白井聡である。白井は、いくつかのナショナリズム分析の古典を踏まえ、現代に至ってナショナリズムの性格がどのように変貌していったのかを説明する。現代のナショナリズムは、近代初頭にあったはずの当事者意識を欠いているという意味で決定的な変容を遂げており、彼はそのナショナリズムを「観客ナショナリズム」と呼ぶ。今日のナショナリストあるいは愛国者が、主体性や当事者意識を持たないという彼の説明は、別段新味があるものだとは思えないが、間違っているものではないようにも見える(ちなみに白井は実証的なデータを提示しているわけではない)。安倍首相の当事者意識を持った主体的な国民意識を呼び掛ける演説が、実のところ、当事者意識を持たない「観客ナショナリズム」の担い手によって肯定的に受容されていることを皮肉り、白井は次のようにしてその論考を終える。
――「当事者たれ」と呼びかけている当の御本人[安倍首相――引用者注]にも、本物の当事者意識があるとは思えない。第二次安倍政権の異様なまでの戦争準備への傾斜は、国益の防衛や追求とは本来何の関係もない。そこにはただ単に「戦争がしてみたい」という欲求があるだけだ。つまり彼らは、子供のように、戦争のスペクタル、戦争ごっこの面白さに魅せられているのであり、それはそれでこの時代にふさわしい権力者の姿をしているのである。
彼はなにゆえ「第二次安倍政権の異様なまでの戦争準備への傾斜は、国益の防衛や追求とは本来何の関係もない」と自信を持って断言できるのか政治音痴の私にはよく分からないが、その点は措くとして、私がこの文章を一読して感じたことは、白井聡には当事者意識が無いということである。私は引用の最後の文章を次のように言い換えたくなる。「つまり白井は、子供のように、思想のスペクタル、思想ごっこの面白さに魅せられているのであり、それはそれでこの時代にふさわしい評論家の姿をしているのである」。白井聡の言論は「観客リベラリズム」の担い手に好評なのだろう。
こうした事態は、彼が常識を欠いたことに起因する。現代のナショナリズムの特徴を当事者意識の喪失に求める彼の分析は正しいとするとしても、現代人である白井は評論家として、あるいは日本国籍の所持者(たぶん)として、自らに当事者意識があるかを疑ったことがないかのようである。彼の浮ついた語り口は、自分の言葉が公の場で他者に向けて発せられていることへの無自覚と、自分の意志が他者にうまく伝わらないのではないかという畏れの欠如を物語る。自己反省とは無縁の白井聡は、言葉を選ぶということ、つまり、常識を顧みるという、何かを語り出すための必要条件の存在を知らない。
次に見るのは、社会学者橋爪大三郎と大澤真幸の対談「平成日本にナショナリズムはない」である。白井聡の論考と論旨は似るが、こちらの方がより具体性があり、現実への処方箋の様なものも提示している。橋爪と大澤は国民国家が耐用年数を過ぎていることを指摘する一方で、国民国家以外に現下の問題に対処しうる規模の社会集団(「サバイバル・ユニット」)がないとして次のように言う。
橋爪 もしサバイバル・ユニットというものがまだあるのなら、それはネーションでしょう。このネーションを存続させたいならば、そのためにできることを考えて行動する。平成のナショナリズムとはそういうものだと私は思うけれども、今の日本には残念ながらそのかけらもないですね。
大澤 (中略)何というのか、この国にはちょうどいいナショナリズムだけがないというのが、僕の印象です。
橋爪 まったく同感です。
対談形式であることは多少差し引かねばならないが、白井聡同様、橋爪にも大澤にも当事者意識が見られない。「残念ながら」と言いつつも、橋爪は全く残念がってはいない。「平成のナショナリズム」に自らも当事者として関与せざるを得ないという現実に対する自覚がまるでない。「僕の印象」を語る大澤は、その印象を受けて「この国」で現に生きてしまっている自らの立ち振る舞いをどうするのか、あるいは、その印象を与えた現実に自分自身が参与してしまっているのではないかという、人として当然の自己反省すらできていない。
橋爪と大澤の「クールな語り口」は、「客観的」に物事を分析してそれを世に問う際に、その分析結果を実際に語るのは人間であるという現実への不感受性を示している。自分の考えはひとりでに他者へと伝達されるのではなく、言葉によって伝達される。したがって、何かを伝えるには言葉を選ばねばならない。常識がなければならない。
では、どのように語れば常識があるといえるのだろうか。私とあなたは違う、だが、どこかで私とあなたは何かを共有しているがゆえに、もしかすると私の考えはあなたに伝わるかもしれない、という素朴な感覚が必要であり、私は本稿でその感覚を「常識」と呼んでいる。常識を持った言論人の例として、ユルゲン・ハーバーマスを取り上げよう。
第二章 範例
大学で社会学や哲学を教えるユルゲン・ハーバーマスには『人間本性の将来――リベラルな優生学への道について』(邦題『人間の将来とバイオエシックス』 )という著作がある。遺伝子の分析技術や組み換え技術の進展で、これから生まれてくる子供の遺伝子診断が可能となり、障害児を生まないという選択をする親が現れ、将来的には遺伝子を組み換えた上で障害のない子供を生むことが可能となってきている。こうした一連の流れをハーバーマスは「リベラルな優生学」と呼び、一般に優生学と呼ばれるものと区別しつつも、これに対して極めて慎重な態度をとっている。
議論の出発点は、倫理や規範について語り得なくなった現実の認識である。かつて公正なる社会の教えは倫理と政治が未分化なものとしてあったが、社会の変化が速くなり誰もが一定程度共有しうる生活のモデルが成り立たなくなってきた。「政治的リベラリズム」は「世界観が複数化し、ライフスタイルがますます個人化している事態」に応えたものであると同時に、「特定の行き方を模範的であるとか、誰でもが見習うべきであるといったように特記しようとした哲学の試みが挫折した事態の行きつく先」を示すものである(9頁)。現代では「べき論」、つまり、「すべての人びとがお互いに認め合い、要求しあう権利や義務を、包括的な「われわれ」というパースペクティヴから問うこと」(11頁)ができないのである。こうした状況で、「リベラルな優生学」はどのようなものとして現れてくるのか。
「リベラルな優生学」は、責任ある規範的かつ平等な自己主体という社会の根本前提を覆す。これまで暗黙のうちに有効とされてきた責任ある主体は、自己反省や自己鍛錬を踏まえた上での自己形成を行うことで、その「責任」を担えるものであるとされてきたが、遺伝子への介入はそうした自己反省や自己鍛錬を無為なものとする。それだけでなく、遺伝子を組み換えられた人間と、組み換えることを望んだ人間(親)や組み換えを許した社会の構成員の間には、生まれながらに明らかな力の優越関係が生じる。これは平等な人間関係という、これまで有効とされてきた想定にあからさまに反する事態である。だが、問題は、こうした「責任ある規範的かつ平等な自己主体」という前提を、「リベラルな優生学」に抗して倫理的に擁護するという振る舞いが、今日では通用し難くなりつつある点にこそある。そもそも「責任」と「無責任」、「規範」と「無規範」、「平等」と「不平等」といった線引きに共通了解が得られないのだとすれば、「リベラルな優生学」に反対する理由はなくなる。というより、あらゆる事態に対して、何らかの価値規範を踏まえて異議申し立てをすることが原理的に不可能となる。この著作のタイトルである「人間本性の将来」を問うこと自体が滑稽なことでしかなくなるのである。
ハーバーマスは「リベラルな優生学」にヒステリックな反対をするのではない。彼はただ、倫理や規範について語り続けるという振る舞い自体に意味があるのではないかと示唆するだけだ。「われわれは、そもそもまだなお自分たちを規範的な存在として理解し続けるつもりなのだろうか? それもおたがいに連帯への責任を期待しあい、同じ敬意を相互に期待しあう存在として理解し続けるつもりなのだろうか?」(31頁)と問うたうえで、彼は言う。
――こうしてみると、[ハーバーマス自身が擁護する――引用者注]自己自身でありうることという倫理は、多くの提案のなかの一つにすぎないものとなる。(中略)新しい技術に直面してわれわれは、文化的生活形式がそれ自身としてどういうものであるべきか、その正しい理解についての公共の論議(ディスクルス)をせざるを得なくなっている。そして哲学者たちは、この論争主題を、バイオ科学者や、サイエンス・フィクション好きの技術者たちだけに委せておいていいというもっともな理由を見出せないのである。(32頁)
ハーバーマスは、自らの考えを無邪気に表明するのではない。彼は、自分の議論の欠陥を認めつつも、単にニヒリズムやヒロイズムに耽るのでもなく、自らの理想が誰かに伝わるのではないかという希望を持って、ひたむきに語りかける。彼の意見それ自体が正しいかどうかは別の問題として、彼の常識を踏まえた語り口は首肯できるものである。
だが、私はここで言葉に詰まる。ここまで私は本稿で「常識を問う」てきたつもりだったが、どこか空虚な感覚を覚えてしまう。私は問いの立て方を間違えたのではないか。何かが違う。何かがずれている。この感覚は一体何か。
第三章 座礁
私はハーバーマスを参照したが、私が彼の文章から感じたことは、彼が「西洋人」であるということであった。私には彼ほど「責任」「規範」「平等」「主体」といった概念に皮膚感覚での馴染みがない。「われわれは、そもそもまだなお自分たちを規範的な存在として理解し続けるつもりなのだろうか?」と問われても、傍点を打ったところに違和感を覚えて答えに窮する。つまり、ハーバーマスと私には共通前提がない。少なくとも、ハーバーマスが想定する読者に、私は含まれていない。私はしたり顔でハーバーマスには常識があると言ったが、そもそも私にはそのようなことを言う資格すらなかったのではないかという疑問が頭をかすめる。ハーバーマスが使うドイツ語と私が使う日本語は違う言語である。この違いは、文字通り決定的な違いなのではないか。だがしかし、にもかかわらず、思想に関心のないドイツ人よりは、おそらく私の方がハーバーマスの議論を理解してしまっているようにも思えてならない。ならば、ハーバーマスと私は何かを共有し、常識について語ることもできるのではないか。
しかし、そもそも常識とは何か。第一章で私は「常識」を「自己と他者は違う存在であり、しばしば両者の間で誤解が生じているにもかかわらず、どこかで相手のことがわかってしまっているという現実を説明する概念」とした。この定義にはいくつかの問題が孕まれる。そもそも「自己と他者は違う存在」なのか。正確には、「自己」や「他者」、「違う」という言葉自体に地雷が隠されているのではないか。こうした言葉遣い自体が何かを見えなくさせているのではないか。「相手のことがわかってしまっている」と言うとき、「わかる」という言葉がマジック・ワードとなってはいないか。
かくして私の議論は座礁する。「常識を問う」はずが、「常識を問う」ことを問うことで全ての議論が砂上の楼閣のように見え始める。だが、一方で、こうした議論にも何らかの手応えが存在する。その手応えが砂上の楼閣でしかないという見方を反駁する。必要なことは理屈ではない。確固たる基盤の上に議論を積み重ねるという理屈は、あまりに馴染み深いものになってしまっているが、そうした考え方こそが何かを覆い隠す。しかし、それから先のことは、本稿の問いではない。
常識を問う
1 『文藝春秋SPECIAL』、文藝春秋、平成二十六年季刊夏号
2 ユルゲン・ハーバーマス(三島憲一訳)『人間の将来とバイオエシックス』、法政大学出版局、2004年。本文中の頁数はこの邦訳からの引用。