没落

エッシャーあるいはアナとオットー

遺書

この手紙が君の手に渡る頃なら、もしかしたらまだ僕は不貞不貞しくもこの世にいるかもしれない。いかに自殺を決断したとはいえ、気弱な僕のことだ、おいそれとは死にきれまい。
僕は崖から身投げしようと思う。僕が平生そういう類の、スリリングな事を好んでいたのは知っているだろう?どうせ死ぬなら、極限のスリルに絶頂して死にたいのだ。
いや、僕が本当に言いたいのはそういうことじゃない。
これまで、あまり表に出さなかったが、僕の性格はとてもひねくれていて、懐疑的なのだ。僕はこの四半世紀において出会ってきた、あらゆる事物を疑ってきた。友情や、愛でさえも。そして果たして、僕は自分の存在の価値をも疑うようになってしまったのだ。
先ず僕はこの前、父母からから受ける愛というものが内実を伴っていないものだったということを悟った。僕が身を切る思いで、死にたいということを彼等に打ち明けると、彼等は色々言葉を尽くして僕を慰めこそすれ、そこに愛の感動を見いだせなかった。どんな言葉も上辺だけで、酷く空虚な気がしてならなかった。死なれると厄介だとか、寝覚めが悪いとかいうエゴイスチックな本音が裏に隠れているようで、その場しのぎの説得という感じしかしなかったのだ。
そう悟った上で、僕のスケプチックな精神は、果たしてこれは父母が悪いのか、それとも自分の感性がおかしいのか、根本的な問題を疑り始めた。本当は、父母は僕を心底愛しているのに、僕の歪んだ性格がそれをねじ曲げて解釈しているのではないかと思うと、泣きたいのやら憤りたいのやら、もう何がなんだか分からなくなった。
そして挙げ句はこう結論付いた。全ての元凶は自分であると。疑ることしか能が無く、あらゆるものを蔑ろにすることしか出来ない、恩知らずの薄情者だと。そんな自分に、果たして生きる価値はあるのか?これまでの自殺願望は、あらゆる物が信じられぬという、厭世的な気分から来るものだったのだが、それでも自分自身を嫌悪するにまでは至らなかった。ところが見方ががらりと変わって、物を信じられない自分こそが悪いのだと解ると、これまで外部を向いていた猜疑と軽蔑の念が一斉に反逆して、僕を四方から攻め立ててくるのだ!自分自身にさえ裏切られたとあっては、僕は遂に、僕自身をも信じられなくなってしまった。僕には最早、何の縁もない。
だからもう死ぬのだ。死にたいのだ。
こんな事を君に送ったのは、せめて僕のこの苦悩を知ってほしかったからだ。それこそエゴイスチックだ、ナルシストだ、と言われれば返す言葉も無いが、君ならそもそも気にもすまい。そういう人だと見込んでいるからこそ、遺書を君に残すのだ。先に、僕の疑う事物に友情や愛を含めていたが、君に限っては例外だ。初めて見掛けた時から、君があらゆる懊悩の類を超越している事を直感した。君のためなら僕は本物の涙を流せる。嘘じゃない。涙の中に自分のエゴイズムを探そうにも、見つからないのだ。純粋に君のために流れる涙なのだ。
だから、この遺書が君を煩わせるようだったら、僕は心から済まないと思う。そのときは破いてくれ、棄ててくれ、忘れてくれ。それが君の仕打ちだというなら腹も立たないから遠慮するな。要は唯、君に、一瞬でいいから僕を知って欲しかっただけなのだ。
さよなら。
R様
○月□日
T .S .

その遺書が寒風にはためく音に振り向いた。矢張り彼女が来ていた。轟々と荒ぶる海面を遥かに見下ろす崖っぷちに、ぽつんと立った僕はやぁ、と声をかけた。
「ずっと待ってたんじゃないでしょうね」彼女は冗談っぽく笑いかけた。僕はさぁねと首を傾げた。
「S君、本当に死ぬんだ」
彼女は遺書に目をやって、事も無げに言った。僕は、ああ死ぬよと応えた。僕はついでに、どうしてここが分かったのと聞いた。彼女は言った。
「だってS君たら、ここのところ、学校の講義もすっぽかして、まるで磁石に引き寄せられるようにここへ行くんだもの」
僕は唯笑った。目元に集中し過ぎるあまり、その箇所が焼けるように熱かった。不意に呼吸が乱れ始めて、それを整えるのに精一杯だった。
「綺麗な夕焼け」
遠くを見やった彼女は言った。僕はなんとか震えを圧し殺して、そうだねとだけ言えた。彼女は懐からカメラを取り出して、崖の向こうの西の空を写真に撮った。
「来て良かった」彼女は無邪気に笑った。
俄かに早鐘を打ち始めた心臓を抑えて、僕はなんで、と、言うのがやっとだった。彼女は何も汲み取らない。唯首を傾げて続きを待つばかりである。
なんで、来たの。発音を阻む顎の痙攣の合間に発した声はひどく(だみ)を帯びて、無用にはっきり大きく響いた。鼻を啜ると、ずるずる音を立てる程湿っている。
「私も分からない」彼女は言った。「でも、私にも価値はないよ。S君と同じ」
違う、違う、と僕は遂に潤み始めた両目を瞑って力なく言った。「同じだよ」と彼女は否定してきた。
「私も、生きるための縁なんてないもの」
僕の震える思考はぶれにぶれて、焦点すら定まらない。無闇に湧き上がる反発心に押されて何かを主張したくても、滲む目頭に気が散って何も言葉がまとまらなかった。
長い髪を風に靡かせた彼女は、私に歩み寄ってきた。それに伴って、遺書のはためく音が近づいてきた。
「でも、S君は死ぬんだね。いいよ、私がここから、ちゃんと見届けてあげる」
彼女はその端正な顔を、僕の顔の正面に突き合わせた。その表情は相変わらず、穏やかな儘に変わらなかった。
僕は滲み惚けた聴覚に、押し寄せる波の轟きと、崖の腹に打ち砕ける飛沫を一際凄まじげに聞いた。
彼女の眼は、僕の姿を有りの儘に映す鏡だった。僕はその瞳の中に、反映された自分の顔を見た。それは、僕の真の愚昧そのものであった。赤と紺がせめぎ合う暮れ空を背景に、夕陽の逆光で黒々とした僕は影そのものであり、実体を持たない、おぞましい空虚な闇だった。それこそが僕の本性だった。
自分の身体を見下ろすと、それは果たして、彼女の眼に映った儘の、人の形をとった漆黒と化していた。僕は驚怖のあまり悲鳴をあげたが、その声は自嘲を帯びた笑いにしか聞こえなかった。突如目からどろりと流れ落ちた生暖かい物をとっさに拭うと、それは震える真っ黒な指にこびり付いた―
「血だ...」
毒々しいまでに深紅の―
「血だ!」
それが僕の、涙の本質だった。
僕は最早、怖れる事も、悲しむことも出来ない。悲鳴が嘲笑し、血が頬を泣き濡らす。その絶望は、突如として黒い背中から翼を生やし、暮れなずむ天を目掛けて羽ばたきだした。地上は見る見る遠ざかり、彼女は直ぐに虱のように小さくなった。
しかし、どんなに離れても、彼女は真っ直ぐ僕を見据えている。彼女の鏡の眼が反射する夕陽の光は、真っ直ぐ僕の翼に当たり、見る見るうちに焼き溶かしてゆく。僕は瞬く間に片翼を失い、嘲笑と滂沱の血にまみれて、空を切って真っ逆さまに海へ衝突した。
凄まじい飛沫の冠の中央に陥没した僕は、そのまま海中をゆっくりと沈んでゆき、やがて深海の闇と同化していった。その最期まで、僕はずっと彼女の視線を感じていた...

僕はふっと目を覚ました。虫達の鳴き声が辺りに聞こえた。下の方から、波の音が微かに聞こえた。僕は仰向けに横たわって、まあるい満月が天頂に輝く夜空を視界一杯に収めていた。徐に挙げた腕は月光に青白く照らされて尚、人間の温かみを帯びた肌色をしていた。
「気がついたね」
傍らには彼女、Rさんが座って居て、優しげな面持ちで静かに僕を見下ろしていた。
「S君の最期、ちゃんと見届けたよ」
僕の顔面は、不意に強張った。目尻から熱いものがつるりと流れ落ちた。Rさんが白い指で拭ったそれは紛れもない、透明に澄んだ涙の粒だった。
僕は思わずRさんに抱きついた。Rさんは優しく僕を抱擁してくれた。止めどない慟哭の震えが、触れ合う身体を介してRさんへ伝わり共鳴した。僕の背中を撫でるRさんの手の平の優しさに、僕は愛を感じて疑わなかった。
Rさんは僕に並んで寝転がって、カメラで撮った夕焼けを見せてくれた。水平線へ沈みゆく真っ赤な夕陽と藍色の夜が調和して、見事な紫色を為している。
「綺麗だ」僕は素直にすんなりとそう言った。そう言えたことが嬉しかった。
僕はRさんと顔を合わせて、笑い合った。

没落

没落

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted