彼との物語

彼との物語

空想/短編

不思議な夢。彼と出会ってから、時々見る夢。
 そこは本の世界。花も山も海も全て本だ。全て物語で出来ているから。望めばいつでも読むことができる。知ることができた。そこにいたのは、少し昔の自分。汚くて苦しいものよりも、キラキラと輝くものばかり見ていたかった。読む物語は決まって、ハッピーエンドのものばかり。そんな私では、舟に乗れない。舟で知らない世界に旅立てない。それでも、開けなかった。嫌いな本を許せなかった。
 彼に出会ったのはその頃だった。うつむく私の前まで来ると、何でもない話を取り留めなく。幼すぎたであろう私の書評をうんうんと聞いて、そこから何も聞くこともなく。ある日、彼は穏やかな声で一冊の本を差し出した。

―君には、この本が似合うよ。読んでごらん―

 彼が勧めてくれた本は、私が嫌いな部類の本。ひどく抵抗があって、しばらく開けなかった。けれど、ある日突然、手に取ってみた。読めない。面白くないと罵倒ながら、いつのまにか惹かれた。こんなことは初めてだった。勧められた本を気に入るなんて。久しぶりに彼に会ったとき、お礼を告げた。すると、それが気に入ったなら、これも読むと良いよ。彼は次も勧めてくれた。
 なぜかどれも、すらすら読めた。とても幸せだった。彼と本を読む時間が。感想を言い合う時間が。かけがえのない幸福だった。それから、彼と物語を読んだ。たくさん、たくさん。数えきれないほど。けれど、彼は自分の読んでいる本を見せてくれなかった。それがもどかしくて、言い合いになることもあった。そんな時、彼の言葉は曖昧でふわふわ。海月のように柔らかいのだ。

―これは、面白くないよ。文字ばっかりで難しいんだ―

 仕方が無いと思った。たいしたことでないと思っていた。けれど、心か、身体が。そう思うたび、言われるたび、ちくりと痛む。―彼が舟を降りて私と居るのはなぜだろう?彼がこんなに優しいのはなぜだろう?―見えないほど少しずつ、塵が積もるように心が乾いてく音に気づいた。きっと向き合うならここからだ。ただ気づいたときには枯れてしまっていた。これは恋じゃないと思って。
「私、行くね。」
 ある日、私は決意した。川岸を見てみると、本の舟が一隻だけ浮かんでいた。ずっと望んでいた世界へ行ける舟。夢にまで見た舟だった。その舟が今、私を待っている。それを見た彼は意を決したよう顔を上げた。
「君はどこまでも行ける。獰猛に吹き荒れる吹雪の中も。炎天下の坂道でも。好きな本を読んで、好きなだけ笑えるんだよ。」
 その顔は今までに無いくらい悲しそうで、愛おしいくらい優しい笑顔。なんだか悔しくて悲しくて、その顔から逃げるように舟に飛び乗った。
 ギッタン、ギッタン。ギッタン、ギッタン。
 しばらく経って、振り返る。靄の中、かろうじて見える彼の舟。遠くへ、とても遠くへ離れていく。追いかけて、彼の隣で生きてみたい。確かにそう思ったんだ。けれど、私は変わってしまった。あの頃と違って、私はどこまでも行ける。知らない世界を見て笑って、様々な人と出会えるから。彼もきっとそれを望み、また舟で旅立ったのだ。
離れてしまうけれど、まったく無くなる訳じゃない。彼と過ごした日々も、想いもちゃんと持って生きていけるから。そうして、私はあの頃よりずいぶん形が変わった舟の上で、本に埋もれていた。人生の流れにのって、たくさんの人に巡り会った。積み上げられた本棚には彼の本がある。最初に勧めてくれた、大切な本。私を変えてくれた本だから、今もあの感動を忘れたくない。思い出はカラーからセピアに近づいていく。歳をとらない本に囲まれると、自分だけが老けていくことに気づく。本が羨ましくてたまらない。
 でも、物語を知らなかったら、出会えなかった人達がいるから。感謝している。本に。私を受け入れてくれた温かい人達に。物語のように勇敢に、精錬されて生きられたら後悔もしないだろうか。あの日、舟の中で呟いて気づいてしまった。遠ざかる彼の舟を眺めて、初めて口にした想い。いつも心の中だけで温めていたもの。どんな国でもある、ありふれた言葉。ただ彼に伝えられなかったから。
 私はなんて馬鹿だったんだろう。歳月が経つほど積もる後悔に胸が熱くなる。彼との物語では、今もそれだけが心残り。

彼との物語

彼との物語

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-27

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