赤毛布の娘 4

『クリスティ、おいで』

 真っ白で指の長いキレイな手が差し出される。それを握るのはもみじのような幼い手。クリスティの手だ。
 ママ。
『クリスティ、おいで』
 庭に咲き誇る花々。その中を歩く母親の姿。顔がはっきりと見えた。驚くほどクリスティに似ていた。
肌は白く、頬はピンク色に染まっている。産毛の生えているその頬は、まるでモモのような甘い瑞々しさに溢れている。
 小さな薄い唇は、頬と同じでピンク色。その唇から出てくる声は、ピアノのメロディーのよう。
 丸くて大きな目は青色で、瞬きをするたびに長い金色のまつ毛が輝いた。
 ママ。
 母親はクリスティの手を引いて、庭の花を眺めて散歩をする。けれど、庭から先へは決して出なかった。一歩出ようとしてもその先に何か恐ろしいものでもあるかのように、母親の足は止まる。
 ママ、なぜ、おそとへいかないの?
 幼いクリスティがそう質問した。
『…怖いオオカミがいるからよ』
 母親はそう答えた。
『クリスティ』
 と母親を呼ぶ声。父親だった。父親は庭にいる二人に駆け寄ると、心配そうに母親の肩を抱く。
『外は危ないんだよ。心配だから中にいてくれ』
『わかっているわ、あなた』
 クリスティの母親は微笑んだ。けれど、とても悲しそうな微笑みだった。
(ママ、どうしてそんな悲しい顔をして笑うの。どうして外へでないの?外は、本当は楽しいことがあるのよ。もっとキレイなものもあるのよ。それなのに、どうして?)
 聞きたいことはたくさんあった。知りたいこともたくさんあった。けれど、夢の中では何もできない。



 目が覚めた。
 それは朝日のせいではなく、外の小鳥達がいつになく騒がしかったからだ。

 クリスティ!
 クリスティ!
 起きて!

 クリスティは飛び起きた。窓をクチバシでこつこつ叩いて小鳥達が騒いでいる。
「どうしたの?」
 クリスティは寝間着のまま窓を開けようとしたが、窓は開かなかった。外側から針金のようなもので窓が開かないようにしてあった。クリスティは驚く。自室の扉も開けようとしてみたが、開かなかった。外から鍵がかかっているのだ。
「…どうして?」
 今までも確かに鍵はかけられていたが、それは外へ行く小屋の扉だけだった。自室の扉や窓までも鍵をかけられたことは今までなかった。
 じわり、と背中から冷たいものが湧き上がる。
「パパ?」
 扉を叩いて父親に呼びかける。父親の返事はなかった。それどころか、小屋にいる気配がない。がたがたと扉を揺らす。クリスティの力ではびくともしなかった。
「パパ!どうして私の部屋にも窓にも鍵をかけるの?パパ!」
 
 クリスティ、クリスティ!
 
  混乱して叫ぶクリスティに小鳥達が窓の外から話しかけている。クリスティは慌てて窓により小鳥達の話に耳を傾けた。

 パパが、あなたが寝てる間に窓と扉に鍵をかけたのよ。
 パパはたぶん町へ行ったわ。
 町へ行ってお医者さんから薬をもらってくる気だわ。
そう独り言を言っていたの。


「どうしてお医者さんなの?私どこも悪くないわ!」
 風邪も引いていないし、怪我もしていない。昨夜も、食欲があるように見せかけてケーキとキイチゴを食べていた。医者に薬を貰う理由がわからなかった。小鳥達も人間のことはそれほどわかっていないので、何故そんなことをしようとしているのか心底理解できないように首を傾げている。
 しかし、クリスティは考える。
(…私が子守歌を思い出したから?でもどうして?)
 とても嫌な予感がした。ここから出なければ、逃げなければ、と脅迫的に思う。
「小鳥さん!助けてここから出して!」
 窓の外の小鳥達に呼びかける。

 ちょっと待っててね、クリスティ。
 この針金では鍵と違ってクチバシだけではどうにもできないわ。
 ちょっと待てってね。

 小鳥達は一旦、窓から離れる。それを見送って、クリスティは落ち着きを取り戻そうと毛布を被る。本当に少し落ち着いたが、とにかくここから出なければ、という焦りが消えることはなかった。何もかも怖かった。小屋の扉から今度は自室の扉と窓。狭まっていくクリスティの世界。閉ざされた扉も窓も。薬を持ってくるという父親も。

 クリスティ。

 すぐに小鳥達が戻ってきた。クリスティは縋るように窓に近づく。そこには小鳥達の他に小さな野鼠が三匹いた。一匹目は背中にシロツメクサを生やし、二匹目はしっぽの先に四葉のクローバー、三匹目は首のあたりに赤い花を咲かせている。姿からしてロルフの「子供達」だろう。野鼠達は、ちうちう、と鳴きその鋭い前歯で窓を閉ざす針金を噛み始めた。あっと言う間に噛み千切る。
「ありがとう、野鼠さん!」
 クリスティは窓を開け、寝間着に毛布を被ったまま外へ飛び出した。
 どうして逃げるのか。どうして何もかもが怖いのか。よくわからないが、ここから出なければという強い思いだけで、クリスティは飛び出した。天気はよかった。朝日が昇って大分経っているようだ。寝坊していたのだろう。父親は一体、いつ戻ってくるのか。それも考えたが今のクリスティはとても父親に会う気持ちにはなれなかった。
 けれど、どこへ逃げようというのか。
(ロルフ)
 真っ先に思い出したのは当たり前のようにロルフのことだった。ロルフのところへ行かなければという思いだけで、クリスティは走る。何かに誰かに追い立てられているわけではないのに、走った。とてもロルフに会いたかった。それだけしかクリスティは考えていなかった。
 しばらく走ってすぐに息が切れる。ふらふら、と走るのを止めて木にもたれかかった。まだ、花畑にも着いていなかった。天気がよくても薄暗く湿った森の奥。

 クリスティ、クリスティ!休んではだめよ!

 小鳥達は警告するように騒いでいるが、クリスティは座り込んだ。急に走りすぎただけではない。わけのわからない混乱が呼吸を乱している。何故か、涙があふれてきた。思わず手で顔を覆う。
(パパ、パパ。どうしてなのパパ?)
 夢の中で。
 いつも母親とクリスティのことを心配してくれていた父親が、毛布を被せてくれていた父親が、今、とても怖い。とても理不尽なことそのもののようで。

 クリスティ!

 小鳥達が叫んで、クリスティの毛布を引っ張る。しかし、クリスティはまだ顔を上げれなかった。


 ぐるるるる。

 その時。
 声がした。
 何か獣の唸る声だ。

「…ロルフ?」
 クリスティは顔を上げた。しかし、少し離れたところにいたそれはロルフではなかった。そもそもロルフは赤い紐のせいで湖の側からは離れられない。
 ぐるるるる。
 そこにいたのは、灰色のオオカミだった。
 けれど、ロルフとは比べものにならないほどみすぼらしいオオカミだった。
 ばさばさの乾いた毛皮に所々毛が抜けていて、赤い皮膚が覗いている。アバラが浮き出ていて、足も骨と皮だけだった。
 剥き出した牙は黄色に染まり、口の端からだらだらとヨダレを垂らし、泡を吹いていた。
 なにより一番恐ろしいのは、薄い水色の目の焦点が合っていないことだった。クリスティを見ているはずなのにぐるぐる眼球があらぬ方向に動いている。
「…オオカミ…」
 ロルフではない、絵本で見たどこか脚色されたオオカミでもない。本物のオオカミ。クリスティの声は哀れなほど震えていた。ぐるぐるぐる、と泡を吹きながらオオカミが近づいてくる。動けない。体が凍り付いたようだ。ロルフの時とは違う。明らかに違う恐怖が。

 クリスティ!
 逃げて!
 あれは別の森から来たのよ!
 主人の「子供達」じゃないわ!

 小鳥達が叫んだ。
 それの声に我に返ったクリスティは夢中で立ち上がり、後ろを振り返ることなく走る。同時に、うおおおん、と狂ったような獣の鳴き声がした。追いかけてくる気配。クリスティは走った。けれど、それほど足も速くないクリスティが逃げきれないのはわかりきっていた。怖い。迫ってくる。鳴き声が木霊す。オオカミと同時に死が追いかけてくる。
 ふと、クリスティは自分の身が食われることを想像してしまった。
 オオカミの爪で顔を抉られ、牙で腹を裂かれる、あまりに残酷で現実的で鮮明すぎる。少し前までのクリスティには想像もできなかった残酷なもの。酷いもの。醜いもの。それが一気に押し寄せてくる。
(ロルフ!)
 クリスティは胸の中で叫んだ。声には出せなかった。息がまともにできてないほど走っていた。後ろでオオカミの唸る声。小鳥達の聞いたこともないようなけたたましい鳴き声。
 クリスティは走った。窓から飛び出してきたので、裸足だった。時々石や木の根を踏んで痛かったが止まらなかった。
 開けた場所に出る。ようやく湖が見えてきた。
(ロルフ、ロルフ!)
 よろめきながら走る。しかし、オオカミは追い付いていた。クリスティの背中に迫る。追い付かれたクリスティは、どん、と背中を押される。伸し掛かられたのだ。前に倒れた。キイチゴの群生に顔から倒れこんだ。ぶちゅ。キイチゴがクリスティの頬で潰される感触が。
 ひどくぞっとして。
 しかし、背中にかかっていた爪の感触がなくなった。倒れたまま振り返れば、オオカミは怯えたように耳を下げ、尾を丸めて唸っている。何故怯えているのか。クリスティにはよくわからなかったが、どうやら湖の水を怖がっているようだった。クリスティは必死に立ち上がる。

「ロルフ!」

 ついに叫んだ。肺に残っていた最後の空気を吐き出すように叫べば、頭がくらりとした。ついに膝をついてしまう。水を怖がりながらも、目の前の獲物を逃がすことの方が惜しいのかオオカミが飛びかかってきた。

 クリスティは自分の身が食われることを想像する。
 オオカミの爪で顔を抉られ、牙で腹を裂かれる、あまりに残酷で現実的で鮮明すぎる。酷いもの。醜いもの。絵本で読むのとは違う。理性があり喋るオオカミだったロルフとは違う。

『あら、ロルフはやっぱり私を食べたいの?』
『そうだと言ったらどうする、クリスティ?怖いオオカミからおまえは逃げるか?』

 これは、目の前の現実だ。

 ごきん。
 瞬間。骨の砕ける音がした。同時に、甲高いオオカミの叫び。
 クリスティは膝をつきながら後ろを振り返った。
 そこには怖ろしいものがあった。
 先ほどまでクリスティを食おうとしていたオオカミが。
 大きな黒い獣の顎と牙で噛み砕かれていた。
 ごきん、ごきごきごき、ぞぶっ。
 骨と内臓の潰されるおぞましい音。オオカミの潰れた悲鳴。
 オオカミは口から血の泡を吹き、最後に、ごふっと大量の血を吐いて絶命した。
 大きな黒い獣はまるでゴミのようにみすぼらしい死骸を放る。
 どさり、と死骸が地面に落ちた。
 黒い獣の大きな牙はどす黒い血に染まり。目は爛々と金色に輝いている。
 胸の毛皮に大量の血がついていた。それは黒い毛にしみこんで、てらてら、と怪しく輝く。濃い血の匂い。
「…ロルフ…」
 クリスティは茫然とつぶやく。助けを求めて先ほど名前を呼んだはずなのに、クリスティは動けなかった。座り込んだまま、ロルフの血にまみれた姿を凝視する。
 ロルフは、そんなクリスティの姿を見て、ふ、っと血なまぐさい息を吐いた。笑ったのだろうか。クリスティにはわからなかった。
「…クリスティ」
 ロルフは血に汚れた姿のままクリスティを見つめている。その目からは、何も読み取れなかった。無感情な目。ただのガラス玉のようだった。まるでオオカミの形をしていながら本当の中身はからっぽのように。
「……」
「ワタシが怖いか?」
 クリスティは答えられなかった。立ち上がることもできない。足が震えていた。冷たい汗がまだ流れてくる。息が荒い。
「怖いオオカミからおまえは逃げるか?」
「……」
 どくどくどく、と。走ったせいばかりではない。痛いぐらい心臓が打つ。思わず毛布を握り、頭から被った。
「いいだろう、クリスティ。ワタシが質問ばかりするのは今死にかけてたおまえには酷だ。…今日は、一つだけ質問に答えてやろう」
 ロルフはべろりと口の周りを汚す血を舐めて取る。その姿にクリスティは得体の知れない何かを感じた。いや、この目の前のオオカミは最初から得体が知れなかったのである。
 少し時間が経った頃だろうか。数分間だけだったかもしれない。クリスティの呼吸は落ち着いていた。毛布の中は温かくクリスティを守ってくれている。いつもそうだった。そのクリスティにだけ与えられた世界の中で、クリスティは考える。考えた。つい数日前まで冗談のようにロルフを交わしていた言葉が、今はとても重くて喉から出てこない。唾を飲みこんで、クリスティは意を決した。
 
「…ロルフは私を食べたいの?」

哀れなほど震えた声。

「そうだ」

 冷酷なほど間のない返事。

 ロルフが側に寄ってくる気配がした。クリスティは毛布を深く深く被って何もかもから視界を遮った。
「…ワタシはおまえを食べたいよ、クリスティ。おまえを食べなれればワタシは自由になれないのだ」
 ロルフが鼻を寄せる気配がする。クリスティはますます小さくなった。
「はじめに言ったな。ワタシが天から堕とされたものであると。ワタシの湖に映る姿を見たね?」
 はっきり覚えている。湖に映る真っ黒なただの影。オオカミの形でもなければ人の形でもない影だった。
「あのように、ワタシはここにいるようでいないものなのだ。ワタシが噛み千切った神の給仕の右腕以外、ワタシはすべてを取り上げられた。左腕も。耳も。内臓も。皮膚も。すべてだ。今ここにワタシがいるのはこの赤い紐に繋がれているからだ。この紐はワタシを拘束するものであるけれど、ワタシを世界に繋ぎ止める最後の綱だ。ワタシの周りに小鳥達や獣達が異形の姿で育つのは、ワタシがわざとそうさせた。いつかワタシ自身ができずとも紐を解かせるための力をつけさせるためにだ。けれど、魂がとどまる肉体がないのに、どうして紐を切ることができる?まずはどうしても肉体が必要だった。だから、できれば、クリスティ、おまえのような丁度いい素材を、見つけるために」
 ぴぴぴぴ。小鳥達が鳴きながら毛布の隙間から入ってきた。心配そうに眼を潤ませクリスティを覗き込んでいる。絵本で読んだ妖精のような、植物を生やした不思議でかわいい生き物達。けれど、クリスティはそんな小鳥達をぼんやりと見つめるばかりだった。
(私は、何を見てきたんだろう)
 おしゃべりの相手をしてくれた小鳥達。きれいな花畑。クリスティの夢の中に出てきた、母親と住んでいた庭のような低木の森。大好きなキイチゴの畑。美しい湖。スイレン。
 クリスティを強烈に惹きつけて止まない、美しいもの。かわいいもの。美味しいもの。怪しいもの。知らないもの。
 それらをオオカミは用意して。
 娘が惹きつけられるものの中へと、誘い込み。
 寄り道をさせて迷い込ませ。
 言葉巧みに、ほらもっとよく見てごらん、と騙して近づいて。
「おまえを食べようと思っていた」
 小鳥達が気のせいだろうか、本当に悲しそうに俯いた。
「醜いものではダメなのだ。おまえのように、本当に清らかなものでないと。おまえの清らかな肉でないと、ワタシは上へは戻れない。あそこは穢れた醜いものを許さないからだ。だから穢れた存在だったワタシの血を流させずにすべてを取り上げ、紐でくくるだけにした。だからどうしてもおまえしか、いなかった」
 クリスティはどうしても今のロルフの顔が見れず、毛布にくるまっていた。 
 そうしてどれぐらい時間が経ったのだろう。数秒だけだったかもしれないし、数分間はあったかもしれない。
 ロルフは、毛布から出てこないクリスティを見下ろして、こう言った。

「…だが、もうできない…」

「もう…おまえを食えない」

「どうしても、もうできないんだ」

 一言ひとことを。
 そこにあるようでそこにはない、肉を骨を皮膚を鋭い爪で抉るように。ロルフは言った。
 心臓が痛いぐらい締め付けられた気がして、クリスティは毛布から顔を出す。しかし、ロルフは湖の方を向いて、クリスティからはコケの生えた黒い背中しか見えなかった。
 
「…どうして?」

 クリスティは質問をした。

「…何故だろうな。クリスティ」

 ふ、とロルフは息を吐いたようだ。その重いため息の中から小さな春毛の茶色いウサギが生まれ出る。ウサギは右耳の付け根に赤いチューリップを生やしていて、クリスティの周りを二、三度跳ねるとどこかへ行ってしまった。


「…今日の質問はもう終わった。それには答えられない」

 その言葉と同時にクリスティは立ち上がり、駆け出していた。どこへ行こうと思っていたのかわからない。何も考えていなかった。ただ、ロルフの側から離れたかった。それだけだった。

「クリスティ」

 呼ばれた気がした。それはただの哀れなオオカミですらないものの声だった。
 

赤毛布の娘 4

赤毛布の娘 4

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-27

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