渋谷論
森須安太郎 作
もうどれくらい前からだろう。
いつの間にか、何処へゆくにも、「渋谷駅」を避けるようになった。
だが、祐天寺の家から都心へ入る近道として渋谷を経由しなければならないこともあり、乗り換えるたびに嫌な気持になり、後悔するのである。
それでも、ハチ公の話は好きで、田舎にいたときは、一度は行ってみたいと思っていた場所であった。
七年にわたる海外生活から帰ってきたとき、久しぶりの故郷の安心感のなかに浸っていた私は、自分が逃げてきたものを渋谷に見つけて眩暈のする思いがした。
あのスクランブル交差点を渡るたびに経験するのは、神なき文明都市東京が生み出してしまった最も悪性の無秩序である。虚無である。
あれだけの人が広場を完全な私的空間として横切る。消費者としてモノ化された人びとの群がいくら膨らもうと「公共」は存在しない。
場所が“ストリート”であればまだ目的がはっきりとしているだけ良いのかもしれない。私がスクランブル交差点で実感させられたのは、ヨーロッパの多くの都市にある広場にみられるように、「円形」は公共性のかたちであるということだ。渋谷のスクランブル交差点でわれわれが体験するのは極限まで高められた機能性が円形の公共性を喰らうその様である。
誰かがロンドンが渋谷のスクランブル交差点を真似する計画があると聞いたが、日本はとうとう本家に近代的ニヒリズムを逆輸入するところまで来てしまったのであろうか。
この無秩序のなかで人は人になれない。
渋谷における、記号による行動の完全なるコントロールは、ふとしたときに人を暴力的にするだろう。
たびたび起こる妙に発作的な殺人事件も偶然ではないのだろう。
ハチ公の話に戻ろう。
仲代達也主演の映画に登場する役者たちの服装をみればわかるように、ハチ公の生れた大正時代は和服と洋装の混交した日本の近代化のまっただ中にあった。
ハチ公の主人である上野英三郎教授は教授会会議中に脳溢血で倒れた。
文明開化がハチ公の主人を奪ったのである。
それでもハチ公は、帰ることのない主人を待ち続けて人の集う「場」をつくった。
けれども主人を奪った近代文明はいまもハチ公の眼前で日本人を奪い続けている。
「只待つ」という行為が象徴するように、ハチ公が一身をもって守った実に日本的な公共秩序を、こうも容易く滅びるままにしてよいのだろうか。
私たちはいつまでハチ公を待たせるのだろう。
渋谷論