雪童子
道理で冷える筈だ、と吐き出した息が白い。
道理で冷える筈だ、と吐き出した息が白い。敏治が店の暖簾を掛けようと表に出ると、いつの間に降ったのか、外にはうっすらと雪が積もっていた。暖簾を手にしたままぼんやりと雪を眺めていると、ふと視線を感じて敏治はその視線に振り向いた。通りの向こうに白い毛糸の帽子に赤いマフラーを巻き、水色のセーターを着た子供が立っており、じっと敏治を見つめている。何処にでも居そうな普通の少年だが、その顔に見覚えは無い。少年は敏治と目が合うと、さっと身を翻して向こうの路地へと逃げ込んでしまった。柔らかく積もった雪の上に、少年の小さな足跡だけが取り残される。敏治は首を傾げながらも、暖簾を掛けて店に戻った。敏治は祖父の祖父の代から続く和菓子屋の五代目だ。継ぐ事を強いられた事は無いが、幼い頃から継ぐのが自然だと思っていたし、また他に夢も持たなかった。家から一度も出る事無く高校卒業と同時に店を継いだ為、この辺り一帯の人間とその家族構成、交友関係についてはある程度把握していると自負している。勿論全てではないにしろ、大体の人間の顔と名前は一致する。しかし、いくら考えてみても、先程見た少年の顔に見覚えは無い。今世間は冬休みに入っている。とすると、冬休みで帰省した家族連れの子供だろうか、と敏治は番重に和菓子を並べながら思う。それなら、少年の顔に見覚えが無いのも納得出来る。それにしても、と敏治は内心で嘆息を漏らす。昨夜の内に積もったらしい雪の所為で、今日の客の出足は鈍いかもしれない。御歳暮や御年賀の売上がある為にそれ程困窮する事は無いが、最近は急激な冷え込みの所為でただでさえ客の出足が鈍い。そこへこの積雪とくれば、店にとってはそれなりの打撃になる。硝子戸になっている出入口へ敏治が恨めしげな視線を投げ掛けようとしたところへ、先程の少年が硝子戸にぴったりとへばりついて中を覗き込んでいるのが目に入った。たった今敏治が並べたばかりの和菓子を、くるりと丸い目をきらきらと輝かせて見つめている。敏治がショーケースから顔を上げると、少年ははっとして敏治を見た。慌てて硝子戸から離れ、背中を向けて一目散に逃げ出す。小さな和菓子屋が珍しいのだろうか、と逃げ去る小さな背中を目で追いながら思う。敏治は和菓子を並べる作業を再開し、それを終えると店の奥に引っ込んだ。
やはり今日の客の出足は鈍い。開店から一時間以上経っても、まだ客の一人も訪れる気配が無い。敏治は店の奥から顔だけを覗かせて忌々しげに店先を見遣る。すると、またも少年が硝子戸にへばりついて中を覗き込んでいた。興味津々といったその様子が余りに露骨で、敏治はいよいよ苦笑した。正面から行ったのでは、少年はすぐさま逃げ出してしまうだろう。どうしたものかと考え、敏治は裏口から少年の背後に回り込む事にした。音を立てないようにそっと裏口から出て、硝子戸にへばりついて中を覗き込むのに夢中な少年の無防備な背中に回り込む。少年は敏治に気付く様子も無く、食い入るように店の中を、正確にはショーケースに並べられた和菓子を見つめている。敏治は出来るだけ優しい声音を心掛け、少年の無防備な背中に声を掛けた。
「おい、小僧」
口調が荒っぽくなってしまうのは敏治の元々の性格に因る為、仕方がない。せめて声音だけでも柔らかくしようと努めただけまだ殊勝といえる。突然背後から声を掛けられた少年の肩がびくりと跳ねる。恐る恐る振り返り、背後に立つ敏治を見るなり身を強張らせた。そしてすぐに身を翻して脱兎の如く逃げ去ろうとするので、敏治は向けられた小さな背中に慌てて声を掛けた。
「待て待て、取って食いやしねぇよ。別に怒りに来た訳じゃない」
敏治の言葉に、少年はぴたりと足を止めてそろそろと振り返った。その顔には不安がありありと浮かんでおり、警戒の色が濃く滲んでいる。敏治は安易に近付こうとはせず、一定の距離を保ったまま少年に話し掛けた。一歩でも近付けば、否、身動ぎの一つでもしようものなら、少年が忽ち逃げ去ってしまうだろう事が分かったのだ。
「小僧。家みたいな和菓子屋は珍しいか」
尋ねると、少年は警戒の色を浮かべて敏治を見上げたまま、僅かな間を置いてこくりと小さく頷いた。
「お前、和菓子は好きか」
少年はまたもこくりと頷く。敏治はそれを見て、そうか、と頷いた。
「じゃあ、ちょっと待ってな」
一旦はそのまま店に入ろうとするも、すぐに不安げに自分を見上げる少年の視線に気が付き、一度足を止めて少年に振り返り、逃げんなよ、と釘を刺す。少年はぎくりと表情を硬くしたものの、一応は身を翻す事無く大人しくその場に留まっている。逃げ出そうとする気配が無いのを見届けてから、敏治は硝子戸を開けて店に入った。それから適当に目についた吹雪饅頭をショーケースから取り出すと、そのまま吹雪饅頭を手に少年の許へ戻った。
「よし、ちゃんと待ってたな」
吹雪饅頭を携えて少年の前に立つと、大人しく待っていた少年がくるりと丸い双眸でじっと敏治を見上げる。敏治は見上げる少年の前に吹雪饅頭を差し出した。少年は事情が呑み込めない様子で、きょとんと目を丸くして差し出された吹雪饅頭と敏治とを交互に見比べる。
「やるよ」
焦れた敏治がぶっきらぼうにそれだけを言うと、少年は益々目を丸くして敏治を見た。それからちらりと吹雪饅頭を見遣り、今度は途方に暮れたような顔付きで敏治を見上げる。その表情の意味と、なかなか手を出そうとしない意図を察した敏治は苦笑した。
「何だ、金の心配か?ガキが妙な遠慮してん
じゃねぇよ。最初から金を取るつもりは無かったんだ。一つくらい構いやしねぇから、いいから黙って受け取っとけ」
そう言って更にずいと乱暴に吹雪饅頭を差し出す。少年は暫く差し出された饅頭を困惑した様子で見つめていたが、逡巡した後、やがてはぎこちなく笑い、敏治を真っ直ぐに見据えた。その目がありがとうと言っているのを、敏治は確かに見た。敏治が頷くと、少年はおずおずと手を伸ばして漸く吹雪饅頭を受け取った。律義に敏治を見遣ってから饅頭に口を付け、一口齧ってもごもごと咀嚼する。一瞬の後、ぱっと顔を輝かせて吹雪饅頭と敏治を見る。言葉にはしなくとも、その表情だけで敏治には十分だった。
「美味いか?」
それでも敢えて敏治が問うと、少年は夢中で何度も大袈裟に頷いた。そうか、と敏治も満足気に頷き返す。少年は敏治が見ている前で吹雪饅頭を大事そうに五口に分けて口に含み、咀嚼を一生懸命に繰り返して他の子供が食べる倍近くの時間を掛けて美味そうに吹雪饅頭を平らげた。その顔には至福が満ちている。幸せそうな顔のまま敏治を見ると、ぺこりと頭を下げた。ご馳走様でした、と伝えたいのだろう。敏治も笑みを浮かべた。
「こっちこそ、美味そうに食ってくれてありがとよ」
敏治が言うと、少年はにこにこと笑ってもう一度頭を下げた。そして顔を上げ、手を振りながら歩き出す。どうやらもう行ってしまうつもりらしい。
「おう。また来いよ、小僧」
敏治も小さく手を振り返し、いつまでも振り返って手を振り続ける少年の姿を見送った。余程嬉しかったのだろう。見えなくなるまで手を振り続ける少年の姿を見ていると、敏治の胸にも温かなものが満ちた。何故自分でもこんな事をしたのかは分からない。敏治が知り合いでもない子供にただで和菓子をくれてやる事など滅多に無い。それでも、嬉しそうに手を振り続ける少年を見ていると、偶にはこんな気紛れも悪くはないかと敏治は思った。
その日の店仕舞い、暖簾を下げようと敏治が表に出ると、店の隅に小さな雪兎と雪だるまが並べられていた。見下ろす敏治の目を、南天の実で拵えられた赤い目が静かに見上げている。その目を見ていると、少年のくるりと丸い双眸が思い出された。近所にこんな事をする人間は居ない。とすると、この雪兎と雪だるまを作って並べたのは、やはりあの少年だろう。敏治は白い息と共に笑みを零した。
「まったく、これで礼のつもりかよ」
その口調とは裏腹に、零れ落ちた白い息は甘い。敏治は暖簾を手に持ったまま、暫く店の隅に並んだ小さな雪兎と雪だるまを眺めていた。
雪童子
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
せめてもの慰みになりましたら、幸いです。