てのひらの魔法
巴月の世界は、極狭い世界で成り立っている。
巴月の世界は、極狭い世界で成り立っている。父、母、巴月、妹の陽穂の家族四人で暮らす二階建ての一軒家を拠点とし、その中で私室として宛がわれた七畳程の庭続きの洋室が、巴月が一日の大半を過ごす場所である。庭に続く窓が、数少ない外の景色と巴月とを繋いでいる。母が芝を敷き詰め、季節毎に違った花を植える、丹精を凝らして造り上げた庭を、日がな一日ぼんやりと眺めて過ごす事を、巴月は気に入っていた。
部屋自体の内装は、同じ年頃の女の子の部屋と比べて随分とさっぱりしている。女の子らしい物といえば、窓に備え付けられた純白のレースのカーテンに、大小合わせたウサギのぬいぐるみが二つ、机の上に置かれた小物入れくらいの物で、あとは四方を白で覆った壁に、板張りの床にクリーム色のカーペットを敷き、何の飾り気も無い簡素な勉強机と同じく簡素なベッド、ベッド脇に置かれたスタンド式の小さなデジタル時計、壁に音を立てずに振れる振り子時計があるだけだ。細々とした物は仕舞ってある為に、目に付く物といえばその程度だった。
巴月は生まれつき体が人より丈夫でない。
毎日学校へ通う事すら儘ならず、調子が悪い日が続けば月の大半を部屋のベッドに横たわって過ごす事になる。文字や映像を追い続けると後々になって疲れが出てしまう為、ベッドに横たわって過ごす時は漫然と白い天井を眺めるか、母が丹精を凝らして造り上げた庭を眺めて過ごしている事が多い。その中でも調子が良い時には庭に出てみたりもするのだが、生憎と今は体調を最も崩しがちな季節の変わり目で、少しでも無理をすると風邪を引いて拗らせたり、貧血を起こして倒れてしまう為、ここ暫くは大人しくベッドに横になっている。今更我が身を呪ったところでどうにもならない事は重々承知しているが、部屋に籠って床に伏したままでいると、流石に気分は鬱々としてくるものだ。せめてもの抵抗として冷たい風が入り込んで来るまでは外の空気を感じられるよう窓を開け放してはいるが、吹き抜ける風がいくら部屋の中を通り抜けようとも、部屋や巴月の心に澱んだ暗鬱な空気までは浚っていってはくれない。単調で、退屈で、無機的な、それでいて平穏で、安全で、絶対的な極狭い隔離された世界こそが、巴月の世界だった。そんな色があるようで無い、くすんだ狭い世界で巴月が毒されず、腐る事無く過ごす事が出来るのは、妹の陽穂の存在によるところが大きい。
陽穂は、巴月より五歳下の妹だ。巴月の体が丈夫でない分、人よりも健やかに育ち、病気知らずといった体で常に元気に走り回っているような女の子になった。その陽穂は、魔法が使えるのだった。陽穂自身がそう公言した訳ではなく、勿論両親がそう言った訳でもないが、巴月はそう信じて疑わなかった。空を飛んだり、呪文を唱えて願いを叶えたり、そういう分かり易い魔法とは毛色が違う。陽穂が使う魔法は、もっとささやかなものだ。ささやかで、しかし暗鬱とした巴月の心を晴らすには十分な魔法。そういう意味では、陽穂が纏う底抜けに明るい雰囲気や、屈託の無いあどけない笑顔も、或いは魔法と呼べなくもないのかもしれない。陽穂の存在に、巴月は随分と救われてきた。陽穂の傍で纏う雰囲気に触れ、向けられる笑顔を目にすると、どんなに暗く落ち込んでいる時であってもいつの間にか穏やかな気持ちになれるのである。が、巴月が密やかに魔法と呼んでいるのは、そういった類ともまた違うものだった。陽穂の魔法は陽穂の掌から生まれ、巴月の掌へと伝わるものだった。陽穂は毎日掌から優しい魔法を生み出し、それを穏やかに巴月の掌へと伝えてくれる。巴月は極狭い閉ざされた世界で、毎日陽穂の掌の魔法を待ち焦がれた。そして、今日も。
そろそろだろうか。巴月は胸中でひとりごつる。時刻は十六時半を過ぎようとしている頃で、もし陽穂が誰とも約束をしておらず、真っ直ぐに帰宅するのであれば、もうそろそろ家に帰り着いてもいい頃である。巴月は先程時刻を確認してから一分と経たない内に忙しなくベッド脇に置いたスタンド式の小さなデジタル時計に視線を滑らせた。そして、やはり僅か十数秒しか経過していない現実を目の当たりにし、嘆息を漏らす。時を明確に刻む秒針のリズムを嫌う為、巴月の部屋には秒針が音を立てるタイプの時計は置いていない。ベッド脇の小さなデジタル時計も、壁の振り子時計も、部屋の主に気付かれない様ひっそりと時を刻んでいる。普段は無為に過ぎる時を毛嫌いし、それを知らせる時計になど見向きもしないくせに、この時ばかりは様子が違ってものの数分と経たない内にデジタル時計と振り子時計とをちらちらと交互に見遣る。何度目かのにらめっこの末、もうそろそろだろうかと再び巴月が胸中でひとりごちた丁度その時、玄関から溌剌とした声が響いた。
「ただいまー!」
陽穂の声だ。よく通る陽穂の朗々とした声に、巴月はベッドの中でくすくすと忍び笑いを漏らす。陽穂の声が響くだけで、部屋の中に澱んだ暗鬱とした空気が払拭される様だった。軽快な足音が庭先を駆けて来る。玄関口からは入らず、帰宅するや否や庭に回り込み、庭続きになっている巴月の部屋目がけて一目散に駆けて来るのが陽穂の常だった。日が暮れてからの冷ややかな風は体に障るからと、夕影が落ちる頃には庭続きの窓を閉めるよう両親に言い付けられている。しかし、巴月は帰宅するなりまず庭に回り込んで巴月の部屋を訪れる陽穂を迎える為、陽穂が帰るまでは窓を開け放したままでいるのだった。両親もそれを知っていて敢えて黙認している節がある。両親が何も言ってこないのを良い事に、今日も陽穂は庭から回り込んで巴月の部屋を目指し、巴月も庭続きの窓を開け放したままでいるのだった。尤も、巴月は別にしても、陽穂は一度こうと決めて言い出したら、誰に何を言われようとも頑として聞き入れない性格ではあるのだが。
段々と庭から部屋へと近付いて来る足音を聞き、巴月はベッドの上に横たえていた体を起こす。いくら横になっても、拭えない気だるさが留まる体を起こすのは容易な事ではなかったが、陽穂を迎える為ともなれば少しも億劫には感じなかった。数秒後、開け放した窓からお気に入りの水色のランドセルを背負ったままの陽穂が、息を弾ませて顔を覗かせた。庭だけでなく学校から家までの距離を駆けて来たのか、ぷっくりとした頬がほんのりと上気している。部屋の中を覗き込んで巴月が起きている事を確認すると、あどけない顔に満面の笑みを湛えた。
「おかえりなさい、あきちゃん」
「ただいま、つきちゃん」
窓から顔を覗かせる陽穂を微笑んで迎える。陽穂は嬉しそうに返事をした。いつもそうしている様に、今日も掌から魔法を伝えてくれるつもりらしく、まるで真綿でも包むかの様に、掌を内側に上下重ね合わせた手を大切そうに胸の前に掲げている。そのまま重ね合わせた手を維持する為、荒々しく足を振り回して手を使わずに履いていたスニーカーを脱ぎ散らかし、ささやかな縁側に見立てた縁台に足を掛けて窓から部屋に上がり込む。陽穂の足からすっぽ抜けたスニーカーは、母が丹精を凝らして造り上げた庭にそれぞれ明後日の方向へ飛んで行った。陽穂は飛んで行ったスニーカーになど目もくれず、いそいそと巴月が上体を起こすベッド脇までやって来ると、にんまりとした顔で重ね合わせたままの手を巴月に差し出した。
「はい、つきちゃん。おみやげ」
おみやげと称して差し出された手を、巴月は興味深げに見つめる。
「まぁ、なぁに?」
差し出された手に顔を近付けると、陽穂が
そっと重ね合わせていた手を開いた。掌を下にしていた右手を退かしたので、掌を上にしていた左手だけが残される。そこにはビニールで包装された大きめの紅い飴玉が二つ、ころりと並んで乗っていた。紅い飴玉を目にし、次いで顔を上げて陽穂を見た。すると、陽穂は得意満面の表情を浮かべた。
「今日学校から帰る途中にね、道に迷ってるおばあちゃんがいたの。そのおばあちゃんに声を掛けて、道を教えてあげたらね、おばあちゃんがどうもありがとうって、お礼に飴をくれたんだよ。二個貰ったから、つきちゃんと一個ずつで半分こしようと思って大事に持って帰って来たの」
誇らしげに、掌に乗せた紅い飴玉を改めて巴月に差し向ける。褒めて褒めて、と言わんばかりに張られた胸と、得意気な表情が可愛らしい。
「そう。おばあちゃんに道を教えてあげて、えらかったのね」
陽穂とて最初から見返りを期待して声を掛けた訳ではないだろう。目の前に困っている人間が居たから、単純に声を掛けた。陽穂からしてみれば、ただそれだけの事だったろう。さり気無い親切というのは、その実人によっては酷く難しいものだ。それを極自然にやって退けるのが陽穂だった。今回は結果的に褒美として飴玉を受け取ってはいるが、例えば声を掛けた人間が感謝の言葉すら口にしなかったとしても、陽穂は少しも気に留めないに違いない。何の躊躇も無く、見ず知らずの赤の他人に手を差し伸べる事ができ、感謝をされれば手放しで喜ぶ事ができる無垢な自慢の妹の頭を、巴月は掌でそっと撫でる。細く繊細な髪を指で梳けば、陽穂はくすぐったげに目を細めた。さらさらとした指通りを一つ一つ確かめる様にして掬い、その気持ち良さに巴月は口許を緩める。
「さぁ、ちゃんと玄関から入り直して、手洗い嗽をしていらっしゃい。その後で、一緒に
おばあちゃんから貰った飴を頂きましょう?」
髪から指を離して促すと、陽穂は巴月の言葉をすんなりと受け入れた様子で頷き、ちらりと紅い飴玉を見遣った。視線の意図を汲み取り、巴月が手を差し出す。
「あきちゃんが戻って来るまで、飴は大事に預かっておくから、ね?」
陽穂は差し出された手に然して迷う事無く紅い飴玉を二つ乗せた。陽穂がずっと大切そうに掌で包んでいた為、飴玉を溶かす程ではないにしろ、ビニールの包装が微かに温もりを帯びている。それはそのまま陽穂の優しさの温度の様に思えた。
「すぐに戻って来るから、待っててね?」
確認する様に言う陽穂に、巴月は微笑を浮かべて応えた。陽穂はそれを目に留めてからベッド脇を離れ、水色のランドセルを揺らして、入って来た庭続きの窓から出て行こうとする。部屋に上がる際に庭に脱ぎ散らかしたスニーカーは、そのまま明後日の方向に転がっている。しかし、元より陽穂が窓から部屋に上がり込む時は、靴を揃えた例が無かった。大抵は今日と同様足を荒々しく振り回して履いている靴を脱ぎ散らかし、母が丹精を凝らして造り上げた庭に転がしてしまう。その為、縁台の下にはいつの間にか陽穂専用のサンダルが用意されるようになっていた。縁台に立った陽穂は慣れた様子で下からサンダルを引っ張り出し、無造作に足に突っ掛けて転がしたスニーカーを取りに庭へと降り立った。そのスニーカーを履く時も、爪先でひょいと向きを正して足を突っ込んだ。両足共スニーカーに履き直すと、サンダルを指に引っ掛けて縁台の下に放る。顔を上げざまに巴月を見て笑い、もう一度待っててね、と念を押した。巴月ももう一度微笑を浮かべて応えた。それに満足気な表情を返し、陽穂は今度こそ水色のランドセルを揺らして庭を出て行った。遠ざかる足音に、巴月はくすくすと笑みを零す。短い間を置いて玄関扉が開き、改めてただいまと声高に言う声が響いた。迎える母の呆れ顔が目に浮かぶ様だった。小走りに廊下を進む足音を耳に、巴月は掌に乗せられた紅い飴玉に視線を落とす。陽穂の優しさをそのまま象徴する飴玉は、ころりと二つ部屋の電灯に照らされ、掌の中で紅く輝いている。巴月はふと口許を緩めた。これが、陽穂の掌の魔法だった。紛れもない陽穂の優しさから生み出される、掌の魔法。それは体が丈夫でなく、碌に学校に通う事すら出来ない、それどころか満足に外を歩く事さえ出来ない巴月の為の魔法だった。閉ざされた世界で生きる巴月を思い、陽穂は毎日掌の中に何かを包んで持って帰って来る。毎日毎日、学校から帰る度に何かを包んだ掌を、巴月に見せるまで大切そうに重ね合わせて。巴月はそれを掌の魔法と呼ぶ様になった。きっかけは些細な事だった。最初に陽穂が掌に包んで持って帰って来た物は、小さな二羽の折り鶴だった。その日も掌で大切そうに折り鶴を包み、庭先から巴月の部屋に上がり込むと、したり顔で重ね合わせたままの手を巴月の前に差し出した。巴月が顔を近付けると同時に、そっと重ね合わせていた手を陽穂が開く。そこには、小さな二羽の折り鶴が並んでいたのである。学校の友達と小さな折り紙を使って折ったのだという。綺麗に折る事が出来たからと、巴月の分と陽穂の分で一羽ずつ、二羽の折り鶴を持って帰って来たのだった。
「一羽をつきちゃんにあげる。もう一羽は私のね。二人で一羽ずつだよ」
陽穂は朗らかに笑って言った。巴月がありがとうと口にして、差し出された二羽の折り鶴の内一羽を受け取ると、受け取った巴月以上に嬉しそうな顔を、陽穂は満面に浮かべた。巴月は今でもその時の陽穂の顔を鮮やかに思い出す事ができる。それ以来、陽穂は毎日何かを掌に包んで持って帰って来る様になった。時には、友達と探したという四つ葉のクローバーを、時には、帰り道に咲いていたという小さな花を、時には、美味しいからと分けてもらったというお菓子を、陽穂は毎日、必ず巴月と陽穂の二人分を大切そうに掌に包んで持って帰って来る。巴月もその度に喜んで陽穂が持って帰って来る物を受け取った。そうして、巴月はいつしかそれを胸の内だけで陽穂の掌の魔法と呼ぶ様になり、現在に至る。陽穂の掌の魔法は、閉ざされた世界で鬱屈する巴月の心に温かな灯を点し、緩やかに癒した。陽穂が掌の魔法を伝えてくれるのが、巴月の楽しみになっていた。毎日陽穂が帰って来るのを心待ちにし、その時間が近付くと普段は見向きもしない時計とにらめっこを繰り返した。巴月の喜ぶ顔を見たいからと毎日大切そうに魔法を運び、それを伝えてくれる陽穂を何よりも愛おしく思う。ありがとう、というたった一言の短い言葉だけでは、とてもではないが感謝し尽くせない。そして、巴月は魔法を伝えてもらうばかりで何一つとして返す事が出来ないでいる自分を気に病んでもいるのだった。勿論、陽穂自身は見返りを求めている訳ではないのだから、そんな事は露程にも気に留めてはいないだろう。巴月がそんな事を気にしている事自体、夢にも思っていないかもしれない。しかし、実際巴月は陽穂の掌の魔法を嬉しく思う反面、受け取るばかりで何のお返しも出来ないでいる自分を後ろ暗く思ってもいた。巴月は掌で紅く輝く二つの飴玉を眺め、愛おしむ様に指先でそっと撫でると、極短い嘆息を、一度だけこっそりと零した。
「つきちゃん、お待たせ!」
そのすぐ後に、今度はちゃんと扉から陽穂が入って来た。お気に入りの水色のランドセルは部屋に戻って置いてきたらしく、背中には何も背負ってはいない。巴月は慌てて蟠る懸念を振り払い、戻って来た陽穂におかえりなさいと微笑んだ。陽穂はすぐにはベッド脇に寄らず、開け放したままの窓に近づいてそれを閉め、その足でベッド脇に立った。きちんと手を洗ってきた証として、胸の前に開いた両手を掲げてみせる。にっと笑った歯の隙間から、清涼な香りが漂う。嗽薬で嗽も済ませてきたらしい。巴月は陽穂に頷いて、預かっていた紅い飴玉を差し出した。陽穂はベッドの縁に腰掛け、巴月の掌からころりと並ぶ二つの飴玉の内、一つを摘まんでビニールの包装を開けると、いただきますと口にするや否や開いた口に飴玉を放り込んだ。大きめの紅い飴玉は、その大きさから口に含んだ陽穂の右頬を不自然に丸く膨らませた。その様子が陽穂のあどけない顔に妙に似合っていて、巴月は思わずくすりと笑みを漏らした。何故巴月が笑ったのかが分からず、陽穂は不思議そうに首を傾ける。巴月は緩々と首を横に振り、何でもないと示した。そう?と陽穂は腑に落ちない様子で、猶も首を傾ける。が、取り敢えずはきょとんとした視線だけをそのままに、特に追及する風でもなく飴玉を舐め続けている。舌で転がされた飴玉が、陽穂の口の中でころりと音を立てて、右頬から左頬に移った。文字通り飴玉を頬張る陽穂を巴月が眺めていると、食べないの?と陽穂が飴玉を口に入れたままもごもごと尋ねた。本人が喋りづらそうにしている為に尋ねた言葉は酷く聞き取り難かったが、陽穂の表情と声音から、何となくそう尋ねたのだろうと察した。巴月が陽穂を眺めるばかりでいつまでも飴玉を食べようとしないので、巴月は飴が苦手だったろうかと、眉根を寄せて露骨に不安そうにしている。巴月は急いで掌に乗せたままの飴玉の包みを開け、いただきますと声にしてから口に含んだ。甘酸っぱい苺の香りと味が、口一杯に広がる。やはり大きめの飴玉を口の中に収めて舐めるには難しく、ころころと舌で転がして持て余す。ころりと右頬に移動させれば、それを見た陽穂がきゃらきゃらと声を上げて笑った。恐らく今の巴月の右頬は、陽穂の頬同様に不自然に丸く膨らんでいるのだろう。静かな部屋に、ころころと飴玉を転がす音が響く。態と歯列をなぞらせ、ころころと音を鳴らして舐める陽穂に、巴月の頬が緩む。口に含んだ飴玉が邪魔をして上手く口を利けない為、二人で笑みだけを交わし合った。やがて、丹念に舌で転がした飴玉は徐々に溶けてその大きさを縮小させていき、漸く口の中に収まる程度に馴染んできた。陽穂がころころと飴玉を転がす音も、最初の音と比べて細く、高くなりつつある。陽穂は巴月よりも忙しなく飴玉を転がしていたので、巴月が口にしている飴玉よりは、陽穂の口の飴玉の方が小さくなっているのだろう。それまでころころと飴玉を転がす音を響かせていた陽穂の口から、唐突に、がり、と鋭い音が聞こえた。そうかと思うと、そのままがりがりと音を立てて陽穂が口を上下に動かし、小さくなった飴玉を噛み砕き始めた。巴月が呆気に取られて見ている内に少しずつ音の間隔が開いていき、遂には音は聞こえなくなった。飴玉を噛み砕いて食べ終えた陽穂が、悪戯っ子の様に笑う。目をぱちくりと瞬かせていた巴月も、つられて笑った。程無くして、巴月の小さくなった飴玉も舌の上で完全に溶けて無くなり、ご馳走様でした、と巴月が手を合わせた。陽穂も慌ててそれに倣って手を合わせ、ご馳走様でした、と口にした。
「優しいおばあちゃんで、良かったわね」
まだ口の中に残る甘酸っぱい余韻を味わいながら、同じ様に満足気な表情を浮かべている陽穂に言う。陽穂は嬉々として一度大きく頷いた。その丸い小さな頭に徐に手を伸ばし、そっと撫ぜる。掌で頭の輪郭をなぞる様にして緩やかに撫でれば、陽穂は気持ち良さそうに目を細めた。その姿はさながら猫の様で、今にもごろごろと甘えて喉を鳴らしそうな陽穂に、巴月は静かな笑みを落とす。
部屋に差す西陽が傾いていく。日中のそれと比べて突き刺すでもない柔らかな光は、部屋と二人を穏やかに満たす。時を刻む音さえ噤んだ部屋に、ただ巴月が陽穂の髪を撫で、時に指先で梳く繊細な音だけが響く。心地良い静寂の中に、目を閉じて身を委ねた。陽穂の細い髪の感触を頼りに掌を、指を動かしていると、不意に陽穂が呟いた。
「つきちゃんの掌は、魔法みたいだね」
え、と巴月が目を開いて陽穂を見ると、陽穂はとろんと細めた目のまま繰り返した。
「つきちゃんの掌はね、魔法みたいなの」
その声も、何処か夢見る様にぼんやりとしている。
「私ね、つきちゃんに撫でてもらうのがとっても好きなの。つきちゃんの掌に頭を撫でてもらうと凄く気持ちが良くて、胸があったかくなって、優しい気持ちになれるんだ」
夢見心地に語る陽穂の言葉に驚いて手を止め、声を失くして只管に陽穂を見つめる。
「だから、私つきちゃんに撫でてもらうのが大好き」
陽穂がはにかんだ様子で笑った。
「私が毎日色々と持って帰って来るのは、勿
論つきちゃんに喜んで欲しいから、っていうのもあるんだけど、一番の理由はつきちゃんの魔法の掌に撫でてもらいたいからなんだよ」
陽穂の何の飾り気も無い素直な言葉は、巴月の傾けた耳の先からじわじわと浸透していき、胸の奥深い場所に触れる。
「初めて折り鶴を持って帰って来た日の事を覚えてる?」
陽穂の問いに、巴月はゆっくりと頷いた。忘れられる筈がない。それは巴月にとっても大切な日で、陽穂が初めて掌の魔法を伝えてくれた時の事を、ついさっきも鮮やかに思い返していたばかりなのだから。頷いた巴月に、陽穂は笑みを深くした。
「あの日も、つきちゃんはありがとうって私の頭を撫でてくれた」
その時の感触を思い出しているのか、陽穂は再びとろんと目を細めた。
「その時のつきちゃんの掌の温かさが忘れられなくて、また撫でて欲しくて、何度でもつきちゃんの掌の魔法が欲しくて、私はつきちゃんのおみやげを毎日探して持って帰って来るの」
突然の陽穂の告白に、巴月は胸を詰まらせる。何よりも驚いたのは、陽穂が掌の魔法を使えると巴月が信じている様に、陽穂もまた、巴月が掌の魔法を使えると信じている事だった。そして、巴月が陽穂の掌の魔法を焦がれている様に、やはり陽穂も、巴月の掌の魔法を焦がれている事にも同様に驚いた。密やかに胸の内だけで思う巴月とは対照的に、余りに素直な言葉を恥ずかしげもなく言って退けるものだから、陽穂の言葉は激しく巴月の心を揺さぶった。
「いつも、優しい魔法をありがとう」
言葉を失ってひたと陽穂を見つめる巴月に、陽穂は容易に微笑んでみせる。笑って陽穂が口にした言葉は、確かに巴月がいつも陽穂に対して思っている言葉だった。巴月の胸に熱い感情の波が押し寄せる。自分は陽穂が与えてくれる掌の魔法をただ待ち焦がれ、ただ受け取るばかりだと思っていた。自分からは何一つ返す事が出来ず、ありがとうというった一言の短い言葉だけでは、とても感謝し尽くせない程に感謝しているのに、それを伝える術が無いと嘆いてさえいた。しかし、そんな巴月に陽穂はいとも簡単に言った。巴月の掌は魔法の様だと。巴月にも、掌の魔法が使えるのだと。そして、いつも優しい魔法をありがとうと、そう言って笑ったのだった。巴月の胸に、押し寄せた熱い感情の波が満ち、到頭雫となって頬を伝い落ちる。
嗚呼、私にも掌の魔法が使えたのか、と、何も返せていない訳ではなかったのだと、頬を濡らす涙の温度を感じながら、巴月は思った。焦がれ、受け取るばかりではなく、陽穂にも掌の魔法を伝えられていたのなら、それは何て幸せな事だろう。巴月は一つ、また一つと溢れる涙を、ただ頬を伝うままに任せた。
「つきちゃん?」
陽穂が涙を流す巴月に目を丸くして、心細そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたの?私、何か変な事言った?それとも、何処か痛いの?」
おろおろと巴月を案じてくれる陽穂が、堪らなく愛おしい。
「ううん。そうじゃないの。そうじゃないのよ」
気遣わしげな陽穂の問いに、巴月は緩々と首を横に振って答えた。巴月は、一つ思い違いをしていたのだ。巴月は、ありがとうというたった一言の短い言葉だけでは、とてもではないが感謝し尽くせないと思っていた。だからといってありがとうという感謝の言葉を口にしなかった訳ではないが、陽穂から掌の魔法を受け取る度にありがとうと口にすると、そんな短い言葉だけでは、有り余る感謝の気持ちのほんの一欠片であっても伝えきれないと、そう思ってもいた。今も、その短い言葉だけでは、陽穂に伝えたい感謝の気持ち一つにさえ遠く及ばないと思っている。しかし、そうではなかった。実際には、ありがとうというたった一言の短い言葉だけで十分だったのだ。それを陽穂がたった今証明してくれた。陽穂は巴月に向かって言った。いつも優しい魔法をありがとう、と。その決して多くはない言葉は、陽穂の感謝の気持ちを表現するのにも、巴月の胸を打つのにも十分過ぎた。それは巴月の心に確かに温かく灯り、こんなにも強く胸の内で響いている。揺り動かした巴月の感情の波を溢れさせ、雫となって頬を伝う程に。ならば、巴月もまた、改めて伝えなければならない。毎日掌から優しさを伝えてくれる陽穂に、陽穂自身も掌の魔法が使えるのだと、巴月が毎日どれ程それに焦がれ、救われてきたのかを、そして、そんな陽穂にどれ程巴月が感謝しているのかを、陽穂がそうしてくれた様に、巴月もまた、改めて伝えなければ。
「あのね、あきちゃん」
巴月は目尻に溜まった涙を指先でそっと拭い、未だ心配そうに自分を見つめている陽穂を、真っ直ぐに見据えて口を開いた。あどけない顔をした小さな掌の魔法使いに、その力と、それに対する感謝を伝える為に、穏やかに。
てのひらの魔法
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
せめてもの慰みになりましたら、幸いです。