名も無き電子の夢
ルイは廃棄処理場に打ち捨てられた彼女に目を留めた。
ルイは廃棄処理場に打ち捨てられた彼女に目を留めた。人の形をした、けれど決して人にはなれない、人の模造品。随分前から何処かに放置されていたのか、美しい髪にも、眠っているようにしか見えない端整な顔にも、すらりと伸びた四肢にも埃を被り、全身うっすらと汚れている。その無残な姿に特別何かを思ったつもりは無かった。が、やはり自分と同類である彼女が無造作に廃棄処理場に打ち捨てられている事に、何処かで引っ掛かりを覚えたのかもしれない。だからこそ、思わず足を止めて彼女に目を留めてしまったのかもしれなかった。立ち止まったルイに数秒遅れて気が付いた同僚が、どうした、と怪訝な顔付きで声を掛ける。
「あの、彼女は?」
ルイは僅かに躊躇った後、廃棄処理場に打ち捨てられた彼女を指して言った。同僚が、どれ、とルイの指差す先を視線で追う。すぐに彼女に気が付いた様で、ああ、あれか、と無感動な声を漏らした。ルイにとっては『彼女』であっても、同僚にとっては『あれ』でしかない。そして大多数の人間にとってもそうだろう。人と物との決定的な差だった。ルイは、その事について何かを思う事は無い。それは当然の事だからだ。
「相当古いタイプのロボットだな。もう何処を探してもあんな時代遅れの型無いだろうに。大方、大分前から倉庫に放置されっぱなしだったのを、誰かが見つけて捨てたんだろ」
さもつまらなそうに言う同僚の声に些かの躊躇いも同情も垣間見えないのは、それが彼にとってどうでもいい事であり、尚且つ相手がルイだからだろう。いくらロボットが精巧に人を模して造られた物であっても、人にとっては所詮は物でしかない。そして、物は消耗するものである。壊れて使い物にならなくなれば、当然のようにただ打ち捨てる。それが道理だ。ロボットも例に違えずその道理に当て嵌まる。だからこそ、同僚にとって、そして他の誰にとっても、今廃棄処理場に打ち捨てられている彼女の姿は当然のものであり、そこに躊躇いや同情を差し挟む余地など無い。更に、それを同じロボットであるルイに話す事にも、何ら気後れをする必要は無い。そういう事だった。
ルイは、今の時点では最も人に近いと言われている最新鋭のロボットだ。人の感情が作り出すありとあらゆる表情をその細部に至るまで表現する事ができ、さも感情があるかのように振る舞う事が出来る。おべっかや心配りまでプログラムされている為、少し話した程度では既に人との区別もつかない域にまで達している。計算処理能力も、運動能力も、言語、コミュニケーション能力も、従来のロボットに比べてかなり高い水準にある。が、それも今現在での話だ。世間の流れは速い。今こうしている間にも次々とロボットは開発され、より人に近いものを、より性能が良いものをと求めて開発され続けている。最新鋭と謳われるロボットなんて、それこそ一年を置かずしてすぐに出てくる。恐らく、今廃棄処理場に用済みとなって無残にも打ち捨てられている彼女も、開発された当初は最新鋭のロボットだったに違いない。それが今では、現状通りもう型も無い時代遅れのロボットだ。人はすぐに新しい物に飛び付く。より性能が良く、より便利な物を、人は求め続けている。役に立たなくなった物など、すぐに廃棄処理扱いだ。そう、丁度今打ち捨てられている彼女のように。そしてそれは、いつかはルイも辿る道だ。ルイにもそれは解っている。解っていても、どうしようもない流れがある。ルイはその事を不安だとか、悲しいだとか思った事は無かった。やはりそれは、大多数の人がそう思うように、当然の事だからだ。が、そう思う一方で、廃棄処理場に無残にも打ち捨てられた彼女からどうしても目を逸らす事が出来ない。
「何だ、気になるのか?」
彼女に目を向けたままいつまでも動こうとしないルイに、同僚が首を傾げる。同僚は、人だ。ルイとは違う。ルイがどうしても目を逸らせないでいる当然の事から、いとも簡単に目を逸らす事が出来る。
昨今では、人とロボットを半々で雇用する企業がほとんどだ。ロボットだけを雇用すれば金も掛からず、作業効率も格段に上がるのだが、人のように融通が利かない。その為、工場等の完全な流れ作業になると話は別だが、それ以外の企業では多少金を掛け、効率を下げてでも人とロボットを半々で雇用する企業が急増しているのだった。ルイが働く会社もそうだ。人とロボットでコンビを組ませて働かせる体制を執っており、ルイと同僚もその体制に当て嵌まる。
「彼女、直せないかな?」
ルイが言うと、同僚は目を丸くした。
「はあ?お前本気で言ってんの?あんなの、直した所で計算にも使えるかどうか分かんないぞ?そんながらくた直してどうしようって言うんだ」
「でも、まだ動くと思うから」
「いやいや、動いた所で使えなきゃ意味無いだろ。どうせまたすぐに捨てられるのが落ちだって。無駄無駄」
心底呆れた様子で言う同僚に、ルイは尚も食い下がる。
「それじゃあ、僕が貰うよ」
それを聞いた同僚が、先程よりも更に目を丸くしてルイを見る。
「貰う?お前が?」
「うん。駄目かな?」
事もなく頷いて返すルイに、同僚は不可解そうに眉根を寄せる。
「や、そりゃ駄目じゃないだろうけど…」
言い掛けて途中で言葉を区切り、まじまじと無遠慮にルイを眺め回す。その目には微かな好奇が滲んでいる。
「でも、ロボットがロボットをねぇ…。それ
も、最新鋭のやつが型も無い時代遅れのやつを。一体何に使おうっていうんだ?まさか、飼う訳じゃないだろ?」
あけすけな好奇を含んだ下世話な物言いにも、ルイは動じない。同僚の視線と言葉をさらりと受け流し、ルイはまさか、と首を横に振ってみせる。
「ただ、勿体ないかな、と思って」
「はぁ?勿体ない?」
ルイの言葉を鸚鵡返しにした同僚は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに破顔して堪え切れないといった様子で腹を抱えて笑い出した。
「はは、勿体ない?勿体ないだって?こりゃ傑作だ!勿体ない!流石、最新鋭のロボット様は違うなぁ!」
何が可笑しいのか、馬鹿みたいに『勿体ない』を繰り返してはげらげらと笑い続けている。そこに含まれた意味を、露骨な嫌味を感じ取れない程、ルイは鈍感には出来ていない。ただ、その露骨な嫌味を感じ取り、嘲笑を受けた所で、特に何とも思わないだけだ。必要があればプログラムされた通りに怒ってみせる事も可能なのだが、今此処で怒ってみせた所で利は無く、また意味も無いと判断した為、黙って聞き流す事にしたのだった。ルイに、ロボットにこういった露骨な態度を取る人は多い。寧ろ、大多数の人がそうだといっても過言ではない。人は基本的にロボットを便利な道具として扱ってはいるものの、より人に近いロボットに対しては何処か卑屈な感情を抱いてもいる。かといってそれを素直に表に出すのも癪なので、結果的に横柄な態度を取ってしまうのだった。ロボットが決して人に逆らわないようプログラムされている事を知っているが故の態度だった。人がロボットに対して気を遣う意味や必要は無い。人がどんな態度を取ろうとも、ロボットが人に不快な思いをさせる事は決して無いのだから。もしロボットに不快な感情を抱く人が居るとすれば、それはその人の矮小な器に因る劣等感がそうさせるだけの話だ。そして、そういう人程ロボットに対して露骨な態度を取りたがる。ルイを含めたロボットは、露骨な態度にはまともな受け答えをせず、適当に受け流すよう予めプログラムされている。だからルイは、同僚の言葉を、態度を、嘲笑を、受け流す。その行為こそが実は人を見下しているのだと、どちらも気付こうとはせずに。
一頻り笑い終えた後、同僚は黙りこくるルイの肩に妙に馴れ馴れしく手を置くと、下卑た笑みを浮かべて言った。
「あのがらくたは旧式だから、あっちの役にも立たないと思うぜ」
ああ、ロボットのお前には関係の無い話だったな、と続ける同僚に、ルイは愛想笑いだけで返した。
同僚と別れて彼女を連れ帰ったルイは、早速彼女を直してみる事にした。最近のロボットは余程の事が無い限りはメンテナンス作業や修復作業を自分で行う事が出来る。ルイは彼女を隅々まで調べ、必要な処置を施していく。取扱説明書も無く、それに準ずるものも内蔵されていない為、完全に手探り状態だったが、何とか修復すべき箇所を探り当てていく。まず、バッテリーが切れていたのでルイの充電端末を繋いで充電してやり、消耗していた部品を取り換えて回路を繋ぎ合わせた。既に基盤が相当傷んでいるが、余りにも型が古い為に替えの物が無く、また代用品となる物も見つからない。こればかりは諦めるしかなかった。それでも、まだ何とか動かせるようなのが救いだった。酷使すればすぐにでも壊れてしまうだろうが、試しに動かしてみる程度なら問題無いだろう。何故こんなにも必死になるのか、ルイ自身にも解らなかった。ただ、無残にも打ち捨てられていた彼女がまだ動くのだという事を、確かめてみたかった。それだけだった。ルイの必死の処置の甲斐あって、程無くして彼女を起動させる事が出来た。彼女が初めて目を開けた時に生まれた不可解な感慨の名前を、ルイは知らない。
彼女がのろのろと上体を起こし、徐にルイを見る。彼女の周波数を調べる為に繋いだモニターには、今の所は異常は見られない。ルイは黙って彼女の次の反応を待った。彼女の視線と、ルイの視線が絡み合う。暫くして、彼女が緩々と微笑んだ。
「こんにちは」
そして清らかな声音で、たった一言、それだけの短い挨拶を口にする。どうやら彼女は、ルイを人として判断したものらしかった。今はロボット同士が微弱な電波を発信、また受信して瞬時にロボット同士である事を判別する事が出来るのだが、彼女が生み出された当時はまだその機能は無かったのだろう。
彼女の微笑と短い挨拶を受けたルイの何処かが、鋭く疼いた。相手がロボットとはいえ、誰かにこんな柔らかな微笑を、清らかな声音を向けられたのは、ルイにとって初めての事だった。人であればロボットに対して横柄な態度を取りたがり、ロボット同士であればそもそも交流する必要が無い為に何処までも無関心な今の世界で、実は一番孤独なのはロボットなのかもしれない。感情が無いロボット達は、その孤独を孤独と気付けないまま朽ちていき、廃棄処理される。
彼女の短い挨拶から数瞬遅れて、ルイは慌てて口を開いた。
「こ、こんにちは。僕はルイ。貴女の名前は?」
ルイの問い掛けに、彼女は微笑を湛えたまま小さく首を傾ける。が、それだけだった。どれ程待ってみても、彼女は小さく首を傾けたまま一向に次の反応を示さない。ルイの言葉の意味が理解出来なかったのか、そもそも彼女に名前自体が無いのか、或いはその両方か。どちらにせよ、これ以上の反応は望めそうになかった。ルイは諦めて一度彼女の電源を落とした。もし彼女をこの先も起動させたいのなら、もっと手を尽くしてあれこれと調べなければならないだろう。取扱説明書も、それに準ずるものも無い彼女の事を知るのは容易ではない筈だ。ルイと型が近いロボットならまだしも、彼女はもう型が無い旧式のロボットなのだ。一筋縄ではいかない。しかし、ルイは諦めるつもりは無かった。彼女が目を開くまでは、一度起動させてみてそれで終わりにするつもりだった。が、実際に起動させてみて、彼女が初めて目を開けるのを見て、今まで誰にも向けられた事の無い微笑と声音を受け、考えが変わった。もっと彼女が動いている所を見たい。もっと柔らかな微笑を見たい。もっと清らかな声音を聞きたい。ロボットであるルイに、そんな欲が生まれてしまったのである。ルイはちらと彼女に視線を向ける。つい先程まで微笑んでいた彼女は眠っているかのように目を閉じ、ぴくりとも動かない。ルイの中で彼女の柔らかな微笑と清らかな声音が鮮やかに甦り、揺れる。ルイは目を伏せ、奥深くで揺れる彼女の微笑と声音にそっと触れた。一先ず、彼女を起動させる事は出来たのだ。その事に改めて安堵し、ルイは本腰を入れて彼女の事を調べる決意を固めた。もっと彼女の微笑を見る為に。もっと彼女の声音を聞く為に。
それから、彼女と繋いだ端末とにらめっこする日々が続いた。いくらにらめっこを続けた所で、やはり取扱説明書も、それに準ずるものも何処にも見つからない。ルイ自らの手で彼女のプログラムを一から改めていくしかなかった。計算処理能力は見つかった。しかし損傷が酷く、恐らくは難解な計算式を解く事はもう出来ないだろう。言語能力は至極簡単なものしか取り付けられていないらしい。予め組み込まれた数通りの言葉をプログラムされているのみで、それ以外の言葉の受け答えは出来ず、当然プログラム以外の言葉を自ら発する事は出来ない。つまり、言葉に依るコミュニケーションは計れない。そもそもコミュニケーション能力自体が無いといってもいい。家事能力は端から取り付けられていないようだ。その他の能力もめぼしいものは見つけられなかった。結果、彼女は計算処理をこなすだけの能力しか無いらしい事が分かった。まだロボットの技術がそれ程発展していない頃、速さと正確さを売りに計算処理をする為だけのロボットとして生産されたものらしい。それも当時の話で、今では用済みとして打ち捨てられるだけの廃棄物扱いだ。今の時代、何処を探しても計算処理しかこなせないロボットなど見つからないだろう。そんなロボットは疾うに時代遅れで、今では計算処理も、人とのコミュニケーションも、家事も、運動も、全てこなせてこそのロボットが当然のように溢れている。最早、それら全てがこなせるだけでは不十分といわれる時代になりつつあるのだ。確かに、今彼女を必要とする人など、何処を探しても見つけられないに違いない。彼女の専売特許であり、唯一こなせる、当時速さと正確さを売りにしていた計算処理能力も、内部の損傷具合からいって何処まで出来るのかも分からない。だから捨てられたのか、それとも損傷するよりも前にもっと性能の良いロボットが世に出てきたのか。どちらにせよ、彼女は役立たずとして廃棄された。そして、ルイは廃棄されていた彼女を拾い、起動させた。今の最新鋭のロボットが、時代遅れのロボットを、だ。更にはもう一度彼女を起動させたいと思っていた。彼女に動いて欲しい。彼女に微笑んで欲しい。彼女の声音を聴きたい。ルイはそう望んでいた。その為にルイはあれこれと手を尽くした。が、彼女の傷んだ基盤を取り替えようと方々を探し回っても、それだけはどうしても見つける事が出来なかった。代用出来そうな物ですら、見つけられなかった。彼女の型は、余りに古過ぎた。どれ程ルイが手を尽くそうとも、こればかりはどうにもならない。ルイは、選ばなければならなかった。彼女を起動させる事を諦めるか、それとも傷んだままの基盤で起動させるかを、だ。勿論、傷んだままの基盤で起動させればその分消耗は激しく、彼女への負担も相当なものになるだろう。それに構わず無理にでも起動させ続ければ、完全なる破壊への一途を辿る他に無い。それでもルイは、どうしても彼女を諦める事が出来なかった。彼女を壊してしまう事はしたくない。けれど、彼女を起動させずにいる事もまた、出来ないのだった。ルイに柔らかな微笑と清らかな声音を向けてくれるのは、この世界で唯一人、彼女だけだったからだ。そして、ルイは選んだ。結果として、ルイは彼女を求めた。彼女の微笑みを見たくて、彼女の声音を聴きたくて、遂にルイは傷んだままの基盤で彼女を起動させた。
彼女はのろのろと上体を起こし、ルイは見た。ルイもじっと彼女を見つめ返す。やがて、彼女が緩々と微笑んだ。
「こんにちは」
そして清らかな声音でたった一言、それだけの短い挨拶を口にする。ルイにはその一言で十分だった。
「こんにちは」
ルイもそれだけの短い挨拶を返す。彼女はにこにこと微笑むばかりで、それ以上の反応は示さない。ルイは彼女の微笑みを黙って見つめ、暫く眺めた後、彼女の電源を落とした。それからこの束の間のやり取りが、彼女の微笑みを見つめ、彼女の声音を聴く刹那の時が、ルイにとって欠かせない、掛け替えの無い時間になった。ルイは毎日一度だけ彼女を起動させた。それも、彼女がたった一言の短い挨拶を口にし、微笑む極短い間だけだ。ルイはその極短い時間だけで満足しようと努めた。あまり長い時間彼女を起動させれば、その分彼女への負担も大きくなる。この程度の極短い時間であれば、彼女を損壊させずにもう何回かは起動させる事が出来るのではないかと考えての事だった。
「こんにちは」
今日も起動させた彼女がルイを見つめ、微笑み掛け、清らかな声音を向ける。ルイもこんにちはとただそれだけの短い挨拶を返す。挨拶を受けた彼女は只管に柔和に微笑んでルイを見つめ、ルイも彼女の柔和な微笑をじっと見つめて短い時を過ごす。その刹那の時を、ルイは何度も繰り返した。繰り返す度に、もう一度、もう少しだけ、と途方も無く祈りながら。ルイの祈りが通じたのか、それとも束の間起動させるだけならばそれ程負担も掛からないのか、目立った損傷も無く、ルイの求めに応じて彼女は起動し続けた。だからこそ、ルイは油断した。彼女はまだ起動させ続ける事が出来る。それならば、もう少し変わった反応を見られないものかと、生じた隙の中で思ってしまったのである。ある日、ルイは物は試しと簡単な、それこそ足し算と引き算しかない計算式を連ねた問題用紙を、思いつきで彼女に与えてみた。
「これをやってみてもらえるかな」
いつものように起動させた彼女にそう言って問題用紙を手渡すと、彼女は従順にはいと一つ頷いて問題用紙を受け取った。全てのロボットがそうであるように、彼女もまた役割として与えられたものに何の意味があるのか、それが何の役に立つのかなどの疑問は持たない。ただ役目として与えられたものを指示通り忠実にこなすだけだ。彼女は受け取った問題用紙を、そこに連ねられた計算式をさっと眺め、すぐに解きに掛かった。黙々と取り組み、そして決して速くはないが、彼女は終わりましたと一言、解いた問題用紙をルイに返した。ルイをじっと見上げて反応を待つ彼女を前に、ルイは一つ一つ彼女の答案を確認していく。ミスは、無い。この程度の計算ならば、まだ問題無くこなせるようだ。尤も、当時の売りだっただろう速さは無く、子供と同じくらいの速さでしか解く事は出来ないが、それでも損傷の激しい中できちんと取り組む事が出来るのだから上出来だろう。用紙から顔を上げると、まだルイをじっと見上げている彼女と目が合った。ルイと目が合った途端、彼女が緩々と小首を傾げる。
「お役に立てましたか?」
予めプログラムされていたのだろうが、まさか彼女の方からそんな風に尋ねられるとは思ってもいなかったルイは、面食らった。
「あ、うん。ありがとう」
慌ててルイが言い添えると、彼女は初めて嬉しそうな表情で笑った。初めて見る彼女の嬉しそうな笑顔に、ルイの何処か深い場所が痛んで揺れる。たとえただのプログラムだったとしても、誰かにそんな風に嬉しそうな笑顔を向けられたのは、やはりルイにとって初めての事だった。ルイの中に、再び名前の知らない感慨が湧く。それに伴って、ルイの中にそれ以前よりも強い欲が生まれた。もっと彼女の嬉しそうな笑顔を見たい。もっと彼女の声を聴きたい。ルイは自分でも何故そう思うのか分からないまま、強くそう思った。強く求めてしまえば、あとはもうその欲に従う儘だった。彼女の傷んだ基盤の事も何もかもを忘れ、ルイは彼女の嬉しそうな笑顔を見たくて、簡単な問題用紙をいくつも作っては彼女に与えた。彼女を起動させる度に作った問題用紙を手渡し、単純な計算式を解かせる。ロボットである彼女は何の疑問も抱かず、ただ与えられるままルイの手から問題用紙を受け取り、黙々と計算式に取り組んだ。解いた問題用紙を返してじっとルイを見上げる彼女に礼を言うと、彼女はいつも嬉しそうな表情で笑った。ルイと彼女は毎日そのやり取りを繰り返した。来る日も来る日も、飽きもせずにルイは彼女の嬉しそうな笑顔を眺めた。が、やはりそれは彼女にとって負担の大きな日々だった。元々損傷の激しい、傷んでいる基盤ではただ起動させ続けるだけでも負荷が掛かるというのに、その上単純なものとはいえ計算処理までさせ続けたのだ。それは彼女が壊れてしまう日を悪戯に早めてしまう事に他ならなかった。そんな当然の事に気付けない程、否、気付きたくない程、ルイは彼女に夢中だった。そして、彼女はロボットである。たとえ自身がどういう状態であろうとも、与えられた役割に取り組み、こなすのがロボットだ。彼女の内側がどんなに悲鳴を上げようと、彼女は決してそれをルイに打ち明けたりはしない。損傷が著しく進んでいようとも、限界を越えるその時までルイの求めに応じて起動し続け、ルイが与えるまま問題用紙に取り組み続けるだけだ。そしてルイが目を覚まさない内に、到頭限界は訪れた。いつものように起動させ、問題用紙に取り組ませていた彼女が、突然オーバーヒートを起こしたのである。ルイが見守る中で黙々と問題用紙に取り掛かっていた彼女から突然ぶつん、と嫌な音がしたかと思うと、次の瞬間にはその場に崩れ落ちていた。倒れた彼女に慌てて駆け寄ってその身を抱え起こし、急いで端末に繋げる。調べてみると、やはり基盤の損傷は相当に進んでおり、その基盤に繋いでいた回路もいくつか焼き切れてしまっている。回路は取り替えればいくらでも繋ぎ合わせる事が出来る。が、その元となる肝心の基盤が限界を迎えようとしていては、いくら回路を取り替えて繋ぎ合わせてみた所でもう修復は不可能だろう。そしてその基盤の替えは、何処を探しても見つからなかった。代用品になりそうな物ですら、今の時代では見つける事が出来なかった。彼女の基盤は既に損壊寸前まで傷んでいる。しかし、まだ完全には壊れてはいない。傷んだ基盤のまま無理に計算処理を行わせ続けた為、回路が焼き切れて一時的に動かなくなってはいるものの、焼き切れた回路を全て取り替えて繋ぎ合わせれば、或いはもう一度くらいは彼女を起動させる事が出来るかもしれない。但し、その一度きりだ。恐らくはその一度きりが限度だろう。それ以上は彼女の基盤が保たず、そのたった一度で彼女は完全に壊れてしまうに違いない。もう手の施しようは無かった。ルイは目を閉じて横たわり、ぴくりとも動かない彼女を見つめた。その顔には微笑は浮かんではおらず、閉じられた口から清らかな声音が漏れる事も無い。ルイの何処かが、ぎりりと軋む。その痛みの名前も知らないまま、ルイは動かない彼女の手を取った。どうしてそんな事をするのか、理由なんて分からない。それでも、そうしないではいられなかった。そんな事をした所で彼女は直らないというのに、ルイは暫く彼女の動かない手を握り締めていた。
数日後、ルイは彼女の焼き切れた回路を全て取り替え、新たに回路を繋ぎ合わせた。もう一度、最後の一度、彼女を起動させる事にしたのである。彼女ときちんと別れを済ませ、ルイの中で区切りをつける為には、最後にもう一度だけ彼女を起動させる必要があった。起動させた所で、彼女が何処まで保ってくれるかは分からない。その柔らかな微笑みすら見られない内に、彼女は直ぐ様オーバーヒートを起こして壊れてしまうかもしれない。それでもルイは彼女と別れる為に、もう一度、最後の一度、彼女を起動させた。ルイの求めに応じて、彼女が徐に目を開ける。ルイは固唾を呑んで目を開けた彼女を見守る。彼女がのろのろと上体を起こそうとするも、もう上体を起こすだけの機能も巧く働かないらしく、中途半端に腕を動かしたままいつまでも上体を起こせずにもどかしそうに足掻く。見兼ねたルイが横から手で制すると、足掻くのを止めた彼女が首だけを巡らせてルイを見た。じっとルイを見上げる視線に、ルイも静かに見つめ返す事で応える。彼女の視線と、ルイの視線が絡み合う。やがて、彼女が緩々と脆弱な笑みを浮かべた。
「こん、にちは」
たった一言、それだけの短い挨拶であってもつっかえながら、清らかな声音はそのままに言う。ルイの何処かが軋んで悲鳴を上げる。痛みがそうさせるまま、ルイは彼女の手を握り締め、今出来る限りの笑みを、なるべく彼女が向けてくれた柔らかな微笑に近付けて浮かべた。
「こんにちは」
ルイの返事に、彼女は弱々しい笑みを深める。そして、徐にルイに握られていない方の手を酷く重たげに持ち上げ、ルイの背後を見つめながら指差した。ルイは何かと不思議に思いながら、彼女が指差す方へ視線を向ける。ルイの背後には、簡素な机と椅子があるのみだ。そしてその机の上には、ルイが彼女に与えてきた問題用紙が乗っている。どうやら彼女は、その問題用紙を指差しているようだった。驚いて彼女を見ると、彼女が弱々しい笑みと声で言った。
「…お役、に」
そこから先の言葉は続かなかったが、彼女が何を言わんとしているのかは痛い程よく分かった。ルイは目を見張る。損壊寸前まで基盤が傷んでいたのなら、日々の事を記録する事など到底不可能だろうと思っていた。たとえ記録出来ていたとしても、それを呼び起こすだけの機能はとてもではないが働かないだろうと思っていた。それ程までに、彼女の損傷は激しかったのだ。しかし、彼女は記録していた。彼女は、覚えていたのだ。ルイとたった一言の短い挨拶を交わし、微笑み合った日々を、ルイに問題用紙を与えられ、それに取り組んだ日々を、唯一つルイに由って与えられた自らの役割と、それに依って得られた充足を。ルイは愕然とした。上体すら起こせない、既に限界に近い状態であっても、それでも彼女はルイの役に立とうとしている。唯一つルイに由って与えられていた自らの役割に今また取り組み、それに従事する事で、縋ろうとしている。ロボットとはそういうものだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、誰も彼女を必要としなくなった今、それだけが彼女の存在意義だったのだとも言える。この世界で唯一人、ルイだけが彼女を必要としていた。ルイだけが彼女を求め、彼女に役割を、存在意義を与えていた。そして、この世界で唯一人、彼女だけがルイに柔らかな微笑と清らかな声音を向けた。それがどれ程ルイの救いになっていたか。言わば、ルイにとって彼女は拠り所だった。そこでルイははたと気付く。彼女を拠り所としていたルイのように、或いは彼女もまた、ルイを拠り所としていたのではないか、と。
問題用紙を指差したままなかなか手を下ろそうとしない彼女のもう片方の手も取り、ルイは両手で彼女の手を包み込んだ。そして緩々と首を横に振ってみせてから、静かな声で言う。
「ありがとう。貴女が居てくれて、良かった。ありがとう。ありがとう。でも、もういいよ。もう十分だよ」
ルイはやっとの思いで微笑んでみせ、伝えたい思いを口にした。本当はもっと伝えたい言葉はあるのだが、結局それだけしか言葉にならなかった。ルイが苦労して浮かべた微笑をじっと見つめ、ルイが苦労して口にした言葉にじっと耳を傾けていた彼女はやがて、少しだけ寂しそうな、しかしこの上も無く幸せそうな顔で笑った。直後、ぶつん、とまたあの嫌な音がしたかと思うと、電源も落としていない内から彼女が幸せそうな笑みを浮かべたままその目を閉じた。彼女は到頭、ルイの拠り所である役目を終えた。ルイがどんなに手を尽くそうとも、もう彼女は二度と目を覚まさない。柔らかな微笑も、清らかな声音も、もう二度とルイに向けられる事は無い。
「あ…」
それが分かった時、ルイの口から思わず短い一音が漏れる。しかし、その先の言葉が続かない。何を口にしていいのかすら分からない。この時になって初めて、ルイは彼女に呼ぶべき名前が無い事に思い至った。ルイは今の今まで彼女に名前をつけておかなかった事を悔いた。名前なんて必要無いと思っていた。が、そうではなかった。名前は、必要だった。別れの時にその名前を呼ぶ事すら出来ないなんて、余りにも悲し過ぎる。ルイは力を失った彼女の両手を握り締めたまま、言葉にならない声を漏らして滂沱した。プログラムがそうさせている訳ではなく、ルイが意識してそうしている訳でもないのに、涙は後から後から溢れて止まらなかった。止め処無く、いつまでも。名前も知らない感慨を失った事で、ルイの何処かが軋み、痛み続けるまま、ずっと。
名も無き電子の夢
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
せめてもの慰みになりましたら、幸いです。