宵待

「あの…あの、蛍さん、すみません。少しの間、私の話に耳を傾けては頂けませんか?」

宵、蛍はふらふらと彷徨い飛んでいた。仲間から離れ、宛ても無く。仲間の光が見える場所から出来るだけ遠くに、遠くにと、蛍は彷徨い飛んでいた。そこへ、か細い声が掛かった。
「あの…あの、蛍さん、すみません。少しの間、私の話に耳を傾けては頂けませんか?」
 その声の切実さに蛍は思わず立ち止まり、誰だろう、と辺りをぐるりと見回した。ふらふらと彷徨い飛ぶ内に、いつの間にか人の家の庭に入り込んでしまったらしい。手入れは行き届いているものの、何処か物寂しいがらんとした庭が蛍の視界に映り込む。すると、自分を呼び止めたのは人だろうかと、蛍は辺りをきょろきょろと見回す。しかし、家から漏れる明かりにぼんやりと照らされる庭に、人の姿は無い。
「こちらです」
 首を傾げようとした蛍に、もう一度か細い声が掛かる。切実に呼ぶ声に首を巡らせると、そこには宵の薄闇にぼうと淡い紫色を浮かび上がらせ、ひっそりと釣鐘型の花を俯かせて蛍袋が咲いていた。儚げに咲くその花が、蛍に声を掛けたらしかった。がらんとした庭にぽつんと咲く蛍袋は何処か余所余所しく、ひっそりと咲くその姿が一層儚げに見える。
「どうかなさったのですか?」
 蛍は広い庭の中にぽつんと咲く蛍袋に近付いた。
「嗚呼、良かった。やっと蛍さんが来てくれた」
 近付いた蛍に、蛍袋は心底ほっとした様子で言った。
「蛍さんに、少しの間私の話に耳を傾けて頂きたいのです」
 次いで、蛍袋は再び切実な声を出した。お願いします、と露骨に口にしたりはしなかったが、それは明らかなる懇願だった。ただならぬ痛切さに、蛍は真摯に頷いた。
「ええ、私で宜しければ」
 途端、蛍袋は嬉しそうな声を上げる。
「今日は何て良い夜なのでしょう。漸く私の話に耳を傾けて下さる蛍さんが来てくれた。何て、何て良い夜なのでしょう」
 蛍はまだ話を聞くとしか言っていないというのに、その声は心から嬉しそうだった。一体いつから話に耳を傾けてくれる蛍を待ち続けていたのだろう。そして、どれ程の夜を蛍を待ち侘びて孤独に過ごしてきたのだろう。心から嬉しそうな声色はそのまま蛍袋が過ごしてきた幾つもの孤独な夜を思わせて、蛍は神妙に蛍袋を見上げた。
「実は、私の話に耳を傾けて頂くだけでも大変に恐縮なのですが、更に蛍さんにお願いしたい事があるのです」
「お願い?」
 蛍袋の切実な声を耳にした時から恐らくはそう言われるだろう事は分かっていたのだが、蛍は敢えて尋ねた。蛍の問い掛けに、蛍袋ははいと頷く。
「そんなに難しい事ではないのです。ただ少しの間だけ、蛍さんの灯りをお借りしたいのです」
 蛍はえ、と声を詰まらせそうになるのを懸命に飲み込まなければならなかった。蛍袋は蛍の些細な揺らぎになど気付きもせずにそのまま続ける。それもその筈である。蛍袋はたった今自分が口にした『そんなに難しい事ではない』願いが、蛍にとってどれ程難しい事なのかを知る由も無いのだから。
「少しの間花の中に入って、灯りを燈しては頂けませんか?」
 もう一度、今度は具体的な願いに言葉を変えて、蛍袋は懇願した。蛍は言葉を詰まらせた。
蛍袋はその名前の通り、花の中に蛍が入って灯りを燈せばランプのように美しい釣鐘型の花をしている。蛍の柔らかな灯りに淡い紫色の花を透かせば、それは見事だろう。ただ、その美しい姿は当の蛍にも、蛍袋にも見えないのだ。つまりはその美しい姿を見せたい他の誰かが居る、という事だ。蛍袋の尋常ではない切実さから、蛍袋が決して自己満足の為だけに懇願しているのではない事くらい十分に伝わっている。蛍は何処か遠い所で思いを巡らせた。出来る事なら今すぐにでも首を縦に振ってやりたい。幾つもの孤独な夜を越えてきただろう蛍袋を安心させてやりたい。しかし、蛍にはそれが出来ないのである。蛍は無駄と知りつつも震えそうになる声で尋ねた。
「どなたか、私が貴女の花の中で灯りを燈す姿をお見せしたい方がいらっしゃるのですね?」
 解っている。この問い掛けが蛍袋に期待を抱かせるだけの酷なものである事を。そして、聞いてしまえば蛍自身も後悔するだろう事も、先の蛍袋の切実な声色から分かりきっていた。あれ程切実な声で懇願するからには、それ相応の事情がある筈だ。それこそ、聞いてしまえば今よりもずっと蛍袋の願いを聞き入れてやりたくなるような事情が。しかし、そこにどんな事情があろうと、蛍には蛍袋の願いを叶える事は出来ないのである。蛍は問い掛けた事それ自体を早くも後悔し始めていた。が、後悔した所でもう遅い。後悔した時には蛍袋は既にはい、と頷いてしまっていたのである。
「この家には、とても美しい方が住んでいるのです」
 蛍袋は庭にぼんやりとした明かりを漏らす家を見上げ、熱の籠る声で言った。
「その方はお父様と二人で暮らしていらして、とても長い間病の為床に伏せっておいでです」
 蛍はのろのろと視線を蛍袋が見上げる家に映した。家には明かりが灯っている。あの明かりの中に、蛍袋が言う彼の人は居るのだろう。そしてしっとりと熱を帯びた蛍袋の声色から、蛍袋が彼の人に恋焦がれている事が分かった。
「あの方は既に生きる事を諦めていらっしゃいます。いつか訪れる死を恐れもせずに、ただ静かに来るべきその日を待っているのです。見ているこちらが切なくなるような、儚い微笑を浮かべて。あの方は、覚悟を決めていらっしゃいます」
 蛍袋はそこで一度言葉を区切った。短い沈黙の中で彼の人の事を想っているのだと、蛍にも伝わった。蛍袋は彼の人に想いを馳せた後、またすぐに熱の籠った声で続ける。
「でも、でも…何も望まず、何もかもを諦めて過ごされているあの方が、唯一つ淡い興味を向けるものがあったのです」
「それが、貴女に蛍の灯りが燈った姿なのですね?」
 蛍の確認の問いに、蛍袋は静々と頷いた。
「私は元々此処ではない野道に咲いていました。そこへ、体調が良い日にお父様と散歩に出ていらしたあの方が、偶々通り掛かったのです。そしてあの方は私を見つけて、そっと微笑んで下さったのです。可愛らしい花だと、褒めて下さったのです」
 再び蛍袋が短く沈黙する。彼の人が通り掛かった日の事を、浮かべてくれた微笑みを、褒めてくれた甘い声を、その細部に至るまで思い出しているのだろう。そうして何度も何度も、未だ鮮明に残る彼の人の最初の思い出を繰り返し繰り返し反芻してきたに違いなかった。目を閉じれば、蛍にもその時の情景が浮かんでくるようですらあった。そして蛍袋の声に宿る熱がその温度を増せば増す程、蛍の胸は捩れていく。が、蛍袋が捩れていく蛍の胸の内になど気付ける筈もない。悲鳴のような音を立てて軋む蛍の心になど気付きもせずに、蛍袋は尚も続ける。
「あの方が何かに興味を抱く事は、とても珍しい事だったのでしょう。傍に居たお父様は一生懸命自分が知る限りの私についての情報をあの方に話されました。私が蛍袋という名前である事、その名前の通り花の中に蛍が入って灯りを燈せば美しい姿である事、自分も幼い頃に一度見た事があり、とても感動した事などを熱心に話されました。あの方もそんなお父様の話に頻りに耳を傾けていらっしゃいました。目をきらきらと輝かせて。そして、自分も蛍が花の中で灯りを燈す姿を見てみたいと、そう言って笑ったのです。それを聞いたお父様は、すぐに私を庭へ移す事に決めました。そうして私は、野道からあの方が暮らすこの家の庭へと植えられました。あの方がよく見えるようにと、縁側から程近いこの場所に」
 蛍袋はすぐ傍の縁側を見つめ、小さく息を吐いた。
「あの方は毎夜縁側を訪れます。来る夜も来る夜も縁側を訪れては私を眺め、蛍が来ていない事を知ると寂しそうにされます。それでもすぐには諦められず、暫くの間縁側に留まって一頻り私を眺めた後、寂しそうな微笑だけを残して部屋に戻られます。そしてまた次の夜に縁側を訪れるのです。きっと今夜も訪れるでしょう」
 蛍は蛍袋が示す縁側を見遣る。確かに蛍袋を眺めるにはいい位置にある。蛍袋が言う通り、彼の人の父が態々彼の人が見やすいように蛍袋を縁側の近くに植えたのだろう。今は人の気配も無く、縁側はしんとしている。蛍袋が言うには、今夜も彼の人は縁側を訪れるという。蛍は縁側をじっと見つめた。
「私は、私を見つけて下さった時のあの方の微笑みを、可愛らしい花だと褒めて下さった時のあの方の甘い声音を、今でも鮮やかに思い出す事が出来ます。私は、あの方の望みを叶えて差し上げたい。あの方が望む姿を見せて差し上げたい。心から。そうして、あの方にもう一度微笑んでもらいたい。寂しそうな微笑ではなく、ちゃんと。あの方が寂しそうにされると私は苦しい。とても、とても苦しい。私は、あの方が最初に向けて下さったような微笑みをもう一度見たいのです。あの方にもう一度、ただ一度でも、微笑んで頂きたいのです」
 蛍袋の声は震えていた。嗚呼、止めてくれ、と蛍は思う。そんなに切実に願われたら、叶えてやりたくなってしまう。蛍袋の身を切るような想いは既に十分過ぎる程に伝わっている。それこそ蛍の心臓にまで手を伸ばし、そのまま潰してしまいそうな程強い力で訴え掛けてくる。蛍袋はそうとは知らず、到頭震える声のままで懇願した。
「ですから、どうかお願いします、蛍さん。貴方の灯りを少しの間貸して下さい。あの方が見ている間だけでいいのです。どうか、どうか、花の中で灯りを燈して下さい。その光景をあの方にお見せしたいのです」
 蛍は閉口した。本当なら今すぐにでも頷いて、花の中で灯りを燈してやりたい。しかしそれが叶わぬ事である事を、他ならぬ蛍自身が知っている。蛍は歯噛みしてやっとの事で首を横に振った。
「すみませんが、私には出来ません。貴女の願いを叶えて差し上げる事は、私には出来な
いのです」
 絞り出した声は或いは蛍袋のそれよりも痛切だったかもしれない。瞬間、蛍袋が短く息を呑んだのを、蛍は聞き逃さなかった。
「…何故、ですか?私に至らぬ点がありましたらどうか仰って下さい。出来る限りの事は致します。ですからどうか、どうか…」
 蛍袋は取り縋るように言った。そのか細い声に、蛍の心は引き裂かれんばかりに痛んだ。蛍袋が必死に願えば願う程、蛍の心は悲痛に揺れる。蛍は痛む心を抑えつけ、緩々と頭を振った。
「そうではないのです」
 え、と蛍袋が声を上げる。蛍は一度深く息を吸った後、またすぐに深く息を吐いて重い口を開いた。
「私は、不出来な蛍なのです。灯りを燈す事は出来ますが、他の仲間が燈すようには灯りを燈す事が出来ません。私の燈す灯りは、他の仲間の灯りと比べて極端に弱いのです。私程灯りが弱い蛍は、他に見た事がありません。仲間からも散々馬鹿にされ、私自身何故こんなにも弱い灯りしか燈す事が出来ないのかずっと悩んでいました。ですが、答えは見つかりません。恐らくは生まれつきなのでしょう。私達が灯りを燈す事が出来る時間は限られています。その短い時間の中でせめてもう少しましな灯りを燈す事が出来るようにならないものかと今まで必死に灯りを燈し続けてきましたが、灯りは一向に強くなりませんでした。そして、到頭私はこうして一人で彷徨い飛ぶようになりました。仲間の許を離れ、その灯りが見える場所から出来るだけ遠くに、遠くに来るようにと。そうして今日、貴女と出会ったのです。私が不出来な灯りを燈すようになってから今日で三日が経ちます。しかし、どんなに努力を重ねても灯りは強くなりませんでした。貴女の願いを心から叶えて差し上げたい。ですが、まともな灯りを燈す事が出来ない私では、貴女の願いを叶えて差し上げる事は出来ないのです。私の余りにも脆弱な灯りでは、貴女の淡い紫色の花の下であっても霞んでしまうでしょう。不出来な蛍の私では、貴女のお役に立つ事が叶わないのです。どうか、どうかお許し下さい。貴女の願いを叶えて差し上げる事が出来ない私をどうか…」
 蛍は深々と頭を垂れた。それは深々と項垂れるのと同義だった。蛍は脆弱な灯りしか燈せない自分を恥じ、蛍袋の願いを叶えられない事に打ち拉がれ、無力な自分を心の底から呪った。そのまま暫く顔を上げる事が出来なかった。蛍袋は蛍の切々とした告白に静かに耳を傾けていたが、やがて細く濡れた声を上げ始めた。頭上から降り注ぐその声に、蛍は漸く顔を上げた。
「嗚呼、何という事でしょう…。どうかお謝りにならないで下さい。謝るのは私の方です。貴方のお心も知らずに勝手な事を言ってしまい、すみませんでした。知らなかったとはいえ、私は何て不躾な願いを口にしてしまったのでしょう。私が身勝手な願いを口にする度に、どれ程貴方のお心を傷付けた事でしょう。それなのに、貴方は最後まで私の話に耳を傾けて下さったのですね。貴方は、とても優しい方。そんな貴方に最後まで私の不躾な話を聞いて頂けた、ただそれだけで私は満足です。ありがとうございます。私の話など、私の願いなど、どうか忘れて下さい」
 蛍袋の声は弱々しく震え、淡い紫色の花は薄闇の中でひっそりと青褪めて見えた。元々俯いている釣鐘型の花が、一層悲しみに沈んでいる。蛍袋はただの一言も蛍を責めたりはしなかった。それどころか不躾な願いを口にした自分を心から恥じ、その非礼を詫びさえした。悲しみに暮れるその姿も、自らの願いが叶わない事よりも、蛍を傷付けたその事実に因るものに見える。だからこそ、蛍の胸は尚痛んだ。
「ですが、貴女はどうするのです?どうしてもその方に灯りが燈る姿をお見せしたいのでしょう?もう一度、その方に微笑んで頂きたいのでしょう?」
 それを尋ねるのは余りに酷だと解っていたが、それでも、切実に願う蛍の直向きさを知ってしまった今、そうと解っていながら尋ねずにはいられなかった。仲間からも馬鹿にされるような、不出来で脆弱な灯りしか燈せない蛍に、蛍袋の願いを叶えてやる術など無いというのに。
 蛍袋は気丈にもやんわりと返した。
「いいのです。きっとまた別の蛍さんが通り掛かってくれる事でしょう。その蛍さんが私の話に耳を傾けて下さるかもしれません。ええ、きっと貴方のように。その時に改めてお願いしてみます。私はその日を待ちましょう」
 それが精一杯の強がりであると、勿論蛍には分かっていた。最初に蛍が足を止めた時、蛍袋は言ったのだ。「やっと蛍さんが来てくれた」と、心底ほっとした様子で。そしてまだ話を聞くと言っただけの蛍に、あんなに嬉しそうな声を上げてみせたのだ。その様子から、話に耳を傾けるどころか、此処を通り掛かった蛍は自分が初めてなのではないかという気すらしていた。そうでなければあれ程までに切実な声で呼び止めたりはしないだろう。そうでなければこんなにも深い孤独を滲ませたりはしないだろう。そもそも此処は人が住む家の庭であり、蛍が好む水辺からは離れている。態々こんな所を好き好んで通り掛かる酔狂な蛍は居ないだろう。自分は仲間の許から出来るだけ離れようとしてふらふらと迷い込んだに過ぎない。言ってしまえば偶然通り掛かる事が出来ただけだ。不出来で脆弱な灯りしか燈す事が出来ない蛍であるが故に。それはこの上も無い皮肉のように思えた。これから先、別の蛍が通り掛かる可能性は限りなく低い。たとえ別の蛍が気紛れに通り掛かったとして、その蛍が蛍袋の話に耳を傾け、願いを聞き入れてくれる保証も何処にも無い。しかし、彼の人は今夜も縁側を訪れる。そして次の夜も、また次の夜も彼の人は縁側を訪れるだろう。ならば、蛍袋はどんな気持ちで寂しそうに自分を見つめる彼の人を見つめ返せばいいのだろう。一体どんな想いでその瞳に応えればいいのだろう。蛍は、別の蛍を待つと言った蛍袋が過ごすだろうこの先の孤独な夜に思いを馳せた。蛍の脳裏には、宵の薄闇にぼうと淡い紫色の花を浮かび上がらせ、釣鐘型の花をそっと俯かせてひっそりと待つ蛍袋の姿がはっきりと浮かんでいた。その姿は余りに寂しげで、見ている方が切なくなるような姿だった。
「もし、もし願いを聞き入れてくれる蛍が現れなかったら?その時はどうするのです?」
 不安から尋ねた蛍に短い間を置いた後、蛍袋は静かな声で答えた。
「その時は仕方がありません。見たいと望んで下さっているあの方には申し訳ありませんが、素直に諦めましょう。きっと、あの方が望んでいるかどうかは問題ではないのです。私はただ、あの方に灯りが燈る姿を見てもらいたいだけ。そうして、あの方にもう一度微笑んでもらいたいだけ。それは他でもない、私一人の我儘なのです。ただの蛍袋である私が、そのような願いを抱く事自体が、きっと痴がましい事なのでしょう。もし、私の花が枯れてしまうその時まで別の蛍さんが現われなかったとしたら、その時はただの蛍袋が夢見た不相応な願いだったと諦めましょう。ですから、貴方もそんな蛍袋の願いなど、私一人の我儘など、忘れて下さい」
 蛍に気を遣わせまいとして一切の悲嘆を滲ませる事無く、蛍袋は言い切った。その口調は何処までも穏やかだった。気丈に振る舞おうとする蛍袋に、それ以上掛けられる言葉は見つからなかった。蛍袋がそうされる事を望まないだろうと知りながらも蛍の胸は申し訳なさで一杯になり、胸の内だけでそっと謝罪の言葉を述べ、深く頭を垂れた。そしてゆっくりと頭を上げ、真っ直ぐに蛍袋を見据える。
「分かりました。とても心苦しいですが、私では貴女の願いを叶えて差し上げる事は出来ません。せめて貴女の願いがきっと叶うよう、切に願いましょう」
「ありがとう」
 蛍の言葉に、蛍袋はふわりと柔らかく返した。その声を背に、蛍はふらふらと蛍袋の許を飛び去った。振り返らなくても背中に蛍袋の視線を感じる。後悔と共に振り返ってしまいそうになるのを堪え、蛍は蛍袋が咲く庭を後にした。行く宛てなど無く、そのまま一晩ふらふらと彷徨い続ける。夜の先を何処までも飛んで行きたかった。だが、何処にも行けなかった。飛んでいる最中も蛍袋の話が、願いが、繰り返し思い出された。今頃は彼の人が縁側を訪れている頃だろうか。今夜も蛍が来ていない事を知り、でもすぐには諦められず、寂しそうに蛍袋を見つめているのだろうか。そして蛍袋はどんな想いでその視線に応えているのだろうか。どんなに切ない姿で彼の人を見上げている事だろうか。彼の人は今夜も寂しそうな微笑だけを残して部屋へと戻るのだろうか。蛍袋はどんなに辛い思いをしてその背中を見送る事だろうか。きっと蛍袋は、彼の人の背中が見えなくなっても暫くはその寂しそうな後ろ姿を見つめ続けているに違いない。嗚呼、考えてはいけない。止めなければ、と思うも、取り留めの無い蛍袋への思いは次から次へと蛍の胸に浮かんでは消えていった。彷徨い飛ぶ間中、ずっと。やがて夜明けの気配が近付き、漸く眠気を感じ始めた頃、蛍は適当な葉陰を今日の眠り場所に選んだ。目を閉じ、眠りに落ちて行く中で、蛍袋の切実な声を聞いた気がした。か細く震える、弱々しいその声を。

 翌日、目を覚ました蛍はどうしても蛍袋の切実な願いが、それを言葉に変えるか細い声が忘れられず、居ても立っても居られなくなり、宵になってこっそりと蛍袋の様子を見に行った。しかし願いを叶えられない手前姿を見せる事は躊躇われ、蛍袋からは見えないだろう葉陰に潜んでこっそりと様子を窺う事にした。蛍袋は昨夜同様宵の薄闇にぼうと淡い紫色の花を浮かび上がらせ、釣鐘型の花をそっと俯かせてひっそりと咲いている。その姿を見ただけで、蛍袋の胸は軋んだ。蛍袋の切実な願いを、そこに至るまでの経緯を、それを言葉に変えるか細い声を知ってしまった今、蛍袋の儚げに咲く姿は、蛍と彼の人とを待つその姿は、一層悲しげに見えた。蛍袋は待っている。蛍が通り掛かるのを、その蛍が話に耳を傾けてくれるのを、そして出来る事ならその蛍が願いを聞き入れてくれるのを、ただ只管に待っている。今夜も縁側を訪れるだろう彼の人を、静かに待っている。じわじわと浸透する孤独に耐えながら。まだほんの少し姿を目にしただけだというのに、蛍はそれ以上蛍袋を見続ける事が出来なくなり、音を立てないようそっと葉陰から離れた。
 それでも蛍は翌日、宵になると蛍袋の様子をこっそりと見に行った。眺めても胸が痛くなるばかりで、蛍袋の願いを叶えてやる事も出来ないというのに、どうしても蛍袋の事が気になって仕方がないのである。蛍袋が孤独に耐えて待ち続ける姿は確かに胸を掻き毟られるようではあるが、様子を見に行かなければ行かないで妙に胸がざわついて落ち着かない。そうしてやはり居ても立っても居られず、昨夜同様葉陰に潜んでこっそりと蛍袋を見つめれば、やはり昨夜と寸分違わぬ姿で蛍袋はひっそりと待っていた。溢れ出る孤独を夜気に滲ませ、儚げに佇んで。蛍の胸の痛みは更に増した。
 蛍袋はいつまで待ち続けるのだろう。彼女自身がそう口にした通り、花が枯れてしまうその時まで孤独に耐え、話に耳を傾けるどころか現れるかどうかも分からない蛍を只管に待ち続けるのだろうか。彼の人に灯りが燈った姿を見せたいが為に。ただもう一度、彼の人の微笑みを見たい、その一心で。独りで。そう思うと、蛍の胸は益々締め付けられるようだった。蛍袋が孤独を滲ませて待ち続ける姿を見るのは辛い。蛍袋の悲しみが溢れ、そのまま行き場を失くして蛍の内側にまで流れ込んでくるかのようだ。やはりこれ以上は見ていられない。蛍はこの日も音を立てないようそっと葉陰から離れた。もう蛍袋の事は忘れよう。そして、この庭に訪れるのももう止めよう。そう決心して。実際、蛍が脆弱ながらも灯りを燈せるようになってから今日で五日が経つ。蛍が灯りを燈すようになってからの命は短い。蛍の体も徐々に力を失いつつあった。もう思うように飛べない体を引き摺るようにして運びながら、蛍はもう蛍袋の事は忘れよう、忘れようと繰り返した。何度も何度も。もう命が尽き掛けている自分に、出来る事なんてない。最後まで見守る事すら出来ずに心をすり減らして、一体何の意味があるというのか。蛍は必死に自分に言い聞かせた。
 しかし翌日、宵。自分でももう止めればいいのにと思いながらも、蛍は蛍袋の様子を見に葉陰に身を潜ませた。勿論、葛藤が無い訳ではなかった。庭を訪れるまでの間、昨日よりも更に言う事を聞かなくなった体に鞭を打ち、何度も引き返そうとした。長時間飛び続ける事すら一苦労だというのに、挙句に心をも摩耗させようというのか。そこに果たして意味はあるのか。蛍袋の願いを叶えてやる事は出来ず、様子を見に行った所で何をしてやれる訳でもなく、夜が明けるその時まで見守り続ける事すら出来ないでいる無力な自分が、何の為に。そう何度も自分自身に言い聞かせた。だというのに、また重い体を引き摺って蛍袋の様子を見に来てしまったのである。昨夜も蛍袋の事は忘れようと何度も繰り返したのに、何故。そう自身に問い掛けても、答えは一つしかなかった。ただ蛍袋の事が気になって、居ても立っても居られないからだ。それだけだった。
 蛍袋は今日もひっそりと佇んでいる。今日まで蓄積された幾つもの孤独を纏い、一向に表れない蛍を、そして今夜も訪れるだろう彼の人を待って、じっと。少し離れた場所の葉陰に潜む蛍にまで溜息が聞こえてきそうな程寂しげな姿にも拘わらず、実際に蛍袋が溜息を吐く事は無かった。それすらも飲み込んで直向きに待っているのだ。その姿に蛍の胸は軋んで悲鳴を上げる。やはり見兼ねた蛍が葉陰からそっと離れようとしたその時、昨夜までとは違う変化が起こった。昨日まで蛍が居る間は人の気配も無くしんとしていた縁側に、人影が現れたのである。尤も、蛍が庭に留まっていたのは極短い間の事で、その間に何者かが訪れるというのも難しい話ではあるのだが。人影は明かりの無い縁側の窓硝子を隔てた向こうに立っている為、その姿までははっきりとは確認出来ない。細身のシルエットがぼんやりと見えるだけだ。だというのに、蛍にはその人影こそが蛍袋のいう彼の人だという事が分かった。遠目にも蛍袋がはっと息を呑んだのが分かったからだ。僅かに緊張を帯びた空気の中、からからと窓硝子が開かれ、姿を現した人影が静かな動作で縁側に腰を下ろした。家から漏れる微かな明かりの中、遠目の蛍であってさえはっきりと分かる程に美しい人だった。薄闇に映える病的な白い肌に、ぞっとする程だ。そこに薄い、有るか無きかの微笑を滲ませ、その実濃い諦念を感じさせる憂いを含んだ表情を浮かべて彼の人はそっと蛍袋を見つめる。なるほど、蛍袋は彼の人のちゃんとした頬笑みを見たいのだと、蛍は改めて納得した。蛍袋に視線を移せば、彼の人の静かな瞳に切々と、全身で応えていた。彼女もまた、彼の人を見つめ返している。彼の人よりも熱心に、薄闇にぼうと淡い紫色の花を浮かび上がらせ、俯かせた釣鐘型の花を心成しか持ち上げて、直向きに彼の人を見つめている。切に、切に。傍から見守る蛍にまで寂しいと、切ないと、愛しいと全身で叫ぶ蛍袋の胸の内が聞こえてきそうで、蛍は思わず耳を塞ぎたくなった。耳を塞いだ所で夜気を伝って浸透してくるだろう事は分かりきっていたのだが、目を逸らす事は出来なかった。蛍は蛍袋の胸の内に耳を澄ませ、それに合わせるように軋む自らの胸の内を聞くともなしに聞きながら、息を詰めて蛍袋と彼の人を見つめた。やがて、
「今夜も蛍は来ないか」
 彼の人がぽつりと声を漏らした。透き通るような声はしんと薄闇に溶ける。残念そうではあるが、落胆は感じさせない声色だった。蛍袋は切々と彼の人を見つめている。寂しそうにしている彼の人を、より一層寂しそうに見上げて。
「貴女も、寂しいだろうね」
 彼の人はそう言って蛍袋を見つめる。暫くそのまま彼の人も、蛍袋も一方的に見つめ合っていたが、その内に彼の人が微笑になりきらない曖昧な笑みのようなものを弱々しく浮かべ、それを残して訪れた時と同じようにそっと縁側を離れた。
 何て事だろう。蛍は声に出さずに呟く。こんな事を毎夜繰り返してきたというのか、蛍袋と彼の人は。毎夜縁側を訪れては蛍袋を眺め、蛍が来ていない事を知ると小さな嘆きの声を漏らし、そしてあの微笑になりきらない未完成な表情を寂しげに残して去って行くのか、彼の人は。嗚呼、それは蛍袋にとって何て、何て残酷な事だろう。どれ程胸が痛む事だろう。蛍袋から話に聞いていたとはいえ、それは蛍の想像を遥かに越える事だった。蛍袋を見ると、微かに震えているような気がした。薄闇の中淡い紫色の花をひっそりと青褪めさせ、釣鐘型の花をしんと俯かせ、蛍袋は細く、細く啜り泣くような声を上げ始めた。それに呼応するかのように、既に軋んでいた蛍の胸もまた震えた。蛍袋の想いに、引き千切られそうだった。悲しい、悲しいと夜気を伝って声が聞こえる。寂しいと、切ないと、愛しいと。もう一度微笑んで欲しいと望む相手にあんなに寂しそうな表情をさせてしまう事は、どれ程辛く悲しい事だろう。一体どれ程己の無力さを呪ってきた事だろう。蛍袋はそれを毎夜繰り返してきたのだ。そして、恐らくは明日の夜も。胸の引き裂かれる夜を幾度も繰り返し、そうして彼女の孤独は夜毎深くなっていく。それでも尚蛍袋は諦めずに待ち続けるのか。願いを聞き入れてくれる蛍を、明日も縁側を訪れる彼の人を。夜を越えて、彼の人にもう一度微笑んでもらえる日を夢見て、たった独りで、ずっと。蛍は細く啜り泣く蛍袋の声を背に、そっと葉陰を離れた。蛍袋の声が、その孤独が、想いが、いつまでも何処までもついて来た。そうして、蛍は決意した。
 翌日。宵になったばかりの頃、蛍は蛍袋の許を訪れた。もう飛ぶ事さえやっとだったが、それでも蛍は蛍袋の許へ訪れない訳にはいかなかった。
「こんばんは」
 蛍が幾分弱った調子で声を掛けると、蛍袋は驚いて声を上げた。
「貴方は、あの時の…。どうして、また此処に?」
 蛍は蛍袋の問いには答えない。一晩中泣いていたのだろうか。それとも啜り泣く声が未だ蛍の胸深くで揺れているからだろうか、蛍袋の声はまだ細く震えているように聞こえた。
「あれから、他の蛍は通り掛かりましたか?」
 蛍は、蛍袋と別れた夜から昨日の夜までの事を一切何も知らない振りをして尋ねる。
「いいえ。あれからは一度も」
 蛍袋は静かな声で答えた。昨夜までの孤独など微塵にも感じさせない声色で。蛍が質問に答えなかった事、蛍の声色が弱っている事については一切触れる素振りを見せない。そして答えた後で、態と明るい声音に変えて続けた。
「でも、諦めてはいません。花が枯れてしま
うその時までは、まだもう少し時間がありますから」
 言われて、蛍は蛍袋の淡い紫色をした釣鐘型の花を見る。確かに、まだもう暫くの間は咲いていられそうだ。それでも俯いた釣鐘型の花が日に日に萎れていっているのは隠しようも無い事実だった。少しずつではあるが、確実に花の瑞々しさは失われつつある。彼女の時間もまた、限られているのだ。そしてそれよりも更に、蛍に残された時間は少ない。
 気丈に振る舞おうとする蛍袋に、蛍は言った。
「私が不出来な灯りを燈すようになって、今日で一週間が経ちます。私に残された時間はもう余りに少ない。恐らくは今夜一晩保たせるのがやっとでしょう」
 余りにも唐突な告白にも拘わらず、蛍袋はうろたえたりしなかった。黙って蛍の告白に耳を傾け、次の言葉を待っている。何か伝えたい事があるのだと、薄々気が付いているようだった。蛍は真っ直ぐに蛍袋を見据えて続ける。
「それならせめて、貴女の願いを叶えて差し上げたい。私の弱過ぎる灯りでは、貴女の願いを叶えて差し上げるには足りないかもしれない。貴方の花弁の下で、私の不出来な灯りは霞んでしまうかもしれない。そもそもがこんな状態では、その不出来な灯りすら真面に燈せるかどうか分かりません。それでももし、もしこんな私の不出来な灯りでも貴女のお役に立てるのなら、どうか私の灯りをお使い下さい。どうか貴女の願いを叶えるお手伝いをさせて下さい」
 蛍袋は短く息を呑んだ。それから恐る恐る尋ねる。
「…本当に、宜しいのですか?今の貴方のお体に、それはとても応えるのではありませんか?」
「私でしたら構いません。もし私の不出来な灯りでも貴女のお役に立てるのなら、これ程嬉しい事はありません。ですから、もし貴女さえ宜しければ、私の灯りをお使い下さい」
 蛍が言うと、蛍袋は声を詰まらせてそのまま黙り込んだ。蛍の突然の申し出に、戸惑っているようだった。嬉しくない筈はないのだが、蛍の状態を慮って思い悩んでいるのだろう。蛍袋が答えを出すまでの間、蛍は辛抱強くじっと蛍袋を見つめて待った。心配そうに見つめる視線を感じたので、ゆっくりと頷いて応える。すると、長い長い沈黙の後で、蛍袋が震える声で言った。
「ありがとうございます。それではどうか、貴方の灯りを借りさせて下さい」
嬉しそうな声で礼を言う蛍袋に、蛍もはいと返した。その嬉しそうな声を聞けただけで、灯りを燈す事を決意した自分を褒めてやりたくなった。
「それでは、早速灯りを燈させて頂きます」
 言うや否や、蛍は花の中に入って灯りを燈した。彼の人がいつ頃縁側を訪れるのかは分からない。それでも、彼の人が訪れてから灯りを燈すよりも、訪れる前から燈している方がいいだろうと判断しての事だった。蛍は既に一晩中、それこそ命が尽きるその瞬間まで灯りを燈し続ける覚悟を決めていた。あとは彼の人が縁側を訪れるのを待つばかりだ。
「嗚呼、やっと…やっとあの方に灯りの燈った姿をお見せ出来る。やっと、あの方に見て頂ける」
 蛍袋の声も弾んでいる。しかし、蛍の胸には未だ濃い不安の影が残っていた。何しろ蛍と蛍袋からはどんな風に蛍の灯りが燈っているのか確認する事が出来ないのだ。自分の脆弱な灯りが花の中でどんな風に燈っているのか、蛍は気が気でない。ちゃんと蛍袋の花に灯りを燈せているのだろうか、花弁の下で霞んでしまってはいないだろうか、彼の人は、蛍袋に灯りが燈っていると気が付いてくれるだろうか。そればかりが不安だった。
「きちんと灯りが燈っているように見えるで
しょうか?彼の人は貴女に灯りが燈っていると、気が付いてくれるでしょうか?」
 彼の人が現れるのを待つ間、蛍はつい弱気になって蛍袋に尋ねていた。今は弱気になっている場合ではない。蛍袋の前でなら尚更だ。しかし、そうと解っていても尋ねずにはいられない程、蛍は不安に揺れていた。実際、蛍の灯りは余りに脆弱だった。吹けば消えてしまいそうな程淡い灯りが、うっすらと蛍袋の花の中に燈っている。それも、注意深く見ていなければそれと気付けない程に弱々しく。が、それを確認する事は、蛍にも、蛍袋にも出来ないのである。どうしたって彼の人に賭けるしかなかった。だというのに、蛍袋は不安を微塵にも感じさせない穏やかな声で言った。
「大丈夫です。あの方はきっと気が付いて下さいます。蛍さんがこんなにも一生懸命灯りを燈して下さっているんですもの。確かに、私達からはきちんと灯りが燈っているのかどうか確認する事は出来ません。ですが、私には分かります。花を通して蛍さんの温かな灯りを感じる事が出来ます。それはとても、とても優しい温もりを持った灯りです。ですから、きっと大丈夫です」
 蛍袋の言葉はすっと蛍の心に沁み入り、一瞬にして蛍の胸の内に蟠る不安を綺麗に溶かした。たとえ世辞だったとしてもそんな事を言ってもらえたのは蛍にとって初めての事で、それだけでもうこれまで過ごしてきた辛い日々が、仲間からも馬鹿にされ続けてきた不出来な自分自身が報われる気がした。
「そう、ですね。きっと、大丈夫ですね」
「はい」
 歓喜に打ち震える声で蛍が言うと、蛍袋は力強い声で返した。もうそれ以上の言葉は必要無い。蛍と蛍袋はきっと彼の人が気が付いてくれると信じて、彼の人が縁側を訪れるその時を待った。程無くして、縁側にふと人影が現れた。窓硝子の向こう側にぼんやりと細身のシルエットが浮かぶ。蛍袋がはっとして息を呑む。その緊張が花を通して余りに生々しく伝わってきた為、思わず蛍も花の内で身を硬くした。蛍と蛍袋が固唾を呑んで見守る中、からからと音を立てて窓硝子が開かれ、彼の人が姿を現した。彼の人は縁側に立つなりおや、と小さな声を漏らした。花に覆われていてもその視線が蛍袋に注がれているのが分かる。彼の人の視線に切に応える蛍袋の高鳴りが、花を通して密に蛍に伝わる。震える鼓動を聞いていると、蛍の胸まで高鳴ってくる。
 どうかこの淡い灯りに気が付いて下さい。小さいけれど、とても弱い灯りだけれど、やっと燈す事が出来た灯りなのです。どうか、どうか気が付いて下さい。そしてどうか、もう一度微笑んで下さい。胸の奥深くで切実に願う言葉が果たして蛍自身のものなのか、それとも花を通して伝わる蛍袋のものなのか、
或いは溶けて一つに混ざり合った二人のもの
なのかは、もうどちらにも分からなかった。
 彼の人は小さな声を漏らしたきり、蛍袋を見つめたままじっと縁側に立ち尽くしている。呼応する蛍と蛍袋の鼓動が幾千も繰り返される、気が遠くなる程の間を置いた後、やっと彼の人は嬉しそうに言った。
「ああ、やっと来てくれたんだね」
 その柔らかな声音に、とくんと蛍と蛍袋の胸が震える。嗚呼、気が付いてくれた。二人は同時に胸の内で呟いた。
 彼の人の熱心な視線は、花の中に居る蛍でも感じる事が出来る。その視線が持つ温かさに、やっと灯りが燈った蛍袋に感動しているだろう事が手に取るように分かる。そして、恐らくは嬉しそうな微笑みを浮かべているだろう事も、その声音の柔らかさや急速に熱を帯び始めた蛍袋の花からも窺えた。
「うん、とても綺麗だね」
 次いで囁くように向けられた声も何処までも甘く、蛍袋は歓喜の溜息を深々と漏らした。掠める吐息よりもそこに込められた想いが蛍袋の肌を撫で、ゆっくりと染み込んでくる。その擽ったさに、蛍は花の中で身を捩る。花に直に触れた訳でもないのに、彼の人の甘い声音は指先でそっと花に触れて撫でていくかのようで、蛍袋もその見えざる指先の感触に打ち震えているに違いなかった。蛍袋の歓喜が、感動が、溢れて止まない想いが、滾々と花の中に、そこに居る蛍に流れ込んでくる。蛍袋の想いに呑み込まれて溶けゆく事が出来たなら、きっと本望だろうと蛍が本気で思った時、彼の人がすっと家の中に戻って行った。そのまま縁側に腰を下ろして蛍袋を眺めるものだとばかり思っていた蛍は、どうしたのだろうと首を傾げる。すると、花を通して蛍の怪訝な様子に気が付いたらしい蛍袋が、未だ深い歓喜を湛える濡れた声色で言った。
「きっとお父様を呼びに行かれたのだと思います。やっと望んでいたものが見られたので
す。お父様と一緒にご覧になりたいのでしょ
う」
 なるほど、と蛍は独りごつる。この庭に蛍袋を植えたのは彼の人の父であると言っていたのを思い出した。彼の人の為に態々野道に咲いていた蛍袋を庭に移し換えた人物だ。なかなか灯りの燈らない蛍袋を寂しそうに見つめる彼の人に、きっと胸を痛めてきた事だろう。そして彼の人も、そんな父の気遣いに気が付かない人間ではあるまい。
「貴方は、大丈夫ですか?」
 不意に、蛍袋が不安そうに言った。花に必死にしがみつく蛍の手の弱々しさに、気が付いているのだろう。確かに、蛍の限界は近い。視界は眩み、気を抜けば花にしがみつく手が力を失くしてそのまま滑り落ちそうになる。脆弱な灯りを燈し続ける事も難しく、灯りの間隔は段々と間遠になっていく。しかし、蛍は聞いてしまったのだ。蛍袋のこの上も無く幸せそうな深い歓喜の吐息を。それを聞いてしまったからには、今此処で引き下がる訳にはいかない。花にしがみついているのもやっとだというのに、それでも蛍は精一杯の強がりでしっかりと頷いてみせた。
「はい、大丈夫です。せめて今夜一晩は、灯りを燈し続けてみせます」
 蛍の精一杯の強がりを見抜けない程、蛍袋も浅はかではない。かといって強がりを口にするその思いを汲めない程、野暮でもない。だから蛍袋は、すぐには答えなかった。一度黙り込み、短い間を置いた後、か細い声で言う。
「…ありがとうございます」
 それ以上は何も言わなかった。
 暫くして、彼の人が父を連れて縁側に戻って来た。彼の人は戻って来るなりほら、と蛍袋を指し、釣られて父もじっと蛍袋に視線を注いだ。そしてすぐに嬉しそうな声を上げた。
「…本当だ。本当に灯りが燈ってる…」
「でしょう?」
 心から感嘆の声を漏らす父に、彼の人も声
を弾ませて答える。睦まじい二人の様子を、蛍袋が嬉しそうに眺めている。花の中の蛍にまで、温かなものが満ちた。蛍はそれが誇らしかった。
「しかし、蛍の灯りが弱い気が…」
 彼の人の父がぽつりと漏らした言葉に、蛍はぎくりと花の中で身を硬くした。が、それも束の間、次いで彼の人が父に返した言葉で、すぐにそれは打ち払われた。
「そうかな?僕はこのくらいの灯りの方が好きだけれど。ずっと見ていたくなる、優しい灯りだと思うよ」
 蛍の緊張を心ごと解して、彼の人は穏やかに言った。その言葉で、蛍は灯りを燈して良かったと心から思えた。脆弱な灯りに気が付いてくれただけでなく、優しい灯りだと、そしてその灯りが好きだと言ってくれた。その事が嬉しかった。
「…そうか。そうだな」
 彼の人の言葉に、彼の人の父も何処かほっ
とした様子で言う。その声は薄闇の中に優しく揺れて溶けた。それきり言葉を交わさず、彼の人と彼の人の父は黙って縁側に並んで腰を下ろし、蛍が灯りを燈す蛍袋を眺めた。どちらも緩やかな微笑を湛えているに違いなかった。花を隔てていても感じる事が出来る温かな視線が、何よりもその事を物語っている。蛍袋もそんな二人の視線に穏やかに応えている。蛍は懸命に灯りを燈し続けた。花にしがみつく手に力が入らず、ずるりと手が離れてしまう事もあったが、その度に自分を奮い起こして持ち直し、必死に花にしがみついて灯りを燈し続けた。蛍の手が離れる度に蛍袋が不安げな声を上げる。蛍もまたその度に大丈夫です、心配しないで、と繰り返した。今や蛍は蛍袋の為のみならず、自分自身の為にも灯りを燈していた。仲間からも馬鹿にされ、自分自身でも負い目のように感じていた不出来な脆弱な灯りを、温かな灯りだと、優しい灯りだと褒めてくれる人が居た。少し前までの自分には想像する事すら出来なかった。それは何て、何て幸せな事だろう。蛍は生まれて初めて自らを誇らしく思えた。そして、生まれて初めて誇らしく思えた灯りを、そう思わせてくれた人達に少しでも長く見てもらいたかった。この満ち足りた穏やかな時間を、少しでも長く留めていたかった。やっと、彼の人にもう一度微笑んでもらいたいという蛍袋の願いが叶い、蛍の灯りが燈る蛍袋を見たいという彼の人の願いが叶い、彼の人に蛍の灯りが燈る蛍袋を見せたいという彼の人の父の願いが叶い、蛍自身も負い目のように感じていた不出来で脆弱な灯りを誇らしく思える事が出来たのだ。せめて今夜一晩だけでも、命が尽きるその瞬間までは、精一杯灯りを燈し続けていたい。その一心で、蛍は懸命に灯りを燈し続けた。先程よりも更に暗く視界は眩み、体にも思うように力が入らない。何度も気が遠退く度に、もう少し、まだ少しと苦しくなる程繰り返し祈った。彼の人も少しでも長くこの時間の中に留まろうとしていた。時折、夜風は体に障るからと、部屋に戻って休むよう彼の人の父がやんわりと窘めるのだが、彼の人はその度にもう少し、まだ少しと言って頑として聞き入れなかった。恐らくは彼の人が誰かの言葉に逆らってまで自らの意志を通そうとする事は滅多に無い事なのだろう。もう少し、まだ少しとせがむ彼の人に僅かに心配そうな沈黙を向けながらも、彼の人の父もそれ以上は何も言わなかった。そんな事を繰り返しながら、満ち足りた穏やかな時間は蕩々と過ぎていった。夜が更け、薄闇が濃紺に変わり、遂には夜明けの気配が近付き始めた頃、流石に彼の人の父が彼の人に部屋に戻って休むよう強い口調で諫めた。彼の人は酷く残念そうに短く声を詰まらせたが、近付く夜明けの気配を肌で感じている為か、もう父の言葉には逆らわなかった。渋々分かったと頷き、完全に縁側を離れる前に一度立ち止まって振り返ると、蛍が灯りを燈す蛍袋を目に焼き付けるように見つめ、漸く名残惜しそうに縁側を離れた。それを見届けてから彼の人の父ももう一度蛍が灯りを燈す蛍袋を眺め遣り、満足げに縁側を後にした。からからと音を立てて窓硝子が閉められ、人の気配が遠ざかっていく。家に灯っていた明かりも消され、庭に静寂と闇が訪れる。
 嗚呼、良かった。最期まで灯りを燈し続ける事が出来た。
 蛍は安堵の息と共にそう呟いたつもりだったが、しかし実際にはそれは声にならなかった。いよいよ限界の時だった。張り詰めていた緊張の糸が緩んだ瞬間、急速に蛍の力は失われていった。既に視界は光を失くして暗く沈み、静寂の中でひっそりと耳も遠くなっていく。薄れていく意識の中で、蛍は深い息と共に吐き出される蛍袋の震える声を聞いていた。
「嗚呼、良かった。良かった…。あの方に、やっと灯りが燈った姿をお見せする事が出来た。もう一度、あの方の微笑みを見る事が出来た。あんなに、あんなに嬉しそうに微笑んで頂けた。嬉しい。嬉しい。何て、何て幸せな一日でしょう。ありがとうございます、蛍さん。貴方のおかげで、私はあの方に灯りが燈った姿をお見せする事が出来ました。もう一度、あの方に微笑んで頂く事が出来ました。ありがとう。ありがとう…」
 蛍袋の心から嬉しそうな声に、蛍もそっと微笑んだ。
 良かったですね。良かったですね。貴女の願いを叶えるお手伝いが出来て、あの方に喜んで頂けて、私も嬉しいです。ありがとう。ありがとう。
 蛍はそう口にしたつもりだったが、やはり実際には声にならず、それは緩やかに衰弱していく蛍の胸の内だけで響いた。到頭力を失った手が寄る辺無く蛍袋の花から離れ、それと同時に意識を手放した蛍の体がはたりと冷たい土の上に落ちる。
「……蛍さん?」
蛍袋が呆然と声を上げる。冷たい土の上に横たわる蛍に声を掛けても、もうその声は蛍には届かない。その事に一瞬遅れて気が付いた蛍袋は息を呑み、声を詰まらせた。そして、最後にはさめざめと泣いた。感謝と謝罪と哀惜とを複雑に混ぜ合わせた濡れた声で、横たわる蛍にいつまでもありがとうと言い続けた。蛍袋の涙は夜露となって花を濡らし、滴る雫は蛍が横たわる冷たい土の上にはらはらと降ってその周辺を濡らした。やがて夜が明け、夜露が朝露に変わっても、いつまでもはらはらと降り続け、蛍が横たわる冷たい土を濡らし続けた。

宵待

最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
拙い物語ですが、せめてもの慰みになりましたら幸いです。

宵待

上手く光る事が出来ない蛍と、願い事がある蛍袋の物語。絵本のイメージで書きました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-22

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