背中越しのラヴソング

背中越しのラヴソング

プロローグ


 きゅうぅぅぅぅぅん――と、やけに耳障りな音が聞こえた。
 同時に、白く感光した世界からリアルに飛び込んで来る風景。そしてそれに一歩遅れて、街の喧噪がじわりと始まる。
 だが、まだ俺の脳内は真っ白なまま。右手にはマルボロが一本。左手にはジッポーのオイルライター。結局、自分がその直前まで何をやっていたのかも判らないまま、古ぼけたビルディングに背を預け、通りの片隅で俺は孤独に座り込んでいた。
 ――何だっけ? 考え込むが、答えはたった一つ、「何が?」だ。
 何が、何だっけだ。どう言う訳か俺の脳内には、明瞭とした疑問さえも浮かばない。
 そういやその前に、俺って誰だよ? 自問自答をしながら、俺はマルボロを咥えて火を点ける。
 街角のどこからか、懐かしいヒットソングが流れて来る。
 あぁ、これは判る。Eric Claptonの、“Change the world”だ。確か昔、この曲に憧れてこれを主題歌にした映画を観に行った記憶がある。
 ――だが、いつ? どこで、誰と?
 まるで判らない。ただ思い出せる事と言えば、曲負けしてるなと思える程に映画の内容はクソだった記憶だけ。
 俺は背伸びをして、ビルの壁に身を預ける。同時にゴツンと、後頭部が固いコンクリートにぶつかった。
 何だよこれ。俺は一体、どこで何すりゃいい訳?
 思いながら、肺に溜めこんだ煙を吐き出す。通りを挟んだ向こう側の電光掲示板のオレンジ色の文字が、“Beginning of a Game(ゲームスタート)”と、点滅しながら流れて行った。
 とりあえず、何かしようか。
 ――何を?
 思いながら、いくらも吸っていないままのマルボロを投げ捨てて、俺は立ち上がる。
 もう午後になる時刻なのだろうか。少々傾きかけた陽射しがやけに眩しく感じられた。

【 1・クリス・オディアム ‐DAY 一日目‐ 】


 俺はサングラスを外し、目をこすった。上手く、文字が読み取れないのだ。
 だが、それは何度やってみても同じ事だった。頭上の看板に“当駅”と赤く刻まれたその下には、今現在俺がいる、営団地下鉄の“常代(とこしろ)駅”がある。だが、上手く肉眼で読めるのはそこから分岐して広がるいくつかの駅名のみ。他の駅は線にて繋がってはいるものの、うっすらとぼやけてまるで読み取る事が叶わなかった。
「何だよ、これ」
 呟いてみても現状はまるで変化しない。切符売り場の前を行き交う人の群れが、やけに鬱陶しく感じられた。
 困ったな、これじゃあ電車にも乗れやしない。思いながら、同時に疑問が沸き起こる。
 ――電車に乗るって? お前一体、どこに行くつもりだよ。
 その通りだな。俺は鼻から大きく息を吐き出しながら、肩の力を抜いた。
 どこかパニックになっている自分を理解していた。――俺は、俺自身すら判らないのだ。まず、無駄に足掻く前に落ち着けよ。
 思いながら振り向く。少し向こうに見える駅中の喫茶店のガラス窓に、俺自身であろうやけに背の高い姿が映っていた。
 よれたジャケットに、膝の開いたジーンズパンツ。とさかのように逆立てた髪はやけに雑で、情けないほどの垂れ目を隠そうと、俺は外したサングラスを再びかけた。
 思う事はただ一つ。――俺って、白人だった訳?
 そんな事すらも記憶に無いのだ。やけに徹底した記憶喪失だなと思いながら、俺は南口の出口方面へと歩き出した。

 夜が近付いていた。
 傾きかけていた陽は更に大きく傾いて、今やシルエットになりつつある向こうのビル街の谷間へと落ち込みそうになっている。
 やばいね、俺ぁどうしたらいい? 思いながら歩く路地の向こうで、ポッと一つ、ネオンが瞬いた。
“瑠璃”と言う名の立て看板。見た感じは、バーか何かの類だろう。雑居ビルの横から、地下へと降りる狭い階段が見えた。
 一度はその前を通り過ぎた。そして立ち止まり、引き返す。
 意味は無い。ただ、気が向いただけだ。俺は心でそんな言い訳をしながら、饐えた匂いの立ち込めるその階段を下って行った。

 店内は、予想した以上に狭かった。
 ただ、Lの字に曲がったカウンターテーブルと、四つしかないスツールが設えられてあるだけ。
 室内はやけに暗く、その暗がりで顔の上半分が隠れてみえるバーテンダーが一人。
「いらっしゃい」
 声を掛けられ、そして慌てる。もはや引き返す訳にも行かないかと思い直し、俺は一番奥のスツールへと腰掛けた。
「いーらっしゃい」
 バーテンダーの男はもう一度、やけにスローな同じ台詞で俺を迎えた。
 口元は笑っているが、影に上手く隠れて見えないその表情がやけに腹立たしい。
「ビールを。――グラスで」
 俺が言うと、ふんと鼻を鳴らすような返事で男は頷く。俺は傍らに積み上がった灰皿を一つ取り上げ、ジャケットの内側からマルボロの箱を取り出した。
「どこから?」
 目の前に、グラスを置くと同時に男は聞いた。
 どこから――か。そんなの俺が聞きてぇよ。思いながら俺は、無言で店のドアを指差した。
「あははは、確かに」
 男は笑い、そして殻の付いたままの南京豆がいくつか入った皿を、グラスの横に並べた。
「なぁ、この辺りに泊まれる安い宿とかある?」
 俺は冷えたグラスを手に取り、大きく呷りながらそう聞いた。
「宿? ――宿、ねぇ。あるって言ったらあるけど、あまりおすすめ出来ないなぁ」
「どうして」
「まぁ、いわゆる連れ込み宿って所ばっかさ。素泊まりと、ラブホテルの中間ぐらいの所かな。そう言う場所ならこの街の至る場所にある」
「なるほど」
「もし安全に寝泊まりしたいってんなら、改札向こうのビジネスホテルでも訪ねるんだね。でも、相当にぼったくるよ。朝食だってめっちゃショボいしね」
 俺は、「ふぅん」とだけ返事をして、また一口ビールを呷る。心なしか、やけに味気ない喉越しに感じた。
「ところで、ここってどんな街な訳?」
 聞けば男は、「どんな街って?」と、オウム返しに聞いて来る。
「いや、だから――」言葉に詰まる。
「どこの県の、どこ辺りにあるどんな街なのかって話だよ。特産物は何だとか、こんな有名人が出た所だとかさ。色々あんだろう? そう言う話」
「あぁ……」
 男は笑った。相変わらず、口しか見えない笑い顔でしかなかったが、間違いなく男は笑っていた。
「やっぱり聞きたい? どうして自分がこんな見知らぬ街にいるのかって事」
「見知らぬ街って――」俺はグラスを叩き付けるようにして置くと、思わず身を乗り出していた。
「アンタ、それどう言う意味だ? 俺の事、なんか知ってるのか?」
 聞けば男は、「いやぁ」と、困った声をあげながらまた笑った。
「語るには、ちょっと時間が足りないよね。もうそろそろタイムリミットだし?」
「タイムリミット? 何が――」
 ぐらり。世界が揺れた。
 いや、多分だが揺れたのはきっと俺自身。カウンターの向こうでは男が変わらぬニヤけ顔でグラスを磨いている。
 ふと見上げた壁に、午後の七時を示すアナログな時計があった。
 ゴツンと音がして、俺の頭がガラス張りのカウンターの上に落ちる。
「おやすみぃ」
 頭上で、男がやけにふざけた事でそう言った。
 そして静かに、闇が訪れた――。

【 2・氏森アンナ ‐NIGHT 一日目‐ 】 〈 1 〉

 きゅうぅぅぅぅぅん――と、やけに耳障りな音が聞こえた。
 同時に、鈍く光る電飾がゆらゆらと私の頭上で揺れているのが見えた。そしてそれに一歩遅れて、静かに流れるジャズ系のBGM。気が付けば私は、全く見覚えのないどこかのバーの片隅にいた。
 ――なんなの、これ。私は身を起こす。
 微かに鈍く感じる頭痛を振り払うようにして顔を上げると、目の前には飲み掛けのビールと手の付いていない殻付きピーナッツ。そしてまだ煙が立ち昇っている煙草が一本、灰皿の上に転がっていた。
 店内を見渡す。僅かに四つ程のスツールが置いてあるだけの、やけに狭いバーだった。
 人はいない。客はおろか、店主の姿さえもない。一体私はこんな場所で何をしていたんだろうと考えながら、静かに立ち上がった。
 まず、状況を確認した。――怪我は無い。痛みを感じる箇所も無い。但し、肝心なる記憶も無い。
 ――私は誰だ? 単純かつ最大かつ非常に重要な壁にぶつかった後、私は頭を振り、今はそれを考えるのはやめようと決心した。
 早足でカウンターテーブルの向こう側へと移動すると、そこにある物をざっと見渡し、目ぼしいものを物色し始める。
 並べたのは、氷を砕く為のアイスピックと、鞘付きの果物ナイフ。そして一振りの包丁。
 私はまず、果物ナイフを靴下の中にしまい込む。そして包丁にはタオルを巻き、背中側のベルトの間に挟んだ。アイスピックは逆さまにして、リストバンドで留めるようにして服の袖へ。これで後は小型の拳銃でもあればいいなと思いながら棚の中を覗いてみたが、そこまでは置いてはいないようだった。
 代わりにレジスターの中から紙幣と小銭の一切合財を抜き取ると、アーミーパンツのサイドポケットの中に無造作に放り込んだ。
 ついでに冷蔵庫の中から手付かずのハムとミネラルウォーターのボトルを取り出せば、後はもう用はないなと、私はカウンターの向こう側へと戻った。
 ――そう言えばと、私は先程まで眠っていたであろう場所に視線を戻す。
 私が起きる直前まで、その横に誰かがいたのだろうか? 私は飲まない筈のビールが置かれ、その横には嫌いな筈のシガレット。間違いなくこれは私ではないと思いながら、ふと笑みがこぼれた。
 ――私ではない? 私自身の記憶が無いのにか?
 思いながら灰皿の横にあるオイルライターを拝借すると、それもまたポケットの中にしまった。
 そっと足音を立てずに店の入り口へと向かう。かぶったキャップの唾を後ろへと回すようにかぶり直せば、静かに店のドアを開け、外の様子を伺った。
 細く長い、暗い階段が地上へと繋がっている。どうやら誰もいなさそうだが、結局私はそこから出るのをやめた。急いでドアを閉め、内側から施錠する。そして今度は再びカウンターの向こうへと急ぎ、勝手口のドアのノブへと飛び付く。
 外は、闇だった。だが、ほんの僅かな時間で目は暗闇に慣れる。幾何かの時間を置き、私は闇へと紛れ込む。
 どうやらそこは雑居ビルの地下らしく、雑然とした荷物置き場と化している。
 咄嗟に隠れ場所を探すが、万が一ここで見付かった場合には分が悪い事を把握し、私は地上へと向かう階段を探す事にした。
 やがてそれは、資材搬出用貨物エレベーターの横に見付かった。
 頭上には、細かい点滅を繰り返す切れ掛かった蛍光灯。そしてその灯りの下、エレベーターのステンレス製のドアに映る自分の姿。
 白いタンクトップに、迷彩柄のアーミーパンツ。紐で編み上げた革のブーツに、両手には黒のグローブ。ストレートな長い黒髪を隠すようにしてキャップをかぶる、“私の姿”がそこにある。
 ――正直、違和感しかなかった。
 私自身が一体誰なのかはまるで思い出せないが、それでもこれだけははっきりと言える。「この姿は私ではない」と。
(でも、そんなに悪くはないわ)
 切れ長の目で自分自身にウインクすると、私はその場を後にした。

 耳を澄まし、人の気配を探った後、私は足音を殺しながら階段を登った。
 出た場所は、車の一台も通れないだろう狭く細い裏路地。背の高いビルの壁が両側に立ち塞がり、闇と共に圧倒的な威圧感を与えて来る。
 ――もしもここで両側から挟まれたら? そんな最悪なケースも考慮に入れつつ、私は覚悟を決めて歩き出す。その時だった。
 ふと、背中側から強烈な光を浴びせられた。私は咄嗟に背を壁に付け、アイスピックと包丁を両手に握り、身構えた。
 しかし、その咄嗟の行動は無駄に終わった。私を照らしたライトはそのまま宙へと向かい、私の頭上を通り過ぎた。
 どこかの巡回パトロールだろうか。鈍いローター音を響かせて、一台のヘリが私のいる裏路地の真上を通り抜けて行く。
 ふと、そのライトの灯りを目で追った。向こうの通りに見えるビルの屋上の看板をライトが照らし、ほんの一瞬だけ、“Beginning of a Game(ゲームスタート)”の文字を暗闇に浮かび上がらせていた。

背中越しのラヴソング

背中越しのラヴソング

記憶の全てを失った私立探偵クリス。彼に与えられた使命は、行方不明の女性を探す事。 過去の全てを思い出せない殺し屋アンナ。彼女に与えられた試練は、とある男を殺す事。 やがて二人は、そのターゲットがお互いの事であると気が付いてしまう。 架空の街、常代町で繰り広げる二人の心理ゲーム。 ――背中越しに、寂しげなラヴソングが聴こえる。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-21

Copyrighted
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  2. 【 1・クリス・オディアム ‐DAY 一日目‐ 】
  3. 【 2・氏森アンナ ‐NIGHT 一日目‐ 】 〈 1 〉