赤毛布の娘 3

『戸締りはしっかりするんだよ。でないと悪いオオカミさんが扉を開けて入ってきてしまうからね』
『あら、まだこの子は小さいからよくわからないわよ』
 優しい笑い声がする。柔らかい毛布といい匂いのする母親の腕に抱かれて、クリスティはうとうとしていた。母親は木の椅子に腰かけて、窓からは春の淡い光が差し込んでいる。窓は開いていて、涼やかな風が若葉色のカーテンをなびかせている。その窓の向こうの庭には。
シロツメクサのじゅうたんが広がり。
 たんぽぽは黄色い花を咲かせ、綿毛を飛ばす。
 さまざまな形と色の花をつける低木が植えられている。
 大きな桃色の花を咲かす低木もあれば、鈴のような黄金色の小さな花、マシュマロのような白色の花を咲かすものもある。
 濃い花の香りが部屋を満たしている。
 その庭の中で「ロルフ」が楽しそうに走り回り、わんわん、と鳴いていた。
『オオカミはな、言葉巧みに人を騙して食べてしまうんだよ。だから、クリスティも大きくなったら気を付けるんだよ』
『もう眠ってるわよ』
 くすくす、とクリスティを抱く腕が揺れる。同時に長い白金の髪も揺れた。
 クリスティは母親に抱かれている幼いクリスティを見ているはずなのだが、父親と母親の顔は、はっきり見えてこなかった。まるで、ミルクよりも濃い霧が覆いかぶさっているように。
『だって、心配なんだよ。クリスティのことも、おまえのことも』
『心配しないで、あなた』
 父親と母親のささやき合う声。母親の細い腕の上に父親の太い腕が重なったのがわかった。力強く母と娘を囲う腕。
(ああ、少し、似てるかも)
 夢の中のクリスティは思う。
 力強く、温かいを通り越して熱いぐらいの腕の中。
(不思議ね、ロルフ、あなたは人間じゃないのに、あなたの側ってなんだかすごく落ち着くの。森の奥で迷う私を引っ張って、出口まで連れて行ってくれてる気がするの。ねえ、ロルフ。あなたって温かいどころか熱いけど)


 目が覚めた。
 若葉色のカーテンの隙間がまだ薄暗かったので、早く起きてしまったのかしらと思ったクリスティだったがいつもの起きる時間だった。少しほっと胸を撫で下ろして、身支度にかかる。そっとカーテンをめくれば、しとしと、と細い針のような雨が降っていた。久しぶりの雨だった。窓枠にはすでにしっとりと羽を濡らした小鳥達が雨宿りをしている。
「おはよう、小鳥さん達」

 おはよう、クリスティ。
 羽が湿って重いけど、めぐみの雨よ。
 でも私達の主人は雨があまり好きじゃないわ。
 毛皮が濡れてイヤなんですって。

 小鳥達の言葉に、思わず笑ってしまう。雨の中、耳を垂らしてうんざりしているだろうロルフのことを思い描く。数日前に会った時も、帰り際にミルクの御呪いをしてくれたのでずっと寝つきがよかった。幸せな夢も見ることができる。そして、ベッドの下に隠しているお土産も、クリスティをまるで『夜の音』から守ってくれているように心地いい眠りの入り口を用意してくれている。ベッドの下には、今まで森で摘んできた花々とロルフのくれたモクレンとバラとナデシコ。それらは不思議なことに夜に布で覆い、その上から数滴ミルクを垂らせば枯れるのがとても遅くなった。まだ、摘みたての時のように瑞々しい。
 けれど、それらは絶対にばれてはいけない。
「おはよう、クリスティ」
「おはよう、パパ」
 いつもの朝食。いつもの向かいの椅子に腰かけて朝食を食べる父親とクリスティ。父親と娘。決して切ってはいけない関係。ロルフと出会う前のクリスティはこの父親と娘のあり方になんの疑問も抱いていなかった。
 けれど、今は少し息苦しい。
 雨で湿気を孕んだ重い空気。それを吸う度に、肺に水が溜まっていくようだ。最も、そう感じているのはどうやらクリスティだけのようだった。
「クリスティ、今日は町で大きな市場が開かれるから、何かお土産を買ってきてやろう。何がいい?」
 クリスティがずっと大人しくしていると思い込んでいる父親は、上機嫌に笑っていた。顎と鼻の下を覆うほどに伸ばした黒い髭が、しゃべる度に息で揺れている。クリスティはそっと父親の顔を見た。黒い髪は短く切っていて、キツネのように細い目の色はブラウン。その目の周りと額には彫刻刀で刻まれたかのような深いシワがある。
クリスティとはあまり似ていない。クリスティは母親に瓜二つなのだ、といつも父親は嬉しそうに話している。
「お土産…」
一瞬、ロルフに会う度にもらっているお土産を思い出す。クリスティにとって父親以外から貰うお土産はあれらが初めてだった。いつもなら、父親にはキイチゴや町にしかない甘いフルーツケーキなどをねだったりしていたが、どうしてだろうか。今のクリスティにとって、それらにはあまり魅力を感じなかった。
「なんでもいいわ、パパ」
 少し考えた末に、そのような少し素っ気ない言葉が出てきてしまう。案の定、父親はいぶかし気にクリスティを軽くにらんだ。
「違うの、パパ。何も欲しいわけじゃないわ。今日はなんだか欲しいものが浮かばないの」
「そうなのか…珍しいなクリスティ…いつもならキイチゴや甘いケーキなどを欲しがるじゃないか。まるでこの世に楽しいことがそれしかないみたいに喜ぶじゃないか」
 父親のその言葉に、小さな小石が鉄の鍋に当たったかのような音がした気がした。カチン。
(町で買ったキイチゴなんてぶよぶよしてて甘いだけじゃない。たっぷり砂糖漬けされたフルーツが入ってる甘いだけのケーキだって、本当はもう飽きてたのよ。今はもっと素晴らしいものを知っているのに…この世にぶよぶよのキイチゴと甘いだけのケーキしかないみたいに私はもう思ってないの)
 一瞬、そんな酷い思いが言葉に出そうになった。が、寸前で思いとどまる。そのような酷いことを考えてしまったことが衝撃だったのと、ロルフの言葉を思い出したからだ。
 
『知りたい時にすべてを知ろうとして、話したいことを思うままにすべて話すのはおまえの身に危険を及ぼすだけだろう。時がくるまで、機会がくるまで。あるいは、誰かに聞くのではなく自力でどうにかするのもいいことだ。ただし、時と場所と加減を間違ってはいけない』

 時と場所と加減を間違ってはいけない。

 まるで今まさに耳元でそう言われているような感覚に陥った。
 ミルクを飲み干し、出かかった酷い言葉達も喉からお腹の中へ流してしまうことにした。
「ううん、やっぱりケーキが欲しいわ、パパ。フルーツのケーキね、楽しみにしてるわ!」
「そうか…ならいいんだ。楽しみにしていろよ」
 父親はすぐに機嫌を戻しにこにこ笑い始めた。クリスティはたった今口に運んだリンゴがとても苦いもののように感じて、思わず顔をしかめた。


 クリスティ、クリスティ。
 お外で遊びましょう。
 私達の主人も待っているわ。

「でも、今日は雨だからお外へは出れないわ。毛布や服や靴が濡れたら、パパに外出したことがばれちゃうもの」

 少し開いた窓の隙間から入り込んだ小鳥達が外の世界へ誘う。しかし、今日は朝からずっと雨が降り続いていて、父親が町へでかけてお昼ぐらいになっても止んでいなかった。

 大丈夫よ、クリスティ。
 私達の主人がなんとかしてくれるわ。
 それに雨の降るお外もステキなのよ。
 クリスティは自分の知らないことをどんどん知るべきよ。

 クリスティは少し迷ったが、確かにクリスティは雨の降る日に外へ出たことはない。普通なら雨の降る日は外へ出ないものだということも知っていたけれど、今のクリスティには経験したことないすべてのことが興味深く、それへの誘いは抗いがたかった。
結局、小鳥達に誘われるままクリスティは外へ出ることにした。ロルフがなんとかしてくれるだろう、と思っていたのと朝から胸に渦巻く苦い気持を誰かに吐き出したかったというのもあったのかもしれない。
今日も毛布を頭から被り、今日も鍵がかかっていた小屋から小鳥達の力を借りて外へ出る。クリスティは、ふと、
(私って本当に独りでは何もできないのね)
 と思った。

しとしと、と。

雨が降っている。朝から針のように細かった雨は、外へ出てから徐々に霧雨に変わりつつあった。
 すぐに雨の気を吸って毛布は重くなり、足元は濡れている。靴を履いていてもあまり変わらなくなったので、途中から裸足になってみた。
 湿った草と土を踏みながら森の中を進むのは、また違った開放感がある。
 久しぶりの雨を吸った森の中は、木々や草花の吐く息の気に溢れていた。
 木々の葉は雨に濡れて雨の粒が葉脈を伝って落ちていく。ぽとぽと、としずくが落ち、土と岩と草花達の上にも降り注ぐ。花は花びらを閉じているけれど、葉はぴんと張って元気そうに落ちてくる水分を吸っている。蝶々やバッタなどの虫は、葉の裏、木の隙間などに隠れて雨をしのいでいた。
 雨が降れば空気も変わり、森の様子もより静かになっていた。けれど、その雨の隙間に命は息づく。
 そして、いつもロルフと会っている湖の畔にたどり着いた。
 濃かった緑の香りが少し晴れ、代わりに深い水の香りが満ちている。
 いつもはサファイアのように美しい湖の水面も、雨を受けて少し濁っていた。けれど、嫌な濁り方ではない。少し不透明になった湖は、緑を帯びてまるでエメラルドのようだった。
 そのエメラルド色の上に浮かぶスイレンは、今日は閉じている。けれど、丸く細いそのツボミは雨を受けて、濡れならが鮮やかな薄い桃色に染まっていた。
「…ステキ」
 クリスティはただ一言そう言った。
「気に入ったか、クリスティ?」
 湖に見惚れていたクリスティの横に、毛皮を雨で濡らしたロルフが現れた。相変わらず、現れるときはあまり気配がなくまるで空気として森に浸透しているかのようだ。
「ええ、とっても」
 クリスティは、ロルフの横顔にそっと指で触れてみる。
 しっとり湿った毛皮。背中に生えているコケの緑が深い。
 そしてまるで先ほどまで感じていた、雨の森のような濃い緑の香り。
「ロルフって時々、森そのものみたいよね」
 クリスティは、思ったことを告げてみた。ロルフは、金色の目をきょとんと丸くしたかと思うと、牙を見せて笑う。
「そうとも言えるな。ワタシもう長くここにいるから、この森に深く馴染んでいるのだ」
「…でもロルフはいつかその紐を解けたら、上へ帰ってしまうの?」
「…今日の質問はそれでいいか、クリスティ?今日の質問は二つまでとしよう」
「…ええ、いいわ、今のは一つ目の質問よ」
「いいだろう。まずは座りなさいクリスティ」
 ロルフが地面に、ふう、と息を吹きかけるとたちまちその部分の地面が渇いた。ありがとう、とクリスティはお礼を言ってから乾いた地面に座る。ロルフは地面が濡れていても構わないのかそのまま隣に座り込んだ。
「さて、この紐がいつか解けたら上へ帰るかどうかという質問だが…そうだな、上に帰ったとしてもワタシにかつての自由があるかどうかはわからない。というより、そもそも私は最初に上にいた時から自由ではなかったのかもしれないからな。しかし、以前言った通りワタシは自由になりたい。けれど、その自由の道が必ずしも上へ帰ることだけに絞られてるわけではないのだよ」
「…だから、ロルフの言うことって時々難しい」
「難しいか?要するに、その時にならないとわからないかもしれないな。ワタシが何を望んでいるかどうかだからだ」
「……」
 クリスティは足元に生えているキイチゴを一粒取った。雨に濡れたそれは、しずくを乗せて瑞々しい。実は腐ることもなく、むしろ雨を吸ってはちきれんばかりだ。それを口に含む。ぬるいような冷たいような。雨とキイチゴの混ざった味が舌に広がる。やっぱり甘酸っぱくておいしい。朝食で、甘いはずのリンゴを苦く感じてしまったことが嘘のようだ。
「ロルフがいなくなったら、寂しいわ」
 クリスティは迷うことなく、告げた。さわさわ、と霧雨に変わる中、クリスティのその言葉はその霧雨を伝ってはっきりロルフの耳に届く。
「寂しいのか?」
「…寂しいわ、だって…私は……独りぼっちなんだもの」
 言葉に出してしまえば。
 それは本当のことなのだ、とクリスティは強く思った。
「…父親がいるだろう?」
「…それでも、独りなの」

『クリスティ』

 夢の中の母親の姿。
 美しいピアノを奏でる指、子守歌を歌う声。
 そのぬくもりに包まれていたクリスティ。
 けれど、今はどうだろう。
「ロルフ、私…とても悪い子だわ」
 クリスティは裸足のつま先を見つめた。雨に濡れて柔らかくなった土で汚れた足。桃色の爪の間にも泥が詰まっていた。けれど少しも不快ではなかった。思えば、足を泥で汚したのは数えるほどしかない。父親がずっと許さなかったからだ。
「ほう、どんな風に悪い子なんだ?クリスティ」
「…最近、パパのことをとても悪いように思ってしまうの」
 今朝、出かかった父親への言葉を思い出す。クリスティを守ると毛布を被せてくれた、今まで育ててくれた父親にあんな言葉を言おうとするなど。クリスティは信じられなかった。けれど、その言葉が出かかったことは事実なのだ。
「…その言葉を、おまえはどうした?」
 クリスティの話を聞いて、ロルフは金色の目をわずかに鋭くさせる。
「言わなかったわ。ミルクと一緒に飲み込んだの。だってとても酷いことじゃない?」
「いい子だ、クリスティ。おまえは賢い選択をした」
「だから、ちっともいい子じゃないの」
「何故そう思う?」
「…だって、パパに酷いことを思ったのよ」
 クリスティが大人しくしてさえいれば、にこにこと機嫌のいい父親。クリスティの満足するものが町で買ってきたキイチゴとケーキだけで事足りと本気で思っているだろう父親が。
 疎ましくて仕方がない。
 クリスティはそんな気持ちを抑えきれずにいて、けれど自覚する度にとても胸が痛くなっていくような苦さがあった。それは、確実にクリスティの胸の中に芽生えるのだけれど、腐りながらも成長してクリスティの体全部を乗っ取ってしまいそうな、恐ろしいもの。
 そんな恐いものを知ってしまった。
 けれど。
「…後悔しているか?前のように何も知らなければそのような感情を覚えることもなかっただろう」
「…ううん。不思議ね、でも私、後悔してないの」
 けれど。
 決して後悔はしてなかった。
「何にも知らないままでいることの方が、きっと怖いわ」
 いつの間にか霧雨も止んでいた。しかし、まだ暗雲に覆われた空のままだった。
「ねえ、私、前に言ったわよね。何にも知らずに長く生きるのと、たとえすぐに死ぬんだとしても、いろんなことを知って思い出してそういうのに満たされていくのとどっちがいいと思う?って。私、今なら少しわかる気がするわ」
「……」
「ううん、私がどちらを望んでいるかどうかってことが、わかる気がするの」
 立ち上がる。雨を吸って毛布が重くなっていた。けれど、心も体も軽くなる一方なのだ。この森の奥とロルフのことを知ってから。
「ロルフより私が先ね。私、何を望んでいるのかわかった気がするもの」
 クリスティは微笑んでロルフを見る。白い金髪の前髪が丸くて狭い額に張り付いている。ふっくらとした頬にも長い髪が数本。濡れてしっとりとした髪とまつ毛と白い肌とその幼い顔のせいだろうか。まるで羊水から抜け出したばかりの赤ん坊を連想させる。
 生まれて柔らかな毛布に包まれて。
 安らかな眠りの楽園へ。
 けれど、赤ん坊はそれだけでは満足できず、やがて自ら歩き出す。
 今まさに、クリスティがそうだった。
 ロルフの金色の目は、そんなクリスティの姿から逸らされることはなかった。
 クリスティは湖にかがみこむと、細くて白い指で水面を揺らす。雨を含んで緑に濁った水面はクリスティの指の動きのままに、かき回された。ぐるぐるぐる、と渦を巻く。
「…まいったな…クリスティ…おまえはとても可愛らしくて、綺麗だよ…」
 その無邪気でありながら水面をもてあそぶ様子に、ロルフはそっとつぶやいた。クリスティには聞こえていなかった。
「私はまだロルフと一緒にいたいわ。ロルフはどう思ってる?」
「それは今日の最後の質問だな…。そうだな、ワタシは…」
 ぐるぐるぐる、と水面が渦を巻く。
 暗雲があったはずの空は、いつの間にか少し晴れていた。その雲の隙間から、太陽の光が柱のようにまっすぐ注がれる。天使のはしごである。それがクリスティを照らし出す。
 クリスティがそのまま、その光のはしごを使って上に行ってしまいそうな。
 そんな幻想的な空想を思い起こされる、光景であった。
「ロルフ?」
 クリスティが首をかしげる。ロルフは、押し黙ったまま答えなかった。ロルフが質問に答えなかったのはこれが初めてだった。
「ロルフ?」
 ロルフは答えない。ただ、ようやくクリスティから目を逸らすと、クリスティのもてあそぶ湖の水面を睨んでいた。その目は鋭く本当に姿形のままに獣のようだったが、水面に映るロルフの姿はやはりただのまっくろな影であった。


「ただいま、クリスティ。キイチゴとケーキを買ってきたよ」
「おかえりなさい、パパ」
 夜も更けた頃。
 クリスティの父親は帰ってきた。朝、クリスティに言った通りキイチゴとケーキを抱えて。小屋の扉の鍵はいつものように小鳥達が戻してくれていた。雨で濡れた髪も毛布も、ロルフが息を吹きかけるだけで乾いてしまっていた。今日、ロルフから貰ったお土産はキイチゴだった。父親が町から買ってくるとわかってはいたが、だからこそクリスティは森の中のキイチゴが欲しかったのだ。
「今日も大人しくしていたかい、クリスティ?何か変わったことはなかったか?」
「今日も大人しくしていたわ。何もなかったわ、パパ」
 嘘をついている。それはロルフとの秘密の邂逅をし始めた時からずっとそうだった。最初は、罪悪感があったが今ではもう薄れていた。
 そして、クリスティが大人しくしていると思い込んで、大人しく小屋に閉じこもってさえいれば何もかも満たされたような父親の顔が。
(…少し、怖いな…)
 それは、初めて森の奥へ行き父親に叱られた時とは違う怖ろしさだった。
 食卓にさっそくキイチゴとケーキが並べられる。クリスティはもう夕飯を食べてしまっていたが、クリスティが喜んで食べるのを当たり前のように期待している父親を見ると、どうしても拒めなかった。
 クリスティはケーキを食べる。
 どろっと解けた甘すぎるクリームと砂糖の多いフルーツのケーキ。
 新鮮さを失ったぶよぶよしたキイチゴ。
 それらが、口の中で溶けていく。クリスティはほとんど噛まずにミルクで飲み干した。
「おしいわ、パパ、ありがとう!」
「そうかそうか、よかった」
 しかし、無理矢理笑顔を作ってみせる。父親は満足そうに頷いた。甘すぎるクリームのせいなのだろうか、頭が痛くなってきた。
(…私はどうして前までこれをおいしいと思っていたのかしら)
 これらをおいしいと思えていた前のことが不思議だった。

 父親に悟られないよう必死においしく食べているふりをして、ようやく食べ終わればクリスティは逃げるように自室に戻った。父親はまた夜の狩りに行くのだろう。少し、いや、大分、ほっとする。
 クリスティは寝る前にベッドの下から今までロルフに貰った森のお土産を取り出す。その上には常に布がかけてあって、ロルフに言われたようにミルクを数滴垂らすだけで花の匂いはしなくなる。
 その秘密の隠しものの中には、今日貰ったキイチゴもあった。
 一粒、手に取って食べる。
 摘んだ時から何一つ変わらない新鮮さ。口に甘酸っぱさが広がれば、昼の雨、森の香り。それらが口に広がり喉に落ちてお腹から体全部に広がっていくようで。
 クリスティは安心した。
 先ほどまで口にしていた甘すぎるケーキと腐りかけたキイチゴの味が消えていく。
 もう一粒食べて、口の中で弄びながらベッドに仰向けに倒れた。クリスティはそのまま昼間のことに思いを馳せる。
(ロルフは…質問に答えてくれなかった…)
 
『私はまだロルフと一緒にいたいわ。ロルフはどう思ってる?』


 初めてロルフはクリスティの質問に答えてくれなかった。

「…ロルフは私と一緒にいたくないのかしら」
 ぽつんと小さく小さくつ呟いてみれば、とても悲しくなった。
(そもそも…どうしてロルフは私とおしゃべりしてくれて、私を気にして、いつも私に何かを気を付けるようにって言うのかしら。まるで、パパ…みたい…)
 外の世界、特にオオカミに気を付けろと言っていた父親と。
 好奇心を抑えろ周りをよく見ろ、と言ってくれるオオカミのロルフ。
 父親とロルフは同じようなことを言っているのだろうか。
 クリスティは考える。しかし、どうしても父親とロルフの言う「忠告」や「警告」が同じ種類のものであるようには思えなかった。
(どうしてかしら。同じものだと思えないのかしら。パパもロルフもきっと私を心配してくれて言ってることなのに)
 しかし、ふと疑問に思う。
(ロルフは私を心配して色んなことを言ってくれているのかしら。でも、それってどうして?)
 考えてもわからない。
 ロルフは上で神様に飼われていたという存在で、クリスティは何も知らない愚かな娘。
 急にロルフとの距離を感じた。
 あまりにも違いすぎる存在。それなのに、どうしてロルフはクリスティに構うのか。二年も前から気にしていたのか。
(…やっぱり何か考えていることがあるの?)
 ごろん、と寝返りを打つ。頭は冴えて眠りにつけそうになかった。今日も幸せな夢を見たいのに。
(そうだ…子守歌を歌えば)
 眠れる気がしたので、クリスティは弄んでいたキイチゴを噛んで飲み込むと息を吸う。頭の中で夢に見た母親のピアノのメロディーを思い出しながら。


「…お眠りなさい。
お眠りなさい。
バラとナデシコとデッケに包まれて」

 歌うのと同時に思い出す。
『毛布を被れば安全だよ』
 とクリスティに毛布を被せる声と両手。
『毛布を被って。何にも見ないで。聞かないで。そうすれば怖いことなんてないよ。怖いことなんてないよ。クリスティ』

「お眠りなさい。
お眠りなさい。
……………」

『大丈夫だよ、クリスティ。絶対にパパが守るよ』


「クリスティ」


 驚いた。
 体は跳ねてベッドから落ちそうになったが、手で支える。
 ほんの少し開けられた扉の隙間から、クリスティを伺う細い目。父親だった。猟にはまだ出ていなかったのだろう。ロウソクを持っているのかその細い目は、燃えるような朱色に染まってより深い影を作っている。
「…パ、パパ?」
 声がかすれた。父親はじいっとこちらを見ている。
「今の、歌は?」
 低い、何かを押し殺しているような声。クリスティは肌の上を蛆虫が這うかのような悪寒を覚えた。
「う、歌?」
「歌っていただろう?何の歌だ?」
「何のって…」
 ママがよく歌っていた子守歌よ。
 そう告げれば細い目が、歪んだ。しまった、とクリスティは思う。父親は母親のことを語る時いつも悲しそうだった。母親を失ったことが今でも辛くて仕方がないのだ。それを思い出させることをしてしまった。
 けれど。
「…もう歌うのは止めなさい。二度と歌うんじゃない。忘れるんだ。今回だけは許してやるが、次に言いつけを破ったら……」
 けれど。なぜ。
 父親を気遣って、大切な母親の思い出までも捨てなければいけないのか。
「………いやよ」
 クリスティは顔を上げ、半分だけしか顔を見せない父親に言い放つ。
「絶対に、イヤ。私はもう忘れたくないの」
 強く言う。父親の目が見開かれるが、余計に何を考えているのかわからなくなった。けれど、クリスティは目を逸らさなかった。
「ねえ、パパ、なぜなの?なぜそんなにママのことを話すのを嫌がるの?私、ママのことあんまり覚えてないのよ。だから、本当は…ずっと知りたかった」
 考えずに口に出してしまったが、そこで初めてクリスティは自覚した。ずっとずっと。母親のことを知りたかったのだと。夢の中だけではなくて。母親と確かに人生を伴にした父親の口から母親のことを聞きたかったのだ。
「ねえ、パパ。覚えているでしょう?ママはピアノが上手で子守歌をよく歌ってくれていたわ。パパも一緒に聞いていたはずよ?」
「………」
 父親は答えない。
 昼間のロルフと同じように、クリスティの質問には答えなかった。
(違う)
 唐突にクリスティは悟った。
(…パパとロルフは全然違う。でも何が違うの?ロルフは何か他に考えていることがあるのかもしれないけど、でも私をきっと心配して…パパもそのはずで)

 けれど、違うのだと、クリスティの中で誰か別の声がそう訴えた気がした。

 クリスティは唾を飲んで、こう質問した。

「パパ…子守歌の最後の部分、覚えてる?」
 クリスティが歌っていたのを聞いていたなら、最後の部分は。


「…お眠りなさい。
お眠りなさい。
バラとナデシコとデッケに包まれて」

クリスティは歌う。

 
「お眠りなさい。
お眠りなさい。
……………」

 窺うように父親を見る。しかし、やはり父親は答えなかった。思えば、今までロルフとのやり取りのように父親に何か質問をしたことがあっただろうか。なかった。一度もなかったのだ。いつも父親が一方的にクリスティに何かを言いつけて、クリスティは父親の言葉もその存在も。何一つも疑うことはなかったのだ。

 パパ、なぜ覚えていないの?


 そう聞きそうになった。けれど、ロルフの言葉を思い出す。

『好奇心とはおまえに真実を教える元ともなるが、時に魔物なのだ。知りたい時にすべてを知ろうとして、話したいことを思うままにすべて話すのはおまえの身に危険を及ぼすだけだろう』

 クリスティは本当に聞きたいことを堪えた。押しとどめた。いまだ、幽霊でも見ているかのようにクリスティを見据えている父親へ、クリスティは今夜もう一つ嘘をつく。

「…ごめんなさい、パパ…パパはママのことを思い出すと辛いものね…。ママのこと大好きだったんだものね」
「……」
「それなのに、ママを思い出させることを言ってしまってごめんなさい。…忘れることはできないけど、もう二度と口にしないわ。ごめんなさい、パパ」

 顔を伏せて、本当に反省しているかのような弱弱しい声を出す。本当は、何故覚えていないの、と叫びたいのを堪えていた。
「そうだ…クリスティ…パパはとても辛いんだ…本当に…ママのことを思い出す度に…」
 く、っと父親の息を飲む音。泣いているのだろう。けれど、以前と違ってクリスティはその涙につられることはできなかった。目の周りも頭の中もひどく冷たくなるだけだった。
「…クリスティ、おまえもママがいなくて寂しいのだからな…今夜だけは許してやろう…たが、次は、ダメだぞ」
 一言ひとことを。
 ナイフを突き刺すように、父親は言った。
 クリスティは頷く。何故か言葉で答えてはいけない気がした。

 そして、夜中。
 初めて「夜の音」が響くことはなかった。

 小屋の中で常に父親の気配を感じていた。
 それは『夜の音』が響く夜とは違う恐怖があった。クリスティも知らない壁の隙間から絵本で読んだような真っ黒な悪魔が侵入してくる。そんな妄想に陥りそうになる。クリスティは毛布に包まり、体を丸めた。つま先まで丸めた。小さく小さくなってその怖ろしい妄想を振り払う。
(大丈夫、大丈夫…今夜もきっと幸せな夢を見れるわ)
 それだけを慰めに、クリスティはようやく眠りについた。

赤毛布の娘 3

赤毛布の娘 3

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-20

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