エナジードレイン(後編)

エナジードレイン(後編)

#7

 どうにかホテルに辿り着いた頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。ホテルは駅前にあった。駐車場はなく、車は付近にあるコインパーキングに停めるしかないようだ。ウェブサイトの説明によると、周辺のパーキングと提携契約を結んであるから、駐車券を持っていけば無料で精算できるらしい。
 パーキングはどこも空いていた。水曜日の夜、こんな場所に車を停める者は余程の物好きか、仕事上の目的を持った者だけなのだろう。
 ホテルの扉をくぐると、白を基調に統一されたフロントが目に入った。美和子は嬉しかった。整備の行き届いていないものには飽き飽きしていたからだ。
 カウンターの上にある銀のベルを鳴らすと、扉の向こうから若い男が現れた。まだ学生かもしれない。美和子を見て少し緊張しているようだった。
 男に鍵を渡され、エレベーターの中に入った。部屋は9階だ。鍵はオートロックになっており、渡されたカードキーによってのみドアを開閉できる仕組みだ。火事や地震などの自然災害が起きたらどうなるのだろう? おそらく全てのドアロックが解除されるのだ。けれどもシステムが作動しなかった場合は困ったことになる。アプリケーションのテスターだった彼女は「システムは最悪の状況下で最悪の振る舞いをするものだ」と考える癖がついてしまっている。
 エレベーターが開いた。無機質な廊下に赤い絨毯が敷かれ、定間隔にドアが並んでいる。恐ろしく静かだ。防音処理が施されているのだろう。それでも宿泊客の存在を感じとることができる。彼らがドアの向こうで何をしているのかは分からない。もしかするとドアに耳を当て、外の様子を伺っているのかもしれない。まさか。そんなことがあるはずはない。今日の私は少しナーバスになりすぎている、と美和子は思う。
 908号室の前に来た。美和子はカードキーをドアの脇にあるスロットに挿入した。上の方に設置されたランプが点灯し、がちゃりという機械音が聞こえた。ドアノブを引くと、扉は滑らかに開いた。
 部屋の中は極めて清潔で、まるで無菌室のようだった。完璧に清掃され、絨毯の上には髪の毛一本落ちていない。
 一方の壁には棚が取り付けられており、一部がくり貫かれて机になっている。美和子は椅子に座り、机の上にあった案内に目を通した。建物の概略図と、避難経路についての記述がある。やっと読める位の小さな文字で、宿泊に際しての注意事項が書き連ねられていた。寝ながら煙草は吸うなだとか、ドラッグはやるだなとか、かれこれこういう事態が発生した場合は賠償金を請求するだとかいったこと書かれている。いずれも彼女にはあまり関係のない話だ。
 美和子はコーヒーを淹れることにした。洗面所でポットに水を入れ、元あった場所に置き直すと、赤いランプが点灯し、すぐにぐつぐつという音がし始めた。とにかく熱いコーヒーが飲みたい。今日はあまりにも色々なことがありすぎた。
 部屋には窓がなかった。エアコンが効いており、新鮮な空気が送り込まれてくる。だから息苦しくはないが、強い圧迫感を感じる。ベッドに面した壁には絵が掛けられている。不釣り合いな二つの目を持つ女の肖像画だ。顔は青白く、目は憤りに満ちている。どこからどう見ても気持ちのよい絵ではない。

 テレビを点けた。ニュースキャスターの男が目に入った。男は淡々と今日の出来事を語り続ける。東シナ海で自衛隊の駆逐艦と中国船の衝突事故があった。日本政府は強い遺憾の意を表明したが、中国は「悪いのは日本の方だ」と主張して一歩も譲らない。日本政府はこの事件を重く見ており、今後このような事態が発生した場合、武力行使も辞さないと明言した。九州で誘拐事件があり、48歳の男が逮捕された。男は無職で、逮捕当時の所持金は360円しかなかったそうだ。関東地方はゲリラ豪雨に見舞われたらしい。一部の地区では浸水被害も出たようだ。増水した川の様子を見に行った老人が濁流に飲み込まれたが、一命は取り留めたとのことだった。ヴァージニア州で竜巻が発生し、7軒の家屋が吹き飛ばされた。群馬県でカモの親子が仲むつまじく道路を渡り、公園を横切って河へと辿り着く様子が流れた。2件の殺人未遂事件と、6件の放火容疑で指名手配中の男がついに逮捕された。アジアのどこかの国が人工衛星の打ち上げに失敗し、墜落したロケットの残骸が農村部を直撃した。

 美和子はテレビを消し、それからゆっくりと首を回した。筋肉を痛めないよう細心の注意を払いながら。私は何かにつけてストレッチをしているな、と思った。美和子にとって緊張はもっとも恐れるもののひとつだ。主にして精神の緊張は、筋肉のこわばりによって産み出されるものだ、と何かの本に書いてあった気がする。しかし本のタイトルも、作者の名前も思い出せない。
 部屋に入ってから一時間が経過した。テレビを消してしまうと音が失われ、圧倒的な沈黙だけが残った。もしかすると自分は宇宙船の中にいて、今頃木星あたりを飛んでいるのかもしれないなどと思った。
 深い沈黙の中で、彼女自身が立てるわずかな音だけが聞こえる。両腕がシーツと擦れる音。首を回した時に筋肉と腱がこすれあう音。それらの音もすぐさま沈黙の中に呑み込まれてしまう。
 強い眠気に襲われた。それはあまりにも突然やってきた。まだ眠ってはいけない。その前にシャワーを浴びるのだ。歯も磨かなくてはいけない。けれども眠りへの誘惑は抗いがたいものだった。
 コンビニで出会った気味の悪い男のことを思い出した。あの男は私に何を警告しようとしていたのだろう? 男は「ここは貴方のような人が来る場所ではない」と言った。どういう意味だろうか? 男は「ここは流刑地だ」とも言った。そんなものが現代の日本に存在しているはずがないから、何かを例えてそう言ったのだろう。一体何を?

 ドアをノックする音がした。控えめで遠慮がちなノックだった――小人が優しく扉を叩くような。しかしその音の中には、邪悪な響きがあった。
「決してドアを開けてはいけない」と、美和子の中に住む何者かが告げていた。

#8

 強い雨の音で目を覚ました。美和子はひどい寒気に耐えられなくなって起き出した。身体が冷え固まっており、節々が痛む。
 壁の方を見ると、窓が開いていることに気づいた。外はひどい雨だ。絶え間なく雷鳴が響き、部屋の中に雨粒が吹き込んできている。絨毯の端が水に濡れて変色し、内に曲がっている。美和子は壁のほうまで歩いていって窓を閉めた。

 窓?

 この部屋に窓はなかったはずだ。慌てて部屋の中を見渡してみて、全身に鳥肌がたった。彼女が泊まったはずのホテルではなかった。壁紙は剥がれかかっているし、あちこちに黄色い染みがついている。壁の脇に設置された大きなエアコンは大きな音を立てて生暖かい風を送り出しているが、本来の役目を殆ど果たしていない。
 机はなく、ベッドは汚れていた。埃の混じったいやな匂いがする。まるで廃墟のようなところだ。独りで女性が泊まるような場所ではない。あらゆる整備はおざなりにされ、そのまま忘れ去られている。秩序や規律は何ひとつとして存在しない。前の部屋と共通するものがひとつだけあった。壁に掛けられた絵だ。不釣り合いな二つの目を持ち、涙を流す女の顔ーーそこに表現されているものは憎悪であり、哀しみであり、憤りだった。
 どうして私はこんなところにいるのか? 一体ここはどこなのか? 美和子は立ち尽くした。部屋の角には彼女の鞄があった。急いで中身を確認したが、盗られているものは何もなかった。
 眠っているうちに連れ去られたのだろうか? あるいは私はまだ眠っていて、ひどい悪夢を見ているだけなのかもしれない。けれどもどちらが夢なのか? はじめに泊まった部屋のほうが夢で、この薄汚い部屋のほうが現実である可能性はないだろうか。その証拠に、いくら動き回っても目が覚めない。二の腕をつねってみたが、しっかりと痛みを感じた。
 もしかするとここは「ルシード」なのかもしれない――と美和子は思った。コンビニエンスストアの前に立っていた看板から連想されるイメージと、部屋の外観はぴったりと一致している。

 ドアが強くノックされた。これ以上はないくらいに頼りなく、粗末なドアだ。古い木でできており、青一色で塗られているが、端のほうは塗料が剥げて木片が露出している。蝶番の金具はとれかかっている。かろうじて鍵はかかっているが、ドアノブの中心にあるボタンを押すだけの簡易的なものだ。ノックは絶え間なく続く。そのうちにドアが破られてしまうかもしれない。
 美和子はドアの前に椅子を持っていった。即席のバリケードになるかもしれないと考えたのだ。他に使えそうなものはなさそうだった。ベッドとエアコンは動かせない。他のものは小さすぎる。せめてモップや箒があればいいのだが、生憎そんなものは置いていない。彼女は背中をドアにぴったりと張り付けた。ノックの衝撃が身体に伝わってくる。
 ノックはあくまでも暴力的だった。ドアの向こうにいる何者かは、何としても進入しようとしている。恐らく男だろう。女性がこれほどの力でドアを叩き続けられるとは思えない。
「河野君?」美和子は言った。うまく発声することができない。喉の奥に恐怖が絡みつき、カラカラに乾いてしまっている。こんな状態では悲鳴を上げても誰にも届くことはない。おまけにこの雨だ。自分で何とかするより他に方法がない。窓から飛び降りてみたらどうだろうと考え、再び窓を開けた。9階ではないようだが、飛び降りれば骨折は免れない。地面には泥が渦巻いている。雨は容赦なく大地を打ち続け、雷鳴はいつまでも鳴りやまい。この中に飛び出していく勇気はない。
「河野くんなのね」美和子は言う。返答はない。その間もノックは規則的に、力任せに続けられる。
 強烈な光が部屋を照らし、大きな破裂音が聞こえた。目の前の木に落ちたようだ。窓の外に立つ木の周りを火の粉が舞っている。もっともこの雨ではすぐに消えてしまうだろう。

#9

 美和子は部屋の脇に置いてある鞄の前まで歩いていき、手あたり次第に中のものを床にまき散らした。そして封筒を探し、拾い上げた。封筒はベッドの下にあった。鞄の中身をぶちまけた際にそこまで飛んでいったようだ。
 うまく封筒が破れない。焦りのせいか指がもつれてうまく動かない。ノックが鳴りやむ気配はない。それでもドアは何とか持ちこたえてくれている。落ち着くんだ、自分に言い聞かせる。息を吐ききり、身体の中から空気を押し出す。腹の力を抜くと、体内に空気が自然に入ってくる。新鮮とは言い難い空気だ。埃と黴の混じりあった嫌な臭いがする。それでも少しずつ気持ちが落ち着いていく。美和子は封筒に目をやり、指先をゆっくりと丁寧に動かし、封筒を破っていく。紙を破る音が想像していたよりも遙かに大きくて驚いてしまった。
 彼女は封筒の中から手紙を取り出す。向こうが透けて見えるくらい薄い紙で、環境に配慮した役所の事務手続き用紙のようだ。美和子は丁寧に何重にも折り畳まれた手紙をゆっくりと開いていく。そして中身を確認する。


 エ ナ ジ ー ド レ イ ン


 書かれていたのはそれだけだった。それ以上でも以下でもない。エナジードレイン。河野順平は何を考えてこれを書いたのだろう? まるで理解できない。だが少なくとも、それが河野順平本人によって書かれた手紙であることは筆跡でわかった。神経質な字だ。文字のひとつひとつがあまりに小さいし、筆圧も低い。
「エナジードレイン」彼女は声に出して言った。

#10

 全身に汗をかいていた。タンクトップが背中に張り付いている。美和子はドアの前に座り込んでいる。
 目に入ったのははじめに泊まったホテルの部屋――90X号室だった。机もある。ポットも置かれている。彼女の淹れたコーヒーが机の上に置きっぱなしになっている。立ち上がって机の方に歩いていき、コーヒーに口をつけた。冷えきっている。ベッドの枕近くに埋め込まれた時計をみた。AM6:18。夜は明けている。
 酷い悪夢だった。寝ぼけてドアの前まで行ってしまったのだろうか? 壮絶な寝ぼけようだ。夢遊病患者でもそんなことはしないだろう。床に鞄の中身が散らかっており、手紙が入った封筒もある。封筒は端が破かれており、中身が抜き取られていた。 
 美和子は手紙を探した。部屋の中にあるはずだ。手紙には「エナジードレイン」と書かれていた。けれどもそれは夢の中の話だ。本当は何と書かれているのだろう? 確認しなければならない。そこに書かれていることについて、奥さんに伝えなければならない。私にはその義務がある。
 だが、どれだけ探しても手紙は見つからなかった。そのほかに盗られているようなものは何もない。財布の中身も無事だ。いくら探しても手紙だけが出てこない。
 一時間ほど探索を続けた後に諦めた。こういう時は何をやっても無駄だ。長い経験から彼女はその事を痛いくらい理解している。これまでの人生で色々なものを無くしてきた。それはお気に入りのシャープペンだったり、親友から借りた本だったりした。物の管理がだらしない訳ではない。むしろ几帳面な方だと思う。にも関わらず彼女の周りでは色々なものがなくなった。原因はその時々によってまちまちだった。美和子自身がそれを収納した場所を忘れてしまっていることが多かったが、誰かに盗まれることもあった。
 ひどい空腹感に襲われた。絶え間なく腹が鳴る。内臓が活動を開始したようだ。確か1階に食堂があったはずだ。朝はバイキングをやっているとウェブサイトに記載があった。彼女は部屋を出ることにする。
 シャワーを浴びて服を着替えた。チェックアウトまでは時間があるため、荷物をまとめるのは後にする。財布と携帯電話をポーチに入れ、ドアの前まで歩いていった。
 ドアノブに手をかけるとき少し緊張した。もしかするとノックの主がドアの向こうに立っているかもしれない。美和子は頭を横に振る。あれは夢だったのだ。それにもう朝なのだし、声だってちゃんと出る。誰かが待ち伏せしていたら大声を上げればいい。夢の中と違って声は出るはずだ。美和子は念の為「わ!」と言ってみた。予想していたよりも遙かに大きな声が出て恥ずかしくなった。
 目を瞑り、深呼吸をした。それから勢いよくドアを開けた。廊下には誰もいない。定間隔に並んでるドアのうちのいくつかが開け放たれている。すでに部屋を後にしたのだろう。

 食堂は閑散としていた。レジの前に店員が立っているが、客の姿はない。美和子は店員に食券を渡した。
 バイキング形式で、部屋の一角に様々な食品が並んでいる。まだ朝が早い。恐らく私が最初の客だ。彼女は皿を手に取り、そこに食材を乗せていく。ウインナーとスクランブルエッグと、豆腐と納豆とポテトサラダと漬け物を取った。とにかく腹が減っている。胃の中に入ればそれでいい。それからご飯と味噌汁も取った。
 彼女はそれらを手あたり次第口の中に入れていった。どれもとても旨く感じられた。身体が食物を心の底から求めているようだった。その要求は極めて逼迫したものであり、最優先で満たされなければいけない種類のもののようだった。
 ポテトサラダを食べながら、昨夜の出来事について考えた。あれは夢だったのだろうか? それにしてはあまりにリアルだった。私は実際にドアを押さえ、鞄の中身をぶちまけていた。単なる悪夢に過ぎない、と割り切るのは難しい。
 私は実際に「ルシード」を訪れたのではないだろうか? そう考えると様々なことに上手く説明がつく。手紙だけがどうしても見つからないのは、それがまだルシードにあるからだ。そんな気がしてならない。
 この仮説を検証する方法がひとつだけある。「ルシード」に行けばいいのだ。もう一度あのコンビニに戻り、看板を見よう。そしてルシードを目指す。ルシードが夢とは似ても似つかぬ別のものであれば、単なる夢だったということだ。だが私の訪れた部屋が実際に存在したとすれば――
 美和子は部屋に戻って荷物をまとめた。それからもう一度コーヒーを淹れた。やはり手紙は見つからなかった。私はあの部屋に戻らなくてはいけないのだろう。
 やれやれ。面倒なことに巻き込まれたものだ。美和子は溜息をつく。
 ホテルを出た美和子は再びミニクーパーに乗った。イグニッションキーを回し、エンジンに火を点ける。アクセルを踏み込む。車のコンディションは申し分ない。

#11

 カーナビが使い物にならなくなっている。検索しても正しい結果が出てこない。目的地を設定しても、交差点のないところで右に曲がれと言われたり、行き止まりなのに直進しろと言われたりする。それでもなんとかコンビニに行き着くことはできた。
 コンビニに入ると男が言った「あら、まだいたんですか」
 男の言葉を無視して美和子は店内を物色する。食べ物は買わない。ミネラルウォーターは腐った水の味がしたし、カロリーメイトも変な臭いがした。二度とあんなものを口にしたいとは思わない。
 日用雑貨コーナーで金槌とロープを見つけた。こんなものがコンビニにどうして置いてあるのか理解に苦しむ。しかし美和子にとっては好都合だった。それらをレジに持っていくと、男は美和子をしげしげと眺めた。
「武器が必要なんですね?」男の問いに美和子は答えず、1000円札を2枚差し出す。男は商品をバーコードリーダーに通し、会計を済ませると倉庫に消えた。しばらくして戻ってきた男の手にはバットが握られていた。
「持ってきなさい」男が言った。
 彼女はバットを受け取った。木製で、黒い光沢のある塗料が塗られている。流暢な書体で白色のロゴが入っているが、あちこちが剥げており、何が書いてあるのかは判別できない。バットはずしりと重く、柄は掌にすっぽりと収まった。
「ありがとう」美和子は男に礼を言い、微笑んだ。それを見た男は嬉しそうに笑みを返した。男の歯には歯列矯正具がびっしりと埋め込まれていた。


 随分と車を走らせたが、ルシードらしき建物は見あたらなかった。荒涼とした農地とコンクリートの電柱がどこまでも続いている。
 美和子はラジオのスイッチを入れる。ノイズに混じって微かに歌声を聞き取ることができた。古い日本の民謡だ。単調なメロディが延々と繰り返される。男女の声が入り交じっている。デュエットの一種だろうか? 歌詞の意味を理解することはできなかったが、そこに秘められた艶めかしい空気を感じ取ることはできた。
 美和子は自分がルシードへ近づいていることを感じていた。道は間違っていない。先に進むにつれて確信は深まった。何故なのかは分からない。だが、ルシードが河野順平に関する何かを象徴していることだけは確かだ。それはある種の絶望であり、どうしようもない倦怠だ。河野順平はそういうものを求めていたのかもしれない。

「ハロー・エブリバディ!」急にラジオの音声が鮮明になった。あの男の声だ。「元気にしてたか? 準備はいいかい? そんじゃ今日も元気よくいってみようぜ。イッツ、ショータイム!」男の不愉快さは相変わらずだ。反省の色も改善の意志も見られない。
「核心へ近づいているようだな! いいことだ!!」男が言う。
「世界はいつだって核心を求めている。けれども覚えておくがいい。人生に意味などない。ゲーム・オーバーだ! どこまでいっても何も変わりはしないよ。真実を求めるなんて愚かなことだ。いいかい、俺は何度でも言うぜ。意味などない。理由などない。そんなものはご機嫌な奴がでっち上げた出鱈目に過ぎない。ある種の言葉は説得力を持っている。だが説得力とは何だ? 明確に説明できる奴がいるかい。いないだろう。そうだ! 何もかもが虚構に過ぎないのだ」
 どうやら警告のようだった。「ルシードへは近づくな」と男は言っているのだ。ナビがおかしくなったのも、この男のせいかもしれない。美和子はアクセルを踏み込む。脅しに屈する訳にはいけない。

#12

 ミニクーパーのエンジンが悲鳴を上げ、ついに動かなくなってしまった。エンジンを切り、イグニッションキーを回す。発火はするもの車が再び始動することはなかった。虚しい抵抗を何度か試みた後、美和子は諦める。保険会社に連絡しようとするが、iPhoneには圏外のマークが表示されている。何という一日だ。呪われているとしか思えない。彼女は舌打ちをした。私がルシードに近づくのを、何者かが阻んでいる。
 フロントガラスの向こうに急な坂道が続いている。両側は深い森だ。森には何かが潜んでいる。それが何なのかは分からない。野生の動物かもしれないし、人かもしれない。いずれにせよ、それらが美和子に対して好意を抱いていないことだけは確かなようだ。
 彼女は車を降りて歩き始める。肩掛けバックを提げ、右手でバットを握る。こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
 暗い道だ。陽の光は木々に遮られて殆ど届かない。冷たい空気がまとわりついてくる。8月の終わりとは思えない寒さだ。カーディガンを羽織ってきて正解だった、と美和子は思う。
 コンビニで食品を購入しなかったことを後悔した。長い戦いになりそうだ。鞄の中にはカロリーメイトとミネラルウォーターの残りが入っているだけだ。おそらく坂を下るべきなのだろう。しかし彼女の直感は前に進めと告げている。後ろを見てはいけない。振り返れば必ず後悔する。
 視線を感じる。誰かに監視されているーー美和子は森に目をやる。そして鹿を見つける。動物園にいる鹿とは全く別の生き物だ。ここでは彼女は招かれざる客であり、鹿こそが支配者なのだ。鹿達は美和子を歓迎していない。けれども襲いかかってくる気配もない。彼等はあくまで傍観者でしかないようだ。
 美和子は前に進み続ける。ミニクーパーは見えなくなった。スニーカーを履いてくるべきだった。だがもう遅い。戻っている余裕はない。この機会を逃せばルシードは永久に見つからないだろう。そして私は確実に目的地に近づいている。

 森の一部が途切れ、古いモーテルが見つかる。モーテルは完全に朽ち果てている。壁は腐りはて、看板に書いてある内容は汚れて判読できない。門は破壊されており、簡単に進入することが出来る。モーテルは赤や青の小さなLEDランプで飾られており、それらは点灯している。営業しているのだろうか?
 美和子は前に進む。夢の中で見た光景が目の前に広がっている。落雷によって真っ二つに裂けた木があった。大きな枝には緑の葉がついており、木はまだ死んでいないことが分かる。彼女は二階を見上げる。一室の窓が開け放たれているのが目に入る。あの窓を開けたのは私だ。
 入り口をくぐる。「ごめんください」と美和子は言った。モーテルでそんなことを言うのはおかしいかもしれない。けれどもその他の言葉が見つからなかった。彼女は宿泊しにきたわけではない。二階の部屋を見て、できればすぐに立ち去りたい。料金が必要であれば払う用意はある。だがこんなところに泊まるはごめんだ。
「ごめん下さい」彼女はもう一度言う。LEDランプが点滅していたのだから、電気は通っている。人が住んでいるのだ。 
 暗い廊下の奥から老人が歩いてくる。管理人だろうか? 彼女はバットを背後に隠す。

「何の用だ?」老人がいう。両方の目が白く濁っている。バットには気づいていないようだった。視力が失われているのかもしれない。
「二階を見たいんです。」美和子は勇気を振り絞って言う。「料金が必要であればお支払いします」
「その必要はない」老人が言う。「用が済んだらさっさと出ていってくれ」
 美和子は階段を上る。板のあちこちが腐っており、上るのは困難を極めた。足を踏み外しでもしたら大変だ。骨折しても老人は助けを呼んでくれないかもしれない。
 二階もやはり荒れ果てている。人が宿泊することを想定しているとは到底思えない。床には分厚い埃が積もっており、その上に何年も前についたと思われる足跡が残っている。
 一室のドアが開いている。その部屋の中を眺める。そこには彼女が夢の中で見たものと同じ光景があった。朽ちたベッド。壊れかけたエアコン。机はなく、古ぼけた椅子が横たわっている。窓は開いており、外に木の枝が見える。
 彼女は床の上に紙切れを見つけ、それを手にする。そこのは「エナジードレイン」と書かれている。河野順平からの手紙に間違いなかった。やはり私はここを訪れたのだ。
 ばたん、という不吉な音がする。音のした方向を見るとドアが閉ざされていた。あわててドアの方に駆け寄り、ノブを回す。開かない。私は閉じこめられたのだ。
 強い風が吹き始める。嵐を呼び寄せる風だ。美和子は心の底から後悔した。やはり私はこんなところに来るべきではなかったのだ。雨が降り始める。大粒の水滴が窓の桟を濡らし、轟音と共に滝のような雨が落ちてくる。雷が鳴り始め、空を黒い雲が覆い尽くす。まだ15時にもならないのに夜のように暗い。美和子は窓を閉め、再びドアに近づく。そして渾身の力を込めてドアをこじ開けようとする。押しても引いてもドアはぴくりとも動かない。強い力で押さえつけられてい。
 美和子はドアをノックして叫ぶ。「すいません!」「開けて下さい!!」けれどもその声は雨の音にかき消されて届かない。「ここを開けて!!」
 彼女はバットを両手で握りしめる。それから何度か深呼吸をした。落ち着け。脱出したければ、窓から飛び降りればいいのだ。木の枝に掴まれば、無傷で地上に降りられるかもしれない。まだ他にやることがあるはずだ。でなければ、何のために私はこんなところまで来たのか?
 ドアがノックされる。夢の中のものとは違う。か弱く小さな音だ。とんとんと2回。それが定期的に繰り返される。その音は助けを求めているようにも聞こえる。
「河野君?」美和子は言う。ノックの音が一瞬止む。しばらくの間黙っていると、再びノックが繰り返される。
「河野君なのね?」もう一度言う。今度は先ほどよりもはっきりと、力を込めて。
「私にどうして欲しいの?」美和子は聞く。「貴方と私はずっと昔に離れてしまっている。申し訳ないんだけれど、貴方について私が覚えていることは殆どないの」
「ドラクエ」ドアの向こうから返答がある。河野順平の声だろうか? 必死で記憶をたぐり寄せる。だが、どうしても思い出せない。彼女は耳を澄ませる。今できることはそれだけだ。
「ドラクエの夢を見た」ノックの主が言う。
「どんな夢だったの?」
「僕は街に入り、村人に話しかける。彼らの反応はとても冷たい。誰に聞いても「裏切り者め」「さっさと出ていけ」という答えしか返ってこない。やがて生卵が飛んできて、僕の顔に当たる。僕は街から逃げ出す。何をしたのかは分からない。まるで身に覚えがないんだ。
 僕は勇者の格好をしている。けれども仲間は一人もいない。戦士も魔法使いも僧侶もどこかへ行ってしまった。僕はひとりほっちだ。途方に暮れた僕は城に向かう。そこでもやはり冷ややかな視線を浴びる。やっと王様の前にたどり着き、僕は尋ねる<僕が何をしたと言うんですか?>けれども王様は首をゆっくりと横に振るだけで何も言わない。
 逆上した僕は王様をバットで殴りつける。王様は頭から血を流してその場に倒れ込む。それから僕は彼の座っていた玉座に座る。ひどく冷たく、座り心地の悪い椅子だ。そこで夢は終わる」
「確かに私は貴方からドラクエを借りたことがある。そのことは奥さんにも話したわ。そのことを言っているの?」
「エナジードレインだ」河野順平が言う。
「身体の中からゆっくりとエネルギーが失われていくんだ。それは緩慢な死だ。プロセスは極めて巧妙で、注意深くなければ陰謀に気づくことはできない。いや、実際のところそれは陰謀ですらないのかもしれない。
 あらゆる人々が僕からエネルギーを奪おうとしている。僕から意志と希望を奪い、都合よく命令に従うロボットに変えようとしている。これはささやかな抵抗なのさ。エネルギーを奪っているのは僕だ。僕は僕自身からエネルギーを奪い去ることで世界に復讐している」
 美和子は再びバットを握りしめた。唐突にドアの向こうにいる男への怒りが沸き上がってきた。どうして私はこいつの相手をしなければいけないのか。こんな男に引きずり回されて黙っていられるか。ドアが開いたら殴ってやる。彼女は思った。それは恐怖が生み出した身体の防御反応だったのかもしれない。アドレナリンが噴出し、戦闘モードにスイッチが入る。全身に力がみなぎってくる。
「君も気をつけろ」河野順平が言う。美和子はバットを振りあげる。「エナジードレインだ」
 彼女はバットをドアに向けて振り降ろす。大きな音と共にドアに穴があく。老人が怒るかもしれない。構うものか。ドアの1枚や2枚、弁償したところで大したことはい。
 穴から手が出る。青白い男の手だ。ゆっくりと開いたり閉じたりしている。鳥肌が立つ。首筋から嫌な汗が流れる。恐怖に負けてはいけない。続けるのだ。彼女は再びドアをバットで叩く。
 雷が鳴る。大きな音を立てて窓が割れる。風が吹き込んで来てカーテンを揺らす。ひるんではいけない。後ろを振り向いてはいけない。美和子はドアをバットで殴り続ける。
 穴だらけになったドアはついに倒れる。ドアの向こうに立っていた河野順平はどうなったのだろう? 美和子はさきほどまでドアのあった場所に目をやる。河野順平の姿はない。薄暗い廊下の壁があるだけだ。雷が再び鳴り響く。
「河野君!」美和子が叫ぶ。
「あなたはもう、この世にいないんでしょう!!」

#13

 気がつくとベッドの上に横たわっていた。始めに目に入ったのは見慣れない白い天井だ。首をわずかに動かすと、点滴用のパックがぶら下がっているのが見えた。どうやら病院にいるようだ。
 病院には彼女の母親が来ていた。彼女の話によると、美和子は山奥で倒れていたらしい。登山客が彼女を見つけ、警察に通報した。
 ミニクーパーは美和子が倒れていた場所から1kmも離れていない場所で見つかった。車を自宅まで送り届けてくれた警官の話によると、どこも故障はしていないとのことだった。エンジンは快調だし、ナビにも問題がない。それでは何故あのとき車は動かなかったかったのだろう? 検証するにせよ、体力が回復してからになりそうだ。
 美和子は三日三晩の間眠り続けていたという。ひどく疲れていた様子だったと母親は言う。無理もない話だ。私はあの数日の旅行でそれまでの何年分も消耗した。
 それからしばらくして河野順平の奥さんから電話があった。河野が帰ってきたらしい。ある日河野順平が、何事もなかったように自宅のドアを開けて「ただいま」と言い、家の中に入ってきた。それを見た奥さんはまず河野に思い切り平手打ちを食らわせたという。
 河野順平には失踪している間の記憶がなかった。彼自身はいつものように会社から帰ってきたつもりだったという。失踪から1ヶ月ほど経過していた。河野順平のスーツは汚れきっていたが、彼はそのことについて説明することができなかった。「何があったかのか全く分からない」を繰り返すばかりだ。
「この件のことは忘れることにしました」と奥さんは言った。<だから貴方も忘れてください。これ上私たちの生活に近づかないで>という意味だ。近づく気など毛頭ない。あんな目に遭うのはもうこりごりだ。
 私はルシードにたどり着くことができたのだろうか? ベッドの上で美和子は考えた。あれは夢だったのだろうか。だとすると、どこからが夢で、どこからが現実なのだろうか。山の中に美和子が倒れていたのは事実だ。そのせいで数時間にもわたる警察の事情聴取と、母親からの説教を受けたのだから間違いない。はじめに泊まったホテルの領収書もある。問い合わせれば宿泊記録も確かめることができるだろう。
 だが、ルシードについては何も分からない。あの老人は実在するのか? ルシードは今でも山の奥でひっそりと営業を続けているのだろうか? 分からないことはいくらでもある。しかし美和子はこれ以上詮索を続けようとは思わなかった。私は生きて帰ってくることができたのだ。それだけで十分ではないか。確かにあの土地は腐っている。コンビニの気持ち悪い男が言った通りだ。これ以上あそこに近づくのは賢明ではないだろう。

 数日が経ち、退院することになった美和子に母親が一枚の紙切れを渡した。「貴方はこの紙をとても大事そうに握りしめていたの」と母親は言った。そこには「エナジードレイン」と書かれている。河野順平の筆跡だ。
 何が本当で何が嘘なのか。美和子には分からない。分からなくていいと思っている。世界には知らなくていいことや、分からなくていいことが沢山ある。同時にやらなければいけないこと、知らなければいけないこともまたあるはずだ。これ以上この事件に関わっている余裕はない。恐らくはそれでいいのだ。ゲームは終わった。

 彼女は軽く伸びをして空を見た。天気は概ね良かったが、空にいくつかの雲が浮かんでいた。それらはとても早い速度で西から東へと流れていた。上のほうで強い風が吹いているようだ。雨になるかもしれない。

エナジードレイン(後編)

エナジードレイン(後編)

美和子は30歳になる独身女性。ソフトウェア開発会社に契約社員として勤めていたが、契約を打ち切られ、晴れて(?)自由の身になる。そんな折、同級生の河野順平が蒸発したことを知る。不可解なことに、ただの同級生でしかない美和子宛てに手紙を残していったというが――

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-07-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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  5. #11
  6. #12
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