クロステイルズ
零章:降り立つ悪意
その瞳には、いつだって暗い感情が宿っていた。嫉妬、羨望、殺意。あらゆる負の感情が渦巻く瞳はドブを腐らせたような色をしていた。
彼の視線の先には、いつだって温かな家族があった。微笑む両親と健気な姉。その環の中に、彼が入る隙間など存在しなかった。同じ親から生まれた子であるにも関わらず、ずっと外に追いやられていた。
彼が姉を嫌うのは必然であった。自分より先に生まれただけで両親からたっぷり愛情を注がれ、躾けられ。着々と良い子が出来上がる。それと反比例するように、彼はどんどん荒んでいった。そうしてときが経ち、姉にひとつの使命が下る。世界を創り安寧に導いてみろ、というものであった。姉は頷き、世界の創造を始めた。大海原を敷き、大陸を築き、天空を生み出した。風がそよぎ、木々を育み、生命が生まれた。幾星霜の刻を経て、姉は信仰の対象となった。姉を信じ、崇める生命は人間という生き物で、獣にはない言語を扱い、器用な手足と複雑な心を持った種族だ。
姉は人々に女神として崇められ、両親から下された使命を見事全うしてみせた。
彼はそれが許せなかった。両親の期待に応えた姉が許せなかったのだ。彼は唇を噛み締め、ある決断を下した。
――姉の世界をぶち壊してやろう。いや、それだけでは物足りない。あの世界における姉、女神アルマを殺してやろうと。
彼は内心ほくそ笑み、女神アルマの世界へと潜っていった。その胸に、深い憎しみを抱いたまま。
美しい世界であった。
どこかの岬だ。見下ろせば緑と茶、見上げれば茜、見渡せば視線の果てには蒼が広がっている。色鮮やかな世界には生命の温もりが溢れ、豊かな自然が見る者の心を癒す。
しかし、醜く歪んだ彼の心には微塵も響かなかった。温かな大地も、肌を撫でる風も、草むらから聞こえてくる虫の声も、全てが鬱陶しかった。壊してやろうという衝動に駆られた。だが、その衝動自体は問題ではない。もっとも厄介なのは、彼の記憶が消えてしまったことだ。どうして自分はここにいるのか、どんな目的でここにいるのか、彼は知らない。自分に関する記憶も世界に関する記憶もないのに、胸の奥には女神アルマに対する感情だけが深く刻み込まれている。
彼はそれが怖かった。女神アルマなど、いまの彼は知らない。にも関わらず、彼自身さえ恐れるような強い感情が宿っている。
――誰か、助けてくれ。俺の願いを、聞いてくれ。
誰に語りかけたわけでもない。恐ろしいまでの感情に身を震わせ、倒れようとしたときだった。誰かが彼の身体を支えた。大きな手だ。きっとこの手は、誰かを護る手なのだろうと彼は思った。
「大丈夫か?」
声は低いが、青年らしい低さ。男性のものだ。頼れる兄がいたのなら、きっとこんな人なのだろう。彼はうっすらと目を開ける。顔は確認できない。蒼に沈みかける赤い光のせいだ。
彼は「大丈夫」と言った。青年は彼を座らせ、腰に提げた袋から水の入った瓶を差し出した。彼はごくりと一息に飲み干す。
「落ち着いたか?」
彼はこくんと頷く。精悍な顔つきの青年は長剣を背負っており、戦士であることはわかった。やはり、誰かを護るために戦う者なのだろう。そんな人間に、胸の内を明かして良いものか、彼は悩んだ。
答えを出すよりも早く、青年が問いかける。
「こんなところでなにをしていたんだ? 見たところまだ子どもみたいだし、この辺りは猛獣も出るし、危険だぞ」
「なにを、していた……? わからない」
「わからない?」
青年が困ったように表情を歪めた。彼自身にもわからないのだ、こうなるのも仕方がない。
「……じゃあ、名前はどうだ? 故郷は? わかること、なんでも教えてくれ。お前を見つけた以上、保護する義務がある」
「名前? 故郷? ……わからない」
彼の言葉を聞いた青年は困り顔だ。名前も故郷もわからないのでは、送り届けることもできない。青年はこめかみに指を押し当て、考える素振りを見せた。そして、ある提案をする。
「お前がやりたいこと、教えてくれよ。出来る限りでだが、手伝ってやる。そのうち、お前の居場所も見つかるさ」
「やりたいこと?」
彼は考えた。己が成すべきこと、それがいったいなんなのか。その答えは、胸の奥で邪悪な笑みを浮かべていた。
「俺は……」
口にするのは怖い。けれど、紛れもない本音。彼は恐る恐る口にする。
「……アルマを、殺したい」
その告白に、青年は目を丸くした。直後、大いに笑う。地面を何度も叩きながら、涙が出るほど笑う。
「くっくっく……そうか、お前もか! お前もアルマが憎たらしいと!」
「……あんたも?」
「ああそうだ、俺はアルマが憎くて仕方ない! ……決まりだ! お前、俺と組もう! 一緒に麗しの女神様を滅ぼしてやろうじゃないか!」
青年の提案に、彼は逡巡した。この世界でアルマは崇められるべき存在であるはずなのだ。記憶をなくした彼はそのことを知らないが、物騒な願いをまさか笑って受け止め、あまつさえ協力を申し出てくるだなんて。彼にとっては予想外だったのだ。
「……いいのか?」
彼の問いかけに、青年は拳を突き出した。
「言っただろ? 俺はアルマが憎い。お前も、アルマを殺したい。利害の一致だ。協力しない理由なんてないよ」
青年の言葉を受けて、彼は拳を突き合わせた。
「さて、こうなると名前が必要だな」
「名前?」
「お前のだよ。せっかくだ、俺が考えてやる」
よくよく考えてみれば、名前が必要なのは自分だけであると気づく。考える青年をじっと見つめる彼は、視線の果てにある赤い太陽を見つめていた。血のように禍々しい光を吐き出すそれに魅入られそうになる。まるで彼の見る未来をそのまま表しているかのようで、少しだけ怖かった。
そんなとき、青年がぱちんと指を鳴らす。
「よし、それじゃあ……お前は今日から――」
第一章:声の導くままに
助けて、とその声は言った。
コール・ティエルは不意に聞こえてきた声に戸惑いながら、辺りを見回す。無限世界アンデリーチェの中でも豊かな自然に囲まれたクスタ村は都会の喧騒とは遠くかけ離れている。いつだってのどかで、平和ボケという言葉がふさわしいくらい穏やかな空気に包まれていた。釣りをするおじいさん、孫娘と散歩するおばあさん、芝生の上でじゃれあう子供たち。どう見たって、助けを求める声の方が場違いな村だ。
コールは近くの建物に手をつき、よろめく身体をなんとか支える。頭が割れるように痛い、まぶたを閉じれば、その裏に女性の影が見える。シルエットだけでも美しい女性であることはわかった。腰まで届く長い髪、豊かな胸、しなやな手足。さながら神の造形とも言うべき神々しさがその女性にはあった。
私は勇者を待つ。誰でもいい、この声が届くなら――。
その言葉を最後に、コールの頭から声が消えた。いったいなんだったというのか、勇者とは誰のことなのだろうか。情報が少なすぎて憶測もまともにできない。
「兄さん!」
背後から低めの声と足音が迫ってくる。振り向けば弟のウィルがいた。深緑の髪は短く整えられており、黒いジャケットを着用。腰には刀身の細い剣を提げており、手袋の甲には赤い紋章が描かれている。アリーダ王国軍の兵士を意味するものだ。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ありがとう、ウィル」
足元がおぼつかない感覚も消え失せ、コールは笑顔を見せた。心配そうな目を向けるウィルだったが、問い詰めたところでどうにもならないことを知っていた。言いたいことを飲み込んで、「なら、いいけど」とだけ言った。いまひとつ釈然としていない様子であった。
「兄さん、今日の稽古はどうする? 体調悪そうだし、やめとくか?」
稽古、というのは剣術指南のことだ。クスタ近辺には狂暴な魔物がいるわけではない。だが、いざというときに自衛できる程度の技術を身につけておきたいというのがコールの気持ちであった。軍の模擬戦で上位に食い込んだ経験があるというウィルは指導役に適任で、たまにクスタに帰ってきたときは稽古をつけてもらっていたのである。
体調が悪いわけではないのだが、稽古に集中できる状態ではない。今日の稽古は断ることにした。淡い青色の頭髪をがしがしと掻き乱しながら謝る。
「ごめんね。せっかく帰ってきてくれたのに」
「気にすんなって。ほら、さっさと家に帰りな。ゆっくり休みなよ」
そう告げて、ウィルは村の入り口の方へ向かっていった。きっと魔物を狩りに行くのだろう。少しでも村に振りかかる脅威を減らすために。軍に所属する身でありながら、村のために献身的な働きを見せている。自慢の弟だ。
ウィルの背中を見送って、自宅へと戻る。買い物をしに行くはずだったのだが、なにを買おうとしていたのか忘れてしまった。あの声が聞こえたのが原因だと考える。どこの誰だか知らないが、はた迷惑なことこの上ない。
自宅は村から少し外れたところにある。家の後ろには森が広がっており、動物や虫たちが住み着いている。コールはゆったりした足取りで自宅への道を行く。人の気配は少なく、徐々に虫たちの鳴き声が主張を始める。開けた道、その先にあるのは二階建ての家屋。クリーム色の壁と、ぼろぼろの赤い屋根。そばには柵に囲われた広い空間がある。いつもはこの中で稽古をつけてもらっている。
「ただいま」
扉を開いて最初に感じるのは、隣からかかるプレッシャー。ちらりと一瞥すると、そこには巨大な彫像があった。これは母が職人に造らせた女神アルマの彫像である。ウェーヴのかかった長髪に、一糸まとわぬ裸体はやましさなど感じさせないほど魅入ってしまう美しさが表現されていた。表情はどこか儚げで、どこか遠くを見る瞳は憂いているように見える。
アルマの彫像を眺めていると、奥からパタパタと忙しない足音が聞こえてきた。この彫像を造らせた本人、コールたちの母である。エプロン姿で迎えた母は夕飯の準備に取り掛かろうとしていた。そこで思い出す。頼まれていたのは、夕飯の買い出しであった。
「おかえり。買い物はしてきてくれた?」
「あー、それが……忘れちゃってたよ、ごめん」
素直に謝る。あそこで変な声が聞こえなければ、忘れることだってなかったのに。などという言い訳はしない。したところで返ってくる言葉は辛辣なものだからだ。母の表情は濁り、呆れたようにため息をこぼす。
「本当にウィルと違ってできない子だね。……まあ、できの悪い息子を持つのも、アルマの思し召しってことかしら」
コールはなにも言わない、言い返さない。反論したところで、母はすべてアルマの思し召しといって納得しようとするのだ。それはコールの心にちくりと痛みを残していた。小さな頃から、ずっと蓄積されてきた痛み。いつになったら我慢の限界が訪れるのか、コール自身にもわからない。
「仕方ない、ウィルに頼まなきゃね」
母はエプロンのポケットからメモ帳を取り出しペンを走らせた。「適当な食材買ってきて」という短い文章だ。まぶたを閉じ、メモ帳を優しく握る。母の手を中心に白い円陣が展開される。
「『遠方へと至り、伝えよ言の葉。私は希(こいねが)う――“見えない言伝(クリアレター)”』」
陣が弾ける。直後、メモ帳が白い炎に包まれる。それが燃やすのは最初の一ページ、母がウィルへのメッセージを書き記した部分だけ。それが跡形もなく消え去ると、母は背を向けて再び台所へと向かっていった。
この世界には特殊な力を持って生まれる人間がいる。希術(きじゅつ)というその力は文字通り、希うことで発動する。この力が発見されてから、約三百年の時間が経過しており、解析も進んでいる。日常生活において害のない希術だけは一般市民にも発表されており、いま母がやってみせたように生活の手助けをしている。いまの希術は“見えない言伝(クリアレター)”というもので、紙に書いた文字を対象の脳内に送り届けるものだ。この瞬間、ウィルの脳内には「適当な食材買ってきて」という文字列が浮かび上がっているのだろう。
コールは希術を使うことができなかった。このことも母に「できない息子」と呼ばれる理由のひとつになっていた。ウィルにも使うことができないのだが、彼はコールと違って軍隊の兵士として町に出ているうえ、村に対して多くの貢献をしている。それに引き換え、コールは実家にとどまったまま、将来のことなどぼんやりとしか考えていない。村のために働いたことだって数えるほどだ。ウィルに対して劣等感を抱いたこともあった。
「……まあ、すべてはアルマの思し召し。これも仕方がないことなんだ」
二階の自室に戻り、ベッドに倒れ込む。ベッドは二段構造になっており、上がコール、下がウィルという分け方であった。ウィルが家を出てから一時は物置となっていたが、ときたま帰ってきたときのために定期的な片づけを心掛けていた。
声はもう聞こえない。幻聴かなにかだったのだろうか。だとしたら、なにかの病気かもしれない。そんなことを母に言ったところでなんの解決にもならないのだが。
窓からは西日が射し込んでいる。コールの部屋を真っ赤に染めるその光も、あと数刻で空は暗闇に塗り潰される。気持ちも暗く塞ぎ込んでいく気がして、まともに食事をしようという気分にもならなくなった。
助けて、助けて。
再び聞こえてきた声。それに伴って発生する頭痛。奥底に沈んでいた意識が無理やり引きずり出される感覚。いつの間にか眠っていたらしい。
「ぐぅ、痛っ……!」
声は脳内を反響する。まるで声に質量があるかのように、跳ね返る瞬間は小さな衝撃があった。それが変則的に来るものだから、どんな体勢になろうが痛みは引かない。声はなおも語りかける。
私のもとへ来て。ほこらで話をさせてもらう。だからどうか――。
声が止んだ。コールは起き上がり、窓の外へ目を向ける。夜も更け、月も傾こうとしている頃。こんな時間に眠りから覚めることになろうとは。誰のものかも知らないが、腹立たしい声である。たとえ絶世の美女であったとしても許そうとは思わなかった。
家族はきっと眠っているのだろう。お腹が減っていたり、トイレに行きたいわけでもない。このまま眠れず時間を過ごすのはもったいない。そう考えた結果、自前の長剣を持って部屋を出た。ウィルが訓練生時代に使っていたおさがりだが、いままで一度も使ったことはない。刃は丁寧に研がれており、大切に使われていたことがよくわかる。
できれば使うことは避けたい、などと思う。村の外に出れば魔物との遭遇も避けられない。訓練は積んでいるが、ウィルには一度も勝てたことがない。手を抜いている相手に一太刀も浴びせられないコールが、魔物を相手取ったところで勝てる見込みはない。
「あっ、ウィル……?」
家を出て間も無く、ウィルが夜空を見上げていた。腰には剣を提げている。コールに気づいたらしく、ウィルはゆっくりと振り返った。
「兄さん? どうしたんだ、こんな時間に」
「ウィルこそ」
「俺は……なんだろう、ちょっと外に出たくなっただけだよ」
「僕も似たようなものかな。ねえ、少し歩かない? たまには二人だけで話をしようよ」
コールの提案にウィルは頷いた。足は自然と村の中心の方へと向かう。
「なあ、兄さん」
「うん?」
「女神アルマをどう思う?」
ウィルの質問にコールは目を見開いた。ウィルからアルマの話が出てくるとは思わなかったのだ。
ティエル家は、この世界を創った女神アルマに対する信仰心が深い。特に母。母の教育は熱心で、コールとウィルにもアルマ教がなんたるかを叩き込んだ。その結果コールは人並みに信心深くなり、ウィルはアルマそのものに嫌悪感を抱くこととなった。
「うーん……特になんとも。別に母さんほどアルマを狂信してるわけじゃないよ?」
「母さんが狂信者だとは思うんだな」
「そりゃあね、あの教え方じゃあ……」
毎朝アルマ教の教えを説かれれば、幼いながらに異常だと思う。ウィルは「じゃあ」と言葉をつづけた。
「アルマを憎いと思ったことは?」
ずいぶんと過激な質問だ、と思った。コールは一瞬首を傾げ、結論。
「ない、かな」
そこまでアルマに深い感情を抱いてはいなかった。コールは母の教育に疑問を抱いているものの、アルマに対してはなにも思うところがなかった。その答えにウィルは「そっか」とだけ呟いた。
「そういえば、ウィル。きみは父さんについてなにか聞いている?」
「父さん?」
コールたちの父は、家にいない。物心ついた頃から、母による女手ひとつで育てられてきたのだ。父の顔も、なにをしている人間なのかも知らなかった。コールに話す意味がないと判断され、ウィルには話しているものかと思っていたが、ウィルもそんな話は聞いていないようで、かぶりを振るばかりであった。
「母さんの狂信ぶりに嫌気が差したのかもな」
「あはは、あり得る」
二人で笑い合い、ウィルは踵を返す。
「……じゃあな、兄さん。また明日」
「うん、またね。僕はもう少しふらついてくるよ」
本当に、ふらつくだけ?
その問いかけは誰のものか。文字列としてまぶたの裏に映るそれが、自分のものか、謎の声のものか。判断ができなかった。腰に提げている剣の柄を、そっと撫でる。使いたくはない、当然。怖いのだ。命を奪うことが。たとえ穏やかな動物であっても、剣を振るいたくない。
なんの覚悟もなく剣を握ることがいかに愚かかはわからない。ただ丸腰では歩きたくなかっただけだ。なにも怪しい空気を感じたわけでもないのに、どうしてそんなことを考えたのだろう。コール自身もわからなかった。
村の広場に到着したコールは、手近なベンチに腰を下ろした。背もたれに身を預け、夜空を仰ぐ。星々が点々と瞬いている。街灯がほとんどないこともあってか、星のひとつひとつが強く輝いているのがわかった。頭上に広がる漆黒のキャンパスは鮮やかに彩られ、足元に広がる草むらのステージでは虫たちの演奏会が催されている。
演奏会を妨げたのはブーツの足音だった。探るような、警戒心を孕んだ音。コールは神経を尖らせる。こんな時間にうろつく人間は少なくとも、村の人間でない。では、いったい何者か。意図せず剣の柄を握る。手はじっとりと汗ばんでいて、振り抜こうものならすっぽ抜けてしまいそうだ。
「……誰?」
コールの問いに返事はない。足音が一歩分遠ざかる。足音の主もコールを警戒していることがわかった。このまま穏便に済むのならばそれでいい。沈黙の中、足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。コールはどっと深い息を吐く。
「いまの、誰だったんだろう」
背後を振り返っても、見えるのは闇ばかり。風もなく、虫たちの演奏会も中断した現在、コールの呼吸だけが不気味に聞こえた。
翌日、正午。コールは再び昨晩のベンチに腰掛けた。足音の主が戻ってくるとは思わなかった。ただなんとなく、ここに座っていればなにか変化があるような気がしたのだ。
広場は賑わっている。井戸端会議に興じる婦人方やボールを投げ合って戯れる子供たち。いつも通りで、変化など一切ない。ありふれた日常だ。剣は家に置いてある。こんな真昼間から武器を振るう必要もないからだ。
コールはなにげなく空を見上げる。今日の空は厚い雲がかかっていて不機嫌そうだ。いつ雨が降るかもわからない。天候が悪くなる前に帰ろうか、などと考えた。その瞬間、花の香りが鼻孔をくすぐった。湿ったそよ風に運ばれてきたそれは、なんの花か。視線を巡らせてもそれらしい花は見えない。むしろ近づいてくるそれは少女からするものだった。
朱色の長髪を結い、意思の強そうな光を灯す緑色の瞳。装いは軽装で、腰には片刃の剣を提げている。旅の者であることは容易に想像できた。こんな田舎にいったいなんの用があるのか。興味を抱いたコールだったが、自ら声をかけに行けるほど積極的な人間ではない。
関わらないようにしておこう。そう思った矢先、その少女が近づいてきた。間近で見ると、少し幼く見える。コールよりひとつふたつは若そうであった。
「ねえ、ちょっといい?」
初対面から砕けた口調。最低限のマナーだろうと考えるコールは僅かに目を細めた。しかし食って掛かる勇気もないので、穏やかに微笑んで返す。
「どうしました?」
「この辺りに“アルマのほこら”があるって聞いたんだけど、知ってる?」
「ほこら?」
信心深い母に何度か連れて行かれたことがある。場所も当然記憶しているが、放浪者がこんな田舎のほこらに用事があるとは思えなかった。
「どうして行きたいんですか?」
「導かれちゃった、的な感じ?」
怪しい。
そう思ったのが顔に出ていたらしく、少女は途端にうろたえた。どうやら本心で喋っていなかったらしい。いますぐ村の憲兵に引き渡そうか、などと考えていると少女は露骨に不愉快そうに頬を膨らませた。実年齢を知らないが、とても年齢不相応な仕草だと思った。
「もういいよ、教えてくんないなら別に! あたしひとりで探すし! じゃーね!」
ずんずんと重たい足音で立ち去る少女。悪いことをしたとは思っていないが、もう少し話を聞くべきだったかもしれない、とコールは考えた。だが、わざわざ“アルマのほこら”の場所を尋ねてくるということは巡礼者ではない。事前にリサーチした結果、地図を片手に慣れない足取りでほこらに向かうはずだ。そもそも剣を腰にぶら下げているような人間が、ただの巡礼者とは思えない。そして旅の剣士というのであれば、わざわざほこらに寄る理由がないのだ。信心深ければ旅のついでに参拝くらいするかもしれないが、コールにはそこまで判断ができなかった。
「……ほこら、か」
ずきん、と頭に痛みが走った。声が聞こえる前兆だろうか、どうにか治らないものか。いっそ女神アルマに祈りでも捧げてみようか。そう思い立ったコールは、ほこらに向かうことを決めた。
ほこらは村から少し外れたところにある。村の外にはあまり凶暴でないとはいえ魔物が出るため、まずは家に剣を取りに帰った。家に着くと母とウィルが談笑していたが、コールの姿を見るなりため息を吐いた。こうも露骨な態度を取られると、多少は気分が悪くなる。
「おかえり、兄さん」
「ただいま。でもごめん、また出るんだ。ちょっと忘れ物を取りに来ただけで」
「……今度はどこをふらふらするつもりなのかね」
母の鋭い言葉に空気が重くなる。しかし気にしても仕方がないのだ、いつものこと。母の言うところの、アルマの思し召しなのだから、抗ったところで意味はない。コールはそう考えていた。黙って二階の自室に駆け上がる。ベッドのそばに立て掛けてあった剣を腰に提げ、再び部屋を出ようとしたところでウィルと鉢合わせる。彼は半眼でコールを睨みつける。
「……どこに行くつもりだ? そんなものを持って」
彼の言葉はいつも以上に鋭いものを孕んでいて、兄であるコールですら寒気を覚えるほどだった。目には鈍い色の光が灯り、なにをするかわからない危うさも見受けられる。コールは言葉を慎重に選ぶ。
「村の外に用事があるから、生身じゃまずいと思っただけだよ」
「それなら俺が一緒に行けばいいだろう? どうしてひとりで行こうと思ったんだ?」
「別に深い理由なんてないよ。ちょっとした気分転換さ」
「……そうか。それなら、いい」
なにか言いたそうなのをぐっと堪えたように見える。ウィルは背を向けてリビングの方へ向かった。嘘を吐いたのは申し訳ないと思ったが、アルマを毛嫌いするウィルに“アルマのほこら”へ向かうとは言えなかった。言えばきっと、全力で止められただろう。
思えば、止められることは悪いことではない。短い距離ではあるが、魔物と遭遇する危険性を考えればウィルも一緒に来るという提案は悪いものではないのだ。どうして嘘を吐いてまで断ったのかと問われれば喉を詰まらせる。
「嘘吐いて、ごめんね」
本人には聞こえないが、それでも謝らずにはいられなかった。
リビングを出るとき、やはり母には露骨に呆れた表情で見送られた。ウィルとは言葉を交わさなかった。どこか深刻そうな面持ちで一瞥すると、テーブルに視線を落とした。不気味に感じたコールだが、彼らを振り切り家を出る。
“アルマのほこら”は村の東、クスタの森の奥にある。基本的には穏やかな動物が多いが、凶暴な魔物が巣食っているとも聞く。村を襲おうとした魔物はウィルが退治することが多かった。コールはまだ魔物と相対したことはない。いざ遭遇したとき、剣を振るうことができるのだろうか。不安は尽きない。
クスタの森は巨大な木が群れをなしている。曇天を覆い隠すほどの木の枝は天井を形成しており、雨が降っても凌げるほどだ。コールは慎重に一歩を踏み出した。動物の気配はない。魔物の気配も、いまはしない。それでも警戒は怠らない。コールの手は剣の柄に添えたままだ。
刺すような視線に気づいたのは、ちょうどそんなときだった。足を止め、警戒心を強める。足音はない、うめき声も聞こえない。どこから音が聞こえてきたのかわからなかった。それがコールの不安を煽る。恐怖は魔物を呼ぶ。気づけばコールは仰向けに倒れていた。胸に圧力がかかる。鋭いものが服越しに肌に食い込む。コールの視線は、巨大な狼の姿で埋まっていた。
これが、魔物。初めて目の当たりにする魔物の姿に驚いた。こんなのを相手取って勝てる見込みなどなかった。
「……嘘でしょ」
呆然と呟くコール。狼は我慢できないといった様子でよだれを垂らす狼。このまま牙で肉を食い破られるのだろうか。などと考えると、途端に身体が震えた。このまま死ぬのは御免だが、かといって抵抗もできない。剣に手を伸ばすほどの力もなかった。
「『空を翔けよ、ほとばしれ雷光! あたしは希う! “駆け抜ける紫電(ライトニングダッシャー)”!』」
鈴の音のような声がした。直後、紫色の閃光が狼を貫いた。即座に朱色の影が現れ、空気を切り裂く一閃を見舞った。赤い飛沫を散らす狼、のけぞった勢いでコールもなんとか逃げることに成功する。
朱色の影は先ほどの少女であった。半身になって右手を引き、剣の切っ先を狼に向ける。左手は開いたまま狼の方へかざしていた。
「き、きみは……」
「話はあとあと! いまはこいつを片づけなきゃ!」
朱色の少女は狼から視線を外さない。コールも立ち上がり、剣を構える。僅かに腰を落とし、上体を前へ傾ける。剣は地面と水平に構えた。
「戦闘経験は?」
「な、ない」
「それじゃあ、逃げ回って! 攻撃が当たらないように、全力で! あたしが攻撃する!」
戦闘経験のない人間に「逃げろ」ではなく「逃げ回れ」と言った。それはつまり、この戦闘が終わるまでは逃げるなということである。あんな凶悪な爪ならば易々と切り裂かれてしまうだろう。ぞっとしたが、とどめは少女が刺すだろう。信じて、狼の周囲を大きく旋回するように走り出す。狼はどちらに狙いを定めれば良いのか逡巡して、結局コールを追いかけるように駆けだした。口から漏れる殺意が、コールの逃げ足をさらに加速させる。
「は、早くやって!」
狼の動きを追うようにかざした左手。その手のひらを中心に赤色の円陣が展開される。
「『地より這い出よ、焼き尽くせ業火! あたしは希う! “立ち昇る炎(ブレイズスプレッド)”!』」
希術の発動により、コールと狼のちょうど中間の地面から炎の柱が立った。狼は急に止まれない。炎の柱に突っ込み、その身を派手に焦がした。悲鳴を上げる狼、そこに少女が肉薄し、鋭い踏み込みと共に剣を振り下ろした。狼の口元を深々と断ち切った。それだけに留まらず、狼の目玉に剣を突き立てる。これがとどめとなったらしく、狼はぶすぶすと焦げる身体で地に伏した。そのまま土気色に変色し、やがて砂の城のようにさらさらと崩れ去った。そよ風に運ばれ、狼の亡骸は彼方へと消え去る。
コールはその場にしりもちをつき、安堵の吐息を漏らした。
「……終わった?」
「終わり終わり。お兄さん、大丈夫?」
少女に手を差し伸べられ、うかつにもその手を握ってしまう。ぐい、と引き起こされる身体。情けなさで恥ずかしくなった。少女はそんなコールの気持ちなど意にも介していないようであった。
「お兄さん、さっき村で話したよね? なんでこんな森に来たの?」
「“アルマのほこら”に行こうと思って。魔物に遭遇したくないって思ってたらこれだよ、ついてない」
「ほこらの場所知ってるんじゃん! なんで教えてくれなかったの!?」
「怪しかったから。なにをするつもりかなって思って」
「ひっどー! あたしは善良なアルマ教徒なのに!」
自称アルマ教徒の少女は、本当のことを言っているのかただの軽口なのかがわからない。やはりいぶかしげな視線を向けてしまうが、助けてくれた人間に対してはいささか無礼だ。そう考えたコールは、ひとまず少女がアルマ教徒であることを信じることにした。
「とりあえず、助けてくれてありがとう。僕はコール・ティエル。きみの名前を教えてよ」
「あたしはアイ・フィーノ! 放浪者兼アルマ教徒なんで、よろしくぅ」
少女――アイはわざとらしくウインクしてみせた。それに対してコールはというと……。
「アイはほこらを探しているんでしょう? この際だし、一緒に行こうか」
一切コメントを返さなかった。それに対して憤るアイ。当然の反応である。
「ちょっとコール! なんでそんなつまんないの! あたしが可愛くウインクしたんだから、なんか言ってよね! 寂しい!」
「えっ、ウインク? ……ああ、たしかに。目にゴミが入ったのかなって思ったから」
「片目だけパッチーンなんて器用な真似はできないよ! もし目にゴミが入ったなら、反射的に両目閉じちゃうでしょ!」
「どうだろう? でも、反射ならたしかにそうなっちゃうかもね」
アイの表情がぴくぴくと引きつる。コールとの会話が成立していないからだ。コールは至極真面目に返答しているのだが、それが原因であることに当の本人は気がついていない。無自覚なのが余計にタチが悪い。
やがて諦めたように、アイはがっくりと項垂れた。もはや漫才にもならないと判断したのだろう。コールは「僕、なにかしたっけな?」という顔で話を戻した。
「“アルマのほこら”はここからもっと東に行ったところにあるんだ。つまりは森の最奥部。急ごう、なにか嫌な予感がする」
「そうだね……行こっか」
「どうしてそんなに声が低くなってるの?」
「誰のせいだと思ってんのさ、もう!」
「そういえば、アイはどうして“アルマのほこら”に行こうと思ったの?」
ほこらへ向かう道中、なんとなしに尋ねる。コール自身は「ほこらでアルマに祈れば頭痛が治まるかもしれない」という確証もへったくれもない理由なのだが。アイはというと、短く唸って木の葉の天井を仰いだ。
「なんかね、声が聞こえたんだ。女の人だったんだけど」
「声?」
アイの体験はコールにも覚えがあった。最近になって不意に聞こえてくる女性の声。まさか自分と同じ体験をしている人間がいるとは思わなかった。アイは続ける。
「そんでさ、その声ね。『助けて』って言うの。『この声が届く勇者を待っている』とかね」
助けを求める声。勇者を待つという発言。アイがコールと同じ体験をしていることの証明であった。
「でね、あたし思ったのさ! この声、絶対アルマのものだって!」
「えっ、アルマの……?」
「そう! そんで、あたしを勇者だと思って助けを求めに来たんだよきっと! 燃えるね、こういうの! あたし勇者だよ、勇者! マジカッコいいと思わない!?」
アルマの声、というのは思いつかなかった。しかし、ひとりで舞い上がっているアイを前にすると、「同じ体験をしている」とは言いづらかった。アイは自身を“選ばれし者”とでも設定づけているのだろう。それを砕こうとしたり論破したりするのは、あまり好ましくない。だからコールは「へ、へえ。そうなんだ」と気のない返事をすることしかできなかった。
「あたしはアルマを助ける。あたしに道を示してくれたのはアルマなんだから、せめてもの恩返しにね!」
「……アイはどっぷりアルマ教に浸かってるね」
「トーゼン! さっき言ったじゃん? 善良なアルマ教徒だってさ!」
誇らしげに胸を張るアイ。張ったところで主張するものはないが、アルマ教徒であることを尊く考えているのだろう。こういった人種は少々厄介だ。なにかにつけて信仰を後ろ盾にして傍若無人な振る舞いをするパターンがある。もちろん、アイがそうだと判断するのはまだ早い。それに、いまはアイの本性を暴くよりも先にすることがある。
「なんにせよ、急ごう。天気が荒れる前に着きたい」
「オッケー!」
コールが先導する形で駆け出す。枝葉の隙間から覗く雲はどんどん厚くなっている。そのうち雨が降り出すだろう。そうなっては帰る時間が遅れてしまう。コールは足を早めた。
“アルマのほこら”は森の最奥部、小さな鳥居の向こうにある。鳥居を前にした二人は立ち止まり、ただ呆然と鳥居の奥を眺めていた。
コールがほこらを訪れたのはこれが初めてではない。しかし、何度訪れても息を飲むような神秘性が窺えた。まだ見えないが、ほこらそのものは木造の古ぼけた佇まいでありながら妖しげな雰囲気を醸している。アイはほこらを訪れたのは初めてなのか、感嘆のため息を漏らした。
「なんか……思ってたより地味だね。でも、不思議な感じがする。まだほこらに到着したわけじゃないのにね」
「きっと気のせいだよ。アルマを崇拝しているから、神々しいものに見えるだけ」
コールは鳥居をくぐり、ほこらへ急いだ。特に危機感を覚えているわけでもないのだが、自然と歩幅は大きくなる。後ろからアイが駆け寄ってくるのがわかったが、振り返ることはしなかった。
次の瞬間、コールは嫌なものを感じた。鋭く、金属のように冷たい物騒な気配だ。咄嗟に振り返り、アイを力一杯突き飛ばす。突然のことにアイは受け身も取れず、三歩ほど後退してしりもちをついた。二人の間に、細身の剣が突き刺さった。頭上から放たれたものだろう。コールの予感は的中し、アイと共に頭上を見上げる。人の形をした影が落下してくるのがわかった。
それは見覚えのある姿をしていた。深緑の短髪、黒いジャケット。そして、地面に突き刺さる細身の剣。見紛うこともない、コールの弟――ウィル・ティエルがそこにいた。その瞳は家族に見せる温かさなど微塵も感じられず、蔑むような、見下すような冷たい光が灯っていた。
「ウィル……?」
「ちょっとあんた! 危ないじゃん! なにすんの!?」
声を大にして問い詰めるアイ。ウィルは動じることもなく剣を引き抜き、あろうことか切っ先をコールに向ける。
「兄さん……ここに来るって、どうして言わなかった?」
下手なことを言えば、鋭い剣尖がコールの喉か心臓を貫くだろう。慎重にならざるを得ない。しかし沈黙を続けるのも得策でないことはわかっていた。黙っていれば、やましいことがあると思われる可能性がある。
言い訳を考えていると、アイも剣を抜き放ちウィルの背中に刃を押し当てた。
「あたしを無視すんな! いきなり剣を向けるなんて、どういう了見なわけ!?」
「黙ってろよ、女。俺はいま、兄さんに話しかけている」
ウィルはアイのことなど意にも介さず、コールから視線を逸らさない。こうも真摯な視線を注がれては、正直に答えるしかなかった。
「……最近、おかしな声が聞こえるんだ。頭も痛くて。ほこらでアルマに祈れば治るかなって思っただけだよ」
「それならどうしてこんな女を連れている? ……さっきから見ていたが、母さんと同じアルマの狂信者のようだが」
「うわっ、監視とかサイテー……でも、それはいけないことなの? アルマはあたしの全てなの! 馬鹿にするなら許さないんだから」
アイの言葉からは怒りが窺える。それでもウィルは動じない。アイのことなど眼中にない、ということだろう。コールは依然、言葉を探したまま。会話が一向に進まないことに苛立ったのか、ウィルはため息を吐いた。
「……このままじゃ埒が明かない。兄さん、帰ろう。話は家で聞く」
剣を持つ腕を下ろし、手を差し伸べるウィル。しかしコールはその手を取らなかった。それがウィルの逆鱗に触れた。表情は激しい怒りに染まり、剣を握る手に力が入る。
「聞こえなかったのか兄さん! 帰ろうと言っているんだ!」
コールはなにも言わない。それが余計に怒りを買った。
「どうして俺の言う通りに動かない……! 俺は兄さんのためを思ってやっているのに! 兄さんにアルマは必要ない! 母さんの言うことなんて聞かなくていい、気にしなくていい! この女のことだって、放っておけばいいんだ!」
かつて見たことのないほど激昂するウィル。それに伴い、アイも火が着いてしまったようだ。
「『空を翔けよ、ほとばしれ雷光! あたしは――』」
「お前は黙っていろ!」
ウィルの声は閑静な森を震わせるほど大きい。アイの詠唱も途切れてしまう。コールは依然、口を開かない。もう、なにを言っていいのかわからなくなっていた。言葉を放棄したコールと、答えを待つウィル。進展があるわけもなく、ただ時間だけが経過していった。
やがて、蚊帳の外という扱いに耐えかねたアイが声を張り上げる。
「あんたね、いきなり出てきて何様のつもり? あたしはアルマの声を聞いた勇者なの。あたしらの邪魔をするなら、アルマの名のもとにあんたを斬る」
「ふうん? どこの流派か知らないが、俺とまともに斬り結べるとでも思っているのか?」
ウィルの視線がアイに向く。彼女は剣を突きつけたまま、威勢よく言い放つ。
「やってみなきゃわからない!」
「それもそうか。だったらわからせてやらないとな、直接! その身体に刻んで!」
ウィルは剣を振るう。アイの剣と衝突し、甲高い金属音を発した。アイの剣が弾かれるが、すぐに体勢を立て直す。二人が戦闘体勢に入る中、今度はコールが蚊帳の外となった。
「アイ、ウィル!」
コールの声は二人には届かない。刃を交え、どちらの意志が強いかを決める戦いに臨んでいるのだ。争う意思のない者が弾かれるのは当然の世界である。
ウィルの剣がアイの喉元を狙う。細剣を巧みに操り、寸分違わぬ一閃。見切ったアイは刀身でそれを防ぐと、力強く振るった。ウィルの剣が弾かれる。今度はアイが攻勢に回った。体重を乗せた勢いのある一撃がウィルの頭上から襲いかかる。ウィルは服が汚れることも厭わず地面を転がることで回避。すかさず反撃に転じる。細剣による鋭い連続突きはアイの身体に無数の傷をつけた。もともと、回避するつもりはなかったのだろう。右手をかざし、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「『生命(いのち)を穿て、砕けよ石礫(いしつぶて)! あたしは希う!』」
希術の発動と共に、二人の近くに転がる石が弾け飛んだ。攻撃系希術、“炸裂する塊(ブレイクストーン)”。その欠片はウィルだけでなくアイにも襲いかかる。防御もままならない二人の身体に鋭い破片が突き刺さる。苦悶の表情を浮かべて跪くアイ。ウィルはと言うと、忌々しそうに破片を抜いていた。
「アイ!」
「コールは早く行って! ここにいても邪魔なだけだから!」
なにも言い返せないコールは、素直にアイの言葉に従うことにした。ほこらへ向かって走る。ウィルが追いかけようと足を動かしたが、背中に破片が突き刺さったことで足を止める。背後には、無理な笑顔を浮かべるアイがいた。
「……死んでも文句は言うなよ」
「それはほら、アルマの思し召しってやつじゃん」
ふらふらと安定しない足取りで立ち上がるアイ。ウィルは歪んだ笑みを浮かべ、笑った。
「減らず口を叩けるなら、まだやれるな!」
「その通り! そっちこそ、死んでも後悔しないでよね!」
剣を構える二人。一拍の呼吸の後、二人は地面を蹴った。
ほこらまでは距離がある。コールはただひたすら走っていた。背後の剣戟の音が遠ざかるたびに不安が募る。それでも足を止めずにいられたのは、アルマに対してすがるような思いがあったからである。いま、なにが起きているのか。コールの知らない世界で、いったいなにが始まろうとしているのか。アルマはそれを知っていて、コールやアイに呼びかけたのではないか。憶測はいくらでもできる。
「……死なないでね」
それはどちらに向けて言った言葉なのだろう。コール自身にもわからなかった。
不自然なほど静かな道。鳥居をくぐった先から、ほとんど無音だ。コールの忙しない足音だけが不気味に響いている。動物の気配はない。植物の呼吸も、鳥の羽音も虫の鳴き声もしない。隔絶された領域の中に無粋にも足を踏み入れたような感覚。悪いことをしているわけではないのに、申し訳ないという気持ちが生まれる。
ほこらが見えてくるのと同時、ひとつの影も見える。それはコールよりも頭一つ分は小さな人影であった。闇の中でも際立つ金色の長髪に、くすんだ金色の瞳。裾の部分が広がる、どこかの民族衣装に身を包んでいる少年はただほこらを眺めていた。腰の部分に剣を吊るしており、旅人であることはわかる。コールはその背中に声をかけた。
「きみは?」
少年は答えない。目の前に建つほこらをじっと見つめるばかりだ。そこになんの意図があるかはわからなかったが、邪魔しない方がいいのだろうとその背中を見つめた。
「……呼ばれた」
ふと、少年が呟いた。誰に、と問おうとしたコールであ
ったが、無意味であることに気づく。何者かに呼ばれて“アルマのほこら”に来たというのであれば、コールやアイと同じだ。少年も、アルマの声を聞いている。
「きみも声を聞いたんだ?」
「……あんたもか?」
「うん。ここに来なくちゃならない気がして」
コールはこの少年を保護するかどうかを考えていた。ほこらに来た以上、アルマに勇者としての適性を見出されたのだろう。その結果、アルマの声を聞いた。導かれるがままに到着したほこらの前で、どうすれば良いのかわからなくなったといったところか。コール自身も、ここからどうしたら良いのかわからずにいた。
「……とりあえず、祈ってみよう」
「祈る?」
「そう。せっかくだし、祈ってみようよ。声の主に」
少年はきょとんと首を傾げた。祈りを捧げる、ということがなにかもわからないらしい。不自然さを感じながらも、コールはほこらの前で膝を折る。「こうするんだよ」と目で訴え、手を組む。
「我らが主よ、創世の女神アルマよ。今日という日を健康に生きられたことを深く感謝致します。明日も良き日を送れますように」
やってごらん?
そう言おうとした矢先。少年が頭を掻き乱して喘ぎ声をあげた。膝が震え、かちかちと歯が鳴る。焦点の定まらない目はどこを見るわけでもなく不安定な光を宿している。心配になったコールが少年の背中をさすろうとした、次の瞬間。コールは吹き飛び、木の幹に背中を打ちつけていた。
「痛っ……!?」
眩む視界。必死のまばたきで回復に努める。
少年を中心に赤黒い煙が発生していた。それは地面を溶かし、木々を腐らせる不思議な力を持っていた。なにが起こったのかわからないコールは呆然自失といった様子であった。
「ぐっ、あああああ……! っは、ああっ!」
呼吸を乱す少年。近寄ろうとしても煙が邪魔するため、遠巻きに眺めることしかできなかった。少年がほこらに目を向ける。その瞳に灯るのは、憎悪の炎。砕けそうなほど力強く歯を食いしばり、右手をほこらにかざす。希術を発動させるつもりだということはわかった。だが、なんのために?
コールが答えを導き出すよりも早く、少年は希術の詠唱を開始した。
「『心を冒せ、不浄の腕(かいな)。潰せ、奪え。飽くことなく求めよ。俺は希う――“略奪者の魔手(バンディットプレス)”!』」
希術の詠唱が完了し、少年の足元から灰色の醜い腕が現れる。形を保つ力はあまりないらしく、指先から徐々に崩れ始めている。さらにその腕が発する強烈な腐臭に、コールはたまらず鼻をつまんだ。
ぼこぼこと歪に変形を繰り返す腕はほこらの前で大きく振りかぶった。なにをするかは容易に想像がついた。止める余裕はなかった。気がつけば、グロテスクな腕がほこらを叩き潰していた。ことの重大さに遅れて気がついたコールは、ひっと短い悲鳴をあげた。
「うっ、ううう! か、はあっ! あああああ……!」
少年はなおも喘いでいる。なにが彼を苦しめているのかがわからなかったが、このままでは大変なことになる、ということはわかった。どうすれば事態は収束するのか、コールは必死に頭を働かせる。しかしコールが動き出すよりも早く、何者かが少年に接近し、首に一撃。昏倒させ、肩に担いだ。ウィルだ。
「やれやれ、暴走するならもうちょっと派手にやってくれよ」
「ウィル! その子はいったい……!? それに、アイは」
質問は湯水のごとく溢れてくる。答えを期待しても、ウィルは冷たい視線を注ぐばかりでなにも言わない。剣を向けるウィル。コールは倒れたまま、身動きひとつ取れずにその切っ先を見つめていた。抵抗の意思がないと判断されたらしい、ウィルは剣を鞘に収め、背を向ける。
「ま、待って……!」
「兄さん。これ以上あの女に関わるなら、俺は手加減できなくなる。……頼むから、ここで手を引いてくれ。村に帰って、何事もなかったかのように暮らしてくれ。俺からの、最後のお願いだ」
「最後ってなに! お願いだから、ちゃんと答えてよ……!」
コールの声は届かない。ウィルは少年を担いだまま走り去った。ひとり、ほこらの跡に残されたコール。なにもできなかった、なにが起こっているのかわからなかった。放心状態で、崩れ去ったほこらをじっと見つめる。
目の前に、一筋の滴が落ちる。気がつけば、雨が降り始めていた。ようやく現実を受け入れる体勢になったコールは、力の入らない身体に鞭打ってなんとか立ち上がる。無残に破壊されたほこらに背を向けて、来た道を辿る。雨は次第に強さを増すが、木の葉の天井のおかげで不自由はしなかった。
足取りは重い。ほんの数時間で多くのことが起こりすぎた。コールの許容量をはるかに超える出来事に、戸惑うことしかできなかった。足を止め、うつむき、唇を噛む。こんなことしかできない自分が憎くて仕方がなかった。
「あ、コール……?」
かすれた声が聞こえた。顔をあげると、全身血塗れのアイが立っていた。剣を杖代わりにして、よろめきながらも無理やり笑顔を作っている。安堵からか、がくんと膝を折って倒れた。慌てて駆け寄るコール。
「ちょ、アイ! 大丈夫!?」
「大丈夫、致命傷は避けてるから。見た目ひどいけど、死ぬような傷じゃないんだよね……痛いけど」
ぐっと力を込めて立ち上がるアイ。その笑顔は無理していることがすぐにわかったが、今際の際というほど限界状態ではないように見える。安心はできないが、余計な心配をする必要はなさそうだ。
「……ひとまず、村に帰ろう。医者に診てもらわなきゃ」
雨脚は強まるばかり。二人は急いで村に戻ることを決めた。
クスタ村にある小さな宿。その一室に訪れたコール。控え目なノックに対して「どうぞー」と軽い返答が確認できたので、扉を開ける。ベッドに横たわるのは朱色の長髪をした少女。身体の至るところに包帯が巻かれ、退屈そうに窓の外を眺めていた。
「具合はどう、アイ?」
「体調は悪くないかなあ。でも、ここまでしなくてもよかったよ。大袈裟すぎて動く気になれないもん」
包帯をぐるぐるに巻かれた腕を振ってみせるアイ。傷はほとんど塞がっている、と本人は言っているが強がりの可能性もある。しばらくは安静にしてもらうつもりであった。
「身体が癒えたら、アイはまた旅に出るの?」
「そだね。“アルマのほこら”はここだけじゃないだろうし、他を当たってみるよ。……ここのほこら、壊されちゃったんでしょ?」
「うん。すごい力を持った男の子が希術でね……びっくりしたよ」
少年の希術は見たことのない威力を誇っていた。ほこらを一撃で壊すほどである。強力な希術を使うにはそれなりの修練が必要だと聞くが、あの少年はコールやウィルとそこまで変わらない年頃だ。強力な希術を扱うに相応しい力があったのだとしても、格が違う。どれだけの努力と時間を積めば、あの領域に辿り着けるのだろう。コールには想像もできなかった。
「……ところで、アイ。ウィルは?」
「そう、あいつ! あたしと戦ってる最中に『あの馬鹿!』とか言って走ってったの! 喧嘩吹っ掛けといてほったらかしとかマジ許せないんだけど!」
シーツに怒りをぶつけるアイ。ウィルがあの少年と知り合いであることは明らか。だが、どこで知り合った? 疑問はそれだけではない。ウィルがアイを狙った理由もわからない、ほこらを壊すような者に肩入れする理由もだ。なにもかもが、コールの知らないところで進んでいる。
「……ねえ、お願いがあるんだけど」
「うん?」
このまま、蚊帳の外にいるのはごめんだ。
そう考えたときにはもう、口が動いていた。
「僕も旅に連れていってほしい」
「ありゃ。なんでまた急にそんなことを?」
アイは別段驚いた様子もなかった。想定の範囲内、といった口調である。
「なんだか、自分だけ蚊帳の外みたいだって思って。アイには言ってなかったけど、僕もアルマの声を聞いたんだ。他人事じゃない。僕も一緒に戦いたいんだよ」
「すごく自己チューな理由だね? 仲間外れは嫌ってことでしょ?」
綺麗な言葉で繕いはしたが、すぐに見破られたらしい。コールは「まあ、そういうこと……」とばつの悪そうな顔をした。アイはやれやれと肩を竦め、ため息をひとつ。
「わからないとでも思ったわけ? ……ま、別についてきてもいいけどね」
「本当?」
「ただし、あたしの足は引っ張らないこと。できる?」
「やるよ」
「やるやらないじゃなくて、できるできないを訊いたんだけどな……信じるからね」
根負けだ、とアイは降参のポーズを取った。コールは表情を明るくして、しかしすぐに目を伏せる。
「……母さんになんて言おう」
「はあー? お母さんのことなんて気にする必要ある? 黙って出てっちゃえばいいじゃん」
アイの言うことはもっともだ。コールが家を出るのであれば、母は「厄介払いができる」と内心ほくそ笑むだろう。だが、コールが懸念しているのは自分が旅を出ることではない。あのまま行方を眩ましたウィルのことだ。母に黙って出ていったのだろう。あの日、家に帰って最初に問われたのはウィルの行方であった。無論、コールが知る由もない。母はひどく落胆し、なにも言わず塞ぎ込んでしまった。罪悪感を感じる必要も、謝る必要もないのだが、内心では申し訳なく思っていた。
自分があのとき、“アルマのほこら”に行かなければ。きっとこんなことにはならなかっただろう。後悔しても仕方がないことだ、という自覚もある。だが、時間は戻らない。結果として、ウィルが失踪するという事実だけが残ったわけだ。いまさら変えようがない。
「……なにも言わなくていいか。いや、なにも言えないよ」
「なに考え込んでるのか知らないけど、自分に従った方がいいんじゃない?」
あっけらかんと言うアイ。その通りだとは思いつつ、母に面目が立たたないことを悔やんでいた。
「まあ、そのときになってからだね。今日のところはこの辺りで帰るよ。あんまり長居しても邪魔でしょう?」
「話し相手がいなくなるから退屈になるんだけど」
「あはは……それじゃあ、養生してね」
「この薄情者!」
罵声を背中に受けながら部屋を去る。
自宅への帰路を辿るコール。傷心の母をひとり置いていくことを考えると、足取りは重たくなる。あの家に自分と母の二人だけが残された場合のいたたまれなさと秤にかけている自分が憎かった。
誰と言葉を交わすこともなく、自宅に到着してしまった。少しだけ気持ちが沈んだまま、扉を開く。
「ただいま」
母からの返事はない。大方、リビングで呆けているのだろう。自慢の息子が唐突に姿を消せば、誰だって落ち込む。
コールは特に触れることもなく自室に戻る。具体的な旅の支度を知らないコールは、必要最低限の衣服と、なけなしの貯金。そしておさがりの長剣だけを持っていくことにした。どれだけの期間、世界を歩き回るかは決めていない。どれだけの長旅になるかもわからない。ただ、荷物が少ない方がいざというときに走れる、とだけ考えていた。
時間の経過がずいぶんと緩やかに感じる。きっと、家でやることがほとんどなくなってしまったからだろう。稽古に時間を割くことがなくなったことが一番大きいかもしれない。手を抜かれていたとはいえ、あれだけ一心不乱に身体を動かす時間はとても有意義なものであった。
ベッドに上れば、天井が近くなる。すると、微かな染みや汚れもよく見える。思い返せば、ウィルと共にこの部屋で過ごした時間はとても長いものであった。くだらないことでたくさん喧嘩をして、母や父に怒られ、諭され、一緒に泣いたこともあった。仲が悪いとは思わないが、今回のことでコールとウィルは敵対することとなる。そう確信している。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
誰にともなく呟く。当然、答えが返ってくるわけはない。時計の秒針の音だけが規則的に聞こえてくる部屋で、コールじっと天井を眺めていた。やがて、時間の緩慢さに耐えられなくなり剣を持って庭に出た。
東の空は藍色に染まり、西の空も地平線に近いところだけが赤く染まっている。夜が迫ってきているのだ。コールは剣を抜き放ち、構えを取る。視線の先は虚空。人の姿はない。刃を向けてくる人間などいない。コールはがむしゃらに剣を振るった。ごちゃごちゃと胸の内で渦巻く感情を発散するように。決意を揺るぎないものにするために。ひたすら見えない敵を斬り続けた。
鋭い踏み込みからの突きを放ったところで、その場に座り込む。動きを止めた途端、どっと湧く汗。まとわりつく熱気。これ以上、動く気にはなれなかった。
……こんなことをして、なんになる?
胸に問うても、返ってくるのは間隔の短い鼓動だけ。答えなんて見つからない。それでも、いまという時間をだらだらと過ごすくらいならなにも考えずに動いた方がマシだった。
「……ウィル、僕は止まらないから」
届くはずのない言葉。熱を帯びた身体を撫でるそよ風に攫われ、どこかへ飛んでいく。ウィルに届くことなどまずありえないが、そう考えるとなかなかロマンチックに思える。
「アイが本調子になるまで、一人でも訓練しておかなきゃ」
決心して、空を見上げる。黒く染まった天空に、金色の星がひとつ。どこか妖しげに輝いていた。
「……嘘、でしょ?」
突然の訪問者はアイであった。身体中に巻かれていた包帯は全てなくなり、元気な笑顔を見せている。腰には片刃の剣。背中にははちきれんばかりに荷物が詰まった鞄を背負っている。出発の準備は万端だ。
「動いてもいいって言われたから」
「……根負けした医者の顔が想像できるよ」
大方、アイがあまりにもじっとしていないものだから行動許可を出したのだろう。匙を投げる、とはこういうことを言うのだと感じた。
「で? 支度は大丈夫?」
「僕は大丈夫。いつでも行けるよ」
いつ家を出ても良いように、支度は整えている。いますぐにでも発てるのだ。だがコールは、いまだ母への言葉に迷っていた。なんと言えば、いまの母を傷つけずに旅立てるだろう。そんなことをずっと考えていた。
アイはため息をひとつ吐いて、やれやれと肩を竦めた。
「まだうじうじ考えてるわけ? もういいじゃん、勝手に出てっちゃえばさ」
「そういうわけにはいかないよ。いま、母さんは傷ついてるんだし……」
「はいはい、好きにすれば? あたしは待ってるから、ちゃっちゃとしてね」
呆れたようなアイの声を背に、自室へ駆け上がるコール。前日に準備した鞄と、長剣。この先に躊躇は要らない。一瞬の迷いが死に直結する世界なのだ。剣を取り、振るう覚悟を決める。コールは深く呼吸して、唾を飲む。
「もう、迷ってられないね」
柄をかたく握り締め、腰に提げる。しばらく離れる部屋に別れを告げて、一階に降りた。母はやはり暗い表情でうつむいていた。声をかけても反応はないだろう。コールは黙って玄関に向かった。
不意に、背中から呼び掛けられる。その声はか細く、いまにも消え入りそうなほど儚かった。振り向けば、やはりうつむいたままの母がいる。
「……ウィル、どこに行ったのかしらね」
答えられなかった。知らないというのももちろんあるが、アルマ教の信者である母に告げるには少しばかり過激な内容であるからだ。アルマを殺したいほど憎んでいる、などと知れたら母はどれだけ傷つくだろう。戸惑うコールは、なにも言わずに家を出てしまった。玄関を抜けた先には、アイしかいない。彼女は「待ちくたびれたよ」と言わんばかりに伸びをした。
「もういいの?」
「……うん。大丈夫だよ」
コールの語気には力がない。大丈夫でないことは明白であったが、アイは深く触れなかった。
「それじゃ、出発だね。コールはあれから、アルマの声聞けた?」
「いや。あれ以来、まるで聞こえてこなかった。気のせいだったのかな? そういうアイは?」
「あたしも駄目。まあ、次のほこらに行ってみたらわかるかもね。ってわけだし、出発しよっか!」
拳を天に突き出して、高らかに宣言する。声が聞こえなくなった以上、足踏みしていても仕方がない。アイの言う通り、次のほこらを目指すことが最も建設的に思えた。
勇み足で歩き出すアイを追うコール。ふと足を止め、家を振り向く。あまり大きな建物でないとはいえ、あの中に母をひとり残していくのはやはり気が引けた。しかし、もはや止まる気はない。
「……いってきます、母さん」
その声が届くはずはない。もう、振り返ることはしなかった。
第二章:“神の思し召し”
太陽が最も高い位置で光を注ぐ頃。広大な草原で、コールは魔物と戦っていた。
横薙ぎに剣を振るう。くせのない長剣の刃は、目の前で跳ねている巨大なオタマジャクシの皮膚を浅く裂いた。僅かにぬめりのある皮膚には、すんなり刃は通らないようだ。オタマジャクシの反撃は、何の変哲もない体当たりである。攻撃の直後で回避もままならないコールは、ものの見事に突き飛ばされてしまう。オタマジャクシといえど、体長五十センチはくだらない魔物だ。そこそこ威力はある。おかげで肺の中の空気が一気に押し出され、激しく咳き込む形となった。
そんなコールを、少し離れたところからけらけら笑う少女がひとり。旅の剣士、アイ・フィーノである。
「ほら、頑張れー! そんな魔物にも勝てなかったら、やってけないよー?」
「わかってる! けどこいつ、剣の攻撃が効かないみたいで……!」
「効かないなんてことないよー、太刀筋が甘いだけ! ほら、ぼさっとしてたら」
「うげぇっ!?」
アイのアドバイスに耳を傾けているうちに、魔物が再びコールに体当たりを繰り出し、のしかかった。小さな身体であるが体重は思った以上にあるようで、呼吸もままならない。ずっしりと重たいものを背中に感じ、たまらずアイに助けを乞う。
「ア、アイ! お願い、こいつをなんとかして!」
「はいはい……もう、世話が焼けるなあ」
困ったような顔をして左手を前方にかざす。しんと空気が静まり、手のひらを中心に赤い円陣が展開される。
「『集いて爆ぜよ、燃え上がれ粒子。あたしは希う――“爆ぜる火の粉(バーンパウダー)”』」
赤い陣が弾け飛び、赤い粒子が生まれる。それは魔物に引き寄せられるように飛んでいき、魔物の身体に染みついたところで激しく燃え上がった。攻撃用の希術、“爆ぜる火の粉(バーンパウダー)”。当然、魔物に押しつぶされていたコールもその熱を感じる。
「あっつ、熱いっ!?」
苦悶の表情を浮かべるコール。魔物にかけられていた圧力から解放された代償は想像以上に大きいものであった。魔物はというと、そこら中を転げ回って鎮火しようと努めているように見えた。
「いまなら剣も通るかもよ?」
「……っ! わかったよ! やああっ!」
剣を両手で握り、頭上から思い切り叩きつける。するとどうだ、いともたやすく魔物の皮膚を切り裂けた。真っ赤な液体が飛び散るが、魔物が帯びている高熱の炎により、あっという間に蒸発してしまう。やがて魔物の身体は灰色に染まり、あっさりと崩れ去った。
「や、やった」
「お疲れ様。でも、あの程度の魔物に手こずってるようじゃまだまだだね」
「……うん、本当にそう思う」
あれほど迫力に欠けた魔物すらひとりで対応できないなんて。実際に魔物と戦った経験が少ないとはいえ、このままでは間違いなく足を引っ張ることとなってしまう。それだけは避けたかった。
そのためには、あの程度の魔物をひとりで蹴散らせる程度の力が必要なのだ。まだまだ実戦経験が足りない。命を賭けた戦いの空気をもっと肌で感じなければならない。
「もう一回! 付き合って!」
「いいけど、その前にお昼ご飯にしない? ずーっと突っ立ってるの、結構お腹減るんだよね」
ぐうう、とうめき声をあげるアイの胃袋。自分に付き合ってくれているということもあって、アイの頼みを無下にはできなかった。悔しいが、一旦休憩を取ることにする。
現在、二人が向かっているのはクスタ村から歩いて三日の町。学術都市ビオーケだ。世界一の図書館を構えるその都市は研究所や学校など、学問に関する施設が多いのも特徴である。この都市の近辺にも“アルマのほこら”が存在することは知っていた。ビオーケはアルマ教が深く浸透した地域に存在していることもあり、信心深い学生たちが「身近にアルマを感じられるように」と進学先に選ぶことが多いからだ。
コールも一時は進学を考えたこともあった。しかし、特に目的もなく進学したところで就きたい職業が見つけられなければ意味もない。結果として、コールは進学を諦めた。金銭的支援がほとんどなかったのも原因のひとつではあるが、なによりも自分の意志、意欲が足りなかったことが大きい。
ビオーケまではあと三時間も歩けば到着する。二人は地べたに腰を下ろし、アイは所持していた簡単な調理器具を使って食事の準備を始めた。コールはというと、熱心に剣の手入れをしていた。先ほど魔物を切り裂いた際に傷ついた刃を丹念に研ぎ、日光を受けてきらりと輝くほど磨く。ウィルがどれだけ手入れをしていたかは知らないが、武器を持つことが初めてのコールからしてみればやりすぎるに超したことはない。
アイは道中で狩ってきた動物たちの肉を焼こうとしていた。包丁で乱暴に切り分けながら、そこそこ大きなフライパンの上に乗せる。そこまではいい。問題は、火だ。マッチなどがあれば良かったのだが、アイの調理は若干大胆であった。左手の人差し指をフライパンの底に押し当てる。赤い陣が浮かび、僅かな沈黙の後、すぐに弾けた。フライパンが熱を帯び、肉が焼ける音がする。いまのは家庭用希術“加熱(ヒートアップ)”だ。触れた物体の温度を徐々に上げる、というものである。
「やっぱり希術って便利だね」
口をついて出てきた言葉であったが、至極当然のことであった。家庭用の希術は民の暮らしを豊かにするものだと王が頒布した情報であり、便利であることは周知の事実なのである。しかし希術を一切使うことができないコールからしてみれば本来あるべきはずの道具を使わないことが不思議で仕方がなかった。
「コールは希術使えないんだっけ」
「うん。どうしてなんだろうね。別段、身体に不自由なところはないのに」
「うーん……希術っていうのは希う――強く願うことで発揮される力なんだけど。もしかしたらコールは、その気持ちが足りてないのかもしれないね」
強く願うことで発揮される力。それが足りていないということはつまり、叶えたいという願いがないということ。心が欠けている、という言い方もできる。『変えようがない』『抗えない』そんな諦めにも似た感情がコールの胸につきまとっているということだ。
「……叶えたい願い、か」
「まあ、使えた方が便利だろうけど、使えなくても不自由するわけじゃないよ? あたしだって、調理器具使って料理できるもん。ずっと希術に頼ってきたわけじゃないんだから」
「それはそうだけど」
「ほら、そんなこと言ってたらできたよ。アイ特製ワイルド獣肉焼き、どうぞ召し上がれ」
どん、と前に出された皿。その上に乗っていたのは、いい具合に焦げ目がつき、油の乗った分厚い肉。ごくりと生唾を飲むコール。それを見て、アイはにやりと笑みを浮かべた。その手にはフォーク。
「どうぞ?」
その言葉に甘え、コールはフォークを受け取った。すぐさま肉にかぶりつき――
「うっ、おえええええ」
盛大に吐いた。
アイの料理にはどうやら数多の調味料が多分に投入されていたようで、口に含んだ途端押し寄せる吐き気に抗うことができなかった。結論、コールの調子は絶不調。魔物との戦闘訓練のときも足元が覚束なかったり不注意が目立つという場面が多々あった。
先ほどのオタマジャクシが成長したような、一メートル強の巨大なカエルを相手取っているときのことだ。鞭のようにしなる舌がコールの脇腹を叩いた。回避は容易なスピードであったが、注意力散漫な状態ではその攻撃に気づくことすらなく、地面に伏した。
「ぼさっとしない! 早く立って!」
立つことすら億劫にさせたのはどこの誰の料理なのか。
コールはあえて指摘せず、粉微塵ほどの集中力を振り絞って臨戦態勢を取った。視界がぼやける、音が遠退く、地に足がついていない。人体のありとあらゆる不調を一気に体験しているような気分で、まともな戦闘ができるわけがない。
カエルがすさまじい跳躍でコールに迫った。あれだけの巨体だ、体重も相当なものだろう。オタマジャクシの比ではない。そんな体当たりが直撃しようものなら、骨の一本や二本は覚悟するべきである。
コールは素早く地面を転がった。正確には、足がもつれて倒れかけただけなのだが。図らずもカエルの跳躍を回避することに成功する。そこに飛び込んでくるのは、アイの希術。オタマジャクシを焼いた希術、“爆ぜる火の粉(バーンパウダー)”だ。カエルの皮膚が焼け、保護していたぬめりが消える。
「コールいくよ!」
「う、うん!」
二人は同時に剣を突き出した。保護を失ったカエルの身体を貫く。命中した箇所が良かったのか、その一撃で絶命に至らしめた。眼前で崩れ去り、塵となるカエル。二人は深く息を吐き、顔を見合わせる。
「コール、休憩してから調子悪そうだけど?」
「誰のせいだと思ってるんだ!」などと怒鳴る体力もない。ただ苦笑いを返すばかりだ。
「答えられないほど弱ってるなら、今日はここで野宿しようか?」
「いや、いい。歩こう。じっとしてると、吐いちゃいそうだ……」
そんな状態ならば無理しない方がいいんじゃないか、と心配するアイ。コールの表情は絶不調を訴えているが、それを認めようとはしなかった。たかが女の子の料理でここまで追い詰められるとは思わなかった。
アイは無理やり納得したような顔をする。
「ま、それならいいんだけど。ビオーケまで頑張ってこう! おー!」
コールを追い詰めたのが自分だとは思いもせず、アイは拳を掲げる。言っても仕方がないと思いつつ、ため息ひとつを吐き出して追いかけた。
魔物との戦闘を繰り返しながら歩いていたこともあって、視線の果てにビオーケの外壁が見えてくる。街全体をぐるりと囲う壁は灰色をしており、無機質さを感じさせた。果たして、その中に住む人々はどのような人間なのか。どんな出会いがあるのか。コールは楽しみに思っていた。
「コール、なんかそわそわしてる」
「え、そうかな……? まあ、クスタからこんなに離れたの初めてだし」
「まあ、いいんじゃない? 田舎者が都会に驚くさまを見るのも、旅人の醍醐味だし?」
「嫌な醍醐味」
そんなやりとりをしているうちに、ビオーケ目前まで迫る。巨大な門は厳重に閉ざされており、そばには門番。重鎧に身を包む身体の大きな男だ。あまりに険しい顔つきに、一瞬足を止めてしまうコール。アイはというと、怯んだ様子もなくずけずけと近寄っていく。
門番はぎろりとアイを睨みつける。アイは至って自然、平然と言ってのける。
「旅の者なんだけど、中に入れてくれない?」
門番はなにも言わない。品定めするようにアイとコールを交互に見つめ、「入れ」と一言。だが、重たそうな門をどうやって開くのかが疑問であった。それはすぐに解消されることになる。
門番は取っ手を掴み、深呼吸をひとつ。吐き出すと同時に左右に開いた。すさまじい音が響き、空気や大地を震わせる。地鳴りが起こったのではないかと錯覚するほどの轟音。二人は呆然と門番の背中を見つめる。振り向く門番は親指を立て、手首を動かす。「さっさと入れ」という合図らしい。促されるままに、二人は巨大な門を潜る。
学術都市ビオーケは思いのほか賑わいに溢れていた。とはいうが、ほとんどの人間が学生服や白衣に身を包んだ、研究者らしい風貌をしている。やはり、旅の者が訪れるような場所ではないのだろう。生涯を研究に費やすような人間が腰を据えるための都市だとコールは思った。
「……なんだか僕たち、すごく場違いな気がする」
「旅人なんてそんなもんだよ。ほら、早くほこらに行こう? またあいつらに壊されちゃたまったもんじゃないしね!」
もしかしたらウィルとあの少年もこの都市を訪れているかもしれない。そう考えると、落ち着いて宿を取っている場合ではなかった。コールは地図を広げ、ほこらの位置を確認する。都市の中でも北の方にほこらはあるようだ。
「うん、急ごう。ほこらはあっちだよ」
今度はコールが先陣を切って歩く。アイは険しい表情でコールの後ろを歩いていった。一刻も早くアルマのもとへ行きたいという思いが背中越しに伝わってくる。
ビオーケは外見の無機質さに違わず、やはりどこか冷たい印象を与えた。建物は皆、淡く紫がかった金属――ミスリルで造られたものらしく、物理兵器のみならず希術に対する防御性にも優れている。しかし、なにをも寄せつけないその姿勢が、どこか排他的に思えた。人間も同様だ。先ほどの賑わいは己の研究結果や推論などの主張であり、他愛もないおしゃべりなどではなかった。自分の主張に納得してくれればいい、議論など求めていない。そう思わせる口振りの人間が多いことも目立つ。
「……早く出たいな、ここ」
「それは早いって。なにが気に食わないわけ?」
「なんていうか……冷たいよ」
「田舎が温かすぎるだけじゃないの? 温かい、ってかぬるいって感じだけどね」
田舎が温かいというのもたしかにあるだろう。だがそれ以上に、この都市は冷たかった。クスタと比較すること自体奇妙な話ではある。しかしコールは違和感が拭えなかった。見えていないものがあるのではないか。そう思わざるを得ないなにかが、この都市にはあった。
「ま、どうでもいいけどね。早く案内してよ」
「わかってるって、ちょっと待ってよね。僕はここに来るの初めてなんだから」
地図と睨み合い、ゆっくりとほこらに向かう。アイは頭の後ろで手を組んだままつまらさそうに天を仰いでいた。
ほどなくしてほこらに到着する。二人が最初に見たのは長蛇の列であった。ずらりと並ぶ有象無象、その先には大きな鳥居が見える。あの向こうに“アルマのほこら”が存在するのは自明であった。
「こ、この行列はなんなんだろう?」
「あなたたち、旅の人ですか?」
コールの呟きに気づいた学生らしき少年が問う。二人が頷くと少年はやれやれと肩を竦めて口を開いた。
「ここはある種の聖地のような扱いをされているんです。その結果、旅人が巡礼と称してここに訪れ、ほこらに祈りを捧げて帰っていくことが多いんです。……そのおかげで騒がしくなって、研究の邪魔になるんですけどね。はあ……」
深いため息を吐いて立ち去る少年。やはり旅人のことを快く思っていないらしい。あの少年に限った話ではないだろう。
「……これは、すぐには行けないだろうね」
「なんで?」
「なんでって……ちょ、アイ!?」
アイがなにをするのか、コールにはわからない。ずけずけと並んでいる人間たちを追い越して、ほこらの入り口で受付をしている人間に、一言。
「アルマの勇者が二人来たの。通してくれる?」
沈黙する周囲の人間。コールは即座に走り出し、アイの後頭部に拳骨を見舞う。
「馬鹿! なに言ってるの!」
「なにって……アルマの勇者じゃん、あたしら」
「他の人間からしてみたら妄言以外の何物でもないでしょう!? ほら、道開けて! すみません、失礼致しました、本当ごめんなさい!」
首根っこを引っ捕まえて平謝りするコール。アイはというと、「あたしはアルマの勇者なのにー!」と情けない声をあげていた。
「……さて、時間を潰さなきゃいけなくなったわけだけど」
「コールが変に遠慮するから」
口を尖らせるアイ。不機嫌になるのはおかしいと思ったコールだが、あえて口に出そうとはしなかった。なにを言っても、いまのアイには響かないと判断したからである。
二人はビオーケをあてもなくさまよう。辿り着いたのはビオーケの中央広場。学者や学生たちの唯一とも言える憩いの場となっている。しかし二人の目に映るのは、カフェのテーブルがほとんど覆われるほど論文を広げる学者や、コーヒーをずるずるすすりながらノートを取る学生。安らぎなど、どこにもなかった。
やがて、アイが苦い表情を浮かべて呟く。
「がり勉の行き着く先がここなのかもね」
「まあ、勉強好きじゃなきゃ、ここに来る理由がないから……あと、熱心なアルマ教徒?」
しかしこの都市の本質は研究や勉学であり、ただのアルマ教徒が歓迎されていないのは先ほどの少年が証明した。閉鎖された空間にずけずけと踏み入るのは無粋だということだ。そう思わせたのは、熱狂的とも取れるほどの一部のアルマ教徒だろう。コールとしては釈然としないところがあった。
コールはふと思い立ち、提案する。
「ねえ。図書館に行ってみない?」
「図書館って、国立図書館?」
アイの表情がさらにゆがむ。どうやら根っからの勉強嫌いらしい。あまりのわかりやすさに思わず吹き出してしまった。
「あはは……アイは本、嫌い?」
「駄目駄目。文字ばっかってさ、頭が重くなっちゃって嫌いなんだよね」
ぶんぶんと手を振って拒絶を示すアイ。どうやら本当に苦手なようだ。それなら無理に誘うのも悪い話だろう。しかし図書館に行ってみたい欲求は強い。せっかくだし、アルマ教の歴史でもあさってみようと考えたのが失敗だったか。
残念そうな顔をしていたコールを見かねてか、アイは頭を掻きながら一言。
「……ま、本読まなきゃいいだけだしね。付き合ってあげる」
「本当に? ありがとう、アイ」
「はいはい。わかったからさっさと行こう? 突っ立ってるの、疲れちゃったよ」
投げやりな口調で歩き出すアイ。地図も持たずに歩き出して、目的地がわかっているのだろうか。コールは慌てて追いかける。
図書館は中央広場から東に数分程度のところにあった。いったい何階構造なのか、想像することすら億劫になる高さである。雲を突き抜けんばかりの高さもさることながら、敷地自体もずいぶんと広い。世界中のありとあらゆる書物を備えていることを考えると、このくらいが妥当なのかもしれない。
「この建物にぎっしり本が詰まってることを考えると、吐き気がするね」
「そう? 探すのは大変かもしれないけど、面白そうじゃない?」
「コールもがり勉の素質があるのかも」
アイは呆れたように口元をゆがめる。自らの身体を抱きながらぶるりと身震いする彼女に、コールは心外だな、と目を向けた。
「別に勉強が好きなわけじゃないよ。ここに来たいと思った理由だって、アルマ教の歴史を知りたかっただけなんだから。信仰者として至極当然だと思うけど」
「うっ……と、当然かあ……」
信仰者として当然、という言葉に動揺するアイ。自分が一人前の信仰者であると信じていたからだろう、ここでコールの話をばっさり切り捨てるような真似はプライドが許さなかったようだ。苦虫を噛み潰したような顔で、小さく告げる。
「……あたしも、読んでみようかなあ……」
「ん? なにか言った?」
アイの一大決心を欠片も聞いていなかったコールが殴られるのは、仕方のないことであった。視界の端から飛んできた握り拳をかわすことなどできず、唐突のことであったため体勢を崩し転倒してしまう。
「な、なんで!? どうして!?」
「きみって自分の話ができれば他人のことなんてどうでもいい人なんだあ、そっかあ」
アイの目は笑っていない。本気の怒りが灯っていることは、いくら鈍感なコールでも察せられた。下手なことを言えば、焼き払われる。そんな予感がコールの背筋を凍らせた。
なにを言われるか、されるのかと警戒していた。しかしアイはなにをすることもなく、ただ深い吐息を漏らすばかりである。
「ま、いいけどね。別に」
それだけ告げて、コールの横を通り過ぎる。安堵と同時に不安も覚え、コールはすぐさまアイのあとを追った。
館内は広大だった。壁一面に本棚が並び、その高さたるやコール二人分以上。目測で三メートルはある。本棚のそばには脚立があり、高いところは自分で取れ、ということだ。事故でも起こったらどうするのかと不安になる。
「すごい広さだ」
「ああ駄目……あたし具合悪くなってきた……」
アイの足元がふらりとぐらつく。体調不良を訴えるアイを近くの机に誘導し、コールは館内を散策した。学術書、文芸誌、童話、民話、神話などなど。ここに来ればどんな本でも読める、そう思わせるほどの蔵書量であった。
コールが探すのは、世界の歴史とアルマ教の成り立ちについて。これは神話、あるいは宗教のカテゴリに含まれるはずだ。数多の本棚からそのカテゴリを見つけるのも億劫になる。鬱蒼と立ち並ぶ本棚を探り、数十分が経過した。ようやく見つけた神話の棚。今度はそこから世界の成り立ちについての本を探すことを始める。脚立をそばに配置して、いつでも上段の本を探せるようにする。準備は万端だ。
だが、その準備は徒労に終わる。コールの目に留まったのは、最下段右端にある「無限世界アンデリーチェとは」という題名の本。厚さはそこまでない。内容はおおかた、この世界について記された本なのだろう。アルマが創造した、という以外になにかあるのだろうか。そんな好奇心から、思わず手に取っていた。アイを座らせていた机に戻り、隣に腰掛ける。ぐったりと突っ伏しているアイ、おそらく眠っているのだろう。起こすのは無粋かと思い、そのまま放っておく。
本を開く。著者は聞いたことがない名前だ。開いてみると、そこには奇妙な文章がつづられていた。
「……『アンデリーチェが無限世界と言われる所以は、この世界に施されたある希術に起因する。それは、自由な生涯を至上のものとするアルマにとって苦渋の決断とも言えるものであった。』……この世界に、希術?」
世界を対象とする希術が存在する。それでさえ驚愕の事実だというのに、無限世界という呼び名の由来がその希術にあるとは。その希術の詳細が記されていないか、ページをめくっていく。すると、隣でもぞもぞと動く音がした。
「アイ?」
「頭痛くなるから朗読やめて……」
「あっ、ああごめん」
難しい言葉を聞くことすら駄目だという、筋金入りの勉強嫌いなアイのことを気にしつつ、コールは読書を進める。
この著者は、あたかもこの世界の核心について触れているといった語調でこの本を記している。論文とは少し違う、不思議な信憑性が見受けられた。
無限世界の真実に迫った謎の人物。本の内容もそうだが、この著者に強い興味を惹かれた。しかし、本来の目的を果たすのが先。コールは本を閉じ、著書名を記憶してから本棚に戻した。次に調べるのは、アルマ教の歴史だ。今度は宗教の本棚を探すことになる。アイはいまだに顔を上げない。図書館という空気に耐えられないのだろう。もはや病気だ。
宗教の本棚を探していると、学生とばったり出会う。軽く頭を下げ、すぐさま通り過ぎて行った。言葉を交わす時間さえもったいない、そう思わせる冷たさが感じられた。やはりこの都市は、他を寄せつけない空気が漂っていた。
宗教の本棚はあっさりと見つかり、アルマ教の歴史についての本も見つかった。「女神と四つの剣」という題名だ。再びアイの隣に戻り、本を開く。この本は子供向けに記された本らしく、ところどころに挿絵があった。
話の概要はこうだ。女神アルマが無限世界アンデリーチェを創造し、自ら降り立とうと決めたとき、四人の剣士を生み出した。勇気と炎を司る者、慈愛と水を司る者、希望と風を司る者、知性と土を司る者。四人の剣士はアルマを守護する役割を与えられ、世界各地を渡り歩いたそうだ。現人神となったアルマは各地で困窮した人々を救い、自らの力で信仰心を集めていった。
そんな中、ある剣士が裏切りを果たす。その剣士は“悲願”を持たず、今際の際まで希術を扱うことができなかった。なぜアルマを裏切り、その手にかけたかは明らかにされていない。裏切りの剣士を屠った三人の守護者は、人としての死を迎えたアルマを忘れないように、とほこらを造った。アルマに救われたことや感謝の心を忘れないように。
この本では、三人の剣士が亡くなり、程なくしてアルマ教が設立されたとされている。
「……四人の剣士と女神アルマ、か」
「んあー、調べものは終わった……?」
どうやら眠っていたらしいが顔色は悪い。早く出ないと、後の移動に支障をきたすかもしれない。そろそろ出た方が賢明だ。苦笑を浮かべて本を棚に戻しに行く。また機会があれば、もっとじっくり読んでみよう。
アイの元に戻り、調べものが終わったことを伝える。
「さあ、宿に行こう? あんまりここにいたら、アイが疲れちゃうでしょう?」
「うー、助かる……」
うめくアイを引きずって図書館をあとにする。どれだけ滞在するかはわからないが、出発するまでは通い詰めて読もうと決めた。
空はもう茜色に染まっていた。学生たちの姿が先ほどよりも少なくなっているのがわかる。帰宅し休養しているのか。あるいは日の光も届かない研究施設にこもっているのか。どちらにせよ、ここの住人は重度の勉強好きらしい。息が詰まってしまいそうな空気に深呼吸をひとつ。
「明日は朝一番でほこらの巡礼に向かおうね。待ってらんないよもう」
「うん。早くに起きられるといいんだけど」
「起きなかったらあたしひとりで行くからね」
「……頑張るよ」
そんな言葉を交わしながら、二人は宿に向かう。満室だったらどうすればよいのだろう。昼間に見た巡礼者の数を考えると、まさか空き部屋がないなんてこともあり得る。そうなった場合、どこで一夜を過ごせば良いのか。考えたくもなかった。
宿は中央広場の南側に建っている。図書館と比較しても遜色ない大きさである理由は、巡礼者が多いためだろう。満室など考えられないほどの大きさに、二人は安堵の吐息を漏らした。
「早いとこ部屋取ろうよ。あたしすっごい疲れたんだから」
「わかってるってば。……でも、宿ってどうやって取ればいいんだろう」
「はあー? そんなこともわからないの? テキトーにやっても取れるって、あたしロビーで待ってるから、ちゃっちゃと手続してきてね」
あくびを漏らしながらロビーの端の椅子に腰掛けるアイ。初めてのおつかいで感じた気持ちが蘇ってくる。それはある種の恐怖心であった。足が竦んで動けない、喉に空気が詰まって声が出ない。思考回路は熱を帯び、ろくに働かない。こんな状態でアイのおつかいを達成できるか、激しく不安であった。
しかし、躊躇している暇はない。家を出るとき決めたではないか。意を決して、コールは受付へと向かった。
幸いにも野宿という事態を避けることには成功した。部屋はさほど広くはなかった。簡易的な冷蔵庫と、ゴミ箱。それに加えてベッドのそばの丸い形のテーブルと椅子。あとは衣服をかけるハンガーとフック。これだけだ。トイレと浴室は別にある。窓の外からは中央広場が見える。この部屋が二階だからか、綺麗な夜景などは望めそうになかった。
「…………コール」
アイの声は低い。張りついた笑みを浮かべる彼女に、コールは誇らしげな顔で「なに?」と聞き返した。するとアイは頭を抱えて唸る。
「どうして一部屋しか取らなかったのか、小一時間問い質したいんだけど!?」
「えっ? だって、一部屋の方が節約になるじゃない」
「それはそうだけど! 仮にも健全な男女がひとつ屋根の下で眠るなんて考えられる!?」
「なにかいけないことでもあるの?」
まるでなにもわかっていないコール。この状況がアイにとって、どれだけ危機的状況にあるか。異性が同じ部屋で、よりにもよってシングルベッドで眠るということの意味。田舎で純粋に育ったコールには到底理解できないことなのだろう。アイは途方に暮れたと言わんばかりに頭を抱えて身をよじる。
「ほんっとサイアク……怠けないで自分でやればよかったよマジで……」
「そんなに嫌だった……?」
声音が弱々しいコール。自分の過ちをおぼろげに把握して、自責の念に捕らわれているのだ。反省していることがわかるだけに、アイもこれ以上文句を言うことができなくなった。
深いため息ののち、アイはベッドのそばのテーブルを指差す。
「コールはそこで寝て。あたしがベッド。これさえ守れるなら、一緒の部屋でもいいよ」
「本当?」
「あたしの最大限の譲歩に感謝してよね」
コールにはどの辺りが譲歩なのかわからなかったが、部屋から追い出されるようなことにならなかったことが救いであった。ふとアイに視線をやると、頬が赤らんでいるように見えた。指摘しようと思った矢先、「こっち見ないでむっつりスケベ!」などと罵声を浴びせられることになろうとは思わなかったコール。なにがなんだかわからないまま、時間は過ぎていく。
気がつけば日も暮れ、窓からは黒い空と月が見え始めた。今日は満月、一片の欠損もない黄金の輝きは都市全体を不気味に照らす。今夜はなにかが起きそうだ、などと不吉なことを考えた。コールはテーブルに頬杖をつき、じっと窓の外を眺めていた。といっても目に映るのは真っ暗な空と満月、そして誰もいない中央広場。刻々と時間が流れる中、黙って月の行方を追っていた。僅かずつ傾いていく月と、ゆったり漂う雲。じっと見ているだけで時間を忘れそうになる。
ふとベッドに視線をやると、アイが寝息を立てていた。魔物との連戦で疲れが溜まっていたのだろう。それに加えて追い打ちになった図書館。ゆっくり眠って体力の回復に努めてほしいものだ。無防備な姿に触発されてか、まぶたが徐々に重くなっていくのを感じるコール。
「……そろそろ、寝た方がいいのかも?」
うつらうつらと船を漕いでいる自分に気がつき、意識を深淵に沈めることにした。
明日も早いのだ。今日はゆっくり休もう。その直後、こっくりと頭を垂れて眠りに落ちた。
程なくして聞こえてくる女性の声。アイはこれをアルマの声だと言い張っているが、コールにはまだ判断がつかなかった。というより、正確な判断など下せるわけがない。この時代を生きている人間が、アルマの肉声を聞いたことがあるはずがないからだ。女神がこの世界に降り立った時代の人間ならば判断も可能なのだろうが、転生でもしていない限りその可能性は潰えたままである。
声はなんと言っている? コールはおぼろげな意識の中で声に集中する。最初は雑音混じりでうまく聞き取れなかったが、次第に雑音が失せ、明瞭な声が聞こえてくる。
“復讐者”が訪れる。その前に、私のもとへ来て。この声が聞こえる勇者たちよ――。
“復讐者”という言葉の響きが穏やかではない。アルマに対して恨みを抱くような者が存在するのだろうか。はたとコールの脳に浮かんだのはウィルの姿。彼はアルマに対して憎悪にも似た感情を抱いている。もしかすると、ウィルがほこらを破壊しにくることを予期して、勇者たちに声をかけているのではないか。再びウィルと剣を交えるとなったとき、彼を止めることはできるだろうか。コールの中で不安が膨れ上がる。
そのとき、すさまじい地鳴りがビオーケを襲った。沈んでいた意識が無理やり引きずり出される。同様に、アイもベッドの上で飛び起きた。何事か、と窓の外を見れば、中央広場が崩壊していた。建物は半壊。コンクリートの足元はところどころ溶けており妖しい色をした煙が立ち込めている。魔物の襲撃かと考えたが、そうではない。二人は顔を見合わせる。
「“復讐者”?」
口を揃えて同じ名を出す二人。どうやらアイもアルマの声を聞いていたらしい。武器を掴み、部屋を飛び出す。
「うっ……!」
アイが口を覆う。おそらく騒ぎを聞きつけて廊下に飛び出した巡礼者たちだろう。彼らはぐったりと壁にもたれていた。中には倒れたまま動かない者もいる。暗い廊下でも見える、赤黒い色素を持った煙。そして部屋を出た途端に感じる奇妙な臭い。最初はなにかわからなかったが、すぐに理解できた。クスタ村のほこらで、不思議な少年が使った希術。その発動に際して発生した腐臭と同じだ。つまり、あの少年がいる。そして間違いなく、ウィルもいる。
この臭いと煙になんの力があるかはわからないが、ここでじっとしていては彼らの仲間入りを果たしてしまうかもしれない。そうなる前に、元凶を絶たなくてはならない。
「急ごうコール! 今度はもう負けないんだから!」
「う、うん!」
アイも襲撃者がウィルたちであることはわかっているようだ。欠けるほど歯を噛み締め、剣を握る手に力を込める。コールも腰に提げた剣の柄を撫でる。手に汗がにじむ。本当に勝てるのか? 疑問と不安は絶えずコールの胸中を渦巻く。
「迷ってられないんだ、本当は……」
小さく弱々しい声は、誰に届くこともなかった。
広場に出た二人が目にしたものは無残な中央広場であった。部屋の窓から見たよりも酷い。不快な臭いと、不気味な煙が漂うその中には、やはり動かない人々の姿があった。血を流しているわけではない、脈もあるし呼吸もある。気絶しているのだろうか。
「死んでるわけじゃないみたい」
「それならよかった。けど、これはもう……」
ただの地獄絵図だ。
ぽつりと呟く。アイは北の方へと走っていく。コールとしても早くウィルたちを見つけなければならないと考えていた。立ち止まっている暇はない。ウィルたちはおそらくほこらに向かっているはずだ。
駆け出そうとしたコールは数歩でつまずいてしまった。足首にまとわりつく、柔らかいなにか。それは人の手であったが、そこにはあるはずの温かさは存在しない。血の気だけが失せた人肌の感触が残っていた。髪の毛の長さから女性であることだけは理解できた。
「これは!?」
「コール、ちょっとやばいかもこれ……!」
コールのそばに戻ってきたアイの声は鋭いものを帯びている。周囲に視線をやれば、倒れていた人々がゆらりと立ち上がっていた。しかしその動きはどことなく不気味で、人間らしい滑らかな動きではなかった。
視線の先で背を向けていた者がぐるりとコールたちの方へ顔を向ける。その顔は部屋を取ったときにアイが見せたような歪な笑みを湛えており、皮膚はぼこぼこに陥没していた。とてもではないが、人間と呼ぶことはできない顔貌。周囲の者も皆、同じであった。コールの足を掴んでいる女性も例外ではなく、ひひひと気味の悪い笑い声をあげている。
「くっ……! 離して!」
剣を鞘に収めたまま振りかぶり、女性の腕を叩く。心が痛んだが、手は離れない。止む無く剣を抜き放ち、手首を切りつけた。人体を切り裂く不快感が刃と柄を通って全身に伝わる。ぞわりと背筋が粟立つのを感じた。しかし、切断するには至らない。
「このっ!」
直後、アイの剣が女性の腕を叩き切った。見事なまでに鋭い一太刀に、女性の腕は骨ごと真っ二つ。コールの足が自由になったが、うめき声をあげる女性の姿を見て、申し訳ないという気持ちが生まれてしまった。アイに立たせてもらわなければ、動くことなどできなかっただろう。
「急ぐよ! たぶんこいつら、殺しても死なない!」
「わ、わかってる! けど……」
放っておけない。
そう言いかけて、飲み込む。迷っていられない、寄り道もしてはいけない。たとえ目の前の人間が化け物になろうとも構ってはいられないのだ。コールは意を決して、女性を見捨てることを決めた。自分が成さなければならないことを再認識する。
「くそっ……情けない」
自分の甘さに嫌気が差す。しかしネガティブに浸る時間はない。先を急がなければ、取り返しがつかなくなる。
生きた死体とでも呼べば良いのか、呼称に困る巡礼者や住人には目もくれずにただひたすら北のほこらを目指す。頭上から迫る殺気に気づけたのは、運が良かったからか。それとも二度目だからか。コールは横に倒れることで回避する。コールが走り続けていたら串刺しにしていたであろう、細身の剣が突き刺さっていた。それがウィルのものであると判断するのに時間は要らなかった。アイとコール、二人の間にウィル・ティエルが着地する。
ウィルの姿を確認するや否や、剣を抜き戦闘の構えを取るアイ。その口元には激しい敵意が窺える。隙あらば喉笛を掻っ捌いてやろうという魂胆が見え見えだ。ウィルはというと、アイのことなど意にも介さずコールをじっと見つめた。その瞳には憐憫だけが映っており、かつて見せた温かな光はどこにもない。
「兄さん、俺は警告したはずだ。あの女に関わるなら、手加減ができなくなると。いまのは最後の情けだと思ってくれ。次は……」
剣を地面から抜き、コールの喉元に突きつける。そこに躊躇がないことくらい、平和ボケした生活を送っていたコールにもわかった。そして、これ以上ウィルの警告を無視するのなら、どうなるのかもわかる。
「あたしは眼中にないっての!? 答えなさい!」
ここまで無視され続けたアイが吠える。ウィルは目を向けることもなく冷ややかに告げる。
「眼中にない。俺にとっての第一は兄さんだ。相手をしてほしければ、兄さんのあとになる。あるいは……俺の邪魔をするなら、先に相手をしてやっても構わない」
悪寒が背中を撫でる。ウィルから発せられる殺気に、コールもアイも言葉が出てこなかった。しかしアイは虚勢を張り続ける。
「あっそう! それならそうさせてもらおうかなあ! 負けっぱなしは趣味じゃないからさ!」
その言葉と共にアイが踏み込む。剣を大上段から振るった。体重の乗った重たい一撃はウィルに防御を余儀なくし、アイに攻勢の流れを呼び寄せる。さらにもう一撃、今度は胴を断つ横薙ぎの斬撃。ウィルは後方に飛び、致命傷を回避する。それでも軽鎧を傷つける程度のダメージは与えた。さらに追撃。左手をかざし、赤い円陣が展開される。希術による攻撃だ。
「『燃え上がれ猛き意志、焼き尽くせ緋(あか)き珠(たま)! 具現せよ我が掌中、全てを無に帰す原始の炎! あたしは希う!』」
詠唱が長い。強力な希術を使うことは明白であった。ウィルが気づかないわけがない、着地と同時、詠唱を妨害せんと駆け出す。だが、一歩遅かった。アイがにやりと不敵な笑みを浮かべたのと同時、陣が弾け飛ぶ。
「“掌中の炎星(プロミネンスパルム)”!」
アイの左手に真っ赤な光が生まれる。剣が突き出される。切っ先がアイの手のひらを貫かんとした瞬間、炎の球体が発生した。周囲の大気を瞬く間に熱するすさまじい高温に、ウィルの剣はあっという間に溶けた。
「なんだと……!」
「爆ぜろおおおおおっ!」
アイの咆哮が響く。すると掌中の炎球が爆発した。すさまじい熱波が押し寄せる。コールはたまらず顔を覆い、肌が焦げるほどの熱に耐える。中心にいた二人は無事ではすまないだろう。熱が冷めていくのを感じ、二人の安否を確認する。
服はところどころ溶け、おびただしい火傷の痕を残した二人がいた。倒れてはいない。しかし動かない。生きているか、死んでいるか。判断できなかったが、やがて同時に膝をついた。命があるだけ奇跡。だというのに、二人とも剣を手放してはいなかった。
「驚いたよ……女。あそこまで、強力な力を扱える、希術師……だったとはな」
「へっへえ、ざまあないよね……剣、捨てても、いいんだよ?」
「冗談は、下手くそだな。俺は、まだやれる……!」
ウィルはふらふらと立ち上がり、細剣をアイの額に突きつける。腕を引き、脳天を貫く構えを取った。
「死ね!」
「うあああああっ!」
情けない叫び声であった。当然、太刀筋も甘い。だからウィルの腕を切り落とすには至らなかった。しかしコールの一太刀は腕の腱を損傷させることに成功し、確実にアイを救った。まさか兄に切られるとは思っていなかったウィルは驚愕の色を瞳に映し、再びくずおれた。
「もう、やめようよ……こんなことして、なにになるっていうのさ!」
コールの叫びは悲痛なものだった。戦いたくない、争いたくない。誰も傷ついてほしくない。甘いと言われて然るべきである。しかしアイもウィルも、ただ黙ってコールを見つめていた。罵ることもせず、嘲笑うこともせず。
「嫌だ嫌だ嫌だ! どうして好きな人を相手に剣を向けなきゃならないの!? なんで殺し合わないといけないの!? 命懸けの兄弟喧嘩なんて冗談じゃない!」
やがてコールは膝を折る。口から出てくるのは意味を含まない音ばかり。アイが立ち上がり、二人に背を向ける。
「それならそこで泣き崩れてればいいよ……あたしは、先に行く。勇者が、こんなところで死んでられないっしょ……」
ろくに歩けもしないはずだった。しかしアイは止まらない。一歩ずつ、たしかにほこらへと歩みを進めた。残されるのは、決別したはずの兄弟だけ。むせび泣くコールを見て、ウィルは乾いた笑い声をあげた。
「……覚悟もないくせに、どうして俺を切りつけた?」
その問いかけに答える余裕はなかった。
ただ、あのままではウィルがアイを殺す。目の前で、大切な家族が命を奪う。そんなのはごめんだと。ただそれだけであった。
ウィルはふっと笑みを浮かべ、一言零す。
「……じゃあな、兄さん」
倒れるウィル。それから彼が動くことはなかった。
コールは迷った。アイを追いかけるか、ここに留まり続けるか。どちらを選んだところで、きっとほこらはあの少年に破壊される。そしておそらく、アイは殺される。アイが敵わない相手に立ち向かって生き残る確率など、火を見るより明らか。それならばこのまま立ち上がることなくへたり込んでいればいい。
そう思った矢先、中央広場の方からおびただしい数の足音が迫ってくる。おそらく、生きた屍と化した人々だろう。ここでじっとしていれば、彼らの仲間入りを果たしてしまう。根拠もなくそう判断したコールは、たまらず走り出していた。結局のところ、自分がなにをしたいのかが自分自身にもわからない。ただ、死にたくないという漠然とした感情だけがコールを突き動かしていた。
向かう先は“アルマのほこら”。途中で倒れていなければ、アイが。そしてその先には不思議な少年がいるだろう。そして、戦うことになる。そうなったとき、満身創痍のアイとコールの二人だけで少年を相手取れるか、という話になってくる。ほこらを一撃で粉砕するほどの希術が脳裏をよぎる。勝てる見込みなど存在しない。そう思わせるほどの絶望感が、あの少年からは感じられた。
死にたくないのに、どうして自ら死へ迫るような真似をしているのか。ただの一時凌ぎでしかないことくらい、わかっていた。ならば、どんな目的があって動いているのか。
いま、自分が心から成したいこととは。自問しても答えられない。中途半端な気持ちで動いていることが情けなくなってくる。アイのように目的を持てていれば、ウィルのように確固とした感情に従えれば。後悔ばかりが募る。
ほこらに向かう道中にも生きた屍と遭遇した。戦うことはせず、逃げ続ける。アイは言っていた。殺しても死なないと。ならば戦うだけ無駄、アイのもとへ急ぐことが先決だ。屋台の陰から飛びかかってくる、建物の中から助けを求めるように迫ってくる。それらをすべて振り切り、体力の続く限り走り続けた。
やがてほこらに辿り着く。そこには兵士と戦闘するアイの姿があった。当然、兵士も生きた屍と化している。その証拠に、アイの剣が腕を切り落としても残っている腕で平然と剣を振るっているからだ。
「アイ!」
コールの声に反応したアイ。その一瞬を敵は逃さなかった。横薙ぎに振るわれた剣はアイの胴を深く切り裂く。
「ぐっ……! くそぉっ!」
剣を振るい、兵士の首を刎ね飛ばす。頭が離れても敵は動くが、よたよたと頭の方へと歩いていく。いまにも転んでしまいそうな兵士。頭部が離れると平衡感覚が鈍るらしい。いまが好機とアイのそばへ駆け寄る。跪くアイは息も絶え絶えで、生きていることが不思議なほど疲弊している。
「なんで、来たわけ? あそこで泣いてれば良かったじゃん……」
「……わかんない。ただ、僕はこんなところで死にたくない」
「死にに行くようなもんじゃん……」
「僕にもわかんないんだよ、どれが正しい道なのかなんて! 全ッ然わかんない! どうしたらいいのさ! どうしたらみんな死なずにすむのか、まったくわかんないんだ!」
やけになって怒鳴ってしまうコール。
そうこうしている間に、兵士は頭を胴体の上に乗せる。するとどういうわけか、しっかり接合してしまう。平衡感覚の戻ってきた隻腕の兵士は二人のもとへ歩み寄ってくる。コールは剣を構えるが、そこには慎重さの欠片もない。いろいろなことが起こりすぎたために、無謀になっているだけだ。
「『――……、“爆ぜる火の粉(バーンパウダー)”』」
兵士のそばに赤い粉が舞う。兵士に触れると激しく燃え上がった。兵士は生命活動を維持できなくなったのか、倒れたまま動かなくなってしまった。
「アイ……?」
「あーあ、嘘でしょ……」
残念そうに呟くアイ。その声がコールに嫌な予感を抱かせた。直後、アイはうつ伏せに倒れた。慌てて駆け寄るコール。
「ちょ、ちょっとアイ!?」
「いまので限界、もう無理っぽい……勇者なのに、だっさいなあ……」
「限界……? 無理ってなに?」
アイが言いたいことはわかっている。認めたくなくて、聞き返したのだ。それがコールにとどめを刺すことなど想像せず。
笑うアイ。ヒューヒューと息を漏らしながら笑い、時折激しく咳き込む。
「だからさあ……もう駄目なんだって。死ぬの。言わせないでよ、ね……」
「死ぬ……死ぬ?」
ウィルに続いて、アイも死ぬ?
ひとり残されるという事実を想像し、コールは背筋が凍るのを感じた。いっそこのまま、二人を追いかけるように死んでしまおうか。刀身を自分の頸動脈に押し当てる。しかし、手は動かない。怖いと感じてしまったのだ。結局、なにをすることもできない。臆病で中途半端な自分が憎くて仕方がなかった。
自分でできないのならば。そう決心し、ほこらへ向かって全力で走る。形振り構わず、溢れ出る恐怖に抗うように、意味のない音を口から発し続ける。生きた屍の姿はない。魔物の姿もない。ほこらまでは誰にも邪魔されることはなかった。
純白の“アルマのほこら”はクスタのものよりも大きかった。清掃や整備が行き届いているらしく、古臭さは感じない。むしろ神々しさや神聖さの方が強い。拝むことすらおこがましい佇まいのほこらを睨みつける、ひとりの少年がいた。クスタのほこらのときと同じく、頭を掻き毟り、うめき声をあげている。
「はっ、あああっ……! ぐ、ううう!」
コールは近寄り、剣を少年の背中に突きつける。
「壊すんでしょう!? その前に、僕がきみを殺す!」
もちろん、殺すつもりはない。こう言えば、少年はコールに意識を向けざるを得ない。そして、あの強大な希術によりコールを亡き者にするだろう。それこそが目的であった。自ら命を絶てないならば、圧倒的な力の前に散る。最も確実で、最も楽な最期であるとコールは考えた。
案の定、少年の視線がコールに向く。暗い眼光がコールを射抜く。途端、足は竦み腕からは力が抜けた。剣が地面に落ちる。丸腰となったコールは、無意識にしりもちをついていた。少年は乱れた呼吸のまま、コールに向けて左手をかざす。濃紫色の円陣が展開する。
「『命を刈り取れ、禍津日(まがつひ)の鎌。安息なき冥府へと誘え、慈悲なき一振り死を刻む。俺は希う――“冥府への手引き(ハーデスガイド)”!』」
陣が弾け飛び、少年の手に闇色の光が生まれる。それは凶悪な大鎌の形を取った。それを掴み、腰溜めに構える。
「俺の邪魔を……するなぁっ!」
瞬きひとつ。コールの視界が激しくぶれた。空と地面が交互に映る。直後、視界は黒に染まり、意識も絶たれる。
あっけない終わりであった。そう思う間もなく、胴体が地に伏す。刎ねられた頭部も少年の足元に転がる。目は驚いたように見開かれたままだ。少年を止める者はいない。間も無くほこらは破壊される。少年は左手をほこらにかざし、希術の詠唱を開始した……。
――私はこの結末を望まない。
かすむ意識の中で、女性の声を聞く。それはアルマのものであった。アルマの声以外が不明瞭な中、コールは幾つかの疑問を抱いた。
ひとつ。いまの声はなにを示しているのだろう?
ふたつ。自分は死んだはずではなかったか?
みっつ。死後の世界に五感と意識を持ち越せるものなのか?
状況の把握に時間がかかる。そもそも世界は真っ暗闇で、自分の姿さえ見えない。そんな中、アルマの声だけが鮮明に聞こえた。
――歴史は私の望むままにつづられる。
それが本当ならば人類の行く末は、まさしく“神の思し召し”。アルマが描く最高のシナリオを人類が即興で演じている、とでも言うのが適当か。アルマの意向に沿わない演技や展開はどうなるのだろう。それが最初の声に繋がってくるのだろうか。
コールが独自の見解を進めていると、再び声が聞こえてくる。
――私の勇者たちよ。歴史を修正するのだ。あなたたちにはその力がある。
どこからともなく聞こえてくる時計の音。コチ、コチと時間を刻むそれの間隔が狭まる。その音は徐々に加速していき、真っ暗だった世界に色が戻ってくる。景色は急流に流されたかのように移ろい、音は逆再生していく。そうして辿り着いた世界で――。
第三章:過ちと真実
「――旅の者なんだけど、中に入れてくれない?」
最初に聞こえたのはアイの声であった。先ほど、最期を迎えた少女の声が聞こえる。これが死後の世界か、とコールは思った。まぶたを開く彼の視界に映ったものは、ビオーケの巨大な門扉
「……は?」
困惑した面持ちで空を見上げる。清々しいほどの青空が広がっていた。雲ひとつない、爽やかな空。見覚えがあった。なぜなら数時間前、同じ場所を訪れ、同じ言葉を聞いたからである。それだけではない。アイの身体には傷ひとつついていない。先ほどの地獄絵図が嘘であるかのようにぴんぴんしている。
巨大な門番が扉を開く。ずしんと重たい音が空気を震わせた。このシチュエーションにも覚えがある。アイはくるりとコールを見やり、小馬鹿にしたような顔で笑った。
「これだから田舎者は」
そう告げて、門を潜るアイ。なにが起こっているのか、コールには理解できなかった。これは死後の世界なのか、だとしたらどうして現世と同じものが存在しているのか。疑問は尽きない。足を止めたままのコールに、門番は低い声で告げる。
「早く入ってくれ。あまり長く開けていると、魔物が入ってくるかもしれない」
「あ、あの! 僕たち、さっきもここに来ましたよね……?」
「は? なにを言っているんだ? 俺はあんたらを初めて見たぞ」
「は……? え? どういうこと……」
「コール! 早くしないと置いていっちゃうよ!?」
しびれを切らしたアイが叫ぶ。どうしていいかわからずにうろたえているコール。門番はその襟をむんずと掴み、門の中へ乱暴に投げた。着地に失敗したコールは背中をしたたかに打ちつける。「悪く思わないでくれよ!」とだけ言い残して、重たい門が閉じられる。慌てて起き上がるコール。アイの肩を掴み、必死の形相で問い詰める。
「アイ! 大丈夫!? 生きてるの!? 怪我は!?」
「はあ!? ちょ、ちょちょちょ落ち着いてって! 怪我ってなに!? 生きてるってどういうこと!? あたしは大丈夫、大丈夫だから! きみが大丈夫じゃないじゃん!」
突然の質問攻めに、今度はアイが困惑する番であった。取り乱したコールに揺さぶられながら、何度も無事を訴える。ようやく落ち着いたらしく、アイの肩から手を離す。自分の身体も触ってみるが、特に怪我をした覚えがなかったため夢か現かの確認ができなかった。
「……夢?」
だとしたら、いったいどこからか。眠りについたのは宿についてから。ならば、現実に戻ったときは宿にいるはずなのだ。これではまるで、ビオーケに入るより以前まで時間が巻き戻ったかのようだ。
「大丈夫?」
心配そうなアイの声。返事をする余裕すらないコールは左頬をさすった。
「アイ」
「どしたの?」
「僕を殴って」
「せえええええいっ!」
一切の躊躇なく繰り出される拳。左頬を的確に捉えた一撃はコールを門まで吹き飛ばす。背中は痛い。左頬はもっと痛い。死後の世界に感覚を持ち越せるとは思わなかった。
「……すごくリアルな痛みだ」
「そりゃそうでしょ、現実なんだから」
「えっ? ここって死後の世界じゃないの?」
「きみ、いつの間に死んだのさ……? ずっと一緒だったし、弱い魔物としか戦ってこなかったんだから。死ぬはずないでしょ?」
謎はますます深まる。死後の世界ではないのだとしたら、本当に時間が巻き戻っていることになる。あの惨劇はなかったことになっているはずだ。事実、ビオーケは研究に生涯を捧げているような研究者や学生の姿で溢れかえっている。
本当に時間が巻き戻っているとは考えにくい。ならばこの現象をどう説明すれば良いのか、コールにはわからない。
「戦い疲れてボケちゃった?」
「……そういうことにした方が都合がいいかも」
「なにそれ。ま、いいけどね。ほら、早くほこらに行こうよ」
アイは歩き出す。ほこらの場所を知っているのだろうか。だとしたら、アイも惨劇に関連した記憶、具体的にはビオーケに到着してからの記憶が存在していることになる。しかし本人は覚えていない。それが余計に不可解で、コールの疑問をさらに膨らませる結果となった。
立ち止まっていても仕方がない。道を知らないはずなのに先走るアイを追いかけることにした。
「アイ、待って。道、わかるの?」
「適当に歩いても着くって、大丈夫大丈夫」
「急ごうよ。ふらふらしてる場合じゃないんだ。早くほこらに行かないと、僕たちが死んじゃう!」
コールの声は大きく、周囲から視線を集めることとなった。ここで殺人事件でも起こるというのか、と嘲笑う者が大多数。残りの少数派、そもそもコールの声に関心を向けていない者たちだ。
アイの足が止まった。なにを言うか予想はつかない。直後、アイは笑った。大多数の人間と同様、嘲笑であった。振り返るアイの目尻からは滴が垂れようとしている。
「あっはっは……あたしたちが死ぬって? なにその冗談、笑えないはずなのに笑っちゃったよ」
「本当なんだ! ウィルとあの子がここを滅茶苦茶にして、ほこらを破壊するんだよ! 研究者と学生たちはみんな生きた屍みたいになって、最終的には僕も、アイも死ぬ! 信じてよ!」
「根拠は?」
短い言葉であったが、最も効果的な一言であった。根拠など「実際にそうなったから」としか言えない。ところがアイはその事実を覚えていない。つまり、現段階では説得する方法が皆無なのだ。
アイは言葉を失うコールの肩に手を置いた。その顔には僅かな嘲りが窺える。
「疲れたのはわかるし、自信がなくなってるのもわかるよコール。でもね、あたしは死なないから。アルマの勇者があんなやつらにやられてたまるかって話ね」
「それとこれとは話が別なんだってば!」
「わかったわかった。あとでゆっくり話聞くよ。でもいまはさ、ほこらに急ごう?」
アイを説得できない。つまり、またあの惨劇が繰り返される。それだけは嫌だった。しかし、どうすればあの結末を回避できるか。すぐに結論は出せなかった。それならば動きながら考える方が有意義だ。コールはアイをほこらに案内することを決めた。
中央広場に到着して、最初に見たのは図書館であった。世界の核心に触れたと思しき「無限世界アンデリーチェとは」と「女神と四つの剣」という二冊。時間を作って読みに行きたいものだ。
図書館をじっと見つめているコールが気になったらしい、アイは地図をひったくった。地図と建物を照らし合わせて、コールが見ているのが図書館であることを確認すると露骨な嫌悪感を露わにした。
「うげえっ……この建物全体に本があんの?」
「すごい蔵書だったよ」
「って、コールはここに来るの初めてだったんじゃないの?」
しまった、とコールは額に手を置いた。アイはここを訪れた記憶がないのだ。コールがビオーケで体験していることを、アイはしていない。つまり、知識の共有も難しい。ひとまず、アイの質問に答えることだ。
「……って、ウィルがたまに話してくれたんだ」
咄嗟に出てきた言い訳だけに、少しばかり無理があるように聞こえる。しかしアイは「ウィル」という単語にだけ反応を示した。ふん、と鼻を鳴らす。表情は不機嫌そうだ。
「コール、まだ吹っ切れてないんでしょ。あいつは敵、あたしらが倒すべき相手なの。……あたしについてきたんだから、その辺も覚悟してよね」
「……わかってる」
コールの手には、ウィルを切りつけた感覚が残っている。そこまで深い一撃ではなかったが、たしかに肉を断つ感触を味わってしまった。もう戻れない、迷うことは許されない。次に会ったときは、本気で切り結ばなければならない。手は自然と柄を握っていた。
「で、コールは図書館に興味あり?」
「うん。ちょっと読みたい本があって」
「そんじゃあ、あたしほこらに行ってていい?」
別行動を提案するアイ。ひとりで行かせたらどうなることやら。また「アルマの勇者だから早く通して」などと言うのであれば、別行動は避けるべきだろう。しかしアイがひとりで向かった場合はどのような変化が起こるのか、興味はあった。悩んだ末、ひとつの条件を課すこととする。
「約束してほしいんだけど。ひとりでアルマに会いに行かないで。それさえ守れるなら、ひとりで行ってもいいよ」
「なに、まさか寂しいの?」
「うん、寂しい。だから、行くときは一緒の方がいい」
こうでも言わないと、アイは考えない。それがわかっていたから、心にもないことも平気で言えるのだ。やはりアイはコールの発言が予想外だったようだ。微かではあったが、瞳に動揺を映した。
「そ、そこまで言うなら仕方ないよね……遠巻きに見るだけにしておくよ。これでいいんでしょ?」
「そうしてほしい。ごめんね、ありがとう」
ほこらを見に行ったアイの背中を見送り、図書館へ向かう。やはり中は広大だが、一度来たという経験がものを言い、お目当ての二冊はすぐに見つかった。適当な机に本を置き、最初に開いたのは「無限世界アンデリーチェとは」という本。世界の仕組みについて触れている作品であることも知っている。いま、コールが知りたいのは著者のパーソナルな部分であった。彼は如何にしてこの世界の謎を解き明かし、ここに記したのか。そればかりが気になった。
世界そのものに施された希術。そこに気がついたきっかけとは。また、その後どうなったのか。コールは熱心に本を読み進める。
希術については詳細に語られていなかったものの、大雑把に言ってしまえば一本の道だ。世界はこのような道を辿って現在に至り、未来へと行く。そうした、ある種の筋書きこそがこの無限世界に施された希術なのだという。そして、その仕組みに気がついたきっかけというのが、彼の息子が死に瀕したことらしい。彼には二人の子供がおり、その片方がまだ自分の足で立つこともできない頃の話だ。村が魔物の襲撃に遭ったらしい。その結果、魔物の牙が子供の腹を食い破った。その瞬間であった。時間が逆流し村を出る直前まで戻ったそうだ。目の前ではらわたを食われた息子は元気に笑っており、村も安穏とした空気を漂わせるばかり。息子の死がなかったことになったのだ。
それから彼は、世界の謎に気がついた。家庭を顧みずに独自に研究を進め、挙句は息子たちの世話を妻に任せ、単身ビオーケに移り住んだそうだ。もちろん、自分の体験が世界の謎を解き明かす鍵になると信じて。
その結果がこの本なのだろうが、内容はいまひとつ正確性に欠けた。同じ体験をしていなければ、鼻で笑っていただろう。時間が巻き戻るなど、現実味がなさすぎる。しかも、世界そのものに効果を発揮するなど、規模が桁違いだ。コールでさえ半信半疑なのだから、信じろという方が無理な話である。
「……世界中が効果対象の希術。一本の道、か」
なぜ希術の詳細について触れなかったのか。それは単に掴みきれていなかったからか、それとも明言してしまうことで大変な事態を引き起こしてしまうと恐れたからか。なんにせよ、興味津々で読んだ身としては消化不良というのが本音である。
続いて「女神と四つの剣」に移る。これは以前読んだままの内容だ。アルマが地上に降り立った際に生まれた四人の剣士。地水火風を司る彼らの中のひとりが裏切り、アルマを殺害。その後、裏切りの剣士も殺され、残った三人は各地にほこらを建設。彼らの死後、アルマ教が設立された。この中に特筆すべき内容など――。
「……いや、待てよ」
裏切りの剣士について、コールは疑問を抱いていた。アルマによって生み出された人間が、どうしてアルマをその手にかけたのか。その理由は記されていない。これもまた憶測でしかないが、コールはある仮説を立てる。
――もし、裏切りの剣士がアルマに大切ななにかを奪われたのだとしたら? 使命よりも大切なものがなくなってしまったのならば、裏切るに値する理由になるかもしれない。だとしたら、裏切りの剣士が失ったものとは? 再び読み返し、四人の剣士について記されている項目を発見する。そこには、ことの真相がはっきりと描かれていた。
「これは――」
――一方その頃。
ほこらに向かったアイはげんなりとした表情を見せていた。中央広場から繋がる橋の上、そこから続く百人はゆうに超えているだろう長蛇の列。さらに先には巨大な鳥居。列を成す者はほぼ巡礼者と見て間違いないだろう。ビオーケのほこらは規模が大きく、毎年多くの巡礼者が訪れるという話は聞いたことがある。多数の巡礼者が訪れるタイミングにたまたま出くわしてしまったのだろう、運が悪かった。アイは頭の後ろで手を組んで、気怠そうにあくびを漏らした。
「今日は無理っぽいかも? ちぇっ、あたしはアルマの勇者なのに。コールが釘刺すから……」
ひとりで行かれると寂しい、と彼は言った。聞けば、もう一七にもなるらしい。ひとりが寂しい、などと言って通用する年齢ではない。だが、絶対にアイをひとりで行かせないという強い意志は窺えた。とてもではないが、言葉通りとは思えない。あれは口実、でまかせだ。あの言葉の裏になにかある。そう思わせる迫力があった。
「……まあ、ここは素直に帰っておこうか。あとでねちねち言われるのも面倒臭いし」
くるりと踵を返す。そのとき、何者かと肩がぶつかった。謝ろうと背中を追ったが、相手は特に気にした様子もなくほこらの方へと向かっていく。その背中はずいぶんと小さく、十代前半から半ば、それくらい幼いものに見えた。金色の髪はほとんど手入れが行き届いていないのかぼさぼさで、綺麗な色なのにみすぼらしく見えた。やがてその背中が風景に溶けるように消えたことに、アイは遅れて気がついた。
「……!? いまの、なに……?」
何度も目をこすって確認した。そこにあったはずの小さな背中が、いつの間にか消えていた。まるで最初から存在していなかったかのうように、忽然と消えたのだ。見間違いかと思ったが、肩が触れた感触は残っている。不思議な感覚だ。
考えても答えが見つからないのならば、考えるだけ無駄。頭を使うのはあまり得意ではないのだ。
ひとまずコールと合流することが先決。アイは小走りで図書館へ向かった。
向かいからローブをまとった人間が駆けてくる。フードをかぶっており顔は見えないが、なにか探しているのだろう。その足取りから慌てていることが想像できた。ここで声をかけて一緒に探し物をするほどお人好しではない。アイはさして気にも留めずに走り続けた。
すれ違いざま、ほんの僅かな時間で、アイは背筋が凍るのを感じた。 ほんの一瞬だけ向けられた気配が、あまりにも鋭いものだったから。それは紛れもない殺気であった。見ず知らずの人間に殺気を向けられる覚えは、アイにはない。あのローブが何者か、という疑問は浮かばなかった。なぜなら、あのフードの奥の顔が克明に描けていたからである。
「油断してただけなんだからね」
呟くアイの瞳には、炎の如く強い光が灯っていた。
「コールー? いるー?」
「女神と四つの剣」を読み込んでいると、間の抜けた声が静まり返った館内に響き渡った。びくりと肩を跳ねさせ、ため息をひとつ。当然、アイの声である。どうやらほこらから戻ってきたらしい。マナーの悪さに眉をひそめつつ、手元の二冊を棚に戻してアイと合流する。名前を呼んだままうろちょろするものだから、周囲の視線が痛ましいものであったのは言うまでもない。
「館内では静かに。田舎者でも知ってるマナーだと思うんだけど」
「はいはい、ごめんなさいね。……とりあえず出よっか。頭痛くなってくるよ」
苦しそうにうめくアイ。本に埋め尽くされた空間が耐え難いというのは変わっていないようだ。アイ本人の性質だからだろうか。なんにせよ、ここを出なければ話が進まない。深く考えることはせず、足早に図書館を去る。
中央広場のベンチに腰掛ける二人。アイの手には露店で買ったアイスクリームが握られていた。無駄な出費は避けた方が良いのでは、と思ったコールだがアイになにを言っても響かないことは知っている。諦めて、アイに尋ねる。
「ほこらの近くまでは行けたの?」
「んーにゃ、すごい行列でまともに進めなかった。最初は並ぼうかって思ったけど、あまりにも時間かかりそうだったから抜けてきちゃった」
「……と、なると。手段はひとつだけかな」
自分らしくない考えだ、とコールは思った。だがいまは手段を選んでいる場合ではない。静かに、あだが強い意志を込めて提案する。
「侵入しよう」
やはりと言うべきか、アイは意外そうに目を見開いた。周囲を気にしてか、小声で問い返す。コールもつられて顔を寄せ、耳を傾ける。
「どうしちゃったの、そんなワイルドな提案して?」
「時間がないんだ。早くアルマに会わないと大変なことになる。さっきからずっと言ってるでしょ?」
ここにきてようやくコールの真剣さが伝わったのか、アイの表情が微かに引き締まる。まだ完全に信用しているわけではないが、僅かにでもアイの心を動かす一言であった。そして、にやりと不敵な笑みを浮かべる。悪巧みをする悪党の顔だ。
「勇者らしく堂々と行くべきだと思ってたけど、侵入ってのもスリルがあって面白そうだね」
「遊びじゃないんだよ? ふざける余裕なんて……」
「わかってるって。つまり、真剣に楽しめばいいんでしょ?」
言い方の問題ではあるが、真剣に取り組むのであればそれでも良い。アイの姿勢に若干の不安を覚えながらも、計画の実行を決心した。
「でも、侵入するならまだちょっと明るいか」
コールは空を見上げる。日が傾き始めているものの、まだ空は青い。実行は日が暮れてからにした方が良さそうだ。コールも地図と睨み合い、侵入ルートを考え出さなければならない。あとに時間も経てば頃合いだろう。
「一旦宿を取ろう。ゆっくり考えたい」
「考えるってなにを?」
きょとんと目を丸くするアイ。侵入経路や時間帯など、考えることはいくらでもある。そう答えたところ、再び笑う。その顔はやはりあくどいもので、続く言葉が恐ろしいものに思えた。手段を選んでいられないのはたしかだが、冷静に話し合いたかった。
「こういうときに使わないで、なんのための希術だと思ってるわけ?」
「ちょ、ちょっとアイ……焼き払おうなんて考えないでよ!?」
「きみの中であたしってどんな認識なのさ……なにも相手を傷つけるだけが希術じゃないんだよ」
アイに手を引かれ、ほこらに向かう。道中で研究者たちが好奇な目を向けては不愉快そうに唾を吐いたり舌打ちしたりと、あらゆる負を集めてしまったことに当人たちは気がつかない。
橋に到着した二人。長蛇の列は遅々として動かない。まだ点いていない街灯の下、アイはほこらをじっと見つめていた。なにをする気かわかっていないコールの視線は不安げに彼女とほこらを往復している。ふと、アイが空を見上げた。空が青から茜色に染まり始める。「頃合いかな」と呟くアイの左手に、赤い円陣が展開する。いよいよ不安になったコールが、小声で問い詰めた。
「乱暴なやり方じゃないよね?」
「大丈夫だって。心配しないで」
右手の親指を力強く立てるアイ。なおのこと心配になってきたコールをよそに詠唱が始まる。
「『光捻じ曲げ、真実揺らぐ。消え行くは揺らめきの中。あたしは希う――“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”』」
陣が弾け、二人の周囲を薄い赤色の膜が覆った。たしかに攻撃の希術ではなかったが、この膜になんの効果があるかはわからなかった。
「あたしから離れないで、ぴったりくっついて歩いて」
その声は小さく、人込みの中では聞き取ることが難しかった。
「なんだって? よく聞こえないよ」
コールの声に反応した近くの巡礼者がこちらを見やる。巡礼者は困惑したように首を傾げ、すぐにほこらの方へと視線を戻した。不思議な反応にコールも首を傾げていると、アイがちょいちょいと服の袖を引っ張る。コールは耳を寄せ、アイの声を聞き取ることに集中した。
「“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”はあたしを中心にごく近い範囲にある物体を見えなくする希術なの。光の屈折率を操作する希術なんだけど、あんまり難しい話したら頭こんがらがるから、単純に透明になる、ってことで納得して?」
「でも、声は聞こえるんじゃないの?」
「そりゃそうだよ。あくまで見えなくなるだけなんだから。足音も鼻息も鼓動も聞こえる。だから、注意してねってこと。あと、効果時間もそう長くないから。納得したら、さっさと歩く。あたしから離れないようにね」
……そうは言うけど、これは。
コールの腕はアイの右手に巻き付き、ほとんど密着状態。鼓動が早まる。アイはそれに気がついているだろうか。顔を見るも、表情は読めない。妙に強張っているように見えるが、そこになにかしらの感情を見つけることができなかった。
賑わいともざわめきとも取れる音の中を、息を飲んで歩き続ける。希術の効果がいつ切れるかわからない。それだけに足が急ぐ。足音が聞こえてしまうことが憎い。不自然な足音が聞こえれば、当然怪しむ人が出てくる。そうなってしまえばこの作戦は失敗に終わる。それだけは避けたいところであった。
「……さて。最難関、だね」
アイが額に汗を滲ませて呟く。最前列までは辿り着いた。問題は目の前。アリーダ王国軍の兵士が受付をしており、巡礼者を一組ずつ鳥居の奥へと通していくのだが、あまり接近しすぎれば“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”の効果範囲に巡礼者を巻き込んでしまう。そうなってしまえば兵士は嫌でも周囲を警戒する。計画は破綻するだろう。しかしあまりじっくり待ち続けていても、希術の効果が切れてしまうかもしれない。そうなった場合は、なんのことはない。あの惨劇が繰り返されるだけだ。
「アイ……慎重になるのはわかるけど、大胆に行くしかないよ」
「無茶言わないでよね。コール、急がば回れ。知らないの?」
「それもそうだけど……」
こんな口論も無駄な時間なのだ。急がなければならない。そんな思いがコールの胸をじりじりと焦がす。その結果、コールはアイを押し倒していた。強かに背中を打ちつければ、否応なしに声が出る。
「痛ぁっ!?」
周囲の巡礼者と兵士たちはどこからともなく聞こえてきた声にびくりと反応する。視線が越えのした方に集中し、しんと静まり返る中、兵士が訝しげに鳥居の前を離れる。徐々に近づいてくる兵士の横を、二人は四つん這いで通り過ぎて行った。誰もいなくなった場所できょろきょろと視線をさまよわせる兵士。ある程度鳥居に近づいたところで二人は立ち上がり、極力足音を立てないように鳥居の先へと進んだ。
背後で兵士が巡礼者たちに「参拝は中止」と告げていた。雑踏が遠ざかる。兵士は不思議そうに首を傾げながら詰所に戻っていく。これで背後を心配する必要はなくなった。安堵のため息を漏らしたところで“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”が効果を失う。
アイの拳がコールの頬を打った。
「きみねえ、あのままばれたらどうするつもりだったのさ?」
半眼で睨まれる。当然と言えば当然なのだが、コールにも言い分はある。
「結果的に成功したんだから良かったじゃないか……」
「結果論じゃんそんなの」
「……なんと言われても仕方ないよね。でも、最優先するべきことはほこらに辿り着くことなんだ。どんな手段を使っても。だから、謝らないよ」
頑として悪びれる様子のないコールに、アイも気力を削がれたらしい。深いため息を吐いて、ほこらの方を見やる。
「そこまで言うなら謝らなくていいや、もう……早くアルマのところに行こう?」
憮然とした口調だった。心が痛んだが、ひとつの結末を知っている以上、自分の心情など些末な問題だ。心を強く持たなければならない。
アイが歩みを進めた途端、こめかみを押さえる。何事かと思ったが、すぐにコールも同じ行動を取った。声が聞こえてきたのだ。いままでよりも距離が近いせいか、痛みも強い。
――私の勇者たちよ、早く来て。“復讐者”が訪れる前に。
「“復讐者”?」
声が止んだところで、アイが不思議そうにその名を出す。
「ウィルのことだよ」
コールは確信していた。ヒントは「女神と四つの剣」の中にあったのだ。明言するコールに、アイは怪訝な眼差しを向ける。
「本当、どうしたの? なんか、ちょっと頼もしくなった? 魔物一匹ひとりで倒せないのに」
「それに関しては返す言葉がないけど……僕は、きっと普通じゃないんだ」
「はあー? まあ、コールもアルマの声聞いてるしねえ。普通の人ではないのかも」
うまい説明の仕方が思いつかず、適当なことを言っただけだった。アイは無理やり納得してみせ、歩き始める。その道中で、コールの言葉を掘り下げる。
「で、ウィルが“復讐者”ってのは? どうしてそう思うわけ?」
「……アルマは、一度この世界に降り立っている。アルマはそのときに備えて、四人の剣士を生み出していたんだ。普通の人間となんら変わらない生活や環境を用意してね。その後、彼らを護衛として旅のお供にするんだけど、アルマはそのうちひとりに裏切られて死んでしまう。その剣士がきっと“復讐者”なんだ」
「あ、それ知ってる。『女神と四つの剣』でしょ。……で、それがどうかしたの?」
「“復讐者”がアルマに剣を向けたのは、アルマに大切な家族を奪われたことがきっかけだったんだ」
その剣士にとって、家族はアルマ以上に大切なものであった。アルマを護るという使命よりも、家族の平穏をなによりも望んでいたからだ。
「……自分で言うのも難だけど、ウィルは僕を大切に思ってくれていた。僕が信心深くなっていく様子が、アルマに僕を奪われたように見えたんだと思う。だから、ウィルが“復讐者”だって思うんだ。……どうかな?」
この仮説には自信があった。ウィルは間違いなく自分を大切な存在として見なしてくれていたし、アルマを憎む彼からすれば信仰心を持つことにさえ危機感を覚えるだろう。そうなれば、アルマへの憎しみは膨らみ続け、やがて刃を向けることになる。
アイは口元に手を当てたまま黙る。口を開いて最初に出てきた言葉は「ブラコン」の一言であった。
「きみたち、兄弟愛強すぎ。なんか気持ち悪いんだけど」
「兄弟愛っていうか……まあ、うん。仲は良かったかもね」
「でも、あながち間違ってないかも? 説得力はあったしね、気持ち悪い兄弟愛のおかげで」
……普通の兄弟仲だったと思うけど。
気持ち悪いという言葉を否定したかったが、口論は無駄だと割り切っている。この際、気持ち悪いほど仲が良かった兄弟でも構わない。納得してくれたところで、ほこらへ向かう足を急かす。
ほこらへの道のりは長く、緑に溢れていた。鬱蒼と葉を蓄えた背の低い木々。頭上は開けており、空が見える。やや赤みがかった空と夜の空、その境目が見える幻想的な光景だ。もし、時間が巻き戻っただけなならウィルたちの襲撃までまだ時間がある。それでもほんの一晩の猶予だ。早くアルマのもとへ向かい、対策を立てたいところである。
そうして到着したほこらは、清々しいほどに白く、高潔な印象を与えた。人が踏み入ってはならない聖域のよう、とでも言おうか。もし触れた指先に僅かでも汚れが付着していたのならば、生涯後悔し続けそうなほどの神々しさを帯びていた。
アイが感嘆の吐息を漏らす。コールもまた同様であった。惨劇に乗じて一度訪れてはいるものの、あのときは赤黒い煙に毒されていたように見えたせいだろう、一片の穢れもないほこらは想像を絶する美しさであった。
咳払いをひとつ。アイはほこらに向かって語りかける。
「創造主アルマよ、あなたの勇者が馳せ参じました。どうかその御姿を我らの前にお見せください」
アイの声に対する反応はない。無礼だったのか、とアイの顔が青ざめた。慌てて言葉を取り繕おうとする。しかし貧困なボキャブラリーではいま以上の敬語は紡ぎ出せなかった。
「コール、どうしよう……?」
「どうするもなにも、呼び出したのはアルマなんだし。僕たちの存在に気がついているなら、そのうち姿を見せてくれるんじゃないかな」
「ちょっと、あんまり失礼な口の利き方しない方が……」
アイの気遣いは徒労に終わる。ほこらの前に光の粒子が収束していくのがわかった。それは純白の輝き。何者にも汚すことのできないほどに清廉、高貴な光であった。光は人の形を成していく。
コールの家にあったものと同じだ。身にまとうのは白銀色のケープ一枚。腰まで届くウェーブのかかった髪に、女性らしいしなやかさを帯びた身体。閉じたまぶたにかかるまつ毛は長く、艶っぽい妖しい唇。二人はしばし目を奪われた。人の形をしているが、その造りはまるで別物。人間が到達できる美しさではない。まさに女神と呼ぶに相応しい美貌であった。
眼前の女性――女神アルマはゆっくりと目を開く。二人の勇者をその目で確認すると、口の端に柔らかな笑みを湛えた。
「待っていた。私の勇者たちよ」
凛とした声は成人女性の低さに近い。鼓膜を微かに震わせるそれは、全身を蕩かす不思議な力を秘めていた。しかしこのままでは話にならない。聞き惚れている場合ではないとわかっていても、容易に動き出せなかった。
立ち尽くす二人を見て、アルマは不思議そうに首を傾げた。
「どうした? ……まさか、私が怖い、のか?」
「め、滅相もないです!」
素っ頓狂な声で否定するアイ。それまで張り詰めていた緊張が一瞬で弾け飛んだ。コールの表情には落ち着きが戻り、アルマはおかしそうに口元を押さえて笑った。
「ふふ、そんなに緊張しなくても良い。私はあなたたちにお願いする立場なのだからな」
「アルマ様のお願いとあらば、どんなものでも叶えて見せます!」
「アルマ様、と呼ばれるのは少々むず痒いものがあるな。そう気を張る必要はない。友を呼ぶように、アルマと呼べ」
いざアルマと対話するとなると、気軽に「アルマ」と呼べない気持ちはわかる。それでも、ここで尻込みしているのも時間の無駄だ。ぐずるアイには悪いが、二人の間にコールが割って入る。
「それじゃあ、アルマ。僕たちを呼んだ理由を詳しく聞かせてください」
目を見開くアイ。その瞳は驚愕を表していた。最低限の敬語を使っているからか、アルマの表情は変わらない。アイの視線はコールとアルマの間を慌ただしくさまよっていた。
アルマはうつむき、「そう」と呟いた。顔をあげ、二人をしっかりと見据える。
「あなたたちを呼んだのは他でもない。私を、ひいては世界を危機から救ってほしいからだ」
「ずいぶんと大きな話ですけど……あなたが直面している危機って? “復讐者”に狙われていること? それが世界の危機とどう関わっているのですか?」
腹の底から押し寄せる疑問が立て続けに吐き出される。アルマは困惑したように眉をひそめ、顔の前で人差し指を一本立てた。
「一度に答えられることには限度があるから、順番に答えよう。危機とはあなたの言う通り、“復讐者”に狙われていること。そして世界の危機とどう関係があるのか、という話だが……あなたたちは、ほこらの果たす役割は知っているか?」
ほこらの役割。単純に考えるとアルマへの信仰心、ひいてはアルマ教の信者を集めるということになる。だが、アルマ自らが問いかけてくるということは、それだけではないのだろう。アイの方に目をやるが、まだ口調に困っているらしく、口から意味を成さない音を漏らすばかりである。
答えかねているとアルマは苦笑した。やはりか、と。答えられないことが当然であるかのように。
「ほこらは楔(くさび)だ。私の勇者たちによって各地に建てられたほこらは、この世界と私――女神アルマを繋げたのさ」
話が壮大で、瞬時に理解することは難しかった。アイも同様に、話の大きさに首を傾げるだけであった。不親切な説明だった、と補足説明を入れるアルマ。
「つまるところ、私なくして世界の存続はあり得ないということだ。そして、女神アルマが存在し続けられるかどうかは、人間の信仰心に関わっている」
「……信仰されない神は死んだも同然、ということですか?」
「そういうことさ。そしてほこらは私への信仰心を集める役割を果たしている」
そこでアイは合点がいったと手を叩いた。
「ほこらが破壊されたら、アルマへの信仰心が集まらない。だから、アルマと世界の繋がりが弱くなる。その果てが……」
「アルマの死、ひいては世界の滅亡?」
「その通り」
納得がいった。おそらく“復讐者”はほこらの破壊がどういうことかを理解しつつも、それが世界の滅亡と繋がっていることを知らない。「女神と四つの剣」における“復讐者”は、あくまでアルマのみを滅ぼそうとしていた。現在の“復讐者”――ウィルもきっと同じだろう。まさか自分のやっていることが世界の滅亡に繋がるとは微塵も思っていないはずだ。
「僕たちが果たすべき使命は“復讐者”を討つこと、なんですよね?」
アルマは頷く。今度はコールがうつむく番であった。
実の弟が、世界を滅ぼそうとしている。それを意図していないとしても、黙って見過ごすわけにはいかない。拳を握り締めるコール。もう迷いはなかった。
「僕が、止めます」
「頼もしいよ、少年。巻き込む形で済まないが、よろしく頼む」
「あ、あたしだって止めてやるんだから! もう負けないし!」
いままで出番のなかったアイがここぞとばかりに主張してくる。アルマはやはり笑った。
「おかしな娘だ」
「えっ、あっ、恐縮です!」
「ふふふ……会話とは、こんなにも楽しいものだったのだな。とても久しい感覚だよ」
喜びに狭まる目、その瞳はかつての旅路を望んでいるのだろう。四人の剣士と苦楽を共にした日々を。どれだけの期間を歩き回ったかまでは記載がなかったが、かけがえのない経験だったに違いない。
「それでは、そろそろ時間だ。あまり長い時間、この世界に留まれないのでな……頼んだぞ、私の勇者たち」
「はい。必ず、成し遂げてみせます」
「頑張りますっ! 本気の本気であいつらをぶっ倒しますから! アルマの名のもとに!」
くす、と薄く微笑んで。アルマは光の粒子となって弾けた。きらきらと辺りを舞う光の粉は美しく、これから惨劇が起こることを忘れさせた。光が完全に消え失せ、空が夜に染まってきたことを確認した二人は、表情を引き締め踵を返す。
……惨劇まで、あと四時間。
二人は宿を取り、僅かながら休息を取ることにした。アイが先ほど使用した“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”は術者の疲労が大きいらしい。ベッドに横たわるアイの顔には疲れが窺える。
今回は二人で一部屋を取ると事前に決めていた。取った部屋は二階の一室。時間が巻き戻る前にコールが取った部屋と同じだ。受付はどこか悟ったような顔をしていたが、コールにはその表情の意図が読めなかった。代わりにアイが「ケッ」と悪態をついていた。なにが起こっているのか、当人だけがわかっていないという状態であった。
「アイ、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、まあなんとか」
「できるだけ身体を休めておいてね。純粋な剣の腕前じゃあ、ウィルには敵わないから……希術の援護が必要になるだろうし」
手加減した状態ですら勝てたことがないのだ、ただの切り合いならば勝てる見込みなどない。しかし、こちらには希術がある。コールとアイ、二人で挑めば止められるだろう。あの不思議な少年をひとりで行かせるのは危険だと思うが、ウィルとの戦いを早々に決着させられれば、間に合うかもしれない。あくまで希望的観測の話だが、いまはこれ以上の策が思いつかなかった。
しばらく沈黙が続く。時計の針の音がいやにうるさく聞こえる。不意にアイが静寂を切り裂いた。
「……待って、コールがウィルと切り合うつもり?」
「うん。僕が囮になるから、アイはその隙に思いっきり強い希術を使って。できる?」
「いやいや、それはこっちのセリフだよ!? コールがウィルと切り合って勝てる見込みなんて」
「もちろん、ないよ?」
勝てないことは自分が一番わかっている。何度稽古をつけてもらったかは覚えていないが、勝てたためしがないことだけは覚えている。本気で切り合えば、十秒と保たないだろう。それでも、ほんの一瞬。詠唱が完了するまでの時間は立っていられる。そう算段しての提案であった。
「馬鹿じゃん! 自分から死にに行くようなことないっしょ!?」
「僕が死ぬって決まったわけじゃないでしょ」
「ほとんどそういう意味じゃん!」
必死の形相を浮かべるアイ。コールはため息をひとつ吐いて、尋ねる。
「じゃあ、アイはどうしたいの?」
アイは黙り込んでしまった。コールの身を案じるあまり、自分の本来の役割を忘れてしまっていたようだ。冷静に考えれば簡単なことだ。ウィルを止められる可能性は、コールより高い。
そうだ、とアイは呟く。自分のやることを理解したのだろう。顔からは強い決意と、少々の不安が窺えた。
「……ま、あたしの方がコールより強いからね。足、引っ張んないでよ」
虚勢を張るのは下手らしい、言葉と語気が一致していない。苦笑するコール。
「頼りにしてるよ、アイ」
「やっぱりコールおかしい。なんか違う、気持ち悪い」
……ひどい言われようだなあ。
言葉は返さなかった。ただ、そのときをじっと待つ二人。張り詰めた空気が少しだけ緩和したおかげか、二人の表情にはいくばくかの余裕が生まれた。
日は沈み、月が顔を出す。一切の欠損がない、完璧な円を描く金色の光。いやに禍々しく見えるのは、惨劇が訪れることを知っているからだろうか。いつも感じる神秘性はなりをひそめ、胸をざわめかせる不気味さが際立っていた。
「……ちょっと外に出てくるよ」
思い立ち、コールは部屋を出る。アイは「ん」とだけ言って送り出した。宿の廊下は紺色の絨毯が敷かれており、窓の外、視線のはるか先にはアルマのほこらが見える。話を聞く限りあそこにアルマの本体があるというわけではないのだろうが、なんとしてもウィルたちの到着を阻止しなければならない。アルマの死は世界の滅亡、絶対に避けなければならない結末だ。
――ふと、考える。
もし仮に、ウィルたちを止められなかったとする。そうなればビオーケは壊滅的な被害を受け、ほこらは破壊される。そして、自分もアイも死ぬ。それが、アルマの望まぬ結末だった場合は? コールが体験した時間の逆流は起こるのだろうか。アルマの望む結末――すなわちアルマの描くアンデリーチェの行く先にはなにがあるのか。きっと一介の人間には及びもつかないような結末なのだろう。考えるだけ無駄であると首を振る。
階段を降り、宿を出る。中央広場は閑散としており、街灯の光はどこか頼りなく感じる。視線の先では噴水が静寂の中に水の音を撒いている。人気のない広場に柔らかい風がそよいだ。これから血生臭い地獄絵図が展開されるとは思えない……。
「……!?」
違和感を覚えた。風に運ばれてきたであろう香り。それは近くの花壇のものであったが、芳しい中に奇妙な臭いが混じっていることに気がついた。錆びついた金属のような、鼻孔を衝く嫌な臭いだ。
そして風に乗って漂ってくる、赤黒い霧――。
「嘘……もう!?」
風上はどっちだ?
その疑問が解消されるより早く、幼さの残る高い声が響く。
「――“略奪者の魔手(バンディットプレス)”!」
視線の先、噴水の向こうに歪な腕が見えた。腕は大きくその身を反らし、鞭のようにしならせて振り下ろした。噴水を叩き潰し、辺りに強烈な音をとどろかせる。時間が巻き戻る前、コールが目を覚ますきっかけになったのはこの音だったのだ。
いち早く気がついた宿泊客が窓から身を乗り出す。赤黒い霧を吸い込んだ途端、宿泊客は窓から落下した。鈍い音が響く。おそらく、頭蓋骨が粉砕した音。頭部を中心に赤い池が広がる。それを皮切りに、窓から次々と人が落下してくる。落命の音が不協和音となる。正気が削られていくのがわかる。気がつけば腰が抜けていた。
窓から人影が飛び降りてきた。落下したのではなく、飛び降りたのだ。自らの意志で。影は広場に着地すると、コールのそばに駆け寄ってくる。朱色の長髪、アイだ。
「あいつら、来たみたいだね! 立てる?」
「な、なんとか」
アイの手を借りずに立ち上がる。見るも無残に破壊された噴水の向こうで、灰色の腕が自壊した。辺りに灰色の欠片をまき散らす。腕の陰になっていて見えなかったが、そこには不思議な少年とウィルがいた。
「ウィル……!」
ウィルはコールとアイに視線を定めると、深いため息を吐いた。落胆したような、悔しげな顔をして。
「まだその女と一緒だったのか? ……俺は警告したはずだ、手加減できなくなると。本気の俺と切り結びたいとでもいうのか?」
「本当なら、そんなことはしたくないよ。僕が勝てないのは目に見えてるし」
「なら、どうしてだ?」
「アルマの名のもとに、世界を救うからってこと! いまさらすぎんでしょ、その質問!」
ウィルの問いに答えたのはアイであった。剣を抜き放ち、切っ先を向ける。戦う意志がありありと感じ取れた。アルマ、という名に反応したらしい少年は頭を抱えて苦悶の声をあげた。
「ぐううう……! その名を、俺の前で出すな!」
「落ち着け。もう聞くことはなくなる。……俺があの口を二度と動かなくしてやるからな」
「あんたにできるぅ?」
「できないとでも?」
不敵に笑う二人。一触即発の空気を切り裂いたのはアイであった。左手をかざし、希術の詠唱を開始する。
「『地より這い出よ、焼き尽くせ業火! あたしは――!』」
詠唱を完了させまいと肉薄するウィル。右腕を引き絞り、裂ぱくの気合いと共に突き出した。両者の間に割って入ったのはコールであった。ウィルが突きを繰り出したのと同時、胴を薙ぎ払った。ウィルは突然の妨害に驚き、身をよじって回避した。その隙にアイの希術が詠唱を終える。
「――あたしは、希う! “立ち昇る炎(ブレイズスプレッド)!”」
「――俺は希う! “暗闇の殻(ブラックシェル)”!」
ウィルが転がった先、地面から炎の柱が噴き出す。周囲を焼き払う炎、魔物ならまだしも生身の人間では耐えられない。だがこの程度で終わるとは思っていなかった。
炎が消え、柱のあったところに現れたのは夜の闇が凝縮したような黒い球体であった。それが弾け飛び、中からは無傷のウィルが姿を見せる。どうやら少年の希術によるものらしい。アイが忌々しそうに舌打ちした。
「いまの希術がある間はまともに戦えないかもね」
「だったら、希術の詠唱が終わる前に決着をつければいい」
ウィルは少年のもとに駆け寄り、肩を叩く。少年は相変わらず苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。なにか重たい病にでもかかっているのだろうか。
「兄さんたちにできるとでも思っているのか? 俺はこいつを護りながらでも負ける気がしない」
「やってみなきゃわからない!」
二人は声を揃える。ウィルは驚いたように目を丸くして直後、高らかに笑った。二人の言葉を、意志を嘲笑うように。額に手を当てながら、喉を鳴らして笑う。
「くくく……そうか、そうなのか! 兄さんは賢い人だと思っていたが、なかなかに馬鹿らしい! いいだろう、俺がちゃんと現実を見せてやる! お前は先に行け、アルマを死に追い込むんだ!」
ウィルは少年をほこらへ急がせる。少年は覚束ない足取りで走り出した。
「さて、こっからは時間との勝負ってわけだけど」
「決着はすぐにつくさ」
「すぐにはやられないよ」
コールはアイの前に立ち、剣を構える。戦う意志が通じたのだろう、ウィルは剣の切っ先をコールに向ける。
「邪魔をするなら容赦はしないぞ、兄さん。これが、本当に最後の警告だ」
「最後の警告、何回目? ……もう要らないよ、僕はきみを止める!」
「……ッ! 馬鹿が、どうなっても知らないぞ!?」
ウィルとコールは同時に駆け出す。ウィルが渾身の突きを放った。空気を切り裂く必殺の一撃はコールの額を狙ったものであった。コールは僅かに頭を動かして回避する。こめかみを浅く裂いたものの、致命傷にはならない。まさかかわされるとは思っていなかったウィルの瞳に驚愕の色が浮かぶ。迷いのないコールはその隙を逃さない。再び剣を薙ぎ払った。過たず、ウィルの腹部を切り裂く。
「ぐうっ……!?」
「やあああああっ!」
振り抜いた剣を今度は突き出す。ウィルの左腕を狙った一撃であったが、腕が伸び切る前に蹴り飛ばされる。ウィルの目には僅かな動揺が窺えた。まさかコールに傷を負わされることがあろうとは思わなかったのだろう。初めてつけられた傷が、命懸けの実戦であるということも彼の心を大きく揺さぶる要因になった。
「……兄さんが、俺に傷を……?」
「はあっ、はあっ……あはは、ウィル、なにも変わってないや」
「どういうことだ?」
「教えないよ、絶対。不利になっちゃうもんね」
立ち上がるコール。アイの方をちらりと見やれば、足元を中心に幾重もの赤い円陣が展開されていた。強力な希術を使おうとしていることが容易に想像できる。
「『汝、愚者を征す者。其の剣(つるぎ)、灼熱を帯び、森羅万象を灰塵と成す』」
円陣の光が強まった。大気が熱を帯び始める。危険を感じたウィルはすぐさま詠唱を妨害しに走った。アイの首を刈り取るように剣を振るう。アイはまぶたを閉じたままだ。回避するつもりがないのだろうか。詠唱は続く。
「『勇(ゆう)持ちて振るえ。刃に誓い義を尊(たっと)べ。力示し、突き進むは覇道』」
「させるか!」
ウィルの剣がアイの首に沈む。途端、アイの姿がぶれ、消滅した。まるで幻影のように、蜃気楼でも見ているかのようであった。そこで気づく。いま、二人が見ていたのはアイの希術“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”によって生み出された幻覚なのだと。本体は、すのすぐ隣にあった。円陣が激しい光を帯びた。間も無く詠唱が完了する。ウィルの妨害も間に合わない。
「『我が道に勝利の灯火を、一刀のもとに悪しきを滅せ! あたしは――希う!』」
円陣が弾け飛び、アイを中心に爆炎が発生する。周囲に拡散する炎はなにを焼き払うこともない。熱いのはたしかだが、燃えることがないのだ。アイが剣を天空に掲げる。唐突に剣が炎を帯びた。それは天を衝かんとするほど大きく、力強い。決して消えることのない闘志の炎が具現化したようである。アイはニヤリと笑った。どことなく引きつっているようにも見えた。
「この術はあたしにも加減ができない……! 消し炭になっても文句言えないからね!」
剣の柄を両手で握り、大きく身を反らし、希術名を告げる。
「“炎帝の宝剣(ブレイジングキャリバー)”!」
振り下ろすと同時、巨大な炎が走った。それはウィルを飲み込み、周囲の建物まで巻き添えだ。すさまじい熱風と光がコールの視界を遮る。治まってきたところで目を開ける。ウィルの姿はどこにもなかった。奇妙なのは、巻き込まれた建物には焦げ跡ひとつ残されていなかったこと。
アイは膝をつく。コールは駆け寄り、アイに肩を貸した。
「大丈夫!?」
「なんとか……でも、お腹減った」
どうやら大丈夫そうであった。あれだけの術を使っておいて「お腹が減った」で済む理由はよくわからなかったが、安堵のため息を漏らす。
「そ、そう……すごい威力だったけど、建物に傷がついていないのはどうして?」
「戦闘用の希術っていうのは、術者に対して敵意を抱く者にしか効果がないの。だから、ウィルは消し飛んだ。建物にも、転がってる人たちにも効果はないってわけ」
「ああ、なるほど……ッ!?」
ずきん、と頭が痛んだ。アイも同様に表情を歪める。アルマの声が聞こえてくる予兆だ。
――ほこらへ急げ! “復讐者”が迫っている!
アルマの声は危急を告げていた。だが“復讐者”であるはずのウィルはもう倒した。そこで二人は、大きな勘違いをしていたことに気がつく。
……ウィルは“復讐者”ではない、ということに。
終章:アルマの勇者たち
少年の足取りは重い。一歩を進めるたびに嗚咽を漏らす。苦しげな少年を助ける者はいない。ウィルはコールたちによって倒された。少年はひとりになった。
少年は思う。この頭の痛みはなんなのだろうと。どうしてこんなにも女神アルマを憎んでいるのかと。もしかすると記憶がなくなるより以前、アルマとなにかしらの因縁があったのかもしれない。そう考えると、妙にロマンチックだ。まさか女神と縁のある人間など、そうはいないだろうから。
視線の先には闇が広がっている。いつになったらほこらに到着するのだろう。いつ、アルマの命を奪えるのだろう。答えは果てしなく未来にあるかもしれないし、見えていないだけで目の前まで迫っているのかもしれない。
そもそも。
どうしてアルマを殺したいなどと考えたのか。記憶のない少年の最大の疑問がこれであった。いつほこらに辿り着くか、いつアルマが死ぬのか。そんな目の前の問題よりもずっと大きい。この憎しみはどこから湧いてくる? どんな理由があって殺したいなどと思った? 自分のことなのにわからない、これ以上気持ち悪いことがあるだろうか。
「はっ、はっ、あううう……!」
足を止め、うずくまる。頭が痛い、身体が重い。こんなにも苦しい思いをするくらいなら、いっそ死んでしまえば楽のではないか。腰に提げた短剣を握る。喉に突きつけて、腕が震えていることに気づいてしまう。死ぬのは怖いと思ってしまう。
「ううう……! どうしたら、いいんだ? 誰か助けてくれよ……ウィル……ウィルはどこにいる? 俺のそばに来てよ、お願いだから……」
がくがくと震える身体。もはや目的を見失いかけている少年は涙を流した。そんな少年のもとに足音が迫ってくる。おそらく、詰所にいた兵士だ。先ほどの少年の希術“略奪者の魔手(バンディットプレス)”が噴水を破壊した音を聞きつけて動き出したのだろう。現場に確認に行く者と、ほこらの安全を確認する者に分かれたのだと少年は考えた。
闇の中から軍服に身を包んだ兵士が現れる。少年の姿を確認すると、慌てた様子で肩を叩いた。
「どうした、少年!? 大丈夫か!? こんなところでなにをやっている!?」
「だいじょぶ……? なに、して……?」
投げかけられた質問にどう答えていいのかわからず、少年の脳が熱を帯びた。ガチガチと歯が鳴るほど震える。動揺した様子の少年に、兵士はなおも問いをぶつける。
「家族はどうした? ご両親は? ご兄弟は?」
「か、ぞく? きょうだい……? ッ! あああああ!」
なにかがはまる音がした。がたがたで動けなかった歯車がようやく噛み合ったかのような感覚。少年の脳裏に断片的な映像がよぎる。両親の愛を一身に受ける少女の笑み、与えられた使命を全うした少女に満足げな大人の男女。そして、彼らに羨望や嫉妬の混じった視線を注ぐ金髪金目の少年。紛れもない自分自身であった。
――そして、少年の中で全てが繋がる。アルマを憎む理由も理解できた。少年の目から脆弱な意志が消え失せる。唐突に大人しくなった少年に違和感を覚えた兵士は心配そうに声をかける。
「大丈夫か……」
喉に短剣が突き立てられる。困惑の色を浮かべる兵士に、少年は笑顔を向けた。歪んだ、悪意に満ちた顔であった。
「なんっ……!?」
短剣を力一杯引き抜く。栓となっていた刃が抜けたことで、真新しい血液が噴き出した。兵士はそのままがっくりと倒れ、それ以上動くことはなかった。
少年は短剣を振って血を払うと、人間を貫いたその刃を見つめる。月明かりに照らされて、妖しく艶めいている。兵士を一瞥をする少年は微笑んだ。
「ありがとう、兵士さん。……俺を思い出させてくれて」
兵士に構うことはなく、少年はほこらへと駆け出した。その足取りは軽く、先ほどまでとはまるで別人であった。少年の邪魔をする者はいない。風を切るように入る少年の口の端は上がっていた。
アルマのほこらに到着した少年は短剣をほこらに向けて、告げる。
「あんたを……世界をぶっ壊しに来たよ。――姉さん」
アルマの声を聞き、先を急ごうとした二人だが、兵士の足止めを食らっていた。軍服を着た兵士は暴れるアイを押さえつけるのに必死であった。
「ちょっと退いてってば! あんたなんかに話してる時間がもったいないの!」
「そうはいかない! 中央広場の噴水を壊したのはきみたちだろう!?」
コールが弁解するよりも早く、アイが叫んだ。
「誤解だってば! 壊したのはちょっと前にほこらに向かった男の子なんだって! なんで見逃してんのさボンクラ警備員!」
兵士の眉がぴくりと吊り上がる。気に障る一言だったのだろう、アイの肩を掴む腕に力が入ったのがわかった。心なしか表情も引きつっている。無理やり笑顔を繕おうとしているのがばればれであった。
……まずいな。
コールはアイの隣に立ち、兵士に提案を持ちかける。
「それならば兵士さん。一旦この子を離してください。このままじゃあお話にならないでしょう?」
「ちょっとコール! お話にならないってどういうこと!?」
「アイは黙ってて」
ぴしゃりと制する。考えがあることを察してくれたのだろう、アイはおとなしく黙り、兵士から解放される。離れるアイにある言葉を囁いた。その言葉が届いたかはわからなかったが、コールの策がアイに通じたのならば、兵士の気を引くことが最優先だ。
アイとは打って変わって、落ち着いた様子のコールに兵士も若干安心したようであった。
「さて、きみなら答えてくれるかな? ……噴水を壊したのはきみたちだろう?」
「どうしてそう思うんですか?」
「……質問したのは私だが?」
「根拠もなく僕たちだと断定したんですか?」
「現場からきみたちが現れた、根拠なんてそれだけで充分じゃないか?」
「不充分に決まっているでしょう。考えなしもいいところ……ああっ! 見てください、魔物が!」
コールが指差したのはほこらの方。兵士がそちらに視線をやる。しかし魔物の気配などどこにもない。不審に思った兵士はコールを問い詰めようとしたが、そこには誰もいなかった。コールの姿も、アイの姿もない。逃げられた、と判断しただろう。兵士は広場の方へと走って行った。
「……“陽炎の膜(ミラージュフィルム)”解除」
周囲に熱が拡散し、なにもなかった空間にコールとアイが現れる。二人は逃げたわけではなかった。アイの希術で姿を隠していただけ。兵士の尋問を潜り抜けた二人はほこらへと足を急がせる。
「なんかどっと疲れたよ……無茶ばっか言ってくれるよね、コールって」
「ご、ごめん。でも、これが一番有効だと思ったんだよ」
「……ま、いいけどね。あとはあの男の子だけだし、すぐに終わるでしょ」
「油断は……」
釘を刺そうとしたが、アイの表情は緩んでいない。口だけの強がりであることはすぐにわかった。
あんな力を扱う少年を容易に打ち倒せるわけがない。アイに尋ねても、あのような希術は見たことがないそうだ。
「見たこともない希術が相手なら、用心するに越したことないっしょ」
コールが釘を刺すまでもなかったようだ。アイの表情にはまだ不安の色が窺えたが、余計な心配は無用だった。
道中に魔物の姿はない。もとより、壁の中の都市なのだから魔物が入り込む余地もないのだが、少年が発する赤黒い霧になにかしらの力があるように思えてならなかった。
……そういえば、宿から転落した巡礼者たちはどうなったのだろう。
もし時間が巻き戻る前と同じ光景になっているのだとしたら、中央広場は死屍累々。そして行ける屍たちの地獄絵図が展開されることだろう。兵士たちは無事でいられるだろうか。それこそ心配しても仕方がないことなのだが、自分たちが出し抜いたせいで怪我されても後味が悪い。
ずきん。頭に痛みが走る。アイも同様に足を止め、こめかみの辺りを押さえていた。続いて聞こえてくるアルマの声。その声からは焦りが感じ取れた。
――私の勇者たちよ、急げ! “復讐者”の足止めは限界だ!
声が治まり、二人は顔を見合わせる。足止めが必要なほど迫っている、ということだろう。ここでほこらを壊されてしまっては元も子もない。
「あの子、もう着いたっての……!?」
「急ごう、アイ! あの子、なにをするかわからない!」
頷き合い、二人は再び駆け出した。
ほこらと対峙する少年の前に、純白の光が集まる。姿を現したのは絶世の美貌を持つ女性、女神アルマだ。アルマは少年をその目に捉えると、悲しそうに目を伏せた。
「……久しいな」
「そうだね、本当に。お父さんやお母さんには褒められて、吐いて捨てるほどいる人間たちに崇められる気分はどうだ?」
少年の言葉にはトゲがあった。積もりに積もった恨みをぶつける最初で最後のチャンスなのだ。胸の内に秘めていたことは全て吐き出すつもりであった。
アルマはというと、かぶりを振った。
「別段、感じることはないさ。父さまや母さまに褒められたって、なにも思うところはないよ。それに……人は私を崇めているのではない。私にすがり、私を後ろ盾にしているだけだよ」
「それでも必要とされてるんだろうが!」
少年は語気を荒げた。血相を変えて短剣を握る手に力を込める。いますぐにでも切りかからんとする迫力はいままで見せなかったものだ。アルマは怯えることもなく、ただ少年を見つめていた。憐れむような、物悲しげな瞳で。
その眼差しが癪に障ったらしい、少年は唇を噛み締めた。
「なんだよその顔は……! 俺のこと見下してんだろ!? 知ってるぞ、俺なんて所詮代わりだもんなあ! 結局、俺は必要なかった! 要らない存在なんだろ!」
「それは違う」
「違うもんか!」
アルマの話を聞こうとしない少年。
「聞け。私はあなたを代わりだなんて思ったことは一度もない。要らないと思ったことだって一度もない」
「信じられるか! 愛情と尊敬を一身に受けてきたやつの言葉なんか!」
「……ならば、それで良い。話し合いは無駄だということが良くわかった」
「最初っから話し合うつもりなんてない……! 俺はお前を殺して、世界を壊す!」
「――“駆け抜ける紫電(ライトニングダッシャ―)”!」
少年の背後から、一直線に走る雷光が迫る。回避するには一足遅く、背中を中心にしびれが走った。アルマの表情に安堵が浮かぶ。彼女の視線の先には二人の勇者。
「アルマを殺させはしないよ、“復讐者”!」
少年――コール・ティエルは威勢よく叫んだ。少年の目が二人の勇者を射抜く。その瞳には鈍い、憎悪の光が灯っていた。
「お前ら……ウィルはどうした?」
「あたしがぶっ倒した! あとはきみだけだよ!」
アイの言葉に、少年の表情が僅かに歪んだ。ウィルが倒されるとは思ってもみなかったのだろう。しかしすぐに、くっくと喉を鳴らして笑った。
「そうか、ウィルはやられたか。なあ、お兄さん。あんたはウィルの兄弟だったんだろ? ……目の前で弟が死ぬってのはどういう気持ちだ?」
「……一瞬すぎて、なんとも思わなかったよ。感傷に浸る時間すらなかった」
「その女が憎くないのか? 大事な兄弟を奪ったやつだぞ?」
そう。コールの大切な人を、アイは奪った。憎くないと言えばきっと嘘になる。
少年は続けた。
「アルマの名のもとに、殺されたんだぞ? アルマを憎いとは思わないのか?」
少年はアルマの顔をちらりと見やる。アルマはなにを言われても構わない、といった面差しを貫いていた。アイは少年に剣を向けたまま、コールの言葉を待った。
「……たしかに、死んでほしくはなかったよ」
「だったらアルマを――」
「でも、アルマを殺すことは認められない。世界を壊すことを認めちゃいけないんだ」
コールは少年と視線を交わす。揺るぎない信念を灯した眼光は少年をたじろがせた。意志なき者だと思い込んでいたのだろう。少年はいささか動揺したように見えた。
アルマとアイはまぶたを閉じ、口の端に柔らかい笑みを浮かべた。心配は要らなかったと、安どしたようであった。
「じゃあ、ウィルが死んだのはアルマの思し召しだってか?」
「かもね」
「……汚ねえ人間だ。姉さんの言ってたことがわかったぜ。人間は女神アルマを後ろ盾にしてるだけだってことがよ!」
少年は吠える。短剣を握る左手が天に向けられる。短剣を中心に赤黒い円陣が展開した。どんな希術を使うつもりかはわからないが、妨害するチャンスを逃す理由はない。コールとアイは同時に走り出した。
二人の狙いは左手そのものであった。短剣が中心となっているということは、なにかしらの形で短剣に希術をかけようとしているからだ。ならば詠唱が完了する前に左手を切り落とすしかないと判断したからだ。
アイの方が一足早い。剣を横薙ぎに振るい、手首から先を綺麗に切断した。宙を舞い、むなしく落下する少年の左手。激痛に表情を歪める少年。
「……まだだ!」
少年は分離した左手まで這い、右手で短剣を掴む。そして――自身の左胸を貫いた。
「……は?」
驚愕に目を丸くする二人。アルマですら息を飲んだ。少年は胸に短剣を突き立てたまま、仰向けに倒れた。少年を中心に赤色が広がる。自ら命を絶ち、この場から逃れようとでもしたのだろうか、そんなはずはない。事実、少年の死が新たな災厄を呼び寄せる形となった。
地面ににじむ鮮血がふつふつと沸き立つ。煙が立ち昇るが、三人は違和感を覚えた。煙が白くなかったから。それは少年を象徴する色、赤黒い煙であった。少年の身体の上に煙が収束し、質量を持つ。それは人の姿を象った。全身が赤黒く、顔もない。そんな人型のなにかが、二人に顔を向けた。目があるわけでもないのに「こっちを向いた」と判断できたのは、顔の一部が三日月のように鋭く裂けたからだ。
「あんた……なにそれ」
「その希術を私は知らない。あなたはどこでその希術を身につけた?」
アイとアルマの問いかけに人型は答えない。
ひ。
ひひひ。
ひひひひひ。
不気味な笑い声が響く。それは人型が発しているものなのだろう。少年の身体から発生したものだからか、空気に反響する太い声の中に少年の声が混じっている。三日月型に裂けた口は動かない。ただじっとコールとアイの方を向いている。
笑い声はなおも続く。危ないことだけはぼんやりと把握できているが、どう対処していいかはわからなかった。アルマも同様らしく、表情が強張っている。
「二人とも、伏せていろ」
コールとアイにそう告げたのはアルマであった。見れば、純白の輝きを伴う陣が展開している。
「――“神の刻印(ディバインシール)”」
陣が弾け飛び、地面に十字架が刻まれる。直後、十字架から光の奔流が溢れ、人型を覆った。天を衝かんとする光の十字架は高熱を帯びているらしく、周囲の空気を僅かに焦がした。アイの炎属性の希術に負けずとも劣らない威力。詠唱もなしにこれだけの希術を発動させたことに驚く二人。やはり神は格が違う。
光が吹き飛んだ。あまりのまぶしさに目を覆う。視力が戻ってきたところで、絶望を知る。人型は傷ひとつ負っていなかった。あれほどの威力を以てしても、傷を負わせられない。人型は相変わらず二人の方を向いたままだ。
「……ッ、いったいどうなってしまったのだ」
うめくアルマ。
人型が天に左手を掲げた。すると人型の身体がぼこぼこと隆起し、質量を増していく。再現を知らずに膨張を重ねる人型。その過程で首は三つに分かれ、その先端は猛獣の頭部を象った。姿勢は前屈みになり、腕はそのまま前脚としての役割を持った。黒く、三つ首の獣。伝説上でしか存在しないはずの魔物――ケルベロスだ。
「冗談っ! こんなの相手に勝てるわけ……!」
「でも、逃げたら駄目なんだ! やれることはやろう!」
怖気づくアイに鞭打つコール。しかしそんな意志を嘲笑うかのようにケルベロスは咆哮した。大気を震わせ、ちっぽけな人間を竦ませる。コールはたまらずしりもちをついてしまった。逃げることすらままならないほど強い拘束力があった。振動の余韻を感じている余裕はない。なのに動けない。合計六つの瞳はコールに集まっていた。半開きの口から荒々しい吐息が漏れている。
立ち上がることができない。そのくせ、瞳はしっかりケルベロスを捉えていた。ケルベロスが地面を蹴る。どの頭かはわからないが、コールの頭を食らおうとした。しかしケルベロスの牙は見えない壁に阻まれ、コールの身体が傷つくことはなかった。
見れば、眼前にはアルマの姿があった。両手を前方にかざし、不可視の壁を展開している。ケルベロスの攻撃を防いでいるのはアルマの希術らしかった。
「アルマ!」
「逃げろ、二人とも……! この壁もそう長くは保たない!」
「なに言ってんですか!? アルマを置いて逃げろってこと!? 冗談じゃないですよ!」
アイは声を荒げる。アルマは振り返らない。壁の維持に集中しているようだ。ケルベロスの牙は徐々に、確実に壁を削っていた。アルマの言う通り、それほど長くは保てないのだろう。素直に逃げるべきなのだ。だが、その指示を素直に受け入れることはできなかった。
「従えない!」
口を揃えるコールとアイ。アルマの顔に動揺が浮かんだ。
「馬鹿なことを言うな! こいつは人間の力では敵わない……! いいから私に従え!」
「できない!」
コールは立ち上がり、剣を構える。アイは希術詠唱の構えを取った。
ここで三人は奇妙な音を聞く。それは大勢の足音だ。生きる屍のものではない。きびきびと規律の取れた足音であった。いったいなにが近づいているのか、二人は警戒を強める。
「いたぞ! あれが今回の事件の首謀者だ!」
背後を見やれば、アリーダ王国軍の軍服に身をまとう男たち。目算で三十人程度だと判断する。皆、各々の武器を掲げて戦闘態勢を取っている。
まさか、自分たちのこと?
背後を振り向くコールは肝を冷やした。ところが、男の声に続いたのは恐れ、戦く声。まかり間違ってもコールに向けられるものではない。男が示すのはケルベロスのことだ。
「きみたち、大丈夫か!?」
そう声をかけてきたのは、中央広場でコールたちを止めていた兵士であった。アイはバツが悪そうな表情を浮かべ、コールはすぐさま頭を下げた。
「あんた、さっきの……」
「さっきは出し抜くような真似をしてすみませんでした! ところで、この人数は?」
「とある人物から連絡をもらった! アルマのほこらを破壊しようとしている者がいる、と! そいつは人間を超えた力を持っている、ということも聞いている! 半信半疑であったために王国からの増援は少ないが、共にやつを討ち果たそう!」
とある人物、と伏せるのは民間人だからだろうか。それとも公にできない関係者なのか。コールには判断できなかったが、なんにせよ増援はありがたい。少しばかり、戦う意志が湧き上がってきた。指示に従おうとしない人間たちにアルマは舌打ちする。人間らしい仕草であった。
「言っても聞かぬ馬鹿ばかり……これだから人間は!」
「アルマ、僕たちになにを言っても聞きません! なので僕たちが戦い、最も生き残れるであろう指示をください! あなたの望む通りに動きます、動いてみせます!」
「それこそまさに“神の思し召し”ってやつだね!」
「言ってくれる……! ならば、この場にいる全ての人間と、私の勇者たちよ! 時間を寄越せ! この魔物を沈める希術を見舞ってやる! そのための時間を稼ぐのだ!」
アルマの指示が辺りに響き渡る。なにをすればいいのか判断できていなかった兵士たち、その指示を受けて己を奮い立たせる。武器を天に掲げ、臨戦態勢を取った。
「障壁を消す! 食い散らかされないように散れ!」
その言葉を告げた直後、ケルベロスの牙がアルマを食らった。目を丸くする一同だが、アルマは肉体が存在しているわけではない。再びほこらの前に光が収束し、アルマが姿を現す。その周囲にはすでに円陣が展開していた。希術の詠唱はすでに始まっているようだ。並々ならぬ圧力が周囲の空気を震わせる。
「『我、世界を紡ぐ者。その名に自由を冠す者。奇跡を以て救済を』」
ケルベロスの右首がアルマの姿を捉えた。詠唱中は無防備なのは人間と変わらないらしい、回避する姿勢は見られなかった。
「やらせないよ!」
アイは跳躍し、獣の首元で剣を振り上げた。硬質な皮膚ではないらしく、刃はしっかりと首元を切り裂いた。それでも深い傷ではない。どころか、裂けた箇所が再生しているようであった。並大抵の攻撃では効果はない。それでも数を重ねれば注意を引くことはできる。アイの攻撃を皮切りに兵士たちも猛攻を仕掛けた。頭、首、胴、脚。至る箇所に刃を振るう。アルマを攻撃したくても人間たちが鬱陶しいと思い始めたのか、三つの口が手あたり次第に噛みつこうとした。突然の反撃をかわすことができず腹を食い破られる者数名。詠唱は続く。
「『崇めよ、讃えよ。心を糧(かて)とし力を振るわん。災厄打ち払う法、我が掌中に在り』」
「うああっ!」
アルマに迫る右首、その眼球に剣を突き立てる。さすがに無視できない痛みだったようで、コールを食らわんと牙を振るった。剣が突き立ったまま、コールは吹き飛ばされる。そばにあった柱に背中を打ちつけ、痛みに喘ぐ。ケルベロスへの攻撃は止むことがない。その都度、兵士たちの命が食い散らかされていく。自分だけ倒れているわけにはいかない。すでに命を落とした兵士の剣を拾い、再び立ち上がる。
「『神威(しんい)を示し、邪を退けよ。其は穢れを滅する聖なる剣(つるぎ)』」
詠唱はまだ終わらないのか。コールの不安は膨らむ。兵士の数は半分を切り、戦力的にも時間稼ぎは限界が近かった。コールは駆け出し、剣を振るう。ケルベロスの腱を浅く裂いたが、すぐに再生してしまう。それに加えて、切りつけた脚に蹴り飛ばされてしまった。地面を転がり、全身の痛みはピークに達していた。
吹き飛んだ先にはアイがいた。アイの身体を中心に赤い円陣が展開されている。周囲の熱が高まっているのがわかった。強力な希術を唱えるつもりだ。
「『神の祝福賜り、約束された結末を与えんことを! 私は――希う!』」
アルマの希術の詠唱が完了した。陣が弾け飛び、両手を天にかざす。アルマの手から天を衝く純白の光が柱となって立ち昇った。その先は鋭利に尖り、剣の切っ先を彷彿とさせる。最後の言葉を――希術の名を叫ぶ。
「――“終止符打ちし聖剣(エクスキャリバー)”!」
光の剣が振り下ろされた。それは獣の身体を一刀両断する――かと思われた。なんと三つの口が光の剣に噛みつき、必死の抵抗をしていた。思いのほか力は拮抗しているらしく、光の剣に亀裂が走るのが見えた。アルマが負けるかと思われた、そのとき。
「――“炎帝の宝剣(ブレイジングキャリバー)”!」
周囲を業火に包み込み、アイの希術が発動する。爆炎を帯びる剣はケルベロスの首を焼き払い、灰塵と化す。アルマの剣を阻む力は残っていない。ケルベロスの身体は光に包まれ、やがて消滅した。そこに残されたのは、力を失った金色の少年のみ。膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。その瞳には、やはり憎しみが灯っていた。
軍服の男が激を飛ばす。
「いまだ! 捕らえろ!」
残っている兵士が総出で少年に飛びかかる。抵抗の意志がない少年は呆気なくその身柄を拘束された。
「終わった……の?」
呆然と呟く。アイも剣を振り下ろしたまま呼吸を乱している。アルマはコールのそばに歩み寄ると、地面に座り込んだ。
「ああ、終わりだよ。危機は去った。……もうしばらく、安心できそうだ」
コールの頭に手を置き、優しく撫でる。笑みを湛えるアルマは、小さな声でたしかに告げた。
「ありがとう、私の勇者たちよ。この世界と共に生きられることを、心より感謝しているよ」
「コールー?」
奥深くに沈んでいた五感が表層に浮上してくるのがわかった。暗闇だった世界に広がるのは白い天井。鼻孔を衝くのは薬品の臭い。頬に走る小さな衝撃と、隣から聞こえてくるアイの声が目覚めのきっかけとなったのだろう。ベッドのそばに置いてある椅子にアイが座っていた。
……そうだ。あの後、倒れちゃったんだっけ。
アルマに頭を撫でられた後からの記憶がない。おそらく全てが終わった安堵感から疲労がどっと押し寄せ、それこそ死んだように眠りについてしまったのだろう。同じくらい疲れていたはずのアイはどういうわけかぴんぴんしている。身体的疲労よりも精神的なものが大きかったせいだろう。それでも自分よりも早く目覚めるとはどういうことか。鍛え方が違うのだと、自分の非力さを感じさせられる。
「起きたか、おはよう」
「……いま何時?」
「んーと……午後四時?」
「全然早くないじゃないか」
窓の外から射し込む光が妙に赤いのはそのせいか、と苦笑する。
その後の経過をアイに聞いてみたところ、少年はアリーダ王国軍に連行されて王都へ向かったらしい。アルマのほこらを破壊しようとした罪は重いものだ、極刑は免れないだろう。幸いにもほこらは破壊されずに済んだわけだが、アルマの姿を見た一部の兵士たちが興奮した様子で触れ回っているらしい。アルマは美しい女性だったとか、強力な希術を扱っただとか。なにひとつ間違っていないが、アルマの姿を見た、というのが一種のステータスだと思い込んでいるのだろう。特に咎められるような点ではない。
コールにとって最も気になる点は、やはりウィルのことであった。
「ウィルの話は?」
「なにも聞かなかったよ。やっぱり消し炭にしちゃったのがまずかったかな?」
「まあ、生かしておいた方が情報が手に入ったかもしれないね」
情報、といってもコールが知りたいのは個人的なこと。どうしてあの少年に協力しようと思ったのか。どうして敵対しておきながら気にかけてくれていたのか。わからないことは多すぎる。いまとなってはウィルの考えは確かめようがない。
「……でも、もういいよ。ウィルだって、自分がやるべきことをやったはずだ。その結末がどうであれ、後悔はしていないと思う」
「そんならいいんだけど。……で、コールはすぐ発てるの?」
「え? 発てるとは思うけど……また旅に出るの?」
「当たり前じゃん? もともとは宛てもなく旅してた根なし草の身なんだから。たまたまアルマの声を聞いただけだよ?」
アルマへの信仰心は深いアイであったが、普段からアルマを思って生きているわけではないようだ。思い返してみれば、どうして流浪の身になったのかを聞いていなかった。理由によってはここで故郷に帰るのもひとつ手段ではある。……しかし、コールはその選択肢を捨てた。
アイがどんな理由で旅をしているのかなんて、関係ない。一緒に行こうと言ってくれている。居場所をくれている。それだけで充分であった。
「で、どうするの? すぐ発てる?」
「うん、行けるよ。あんまり激しくは動けないけどね。……でも一応、医者の確認取った方がいいかも」
近くの看護師に声をかけ、医師を呼びつける。退院しても良いかを尋ねるとあっさり許可をくれた。もともと重たい症状を抱えているわけでないので、ある程度の休息を取った後は好きにしてくれということであった。きっと研究に没頭して栄養が足りずに倒れる患者が多いのだろう。止めても聞かない人間が多いのであればこのような対応になってしまうのかもしれない。
着替えを済ませ、剣を腰に提げる。魔物の目に突き刺さったままだったが誰かが回収したらしい。危険物ということで預けられていたが、退院するということで返してもらうことになった。拾った者が気を遣ってくれたらしく、血は拭き取られ刃も研がれていた。
病室を出て、最初にすれ違った看護師を呼び止める。
「あの、ちょっといいですか?」
「はい、どうされました?」
「この剣を持ってきた人ってどんな人ですか? 会えたらお礼が言いたくて」
この看護師が受け取ったかはわからなかったが、何人かに聞いていけばそのうち受け取った者に出会えるだろう。お礼を言いたい気持ちは抑えきれなかった。いまでは形見となった剣なのだ、大切に持っておきたかった。
看護師は口に手を当てて唸る。
「そうですね……あ、思い出しました。真っ黒なローブに身を包んだ男性でしたよ。フードを被っていて顔はわからなかったんですけど、声は男性でした。不思議な格好をしていたので、ちょっと話題になっていたんです」
「どこの誰かはわからない、か……ありがとうございます」
お礼を言う機会はなさそうであった。諦めて病院を出ることにする。アイは「律儀だねえ」と呆れたような口調で呟いた。大切なものなのだ、お礼くらい言いたいものだろうと抗議したが「あたしにはわかんなーい」と一蹴されてしまった。
中央広場は賑わっていた。昨日の転落事件の名残が残っているかと思っていたが、研究者たちはそれどころではないらしい。自分の研究や学校の課題に追われているのだろう。相変わらず冷たい街だと思った。アイも同じことを考えていたらしく、「ヤな感じ」と口を尖らせた。
「で、今度はどっちに行こうか?」
アイが尋ねる。本当に宛てがないのだな、とコールは笑う。そして人差し指を舐め、立てる。風が吹いてきた方を指差した。
「あっちはどうかな」
「あっちって向かい風じゃん。ま、面白いかもね。なにが待ってるかな?」
にやりと強気な笑顔を浮かべるアイはコールを置いて駆け出した。
「……楽しみだな」
――その声はそよ風に運ばれ、やがて彼方へと霞んでいった。
クロステイルズ