彷徨える湖

彷徨える湖

 
 ボクは、かっとなって浮気していた女を絞め殺してしまった。遺体は、子供の頃、泥団子を隠した実家の団地の軒下に埋めた。しかし、殺害はすぐに知れ渡り、すでに団地の周りでは、何台ものパトカーのサイレンが響いている。
 ボクは夜の街の雑踏に逃げ込んだ。ハチ公前はイルミネーションが眩しく、ビルに掲げられた大型ビジョンから雑多な音楽が流れている。スクランブル交差点に溢れる人波に紛れると、淀みに浮かぶ泡沫のように、自分が誰でもない存在のような気がしてくる。これなら見つけられまいと安堵した時、後ろからボクの名を呼ぶ低い声がした。振り返ると、くたびれたグレーのトレンチコートを身にまとった中年の刑事が、中腰になり、拳銃を真直ぐにボクに向けて構えている。二人の間から人波が散り、そこだけぽっかりと穴が開いたように静まり返った。これまでかと思い、ボクはポケットをまさぐり、リボルバーを取り出してこめかみにあてる。捕まって恥をさらすより、ここで死んだ方がずっとましだと思ったのだ。
 刑事は「そんな勝手な真似はさせるか」と、自動拳銃の引き金を素早く引く。ボクがハンマーを起こす間を突いて、回転しながら飛んできた弾丸が、まっすぐ額を貫いた。深く窪んだ額の穴から血しぶきが噴き出すのを感じながら、ボクの意識は消えていった。
 
****

 そこで、佐竹宏は目を覚ました。明け方の外が白み始めた頃だった。
 自分の部屋、自分のベッドの中にいることを確認し、目を閉じた。 
 このところ、というかここ数年、こんな警察や何やらに追われる夢ばかり見ている。それでも、殺されるというのは、初めてだった。しかも、刑事が弾丸を放つ瞬間、佐竹は刑事の怒りを自分のものとしていて感じていた。こめかみに銃をあてて今にも死のうとする男に向かって、怒りにまかせ引き金を引いた時の重い感触を、しっかりと覚えている。ただ、浮気していた女がどんな女だったのか、女とどんな交際をしていたのか、そして、いかなる理由があって女を殺したのかは、まったく思い出せなかった。女の存在だけが蜃気楼のように消えていた。
 現実から逃げ出したい自分と、それを殺してしまいたいほど嫌悪している自分とが、投影されているのだろう。夢とは、心の葛藤を象徴的な物語として仕立てあげる。そんなメカニズムが働いているのだと思う。
 目が冴えてしまったので、乾いてカサカサになった喉を水道の水で潤し、煙草を持ってベランダに出た。東の空の渕が赤み始めている。12月の朝の空気は凍てつき、体中の神経がピリピリと張りつめるようだった。吐き出した白い煙は大きく広がり、青みがかった空に拡散していく。
 この煙のように、風の中に消えてしまえたらいいのに、と思った。

 佐竹は、いつもより30分ほど早く職場に着いた。ロビーはまだ閑散としている。自動販売機に100円玉を入れた。珈琲の缶が落ちてきて、取出し口のフラップドアにぶつかる音がロビーに響く。手に持つには熱く、コートのポケットにつっこみ、中庭の脇にある喫煙室に向かった。眩しい朝の光が射しこみ、部屋を舞う埃をきらきらと輝かせている。自分もこの春までは、このように輝いていたのだと、恨めしく思った。
 佐竹の勤める会社は、もともと川崎にある大手自動車メーカーの孫請会社で、ドアやフレームに付属するいくつもの部品の製造を手掛け、3つの工場を持っていた。佐竹は、本部のある市内の工場長を任されていた。製造ミスはほとんどなく、どんなに急な期日でも、きっちりと守ってきた。従業員からの信頼も厚く、彼を中心に職場は常に活気に溢れていた。
 ところが、近年、親会社の業績悪化の影響を受け、受注が激しく落ち込んでいた。今年4月に首都圏の関連会社3社の統合が決まった。新しく生まれ変わった本社は世田谷のビルにある。経営の合理化、生産体制のスリム化を図るため、一部工場の閉鎖や大規模なリストラが始まった。
 夏には佐竹のもとにも、本社の人事課から見知らぬ職員3人がやって来た。新会社の経営改善方針の説明とともに、工場従業員半分の人員整理を迫られた。これに難色を示すと、矛先は佐竹に向かい、彼自身の早期自主退職を求められた。しかし、彼は50歳になったばかりで、まだ川崎の自宅マンションのローンが残っている。一人娘も来年には大学受験を控えており、この不景気時の退職はどうしても避けたかった。退職金の大幅な割増があったとしても、再就職は難しく、いずれ生活に困窮することは目に見えている。話し合いは、1時間に及んだが、結論の出ないまま、人事課の連中は帰っていった。そしてこの10月、突然の異動命令が下され、本社にある総務部人事第課第2係への配属が決まった。

 通勤路の変更は大した苦でもなく、自宅から地下鉄を使えば楽に通える距離だ。しかし、案内された職場には驚かされた。本社ビル4階でエレベーターを降りると、自動販売機と古ぼけたソファーのあるロビーがあり、その奥に人事課第2係があった。そこには、ロッカー室とパーテンションで区切られたいくつもの個室がある。案内された個室には、引出のないまっさらな机と、折り畳み式の粗末な椅子、人事課へ通じる内線電話、それと部屋の上方に監視カメラの設備があるだけだ。そこが、彼のデスクだった。
 私物にあたる筆記用具、書籍、携帯電話は、部屋に入る前に更衣室のロッカーにしまわなければならない。作業の指示は一切なく、休憩時間以外は、その部屋の中でまんじりともせず、じっと過ごすしかなかった。もちろん残業などはない。就業時間だけでなく、休憩時間や時間外も、同じ課の社員との私語が、禁じられていた。
 8時半から5時半までの勤務時間を、他の小部屋にも自分と同じように送る社員が閉じ込められているのだろう。時折、監視員が巡回し、居眠りをしていたり、こっそり本や新聞を読んでいる社員を厳しく注意する声が、静かな館内に響いた。
 人事課第2係というのは名ばかりで、退職を強要するために設けられたセクションに過ぎない。事実上、総務部人事課は5階にまとまっていたからだ。
 仕事一本できた彼は、隔離され、何もせず、ただぽかんと過ごす時間がこれほど長いものとは、思わなかった。狭い空間とのろのろと進む腕時計の秒針に苛立ちを覚え、突然に汗が吹き出したり、息苦しさや激しい動悸に襲われることもあった。孤独の中にあって精神は無力感に苛まれ、身体は憔悴しきった。自分がしだいに蝉の抜け殻のようになっていくのを感じていた。
 月に2,3回、不定期に人事課の狭い会議室に呼ばれ、3人から4人の社員にその都度、自主退職を迫られた。
「会社は新しく生まれ変わったんだよ。古い人間はいらないのさ」
「会社に楯突くような人間に、与えられる仕事は何もないんだよ」
「何もしないで、一日呆けて過ごすだけ。まさに給料泥棒だな」
「いや、お前はわが社に巣食うゴキブリだ」
「自分を情けないとは思わないのか?」
「いつになったら自分の立場に気づくのかね」
「お前の家族を食わすために、俺たち、働いているんじゃないんだよ」
「お前は、わが社のお荷物なんだ。みんな迷惑しているのに気づかないのか?」
「そんな暗い顔して出社されて、ほかの社員まで憂鬱になってくる」
「だいたい、そんな顔でわが社に入ってこられては、社のイメージダウンになるじゃないか」
 1時間はたっぷりかけて、毎回そんな言葉を浴びせられた。お前たちが、そうさせたのではないかと思いながらも、何も言い返せず、じっと耐えるしかなかった。

 妻は、当初栄転だと喜んでいたが、残業代がなくなり月末に振り込まれる給与が減ったことを知り、不機嫌になった。
「あなた、大丈夫なのよね」怪訝そうな顔で尋ねられ、大丈夫だと応えた。たぶん自分の身を案じたわけではなく、気にしているのは収入のことだと察した。今の職場環境がどんなに滅入るものであっても、妻に嘆くことはできなかった。男としてのちっぽけなプライドがそうさせた。と同時に、自分の居場所のなさを感ぜずにはいられなかった。
 佐竹は、弁当を持たされるようになり、少なくなった小遣いを節約し、週に何度か、退社後に駅前の漫画喫茶を訪れるようになっていた。早く帰る疎ましさと、何もしないで独りで過ごす空虚感を埋めるために、帰る前に何かしておきたかった。夢中で漫画や持ち込んだ本を読み漁り、PCに向うことで、多少気が晴れた。漫画喫茶の小部屋は、まさしく今の職場とそっくりな造りだが、PCや本があり、椅子もソファーのようで、珈琲も飲め、煙草も吸える。ずっとましな環境だった。
 先月、かつての同僚に相談したところ、組合に入ることを勧められた。応接室の古びた革の固いソファーに腰かけ、薄い煎茶をすすってしばらく待つと、組合の幹部と名乗る、禿げあがり腹の突き出た男が現れた。その時、自分の現況をどう伝えてよいか、その言葉すら失っていたような気がする。言葉を探しながらたどたどしく説明していくうちに、自分が本当に哀れに思えてきたのだ。 
 彼曰く、それは強制的退職にあたる違法なことであり、わが社では、似たような境遇にある社員が、自分だけでないことを教えられた。
「一緒に頑張りましょう。勝利を勝ち取りましょう」と手を強く握られ、今後の支援を約束してくれた。
 どこか半信半疑ではあるが、初めて理解者を得た気持ちになり、どんなにかほっとしたか。ただ、勤務形態は、いまだに変わってはいないが。

 晩秋のある昼休みのことだった。桜葉の吹き溜まりができた中庭で、握り飯を食べていると、一人の若い女性が声をかけてきた。
「佐竹さんですね。初めまして。組合員の江田美咲と申します。所属は総務部総務課です」
 そう言って名刺を差し出された。年は20代後半か30になったばかりだろうか。細身の当社の黒のスーツからは、豊満な肉体と共に若さがはち切れんばかりに見えた。漆黒の髪をポニーテールにして、後ろでしっかりと結んでいる。白いうなじと爽やかな黒い瞳が印象的だった。小さいがふっくらとした唇は濡れたピンクのような色合いをして、顔にはまだ幼さを残している。
 ふと、真冬に咲く、薄桃色の寒桜を思い出した。
 組合にも、こんなも若くて魅力的な社員がいるのかと、佐竹は感心した。
 突然の挨拶に戸惑い、恐縮した。とりあえず、名刺を持ち合わせておらず、口頭で今の所属と名前を伝えることしかできないことを詫びた。
「横に座らせていただけますか」と、彼女は、白い歯をこぼし、顔をほころばせて言った。
「うん」と言葉になるかならないような小さな声を出すと、彼の独占していた二人掛け用の狭いベンチに、彼女は腰を下ろした。佐竹も、ベンチの端いっぱいに座り直し、慌てて、残りの握り飯をハンケチに包もうとした。
「お昼時に、突然、声をおかけして申し訳ありません。どうぞ、そのまま召し上がってください」と謝られた。傾いだ胸元に、ふくよかな白い肌と、その間のくっきりとした谷間が見えた。短いスカートからすらっと伸びた脚が眩しく、目のやり場に困った。
「私も3月までは川崎の方におりました」
「そうでしたか」
「なので、かねがね、川崎工場の長としてご活躍されていたことを、人づてに聞いておりました」
「いや、過去のことです。今は、新会社のお荷物に過ぎませんよ」
「組合からお名前を聞き、一度、お会いしてみたいと思っていたところです」
 親しみの情感の溢れる声が、耳をくすぐるようだった。
 過去のこととは言ったものの、噂でもかつての自分を覚えていてくれたことには、悪い気はしなかった。むしろ、照れくさく、頬が火照るのを感じていた。
「今は、たいそう、厳しい境遇にいらっしゃると聞きしました。さぞ無念でしょうね」
「うん」
「辛い時は、一人で抱え込まないで、相談してくださいね。こんな私でもよければ。拙いながらも、私も、組合の一員ですから」
 じっと見つめられると、まるで中学生の頃に戻ったような緊張感と、胸の熱くなるようなときめきを覚えた。
 その後、二言三言、言葉を交わしてから、彼女は立ち上がり、昼食時にすまなかったと深々と頭を垂れて詫び、館内に去っていった。
 佐竹は、胸のポケットから老眼鏡を取り出し、もらった名刺の名を丁寧に何度も読み返した。名刺の下には、彼女のプライベートと思われる携帯の電話番号とメールアドレスの手書きがあった。
 何度か昼休みにこうして話す機会を持てた。その度ごとに互いに打ち解け、自然に話せるようになっていた。佐竹にとって、今、職場で穏やかに話すことが出来るのは、江田美咲だけだった。他に誰もいない冬の中庭で、それを咎める者はいなかった。
 缶珈琲を飲み終え、就業時刻に近づいたので、ロッカーにコートをしまい、自分の部屋の椅子に腰を下ろした。冬になり尻が冷えて痛むようになったので、今週から社の許しを得て、座布団を置かせてもらっている。これは、組合の働きかけがあったからだろう。そうでなければ、こんなに易々と許しが出る訳がない。
 心の中で、江田美咲を思い浮かべながら、ふと、昔、本で読んだ遠いシルクロードに思いをはせた。中学生の頃から、いつかシルクロードを旅してみたいという夢を持ち続けていた。今となっては叶わぬ夢だが。
 かつて漢の時代、西域のシルクロードの分岐点に楼蘭という都市国家があった。繁栄の源は、すぐ南に横たわるロプノールと呼ばれる湖だった。ところが、4世紀頃にロプノールは干上がり、楼蘭も衰退し、砂の中に埋もれてしまった。消えたロプノールは、今は、上流の天山山脈の降雪雨量によって消滅を繰り返すことがわかっている。古くから多くの探検家たちがそれを探したが、滅多に見つけることはできなかった。まれに近隣に似たような湖やその枯れた跡が見つかり、それがロプノールだと発表される。そこから、彷徨(さまよ)える湖と呼ばれてきた。
 佐竹は、広大な砂漠の中で、ついにそこにたどり着いたような、確かな安堵感を感じていた。

***

 虫取り網を抱え、プラスチック製の籠を下げ、ボクは明け方のブナの森の中にいた。ノコギリクワガタを探していた。首筋に汗が流れ、湿気を含んだ暑い夏だった。道のない藪をまたいで進んでいくと、森はしだいに暗くなる。蜥蜴(とかげ)や百足(むかで)が、黒く太い木々の肌を這っていた。
 一匹の蛇がするすると目の前を横切った。はっとして蛇の行く方を見つめると、そこには、胸に包丁を突き立てた男の死体があった。死んでいるくせにその男は、「殺してくれ」と大の字になって唸っている。
 突然、ダンプ車が風を巻き立て、男の真横を走り去った。男はもとの姿勢のままだった。その後、何台も車が通り過ぎようとする。ボクは車の前に立ちはだかり、男をかばった。なのに、男は相変わらず、「死なせてくれ」と唸っている。やりきれない気持ちが、心を覆った。

***

 佐竹が目を覚ましたのは、まだ真っ暗な夜中だった。時計を寄せてみると、2:30と淡いグリーンンの文字が浮かぶように映っていた。
 また、嫌な夢を見た。掛布を頭までかぶる。小さく横に丸くなり、しばらく震え、やがて再び眠りに落ちていった。
 12月も半ばを過ぎ、木枯らしが舞う季節になっていた。午前中、独りきりの個室で、佐竹は夜中に見た夢を思い出していた。
 あの死体の男は、夢の中では気づかなかったが、間違いなく彼の父親だった。
 子供の頃、父は酒に酔って帰ってきては、台所から包丁を取り出し、死なせてくれとそれを首に当てようとした。自分と母が、父を後ろから羽交い絞め、包丁を奪い取った。
 そんなことが何度も続き、母は包丁を台所から隠した。それでも、父は酔って車の通る道路に寝転んでみたり、高圧線の鉄塔によじ登ったりと、様々な仕方で死のうとした。その度に警察から電話が入り、駆けつけると酔った父の脇にパトカーがあった。回転灯が辺りをくるくると真っ赤に照らし、恥ずかしさと情けない思いをして、父親をおぶって帰ったものだ。
 母も、しばしば「私こそ死にたい」と言った。母が仕事から疲れて帰ってきた時、部屋を散らかして遊んでいると、怒りと悲しみを込め、疲れきった声を絞り出すように、「もう死にたいよ」と呟いた。
 そんなに死にたければ、さっさと死ねばいいのにと、その頃から思っていた。
 佐竹は、今も両親の誕生日を覚えていない。二人のそれが共に秋に巡ってくるのを知ってはいても、それ以上は聞けなかった。毎年、誕生日が過ぎようとする夜に、「お前は何もしてくれない」と恨みがましく言われる。母の日も父の日も、その前日までは覚えているのに、当日になると決まって忘れた。その夜も同じように「何もしてくれない」と恨みごとを言われた。
 指のささくれを母に見つけられるたびに、「お前は親不孝になる」と言われて育ってきた。そんな自分が情けなかった。そして母の言う通り、親不孝者になったのだと常々感じている。家族という居場所を心地よいとは思えない。今、こうして妻と一人娘のいる自分の家を持ってはいても、自分の居場所は、ここにはないような気が、どこかしている。仕事に逃げていたと言っても過言ではない。しかし、かつて工場長としてどんなにもてはやされても、当時も心に潜む虚しさを消し去ることはできなかった。

 昼休みになり、彼はコートの襟を立て、冷たい風がわずかに残った桜葉を震わす中庭に出た。昨晩の夕飯の残りを詰め込んだ冷えきった弁当を食べた。江田美咲が現れるのを待っていたのだ。運よくやってくる日もあるが、むしろ、かじかむ指で煙草を何本も吸っていても、現れない日の方が多かった。
 今日も来ないかと、煙草をコートのポケットしまおうとした時、目の前で「佐竹さん」と呼ぶ声がして、思わず顔を上げた。黒い光沢のあるダウンを着て、黄色のマフラーを巻いた美咲が立っていた。缶珈琲を熱そうに、両手の間でキャッチボールしている。
「どうぞ」とそれを差し出してくれた。寒さで指が真っ赤になっている。頬も赤く染まっていた。
「ありがとう」と応え、缶を受け取ると、体を寄せるようにして美咲が隣に座った。心なしか、彼女の体温が伝わってくるような気がした。
「寒かったでしょうに」そう言うと、蕾めた両手にはぁーと息を吹き込んだ。その手は、初々しい苺のようだった。
「きみも寒いだろうに」そう言って、佐竹も彼女のしぐさを真似た。
「可笑しい」彼女はそう言って、笑った。つられて、自分も笑った。久しぶりに笑った。
「ところで、鎌倉に瑞泉寺という古い寺があるのを、知っているかい?」
「ううん」と彼女は首を横に振った。
「その境内に、黄梅(おうばい)という珍しい木が植えてある。2月の最も寒い頃に、澄んだ淡黄色の花を咲かせる。迎春花とも呼ばれているよ。実に可愛らしい」
「春を迎える花、ですね。素敵な名前」
「美咲さんのマフラー姿を見て、ふと思い出したよ」
 彼女は、顔の前に両手の蕾めた掌を口にあてたまま、恥ずかしそうに笑った。
「いつか、そのお寺にご一緒させてほしいな」
 呟くように言った。掌の中から白い息が漏れた。
「ああ。いつか」
 彼女が、肩をそっと寄せた気がした。佐竹は、彼女の息が消えていった空をじっと見つめていた。彼女の優しさとこの温もりを愛おしく感ぜずにはいられなかった。年甲斐もなく、いつまでもこうしていれたらと、その時思った。
 昼休みが終わり、佐竹は自分の席に着いた。ここでは何もすることがない。時間さえも淀んでいるようだ。それでも今は、充実した気分でいられる。本も、絵も、ノートも何もないが、心の中で、美咲を想い描くことができる。

***
 
 夜の砂丘をひたすら歩いていた。月に照らし出された灰色の台地は明るく、時折、風が吹き、砂が流れていく。月光を浴びて砂粒が輝いている。ボクは、その月を追っていた。何時間、いや何日こうして歩いているのだろうか。しかし、いくら歩いても、月は歩みと同じ速度で、僕から離れていった。
 靴の底が抜けたので靴を捨て、裸足で歩いた。喉が渇いたが、水筒は空だった。水筒も放り投げて、ボクは歩いた。裸足の指の間に砂がめり込み、足がずっしりと重い。ついに力尽きて、放心し、大地に沈むように横たわり、目を閉じた。砂丘を流れる砂の波の音だけが、さらさらと聞こえる。
 突然、眩しさを感じ、目を開けると、大きな月がボクの真上にあった。すると、盆から零れ落ちる滴となって月の光が落ちてきた。ボクは海に浮かぶくらげのように、光の中を揺蕩(たゆた)っていた。
 光に包まれていると、しだいに全身の疲れが消え、喉の渇きも癒えていった。そして、こんな自分でさえも生きていていいのだ、存在していいのだと感じ取ることが出来た。

***

 佐竹は、カーテンの隙間から射す日の出の橙色をした眩しい光に目を覚ました。夢の幸福な余韻がまだ残っている。
 こんな素敵な夢を見たのは、生まれて初めてかもしれない。今日は、日曜だ。このまま、もうしばらく寝ていようか。いや、起きて、朝日を浴びようと、改めて思い立った。
 パジャマにコートを羽織り、ポケットに煙草を忍ばせた。ベランダに立つと、ちょうど朝日が、東の地平からほんの少し顔を出したところだった。煙草を取り出すのも忘れるほどの神々しい光だ。彼は、初日の出を拝むような気持ちで、太陽が地上にすっかり登りきるまで、じっと眺めていた。
 中学3年の年越しを、彼は、当時仲の良かった3人の友人と鎌倉で過ごした。夜を通して寺を巡り歩き、最後の極楽寺を過ぎて、明け方近くに稲村ケ崎に登った。そこで初日の出を待った。鎌倉、稲村ケ崎……。
「美咲」と、思うより早く、言葉が口から零れた。
 美咲に逢いたかった。
 しかし、すぐに彼女にふさわしい相手は、こんなに老け込んだ自分ではないと思い至り、年甲斐もなく、愚かで図々しく、身の程知らずの妄想にふける自分を恥じた。
「今さら、ゴーギャンでもあるまいし」そう呟いて、ベランダを後にした。
 彼は、キッチンへ行き、電気ケトルに水をくみ、スイッチを入れた。妻も娘も、まだ寝ていた。静まった部屋で、ぼこぼこと湯が沸き立つ音がする。ドリップで珈琲を落とすと、熱いカップを持って、再びベランダに戻った。
 デッキチェアーに腰掛け、煙草に火をつける。今朝の夢の輝きは、朝日の中ですでに色褪せていた。
 もとをただせば……。と、彼は考えた。
 自分は、人を幸せにできる人間ではない。人を心から愛することなどできないのだ。夢見たものは、自身の自分勝手な、現実からの逃避に過ぎない。
 なぜなら、自分は、愛というものを本当の意味で解っていないからだ。親から受けた情愛は、決して居心地のいいものではなく、その中で安堵するということはなかった。それはエゴの押しつけではあっても、愛と呼べるものではないように思う。これまでの人生の中でも、愛情という名のもとで受けてきたもの、そのほとんどが、干渉であり、相手の価値観の押しつけでしかなかったと思う。
 もし、愛と呼べるものがこの世にあるとすれば、象徴的な意味でそれは月の光だけだろう。
 以前、娘の望遠鏡で月を覗いたことがある。月は、ごつごつとした岩肌をさらし、真っ暗闇の中にポツンと独りきりそこにある。この姿は、絶対的な孤独の姿だ。一方、この大地を、この街を、砂丘を、世界じゅうのスラム街、牢獄を照らす静かな月の光は、あらゆる者に分け隔てなく降り注ぐ。だからといってその他に何をしてくれるわけではない。ただ、そこに孤独の象徴として存在しながら、優しい光を降り注ぐ。
 イエス・キリスト、仏陀、あるいはマザー・テレサと言った偉人たちは、きっとそれに近い輝きを持っていたに違いない。一般人が持つ輝きは、松明の灯火くらいだろう。そして、自分は、それさえも持っていない。しかし、一方でこのように考えるのは、自分の悲観的で自己愛的な性格によるものだろうか。ペシミズムに沿って生きることほど楽なものはないとも言われる。自分は、屁理屈をこねて、楽な方にただ逃げているだけなのかもしれない。そして、そんな自分を嫌悪している。
 だが……。だが、そうした性格や生き方は、これまでの人生の中で育んできたものだ。異常な家族の中で、こうした思考なしには心の崩壊を避けられなかったと今になって思う。荒れ狂う父を羽交い絞めにして包丁を隠したり、道路に寝ている父をおぶさって帰ったり、母のつぶやきに耳を傾けることはできなかったはずだ。
 社会に適応できない訳ではない。妻と一人娘の家族を持ち、今年の春までは工場長として部下の信頼を得て、従業員をまとめてきたではないか。これを幸福と呼ばずしてなんと言おう。
 彼の混じりあうことのない、こうした相対する二つの思考は、学生時代に始まった。それは、白と黒の2匹の蛇が互いに互いのしっぽに食いつくことで出来た一つの円環のようなものだ。
 彼は、そのジレンマから逃れ出ることができなかった。
 いつの間にか短くなって火の消えた煙草を灰皿に押しつけた。ぬるくなった珈琲を一気に飲みほし、温かい布団の待つ、自分の部屋に戻っていった。
 太陽は、橙からすでに白色に変わっていた。空は青く、風は穏やかだった。今にも消え入りそうな下弦の月が、天頂にあった。太陽は、彼には眩し過ぎた。

 美咲から一通のメールが届いたのは、家族との朝食を済ませ、リビングの窓際で新聞に目を通している時だった。妻は、キッチンでラジオを聴きながら、洗い物をしていた。
『おはようございます。佐竹様 突然のメールをお許しください。もし、ご都合よろしければ、今日、昼食をご一緒させていただけませんか。こんな小春日和に、一人で部屋にいるのがもったいないような気がして……。その時ふと、佐竹さんのお顔が浮かんだのです。返信、お待ちしております。美咲』
 いつ、彼女に自分の携帯のアドレスを伝えたのだろうかと、訝(いぶか)った。そういえば、一度だけ、彼女の名刺に書かれたアドレスに、空メールを送ってしまったことがある。何か話したいことがあったのに言葉が見つからず、また、失礼だと思い直し、慌てて削除しようとした。ところが、誤って送ってしまったのだ。彼女は、その送り主を自分だと確信したのだろうか。恥ずかしく、それでいて嬉しかった。
 「昼食かぁ」
 佐竹も、いつか一度、彼女とゆっくり過ごしてみたいと思っていた。その機会がこのように突然、訪れるとは。彼女は、いつも突然、目の前に現れる。最初の出会いも、中庭でもいつでもそうだ。佐竹は、ただ待っているだけだった。
 さて、どう返信しよう。今日は、特に予定もない。いや、いつだってカレンダーには、真っ白だ。その馬鹿馬鹿しさに、笑いが込み上げた。嬉しかったのだ。ただ、躊躇する気持ちも同時に湧いた。先ほど、身の程知らずの妄想だと、自分を蔑んだばかりではないか。
『江田美咲様 メール、お昼のお誘い、ありがとうごいます。いつも、そして、もちろん今日も、何の予定もありません。僕も一度ゆっくりお話しできたらと、思っておりました。こんな僕でよろしければ、昼食をご一緒させてください。待ち合わせはどのようにしましょうか。 佐竹宏』
 何を血迷ったか。胸の奥から湧き上がる喜びが勝り、指が勝手に動き、気づいたら送信ボタンを押していた。送ってしまった後で、彼女の返信を恐れた。やっぱり、やめておきます、とでも言ってもらえた方が、どれほど気持ちが楽か。
 彼女からの返事は、すぐに来た。
『Re:おはようございます。 さっそくご返事をくださり、ありがとうございます。初めてなのにこんなメールをして、馬鹿だと思われたらどうしようと、気持ちが塞いでおりました。ダイニングキッチンのテーブルの下にうずくまり、小さくなって後悔していたところです。
 でも、やっぱりどこか抜けています。嬉しさのあまり思わず飛び上がって、テーブルの裏に思いっきり頭をぶつけてしまいました。ただ今、泣き笑い中です。
 佐竹さんとは時々、会社の中庭でお会いしますが、ゆっくりと話す時間もなく、残念に思っておりました。昼食をとりながら、お話しできたら、私も嬉しいです。佐竹さんは確か、川崎市にお住まいでしたよね。私の家は、北千住です。待ち合わせは、12時くらいに、渋谷でいかがでしょうか。それとも、佐竹さんのお勧めの場所があれば、それに従います。美咲』
『江田美咲様 頭、大丈夫ですか? かなり痛そうですね。特にこれという馴染の店があるわけではありません。お任せします。渋谷なら東急東横線一本で行けます。しかも通勤定期を使って。楽しみにしています。では、渋谷のハチ公前で、12時に。 佐竹宏』
 その時、胸に砂がざらつくような嫌な感触を残しながらも、ほとばしる気持ちが、彼を押し流していった。
 髭を剃り、歯磨きをし、娘のムースを借りて寝癖を直した。お洒落着などめったに買うこともなかったので、数もない。服を選ぶのにはさして困らなかった。
「今日は、休みじゃなかったの?」洗い物を終えた妻が顔を出して尋ねた。
「本屋に行ってくる」咄嗟に出まかせを言った。
「あぁ、そうだ、昼飯は外で適当に食べるから、いいよ」
「あなたが、休みの日に出かけるなんて、久しぶりね」
「小春日和だしな」
「めずらしいこと。雨が降らないといいけど。傘を持って行った方がいいんじゃなくて」
「そうだな」
 どきまぎして、自分でも頓珍漢な答えをしてしまったことに、気がついた。しかし、取り消すのも変だと思い、妻の言う通り、折りたたみ傘を鞄に入れた。
 佐竹は間もなく家を出て、11時前には渋谷に着いた。日曜のハチ公前は、すでに大勢の若者たちで溢れかえっていた。駅前にある大型ビジョンから大音量のクリマスソングが流れ、青空の中でぼんやりとした映像が踊っている。
「この国を守り抜け!」
 街頭演説で、車の上から誰かが叫んでいる。どこかの政党の人だろうか。その周りを、黄色いウンドブレーカーを着た人たちが囲んでいる。
「死後、人は裁きにあう」
 スピーカーからテープの声が流れてくる。聖書の言葉を書いた黒地に白文字の看板を、小学生くらいの女の子が抱きかかえるようにして立っている。
 この国も、死後の世界も、今の彼には虚ろな存在だった。
 一応、本を買わねばならないし時間潰しも兼ねて、紀伊國屋書店の入っている南口駅前の東急プラザに向かった。足早に歩いたせいか体が暖まり、ビルに入るとコートを脱いだ。エスカレーターを5階まで上り切ると、左側に書店が広がる。足は自然とまっすぐ奥に進んだ。そこには画集のコーナーがあった。彼は、下段にある重そうなゴーギャンの画集を手に取った。彼は、学生の頃から、ゴーギャンの絵を好んでいた。画集を箱から出して項をめくると、タヒチの色鮮やかな絵が現れ、彼は見入った。
 19世紀末のパリに暮らし、証券会社に勤めていたポール・ゴーギャンは、25歳で結婚した。自分のアトリエのある大きな家で、何不自由のない生活を送っていた。当時まだ単なる日曜画家に過ぎなかったゴーギャンが、妻の反対を押し切って勤めを辞し、画家に専念したのは、35歳の時である。すでに5人の子どもも授かっていた。だが、彼の絵は一向に売れず、家を手放し、一家は、北欧の妻の実家に移る。39歳になったゴーギャンは、家族を残し、独り、タヒチに渡る。心の奥底から響く呼び声に従い、そこに、自らが描くべきテーマを求めたのだ。しかし、ここで彼が経験したのは、貧困と絶望であった。
 佐竹は、ゴーギャンがついに死を決意し、遺書代わり描いたと言われる大作、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を見つめていた。大きな横長の絵で、現物は、130×375cmもある。右端に黒い犬と眠っている乳児がいる。中央の人物は今まさに果実をもぎ取ろうとしている。左端には、死の間近にある老婆と白い鴉がいた。人生の縮図のようなこの絵画には、ゴーギャンがこれまで描いてきた様々なモチーフがとじ込められている。鴉は、『ネヴァーモア(二度とない)』に描かれた悪魔の鳥だ。その絵の中では、不安な表情を浮かベッドに横たわる女性を、後ろの窓の桟に立って見張っている。白は、彼の絵の中で平穏な死を意味する。
 ゴーギャンにちなみ、中年期にすべてを捨て、自分の理想を果たしたいと葛藤する気持ちを「ゴーギャン・コンプレックス」と言う。が、果たして当のゴーギャンは、この地で彼の理想を、自らが描くべきテーマを、人生の意味を見出し得たのであろうか。
 佐竹は、今の自分に重ね合わせ、この絵のタイトルを、小声でもう一度読み上げた。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」と。
 彼の美咲への気持ちは、不確かだった。愛しているという実感を持っている訳ではない。一方、彼女に自分への愛を期待している訳でもない。よしんば、彼女との新しい生活など、そんな野心は、まったく持ち合わせていなかった。
 自分自身、どうしたいのか、どこに行こうとしているかわからないまま、心の底から湧き上がる感情に戸惑いながら、それを止めることも出来なかった。
 時間を忘れ、絵に見入っていた彼は、ふと顔を上げ時計に目をやった。10分前だ。慌てて画集を箱に入れ、元の場所に戻した。新刊本のコーナーへ行き、目にとまった『第十二の予言~決意のとき』を手に取り、カウンターへ向かった。

 佐竹がハチ公前に戻ると、すでに美咲が待っていた。普段着ている黒の服とは異なり、真っ白なコートに身を包んでいる。黄色いウールのマフラーは前に見た時と同じだ。冬の雑踏の中で、そこだけが、まるで春の野のようだった。
「美咲さん、お待たせしました」すぐ側まで寄って、横から声をかけた。
 彼女は、はっと振り返り、すぐに安心したように顔をほころばせた。
「いいえ、私も今着いたばかりです。時間ぴったりですよ」そう言って、左手を上げ、腕時計を見せた。
「白も、似合いますね」
「お世辞が上手なんだからぁ。佐竹さんも、その橙のジャケット、暖かそうで素敵ですよ」
 彼女はそう言いながら、頬を赤らめていた。
「君もだ。ところで、我々は、どこへ行きましょう」
「変な言い方。あらたまって、どうしたんですか?」
「いや、つまらないオヤジギャグです。今しがた本屋で、ゴーギャンの絵を見てきました」
「ゴーギャンがお好きなの? 私も、一度はタヒチに行ってみたいと思っていました」
「では、我々もタヒチに?」
「さっきから、ご冗談ばかり」
 美咲は、前にしたように両掌を口にあてて笑った。
 この日、彼は、いつになく饒舌だ。彼の言葉は、まんざら冗談でもなかった。彼女とタヒチに行けるならと想ったのだ。
 公園通りの途中でバーガーを買って、代々木公園に向かうことにした。美咲の提案だった。
 NHKホールの脇を通り、横断歩道を渡り公園に入ると、あちらこちらから、賑やかで様々な音楽が聴こえてきた。バグパイプ、民族打楽器、風が唸るような音のする大笛。芝生の中で、ラジカセを鳴らし、踊る若者達もいる。
 白いアーチをくぐり、池の前に着いた。冬枯れした芝が広がる。青い空の中で、裸になった木々が寄り添うようにしている姿が、水の面に映っていた。
「きれいね」と美咲が呟く。彼らは、二人で座れるベンチを探した。
 池の渕を回り、その少し奥の木の下のベンチに腰かけた。葉を落とした桜の木が、陽だまりを作っていた。公園通りの坂を上って歩いてきた彼らには、日差しはことさら暖かかった。
「ほんと、春が来たように暖かだわ」
 美咲は立ち上がると、バーガーの入った紙袋を置いて、マフラーをはずした。佐竹は紙袋を脇に置いて、マフラーを預かる。彼女の温かさが残っていた。さらに、美咲はコートを脱いだ。起毛ネルの丈の短いワンピースから、レギンスを履いた細い脚が伸びている。青と白のチェック柄に、仕事を離れた気楽さを感じた。彼女は、コートをたたんで脇に置き、礼を言ってマフラーを受け取った。
「気持ちいいですね」と言いながら、上のボタンを一つ外す。
「そうだね」と応え、佐竹も、ジャケットのボタンを外した。
 美咲は、紙袋を開けながら、
「佐竹さんとこれてよかった」と微笑んだ。
「僕もだ。君と今日ここに来て、久しぶりに日差しの暖かさを感じたよ」
「私も、佐竹さんといると、心が暖かくなって、すっと落ち着いてくる気がするの」
 そう言って、包みを開き、一口食べた。佐竹は、手を止めて、彼女の横顔に見入っていた。美咲は、佐竹の視線に気づいたようで、慌てて飲み込んだ。
「恥ずかしいわ、そんな風に見られたら」
「君は、本当に美味しそうに食べるね」
「ええ、こんなにおいしいランチは、久しぶり。佐竹さんも召し上がって」
 佐竹も、その言葉に促され、包みを開けて、かぶりついた。その後、二人は食べ終わるまで言葉を交わさずに、黙って食事に集中した。遠くで、サックスの音が響いている。軽快なジャズの調べだった。
「あれ、ビートルズのブラックバードですね」と言葉にしたのは、美咲だった。
「ジャズ風にアレンジしているが、確かにそうだ。よく知っているね」
「ええ、父がよく聞いていたので」
「君のお父さんは、その世代かな。僕は少し下だと思うが、初めて買ったレコードが、『Yesterday』だった。中学に入ったばかりの頃だね。中でも一番好きなのは、この曲が収録されている『The Beatles』だよ」
「確か、『ホワイトアルバム』とも呼ばれていましたよね、父も、そのアルバムが好きでした」
「好きでしたって?」
「ええ、私が高3の時に、クモ膜下出血で……」
「お亡くなりになっていたのか」
「はい」
「辛いことを聴いたね」
「いいえ、私、父のこと、あまり好きでなかったんです。それに昔のことですし……。お気になさらないでください」 美咲は、まっすぐ正面の方向にある池の方を見ていた。いや、もっと遠くの方の見ていたのかもしれない。
 佐竹は美咲の横顔を見ながら、彼女の心の中にある暗く閉ざされてきた部屋のようなものを感じていた。彼女が、その扉を今開こうとしているのか、今はまだ触れてほしくないのかわかりかねていた。
「ふーん」とゆっくり相槌を打って、黙って同じ方向を見つめた。ふと、池の渕で水が跳ねた。どうやら烏が水浴びを始めたようだ。
「ブラックバードのこと、私、中学3年の夏までカラスのことだと思っていたんです」
「うん。日本人にとって、黒い鳥と言ってまず思い浮かべるのは、あそこにいる烏だろうね」
「そうなんです。で、父に一度、カラスが夜通し歌うなんて変じゃないと、訊ねたんです。そしたら、……」
「そしたら?」
「思いっきり、叱られました」そう言って苦笑した。
「叱られた? なんで、また?」
「父は、高校の英語の教師をしていたんです」
 佐竹は、ワイングラスにワイングラスを重ねるように、そっと、「で?」と付け加えた。
「だから、英語とか、あの曲に、何かこだわりがあったのでしょうね」
「うーん」
「お前は、詩の意味が全然解っていない。自分で調べようとしないで、そうやって勝手に決めつけたようなことを言うなと」
「それは、唐突だね」
「そうなんです。私、自分で辞書を引いて歌詞を訳して、不思議に思って訊いただけなのに……。びっくりして、なんかすごく悪いことをしてしまったような気がして」
「悲しかったんだね」
「はい。でも、父はいつもそんな感じで、怒ってばかり」
「怖かった?」
「ええ、それは、怖かったですよ。家では母を叩いたり、物を投げつけたり。母も辛かったと思います」
 美咲は、視線を足元に落としていた。佐竹は、彼女の話に、自分の境遇を重ね合わせて、黙って、身の凍るような感覚を思い出していた。ふいに寒さを感じ、ジャケットのボタンを留めた。
「ごめんなさい。こんな自分の家族の話なんてするつもりじゃなかったのに」美咲が謝り、佐竹も我に返った。
「いや、気にすることはないさ。少し、君のことを理解できたような気がする」
 そう言って、空を見上げると、太陽は雲間に隠れ、風が水面を揺らしていた。
「寒い」呟くように、美咲が言葉を漏らした。そして、コートを毛布のようにして体を覆い、佐竹の肩に頭を寄せた。
「佐竹さんは、心の暖かい方なのでしょうね」
「うん? というと……」
「佐竹さんは、ご自身が今、職場でとても辛いお立場なのに、こうして、甘えさせてもらって」
 佐竹は、彼女自身も、きっと心に寂しさを抱えながら、なお、自分のことをこのように気遣ってくれていたことを思い、今ほど彼女を愛おしく感じたことはなかった。美咲の肩に腕をまわして、抱き寄せた。
「私、悪い子ですね」
 そう小さく呟いた直後、顔を佐竹の首筋に向けて、そこに唇をあてた。美咲が、唇の位置を変えるごとに、柔らかく温かい感触が、電撃のように首筋から全身に何度も駆け抜けていった。

***

 図らずも、妻が言ったように雨が降ってきた。ボクらは、一つの傘に身を寄せて歩き、道路に出て、タクシーをつかまえた。雨の勢いが強まり、ワイパーがせわしく雨をかきよけていた。それは、ボクの心臓の鼓動と同じリズムを刻んでいた。
 東急本店の前で降り、初めから示し合わせていたように、一つの方向に向かって再び足早に歩いた。まだ、午後も早いというのに、空は雲に覆われて暗かった。
 その後、どこをどのように歩いたのかは、はっきりと覚えていない。ボクらは、どこだか知れないホテルの小さな部屋で、互いの孤独を確かめ合い、肌の温もりを味わいながら、強く抱き合って、互いに唇を求めていた。
 共にいき果てた後も、白い掛布に包まり、肌を重ね合わせていた。肩の横で彼女の寝息が聴こえ、ボクもしだいにまどろみに落ちていった。

 目を覚ました時、彼女はすでに部屋を出ていた。はじめは、トイレか浴室かと思い、声をかけてみた。ところが何の返事もない。
 ソファーに、ボクの服だけが、たたまれて置いてあったのに気づき、彼女が去ったことを知った。今日一日が、まるで夢の中の出来事のように感じられた。慌てて、ジャケットのポケットから携帯を取り出し、彼女との交信を確かめた。
 そこには、午前中に交わした彼女の言葉と息遣いが残っており、ボクは安堵した。

***

 翌日の月曜、佐竹は先週と同じように定時に出勤した。午前中、小さな何もない部屋の中に身を置き、美咲の肌の温もりや、彼女の声を思い出していた。一方、彼女が書置きも残さず、黙って去ったことを訝(いぶか)った。だが、再会すれば、その疑問もすぐに解けるであろう。再会を待つ時間は、温もりの記憶と共に玉ねぎをとろ火で炒める時のような甘い匂いに充ちていた。
 昼休みになると、彼は弁当を持って、中庭のベンチの端に腰かけた。昨日の暖かさとはうってかわり、今日は、雲が空を覆い、木枯らしが吹いている。
 昨日美咲がいた隣の席は、いつまでも空いたままだ。不意に強い風が吹き、弁当を包んでいたハンケチが飛ばされた。彼は、それを拾うと立ちかけた矢先、ハンケチは、中庭の塀を乗り越え外に飛んで行った。
 寒さにこらえきれず、彼は、中庭に出る入り口の内側に立って、ハンケチの飛んで行った先の空をぼんやり見ていた。突然思い出したかのように、携帯を取り出した。彼女の言葉が、そこに残っている。
 ただ、自分からメールを送ることには、躊躇した。まだ、昨日の温もりの残滓を味わっていたかったからだ。
 翌日の火曜も、同じように過ごした。水曜の午前中は、美咲へのクリスマスプレゼントについて考えて過ごした。今年は、土曜のイブを挟んだ三連休だ。きっと日曜までには、また二人で過ごせるような気がした。
 勤務時間が過ぎて、退社した後、彼は渋谷のデパートを廻り、彼女に似合いそうな手袋を探した。
 帰宅の途、彼は、携帯を取り出し、彼女の送ってくれたメールを読み返し、短いメールを送った。
『美咲さま 先日は素敵な小春日和を過ごさせていただき、ありがとうございました。僕はまだ、その日の暖かさ、ぬくもりを感じています。ささやかですが、僕も、あなたへのプレゼントを用意しました。また、再会できることを楽しみにしています。佐竹宏』
 佐竹は、その晩、マナーモードにした携帯を握りしめながら、冷たい床についた。しかし、深夜を過ぎても彼女からの返信が来ることはなかった。

 木曜日の10時、彼の部屋の内線電話が鳴り、呼び出しの指示があった。午後1時に、総務部部長室に来るようにとのことだった。部長室に行くのは、ここに配属されて以来のことだ。組合の力で、あの小部屋から解放されるかもしれないと、胸が高鳴った。昼休み、美咲にも逢えるような気がした。
 もし逢えたなら、今日にでも手渡そうと、プレゼントの包みをコートのポケットに忍ばせた。しかし、この日も彼女は現れなかった。足早にロッカーに戻り、ポケットからプレゼントを取り出した時、その手は、別のある冷たいものに触れた。それは、これまで忘れようと努めてきた不安だった。
 あの日、黙ってホテルから姿を消したまま、メールの返信もない。もうこのまま、彼女には逢えないのではないか。その冷たい感触は、指先から腕を這いあがってきた。やがて、体中を凍えさせ、胸を締め付けるような痛みとして感じられた。
 佐竹は、1時ちょうどに、6階部長室のドアをノックした。すぐに中に通され、ゆったりとした応接室のソファーに促された。部長はすぐには現れなかった。
 待っている間、美咲のことが頭を過ぎりそうになったが、努めて今は考えないようにした。大切な話がこれからにあるに違いない。部屋の中を眺めて、気持ちを紛らわした。
 四人掛けの白くふっくらとしたソファーが向かい合って並び、その向こうに大きな窓がある。レースのカーテンがかけられており、外の景色は見えないが、明るい日差しが部屋を満たしていた。窓の右側が、部長室に通じるドアがある。左には瑞々しい観葉植物のポットがあった。前回も同じ部屋に通されたが、その時と植物が違っている。
 前回はゴムの木が、濡れたような艶のある大きな葉をつけていた。しかし、今、目の前にあるのは、モミの木に似た、明るい色をしたゴールドクレストだ。たぶんレンタルなのだろう。今時、会社の観葉植物を丁寧に世話する余裕のある者などいない。
 おもむろに右のドアが開き、人事課長が入ってきた。佐竹は、立ち上がり、深々と頭を下げた。
「佐竹君だね。腰かけたまえ」課長の声が聞こえ、顔を上げると、そこには人事課長の他、総務課長、副部長、部長が揃っていた。逆光で表情がはっきりと見て取れないが、再度頭を下げ、ソファーに腰かけた。
「早速、本題から入ろう」左端の人事課長が言う。
 佐竹は高鳴る胸の鼓動を感じた。
「総務課の女性社員から、君に性的暴力を受けたと告発があった」
 佐竹は、耳を疑った。いったい何のことか、理解できなかった。
「女性社員の訴えでは、12月18日の日曜、君にメールで呼び出され、食事に誘われた後、彼女は悩みにつけ込まれ、無理やり渋谷のラブホテルに連れ込まれた。そこで、君は、嫌がる彼女に無理やり性的暴力をふるった。間違いないか?」今度は、総務課長が口を開いた。
 日曜……、まさか美咲のことか? 佐竹は訝った。そんなはずが……。
「違う、違います。無理やりだなんて、何かの間違いです」
「その女性をホテルに連れ込んだのは、事実なのだな」人事課長が、低い声で、確信したように言った。佐竹は、言葉を失い、血の気が引いていくのを感じた。
「彼女は、私の前で、怯え、泣いて訴えた。自分はもうこの会社にいられないとね」
「君は家庭を持つ身だろう。高校三年の娘もいると聞いている。年甲斐もなく、君は、とんだことをしでかしてくれたものだ」
「佐竹君、事実なのかね」副部長が、初めて声を出した。
 佐竹は、俯いたまま、膝の上でこぶしを震わせて、応えた。
「彼女が、そう言うのなら、それが事実です」
「認めるんだね」副部長の声だった。
 佐竹は、黙ったまま頷いた。
 眩しい陽光の中で、周りの風景はぼやけ、しだいに現実味を失っていった。上司たちの声は虚ろに響き、言葉の意味を正確に理解できなくなっていた。
 騙されたのだろうか? それならそれでもいい。しかし逢って話せば、解ってもらえるかもしれない。僅かな希望を、彼はまだ胸に抱いていた。
「さらに、君は、携帯を通じて、日曜の性的暴力が同意のもとでもあるかのように示唆し、再び、彼女を呼び出そうと脅かしたね」総務課長だ。
「どこまで君は、破廉恥な奴なんだ。彼女が警察に訴え、起訴され、有罪が決まった時点で、君は解雇だ」人事課長の声だ。
「君の行為が、わが社にどれだけの損害を与えるか、君は、考えたことがあるのかね」
 この声は、副部長か?
「彼女は、もし君が会社を黙って去ってくれるなら、自分も会社に残るし、警察には訴えないと言った。ぎりぎり会社と君のことを考えてのことだろう」
「君の家庭がどうなるのか、娘さんがどんな思いをするのか、考えたのかね」
「実刑となれば、君の人生は、終わりだよ」
「ことが公になる前に、自ら、けじめをつけることができるか?」
 次々と繰り出される声が、もう誰の声なのか、佐竹にはわからなかった。ふと、美咲の言葉を思い出した。
「私、悪い子ですね」
 まさか、このことだったのか?
 口の中がカサカサに乾いた。まるで、炎天下の砂漠にいるような気分に襲われた。
「下がってよろしい。後は人事課長とよく相談した上で、君自身が結論を出しなさい」
 最後は、部長の重い言葉が静かに響き、締めくくられた。
 部長たちは、立ち上がり、入ってきたドアから部長室に消えていった。
 佐竹は、呆然としたまま、立ち上がることが出来なかった。
 秘書の女性社員が、彼を促した。
 ようやく立ち上がった佐竹の目は、空になった向かいのソファーに、一瞬、白いコートを着た美咲の姿を見た。

 佐竹は、以前一度来た組合の古ぼけた固いソファーに座っていた。
「うちの組合に、ですか? 江田美咲なんていう組合員は、いませんね。何かの間違いでは?」
 テーブルの上で黒い表紙の名簿を閉じ、向かいのソファーで50過ぎの痩せた女が、怪訝そうに言った。佐竹は、黙って立ち上がり、組合事務所を出た。微かな望みさえも絶たれたように感じた。
 彼は、会社をいったん出て、コンビニで便箋と封筒を買い求め、自分の机で、自分のペンで辞職願を書いた。監視員も頭上のカメラも、それを咎めはしなかった。
 5階の人事課へ行き、それを課長に手渡した。課長は中身を確認し黙って頷いた。佐竹は、彼に一礼し、入ってきたドアに向かった。再度、深く頭を下げて、部屋を出ていった。

 課長は、ドアが静かに閉められるのを見届けると、
「愚かな奴だ」と、小さく呟いた。
 デスクの引出に封筒をしまい、かわりに別の封筒を取り出した。しばらくして、時計を見ると、隣の控室に入った。
 控室のソファーに一人の女がいた。髪を肩にかぶるほど伸ばし、ベージュの口紅、爪に赤いマニキュアを塗っている。革のコートを羽織り、短いタイトスカートから伸びた足を組んで、細い煙草を吸っていた。
 彼は、女の正面に座った。
「君の報酬300万を事務所に送金しておいた。これはクリーニング代だ」
 そう言って、10万の金の入った封筒を渡した。女は黙ってそれを受け取る。
「会社の制服は、玄関を出てすぐ左にあるいつものクリーニング屋に預けておいてくれ」
 女は、煙草をクリスタルの灰皿でもみ消し、脇に置いてあるシャネルのバックに財布をしまうと、そそくさと立ち上がり、窓際に向かった。彼もそれにつられて窓際に寄った。
 窓の下に目をやると、一人のグレーのコートを着た男が、ふらふらと会社を出ていくのが見える。
「今回は、やけにあっさりと済んだな」
「あんたたち、えげつないね」と、女が応えた。
 課長は、横でふんと、鼻を鳴らし、「また、よろしく頼む」と女に言った。

***

 ボクは、まだ陽のあるうちから三軒茶屋駅前のすずらん横丁に入り、酒を飲んだ。久しぶりの外で飲む酒だった。何軒か梯子し、持っていた金を使い果たした時、終電はすでに出た後だった。『Blackbird』を口ずさみ、ふらふらと246の国道を渋谷に向かって歩いた。途中、池尻あたりの神社の石段をのぼり、木の陰で立ち小便をした。濡れた泥に滑って、コートを小便で濡らした。濡れたついでに、木の幹に寄りかかって座った。異様な眠たさが襲ってきた。
 ボクは、何を求めて彷徨っているのだろうか? ボクの中には、始めから、追うべき理想も、探すべき人生の意味の在処もなかったような気がする。穏やかな幸福の中ではボクは居心地の悪さを覚え、むしろ、拠るべき場所を持たない宙ぶらりんな孤独、絶望こそが、ボクの馴染み親しんだ居場所だった。
 美咲との関係は、どこかそんなキッチュな雰囲気を漂わせていた。それは、楼蘭の南にあると言われた彷徨える湖、ロプノールとそれを探し求めた探検家にも似ている。遠くに見え、そこにあったはずのオアシスは、近づくとすっかりと消え失せており、ただ眼前に荒涼とした砂漠が続く。ボクの側にいたはずの美咲も、蜃気楼のように忽然と姿を消してしまった。
 しばらく、木の下で寝た後、寒さで目が覚め、震えながら渋谷に向かって歩き出した。

 ようやく渋谷に着いた頃、すでに道玄坂の街路樹を飾るイルミネーションは明かりを落とし、喧噪は鳴りを潜めていた。それでも、サンタやトナカイの衣装をつけた若者や、ボクと同じように酔った男たちが、うろうろ歩いている。クリスマス連休前の風景か。
 ふと、道路脇に見覚えのある女が、目についた。寒そうに黒いコートの襟を立て、タクシーをつかまえようとしている。肩にかぶるまで垂らした漆黒の髪。普段はポニーテールに結んでいたが、ホテルで抱いた時だけ、髪を下ろしたのを覚えている。
 財布の中に確か、クレジットカードが入っていたはずだ。鞄を開けて確かめようとして、中にある紙袋に気づいた。彼女へのクリスマスプレゼントだ。まだ間に合うかもしれない。ボクはすかさず汚れたコートを脱いで脇に抱え、タクシーをつかまえ、前の車を追ってもらった。
 車は首都高に入り、上野方面に向かった。速度を上げていく車のシートに体を預け、目を閉じた。暖房の効いた車の中で、瞼の裏、ボクは幻のオアシスを見ていた。

(了)

彷徨える湖

彷徨える湖

これまで、掌編しか描いてこなかったのですが、それより少し長めのものに挑戦しました(67枚)。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted