Tales of Grantia ~果たすべき誓いの物語~
零章:裁きを下すは七人の愚者
かつて、世界を巻き込む大戦があった。
渦中にあった二つの国は、強力な兵器と人智を超えた力をもって争い、戦火を撒き散らしていった。
被害は甚大であった。草木は枯れ、数多の屍が大地を固めた。治安は乱れ、負の感情が渦巻く世界は混沌の一言に尽きた。
国は疲れ果て、いつ終わるとも知れない戦争に国民が目を伏せた頃。救世主が現れた。
それたたった七人の戦士であった。彼らは武器を掲げ、戦いの只中で高らかに叫んだ。
――ロートリア、ブラウリア! 両国に告ぐ! 汝らは直ちに戦闘を放棄せよ!
素性の知れない闖入者の言うことに力があるわけもなく。彼らの叫びは両国を煽るだけであった。怒りに満ちた様相で巨大な兵器を起動させるロートリア。複雑な陣を描き、超常現象を呼び起こさんとするブラウリア。後世において、愚かしく命知らずな七人である。そう語り継がれると思われた。
だが、彼らは強かった。兵器は攻撃を開始する前に一刀両断され、放たれた必殺の術は武器の一振りでいとも容易く打ち払われた。彼らにとっては、その程度の攻撃だった。当時の人類が誇る最大の火力が、赤子の手を捻ることくらい簡単に対処できてしまうのだ。
両国は彼らを恐れた。唐突に現れ、戦を終わらせんとした彼らが恐ろしくてたまらなかった。次に抵抗の意思を示せば、たった七人に滅ぼされてしまう。両国の主はそう確信していた。七人の戦士の望みは現状、終戦だけなのだ。ここは大人しく従った方が賢明だろう。言葉を交わしたわけではなかったが、両国の主は同じことを考えていた。主はほとんど同時に兵士たちを制した。
タイミングを見計らったかのように、七人の一人が告げる。
――いまこの瞬間をもって、武賢戦争(ぶけんせんそう)の幕を引こう! また、両国には未来永劫の国交禁止を命ずる!
この提案がどよめきを生んだ。金輪際、両国は旅行も貿易もできず、同じ星に生きながら別の世界を生きることを命じられたのだ。どこの誰とも知らない、謎の戦士に、である。
主は逡巡した。この提案は国の発展を妨げるのではないか。ロートリアにもブラウリアにも、自国のものとして取り入れたい技術が多々あった。主に兵器開発の技術と、超常の現象を引き起こす技術である。
主の躊躇を敏感に察知したらしく、七人は武器を握る力を強めた。その動作に恐怖を抱いた主は、しぶしぶその提案を承諾した。ここでひとつの“誓い”が成立した。
大戦を終結させた七人は英雄とされた。誰が言ったか、人々は彼らを「誓いの刃(ジャッジメント)」と呼んだ。彼らのおかげで世界には平和がもたらされた。世界は修復の時期を迎え、徐々にもとの姿に戻りつつあった。幾星霜の月日が流れたいま、世界はさらに発展を遂げた。一方で、ロートリアとブラウリアはいまもなお関わりを断っている――。
第一章:覚醒と旅立ち
奇妙な世界だ。
眼前の光景に対して、ロイ・カーヴェルが抱いた感想であった。不鮮明でモノクロな背景。そして視界に映る原色の赤と青。背景は白黒で、さらにぼやけてよく見えないのに、その色だけは明瞭に存在している。だが、それが人の形をしている、ということまでしか判別できず、彼らの顔は背景と同じでぼんやりとしていた。年齢もわからない、性別もわからない。不気味な存在だ。辺りに視線を走らせて、視界に自分のレザージャケットが入っていることが確認できた。どうやら自身がこの世界で最も鮮明な存在であるらしい。金色のクセ毛をがしがしと掻き、青空を映したような色の目を必死に凝らす。やはり詳細を判別することはできない。
彼らはなにやら話し合っているようだ。言葉も曖昧でよく聞き取れないのだが、話し方から周囲をひどく警戒しているということだけは理解できる。彼らが細いなにか――おそらくは、腕を伸ばした。それを相手にかざし、ぶつぶつと謎の文章を唱えている。それは呪詛のようにロイの耳にこびりつく。
呻きながら頭を抱えるロイ。しかし呪詛は治まることを知らず、どんどん大きくなっていく。耳元でしか発生していなかった不快感はやがて全身に広がり、身体の内側を激しく掻き毟られるような感覚に変化していった。
苦しい、やめろ、助けてくれ!
心がどれだけ訴えても容赦がない。いい加減、発狂するのではないかというところで急に不快感が失せた。解放された結果、今度は重たい疲労感に襲われる。
――……よ、再――……我ら、――……いを――……。
ザザザ、と耳障りな音の中に、人の声が混じっていた。だが音が大きすぎてなんと言っていたかはわからなかった。
モノクロの視界は完全な暗闇となり、音も遠ざかっていった。ぽふ、と背中が柔らかいものに沈むのを感じた。それが自室のベッドであることに気づき、ロイは気だるそうに目を開けた。無機質な鈍色の天井、ベッドのそばにある窓からは優しい朝日が注いでいる。身体を起こして見回せば、足の踏み場もないほど散らばった工具の数々。鼻孔を衝くのは食欲そそる朝食の香りなどではなく、顔をしかめるほどの油のにおい。
隙間から忍び込んできた冷気に、ロイはぶるりと身震いした。窓を覗けば一夜のうちに白い絨毯が敷かれていた。昨晩からずっと降り続いていたようだ。広大なロートリア皇国の中でも年間を通して白雪が降り積もる田舎町イヴェラス。ここに住んでもう十八年になるが、いまだに寒さを許容できていなかった。
「雪なんて降らなくていいってのによ。うー、寒い寒い」
冷気は暖気より重いので低い場所に溜まると聞くが、たかが一軒家の二階と一階ではそこまでの差はない。二階にいようと寒いものは寒い。仰向けに倒れ、布団の中で再び暖を取ろうとした矢先であった。ロイの鼻先をなにかが掠め、金属が激突したような音が響いた。古ぼけた玩具のようなぎこちない動きで音のした方を見れば、金槌が壁にめり込んでいた。タイミングを違えていればあれが側頭部を破壊しただろう。冷気とは別の寒さに襲われ、再び震える。
「いつまで寝てんだ馬鹿息子」
布団が引き剥がされたのは、野太い声がロイを呼んだのと同時だった。温もりが一瞬のうちに奪われ、露出された細腕がぶつぶつとざわめく。慌てて起き上がり、父親――アーロン・カーヴェルに抗議する。
「いきなり布団剥ぐんじゃねえよ! 死ぬかと思ったじゃねえか!」
激昂するロイをよそに、アーロンはハンッと鼻を鳴らして背を向けた。
「十八年もイヴェラスに住んでていまさらなに言ってやがる。ほら、とっとと着替えて仕事を手伝え」
「飯食ってからな」
アーロンに対して反抗心を剥き出しにしながら枕元を探る。中途半端に空けられたパッケージからブロックタイプのサプリメントを取り出す。何日前に開封したかは覚えていなかった。おもむろに口に運び、荒く咀嚼したのちに飲み下す。これがロイの朝食であった。
「よし、オッケー。着替えてから行く」
「二度寝するなよ。今度は外さねえからな」
くい、と手首を捻るアーロン。それが金槌を投げる動作であることはすぐに理解した。嫌な寒気を感じ、ごくりと喉を鳴らして頷いた。部屋を出る父親。蝶番のギィィという音がえらく不気味に聞こえ、ロイは手早く着替えを済ませる。
紺色のつなぎに緑のバンダナ、ついでに白い軍手。ロイの作業着は洒落っ気の欠片もない、油塗れのファッションだ。
彼はアーロンが経営する“カーヴェル武器商店”唯一の従業員である。過去には他の従業員もいたのだが、アーロンの教育に耐え切れず行方を眩ました者がほとんど。結果として、最後に残ったのは一人息子のロイだけなのである。
急いで階段を駆け下り、仕事場へ向かう。店舗はカーヴェル家の一階にある。棚にはところ狭しと武器が陳列されており、一般的なロングソードやダガーのほか、レイピア、銃剣、ハンマーからハルバード、拳銃なんかも取り扱っている。ロートリア皇国の中でも品揃えの豊富さで有名になっており、はるか遠方の帝都から直々に依頼が舞い込んで来たりもする。
しかし、武器を取り扱っているということで忙しいときの方が少ない。むしろ武器屋が商売繁盛するような時世になってはいけないとロイは考えていた。
「まあ、今日も今日とて世界は平和なわけで」
「だったら武器の設計でもしてろ。常に新しい発想を持て」
「はいよ」
アーロンの指示に従い、ロイは奥の鍛冶場に向かう。客の入りが少ない時期は奥の鍛冶場で新しい武器の設計をしていたりする。カーヴェル武器商店は、仕入れて売るだけではないのだ。
鍛冶場は暗く、照明を点ける。ところどころが煤け、吐き出す息が白くなるほど冷えている。これが屋内の空気などとは考えたくもない。ロイは作業台に製図用紙を広げ、ペンを執る。深く椅子に腰かけていたロイだが、すぐに背もたれに身を預けだした。
「さて、新しい発想ねえ。どうすっかなあ」
しばらく上の空でいると、売り場の方から声がする。アーロンが接客しているのだろう、相手はおそらく、お得意先のイヴェラス自警団、そのリーダーであるジョシュアだ。どんな会話をしているのだろう? わざわざ世間話をしに来たわけではないはずだ。趣味が悪いと言われても仕方がないが、そっと扉に歩み寄り耳をそばだてる。相手の声は自警団の長であった。
「そうか、わかった。すぐ用意する」
「すまないな、アーロン。お前だって不本意だろうに」
「たしかにな。武器屋が繁盛したって、なにも嬉しかねえ」
「はは……」
どうやらアーロンも自分と同じことを考えていたらしい。どこかで聞いた「カエルの子はカエル」という言葉を思い出した。
……だが、気になる話だ。あの口振りだと、近いうちに店が繁盛するらしい。また争いが起きるのだろうか。イヴェラス自警団が武器を取る理由。そんなもの考えなくてもわかる。この田舎町になんらかの脅威が迫っているということだ。だが、こんな田舎町にいったいなにが?
アーロンに気づかれるとどんなお仕置きを受けるかわかったものではない。ロイはそろりと忍び足で作業台に戻り、あたかも真面目に考えていましたよ、という体を装った。
そんな子供だましが通用するわけもなく。きつい拳骨を見舞われた。やはり父親には敵わないと痛感した一日であった。
カーヴェル家の庭は広く、大人二人が全力で運動しても不自由しない。陽の光が赤みを帯び始める頃、作業着のロイとアーロンが対峙していた。両者の手には、木でできた訓練用の銃剣。吐く息は白く、時折吹く風は身を切る冷たさ。アーロンは銃剣の先端をロイに向ける。ロイはと言うと、右肩に担いで身体の力を極力抜いた。
「相変わらずやる気の感じられない姿勢だな、ロイ」
「無理して気張るよりいいだろ? オレはこっちの方が性に合ってんだよ」
「ふん、気絶したら庭に放置しておくからな」
「この冷血親父」
軽口を叩く二人だが、表情は能面のように変化がない。本心はもっと別のことを考えているからだ。武器を握る手に力が入る。
最初に地面を蹴ったのはロイ。銃剣を頭上に振りかぶり、小さな跳躍ののちに振り下ろす。アーロンはそれを武器で受け止めると、力任せに打ち払った。宙を舞うロイの身体。アーロンは追撃と言わんばかりに走り出す。武器を持つ手を後方に引き、疾走の勢いをそのままに突き出した。無防備に落下するロイの脇腹を狙い違わず打った。
「うげえっ!」
数メートルほど吹き飛んで雪の山に突っ込むロイ。痛みに喘ぐ暇もなく、喉元に銃剣が突きつけられる。アーロンは心底呆れたようなため息を漏らす。その吐息の色も、どことなく濁っているように見えた。
「性に合っている、とお前は言ったな?」
「そうそう。でも、親父みたいなどっしり重たい人には相性悪いみたい。あっはっは……ってなあ!」
わざとらしい乾いた笑いから、足を突き出した。不意を衝いた一撃はアーロンのすねを的確に捉え、僅かな隙を生む。それを逃さず銃剣を振り上げるロイ。アーロンの武器が宙を舞い、雪でできた丘に埋もれた。
「このガキッ……!」
「勝ちゃいいんだよ、勝ちゃあ!」
すぐさま体勢を立て直し、アーロンから距離を取る。そして、間合いの遥か外で銃剣を振り上げた。剣圧による衝撃波が雪を巻き上げながらアーロンに迫る。しかし速度は遅い。アーロンは横っ飛びでそれを回避すると、銃剣を再び手にする。
「訓練だから良かったものを」
「油断大敵って知ってるよなあ、親父?」
にやりと得意げに笑う。それがアーロンの逆鱗に触れたらしく、気づいたときには銃剣が“飛来”していた。かわすこともできず、回転する銃剣が顔面に命中。視界が眩んだその刹那、作業着の胸倉がむんずと掴まれた。
「悪ガキにはお仕置きだな」
重たい音が響いたのと同時、曖昧な視界が激しく揺れた。頭突きを見舞われたのだと理解するのに時間はいらなかった。薄れゆく意識の中、ロイは内心で呟く。
――親父の不意打ちも大概じゃねえか!
声に出すこともできないほど急速に闇が迫ってくる。抗う隙もなく、ロイは意識を手放した。
耳をつんざく爆音と同時、世界が揺れた。沈んでいた意識が一気に呼び起こされる。反射的に跳ね起きて、唐突に襲ってきた冷たさに震えた。太陽が地平線に飲み込まれようとしていた。
……本当に庭に放り出してやがっただと!? 父親の所業じゃねえ!
寒さと怒りに震えながら、ロイはまず店に戻った。アーロンと合流しないことには、状況の把握もできない。だが、売り場にも鍛冶場にも父親の姿はなかった。まさか、事態の鎮圧に向かったのだろうか?
「アクティブな一般市民だぜまったく……!」
アーロンは自警団ではないが、野党が出た際は最前線で戦っていたという話を聞いたことがある。本人からではなく、自警団の長からの情報だからたしかなものだろう。数多の従業員が逃げ出した彼の教育は、武器の扱い方のレクチャーであった。『武器商人たるもの、正しい使い方を客に教えられなくてどうする』という理念があるらしいが、いかんせん教育に熱が入りすぎてついて行けなくなったという話を、辞める前に何度も聞かされていた。アーロンがどこで武器の扱いについて学んできたかは、ロイも知らない。
「ここにいてもラチがあかねえ」
ロイは棚から適当に銃剣を掴む。引き金のところから先端にかけて大振りな刀身が伸びている形だ。銃身には無色透明の球体があしらわれている。
向かうのは、爆発のした方向。町の外れ、ウィートの森の方だ。
ざくざくと雪の絨毯に足跡を残しながら走る。本物の銃剣は思ったよりも重量がある。本物の武器を手にしたからには、ある程度の覚悟は必要。それはロイもわかっている。だが、いざ命を奪わなければならない状況になったとき、本当にそれができるのかが疑問であった。
――できれば、物騒な使い方はしたくねえんだよなあ。
などと願っても裏切られるのが世界の理というもので。禍々しく異形化した怪鳥がロイの前に現れた。身の丈百七十センチ程度のロイと並ぶサイズだ。怪鳥は掠れた声で高らかに鳴く。仲間を呼ぼうとしているのだ。
「いきなりかよ……」
ロイは銃剣を担いで戦闘態勢に入る。ロイにとっては初めてとなる命のやり取りだ。柄を握る手が汗ばむ。振った勢いですっぽ抜けてしまいそうだった。
先手必勝。ロイは銃剣を両手で構え、銃口を怪鳥に向ける。引き金に指をかけ、足に力を込めて引いた。瞬間、銃口が火を噴き、弾丸が空を翔けた。緋色の閃光は怪鳥の左足を貫く。それが怒りを買ったらしく、けたたましく鳴いた。
仲間が来る前に決着をつけなければ。ロイは自ら接近する。厳しい自然の中で野性を育んだ怪鳥が安易な接近を許すはずがなく。身を翻して翼を叩きつけるように振るった。
「う……おぉっ!?」
雪の積もった足場だ、急激には止まれない。ロイはとっさに銃剣を掲げ、刀身と銃身でその攻撃を防御しようとした。しかし、間に合わない。スピードのある一撃はロイの肩を叩いた。思いのほか強力な一撃。踏ん張り切れず、雪の山に突っ込んだ。本日二度目、嫌になる。
「ぶはっ! こんにゃろ……!」
体勢を立て直すため、二、三発弾丸を放つ。ただの威嚇射撃であったため、掠りもしない。それが怪鳥の接近を許す結果となってしまった。鋭いくちばしが迫る。回避は不可能、咄嗟の判断はひどく冷静だった。このまま脳天を貫かれて死ぬのだろうか? そんな予感が脳裏を掠める。
「冗談じゃねえぞ!」
やけくそに銃剣を振るう。無茶苦茶な威嚇であったが、怪鳥は攻めあぐねている。だが、ここからどう反撃すればいい? ロイにはそれがわからない。考え無しに武器を振るっていたって、そのうち突破されてしまうのは明らか。救援なんてあるはずが――。
白い影が視界の端から現れた。それはなにか細長いものを一閃させる。それが刀だと気づいたときには、怪鳥が血飛沫を散らしていた。まさか、本当に救援が?
それは可憐な少女であった。褐色の肌を白い和装で包み、黒の長髪をうなじの辺りで結っている。身体の線は細いものの、その手に握るのは妖しく煌めく白銀の刀。それは東の国に伝わる武器らしく、カーヴェル武器商店ですら取り扱っていないし、イヴェラスでも見たことがない。
少女は刀を腰溜めに構えると、ロイを一瞥した。紅玉のように深い色をした瞳だ。茜色の光に晒された少女の顔貌は美しいものである。険しく釣り上がった眉と厳しい目つきは少女に近寄りがたい空気を与えていた。
「あんたは……?」
「話はあとで。まずはこいつを片づける。協力をお願いしたいんだけど?」
少女の言葉は至極簡潔であった。魔物を目の前にしてお喋りなんてできやしない。ロイは少女の隣に立ち、再び銃剣を構える。
「俺、誰かと一緒に戦ったことないんだけど?」
「奇遇だね、私も」
「大丈夫なのかよ、それ」
「なるようになる、って言葉がある」
「ハッ、じゃあ問題ねえか。来るぞ!」
怪鳥が一際高く鳴いた。道の端からぞろぞろと小さな鳥が姿を現した。小鳥、と言うには少々凶暴な面が目立つが。再び声をあげる怪鳥、それを合図に小鳥の群れが一斉に飛びかかってきた。
まずは散開。固まっていては良い的だ、その程度の判断ならロイにもできた。少女も同じことを考えていたようだ。ロイとは反対側に飛ぶと、刀を頭の高さまで持ち上げ、地面と水平に構える。
「――ソフィア・ベル・スタディオン! 参る!」
ソフィアと名乗った少女のもとに、三匹の小鳥が飛来した。銃撃で援護をと考えたロイであるが、彼女の邪魔になるかもしれないと考えてしまい、引き金にかけた指を離す。
「他人のこと気にかけてる余裕はねえな……!」
どういうわけか、群れは全てソフィアの方へ向かっていた。いま、ロイの眼前に立ちはだかるのはボスクラスの怪鳥のみ。緊張で手が震える。あのくちばしで胸を一突きされたなら――考えたくもない。気を引き締める。
まずは銃撃による牽制。一発撃つたびに肩に加わる衝撃は馬鹿にならない。慣れないせいか、思ったところに当たらない。頭部を狙った射撃は空を切り、明後日の方向へ飛んでいった。怪鳥が攻めてくる。勢いのある低空飛行、鋭いくちばしがロイの腹部をえぐりに来た。
「させっかよ!」
照準、怪鳥。射撃の反動に負けないように、両手でしっかりと柄を握る。怪鳥をギリギリまで引き寄せて――一撃、必中!
「撃っ……てえ!」
瞬間、銃口が文字通り“火”を噴いた。銃口から放たれたのは炎の弾丸、引き金を引いたのは一回だけなのに、間髪入れず三つの火球が放たれた。至近距離から放たれた火炎は怪鳥を焼き、けたたましい悲鳴を誘う。
……いまのはなんだ? 普通の銃撃ではない? だが――
「チャンスッ!」
ロイは銃剣を振り上げると同時に跳躍。勢いに任せた一撃は怪鳥の巨体を空中に晒す。それだけでは終わらない。ロイは銃剣を頭上に掲げると、体重と落下の勢いを乗せて振り下ろした。着地は失敗したものの、鋭い一撃は怪鳥を絶命に追いやる。怪鳥の死骸は見る見るうちに灰色になり、やがて砕けた。吹き抜けた風がその残骸をさらい、彼方まで運んでいく。
それと同時、視界の端で混戦を繰り広げていたソフィアも小鳥の駆除を終えたようだ。
「大丈夫か!? って、あれ?」
駆け寄ろうとするが、身体が動かない。張り詰めていた神経が一気に弛緩したせいだろう。安堵感からか、腰が抜けてしまったのだ。
……やっべ、俺、めちゃくちゃカッコわりぃ。
「立てないの?」
気づけばソフィアが刀を収め、ロイに視線を注いでいる。ここはもう少し良い格好をしておくべきだと、無理矢理立ち上がる。しかし雪に足を取られて、無様に転倒してしまった。やはり格好がつかない。
ソフィアはやれやれと肩を落とし、ロイの腕を引っ掴む。そのまま力任せに身体を起こした。
……女に立ち上がらせられるなんて、ダッセェな。
立ち直る暇もなく、ソフィアが刀の切っ先を町の方へ向けた。
「早く帰った方が良い。私一人じゃ貴方を護りきれない」
「あん……?」
それは暗に、ロイが戦力外であるということを示していた。初対面の、どこの誰とも知らない人間に突然役立たず扱いされては、黙ってはいられない。ロイはソフィアに詰め寄り、威嚇の意味を込めて見下ろした。
「ちょっと待てよ。なんでお前が俺を護るって話になってんだ? テメェの身くらいテメェで護れらあ」
「……? あんなに無様な戦い方で、自分の身は自分で護ると言うの?」
「ぶっ、ぶぶぶ、無様だと!?」
驚くべきことに、ソフィアの声音には悪意が含まれていなかった。ただ、純然たる事実として、ロイが役立たずであると告げているのだ。それが余計な怒りを買う結果となった。だが、なにを言おうか迷っているうちにソフィアは背を向けてしまう。視線の先には、不穏な煙がもくもくと立ち昇っていた。
「行かなきゃ」
ぽつりと呟くソフィア、雪に足を取られることもなく、事件現場と思しき場所へ駆け出した。言いたいことも言えずに置いてけぼりを食らう羽目になってしまったわけで。ぷるぷると震える拳を握りしめながら、掠れた声で笑った。
「は、はははっ……ふざけやがってあの女、絶対吠え面かかせてやる!」
安い矜持で恐怖心を拭い去り、ソフィアのあとを追いかけた。
雪を被った枯れ木の間をぐんぐん進むソフィア。あんな着物を着ているにも関わらず、ずいぶんと身のこなしが軽い。裾に足を取られてしまえばいいのに、などと考えてはみるが、そんな様子は一切見せなかった。
「おいっ、ちょ、待て!」
ロイの言葉には耳も貸さない。だが、このまま彼女を走らせていれば、少なくとも事件の現場には到着するだろう。名誉挽回はそのときでいい。いまは言いたいことを飲み込み、ソフィアを見失わないように走り続ける。
木々の合間を軽快に駆けるのは難しいもので。足を運んだ先で雪に埋まるなんてことはザラだ。特に、人の手入れが及んでいない郊外ではなおさら。地元民でさえそうなってしまうのに、いったいどうしてあそこまで淀みない足取りをキープできるのだろう。ロイにはわからなかった。
ソフィアの前に魔物が立ちはだかる。異形化して牙が禍々しく進化したイノシシだ。
「邪魔をしないで」
刀を抜き放ち、身を翻しながら一閃。軌跡に白光が走り、イノシシの鼻っ面を切り裂いた。しかし、それで絶命するような魔物でもない。激昂したイノシシは地面を勢いよく蹴り、ノーモーションの突進を繰り出した。攻撃直後のソフィアには、防御も回避もできない。
「倒れろ!」
それはどちらに向けて言ったのか、咄嗟に出てきた言葉のためロイにも判断できない。しかし指は引き金にかかっており、弾丸を放とうとしていることは遅れて理解した。ソフィアはこちらに視線を向けることもなく、左に身体を倒して雪の中に突っ込んだ。それを合図にロイは引き金を引いた。緋色の閃光が走り、ボアの右の牙を撃ち抜いた。牙が粉々に砕けたことで、ソフィアはかろうじて致命傷を避けることとなった。が、イノシシの進行方向にはロイがいる。どちらにしろ、危機から逃れられているわけではない。
――どうする? かわせるか?
そのとき、銃身にあしらわれた宝石が赤く輝いた。途端、銃剣が僅かに熱を帯びた。
「イチかバチか……ってなあ!」
銃口を再びイノシシに向け、引き寄せてから、引き金を引く。すると今度は、獣の形をした赤いエネルギーが放出された。肩にかかる衝撃も相当大きいが、破壊力も通常の射撃の比ではない。イノシシは全身に火をまといながら吹き飛んだ。
「やっちまえ、ソフィア!」
「当然」
体勢を立て直したソフィアは刀を振りかぶり、跳躍。落下の勢いをそのままに叩きつけた。まさに一刀両断。イノシシは真っ二つに切り裂かれ、やがて灰色の塊となり粉砕した。
そこでようやく追いついたロイはソフィアに拳骨を一発くれた。突然の衝撃に困惑したような表情を見せるソフィア。
「油断してんじゃねえよ! 魔物は普通の動物じゃねえんだ!」
「実戦経験のない貴方がそれを語るの?」
「うるせえ。魔物は危ない、なんてのは常識だろうが。誰に言われてもおかしかねえ」
「そういうもの?」
「そういうもんだ」
いまひとつしっくり来ていないようで、ソフィアは顎に手を当てて、「ふむ……」と考え込む。そんなことをしている場合ではあるまいに。
「ほら、行くんだろ? 急がねえと、もう終わっちまってるかもしれねえぞ」
「そうね。ここで考えるだけ時間の無駄。あとでゆっくり考える」
いちいち言い方が癇に障る。ロイはひそかに拳を握り締め、再び走り出した。どうやらソフィアは事件現場の位置を正確に把握しているらしく、彼女に着いていくことが一番の近道になりそうだ。
そうして走り続けていると、視界が開けてくる。まず見えたのは川であった。川上の方に視線を投げかけると、そこには滝がある。イヴェラスは雪こそ降るが氷点下になることはまれなため、こうして変わらず流れ続けている。
「あれは……」
その滝の下、戦闘はそこで繰り広げられていた。そこにはイヴェラス自警団が数名と、案の定アーロンもいた。なんと徒手空拳。武器を使っていないことにロイは驚愕を隠せなかった。
相手は三人。ゆったりとしたローブに身を包んでおり、フードを目深に被っているものだから顔は窺えない。だが、あの服装はイヴェラスでは見たことがない。それに、武器は揃いも揃って小ぶりな剣。安価なものでとりあえず揃えた、とでも言いたげだ。
気になる点はまだある。イヴェラス自警団の面子は五人いたのだが、そのうち四人が倒れている。立っているのはリーダーの男、ジョシュアのみ。あの程度の武器で自警団を負かすなんて考えられない。自警団とは言え、実戦経験がないわけではないはずだ。なにより不可解なのは、不審なクレーターができていることや枯れ木が燃えカスになっていたり。どんな兵器を使えばあんなことができるのか。
……何者だ、あいつら? いや、それよりだ。
ロイは悩んだ。加勢するべきか、傍観するべきか。実戦経験がない、ましてや人間が相手ではろくに戦える気がしない。手のひらが滲む。
……どうする?
などと逡巡していると、ソフィアは再び刀を抜いた。その瞳は戦場に向けられている。力強い光を灯していた。
「助太刀。行きます」
短く告げて、ソフィアは駆け出した。躊躇のない一歩は力強く地面を蹴った。宙を舞う彼女は着物の裾を風になびかせる。アーロンとジョシュアは突如現れた謎の少女に視線を奪われた。それはローブの集団も同様だった。
「遅い!」
刀を振り抜き、衝撃波を生み出す。それはローブの集団に向かって飛来し、雪煙を巻き上げた。遠目に見ているロイでは現状が把握できない。しかし、地面を揺らすほどの衝撃が発生したのと同時、光の柱が発生し視界を遮っていたものを吹き飛ばした。地面に刀を叩きつけたソフィアが見えた。ローブの集団は煙と共に吹き飛んだようだ。
「きみは?」
アーロンが問いかける。ソフィアは刀を構え直し、二人を一瞥した。
「ソフィア・ベル・スタディオン」
「……! ジョシュア、お前は下がっていろ。俺とこの少女だけでいい」
「は? しかし」
なにか言いたげなジョシュアを無言で制するアーロン。彼を退かせ、二人だけで戦おうなどと言い出すとは。そう言わせるほどの実力が、ソフィアにはあるということだろうか?
団員たちを避難させようとするジョシュア。その背中を見送りつつ、アーロンはローブの集団に向き直る。隣には刀を構えるソフィア。あの二人がいれば、自分が手を貸す必要などないような気もする。
……高見の見物してても問題なさそうだな。お手並み拝見といこうじゃねえか。
「そこっ!」
ソフィアが横一線に刀を薙ぐ。小剣を盾代わりにしてかろうじて致命傷は避けたものの、衝撃の緩衝はできていなかった。ローブ姿の一人が凍てつく滝壺に突っ込んだ。攻撃の直後は隙ができるもの。ソフィアに襲い掛かる凶刃。両者の間にアーロンが割って入る。小剣を振り下ろした――と、思っただろう。彼は宙を舞っていた。アーロンが攻撃をいなして投げ飛ばしたのだ。そのまま跳躍し、左手でアッパーカットを繰り出す。そのまま身を捻り、踵落としを見舞う。地面に叩きつけられ、雪に身を埋めるローブ姿。
背中を預け合い、深呼吸をひとつ。
「なかなかやるな、お嬢さん」
「そちらもね。おじさん」
アーロンもソフィアも声には微塵も焦りがなく、どこか余裕さえ感じさせた。戦い慣れていることがよくわかる。躊躇がまるでない。
「親父、マジで強かったんだな……」
さすがに驚いた。ジョシュアから話に聞いた程度だが、拳や蹴りのキレが一般市民のそれではない。町で喧嘩を吹っ掛けられようものなら、相手を殺さない程度の加減が必要なのではないか? ロイは戦慄する。そして、二度とアーロンには逆らわないでおこうと心に刻むのであった。
残りは一人。だが、彼は近寄ってこない。距離を置いたまま、動こうとしないのだ。様子を窺っているのだろうか。勝てる見込みはほとんどないのだから、逃げる機会を見計らっているのかもしれない。
アーロンが最後の一人に向けて告げる。
「ここで素直に身を退くのであれば、命を奪いはしないが……どうする?」
「待って。なにか、おかしい」
アーロンを制したのはソフィアであった。刀の切っ先を一人に向け、警戒を強める。
敵を中心に奇妙な模様が発生した。それは赤く、熱を持っているようだ。足元の雪が一気に溶け、蒸発している。なにが起こるのか、ロイはなんとなくわかった。
先ほど、銃剣から放たれたのと同じ――いや、それ以上の力が発生しようとしているのだ。たまらず身を乗り出す。
「危ねえぞ、親父! ソフィア!」
ロイの警告も虚しく、敵を中心に描かれた模様が弾け飛ぶ。すると、敵の上空数メートルの空間が裂け、そこから炎をまとった岩石が幾つも降り注いだ。雪を溶かし、地面を穿つ。直撃すれば、脆弱な人間の身体などあっという間に消し飛んでしまうような、超常の現象。
いったい、なにが起きている? 二人は無事なのか? ロイの不安は消えない。途端、彼の隣に何者かが降り立った。高所から飛び降りたのだろう、足元の雪が僅かに舞う。敵から目を離してはいけないと思いつつ、ちらりと隣を見やる。そこには倒れたアーロンとソフィアと、謎の人影がひとつ。
その人影は少女であった。金色の短髪に、カチューシャ着用。闇のような色の軍服はどこのものなのか、ロイには判別ができない。腰に下げた長短一対の双剣は鞘に収まっている。小柄ながらもどこか逞しさを感じさせる身体つきは、一般市民のそれではない。特別な訓練を受けた、戦士の肉体だ。
どうやら目の前の少女が二人を運んできたらしい。アーロンもソフィアも、気絶しているのかまるで動く気配がない。つまり、いまこの場で戦うことができるのは、ロイと双剣の少女のみ。敵はこちらに視線を向けたまま、動かない。今度はこちらが選択を迫られている。あの不思議な力を前にして、逃げるか、戦うか。
――そんなもん、決まってんじゃねえか。
ロイは銃剣を握る手から力を抜いた。アーロンを担ぎ、敵に背を向ける。あんな力を前にして、こんな武器でいったいなにができるというのだ。そう思っていたのは、ロイだけのようだった。少女は双剣を構えると、敵に向かって疾風のように駆け出した。
抵抗の意志があるとは思わなかったのだろう、敵は一瞬、狼狽したように身を竦ませた。それはロイも同じであり、思わず足を止めてしまった。
「なにやってんだ、あいつ!」
アーロンを木の幹に寄りかからせて、少女の後を追った。銃剣を片手に、だ。
少女は疾走の勢いをそのままに、左手の短剣を突き出す。敵は剣の腹でそれを防ぐ。しかし、瞬きひとつの直後。少女は敵の背後に回っていた。遅れて、敵の胸部が引き裂かれる。突きはおとり。本命は、それを防いだ後。ロイの目には捉えられなかったが、おそらくは二撃。敵の胸に刻まれた真っ赤な十字の傷を見て、ようやく理解できた。少女の攻撃は終わらない。再び地を蹴り、振り向きざまに一撃。今度は背中をえぐる必殺の突きだ。回避もままならず、敵は血の池に伏した。
「……は、はは。俺が出る幕もなかったか」
内心、安堵した。人間に武器を振るうことには、まだ抵抗があったからだ。武器の扱い――主に銃剣の扱い――を学んでいたのは商売に必要だったからであり、決して人間を相手取るためではない。
少女は双剣を鞘に収め、血溜まりに倒れる敵に歩み寄る。なにをするのかと思っていると、短く一言だけ。「ごめんなさい」と告げた。情けなど微塵も感じられない躊躇の無さであったが、奪った命に謝罪した。状況が把握できていないロイは、目の前の懺悔の意図がまるで読めなかった。
少女の視線がロイに向く。あどけなさの残る顔立ちだが、迷いが見えない。戦場に立つ者としての覚悟が決まっているように思えた。しばし、無言で見つめ合う二人だが、少女は唐突に表情を崩した。眉は八の字、口はみっともなく開閉を繰り返す。慌てたような、どことなく情けない表情。
「あ、あの! 私はですね、なにも好き好んでこの人の命を奪ったわけではなくてですね! 違うんですよ、殺人でエクスタシーとかそんなのは微塵もなくて、えっとですね、 えっと……ですね! 私、こういう者でして!」
言葉も要領を得ない。ロイの表情がどんどん険しくなっていくことに気づいたのか、少女は胸元からぶら下げた懐中時計を手に取った。そこにはなにか奇妙な模様が描かれていたが、それがなにを意味しているのか、ロイにはわからない。これがどうしたのか、怪訝そうに首を傾げるロイ。その仕草が余計に少女を戸惑わせたようだ。
「えっ、えっ!? えっと! 嘘でしょ、ロートリアでも通じるって言ったのに……えーん!」
なにか言う前に泣き出してしまった。今度はロイが戸惑う番らしい。目の前で女の子に泣かれたのは初めての経験であり、どう対処していいのかわからないのだ。おろおろと右往左往するロイと、大声で泣き喚く少女。傍目には奇妙な光景である。
「“ブラウリア王国近衛師団”……」
その声は背後から。振り返れば、そこには足元の覚束ないソフィアがいた。
しかし、いま彼女はなんと言った? ロイは耳を疑った。なぜなら、ロートリアでは長らく聞かなかった名前だからだ。
「ブラウリア……だあ?」
ロイの住むロートリア皇国とは長らく縁を絶っていた、遠い昔の敵国。その国に忠誠を誓う兵士の証を、少女が持っている。
なにか、大きなものが動き始めているのではないか? その想像は茫漠としていて、一般市民であるロイの胸中は言い知れぬ不安に支配された。
「っ、うぅ!?」
途端、ロイは頭に激痛を感じる。側頭部を撃ち抜かれたような、鋭い痛み。視界が歪み、思考が溶ける。なにも考えられず、ただ痛みに喘ぐばかり。それはロイだけでなく、ブラウリアの少女も同じであった。跪き、頭を抱えて悲痛な叫び声を上げている。唐突の出来事に、ソフィアも対応に困っていた。
そこに駆けつけた大きな人影。それがロイの身体を支え、声をかける。「大丈夫か、しっかりしろ」と。しかしいまのロイには、その程度の言葉を認知する余裕さえなかった。
――いに、見……た。……盟友――。ち……を、は……やつ……復讐を。
……なんだ、ってんだ。くそっ、気持ち悪い――。
内心で毒づいて、意識の深淵に生まれたいばらの庭にその身を浸していった。
自身の奥底にある領域は、どこからともなく現れた無数のいばらに占領されていた。気が休まることもなく、とげが食い込みじわりと血を滲ませる。もちろん、ここは実際に存在する空間ではないので本当に血が流れているわけではない。ただ、その血が奪っていく熱がいやにリアルで、あっという間に身を切るような寒さが訪れる。やがてその思考も停滞していき、この空間におけるロイ・カーヴェルが消えてしまうのではないか、と考えた。はっきりとしない思考の中で、恐怖だけが鮮明にロイの全身を駆け巡った。
死んじまうのかなあ、俺。怖いなあ、呆気ねえなあ。……嫌だね、まだまだやりてえことがあるんだよ、きっと。だからほら、とっとと起きろよロイ・カーヴェルさんよ。
いばらの庭に変化が訪れる。ロイを苦しめるいばらは瞬く間に土気色に変色し、さらさらと砂のように崩れていった。真っ暗な空間に取り残されることもまた、ロイの恐怖心をさらに煽った。それと引き換えに、五感が帰ってくる。
油の匂いを的確に捉え、包丁がまな板を叩く音をキャッチした。金属特有の冷たさを唇に感じた。うっすらと目を開ければ心配そうな面持ちでスプーンをかざす少女を認識し、半開きになった口から流し込まれた熱い半固形状の物体が味覚を刺激した。これは、アーロン特製のオニオンスープだ。
「んあ……ここは?」
「目が覚めました……?」
様子を窺うように顔を覗き込んできたのは、双剣使いの少女。穏やかな笑顔を見せ、「アーロンさん、ロイさんが目覚めました!」と嬉しそうな声音で言うのだ。。
どうやらロイはソファに寝かされていたらしく、すぐそばの椅子でアーロンが新聞を読んでいる姿を確認した。少し離れたところにはソフィアもいる。部屋の内装を一通り見回して、ようやくここが自宅であることを認識した。
「具合はどうだ、ロイ」
アーロンの声はいつも以上に低く、ロイは背中に冷や汗を感じた。
「あー……まあ、悪くねえよ。女の子にあーんしてもらったから、元気三倍くらい」
「えっ!? あ、あーんだなんてそんな、違うんですよ、ただ、誰もあなたにご飯食べさせてなかったから……私が仕方なくというかなんというか」
慌てふためく姿はどことなく微笑ましい。いじめてやりたい衝動に駆られるロイだが、それどころではないことくらいわかっている。痛みの余韻が残る頭を押さえつつ立ち上がる。テーブルを挟み、アーロンの対面に座った。
「親父に聞きてえことがあんだけど」
「俺より、お嬢さんたちに聞いた方が早いところだと思うが?」
ちらりと二人に目配せするアーロン。ソフィアは静かに目を伏せ、双剣の少女はびくんと肩を跳ねさせた。
そういえば、とロイは考える。二人の素性をまるで知らないのだ。話を聞くよりも、まずは二人がどういう人間で、どういう経緯でここにいるのかを知る必要があるのではないか?
「ソフィア、と、そっちの女。お前ら、何者だ?」
「私から名乗る。いい? ブラウリアのお嬢さん」
ソフィアは双剣の少女に問う。少女はこくこくと頷いた。
着物の袖をまくる。腕には不思議な刺青。色は白で、星に重なるように十字架が描かれたデザインだ。
「これは“スタディオン”の名を持つ人間に受け継がれる証。“誓いの刃(ジャッジメント)”の一員である証」
「“誓いの刃(ジャッジメント)”……?」
話に聞いたことはある。かつて、ロートリア皇国とブラウリア王国の戦争を終結させた七人の英雄。戦争自体は確かにあったのだろうが、たった七人で数千数万の人間を圧する力があるとは思えなかった。“誓いの刃(ジャッジメント)”という存在は架空のもの、どこかの誰かの創作の登場人物だとばかり思っていた。
だが、事実として目の前に“誓いの刃(ジャッジメント)”を名乗る少女がいる。ある種、夢でも見ているような感覚であった。
「ってことは、なんだ。お前の先祖は武賢戦争を終結させた英雄ってわけか?」
「正確には、私の先祖じゃない。私の師匠の、そのまた師匠の師匠の師匠の師匠の……」
「もういい、わかった。なんだ、家系ってわけじゃねえんだな」
「そう。師匠にとって“スタディオン”の名に相応しいのが私だった。それだけのこと」
ソフィアの表情はどことなく誇らしげで、仮面のような顔に僅かながら笑みが見える。彼女がなにをしている人間なのかが少しだけわかったところで、今度は双剣の少女に視線を向ける。「わ、私ですか?」と自身を指差す少女。お前以外に誰がいる、と言いたげな三人。少女はこくんと頷いて、わざとらしい咳払いをひとつ。次の瞬間には、表情は引き締まっていた。
「申し遅れました。私、ブラウリア王国軍近衛兵団のイヴ・レヤードと申します」
「近衛兵団だあ? だったらなんで遠路はるばるロートリアまで来たんだよ、近衛師団って、王様護るためのエリート集団なんじゃねえの?」
「それは……言えません」
「ああ?」
イヴの言葉に、ロイの口調が荒くなる。先ほどまでの毅然とした態度は一瞬で崩れ、不自然に視線を泳がせた。なにかを言おうとしているのはわかるのだが、口から漏れるのは意味のない音だけ。会話が成り立たない。これ以上、話をさせるのは酷だろうか。ロイは自分の言動を省みた。その結果、悪いことをしたと罪悪感に囚われた。
どうするか、と頭を抱えていると、視界の端にいたソフィアがイヴに歩み寄った。
「ところで、イヴ」
その声音はどことなく鋭いものを感じさせた。慌てるイヴに追い打ちをかけたことを悪びれた様子もないソフィアは質問を投げかける。
「ロートリアとブラウリアは関わることを禁止しているはずなのだけれど。それは知っている?」
「えっ!、ええっと、それは知ってます! けれども……ですね」
言い淀むイヴ。ソフィアの表情は穏やかなものだが、彼女が発する空気は鋭いものを孕んでいた。ただの質問ではない。場合によっては斬り捨てかねないと思わせる迫力があった。ロイはごくりと生唾を飲む。助け舟を出すべきかと考えもしたが、ソフィアはイヴを警戒している。ここでロイがイヴを擁護するような発言をしようものならば、その警戒心がロイにも向くかもしれない。それは面倒だ。
……同情するぜ、イヴ。
ロイは我関せずを決め込むことにした。イヴは観念したらしく、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をひとつした。
「……わかりました、事情を説明させていただきます。まず、彼ら。先ほど、あなたたちが戦っていた三人の説明をしますね。彼らは、ブラウリア王国軍の兵士なんです。……元、がつきますけど」
「元? 除名された、ということ?」
ソフィアの言葉に、イヴは深く頷いた。除名とは穏やかじゃない。いったい彼らはなにをしようとしていたのか。問わずともイヴが語る。
「彼らはいわゆる『過激派』で。ブラウリアの発展にはロートリアの侵略が必要不可欠だと主張していたんです。そのために軍に入って、成り上がろうと考えていたのかもしれませんけど……それが上層部に発覚したことで、計画は頓挫。投獄されたんです」
ブラウリアとロートリアはいずれ戦いを再開するのだろうとばかり考えていたロイにとって、それは少し意外な事実であった。ずいぶん保守的、かつ平和的な考えをしているものだ。このまま、世界を巻き込む戦争など二度と起きなければいい。武器商らしからぬ願いだとは思った。
しかし、投獄されていたならどうやって出てきたのだろう。脱獄と考えるのが一番しっくり来るが。
「協力者がいた……らしいです。牢番の兵士が皆、倒れていて。気づいたときには牢の扉がねじ切れていたとか」
まるで力任せに牢屋を破ったような言い方だ。だが、そんな芸当はロートリアの人間にだってできない。どれだけ無骨な男だろうと、人間である以上は鉄格子をねじ切るような握力などないはずだ。となれば、不可思議な術を用いて脱獄したとしか思えない。
「そう。それじゃあ、質問を変える。君主のそばにいるべき近衛師団の貴女が、どうしてロートリアへ来たの?」
それは先ほどロイが質問した内容と同じだ。しかし、タイミングは悪くない。本来ならば語る予定でなかった事情を語らせた後なのだ、多少は口を割りやすい空気になっているはずである。
「あ、う、えっと……答えなきゃ、駄目ですか?」
「勿論」
「す、すみません! えーっと、ですね、その、大変言いにくいんですけども……」
長い沈黙が訪れる。よほど言いにくい事情なのか、イヴはしきりに言葉を詰まらせる。
「その……夢で、声が、聞こえたんです」
ようやくしぼり出した答えは、要領を得ない曖昧なものであった。これにはソフィアの表情も一気に歪む。
「夢? 声? ……貴女、私を馬鹿にしているの?」
「そ、そそそそんなことはないんです! ただ、どうしてって言われたら、夢の中でロートリアに行けって声が聞こえて! 自分からその役目を買って出たんです! なにを言っているかさっぱりわからないとは思うんですけど、私にもなにがなんだかさっぱりで……その、本当にごめんなさい!」
イヴが嘘を言っているようには思えない。だが、ソフィアの怪訝そうな瞳も仕方がないとは思う。夢などという曖昧なものに従って動くなど、愚の骨頂と言われて然るべき。
ソフィアの手が腰の刀に添えられる。このままだと、イヴは斬り捨てられてしまうかもしれない。そう考えた結果。
「別にいいんじゃねえの?」と助け舟を出していた。警戒心がロイに向くことも厭わず、だ。案の定、ソフィアの視線がロイに向く。実際に矛先が向いてみると、身じろぎひとつできないような威圧感がある。だが、ロイはつとめて冷静を装った。
「考えてもみろよ。イヴは争いの種をきっちり処分したんだぜ? それを咎める理由がどこにある?」
「そうだけれど。ロートリアとブラウリアの国交は禁止されている。それを破られたら、初代の“誓いの刃(ジャッジメント)”が誓いを立てさせた意味が……」
「堅く考えすぎだぜ、お前。あのままやつらを放置してたら、それこそ争いが起きてたかもしれねえ。それによ、たったひとりが大陸渡って来たくらいで『国交』って言うかあ? 大袈裟すぎると思うぜ」
「それを防ぐために私がいたのに」
「ああ? なんだあ、ソフィア。ひょっとしてお前、自分の仕事取られて拗ねてんのか?」
茶化したような口調のロイ。ソフィアの表情がぴくりと歪んだ。眉をひそめ、目は細く。向けられた感情は警戒から怒りへ。それはいわゆる殺気であった。
「拗ねている? 私が? ロイ、貴方もずいぶん馬鹿なことを言う」
「馬鹿なこと言ってんのはどっちだ? 柔軟な考えができねえ堅物も大概馬鹿だと思うがな」
「貴様……」
刀の柄を握るソフィア。その威圧感たるや、全身が粟立つほどだ。これ以上、なにか気に障ることを言えば、次の瞬間には首が宙を舞うことになるだろう。言葉選びに慎重になっていると、アーロンの大きな咳払いが聞こえた。途端、急速に弛緩する空気。視線が集まったアーロンは新聞に目を向けたままだ。
「誓いに忠実に考えるならば、ソフィア。結果論を重視するならば、ロイ。どちらが間違っているとも言えん。答えのない言い争いを続けることが一番馬鹿らしいと思うのだが……どうだ?」
返す言葉も見当たらず、ロイとソフィアは目を伏せた。
「で、だ。イヴ。お前、これからどうすんだ?」
無益な争いを反省したロイは、イヴのこれからを問うた。ソフィアはいまだに納得しきれていない部分があるようで、険しい表情のままうつむいている。イヴはソフィアの放つ鋭い空気にあてられてたのか、ロイの言葉にも反応が少しばかり遅れた。素っ頓狂な声を上げては、無駄に頭を下げている。その速度たるや、風を切る音が聞こえてくるようだ。さすがのロイも、この対応には苦笑をこぼしてしまう。
「そう堅くなるなって。それに、あんまり謝られたらこっちも気分ワリィ」
「あ、う。すみませ……あっ、ごめ、ああっ! えっと!」
「……いや、いいや。無理すんな。そのままでいいから、質問に答えてくれ。これからどうすんだ?」
あまり無茶を押しつけるものでもない。慌てふためくイヴを片手で制して、次の言葉を待った。イヴは控え目な胸に手を当てて、二、三度深呼吸を繰り返した。ようやく気持ちが落ち着いてきたらしく、視線がロイのものと交わる。目も合わせられないほどの照れ屋、とかいうわけではないようだ。
「ええっと、ですね。これから任務の報告のためにブラウリアに帰還するつもりです」
「ふうん、そっか。まあ、ケリ着けたのはお前だしな」
三人のうち、二人を沈めたのはソフィアとアーロンであることは黙っておくことになったらしい。
するとソフィアは顔を上げ、イヴに詰め寄った。びくりと身を竦ませるイヴ。こんなに臆病で気にしがちな少女に軍人が務まるとは到底思えない。ソフィアがなにを言うかもわからないので、ロイも密かに身を強張らせた。
ソフィアは深く息を吐いて、椅子に座ったままのイヴに告げる。
「その帰路に私も同行する」
「え、ええっ!? ソフィアさん、着いてくるんですか!?」
意外だったのか、イヴは声をひっくり返して叫んだ。唐突なものだったから、緊張していたロイもつられて身体を跳ねさせてしまった。誰にも見られていないと思いきや、アーロンが嘲るような笑みを浮かべていたのを見逃さなかった。
しかし、この二人の旅路は想像しがたいところがあった。空気は殺伐としているだろうから、会話が皆無なのは容易に想像できる。それに、ソフィアの刺すような警戒の眼差しにイヴが耐えられるかどうか。腹を痛めて本調子じゃないままに本国に帰還するなど、格好がつかない。それはあまりに不憫な話だなあ、とロイは他人事のように考えた。
「私が一緒だと、なにか不都合でもあるの?」
「そ、そういうわけじゃないんですけどね! ただ、その、なんていうか……」
「なに?」
「おーい。声がおっかねえぞソフィア」
イヴがなにを言いたいか察したロイは、すかさず茶々を入れる。
あれだけ殺気立っていた人間がそばにいるとなれば、誰だってやりづらい。一挙手一投足を警戒されていては神経が擦り切れるにきまってる。特に、イヴのように周囲の視線や言動を気にしてしまう性格の人間ならなおさらだ。
ソフィアの視線がロイに向く。眉は吊り上がり、目は細められている。怒りとも、不快感とも取れる表情に、ロイはニヤリと笑みを返した。減らず口や虚勢を張ることはロイの最も得意とするところであった。
「私が怖い? イヴ、どうなの?」
「ほら、その言い方。怖くない、って言わせようとしてるように見えるぜ」
「そんなつもりは」
「ないんだろ? 知ってる。だからそうやって否定できるんだよ」
ソフィアの表情が徐々に怒りに満ちていく。ロイは言葉尻を捕らえるような話し方をしているのだ、苛立ちが募るのは自然。弛緩してきた空気が再び緊張していくのを感じて、笑う。その笑顔には虚勢と、言い負かしてやったというある種の達成感が含まれていた。ソフィアは呆れたように息を吐き出して、ガリガリと頭を掻く。言い争うだけ無駄だと判断したのだろう、それこそロイの狙いであった。
「……結局。貴方はなにが言いたいの?」
案の定、こちらの意図を問うた。しめたものだとほくそ笑み、ロイは提案する。
「その旅、俺も同行させてもらおうか」
「えええっ!?」
「なにを……」
思わぬ同行者の加入に驚くイヴと怪訝そうな眼差しを注ぐソフィア。きちんとした意図があっての提案だ。ロイはぴっと人差し指を立てて口を開いた。
「お前らも知ってるだろうけど、うちは武器屋だ。親父はいつもこう言ってた。『常に新しい発想を持て』ってな。長い間、交流を絶ってた国の技術を見学できるいい機会なんだ。これは俺個人の至極私的な理由だから、国交と言うには少し大袈裟だよなあ? “誓いの刃(ジャッジメント)”にそこまで介入する力、あるとは思えねえけど?」
「私は反論する。ロイ。貴方が武器屋の息子という点が一番の難点。貴方がブラウリアで得た知識を新しい兵器に導入すれば、必ず被害に遭う者が出てくる。手にした力は試したくなるのが人の道理。そのうち、ブラウリアとの戦争を引き起こすきっかけになりかねない」
その反論は予測済み。わかりやすいやつを相手にするのは楽しくて仕方ない。
「たった一人の発想が国を動かすってか? そいつは俺を過信しすぎだぜ。ロートリアのお偉いさんが田舎者のアイディアで戦争を決断するかって話だ。ありえねえな」
「それでも。不安の芽は摘んでおくべき」
「んなこと言ったら、イヴだってロートリアの技術盗みに来てるかもしれねえぜ?」
「ちょっ、えええっ!? ここで私の名前が挙がるんですかあ!?」
不意を打った一言に、イヴは明らかな動揺を見せた。この反応につけ入るように指を差す。
「ほら、見ろよこの反応。怪しくねえか?」
じろりとイヴを睨みつけるソフィア。短く、一言。
「……言われてみれば」
「ちょ、ちょっとお! ロイさんもソフィアさんもなんなんですか! いま私は蚊帳の外だったじゃないですかあ!」
イヴの反論は無視。アーロンがやれやれ、と目を伏せた。相手にされないことを悟ったイヴは「もう煮るなり焼くなり好きにしてください……」と自暴自棄に陥っている。やりすぎた気もするが、いまはソフィアを論破することに全神経を注ぐ。
「ま、冗談は置いといてだ。ソフィア、お前はいま、イヴを怪しいと思った。それがもう不安の芽じゃねえか。これも摘むか?」
「……保留」
「ま、そうだよな。不安なんてのは、実際にコトが起きるまで確信できねえもんだ。つまり、俺がブラウリアに行くことが戦争の引き金になるかどうかも、起きてみなきゃわからねえってことにならねえか?」
「それは詭弁」
「じゃあお前はこれを論破できんのかよ?」
ソフィアは低く唸る。どうやってロイの詭弁を破ろうか、必死に思考を働かせているのが見て取れる。そこでロイは畳みかけるように口を開いた。
「すぐは出て来ねえみたいだなあ? それじゃあ決まりだ、俺も行く」
「待って。そんなの認めない」
「言ったもん勝ちだ。親父、いいよな?」
だんまりを決め込んでいたアーロンに話を振る。重たい腰をゆっくりと上げて、ロイのそばに歩み寄る。頭を鷲掴みにして、無理やり頭を下げさせた。
「戦争のきっかけにはさせないと“誓いの刃(ジャッジメント)”に誓おう。もしその誓いが破られれば、全ての責任は俺が取る。……構わないか?」
こうも真剣に頼みごとをするアーロンは初めて見た。内心で驚く反面、少しだけ不審にも思えた。なにか意図があるのではないか、少なくとも息子の肩を持つだけではない気がする。ロイは頭を下げたまま、ぴくりと眉を動かした。
ここまでされては無下に断るわけにもいかないらしい。ソフィアは呆れたようにがっくりと項垂れた。
「責任はアーロン・カーヴェル、貴方が取る。二言はない?」
「無論だ」
「……わかった。ロイ、貴方の同行も許可する」
「それは私が許可するところなんじゃないかなあ、なんて……あはは、ごめんなさい」
もっともなことを言っているはずなのに謝罪するイヴ。どうしてこんなにも卑屈になったのか、ロイは僅かに気になった。
気づけば頭痛は引いていたが、脳内では不思議な言葉が残響していた。最初に聞こえたときはところどころに雑音が混じっていたが、いまは明瞭に聞こえる。
――ついに見つけた。我が盟友。誓いを果たせ、奴らに復讐を。
いったい誰を見つけて、なんの誓いを果たせばいいのか。復讐をしなければならない意図は? なにからなにまで、身に覚えのないことばかり。誰が、どうして自分に語りかけているのかわからない。それが余計にロイを苛立たせた。
「えっと、それじゃあ、ごめんね。すぐ準備して。早めに出発したいから」
「おう。それじゃあ外で待っててくれ」
自室へと駆け込むロイ。作業着のままだったのをすっかり忘れていた。黒のインナーシャツに袖を通し、お気に入りのレザージャケットを着る。下はスキニージーンズとブーツで準備完了。鏡の前で適当なポーズを決めていると、扉側に人影があることに気づいた。ぎょっとして振り返ると、アーロンがなんとも言えないような表情で立っている。手には先ほど、ロイが勝手に持ち出した銃剣。
「あー……まあ、お前も若いからな。身嗜みには気を遣う年頃か」
「やめろ、妙なフォローを入れるんじゃねえ。で、なんか用か?」
「これは俺の不注意だった、すまん。まあ、用はこれだ。武器はこいつを持っていけ」
「だから変な気を遣うんじゃねえよ! ……って、これ商品だろ? いいのか?」
アーロンのことだ。「使い物にならなくなったらわかってるだろうな?」くらいの脅し文句はあるだろうと警戒する。だが、それは杞憂に終わることとなった。
「棚に飾られてるだけよりは武器も喜ぶだろ」
「……いいのか? 本当に?」
思わず何度も確認してしまう。アーロンが無償で商品を貸し与えるなど、ロイには考えられなかったのだ。
「なんだその反応は。丸腰で送り出してもいいんだぞ?」
さすがに機嫌を損ねたらしく、アーロンの声音が低くなる。丸腰はさすがに心許ない、ロイは半ばひったくるように銃剣を受け取った。
「ま、親父の貴重な厚意に甘えることにするわ。ありがとな」
「そうしておけ。まだガキなんだから」
「……あんた、本当に親父か?」
怪訝な眼差しでアーロンの顔を引っ張るロイ。直後、脳天に鉄拳が下ったのは言うまでもない。
玄関の扉を勢いよく開けば、快晴の下に広がる雪の絨毯が目に入る。どれだけの時間寝込んでいたかは聞かなかったが、沈みかけだった太陽が再び昇っている程度だろう。ロイは深く考えないことにした。
「っしゃ、準備万端! 待たせたな!」
「どうして脳天をさすっているの?」
「や、やむを得ない事情があったんですよきっと……」
細かいことはいいんだよ、と一蹴して先頭を歩こうとする。イヴが慌ててついていった。なにも考えていないロイに呆れ、ため息を吐くソフィア。少し遅れて、アーロンが店から出てくる。ソフィアの隣に立って、一言。
「困った息子だぜ、まったく」
「そうは言う。けれど、アーロン。声音が嬉しそう」
ソフィアは二人の背中を目で追ったまま。アーロンは口元を押さえて、咳払いをひとつ。
「まあ、な。あいつにとってぼんやりとしか見えてなかった未来が、少しでも鮮明になればいいってくらいだ。こういうところだけは、我ながら父親だと思う」
「貴方のような人を、父親の鑑と言う」
「そりゃどうも。……ほら、早く行け。あいつら二人だと、なにをやらかすかわからんぞ」
指を差した先で、足がもつれたらしいイヴが盛大に転んでいるのが見えた。それを見て助けるわけでもなく腹を抱えて爆笑するロイ。ソフィアは頭を抱え、小さく不安を呟いた。
「先行き不安とは、まさにこのこと……」
少しでも不安を和らげるべく、ソフィアは二人の後を風のように追いかけた。
第二章:砂漠の花
夢を見ている。眼前で繰り広げられている光景を、夢だと確信することができた。
辺りは暗く、闇の中でなにかがみっつ、蠢いているのを認識した。それは人の形をしていた。なにやら揉めているらしく、動きは激しい。腕が伸びた。ひとつが吹っ飛び、もうひとつはそのままどこかへ連れ去られていった。残ったひとつは悲しそうにうずくまり、なにか音を発していた。それは嘆きか、悔恨か。どちらにせよ、あまり好ましい感情ではないことはわかる。
身体の内側からなにかが溢れてきた。それは怨嗟に満ちた音の濁流。皮膚の裏側をぶすぶすと浸食していくその感覚がたまらなく不愉快で、気色悪かった。
そして訪れる、不気味な静寂。身体の自由はないが、意識だけは明瞭だ。時間の感覚も徐々に狂ってきたらしい、どれだけの時間が経過したのかがまるで判断できない。
耳障りな音が響く。耳を覆いたかったが、身体が動かないのだ。防ぐことさえできない。それが苦しくて、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかとさえ思ってしまう。ああ、早く目覚めなければ。そう思い、まぶたを開く――。
「っ!」
ロイは勢いよく身体を起こした。荒い呼吸を整えつつ、周囲に視線を配る。鬱蒼と葉を蓄えた木々に囲まれており、そばには焚き火。空はまだ暗く、日が昇る前のようだ。イヴェラスを発って三日も歩き続ければ銀世界は一変、足元に広がるのは白ではなく、土色の絨毯。微かに聞こえてくるのは虫や鳥の鳴き声。枯れた自然しか触れて来なかったロイにとっては新鮮な光景であった。
「二人仲良くお目覚め?」
焚き火のそばに座っていたソフィアが声を低くして尋ねる。
「二人仲良く? ……ああ、イヴはどこ行った?」
「貴方より少しだけ先に起きて、顔を洗いに行った」
どこかとげとげしい言い方に、ロイは眉をひそめた。いったいどうして機嫌を損ねているのか。ロイにはわからない。起き上がり、簡単な柔軟体操で身体をほぐす。安定しない地面で横になったものだから、全身が凝り固まっていた。背伸びしたのと同時、あくびが漏れる。
「川はどっちだ?」
その問いにソフィアは刀の切っ先を向けることで答えた。口を開くことすら億劫とでも言いたげな態度が、少しだけ不愉快に感じられた。舌打ちをひとつ残して、川の方へ向かう。
茂みを掻き分けて進むことは案外疲れるものだ。服が汚れることや葉がまとわりつく鬱陶しさが疲労を増加させた。そうして歩くこと数分、澄み切った川を目の当たりにする。ロイは川の水を手ですくい、顔に持っていく。自然の冷たさが意識を覚醒させ、眠気を一気に拭い去った。朝日はまだだが、動くなら早い方がいい。頬を叩いて気合を入れる。
背後で不自然な足音がした。慌てて振り向けば、そこにはイヴがいた。なにかに怯えているらしく、身体を強張らせている。安堵から、ロイは深いため息を漏らした。
「なんだイヴか……おっす、いい朝だな」
「お、おはようございます。まだ日の出まで時間ありますけど……」
空を見上げても太陽の姿は見えない。出発するにしてもまだ早いだろうか、イヴの判断に委ねられるところだ。
顔を見れば、表情は少しばかりリラックスしているように見える。ロイに対しては多少は心を許しているらしく、会話もそこまで不自由していない。ソフィアにはまだ少し堅さが見える。おそらくは恐怖心が拭えないのだろう。それに関してはロイも共感できた。ソフィアは近寄りがたい雰囲気をまとっている。どの方向から襲いかかってきても対応できるような鋭い警戒心が見える。そんな人間を相手にリラックスできるわけがない。
「苦労するな、お前」
「な、なんですか急に……?」
「ソフィアのことでだよ」
「ああ……まあ、私、怪しいですし」
夢で聞こえた声に従った、などという曖昧な理由では怪しまれて当然だ。素直に告白したことは褒められるべきなのだが、理由はごまかしても問題なかったのではなかろうか。過ぎてしまったことなのでこれ以上はなにも言わない方がいいのだろう。
「ま、警戒されてんのは俺も同じだ。強引に言いくるめて来た身だからな、なんかしら怪しまれても仕方ねえ」
「あはは……」
苦笑いしか出ない辺り、相当やりづらいのだろう。ロイは素直に同情した。ここまで警戒されているのなら、着いて行くにしろ行かないにしろ同じだったかもしれない。
とはいえ、イヴェラスを出る機会を作れたのはありがたい。いつかは町を出たいと考えていたのだ、それが少しばかり早まったのはロイにとって幸いだった。これは新しい発想を得るための旅路。仮にも武器商店に勤めている身なのだ、本分を忘れてはいけない。なにより、あの寒い雪の町を出られることが一番大きかった。
「ま、俺は疑ってるわけじゃねえから。よろしくやってこうや」
「は、はい! ありがとう、ございます!」
イヴはぱあっと表情を明るくした。柔和な笑顔からは女の子らしさが見え、思わず目を逸らしてしまう。仕事の関係上、あまり女性と接する機会がなかったせいで、同年代の女の子となにを話せばいいのかがわからない。イヴがそこまで戸惑っていないように見えるのは、慣れているからだろうか。軍に所属しているならば周囲に男性が多いだろう、否応なしに慣れてしまうのだろう。
どんな話をしようか、思考を巡らせていると、イヴの表情が崩れていくのが見えた。笑顔から焦りにうつろうのは一瞬のこと。なにが彼女をそうさせたのかわからなかった。
「お、おい、どうした?」
「ご、ごごご、ごめんなさい! 私、なにかしましたか!?」
「はあ? なんで?」
「その、顔が怖かったので……私が『ありがとうございます』って言ったのが不愉快だったのかなあと……」
絶句してしまった。その思考は明らかに普通ではない。「ありがとう」と言われて悪い気がする人間がどこにいよう。どうしてそんな結論に至ってしまったのかが不思議で仕方なかった。行き過ぎたネガティブは理解に苦しむ。イヴの思考を理解する日は当分来ないだろうと思った。
とにかく、イヴの気持ちを落ち着けさせねばならない。ロイはため息をひとつ吐いた。
「別に怒ったりしてねえよ。だいたい、そんないい笑顔でありがとうなんて言われたらな、どんな男でも大概許せちまうもんだ」
「え、え、えっと! そ、そういうものなんですか……?」
「たぶんな。少なくとも俺は不愉快になったりしてねえ。そんな気遣うんじゃねえよ、ソフィアと二人きりのとき並みに息苦しいぜ」
少々厳しい言い方だっただろうか。だが、自信のない人間には歯の浮くようなセリフよりも素直な言葉をぶつけた方が効果がある。そう考えての発言であった。それでも納得していない様子のイヴは渋い顔をしていた。これ以上はなにを言っても無駄だと判断し、口をつぐむ。
……ま、ブラウリアに着くまでの辛抱か。息苦しくても我慢するしかねえな。
別に友達になりたいわけではないのだ。あくまで町を出たかっただけ。深く関わる必要はない。
「んじゃ、そろそろ行くか。あんまり待たせると、ソフィアになに言われるかわからねえ」
「そうですね……行きましょうか」
野営地に戻る間は重たい沈黙がのしかかっていた。必要最低限の会話だけにしようとするロイと、顔色を窺ってばかりのイヴ。互いに心を許しているわけではないのもあって、どことなくぎすぎすした空気になりつつあった。
茂みを掻き分け、見えてきた焚き火。ソフィアは先ほどと同じ姿勢で待機していた。
「戻ったぞ」
「た、ただいまですソフィアさん」
返事はない。ロイたちの声を確認すると立ち上がり、着物に付着した土や泥を落とした。
「顔を洗いに行っただけにしてはずいぶんと時間が経っているけれど。なにをしていたの?」
イヴに向けた視線は鋭いものがあった。やはり二人で一緒に戻ってきたのはまずかったか。猜疑心のようなものが窺える。案の定、返す言葉に困っているイヴ。ロイはすかさず口を挟んだ。
「苦労話を聞かされてたんだよ。軍に所属するってのは大変みたいでな」
「ロイ、貴方には聞いていない」
ぴしゃり、と一言で切り捨てるソフィア。ロイは肩を竦めてイヴを一瞥。「あとはお前がどうにかしな」と目線で告げた。見捨てられたと思ったのだろう、イヴはロイとソフィアを交互に見て、か細い声で「ロイさんの、言う通り、です」と告げた。ソフィアは怪訝な眼差しを向ける。イヴはごくりと生唾を飲んで、ソフィアの視線に真っ向からぶつかった。表情は凛々しく、軍人としてのイヴ・レヤードに切り替わったのだろうと思う。毅然としたイヴの態度に、ソフィアは僅かに目を見開いた。
「そんなことより、すぐに発ちましょう。善は急げ、と言いますし」
「……そう。それなら、すぐに準備して」
ソフィアはそばに置いてあった刀を手に取り、腰の帯に提げる。ロイとイヴも身支度を整え始めた。
「んじゃ、行くか」
焚き火を処理して歩き出す。太陽が昇るには少々早いが、目的の町に向かうには丁度いい頃だろう。
現在、一行が向かっているのはロートリアの南部に位置する、砂漠の町サンドラだ。オアシスの近辺に位置する町であり、海岸に面しているのもあって港町としての側面も持っている。そこにイヴがロートリアへ渡って来るのに使った移動用の道具が保管されているらしい。持ち運びにも困らない代物だそうだが、無くしてしまっては困るということで信頼できる人間に預けているそうだ。ブラウリアの人間なのか定かではないが、先にロートリアに侵入している仲間がいるのであればまたソフィアがうるさくなりそうである。
帝都に寄るつもりはなかったので、そのまま突っ切っていった。イヴェラスとは比較にならないほど大きな外壁に覆われており、いつかは散策してみたいと考えるロイ。
緑生い茂る街道も歩き始めてずいぶん経つ。あと半日も歩けば砂漠地帯に突入できそうだ。思ったよりも早いペースで進めている。この調子なら、今日の夜にでもサンドラに到着できそうであった。
6
「なんだ、こりゃあ……」
日が暮れ始める頃、砂漠の町サンドラに到着した一行は言葉を失った。話によればサンドラはオアシスの付近に位置しており、豊かな人間が多い綺麗な町並みだと聞いていたからだ。それがいまでは、建物は漏れなく半壊。人の姿が見えないこともあって、不気味な印象が強い。想像していたオアシスの町は見る影もなく、眼前に広がるのは無残な家屋ばかりである。
「私が来たときには、こんなことになっていなかったのに」
イヴは口元を手で覆いながら、震える声で呟いた。それを見たソフィアがすぅっと目を細める。
「貴女がブラウリア軍の人間を呼んで壊滅させたんじゃないの?」
「そんなことしてません!」
「どうだか」
ソフィアはどこまでイヴを疑っているのか。こうも露骨だと本人じゃなくても苛立ちが募る。だが、いまはそんなことをしている場合ではない。ロイは肩を竦める。
「くだらねえ言い合いしてる場合かよ。なにがあったか確かめるのが先だろ?」
「……そうね。もしかしたら、なにか聞けるかも」
ソフィアはあごに手を当てて、先陣を切る。協調性の欠片も持ち合わせていないらしい、ロイとイヴは顔を見合わせてため息をひとつ。
「まあ、あいつなら一人でも死にやしねえだろう。俺たちも手がかりを探そうぜ」
「そ、そうですね。ソフィアさん、強いですもんね」
警戒は怠らない。まだ犯人が近くをうろついているかもしれないからだ。自然と口数も減る。メインストリートとおぼしき通りには人の姿はない。では、住人の姿はいったいどこに? ロイと同じことを考えていたらしい、イヴがぽつりと呟いた。
「誰も、いませんね」
「そうだな。この町に何人の人間が住んでるんだか知らねえけど、たまたま住人全員が留守だった、なんてことはありえねえし」
「どこかに集まっているんでしょうか?」
これほど凄惨な光景であれば、何人の命が奪われたかわからない。動ける住人が総出で埋葬しに行っていると考えればまた自然だろうか。
「人が集まりそうな場所、探してみっか」
廃屋が軒を連ねるメインストリートを歩いてまもなく、サンドラの中心らしい広場に到着する。町の象徴だったであろう噴水も、見るも無残に破壊されてしまっている。水は湧いてくるものの、ふちが破壊されているせいで湧きあがった水が溢れてしまっていた。その噴水の近く、住人と思われる人の群れがあった。喧嘩でもしているのだろうか、賑わいと言うよりはざわめきに近いそれが二人の不安を煽る。
「離せ! 俺がかたきを取りに行くんだ!」
「お前になにができる! おとなしくサラに任せておけばいいんだよ!」
「いつもいつもサラ、サラ、サラって! 女に町を守ってもらうなんて恥ずかしいと思わないのか!」
覗き込めば、まだ幼い男の子と大人数人がもめているようだ。気になったロイよりも早く、イヴが近くの青年に尋ねる。
「すみません、いったいなにがあったんですか……?」
「なんだ。あんたたち、旅の者か?」
「そんなところです」
「そうか、それは運が悪かったな。……盗賊が攻めてきたんだよ」
「盗賊だあ?」
黙っていたロイが口を挟む。たかが盗賊ごときの侵攻でこのありさまは想像できなかった。なにか、特別な兵器や、それこそブラウリアの人間が使っていた不思議な術でもない限りは不可能だ。
やはりブラウリアの人間が盗賊としてこの町を攻めたのだろうか? イヴを一瞥すると、深刻そうな表情を浮かべている。これが演技だとしたら大した役者だ。
……無駄に警戒する必要もない、か。
イヴに対して芽生えた警戒心はすぐに身を潜める。怪訝そうな表情のままのロイを見てか、青年が説明を始めた。
「やつら、不思議な術を用いてこの町を侵略しにきたんだ。いつもなら町の警備員が一人でやつらを伸しちまうんだが、今日ばっかりはその子も予測できていなかったみたいでな」
「警備員……そいつが『サラ』?」
青年は「ああ……」と言って人だかりの方へ視線を投げる。男の子が声高に叫んでいたのだ、『サラ』という人間を知らなくとも、話の脈絡で想像はつく。
「そうだよ。いつもはサラが盗賊を追っ払ってくれたんだ。だが、今日のやつらは少しだけ様子が違ったんだよ。まるで、理性が吹っ飛んだかのように会話が通じなくて」
「不思議な術……会話が通じない……?」
なにか引っかかった様子のイヴ。頭の中の要素を結びつけようとしているいまは邪魔しない方が賢明だ。ロイは再び青年に質問する。
「つーか、この町ってそんな頻繁に盗賊被害に遭ってんのか?」
「ああ。いったいなにを求めているんだか知らないけど、やたらと盗賊の姿が見えるんだ」
「ふうん……で? そのサラはどこに行ったんだ?」
町の人間を守る人間がこの場を離れるとは考えられなかった。混乱した住人を落ち着かせ、然るべきときに報復に向かうはずだ。
「サラなら他に逃げ遅れた人間がいないか、探しに行ったよ。……それにしても、コナンのやつ。サラの活動に思うところがあったんだな……」
「コナン? ああ、あのガキか。……ま、ありがとな。そうと決まりゃあ俺たちも協力するべきだな。イヴ、行くぞ」
「えっ、あ、あ、はい」
どうやら住人はあそこにいるので全員ではないらしい。考えてみれば、まずはそれが最優先だった。サラという人物は賢い人間なのだろうと思う。
……ところで、ソフィアはどこにいった? メインストリートから外れずに歩けたなら、迷うはずがないのだが、どうして姿が見えない? まさか……迷子?
「なわけねえよなあ」
「どうしました、ロイさん?」
「いや、なんでも。しっかし、ソフィアの姿が見えねえな」
「そうですね。もしかして……迷子とか……」
どうやら同じことを考えていたらしい。あの完全無欠に見えるソフィアが迷子とは、なかなかに笑える。
ロイたちが行き着いたのは住宅街。もれなく家屋が半壊している。ただ壊れているだけならまだしも、ところどころ融解していたり綺麗に切断していたり……ロートリアの兵器には難しい破壊の仕方だ。これはやはり、ブラウリアの不思議な術によるものだろう。だが、ロートリアのブラウリアは一切交流をしていないはずだ。どうしてブラウリアの技術を利用できるのだろうか。そもそも、まだブラウリアの技術とは決まっていない。だが、その線が限りなく濃厚だ。
「……なあ、イヴ。この惨状って」
「はい。ブラウリアの契術(けいじゅつ)によるものだと思います」
契術。それが、超常現象を引き起こす術の名前。ロートリアに住んでいたロイは初耳であった。
「やっぱりそうだろうな。……ちょっと信じがたいけどよ」
「信じられませんか?」
「そりゃあな」とロイ。ロートリアは機械技術が発展した国だ。ブラウリアの契術は常識の範疇にないのである。簡単に信じられる話ではない。
しかしロイにとっては、信じがたい、というだけであった。アーロンから譲り受けた銃剣が火の玉を吐いたりエネルギーの波動を発したり。それをこの目で見ているからこそ、まだ柔軟に対応できそうであった。
「でも、これは間違いなく契術の仕業です。けれど、ブラウリア軍が関わっているとは……思えない。思いたくない、です」
「そう言うだろうと思ったぜ。……とりあえず、サラってやつを探すぞ。見つかればソフィアでもいい。あいつの手も借りたいときだろ?」
イヴはこくんと頷いて走り出す。心優しい少女だ、とロイは思った。軍に勤めていると聞いて、多少の犠牲は止む無しと考えていると踏んでいた。しかしいまのイヴは一人でも多くの命を救いたい、守りたいという一心で動いているように見える。
戦闘の技術は目を見張るものがある。しかし、軍人としては少しばかり優しすぎるのではないだろうか。このままではきっと、これ以上の出世は望めないだろう。イヴが現状に満足しているなら問題ないのだろうが、もっと上に上り詰めようと考えているのなら、どこかで踏ん切りをつけなければならない。ロイは自身に問う。
そんな決断、俺にはできるか――?
年の頃はそう変わらないが、身を置く世界がまるで違う。かたや君主を守る優秀な軍人。かたや田舎町の武器屋の息子。ロイの考えているよりももっと重いものを、イヴは背負っているのだろう。文句や意見など言えた身ではない。
「……あー、やめだやめだ。ごちゃごちゃ考えてんなよ、らしくねえ」
両手で頬を叩き、イヴの後を追う。いつ死んでしまうかわからないような人間が近くにいるのに、黙って見過ごせるわけがない。ロイも大概お人好しであった。
「よっ……と。ここにもいねえか」
瓦礫を退かせど退かせど、人間の姿は見えない。もうあらかた救助されてしまっている、ということだろうか?
額に流れる汗を拭い、辺りを見回す。イヴが瓦礫を退かしている姿が見えた。だが、やはりそこには人がいないようであった。ロイの視線に気がついたのか、イヴが駆け足で近寄ってくる。
「ロイさんの方は見つかりましたか?」
「いや、俺の方も駄目だ。つーか、人間の気配がまるでしねえ。……もう全員助かっちまってるんじゃねえのか?」
「わかりません。けど、ここで私たちが匙を投げちゃったら、まだ瓦礫の下に埋もれている人が……」
イヴの表情は真剣そのもの。もういいか、などと考えた自分が恥ずかしかった。
「……わーったよ。もう少し頑張ってみっか」
「頑張りましょう!」
ぐっ、と拳を握るイヴ。落ちていたやる気が僅かに回復し、再び瓦礫を退かす力になる。
救助活動を再開し始めた、そのときであった。イヴが険しい表情である一点を見つめた。彼女が発しているのは、警戒心。救助が遅れた人間を見つけた、というわけではなさそうだ。
「どうした?」
「なにか、感じます。敵意……というか、殺意?」
「穏やかじゃねえな。どこからだ?」
銃剣を構え、辺りに気を配る。ロイには察知できなかったが、戦闘のプロであるイヴが言うのだ。十中八九、間違いないだろう。イヴは双剣を抜き放ち、長剣の切っ先を視線の先にかざす。崩壊した家屋の一室、ガラスが吹き飛んだ窓の向こうになにかがいるらしい。暗くて中の様子は窺えなかったが、そこに誰かがいることはたしか。ロイは銃口を向け、威嚇射撃を行おうと試みた。その矢先、家屋の玄関から三人組が堂々と姿を見せる。
先頭を歩くのは女性。豊満な身体つきを強調する派手な色の衣装に身を包み、腰には拳銃のホルスター。化粧は厚く、整った顔立ちが台無しだ。
もう一人は男性。小柄ではあるが筋骨隆々とした体躯をしている。背中には巨大な頭部のハンマーを背負っており、髭をたっぷり蓄えた身なりは高貴さよりも汚らしさが目立つ。
最後の一人も男性。細身で道化師のような格好をしており、腰にはレイピアを提げている。滑稽さだけは三人の中でも群を抜いている。
「あらァん、そんなおっかないもの向けないでよォ」
「誰だお前ら? ここの住人……じゃあねえよな」
「そうねェ。ひょっとして坊や、賢い子?」
この身なりで住人を語るほど愚かしくはないらしい。しかし、坊や呼ばわりはいただけない。背筋が凍る思いである。
「まあ、人並みの知能は持ち合わせてるつもりだけどよ。……で、だ。もう一回尋ねるが、お前ら何者だ?」
「ずいぶんと物騒なものをお持ちですよね。……いったい、なにをするつもりだったんでしょうか?」
イヴの言葉にも鋭いものが含まれている。柄を握る手に力が込められたのがわかった。新たな悲劇の芽になりかねない場合、ここで摘み取るつもりだろう。ごくりと唾を飲むロイ。自分にそれができるか問いかけてみるが、答えは返ってこなかった。
イヴの問いかけに応じたのは、髭面の小男だった。
「俺たちゃボランティアさ! この町で盗賊の被害が出たってんで、すっ飛んで来たんだぜェ! 兄ちゃんらと一緒だ!」
「そうそ、なァんにも怪しいことなんてしてねんだぜ?」
小男の声は大きく、細身の男はいやに早口で喋る。それだけならまだしも、口角がいやらしく吊り上がってるのがいただけない。武器を持っている理由は護身用だと言えば通じはするし、おかしな見てくれもただの趣味だと言われればそれまでだ。嘘だと決めつけるにはまだ早いが、極めて濃厚だと考えていいだろう。
イヴが一歩、前に出た。双剣の切っ先を女に向け、問う。
「嘘、ですよね? そこの髭のおじさんが言っていた、『盗賊の被害が出たから来た』というのは本当だと思いますけど」
「……なにが言いたいのかしらァ、お嬢さん?」
女性の表情がぴくりと歪む。イヴはもう確信していたらしい。ロイも銃剣を構え、戦闘の準備に入った。
「いわゆる火事場泥棒ってやつだろ、お前ら」
「ひでえ言いがかりだ!」
「お兄さんたち、ちっとショック……」
男二人はまだ芝居を続けているが、女の手は腰のホルスターに伸びていた。刹那、それが抜き放たれ銃口がイヴに向けられる。空気を切り裂く銃声が響いたが、イヴには当たらなかったようだ。いや、正確には防いだのだ。短剣の刀身で、銃弾を受け止めたのである。弾丸が見えていなければ到底不可能な芸当。やはりイヴも只者ではないらしい。
「お前たち、もう芝居は不要よ! バレちゃったら仕方ないわァ、ここで口封じしてあ・げ・る!」
「ガハハァ! 了解だぜ姐さん!」
「ガキんちょだからって容赦しないぜェ!」
本性を露わにした火事場泥棒たち。やはり戦闘になったか、とロイは舌打ちした。人間相手に武器を向けることにまだ抵抗があったからだ。だが、相手は本気で戦おうとしている。それならば、もう手段は選んでいられない。やられる前にやるだけだ。
「イヴ、行けるか?」
「もちろんです。ロイさんは?」
「やってやる」
「ひとつだけ警告を。躊躇はしないでください、いいですね」
「当たり前だ!」
「それなら」とだけ言い残して、イヴは駆け出した。戦場を駆るその姿はまさに風のよう。息吐く間も無く女に接近し、長剣を振り下ろした。女も戦い慣れているのか、身をよじって回避したものの、切っ先が服を浅く裂いた。攻撃はまだ終わらず、そこから短剣を振り上げて自らも跳躍した。瞬息の二連撃を完全に回避するには至らず、短剣は女の腕を深く切り裂いた。小男が空中のイヴを殴り飛ばそうとハンマーを振り上げる。その一撃はロイの銃撃によって阻止された。銃弾が男の太い腕に命中し、耳障りな声をまき散らす。
「あ、当たった……」
「ロイさん油断しないで! 一人行きました!」
はっとして辺りを見回すと、細身の男がロイに接近を試みていた。慌てて銃剣を構え直し、接近戦に対応する。
レイピアが突き出される。思いのほか速く、ロイの反応が僅かに遅れたのもあって剣尖が頬をかすめた。流れる血のことなど厭わず、銃剣を振り上げる。力強い一振りは衝撃波を発生させ、男の身体をのけぞらせた。さらに一撃加えるべく、思い切り地面を蹴った。銃剣を突き出しながら、だ。刀身が男の二の腕に突き刺さる。肉を切り裂く嫌な感触が伝わってきたが、躊躇はしないと言った。引き金に指をかける。
「ぶっ飛べオラァ!」
爆音が響き渡り、男の腕が血飛沫を散らした。至近距離で銃弾が放たれたのだ、男のダメージは相当なものだろう。現に男は痛みに喘ぎ、ロイの足元をのたうち回っている。仕留めるならいましかない。が――。
「ッ……!」
男の額に銃口を向け、引き金を引く。簡単なことなのに、それができない。躊躇しないと言ったのだ、あと一歩を踏み切らねばならないのに。
「ロイさん!」
迷っているロイの鼻先を銃弾が横切っていった。いつの間にかイヴの相手が小男になっている。女はロイの十数歩という短い距離から銃口を向けていた。少しでも怪しい動きを見せれば、脳天を貫かれていることだろう。ロイは迷った。ここで男にとどめを刺そうものなら、その隙に女がロイを仕留める。その関係がわかりきっているだけに、迂闊には動けなかった。
「坊や、とっても優しいのねェ」
女が笑みを浮かべて言う。ロイは銃剣を持つ手を下げて、ため息をひとつ。
「そうじゃねえよ。ここでこいつを仕留めたら、俺はあんたにやられるだろ?」
「我が身可愛さ、ってやつねェ」
「命あっての物種、って言葉があってだな。つまりは、まだ死にたくねえ」
「賢い子でなにより。……ほら、あんた。いつまでも喚いてるんじゃないよ」
足蹴にされる細身の男。不憫で目も当てられないが、もう戦う意思はないのだろうと思う。遠くの方で小男の悲鳴も聞こえた。イヴが小男を押し倒し、喉に短剣の刃をひたと当てている。命を奪うまで、あと一歩。そこでロイは踏み込むことができなかった。
……あいつには、できんのか?
背筋が凍る思いであった。年端もいかない少女が他人の命を奪うことを躊躇しないなんてありえない。平和な町で暮らしてきたロイにとっては考えられなかった。
「あっちのお嬢さん止めてくれないかしらァ? 子分を失うのって結構痛いのよねェ」
「あ、ああ。イヴ! もうやめろ、こいつらに抵抗の意思はねえ!」
ぐっ、と押し当てられていた刃が止まる。そのまま小男から離れ、ロイのもとへ。女への警戒心はそのままだ。
小男に細身の男を担ぐように命じた女は、二人を一瞥して去って行った。戦闘中は気づかなかったが、盛大に露出した背中には黒い翼の刺青が入れられていた。
「どうして止めたんですか?」
イヴの口調は咎めるものではなかったが、どこか怪訝そうであった。なぜ逃がしたのか。そう問い詰められた方がすっきりするというのもあって、ロイは自ら説明する。
「取引だよ。俺は細身の男を殺さない。女は俺を殺さない。だから小男も殺させない」
「自分の命が大事だって言うんですか?」
「おう。俺はブラウリアに行きてえ。だから、ここで死ぬわけにもいかねえ」
イヴはしばしロイを凝視していたが、深呼吸ひとつの後、双剣を収める。
「賢明な判断だと思います」
他にもなにか言いたげであったが、責めるのは時間の無駄だと考えたらしい。三人組が去って行った方向をじっと見つめるイヴ。追いかけるべきか迷っているのだろうか。ブラウリアの軍人がロートリアの火事場泥棒を追いかける理由はないのだ、このまま見過ごしてしまえばいい。それを良しとしないのは、有り余る正義感によるものだろう。
「必要以上に関わったら、またソフィアになに言われるかわかったもんじゃねえぞ」
「……はい。彼女らがこれ以上悪さをしないことを祈ります」
ソフィアを利用するのは少々気が引けたが、こうでも言わないとイヴは納得しなかっただろう。ロイは中央広場の方へと視線をやる。
「なんか騒がしくねえか?」
先ほどは少年と大人の間で一悶着あったようだが、今度は違う。無数の怒号が不協和音となって響いている。
「そうですね、なにかあったんでしょうか?」
「またなんか問題でも起きたんじゃねえだろうな……」
火種の確認を急ぐべく、ロイとイヴは走った。
中央広場は殺伐とした空気に満ちていた。人々の怒声だけで空気がビリビリと震えている。噴水のすぐそば、何者かを囲うように立つ人々の中に先ほどの青年の姿を確認したイヴは再び尋ねる。
「今度はなにがあったんですか?」
「ああ、さっきの旅の人か。実は……」
怒声がざわめきに変わった。同時に聞こえてきたのは、金属がこすれる音と、鋭いものが空気を引き裂く音。武器を持った人間にしか鳴らせない音だ。ロイとイヴは警戒し、武器の柄に手を添える。
「そ、そんなものを出してなにをするつもりだ!」
「いまはまだ、なにも。貴方たちがこれ以上、私の邪魔をすると言うのなら……なにか、してしまうかもしれない」
震えた声に答えたのは、無機質で機械のように抑揚のない声だった。ロイもイヴもよく知っている、あの少女の声である。二人とも額に手をやって、深々と息を吐いた。
人垣を掻き分けて、輪の中心に向かう。そこには白い和装に身を包み、刀を手にした少女――ソフィアがいた。紅玉のような瞳を狭めていたが、二人の姿を確認すると僅かに見開いた。ロイはずかずかとソフィアに歩み寄ると、脳天に拳骨をひとつ見舞った。
「なにを……」
「テメエは馬鹿か! 民間人に武器を向けてどうする!」
「でも」
「でもじゃねえ! いいから来い、人間の常識ってやつを一から叩き込んでやる!」
ぐいとソフィアの手を引っ張ると人垣が裂け、道ができる。ロイは平謝りしながらそこを抜けると、町の入り口まで一目散に駆け出した。イヴが再び「失礼しました」と告げ、ロイの後を追った。
人気が少なくなったところでソフィアを解放する。ぎろりと鋭い眼差しを送ってきたがロイは怯まない。呆れ果て、がしがしと頭を掻き毟った。
「……言い訳は聞かねえ。どうしてあんなことになったのかだけを簡潔に教えろ」
「偉そうに言う。……盗賊のアジトの目星はついていないのか、と問うた。サラという人間がすでに向かったと聞いたから、『一人じゃ無理。助太刀に行く。場所を教えて』と問うた。そうしたら、ああなった」
「どうしてそうなったんだろうな。俺にはわからん」
「きっと、サラという人間を過信しすぎているのだと思う。余所者の出る幕じゃない、とでも言いたげだった」
この町のことはこの町の人間で解決する、とでも言うつもりなのだろうか。そう考えてみれば、現状は決して安心できないと知る。自警団が存在しているか、あるいはサラ以外にも戦える人間がいるのか。詳しいことまではわからなかったが、いま自分たちがこの町を離れれば、また被害に遭うかもしれない。ここまで破壊しつくされていて、なおも襲撃しにくるようであれば――。
「利用させてもらうか」
「ロイさん……?」
「なにか手段があると?」
「ああ。本当はこんなやり方したくねえけどな……」
ロイは苦虫を噛み潰したような表情を見せて、二人に作戦の説明を始めた。
夜も更け、空では月が皓々と輝いている。砂漠の町サンドラは静まり返っていた。住人達はテントを張り、冷たい夜風をなんとか凌いでいる。壊れた噴水から水が滴る音だけが不気味に響いており、その音に紛れて砂を踏む音が三人分。件の盗賊である。面差しはまだ若く、新入りだろう。手柄欲しさか、無抵抗な民間人を蹂躙する快楽を覚えてしまったのか。どちらにせよ、見逃せない。
身を隠していたロイは建物の陰から姿を見せ、これ見よがしに銃剣を担いだ。戦闘態勢だ。三人の盗賊はロイの登場に多少狼狽したようだが、すぐに腰に提げた小剣を抜き放つ。
「なんだァガキんちょ、そんな危ねえもん持ちやがって」
「いますぐ引き返せば見なかったことにしてやるぜ?」
「痛い思いしたくねえだろ? ヒヒヒ……」
下卑た笑いを浮かべる三人。ロイは早まる鼓動を必死に抑える。
……そろそろいいか。
「喧嘩の必勝法って知ってるか?」
突然の問いに三人は揃って首を傾げた。彼らは腕っぷしに自信があるのだろう。だから、こうも余裕を見せていられる。余裕とは、裏返せば油断だ。相手を見くびり侮っているからこそ、心に隙間が生まれる。その隙間こそが命取りだとも知らずに。
左右に立っていた二人が唐突にうめき声を漏らし、そのまま崩れ落ちる。そばには、二人の少女。真ん中に立っていた盗賊は困惑を隠せずにいた。「答え合わせだ」と銃剣を持つ手を下げる。
「ごちゃごちゃ言う前にやれ。つまりは、喧嘩は先に手を出した方が勝つってこった」
「で、どうする? 貴方は抵抗する?」
「できれば穏便に話し合いしませんか? 私たちも、暴力嫌いですし……ねっ?」
二人の美少女に左右から迫られれば嬉しいものだ。首に武器を突きつけられていなければ、だが。盗賊に抵抗の意志はないようだ。大人しく手を上げて、降伏のポーズを取る。イヴが腰のポーチからロープを取り出し、盗賊たちの腕に巻く。油断は禁物、しっかり拘束するに越したことはない。
盗賊を地面に跪かせ、ソフィアは問う。
「答えなさい。貴方たちのアジトはどこ?」
「……へっ、誰が答えるかってんだ」
強がる盗賊の首にソフィアの刀が押し当てられる。ごくりと唾を飲む盗賊。ソフィアの目は光を宿しておらず、機械のように冷たい。
「言葉には気をつけなさい。貴方の命は私が握っていることを自覚した方がいい」
「おいソフィア……」
やりすぎじゃないか?
そう問おうとしたロイだったが、イヴに手を引かれる。彼女の人差し指が口元にあり、「口を出さない方がいい」ということだ。ソフィアの意図を察知したのだろう、ロイは黙る。少々怖いところがあるが、ソフィアを信用することにした。
「もう一度だけ聞く。次はない。……アジトは、どこ?」
ロイに向けられたものではないのに、ソフィアの語気は背筋が凍るほどの迫力があった。態度を違えれば、あの刀は過たず盗賊の首を刎ねるだろう。見たくない。だからこそ、ロイは信用する一方で心配していた。
……本当に、やるつもりなのか。
盗賊は沈黙を喫している。あくまで答えるつもりはないらしい。「わかった」とソフィアは短く告げた。
「貴方のお友達に犠牲になってもらう。ロイ、イヴ」
「ああ?」
「はい?」
「気絶したままの二人の処遇は貴方たちに任せる。なんとしてでも吐かせること。……いい?」
声のトーンこそ問いかけるようなものであったが、言外の圧力がそれを命令だと認識させた。ロイはもはや言い返す気力も削がれ、しぶしぶ頷く。イヴもこくんと小さく頷いた。
「……わーったよ」
「なにをしてもいいんですね?」
「私が許可する」
動かなくなった二人を担ぎ、あるいは引きずりながら建物の陰に消えていくロイとイヴ。
さて、ここからどうしたものか。間抜けな顔で伸びている二人を前に、ロイは首を傾げた。イヴはなにをするつもりなのだろう、双剣を手にしてはいない。なにも痛めつけるつもりはないようだ。それならば、と柄にかかっていた手を離す。イヴは「ちょっと待ってください」とロイを制した。
「なんだよ?」
「上空に発砲してください」
「なんで?」
「想像力を駆り立てるからです」
いったい誰の? そう問おうとしたが、すぐに察した。それなら、発砲だけじゃ物足りない。ロイはニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。喉の調子を整え、深呼吸をひとつ。銃口を天空に向け、引き金を引いた。閑静な町に物騒な銃声が響き渡る。それがきっかけで目が覚めたらしい、二人がうめき声を漏らしながら目を開けた。動けないことに驚き、穏やかじゃない形相の青年を確認する。
「ようやくお目覚めかァ? のんきなこったな」
「テメエ! な、なんだこりゃ、動けねえ!」
「お前以外はみぃーんなやっちまったよ。ほら、見ろよこいつ!」
横たわるもう一人を足蹴にする。いつの間にか、身体に無数の傷がついていた。致死量ではないにしろ、かなりの出血量になっている。イヴがやったのだろう、容赦のないことをするものだ。イヴは長剣と短剣を振るう。付着した血を払う動作なのだろう、それを口元に持っていき、刃の部分を舐めた。恐ろしい光景だが、動揺してはいけない。ロイはつとめて歪な笑顔を貫いた。
自分が置かれている状況をようやく理解したらしい。男は身震いを始めた。
「ひ、い、命だけは……」
「助けてほしいか? ざーんねん! なにしてもいいって言われてんだよなァ。ただ殺すだけじゃつまらねえ、だからよ……」
再び、発砲。男の情けない悲鳴が響く。当たったわけではないが、男を追い詰めるには充分すぎた。
「一発ずつ、お前の四肢にぶち込んでいこうかと思ったんだが……どう思うよ?」
「悪くないんじゃないですか? その方が口を割りやすい……」
大した役者だ、とロイは思った。自分のことを探られたときは嘘を吐けない人間だと思っていたが、こういう演技はさまになっている。男は恐怖におののき、がちがちと歯を打ち鳴らした。ここまでやれば充分か。男の左足に銃口を押し当てる。
「んじゃあ……まず一発目」
引き金に指をかけ、引く。その瞬間に僅かに銃口を上方に。男の足から軌道を逸らしたので命中していないが、あたかも足を撃ち抜かれたかのような悲鳴をあげる。あとはソフィアの方でうまくやるのを待つだけだ。
「どうしたァ!? 当たってねえよ! 喚くんじゃねえよギャーギャーギャーギャー! みっともねえぞ!」
「ひっ、ひいいいいい! あがっ、があああああ!」
「無様だなァ、さっきまでの威勢の良さはどこ行っちまったんだ!? おい! ギャハハハハハッ!」
高らかに笑うロイの肩に手が置かれる。振り返れば、イヴがそこにいた。視線の先にはソフィアもいる。もう大丈夫、ということだろう。ロイは疲労感を深々と吐き出して、男から離れる。
「慣れないことはするもんじゃないぜ」と言うロイの声は僅かに震えていた。右手は激しい鼓動の心臓を力強く掴む。足取りはいやに軽い。というより、力が入っていないのがわかった。
「なかなかの演技だった。おかげでこちらもスムーズに尋問できた」
「もっと感謝しろ。そしてこんなおっかねえこと、二度とやらねえからな」
「どうしてですか? 結構、真に迫ってたのに」
「そりゃどういう意味だ……? 素直に喜んでいいところなのか……?」
イヴはそれ以上なにも言わなかった。落ち込むロイにフォローを入れることもなく、ソフィアは目的地を指し示す。
「ここから東にある古代の遺跡。そこから盗賊の拠点に行けると聞いた」
「そこにサラさんがいるかもしれないんですもんね」
ふとロイは顔を上げ、「つーかさ」とイヴに問う。
「お前、こんなところで寄り道してていいのかよ? さっさと本国に帰還した方がいいんじゃねえの?」
「それが、ですね……。預けていた移動手段が無くなっていて、動こうにも動けないんです」
なんとも運が悪いことだ。つまり本国に帰るなら、わざわざヴァイスリアに定期便で渡り、そこからブラウリア行きの船に乗り換えるという面倒な手段を取らなければならないわけで。移動費のことを考えると、途端に不安が胸を渦巻く。
「その移動手段が、盗賊に奪われたという可能性は?」
「それなんです。預けていた者に聞いたところ、物珍しいから、という理由で奪われたんだとか。だから放っておけないんです。……もちろん、それだけじゃないですけど」
それならば盗賊から奪い返せばいいだけのこと。しかしイヴが協力する理由はそれだけではない。おそらく、困っている人間を放っておけない。ただそれだけなのだろう。どこまでも甘く、お人好しだ。冷徹な軍人にはなれなさそうだ、とロイは苦笑した。
「このお節介焼き」
ソフィアがぼそっと呟く。しっかり聞き取ったイヴはやはり苦い表情で「違いありません」と笑った。
遺跡はサンドラから程近いところに存在していた。道らしい道もないままに歩き続け、数度の魔物との戦闘をこなす。魔物に対しては武器を振るうことに抵抗がなくなってきたとロイは成長を実感した。ソフィアからは「その程度」と笑われてしまったが、イヴはどこか安心したように胸を撫で下ろしていた。
石を削って作ったであろう遺跡はそう大きくない。奥の方が円を描いている奇妙な形だ。盗賊が何人いるかはわからないが、この程度なら中を見ようと思う物好きも多くないだろう。身を隠すにはもってこいだ。
三人は武器を構え、臨戦態勢に入る。いつ襲われてもいいように、という警戒心からだ。
「ロイさん、今度はもう躊躇しないでくださいね」
「貴方は甘い。武器を持っている以上、覚悟は必要」
「うるせえわかってら。もう迷ったりしねえよ」
それは虚勢であった。しかし、弱音は吐いていられない。命を奪う覚悟を決めなければ、こちらがやられてしまう。現実をしっかりと噛み締めて、三人は遺跡に侵入した。
中は薄暗く、空気は冷たい。壁に目をやれば、等間隔ん設置されたランプが古ぼけていないことに気付く。暮らしに困らない程度の工夫はほどこされているらしい。やはり盗賊がここにいるのは間違いないだろう。
視線を前に向ければ、ただ長い直線の道が続いていた。遠くの光がぼやけて見える。外観から判断するに、この道を真っ直ぐ行けば大広間に出るのだろう。そこに盗賊たちがいる、ということだろうか。それならば好都合……かと思った。戦い慣れているのはイヴとソフィアだけであって、ロイはまだまだ経験が浅い。なにより、人間相手に武器を振るうことにまだ抵抗があるという点がネックであった。
慎重に歩を進めようとした矢先、奥の方から忙しない足音が響いてくる。
「敵?」
「いや、待て。違う」
刀を構えるソフィアを制する。暗がりから姿を見せたのは年端もいかない少年であった。その姿には見覚えがあった。サンドラで大人たちと言い争っていた少年だ。疑問が拭えなかったが、少年が視線の先で激しく転倒した。息も絶え絶えで身体には生傷が絶えない。相当痛めつけられたのだろう、目に涙を浮かべる少年を放っておけるはずがなかった。慌てて駆け出す三人。
「おい、大丈夫か」
そう言い切るよりも早く、足元の感覚が唐突に消えた。そのまま全身が下に引っ張られる感覚に襲われる。これはいわゆる、落とし穴。罠としては最もありきたりなものだ。襲撃にばかり気を取られていたが、罠の警戒をすっかり怠っていたことを後悔した。イヴも、ソフィアも一緒に落下してきている。油断した、と舌打ちするソフィア。イヴはと言うと、冷静に下方に視線をやっている。
「くっそなんだよこのタイミング! ドンピシャすぎんだろ!」
「不覚……!」
「見えました! 皆さん、受け身の準備を!」
そんなことを唐突に言われて対応できるはずがなく。着地には見事失敗したロイ。おかげで右の手首を痛めてしまった。ソフィアとイヴは無事に着地したらしい、服に着いた砂埃を払っている。
「いってえ……」
「大丈夫ですか、ロイさん?」
「なんでもねえ」
そう言ったはいいが、手首の痛みは優しくない。思わず表情を歪めてしまう。敏く気づいたイヴが手首を握った。力がほとんど入っていなかったにも関わらず、うめいてしまう。
「手首、ですか?」
「ああ……けど、こんなん大したことねえよ」
「……それなら、いいですけど」
言いたいことはあるようだったが、飲み込んだようだ。演技が上手なのと隠し事が上手なのは別物だな、と考えてしまう。
ソフィアは辺りを歩き回っていたようで、二人のもとへ歩み寄ってくると悩ましげな息を吐いた。どうやら思ったよりも厄介な事態になっていたらしい。
「迷宮、と言うには少し大袈裟だけれど。相当入り組んでいる」
「明かりもほとんどねえのに迷宮か。面倒だな」
暗闇での戦闘は神経を大きく摩耗する。月明かりの下でさえ疲労が激しかったのだ、真っ暗闇ではどれほどか。考えたくもなかった。しかし、動かないことにはなにも始まらない。盗賊に襲われるか、あるいは放し飼いにしている魔物でも出てくるのか。どちらにせよ、状況は最悪。困り果てていたところに、イヴが「明かりですか」と呟いた。
「少しだけ、時間をください」
それだけ言って、黙る。しんとした空気が僅かに震え、心なしか熱を帯び始めた。イヴを中心に小規模な円陣が展開される。その色は白。これも契術のひとつなのだろう。
「『奔(はし)るは白。其は矮小なる煌めき。我が道を示せ、夜空照らす星々の如く――』」
凛と澄んだ声が響き、直後、手のひら大の小さな光の玉が生まれた。突然やってきた光源にしばし目を覆うロイとソフィア。視力が回復してくると、部屋の全容も見えてくる。
壁は石造りであるが、足元は砂であった。この部屋は若干広いが、視線の先には細い道がある。反対側にももうひとつあった。そこからが入り組んだ迷路のようになっているのだろう。ようやく動くことができる、とロイは立ち上がった。ところが、痛めていたのは手首だけではなかったらしい。すぐにがくんと崩れ落ちてしまう。どうやら、膝のようだ。
「ロイ、立てない?」
ソフィアの質問に、ロイはどう答えるべきか考えた。無理して立ち上がることは不可能ではない。しかしそんな状態では戦闘などろくにできないし、足手まといになるだけ。かといって動けないと正直に言ってしまえば、ここに置いていかれることは容易に想像できる。沈黙しているロイを見て、ソフィアは肩を竦めた。
「あまり無理されても邪魔になるだけ」
それだけ告げて、ソフィアは細道へと歩き出す。イヴがソフィアの腕を掴んで引き止める。
「ちょ、ちょっと待ってください! こんなところに置いていくって言うんですか!?」
「早くしないとまた被害が出るかもしれない。貴女はそれでいいの?」
「……ッ!」
ぎゅっと唇を噛むイヴ。このまま動かずにいれば、サンドラはまた襲われるかもしれない。それはイヴとしては最も避けたいところなのだろう。しかしロイをここに置いていくのも忍びない。そんなふうに見て取れた。
だからこそ、イヴの背中をほんの一押しする。
「ちょうど良かったぜ。昼間の疲れが取れてねえんだ。先に行って構わねえよ」
「でも……」
「本人も言っている。これ以上留まる理由がどこにあるの?」
なおも納得しきれていないイヴだったが、やがてソフィアの前を歩き出す。小さく「必ず迎えに来ます」とだけ告げて。
そして再び、暗闇が訪れる。足音はあっという間に砂に飲まれ、静寂が返ってくる。あまり長い時間留まり続ければ発狂してしまいそうだ。だが、動こうにも動けない。どうしたものかと辺りを見回していると、小さな人魂のようなものが見えた。
……まさか、幽霊?
ぞっとした。砂漠の只中で幽霊と遭遇するなど考えていなかったからだ。このままいずこかへと招かれてしまうのだろうか? それは怖いなあ、などとのんきに思考を巡らせるのであった。
しかしそれが近づいてくるにつれて、足音が聞こえてくる。靴底が砂に沈む、小さな音が。現れたのは、女性であった。
肩にかかる髪の毛は茶色く、前髪の分け目は七対三。身長は高く、ロイと目線が変わらない。その瞳は黄色、さながら砂のような色をしていた。赤いショートジャケットに黒のインナーシャツ、ショートパンツから覗く細い足は黒のタイツに包まれている。腰には二本、金属製の棒のようなもの――たしか、鉄鞭(てつべん)という武器だ――を提げている。右手には松明、どうやらこれを人魂だと勘違いしたらしい。
女性はロイと視線を交わし、沈黙。
「あー、先客がいたか。って、俺の方が先なのか?」
「あたし、夕方からずっとここにいるのよね……」
どうやら女性の方が早かったらしい。怪訝そうな眼差しを注がれるのはもう慣れた。ロイは至極リラックスして膝をさする。安全な人間だと判断したらしい、女性はロイのそばに歩み寄り、じろじろとロイの様子を窺っている。
「あんたも落とし穴にはまった人か?」
「ええ、情けないことに。ところで、きみは? どうしてこんなところに?」
「お節介焼きの手伝いだよ。ま、着地に失敗してこのざまだ、動けねえ」
ぽん、と膝を叩いてみせる。ついでに手首も叩いたが、痛みは当然引いていない。想像していた激痛に、ロイは再び苦痛の表情を浮かべる。女性が目を細め、ロイのそばに屈んだ。そして手首と膝を撫で、一言。
「治療するわ」
「治療?」
「じっとしていて」
女性はまず手首に左手を添え、まぶたを閉じた。周囲の空気が一変したのを感じる。先ほどイヴの契術が発動する前に感じたものと同じだ。
……まさか、この女も契術使い?
想像は的中。女性の周囲に白く奇怪な模様が描かれた陣が展開する。
「『奔るは白。其は豊かな命の温もり。彼の者に癒しの恵みを与え給え――』」
陣が弾け飛び、ロイの手首が光に包まれる。それはほんの一瞬の出来事であったが、光が消える頃には手首の痛みはすっかり引いていた。ひねっても振っても支障がない。この女性は文字通り、治療したのだ。奇怪な術を用いて。
まぶたを開いた女性、その瞳には僅かな疲労が見えた。
「……膝も痛めているのよね? 少しだけ我慢して」
そう言って女性は再び契術を使用する。光が膝を包み込み、消える。痛みはどこかへ飛んでいってしまった。一切の不自由なく動く手首と膝、何度屈伸しても痛まない。どれだけ手首を動かしても痛まない。不思議な心地であった。
実際に契術の対象となってみて感じたことは“不気味さ”であった。何日もの時間をかけ、その間はつとめて安静にしなければならない。そうして初めて治る怪我が、ものの数秒で完治してしまう。ロートリアの人間ならば、誰だって違和感を覚えるはずだ。
しかし、治療してくれたことには感謝しなければならない。ロイはなんでもないような表情を繕う。
「サンキュー、助かった」
「……驚かないのね」
女性は物珍しそうにロイを見つめた。なんと説明すれば良いのかわからず口ごもってしまうが、嘘を吐いたりごまかす理由もないと判断する。
「実際に間近で見ちまったもんでな、それ」
「……? ああ、そういうこと。大丈夫、町までは無事に送り届けるから」
ひとり納得した様子の女性。解釈は自由だ。どう思われていようが特に不都合が生じるわけではないので、なにも言わなかった。
「出口がどっちか、わかんのか?」
「ええ。さっき探索した方は行き止まりだった。よくわからない壁画があるくらい。出口はあっちよ」
女性の指が向く先は、イヴとソフィアが歩いていった方の道。運が良かったと言うべきか。
「そんならちょうど良い。さっき仲間があっちの道に向かったんだ。走れば間に合うかもしんねえ」
「そうね、急ぎましょう。あまり無茶はさせられない」
どうやら仲間も民間人だと思っているようだ。“誓いの刃(ジャッジメント)”に軍人という民間人からは遠くかけ離れた存在だということは黙っておこう。
ロイは銃剣がきちんと動くか確認する。弾丸は正常に撃てるか、銃口を足元へ向けて引き金を引く。短い銃声の後、砂に埋まった弾丸を見て、小さく頷いた。
「それじゃあ、行くわよ。あまり前に出過ぎないでね」
どうも実戦が近づくと邪魔者扱いされている気がしてならない。人間相手に戦ったことがないのだから当然と言えば当然なのだが。それにしたって釈然としない。
前を女性が走り、その数歩後ろを行く。砂を蹴る音だけが静かに響くこの空間は、ソフィアの言った通り迷宮のような構造になっていた。至るところに分かれ道。同じところを何度も通っているような錯覚に陥る。そうして方向感覚を狂わせ、最終的には発狂ないし飢え死にとなってしまうのだろう。考えるだけでも恐ろしい。
「そういえばきみ、名前は?」
「ロイ・カーヴェル。あんたは?」
「あたしは……」
女性が名乗ろうとした矢先、不自然な足音が聞こえてくる。それは複数人のものだ。
三人……いや、もう少し多い?
視線の先の暗がりから姿を見せたのは、五人の盗賊たちであった。皆一様に、薄ら笑いを浮かべている。その視線が向く先はロイではなく、女性のようであった。
「懲りないわね。まだ足りないのかしら」
「その減らず口、いつまで叩けるかな」
ヒヒヒ、と笑うのは群れの一番奥にいる大柄な男。手には巨大なハルバード。いかにも戦い慣れた風体の大男はそれを高らかに掲げると、野太い声で「やっちまえ!」と進軍命令。盗賊が一斉に押し寄せた。
「マジかよっ!?」
「これ、持ってて!」
女性はロイに松明を押しつけると、腰に提げた鉄鞭を抜き放った。手の内で器用に回転させ、構えを取った。順手に持ち、駆け出す。
左右から迫る小剣。突き出されたそれは鉄鞭で軌道を逸らし、薙ぎ払われたそれは受け止める。すかさず突きを繰り出した盗賊の頚椎に一撃、小剣を薙ぎ払った盗賊のあごに一撃を見舞い、二人を一瞬で沈める。飛びかかってくる盗賊には、容赦のない突きを見舞う。喉をえぐるような一撃は盗賊をいともたやすく吹き飛ばした。しかし、それだけ派手に動いては隙が生じる。女性の背後を取った盗賊が邪悪な笑みを浮かべて凶刃を振り下ろす。
「させねえ!」
ロイは銃剣を振り上げる。発生した衝撃波は盗賊に命中し、僅かな硬直を生んだ。女性は振り向きざま、瞬息の五連突きを繰り出した。戦闘不能に陥る四人の盗賊。残るはハルバードの大男のみ。だが、女性は迂闊に攻め入れないようであった。おそらく、敵が手練れであると踏んだのだろう。大男からは大きな隙が窺えなかった。
「サンドラのヒーロー、サラ・モーガンは意外と慎重なようで」
「サラ?」
……なるほど、この女がサラだったのか。
女性――サラ・モーガンは大男を嘲るように鼻を鳴らした。
「あんたたちほどじゃないわよ。だから落とし穴なんて典型的な罠に引っかかったわけで」
「違いねえ!」
豪快に笑う大男。そこを狙い、サラは鋭い踏み込みからの突きを繰り出す。角度は大男の喉にドンピシャリ。しかし大男も甘くない。それを読んでいたらしい、僅かに身体をひねることで回避する。腕が伸び切った隙だらけのサラに、大男は鋭い蹴りを見舞った。下腹部に直撃したその一撃は細身のサラを軽々と吹き飛ばす。足元に転がるサラを見て、ロイはぶるりと身を震わせた。
……こいつはやばいんじゃねえか?
銃口は大男に向けつつも、足が一歩、後ろに出ていた。恐怖を察知されたらしい、大男はげらげらと笑う。
「なんだ坊主! 俺が怖いか!?」
「あー、なんだ。まあ、そりゃおっかねえよ」
「だったらそんな物騒なもの持ってんじゃねえよ! 敵だと思ってぶっ殺しちまうぞ!?」
「……ッ!」
それは脅し文句なのだろうか。どことなく情けが見える。
だが――敵に余裕を持たせるのは、一概に悪いことではない。それが油断となることは証明した。こらえきれず、ロイは口の端を上げる。
「いいのか? こっちばっか見てて」
「ああん……?」
直後、大男の胸を貫いたのは巨大な漆黒の刃。それは大男の影から発生したようで、黒い霧のようなものをまとっている。
「『連なる黒。彼(か)の身を刻むは血塗(ちぬ)れの十字架――』」
続けて、聞き覚えのある声が響く。大男の背後の暗闇に、一際黒いなにかが見える。直後、黒い刃が変形。禍々しい十字架へと姿を変え、大男の身体を無残に引き裂いた。大量の鮮血を撒き散らして崩れる大男の残骸。漂う血臭に鼻を覆うロイ。サラも眼前の光景に困惑するばかりであった。
「大丈夫ですか、ロイさん!」
暗がりから姿を現したのはイヴであった。いまの契術もイヴのものだろう。なんと言おうか、むごたらしい契術もあるものだ。やはり生粋のロートリア人には理解しがたいものがある。
イヴの後ろにはソフィアもいる。散らばる大男の残骸には一切目もくれない。見たくない、というわけでもなさそうだ。もっと冷たい感情を感じる。
「お前ら、先に行ったんじゃないのか?」
「ええ。でも、背後からなにか聞こえてきたから戻ったんです。そうしたら、ロイさんと……」
イヴの視線がサラに向く。サラはと言うと、驚いたように目を見開いていた。大方、自分以外に契術が使える人間を目の当たりにしたのは初めてなのだろう。ロートリアに住んでいてかつ、契術が使える人間からしてみれば奇怪に映るかもしれない。いままで触れてこなかったロイからしてみれば、驚いたのは最初だけ。思いのほか、順応するものだ。
「きみ、契術が使えるのね」
サラの質問の意図が読めなかったのか、イヴは首を傾げた。本人が答えるよりも早く、ソフィアが忌々しげに吐き捨てる。
「ブラウリアの人間だもの。契術くらい使える」
「ソ、ソフィアさん!」
「ああ、なるほど。ブラウリアの……」
サラは特に問いただすことをしなかった。契術の存在を知っていれば合点がいく話なのだろう。思っていた反応が返ってこなかったらしい、ソフィアは不愉快そうに眉をひそめた。
ここでロイはふと疑問に思ったことを口にする。
「ブラウリアの人間ってみんな契術使えるのか?」
「いえ。ブラウリアの中でも適性のある人間にしか使えません」
その問いに答えたのはイヴ。
「言っていいのかはわからないんですけど……契術の発動には、体内に特殊な回路を設けることが必要なんです。それが、これ」
イヴは光の球を自身の左目へと近づける。綺麗な瞳に映るのは、白い十字架と黒い翼が描かれている。
「この紋章は“魔力回路”を保有する人間の証です。扱える属性よって形は異なるし、浮かぶ場所も異なるんですけど」
「お前のは白と黒だな」
「はい。光と闇を併せ持っています」
「ロイ、納得した? それならば、先を急ぐ。ここで駄弁っているだけでも盗賊は迫ってくるのだから」
苛立ったような口調のソフィアは再び歩き始めた。光源もないのにどうやって先へ行くつもりなのか。ロイとイヴは慌てて追いかける。なにが起こっているのかわかっていないらしいサラは、戸惑いながらも三人に続いた。
盗賊の襲撃を警戒しつつ、慎重に歩を進める。しかし襲ってくるのは、放し飼いされているであろう魔物ばかり。それ自体はさほど脅威ではない。一番の問題は時間の経過が一切わからないこと。四人は確実に疲弊していた。足取りも徐々に重くなり、もともと少なかった口数はさらに減った。
ふとため息を吐くソフィア。どことなく尖ったものを感じた。
「……本当にこっちで合っているの?」
「知らねえよ。お前が先陣切ったんだろうが」
「喧嘩しないでください、二人とも」
イヴの口調もどことなく鋭い。余裕がなくなっているのがよくわかった。さて、この険悪な空気をどう解消しようか。頭を悩ませているロイをよそに、ソフィアが「そういえば」と振り向いた。
「貴女は誰?」
視線の先には、サラ。言われてみれば、とイヴもサラへと視線を向ける。当の本人はというと、「ようやくか」と苦笑を浮かべた。
「あたしはサラ・モーガン。サンドラで警備員、のようなことをしてるの。で、きみたちは何者? 妙に戦い慣れているけれど……」
ソフィアは納得したように小さく頷いた。イヴは、合点がいったと手を合わせる。
二人の反応が不思議だったのか、サラはきょとんと目を丸くした。あの戦いぶりを見て、町の人間でないことは察していたのだろう。だが、どうしてサラの名前を知っているのか、という点が理解できていないようであった。
「ソフィア・ベル・スタディオン。星空の“誓いの刃(ジャッジメント)”」
「私はイヴ・レヤードです。一応、ブラウリア王国軍近衛師団です」
「“誓いの刃(ジャッジメント)”? それに、近衛師団? って、君主のそばに仕えているイメージだけれど……どうしてロートリアに?」
また同じ説明をするのは時間も手間もかかる。ロイは「ま、その辺はいいじゃねえか」とお茶を濁した。サラは今一つ釈然としていないようだったが、ここは我慢してもらう。
「それにしても、町であんたのことを聞いたけどよ。ずいぶん信頼されてるんだな」
「信頼、ね。嬉しい限りだけれど……」
なにか言いたげなサラ。しかし首を横に振って、「なんでもないわ」と呟く。赤の他人に言うことではないのだろう。三人とも触れることはしなかった。
紹介が済んだところで、再び歩き始める。なかなか会話が弾まないが、先ほどよりは口数が増えた。と言うのも、ロイがサラに質問をしているだけなのだが。やれ、サンドラはどんな町なのか。やれ、盗賊をたったひとりで伸したのは本当なのか。サラは特に抵抗もなく語ってくれた。会話を成立させようと気遣っているのがよくわかる。ソフィアとは大違いだ。
ちらりとソフィアに視線をやれば、迷いのない足取りで先頭を歩いている。迷っているのに迷いのない足取りとはなんという矛盾か。ロイは苦笑した。並んで歩こうとするイヴが健気すぎて申し訳ない気持ちが溢れてくる。
ふと、ソフィアが足を止めた。右手でイヴを制し、左手は刀の柄に添えられている。ロイとサラも足を止め、武器を抜く。足音がするわけではない、ただ、なにか嫌な気配だけはロイにも感じ取れた。
「来る」
ソフィアが刀を抜き放ち、臨戦態勢を取った。イヴも光の球を手放し、双剣を抜く。光の球はイヴが指示したらしく、上空数メートルのところで停止した。
灰色の影が地を這っている。それは思いのほか素早く、ソフィアとイヴの間を駆け抜け、ロイへと飛びかかった。咄嗟のことで反応が遅れ、腕に鋭い痛みが走る。どうやら噛みつかれたらしく、のこぎりのような小さく大量の歯が腕を沈み込んだ。それだけではなく、あごの力が強力なのだろう、ミシミシと骨が軋む音が聞こえる。
「痛っ……! 離れろ!」
銃剣を突きつけ、発砲。すでに敵はそこから離脱しており、弾丸はむなしく砂に沈んだ。どこへ消えたと視線を巡らせると、それは天井にいた。
灰色の、三メートルはあろう長い胴体。そこから伸びる四本の足は短く、小さな指で天井に掴まっていた。ちろちろと動く舌が気味悪く、ロイの知るトカゲとは一線を画す規格であった。
「気味の悪いトカゲだぜ……!」
「皆さん、気をつけてください!」
「承知」
「わかったわ!」
ロイが銃剣をかざし、発砲する。銃口を向けられたことを敏く感じたトカゲは天井を蹴って地面に降り立った。弾丸は壁にめり込む。ソフィアが刀を大上段に構え、力任せに叩きつけた。刹那、地面から光の奔流が走りトカゲを飲み込む。
倒したか、そう思った矢先。無数に生え揃った歯がソフィアの左足を捉えた。痛みにうめくソフィア。少し離れたところでイヴが詠唱を開始した。今度の陣は黒かった。
「『侵すは黒。其は深淵より出でし黒き刃。儚く散らせ、生命(いのち)の花弁(かべん)――』」
イヴの契術が発動する。地面から禍々しい凶刃が発生し、トカゲの尾を切り落とした。すぐさま回避行動に移ると、威嚇するように荒い息を漏らす。ソフィアが追撃しようと刀を振り上げる。そこは間合いの外であったが、可視化するほどの衝撃波が地を穿ちながらトカゲに迫る。ロイのそれよりも圧倒的に力強く、速い。しかしトカゲは機敏な動きでそれを回避する。追撃せんと踏み込もうとしたソフィアであったが、違和感を覚えた。左足が動かないのだ。見れば、左足からは血の気が失せ、代わりに鋼のような色と硬質さを得ていた。
「忌々しい……!」
「動かないで、ソフィア! ロイ、イヴ! トカゲの相手をお願い!」
サラがソフィアのもとに駆け寄る。ロイとイヴは頷いて、トカゲと対峙した。相手も様子を窺っているようで動かない。牽制でもしてやろうかと考えたが、それよりも早く、イヴが契術の詠唱を始めていた。ならば遠慮はいらない。ロイも銃剣を構えて弾丸を放った。当然、トカゲは回避する。
「『奔るは白。其は気高く煌めく三つ星。制裁の弾丸、悪しきを穿て――』」
詠唱が完了したイヴのもとから、小さな光の球が三つ生まれる。それはゆらりと列を成し、読んで字の如く光速でトカゲの胴体を穿った。けたたましい鳴き声を上げるトカゲ。ロイは近寄り、銃剣を力一杯叩きつけた。足元の砂が巻き上がるほどの一撃は見事命中し、トカゲに確かなダメージを与える。一方のサラはソフィアの左足に手をかざし、まぶたを閉じて詠唱に集中した。先ほどと同じく、白い円陣が展開される。
「『奔るは白。其は清らなる加護の光。彼の身より穢れを打ち払わん――』」
ソフィアの左足が光に包まれる。淡い桃色の、綺麗な光だ。左足が血の気を取り戻し、もとの健康的な褐色の肌が見える。きちんと動くことを確認したソフィアは構え直し、短く告げる。
「感謝する」
「それより、敵に集中!」
トカゲはロイたちに対してようやく警戒心を抱いたようであった。じりじりと距離を取り、背を向けて走り出そうとした。
「逃がすか!」
ロイは咄嗟に銃口をトカゲの背後に定め、引き金を引く。刀身にあしらわれた宝石が白く輝いた。直後、銃口から放たれたのは一筋の雷光。凄まじい速度で宙を駆け、トカゲの胴体を背後から貫いた。トカゲは足を止め、痙攣する。サラが鋭い踏み込みで接近。鉄鞭を振り上げ、自身も宙へと舞い上がる。無防備なトカゲに、さらに一撃。手を重ね、大きく振りかぶった鉄鞭を勢いよく振り下ろした。地面に叩きつけられたトカゲは砂に埋もれ、やがて砕け散った。
「やったか……」
脱力し、その場に座り込む。こんな戦闘を繰り返していて、いざ盗賊と鉢合わせたときに戦えるのか不安になる。皆、疲弊しきっているようだ。特にサラ。顔は青ざめており、息も絶え絶え。治癒の契術は疲労が激しいのだろうか、イヴはさほど疲れていないようだが……。
ロイは深々と息を吐いて、提案する。
「少し休もうぜ。疲れちまった」
「賛成です、ずっと戦いっぱなしでしたし……」
「そんな暇はない」
案の定、却下するソフィア。サラはなにも言わず、肩を上下させている。疲弊しているのは火を見るより明らかだ。このまま進めば、途中で倒れてしまうかもしれない。なんとしてでも休息しなければ。ロイは思考を巡らせる。そのとき口を開いたのはサラだった。
「ソフィアの言う通りよ。そんなことしている間に、また町が盗賊に襲われるかもしれない」
まさかソフィアの方に賛同するとは思わなかった。当の本人は疲れ切っているのだが、それでも前に進もうと言う。無茶が祟らないことを祈ろうと考えたが、思わぬところから口が挟まれた。
「サラさん、とても疲れているように見えます。このまま盗賊と戦っては、途中で倒れてしまうかもしれません」
「なっ……あたしは大丈夫よ! 身体は頑丈にできているの!」
「無茶しすぎて、あなたが傷ついてしまったら、悲しむ人は誰ですか? ……よく考えて、自分をもっと大切にしてください」
「……ッ!」
サラの表情が怒りに歪む。ロイはすかさず二人の間に割って入る。
「イヴの言う通りだぜ。サラ、顔に出過ぎだ。あんまり無茶するなよ」
「無茶なんてしてないわよ!」
怒鳴るサラ。ロイにはそれが強がりだとすぐにわかった。息は荒く、視線も定まっていない。こんな状態で無茶してないなどよく言えたものだ。
「どうだかな。顔真っ青だけど?」
「これはっ……もともとよ!」
「普段から血色悪いのかよ、ちゃんと飯食ってんのかあ?」
「きみねえ……! 茶化さないで!」
サラの手がロイの胸倉に伸びる。目線が同じ高さということもあり、威圧感はなかなかのものである。しかしロイは屈しない。伸びてきた腕を払って告げる。
「だったら休めよ。あんたが万全の状態じゃなかったら、誰が俺たちを助けてくれるんだ?」
「あたしが、きみたちを助けるとでも?」
「助けてくれるだろ?」
真っ直ぐに目を見て尋ねる。サラも真っ向から視線を交わしてくる。どちらも譲らずに睨み合っている二人、イヴとソフィアは入る余地がない。黙って行く末を見守っていた。
やがて観念したように、サラがロイの胸倉を手放した。
「……期待しすぎないでよね」
「おう。さて、休もうって人間が三人いるわけだが?」
多数決の原理、というやつである。ソフィアはやれやれと肩を竦めた。
魔物を警戒しつつ、砂の地面に腰を下ろす四人。ソフィアは相変わらず見張り番だ。
「ところで、イヴ。“魔力回路”ってのはなんだ?」
先ほど、契術の話になったときに出てきた単語だ。質問するタイミングを失っていたため、いい機会を得たと思い尋ねてみる。なんと説明をすれば良いのやら、と困り顔のイヴは「拙い言葉ですけれど……」と前置きした後に説明を始めた。
「“魔力回路”というのは、ブラウリアに伝わる秘術を人体に施すことで発生する可能性がある器官のことです」
「可能性がある? 確実じゃねえのかよ」
だとしたら、ずいぶんとリスキーだ。失敗すれば、なにかしらの障害を負うこともあるだろう。ロイの予想は的中したらしく、イヴは「はい」と頷いた。
「“魔力回路”が発生するかどうかは、実際に施術されないとわからないんです。ですが、身体に対する負荷がとても大きくて、施術中に死んでしまう者もいるくらいで……」
「そうまでして“魔力回路”を持ちたがる理由ってのはなんなんだろうな?」
命を擲(なげう)つ覚悟があるか。そう問われているようであった。そもそも“魔力回路”の発生そのものが、才能の有無に依るところがある気がする。しかも、その才能があるかないかを判断する方法が存在しないというのが恐ろしい。
イヴが説明を続ける。
「“魔力回路”の保有者はブラウリア国内でも優遇されるんです。主に軍人として、ですけど。ある意味、名誉みたいなものなんですよ」
「はーん、俺にはわからねえや。……ってことは、サラもブラウリアの人間なのか?」
治癒の契術を扱えるサラも、どこかに“魔力回路”が存在しているはずだ。つまり、サラは過去に施術の経験があるということ。サラの表情は渋い。踏み込んではいけないことだったのだろうか。しまった、と自分の軽率さを恨んだ。
「わからないのよね」
「……わからねえ?」
わからない、ということがわからなかった。サラはとつとつと語り始める。
「いつの間にか使うことができた、って感じなの。小さい頃に施術されたって可能性が一番大きいけれど、そんな記憶はないし。でも紋章はここにあるのよね」
サラはインナーシャツの裾をぐいと上げる。咄嗟のことにロイは顔を逸らす。女性陣からの視線が痛く、「いきなり脱いだりしないわよ」という言葉を受けて視線を戻す。へその横に、白い十字架が刻まれていた。イヴの瞳にあるものと同じだ。
「これがあるってことは、どこかで施術されたのは確実よね?」
「違いない、と思います。けれど……治癒の契術って珍しいですね。私、見たことないです」
「そうなの? なんなのかしらね、この力……」
物憂げな様子のサラ。身に覚えのない力を不気味に思うのは仕方がないとは思う。それも、珍しいとまで言われては、なおさら気になってくるところだろう。
「まあ、いつかわかるさ。いまはあんたの術を頼りにしちまうことになるけどよ、構わねえか?」
「……だから、期待はしないことね」
「話が済んだなら、そろそろ出発する」
ソフィアが立ち上がり、服についた砂を払い落とす。そろそろサラも疲れが取れてきた頃だろう。準備は万端だ。
問題は、どこから上階に上がることができるのか、である。階段はいまだ見つからず、そろそろ空腹も気になり始めてくる。そんなときであった。
「あっ」
その声は男のものであったが、ロイが発したわけではなかった。四人の視線が声の方へ向く。そこにいたのは、下っ端と思しき盗賊が二人。しばし膠着状態に陥る六人であったが、ロイたちはすぐさま武器を持って盗賊たちに肉薄した。突然の邂逅に驚いた盗賊たちはすぐさま来た道を戻る。おそらくはその先が、上階への階段。四人ともそれを察知したらしく、武器のリーチのギリギリの距離を保って盗賊たちを追いかけた。なんとタイミングの良いことか。無神論者のロイだが、今回ばかりは神様に感謝した。
足元が徐々に整備されたものになっていく。やはり近くに階段があるようだ。ソフィアが一歩、三人よりも前に出る。身を翻しながら刀を振るった。軌跡が光を帯びるその一撃は盗賊の背中を易々と切り裂く。転げ回る二人の盗賊には目もくれずソフィアは走り続ける。ロイたちも同様で、「悪いな! 助かった!」と爽やかに告げて視線の先の階段へと駆け抜けた。
階段を上りきると、石造りの巨大なホールに出た。ここが遺跡の外観でいう円になっている部分なのだろう。そこには多くの盗賊がいたが、不気味な足取りで辺りを徘徊している。目は虚ろで、声にもならない音を口から漏らしている。
「町の人間が『会話が通じない』とか言ってたけど、なんだこりゃあ……」
「たぶん、ですけど。なにかしらの方法で“魔力回路”の施術を受けたんだと思います。それも、普通じゃない。良くない方に改められた秘術……とでも言いましょうか」
「どこのどいつだ、そんなもん持ち込んだのはよ……」
秘術を改変とは大胆なことを試みるものだ。しかし、この只中を突っ切れば、無数の契術の餌食になることは請け合い。奥の方に扉が見えるが、どうやって切り抜けようか。などと考えていると、女性三人が一斉に走り出した。
……まさか、本当に突っ切る気かよ!?
「お前ら馬鹿だろこんちくしょうがあああああ!」
ロイも慌てて走り出す。それを皮切りに盗賊たちがロイの方へと視線を向ける。途端に展開される色鮮やかな円陣の数々。不規則なタイミングで発動される無数の契術。そのど真ん中を、必死に駆け抜けた。扉まであと少し、というところでロイは転んでしまった。見れば、盗賊に足首をがっちりと掴まれている。ニタリと気味の悪い笑みを浮かべている。こいつも正気ではないようだ。
「くっそが……!」
「ロイ!」
盗賊の横っ面を、鉄鞭で叩くサラ。容赦のない一撃は盗賊を派手に吹き飛ばす。顔の骨が砕かれたのではないかと思うほどの一撃。ロイはぞっと背筋を凍らせる。サラに首根っこを掴まれ、命からがら扉の向こうへと辿り着いた。
「ぶはあ、助かった……ありがとうな、サラ」
「別にきみのためじゃない。あたしの目の前で死なれたら嫌だからああしたわけで……」
ふいと顔を背けるサラ。素直な言い方ができない人間だということは理解した。立ち上がり、改めて室内を見渡す。
そこまで広い部屋ではない。古めかしいランプが並ぶところは同じだが、いやに柔らかい絨毯が敷かれており、部屋の脇には無防備にも宝と思しきものの山。奥には豪奢な飾りつけの椅子。そこに鎮座するのは、年端もいかない少年であった。
緑色の短髪は整っておらず、無造作に散らしている。黄色の瞳には悪戯心がありありと見て取れ、口の端は歪に吊り上がっている。服装は小奇麗とも言い難く、どこかみすぼらしさを感じさせた。まさかこの少年が盗賊団の首領なのだろうか。ロイたちは己が目を疑ったが、サラだけはぎゅっと唇を噛み締めた。
「コナン……! きみが首領だったのね!」
「なんだ、サラは気づいてたんだ。つまんねえの」
コナンと呼ばれた少年は言葉通り、退屈そうにため息を吐いた。困惑するロイたちは一斉にサラへと詰め寄る。コナンという名には聞き覚えがあったからだ。それは町で、サラに頼りきりで恥ずかしくないのかと大人に訴えていた少年の名だからだ。面差しが町で見たときとは別人だったので、名前を言われるまで気がつかなかった。
「お、おいサラ。本当にあのガキが盗賊の頭だってのか? 冗談だろ?」
「そうですよ! あの子、町で『いつまでもサラに頼ってばっかりで恥ずかしくねえのか!』とか言ってましたよ!?」
「そうよ。本当のコナンはそんなことする子じゃない。いつもあたしを気にかけてくれていた。……けれどここ最近、きみの様子が少しだけ違っていたから、別段驚きもしなかったわ」
様子が少し違う? たったそれだけの理由で、あんな幼い少年に武器を向けるというのか。ロイとイヴはサラに不信感を抱く。しかし、武器を向けようとしているのはソフィアも同じであった。刀を抜き放ち、戦闘の構えを取る。
イヴが慌ててソフィアの腕を掴む。
「ソフィアさん、待ってください!」
「もう待てない。貴方たちは気づかないの? あの少年から発する殺気に」
「ハハッ、そこのお姉さんもやるねえ! あとちょーっと気づくのが遅かったら、こいつの餌食になってたよ……」
少年を中心に展開される黄色の円陣。それは契術発動の前触れであった。それが弾け飛んだのと同時、ソフィアはイヴを蹴り飛ばし自身も横に転がる。ソフィアの立っていた場所を中心に、三か所から鋭い岩の塊が隆起していた。あのまま立っていれば、間違いなく串刺しになっていただろう。
「まだわからないの!? 躊躇するなと貴女は言った! だったらさっさと覚悟を決めなさい!」
ソフィアの叱咤でようやく決心したのか、イヴは双剣を抜く。構えを取ったのを見て、ロイも後には引けなくなった。しかし、銃剣を掴む手に力が入らない。
あんな子どもに武器を向けるなんて知ったら、アーロンはどう思うのか。別に親の顔を気にするわけではないが、それが本当にアーロンの望んだ使い方なのだろうか。そう考えると、戦うこと自体を放棄してしまいたくなった。
「ほら、そこのお兄さん! ぼけっとしてたらやられちゃうよ!?」
黄色の円陣が展開したかと思うと、ロイの足元から拳ほどの大きさの石礫が飛んでくる。回避もできず直撃したロイは痛みに喘ぎ、その場にうずくまる。
ソフィアが舌打ちし、サラが治癒の契術を発動する。痛みこそ引いたものの、動揺は消せなかった。
「なにをしているロイ! これでもまだ、武器を振るうことを拒むかの!」
「……ッ! でも……」
「でもじゃない! やつは敵だ、躊躇はいらない!」
簡単に言ってくれる。だが、ソフィアの言うことがもっともなのだ。やらなければ、やられる。ここはもう、カーヴェル家の庭ではないのだ。命を懸けた戦場なのだ。
……やるしかねえのか、くそったれ。
ロイは銃剣を取り、臨戦態勢を取る。その表情からはまだ迷いが窺えた。コナンはくすくすと笑い、立ち上がる。そばに置いてあったのは、彼の身長以上もある大きな剣。それを片手で掴むと、まるで木の棒でも振り回すかのように軽々と扱う。尋常ではない怪力の持ち主のようだ。
「さあ、始めるか!」
少年が大剣を腰溜めに構えながら突進する。ロイ、イヴ、ソフィアは散開。サラだけは動かず、横薙ぎに振るわれた大剣を真正面から受け止めた。しかし勢いと重量には勝てず、サラは軽々と弾き飛ばされた。攻撃後は隙ができる。ソフィアが走り、力強い踏み込みと共に神速の突きを放った。狙いは側頭部。速度も相まってまさに必殺の一撃、のはずだった。なんとコナンは、その刀を片手で掴んで防いだ。俗に言う、真剣白羽取りである。
「なにっ……!?」
「甘いよお姉さん!」
邪悪な笑顔を浮かべながら大剣を振り上げる。そのまま自身も跳躍し、上空へと身を晒す。空中では身動きが取れない。格好の好機だ。イヴが走り込み、長剣を振り上げた。鋭い一振りはさながら三日月のような軌道を描く。手応えはあった。しかしそれは、金属と金属がぶつかりあったもの。肉を断つ感触ではない。コナンは大剣の腹に隠れてその一撃を防いだのだ。落下したのと同時、瞬息の三連突きを繰り出す。イヴの身体を浅く裂いたものの、致命傷には至らない。
横からサラが飛んでくる。鉄鞭を垂直に構え、鋭い踏み込みからの突きだ。肩に命中し、僅かに体勢を崩すコナン。そこにもう一度、突きを見舞った。今度は踏み込みではなく、溜めを作ってからの一撃。コナンの身体は大きく吹き飛び、大剣を手放す。これが好機と言わんばかりにソフィアが攻め入った。小さな跳躍の後、強烈な兜割りを叩き込む。床を割るような一撃は、僅かに転がることで回避されていた。コナンはソフィアに目もくれず大剣のもとへ駆け出す。
「危ねえぞ!」
ロイは大剣のそばに弾幕を張る。しかしコナンはそれをものともせずに大剣を掴み、体勢を立て直す。
コナンは余裕綽々といった様子だ。どこで戦闘経験を積んだのか、まるで想像がつかない。さながら、歴戦の戦士が憑りついているかのようだ。
「四人がかりでこんなもんかよ!? つまんねえぞ!」
「無策に突っ込んでも駄目、みたい……!」
「それなら、ソフィアさんとサラさんが前線に立ってください! 私とロイさんが後方から援護します! できますよね、ロイさん!」
「おう、任せとけ!」
虚勢である。しかし、こう言っておかなければ作戦が成立しない。覚悟を決めるときだ。ソフィアは黙って頷き、先陣を切って走り出した。サラもそれに続き、イヴは契術の詠唱に入る。
ロイは銃口を天井に向け、弾丸を放つ。一度ではない。何度も引き金を引いた。天井に反射した幾つもの弾丸は雨の如く降り注ぎ、コナンの動きを制限する。サラとソフィアはそれらを器用に避けながら駆け抜ける。
「ソフィア、合わせて!」
「承知!」
二人はほぼ同時に武器を水平に構え、踏み込んだ。突きの軌道が十字を描く渾身の連携技に、大剣を地面に突き立て防御を試みたコナン。しかしそれすら突き抜ける一撃が彼の身体を貫いた。鋭い武器ではない鉄鞭が、コナンの横腹をえぐる。ソフィアの刀は大剣を持つ腕を深々と切り裂いた。予想外の一撃にコナンは愉快そうに笑った。
「やるなァ!」
「まだよ!」
サラが再び接近する。鉄鞭を左右から繰り出し、とどめの一撃で振り上げる。それはコナンの身体をすり抜けた。正しくは、コナンの残像をえぐった。鉄鞭の間合いギリギリまで後退し、回避したのだ。そこから大剣を振るう。空中では回避がままならない。コナンの大剣がサラを切り裂いた。
さらにソフィアが肉薄し、微かにためを作って刀を振り上げた。間髪入れず振り下ろす二段切り。コナンの背中を裂いたものの、それだけでは怯まない。振り向きざま、大剣の刃が十字を描く。すかさず二連突きを見舞われ、ソフィアはその場にくずおれる。コナンはソフィアの頭を踏みつけ、大剣を頭上に掲げた。
「まずひとり、もらった!」
「これで、いい……! イヴ!」
「『侵すは黒。其は歪なる暗黒への扉。闇より這い出よ、恨み、妬み、嫉み。生者を攫え、辿り着くは不浄の庭――』」
イヴを中心に展開していた黒い円陣が弾け飛び、コナンの足元がどす黒い瘴気で溢れる。そこから真っ黒の腕が伸び、コナンの身体に這い回った。
「ぐあああああっ!」
肌がぶすぶすと腐食していくのはさすがに耐え難いようで、耳障りな悲鳴を上げた。だが、イヴの契術はこれで終わりではなかった。さらに黒い円陣を展開し、追撃を図る。
「『連なる黒。生命(いのち)を穿つは醜悪なる凶弾――』」
契術の発動を機に、黒い腕が霧散した。その霧は無数の弾丸となり、コナンの周囲で停止。イヴが拳を握るのと同時、それらが一斉にコナンを襲った。文字通り、ハチの巣となる少年の身体。途端に込み上げてくる吐き気に、ロイは口元を覆った。これではもう生きていまい――そう思ったのは、至極自然なことのはずだった。
穴だらけになったコナンがゆらりと立ち上がる。油断していたのはロイだけではなかったようで、ソフィアですら驚愕に目を丸くしている。コナンが笑った。口元も穿たれ正しい形を失っているが、彼から発せられる音からは確かに笑い声であった。
「貴方、どうしてそんな身体になってまで立てるの……?」
ソフィアの問いにも答えず、ただひたすらに音を発し続けるコナン。その様子が不気味で、ロイはたまらず弾丸を放った。脳天を撃ち抜いたはずだった。しかし穴の空いた額から流れるのは血ではなく、黒い霧のようなもの。それはコナンの身体から抜けていき、やがてひとつの形を成す。その姿は人間に酷似していた。しかし全身真っ黒であるため、目や口などの判別はできない。男か女かもわからない。黒いそれはひたひたと椅子の方へと歩き、姿を消した。ハチの巣になったコナンの身体だけがそこには無残にも残っていた。
「なんだったんでしょう、あれ……」
イヴが茫然自失と呟く。それはこの場にいる全員の共通の感想であった。ロイも、ソフィアも、サラもなにも言わず。ただただ時間だけが過ぎ去った。扉の外が騒がしいことに、最初に気づいたのはサラであった。
「まずいわね……どうやって帰りましょうか?」
「強行突破」
ソフィアが刀を振るって扉の方へと歩き出す。慌てて肩を掴むのはロイ。「馬鹿なこと言ってんなよ!」という言葉に対して、ソフィアはきょとんと小首を傾げた。可愛いとでも思っているのか、いや、思っているわけはない。純粋に理解できていないのだ。やはりソフィアには常識が著しく欠けている。“誓いの刃(ジャッジメント)”の名をもらう前に、まず常識を叩き込まれるべきだったのではないか。ロイは憐憫の視線を注いだ。
「……で、イヴ。探し物はいいのか?」
「あ、そうでした! 皆さん、少しだけ待っていてください!」
思い出したかのように室内を物色し始めるイヴ。三人は黙ってその行く末を見守った。宝の山を漁り始めて数分。「あった!」という歓喜に満ちた声が響いた。
イヴが手にしているそれは、手のひらに収まる程度の小さな箱であった。これが移動手段? と目を丸くするロイとソフィア。サラは探していたものがなんなのか知らないため、二人の反応を意外そうに眺めていた。
箱の底を強く押すイヴ。するとどうだ、箱が開き、中から巨大な乗り物が現れた。空気抵抗を減らすためと思われる流線型の機体には、タイヤがない。その代わり機体の底と背面に噴射装置のようなものがある。そこからエネルギーを噴出して走り出すのだろう。あくまで推測の段階だが、ロイはその仕組みにロマンを感じた。ロートリアにもこうした機械があればいいのに、などと考えていると、イヴがハンドルの前の席に座る。
「乗ってください! ソフィアさんの意見に賛同するつもりはないですけど……強行突破します!」
「え、ええ。わかったわ」
戸惑いながらもサラは後部座席に乗る。ソフィアは不愉快そうに眉をひそめて「とげのある言い方……」と呟いた。
「お前が言えた義理かよ、さっさと乗れ!」
ロイがイヴの隣、助手席に乗ったのを確認して、イヴはハンドルを握った。
「それじゃあ、行きます!」
深呼吸の後、アクセルを力強く踏む。途端、機体が激しく揺れ、瞬きひとつの間に景色を置き去りにした。扉に突進して無理矢理開き、その前に集まっていた盗賊たちを撥ね飛ばす。死んでいないことを祈るしかない、とロイは内心で手を合わせた。
ブルカーは低空を飛行しているためか、悪路も落とし穴も関係ない。大広間を抜け、直線を駆け抜ける。あっという間に遺跡からの脱出を試みることができた。空が白み始めている。ずいぶんと長い時間をあの地下で過ごしていたらしい。ロイはほっと胸を撫で下ろす。サラは遺跡の方へと視線を投げた。コナンのことを考えているのだろう。自分が手にかけた、町の住人。後悔しないわけはないし、罪悪感に苛まれることだってあるだろう。
……後でフォローしてやるか。
ロイは背もたれに身を預けて、ぼんやりとそんなことを考えた。
町に到着する寸前で、イヴはブルカーを停止させた。三人を降ろし、再び箱の中に収納する。そのさまが奇妙で、箱をかざすと機体がそこに吸い込まれていくのだ。サラもソフィアもぽかんと間の抜けた表情でそれを眺めている。どういう原理かはわからないが、国が違えば技術も違うのだなと感心するいい機会であった。
夜明け間際のサンドラは閑散としていた。まだ住人が目覚めるのは少し早い時間だろう、ロイたちは「どうする?」と顔を見合わせた。
「すぐにでも発ちたいところですけど……ちょっと、疲れちゃいました」
イヴがくたびれた表情で言う。ロイもそれに賛成した。
「それなら、あたしの家に来る? 少し外れたところにあるんだけど」
「そんな時間は……」
ソフィアがその申し出を断るのは予測済みであった。ロイはすかさず彼女の背後に回り、頬をつまんで引っ張った。間抜けな表情を強いられたソフィアはすぐさまロイに肘鉄を見舞った。急所に入ったようで、ロイはその場で跪いて身悶えする。
「なにをするの」
「急がば回れ、って言葉を知らねえのかお前は……」
うめくロイのことなど意にも介さず、ソフィアは首を傾げた。
「回る意味がどこにあるの?」
「どうせこの先も戦闘があんだろ? だったら休めるうちに休んでおかないと、しょうもないことでぶっ倒れちまうかもしれねえじゃねえか。それなら、いまくらい休んだっていいんじゃねえの?」
「私もロイさんの意見に賛成です。ここで休まないと、ブルカーの運転がきついので……」
うずくまるロイのもとに駆け寄るイヴ。その顔からは確かに疲労が窺えた。サラはため息をひとつ吐いて、ロイの背中をさすった。
「決まり、ね」
「待って、そんなの認めて……!」
「きみはどうしてそんなに急いでいるのかしら?」
サラの問いかけに、ソフィアは言葉を詰まらせた。
この旅はイヴを本国に送り届けることが目的であって、特に急がなければならない理由がない。もちろん迅速に帰還するのが望ましいが、それをソフィアが強要する理由がない。ロイはブラウリアに対する好奇心から同行を申し出ただけなのだが、別段急ぐほどでもない。そもそもソフィアには、急ぐ理由がなかった。だからすぐに答えることができなかった。サラはやれやれと肩を竦めた。
「ねえ、ソフィア。勇気ある一歩と考えなしの一歩じゃ、天と地ほどの差があるのよ。きみは勇敢な戦士かしら、それとも無謀な愚か者?」
「……ッ! 私は!」
なにか言いかけて、すぐに飲み込んだ。これ以上は無様だと判断したのだろう、渋い表情を浮かべて唇を噛み締めている。サラはロイを立ち上がらせ、イヴを連れて歩き出した。ソフィアだけがその場に立ち尽くしており、追いかけてくる気配はなかった。
「ソフィアさん、大丈夫でしょうか」
「あんなんでへこたれるようなタマじゃねえだろ」
「でも……」
「ああいう堅い考えの子は、一旦折った方が柔らかくなるものよ。……私がそうだったから。いまも堅いとは思うけれどね」
サラは前を向いたまま語る。その瞳にはどこか暗いものが灯っていた。
「あの子もそうだった。戦う力なんてなかったのに、あたしの心配ばっかりして。だから、一回叩きのめしてあげたの。もう二度と馬鹿なこと言わないでって。そうしたらね、応援してくれるだけになった。……だからこそ、異変に気づけたのよね」
彼女の言う“あの子”が誰なのか、ロイとイヴは察しがついていた。しかしなにを言うこともなく、黙ってサラの話に耳を傾けていた。
「……出会ったばかりのきみたちにこんなことを言うのは間違ってるのかもしれないけれど、無茶だけはしないでね」
「なんだ、心配してくれんのか?」
「老婆心、ってやつよ」
「まだ若いだろ、あんた」
ロイの指摘に、サラはふっと余裕のある笑みを浮かべた。
「女性に年齢の話はNG。基本だと思うのだけれど?」
「悪かったな、デリカシーがなくてよ」
拗ねたように口を尖らせるロイ。イヴはくすくすと穏やかに笑っていた。
サラの家は港から程近いところにあった。想像していたものよりずっと小さく、小屋と称しても差し支えがないくらいである。波の音が静々と響き、人の世から隔絶されたかのような錯覚に陥る。水平線の向こうに存在するのは、ヴァイスリア共和国と呼ばれる群島のどれかだろう。そこを経由して、ブラウリア王国へと渡るわけだ。
「狭いけど、勘弁してね」
謙遜するような物言いのサラ。屋内はただの一室しかなく、その部屋もずいぶんと簡素なものであった。ベッド、キッチン、クローゼット、デスク。生活に必要最低限のものしか存在していない。デスクの上には小さな写真立てがあり、三人の男女が写っていた。ひとりはサラ。もう二人は両親だろうか。ロイの視線に感づいたサラが苦笑を浮かべる。
「父さんと母さんよ、それ。結構逞しいでしょう?」
言われてみれば、二人とも引き締まった肉体をしている。一般人の鍛え方ではない。
「二人とも、ロートリア軍に所属していたらしいのよ」
「どうりでこの身体つきか」
「私もこんな身体になりたいです……」
イヴが羨ましそうに呟いた。
「サラはひとりで暮らしてんのか? ……って、部屋見りゃわかるか」
「ええ。両親はいま、少し遠いところにいるの」
深く語らないサラ。ロイもイヴも詮索はしなかった。
太陽が昇るまで、三人は各々の時間を過ごした。サラはベッドに寝転がり、イヴは部屋の椅子に座ってデスクに突っ伏している。ロイはというと、ぼんやり外を眺めるばかりであった。
……あの海を越えたら、ロートリアを出ちまうんだよなあ。
いままでの生活からは考えられないような大冒険だ。将来設計が曖昧であったが、ブラウリアへ渡ったことで武器への関心や想像が膨らむのではないか。そう考えると、武器商人として暮らすのも悪くないのかもしれない。まだ未来のことなのだ、そこまで鮮明には見えない。
それでも、確固たる夢を描けるようになれたら。そう思うのであった。
「――……ん?」
気がつけば朝を迎えていた。日差しは熱いくらい力強く、窓ガラス越しにロイの肌を焦がす。部屋にはサラの姿しか見えない。デスクに腰かけ、紙面にペンを走らせている。ロイが目を覚ましたことに気づいたらしい、穏やか笑みを浮かべた。
「あら、起きたのね? おはよう、ロイ」
「おう……俺、いつの間に寝てたんだ……?」
「疲れていたんでしょう? 仕方ないわよ」
微笑むサラだが、表情には疲れが見える。一晩……と言うには少々短い時間を休んだだけでは疲労が取れないに決まっている。特にサラはひとりであの地下迷宮を歩き回っていたのだ、精神的な疲労も相当なものだっただろう。それでも疲れを見せまいとする姿にはただただ感服するしかない。
「悪いな、あんたもいろいろ疲れてるだろうに」
「いいのよ、あたしは。好き好んでやってることだから」
「……それなら、ガキの命を奪うことも気にしてねえってか?」
その言い方にはとげがあっただろうか。ロイは口走ってから後悔した。しかしサラは激昂するわけでもなく、悲しんだ様子も見せず、ただ苦笑いを浮かべるばかりだった。なにも言わないサラ。いたたまれなくなったロイは、頭を掻きながら言葉を探す。
「あー、なんだ。あいつ……コナンはきっと、あんたに感謝してると思うぜ」
「どういうこと?」
サラの問いかけに、ロイはさらに思考を働かせる。その結果、口からこぼれた言葉と言えば。「……よくわかんねえ」である。この回答は想像していなかったらしく、サラは吹き出した。そのまま腹を抱えて笑い出す。なにかおかしなことを言っただろうか? と自分に問うても、そりゃあそうだ、と自己完結してしまう。
「あっはっはっは……! あー、おっかしいな! 全然心が揺さぶられるような名言でもないのに、どうしてこんなに気が楽になるのかしらね!」
「そりゃよかった」
開き直るロイ。もはや気にするだけ無駄だと判断したロイは一切の恐れや躊躇を感じずに済むだろうと思っていた。
「ところで、イヴはどこに行った? まさか俺、置いていかれたのか!?」
「心配ないわ。いま、港できみを待ってる。ほら」
窓を指差すサラ。慌てて駆け出し、窓を覗けばイヴとソフィアがいた。ソフィアは相変わらず仏頂面で、イヴが忙しなく視線を動かしている。よほど緊張しているのだろう。このまま放置しておくのはさすがにまずい。そう判断したロイは身支度を整える。
「行くのね」
「ああ、世話になったな」
「こちらこそ。もし、またここを訪れる機会があったら、今度はゆっくり食事でもしましょうか」
「おう。それまでに町を復興しておいてくれよ」
「善処するわ」
「頼んだぜ。それじゃあ、またな」
ひらりと手を振って、飛び出す。ロイの姿を確認したイヴがぱあっと表情を明るくした。ようやく会話の通じる人間が来た、とでも思っているのだろうか。どことなくすがるような目線であった。
「待たせたな、ぐっすり眠っちまってたよ」
「いえ、大丈夫です! 来てくれれば、それだけで……」
ちらり、とソフィアを一瞥するイヴ。嫌われているようにも見えるが、実際は怯えているだけなのだろう。ソフィアももう、その辺りは自覚しているはずだ。
当の本人は目を細め、じろりとロイとイヴを睨んでいる。傍から見れば一触即発とも取れる雰囲気の中、ソフィアが最初に口にした言葉は、意外なものであった。
「……申し訳ない」
小さく放たれたその言葉に、ロイとイヴはぎょっと目を丸くした。ソフィアが謝罪の言葉を述べられることに対する驚きである。
無言の空間が形成され、いたたまれなくなるロイ。どうしようか、と悩んでいると、ソフィアがあごをしゃくって水平線を示した。早速出発するぞ、とでも言いたげに。
……やっぱ根本的なところは変わってねえ、こいつ。
「なにをしている。早くブルカーを出しなさい」
「は、はい! 行きましょう、皆さん!」
イヴが慌ててブルカーを出現させる。運転席に飛び込み、二人を手招きする。ソフィアが後部座席に乗り込み、ロイが助手席に。ハンドルを握り、アクセルを踏む。水上数センチを浮遊しながら疾走するブルカー。この先に、ロイにとって未知の世界が存在する。
心が踊る昂揚感を、せめて顔には出さないように、ロイはつとめて真顔であった。
サラは走り去るブルカーの背中を視線で追っていた。
「……変わった子たちだったわね」
くす、と笑うサラ。胸に手を当て、殺めてしまった少年を弔う。こんなことしかできない自分が憎くて仕方がなかった。
それでもきっと、邪悪なものに憑りつかれていたあの少年は救われたのだと思う。サラの力になろうとして、自身の無力に気づき、応援しようと決めていた少年。
……ありがとう。ロイ、イヴ、ソフィア。
ぎゅっと拳を握り、騒がしくなってきた町の方へと視線を投げる。さて、まずは瓦礫の撤去から。頬を叩き、気合いを入れる。
……今度来たときは、いいものご馳走してあげなきゃね。
砂漠の町の完全な復興は遠い未来のことになるだろう。それでも、次に彼らがここを訪ねる機会までには、お店のひとつくらい案内してあげたいと、そう思った。
Tales of Grantia ~果たすべき誓いの物語~