揺り篭のプリンセス

零章:ゆらゆら揺れる籠の中

 少年が泣いていた。天を仰ぎ、嗚咽を漏らし、断末魔のごとき悲壮感を吐き出していた。
 灰をかぶったようなくすんだ色の頭髪と、幼く華奢な肢体。その身に似つかわしくない巨大な斧を片手にぶらさげている。
 辺りは死屍累々。もとはヒトの身体であったであろう塊が散らばり、草木や生命が跡形もなく死滅した荒れ野。見渡せば、地平線を邪魔するものはなにもない。沈みかけの夕日が血のように鮮やかな赤色で空を染め上げていた。反対側の空はうっすらと藍色に染まり、太り気味の三日月が少年を見下ろしている。
 少年の慟哭は唐突に止んだ。代わりに漏れてくるのは、途切れ途切れの笑い声。全てに絶望した少年は掠れた声で笑い続けている。
 悲しき運命を背負い、世界に牙を剥いた少年。
 誰が言ったか、少年は世界を滅ぼす「魔王」となった――。

 ロザリィ・アゼットはそんな少年を俯瞰していた。楕円形の窓の中に映るその光景は、現実味の欠片もなく、果てしなくファンタジーだ。現実的に考えれば、あんな少年が斧を振り回して人類を皆殺しになどできはしないし、剣はあっても魔法はない。戦いに赴くものだって銃火器装備が一般的で、実戦で剣を使うものなどいやしない。
 ロザリィはぼんやりとした思考で自身に問う。「彼は誰だ?」
 残念ながら少年の顔には靄がかかっており、正確に視認することはできない。どんな顔をしているのかわからないのに、少年だと断定することができたのはどうしてだろう。疑問に首を傾げるが、考えても仕方のないことだと割り切る。
 次の疑問は「ここはどこだろう」というものだった。周囲を見ても、なにもない。無限の闇が広がり、彼女の視線の少し下には楕円形の窓がある。そこから覗くのは魔王と呼ばれた少年の物語。どうやらこれが最終章のようで、次第に窓の外がモノクロに染まり、やがて壊れたテレビのように凄まじいノイズが走った。
 ぷつん、とモニタの電源が切れたような音がした。それと同時に窓も消える。真っ暗闇の中に一人残されたロザリィは慌てるわけでもなく、仰向けに倒れた。ぽす、となにかに身体が沈む感触がする。腰まで伸びた緋色の髪の毛を指先でいじりながら、ただひたすらに時間が経過するのを待った。そうすればいずれ帰れることを知っているのだ。なぜなら、これが夢だということも知っているから。
 どこからともなく聞こえてくる歌声がロザリィの鼓膜を震わせた。楽曲(ミュージック)というよりはもっと別なもの――詩(ポエム)に近い。
 心地好い響きの声はロザリィの全身から余計な力を奪い去っていった。きっと明日は良い目覚めになることだろう。耳を傾けて、そっとまぶたを閉じる。



 ――安息の闇の中 まどろむ少年は虚空に問うた

「これは夢か? 現実か?」 惑う声は憐れに響く

 少年の影は曖昧で 儚く消えゆく幻のよう

 白は聡明 賢く果敢

 黒は剛健 気高く凛然

 どっちつかずの灰色は 生きとし生ける全てを恨む

 曖昧な血 蔑む黒白 世界は少年の敵だった

 灰色の血に誓おう 全ての生命(いのち)に刃を向けると

 たとえ魔王に成ろうとも 世界を決して許しはしない――

第一章:幼き英雄は緋く

 人の波に逆らいながら人混みを縫って走るのは難しいものだ。ロザリィ・アゼットは道行く人と衝突することを厭わなくなっていた。息を切らして走る、走る、走る。夏の名残を感じる季節にブレザーをしっかり着込み、膝上三センチの長さのスカート。校則に反しない程度の身だしなみだ。ルビーのような瞳は必死に前だけを見据え、大きなストライドを維持して走り続けている。燃えるような赤色の長髪も、いまは風に煽られボサボサだ。学生鞄の中身をぶちまけるという大惨事だけは避けたいと願いつつも、スピードは緩めない。
「木を隠すなら森の中」とはよく聞くが、これは人間には適用されないようだった。隠れられるかも、と人通りの多い駅前に逃げたのは間違いだったらしい。男の子の手を引いて必死の形相で走る女の子が目立たないわけがなかったのだ。
「待てやコラァ!」
 乱暴な声と、幾つもの荒々しい足音が迫ってきていることにうんざりしながら、振り返ることもなく吐き捨てる。
「しつこい男は嫌われるわよ!」
「ロ、ロザリィ! どうして煽るようなこと言うの!?」
 情けない声をあげる男の子。力任せに手を引かれているものだから、足取りがかなり覚束ない。いまにも転んでしまいそうだ。ロザリィはやはり前だけを見て、半ば叫ぶように答える。
 男の子は雪のように白い髪の毛を無造作に下ろしており、制服の着こなしは模範生として名をあげることができるほど。こんな二人がどうして不良生徒に追いかけられるなどという事態に陥っているのか、道行く人の多くが不思議そうに彼女らを目で追っている。
「あんたはそういう度胸がないのよ、バズ!」
「い、要らないよそんな度胸!」
「ガキ共ぶっ殺してやる!」
 ロザリィの煽動が運悪く効果を発揮してしまったようで、追跡者の怒号がいっそう勢いを増した。心なしか足音が余計に力強くなっている気がする。男の子――バズ・リヴウードは悲鳴をあげた。
「あらら、失敗しちゃったかしら?」
 ロザリィは冷や汗を垂らしながらも全力疾走を続けた。スカートがなびくこともやむなし、足はコンクリートを蹴るのではなく前に運ぶように意識して動かす。幸い、不貞の輩との距離感は維持できている。もっと差をつけ、あわよくば姿をくらまさなければならないのだが……いかんせん“お荷物”の存在が足を引っ張っていた。
「ちょっと、バズ! もっとスピード出せないの!?」
「そ、そんなこと言ったってぇ! あぁうっ!」
 繋いでいる手にガクンと負荷がかかった。バズの足がついて来れなくなったようだ。このまま逃走を続けるのは難しいと判断したロザリィは、どこか身を隠せる場所はないかと視線を走らせた。
 しかし駅前通りから少し離れた現在地、ここは商店街だ。人の姿は多いが、身を隠すことができないのは実証済み。近くの店舗に逃げ込むことも考えたが、あまり他人に迷惑はかけたくない。そう考えた結果、行き着く答えはただひとつ。
 瞳にぎらりと鋭い光を灯して呟く。
「揉み消す」
 不穏当な発言が少女の口からこぼれた。パニックに陥るバズを無理矢理引っ張って入り込んだのは細い路地。足音の不協和音が徐々に大きくなってくる。ロザリィは狭い路地に入ったところで待機し、機会を見計らう。
 ドカドカと無粋な音が迫ってくる。背後には怯えたバズ、前方には数秒後に不良生徒の群れが現れる。大きく脈動する鼓動を抑えつけるように深呼吸。影が見えた。ロザリィはくるりと身を翻し、右足を渾身の力でもって振り上げた。靴底が不良生徒の顎を捉え、一撃で昏倒させた。メイドから教えてもらった、いささか凶悪な護身術である。
 先頭の不良生徒が白目を剥いて倒れたのが衝撃的だったのだろう。僅かにどよめきが聞こえてくる。
「ほら、行くわよ! 早く立ちなさい!」
 小声で怒鳴り、腰を抜かしたバズを立ち上がらせる。いまだに困惑したままのバズを引きずりながら、ロザリィは見事難を逃れたのであった。

「護身術って案外役に立つものね」
 気が付けばもう西の空に太陽が沈もうとしている頃。駅前通りから大きく外れ、閑静な住宅街にいた。煉瓦造りの家屋が軒を連ね、そばにはスマートなデザインの車が停まっている。遊び疲れた子供の姿も見え、これから夕食が待っていると考えるとお腹の虫も黙ってはいなかった。執拗に栄養を求め、ぐぅぐぅと鳴き続けている。
 隣を歩くバズは意気消沈。とんでもないことをしてしまったと身を震わせている。
「あんた、なんでそんなに怯えてるのよ?」
「恐ろしいことが立て続けにあって平静でいられると思わないでくれないかな……」
「立て続けに、ってなによ。不良に追っかけられたことくらいしかないじゃない。順を追って説明してごらんなさいよ」
「その一。胸倉掴まれて殴られると思った。その二。視界の端から女の子が登場、僕ごと不良を蹴り飛ばした。その三。ブチ切れた不良生徒に追いかけられた。その四。女の子が蹴り一発で不良を沈めた。ね? 怖いことだらけでしょ」
「ちょっと待ちなさい。助けてやったのにその言いぐさはなに? 放っておけばよかったってことかしら?」
 傍目にも明らかなほど機嫌を損ねたロザリィ。口を尖らせ、むすっと表情を曇らせる。バズはすぐさま弁明を始めた。
「そうじゃなくて。大人を呼んでくるとか、他にもっと賢いやり方があったんじゃないかって言ってるの」
「そんなことしてたらあんたの財布はすっからかんだったと思うわ。感謝しなさい」
「……それはどうも」
 ロザリィは自分の行いが正しいと信じて疑わない。議論は無駄だと判断したのだろう、呆れたといわんばかりに肩をすくめるバズ。
 ここで電子音が響いた。軽快なリズムとメロディーを刻むそれは携帯電話の着信音だ。ロザリィはブレザーの内ポケットに潜ませていた携帯電話を取り出す。いまは懐かしい折り畳み式の携帯電話だ。着信相手の名前を確認して、耳に当てた。
「もし……」
『あーんもー、やっと繋がった! ロザリィ、急に走り出してどこに行ったのさ!?』
 ロザリィの言葉を遮るように女の子の高い声が聞こえてきた。声域の関係でロザリィには出すことのできない可愛らしい声だ。ロザリィは「しまった」と額に手をやる。
「あんたのことすっかり忘れてたわ。ごめんね、レベッカ」
『また危ないことに首突っ込んだんでしょ? すごい形相で走ってっちゃうし。その後ろから怖い人がいっぱい追いかけていったし! 遊ぶって約束だったじゃん!』
「大丈夫よ、うまく撒いたから」
 隣と電話口から「そういう問題じゃないでしょ!」と怒鳴られた。なにも悪いことはしていないのに……と心の中でひっそりと反論する。直接口に出さないのは、無駄だとわかっているからである。多勢に無勢、勝てない戦はするものではないとロザリィは考えていた。
 電話の相手――レベッカ・レトラシアはため息を吐く。
『ってことはもう家の近くにいるんだ?』
「ええ、そうね。バズを送り届けたら私も帰るわ」
『わかったよ。それじゃあまた明日、気をつけてね。しょーがないからあたしも帰るよ、ばいばい』
「はいはい、どうも。それじゃ」
 電源ボタンを押して通話を終える。
「レベッカちゃん?」
「そう。あの子を放っておいてあんた助けに行ったもんだから……」
「きみってあんまり効率良くないよね」
「うっさいわね、助かったんだからいいでしょ」
 なにが不服なのかと大袈裟にため息を吐く。バズはなにも言わず、俯いたままロザリィの隣を歩いている。
 歩き続けていくらか経過すると、バズの家が見えてくる。クリーム色の壁をした小さな一戸建てだ。小さめの自家用車を停めており、庭では愛くるしい小型犬が走り回っている。
「ただいま。って、うわわっ!?」
 飼い主の匂いに気づいてか、子犬がバズのもとに駆け寄ってきた。ぱたぱたとご機嫌そうに尻尾を振り乱してバズを出迎えている。甘えた鳴き声を出す子犬の頭をわしゃわしゃと撫で、もう一度「ただいま」と言う
 次に子犬はロザリィを見た。途端に険しい表情になり、威嚇でもしているらしく唸っている。歯を剥き出しにして似つかわしくない低い声をあげる子犬はいささか迫力がある。もちろん大型犬のそれには到底及ばないのだが、鬼気迫るものはあった。さながら、主人を守る気高い騎士のようである。
「別にあんたのご主人を取って食ったりしないわよ、安心しなさい」
 呆れ顔でそう言うが、子犬に言葉が通用するはずもなく。ついには吠えられてしまった。キャンキャンと甲高い声で鳴くさまにいたたまれなくなり、ロザリィはしぶしぶ身を退いた。
「ロ、ロザリィ」
 喚く子犬を抱えたまま、バズはロザリィの背中に声をかける。歩みを止めるつもりはないロザリィはひらりと手を振ってその場をあとにした。背後から「ありがとう」と細い声が聞こえた気がしたが、きっと空耳かなにかだろう。

 住宅街を少し奥に行けば、富裕層の区画に入る。道行く人の装いもどことなく豊かだ。それに比例してか、心なしか恰幅の良いご婦人が井戸端会議している姿が目立つ。そんな中を淀みない足取りで歩くロザリィも、富裕層の人間だ。正確には、親が一代で莫大な富を築き上げた、という話であって、由緒正しき家庭でもなんでもない。
「……あれ」
 はたと足を止め、視線の先を行く女性の背中を見つめる。長い黒髪を垂らし、メイド服にカチューシャという「いかにも」な装いの女性だ。機嫌良く鼻歌を歌いながら、片手には買い物袋を提げている。
 そんな彼女の前に一匹の猫が通りかかる。ぴたりと足を止めると、猫も反応して足を止めた。猫が品定めするように眺めていると、女性はその場にしゃがみ込んで「にゃー」と鳴き真似をし始めたではないか。そこでロザリィは確信する、自身の知り合いであると。
 空いた手で招くような仕草を見せると、猫が恐る恐るにじり寄ってきた。それと同時にロザリィも女性の背後に歩み寄る。ため息を交えて声をかけた。
「なにやってんのよ、ティナ」
 その声に驚いて、猫はびくりと飛び跳ねて一目散に逃げ出してしまった。あれが野生か、などと感心していると、ティナと呼ばれた女性が残念そうに地面に両手をついた。
「なにをするのです、ロザリィ。せっかく猫さんとお友達になれるかと思ったのに」
「人と猫は言葉が通じない、意志の疎通ができない、よってお友達にはなれない。わかった?」
「やってみなければ! やってみなければわからないではありませんか!」
 唐突に顔をあげ、ロザリィの肩に掴みかかるティナ。熱弁を始めたが、同時にガクガクと揺さぶるものだから、ロザリィに意思の疎通はできなかった。熱く語る本人はそれに気づいていないのだから、なおのことたちが悪い。
「お、落ち着きなさいって! わかったわよ、悪かったから! ね、帰りましょう!? 人目が、人目が……」
 周りを見渡せば優雅な淑女たちがロザリィとティナに痛ましい視線を送っている。それを察してようやく我に返ったティナは、ごほんとわざとらしく咳払いした。
「そ、そうですね。わたくしとしたことが少々取り乱してしまいました」
「あんたってときどき怖いわよね……」
 乱れた制服を整えて、地面に置かれた買い物袋を持ち上げる。
「ほら、夕飯遅くなっちゃうでしょ。行くわよ」
「あ、袋はわたくしがお持ちします」
 ひょいと袋を奪い、ロザリィの前を歩くティナ。私情と仕事はしっかり分けて考えているらしく、先ほど猫の前で見せていた間抜けさはなりを潜めた。
「今日はどんな日でしたか?」
 どんな日か、と問われれば。不良に跳び蹴りを見舞い、クラスメートを助け、不良に追いかけられ、蹴り一発で沈めた。なんとも過激な一日である。
「そうね、いつも以上に波乱の一日だったわ。初めて護身術使ったし」
「あら、相手は何人です?」
「五人くらいだったかしら。沈めたのは一人だけど」
 あのままやりあっていたらバズは確実にボロボロだっただろう。ロザリィに至っては乱暴されて大変な目に遭っていたかもしれない。そう考えると身体の震えが止まらなかった。
 ティナはどういうわけか、残念そうにため息を吐いた。
「全員やってしまえばよかったのに。対集団の護身術も教えたでしょう?」
「“お荷物”がいなければいい勝負だったかもしれないわね」
 バズさえいなければ、標的が自身に絞られてさえいたら全員叩きのめすことも不可能ではなかったと思う。もちろん、そんな危ない賭けに出るのは最終手段であって、逃げられるなら逃げるのがロザリィのスタイルであった。
 他愛もない会話を続けながらさらに歩くと、家屋の数が少なくなってくる。脇に並ぶ木々の間隔が大きくなっている。街灯も少なく、夜道を一人で歩くことが憚られるような場所だ。
 視線の先に一際大きな屋敷が見えた。少ない階段を上がり、目の前。黒い煉瓦造りで、棟が左右二つに分けられている。真ん中はテラスになっており、花で飾られた色鮮やかな庭と町が一望できる。立地条件としては最高、文句なしだ。ここがロザリィの自宅、この町で一番の屋敷である。
「ただいま」
 少し早いと思いつつぽつりと呟く。隣のティナが柔らかい笑みを浮かべて、小さく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ロザリィ。奥様に変わって申し上げます」
 ティナはロザリィの母親が雇ったメイドだ。ある理由から給料も出ていないはずなのだが、かれこれ四年近くアゼット家に仕えている。ほぼ崩壊したといっても差し障りないアゼット家、寄る辺のないロザリィの世話がティナの仕事だ。まがりなりにも従者という立場のティナがロザリィを名前呼びしているのも、理由があってのことである。
 石造りの階段を上り、門の鍵を開ける。錆びのせいかギィィと軋んだ鳴き声をあげた。庭は見渡すほど広く、しっかりと手入れの行き届いた花壇が出迎えてくれる。色とりどりの花たちがそよ風に揺られ、芳しい香りを漂わせる。
「……いつも思うけど、あんたどうやってこれ手入れしてるの?」
「それはもういろいろな手段を使って、ですが」
「聞かない方がいい?」
「いえ、差支えありませんよ」
 ニコリと意味有り気に笑うティナ。どんな手段か興味はもちろんあるが、この笑顔が妙に怖い。「実はわたくし、魔法使いなのですシャラララーン」といって適度な雨を降らせ、あるいは肥料になりうる光の粒子を撒き散らしていたとしてもなぜか違和感を覚えない。そのイメージが余計に尋ねることをためらわせた。
「……やっぱり遠慮しておくわ」
「そうですか、残念です」
 大袈裟に肩をすくめるティナ。そんな反応をされては、悪いことでもしたかのような気持ちになってしまう。かといってファンタジーな方法だった場合のショックの大きさを考えると気軽には尋ねられなかった。
 玄関を開けば、広大なエントランスに出る。天井には豪勢なシャンデリアが吊るされ、真正面には二階に続く階段と大きな窓。その窓からは西日が射し込み、薄暗い空間は真っ赤な光で燃え上がっていた。
「ただいま」
 いま一度、帰宅した事実を噛み締める。反応はなく、ロザリィの声が空しく響くだけであった。数秒経ち、「今日もなのね」と肩を落とす。
「おかえりなさいませ、ロザリィ」
 やはり反応は隣から返ってきた。いつも出迎えてくれるのはティナだけ。ロザリィは諦めがつかずにいた。いつか、血の繋がった家族に出迎えてもらえる日が帰ってくると心の底で信じている。アゼット家が崩壊してもう四年も経過したのだ、いつ折れてもおかしくない。
「母さんは目覚めないのね」
「そうですね、今日は」
「今日も、じゃない」
 拗ねたようなロザリィに、ティナは柔和な表情でロザリィの頬を撫でた。
「いいですか、ロザリィ。今日と同じ日は二度と訪れないのです。もしかしたら明日は、奥様が目覚める日かもしれないではありませんか」
「……そう思っていた方がつらいのよ」
 吐き捨て、ロザリィは階段を上った。屋敷を正面から見て右側の棟にロザリィの部屋はある。足を止めることなく、真っ直ぐに自室へと向かった。
 扉を乱暴に閉め、制服を脱ぐこともせずにベッドに倒れ込む。鞄は床に放り投げた。柔らかく、太陽の匂いが染みついたシーツが気持ちいい。
 ロザリィの部屋は年頃の女の子らしい装いだ。小さい頃に与えられた年季の入った学習机に、キャスター付きの椅子。姿見とクローゼット、本棚が三つとぬいぐるみが少々。窓際にはベッドがあり、カーテンも上質な素材のものだ。そのほかテレビと、最近は手をつけていない据え置きのゲーム機もある。
 そして枕元には一冊の本。母親の形見、といっても過言ではない代物だ。ところが、その形見は世界中に広まっている。これが母親の築いた富の証であった。
 本を手に取り、表紙を眺める。題名は『揺り篭の子ら』。異世界ファンタジーの短編集である。各章に一人ずつ、違う主人公を据え、「夢は見るな」という重たいメッセージを伴った作品だ。これがどうしてか世界中でヒットしたため、アゼット家は一代で大きな財産を築けたというわけである。
 ぱらりとページをめくり、一番最初の章を見る。「灰色の魔王編」と称されたこの章は、世界中から異端として扱われた少年が人類に復讐する話となっている。最初にこの話を据えた母親の意図がロザリィには読めなかったが、少年の気持ちには通ずるものがあった。
 相手に気持ちが届かない。ただひとえに、見た目が普通じゃないから弾かれた。それだけのことなのに、それだけのことが許せなかったのだ。
 ロザリィはそっと髪を撫でる。母親譲りの、激しい緋色の長髪。これのおかげで理不尽な悪口を囁かれることもザラだった。
「……これ、最近夢に出てくるのよね」
 ここのところ、断続的に「灰色の魔王編」のシーンを夢に見ていた。だが、昨夜見たシーンでこの章は終わる。これで終わりなのか、はたまた次章の夢を見るのか。どちらにせよ、退屈はしなさそうだ。
 何度も読んだ内容ではあるが、読んでいて飽きることがない。本から発せられる魔力とでもいうのか、惹きつけられるように読んでは無慈悲な世界に身を浸す。そんな感覚を、幼い頃から幾度となく繰り返していた。
 ――コン、コン。
 ロザリィの耳にノックの音が届く。大方、夕飯の準備ができたのだろう。携帯電話の画面を覗けば、もう一八時を回っていた。
「ロザリィ、夕飯のご用意ができましたが」
「はいはい、いま行くわよ」
 ひとまず着替えなければと、クローゼットをあさり始めた。

 アゼット家の食卓はいつも物寂しい。白いクロスが敷かれたテーブルと、それを囲う四つの椅子。そのうち三つが空席で、残り一つはロザリィが埋めている。ティナはと言うと、少し離れたところで待機していた。
 ナイフとフォークを置き、口元をナプキンで拭く。
「ごちそうさま。今日もおいしかったわ」
「恐縮です」
 ティナは小さく頭を下げる。その表情は満足気だ。
 食器を下げようとするロザリィ。ティナはその器を華麗にひったくった。食器が手元から攫われたことにきょとんと目を丸くしていると、ティナはくすりと微笑んだ。
「わたくしのお仕事です」
 そう告げて、そそくさと厨房の方へ行ってしまった。一人取り残された私は、皿洗いを始めるティナの背中を一瞥して部屋に戻ることにした。
 アゼット家の屋敷はひどく広い。たった三人の家族と一人のメイドで暮らすには少々大きすぎる。そう、暮らしているのはロザリィとティナだけではないのだ。
 階段を上り、右へ曲がる。扉が三つ並んでおり、一番端がロザリィの部屋。そこから順に兄、母親の部屋と並んでいる。母親の部屋に差し掛かり、ロザリィは足を止めた。
 僅かな希望はいまなお胸の内を渦巻いている。もしかしたら、という可能性を捨てきれていない。それが余計に悲しくさせるというのに。気づけばドアノブに手をかけていた。半ば無意識的に回し、扉を開く。
 ひどく無機質で簡素な部屋であった。生活に必要最低限のものしかないうえに、色合いもモノトーン調で統一されているためか冷たい印象を与えている。その中でも異彩を放つのがベッドと点滴装置だ。豪勢にも天蓋のついたベッドであり、この部屋の主を長く深い眠りに誘い続けている。
 部屋の主――その女性はひどく美しかった。ロザリィと同じく鮮やかな赤色の長髪、蝋を思わせる白い肌、精緻な作りの顔貌はさながら人形のよう。点滴の管を通された肢体は無駄な肉を削ぎ落とし、生命維持に必要な分だけを残したような印象さえ抱かせる。華奢を通り越した身体でありながら、なおも美しいと思わせる容貌に、ロザリィは息を飲んだ。
「……やっぱり目覚めていないのね、母さん」
 悲痛な呟きにも母親――リリアン・アゼットは一切の反応を示さない。彼女はいまだ夢を見ているのだ、終わることのない夢を。どれだけ心地好い夢かはわからないが、現実を捨ててまで見続けたい夢とはなんなのか、ロザリィは甚だ疑問であった。
 アゼット家が崩壊した原因は、この母親であった。ある日を境に目を覚まさなくなった。原因は不明、それがもう四年も続いている。父親はロザリィが物心着く前からいなかったし、頼りにしていた兄は母親が寝たきりになったという事実にショックを受けて部屋に引きこもってしまった。ティナがいなければ自ら命を絶っていたかもしれない、とロザリィは思った。
 痩せこけた腕をそっと撫でる。血液が通っていないのではないかと思うほど冷たく、軽く捻っただけで折れてしまいそうであった。
「もう四年も経つのね。私、一四歳になっちゃったよ? ……いつになったら起きてくれるのよ、ねぇ」
 両手でリリアンの腕を包む。やはり冷たく、反応はない。もしかしたら、もう死んでいるのではないかと何度も思った。そのたびにティナが希望を持たせてくれていたが、そろそろ限界が近い。
「……また来るね」
 それだけ告げて、ロザリィは部屋を去った。
 兄の部屋には寄らない。大量の書物のせいで足の踏み場もないだろうし、起きていても相手にされないからだ。
 自室に戻り、ベッドに倒れ込む。途中であった揺り篭の子らを手に取り、読むのを再開する。リリアンはどんな意図があってこの作品を生み出したのだろう。そうやって思いを馳せることでしか母親との繋がりを保てない。それはとても、悲しいことだ。
 現実はいつだって非情。容赦せずに心を砕かんとする。ロザリィの心にはすでに深い亀裂が走り、僅かな衝撃で粉々になってしまいそうであった。
 だからこそ、ぼろぼろの自分を保つために行き着いた手段が、「夢を見ないこと」であった。現実だけを見ていれば、衝撃は小さい。そうすることでしか耐えられないのだ。
「夢なんて……見るだけ無駄なのよ」
 つぅ、と熱いものが頬を伝った。それは顎まで走り、滴って本の一ページを濡らす。紙に染みていくそれを見て、ロザリィは本を閉じた。そのままベッドに倒れ、目元を腕で隠しながら意識を闇に浸からせた。

 歌が聞こえた。
 鈴の音のように美しく心地好い。暗闇の中をふわふわ漂っているような気分。今日の夢はいつもと違うようだ。楕円形の窓が見当たらない。その上、歌は壊れた目覚まし時計のようにループし続けている。
 それは『揺り篭の子ら』の中で歌われていたものと一致していた。たしか、『灰色の魔王編』で綴られていたもの。二つある種族のどちらにも属さない少年が世界に復讐を誓う内容だった。
 ロザリィはまぶたを開く。相も変わらず真っ暗闇。光がないのに自身の身体は鮮明に見えるという奇妙な空間である。どういうわけか、夢を見るときの格好は決まって学校の制服だった。
 身体を動かそうと思えば動かすこともできた。試しに足をばたつかせてみるが手応えはない。四方八方が暗闇なのだから、前に進んでいるかもわからない。では、とロザリィは身体の向きを変えた。見えない地面に降り立ってみようと考えたのだ。
 ひた、と靴底がなにかを踏んだ。見下ろせば漆黒の中に波紋が広がっている。しかし靴底は濡れているわけではない。ここが地面だと考えたロザリィは周囲を見渡した。やはりなにも見えない。
 と、思った矢先。視線の先に小さな窓を見つけた。縦に長い楕円形の窓、そこから光が漏れている。なにか見えるかも、と走るロザリィ。光は次第に大きくなり、やがてロザリィの全身を飲み込んだ。
 世界が白に染まる――。

 最初に聞こえてきたのは痛々しい鞭の音と誰かの悲鳴であった。ホワイトアウトした視界が徐々に色を取り戻していく。段々と視覚が機能し始めてきているようであった。さらに続いて嗅覚と触覚も戻ってくる。じめじめとした気持ち悪い空気が肌にまとわりつくのを感じ、それに加えて鼻孔を衝くカビの臭いに吐き気を催した。それに引き換え、思考は至極真っ当に働いていた。
 ――これは夢だ。でなければ、こんな悪臭漂う不気味な場所にいる説明がつかない。
「大丈夫?」
 隣から知らない声が聞こえてきた。このとき、額を床にこすりつけていたことにようやく気がつき、顔を上げたことで空間の全容が明らかになる。
 心配の言葉をかける声の主は、ロザリィとそう年の変わらない少女であった。驚くべきことに、身にまとっているのはぼろ雑巾のように粗末な布。到底、衣服にカウントされない代物だ。自分は大丈夫かと確認してみるが、制服のままであった。ひどくミスマッチである。
 状況をざっと確認してみるが、一人の女性が鞭で痛めつけられている。案の定、衣服ともいえない布に身を包んでいた。ロザリィを含め、周囲には女性しかおらず、全員、膝を折って頭を垂れている。
「私は大丈夫だけど、あんたなんでそんなものを……」
「しーっ、ご主人にバレちゃう」
「ご主人……?」
「そこ! 誰の許しを得て口を開いている!?」
 ずいぶんと威圧的な口調だ。思わず肩を跳ねさせる。づかづかと重たい足音を立てて近寄ってくるのは、人の姿をしていなかった。正確にいえば、ロザリィの知る人間とはまるで別物の容貌をしていた。
 声の主はイノシシが二足歩行を得たような姿をしており、身にまとっているものもやはり貧相な腰布一枚。片手には槍を持っている。漫画やゲームで見たことがある、オークという種族に瓜二つだ。
 彼はロザリィの前に立つと、制服の襟を掴んで起き上がらせた。吐き気を催す吐息を間近に感じ、不快感を露わにする。夢にしてはずいぶんと臨場感のある臭いだ。
「貴様、いまなぜ口を開いた?」
「なぜって……隣の子に心配されたから答えてただけよ。あんたこそ、なにさまのつもりなの? ――魔物の分際で」
 ロザリィの対応に驚いてか、数人が頭を上げた。目の前の魔物に至っては、わなわなと震えながら鼻息を荒くしている。
「な、ななな、な……シントの分際で生意気に……!」
「シント?」
 初めて聞く単語だ。それがロザリィ自身を指していることから、少なくとも「ロザリィと同じ姿をしたもの」のことを示しているのだと判断する。つまるところ、ここに集められた女性の大半がシントであり、この魔物はシントではない。呼称はそこまで大事なものではないので、いまは魔物と呼んでおくことにする。
 怒りに震える魔物はロザリィの襟を掴んだままだ。ロザリィはさらに続けた。
「こんなに女を集めてなにをしてるの? 大方、いかがわしい行為なんでしょ。異種族姦なんてずいぶんなご趣味をお持ちなのね、このケダモノ!」
 今度はロザリィが魔物を威圧する番であった。このような対応に慣れていないのか、驚愕の色を浮かべている。ここぞとばかりにロザリィは責め立てた。
「最低なクズ野郎! 下賤、下衆、下郎! 恥を知りなさい!」
「黙って聞いていれば……図に乗りおって小娘が!」
 制服を掴む力が強くなる。まさか力尽くで剥ぐ気か――焦りを覚えたロザリィだが、対痴漢用の護身術も体得済みだ。ティナの教えが生かされるときが来るとは思っていなかったので、嬉しさが表情に出てしまう。技をかけようとした矢先のこと、地鳴りのような音が響いた。途端に魔物が手を離し、ガクガクと震え始める。
「なによ、いまの?」
「だ、旦那がお怒りだ……ひぃぃぃぃぃ!」
 なにに恐れおののいたのか、魔物は槍を捨てて逃げ去ろうとした。しかし、遠くから飛来した弾丸にこめかみを貫かれ、そのまま亡き者となってしまった。断末魔もあげられない最期を迎えた魔物。女性たちの悲鳴が耳をつんざく。
「俺様の所有物に手ェ出そうとするからこうなんだよォ、バカがァ」
 奥の扉から重たい足音が聞こえる。おそらくそれが、オークの言っていた旦那。隣の少女が言っていたご主人。ぬっと姿を現したのは、二足歩行のトカゲ人間だった。
 緑色のうろこで肌を覆い、目元を悪趣味な仮面で隠している。鋭い爪と先端が別れた不気味な舌が特徴的だ。高そうなファー付きのコートの下は素肌が丸見え。魔物の中では裕福なのだろうと思う。
「ほォ……シントにも強気な女がいるもんだなァ?」
「お褒めに与り光栄ね」
 迫ってくるトカゲ人間に警戒の眼差しを注ぐ。すると彼は口笛を吹いた。いかにも軽薄そうに。
「いいねェ……嫌いじゃないぜ、そういうの」
 じゅるりと舌なめずりする。不快感を掻き立てるその仕草に思わず唾を吐いた。トカゲ人間の足元を汚すその行為は彼の怒りを買うには充分すぎた。ロザリィは頭を鷲掴みにされてしまう。
「ッ!」
「いーいじゃねェかァ……なァ? だが、ちったァ節度ってもんを守らねェとな」
 右手をゴキッと鳴らし、凶暴な爪をわざとらしく見せつける。恐怖する顔が見たかったのだろうが、生憎ロザリィに恐れはない。これが夢だとわかっているからだ。殺されたところで、現実に死を迎えるわけではない。
「汚い手を離しなさい、トカゲ人間」
 だからこその暴言である。
 身体が引き裂かれる――そう思ったその直後。天井が轟音を立てて崩れ去った。砕けた天井が瓦礫の雨となって降り注ぎ、間の抜けた声と共に「何者か」が落ちてくる。
「な、なんだァ?」
 トカゲ人間も動揺しているらしく、掴む力が僅かに緩んだ。その隙を逃さんと、ロザリィは彼の向う脛を全力で蹴り飛ばした。短い悲鳴を上げるトカゲ人間。解放され、慌てて距離を取り、闖入者の方へ走る。
 天井から降ってきたのは小柄な少年であった。その容貌はヒーロー漫画を見すぎた子供のようで。緋色に塗られたフルフェイスのヘルメットは痛々しい装飾でコーディネイトされており、大袈裟すぎるほど派手に襟の立ったスーツに身を包む姿は珍妙と言わざるを得なかった。その上、そばには巨大な斧が落ちている。これもまた闖入者に対する疑問に拍車をかけた。
「ちょ、あんた大丈夫?」
「ん、んん……ハッ!?」
 気絶でもしていたのか、ロザリィの声に気づいた闖入者は跳ねるように起き上がった。フルフェイスが外れていないかを確認して胸を撫で下ろしている。なんと言うか、挙動がとても可愛らしい。
「失礼。俺は正義の味方、その名も『緋色(スカーレット)』だ!」
「ダサッ……」
 咄嗟に出てきたのがその三文字であった。格好良くポーズを決めている途中だった闖入者――どうやら少年で正解らしい。その一言がショックだったらしく、動きをぴたりと止めてしまう。そしてその場に跪いてぶつぶつとなにかを唱えていた。
「おいガキ共ォ! 俺様を無視してんじゃァねェぞ!?」
 しびれを切らしたトカゲ人間が喚く。ロザリィと少年はようやくそちらに目を向けた。表情は歪み、歯も剥き出しにしている。呼吸を荒くするトカゲ人間は、先ほど魔物が投げ捨てた槍を持って穂先をこちらに向けていた。
「あら、もしかしてピンチかしらね?」
「ピンチ? 俺が出なきゃいけないような事態?」
「そうかもね、ほら、早く立ちなさい。あんたの力を見せてごらんなさいよ」
 ポン、と肩に手を置く。露骨に面倒くさがった表情を見せるロザリィに対し、少年は水を得た魚のように飛び跳ねた。
「ッシャァ! やってやるぜ!」
 少年は斧を拾い、「待ってました!」と振るった。あの華奢な腕では到底不可能な芸当のはずなのに。まるで木の枝でも振っているかのように自在に扱っている。
「やるかクソガキ! ぶっ殺してやらァ!」
 凶悪な笑みを浮かべるトカゲ人間。少年は斧を担ぎ上げ、極限まで力を溜めて突貫した。疾駆とはこのことで、空気を捻じ曲げるようなスピードで肉薄する。トカゲ人間は虚を突かれたらしく、一瞬よろめいた。その僅かな間隙を狙って斧を振り下ろす。防ごうと構えた槍は簡単に真っ二つになり、トカゲ人間の肌を深々と切り裂いた。断末魔が空を裂く。
 少年に容赦はなかった。喘ぐトカゲ人間の頭上に飛び上ると、落下の勢いをそのままに斧を叩きつけた。耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響き、血飛沫が辺りを真っ赤に染め上げる。頭部を粉砕されたトカゲ人間に息はない。
 恐怖に怯える女性たち。あれだけ派手な口上を叫んだわりに、少年は大人しかった。ヘルメットを被ったまま女性たちを一瞥すると、なにもいわずに部屋を去ろうとした。ここが地下だったようで、少年の行く先に上階に上る階段があった。
「ちょっと待ちなさいよ」
 その少年の腕をロザリィは掴んだ。だが、少年の力の方が圧倒的に強く、ロザリィがいくら踏ん張っても少年の歩みは止められなかった。
 少年はなにも言わない。離せともついてくるなとも言わない。ついてくること自体に文句はないようだ。ロザリィは手を離し、少年を見失わない速度で後ろを歩くことにした。
 上階に上って真っ先に目に入ったのは、いかにも価値のありそうな絵画が並んだ廊下。これも画廊に含まれるのだろうか。なんにせよ、先ほど命を奪われたトカゲ人間はなかなかの金持ちだったようだ。
 無言のまま廊下を歩く二人。耐え切れず、ロザリィは少年に質問を始めた。自身の夢の中でどれだけディテールが精緻にできているか興味があった。
「あんた何者?」
「正義の味方だ」
「ダサいっていってんのよ。そんなことじゃなくて、名前とか。素性を教えなさいっての」
「正義の味方は謎が多い方がカッコいいだろ」
「ずいぶんと子供っぽい発想ね」
「うっせーな、ほっとけよ」
 しっしと忌まわしげに手を振る少年。ロザリィは一歩も引かず、少年に質問攻めを続ける。廊下に終わりが見えると、大きなホールに出る。中心に巨大な穴が空いていた。落盤……というには少々強引な跡であることから、おそらくは眼前の少年が空けたものだろう。覗けば、先ほどまでいた悪臭の空間が見えた。まだ女性の姿が数名見える。
「あんた、どうやってこんなことしたの?」
「斧で叩き割っただけだぞ」
「だけ、って事もなげに言わないでよね……人間にはこんなことできないわよ」
「つまり、俺が人間じゃねーってことか?」
 その問いかけには鋭いものが含まれていた。下手なことを言えばトカゲ人間のように脳天を砕かれるかもしれない。そう思わせる迫力を感じ取ったロザリィは、なんでもない表情を繕って、ため息を吐いた。
「これだけ見たらね。誰だって人間離れしてるって思う」
「これだけ、か」
「もちろん、あんたがさっきの奴らみたいな顔だったら話は別よ」
「……そうか」
 少年は俯いて、なにか考え事を始めたようだ。そんな少年の後頭部に黄色い弾丸が飛来したのは、それから間もなくのことであった。
「こーらー! なにしてんだー!」
 ガツーン! と甲高い音を立てて少年は前につんのめる。弾丸はその場で小さな翼をはためかせている。あれは……なんだ? とロザリィは目を丸くした。ハムスターに翼が生えたような愛らしい見た目をしているが、人語を話していたような……。
 などと考えていると、少年が有翼のハムスターに抗議を始めた。
「お前がちんたらしてるから俺が先に特攻しかけたんだろうが!」
「状況判断すらしないで、よくそんなこと言えたねー!?」
「は!? 要らねーって判断したから突っ込んだんだ! 文句あっか!?」
「大ありだってば!」
 少年と有翼のハムスターが口論になっている。置いてけぼりをくらったロザリィは控え目に自己主張する。
「落ち着いて、えっと……そこのハムスター。あんたは何者なの?」
「ん? 誰この子?」
 ハムスターは怪訝な眼差しをロザリィに注いでいる。穴の方へと飛んでいき、階下の様子を見て短い前足をポンと合わせた。
「捕らわれてた女の子か!」
「んー、そうなるのかしら……?」
 答えあぐねていると、ハムスターが前足でロザリィの頭を撫で始めた。
「怖かったでしょ、でももう安心していいからねー」
 まるで幼い女の子をあやすかのような語調に調子が狂ってしまう。このハムスター、年齢が読めないだけにどんな対応をしていいものかわからない。
「おいレベッカ! 話は終わってねーぞ!」
置いてけぼりをくらっていた少年が地団太を踏み始めた。
 しかし、レベッカ? 偶然にも友人と同じ名前だ。こんなこともある、明日起きたら本人に話してやろうとロザリィは思った。
「うるさいなー、お前が悪い! これでいーでしょ?」
「よくねーよ! 俺が行かなきゃこいつ、今頃ひでー目に遭わされてたかもしれねーんだぞ!?」
少年はロザリィを指さして怒鳴る。こいつという言い方にぴくりとこめかみを震わせたロザリィだが、まだ名乗っていないことを思い出す。
 少年の指をがっちりと掴み、最大限の愛想笑いを浮かべて告げる。
「こいつじゃないわ、ロザリィ・アゼットよ」
「そうかいそうかい、俺のおかげで助かってよかったな、ロザリィ?」
 少年も精一杯の愛想笑いを浮かべて返す。険悪な空気を断ち切るようにハムスター――レベッカが二人の間に割って入った。
「喧嘩しないで、せっかくだし仲良くしようよー。あたしはレベッカ。よろしくね、ロザリィ」
 前足で鼻先を撫でられる。
 その途端、視界にノイズが走った。壊れたテレビのような耳障りな音が鼓膜を覆う。耳を隠しても音が軽減されるでもない。脳に直接音が流されているような感覚だ。
 足元もふらつく、少年の姿もレベッカの姿も見えない。ノイズと雑音の空間に隔離されたロザリィの精神は一気にすり減らされているようであった。

「うるっ……さいのよ!」

 力の限り叫ぶ。気づけば身体はベッドに沈んでおり、遠くからは微かに小鳥のさえずりが聞こえてくる。どうやら現実に帰ってきたらしい。ロザリィはぱちくりと目を瞬かせ、ほんの数分前まで見ていた夢を思い返す。
 大勢の女性が捕らわれていて、魔物に乱暴されそうになったら魔物が死んで、トカゲ人間に殺されるかと思ったら斧の少年が殺して、レベッカと名乗る有翼のハムスターと出会って、目が覚めた。
 一通り記憶の糸を手繰り寄せたところで、ロザリィはぽつりと呟く。
「……変な夢だったわね」

第二章:緋き仮面の奥に

「――……ィ、ロザリィ」
「へ?」
 眼前に並べられた朝食に手をつけることもなく、ロザリィは気づかぬうちに虚空を眺めていた。
 ふとした拍子に意識が離れる。そんなことが起床からの短い時間で何度もあった。これで何度目だと指折り数えていると、ティナがくすりと微笑を湛える。
「上の空だなんて、あなたらしくないですね」
「そうね……どうしちゃったのかしら」
「なにか意味深な夢でも見ましたか?」
 見透かしたかのような発言にロザリィは怪訝な眼差しを注ぐ。
 ティナはなにを考えているのかわからない。もしかしたらロザリィの夢についてなにか知っているのでは? そう考え、言葉を選びながら尋ねてみる。
「ねぇ、ティナ」
「はい?」
「夢のことなんだけど……」
「ほうほう」
「なんていうか……気になる人がいるのよね」
「あらまあ!」
 いやに声高になるティナ。ロザリィは構わず続ける。
「二人、いるんだけど。なんかすっごい謎めいてて……って、ティナ? どうして私はあんたに手を握られているのかしら」
 両手を握られ、否応なしに視線を交えさせられる。その瞳は夜空に瞬く星のような輝きを映しており、まるで自分好みの話題に食いついた子供のようだ。
「ロザリィ、あなたもそんな年頃なのですね。わたくし、感動です」
「は? 年頃?」
 この人はいったいなにをいっている? 困惑で脳内を掻き乱されるロザリィ。そんな彼女をよそにティナは熱のこもった口調で語り始める。
「恥ずかしいことではありませんよ。いいですか、ロザリィ。乙女はいつだってそうなる宿命なのです」
「乙女? 宿命?」
 なにかいやな予感がする。もしやティナは、とんでもない勘違いをしている?
 弁解を始めようとするロザリィの言葉を遮って、ティナは一言告げた。
「それはズバリ……恋ですね!」

 食事を終え、悶々としたものを抱えながら自室で身支度を整えるロザリィ。ティナの言葉が気になった……というか、受け止めがたかったのだ。
 恋? 顔も名も晒していない男に恋をしていただと? そんなこと考えられない、ありえない。
 ロザリィはこのような噂を立てられた経験がないのもあり、自分の身に「恋慕」などという感情が宿ることが想像できなかった。
「ティナの言葉でこんなに乱されるなんて……やわっちいわね」
 いままで色恋絡みの話があがったことがないからといって、そういった話を持ち出されただけでこうなるとは。少なからず困惑したロザリィは姿見を覗く。顔がほのかに上気している……ように見えた。それはさながら、ティナの言う恋する乙女のようで。自分じゃないような気がしてならない。
 意識している? 私が? ティナの言葉で? 異性を?
「馬鹿馬鹿しい……」
 深いため息と共に胸の内で渦巻く感情を吐き出す。夢の話ではないか、現実味の欠片もない曖昧なもの。そこで感じたものも、見たものも、すべて幻想なのだ。現実にはなんら関係ないし、影響を及ぼさない。
 そう考えたところで、顔の火照りも消え去った。それと同時に二回のノックが耳に入る。
「ロザリィ、お迎えがいらっしゃいました」
「いま行くって伝えておいて」
「かしこまりました」
 足音が離れていく。鞄を開き、忘れ物がないかを確認する。教科書、弁当、ペンケースにノート。ばっちりだ。
 自室を出れば、玄関でレベッカが携帯電話をいじっているのが見えた。バズの姿はない。なにかあったのだろうか、気になる。ロザリィに気づいたレベッカは元気よくぶんぶんと手を振る。朝から元気なことだと苦笑しつつ彼女の元へ――向かおうとして、足を止めた。視界には兄、シェイドの部屋。
 昨日、話したときにシェイドは心理学の本に手をつけていると言っていた。もしかしたら夢のことについてなにか知っているかもしれない。気にすまいとは思っていたが、これで最後。シェイドならばきっと有意義な意見をくれるはずだ。そう信じ、玄関のクラスメートに「もう少し待ってて」と一言告げる。
 ノックしても返事がない。わかりきったことではあるが、大方読書に集中しているのだろう。返事を待たずに扉を開けるのはいささか無礼であると思いつつ、ノブを握る。
「うわっ……」
 言葉が出てこなかった。辺り一面、本、本、本。足の踏み場もないとはこのことか、ロザリィは唖然した。換気もしていないのか、奇妙な臭いが立ち込めており、思わず鼻をつまんでしまう。これほどまでに生活能力の欠けた人間はそういないと思う。
 食事はどうしているのだろう。ティナが運んでいるのだとすれば、シェイドは本当に一日のほとんどを読書にあてているに違いない。ここまでしていったいなにを得ようというのか、ロザリィには及びもつかなかった。
 部屋の奥にある机、そこにも山のように本が積まれている。その陰にいるのがシェイドだ。ぶつぶつと念仏を唱えているのか、静まり返った部屋に微かな声が聞こえる。
「に、兄さん……?」
「……、ん?」
 ようやくロザリィに気づいたらしいシェイドは山の陰からひょこっと顔を出した。目元に異様に目立つクマがあることから、また夜通し本を読んでいたのだろうとロザリィは推測した。
「ど、したの? がっこ、は?」
「すぐ行くわよ。ちょっと兄さんに聞いておきたいことがあって」
「なに?」
「……最近、変な夢を見るの。ファンタジーみたいな世界で、変な人たちに会って。それで、変な人は二人なんだけど、妙に気になるって言うか。……これ、なんだと思う?」
 ティナに言ったこととほぼ変わりはないが、シェイドならきっと違う、なにかためになる言葉をくれるはずだ。そう信じて答えを待つ。彼は椅子の背もたれにギィと寄りかかり、天井を仰いでなにかを呟き始めた。
「……ロザリ、は、その二人が、気になるの?」
 質問で返され、ロザリィは思考する。世界観よりもあの二人の存在が気になるのはたしかだ。仮面の青年はまだしも、二回も連続で同じ登場人物が出てくるだなんてなにか奇妙な縁があるとしか思えない。
「そうね、気になるのは二人」
「……ふむ」
 再び考え込むシェイド。今度はすぐにこちらへ視線を戻した。
「ロザリ」
 シェイドはにやりと、ぎこちないが意味有りげな笑みを浮かべて。
「――恋、かもね?」と、そういった。

「かんっがえられない!」
 サラリーマンや生徒がおしくらまんじゅうを余儀なくされる電車内、ロザリィは声を荒げて訴えた。少し離れたところにいるレベッカは中年太りしたスーツの男性に挟まれ不快感を露わにしている。いまのロザリィにそんな彼女を庇ってやれる余裕は心身ともになかった。
「もー、なにがあったの朝っぱらからー……うぎゅっ」
「なーにが『恋』よ馬鹿馬鹿しい! ティナはともかく兄さんまで! 私がそんな話に縁がないことくらい知ってるでしょうに!」
「ティナさんもお兄さんも学校でのロザリィは知らないんだし、そんな推測くらいすると思うけどなー……ぎゃーっ! いま触ったの誰!? あ、鞄か……」
 レベッカも余裕がないらしい、ロザリィの話よりも自身が大事なようだ。こんなぎゅう詰めの空間だし、不貞の輩が不埒な行為に手を染めてもおかしくはない。
 ロザリィも鞄でスカートのうしろを隠す。これでも上半身はガードできないので油断は禁物だ。
「いっ、う……」
 レベッカの顔がさぁっと青ざめた。今度は何事かと思えば、苦悶の表情を浮かべている。
 まさか、本当に不貞の輩に……?
 視線を走らせるが、そのような様子はない。気のせいだったのだろうか。かと思えば、レベッカはなにかを我慢しているような顔を見せる。間違いない、これはいわゆる――。
「痴漢か」
 憎悪を込めて呟くロザリィ。人の熱がこもる車内だが、周囲の温度を一瞬にして冷ますような怒気を孕んでいた。
 人垣を押しのけ、ずんずんとレベッカの元へ歩み寄る。その背後にいる男――レベッカには背を向けているが、触ろうと思えばいくらでも触れる。男は金色の髪をしており、しかもロザリィらが通う学校の制服を着ている。だが、罪は罪。過ちには罰を与えなければならない。
 無防備な襟元を掴み、引き寄せる。
「うおっ!?」
「あんた、なにしてんの?」
 耳元で囁く。血の気も引くほど低い声音のロザリィにレベッカの顔も強張った。だが、今度はロザリィの表情が歪む番であった。なにせ鼻孔を衝く強烈な臭い、汗や人の体臭とは思えない。レベッカがとうとうえづいた。すると彼女を挟んでいたスーツの男が振り向き、申し訳なさそうに頭を下げた。これは……もしや。
「……屁?」
「うん……」
 どうやら想像していたよりずっと平和な出来事だったようだ。
 では、ロザリィが首根っこを掴んだこの男は?
 こちらを振り向く顔を見れば、ずいぶんと端正な顔立ちをしていた。スポーツをしているであろう、短く爽やかに整えられた頭髪、海のように深いエメラルドグリーンの瞳。身長だってロザリィより頭一つ大きい。身体つきも逞しく、肩幅の広さも相まっていっそう大柄に見える。
 ……というかこの顔、見たことがあるような……?
「あ、ああーっ!」
 先に反応したのはレベッカだった。びくりと肩を跳ねさせるロザリィ。
「ちょ、もしかして……バズくんの!?」
「へ? ……ああっ!」
 どうりで見覚えがあるわけだ。つい先日、この男は教室を訪れたではないか。
 男は苦笑いを浮かべ、ひらりと手を振った。
「はは、どうも。生徒会長候補のローグ・リヴウードです」

「まさか生徒会長……候補、とは知らず……失礼しました」
 電車を降りて、ホームを降りた矢先。ロザリィはまず謝罪した。これから生徒たちを代表する立場になろうという人間を痴漢の犯人に仕立て上げるところだったと思うと背筋が凍る。
 当の本人は至って愉快そうに笑った。そこに恨みや怒りなどの感情は見えない。
「いやいや、友達を護ろうというその気概は良いことじゃないか。尊敬するよ、ロザリィ・アゼット」
「あれ? 私、名乗りましたっけ?」
 開口一番に謝罪しただけで会話もこれが初めて。ロザリィから名乗った覚えはなかったが、どうしてローグが名前を知っているのだろう。レベッカも不思議そうに首を傾げる。
 その様子を見て、ローグは制服の胸ポケットから単語帳のようなものを取り出した。それをめくり、ある個所でぴたりと止める。
「これ、きみだろう?」
 そこにはロザリィの学籍情報が記載されていた。ご丁寧に、ローグが描いた似顔絵まである。似てるかどうか別として。
「どうしてこんなもの……」
「生徒一人一人のことを覚えられないで、生徒会長は務まらないだろうと思ってな。全生徒の顔と学年、クラスを記憶しようとしているんだよ」
「なんていうか……ローグさん」
 沈黙していたレベッカがようやく口を開いた。二人の視線を受け、彼女はたった一言だけ告げる。
「キモイですね」
「なっ!?」
 まさかそんなことをいわれるとは思っていなかったのだろう、ローグは驚愕の表情を浮かべて硬直した。ロザリィからしてみれば、「気持ち悪い」といわれることを想定しないその精神力は認める。全生徒の把握など途方もない。ましてロザリィたちが通う学校は一一歳から一六歳までを擁する学校なのだ。一つの学年にどれだけの人数がいるかなど、想像すら億劫になる。
 生徒会長という役職に対する熱意は本物だが、若干歪んでいる感じも否めない。好きなことに注ぐ熱意だけ見れば、唯一バズと似ている点なのかもしれない。
「そ、そうか……俺がやっていることは気持ち悪いことだったのか……」
「落ち込まないでください、ローグ先輩。あなたの熱意だけは伝わりましたから」
「そうですよ! 気持ちへし折ったあたしが言える立場じゃないですけど! ローグさんみたいな人が生徒会長だったら、きっと良い学校になりますって!」
 ロザリィとレベッカの必死の弁解も虚しく、ローグは俯いたままどんよりと重たい空気を背負ってしまった。生徒の波がどんどん静まっていくのが余計に気まずさを強調させる。人気の少なくなったプラットホームで、これ以上どうしろと言うのだ。ロザリィはがらにもなく携帯電話を覗いた。
「……って、時間やばっ!?」
 素っ頓狂な声を出すロザリィ。レベッカも携帯を確認し、慌てて校舎の方へ視線を走らせる。急ぎたいのは山々なのに、落ち込んだローグをここに放置していくのは気が引ける。なにかローグのやる気を引き出すような言葉はないものか、思考を全力で回転させる。
 思い立ったロザリィはローグの肩を掴み、力一杯揺すった。
「先輩! このままでは遅刻します! 生徒会長になるなら、こんなところで余計な減点されてる場合じゃないんじゃないですか!? ほら、遅刻しますよ! ち・こ・く!」
 まったく動こうとしないローグ。これは失敗か――そう思ったときだった。
「遅刻……?」
 ローグが低い声で唸った。
 直後、勢いよく頭を上げる。「こうしちゃいられない!」と言い放つ。その目には暑苦しいまでの炎が灯っていた。生徒会長になるという熱意を刺激して正解だった。ローグはそのまま二人を置いて走り去る。着いてこいの一言も言わずに視界から消え去った生徒会長候補、残されたロザリィとレベッカは、呆然と立ち尽くして、やがてため息を吐いた。
「馬鹿の相手って疲れるわ」
「ロザリィって辛辣だよね……」
「あんたも大概じゃないの。……ほら、遅刻するわよ」
 駆け出すロザリィ。レベッカも遅れて追いかけてくる。
 学校までの道はそう長くない。季節柄、歩道の脇に並ぶ木々の葉が温かみを帯び始めていた。車の通りに対し、生徒の姿はもう少ない。悠長に歩いている生徒の姿が見えるが、見るからに素行の悪い生徒のため、遅刻上等という精神なのだろう。ロザリィとレベッカは鬼のような形相で遅刻を免れんと足を動かしている。
 ふと、ロザリィの足が止まった。視線は校舎ではなく、通学路から逸れた小道。その先には公園があった。不意に立ち止まったロザリィにレベッカが叫ぶ。
「ちょっとー! 遅刻するって言ったのはロザリィじゃん! 走って走って!」
「待って、なんだろう……なんか、嫌な感じがする」
「出た出た、ロザリィの事件センサー! 鼻が効くっていうかなんていうかさー! そんなのに構ってる場合なの!? あたし、先行っちゃうよ!?」
「好きにして」
「あーもー! 怒られても知らないんだからー!」
 レベッカの叫びが遠ざかる。しんと静まり返った通学路、ロザリィは事件を感じる方へと歩みを進めた。曖昧な感覚と遅刻のリスクを秤にかけてしまう辺り、ロザリィの素行もそこまでいいわけではないことがわかる。
 校舎の近くには川が流れている。お世辞にも綺麗とは言い難い、淀んだ川だ。木でできた足場は年季を感じさせる音を立て、川のせせらぎを掻き消す。ギシ、ギシという不気味な音だけが鼓膜にはりついていた。
「嫌な感じってあてにならない方がいいんだけど……」
 この先で確実になにかがある。長年余計なことに首を突っ込みすぎたせいで、ほのかに漂う事件の香りを感知できるほどになってしまった。もはや皮肉な特技である。
「……ほーらやっぱり」
 呆れてものも言えない。事件は本当に起こっていた。
 視線の先、川の縁で二人の男子生徒が取っ組み合いの喧嘩をしていた。一人は眼鏡をかけた利発そうな生徒、もう一人は見覚えのある小柄な男子生徒。今朝、家に来なかったバズだった。
 真面目そうに見える二人がどうしてこんなことをしているのか。状況は読めないが、ひとまずの仲裁に入る。
「あんたたち、なにしてんのよ」
 ロザリィの登場に、眼鏡の生徒の気が一瞬逸れた。その隙を逃すまいと、バズが彼を押し倒す。そのまま首に手をかけようとした。光の届かない、冷たい水底のような瞳であった。
「ちょっ……!?」
 異常を感じたロザリィは半ば反射でバズを羽交い絞めにしていた。解放された眼鏡の生徒は喉をひくつかせながら走り去っていった。
 残されたバズは頭を垂れたまま、ぶつぶつとなにかを呟いている。危険だとは思いながらもバズを解放する。不審な動きは見せないものの、どことなく危うさを感じる。
「……どうしたのよ?」
「……僕が助けなきゃいけなかった」
「は?」
 あんたが他人を助けられるような人間か。
 そう告げることを考えたが、喉元で抑えた。いまのバズは下手に刺激するべきではない。そう判断してのことだ。様子がおかしいのは明らか。落ち着くまでは余計なことをいわない方がいいだろう。
「……ほら、行くわよ。遅刻確定だけど」
 バズの腕を掴み、強引に引きずっていく。拳に力が込められていることには気づいていたが、敢えて触れようとはしなかった。その手に血が滲んでいることに気づき、一抹の不安を覚えたから。

 やはり遅刻したことでお咎めを食らった。特にバズ。あきらかに喧嘩の後だったため、職員室に呼ばれる事態となった。ざわつくクラスメート、レベッカにも当然尋ねられた。しかしロザリィは天井を仰ぎ、一言だけ。「わからない」と答えた。あのときのバズは間違いなく異常だったし、なにがあってあのような事態になったのか。そしてなぜ首を絞めようなどと考えたのかもわからなかったからだ。
 バズが戻ってくると、一瞬の沈黙の後にざわめきが戻ってきた。本人に確認を取ろうとする者はおらず、ただただ根拠のない噂話が飛び交った。
 昼休みになってすぐ、バズは行方をくらました。昼食を摂ることもなく、だ。
「ほんお、あいああっはんあおーえ?」
 ひょいひょいとおかずを口に運び、ハムスターのように頬を膨らませるレベッカ。ロザリィは呆れたようにため息をこぼす。
「口に食べ物入れて喋んじゃないわよ」
「ん、ぐっ。ごめんごめん。でもほんと、なにがあったんだろーね? バズくん、喧嘩とは無縁な人間じゃん」
「体格的にも性格的にもね。間近で見た私だってわからないんだもの、あとは本人の口から聞くしかないんじゃないの?」
 あの様子では聞き出すことも難しそうではあるが、あれこれ憶測を立てるよりも前に本人からの確認が最優先だとロザリィは考えていた。クラスでの存在感は薄いバズだが、彼が自発的に喧嘩を吹っ掛ける人間でないことくらいクラスメートならわかるはずだ。それなのに根も葉もない話で盛り上がるのは人間の性といったところだろう。
「気に食わないわね」
「ロザリィ、怖い怖い。好き勝手いわせとけばいーじゃん。そんな目くじら立てることなの?」
 レベッカの箸は休むことを知らない。あっという間に弁当を食べ終え、片づけを始めた。ロザリィは特に急ぐこともなく苛立ちを募らせながら箸を動かしている。
「本人がそういうならそれで良いのよ。けど、赤の他人がそんなこというのは解せないわね。本人がそう思うかどうかは別じゃない」
「あれ、じゃああたしまずった感じ?」
「特別に許してあげる」
「ありがと」
 レベッカに遅れること数分、ロザリィも弁当を完食する。片づけてすぐに立ち上がったロザリィは職員室に向かうつもりだった。バズのことを少しでも聞いておかなければと考えたのだ。ロザリィはクラスの中でもそこそこ発言力がある。残念なことに、普段意見を言わないせいで喋りだすと周囲が委縮してしまうから、というのが本質なのだが。バズについてなにか悪い噂が流れそうになったらそれを阻止するのが自分の役目だと思っていた。
「んあれ、ロザリィどっか行くの?」
「ちょっと職員室、たぶんすぐ戻るわ」
「じゃああたしも行こーっと」
 椅子から立ち上がり、レベッカはロザリィのうしろについた。別に面白い話ではない、と念を押すと「いいじゃん別に?」などと言って意味深な笑顔を見せる。
 校舎はいくつかの棟に分かれており、ロザリィたちの学年の教室があるのは東側。職員室は各棟にあるためそう遠くない。多くの生徒が雑談に花を咲かせている中、ロザリィは険しい表情で突き進む。レベッカはそんなロザリィの後ろを携帯電話をいじりながら歩いていた。
「先生に見つかっても知らないわよ」
「そのときはそのときじゃーん?」
「楽観的で良いわね……」
「あえて馬鹿っていわない辺り同情が見えるよね」
 おかしそうに笑うレベッカ。楽観的と言うか能天気というか。ロザリィとは真逆の人間なのに一緒にいる。奇縁とも呼べる関係に苦笑した。
 職員室が近づくとさすがにレベッカも携帯を内ポケットに隠した。幸いなことに廊下を歩いている最中に教師と遭遇することはなかった。いっそ罰せられてしまえばよかったのにと内心毒づく。
 教室はある意味、クラスメートの憩いの場とも言える空間だ。当然、教師たちにも同様の空間があるのだろう。職員室がそうだとは思っていなかったが、そこそこ和気藹々としていた。中には昼休みであるにも関わらず仕事に精を出す教師もいるが、多くは弁当を食べながら近くの同僚と話していたり、各々束の間の休息を満喫している。
 担任教師の机はどこだったか、ロザリィは記憶を辿りながらふらふらと歩く。レベッカもきょろきょろと視線を巡らせながらあとを追った。
「あ、いたいた! せんせーい!」
 大声で呼ぶものだから室内の視線が二人に集中する。晒し者になったロザリィはレベッカを肘で小突いて担任教師の机を走る。
 担任は若い男性だ。この学校が最初の職場であり、勤めてまだ四年目だといっていた。そこそこルックスがいいために女子生徒からの評判も悪くない。彼は二人の来訪に気づくと、そばに置いてあったミネラルウォーターを一口飲んだ。
「職員室であんまり大きな声を出すのは感心しないな……で、どうした?」
「えっと、聞きたいことが」
「ロザリィがバズくんのこと気になって仕方ないっていうから聞きに来たんだよねー」
「あんた、わざと含みのある言い方したわよね?」
「覚えときなさいよ?」と笑顔を向け、改めて担任に向き直る。しかし用件が伝わった段階で担任は深くため息を吐いた。
「リヴウードに関してはなにも言えないな」
「……それはどうしてですか?」
「言葉通りだよ。あいつ、なにも言わないんだ。ずっと俯いて、ぶつぶつなにかを呟くだけ。会話にならなかったから今回は注意だけで終わったんだよ。こっちから話すこと……というよりは、そもそも話せることが無いんだ」
「ふーん、どうしちゃったんだろうね」
 レベッカがあっけらかんという。ロザリィには少し心当たりがあった。
「僕が助けなきゃいけなかった」というあの言葉。バズはいったい、なにからなにを助けようとしてああするに至った? 周囲に人はいなかった。つまりいじめの現場というわけではない。となれば、あの眼鏡の男子生徒が何者かに危害を加えていたことになる。
「……被害を受けた生徒は?」
「今回は注意だけで納得してくれたが、一応親御さんにも連絡しておいた。事情が事情だったからな」
「そうですか、わかりました」
 一礼して踵を返す。レベッカは「お仕事頑張ってー」と軽薄なトーンで告げた。
 職員室を出て、肩を落とす。結局、得られた情報は皆無だった。このままではバズがどこへ行くのかもわからない。なにをしているのかわからないということがこんなにも不安で恐ろしいものだとは思わなかった。
 近くの窓から校庭を眺める。読書に勤しむ生徒や穏やかな空気を放つ二人の男女など至って平穏無事な生活風景が望むことができた。きっとこの空間にバズはいない。いまの彼はきっともっと殺伐とした状況に飛び込んでいくはずだ。ロザリィにはそう確信する根拠がある。
「……不本意な特技だけど、いまはちょーっと頼らせてもらおうかしらね」
「んー? なに、どったの? ……って、ちょっとー! ロザリィ、なんで走ってんのー!?」
 レベッカの喚き声がどんどん遠くなる。ロザリィは半ばやけくそになって駆け出していた。
 校内を隅々まで走り回ればどこかでセンサーが反応するかもしれない。ほとんど博打のようなものだが、いまはこれに頼るほかなかった。

 あてもなく校舎を駆けずり回って十数分が経った。手掛かりは掴めない、なんの臭いも感じられなかった。そろそろ昼休みが終わる。もしかしたら教室に戻っているのかもしれない。
「手間取らせてんじゃないわよ……バズのくせに」
 吐き捨てるように言う。
 ロザリィはいま、西側の棟の一階にいた。運動部の部室や体育館、剣道場などの施設が揃っている。東側には図書室や化学室などがあるため、体育会系と文科系では活動領域が異なっていた。
 視線を彷徨わせるロザリィ。ぶっ続けで走っていたために息も絶え絶え、頭は熱を帯び、視界はもやに包まれていた。刹那、目の前が黒に染まる。
 まさか、倒れる? 走り続けて倒れるなんて、軟弱者みたいじゃない。
 格好悪いと思った。しかし思考もぶつ切りになっているいま、意識の離脱に抗うことさえできない。諦めたロザリィはゆっくりとまぶたを閉じる。何者かに背中を抱き留められたことに気づくのは、その少し後だった。
「大丈夫か、アゼット?」
 聞き覚えのある声は男性のものだった。誰のものか迷ったが、つい数時間前に聞いたものだと本能が言う。声と顔が一致したところで再びまぶたを開く。金髪碧眼の男子生徒がそこにはいた。
「ローグ先輩……?」
「声をかけようとした途端に倒れるんだから焦ったよ。とりあえず水を飲め、呼吸を落ち着かせろ」
 徐にペットボトルを取り出す男子生徒――ローグ。ロザリィは震える手でそれを受け取り、口に運んだ。スポーツドリンクだった。さらに深呼吸を繰り返す。視界も晴れ、意識も戻ってくる。少々頭がぼうっとするが、立てないほどではなくなった。ふらふらとローグのもとを離れる。
「助かりました、ありがとうございます」
「気にするな。それより、どうしてこんなところに? アゼットが来るような教室はないぞ?」
 ローグの中でロザリィは文科系の人間に映っているようだ。しかし実際のロザリィは、あらゆる格闘技を護身術として仕込まれたアスリートである。披露する機会はほぼないのが残念なところか。
「ちょっと人を探していて……」
「誰だ? 顔か名前さえわかれば手伝うぞ」
 手を借りたい気持ちはある。しかし教えるべきかは迷った。
 彼は知っているのだろうか、自身の弟が喧嘩したことを。さらには相手の首を絞めにかかったことを。バズの異変をきちんと理解できているのだろうか。
 ……でも、このまま黙っていてもなにも変わらないか。
 最低限、隠すべきところは隠して告げる。
「バズ、なんです。あなたの弟の」
「ほう?」
 気づけばローグの口元が釣り上がっていた。弟の話題が出たせいか、瞳の光が熱苦しい炎の明かりから無邪気な子供のものになっている。バズのことを語りたくてうずうずしているのが傍目にもよくわかった。いまはそんなどうでもいい話を聞いている場合ではない。
「探すの、手伝っていただけませんか? あいつを一人にしてはいけないんです、少なくともいまは……」
「わかった、任せてくれ。……と、そうだ。ちょっと待っていてくれ」
 ローグはその場を離れると、剣道場へ走っていった。一分と経たずに出てきた彼の手に握られていたのは細長い筒。
「それは?」
「念のため、だよ。さあ、早く行こう」
 ローグは駆け出す。なんの打ち合わせもしていないというのに、どうして動き始めるのか。ロザリィは呆れたように息を吐いた。
 やっぱり馬鹿の相手って疲れるわ……。
 彼は彼で動くようだし、こちらも勝手に動くとする。あと訪れていないのは校庭の方。校舎はもうくまなく探したはずだ。だが玄関は遠い。午後の授業に食い込むほど探すつもりはないので、本当はもう引き際なのかもしれない。しかしロザリィは、廊下の窓を開けて飛び出した。
「心配かけさせんじゃないわよ馬鹿……!」
 走り出していくばくか経ち、脳に小さな電流が走った気がした。視線がある場所に釘づけになる。そこは用具室であった。サッカーや野球で使うボール、清掃用具などを収納しているはずの場所だが、どうにもそこからいやな感じがする。本当にそこで事件があるのであればセンサーに感謝するしかない。とても不本意ではあるが。
 用具室に近づくほどに、不審な音が聞こえてくる。なにかが壁に叩きつけられる音、うめき声、嘲笑。どうやら誤作動ではなかったようだ。なにかが切れる音がしたかと思うと、扉に回し蹴りを決めていた。ティナ仕込みの鋭い一撃に扉がへこむ。それでも開かない。それはそうだ、横開きのドアなのだから。しかし開こうにも中から閉め切っているらしく、開く気配はない。
「小賢しい……!」
「どけ、アゼット!」
 背後から近付いてくる、間隔の短い足音。ひゅっと横を通過した影は細く、扉を強かに衝いた。ローグが竹刀を突き出したと理解できたのはその一瞬あとであった。どれほどの膂力だったのか、扉は吹き飛び薄暗い用具室が陽の光に晒される。
 そこにいたのは今朝見た眼鏡の生徒であった。彼は二人の生徒と共に一人の生徒を私刑に処していた。胸倉を掴まれた憐れな生徒の顔を見て、ローグの顔が歪んだ。愛しの弟が派手に顔を腫らして泣いていれば、誰だってそうなる。
「バズ!」
「あんた、今朝の……」
 眼鏡の生徒の瞳が揺れた。ロザリィは鉄仮面とでもいうべき面持ちであるが、目には暗い光が点いている。
「……覚悟はできてんでしょうね?」
 自分のものとは思えないほど低い声、内側から湧き上がる衝動。ロザリィの理性は融解し、どろどろの殺意が形成される。同じ目に遭わせてやろうというどす黒い感情は留まることを知らず生産されていた。
「お、落ち着けよ……軽いじゃれ合いじゃねぇか」
「それなら私ともじゃれ合おうじゃないの。全身全霊で遊んであげるから、ね?」
 にやりと笑う。それは暗い微笑だった。目は笑っていない。瞳の光は鈍く、あらゆる負の感情が渦巻いていた。
 男子生徒はバズの胸倉を放し、じりじりと距離を取ろうとした。
「悪かったって……な、な? 俺も反省してっから!」
「だったら行動で示しなさい。黙って殴られれば、反省の意を汲んでやらないこともないわよ?」
 ロザリィは胸倉を掴んでいた。恐れ戦く眼鏡の生徒だが、どれだけ謝罪を述べようと許すつもりは一切ない。これだけのことをしてくれたのだ、並大抵のことで怒りが治まるはずはなかった。
 拳を振りかぶるロザリィ。振り抜くことはできなかった。ローグがその腕を掴んでいたからだ。
「やめろ、アゼット。手は出すな」
「どうしてですか」
「暴力に暴力で返しても解決しない。手を放してやれ」
「でも」
 苛立ち募ったロザリィは語気を荒げて振り返る。怒りはあっという間に沈静化した。
 ローグの顔にはなんの感情も見えなかった。怒りも、悲しみも、憎しみも。なにもなかった。真の無表情とはこのことかと戦慄するロザリィ。手は自然と胸倉を放していた。彼が発する異様な空気に支配される。一歩一歩とバズのそばに歩み寄る。視線はバズに向けたまま抑揚のない声で告げた。
「レドリー・バーンズ、悪いがこのことは報告させてもらう。構わないな?」
 眼鏡の生徒――レドリーは錆びた機械人形のようなぎこちない動きで頷く。そのまま他の生徒も連れて用具室を出ていった。
 バズに手を差し伸べるローグ。ところがバズはその手を払った。困惑するローグに対し、バズが注ぐ視線は突き刺さるように鋭い。先ほどのロザリィとは異質な負の感情が窺えた。が、共通している感情が一つだけ。敵意だ。
「どうして……助けたの」
 吐き捨てるバズ。これにはロザリィも驚いた。突き放すような語調もそうだが、助けられることを不満に感じる理由がわからなかったのだ。ローグも同じらしく、動揺した面持ちでバズを見下ろしている。
「どうしてって、そんなの当たり前だろう……?」
 微かに声が震えているのがわかった。信愛する弟に感謝もされず、そのうえ敵意を剥き出しにしてにらまれたのだからごく自然な反応だ。
「……でも、助けられて良かったよ」
 ローグのその言葉に、バズの眉が釣り上がった。ゆらりと立ち上がり、ローグのブレザーを掴むバズ。見上げるその顔は様々な感情と殴られた痕で醜く歪んでいる。呼吸は荒い。もう喋っているのも限界なのだろう、それくらいに疲弊していることは火を見るより明らかだった。
「その『当たり前』さえできない僕はどうしたらいい……どうしたら……!」
 ふっとバズの瞳の光が薄れ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。ロザリィとローグはその場に呆然と立ち尽くす。
 沈黙の帳が下りた空間に、昼休みの終わりを告げる鐘の音が虚しく響いた。

 校門を出て、駅へ向かう足取りは思いのほか軽い。というよりは、置いていかれないように急いているような気がしていた。
「ローザリィー」
 レベッカの声にロザリィはため息を吐いた。今日は一人で帰ろうと思っていたのに。
 放課後、足早に教室を出ていったバズを追いかけるつもりだったのだが、捕まってしまっては仕方がない。今日も若者らしくお喋りに興じながら帰ることとする。
「もー、あたし置いてくなんてどーしたの? はくじょーものー!」
「悪かったわね……なに、一緒に帰ろうって? あんた、他にも友達いるじゃない」
 レベッカはロザリィと違って友人が多い。調子の良い性格で明るいため、クラスにもすんなりと溶け込んでいる印象だ。ロザリィやバズだけでなく、男女問わず常に誰かと一緒にいる姿が目立つ。
「だってロザリィ好きなんだもーん」
「それはどうも。私も好きよ、そこそこね」
「恥ずかしがっちゃってー、ほんとは大好きなんでしょー?」
「そう思えるあんたの頭ってすごく幸せだと思うわ」
 嫌味っぽくいってみるが、レベッカは「でっしょー?」と得意げな顔を見せる。なにをいっても無駄だと感じたロザリィはそれきり口をつぐんでしまった。
「なんかバズくんの件、解決したっぽいね」
 ローグの報告により、事件の真相が広がるのはあっという間だった。ことの発端は眼鏡の生徒――レドリー・バーンズが子猫をいじめていたことらしく、見かねたバズが抗議したのが気に食わなかったために取っ組み合いの喧嘩になったそうだ。
 レドリーとその他二名の生徒は一週間の停学処分を下され、一連の事件は終息したかのように思えた。
「……実際、まだ解決はしてないのよね」
「えっ、なにそれ? またなんかあったの?」
 レベッカには言うべきか否か、数瞬迷った。レベッカは口が軽い人間ではないが、気遣いが下手なのだ。兄弟のいさかいを聞いて、変な気の遣い方をするかもしれない。そうなれば関係は悪化の一途を辿ることになるとロザリィは推測した。
「そのうちわかると思う」
「えーなんで焦らすの!? いま知りたーい!」
 駄々をこねる子供のように地団太を踏むレベッカ。それが一四歳のすることかと指摘すると、口を尖らせ反抗的な視線をぶつけてきた。痛くもかゆくもない。
「あんたにいうと面倒事になりそうなのよ、いろいろね」
「ひっどー!? ロザリィ、あたしのことそんなふうに思ってたんだ! サイテー! 絶交ものだよこれー!」
「絶交しても友達いっぱいいるからいいじゃない」
「うわっ、クール通り越してコールドだよそれー……」
 だらんと上半身を折って悲しみを表現しているレベッカ。いちいちリアクションが大袈裟なことだ。数秒後、ぐおんと勢い良く身体を起こす彼女の顔にはそこまで悲しみに染まっていなかった。
「ま、そのうち知れるならいーんだけどね。あんまり口出すつもりはないしー」
「あら、意外ね。あんた、また余計なお節介焼くんじゃないかって思って言わなかったんだけど」
「だってたぶん、兄弟絡みのことなんでしょ? あたし、一人っ子だからそーゆーのわかんないんだもん」
 ロザリィが思っていたほど考えなしではなかったようだ。彼女なりに首を突っ込んでいいか悪いかの線引きはできているのだと少しばかり感心する。
「ロザリィこそ、余計なお節介焼かないよーにね?」
「あんたじゃないんだからなにも言わないわよ。うちの兄さんとローグ先輩はまるで反対なんだし……私の助言なんて参考にもならないわ」
ふと、思う。
 自分が窮地に陥ったとき、シェイドは助けてくれるのか。聞くのは怖いが、気になるところではあった。
「……帰ったら、聞いてみようかな」
 まともな答えが返ってくるかは怪しいけれど。
 頼りない返事が容易に予想できてしまい、ロザリィは肩をすくめた。

 コン、コン。
 二回のノックに返事はない。やはりいまも読書に耽っているのだろう。
 レベッカと別れ、足早に帰宅したロザリィ。夕食を終え、兄の部屋を訪ねることにした質問はもう決まっているが緊張で口の中が渇いているのがわかった。
「兄さん、入るわね」
 ギィ、と蝶番を軋ませて開く扉。相変わらず本の絨毯が敷き詰められている。心なしか、今朝より少し高くなっているような気さえする。
 相変わらず陰鬱とした空気を醸す部屋の中、シェイドはやはり机で本とにらめっこしていた。今度はシェイドも気づいたらしく、本からロザリィに視線を向けた。
「おかえり、ロザリ」
「ただいま、兄さん。って、帰ったのはもう一時間も前の話なんだけどね……」
「そ、だったの? ぜんぜ、気づかなか、た」
 今朝訪れたときはおよそ午前八時。現在は午後七時を過ぎている。その間、外の出来事全てを遮断して読書を続けられる集中力は目を見張るものがある。しかし現在続けている生活は近い将来改善しなければならないとロザリィは考えていた。余計なお節介だとは思いつつ。
「ねえ、ちょっと質問があるんだけど」
「ん、いい、けど」
「……兄さんは、もし、私が命の危険に晒されたら、助けてくれる?」
 ぽかんと呆けたような面持ちになるシェイド。質問の意味がすぐに理解できなかったのだろう、その気持ちもわかる。ロザリィが護身術を体得していることは知っているし、そもそもそんな事態に陥ることが田舎町ではありえないからだ。
「……そ、だな。努力は、するよ。大事な妹だし、ね」
 大事な妹。
 そんなフレーズが兄の口から聞けるとは欠片も思っていなかったロザリィ。今度はこちらが面食らったような表情になるのであった。予想だにしていなかった回答にしばし沈黙するが、途端に目の奥が熱くなる感覚がやってくる。
 これ以上はまずい! そう判断したロザリィはシェイドに背を向け、「それはどうも」と力強く告げた。張り上げた声は微かに震えていた。
 自室に戻ったロザリィは鞄を放り投げ、ベッドに寝転がった。安堵したからか、視界が滲む。まさかシェイドが自分のことを「大事」だと思っているだなんて。とてもではないが信じられなかった。
「兄さん、私のことが大事って……」
 胸の奥から嬉しさが込み上げる。もうアゼット家は自分一人だと思っていた。しかしシェイドは自分を家族として見てくれていた。孤独じゃないとわかったことが、心に大きな安息をもたらした。
 ……今日はよく眠れそう。
 すぅっとまぶたを閉じる。ところが心地好い眠りを妨げるように携帯電話が鳴った。メールの着信音だ。
 こんな時間に誰だろう? 見れば、ローグからのメールであった。バズを助けたあと、念のため連絡先を交換していたのだ。件名は「バズのこと」。彼の現状が気になっていたのもあり、眠気は見る間に覚めていった。
『今日はありがとう、あいつを助けてくれて。
 話を聞こうとしてはみたんだが、どうしても話してくれないんだ。
 それどころか突き放すような態度まで……なにが原因なのか、俺にはわからない。
 アゼットはなにか知らないか? あいつのこと。』
 バズがローグに対してあのような反応を示した理由。それはロザリィにもわからなかった。しかし、ヒントはある。「僕が助けなきゃいけなかった」という言葉。事件の真相が明らかになったことにより、「助けなきゃいけなかった存在」が猫であることは判明した。しかし、それがローグに対する敵意とどう結びつくのかがわからない。
 メールを返信する。意味深なフレーズのことについて簡単な推測と、逸る気持ちでは解決が遠のくことを伝えた。返信を待つ間、揺り篭の子らをもう一度読み直す。『灰色の魔王編』はまだ途中だった。
「……なーんか、変な感じね」
 読み進めていくと奇妙な感覚が胸に絡んだ。情景がいままで以上に鮮明にイメージできる。それに伴って抱く感情もリアルだ。まるで本当にその現場にいるかのような臨場感。シーンがシーンだけに、少しだけ気分が悪くなった。
 多くの奴隷が飼われていた。数十名にも及ぶ女性を戯れの玩具にする。人間の風上にも置けない行為だ。しかし、そんな負の感情渦巻く中に、謎の人物が現れる。斧を持った幼い少年だ。顔を隠す少年は身の丈ほどもある巨大な斧で奴隷商を惨殺し、奴隷たちを救った。
 その斧は人を殺す斧であった。刃を血に染め、いともたやすく命を奪う。同じ苦しみを与えるわけでもなく、ただ一思いに屠る。
 次の章では謎の実験を行う組織が出てきた。被験者となった少年は獣ごとき様相で力のない少女に襲い掛かる。そこに現れるのは、仮面で顔を覆った若い剣士。彼は殺さずを理念とする英雄であった。苦しんでいる者のもとへ現れ、誰一人殺さずに救い出す。苦しみの権化でさえ、殺さない。
 その剣は人を生かす剣であった。刃を血で濡らすことはない、命を奪うこともない。そもそも鞘から抜き放たれることさえなかった。
「奴隷、斧の少年……謎の組織、獣の少年、仮面の剣士……」
 どこかで聞いたような響き、どこかで見たようなシチュエーション。胸にまとわりつくのが既視感であることにようやく気がついた。そして、夢で見たものと酷似していることにも遅れて気づく。
 ……もしかして私は『揺り篭の子ら』と同じ夢を見ている?
 バズの持論を思い出す。「『揺り篭の子ら』は、リリアン・アゼットの夢の話」であると。母の見た景色、母の抱いた感情を知れるチャンスだとロザリィは思った。それならば、あの二人の正体もわかるかもしれない。そう考えたが、思い出す。
『揺り篭の子ら』は全編一貫して三人称で進んでいるが、登場人物の名が語られていない。そこにどういった意図があるのかはわからないが、斧の少年も仮面の剣士も、正確な名前は不明なのだ。
 ……これは夢の中で問い詰めるしかない。
 ローグからの返信はない。時間も時間だし、眠りに就いてしまおうか。目を開けているのもつらくなっている。うつらうつらと船を漕ぐロザリィの口元からは一筋の滴がしたたり落ちようとしていた。慌ててそれを拭い、眠ることを決心する。
 一晩明ければ返信もあるだろう、ロザリィはまぶたを固く結び、意識を自身の深淵へ放り出した。

「次はお前だ、行け」
 どこか大きなステージの裏であった。照明は最低限しかなく、心許ない。ぎりぎり不自由しない程度の明かりを頼りに、ロザリィは周辺の状況の把握に努める。
 多くの人の姿が見えた。女、子供、人間によく似た化け物の姿が多い。今度は奴隷を売る者の話だ。マイク越しの音声は声高にセールスポイントをアピールしている。観衆から次々に買値が聞こえてくることから、競売にかけられているのだと理解する。原作通りの展開。さしずめ金持ちの道楽といったところか。胸糞が悪い。
 不快感につい舌打ちするロザリィ。隣にいた少女が彼女の唇に人差し指を当てた。静かにしろということなのだろう、小さく頭を下げる。
「ありがとう」口元だけそう動かすと、少女はニコリと微笑んだ。くたびれ、やつれた顔でも笑顔は綺麗なものだ。見たところ、ロザリィよりも二、三歳は幼いだろう。そんな子がどうして奴隷として売り出されなければならないのだと、ロザリィの怒りは静かに燃え上がった。
「怖くないの?」ほとんど吐息だけで尋ねると、少女は小さく頷いた。売られることに恐れがないのはどうしてか、理由を尋ねてみる。
 少女はロザリィの耳元に口を近づけ、囁いた。
「家族が増えるから、嬉しいの」
 いままで一人で、路傍に寝そべって暮らしていたのだろうか。家族というものを知らないらしいこの少女は屈託のない笑顔を見せた。心清らかな少女だ、間違っても現実を突きつけてはならない。喉まで出かかった現実を無理矢理抑え込み、少女に倣って笑顔を返す。
 奴隷たちをステージに連れていくのは人間であった。前回と同じ世界だと仮定すると、シントに分類される男。ロザリィの世界にもいる普通の人間。それがどうしてこんなことに手を染めているのだろう。疑問は尽きない。
「次はお前だ、行け」
 指名されたのは、隣の少女。すくっと立ち上がり、希望に満ちた笑顔でステージの方へ駆けていく。「待って」と手を伸ばしかけて、止まる。これは『揺り篭の子ら』の一ページに過ぎないのだ。もし同じ道を辿るのであれば、このあとすぐ――。
 賑わいが消え失せた。代わりに響くのは静かな足音。コツ、コツ、と一定のリズムを刻む音は不気味に反響する。司会者も突然の出来事に困惑しているらしく、言葉を発せていない。
 いまが好機かと動くロザリィ。男の制止も無視してステージを覗く。
 仮面の剣士が得物を突きつけていた。しかし抜かれていない。鞘に収まったままだ。それなのに、あの異様な気迫はなんなのだろう。いまにも殺してしまいそうな気を放っている。
「な、何者ですかあなたは? どうやってここへ……」
「邪魔する者には少しばかり眠ってもらった。死んではいない、安心してくれ」
「あああ安心などできるわけがないでしょう! ここには参加資格のある者しか入れないのですから……警備員、警備員は!」
「言っただろう、眠ってもらったと。誰も助けには来ないよ」
 仮面の剣士は淡々と言葉を続ける。とてもではないが人が喋っているようには思えなかった。機械的な無感情さ、冷え切った金属のように無機質な印象を抱かせる。瞳にはなんの光も宿っていない。虚ろな闇を彷彿とさせる眼差しだった。
「ただちにこの競売を中止しろ。そうすれば誰も傷つけはしない。……どうだ?」
 剣の柄を握り直し、再度問う。司会者は狼狽して辺りに助けを請うが、客に助けを求めようにも剣士の気迫に圧されて動くこともままならない。警備員は全員昏倒しているようなので、中止か続行かの判断は司会者であるこの男に委ねられる。続行しようものならいますぐにでも剣を抜き放ちその首を飛ばしかねない剣士を前にして、出せる答えは一つだけであった。
「……誠に申し訳ありませんが、中止させて――」
「止める必要などなぁい!」
 声高に叫んだのは一人の客。恰幅の良い、いかにも豊かそうな男だ。会場の視線が男に集中する。男は注がれる視線に恍惚の笑みを浮かべ、ぱちんと指を鳴らした。隣に座っていたフード姿の人間がすくっと立ち上がる。
 フードを払い、露わになったのは幼い顔貌であった。少年のものだが、身体の一部がシントとは異なる。獣の血が通っているのか、頭上に耳があり短い尻尾も生えている。髪はくすんだ灰色をしており装いはぼろぼろ。肢体には見ていて痛ましい生傷が絶えない。それだけ粗雑な扱いを受けているのだろう。
「おい、侵入者を仕留めよ」
「…………」
 男の言葉に少年は深く頷く。仮面の剣士と対峙する少年は徒手空拳の使い手らしく、そのポーズはボクシングの選手のよう。対して剣士は身体の正中線に沿って剣を構え、ぴたりと止まる。それは東洋のスポーツである剣道の構えに酷似していた。
「退くつもりはないんだな?」
 その問いに答えるように少年が地を蹴った。刹那で間合いを詰める少年。懐に潜り込み、剣士の顎を狙った鋭い一撃、剣士はすぅっと微かに上体を逸らして回避する。伸びきった腕、手の甲目がけて剣を振るった。剣の腹で叩くと、少年は苦悶の表情を浮かべた。直後、その瞳に灯すのは憎悪の炎。
「ねえ、あの少年もしかして『灰色』では……?」
 傲慢そうな貴婦人が怪訝な顔つきで呟いた。
「『灰色』?」
「おお……そうだ。汚らわしい混血ではないか!」
 ざわめきたつ会場。『灰色』という単語になにか引っかかるものを感じたロザリィ。それが二回目の夢に出てきた単語であることを思い出す。だが関心はすぐに別なものへ向いた。先ほどステージ上に出ていった少女だ。腰を抜かしてしまったのだろう、座り込んだまま身体を震わせている。
 助けに行くべきか、ロザリィは迷った。少女との距離は約一〇メートル前後。しかしその付近で激しい戦闘が繰り広げられている。もし仮に、この世界に魔法のようなものが存在するのであれば、使用に伴って周囲を巻き込むことになるかもしれない。そうなったら少女はもちろん、助けに動いたロザリィも巻き添えだ。
 ……悩むべきところなのだろうか、とロザリィは考えた。ここで助けに行かなければ、目の前でいたいけな少女が命を落としてしまうかもしれない。
 そんな後味の悪い話があるか。気づいたときには走り出していた。
『灰色』が拳を振り下ろした。仮面の剣士はやはり最小限の動きでそれを回避する。拳の狙いは剣士ではなく、その足元であった。どれだけの膂力だったのか、ステージが砕け散り破片が飛んだ。走り続ければよかったものの、ロザリィは足を止めてしまった。頭上高く待ったステージの破片が迫っていることに気づくのが一瞬遅れた。見上げたときにはもう眼前に迫っていた。
 なにかが破片を弾き飛ばした。正確には、何者かが、だ。そばに着地したそれは陳腐なコスチュームに身を包んだフルフェイスの少年。背中には斧。正義の味方の『緋色』だ。
「大丈夫か、ロザリィ!」
「あんたもまたいいタイミングで来るわね。そういうところだけはヒーローっぽいわよ」
「マジか! へへ、なんか照れ……」
「照れてる場合かー!」
 もはや恒例となった捨て身のツッコミ。レベッカだ。ずいぶんと良い音がするものだ、そろそろあのフルフェイスも壊れるかもしれない。
 仮面の剣士と『灰色』はいまだ交戦している。どういうわけか客たちの盛り上がりが戻っている。不愉快だった。
 少女に視線を移す。うずくまり、頭を抱えながら震えていた。すぐに駆け寄り、声をかける。
「安心して、もう大丈夫だから。立てる?」
「怖いよ……お母さん……お父さん……どうして捨てたの……?」
 嫌な記憶を呼びおこしてしまったようだ。ロザリィの声も届いていないようである。移動するのは難しそうだ。多少強引だが、抱えて走るしかないだろう。少女の腰に手を回そうとすると甲高い悲鳴をあげた。触れただけでこれでは成す術がない。
「ロザリィ、早く逃げて!」
「逃げろったって、この子が動けないのよね! レベッカ手伝える!?」
「あたしは無理! バズのそばにいなきゃいけないから!」
 レベッカは声を荒くする。どんな理由があるかはわからないが、今度こそどうしようもなくなった。このまま事態が沈静化するまでこんな戦場の只中でじっとしていなければならないなんて無茶な話だ。
「……っ! 『緋色』!」
 その言葉に二人が反応した。どちらでも良かったので好都合である。
「私とこの娘に傷一つつけんじゃないわよ!」
「無茶を言ってくれるな……! だが」
「任せとけ、ヒーローに不可能はねェ!」
 二人への指示が通ったことを確認すると、ロザリィは少女を庇うように立った。万が一、攻撃がこちらへ向かってきた場合、盾になるつもりだからだ。もっとも、こんな現実味の欠片もない戦闘で一般人になにができるのかという疑問はあるが。
「余裕、だな……!」
『灰色』が忌々しそうに呟く。ステージさえ砕くような拳がいまだに仮面の剣士を捉えていないからだ。仮面の剣士は大きな動きは見せていない。ただ、攻撃の来る方向があらかじめわかっているかのように最小限の動きだけでかわすのだ。反撃は的確。一撃のダメージは大きくないものの、蓄積すれば動きは鈍る。戦況は少しずつ仮面の剣士に傾いていた。
「俺はきみを殺すつもりはない。大人しく退いてくれれば、これ以上無益な争いをする必要は……」
「無益な、ものか! なにも知らないで!」
「さーあ! 盛り上がって参りました!」
 殺伐とした戦場に、場違いも甚だしいハイトーンボイスが響いた。客たちが一気に沸き立つ。今度はなにが始まったのだと司会者をにらみつける。
「忌まわしき! 汚らわしき『灰色』と! 仮面の剣士! 最終的に立っていられるのはどちらでしょうか!?」
 こんなときにも商売か、怒りを通り越して呆れてくる。それに『最終的に立っていられる』ということはつまり、あの二人のどちらかが死ぬことを前提としている。そんなことで金を儲けようなど、正気の沙汰ではない。いっそぶん殴ってしまいたい衝動に駆られるが、ここを動くことはできない。
 小さな影が司会者に迫っているのに気づいた。それは大きく跳躍すると、司会者の顔面に強烈なキックを見舞った。おそらくは鼻の骨が砕けたであろう、鈍い音が響いた。石ころのように軽々と吹き飛ぶ司会者。一瞬の静寂を、観客の悲鳴が切り裂いた。それは連鎖し、会場を不協和音で満たす。
「あっちゃー……」
 レベッカが短い前足を額に当てていた。司会者を蹴り飛ばしたのはフルフェイスの少年であった。少年はずんずんと豪快な足音を立てて迫り、一張羅の胸倉を掴む。
「テメェ! こんなことして許されると思ってんのか、ああ!?」
「あが、があああ……!」
 激痛と恐怖でろくに喋ることもできないようだ。少年はなおもまくしたてる。
「因果応報ってのはこのことだな! ざまァねェぜ! だが……こんなもんで終わると思うなよ!? まだまだこっからだぜ、なあ!? 黙ってんじゃねぇよ! 泣け、喚け、無様によお!」
 ガン、と頭をステージの壁に叩きつける。何度も、何度も。惨めな喘ぎ声を意にも介さず、壁が血の色に染まっても少年はやめなかった。もはや抵抗の意志をなくした司会者、ぐったりと壁に寄りかかったままだ。
 少年は背中の斧を掴む。腰溜めに構え、横薙ぎに振るった。全力の一撃だった。顔面は跡形もなく弾け飛んだ。血、肉、骨、脳。人間の頭部を構成していたあらゆるものがステージを汚した。断末魔さえあげさせない、無慈悲な一撃だった。
 静まり返る大観衆。いつの間にか、灰色の少年と仮面の剣士の戦いも止まっていた。ロザリィも息を飲み、少女は変わらずうずくまったままだ。
「……テメェら、生きて帰れると思うなよ」
 怨嗟に満ちたその声は、観客を震え上がらせるのには充分すぎた。叫ぶことも泣くこともできず、ただその場で沈黙した。淡々とした足取りで向かうのは、灰色の少年を戦うように仕向けた恰幅の良い男のところ。正面に立った少年に気圧されたのだろう、男の股間が滲んでいく。
 少年は無言だった。ただ斧を振りかぶり、全力で叩きつけた。グロテスクな音が響き渡り、そこから人間が消えた。男の座っていた席には原型も留めていない肉塊が鎮座している。
「次は誰だ」
 その問いは誰に向けたものでもなかった。我こそは、と名乗り出たのは『灰色』だった。獣のように牙を剥き出しにして飛びかかった。少年の反応も超人的なもので、迫りくる殺意を身を屈めてかわした。その軌道にいた観客の一人が餌食となった。心臓を腕で貫かれ、刹那の困惑ののちに倒れた。
『灰色』はもはや人の姿を保っていなかった。シントでは当然ない、野獣のような眼光で少年をにらみつけ、呼吸を荒くしている。
「ちっ、まずいな……」
 仮面の剣士が走ろうとする。それを制止したのはロザリィではなくレベッカであった。
「仮面のお兄さん! 奴隷たちを安全なところに避難させてあげて!」
「しかし……!」
「いーから!」
 レベッカの強い一言に、仮面の剣士はしぶしぶ奴隷たちの誘導を開始した。当のレベッカはといえば、少年の元へと弾丸のように飛んでいった。ロザリィは少女の元から離れない、離れてはいけないと、強い庇護欲に駆られていた。
 状況は最悪、なにからなにまで殺伐としていて、神経が擦り減りそうなことばかり。背後の少女の背中を撫でる。もう悲鳴はあげなかった。
「あああああっ!」
 その声はどちらのものだろう、叫び声は頭上から近づいてくる。ロザリィたちのそばに落下した二人の少年。ロザリィは改めて『灰色』の異貌に驚いた。
 腕が硬質ななにかに覆われていた。それは籠手(ガントレット)のように見える。どのタイミングでそれを装備したのか、ロザリィにはわからなかった。
 少年は斧を振るう。雄叫びをあげながら反撃の隙を与えない連続攻撃を繰り出した。『灰色』はそれを腕で受け止める。壁すら破壊するような一撃をたかが籠手で防いでいた。
「ぜあっ!」
「があぁっ!」
 少年の斧が『灰色』の上半身を吹き飛ばした。しかし置き土産の右ストレートが少年のヘルメットに直撃する。亀裂が走り、隠されていた顔貌が露わになった。
 美しい顔立ちであった。切れ長の赤い瞳に微かなあどけなさを湛え、形の良い鼻は匠の人形のように精緻。驚くべきことに、少年の髪の色もまた『灰色』であった。しかし驚きはそこだけに留まらない。一番の驚きは、ロザリィの良く知る人物に瓜二つの顔だということだ。たまらずその名を口にする。
「バズ……?」
 少年――バズはそっと自身の頭髪に触れた。忌まわしげに口元を歪めて。

「あんたがなんでここにいるのよ!?」
「うるせぇ知るか! いまはあいつを追いかけんぞ!」
 仮面の剣士が奴隷たちを逃がしたところへ向かう三人と一匹。正確には、走っているのは二人だけで、一匹はいわずもがなレベッカ。もう一人はあの少女。いまはバズが抱えている。
 会場の外へと向かう道に人の姿はない。仮面の剣士が眠らせた警備員の姿もない。一本道の脇に設置された照明はしっかりと照らしており、慎重になる必要がなかった。足を急がせることに集中できる。
「ロザリィ、知り合いだったんだね? どこで知り合ったのさ?」
 レベッカが不思議そうに尋ねてくる。どこでもなにも、学校ではいつも一緒ではないか。そう返したところ、バズは「は? 学校?」としらを切っていた。最初はその意図がよくわからなかったが、すぐに気づく。
 バズは『灰色の魔王編』に登場する『斧の少年』として存在している。いま、この世界では気弱な生徒バズ・リヴウードではないのだ。しっかり分別つけておかなければならないのに、どうしても現実世界でのバズが脳裏を過ってしまう。
「俺が学校になんか行けるかよ……こんな、普通じゃねぇ俺がよ」
「あんたのどこが異常だってのよ? たしかに馬鹿力だとは思うけど、その程度でしょ? そんなことで差別する方がおかしいわ」
 沈黙するバズ。無言で隣を走る彼の表情からはなにも読めない。
「……ロザリィ、知ってる?」
「なにをよ?」
「白と黒の話」
 白と黒。『灰色の魔王編』を象徴する唄の中にそんなフレーズがあった。
 白は聡明、賢く果敢。
 黒は剛健、気高く凛然。
 しかし、その白と黒がなにを意味するのかまでは知らなかった。レベッカが解説を始める。
「白が意味するのは頭がいいシント。黒が意味するのは身体が丈夫なマビト。マビトってのはあたしみたいなやつね。世界は二つの種族で構成されてたんだよ」
「……あれ、じゃあ『灰色』は?」
「俺たちは紛い物。白と黒、両方の血を受け継いだ異端児なんだよ……だから、嫌われる。同じ人間として見ちゃくれねぇ」
 再び訪れる沈黙、ロザリィもバズもレベッカも、少女もなにもいわなかった。
 やがて、曲がり角の先から人々の声が聞こえてくる。避難していた奴隷たちの声だ。そこから仮面の剣士が姿を現し、ロザリィたちの無事を確認すると安堵の吐息をこぼした。
「無事だったんだな、良かった」
「おう、まあヒーローだからな……」
 バズの語気が弱くなっている。あのダサいフルフェイスは自分を偽る仮面だったのだろう。『灰色』という負い目を感じているのだ。この世界の人種差別がどの程度根深いものかはわからないが、奴隷たちを救ったのは仮面の剣士とバズなのだ。そこには自信を持ってほしい。
 ばしーん! と乾いた音が響く。ロザリィがバズの尻を叩いたのだ。突然の出来事に呆けたような顔をするバズ。ため息混じりに告げた。
「びくびくしてんじゃないわよ。あの人たちを助けたのは、紛れもなくあんたなんだから。……もちろん、そこの仮面のお兄さんの助力もあってだけど」
「大したことはしていないさ。小さなヒーローのおかげだよ」
 謙遜する剣士。バズの瞳には現実に似た卑屈な光を灯っていた。
「しゃんとしなさい、胸張って。ほら、行くわよ」
 腕を掴み、ずるずると引いていく。抵抗しようとするバズを剣士が押さえて、半ば強制的に連行した。
「救世主のお帰りだ!」
 人間に似た化け物――レベッカの言い方だとマビトの男の言葉をきっかけに、歓声のファンファーレが響いた。実際のところ、ロザリィはなにもしていない。それなのに救世主の一行としてカウントされているのはどこかむずがゆいものがあった。仮面の剣士もバズも微妙な表情を見せている。
 一人が怪訝そうに唸った。目の上のたんこぶを見つけたのだろう。それが誰かは、言わずともわかる。
「『灰色』がいるじゃないか!」
「救世主の中にどうしてお前みたいなやつがいるんだ!」
「善人気取りか、人間ですらないくせに!」
「消えてしまえ!」
 この手のひら返しにはさすがにロザリィも黙ってはいなかった。
「あんたたち、助けてもらっといてその言いぐさはなに? こいつがいなかったら、あんたたちはここにいられなかったかもしれないのよ?」
「そんな汚らしいやつに助けられるくらいなら死んだ方がマシだ!」
「人生の汚点だ……死ぬしかないのかな」
 気味が悪いと、ロザリィは思った。
 こんなにも一人を嫌うことがあるなんてありえない。これではまるでいじめだ。学校で子供が嫌がらせをしているのとなんら変わりない。ここには大人なんていやしない。いるのは愚かな餓鬼だけだ。
 くだらない……。
 バズの方を見る。彼は強張った表情のまま奴隷たちを見つめていた。その瞳にさまざまな感情を渦巻かせながら。
「――ふ」
 口が歪んでいた。三日月のように、不気味に。歯を剥き出しにし、頭に手を当て、天井を仰ぐ。
「ふ は は」
 途切れ途切れの一音だが、それは笑い声だった。嘲笑、憫笑、冷笑……。どの笑いに属するかの判断はできなかったが、バズはただただ笑った。
「ふ は は は は は は は は」
 その声にエコーがかかり、視界を砂嵐が覆う。現実への帰還だった。
 目を開けるまで鼓膜にはりついていた笑い声が、根拠なく嫌な予感を抱かせた。

第三章:夢の果てに

 支度を整えたロザリィが向かうのは眠り姫の部屋。
 呪われた眠り姫はなにをきっかけに目覚めるんだったか、王子様のキス? 小人たちの祈り? それとも自力で目覚めるんだったか。その理屈が通じるのなら、リリアンも王子様のキスで目を覚ますかもしれないのに。
 ロザリィは眼前で寝息を立てる母に問う。
「母さんの王子様って誰なのかしらね……」
 当然、返事はない。病的に白い肌を撫でる。血が通っているのか怪しくなるほどの冷たさだ。
 リリアンの夢をなぞるロザリィは不安を抱いていた。ここまでは原作に忠実だ。この先も同様の展開であるのなら、あとは世界が滅びるのを待つばかりである。ロザリィにできることなどあるのだろうか。
「ねえ、母さん……これからどうしたらいいと思う?」
 返ってくるはずのない返事を待つのはもう疲れた。
 ロザリィは踵を返して部屋を出る。玄関にはレベッカの姿が見えた。イヤホンでなにか音楽を聴いている様子。リズムに合わせてゆらゆらと身体を揺らしている。ロザリィに気づいた彼女はイヤホンを外して「おっはー」と手を振った。
「なに聞いてたの?」
「んー、聞く?」
 イヤホンを片方差し出すレベッカ。大方、最近流行りのアイドルの曲だろう、レベッカは流行に敏いところがあった。特に興味もないロザリィが聞いたところでなんの感想も抱けないので遠慮した。
 レベッカはつまらなさそうに口を尖らせてイヤホンを鞄に入れる。音楽を聞きながら歩くことが危険だと教師に口酸っぱく言われているためか、妙に従順であった。
「それじゃあ、ティナ。行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、ロザリィ。レベッカ様、今日が良き日でありますように」
「ティナさんにとってもねー」
 人懐こい笑顔で手を振るレベッカ。対してティナはうっすらと笑みを浮かべて頭を下げた。
 天気が悪いせいか、足取りは重い。夢のことが気になっているのだ。レベッカもいつもより遅々とした歩みになっている。表情も明るいとは言えない。先ほどの笑顔はどこへ行ったのか、なにやら思いつめたような顔である。
 ふと、足を止めるレベッカ。曇天を仰いで呟く。
「なーんか、責任感じちゃうよね」
「責任?」
「バズを傷つけちゃったから」
 レベッカが「バズ」と呼び捨てにした理由はわかった。同時に、なにに対する責任を感じているのかも察する。夢の話をしているのだ。
「あんたも続き、見てたのね」
「うん、あれは結構精神的に来ると思う。たとえ夢の中の登場人物でも同情しちゃうね」
「それを言ったら、そそのかしたのは私じゃない。あんただけが悪いわけじゃない」
「それはそうなんだけどー……もどかしいよね。夢の中でも人を傷つけるってさ、なんかヤな感じ」
 悪乗りこそすれど、レベッカも性根は優しい。少なからず罪悪感を覚えたのだろう、夢の中でとはいえ、常にそばにいた人を護ってやれなかったことが。
 ……そういえば。
 唐突に思い出す。原作の『揺り篭の子ら』にはレベッカらしき登場人物は存在していないことを。連続して見ているあの夢が『灰色の魔王編』そのままであれば、そもそもあの有翼ハムスターは存在していなかったはずだ。 この差はなんだ? 原作通り忠実に進んでいるのではないのか?
 思考がぐるぐると渦を巻く。唸るロザリィ、その眼前でひらひらと手が揺れた。
「おーい、ロザリィ。なんか考え事でもしてんの?」
「……そうね、ちょっと気になることがあって」
「バズくん?」
 間髪入れずに尋ねてくるレベッカ。どうしてすぐバズの話題を持ち出すのかロザリィには理解できなかったが、一人で考えていても仕方がないことと判断する。
「ねえ、レベッカ。あんたが見てる夢って『灰色の魔王編』みたいじゃない?」
「え? うーん……いわれてみれば、そんなふうに見えないこともないような」
 レベッカはこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激を与える。しかし効果はないようで、数秒後に「わっかんないや」と匙を投げた。
 ……他にもこの夢を見ている人がいればいいのだけど。
 いたとしても、どうやって見つけるのか。一縷の望みも見いだせず、ロザリィは静かに肩を落とした。

 授業は滞りなく進み、あっという間に放課後が訪れる。ぼんやりと一日を過ごした二人は登校時よりも重たい歩調で帰路を辿っていた。
 バズは今日も学校を休んだ。あれだけ激しい暴力を振るわれたのだ、まだ療養が必要なのかもしれない。心配になった二人は彼の家にお見舞いに行くことを決めた。示し合わせたわけではなかったが、自然とそう考えていた。
 電車の中でもひたすら無言。レベッカでさえ、冗談を言う気分ではないようだった。ロザリィも徐に携帯電話を取り出す。ローグからの返信は、いまだない。レベッカの方に連絡した様子もなかった。
 ……こんな不安になるなんて、どうしちゃったのかしらね。
 自分らしくないと苦笑が漏れる。気づいたレベッカが視線を向けてきた。「なんでもないわよ」とだけ告げてまぶたを閉じる。眠るわけではない。ただ、なんとなく楽にしていたかっただけだ。
 最寄り駅で降車した二人は、やはり沈黙の帳に覆われたままであった。バズの家はそう遠くないので、到着すれば否応なしに口を開くことになるだろう、無駄なお喋りをする気分ではなかった。
 無意識に視線が下がっていた。足元から伸びる影を眺めるロザリィとレベッカ。二人は同時に深く息を吐く。
「なんかロザリィ、気分落ちてるね。今日ずーっと上の空だった」
「あんただっていつも以上にアホ面だったわよ?」
「なにそれひっどい」
「欠片も思ってないくせに」
 いつものやり取りにもキレがない。気分が乗らないのだ。
 そうこうしているうちにバズの家に到着する。インターホンを押せばいいだけなのだが、なぜか指が動かない。ここで身体が硬直してしまったのだ。
 なにを恐れているのか、馬鹿馬鹿しい。
 キッと表情を引き締め、インターホンに指先が触れた、そのときだった。視界の端から何者かが襲い掛かってきた。突然の襲撃に反応が遅れたロザリィ、受け身も取れずに押し倒されてしまう。レベッカがひっと喉を鳴らし、すぐに安堵の息をこぼした。襲撃者は、この家で飼われている犬であった。
 ……そういえば。この子にずいぶん嫌われてたわね、私。
 圧し掛かっていた犬が突如、宙に浮いた。何事かと思えば、ローグが犬を抱き上げていた。途端に大人しくなる犬。飼い主に制されては逆らいようもないらしい、そういう意味ではよくしつけられている。
「アゼット? それに、レトラシア?」
「ごきげんよう、ローグ先輩。……いっつつ、背中打った……」
「ローグさん、こんにちはー。いま帰りですか?」
 背中をさすりながら挨拶するロザリィ。思ったよりも重たい一撃だったことに驚きつつ、自分がそれほどまでに警戒されていたのだと複雑な気持ちになる。
 ローグに叱られた犬はなにか言いたげな顔で飼い主を見つめる。しかしローグの目が真剣であることに気づいたらしく、とぼとぼと小屋に帰っていった。ざまあみろ。
「すまないな、うちの犬が」
「大丈夫です、嫌われてたのすっかり忘れてた私も馬鹿でした」
「あそこまで来ると嫌悪っていうか憎悪だよね。ロザリィなにしたのさ」
「なにもしてないわよ。それなのにあれだもの、世の中って理不尽」
 やれやれとため息を吐くロザリィ。ローグは苦笑を浮かべるばかりである。
「まあ、とりあえず中に入ってくれ。立ち話もなんだしな」

「あら、おかえりなさい、ローグ。そちらの可愛いお嬢さんは?」
 迎えてくれたのはバズとローグの母親であった。可愛いお嬢さん、という単語に反応したレベッカは「そんなことないですよー」と恥ずかしそうな笑顔を浮かべている。お世辞だとわかってやっていると信じたいものだ。
 母親の目が僅かに腫れていた。殴られたようなものではない、あれはきっと泣き腫らした目だ。なにがあったのかまではわからないが、おそらくバズのことで夫婦喧嘩でもしたのだろう。深入りしていい話ではないので、視線を巡らせる。
 リヴウード家は質素な内装であった。失礼な話、自宅と比べればどんな家だって質素に見えるが、それにしても飾り気がなかった。当たり障りのないようにいうならば、素朴。木のテーブルと椅子が四脚、台所も必要最低限の調味料と調理器具。冷蔵庫は小さく、とても四人家族の大きさとは思えない。二階に続く階段が気になったが、あまりじろじろ眺めるのも心象がよくないか。
「座ってくれ。……と言っても、楽にはできないか」
「そりゃー多少なりとも緊張しますよ、会って間もない先輩の家なわけだし。あ、お菓子。もらってもいいですか?」
「あんたの『多少』がどの程度のものか、激しく気になるわね」
 無節操というか、遠慮がないというか。返事も待たずにお菓子へ手を伸ばすレベッカに呆れてものも言えない。出てくるのは、ただただ嘆かわしいと思う吐息だけである。
 椅子に腰掛ける二人の前にお茶が差し出された。母親がニコリと柔和な笑みを浮かべる。どれだけくたびれていても心の温かさは損なわれていないようであった。
「こんなものしか出せないけど、ゆっくりしていってね」
「こんなものだなんてそんなそんな、あたし超嬉しいですよ?」
「ふふ、それはどうも」
 ずずずとお茶をすするレベッカ。他人の家でこんなにも力を抜けるなんてどういう神経をしているのだろう、ロザリィは頭を傾いだ。
「あなたたちはローグのお友達?」
「バズくんのクラスメートです」
 母親の質問に答えると、母親の表情が一瞬揺らいだ。それは恐怖のようにも見える。というよりはむしろ、思い出したくないものを呼び起こしたような感じか。
 やはり家庭内でも問題を起こしていたらしい。暴力かとロザリィはリヴウード家を案じたが、ローグに敵うわけもないのでその線は除外する。
「彼になにかあったんですか?」
「――そうね、あの子も思春期ってことなのかしら。まったく口を利いてくれないの」
 困ったわね、と苦笑いを浮かべる母親。
 対話の拒否は厄介だ。なにをやっても真意を言わない、だから怒り方もわからない。慰めてやればいいのかもわからない。だから問題は悪化の一途を辿る。
 親子間でコミュニケーションが取れないというのはつらいことだ。それだけはロザリィにもわかる。言葉を交わせなくなって四年も経てば、むしろ開き直れる次元なのだが。
「じゃーバズくんが学校に来ない理由もわからないんですね?」
「ええ。ただ、ずっと独り言を呟いているの。こっちが声をかけても返事をしないのに。本当……どうしちゃったのかしらね」
 ローグも重苦しい沈黙を喫している。信愛する弟に拒絶され、対話すらできないのだ。不安は底知れないだろう。
 ロザリィは静かに唸り、母親を見る。
「……バズくんと、話をさせてもらえませんか?」
 驚いたような顔をするローグと母親。しかしすぐに思い詰めたような表情を見せた。
「対話はできないぞ? 家族にできないことが、友人のお前たちにできるのか?」
「対話しようだなんて思っていません。ただ、いまの彼がどんな状態かを知っておきたいんです。独り言も気になりますし」
 もし現実のバズが夢の世界のバズと関係があるのなら、いまの彼から夢の世界のヒントが得られるかもしれない。それになにより、心配なのだ。このままでは取り返しのつかない事件を起こしてしまいそうで。手遅れになる前に、解決してあげたかったのだ。
「……じゃあついて来てくれ。あいつの部屋は二階だ」
 ギシ、ギシ、と軋む階段に不安を覚えつつ二階へ上がる。バズの部屋は左に曲がって突き当りだった。気のせいか、扉から異様な空気を感じる。どんよりとした、陰鬱な空気。じめじめした感情が肌にまとわりつくのを感じ、僅かに嫌悪感を抱いた。
「バズ、入るぞ」
 ノックしても返事がない。ローグはため息を吐いてノブを回した。鍵はかかっていなかった。
 室内は暗闇だった。カーテンは閉め切り、部屋の奥にベッドらしきものが見える。そこに寝転がるバズは、たしかになにかを呟いていた。ぶつぶつと、暗い感情が込められているのを感じる。
 三人に気づいているのか、いないのか。ベッドのそばに寄っても反応はない。耳を澄まして声を聞き取ろうと努める。
「ヒーローになんかなれっこなかったんだ」
「恩知らずめ、いまに見てろ」
「報いを受けさせてやる」
 それらの言葉からは恨みのような感情が窺えた。恩を仇で返された、裏切られた。そんな悲しみを秘めているような気がする。
「ずっとこの調子なんだ。家族なのに、なんの力にもなってやれない。……情けないと思うよ」
 俯くローグ。口元は笑っているが、陰りが見えた。本当に歯がゆく思っているのだろう、大事な弟を救えていない現実が。
「なーんか、いつもよりちょびっと怖い感じするね」
「……そうね」
 呑気なレベッカに空返事しつつ、ロザリィは仮説を立てた。ヒーローになれなかった、というのは人助けをしたのに褒め称えられなかったこと。恩知らず、というのは今日の夢で助けた奴隷たち。報い、というのはおそらくこれから起きる彼の復讐劇のこと。
『灰色の魔王編』の終わりは近いようだ。魔王となったバズが世界を滅ぼす日もそう遠くない。このままではリリアンと同じ夢を辿ることになってしまう。
 しかし、所詮は夢だ。現実にはなんら問題はないのだろう。後味の悪さが残るだけだ。バズだって、あれが夢だとわかれば現実と夢の区別をつけて戻ってくるはずだ。そこまで馬鹿ではないと信じている。
 ロザリィはバズに背を向けた。
「行くわよ、レベッカ」
「えっ、もういいの? ちょ、ロザリィー?」
「ありがとうございます、ローグ先輩。失礼します」
 すたすたと足早に部屋を去るロザリィ。慌ててついてくるレベッカがローグに謝っているのが聞こえた。階段を下り、母親に視線をやる。夕食の準備をしていた。バズはきっとその料理を食べないのだと思う。
 ……もったいない。
 母親の作った暖かい料理を食べないだなんて、ずるい。リリアンが作ってくれた料理の味はすっかり忘れてしまった。それはとても悲しいことだ。
「お母さん、お邪魔しました」
 挨拶に気づいた母親が微笑んだ。
「なにもない家だけど、よかったらまた遊びに来てね」
「お茶とお菓子ごちそうさまでした! おいしかったんでまた来まーす!」
「あんたってやつは……」
 レベッカの無遠慮さにほとほと呆れるしかなかった。
「ふふ、あなたたちがバズの友達でよかったわ」
 会釈して家を出る。犬が警戒の唸り声を上げているが、一瞥するだけに留める。
「待ってくれアゼット、レトラシア」
 扉が力強く開け放たれて、ローグが駆け寄ってきた。二人はぴたりと足を止め、振り返る。ぎゅっと唇を噛み締めながら頭を下げた。
「……協力してくれ」
 自分一人では解決できないという判断はつらいものがあるだろう。まして年下の、つい数日前に会った者に協力を求めるなど。
「あたしはもちろんいーんすけど、ロザリィは……?」
「私だってそのつもりですよ。あいつを助けられるのはたぶん、私だけだから」
 それだけ告げてロザリィは再び歩き出した。
 夢の世界で自由に動けるのはおそらく自分だけ。ならば、彼の結末を変えることができるのも自分だけなのだ。ここまで頼られて、ないがしろにできるわけがない。
「……あんたが人助けできるようなやつかってのよ」
 その声は一陣の風に攫われ、彼方へと消え去った。

「あとは世界の崩壊を待つだけだね」
 世界の崩壊などという穏やかじゃない文章。それにしてはずいぶんと呑気ないい方であった。
 レベッカの家はもう通り過ぎている。気まぐれでロザリィの家までついてくることにした彼女の足取りは軽いものになっていた。少々のお茶菓子でここまで気分を上げられるのはちょっとした才能か。
「世界が崩壊したらどうなっちゃうんだろ?」
 原作に沿った流れであれば、シントとマビトは皆殺し。世界には草木一本も残らず、命の消えた星に灰色の魔王だけが独り残されるわけだ。悲しみ、虚無感は想像を絶する。孤独に絶望し、自ら命を絶ってもおかしくはない。
 ところが、原作通りに行かない可能性もある。なぜなら原作に出てこない登場人物がいるからだ。有翼ハムスターのレベッカはロザリィが見ている夢のオリジナルの存在である。これがなにを意味しているのかはわからなかったが、この違いがなにか大事なものを握っているのかもしれない。
「……そしたらきっと、誰にとっても不幸な結果が待ってると思うわ」
「んー? どゆこと?」
「さあ? 私にもわかんない」
「なにそれ、ロザリィらしくなーい」
 けらけらと笑うレベッカ。ふと瞳を覗けば、目の光が鈍かった。心の底から笑っていない、うわべだけの笑い声。ロザリィは自身が微かに震えたことに気づいた。
 目に見えて怒っていたり、悲しんでいたりするのは楽だ。感情と表情がダイレクトに連結しているから、対応もしやすい。だが、いまのレベッカのように感情が読めないとどんな返しをしていいか判断できない。ロザリィは押し黙った。
 やがて自宅に到着する。レベッカは門の前で「じゃーね、また明日」と踵を返した。その背中になにかを感じたが、引き止めることはしなかった。
 庭ではティナが花壇の手入れをしていた。鼻歌はセットのようだ、ご機嫌そうに身体を揺らして水を撒いている。
「ただいま、ティナ」
「あら、ロザリィ。おかえりなさいませ。今日は遅かったですね?」
「ちょっとレベッカと寄り道してたのよ。……ご飯はできてる?」
「もちろんです、ただいま用意致しますね」
 邸内に向かうティナの足取りは軽い。なにか良いことでもあったのだろうか。
 ……そういえば、ティナのプライベートについてなにも知らないな。
 彼女は仕事の時間以外、なにをして過ごしているのだろう。そもそも、仕事以外の時間が作れているのだろうか。ロザリィが学校に行っている間も家事に勤め、帰宅したらロザリィの身辺の世話。夜、何時に寝ているかも知らない。どこに自分の時間があるのだろうと考えたとき、申し訳ないという気持ちが真っ先に湧いた。
「……私、一人で生きられるようにならなきゃね」
 誰かに頼る生き方は嫌だ。誰かの時間を奪って生きるなら、一人でいた方がずっといい。楽はできないけど、強く在れる気がした。弱音を吐けば、また人に頼ってしまいそうで。自分の心を固く閉ざせると思った。

 食事を終えたロザリィは、リリアンの部屋を訪れた。やはり眠ったまま。いつになったら、なにをすれば目覚めてくれるのか。そろそろ希望も薄れてくる。
 眠り姫の目覚めは遠い未来かもしれない。呪いが解けるのは運命の人が訪れてからか、あるいは時間の経過によるものか。どちらにせよ、いまは目覚めのときではないということか。あと何年後のことなのだろう、ロザリィは霧に隠された将来に目を向ける。
 目覚める頃には私はこの家にいないかもしれない。そもそも、目覚める前にリリアンが老衰で死んでしまうかもしれない。
 不安は留まることを知らず膨れ上がり、膨張しきった風船のように繊細だ。些細な刺激で爆発し、溜まっていたものをところ構わずぶちまけてしまう可能性がある。
「……ねえ、母さん。私、強くなるから。だから……」
 ――早く起きて、「頑張ったね」って言って。
 言葉に出すことはなかった。
 部屋を出て、扉に寄りかかる。どこか不満を吐き出せる場所が欲しい。だが、吐き出してしまえば依存してしまうかもしれない、それが怖くて仕方なかった。
 無意識にティナのもとへ歩いていた。彼女はキッチンで食器と調理器具を洗っている。その背中に、ロザリィは恐る恐る声をかけた。
「ティナ」
「はい、どうされました?」
「……母さん、いつ起きるのかな?」
 自分らしくないと思ってしまった。口調が幼い。こんな自分は嫌だと思い、毅然とあろうとした。しかしそれが虚勢であることにすぐ気づいてしまい、情けなくなる。気がつけば、目から一筋のしずくが滴り落ちていた。
 唐突に涙を流すロザリィに、ティナは微笑みを向けた。食器を洗っていた手を止め、優しく抱き寄せてくる。久しく感じていなかった人肌の柔らかさに涙腺が緩んだ。直後、ロザリィは嗚咽を漏らして泣き出した。ティナはただ、そんなロザリィを包み込んでいた。
「……ロザリィ、あなたは知っていますか? 『呪い』のことを」
「『呪い』……?」
「奥様が眠り続ける原因です」
 リリアンがああなってしまった理由をティナは知っていたらしい。驚愕を隠せず顔を上げるロザリィ。ティナは続ける。
「その『呪い』は城を囲った茨のごとく、世界から奥様を切り離しました。閉ざされた世界で奥様は夢を見続けているのです」
「夢? それってもしかして『揺り篭の子ら』の?」
「おそらく。わたくしに奥様の夢はわかりませんが、きっと『揺り篭の子ら』のいずれかの章を繰り返しているのだと思います。あれは彼女の夢の産物ですから」
 バズの推測が的中していた。やはり『揺り篭の子ら』はリリアンの夢を書き起こしたものだったのだ。信じがたい事実ではあったが、いまは受け入れるしかない。もっと大事なことが聞けるかもしれないのだ。
「ロザリィ、きっとあなたにも『呪い』がかかっているはずです。最近、奇妙な夢を見ていませんか?」
 奇妙な夢。ロザリィは頷いた。リリアンが見た夢――『灰色の魔王編』を夢に見ていたからだ。
「……最近、夢を見るの。母さんが書いた『灰色の魔王』にそっくりな夢」
「そうですか。やはり、あなたも……」
 ロザリィを抱く力が強まった。絶対に手放すものかという強い意志と、愛おしさの表れだ。
「ねえ、ティナ。『呪い』ってなに? 夢を見ることとどんな関係があるの?」
「そうですね、ではなにから説明すれば良いのやら。……あなたの夢の中に、見覚えのある人物はいませんでしたか?」
 バズの顔が真っ先に浮かぶ。現実とかけ離れた怪力を持つ夢の中の彼は、助けた人々に感謝もされずに嘆いたことだろう。そして、世界に刃を向ける。
 加えていえば、レベッカもそうだ。ロザリィと同じ夢を見ており、さらに翼を有したハムスターとして登場している。彼女は原作には存在していなかった。それがなにかのヒントになるかもしれない、ロザリィは僅かな望みを賭けていた。
「あいつ……バズがいた」
「いいですか、ロザリィ。あなたが見ている夢はリヴウードさまの夢。現実では叶えられなかった、彼の理想の世界。バズ・リヴウードという幼子の『揺り篭』なのですよ。あなたはその世界に生きているのです」
「揺り篭……」
 他人の夢の中に入り込む。とてもではないが信じられない。しかし心当たりはある。胸に残る傷跡。生身で夢に潜りでもしなければつかないようなものがあった。夢の世界に生きている、という言い方も納得がいく。それに揺り篭の呪い。つくはずのない傷跡も眠り続けることも、『呪い』という表現は適当だ。
 ……では、呪いを解くにはどうしたら?
 ロザリィの不安を悟ってか、ティナが囁く。
「あなたのやるべきことは二つに一つ。夢を見続けさせるか、現実を見せるか。……選ぶのはロザリィ、あなたですよ」
「私が……?」
 重荷だと思った。気持ち良い夢を壊されて、平静でいられるわけがない。いまのバズから夢を奪えばどうなるか。かといって夢を見せ続ければ……?
「ねえ、ティナ。夢を見せ続けた場合はどうなるの?」
「……いまの奥様のようになると思います」
 つまりリリアンは誰かの夢を見せ続けているということ。どうして、顔も知らない誰かのために自分を捧げられるのだろう。リリアンの心がまるで読めなかった。もやもやした実体のない手が心臓を撫で回している。嫌な感覚だ。
「どうしたらいいんだろう」
「決めるのはロザリィです」
 突き放すような声音。ロザリィはティナにすがるような視線を投げかける。ティナはなにも言わなかった。目は閉じたまま、口の端が微かに上がっている。どう受け取ればいいのだろう、ロザリィは考えた。その結果、シェイドからも意見をもらうことに決めた。
「……ありがとう、ティナ。いろいろ教えてくれて」
「いえいえ。月並みな言葉しかかけられませんが――頑張ってください。あなたの選択があなたにとって最良のものであることを祈ります」
 最良の選択ができるかどうか、自信はなかった。それでも苦しみのない答えを見つけたいと思う。自分にとっても、バズにとっても。
 シェイドの部屋の扉を叩く。反応がないかと思いきや、ノブに手をかけるより早く扉が開いた。まるで予測していたかのような反応である。不意をつかれたロザリィは一瞬、言葉を失ってしまう。
「に、兄さんから開けてくれるとは思わなかった」
「ど、してだろ、ね。ロザリ、来るだろな、て、思ったから」
 自分でもわかっていないらしく、シェイドは苦笑いを浮かべていた。
「とりあえず、入って。話、あるんでしょ?」
 入れといわれても足の踏み場はあっただろうか。部屋を覗けば、本の山が部屋の脇に形成されており、床が見える。涙ぐましい努力が窺えた。無下にするのも悪いので、部屋の中で話し合うことにする。
 シェイドはいそいそと椅子を用意してロザリィを座らせる。ここまで露骨な来賓扱いをされても困惑するだけである。
「ごめんね。急いで、片づけたから」
「それは大丈夫。……じゃあ、話してもいい?」
「うん、どぞ」
「……夢を見ている人がいて、私はその人に現実を見せるべきなの? それとも、夢を見せ続けるべきなの?」
 シェイドが『呪い』についてどこまで知っているのかわからなかったのもあり、ぼやかしたような質問になってしまった。彼は目を伏せ、ふむ、と唸る。
「……夢は、希望」
「えっ?」
「夢にしか希望、見出せないなら、現実から、目、背けたくもなる。もし、現実を見せたいなら、希望を見せるべき」
「……難しいこというね」
 バズが夢にどんな希望を見出しているかはわからない。ただ、どんなものにしてもそれと同等の希望を用意することは難しいことだ。
 今度はロザリィが俯く番であったが、シェイドは「そんなに難しく考える必要はない」といい切った。
「希望、て言い方が、難しそうだよね。じゃあ、逃げ道。これなら、どう?」
「逃げ道?」
「だって、現実逃避みたいなもの、でしょ? だから、逃げ道。夢じゃなくて、現実にも拠り所を、作る」
 言い方が違うだけでこうも印象が変わってくるものか。だが、依然として容易ではなさそうである。しかしヒントにはなりそうだ。バズが夢に逃げた理由。夢の中にしかないものがなんなのか、じっくり考えてみるべきかもしれない。
「ありがとう、兄さん。話聞いてくれて」
「ううん、いいよ。俺は、きみの力になれないから。こうやって、助言することしか、できないもの」
 立ち上がるロザリィに、シェイドはひらりと手を振る。心なしか満足そうな笑みを浮かべていた。
 自室に戻ったロザリィはベッドに倒れ込んだ。
 夢を壊すか、見続けさせるか。壊すのであれば逃げ道の用意。そしてバズが夢に逃げる理由。考えなければならないことは多い。
 携帯電話を手に取り、ぼんやりと考える。本人にメールしたところで返事が返ってくる可能性はほぼない。レベッカに送るだけ無駄だ、どうせ他愛のないお喋りが始まるだけ。となれば、ローグしか残っていない。
 メール作成画面に入り、質問を打ち込む。「バズの夢を教えてください」という単刀直入な質問だ。答えが返ってくるかはわからない。そもそもそんなことはローグだって知らないかもしれない。返事は期待しないでおく。
 枕元に投げ出された『揺り篭の子ら』。いまは読みたくなかった。この先、どんな展開が待っているのか。改めて見るまでもない。たった一人の少年に怯える世界があるだけだ。
「……考えなきゃ、どうしたらいいのか。……っ」
 がくんと視界がぶれた。自身の底から睡魔が腕を伸ばしてきたのだろう、それはロザリィの意識を乱暴に掴み無理矢理眠りへと引きずり込もうとしていた。
 抗うだけ無駄。考えがまとまっていないことを悔やみながら逸る睡魔に身を委ねた。

 乾いた空気が肌にまとわりつくのを感じた。身を切るような冷たい風が凪ぎ、ロザリィは身を震わせる。夢の中だというのに、ここまで五感がはっきりと機能しているのはどういう原理なのだろう。
 今回は囚われの身というわけではないらしい。辺りは綺麗な街並みであった。
 ここは台地に築かれた都市のようで、眼下にはエメラルドグリーンの大海原が見える。広場には多くの露店が軒を連ねている。白を基調とした家屋が多く、階段を上がった先、都市の中心には巨大な城が見える。あれが王城ならば、ここは城下町ということか。
 シントとマビトを総べる王とはいかな人格者なのか、あるいは『灰色』をあそこまで毛嫌いする民をどう思っているのか。気になるところではあったが、『灰色の魔王編』に王城の描写はない。つまりあそこへ行く必要はないのだ。
 では、どこへ行くべきなのか。考えた末に導き出した答えは「とりあえず歩き回ってみよう」だった。なぜなら最終章は魔王寄りの視点で展開されているから。ヒントが得られないのだ。
「……歩いてれば、そのうち向こうからやってくるわよね」
 来られては困るのだが、そういうシナリオなのだから抗いようがない。ため息一つ、ロザリィは歩き出した。
 賑わいの中、重たい空気を背負って歩く。露店から聞こえてくる魅力的なセールストークも笑顔で走り回る子供たちの声もいまは鬱陶しいと思えてしまう。これから破滅がやってくるとも知らずに無垢なことだ。
 よく見てみれば、この街はシントの姿が多かった。もしや白い家屋が多いのもそれが理由なのだろうか。となれば、マビトが中心の都市もあるはずだ。どの章だったか、マビトが主人公の話もあった。この世界がどの程度の広さなのか、把握できるならしてみたかった。もう滅びる世界の情報なので、いまとなってはさして興味も湧かない。
 空は赤い。夜が近づいているらしい、反対側の空は僅かに藍色を帯びている。その境界線に視線を送る。赤と藍が絶妙に混じり合い、幻想的な色を広大なキャンバスに描いていた。
「……綺麗」
 でもそれはどことなく禍々しい色合いで、これから流れる血の色をイメージさせた。あの空のように、この純白の都市も真っ赤に染め上げられるのだろうか。そう思うと、どれだけ綺麗なものを見ようと気分が落ち込む。色彩豊かになりかけた心が、たった一つの情報だけでどす黒く塗り潰される。自然とため息が漏れた。
「どうされました、ご令嬢?」
 ふと、視界の端に女性が現れる。黒髪を結い、タキシードに身を包んだ凛々しい女性だ。腰には美しい装飾の剣を提げている。切れ長の目がすぅっと細くなる。その瞳がロザリィを試しているようなものであったためか、僅かな苛立ちを覚えた。
「別に? なんか気分が乗らないだけよ」
「ふふ……あなたから鬱々としたものを感じたので、つい」
 女性はくすくすと笑い、ロザリィの隣に腰を掛ける。背もたれに身を預け、天を仰ぐ。しばしの沈黙ののち、女性は小声で囁いた。
「近く、この世界は滅ぶのでしょうね」
 言葉を失ったロザリィは女性をにらむ。どうして知っているのだろう、世界の行く末を。この女性は何者なのだろう、唐突に現れた女性に猜疑心を抱かざるを得なかった。
「どうしてそう思うのよ?」
「知りませんか? 最近、噂になっている『灰色の魔王』の話です」
 知らないわけがない。もっと言うなら、これからどうなるのかも魔王が誰なのかも知っている。この女性よりも世界の未来が明瞭に見えているのだ。
 ただ、知らないこともないわけではない。魔王がいまなにをしているのか、どれだけの街を潰したのか、あるいはどれだけの命を奪ったのか。この世界のあらゆる常識が欠けている。恥をしのんで教えてもらうべきと判断する。
「その『灰色の魔王』ってのがどれだけの脅威になってるか、教えてもらえる?」
「おや、あなたから質問が来るとは」
「悪かったわね、無知で」
「知ったような顔をしているものですから、ちょっと驚いてしまいました。……さて、魔王がどれほどの脅威となっているかですね?」
 いちいち言い方がカンに障る。表情に露骨に出てしまったような気がしてしまい、慌てて無表情を繕う。それも張りぼてであると見破られたらしく、女性は意味有り気に微笑んだ。
「この世界に生まれ落ちた人間の六割が、彼に命を奪われました」
「っ!? 六割……って」
 最後に夢を見たときからどれだけの時間が経過しているのかはわからないが、世界中の人間の半分以上を死に至らしめたというのか。その手で、奪ったというのか。信じられなかった。その中には無垢な子供もいたことだろう、永久の愛を誓った夫婦もいただろう。無関係な人たちまで殺されたとなると、魔王――バズに対する考え方も変わってくる。
 しかしバズに同情の余地があるのも事実。助けた人間に裏切られ、心に負った傷の深さは底知れない。人類を諦め、消し去ってしまいたいと思っても仕方ないのかもしれない。
「なにかお悩みですか?」
 女性の問いかけはロザリィの心理を見抜いているかのように的確だった。怪訝な眼差しを向けてもなにか企んでいるような笑みを浮かべるばかり。尋ねても答えが返ってこないならと、ロザリィはため息を吐いた。
「そうね、悩んでる。本当の悪者が誰なのかって」
 世間一般からしてみれば、誰がどう見ても魔王が悪者なのだろう。ところが事情を知っている身だとそう単純な話ではない。人間側にも悪いところはある。むしろ原因を作ったのは人間側だ。彼らがあのとき素直に感謝していれば、こんなことにはならなかったのだ。
 最初から定められていた筋書きなのだから、「あのときこうしていれば」などという考え自体が無駄なことはわかっている。それでも素直に受け入れられない。
「ふふっ、やはりあなたは若い。なかなかに青く、くだらない悩みです」
「くだらない? あんたになにがわかるのよ? ――一般人(モブ)の分際で」
 一般人(モブ)という表現が相手にどう伝わるかは考えなかった。この世界の行く末を知っているのは自分だけだという事実に耐え切れなくなって出てきた言葉。ただの八つ当たりだ。
「モブ。それではあなたは、悲劇のヒロインといったところでしょうか?」
「ヒロイン? ……残念だけど、私は傍観者。主役とは縁遠いところにいるのよね。かといってモブって立場でもないのだけど」
 この世界における自分が誰なのか、ロザリィ自身も曖昧であった。なんて説明すれば良いのかわからない。そもそもモブに自分を知ってもらう必要がないのだから。
「悪者が誰か、とあなたはいいました。それを決めてどうするのです?」
「どうするって……」
 悪者を倒せば物語は終わる。悪者を制裁した果てに、より多くの幸せを残せる未来が万人の考えるハッピーエンドだ。ロザリィは結末を書き換えたいと考えていた。叶うなら、誰にとっても幸福なエンディングを迎えたいと。
 隣から聞こえたのは、微かな嘲りを含めた笑いだった。
「なにがおかしいのよ」
 語気が尖っているのがわかった。ぴくりとこめかみが震え、眉も釣り上がる。腹の底から湧き上がってくる、吐き気を催すような汚い言葉の群れ。女性はくくくと喉を鳴らして笑い、ロザリィを見つめる。
 尻の青い餓鬼を憐れむような眼差しだった。
 気がつけばタキシードの胸倉を掴んでいた。
「あんたは良いわよね……なにも考える必要がなくて! こちとら悩みと不安で爆発しそうだってのに……!」
「ええ、わたくしはとっても楽ですよ。そして、あなたはもっと迷いなさい。迷って、悩んで、考えて、不安で押し潰されて、悔いのない答えを見つけ出しなさい。ただし、後悔だけは絶対にしないこと。自分の選択には責任を持ちなさい。それができないうちは、一丁前に大人ぶったことは言わないように」
 ひた、と首元に冷たいものがあてがわれた。それが剣の鞘であることに気づくのに若干の時間を要してしまった。慌てて手を離すと、女性は立ち上がって人混みに紛れ込んだ。
「なんだったのよ、あの女……」
 残されたロザリィは屈辱と困惑と怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。

 魔王はまだ来ない。辺りは次第に暗くなり、街灯に光が灯る時間がやってくる。人の姿もまばらになり、露店もそろそろ閉める頃。ロザリィはとうとう行くあてもないまま広場に取り残されてしまった。
「……夢の中で一夜明かすとか、馬鹿なことにはならないわよね」
 眠気はない。それだけに一人残されたという現実がとても恐ろしく感じた。世界から自分だけが切り離されたような疎外感。こんな夜道をむやみやたらに歩き回るのは愚作だ。どんな輩がいるかもわからない。身を護る術は仕込まれているが、世界が違うのだから通用するか危ういところである。
「誰かと一緒なら安心なんだけど……知り合いなんてレベッカとあの剣士しかいないし」
 いよいよ動けなくなってきたロザリィ。その前を本棚が横切った。正確には『本棚を背負った小さいなにか』だ。ずるずるとローブを引きずりながら、一心不乱に読書するその生き物は人間の容姿をしていなかった。この街で初めて見たマビトである。
 眠たそうに下がった目尻、頭上からだらんと垂れた長い耳。体毛は薄く、それこそぬいぐるみのようだ。ローブ姿というだけで魔法使いを連想させるが『灰色の魔王編』では、世界に魔法が存在しているという描写がなかった。ということは、単純に本の虫ということだろう。それにしても、本棚を背負うという発想は常人のロザリィにはなかった。
 本の虫は牛のように呑気な歩みで通り過ぎる。しかし、彼の行く先には街灯があった。
 ごつん、と頭をぶつけた本の虫。その拍子に本棚がおかしな方向に傾き、どさどさと本が雪崩れて――。
「あららあ、やっちゃったあ」などと、のんびりした声で言うのであった。語尾を伸ばしているのも、彼の呑気さに拍車をかけている。ロザリィは額に手を当てた。
 目の前で本をぶちまけられたら見過ごせるわけないじゃない……。
「大丈夫?」
 駆け寄ると、本の虫は緩慢な動きで見上げてきた。その目からは危機感が微塵も感じられない。のんびり屋というにはいささか鈍すぎるから困ったものだ。
「歩きながら本読むからそうなるのよ。ほら、拾うの手伝ってあげるから」
「うわあ、ありがとお。よっこいしょお」
 本の虫はなにを思ってか、その場にぺたりと座り込んでしまった。ロザリィは困惑した。
 私、手伝うっていったわよね……?
 どうやら本の虫は自ら動く気がないらしい。手伝う、という言葉を辞書で引いてみろと言いたくなった。もしこの中に辞書があるのならば全力でぶん投げてやろうかとさえ思った。
 ひとまず本を集めて棚に押し込んでいく。その間、本の虫は中断した読書を再会していた。どうして今回はこんなにも苛立たしいことばかり起きるのだろう。
 最後の本を叩きつけるように押し込んで本の虫に告げる。
「ほら、終わったわよ」
「…………………………。んああ、終わったんだあ」
 何様のつもりだこいつ……!
 堪忍袋に敬意を表す。よく耐えた、だがもう限界だ。ロザリィは肺一杯に息を吸い込んで怒声と共に吐き出す。つもりだった。怒りの原因であった本の虫が、怒りなどどうでもよくなるほど和やかで愛らしい笑顔を浮かべていたからだ。
「僕一人じゃあ大変だったよお、ありがとうねえ」
 ここまでされては、もはや怒鳴る方が馬鹿らしい。肺がはちきれんばかりに吸い込んだ空気は虚しさを帯びながら吐き出される。
 どうせ人の姿もないのだ、とロザリィは本の虫の隣に腰を下ろす。
「あんた、なんでこんなもの背負ってるの?」
 真っ先に湧いた疑問をぶつけてみる。本の虫は短い指で頬を掻き、唸る。その結果、導き出された答えは単純なものであった。
「いつでも本が読めるように、かなあ」
「……まあ、そりゃそうよね」
「でもねえ、僕、気づいたんだあ」
 なにも考えていなさそうな本の虫、いったいどんな欠陥に気づいたのだろう。
 よくよく考えてみたら、ロザリィでもわかることだった。というか、見ただけで気づける。本の虫は背後に手をやろうともがいているが、いかんせん腕が短いのと本棚の奥行きが思ったよりあるのとがあいまって。
「本棚を下ろさないと本が取れないんだよねえ」
 どうやら正真正銘の馬鹿だったようだ。呆れてものもいえず、ロザリィはただぽかんと間の抜けた表情を浮かべるばかりであった。
「あんた、本好きなの?」
 こんな装いの者に対して限りなく愚問だと思った。なんとなく会話を途切れさせたくなくて、つい尋ねてしまった。本の虫はこくんと頷いた。
「読書って楽しいよねえ。知識がどんどん増えていくんだもん」
「ってことは、参考書とか専門書ばっかりなの?」
「よく読むのはそういうのかなあ。でも小説も好きだよお」
 眠たそうな語尾である。よく見れば目元に黒いものが見えた。本好きなところといい、どことなくシェイドを彷彿とさせる。
 ……これはもしや、良いカモを見つけたのでは?
 きらりとロザリィの眼光が怪しいものになった。
「ねえ、あんたの家はどこ?」
「僕の家え? もうちょっとあっちに行くとあるよお」
 指の示すところは広場を少し下ったところ。住宅街のようであった。魔王の動向を観察できる場所が好ましいが、行ってみて駄目そうなら野宿も辞さないと考えておこう。
 ロザリィは本の虫の手をがしっと掴み、渾身の猫撫で声でいった。
「……泊めてほしいの」
 ロザリィの頬は紅潮している。それはなにを狙っていたわけではなく、ただ単純に恥ずかしさで顔が熱くなっているだけだ。一四歳でこんなことを言うなんて、はしたない、汚らわしい。それでも顔に出さんと必死なロザリィ、恥を忍ぶとはまさにこのことだ。
 本の虫はというと。
「いいよお」
 ロザリィの努力など露知らず、易々と許可してしまうのだった。あまりにもロザリィの意図を汲めていないことに、がっくりと肩を落とす。
 私の努力はなんだったのよ! 返しなさいよ、私のありったけの勇気!
「それじゃあこっちこっちい、着いて来てえ……あ、あれえ?」
 道案内を始めようとする本の虫。しかしなにかが彼の動きを阻んでいるらしく、一向に立ち上がる気配がない。どうしてかなど、傍から見れば誰にでもわかる。格好つかないなと半ば呆れながら彼の背後に回り、彼の動きに合わせて本棚を持ち上げる。ようやく立ち上がれた本の虫は意気揚々と歩き出した。
 それにしたってのろまな歩みである。一歩の幅が狭いのと、読書を続けていることが主な原因だろう。そのうち魔王がやってくるのではないか、と危機感を煽られた。
「あんたってのんびり屋さんよね」
「よくいわれるんだよねえ。どうしてだろうねえ?」
「……さて、どうしてかしらね?」
 月が傾き始める時間、ようやく家に到着した。例に漏れず白い家屋。一人暮らしなのか、二階建てではあるがそう大きくはない。住宅街の端の方であったため、都市の外の様子が窺える。ロザリィにとっての条件は良いようだ。
「それではご案内い」
 扉を開けて、絶句。本の絨毯再来だ。足の踏み場もないくらい辺り一面、本、本、本。本棚の数も尋常ではなく、現実世界におけるシェイドの部屋と瓜二つであった。
 本の虫は絨毯を遠慮なく踏みつけ、かろうじて床が見えるスペースに本棚を下ろした。とても残念である。
「二階使ってもいい?」
「いいけどお、どうしてえ?」
「……この部屋じゃ眠れないじゃない」
 他人様の家に上がり込んでおいてこの物言いだ。図々しいにもほどがある。もとより眠る気はないのだが、外の様子を窺える場所が良かったのだ。本の虫は疑うわけでもなく、二階を明け渡した。
 二階は散らかってはいなかった。むしろ不気味なほど整頓されており、モデルハウスの一室のような印象を抱かせる。だが、よく見ると家具の上に埃が溜まっている。そもそも本の虫はこの部屋を使っていないのだろう。なんにせよ、ここからなら魔王の侵攻を察知できそうだ。
 窓際に座り、外を眺める。空も海も暗いが、水平線はしっかりと望める。波の音は聞こえないが、不思議と心が落ち着く。うっかり眠ってしまいそうだ。
 窓を開ける。びゅう、と風が吹き抜け埃っぽかった空気を一新する。静まり返った夜の街は虫の声さえ聞こえない。夜のしじまが不気味に感じたのは初めてだった。
「……ふん、ふんふふふんふんふん。ふん、ふんふふふーん」
 ティナの鼻歌を真似てみるが、よくよく思えば曲調が暗い。一人で不安を駆り立てて、自らの間抜けさを思い知った。
「使い心地はいかがあ?」
 本の虫がわざわざ上がってきた。これは好都合、とロザリィは手招きする。話し相手になってもらうつもりであった。本の虫はてくてくと寄ってくる。
「ねえ。あんた、家族は?」
 見たところまだ若そうな本の虫。一人立ちするにしても、家族はどこにいたのだろう。あるいは、なぜ家を出たのだろう。そこまで深い話をするつもりはないが、会話のきっかけ程度に尋ねた。本の虫は頬を掻き、苦笑い。
「街が魔王に滅ぼされちゃってねえ、みんな死んじゃったんだあ」
 なにも言えなくなってしまった。家族を亡くして、一人でこの街へやってきたのだろう。同情と、自分の軽はずみな言動に怒りを覚える。
 自分が悪い。そんなことわかっているのに、ロザリィは口を塞がなかった。
「……それは、いつのこと?」
 これはなにかヒントになるかもしれない。この夢の謎と、本の虫のトラウマ。二つを秤にかけて、謎に傾いた。ロザリィは自分の心が凍りついているのだと思った。温かみのある人間なら、すまないと謝罪するはずなのだ。
 本の虫はこめかみと思しき場所に指を当てて唸った。
「あれはねえ……たしか……」
 記憶の糸を巻き終えるかと思った矢先、階下から乱暴なノックの音が響いた。それに伴い、野卑な声が聞こえてくる。突然の客は複数人のようだ。
「あっちゃあ、また来たかあ」
「誰?」
「んーとねえ、この家を貸してくれてる人なんだけどねえ」
「……あんた、家賃の滞納でもしてるの?」
「んー、ちゃんと払ってるんだけどねえ。足りねえ足りねえっていわれるんだあ」
 相手がどんな商売をしているかはわからないが、悪徳商法であるならば多少の制裁は必要か。ロザリィは立ち上がり、階段を駆け下りる。
 扉はいまにも破壊されそうなほど激しく叩かれていた。相手が何人いるかによるが、泊めてもらっている以上、なにか恩返しでもするべきだ。ギブアンドテイクは大事である。
「はいはい、いま出るわよ」
 扉越しにいって、客人の顔を拝む。
 ……なんと言うかまあ、いかにも、って感じね。
 ただでさえ悪い人相に加え、鋭い形のサングラスをかけた人が三人。現実でも程度の低いチンピラがこんな格好をしているが、こちらの世界でも似たような輩はいるのだろうか。話してみないとわからないこともある。
「おお? なんだ嬢ちゃん?」
「家主はどこだ? 逃げたのかあ?」
「匿わない方がいいぜ? 素直に言ってくれりゃあ悪いようにはしないからよ」
 ずけずけと入り込み、不愉快なほど顔を寄せる男たち。耳障りな下卑た笑いを浮かべる。家主――本の虫は一向に出てくる気配がない。
 ……私がなんとかするしかないわけね。
 嘆かわしい吐息が漏れた。
「……お兄さんたち、いったいいくらでこの家貸してるのかしら」
「なに、お嬢ちゃん疑ってるわけ? こんな善良なお兄さんたちを?」
「どこをどう見たらあんたたちが善良なお兄さんに見えるのかしら。お生憎様。結構賢いのよね、私」
 視線は合わせない。斜め上を視線を投げ、レベッカのごとく軽薄にいい放つ。案の定、男の眉がぴくりと釣り上がった。口の隙間から漏れる威圧の声。ロザリィは視線を男たちにやり、ふんっと鼻を鳴らした。見ての通り、挑発である。
 期待通り乗ってくるのだからこういう輩は扱いやすい。ロザリィが女性だからか、すぐに暴力に訴えかけてくるようなことはないようだ。
 つまり、先手必勝のチャンス。
 舐め回すような視線を送ってくる一人を、膝による一撃で沈めた。急所を狙ったのだ、立つこともままならないだろう。声もあげずに悶絶する仲間に動揺する二人。その一瞬も逃さない。スカートが翻るのも厭わず、ハイキックを繰り出した。鋭い攻撃は一人の顎を捉え、白目を剥いて倒れる。
 残った一人がどう出るか。様子を窺おうと思った。明らかな失策だった。喧嘩は先に手を出した方が勝ち、とティナがよく言っていたのに。遠慮も容赦もする必要はなかったのに。
 気がつけばナイフを喉に突きつけられていた。刃先との距離は三センチもない。少しでも不審な動きを見せようものなら喉を掻っ捌かれてしまうだろう。
「舐めやがってこのガキ……!」
 いきり立つ男。下手に抵抗しない方がよさそうだ。大人しく手を上げ降伏の意を示す。だが、その程度で気が治まるわけもなく。気がつけば押し倒されていた。首に手がかかる。ナイフを持っていたにも関わらず絞首とは。予想外であった。
 ぎりぎりと手が食い込む。すごい力だ。意識が遠退き、視界が黒に染まる。音も遠ざかり、世界に別れを告げ――るのは、まだ早かったようだ。なぜか手が離れ、息苦しさから解放される。激しく咳き込み空気を求めるロザリィ。視界に色が戻り、最初に見えたのは緋色の仮面をつけた剣士であった。
「また会ったな」
「本当、あんたって正義の味方よね。登場がいちいちきざったらしいのよ」
「それで正義の味方と言われるのも妙な気分だよ」
 仮面の剣士は曖昧な笑顔を浮かべた。乙女の窮地に颯爽と登場するのは少々狙いすぎな気がする。
「なんだか静かになったねえ」
 階段をのんびりと降りてくる本の虫。苛立ちよりも呆れが強い。咎めることもせず、ただため息をこぼした。この本の虫、意外と強かな生き方をしている。
「客に厄介払いさせといてその言い方はないんじゃないの?」
「……同情する」
「ごめんごめえん、でもありがとうねえ」
 ペットのような愛くるしい顔でお礼を言われるのだから、憎むに憎めない。こんなの詐欺だ。表情に出ないように悔しさを噛み締める。
 それにしても、仮面の剣士はどうやってここを嗅ぎつけたのだろう? 正義の味方にも、ロザリィのような事件感知センサーのようなものが備わっているのだろうか。根っからの人助けにとっては天賦の才である。
「ねえ、仮面の。ずいぶんと鼻が効くのね?」
「ガラの悪い男たちが怪しい話をしていたんだ。なにも起こらないはずがないだろう?」
 その決めつけもいかがなものか。ロザリィは苦笑した。そこで本の虫が仮面の剣士に歩み寄った。すんすんと鼻を鳴らして本質を見抜こうとしているようで、まるで犬だとロザリィは思った。
「面白い格好してるねえ」
「正体がバレると、いろいろ不都合が生じるからな」
「不都合ってなんでよ、姿隠す意味なんてあるの?」
 並々ならぬ事情があるということだろうか。言いたくないことならば言わなくても、と思ったが剣士は仮面を指で叩き、ニィッと口の端を上げて。
「その方が格好いいだろう?」
 幼稚な理由だと思った。しかし男というのはこういうことにロマンを抱く生き物だと、数年前にティナが言っていた。「男性のそういう面をきちんと把握している女性はポイント高いですよ、ロザリィ?」と意味深な笑みを見せた。ティナのいうポイントがなんなのか、当時のロザリィはわからなかった。自分にも幼い時期があったのだと実感する。
 どことなく、夢の世界のバズと似ている気がする。
「ちょっといいか? 話があるんだ」
「それじゃあ二階使っていいよお」
 本の虫が気を利かせた。ただの能天気だと思っていたが、そうでもないのだろうか。話し方だけでは判別しがたいが、あの立ち振る舞いだとやはり能天気なだけかもしれないと思ってしまう。いまの提案だってただの偶然だろう。
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
 二階は不用意な空気の入れ替えで埃が舞っている。咳き込むロザリィに対し、仮面の剣士はさして気にした様子もなく腰を下ろした。
「あのハムスターの行方を知らないか?」
 仮面の剣士の質問にロザリィは首を振った。そもそもロザリィが夢の世界に身を投じられる時間には限界があり、さらに言えばいつ離脱するのかも決まっていない。そんな人間が特定の人物の居場所を知っているわけがなかった。
 仮面の剣士は、想定の範囲内だと言った。しかしその瞳には落胆が見える。彼女になにか見出したらしい、こちらからも詳しい話を聞くべきか。
「どうしてあの娘を?」
「戦闘中だったから記憶がおぼろげなんだが、彼女は『あいつのそばを離れられない』というようなことを言っていた気がしてな」
「……あんた、戦いながらそれ聞いてたわけ?」
 その言葉はロザリィに対して向けられた言葉のはずだった。それを、戦闘中だったこの男が聞き取れただと? 実は余裕があったのではないだろうか。命懸けの戦いの最中、相手以外に意識を向けられるのは並大抵のことではない。
「相手が油断していたんだろう、危なかったよ」
 こともなげにいう仮面の剣士。あの少年――『灰色』が油断などするのだろうか。全身全霊で対面していたように見えたが。剣を抜いて戦っているのを見たことはないけれど、もしかしたらこの男はものすごく強いのかもしれない。
「話を戻すが、あのハムスター……レベッカという名だったか? が、奴の動向を知っているのではないかと思ったんだ。しかしロザリィが知らないとなると、いよいよ打つ手がなくなるな」
「どうして私を頼ってきたのか、激しく疑問なんだけど……。それに、バズのそばを離れられないっていうなら、あの娘が私たちの前に現れるときって」
「奴と刃を交えるとき、だろうな」
 仮面の剣士はバズと戦う覚悟ができているようだ。ロザリィの胸がざわめく。
 もし、この世界で負った傷が現実世界に持ち越されるのであれば。命を懸けた戦いなどさせてはいけない。バズか剣士、どちらかが確実に命を奪われる。仮面の剣士が現実でいう誰かは知らない。だが、知らない人が死ぬのも身近な人が死ぬのもごめんだ。
 だが、打開策などそう易々と閃くわけもなく。ロザリィは震えた声で尋ねる。
「……殺すの?」
「そのつもりで戦わなければ、俺が死ぬ」
「じゃあ逃げちゃえばいいじゃない。なんで刃向おうとするのよ……魔王相手に」
 魔王とやり合って勝てるものか。自身の言葉に諦念が含まれていることに困惑した。魔王という響きがここまで絶望を駆り立てるとは思わなかった。
 仮面の剣士はなにも言わずにロザリィと視線を交わした。強い意志の宿った美しい色をしていた。
「俺はヒーローだからな。逃げちゃいけないんだ」
「馬鹿げてる。そんなくだらない肩書のために命を張るの? 命と肩書、どっちが大事かなんて目に見えてるじゃない。命が惜しいと思わないの?」
 ロザリィの問いは人間らしいものであった。誰だって命は惜しい。なによりも重たく、尊いものだ。どんなものと秤にかけても、命に傾くのが人間のはずなのに。仮面の剣士は笑っていった。
「俺が奴を殺せば、多くの人の命が護られる」
「あんたが死ぬ可能性だってある」
「俺は死なない、死ねないんだよ。奴にだけは、絶対に負けられないんだ」
 その言葉になにか因縁めいたものを感じた。仮面の剣士とバズ、二人にどんな関係性があるかはわからなかった。ロザリィは迷う、本当に二人を対峙させていいのかと。
「……じゃあ、私から一つお願い」
「なんだ?」
「あいつを――」
 ロザリィの言葉を阻むように、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。一階に降りると本の虫が慌てふためていた。仮面の剣士は至極冷静に問う。
「この音は?」
「警鐘だよお! 現れたんだあ、魔王が!」
 このタイミングで登場か。元・正義の味方は空気を読めないらしい。剣士が立ち上がった。腰に提げた剣を撫でる。彼の冷たい光を宿した眼差しで背筋が凍った。戦に赴く、非情な目をしていた。
「きみたちはすぐに避難するんだ。俺が決着をつけてくる」
 駆け出す剣士。その背中にロザリィは言葉を投げた。
「お願い、殺す気で留めて!」
 剣士から返事はなかった。
 ロザリィは迷った。追いかけるべきか、避難するべきか。本の虫の様子を窺うように視線を送る。その目は澄んでいて、心が見透かされたような気分になった。
「追いかけないのお?」
「えっ……」
 その問いに喉を詰まらせる。なんと答えていいのかわからなかったのだ。瞳の揺らぎを見逃さなかったのか、本の虫がにこりと笑う。
「いま行かないで後悔しない?」
「……それは」
 ちょいちょいと袖を引っ張られる。彼は先ほどの笑みとは打って変わって、強張ったぎこちない笑顔を浮かべた。その顔にはどことなく見覚えがあって――。
「……あんた」
「行っておいで、ロザリィ」
 名乗った覚えはなかったが、その言葉に後押しされた。ロザリィは走る、いやな予感がする方へ。血の臭いがする方へと、全速力で駆けていった。
 魔王の侵攻は想像より早いもので、被害は中心地の方へ広がっていた。眼下の住宅はほとんどが半壊しており、瓦礫に埋もれた人の姿も見える。血を流して倒れる者、腰から下が消えている者、魔王の攻撃に見境はないようだ。
 魔王――バズの復讐に容赦はない。情けもない。人間という人間を滅ぼすことでしか、存在意義を見出せなくなっている。このままではリリアンの『灰色の魔王』と同じだ。それではいけないのだ、バズには現実を見せてやらなければならない。逃げ道は、もう作った。
 視線の先で一際大きな爆発が起きた。同時に飛来する巨大な物体――瓦礫だ。思わず足が竦み、動きを止めてしまう。このままではかわせない、直撃したらどうなるかなんて目に見えてる。しかし身体は動かない。ここ一番の恐怖を感じていた。
 ぶつかる――。
 その刹那、ロザリィの前に黒い影が現れ、幾重もの線が閃いた。眼前まで迫っていた瓦礫が幾つもの小さな破片となって飛散し、ロザリィはかすり傷一つ負うこともなかった。
 視線の先には、剣を握ったタキシードの女性。
「危ないところでしたね」
 女性は振り向くと、得意げな笑顔を見せた。剣をひゅんっと振るい、鞘に収める。
「……ありがとう」
「おや、意外。あなたからお礼をいわれるだなんて」
 やっぱりトゲのある言い方である。しかし昼間のような怒りは湧いてこなかった。ロザリィの変化に気づいたのか、女性は微笑んだ。子供の成長を見る親のような瞳であった。
「……行くのですね?」
 ロザリィは頷いた。瞳には炎のごとく強い意志が灯っている。
 女性はゆらりと歩き出した。中心部とは逆方向に歩いていることから、加勢はしないようだ。期待はしていなかったが、なにも言わずに立ち去ってしまうのもどうなのだろう。その背中に視線を送ると、女性は足を止めた。
「あなたが彼を導いてあげてください。思いのたけをぶつけてくださいね」
「言われなくてもそのつもりよ」
 女性に背を向けて再び走り出す。不定期に轟音が鳴り響き、瓦礫が飛んできたが幸いにもロザリィの道を阻むことはなかった。中心部に近づくと空気が張り詰めているのを感じた。
 駆け上がり、城を望む。辺りには数多の兵士が散り、純白だったであろう城壁は血に塗れている。刃が打ち合う音が響いた。大気が震え、立っていられないような衝撃に襲われる。
 仮面の剣士とバズが交戦していた。どちらが優勢なのかはわからないが、刃を交える。
 剣士が得物を突き出す。鞘から抜き放たれた鈍色の剣尖が空気を抉った。バズは僅かに顔を動かして回避すると、蹴りを見舞った。腹に重たい一撃を受け、剣士の身体が宙を舞った。ロザリィのそばに落下した剣士は喘ぐ。
「大丈夫!?」
 慌てて駆け寄るロザリィ。仮面の剣士はロザリィの喉元に切っ先を突き立てる。
「どうしてここに来た!? いますぐ逃げろ!」
「いやよ! 私は逃げちゃいけないの!」
 さんざん背中を押されたのだ、もう逃げられない。自分のやることを全うするのだ。結末はロザリィにしか変えられないのだから。この物語に終わりを告げる。
 そんなロザリィの考えなど露知らず、仮面の剣士は声を荒げた。
「護れる自信がない、早く逃げてくれ!」
「自分の身は自分で護るから大丈夫!」
 ティナに仕込まれた護身術がどこまで通用するかはわからない。だが、護られるのは性に合わない。感覚を研ぎ澄まして次の攻撃に備える。剣士は諦めたようにため息を吐くと身体の中心で剣を構えた。美しい型であった。
「邪魔はするなよ」
「あんたこそ、私の前でやられないでよね」
 バズは無言であった。目は伏せているため表情が読めないが、全身から放つ空気は鋭利なものだ。斧をぶら下げる手に力が入っていなかったが剣士の戦意を察知すると、斧を両手で担ぐ。視線を交えると見える。バズの瞳はどんよりと曇った空のような色で、幾つもの負の感情がごちゃ混ぜになったようであった。なにを考えているかは読めない。
 バズが地面を蹴った。斧を大上段に構え、力任せに振り下ろす。ロザリィと剣士は左右に分かれるように飛んで回避した。その一撃は地面を砕き、土煙を巻き上げる。視界が阻まれるが、バズの居場所がどこかはわかる。彼の放つ負の感情のせいだ。
 金属が打ち合う音がする。バズは剣士にしか興味がないようだ。邪魔するつもりはないが、ロザリィは音のする方へ向かった。
 轟、と大気を切り裂く音がして、土煙の幕が吹き飛んだ。腕で顔を庇い、目が潰されるのを防ぐ。晴れた視界に見えたのは、剣士の猛攻であった。不可視の速度で繰り出される、息も吐かせぬ連続攻撃。そのことごとくを斧で弾くバズ。それでも時折、赤い飛沫が見える。致命傷にはならずともダメージは蓄積しているようだ。
 力強く放たれた突き、斧で受け止めたバズは姿勢を大きく崩す。その隙を逃さず、剣士は大上段に剣を構えた。
「ぜぇああっ!」
 裂帛の気合いと共に繰り出される神速の面。
 決着だ。ロザリィは息を飲んだ。……それで終わればどれだけよかっただろう。
 赤い飛沫が舞った。バズの手から、だ。彼は剣士の一撃を、あろうことか素手で受け止めたのだ。いわゆる真剣白羽取り。信じられない芸当に剣士も動揺を隠せずにいる。空いた手は斧を掴んで――。
「逃げてっ!」
 叫んだときには遅かった。斧が剣士の胸を引き裂いた。骨まで持っていっただろう、耳を覆いたくなるような音がする。ぞわりと冷たい手が全身を撫で、肌がぶつぶつと粟立つ感覚に襲われた。ひっ、という短い悲鳴が漏れたことにロザリィは気づかなかった。
 剣士が倒れる。彼を中心に真っ赤な池が広がっていく。駆け寄ることもできないロザリィはその場でぺたんと尻餅をついた。
 敵わない。バズに勝てる人間など、もうこの世界にはいない。リリアンの夢と同じく、バズが世界を滅ぼすのを目の当たりにしてしまう。そんなのは嫌だ。だが打つ手がない。
 バズはロザリィにも剣士にも目を向けず、城に向かって歩き出した。気高くそびえるそれを護る者はもういない。兵士たちは屍となり、純白を真紅に汚しているのだ。
 いったいなにをするつもりなのだろう。考えるフリをしていることに気づいたロザリィは震えた。どうなるかなんてわかっていたのだ。バズはゆらりと斧を構え、振りかぶった。
「やめ――」
 瞬間、爆音が響いた。大地が揺れ、城が傾いていく。ダメ押しと言わんばかりに、バズはもう一度地面を叩いた。地割れが発生し、飲みこんでいく。兵士も、城も。なにもかもが奪われていく。ロザリィたちのいる場所も大きな揺れに見舞われたが、幸いにも命の危機にさらされることはなかった。
 崩壊していく城、バズは額に手を当てて天を仰ぐ。
「ふ は は」
 三回目の夢で聞いた笑い声だ。愉悦だろうか、嘲りだろうか。いまのバズからは心が感じられない。人を超越した存在になってしまった、ということの現れである。もう助からない、助けられない。絶望したロザリィ、その耳元で羽ばたきの音が聞こえた。
「なーにしてんだ!」
 弾丸はロザリィたちとバズの間で急停止する。剣士が探していた人物――レベッカの登場だ。バズからの返事はない。ただ高らかに笑っている。
「レベッカ……来るのが遅いのよ」
「なに、ロザリィ、あたしを探していたの? ……実はあたし、そこの剣士を探していたんだよね」
「えっ?」
 剣士がレベッカを探す理由も明らかになっていないのに、また一つ謎が持ち込まれた。レベッカが剣士を探す理由? ロザリィには皆目見当もつかなかった。
 ぱたぱたと剣士のもとへ飛んでいくレベッカ。短い手をそっと剣士の頭に置いた。
「ごめんね、止められなくて」
「……別に、きみが悪いわけじゃ、ない。これは……俺の、問題だ」
 立ち上がろうとする剣士。致死量とも思える出血であるにも関わらずだ。なにが彼をあそこまで動かしているのか、やはりロザリィにはわからない。本当に肩書のため、多くの人の命のためなのか。だとしたら尊敬に値する。
 だが、不安なものは不安だし、心配にもなる。ロザリィは慌てて駆け寄った。
「もう動いちゃダメ、あとは私に任せて」
「承諾できない。俺が決着をつける、絶対にだ」
 胸からおびただしい量の血を流しながらも剣士は立ち上がる。剣を取り、身体の中心に。立つこともままならないはずなのに、洗練された美しさがあった。
 バズはぴたりと笑うのをやめ、振り返る。立ち上がった剣士を見て、驚愕の眼差しを注ぐ。そこにようやく人間らしい感情を見た気がした。
「……なんでだよ」
 その声はバズのものだ。絞り出したような切実さがある。剣士に向けたものであろうことは明白。諦めようとしない剣士が本気で理解できていないようだ。
「なんでお前、そんなに頑張るんだよ?」
「みんなのためだからだよ」
「……そうやってヒーロー面するところが気に食わねーんだよ!」
 バズは吼える。
「いつだってそうだ! 困ってるやつは一人だって見捨てねえ、どれだけ自分が悪者になろうがなんでもねえ面してよ! 助けられたなら良かった、だあ!? 笑わせんなよ偽善者が!」
 その言葉は剣士のことをよく知っているようなふうであった。そして、いま目の前にいるバズがぶれる。焦点が合わないような、そんな感覚だ。
 剣士はくすりと笑みを湛えた。仮面で目元が隠れているため表情は見えないが、柔らかいものを感じた。我の強い弟を微笑ましく思う兄、というような構図に見えなくもない。
「偽善者か……そう思われていたのなら、謝るべきかもしれないな」
 腕を下ろす剣士。
「謝ったって無駄だっての! お前の言葉が薄っぺらだってことくらいわかってんだ!」
 吼えるバズに先ほどまでの恐怖は感じなかった。いまの彼から感じるのは虚勢、追い詰められた子供の強がりだ。
 剣士はバズのもとへ歩き出す。無茶苦茶に戦斧を振るうが、そこに殺気は感じられない。拒絶の感情がだだ漏れになっていた。
「あいつがずーっと心に秘めてたことがある」
 ふとレベッカが口を開いた。バズが心に秘めていたがなんなのか、それがこの物語の鍵になっているかもしれない。
「それはね、憧れ。ヒーローになりたい、っていう願望。救える人は全部救えて、誰からも慕われるようなヒーローだよ」
「ヒーロー……」
 そのヒーローとはきっと、剣士のことを指しているのだろう。バズは剣士に憧れていたのだ。だからこそ、彼と同じ名を名乗った。彼のようになりたくて、悪人に裁きを下していたのだ。やり方こそ違うが、人を救いたいという思いだけは同じだったのだろう。
 その行為が余計に虚しさを増した。バズの抱える闇もまた、加速的に増幅されていったのだろう。そして、闇の拡大を抑えていた蓋が弾け飛んだ。制御を失った負の感情はバズを支配した。その結果――筋違いの報復を実行した。八つ当たりもいいところだ。
「……らしくないんだよね。実際、助けてほしかっただけなんだよ。苦しみから解き放ってほしかっただけ。なのに無理しちゃってさ。お馬鹿さんだよ、ほんっと」
 呆れたような声だった。その言い方は現実のレベッカを彷彿とさせた。
 ヒーローになりたかった、けれど助けてほしかった。その矛盾がバズを惑わせている。だとすれば、どちらかを諦めさせることが重要なのかもしれない。これが、ティナの言っていた『現実を見せる』ということなのかもしれない。もうロザリィに迷いはなかった。
 剣士は一歩、また一歩とバズとの距離を詰めていく。斧を持つ手が震えており、もはやろくに振り回せていなかった。
「うっ……あああああっ!」
 斧を両手で担ぎ、振り下ろす。刃が閃く音がする。バズの得物が綺麗に切断されていた。剣士が得物を一瞬のうちに抜き放ったのだ。宙を舞う欠片。落下したそれを拾うこともせず、バズは尻餅をついた。震えるバズ、瞳は揺れていた。剣士はバズの前で立ち止まると、仮面に手を当てどうしたものかと息を吐いた。
「これではヒーローだなんていえないな。――最も愛する者から怯えられるだなんて」
 仮面を外す。そこに見えたのは精悍な顔つきをした碧眼の青年――。

 視界がホワイトアウトしたのと同時、携帯電話の電子音が耳朶を打つ。メールではない、かといってアラームでもない。これは通話の着信音だ。窓の外はまだ暗い。画面を見ればデジタル時計は夜明け前を示していた。寝惚けた頭で通話に応じる。
「もしもし、どちら様……」
「アゼットか!? 俺だ、ローグ!」
 上ずった声のローグ。バズになにかあったのだろうか。眠気は吹き飛び、不安と焦りが胸中で渦巻く。
「バズですね?」
「こんな時間にいきなり外に飛び出した……あいつの行くところに心当たりはないか!? なんでもいい、教えてくれ!」
 心当たりなんてない。だが、バズのことをイメージした途端、脳裏に映像が走った。なんの根拠もないが、バズはそこにいる気がする。しかしロザリィは――。
「すみません、わかりません」と嘘を吐いた。いまのバズにローグを会わせてはいけないと判断したからだ。平静でないローグと話しても事態は悪化するだけ、そう思ったのだ。嘘を吐いているとは悟られなかったらしい、ローグは「そうか」と声音を沈ませた。
「こんな時間にすまない。俺は探しに行くよ、あいつを一人にしちゃいけない」
「いえ、大丈夫です。気をつけて」
 電話を切る。しばしぼんやりと窓を眺め、ベッドから降りる。徐にクローゼットへ向かうロザリィ。カーディガンにショートパンツ。寒さ対策にタイツは忘れない。携帯電話をポケットに突っ込み部屋を飛び出した。
 まだ薄暗い空の下、庭では女性が花壇の手入れをしていた。いわずもがなティナであるこんな時間まで仕事をしていると知り、帰宅時の申し訳なさが戻ってくる。
 ロザリィに気づいた彼女はくるりと振り向いて、沈黙。こんな時間にロザリィが起きるとは思っていなかったのだろう。「あら」といって目を丸くした。
「おはようございます、ロザリィ」
「あんた、こんな時間まで仕事してるの……? いつ寝てるのよ」
「いえ、寝起きですよ? つい先ほど、ふと目が覚めてしまいまして。せっかくですからお花さんと会話をしていたのです。知っていますか? お花さんは話しかけると綺麗に咲いてくださるそうですよ」
 この時間に目覚めるとは、やはりティナはいつ眠っているのかわからない。いまのロザリィに他人のことはいえないのだが。
 ひとまずバズを探しに行かなければ。ロザリィの瞳には強い決意の灯火が見えた。
「ティナ、私、ちょっと出てくる」
 止めるだろうか。こんな時間に一人で出歩くのは流石に怪しまれるかもしれない。そう思ったがティナはなにも言わず、ふっと目を伏せた。
「行ってらっしゃいませ、ロザリィ。お気をつけて」
「……止めないの?」
「だって、止めても聞かない目をしているんですもの。大事なことなのでしょう?」
 なにもかもお見通しというわけだ。
 ……敵わないわね。
 ロザリィは駆け出した。階段を飛ぶように降り、学校の方へと走り出す。電車が使えないため、走っていくしかない。バズのいるであろう場所は学校からほど近いところ、彼が最初の事件を起こした場所だ。根拠はない、だが確信していた。彼は絶対そこにいると。
 自宅から学校まで交通機関を利用して三〇分程度。休んでいる暇はない。息を荒げながらひたすら走る。足の感覚がなくなっても動かし続けた。全身が熱くなり、思考も朦朧としてくる。呼吸のペースは早く、溢れてくるよだれを拭う姿に品性の欠片もない。
 線路沿いを走って学校へと向かう。当然、電車の姿はなかった。街灯がぽつぽつと道を照らしているだけ。そよ風が線路脇にある草を揺らす音しか聞こえない。普段なら恐怖心を煽られるようなシチュエーションだが、いまのロザリィにとっては問題にならない。
「ロザリーィ!」
 背後から聞こえてくるロザリィの名前。それに続く自転車のベル。振り向けばレベッカがいた。派手な音を鳴らして停止する彼女も息を切らしている。
「よかった、間に合ったぁ! げぇっほげほっ!」
「なによ、こんな時間にどうしたの、う、げほっ、ぐええ……」
 途端に襲ってくる息苦しさ。激しく咳き込み肺の中に目一杯空気を詰め込む。呼吸を整え、レベッカに問う。
「あんた、なんでここに?」
「な、なんとなく。ただ、ロザリィとバズくんの顔が浮かんで。あと、ローグ先輩もいた。で、なんかこっちに来なきゃなって思ったんだよね。どーしてだろ?」
 レベッカの登場もロザリィ同様、根拠のない行動であった。だが、これはチャンスだ。足が手に入ったのは大きい。ロザリィは詰め寄り、ハンドルを握る。きょとんと目を丸くするレベッカに、真摯な瞳を向けて告げた。
「あとで返す」
「へ? ちょ、ええっ!?」
 言葉の意味を飲み込めていないレベッカから自転車をひったくり、ロザリィは風を切って走り出した。熱くなった太ももでは大したスピードも出ないが、自前の足より百倍マシだ。背後の声がどんどん遠退く。
「ロザリーィ! あたしのチャリー!」
 悲壮感を漂わせる叫び声が夜の街にこだました。

 学校の最寄り駅まで到着したロザリィは自転車を漕ぐのを止めていた。足が棒になるとはこのことか、もう感覚がない。一歩ずつ、ゆっくりと歩を進める。本当なら自転車を放棄してしまいたいが返すといった手前、適当なところに放っておくわけにはいかない。
 空はもう白み始めており、間もなく夜が明ける。まさか外で日の出を拝むことになるとは思っていなかった。
 目的の場所までは十分もあれば着く。問題は本当にバズがいるのかどうかだ。徒労に終わる可能性ももちろんある。
「いなかったらぶん殴ってやるんだから……」
 そんな体力があるかは本人としても微妙なところだった。辿り着いた先で精根尽き果て、ばったり倒れてしまいそうである。ちょっとした事件になりそうだ。
 学校が見えてきたところで小道に入る。白んだ空の下、淀んだ川の流れと足元が軋む音が孤独感を掻き立てる。人の気配がまるでしない空間にいると自分だけが世界から切り離されたかのような感覚に陥る。
 ……やがて、事件の現場に到着する。少年が一人、川縁で佇んでいた。柵から身を乗り出すような格好でぼんやりと校舎を望んでいる。まさか本当にいるとは思わなかった。
「こんな時間になにしてんのよ」
 少年――バズはびくりと肩を弾ませた。ロザリィだとわかると安堵したように胸を撫で下ろす。自分に害がないと判断したのだろう、特に逃げ出すようなこともしなかった。ロザリィは彼の隣に立ち、策に寄りかかって視線を落とす。暗い、闇の底のような色をしていた。
「……僕はヒーローになれなかった。やっぱりあいつには敵わなかった」
 呟くバズ。ロザリィはそんな彼に視線を剥けるわけでもなく、興味なさげに「ふぅん」と返した。
「ずっと憧れてたんだよ。人助けをして、感謝されることにさ」
「あっそ」
「……冷たいね」
「わかってたもの、最初っから。人助けなんて無理だって」
 バズの目の色が変わった。敵意を灯した瞳が射抜く。それに応じるように視線を交わした。なにかいいたげな口元のバズ。ロザリィは鼻で笑った。
「あんたが人助けなんてガラかって言ってんの。いつだって余裕なさそうなのに、他人のこと気にかけてる余裕があるわけ?」
「夢見ることのなにが悪いのさ? 夢に逃げなきゃやってられないんだよ。現実は……情けなくて、つらくなる」
「つらい? だったら諦めればいいのよ。『格好いい自分』になることを」
「そんな簡単に諦められるもんか」
 吐き捨てるように言う。ロザリィにはその気持ちが少しだけ理解できた。バズと同じように夢を見ていたから。『一家団欒』などという些細な夢でさえ叶わなかった。諦めていたからこそ、どれだけ現実を知っても折れなかった。
「甘やかせばいいのよ、自分を。それか、諦める。『そんなのできっこない、無理だ』って。最初は心苦しくもなるでしょうけど、そのうち楽になる」
「それじゃあダメなんだ!」
 その叫びは静寂を切り裂き、一陣の風を呼び込んだ。梢がざわめき、鳥が飛び去る音が続く。バズの瞳に真摯な光が灯っていた。先ほどの敵意とは打って変わって、悔しさを帯びているように見えた。
「……兄さんに助けられるのは嫌なんだよ。だから強くなりたいんだ。誰にも負けない、みんなのヒーローになりたかったんだよ! いつまでも子供扱いしてさ……一人でやれるって思い知らせてやるんだ! 僕の気持ちが、ロザリィなんかにわかるわけない!」
「いまわかった。だからあんたは餓鬼なのね」
「……っ! なんだ、それ」
 彼の瞳に再び鋭いものが宿る。ロザリィは退くこともせず、感じたことを思うさま吐き出した。
「いってることが無茶苦茶なんだもの。私はあんたじゃないんだから、あんたの気持ちなんてわかりっこない。それにあんた、ローグ先輩から離れようとしてるの? だとしたら、どうしてそんなに固執してるのかしら。その時点で一人立ちなんてできるわけがない。つまり――」
 バシッ、と乾いた音が響いた。左頬に走る微かな痛み。しばし呆気にとられていたが、どうやらバズに叩かれたらしい。バズはというと息を荒げ、身体を震わせている。そして自分の行いに気づいてか、ばつが悪そうに俯いた。
「ごめん、熱くなっちゃった……」
「目には目を、歯には歯を。という言葉を知ってるかしら」
 返事を待たず、仕返しする。バズの身体が宙を舞い、叩きつけられた。見事な背負い投げであった。バズは受け身もろくに取れず背中を強かに打ちつけうめく。その姿を見下ろすロザリィの顔は心なしかすっきりしていた。
「女の子に手をあげる男は最低だけど、私だから許してあげる」
「……女の子に勝てないようなやつがヒーローになれるわけないよね。あ、ははっ」
 自嘲気味に笑うバズ。いじけたふうでもなく、心底からおかしくて笑っているように見えた。ロザリィは寝そべるバズのそばに腰を下ろし、空を見上げる。太陽が顔を出し始めていた。夜明けの空は、夕暮れの空に僅かな白が混じったような神秘的な色合いをしていた。
「……綺麗だね」
「そうね。夢で見てた空より、ずっと明るくて爽やか」
 二人はしばらく空を眺めていた。時間の流れが緩慢になり、身体が自然と一つになったかのような感覚に陥る。リラックスできたからか、全身から無駄な力が抜けてく。一分、一秒が何倍にも感じられることは苦痛ではなかったし、安息を得た心身にはむしろ心地好かった。
「……ロザリィはさ」
「ん?」
「諦めることに抵抗はないの?」
「そんなわけないでしょ」
 抵抗がなかったわけではない。最初の諦めは四年前、まだ年端もいかない子供の頃の話だ。そんな幼い時期から、すんなり物事を割り切れていたわけではない。それにいまだって諦めがつかないことはある。『一家団欒』はこの先もずっと抱くであろう願望だし、夢の中でだってバズをどうするべきか迷っていた。
 もし簡単に諦められていたのならロザリィは結末を変えようなどと考えていなかったし、バズは世界を滅ぼしていたはずだ。そうならなかったのは、諦めきれていなかったから。ロザリィにもバズにも譲れない部分があったからだ。
 ロザリィは立ち上がり、そばに停めてあった自転車に跨る。バズも上体を起こした。
「なにがしたいか、じゃなくて、あんたになにができるか。それを考えてみたら?」
「うん」
 適当な相槌だ。いまの言葉に思うことがあったのか、あるいはなにも考えていないのか。問い質すことはしなかった。
「それじゃあ、またあとで」
「うん」
 眩むような朝日に目を覆い、ロザリィは自転車を走らせた。バズを振り向くことはしなかった。
 ……今日はいい日になるかもしれない、なんとなく。

終章:現を生きる揺り篭の子ら

 午前の授業が終わり、思わぬ来訪者が登場した。レドリー・バーンズ、プラスその取り巻き二人だ。
「おい、ちょっとツラ貸せよ」
 昼休みが始まったのと同時にこれだ。友人と昼食を摂る暇さえ与えてもらえないなんて。バズはやれやれと肩をすくめた。教室のざわめきを背に召喚に応じる。
「バズ」
 遠くからロザリィの声がする。バズは足を止め、振り返る。彼女は一言だけ。「やれること、やりなさいよ」とだけ告げた。小さく頷く。早くしろ、とブレザーの襟を掴まれ、半ば引きずられるように人気のないところへ連れ出された。
 やってきたのはあの日と同じ、グラウンドの用具室だ。入念に扉を塞ぎ邪魔者が入らないようにしている。まさか竹刀の一突きで吹き飛ばされるとは思っていなかったのだろう、それはバズも同じだ。
 邪魔者が入らないことを確認したレドリーはにたりと下卑た笑いを見せた。歯並びの悪さが性根の汚さを象徴している気がして、バズはふんと鼻を鳴らした。それが相手の気に障ることはわかっていた。レドリーの表情は怒りに歪み、胸倉を掴まれ壁に叩きつけられた。大きな音がするが、人気のないところなのだから助けが来るはずもなく。
「お前が最初に喧嘩売ってきやがるからよぉ……俺が罰せられることになっちゃったじゃーん? どうしてくれんのマジ!」
 バズはなにもいわない。ただ反抗的な目を向けるだけだ。火に油を注ぐ行為であることもわかっていた。気づけば頬に痛みが走り、用具を巻き込んで倒れていた。
「うっ……!」
「おーおー痛ェ痛ェ、殴った手が痛くて泣いちゃいそうだ」
 それ以上の痛みを味わっている身としては言い返してしまいたい衝動に駆られる。だが、それはバズにできることではない。
 自分にできることとは。考えて、考えて考えて考えた導いた結論はひどくみっともない。だがバズは躊躇いを捨て、叫んだ。
「――助けてっ!」
「ハハッ、カッコわりぃーやつ! 助けて、だってよ! ヒャハハハ――」
 直後、粗末なバリケードごと扉が吹き飛んだ。動揺する男子生徒たち。そのうち一人が緋色の影に襲われて昏倒した。もう一人は喉元に竹刀を突きつけられ、降伏のポーズをとっている。想定していなかった闖入者にレドリーは口をあんぐり開けたまま動かなかった。
「アゼット……寸止めしろってあれほど言っただろうに」
「ローグ先輩。そんなの聞いてる暇がありませんでした」
「走ってる間に何度も言ったはずだが?」
「一つのことに集中すると周りが見えなくなっちゃうみたいなんですよね。不器用なやつなので」
 バズは苦笑した。期待を裏切らない人たちだ、と半分呆れての苦笑いであった。ロザリィとローグなら来てくれると確信していた。
 二人の間からまた一つ影が飛び込んで来て、閃光が瞬いた。それがカメラのフラッシュであることに気づいたのは少し遅れてのことであった。
「はいはーい証拠写真いただきー、こればらまかれたくなかったら二度とバズくんに関わらないことね。オッケー? そしたらこっちからも手出さないから」
「……ッ!」
 掴んでいた胸倉を力任せに振り払って走り去るレドリー。用具室に残されたのは、バズとそのヒーローたち。ロザリィはバズに手を差し出す。
「実にあんたらしい方法だと思うわ。……ま、いいんじゃないの?」
「あはは……どうも」
 バズは申し訳なさそうに笑った。

 ――永遠かと思われた暗闇が彩られていく。久しく忘れていた意識の覚醒に女性は驚いた。カーテン越しに注がれる夕日の色に気づくと、女性はため息を吐いた。夕暮れに目覚めるとは、なんて不健康な暮らしだろうと。美しい紅の双眸が天蓋を捉える。それが自分のために設えられたものだと思い出し、苦笑した。
 ……そんな年齢ではなかったのだけれど。
 これではお姫様だ。天蓋付きベッドなんて、もっと若くて可愛らしい女の子のために使われるべきだろうと、購入時に何度も言ったことを思い出す。強引に推してきた彼はいま、なにをしているだろう。遠い記憶に思いを馳せる。
 部屋に視線を走らせる。長い間眠っていたわりには埃っぽさがない。誰かが掃除してくれていたのだろう。誰かの検討はついている。人として機能しなくなった家主であるにも関わらず、健気なことだ。
 いまこの家には誰がいるのだろう? 女性のふとした疑問は徐々に胸を支配していった。どれだけの期間眠っていたかもわからないのだ、もしかしたら愛しの子供たちは自立し、家にはいないのかもしれない。そうなるとこの屋敷は自分と使用人の二人だけということになる。
 確認したいが身体が思うように動かない。腕を見れば怖気を覚えるほど細くなっており、生命維持に必要なぶんの筋肉しかないような印象だ。これでは誰かがこの部屋を訪れるまで待つしかない。仕方なくベッドに身を委ねる。
 コン、コン。ノックは切なさを帯びていた。どうぞ、と返事をするまでもなく、扉が控え目に開かれる。
 生き写しが現れたかと思った。腰まで届く緋色の髪、紅玉のように深い色の瞳。どこか反抗的な空気を漂わすその少女は動きを止めた。野生動物の対面を彷彿とさせる緊迫感、破ったのは女性自身であった。
「お、おはよう」
 その声は掠れており、とても自分のものとは思えなかった。反応は薄い。たまらず苦笑してしまう。
「……あ、はは。驚かせちゃった?」
「……嘘でしょ?」
 困惑する少女。女性はにこりと笑った。
「本当、本当。ついさっき起きたの、びっくりしちゃった。――頑張ったね、ロザリィ」
 少女――ロザリィはぎゅっと口をつぐんだ。ぶるりと身を震わせ、目から涙を流した。駆け寄って来て、抱きついてくる。長らく忘れていた娘の匂い、女性はその頭を優しく撫でた。
 ……呪いから解き放たれたのだ、私は。ようやく、自由になれたのだ。
 唐突に不安になる。次はきっとロザリィの番。だが、女性は信じていた。彼女ならば、必ず呪いに打ち勝ってくれる。自分の二の舞にはならない、そう思えた。彼女の紡ぐ物語はきっと明るい。
 ……また、新しい詩が書けそう。たとえば、そう。こんな詩。



 ――ギィギと揺れる篭一つ 二人の子供は篭の中

 緋(あか)い少女とくすんだ少年 二人の世界は夢の中

 灰をかぶった少年は問う 「俺は英雄になれるのか?」

 翼はためく鼠が一匹 灰の少年に寄り添った

「心配ないよ」と優しく告げて ずっと隣で見守った

 剣を掲げた仮面の英雄 憧れ抱くは穢れた少年 

 英雄足り得ず外道に至る 堕ちた少年血に染まる

 刃交える魔王と英雄 緋の少女は手を差し伸べた

 穢れの少年微笑んで 手を取り歩く 未知なる道へ――

揺り篭のプリンセス

揺り篭のプリンセス

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 零章:ゆらゆら揺れる籠の中
  2. 第一章:幼き英雄は緋く
  3. 第二章:緋き仮面の奥に
  4. 第三章:夢の果てに
  5. 終章:現を生きる揺り篭の子ら