ずっと昔の話
・これは実際にあったクトゥルフ神話TRPGの前日談を小説として書き起こしたものです。何卒。
世界を滅ぼす因子を持つ一人、月見里夕月がセカイを殺す覚悟を決めた最初で最後の話。
『ずっと昔の話』
「夕月! 見て、虹! 虹!」
お使いに行った帰り。空に架かった大きな虹。引かれていた手。
あの日見た虹がなにいろだったかも、手の温かさももう遠のいてしまったけれど。珍しくはしゃいでいた同じ顔をした姉の、嬉しそうな横顔だけは鮮明に覚えている。
◇
月が見える里。だからやまなし。そんな一風変わった苗字にふさわしく、僕らの名前もどこかちぐはぐだった。羽の月で羽月。夕暮れの月で夕月。一生涯付きまとう、呪縛の様な二人で一人と言う双子の宿命だ。
姉は昔から何でもよくできた。テストはいつだって満点だったし、鬼ごっこで誰かに追いつかれたこともない。もめごとが起こればそこに飛んで行って簡単に解決してしまう。それは生まれ持った才能と言うのだろう。そんな姉が子供の中に混ざること自体、仔猫の群れにライオンが混ざるようなものだ。
そして仔猫たちは彼女に憧憬を抱き、尊敬し。最後には何があっても埋めることのできないスペックの差に絶望する。そして絶望は憧憬を歪曲させ、手近な場所に自分の優位性を隔離するための贄を必要としてしまう。当然の成り行きで、誰にだって想像がつくことだ。
単純に、その贄が僕であったと言うだけでそれは恨むべきではない。当然の帰結で、当然の結末だ。
皮肉だったのは、逸脱した才能を持つ子供を扱わねばならない大人の苦労を誰一人としてわかろうとしなかったことだろう。
その結果として。子供の世界の半分を占める家庭と学校のどちらも、物心つくころには崩壊していた。
『つまんない。こんなの、子供の遊びじゃん』
気性の荒さと口の悪さは母親譲り。趣味の偏屈さと頭の良さは父親譲り。何もかもをほしいままに手に入れた姉は、その天才性をいかんなく発揮して見せた。小学校に上がるより早く学者たちの懇親会や会議に父親に手を引かれて連れて行かれ、中学受験が前提の英才教育を施されていた姉にとって小学校の授業は児戯そのものだった。そしてつまらないならつまらないなりに適当に流していればよかったのに、母親譲りの性格が災いしてか平然と思っていることを口にしていたのだ。
『せんせー。先生より羽月ちゃんの方がセンセイに向いてると思います』
そうして彼女の天才性は、担任教師を教壇から引きずりおろしてようやく止まった。彼女はそこまでしてようやく、自分の持つ才能の異常性と特異性に気が付いた。
人を惹きつけ、狂信者めいた感情すら抱かせるカリスマ性。そのカリスマ性を支え、更に美化する頭脳と恵まれた身体能力。それはもはや小学生の身に余るものでしかなく、彼女は誰よりも早く人に好かれる術を身に着ける羽目になってしまったんだ。それはもはや悲劇でしかない。もしも彼女に一点でも欠点があれば、もう少し人間らしく振舞えたかもしれないのに。
学校と言う箱が最後に壊れたきっかけは錯乱した教員が僕に椅子を振り下ろした事件だったと思うのだけれど、あまり覚えていない。確か僕らが小学校三年生の時の出来事だ。
それらと同時進行で家庭の方も壊れつつあった。偏屈な学者であり、技術者でもあった父は出来のいい娘を殊更に可愛がった。そこには家の血筋しか誇る物が無くヒステリー気味だった母親へのあてつけも混じっていたのかもしれない。そして彼女は、当然のように父親を崇拝した。
それは子供特有の純粋さ。自分の知らないことを知っている大人がすごい人に見える。自分の知らない世界で生きている人がかっこよく見える。そんな歪な純粋さだ。そして彼女は致命的に、自分の知らない領域を知る誰かに対する嫉妬心が欠けていた。
思えばすべてがすべて崩壊へと至るように仕組まれていたのかもしれない。いや。むしろ崩壊することが当然とも言えた。同学年の中でも落ちこぼれだった僕と、学歴は愚か職歴さえも持たない母親を置き去りにするように姉と父親は違う世界にのめりこんでいったんだ。
それは二人のとっても当然の成り行きだった。会話の次元が噛みあわないクラスメイト。低次元で稚拙な教科書。時代遅れの学校教育。そんなものに取り囲まれた姉は、自分の適合できる世界を探す様に方向性の狂った努力を続けて行った。みんなと同じになりたいなら、立ち止まって周りが追いつくのを待てばよかったのに。皮肉にも彼女の天才性は、手を抜くと言うその酷く簡単な所業すら許さなかったんだ。
方向性の狂った努力は父親も同様だった。予算だなんてくだらないものに縛られる大学での研究。遅々として進まない国内の法整備。日々のストレスと上手く行かない現実から逃げるため。もしくは、持て余すほどの才能を持った彼女を現実から逃がすため。父親は娘の教育に誰よりも熱心だった。彼女が持ち帰ったテストもトロフィーも賞状も、何もかも父親は自慢していた。そして彼女もただ一人の「尊敬できる大人」に認められるために馬鹿げた努力を続けていたのだ。
そんな壊れた世界の中で、姉は僕にどこまでもやさしかった。甘かったと言い換えてもいい。
僕と姉は喧嘩らしい喧嘩を一度もしたことがなかった。ちょっとしたいさかいこそあったものの、それは本当にその場限りのもので日付が変わっても続くなんてこともなかったしましてやどちらかが手を上げるなんてこともなかった。それは僕が弱いからとか、そう言う理由からではなくて。喧嘩なんてものは、どこかで対等な相手じゃないとできないものだ。普段人の心を覆っている色んなものをすべてはぎとって、剥き身の感情でぶつかり合わないとできっこない。だから痛くて、何処かが苦しい。
僕と姉さんは対等じゃなかった。だから喧嘩すらできなかったんだ。
『お待たせー』
『はーちゃん遅いよー!』
『あはは、ごめんごめん。な、今日は夕月も入れてもらってもいいかな?』
『いいよー』
姉に手を引かれて、放課後に公園に遊びに行っても。彼女に肩を叩かれるまで顔を上げることすらできやしない。
僕は生まれた時から誰かと話すと言う事が極端に苦手だった。相手の目を、表情を見れば。何を考えているか。笑顔の下で何をしているか、知ってしまうから。
子供特有の残酷さを直視するだけで苦痛なのに、遊んだり話したりなんて無理に決まっていた。いつもいつも口を開いても言葉が出てこない。まくしたてるような相手の口調が、どうしても怖い。
そんな僕でも、この性格を引きずったまま今まで生きてこれたのは姉のおかげだろう。極端な人見知りと上がり症、特技と呼べる特技も趣味ない。完璧すぎる姉の唯一のお荷物だ。
それでも姉は、何処までもやさしかった。
『夕月ー。おまえ、たまには友達と遊べよー。おれじゃなくてさー』
『……やだ』
『やだじゃないー』
『……姉さんこそ、休日ぐらい……家にいてよ』
『んー。プリンくれたら考える』
『ほんと?』
『あはは、ほんとほんと』
普段が大人びているせいか、笑うと姉は急に幼くなる。僕や幼馴染の前でだけ見せるその無邪気な笑顔が、僕は嬉しかった。友達と遊んでいるときとも、大人に混ざっているときとも違う笑顔。それを見るたび、僕は姉にとっての特別なんだと思わせてくれて。
何もできない出来損ないみたいな僕にも、ここに居て良いんだと思えて。
そしてそれが姉であると、僕は何の屈託もなく信じていた。絶対的な庇護の象徴として。まるで神様のように。信じていた。
全て崩れ去ったのは、僕らが十歳になった年の事。
僕は自分の性格も何もかもを、嫌悪こそすれ直そうとすらしていなかった。
どんなに困っても、いつかは姉が助けてくれる。そう信じてやまなかった僕の性格はいつまでたっても変わりはしなかった。
僕と姉はそこでクラスが離れ、僕は知らないヒトばかりの教室の中で一人になった。別に、一人でいることは苦痛じゃなかったし話し相手がいないのも話すこと自体が苦痛の僕からすれば楽でよかった。
だけれど“あの”月見里羽月の双子の弟と言うだけで好奇の目は向く。そしてあの天才児の双子の弟がどうしようもない落ちこぼれであると分かった瞬間に、好奇の目は侮蔑の色へと変わった。
はじめて、そこで作り笑いを通しての間接的なものではなく。純粋な、むき出しの悪意に触れた。
傷つければ血が流れ、いつか死ぬと分かっているのに。それでも平気で傷つけるいきものが、怖かった。恐ろしかった。同じ生き物なのに。人間なのに。傷ついているのに。平然と、殴り続ける。そんな無邪気な生き物が、怖かった。
そんなことをするやつが怖い。
そんなことをするやつが平然と存在する世界が怖い。
そんなことがあっても平気で時間が流れる世界が怖い。
何をされていたって救われない。その現実が怖い。
そんな事、知りたくなかった。
世界に自分が一人ぼっちだなんて、知りたくなかった。
「夕月」
部屋に閉じこもり、声を殺して泣いている僕を見つけたのは姉さんだった。
声色だけで分かるほどに、姉さんは怒っていた。苛立っている、と言う方が正しいかもしれない。
「……あのさ。俺がいつか、助けてくれるとでも思ってた?」
「え?」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
姉によって暴き出されたもの。それが当たり前の様にそこにあって、優しくて暖かいくせに浅ましいもの。余りにも情けない。なのに、捨てる勇気は持てない。そんなあまりにも愚かな、
「俺は助けないからな」
「絶対に」
神様に捨てられた世界は、色がなくなって見えた。
信じていた。いつか助けてくれるって。いつでも味方でいてくれるって。
本当は世界で一人ぼっちだと分かっていたくせに、それを認めたくなくて縋っていたんだ。
誰かが。姉が、迎えに来てくれると。救い出してくれると。
本当に助けてほしいなら声を上げればいいのに、わざわざ待っていたのだ。
助けてほしくてたまらないのに助けてと声を出すのは嫌で。言わなくても、理解して助けてほしいだなんて。
多分こういった思いは誰もが抱くもの。ただおかしいのはこんなどうしようもない思いを同じ年の人間に押し付けていた僕。そしてこの日までその思いを裏切ることのなかった姉。
その瞬間、幻想が打ち砕かれた気がした。現実を知ってなお、幻想に縋り付いていたかった。
だから僕は、たった一人で家を飛び出した。一人になりたかった。一人ぼっちだと、知っていたのだから。分かっているのだから。だから誰もいない場所で、本当に一人になりたかった。
知らない道を進んで、誰かに会うたびに逃げるように走って。走って、走って。帰り道すらわからなくなってから。住宅街と河原の隙間に埋まるようにぽつんと佇む廃公園へとたどり着いた。
いつから見放されたのかもわからないその場所は、立ち止まって注視しないと公園とわからないほどに荒れ果てていた。くるぶしまですっぽりと覆うほどに伸びた雑草に埋もれるように錆びたブランコとネジのはずれた滑り台が置かれ、動かなくなったシーソーと鉄枠しか残っていないベンチが横たわる。まるで大きな動物が死んでいるような錯覚。
僕はゆっくりとその公園の隅に蹲り、目を閉じる。ここならだれにも見つからずに済む。
もういっそ、ここで消えてしまった方が楽なんだ。
『俺は助けないからな』
そんな残酷な言葉に、全て壊された気がした。全てを殺された気がした。
どうしようもないのに。僕だって好きでそうしているわけじゃないのに。
怒り方が分からない。他人の責め方が分からない。怒る、だなんて感情を表に出すことすら異様にしんどくて。他人を責めるほどの言葉を見つけるほどの気力も残されていなくて。
結局、他人を恨むくらいなら自分を呪った方がずっと楽だった。
人を傷つけることが怖かった。自分が受けたような痛みを、誰かに与えることが怖かった。そして何より、誰かを傷つけたことに後悔することが怖かった。
結局全部自分のため。苦しくなりたくないから。後悔したくないから。自分の身を守るために作った壁に押しつぶされて死にかけている。その苦しみを何かで克服すればいいのに、そこで結局誰かを頼っている。
そして絶望する。こんなに我慢しているのに、なんで誰も助けてくれないの、って。
助けてもらえない未来を自分で作って、一人で怖がって声も出そうとしないくせに。
そうやって絶望して。死ぬしかないって、自分の未来を閉ざす。
「おい。おいこら、起きろそこのバカ。風邪ひくぞ」
でも。そんな行き詰った時に限って、妙な奇跡は訪れてしまうのだ。一人になりたかったのに。一人のまま、消えてしまいたかったのに。
気の強そうな少女の声に、僕はたったいま目を覚ましたかのような動作でゆっくりと身を起こす。なんで迎えに来たんだと、言いかけた言葉は
目の前に立つ少女が姉ではないと知った瞬間に、行き場を無くした。セミロングの茶髪に同じ色の瞳。気の強そうでどこか中性さすら持ち合わせた表情に、オレンジ色のパーカーと半ズボンにスニーカーと言う出で立ちが良く似合う。そして当然のように。彼女の目を見上げた瞬間、見えてしまった。
警戒心の強い猫の様な瞳。誰も私を理解してくれない、と言わんばかりの刺々しさ。神聖さすら伴う脆さ。それらすべてを纏った、ゾッとするほどの存在する次元の差。姉が天才ならば彼女は全能だ。それほどまでに、存在する次元が違う。
スペックだとか才能がどうこうという話ですらない。追いつけるとか追いつけないとか、手が届く届かないなんて稚拙な世界じゃない。
僕は皮肉にも。この時初めて、姉が父親に抱く感情を理解したんだ。
「どうした? オレの顔、何か足りないものでもある?」
そうおどけた表情で問いかける少女に、僕は慌てて首を横に振る。僕はこの言葉を聞いて尚、彼女が僕と対等な地面に立っていると言う事が理解できていなかった。
しばらく彼女は僕の目を覗き込んだ後、不思議そうな表情で僕の目の前に屈むとさらに至近距離でじいっと猫のように目を覗き込む。まるで眼球の底に触れられるような感覚。僕は目を大きく見開いたまま、瞬き一つできない。
「……おまえ、見えてんの?」
「え、……あ、ぅ」
「ふぅん……」
彼女の問いかけに、まともな言葉一つ返せない。彼女はしばらく視線だけで探るように僕の目を追いかけ、やがてゆっくりと目を大きく見開き始める。
そして。気付けば、僕もそれにつられるように限界を超えて目を大きく見開いていた。
「……ぅ!?」
「ああ……うん。面白いやつ」
くすり、と彼女は同い年の少女とは思えないほど嫣然と笑う。そこでやっと呪縛から解放された僕は、彼女の言葉の意図も理解できないまま息を切らせていた。
初めて、だった。姉以外に、見えていることが看破されたのは。そしてそれと同時に、言いようの無い恐怖心すら感じていた。
姉と似ていれば似ているほど。姉から遠ざかる、この化物じみた少女に。
「……なに、腰でも抜けてんの?」
「いや、ちが……」
「なんだ、しゃべれるじゃん。ほら、」
そう言いながら彼女は何でも無いような動作で僕に手を差し伸べる。その何でもない仕草が、僕らの間にある決定的に大きな差をいとも簡単に埋めてしまう。
恐る恐るその手を握ると、彼女は少し重そうな動作で僕の手を引っ張って立たせる。その手や肩は姉よりも細く、背もやや低い。足に至っては棒の様で、喧嘩に巻き込まれれば簡単に折れてしまいそうだ。
それでも。姉よりも脆い彼女に見出した神聖さは、彼女を特別な存在に見せていた。
「オレはアリカ。おまえは?」
「あ……えっと、月見里、夕月」
「ふぅん、夕月ね。で、なんでここに?」
「……え、っと……その、」
至極当然のように。子供として当たり前の会話を重ねる彼女に、アリカに。なぜか、僕は他の人に感じるような恐怖心は感じなかった。むしろ、返事を一つ一つ待っていてくれる彼女に微かな安心感すら感じ始めていたのだ。
家を飛び出した経緯を話して。止まらなくなって。学校の事、家の事も普通では初対面の人に話すべきではないことまでまくしたてるように話して。ようやく冷静さを取り戻すころには、暮れかけていた日は既に沈んでいた。
「ふぅん……なんだ、そんなくだらないことに悩んでこんなとこまで来たのか」
「……」
生まれて初めて、自分の言葉だけで何もかもを伝えて。そんな簡単なことを、彼女は理解しきっておきながらそれをくだらないことと彼女は平然と言い切った。
「で、おまえはどうすんの? 見放されて、姉ちゃんのこと嫌いになった?」
じっと僕の目を見上げる彼女に、ほんの少しだけ圧倒される。なぜか、嘘を言っても無駄だと直感していた。
僕は少し考えた末にゆっくりと首を横に振る。
「忘れてるかもしれないけど、おまえの姉ちゃんは人間だ。カミサマなんかじゃない。傷つけば痛いし無視されれば悲しい。おまえは姉ちゃんがニンゲンだってわかって、失望したか?」
再び、首を横に振る。
そんなことわかりきっている。分かっていて、僕は知らないふりをしていた。
僕の知っている姉さんはいつも飄々としていて、何でもそつなくこなす。そしてなによりもやさしい。
いじめなんてものは対象を自分と同じ感情のある人間と思っていないからできること。だけど、僕もきっと姉さんを人間として見ていなかった。
惜しみなく優しさを降り注いでくれるカミサマであり、正義の味方みたいに思っていた。
姉さんが何かに悩んだり。悲しんだり。痛がったり。ましてや泣いたりするなんて考えたこともなかった。それを感じさせない事こが、姉さんの一番優しいところだっただけなのに。
僕は救われてばかりでそれが当たり前だった。たとえ、じゃあ姉さんの悲しみは誰が救うんだ? と問いかけられてもその質問の意図すら理解しなかっただろう。
そんな僕だから。きっとどうしようもなく行き詰るまで、考えようともしていなかった。
「じゃあ、おまえはやっぱり死にたいか? 救いが無くなったなんて、くだらない理由でここで死ぬか?」
そして彼女は、誰も踏み込まなかった一番深い場所に簡単に踏み込んで見せた。
「そんなくだらない理由で、姉ちゃんを泣かせたいのか?」
……ずっと思っていた。心を許せる幼馴染がいて。愛してくれる父親がいて。ちやほやして、絶対の信頼を預けてくれる友達がたくさんいて。そんな姉さんのそばに、本当に僕は必要なのかって。
僕ら双子は二人で一つ。でも姉さんは、一人で完結していた。空っぽの片割れなんて必要としないほどに、強い、はずだった。
でも本当は弱かった。無邪気に笑えないほどの虚飾に、潰されるほどに。それを知っていたはずなのに、僕は自分の痛みしか見えてなくて。
本当は知っていた。気づいていた。自分がいるだけで、どれだけ人を傷つけているか。
自分が消えることで、どれだけの爪跡を残してしまうか。
知っていたはずなのに。
「な。かんたんな話だろ? じゃ、家に帰るか」
そう言って、彼女は笑って僕の手を握る。日はとっくにくれていて、公園は足元すらよく見えないほどに暗い。そのはずなのに、彼女はまるで見えているかのように躊躇なく僕の手を引いて歩き始める。
僕より体温の低い手は、姉によく似ている。
「……ありが、とう」
「ん、どういたしまして。なに、魔女の暇つぶしだよ」
彼女はそう、唄うように言った。
大したことではないと言わんばかりに、さも当然のように。
……そう。最初に、目を見た時から知っていた。彼女は、魔女だ。そしてそれと同時にカミサマだ。手なんて届くはずがない。なのに、今は僕の手に触れている。そんな矛盾が、どうしても痛くて眩しい。それは姉に抱く感情に、よく似ていたけれど何かが違った。
「うん……知ってた」
「ちぇ、面白くない。まぁいいや、胸張ってジマンしろよ」
世界にたった一人の。誰よりも人間が大好きなカミサマは、胸を張って誇らしげに高らかに宣言した。
「おまえには魔女の友達がいるんだぞ!」
だから一人じゃない、と。
一人ぼっちじゃないんだと。
◇
こうして僕と魔女の、アリカの一人と独りの交流が始まった。
放課後。廃公園で二人、とりとめもないことを話す。アリカの言う事はいつだって難しくて、僕はあんまりよく理解できなかったけれど。
僕はアリカの事を敬意をこめて魔女と呼んだ。彼女は魔女。炎を従えた偉い偉い魔女。姉さんの持っていた本の中に載っていた焔(ほむら)という字がかっこよかったので、焔魔女。彼女はそう呼ぶたびに、少し恥ずかしそうに。それでも誇らしげに笑った。
こんな不思議な交流は中学校二年生の夏まで続いて。
ある日、唐突に途絶えた。
単純な話。僕はまた行き詰った。父親が消え、三人になった家庭は純粋に地獄でしかなかった。姉さんに罵声を浴びせる母親。気丈に取り繕い、父親の悲願だった中学受験も何もかも手放してそれでも明るく振る舞う姉さん。そして、僕の目……霊能力に気づいて、自分のためだけに僕を利用する母親。
……大丈夫。僕は何も痛みなんて感じなかった。大勢の前に引きずり出されても。刺さるような好奇の視線も、嘲笑も陰口も。姉さんのためならと耐えた。耐えれるはずだった。ただ、僕は。母親の浴びせる汚い言葉が。姉さんの努力も何もかもを、何も持たないくせに踏みにじったあの目が。どうしても、許せなかったんだ。日々憔悴していく姿を見るのが耐えられなかった。そんな姿、見たくなかった。知っていた。姉さんだって、傷つけば痛いし血を流す。血を流しすぎれば、いつか死んでしまう。
だから。僕は
大丈夫。僕は一人ぼっちじゃないから。
もう一人じゃない。何もできない、部屋で膝を抱えて死を待つだけだったあの日の僕はもう死んだ。
父親が家に置き去りにした工具の中からバールを持ち出す。リーチも重さも十分で、この時ばかりは父親の偏屈ぶりに感謝した。いや、でももしかすると。
「……こうなるってわかってたのかな」
父さん、と心の奥底で呟いた。大丈夫。姉さんの敵は僕の敵だから。姉さんを殺すような奴は、絶対に許さない。
……昔。姉さんは、ずっと一人で痛みに耐えていた。いろんなものを背負い込んで。重荷につぶされそうになりながら、一人で胸を張って戦っていた。
今度は僕の番だ。
自分の部屋で安楽椅子に座り、テレビの真ん前を陣取って下品なバラエティ番組を見て大声で笑う母親の真後ろに立つ。あとは、簡単。振り上げて、叩き付ける。
それだけで人は死ぬ。
それだけ。
ひとつ、僕に誤算があったとすれば。
僕は自分の意志で行動したつもりでも、結局は誰かに責任と、何もかもの感情を押し付けて。排除という一番簡単で安楽な方法を取ることでしか行動できない。
そんな簡単なことに、彼女に指摘されるまで気づけなかったんだ。
「……馬鹿だろ、お前」
アリカは、初めて見せるような不機嫌な表情でそう吐き捨てた。
理性が内側からはがされるような感覚。背筋に走った悪寒と、フラッシュバックする光景に動くことすらできない。
『俺は助けないからな』
あの日の、姉さんの目と。同じだった。
姉に見放されたと。それだけの理由で死のうとしたあの日、アリカに出会った。
今度はそのアリカに、おんなじように見放された。そんなの、僕にはどうすればいいのか。今度は誰に縋ればいい。今度は誰に助けを求めれば、
「結局逃げて、自分の居場所を削ってるだけだ。この馬鹿が」
心の奥底から、吐き捨てるように。何故だろう、その声音はどこか悲しそうで。何故だか、その表情は今にも泣きそうなほど歪んで見えた。
そんな表情、見たくない。唯一姉さんを越えて見せたカミサマなのに。カミサマなのに。魔女なのに。誰よりも、何よりも強いはずの魔女なのに、どうして僕一人の為にそんなに苦しそうな表情をするんだろう。
「……アリカは」
だから。僕は愚かしくもそう言ってしまった。魔女の優しさも。感情も。アイも。何もかもを踏みにじるように、子供のように。生きる次元が違うと知っているはずなのに、まるで同じ土俵に立っているような横暴さで叫んだ。
「アリカは、魔女なんだよね? じゃあ奇跡を起こしてよ! 出来るでしょ!!」
手遅れだよ。誰かが笑う声が聞こえた気がした。助けて、ですら無い悲鳴にアリカは答えない。答えられない。
そう。だから、本当に行き詰まり。もっと早くに誰かに助けを求めていれば違う結末があったのかもしれない。でも、もう手遅れなんだ。どうしようもない袋小路で僕は行き詰って。幻想も何もかも打ち砕かれて。
僕は、アリカからも逃げた。その後のことは、よく、覚えていない。
◇
もしもの世界の話。
僕が姉さんを守れるほどに強かったら。別の方法を思いつけるほど頭が良かったなら。
いや、むしろ。たったの一度でも、母親の罵声を遮って言い返せるほどの勇気があったなら。僕たちはここまで狂わずに済んだのかもしれない。
最初から僕が存在しなければ、世界は狂わずに済んだかもしれないのに。
世界は、こんなにも輝いていたのに。
それでもきっと世界は変わらないのかもしれない。世界は実際誰も必要としていないのだろう。大統領が死んだって、世界は回る。世界が必要としてるのは一人じゃなくて社会だ。
だから僕個人の嘆きなんて。どんなに泣いて叫んだって。苦しんだって、関係ない。
ただ、もしも。もしもの話。
逃げずに立ち向かって、何かが変わるのであれば。
僕は今度こそ、間違わずに何かを選んでみたいと思う。
世界に死ねと言われて。僕は、そう思った。
廃公園は、いつまでたっても変わらない。一度時間から取り残された場所は、永遠にこのままなんだとアリカは言っていた。
「アリカ」
彼女は背を向けたまま続きを促す。あの日、僕らが壊れた時と全く同じ場所に立って。僕は最後になるかもしれない言葉を交わす。
「誰かが死ぬことで、変わる世界ってあるのかな」
「……阿呆。死んだらそこで行き詰まりだ。変わるのは生きている間だけだよ」
アリカは、表情一つ変えない。
世界に死ねと言われても。愛したものに殺されそうになっても。誰も恨まない、誰一人として憎まない。自分を責めることすらできず、ただ最後まで愛した人たちの行く末だけを心配している。
誰よりも不器用で。誰よりも、人間が大好きなカミサマだった。
「じゃあ、誰かが生きることで殺してしまう世界ってあるのかな」
「……自分の居場所は、何かを殺して作る物だ。他人然り、自分然り」
その言葉に「ありがとう」とだけ言って、僕は廃公園を後にする。たぶん、これでこの王国にはもう戻らない。
最後の最後、僕はただ一度だけ振り返って。
一番伝えたかった言葉を、口にした。
「ばいばい、アリカ。楽しかったよ」
不思議と、涙は出なかった。それは在処の後ろ姿がどこか泣き出しそうなほど脆く見えてしまったからなのかもしれない。
アリカは、背を向けたまま返事をしなかった。たぶん、その方がよかった。これでいい。
これが終末の前日談。
世界を滅ぼす因子を持つ一人、月見里夕月がセカイを殺す覚悟を決めた最初で最後の話。
ずっと昔の話
月見里夕月:NPC
月見里羽月:NPC
久遠在処:NPC
収録日:無し