八月のババァ

普段見えないものが見えるとき、気づかぬうちに境目にいるものである。例えば、一学期と夏休みの境だとか。

 「なー、宿題どうするー?」
 「明日終わらせようぜ」
 「何で明日」
 「お前が終わらせようって言うから」
 「俺はそんなこと言ってないよ、31日にやっても良いんじゃね」
 「でもさー、だるいのが残ってるって思うとさ、気になって遊ぶのに集中できなくね?」
 「お前塾あるんじゃねぇの」
 「今年は行かなくていいって」
 突然蝉の合唱がはじまって、二人は足を止めた。芳樹は右手にある神社の森を見上げた。自分の年齢の何十倍も生きてきた、大きな木ばかりだ。良光は自分の左手に墓地があるのに気づいた。こちらはお寺の敷地である。グリーンのフェンスに囲まれた先に、卒塔婆やら墓標やらが静かに並んでいる。蝉の声は頭の上から降ってきた。
 「うるせぇな」
 良光は言ったが、芳樹の返事はなかった。見ると神社の森をじっと見つめている。
 「あっ」
 芳樹が小さく叫んだ。どうしたのかと聞いてみると、誰かいたと言う。良光はそんなわけはないと思った。小さな街だ。人通りは多くないし、家もまばらだ。小学校と中学校が並んで建っていて、その裏には神社とお寺がセットになっている。他は田んぼで、そこを抜けると住宅街だ。わざわざ田んぼを抜けてこちらまで来るなんて、生徒以外には考えられない。陽は山の陰に落ちようとしていて、夕日が道の真ん中の二人を照らしていた。そんな刻限では、なおさらだった。
 「ばぁさんだった。白い着物を着たばぁさんだった。森の中を走ってた」
 「そんなわけあるか」
 良光はそう突き放してみたものの、頭がぐるぐると回るような感じを覚えていた。それは芳樹も同じに違いなかった。
 「怖いのか」
 芳樹がそう言ってきたので、良光はすぐにこの友人が自分をからかおうとしているのではないかと思って、
 「お前こそ、騙そうとしてんじゃないだろうな」
 「いや、嘘じゃねーよ。本当にいたんだよ。真っ白い着物の、痩せたババァだった」
 「着物なんて、あれだ、あの角のお琴の先生くらいしか着てねーだろ」
 「あの人は五十くらいだろ。もっと上だった。もう本当にババァ。七十か、八十くらい、もう死んでもおかしくないような年だった」
 二人は神社の境内を抜けて、田んぼの真ん中のあぜ道を通って帰るのである。住宅街の入り口には「おこと教室」という看板があって、そこの先生は少し変な人だという噂だった。しかし、その人ではないと芳樹は言っている。
 「お前、からかってたら殴るからな」
 「いや、ホントだって」
 二人は自然と鎮守の森の中に入っていった。いまどきの子供は神社の境内で鬼ごっこなどしないから、二人がそこを通り抜ける以外の目的で足を踏み入れるのはほとんど始めてのことだった。

 蝉の声は鎮守の森からしてきていたことがすぐにわかった。もう日が落ちるというのにまだ鳴いていて、耳が割れそうだった。二人は石造りの参道に出ると、真っ直ぐ本社の方に歩いていくことにした。敷き詰められた石の道は二人を誘っているかのようであった。
——がらん、がらん、がらん、がらんがらん……
 そんな音が聞こえてきたのは手水場を通り過ぎようとしたときだった。二人は顔を見合わせ、固唾を飲んだが、歩みはもう止まらなかった。本殿の前には大きな桜の木があって、今は緑色の葉を茂らせていたから、賽銭箱の前で何が行われているのかはわからない。もっと進まねばならなかった。
 二人は頭が痛くなってきた。蝉の声が耳を割らんばかりにしていたし、それが一時止んだかと思うとあの鈴の音が聞こえてくるのだ。それでも互いの視線を感じ合っていると、帰ろうと言うことはできなかった。少年らしい見栄が、彼らの背を押し続けていた。

 本殿に近づくにつれて白いなにかが見えてきた。良光の言ったことは本当だった、ああ、これはよくない、行くのはよくない、芳樹はそう感じはじめていたが、引き返そうと言いだすことができない。二人は進んでいく。もうそれは誰の意志でもなかった。進んでいく……
——がらん、がらん、がらんがらん、がらん……
 鈴の音はずっと鳴っていた。蝉の声にかき消されている時もなっていたのだ。それに気づいて、二人はぞっとした。普通、鈴を鳴らすのはすぐに終わるものだから。
 二人は本殿の桜の近くまで来た。賽銭箱の前はよく見えない、しかし鈴の音はまだ続いている。
——がらん、がらん、がらんがらん、がらん……
 一歩、二歩、三歩、四歩、二人は少しずつ前に進んでいった。桜の前を通り過ぎたとき、ようやっと本殿の前が見えた。
 白い着物に赤い袴の若い女の人が竹箒をわきに立てかけて、鈴の紐を何度も揺らしていたが、どうやらそれは紐が古くなっていないか確かめているだけのようで、二人は胸を撫で下ろした。
 芳樹が言った。
 「うそつき」
 良光が言う。
 「うそじゃない」
 「うそだ!」
 二人が取っ組み合いの喧嘩を始めんばかりにしていると、それに気づいた巫女さんが本殿の前から笑いかけるように言った。
 「どうしたの、どっちがうそつきなの?」
 「こいつだよ!」
 二人は思わず同時に叫んだ。
 「二人ともうそつきなの?」
 巫女さんは屈託なく笑ったので、二人の興奮はあらぬ方に逸れてしまった。
 「どうしたの? おねえさんに教えて?」
 優しく言われると二人はもじもじしてしまって、上手く言えなかったが、
 「こいつがさ、白い着物の人がいたって」
 芳樹が言葉を絞り出した。上手く言えない感じがしていた。
 「白い着物?」
 巫女さんは楽しそうに自分の着物を指した。
 「違うよ! 全身真っ白で、そう、ババァだったんだよ!」
 「ババァなんて、言葉が悪いわ」
 そうたしなめられる。二人は少し冷静になって事情を話した。森の中に白い着物のおばあさんがいたこと、それが物凄い勢いで走っていったこと……
 「わたしは見てないわ」
 巫女さんが言うと、二人はそんなはずはないとまくしたてた。それでも彼女は笑っていて、その笑顔は優しく、奇麗で、本当らしかった。
 「今日はもう帰りなさい。遊びすぎて疲れたのよ。お母さんがご飯を炊いて、お風呂を炊いて待ってるわ。帰りなさいよ。お布団で寝て、明日から夏休みを満喫したらいいわ」
 それで二人はすごすごと帰って、次の日に宿題を終わらせ、八月は遊び呆けて過ごした。

 新学期になった。同級生も二人も、こんがりと陽にやけてまだ夏休みが続いているかのようだった。大分前に終わらせてもう何を書いたかわからない日記帳やらを提出し、退屈な先生の話が終わったとき、芳樹はふと同級生にあの神社の神主の息子が居ることを思い出した。なぁ竹里、芳樹は何気なく彼に尋ねてみたつもりだった。
 「奇麗な巫女さん、いるよな」
 彼は小首をかしげて言った。
 「巫女さん? お手伝いさんじゃなくて?」
 「いや、巫女さん。終業式の夕方に、良光と会ったんだ。鈴を見てた」
 「七十歳くらいか?」
 「いや、若いくて奇麗な」
 神主の息子は眉間に皺を寄せて、
 「うちに巫女さんはいない。正月とかはバイトで来るけど……普段はお手伝いのおばあさんだけさ……でもそれも、年で頭が変になっちゃって、八月一日に辞めちゃったよ」
 そう告げたのだった。

八月のババァ

八月のババァ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-19

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