いらない街の小劇場

 近い未来、ある地方都市。
 
*三月十九日*
 本江基哉はすこし苛立っていた。市役所の薄暗い待合室で名前を呼ばれるのを待ち始めてから三十分が過ぎようとしている。
基哉は所々穴のあいている座り心地の悪いソファに腰掛け、何をする訳でもなく、壁にかかっているデジタル時計を眺めていた。
ソファの脇に置いてある雑誌類はどれも見た事のないものばかりで、興味をそそられる物ではない。待合室には古い大型のテレビが一台置いてあるがチャンネルはテレビの真正面に座っている老婆が握っている。
基哉は大きく欠伸をした。暇をつぶせる物の少ない場所での三十分は長い。
それからしばらくしてようやく名前が呼ばれる。基哉は立ちあがり、職員に文句の一つでも言ってやろうかと思いながら窓口へと向かう。しかしそんな荒々しい気持ちも、窓口までのわずかな距離の間に委縮し、冷めてしまった。
 窓口の前に立つと、基哉は番号札を職員に見せた。職員はその番号札を確認し、それから一枚の紙片を基哉に差し出した。
そこには『特別労働申請受理証』と記されている。
「ええと、本江基哉さん。名前、住所などは間違っておりませんね」
 職員が紙面の数か所を指で指示した。基哉はそれらの場所に軽く目を通す。
「はい大丈夫です」
「そうですか。では、こちらにも書かれていることですが、ご説明します」
 職員は紙片のある場所を指さした。そこには、これから基哉が働く部署と、仕事初日の日付が書かれている。
「今日から約三週間後の四月十二日から業務開始となります。当日、朝九時にこちらに書かれてある場所、この市役所の二階、土地利用課にいらしてください。その際、この受理証と何か本人確認が出来るものが必要となりますので、忘れずに持ってきてください」
 土地利用課。その言葉を聞いて基哉の表情は自然と不満げな物になる。それに気づいたのか、職員が基哉に尋ねる。
「何かご質問や分からない点はございませんか」
「土地利用課……。たしか、そこの部署には希望していなかったはずですけど……」
 職員が基哉をさえぎるように口を開く。
「申し訳ありません。今回、本江さまが希望あれた部署はどれも募集超過の状態でした。よって、誠に申し訳ありませんが、本江さまは空いている部署の方へまわっていただくことになりました」
「そんなに募集人数が多かったんですか?」
「ええ、そうです。昨今の不況のあおりを受けまして、特別労働を申請する学生の方は大幅に増えております。今年は我々の方としても受け入れ部署を急きょ増やしたほどです」
 職員の言い方は、自分たちとしても最善を尽くしたんだと言いたげだ。
「ですので、どうかご容赦ください。どうしてもこの部署が嫌であるのなら、特別労働申請を取り消すこともできますが?」
「いえ、それは結構です」
「そうですか」
 職員は少し残念そうな表情をした。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「はい、何でしょう?」
「募集過多の部署の採用方法はどうしたんですか?」
「抽選です」
 職員は簡潔に即答しながら、受理証を基哉の方へ寄せた。もう話は終わりと言わんばかりに。
抽選で落ちたのなら仕方が無い。基哉はそう思った。昔から、くじ引きでいい結果を得た事は無かった。
基哉は受け取った受理証を無造作に四つ折りにして、ジャンパーのポケットに突っ込み、窓口を後にする。背後で職員が「ありがとうございました」呟くように言うのが聞こえた。
基哉はそのまま市役所の出口に向かう。薄暗い市役所は気分が鬱になるような気がした。
 市役所を出た基哉は外のまぶしさに少し目をしばたたかせた。時刻は正午を少し過ぎたころ。とはいえ季節はまだ春なったばかり、そのうえ空には薄曇がかかっているので日差しは強くない。
 それでも目がくらむのはやはり市役所の中が暗かったからだろう。
基哉は駅の方に向かって歩き出す。市役所から駅までの道のりは基哉には歩きなれた道である。高校生のころは毎日この道を歩いていた。だから、通り沿いのビルの形や、そこに入っている店舗の名前なども知らず知らずのうちに頭に入っていた。
道沿いには飲食店も数多くある。時刻はちょうどお昼時。どの店もお客で満員になっていてもおかしくは無いのだが、実際に満席になっている店はほとんどない。
基哉はポケットから受理証を取りだした。薄い緑色のA4サイズの用紙。細々とした文字が見づらく印字されている。その中で大きなフォントサイズで印字された『労働申請受理証』というタイトル、勤務場所である『土地利用課』が目に止まる。
基哉は所属と記された欄に記入された『学生』の二文字をじっと見つめた。そして再びのため息。
「戻ってくるんじゃなかったな」
基哉はそうつぶやいた。
受理証をポケットにしまおうとした時、突然の強風が基哉を襲った。
その風が基哉の手から受理証をもぎ取る。基哉の手から離れた受理証は風に乗り、宙を舞う。そうして受理証はビルとビルの間の狭い路地に飛んで行った。そこは基哉が今まで一度も足を踏み入れたことが無い路地だった。
少しの間、基哉は受理証が飛ばされるのをぼんやりと見つめていた。頭の中では今朝のテレビの天気予報、春一番が吹くかもしれないとキャスターが伝えている場面が思い起こされた。
そうしているうちにも受理証は地面の表面を這うようにして路地の奥へ奥へと飛ばされていく。やがて基哉は仕事はじめの時に受理証が必要であることを思い出した。
「ああ、やべ」
 一気に焦りが生じ、基哉は思わず声を出してしまった。そしてすぐさま受理証を回収するために、今までずっと素通りしていたその路地に足を踏み入れた。
小走りで路地に入った基哉はすぐさま受理証に追いついて、それをすくいあげるように拾った。それから受理証を何度も裏返しながら汚れなどが付いていないかを確認する。幸い、地面が乾いていたおかげで受理証には目立った汚れは付いていない。基哉は受理証についていたごみを払い落すと、今度は丁寧にリュックの中にしまった。
 一息ついた基哉はぐるりとまわりを見回した。基哉の入り込んだ路地は、哀愁漂うものだった。地面を舗装しているコンクリートはボロボロにひび割れ、左右の建物の壁はどれもくすんだ色をしており、一部苔むした部分もある。
 路地はまだ奥に続いている。路地の先に何があるのか興味を持った基哉はその先に向かって歩みだした。少し進むと、路地は右斜めに折れ、そこからさらに先が続いている。そしてその先は左右二股に分かれていた。二股の所まで行き、向かって右の方を覗いてみると、その先に車の往来が見て取れた。どうやら右の道を行くと面通りに出るらしい。一方左の方は少し奥のところにアーチ状のゲートが立っている。周囲のものと違い、真新しい感じがするのはつい最近建てられたからだろうか。そのゲートには派手な色遣いで『劇場通り』と書かれていた。
 何とも胡散臭いゲートだなと基哉は思った。もしかしたら異世界とつながっているかもしれない。そんな印象を受けた。そして、この先に何があるのかますます気になってきた。
基哉はちらりと右側の表通りに通じる道を見た。そして、わずかなためらいを捨ると、左側に足を向け『劇場通り』のゲートをくぐった。
ゲートをくぐったその先に会ったのは小さな広場だった。周囲を雑居ビルに囲まれているため昼間であるにもかかわらず薄暗い。広場の地面は通路と同じようにひびだらけのコンクリート。広場の片隅には小さな鳥居がしつらえてあり、その奥に祠が鎮座している。その祠にはやたらとたくさんのお神酒が奉納されている。別の隅の方には小さな机や、ドラム缶、明らかにガラクタとしか思えないようなものなどが散乱している。そして頭上には、広場を覆うようにいくつもの提灯を吊り下げたコードが何本も走っている。
 基哉の歩いてきた通路は広場を貫いてさらに奥に続いている。幅はより狭くなり、両脇に立つ雑居ビルからは、飲食店の物と思しき看板が通路にいくつも突き出している。さらにその雑居ビルの屋上にはトタンの板が渡されており、通路をアーケード状にしている。そのトタン屋根の上には何もない。春先の薄曇りでかすんだ空と、少し距離の離れたところにあるビジネスホテルの上半分が見えた。
 異世界につながっていると言う基哉の印象はあながち間違ってはいなかったのかもしれない。そこは基哉の慣れている街の雰囲気とは全く異質の場所だった。
 突然、電話の着信音が辺りに響いた。その不意打ちともいえる出来事に基哉はびっくりして体を振るわせる。それからすぐに音のした方向に視線を向けた。左の方から着信音は聞こえていた。
 その方向にも通路は続いていた。正確には建物をくりぬく形でその建物の中に続いている。その通路の奥に、蛍光灯で照らされて、一人の老人立っているのが分かった。電信音の正体はその老人が持つ携帯電話のようだった。
 老人は今となっては時代遅れの二つ折り型の携帯電話で会話をしながら、脇に止めてある錆だらけの自転車の鍵を外した。それから一言二言喋り大きくうなずくと通話を切って電話を自転車のかごに放り投げた。そして自転車を引きながら出口の方に向かっていく。
広場まであと少しと言うところまで来て、老人は基哉の存在に気づいた。少し驚いた表情を見せた後、基哉の顔をぎろりと睨みつけ、そのまま自転車を引きながら先ほど基哉が通ってきた路地の方へ去っていった。
なんだか不思議なところだ。と基哉は思う。ここは普段歩きなれている大通りからほんの少し離れているだけのはずなのに、場所も時代も全く違うところにいるようだった。
心細くなってきた基哉は元来た道を引き返そうと踵を返した。
「チョット、ソコノ、オ兄サン」
 基哉は心底驚いた。それは声をあげたり、飛び退いたりするという段階を超えていた。驚きと恐怖で思考は完全に停止し、いかなる反応もできなかった。心臓はばくばくと高鳴り、体中から冷や汗がどっとでる。体中が一気に熱くなったと思えば一気に冷える感覚が体を突き抜け、基哉は身震いをした。
 基哉がこんなに驚いたのは不気味な雰囲気に当てられて心細くなっていたためだけではない。それよりも、基哉は自信に向けられたその声に心底驚いたのだ。
 その声はおよそ人から発せられたものではないように思えた。無機質で妙にかすれたその声はそれでいて明瞭で、深く響いていた。どこかで聞いたこともあるような音ではあるが、あくまで音であって、声ではない。だが、今回のそれは声と認知できる辺りが恐ろしく不気味だった。
「フフフ。驚キマシタカ」
 その声の主は基哉が入ってきた通路からはちょうど死角になる位置にいた。だから基哉は振り返って初めてその姿を目にしたわけだが、その装いは基哉をもう一度縮みあがらせた。
 そこには小さな丸椅子と白い布がかけられたテーブル、そしてその奥には全身を黒いドレスで身を包んだ人間が座っていた。顔全体も布で覆われているので、その人物が男か女のかも判断が付かない。
「昼時ハオ客サンガイナイカラ、占ウ相手ナンテ、イナイノダケレド、今日ハ、出テキタカイガ、アリマシタ」
 全身黒装束の人物は基哉の驚きに全く意を貸す気配は無い。
 ひたすら不気味だった。基哉の中でこの場を立ち去りたいと言う気持ちが一層強くなった。しかし、脚は全く動かず、基哉はただただその人物を見つめるだけだった。
「貴方ヲ、占ッテ、アゲマショウ」
一瞬、基哉はその人物が何を言ったのか理解できなかった。しかし今回はその人物の装いが理解を助けた。この人は占い師だ。それならばこの人物の恰好に多少の合点がいった。占い師には非日常的な風体をしているものも少なくない。その理由は定かではないが、神秘性が増し、占いの信憑性を高めるためだと基哉はこの状況で感じた。
「大丈夫、オ金ハ取リマセンヨ」
 無料という言葉に反応したわけではない。しかし、少し落ち着いて、どうにか動かせるようになった基哉の脚は何故かふらふらとその占い師の方へ近づいて行った。そして基哉は机の前に無造作に置かれているミカン箱の上に腰を下ろす。
「サア、左手ヲ出シテ」
基哉は恐る恐る左手を台の上に置いた。占い師は身動き一つせずにいる。逃げ出したい気持ちが無くなったわけではない。ただ、なんとなく基哉はこの占い師に惹かれた。この占い師の言術にすっかりはまってしまった心境だった。
「ナルホド……」
 基哉には占い師は何が分かったのか全くの謎だ。第一、占い師は顔全体を布で覆っているため本当に基哉の手が見えているのかも疑問だった。
やがて、占い師は呟くことも止め、全くの挙動を示さなくなった。こうなると、机の向かい側にいるのが本当に人間なのかも疑わしくなってくる。目の前にいるのは人ではなく、スピーカーか何かを埋め込んだ人形で、ここを通る人物をからかうために誰かが置いたのではないか。先ほどすれ違った老人が少し不機嫌のように見えたのも、これにからかわれたからでは? 基哉はそんなことを考え始めていた。もしそうなら律義に個々に座っている必要は無い。そう思って基哉は立ち上がろうとした。
すると突然、机の上に手が現れ、基哉の左手をつかみかかろうとした。基哉は驚いて、反射的に手をひっこめた。基哉の心拍数がまた跳ね上がる。
「フフフ、オ兄サン。何モ取ッテ捕マエテ食ベヨウッテ訳デハアリマセンヨ」
 その声がますます基哉を不安にさせた。基哉は占い師の顔があるであろう辺りをじっと見つめた。よくよく見ると、確かに厚い布の奥には正真正銘の人の顔があるようだ。しかし、布のせいで表情は全く分からない。
言葉に従うべきかしばらく逡巡した挙句、基哉は改めて手を差し出した。占い師はその手を優しくつかむ。
 その手の感触は若い女性の物だった。やわらかく、ぬくもりのある左手が手首をやさしく包み、右手の細く綺麗な人差し指が手のひらの皺をなぞる。
 基哉の鼓動が今までとは違う理由で早くなる。
「貴方ハ、コノ春カラ、仕事ヲ始メルノデスカ?」
 唐突に占い師が尋ねた。
「ええ、まあ」
 基哉は正直に答える。
「ソノ仕事、貴方ノ理想ト違ウモノカモシレマセン。デスガ、続ケレバ、キットイイ事ガアルデショウ」
 基哉は半ば茫然としてその占い結果を聞いた。占い師は事実を当てた。だが、その事はさほど別に大した意味を持たない。なぜなら、この結果は十分に当たる可能性のある結果だからだ。基哉と同じ年代の若者の中にはこの春から仕事を始める者はそれなりにいる。理想の仕事ではないと言うのも当たってはいたが、占い師は断定的には言っておらず、そもそも理想の仕事に就ける人間はあまりいない。だから、繰り返すように占い師の結果はさほど意味あるものではない。
 それでも、不思議なことに、基哉は自分の心情が完全にこの占い師に見透かされているような、そして的確な忠告を受けたようなそんな気持ちになった。何とも不気味だった。
 占い師はそのあとまた微動だにしなくなった。基哉の手をつかんだまま。
基哉はしばらく待った。占い師がまた何か言いだすのではと思った。しかしそのような気配は一向にない。広場は静寂に包まれる。ビルを挟んだ向かいの表通りを走る車の走行音がかすかに基哉の耳に届いた。
そんなしじまは唐突に破られた。
「おーい、呉羽。飯にすんぞ」
 基哉たちのすぐ隣にある引き戸が音を立てながら開いた。そして、戸の奥から中年の男が現れる。板前のような格好をしており、頭に巻いたねじり鉢巻きと、耳にはさんである煙管が印象的だ。
 いかつい顔が占い師を、次に基哉を見た。そして基哉と目が合う。基哉はとりあえずお辞儀をした。
 男は鼻を鳴らすと、何かをからかうような顔をしてまた建物の中に入って行った。
 占い師の手が基哉の手から離れ、出てきた時と同じくらいの素早さで机の下に引っ込んだ。
「今ノハ、気ニシナイデクダサイ」
 占い師の声に少しだけ動揺が見て取れる。占い師は咳払いをした。
「最後ニ、一ツ。貴方ハ、マタ、ココニ、来ルコトニナルデショウ」
 それだけ言うと、占い師は立ちあがり、机にかけていた布をつまみあげて無造作に丸めた。そして、先ほどの男が出てきた引き戸へと向かう。
その引き戸から建物に入る直前、占い師は顔を覆っていた厚い布を解いた。その下にはさらにスカーフを装着しており顔の下半分が隠れていた。なので、基哉はその占い師の顔上半分しか見ることはできなかった。それでも、その占い師が短髪のかわいらしい女性であることを知るには十分だった。

地方都市とは誤解を招きやすい言葉である。体面通りに取ればその言葉の意味は『地方にある都市』だが、実際には『その地方では都市といえる』といった具合だ。本当の都市に住んでいる人間からすれば、田舎同然の地方都市も数多く存在する。むしろそちらのほうが多い。都会の郊外にある街が地方都市より栄えていることなんてごくありふれたことだ。
 基哉の今いる街もまさにそうだった。北陸の一地方都市。県庁所在地であるにもかかわらず、その廃れぶりはすさまじい。昼時であっても通りを歩く人影はまばら。通り沿いの飲食店にもあまり人は入っていない。
 地方とはもっぱら車社会なので道路にはそれなりの車は走っているが、都会のそれと比べると圧倒的に少ないのは言うまでもない。
 道路沿いのビルは、その階数が十階に満たないものがほとんどだ。その多くが建てられてから数十年以上たっているおんぼろである。外見はモダンな造りのビルもちらほらあるが、この地方都市ではむしろ場違いな雰囲気を出している。
悲惨なのは外身だけではない。むしろ中身はもっと酷い。とある第三セクターの商業施設なんかその内部は空きテナントばかりであり、レストラン街には飲食店が二軒しかない。
 目抜き通りでこのありさまなのだから、一つ路地に入ると、そこはもう都市とは呼べない空間になっていることもある。
 ひと昔ですらそのありさまだったのだから、現在の地方都市の凋落ぶりは痛々しいほどである。
この世の中は活気を失おうとしている。長引く不況は人々から将来への期待を奪い、あちこちで悲観的な展望がささやかれている。
しかもそれは一つや二つの国や地域にとどまらず、全世界に伝播している。
そんな中で、かつての経済大国だったこの国はまだましな方だ。
意地を見せつけた一部の政治家による大胆かつ大規模な制度改革は、ある程度の効果を発揮し、都市圏はそれなりの繁栄を保っている。
ただ、数多くの地方都市はそれら大規模な改革による社会の大きな変化に対応しきれなかった。それらの地方都市は事実上見捨てられることとなった。
活発な経済活動が営まれる本当の都市になりきれず、名産や観光など大きな産業を育てることのできなかった地方都市からは人も、物も何もかもが失われようとしていた。

 基哉の実家は市役所のもより駅から電車で十五分のところにある。周囲は田畑だらけ。それ以外に目立つものは何もない。
技術革新によって多くの作物の工場栽培が可能となった。しかし、稲など一部の農作物は昔と変わらず田畑で育てられている。しかしその生産体制には大きな変化があった。
現在、農家が個人で耕している田畑はごくわずかである。海外の安い輸入品の影響や後継ぎ問題によって、個人で行う農業の体制は限界に達していた。
そこで法律が改正され、農業会社の設立が可能となった。全国各地に造られた農業会社は可能な限りの大規模農業を始め、農業にも機械化の波をもたらした。
基哉の実家も数代前まではそれなりの面積の田畑を有していたが、今ではそれらすべてを農業会社に売却してしまっていた。だから基哉は田舎の米どころの出身でありながら農業や米作りに関する知識は皆無と言っても過言ではない。
 最寄りの駅から実家までの細い道。両側を田畑に囲まれたその道を自転車でこぎながら基哉は進む。
 ちなみに、基哉の家から街の市役所までは直線距離にして五キロも離れてはいない。
田舎と都会では何もかもが全然違う。大学進学を期に関西の都市で一人暮らしを始めた基哉はそのことに気づかされた。そしてその感覚は実家に帰るたびに強く意識される。
どちらが良いのか悪いのかを論じるつもりは無い。都会暮らしも田舎暮らしもいい点、悪い点両方がある。基哉はもちろんそれを分かっている。けれども彼は都会暮らしの方がいいと、そう感じていた。
焦げ臭い匂いのする白い煙が辺り一面に漂っていた。近くで誰かが枯れ草でも集めて焼いているようだ。こんなことはもう珍しい。
昔はあちこちで野焼きをしていた。「鼻にアレルギーを持っていたからその煙にはよく悩まされたものだ」基哉は父親が以前そんなことを言っていたのをふと思い出した。

 下り坂の勢いをそのままに加速した自転車はスピードをほとんど緩めることなく左に急カーブし、そのまま基哉の実家の車庫に突入する。車庫には本江家の車が止めてある。時刻は午後二時。普段であればこの時間帯は母親の由美子は買い物に行っているのだが、今日は在宅中のようだ。
車の発進の邪魔にならないよう片隅に自転車を寄せると、基哉は自転車の鍵をかけることもなく家の勝手口へと向かう。
「ただいま」
 勝手口を開けた基哉をまず迎えたのはバスタオルだった。壁の両側にある棚に通してあるひもにかけてある。冬時、天気が優れない時はこのように部屋干しがされる。
暖簾をくぐるようにしてそのタオルを通り抜け、靴を脱ぎ、台所に通じる引き戸を開ける。台所には誰もいない。のどが渇いていた基哉は冷蔵庫に入っているお茶でのどを潤す。水道水に格段の違いがあるので、湯沸かし茶はこちらの方が断然美味しい。田舎の数少ないいいところの一つだ。
 茶の間に入ると、母親の由美子が炬燵に入って干し芋を食べながら新聞を読んでいた。
「おかえりー」
「ただいま」
 由美子は新聞を折りたたむと緩慢とした動きで炬燵からはい出てきた。
 近所の弁当屋でパートをしている由美子は職場では仕事を手早くこなすことで評判なのだが、家ではそのような姿はほとんど見せない。
「お昼食べてきた?」
「食べてない」
「なんか食べる?」
「残り物でいい」
「そう? なら冷蔵庫に色々あるけど。温めようか? 戸棚にはカップ麺でもいいし。あと、ご飯が食べたいなら冷凍し」
「なら、適当に食べる」
「手伝おうか?」
「別にいいよ」
 基哉がそう言うと、由美子は再び緩慢とした動きで炬燵へと沈んで行った。その様子を見た基哉は再び台所に足を向ける。とりあえず温かいものを食べたいと思った。
 この時期の北陸はまだまだ寒い。

その夜。基哉と由美子、それに父親の正と三人で夕飯の食卓を囲む。乾杯の声とともに発泡酒で満たされたコップが三つ、空中でふれあい音を立てる。そのコップの数は普段と比べて一つ足りない。
「姉貴は?」
 基哉は向かいの空席をぼんやりと眺めながら尋ねる。
「今日は会社に泊るんだって」
 由美子が答える。基哉の三歳上の姉、柚季は二年前に県内最大手のスーパーマーケットチェーンに就職した。なかなか就職が決まらず卒業間近にやっと決まった職場だった。その当時、柚季はギリギリセーフと喜んでいた。
しかし、陰で柚季がやるせない表情をしているのを基哉は何度も見ていた。直接本人から今の仕事の不満を聞いたことは無い。それでも柚季がこの不本意な結果を悔やんでいることを基哉は理解していた。
「それで、仕事はどうなったんだい?」
 正が空になったコップに再び発泡酒を注ぎながら尋ねる。
「四月から市役所で働く」
「市役所。部署はどこ?」
「土地利用課」
 正がいぶかしむように基哉を見る。
「土地利用課? 基哉、お前が希望していた部署って違う所じゃなかったか?」
「そうだよ。だけど希望してたところが人数オーバーで抽選の結果外れた」
「それで全く希望してない部署になったのか」
 正は再びコップを空にし、軽くげっぷをする。
「おお、スマン。それで、基哉はそれでいいのかい?」
「まあ、仕方ないかなと思ってる……」
 その言葉を聞いた正の表情はいつになく真剣な面持ちになる。普段の柔和で気弱そうな雰囲気とは少し異なっている。顔が赤くなっていないところから見るにまだ酔ってはいない。
「基哉。一つ忠告だけど、聞いてくれないか。世の中、自分の好きな仕事に就けるようなことはあまりない。自分の好きな仕事に就けなかったからと言っていい加減にはしないでくれよ」
「分かってるって」
 基哉はご飯をほおばりながら相槌を打つ。それを見た正は本当に分かっているのかとでも言いたげだった。
「大丈夫だって、仕事はきっちりやるから」
 基哉は煙たそうにそう答える。
基哉の返事を聞いた正は缶に残った発泡酒を一気に飲み干した。正は酒が強い方では無い。缶一本分の発泡酒を飲んだだけで顔がだいぶ赤くなっている。
 正は急に弱弱しい表情になった。
「すまんなあ、元々は俺のせいだもんなあ」
 そう言って正はニ本目の缶のふたを開けようとした。しかしそれは由美子に止められる。
「あなた、ほどほどにね」
「あ、うん。すまん」
 そんな二人の様子を見て、基哉の口から自然とため息が漏れた。
 基哉が市役所で働くことになったきっかけは正の早期退職だった。定年まであと数年という年齢だった正は、昨年会社が早期退職者を募ったのに対してそれに手を上げた。
 結果的には本江家の家計はだいぶ苦しくなったのだが、正は早期退職の方が結果的にもらえる金が多かったと自嘲的に話す。しかしそれがどういうことを意味するのか分からない基哉では無かったし、それゆえに正は基哉に対してすまなそうな表情になることが多かった。

 夕飯を食べ終わり、基哉は自分の部屋に戻った。
正から言われた言葉が耳に残る。
それでいいのか。つきたい仕事にはつけない。好きでなくてもちゃんとやれ。
普段とは違って真剣なまなざしの正の顔。
「分かってるって」
 基哉はベッドに倒れ込んだ。
 自分のやりたいこと、夢をそのまま仕事にできることなんてほとんどない。世の中そんなに甘くない。だから、どこかで妥協して、嫌なこと、興味のないことを仕事としてやってかなければならない。そうしなければ生活していけないし、そうして生活していくことがいわば社会に出ると言うことだ。
 それは基哉も分かっている。だから、はっきり言って全く興味のない市役所勤めもしようと思っている。
 しかし、本当の問題はそこではないのだ。そのことを基哉は理解している。
 基哉は今、逃げているのだ。将来から。基哉は今、未来の選択を先延ばしにしているのだ。
 そもそも、家計が苦しくなったとはいえ、基哉一人があと数年大学に通えるほどの金はどうにか工面できるのだ。基哉が会えて働く必要は実は無い。
 それでも基哉は働くことを選んだ。それは将来の問題を先延ばしにできると分かっていたから。
 基哉は得体の知れない不安に見舞われる。
「俺の夢って何なんだろう」
 基哉は口に布団を当て、軽く叫んだ。
続ケレバ、キットイイ事ガアルデショウ。
突然、つい先ほどまでその存在も忘れていたあの占い師の言葉が基哉の頭に響いた。
思い出してしまったら、あれほど印象的なことを忘れていたことの方が不思議に思えた。
「それほど、悩んでるのかな」
 基哉は自嘲的に笑う。
 とりあえず、あの言葉を信じてみようかな。基哉はそう思った。


*四月九日*
 仕事初日。
 基哉は九時になる十五分前に市役所の三階、土地利用課フロアの前に立っていた。着慣れないスーツを着て、受理証を片手に担当らしき人物が来るのを待つ。
 九時を十五分ほど過ぎたころ、廊下の端から一人の男が歩いてくるのが目に入った。年は基哉の父親と同じくらい。白髪交じりのぼさぼさの頭と、よれよれのシャツが全体的にだらしなさを感じさせている。今時珍しく煙草をくわえ、片手にはバインダーを持っている。男は視線を基哉に向けたまま近づいてくる。そして基哉の前まで来ると、突然、肩に手をかけた。
「お前さんか。今日からここで働くのは」
「は、はい。よろしくお願いします」
 男性は手を差し出す。基哉が握手をしようとすると。男は違うと言って、受理証を指さした。
 基哉は少しまごつきながら受理証を渡した。
 男は受理証を読み、時たま基哉の顔を見た。
「本江基哉、二十歳。それから……。お前さん。なかなかいい大学に入ってるじゃないか。なんでわざわざここで働く? こんなちんけなところに来ないで大学で勉強しといたほうが身のためだぞ」
 予想外の問いかけと緊張のせいで基哉はすぐに返答する事が出来なかった。その間に男は受理証を反対に手に持っていたバインダーに挟む。それから基哉についてくるように手で合図をし、すぐさま歩きはじめた。どうやら男ははじめから基哉の返事を期待していなかったようだ。
 基哉が連れてこられたのは土地利用課から少し離れたところにある小さな部屋だった。部屋の中には天井まで届くほどの棚がいくつも並んでいる。その棚のどれもが段ボールや古びた本、ファイル、その他機材や色々な物でぎっしり詰まっていた。まるで整頓はされていない。部屋の奥の窓辺には小さな机が四つ。田の字状にくっつけて置かれている。そして、それぞれに机には何世代か前の古いパソコンが置かれていた。
 その中の一つの机の前には男が座りパソコンの画面を眺めている。年は三十代後半、小太りの体型である。ヘッドフォンをしているせいで周囲の物音が聞こえにくいせいか、小太りの男が基哉たちに気付いた様子は無い。基哉が肩越しにディスプレイを見ると、大量の車が爆発するシーンが流れていた。どうやら男はアクション映画を鑑賞しているようだった。仕事の勝手をほとんど知らない基哉でもこの映画が仕事とは全く関係ないものとだと分かる。
「よし、お前の席はそこだ」
 基哉を連れてきた初老の職員が動画鑑賞中の男の座っている席と対角の位置の椅子を指さす。
「わかったな。それとこれだ」
 男は基哉に一つのカードを手渡した。それは職員証らしく、表には堅苦しい文字と、さえない基哉の顔写真がプリントされている。
「これがお前の職員証だ。タイムカードも兼ねているから出入りの際には機械を通せよ。場所は土地利用課のフロア。詳しくは後で誰かに聞いてくれや。それと……」
 男性はバインダーに挟んだ資料を何枚かめくる。
「お前の当分の仕事はこの倉庫の資料整理だ。大体二週間ほどで片づけろよ。後は……そうそう。勤務時間。平日は朝九時から午後五時まで。休憩時間は一時間半。土、日、祝は基本休み。出勤時間はタイムカードで計る。そんで機械通し忘れたら欠勤扱いになるから気いつけろや。あと、残業代は出んからそのつもりで」
 それだけ一気にまくしたてるように言うと、男は基哉の肩をバシバシと叩く。
「まあ、がんばれや新人」
 男の説明を半ばぼうっと聞いていた基哉は肩をたたかれた衝撃でハッと我に返る。
「あ、あの」
「何だ?」
「仕事とかの内容をもう少し詳しく教えていただければ嬉しいんですけど」
 男はめんどうくさそうな顔をした。
「そんなの自分で考えろ」
「は?」
いくらなんでもいい加減すぎだろ。こんないい加減でいいのか? 基哉はそう思わずにいられなかった。倉庫の整理と言ったって、何をどのように整理するのかを把握しておかなければ何もすることができない。
 半ば非難のこもった眼差しを男に向ける。男も基哉の方を見つめ返した。結局男はさらなる説明をすることなく、足早に部屋を後にした。
 男が出て言った扉を基哉はただ茫然と見つめる。
「原田課長、相変わらずいい加減だなあ」
 基哉の向かいの机に座っている男がつぶやいた。いつの間にかヘッドフォンを外している。
「あのー」
 明らかに面白がっている様子の職員に向かって基哉は尋ねる。
「ん? 何だい」
「整理ってどうすればいいのか教えてくれませんか」
 男性はにっこりほほ笑んだ。
「ああ、いいとも。僕の今日の仕事はそれだからね」

 土地利用課の職員、吉田の丁寧な説明もあって、基哉は自分の仕事が何であるのかを午後になってようやく理解した。
 ちなみに午前中は吉田の残りの映画観賞と、土地利用課全体の仕事内容の説明、それに市役所の施設案内に費やされた。
 昼食を市役所の食堂で済ませ、二人はちょうど倉庫に戻ってきたところである。
「さて、ぼちぼち作業を始めますか」
「はい」
 それからは本格的に仕事に取り掛かる。内容は紙媒体の資料を、パソコンを使ってデータ化することだ。紙の資料はどれも古いものばかりで、字がかすんでいるものがいくつもあり、紙そのものの強度が著しく低下しているものもあった。なので、打ち込みの作業は基哉の想像以上に手間がかかるものだった。
「それにしても、いまだに紙の資料が残っているものなんですね」
 しばらくして基哉は作業の合間にそうつぶやいた。それに対する吉田の返事は無い。基哉はパソコンの画面から目を離し、吉田の様子を見た。吉田は真剣な表情で作業に没頭していた。基哉は視線をパソコンの画面に戻す。それからは黙々と作業を続けた。

日もだいぶだいぶ傾いてきたころ、突然吉田が大きく息を吐いた。
「ああ、もう疲れた」
 時刻は午後四時五十分前。
「今日はこれくらいにしときますか」
「あ、はい」
 吉田の問いかけに基哉は頷く。ちょうど基哉も一区切り終えたところだ。今日一日だけでそれなりの量をこなしたはずなのだが倉庫の資料は減ったようには見えない。原田は二週間で済ませろと言っていたが、二週間で済むかどうか基哉には分からない。
「どうだい、仕事の流れは分かったかい?」
「ええ、ですがまだ完ぺきではないですね」
「まあ、分からないことがあったら職員の誰かに聞いてくれればいいよ。たいていの人は暇だろうし」
「分かりました」
 吉田と基哉はパソコンの電源を切ると、部屋を後にした。
「さて、今日の仕事はこれで終わりだね」
 吉田がうれしそうに言う。
「では、今日はこれで帰っていいんですか」
 基哉が尋ねると、吉田は一瞬思案顔になった。それから、何かを思いついたのか、顔をほころばせる。
「どうだい? 今から新入職員歓迎会でもしようじゃないか?」
「え、別に。そんなことをしていただかなくても……」
 思いがけない提案に基哉は焦る。
「そんなこと言わずに。それともこの後用事でもあるのかい?」
「いえ、特には」
「なら、いいじゃないか」
 吉田は満面の笑みを浮かべたまま、基哉に詰め寄る。 
「それは、俺と、吉田さんと二人でですか?」
 基哉の心境としてはおっさん一人に祝ってもらってもさ程嬉しくない。
「さすがに祝うのが僕だけじゃ君もさみしいだろ」
「だったら、原田課長も来るんですか?」
 そうなった場合を想像して基哉は背筋を震わせる。
「まあ、原田課長は歓迎会とかそういうの嫌いだから……」
 では他の職員が一緒に行くのかと思案する。そんな基哉を見て吉田は笑う。
「まあ、とにかく僕についてきておくれよ。」

吉田に連れてこられた場所はしばらく前に基哉が迷い込んだあの劇場通りだった。
昼と夜とでは劇場通りの雰囲気は全く違う。三週間前、基哉が昼にここを訪れた時の劇場通りは人の気配がない寂れた裏路地だった。
しかし今は多くのスーツ姿のサラリーマンや労働者が酒を酌み交わし、大声で笑い、どんちゃん騒ぎをし、喧噪にあふれている。それはまるで活気ある下町の飲食街のようだった。
「本江君はここに来たことはあるかい?」
「以前に一度、昼間にですけど」
「昼間かあ。昼と夜じゃここ、全然雰囲気が違うでしょ」
「そうですね」
 基哉は素直にうなずく。
 吉田は基哉を一軒の店の前に案内した。その店の引き戸の前には紺色の下地に白色で達筆に寿司の二文字が書かれたのれんがかかっている。
 吉田は引き戸を開け、中に入った。基哉もそのあとに続く。
「いらっしゃい」
 店主と思しき、板前姿の中年男性から快活な声が飛ぶ。
 吉田はその声にこたえるように店主に向かってにっこり笑う。しかし、店主は吉田の顔を確認した途端、顔色を曇らせた。
「あんたか、今日は仕事できたのかい?それとも客でか?」
「やだなあ、僕はもうここには客でしか来ないって言ったじゃん」
 吉田は苦笑いをする。
「今日は、新入職員の歓迎会をここでやろうと思っただけだよ」
「あんたのその図太さには感心するよ。まあ、そう言うことなら大歓迎だ。ジャンジャン注文しな」
 店主の声に快活さが戻った。
 基哉と吉田はカウンター席に並んで座る。
「とりあえず、ビールで。後は適当に。本江君、それでいいよね」
「はい」
 基哉は頷く。
 すぐさま、二人の前にコップ二つとビール瓶が置かれた。それぞれ相手のコップにビールを注ぎ、二人で乾杯する。
新入職員歓迎会をすると言っていたものだから、基哉は何か特別なイベントでも起こるのかと思ったが、そのようなことは無かった。
その後、色々料理が運ばれてきた。初めは寿司だったが、次第にホッケやら、揚げ物やら粉物やらと寿司とは全く関係のないものが出されるようになった。今カウンターに並べられているものを見れば、そこは寿司屋と言うよりも居酒屋だ。
「勉さん、景気はどうよ?」
 吉田が店主に語りかける。この店主の名前は勉というらしかった。
 調理をしながら近頃の売り上げの話をする勉と、それをビールを飲みながら聞いている吉田を、基哉はぼんやりと眺めていた。そしてふと思い出す。
勉とは以前に会っている。そう、あのとき。昼の劇場通りで占い師に会ったときに。
 この店に入った時は気付かなかったが、確かに基哉たちが入ってきた入口はあのとき店主が現れ、占い師が入って行ったのと同じだった。
「貴方ハ、マタ、ココニ、来ルコトニナルデショウ」
 占い師のあの独特の声が頭の中に響く。図らずも、あの予言通りになってしまった。この予言も大したことではなく、あてずっぽうに言っても当たりそうな内容なのだが、それでも基哉はあの占い師はちゃんと今日のこの日を見越していたように思えた。
 ところでその占い師は何者なのだろう。あとで機会があれば、勉に尋ねてみようと基哉は考えた。
「そう言えば、今日は馬場君達で合ってたよね?」
 だいぶ酒の入った吉田が同じくだいぶ出来上がっている隣のサラリーマンに必要以上の大きな声で尋ねる。
「ええとなあ、今日はあれだ。馬場君達のライブ」
 答えが合ってそうで合ってない。
「ふーん。今日は結構楽しめるかな。いや、そうじゃなかったんだっけ」
「そーいや、もうそろそろなんじゃねー」
 サラリーマンは焦点の全く会ってない目で自分の腕時計を見つめる。
「何の話ですか?」
 基哉の問いかけに吉田はいたずらっぽく笑う。
「それはその時のお楽しみさ」
 基哉が具体的なことを聞こうとした時に、サラリーマンが基哉を指さし、言った。
「この通りのシンボルであり、そして俺たちの最大の楽しみの一つのことだよ」
 決まり切っていない決め顔をしながら。

劇場通り。この小さな食堂街の名称がそうである理由はいたって単純、小劇場があるからだ。
基哉たちのいる建物から広場を挟んでちょうど向かいにあるその劇場は戦後間もなく建てられた、それなりの歴史がある建物である。外見は単なる三階建てのおんぼろビル。玄関である両開きの大きな扉がある以外は壁面には窓も装飾も何も無く、のっぺりとしていて、白いペンキで塗装されている。
 建物内部もかなり古く、木張りの床は一歩踏み出すごとに軋んだ音を発する。この建物の一、二階の大部分を占めているのが小さな劇場だ。客席は百に届かず、ステージもかなり手狭な物だ。照明、音響器具もどれも古いものばかりだ。ステージ奥にはスクリーンが備え付けられており、これは少しばかり新しい。これと、プロジェクターを利用することによって映画観賞会のようなこともすることが出来る。
 この劇場の管理、運営は劇場通りの飲食店の店長達によって行われている。そしてこの劇場はその店主達に話を通せば基本的にだれでも利用することが出来る。しかも使用料は格安。タダ同然である。このような条件は金に余裕の無い者にとっては設備面に難があることを差し引いても魅力的である。そのため、この劇場はそれなりの頻度で使用されている。
 現にこの日もミニコンサートが行われる予定であり、吉田は基哉にそれを見せるため、基哉を半ば強引に劇場の席に座らせていた。
今、ステージの上には二人の男が立っている。その手にはそれぞれアコースティックギターが握られている。
「皆さんこんにちは、私はバンバと言う者です。馬に場所の場で馬場です。普段は相棒のタクと路上ライブをしています」
 タクと紹介された青年が会釈をする。
「今日は皆さん私達のコンサートに来てくださって本当にありがとうございます。初めての方、常連の方、色々いますが、皆さんが満足していただけるような演奏をしていきたいと思います」
 馬場のその穏やかな声はどこか安らかな気持ちにさせた。
基哉は音楽に造詣は深くない。だからこの二人の演奏や歌がどれだけうまいのかは客観的には分からない。
それでも基哉は二人の曲を気にいった。どこか惹かれるものがあった。それは他の客も感じていることだった。その証拠に、曲が一つ終わるごとに賛辞の拍手が皆の手によってなされていた。
 馬場達が四、五曲演奏し終えた時だった。
「では、もうそろそろ最後ですが、どなたかリクエストなどはありませんか?」
 馬場がそう言うや否や、客席から一本の腕が一直線に伸びる。手を上げたのは吉田だった。少し驚いた様子の馬場達をしり目に吉田はそのまま立ち上がると、今度は基哉を立たせようと、ぐいぐいと引っ張った。基哉は立たざるを得なかった。
 基哉が立ちあがると、吉田はステージの方を向いた。
「ちょっと、ぶしつけなお願いなんだけどさあ、今日はさ、本江君の初仕事の日なの。だからさ、彼の勤務開始を祝ってさ、一曲何か引いてくれないかな」
 その言葉で会場にいる皆が基哉の方を注目した。恥ずかしくなってきた基哉はこの場から立ち去りたい気持ちのもなったが、吉田の意外に力強い腕が基哉をがっしりつかんでいる。
「分かりました。では、一曲演奏しましょう」
 少しの間、ステージ上で話し合っていた馬場とタクは基哉を見た。ここで馬場が少し困った表情をして尋ねる。
「ええと、名前なんでしたっけ?」
「本江です」
 基哉はそっけなく答える。
「それで、どこに就職なさったんですか」
「市役所の土地利用課って所だよ」
 今度は吉田が答える。
 それを聞いた馬場は軽くギターを鳴らした。
「本江様の市役所、土地利用課への配属を祝って、君に一曲ささげます」
 観客の拍手喝采とともに、基哉のための曲が始まった。

 予想外の歓迎の後、基哉たちは勉の店に戻った。基哉は本来の寿司屋にはまずないであろう肉じゃがを一人で静かに食べている。吉田は数席離れたところで他の酔っ払いと楽しくやっている。
「あんたは、あまりはめを外したくないタイプか」
 突然、勉が話しかけてきた。
「まあ、そんな感じです」
 基哉は大学の飲み会でも酔っぱらうまで酒を飲むことは無かった。
 勉が基哉の前にうどんの入った椀を置く。
「もう腹いっぱいです」
「そうだとしても、今回は上司からのおごりだろ? なら、出されたものはすべてありがたく頂戴しろ」
 今回の飲み代は全て吉田のおごりだ。その代わり、メニューは吉田が選んだコースであるため、大食漢の吉田に会わせて量は多くなっている。
「君、吉田君の部下っていうことは、市役所の土地利用課かい?」
「はい」
 基哉は小皿に半分ほど残った肉じゃがをつつきながら言う。味は申し分ないが、いかんせん満腹である。
「自分は特別労働者なんでホントの職員とはちょっと違うんですけどね」
「じゃあ、本来は学生かなんかか?」
「ええ、大学生です。今は休学していますけど」
「最近、そんな奴増えてるらしいな。君はどういう理由で働いているんだ?」
「単純に、学費を稼ぐためです。うちは家計が結構ヤバいんで」
「奨学金とかは無かったのか」
「やっぱ働く方が金稼げるので」
 勉はあまり納得していないようだった。
「そう言うもんかねえ。まあ確かに金稼いだり、社会を知るっていうのは大事だが、それのやり方を間違えたらいかんよな」
 勉の言葉はもっともだ。基哉の耳には痛い話である。大学生の本分は勉強であるべきなのだ。
「ここをどう思う?」
 勉が何の脈絡もなく尋ねた。客からの注文がはいっいないことをいいことに、勉は基哉にあれやこれやと話しかける。
「ここ、ですか……」
 基哉は何をどう言おうか頭の中で言葉をまとめる。
「以前、昼に来た時はさみしいところだなっていう印象しかなかったんですけど、夜に来てみると全く違いますね。なんかここにいる人はみんな、ちゃんと自分のやりたいことをやろうとしているような、だから……」
 結局言葉がまとまらず、最後は尻切れトンボのようになって口を閉じた。そんな基哉を勉は怪訝な様子で見つめる。
「あんた、前にもここに来たことあるのか?」
「ええ、三週間ほど前に一度。来たと言うかたまたま迷い込んだって言う方が正しいんですけど。そう言えばあのとき、占い師みたいな人がいたんですけど、あれは何ですか?」
 少し早口になりながら基哉は言いきった。すると勉は基哉の方に顔を近づけ、それから目を見開いた。
「そうか、思い出した。お前さん、あの時、呉羽と一緒にいた奴か」
 勉は腕組みをして頷く。
「呉羽?」
「あいつの名前だ。そうかそうか。占いねえ。そう言えば今日はやらないって言ってたな。なんせテストが近いんで勉強せにゃならんて言ってたな」
「テスト?」
 基哉の予想外の言葉が出てきた。
「おう。呉羽は高校生だからな」
 軽い衝撃。声とは裏腹に、あの占い師はかなり若いらしい。確かに三週間前に一瞬見た横顔はとても若かった。だけどそこまで若いとは基哉も思ってはいなかった。
「ところで、その呉羽さんの事をよく知っていますね」
 その言葉を聞いて勉は鼻で笑う。
「当然だろ、あれは俺の娘さ」
 予想外の言葉が勉の口から続けざまに出る。基哉はしばらくあっけにとられていた。

 午後十一時。閉店間際、店には勉と吉田しか残っていない。基哉は既に帰宅していた。
「おい、そろそろ店閉めるぞ」
 勉が空っぽになった徳利で吉田の頭を軽く小突く。夢心地になってカウンターに突っ伏していた吉田はその衝撃で目を覚ます。それから吉田は緩慢な動作で腕時計を見た。
「あら、こんな時間か」
「明日も仕事なんだろ? いいのか、さっさと帰らなくて」
「明日は別に仕事の量が多いわけじゃないからね、遅刻しても給料がちょっと減るだけさ」
「ふん、役所勤めは楽そうでいいよな」
「とんでもない。忙しい時と、忙しくない時の差が激しいだけだよ」
 吉田は大手を振って勉の言葉を否定する。
「それより、最後に眠気覚ましに一杯頂戴」
 吉田は手のひらを顔の前で会わせ、拝む。それを見た勉は透明な液体がいっぱいに入ったガラスのコップを吉田の前に置いた。吉田はコップをわしづかみにすると、中身を一気に飲み干した。
「なんだ、これ。水じゃないか」
「お前はもう十分飲んだ」
 勉は冷やかにそう言うと、吉田の前に置かれた食器類を片づけ始めた。その様子を見た吉田はこれ以上ねだるのをあきらめ、鞄の中から財布を取り出す。
「わざわざお仲間を連れてくるとはな」
 吉田に背を向けたまま、勉がそうつぶやく。その声は先ほどよりさらに冷ややかだ。
「お客には変わりないだろ」
「まあ、そうだな。ここを気にいってくれてちゃんと金を払ってくれれば俺たちは誰でも歓迎する」
 勉は吉田の方を向き、伝票を渡す。吉田はその額を見て少し顔をしかめる。
「これぼったくりなんじゃないの?」
「バカを言うな。いつも通りの値段だ。今日はそれも分からんくらいに酔ってるのか?」
「いやいや、冗談だよ」
 吉田は財布を開くと、何枚かの紙幣を勉に渡す。
「それで、あの坊主は知っているのか?」
「いや、知らない」
「そうか」
 勉がお釣りを差し出す。吉田はそれを受け取り、財布に突っ込むんだ。それから席を立つ。
「じゃあ、また来るよ」
「その時はどっちだ?」
「僕としては客として来たいな」
 そう言って、吉田は店の外に出て、入口の引き戸を閉めた。


*四月十六日*
基哉の働く目的。それは学費を稼ぐためである。私立大学に通い、下宿をしている基哉には莫大な費用が必要だ。
これまでは正の稼ぎや様々な奨学金の制度を利用することでやりくりしていた。
基哉の大学には様々なタイプの奨学金がある。正の早期退職による本江家の収入の低下もそれらの奨学金を活用すれば穴埋めが出来た。
それでも基哉はあえて大学を休学し、働くことにした。
金を稼ぐために。
国の特別労働の制度に申し込んだ。
これは国の新たな政策で、金に困窮した学生など、ある程度まとまった金が必要になった者たちに短期間の働き口を提供する政策である。
言ってしまえば、国が行っている派遣労働である。
与えられる仕事はある程度本人の希望に沿ったものになるが、中にはそうならないこともある。
基哉の場合がそれだ。
なので、仕事にやりがいも現れないのは当然だ。
そのためだろうか、基哉の仕事、倉庫整理は一向に終わる気配を見せない。仕事をはじめてから一週間。朝から夕方まで決められた通りに、紙の資料の数値をパソコンに打ち込みデータを作成している。単調な作業だ。しかし、ミスが出来ないので集中してやらねばならない大変な仕事である。
この一週間でそれなりの量をこなしたのは事実だが、まだまだ終わりは見えてこない。ただ、言われた期限まではまだ一週間あるので今はまだそこまで焦りは無い。
時刻は午後四時半、終業まであと三十分。
今日はもういいかな。時計を確認した基哉はそう思った。しでに仕事を続ける気分ではなかった。
この仕事のやる気が出ない原因の一つとして、倉庫に一人でいることも理由に挙げられる。初日はずっと手伝った吉田は、日に一度程度様子を見に来るくらい。吉田にも自分自身の仕事があるようだった。原田に至っては、二、三日に一度廊下をすれ違うくらいにしか会っていない。
誰かに見られることは無いので、サボってしまっても問題ない。
基哉は帰る準備をし、五時を過ぎるまでしばらく待った。時計の針が五時を回ると基哉はすぐに倉庫から出た。途中、通り過ぎる職員に形だけのあいさつをし、足早に出口に向かう。そのままだらだら市役所に残っていても何の意味もない。
初日以来、基哉は終業時間がくれば一人でさっさと家に帰るようにしている。どこかに飲みに行ったりすることは無い。節約したい基哉にとって、外食は避けたいものだった。それに、基哉には一緒に飲みに行く相手もいなかった。
市役所で働くことになってから基哉は高校生の時に使用していた道を再び利用することになった。初めの数日は懐かしい気持ちで歩いていたが、一週間もすればそのような感慨もほぼなくなる。その上、歩きなれた道であるがゆえに、あっという間に駅についてしまう。
駅の正面入り口に近づくにつれて、けたたましいギターの音と、上ずったハスキーボイスの歌声が聞こえてきた。駅の入口の前で一人の男が駅に入って行くサラリーマンや学生に自分の歌声を浴びせかけていた。いわゆる路上ライブと言うやつだ。周囲を歩く人々はその横を少し不快な顔をしながら通り過ぎていく。駅の隣の交番から警官が出てこないことを考えると、一応取り締まるほどの事はしていないと言う事らしい。
基哉は男の脇を通り抜ける際にその顔を確認した。全く見知らぬ人だった。基哉は少しほっとした。
この街の北側には二つの駅が隣り合って存在している。一つはJRの駅である。県下最大級の規模で利用者数もかなり多い。ただ、それは田舎の基準で見た場合であって、実際にはかなりこじんまりした駅だ。その大きさは都市郊外にある駅と大して変わらない。
もう一つの駅、基哉が普段利用しているその駅には県内の私鉄列車が乗り入れている。この駅の構内は近年改装されたこともあって、清潔感があり真新しい雰囲気を漂わせている。ただそれはこの駅の空虚感も増幅させていた。
基哉は改札に向かう。ポケットから定期を取り出し、それを駅員に見せる。今時自動改札ではない改札はかなり希少な物になっている。
電車をはじめとした公共交通機関の値段は昔よりは格段に安くなっている。それは自体は嬉しいことなのだが、もう少し電車の本数を増やしてほしいと言うのは基哉だけでなく、田舎で電車を利用する人間のほぼ全員の願いだ。
ホームについた基哉は自分の腕時計と時刻表の電車の時間を確かめる。タイミングが良かったのか、後数分で電車が来る。
ちなみにその電車を逃してしまうと、次は三十分ほど待たなければいけない。
時間的には帰宅ラッシュ。ホームには学生や仕事を終えた社会人がたむろしている。基哉はあまり人がいないところを探そうと、ホームの端に向かって歩き出した。
「よお、本江じゃないか」
 基哉は突然後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
 酒井弘毅、基哉の中学、高校の頃の友人である。
「なんでこんな時期にいるんだ? 大学の授業もう始まってるだろ?」
 酒井とは成人式の際に行われた中学の同窓会でお互いの近況を話していた。だから酒井は基哉が他県の大学に行ったことを知っている。ちなみに酒井自身は一浪の末に都心の難関国立大学に進学している。
「ああ、まあそうなんだけど。お前こそなんで今ここにいるんだよ」
 酒井だって人の事は言えないはずである。
「俺は、この前ばあちゃんが亡くなってな、それで葬式に出てたんだ」
「そうか、それは、御愁傷様……」
「おう……」
 話の重さと慣れない言葉のせいで二人の間に少し気まずい空気が流れる。
「それで、本江お前はどうなんだ」
 出来ればいいたくないのだが、酒井が答えたからには基哉も言わざるを得ない。
「実は、俺、今大学休校しててさ。市役所で働いているんだ」
 酒井が驚いた表情を見せる。
「でも、なんでまたこんな中途半端なときに?」
「金の問題さ。私大に行くのには思ったより金がかかるんだ。俺、下宿してたし。それに父さんにも色々あってさ」
 なんとなく、正の事を詳しく述べるのは気が引けた。
「そうか、本江も色々と大変だな」
 酒井は同情的な視線を向け、納得したようにつぶやいた。
「なんか久しぶりに会ったのに、辛気臭い感じになっちまったな」
「そうだな」
「ああ、そうだ。せっかくここに帰ってきているんだったら、いつか暇なときに飲みに行こうぜ」
 酒井は不自然に会話のトーンを上げながら話した。
「あ、ああ。いいよ」
 基哉は少し動揺する。高校、中学と酒井とは一緒に何かをして遊んだりするほどの中では無かった。今後、二人きりで飲みに行ってお互い楽しめるかが不安だった。
「そう言えば、携帯の番号は変わってないよな」
「ああ。変えるのめんどくさいからずっとそんまま」
基哉は高校に入った際に携帯を買ってから、番号やメールアドレスは一度も変えていない。そう答えると、酒井は少し珍しい物を見るような眼で基哉を見た。
「ん? どうした?」
「いや別に」
 ホームにアナウンスが響いた。そして、それに続いて電車が入ってくる。六両編成、緑と黄色の塗装がされた車両。この地方では一般的な鈍行列車だ。
 基哉と酒井は先頭車両に乗り込んだ。改札から離れているので、他の車両に比べると空いている。
「そう言えば、今日もなんか歌、歌ってたな」
 酒井が苦々しくつぶやく。
「そうだね。そう言えば、嫌いなんだっけ? あんな、路上ライブしている人」
「まあな」
 高校生の頃、一緒に帰った時、酒井はよく路上ライブをしている人に対して嫌悪感をむき出しにしていた。
「理由、聞きたいか?」
「聞かせてもらえるのか? 高校生のころに何度か聞いたけど教えてくれなかったくせに」
「あの時は自分でもなんで嫌いなのかがよく分からなかったんだ」
「ふーん。まあ、教えてくれるならぜひ聞いておきたいな」
「実際そこまで深い理由じゃないんだけどな」
 酒井は軽く咳払いをした。
「なんて言うかさ、これは、半分俺のエゴでもあるんだけどさ、俺は半端な物をあまり見たくないんだ」
「半端な物?」
「そうさ。はっきり言うと、あいつらの歌って、かなり質に劣るものだろ? それ以前にあいつら自身が半端だからな」
「まあ、否定はできないな」
「俺は別にうまい奴だけがやればいいって言ってるわけじゃないぜ。そもそも始めっからうまい奴なんてそうそういないしな。だけど、路上ライブをしている奴のほとんどはプロには慣れないだろ。そんなやつらは結局、路上ライブをしていた時間が実質無駄になるわけだ。そりゃ、いろいろ意味をつけることもできるかもしれないが、それは結局無駄な時間を過ごしたことを認めたくないからでもあるし、だからつまりなんて言うか、あいつらの歌を聞いてたりすると、結局無駄になってしまうようなパフォーマンスとか労力を見せつけられているような気がしてしまうんだ」
「分からないでもないけど、自分の時間をどう使うかは個人の自由だろ?」
「それを言われちゃ何も言えないけどさ、だけど俺は気になるんだ。時間を浪費してアーティスト気分になっている奴がむかつくんだよ」
 酒井は厳しい表情をして言う。
「そう言う基哉はどうなんだ? お前はあいつらの事をどう思ってるんだ?」
「俺は、どうなんだろうな。でも、たぶん酒井と一緒だと思う。むかつくとか、そう言った感情は持たないけどさ、なんか、結局無駄な事やってるなって思うんだ」
自分自身でそう答えておきながら、基哉は何か違うと感じていた。うまく自分の気持ちを言えていないような気がした。しかし、ならばなんと言えばいいのか基哉には分からなかった。

 近年、世の中の文化、芸術、娯楽のありようは大きく変わった。
 長引く不況、そしてインターネットの発展により大量の情報がほとんどタダで得られるようになったため、人々が娯楽に使う金の額はかなり減った。
 それはエンターテイメントの分野で金を稼ぐことがかなり困難になったことを意味している。
 ミュージシャンなどは本当に売れている者を除いて、その姿を消した。雑誌や書籍はどれも発行部数が年々低下している。
 有名な映画会社、ゲームメーカー、出版社などの倒産、統合などは近年よく耳にするようになった。
 このように述べると、娯楽文化が廃れていているように聞こえるかもしれない。しかし、実際はそうではない。
 文化や娯楽は個人が作る時代になったのだ。
 ネット上の動画投稿サイトや自分のホームページで自らの作品を発表する。その作品が素晴らしければ自然と評価され、その作品の知名度は上がる。やがてそれらの作品に影響された人がそれぞれに新たな作品を作り出していく。そうして出来上がってきた作品群は社会に大きな影響を与え、それが新たな流行りとなっていく。
 一つの大きな文化の流れを、一個人が作れる時代となった。そこに商業的な影響が働くことは少なくなった。文化の価値は製作者が決めるのではなく、受け手側が決めるようになった。
 そして、このような流れは今やネットの中にとどまらず、現実のも及んでいる。
 昨今、路上ライブをする音楽家が増えている。これは彼らが自らの曲を発表する場が多様化するとともに、変化したのも一つの要因だ。CDなんてもはやほとんど売れない。
 そして今や、公園や路上で自らの芸を披露するアーティストたちは多種多様になっている。
 そしてこの事は新たな問題も引き起こしている。
彼らの中には時、所を選ばずに、自らの芸を披露する者がいる。それが騒音問題をはじめとしたトラブルにつながっている。また、若いアーティストの中には定職についていない者が多かった。彼らは実を結ぶ可能性の不明瞭な自らの創作活動を続けるために親のすねをかじっている。
この街にもそんなアーティストはたくさんいる。中には人々の称賛を集め、ローカルのテレビ番組にも出演するような者もいるが、大抵の者は街の人々から白い目で見られている。
そして残念なことに、基哉の働くこの街の市役所内において、劇場通りはそんなアーティストの巣窟であると言うのが一般認識であった。


*四月二十三日*
 仕事を始めてから二週間、倉庫整理の期限の日。結局、全ての整理は終わらなかった。基哉はできる限りの事をしておこうと、その日は終業時間が過ぎても作業をしていた。
五時半過ぎ、原田が倉庫に入ってきた。数日ぶりに見るその顔は、どこかしら不満な顔をしていた。基哉は不安になる。
原田は基哉に向かってゆっくりと歩いてくる。基哉のすぐそばまで来ると、倉庫を一回見まわしてから口を開いた。
「整理はどうなった」
基哉は正直に謝ることにした。
「すみません。八割方はやったと思うんですが、全部はできていません」
 それを聞くと原田はもう一度倉庫を見回した。先ほどよりも少しだけ丁寧に。そして呟くように言う。
「お前の荷物を全部持ってついてこい」
 基哉は急いで机の周りの自分の荷物をかき集め、出口へ向かって行く原田を追った。
 基哉は不安だった。言いつけられた仕事をちゃんとこなせなかったからには叱られることも覚悟しなければならない。だけどそれで済むだろうか、もしも解雇なんてことになれば洒落にならない。
 だんだんと不安が大きくなって行く中、基哉は倉庫を出る。出る際に「電気を消せ」と原田に一喝を入れられますます落ち込む。
 原田は倉庫に鍵をかけ、そして歩き出す。基哉はとりあえずその後ろについて行った。
 市役所東棟三階の一番奥。そこには土地利用課のメインのフロアがある。そこで原田は歩みを止める。
 終業時間から四十分ほどたった今、何かしらの作業している者は一人もいない。照明も落とされ、物悲しい雰囲気が漂っている。
 原田は基哉がいるのを確認すると、フロアの一角、窓際に置いてある机を指差した。
「お前の倉庫整理の仕事は今日で終わりだ。あそこがお前の明日からの席。仕事内容も変わるが、それは明日誰か説明してくれる。じゃ、そう言うことだから」
 原田はぶっきらぼうにそう言うと、足早にフロアを後にしようとした。
「あ、あの」
 基哉は思わず原田を呼びとめた。原田がめんどうくさそうな表情を丸出しにして振り返る。
「俺、倉庫の整理をちゃんと期日までにできなかったんですけど、それは大丈夫なんですか?」
 それを聞いて、原田はからかうような笑みを浮かべる。
「あの倉庫の整理をお前が二週間でできるわけ無いだろ、ありゃ単に資料の打ち込みの方法に慣れるためにやらせていただけだ」
 原田はそれだけ言うとそれきり何も言わずに去って行った。
それを聞いた基哉は安堵するとともに、ちょっとした苛立ちを覚えた。

市役所を出ると雨が降っていた。基哉は折りたたみ傘を鞄から出してそれを差す。傘の大きさが十分でないため、腕や鞄が濡れてしまう。普段はそんなには気にならないが、この時は妙にそれが癪に障った。
かなたの上空で、雷鳴が轟いた。天気予報では深夜になるにつれて、雨足が強くなっていくと予測されていた。
駅も半ばと言うところまで差し掛かったところで、基哉は夕食の事を思い出した。
普段、基哉は仕事を終えるとそのまま家に帰っている。節約のために外食などをすることはほとんどなく、夕飯はいつも家に帰って食べていた。
ただ、この日に限ってはそうすることはできない。倉庫整理を今日中に済ませなければいけないと思っていた基哉は、残業するつもりで、母親には「夕飯はいらない」と言っていた。
もちろんそのまま帰っても、母親は何かしらの用意はしてくれる。しかし、それはちょっと迷惑にもなる気がして気が進まなかった。
基哉はふと歩みを止める。建物と建物の間にある、一本の細い路地に目が止まる。普段はほとんど意識しないが、この日はそうはいかなかった。
その路地の先は劇場通りに続いている。劇場通りには居酒屋をはじめとしたいくつかの飲食店が軒を連ねている。
ちなみに基哉は仕事初日に吉田に連れてこられて以来、一度も行っていない。基哉はポケットから財布を取り出すとその中身を見た。皺だらけの千円札が二枚入っている。その事を確認した基哉は、この日は劇場通りで夕飯をすませることに決めた。

 前回訪れた寿司屋はその日は営業していなかった。あの占い師の少女に会うことが出来るのではと期待していた基哉は少しがっかりした。
だが仕方がない。だいぶ空腹になってきた基哉は他の店を探すことにした。雨が降っているせいで寿司屋の前の広場には人がいない。前回は訪れた時は広場におかれたテーブルに大量の酒とつまみ類が置かれ、そこを何人もの酔っ払いが囲んでいた。しかしこの日はそのテーブルを囲む者は誰もいない。置き忘れなのか、テーブルの上には小さい小鉢が一つ、雨水をなみなみと満たしていた。
 劇場通りのアーケードの部分にたどり着くとだいぶ雨脚が弱くなる。古びたトタンでできているアーケードの屋根にはいくつもの穴が開いており、雨を完全に防ぎきることが出来ていない。基哉は傘をさしながら歩いた。狭い路地では傘を開いているとそれが通路の幅いっぱいに広がる。
悪天候の時であっても、開いている店には多くの客が入っているらしい。店内の喧騒が外にも漏れ出ている。
狭い路地を歩く中で、基哉は数人とすれ違った。皆、基哉の傘の雨だれが肩にかかり、不機嫌そうな顔をする。しかし基哉はそんなことはお構いなしに、店を探した。看板がいくつか路地に突き出ていたが、そのどれもがスナックやバーの看板だった。
 酒のあまり好きでない基哉はそれらの看板を素通りした。そうしているうちに一軒の店に出た。
 赤色の背景に黄色の文字で店名が書かれた看板。その看板の縁周りは電飾で装飾されている。ただ、肝心の電飾には電気が通っていない。
 その店は中華料理店のようだった。入口には商い中の札がかかり、ドアについている小さな硝子戸から中の明かりがもれている。あいにく、ガラスが擦りガラスになっているせいで中の様子はよく分からない。
 この店先にはもう飲食店は無い。路地はその先ですぐ終わっていた。垂直に横切った道路の先に、車のほとんど止まっていない駐車場が見えた。どうやらここが劇場通りの端のようだった。
「中華でいいか」
 基哉はそうつぶやいてドアを引いた。
 店の中に入った途端、色々な香辛料がごちゃ混ぜになった匂いが基哉の鼻を突く。それと同時に何かを炒めている音が耳に届く。
 明かりの少ない店内。さほど広くは無い。店の奥に厨房があり、それを囲むようにカウンター席が配置されている。手前側にはテーブル席がいくつかあった。
 基哉はカウンター席に着く。椅子やテーブル、床は油で少しべとべとしていた。
 基哉は近くにおいてあるメニューを手に取る。メニューに書かれている料理はどれも中華だ。値段はどれも少し割高な気がした。
「あんた、注文は?」
 突然の声に基哉はメニューから目を離す。いつの間にか、一人の老人がカウンター越しに基哉を見ていた。
 基哉はもう一度メニューに目を戻す、少しだけ考えた末、一番無難そうなものにすることにした。
「ラーメンと餃子」
 それを聞いた店主は少し驚いた表情をした。
「酒はいらんのか?」
「えーと、いりません」
「ほ、珍しや」
 店主はそう言って厨房へと向かう。
 基哉はメニューを元の位置へと戻し、何気なしに辺りを見回す。そして、あっと声を漏らした。
 店の隅、カウンターの一番端の席に思いもよらぬ人物が座っていた。
あの占い師である。
服装は前回と同様に黒いドレス。中華料理屋の中では場違いにも甚だしい。
今回は頭をすっぽりと覆う頭巾はかぶっておらず、その顔をはっきり見ることが出来る。ただし上半分だけ。下半分は首に巻いた分厚いマフラーで覆われていた。
 占い師は先ほどからずっと基哉の方を見ていたようだ。基哉が驚愕の表情を見せると、それに合わせて目元が笑う。
「アラ、マタ会イマシタネ」
 少女は例の独特な声でそう言ってから、自分の席を立った。そして基哉の方に近づき、何を思ったのか、基哉の隣に腰を下ろした。
「ど、どうも」
 基哉の声がどうしようもなく上ずる。
「私ノ事ハ、オ気ニナサラズ。アア、ソレト、コノオ店ノオ冷ハセルフサービスデスヨ」
 少女は店の片隅を指さす。基哉はその指が差す方向を見る。そこには水の入ったサーバーと、いくつものコップが置かれていた。少女は指を下ろし、それからまた基哉を見つめる。その視線が基哉にはむずがゆい。
「な、なら、ちょっと失礼して……」
 基哉は席を立ち、サーバーへと向かう。そしてコップを手に取り、それに水を注ぐ。コップに流れ落ちる水を見つめ、乱れた心を落ち着かせようとした。
 まさかこんな所で会うとは思わなかった。しかも向こうから近付いてくるとは。
 基哉は女性が苦手だった。なぜそうなったのか基哉にも分からない。いつの間にか、女性を避けるようになっていた。なので今までの学生生活の中で同じクラスの女子と中睦まじくなった事は無く、当然、彼女もいない。
 そのため、女の子が隣の席に座ったと言うそれだけの事が基哉にとっては一種の一大事であった。
 コップに注いだ水を一気に飲み干し、そしてまたコップに水を注ぐ。そして自分の席へと戻る。
 隣の少女の事はあまり気にしないようにし、基哉は正面をじっと見つめた。この店の店主がラーメンを調理しているのが見える。
「二回目デスカ? ココニ来タノハ?」
 少女が尋ねる。基哉はコップの水を一口すすった。
「いや、前に上司と一度来た。君の親父さんの店に連れていかれて……。その時君はテスト勉強だったと言ってたけど」
「マア、ソウデスカ。呼ンデクレレバ、降リテキマシタノニ」
「いや、まあ、勉強の邪魔しちゃ悪いだろ」
 基哉がしどろもどろにそう言うと、少女は少し笑った。
「マア、ソウデスネ」
 会話の流れが途切れる。基哉は再びコップを口元に運ぶ。基哉には他の客の話声と、餃子の音が大きくなったように感じた。
 そうこうしているうちに基哉の頼んだ料理が運ばれてきた。ラーメンと餃子。何の変哲もない、テンプレ通りのラーメンと餃子である。
基哉は大量の胡椒をラーメンに振りかけて啜った。それなりに美味しいラーメンだが、感動したりするほどではない。
「ソウ言エバ、昼ト夜トデココノ雰囲気ノ違イニ驚キマセンデシタカ?」
 少女が再び話しかけてきた。その事が基哉を混乱させる。この少女がどうして自身にこのように話しかけて来るのかが理解できなかった。無論どう対応すればよいのかも分からなかった。こわばって、返答する気力が出なかった。
 しかし、しばらくして口の中の物を飲み込むと、思いがけず、本心が言葉として出てきた。
「まあ、驚いたかな。おんなじ場所とは思えなかった」
 この答えは少女を満足させたらしい。
「ソウデショウ。ソノコトハヨク私達ノ間デモ話ニナルンデス」
 今度は基哉が質問を口にする。
「君もよくここに来るの?」
「来ルモ何モ、私ノ家ハココデスヨ」
「ここ?」
「サラニ正確ニ言エバ、寿司屋ノ入ッテイル建物ノ、二階ト三階ガ私ノ家デス」
「へえ、そうなんだ」
「私ダケデナク、ココデオ店ヲ構エテイル人ノ多クガオ店ノ上ニ住ンデイマス」
 少女は続ける。だからこの通りの建物は細長いのだと。

 基哉がラーメンを食べ終えるのと同時に、少女が突然基哉の腕をつかんだ。突然の事に基哉は驚きの声を上げる。すると少女はその手を離し、少しためらいがちな様子で尋ねてきた。
「アノ、ココデ会ウノモ、何カノ縁デス。ヨロシケレバ、オ名前ヲオ聞キシテモイイデスカ?」
「え、まあ、いいですよ」
 基哉はコップの中の水を飲み干し、それから咳払いをする。
「俺は本江基哉って言います。あなたは?」
「私ハ、岩波呉羽デス」
 そう答えると呉羽は優雅な動作で席を立った。やはりこの店には場違いだ。
「陳サン、私帰リマス」
 その声に店主が反応する。
「おう、親父さんによろしくな。」
 呉羽は陳に向かってお辞儀をすると、この店を後にした。

 隣の席が空いたことで、基哉は少しばかりの虚無感を感じた。何とも落ちつかない心地がして、基哉もこの店を後にすることにした。この店は全て陳店主が切り盛りをしていて、会計も彼が行っている。基哉が席を立つのを確認した陳店主が基哉の方に近づいてくる。基哉は鞄から財布を取り出し、お代を払う。その際、基哉は少し尋ねてみることにした。
「店長、少し聞いてもいいですか?」
「何だ?」
 カウンター越しに陳が基哉に釣りを渡す。
「あの子、岩波さんの声の事です」
「ああ、あれか」
 陳店主は少し困った顔をして頭を掻いた。それを見た基哉は少し不安になる。
「もしかして、聞いちゃいけないことでしたか?」
「そんなことは無いんだが……」
 陳はそう言って頭を再び掻く。何かを言い淀んでいるようだ。
「俺も詳しくは知らんからな。何でも、小さいころに大きな病気にかかって、その時にのどがつぶれちまったらしい」
「マフラーで首元を隠しているのは?」
「喉にはその時にした手術の痕があるとかで、それを他人に見られたくないらしい」
 陳はカウンターから空になったどんぶりを引き上げる。
「俺が知っているのはこれくらいだ。もっと詳しい事を知りたいなら、本人か勉から聞いてくれ。あ、しかし喉が潰れたのはあいつの所に来る前とか言ってたからな、あいつもちゃんと知っているかしらん」
 その陳の発言を基哉は追及せずにはいられない。
「勉っていうのはあの寿司屋の店主さんですよね」
「そうだが」
「それで連れてこられたっていうのは……」
「ああ、呉羽ちゃんは勉の実の子じゃないな」
 それを聞いた基哉の自然と神妙な面持ちとなり、不誠実な同情が心にわいた。
「おい坊主、そんなみみっちい顔をするな」
「あの子は全てを知っているし、それを気にとめたりはしとらん」
「自分が養子だと言う事をですか」
「そうだ。そしてその事を不幸とは思ってはいない」
 陳のその声は確信に満ちていた。そこまで言いきってしまわれたなら、基哉はもう呉羽について聞く事は無い。
「もう一つ聞いていいですか?」
 しかし基哉には、もう一つ聞きたい事があった。
「何だ?」
「劇場の事です」
 その言葉を聞いた陳は顔を輝かせ、嬉しそうな表情になった。
「劇場の事なら何でも聞いてくれ」
「お詳しいんですか?」
「それはもう。なんせあれは俺の爺さんが建てたものだからな」
「あなたのお爺さんが?」
 陳の顔が遠い過去を見る表情になる。
「そうだ。俺の爺さんはかなりの金持だった。商売を成功させて、荒稼ぎしたんだ。それで、爺さんは稼いだ金でこの劇場を建てた。爺さんは演劇や舞踊、映画が大好きな人間だったからな、この劇場も初めは爺さんが個人で楽しむために使うものだったんだ」
「初めからこの大きさだったんですか?」
 この小劇場は、一般的な劇場に比べるとかなり小さいが、それでも個人のためのものにしては十分すぎるくらい広い。
「爺さんが建てたのは今のよりさらに小さかったそうだ。俺は昔のやつの記憶が無いからはっきりしないが、たぶん今の半分くらいの大きさしかなかったんじゃないか?」
「建て替えかなんかしたんですか?」
「ああ、戦後にな。初めのは空襲で焼けてしまったそうだ」
 戦時中、この街に大規模な空襲が行われた事は基哉も知っていた。
「それで、新しく劇場を建てるときに、個人一人で使う物では無く、この街の人みんなが使う者にしようって事で、客席が大きく増やされたらしい」
 そこまで言うと、陳の表情が自信満々の笑みから少し悲しげなものとなった。
「ただな、その後、俺たち一族はまた貧乏になってしまったんだ。親父はこの店を建てて、どうにか金を稼いでいた」
 陳は懐かしむように店内を見回す。
「だけど、劇場だけは手放そうとしなかった」
「じゃあ、この劇場は今、貴方の物なんですか?」
「そうとも言えるし、そうでないともいえる」
「どういう意味です?」
「今は劇場通りに店を出している人たちで共同管理をしているんだ。今の責任者は勉だよ」
「なんか、一族の大切なものって感じでしたけど、どうしてまた?」
「俺も歳だしな、一人で管理したりするのは大変なんだ。それに、この劇場はだいぶ前からここに集まる奴らみんなの物になってたからな。こうするのが一番ふさわしいんだ」
陳のその声は先ほどと同様、確信に満ちていた。

 店から出た基哉は時間を確認する。
午後九時。
普段ならとっくに家に帰っている時間帯だ。翌日も仕事はあるため、帰りがこれ以上遅くなるのは避けたい。そう思って基哉は駅へと足を向ける。
しかし歩きはじめてすぐに基哉は背後からの視線を感じた。振り返るとそこには、ワインのボトルを片手に持った、千鳥足の女性がいた。年は五十代半ばと思われる。髪を派手な紫に染め、巨大な豹の図柄がプリントされたシャツを着ている。この街ではめったに見かけることの無いくらいの派手な装いである。
女性は基哉と目を合わせるや否や瞬く間に顔を輝かせ、基哉の方ににじり寄ってきた。基哉は金縛りに会ったようにその場に硬直した。
「アナタ、見かけない顔ねえ」
 女性の酒臭い息が基哉の顔にかかる。
「しかも、若い!」
 女性は満面の笑みを浮かべると、基哉の腕をつかんだ。
「さあ、行きましょうか」
 有無を言わせずという感じである。
「え、あの、ちょっと」
 基哉は慌てて掴まれた腕をふりほどこうとしたが、女性の力は思いのほか強く、うまくいかない。
「恥ずかしがらなくても大丈夫よ」
「え、でも帰らなきゃならないんで」
「何よ。女性の誘いを断るつもり?」
 横長のおばさんの誘いなんてまっぴらだと基哉は心の中で叫ぶ。何とかしてこの拘束から逃れようと躍起になったが、それは徒労に終わった。
 女性はあるの店の前まで基哉を連れてきた。『スナック寿』と書かれた立て看板が蛍光灯の光に照らされている。女性は店の扉を開け、基哉を中へと誘う。
 基哉は半ば押し込まれるようにしてその扉をくぐった。
扉の奥は典型的なスナックだった。酒のボトルが並べられた棚にカウンター。店の奥のカラオケボックスでは酔っ払った中年サラリーマンが演歌を熱唱している。
「マダム、何だよ、そいつは、俺たちじゃ不満だっていうのか?」
 基哉と女性が店に入るなり、酔っ払いの一人が叫んだ。それに会わせて何人かがブーイングをする。
「そりゃね、若い子の方があたしは好きよ」
 基哉を連れてきた女性、この店の経営者でもあるマダムと呼ばれている女性はそう答えた。
 他の客から歓迎されてないのならばと、基哉はすぐさま店を出ようとした。しかしそれはできなかった。
 マダムが基哉の腕をつかみ、カウンター席へと引っ張って行く。
「さあ、何にする」
「いや、お金無いんですけど」
「初入店のお客さんはタダよ」
俺ん時はそんなの無かったと誰かが叫んだ。基哉は必死に抵抗したが、それでも一時間以上この店に拘束される事となり、何杯もの酒をあおることとなった。

夜遅く、家に帰りついた基哉は今のソファに腰かけた。他の家族はみんな既に寝てしまったらしい。
基哉は大きく息を吐いて、額に手を当てる。体が火照る。明らかに酔っていた。目が少し回る。
 目を強く閉じて、それからゆっくり開ける。しみだらけの天井が視界いっぱいに広がる。
「大変な目にあった……」
 そのつぶやきに対して返答する者はいない。額に当てていた手をずらして顔を覆う。そしてまた息を吐く。
 するとだんだん腹の底からおかしさがこみ上げてきた。笑いをこらえようとするがそれはなかなか難しい。体が小刻みに震え、笑い声が漏れる。
 基哉には分からなかった。先ほどの劇場通りでの出来事が何故か可笑しかった。そして、また、劇場通りを訪れてみようと思っている自分自身がいる事が分からなかった。

*四月二十四日*
次の日、出勤した基哉は恐る恐る、自分の席に着いた。今日から土地利用課のフロアでの勤務となる。倉庫とは違い、周りにはたくさんの本物の職員がいる。基哉はどうしようもなく緊張し、そして気持ち悪くなった。これは二日酔いの影響だけではあるまい。
席に着いたのはいいものの、何をすればよいのか分からない。どうしようかと辺りを見回したところ、フロアの奥に吉田がいることに気付いた。
ここは吉田にすがるしかあるまい。そう思った基哉は席を立ち、吉田の所に向かう。
「吉田さん、おはようございます」
「やあ、本江君か。おはよう。どうしたんだい?」
「実は、昨日で倉庫番から解放されてここに移ってきたんですけど、何をすればいいのか分からなくて」
「そうか。うーん。ちょっと待ってね」
 吉田はめんどくさそうに頭を掻く。
「そう言えば、席とかは分かってるの?」
「ええ、まあ。昨日、原田さんに教えられて、その時にここで何をすればいいかも聞いたんですけど、次の日に周りに聞けと言われて」
「そうか、なるほどね」
 吉田は色々納得したようだった。
「それで本江君の席は?」
「あそこです?」
 基哉は自分の席を指さす。その指の差す先を見た吉田の表情が曇る。
「あれ、木戸さんは?」
「木戸さん?」
「うん。本江君の向かいの席の人なんだけど」
「まだ、来ていないんじゃないんでしょうか?」
 基哉がきてから向かいの席は空のままだ。
 その時、一人の女性がフロアに入ってきた。両手に大量の書類を抱えている。非力なせいか、かなり苦労しているようだ。女性はそのまま基哉の向かいの席まで行き、ほとんど落とすような形で書類を机の上に置いた。
「あっ来たね」
 吉田はそう言って女性に向けて手招きした。
 吉田の手招きに気付いた女性は額の汗をぬぐいながら基哉たちの方へ近づいてくる。
 小柄で、見た目の年齢は三十代始め。黒ぶちの大きな眼鏡が印象的である。
「おはようございます。どうかされたんですか?」
「やあ、木戸さん。この子、本江君って言うんだけどね、ほら、四月から新しく入った人。今日から木戸さんの向かいの席になるんだ。そのことで何か原田さんから聞いてない?」
「それでか」
 木戸が何やら安堵の表情を見せる。
「どうかしたの?」
「いや、あのですね、今日課長にやたら大量の資料渡されまして、いつもの二倍くらい? それでどうしようかなって思ってたんですど、たぶんこの新人君と二人でやれってことなんですね」
 木戸は基哉に微笑みかける。
「私は木戸です。よろしくお願いします」
「本江です。これからよろしくお願いします」
 木戸が基哉に満面の笑みを投げかける。
「じゃあ、木戸さん、あとはよろしくお願いします。本江君も頑張るんだよ」
 吉田は不敵な笑みを基哉に向けると、土地利用課のフロアから出ていった。
「さあ、行きましょ」
「あ、はい」
 基哉と木戸は席へ戻る。
 基哉の新しい仕事は様々な事務処理だ。ただ、基本的な内容は倉庫で行っていたのと似ている。これならば一から十まで教えてもう必要はない。実際に基哉はすぐに仕事の要領をつかんだ。
そんなてきぱきと仕事をこなす基哉を木戸はぼんやりと眺めている。
「はあ」
 木戸がわざとらしくため息をつく。
「どうしたんですか?」
「別に~。やっぱ若いっていいわ~って思っただけ」
「若いってのはそんなにいいんですか?」
「そりゃいいに決まってるでしょ。だって若いとそれだけで色々できるしね」
「そうですか」
「そうよ。本江君も年を取ってくれば分かるわ」
基哉は何と答えればいいのか分からず、黙々と作業を続けた。

 昼休み。市役所の職員食堂。基哉が一人で昼食を取っていると、隣の席に一人の若い職員が座った。
 昼休みといえど、食堂はさほど混んでいない。他にも席はあるのに何故となりなのか。基哉は疑問に思い、その若い職員の顔を見た。
 その顔はかつて見たことのある顔だった。誰なのかすぐさま思い出す。劇場で基哉のために一曲演奏してくれた人だ。
「あなたは、劇場で演奏してた……」
「やっぱりそうですか。どこかで見たかなと思ったんです」
 若い職員はほっとした表情を見せる。
「よく覚えていますね」
「ええ、まあ。人の顔を覚えるのは昔から何故か得意でして。それにあのときは演奏もしましたし」
 あの時と同じ、落ち着きのある声が基哉の耳に響く。
「名前は、えっと確か……」
「本江です」
「ああ、そうでした」
 若い職員はゆっくりうなずいた。
「あなたのお名前は?」
「僕はバンバと言います」
「バンバ?」
「はい。馬に場所の場で馬場」
「変わった読み方ですね」
「よく言われます」
 馬場は笑う。その顔は少々うんざりと言った気持ちもにじみ出ていた。
「ところで、馬場さんも市役所の職員だったんですね。少々驚きです」
 それを聞いた馬場は少し困ったような顔になる。
「正確に言うと、少し違うんですけど」
「と言いますと?」
「僕は本来大学生何ですが、金が足りなくて、今は特別労働者として働いているんです」
 その返答に基哉は驚かずにはいられなかった。
「え、馬場さんもですか。実は俺もなんです」
 自分とは全く違う立場にいると思っていた人間が同じ立場にいたのだ。
「そうですか、お互いいろいろと大変ですね。ですが、お互い頑張って行きましょう」
 その声は不思議と基哉に自信を与えた。
「ところで、馬場さんは大学はどちらに? やっぱ音大ですか」
「いや、違います。普通の私大ですよ。この程度の腕前じゃ、音大なんてとても無理です」
 馬場は自嘲気味に笑った。

*五月二十五日*
 この日、基哉は初めて外回りの仕事を指示された。仕事と言ってもその内容は資料を届けるだけの簡単なものである。
街の中心から少し離れたところにある国立大学の事務室に、大判の封筒に大量に詰め込まれた資料を届けるのだ。そんなこと、郵便局にでも頼めばいいだろうと基哉は内心思ったがどうやら色々と事情があるらしい。
基哉は吉田がくれたメモを片手に、市役所から最寄りの路面電車の駅へ向かう。
この街の路面電車は市が推し進める『環境に配慮し、高齢化に対応した街づくり』の一環として、近年その車体がリニューアルされた。一般の電車より車体が一回り小さく、かなりの低床。全体的に丸みを帯びており、どの面にも大きな窓がついている。外装は白一色のシンプルな物。その近未来的な外見は退廃的なこの街の中で少し浮いている感じが否めない。
路面電車の本数は普通の鉄道よりは多く出ている。それでも、電車が来るまでに基哉は市役所前の駅で十五分待った。
基哉は久しぶりに路面電車に乗る。高校生の時にはそれこそ毎日この街に来て、車の中に混じってゆっくりと走る路面電車を眺めながら登下校していた。ただ、基哉が高校生活三年間の間で路面電車に乗ったのはセンター試験の会場に向かうために使ったときだけである。
 路面電車はゆっくりと進む。脇を走り抜ける車に追い抜かされる程度のスピードで、信号に引っ掛かれば停車し、せまい間隔におかれた駅に差し掛かっては止る。
そのようにのんびりと進みながら、電車は二十五分後に終点、大学前の駅に着いた。
列車から降り、ホームから横断歩道を渡るとすぐそこに大学の正門が鎮座している。
正門のわきにはキャンパス内の地図がある。その地図には大学内の施設の名前が事細かに記されていた。地図と吉田からもらったメモを照らし合わせ、基哉は目的地の事務室がある建物を見つけ出す。その建物は基哉の今いる場所から丁度キャンパスの反対側にあった。
大学のキャンパスと言うのは思いのほか大きいものである。基哉は面倒だと思いながらも事務室に向かって歩きはじめた。
 十分後、目指していた建物に到着する。それから事務室に行き、受付の者に封筒の件を話す。それから、封筒の受け渡しは拍子抜けするほどあっさりと終わった。
 建物の外に出た基哉はなんとなく時間を確認する。午後三時前。
そしてまた駅までの十分の道のりを基哉は歩きはじめる。基哉の周りには自分と変わらない年代の若者が右往左往している。基哉も本来ならこのような大学生活を送っていなければいけないはずである。
 しかし基哉はそれをしていない。
この大学の敷地の片隅に芝生のしかれた広場がある。そこでは多くの学生が午後の陽気を満喫していた。広場の真ん中では数人の学生がフリスビーを飛ばして遊んでいる。またあるところでは数人のグループが輪になってコーラスの練習をしている。
 彼らの様子を見ていると、基哉は不快な気分になってきた。少し前に確認したのに、再び携帯電話を取り出してまた時間を確認する。午後の三時を過ぎたところ。原田は終業時間までに帰ってくればいいと言っていた。その時間にはまだ余裕がある。しかし基哉はさっさと大学を後にすることにした。

基哉はなんとなく市役所最寄りの駅からいくつか前の駅で降りた。ちなみに電車の代金は変わらない。
基哉は当てもなくふらふらと歩く。勝手知ったる街。と言ってもこの街を全て把握しているわけではない。ひとたび大通りを離れ、住宅街に入るとそこは全く見慣れない景色となる。それでも基哉はふらふらと歩みを進める。市役所の方角は見失わないようにしているので、そのうちに市役所に着くはずだ。
せまい道の両脇には古い民家が立ち並び、歩道は派手な黄色のペンキで塗装されている。車道のアスファルトは凹凸が激しくつぎはぎだらけ、道の真ん中にある融雪装置は相当痛んでおり、部分部分コンクリートがはがれ、錆だらけのパイプがむき出しになっている。
 似通った民家が並ぶ中、時たま看板を掲げた商店に出くわす。それは喫茶店であったり、煙草屋であったり、雑貨屋であったり。
 どの店も外見はボロボロで、中には既に店を閉じてしまったのだと思われる物もある。かつてはそれなりの人が入って賑わっていたのであろう住宅街の中の商店も、時代とともにその存在意義をなくそうとしていた。
 だいぶさまよったところで、基哉の周囲の景色が見覚えのあるものに変わってきた。
 そして気付く。もうすこし道の先を進み、住宅街を抜けたところにかつて基哉が通った高校がある事を。
基哉は方向転換をして、市役所に向かって歩き出した。見慣れたところに出たことで、気分が萎えた。
基哉は住宅街を縫うように進み、市役所への最短ルートを歩く。そして、あと少しで面通りに出ると言ったところで、基哉の前に小さな神社が現れた。
その神社は面通りから少し離れた住宅街の中にある。規模の小さい神社で、ネームバリューのある神様を祭っているわけではない。
基哉は高校生のころこの神社をよく利用していた。テストの前、高校生の少ないこづかいからそれなりの金額を賽銭箱に入れて、いい点が取れるように祈っていた。
テストの結果に神頼みの効果が表れたことはほとんどないが、それを気に止めはしなかった。そんな物ははじめから期待はしていなかった。ただ、さすがに、この神社に祭られている神様の御利益が火災防止であることを知った時には苦笑せざるを得なかったが。
しかし基哉はそれを知った後も参拝を続けた。
全くお門違いの願いをして、神様を困らせてみるのも面白い。
その当時、基哉はそんな酔狂なことを考えていた。
 久しぶりに神社の境内に入る。神社の外観は基哉の記憶していたものと変わりは無い。
 苔むした石造りの鳥居。そこから石を粗雑に敷いた短い参道が伸びている。右手には水の枯れた手水舎があり。境内の周囲には中途半端な大きさの樹木が何本か立っている。
 参道の突き当たりにある社殿はよくいえば年季の入った落ち着きのあるたたずまいと言え、悪く言うとボロボロの建物である。
別に基哉は信心深いわけではない。ただ、いつのころかれか神社などの空間が好きになっていた。寺社仏閣を訪れると心が洗われる気がしていた。
 基哉は石畳の上を歩き、賽銭箱の前に立った。賽銭箱の大きさは横二メートル、高さと奥行きが一メートルほどもある大きなものである。ただ、この賽銭箱が小銭で満たされることは永遠に無いだろう。
 基哉は財布から小銭を何枚か取り出すと、それを賽銭箱の上に落とした。それぞれの小銭が乾いた木の板にぶつかりながら箱の底に落ちる。
 それから鈴を鳴らし、深くニ礼する。音を立てずにニ拍手し、その手のひらを合わせた両手を顔の前に持っていく。
 基哉は願いも唱えず、半ば放心したように前方を見つめる。そうして、自分自身と言うものを見つめ返す。
 気付けば大学を休み、市役所で働きはじめて一カ月が過ぎた。仕事にも慣れ、職場の人間関係も良好。劇場通りの存在も知り、そこで不思議な縁もできた。それが喜ばしい物なのかははっきりとはしない。ただ、この一カ月、特に問題もなく、順調に過ごしている。
 しかし、どこかやるせなさを感じるのも事実だ。自分は今この時、市役所で働いていていいのだろうか、大学に通い続けるべきだったのだろうか、自分の今の生活にはどのような意義があるのだろうか。
 複雑な思いが基哉の中で錯綜する。考えれば考えるほど余計に複雑になっていき、そして心の底から得体のしれない不安がこみ上げてくる。
 基哉は一つ、大きく息を吐いた。
「悔いの無い人生を歩めますように」
 防火の神には不相応な願いを述べ、基哉は神社を後にした。










*六月十六日*
 土曜日。静寂に包まれた市役所東棟三階の一番奥。土地利用課があるフロアから、キーボードをたたく音が漏れてくる。通常、市役所職員が休日に出勤する事は無い。しかしこの日、基哉は出勤していた。前日にやり残していた仕事があったためだ。
その仕事は分量も少なく、内容も月曜日まで持ち越しても構わないものであった。しかし基哉は週末の内に済ませることにした。週末、家にいたとしてもする事が無かったからだ。
ちなみに、この場合のように自主的に休日に出勤した場合には給料は発生しない。
午前中から始めた作業を終えるころには時刻は午後三時を過ぎていた。基哉は窓の外を眺める。昼過ぎのけだるい日光が通りの向かいの建物を照らしている。
六月中旬、もうそろそろこの地方は梅雨入りになる。
基哉はのろのろと机の片づけをし、それから土地利用課のフロアから離れる。その際、財布に折りたたんで入れた電車の時刻表で、次の電車の時間を確認しておく。大学に通っていたころは電車の時間をわざわざ確認することは無くなった。しかし、この街に戻り、再びその習慣は復活した。駅の中で三十分ほど暇をつぶすのはなかなか大変なのである。
幸い、いい塩梅の時刻に自宅方面への電車があった。
 誰もいない廊下を歩き、正面玄関から市役所を出る。土曜日のこの時間帯は本当に職員がいない。玄関脇に立っている警備員はかなり暇そうにしていた。その気持ちは分からなくもない。
歩道に出て、駅に向かって歩き出そうとした時、基哉は背後から声をかけられた。
「あれ、本江さん、じゃ、ありませんか」
 基哉は振り返る。声をかけてきたのは、高校の学生服に身を包んだ一人の少女だった。身にまとっている制服はかつて基哉が通っていた高校、中央高校の夏服だ。紺のスカートに半袖ブラウス。ごくありきたりなものである。
 ただ、その少女はこの時期に何故か暑苦しそうなマフラーを纏って首と口元を隠していた。
「あの、どちらさまで?」
 基哉は少女が誰だか分からなかった。
「さすがに、この格好と、音声では、分かりませんか」
 少女の目が笑う。
 マフラーで顔の下半分を隠した容姿。そのような容姿をしている人を基哉は一人知っている。呉羽だ。しかし、この少女が呉羽だとすれば、一つ決定的な差異がある。
 声が全く違うのだ。この少女から発せられた声は多少たどたどしく、不自然なところがあるものの、普通の人の声と言ってよい。
呉羽の声は人の声に似ているかという範疇を大きく超えているのだ。
「もしかして、岩波さん?」
 基哉は半信半疑で尋ねた。
「ええ、そうですよ」
 少女は肯定する。
「だけど、その声は……」
「それは、これです」
呉羽は手に持っていた小さな機械を基哉に見せた。基哉がいぶかしげにその機械を眺めていると、呉羽は基哉に向けて説明を始めた。
「これは、音声出力装置です。喋りたい言葉をこれに入力すると、代わりに喋ってくれるんです。さすがに学校で、私の地声を出してしまうと周りから文句を言われますからね」
 後半は言い訳のようにも聞こえた。
「へえ、それにしても最初は誰かと思ったよ」
「本江さんの、困惑した表情は、面白かったですよ」
 呉羽がまた音声出力装置で答える。その返答の速さから、呉羽がこの機会をかなり使いこんでいることを基哉は理解した。
「しかし、私と気付くのは、他の人よりも、早かったように思えます」
「それは喜んでいいのかな」
「ええ、もちろん」
 親しげに話す呉羽。この少女とは中華料理屋で会った後にも何度か街中ですれ違っていた。その時は互いに相手の事に気付いても、会釈程度しかしてこなかった。
それなのに、この日において、呉羽はこんなに親しげに話しかけてくる。そこに違和感があった。そして、呉羽につられてか、自分自身もそれなりに親しげにしている事にもっと大きな違和感があった。
そのような事を思いながら、駅までの道を基哉は呉羽と二人で連れ立って歩く。
「本江さんは、仕事だったんですか? 市役所から、出てきたと、いうことは?」
 しばらくして、呉羽が少し不思議そうな表情で尋ねる。呉羽の言葉は依然として音声出力装置から発せられる。ただ、その発言はむしろ基哉の方に疑問を持たせた。
「あれ、岩波さんに話していたっけ。俺が市役所で働いている事」
「いえ、私はお父さんから聞いたんです」
「ああ、そう」
 確かに呉羽の父、勉は基哉が市役所で働いている事を知っている。
「そうだな。仕事と言えば仕事だけど、一種の残業かな。昨日少しやり残したことがあって。別に月曜日まで延ばしても問題ないことだったんだけど、なんとなく」
「そう、ですか」
「そう言う岩波さんこそ、何かあったの? 部活か何かの帰り?」
 その問いに呉羽はかぶりを振る。
「いえ、今日は、テストが、あったんです」
 それを聞いて基哉は自分の高校生のころを思い出した。確かにこの時期に休日を潰すテストがあった。懐かしく、つらい高校生活が基哉の脳裏によみがえる。
「そう言えばそうだ。高校生の頃、俺も受けたな、テスト。なんで土曜にやらなきゃならないんだと思ったもんだ。相変わらず、中央高校は土曜にテストやってるんだな」
 その言葉に呉羽が反応する。
「本江さんも、中央高校の、生徒さんだったんですか?」
「ああ、そうだ」
「そう、ですか」
 呉羽はそう発言したきり話題を深めようとしない。どうやらこのことにそこまで関心が無いように見えた。この反応は基哉には少し意外だった。呉羽なら、これも何かの縁、とでも言ってくるのではと思っていたからだ。
 市役所から駅方面に五分ほど歩き、奇怪な三叉路を渡ってすぐの所に、ビルとビルの間を縫うように小さな路地が走っている。その路地は劇場通り続いている。
呉羽はその路地の手前まで来ると再び音声を発した。
「では、私はここで」
 その呼びかけで、基哉も劇場通りへと向かう呉羽とここで別れるのに気づく。
「ああ、そうか。じゃあ、俺も腹減ったからさっさと家に帰るよ」
 軽く手を振り、基哉は駅の方へと足を向ける。それを呉羽は後ろから呼び止めた。
「そういうことなら、どうです? 今、私の家にでも寄って行きますか? お父さんは、今いないけれど、それなりの、おもてなしはできますよ」
 予想外の提案に、基哉は頭が真っ白になった。
基哉は焦った。この提案に対してどのような行動を取ればいいのか全く分からない。そもそも、呉羽が本気なのか冗談なのかそれすら判断がつけられなかった。
 どう答えようか迷った挙句、基哉はなんとか答えた。
「だ、代金は?」
 そう言った後で自分でも少し場違いなことを言っているのだと自覚する。
「廉価に、押さえておいて、あげます」
機械の音声は全く変わらぬトーンだが、呉羽の表情も少し戸惑っているように見えた。
 何とも言えない気まずい時間が流れる。
「えっとだな、よりたいのは山々だけど、今日はほとんど金持ってきてないし、電車の時間があるからさ、今日は遠慮しとく」
 基哉は少し上ずりながらそう答え、わざとらしく腕時計で時刻を確認した。
「そうですか。それは、残念です」
 会いも変わらず変わらぬトーン。しかし、基哉の答えを聞いた呉羽は心底残念そうな表情をした。
「なんか、悪いな」
 呉羽の表情を見た基哉から自然と言葉が漏れる。
「いえ、私もぶしつけなお願いをして、戸惑わせてしまいましたね。では、本江さん、色々、大変かもしれませんが、また来てくださいね」
 呉羽のその言葉に、少し引っ掛かるところもあったが、基哉はそのまま生返事をして呉羽と別れた。
 一人になった基哉は、自然と足早に歩いた。もう一度腕時計で時間を確認する。先ほど見たはずなのに、時刻が全く頭に入っていなかった。冷静になって、もう一度文字盤を見ると、基哉が乗ろうとしていた電車の発車時刻は既に過ぎていた。

*六月十九日*
 この日、基哉は駅のホームで酒井と会った。
「あれ、どうしたんだ? こんな時期に帰ってくるなんて?」
 基哉は尋ねる。大学進学にあたって上京した酒井がこの時期にこの街にいるのはおかしい。
「ちょっとな。教職の関係で高校に行かなきゃならんかったんだ」
「へえ、教職なんて取ってるんだな」
「まあな」
「それで、ちゃんと教師になるつもりなのか?」
 基哉の大学での知りあいの中で教職を取っている人は多い。しかし、その中で実際に教師になろうとしている者はごくわずかである。
「実際、教師になるのが俺の夢だったからな」
 酒井の答えに基哉は少し驚いた。中学、高校と付き合ってきた中で、酒井が人にものを教える職業に憧れを持っていたとは全く気がつかなかった。
「ふーん。そうか。意外だな」
「そうか? 俺はお前が生物系の学部に行った方が意外だったけどな」
 酒井の切り返しに基哉は口をつぐむ。
正直それは基哉自身も感じていることだった。そもそも基哉は生物系にそこまで興味があったわけではない。生物系の学部を受験したのはいわばついでだった。基哉が通っていた大学受験をする際、本命の学部を受けるついでに生物系の学部も受けたのだ。そして、本命の学部の方は落ちてしまったのである。
「まあ、それはいろいろ理由があってな」
 基哉は苦笑いを浮かべた。
 そこへ電車がホームに入ってくる。この時間帯の電車はそれなりに混んでいて、座席は既に人で埋まっていた。二人の乗る電車は同じである。
 電車に乗り込んだ基哉と酒井は立ったまま話を続ける。
「ところで、基哉はいつまで市役所で働くつもりなんだ?」
「大体、一年間の予定だ」
「そうか。それで三回生、四回生となって卒業か」
「そうだな、結局一年留年したのと同じような感じになっちまうな」
「大学院は行くつもりなのか」
「どうだろ、たぶん行くだろうな」
「そうしたら生涯賃金はますます減るな」
「うるせえ、余計な御世話だ」
 そこで二人の会話はいったん途切れる。お互い、外の景色を見たり、意味も無く携帯電話を確認したり、少し気まずい雰囲気が流れる。
 酒井が降りる駅が近づいてきたところで、酒井は再び基哉に話しかけた。
「ところで、基哉は何か将来の夢ってあるか?」
「何だよ。いきなり」
 車体が一つ大きく揺れ、減速をし始める。
「いや、最近少し思うようなことがあってさ」
「何を?」
「俺みたいに何か夢をはっきり持っている奴は、なんだかんだで楽だなってさ」
「どういう風に?」
 電車はさらに減速をし、駅のホームに入る。
「だって、目標がはっきりしてると、色々と悩む必要が無いだろ? 大学でも、俺より優秀な奴はいっぱいいるんだけどな、そいつらでも将来の目標がはっきりしていない奴はなんだか焦っているんだ」
 電車は停車し、ドアが開く。
「だから、基哉もちゃんとした夢を早く見つけた方がいいぞ」
 酒井が諭すように言う。
「と、言う訳でまた今度な」
 酒井は吊革から手を離し基哉に軽く手を振ると、電車から降りた。ドアが閉まり、また電車が動き出す。基哉は一つ、大きく息を吐いた。
「だから、余計な御世話だって」
 ドアにはめられたガラス越しに、基哉は酒井の背中に向けてそうつぶやいた。

*六月二十七日*
 仕事の帰り、基哉は一人で駅を目指す。特に意味もなく、足早に歩く。前方には交差点。ちょうど信号は赤である。基哉は歩く速度を緩めた。
交差点では一人の女子高校生が信号待ちをしていた。マフラーをしているその女子高生の後ろ姿に基哉は見覚えがある。
 ちょうど、信号が青に変わった時に基哉はその女子高生と並んだ。
「やあ、岩波さん」
 基哉はその女子高生に声をかける。振り向いたその顔は予想通り、呉羽だった。
 呉羽とは、いつかの土曜日に呉羽とあって以来、何度か帰り道で出会うことがあった。
「本江さん。こんにちは。それとも今晩は?」
「まだこんにちはかな」
 基哉は空を見上げる。日はだいぶ傾いているが、まだ沈んではいない。空は夕日によって茜色に染まっている。その赤色を背景に大量のカラスたちが飛び交い、鳴き声を響かせている。
 呉羽の返事は地声では無く、いつかの機械の声だ。
「……」
「どうかした?」
「いえ、別に何もありませんよ」
「なら、いいんだけど」
 ここ最近、二人が帰り道で会うと、呉羽は積極的に基哉に話しかけて来ていた。だが、今日の呉羽は実に静かである。基哉の方からいろいろ話しかけても、呉羽は一言二言しか答えない。
 基哉は不思議に思うと同時に、少しさみしく思った。
 あっという間に劇場通りへと続く路地に差し掛かる。呉羽がその入り口のところで立ち止まる。基哉も何気なく足を止め、呉羽に呼び掛ける。
「じゃあ、俺はこれで」
「……」
 呉羽からの返事は無い。明らかに様子が変だ。しかし、基哉はどうすればいいのか分からない。何かあったのかを聞いた方がいいのか、それともそっとしてあげた方がいいのか。基哉は考え、そして後者を選択した。基哉には勇気が無かった。呉羽に一瞥をくれ、駅に向かって歩きはじめる。
「少し、待ってください」
 呉羽の機械の声が基哉を呼び止める。基哉が振り返ると、呉羽は少し恥ずかしそうにしていた。
「ん、何?」
「このあと、少し、お茶でも、しませんか」
 この問いかけは十日ほど前の呉羽の誘いを思い起こさせた。あのときは酷く動揺してしまい、結局断ってしまった。自分のした行動を思い、少し恥ずかしくなる。
「まあ、いいよ」
 今回は動揺することもなくちゃんと答えた。その事に基哉は胸をなでおろす。基哉の返事を聞いて、呉羽はほっとした表情を見せた。
「いいんですか?」
「まあ、早く帰らなきゃいけない用事もないし」
「そうですか。では行きましょう」
 呉羽は少しはしゃぐように歩き出す。緊張で、少しこわばったままの基哉がその後を追う。
二人はそのまま駅前のチェーン店のドーナツ屋に向かった。そこはだいぶ昔からあるのだが、基哉が訪れたのは今まで数えるほどしかない。
店に入ると、時間帯のせいか学生制服を着た若者であふれている。皆それぞれ友人同士で騒いでいる。
 基哉たちはそれぞれに自分の食べたいものを買うことにした。トレーとトングを持ち、ドーナツの陳列棚に向かう。品ぞろえは豊富。たくさんの種類のドーナツがある。どれも色鮮やかなコーティングがしてあり、ユニークな形をしたものも多々ある。その中には、ドーナツとは思えない形のものもあった。
甘い臭いが基哉の鼻孔をくすぐる。甘いものがさほど得意ではない基哉はこのにおいだけでだいぶ食欲が減るように感じた。
 呉羽は手早く自分の食べたいドーナツを選び、会計で飲み物を注文している。
 呉羽をあまり待たせるわけにはいかないと思った基哉は陳列されている商品の中では一番甘くないと思われるカレーパンを一つトレーの上に乗せる。
 会計を済ませた後、二人は一番奥のテーブル席に座った。机の上には紙ナプキンとともに『ここで勉強をしないでください』と書かれた注意書きがある。しかしその注意書きはあまり効果を発揮していないようだ。隣のテーブルでは数人の男子高校生のグループが机全体に本やノートを広げている。
「なんか、珍しいな」
 呉羽は、器用にもマフラーを首に巻き、口元を隠したままドーナツを頬張っている。
「何がです?」
 呉羽が例のごとく機械で返事をする。
その様子を見て、食事中の会話には便利だなと基哉は感じた。
「だって、いつもなら、岩波さんは自分の家の店に誘うだろ」
 呉羽はドーナツを頬張りながら返事をする。
「そうですか? 確かに、お店で会う機会は今まで何度もありますが、私が誘った事はほとんどないですよ」
「そうだったけ?」
 基哉は思い返してみる。言われてみれば確かに呉羽自信に誘われたことはほとんどないように思えてきた。
「なら、今日は何で誘ったの?」
「諸々の事情です」
「親と喧嘩したとか?」
 その問いかけに呉羽は笑って否定する。
「それは違います。私はお父さんと、仲がいいんですよ。そう言う本江さんは、ご両親と喧嘩したことは、ありますか?」
「俺は生真面目な奴だったから、あんまり親とけんかしたことは無いな」
 呉羽は一つ目のドーナツをあっという間に平らげ、二つ目に手を伸ばす。そんな呉羽を基哉はぼんやりと眺める。
「どうかしましたか?」
「いや、俺の中では、女子はこういうものはカロリーがどうのこうのって言って、あまり食べようとしないって言うイメージがあったから」
「私はそう言うの、気にしないんです。体質的にも、食べてもあんまり太らないですし」
「へえ」
「それに、女子はカロリーが高いとか騒いでいても、結局は食べちゃいますしね」
「そんなもんか?」
「そんなもんです」
二人はそれからも、たわいもない会話に花を咲かせた。そして、二人ともドーナツを食べ終えたころ、呉羽が話題を変えた。
「今後のために、一つ聞いていいですか?」
「いいけど」
 呉羽が少し真面目な表情になる。
「本江さんは、どのようにして大学を選んだんですか?」
「岩波さんはもうそんなこと気にしてるの?」
「もうと言う時期ではないと思います。私は高校二年生で、高校生活もそろそろ半分です」
「言われてみればそうか。だけど、俺の話を聞いてもあんまり参考にならないと思うぜ」
 そう言って呉羽に一瞥をくれるが、呉羽の表情は続きを促している。基哉は軽くため息をついた。基哉にとって、自分の学生の頃の事を話すのは気乗りのしない事である。
「今から思うと、俺はそこまでちゃんと考えて決めたわけじゃないな。第一志望は確かに本当に行きたいところを選んだよ。大学についても色々調べたし、オープンキャンパスにも行った」
 そこで基哉は一息つく。
「だけど、他は適当だったな。とりあえず名前のブランドがある所を受けたり、先生に勧められた所を受けたりした。今思うと、もう少しちゃんと調べるべきだったなって思っている」
 そのことについて基哉は今でも後悔している。強い後悔ではないが、後悔には変わりない。
「結局ね、第一志望の所は落ちて、今行っているところは受かった大学の中で一番学費が安いところ。やってる事は自分が全く興味のないことだし、それに結局今、学費を稼ぐために働いているし、失敗したなって思ってるよ」
 基哉の話を聞き終えた呉羽は少し残っていたジュースを飲みほした。
「どうだ、あんまり参考にならなかっただろ?」
「いえ、失敗談と言うのは成功例よりいい参考になります」
「それはどうも」
 呉羽の言うことには納得するが、気のいいものではない。そんな基哉の気持ちが伝わったのか、呉羽も黙り込む。少し離れたところに座っている女子高生たちの品の無い笑い声がよく聞こえる。
「今度は俺が一つ、聞いていいかい」
 基哉はおもむろに口を開いた。
「何でしょう?」
 先日の酒井の言葉を思い出していた。
「呉羽の将来の夢って何かあるの?」
 基哉が相尋ねると、呉羽は機械で返事をせずに、鞄からメモ帳を取り出した。そして、メモ帳に挟んであったシャープペンシルを使いメモ帳の開いたページに書きはじめる。
『笑わずに聞いてくれますか?』
 何故そんなことを、しかもどうして筆談で尋ねるんだ?
 基哉は不思議に思う。
「ああ、笑わない」
 呉羽は何度かシャーペンでメモ帳をたたくと、何かを決心したかのようにシャーペンを強く握り、メモ帳に言葉をつづり始めた。
『私は、役者になりたいんです』
 その字はとてもきれいだった。メモ帳の真ん中に小さく書かれたその文字の羅列は基哉を悲しくさせる。
 呉羽は冗談を書いたりしているわけではない。ここ数カ月間、呉羽と接してきた基哉にはなんとなくそれが分かった。
 無い物ねだりという言葉が基哉の頭に浮かぶ。
 岩波呉羽。この声をまともに出せない少女が乞い焦がれるもの、それはよりにもよって彼女が一番できないことなのだ。
 もしかすると順番としては逆なのかもしれない。しかしそれでも大差ない。夢を叶えることが出来ないことをひしひしと感じつつ、それでも夢を捨てられないその虚しさを呉羽はきっと感じている。彼女が急に筆談を始めたのも、そのせいだったのだと基哉は感じた。
『気難しい顔をしてどうしたんです? 将来の事は誰にも分かりませんから、私が役者になれないという保証は無いんですよ』
 そして呉羽は笑った。マフラーで口元は見えないのだが、彼女は間違いなく笑った。
「そうだな、俺も呉羽が役者になれるよう祈ってるよ」
 基哉はそれしか言うしかなかった。
 呉羽は筆談に使ったメモのページを切り取って、紙飛行機を降りはじめた。
「いいですか、本江さん。今のは、他の人には、内緒ですよ」
 呉羽の飛ばした紙飛行機は風に乗ることもなくそのまま床に墜落する。紙飛行機の存在に気付いていない客の一人がそれを踏みつけ、ぺしゃんこにした。

*八月六日*
 梅雨が明け、それでもまだ蒸し暑い晴れた夏の日。夜になっても気温は下がらず、蜜を求めて集まる羽虫のように大人たちはアルコールを求め、劇場通りにやってくる。
 基哉もまた、彼らとは少し違った理由で、劇場通りを頻繁に訪れていた。
 寿司屋のカウンター席の一番奥から一つ手前。そこはもう半ば基哉の指定席となっていた。この日も基哉はその席に座り。肉じゃがを頬張る。基哉はこの店の肉じゃがを大変気に入っていた。
 基哉の隣、カウンター席の一番奥には呉羽が腰かけている。この日の服装はTシャツにロングスカート、それにいつものマフラーである。全身を覆い隠すドレスでは無い。
 呉羽がこの店に降りてくる目的は占いをするためだけではない。日によっては普通の恰好をして、店の隅で本を読んだり、勉強をしたりしている。ただ、食事はしない。
 基哉はこの店にはいる時、呉羽がいれば彼女の近くに座るようにしている。基哉本人としてはその行動にさほど意味を持たせていない。たとえ、呉羽の隣に座ったとしても、一言も言葉を交わさない時もある。
 この日も、呉羽とは一言もしゃべってはいない。基哉は横目で呉羽の様子を見る。彼女は手に持った文庫本を熱心に読んでいた。今日は一言もしゃべらないかな。基哉はそう思い。少しさみしく思った。
 しばらくして基哉は肉じゃがを食べ終え、もう一度呉羽を横目で見る。今度は呉羽も気付いたようで、本を閉じ、視線を基哉の方へ向けた。
「本江サンハモウオ帰リデスカ?」
「うん、まあね」
 劇場通りでは、呉羽は機械を使わずにしゃべる。
「ソウデスカ、デハ、その前に一ついいですか?」
「何?」
「実ハ今度、練習試合ガアルンデス」
「練習試合? どこで?」
「劇場デ、デス」
「劇場で?」
 基哉は少し混乱した。ここの劇場はただの小劇場であり、何かスポーツを行うような場所は無い。
「何の練習試合?」
「演劇デス」
 合点が行かない。
「演劇? それって練習試合っていうのか?」
 そこで呉羽は笑う。
「確カニ、言葉トシテハ、間違ッテマスネ。デスガ、他校ノ方ト合同練習ヲスル事ヲ、私達ノ部デハ何故カソウ呼ンデイルンデス」
 高校生のころ、親しかった友人の一人に演劇部の奴がいたが、そんなしきたりを聞いたことは無かった。それよりも、少し気になることがある。
「岩波さんは演劇部に入ってるの?」
「ハイ。ソウデスケド」
「役者として?」
「エエ、マア。一応、役者になるのが夢ですからね」
 呉羽は笑って答える。
 基哉はドーナツ屋での筆談を思い出した。
「それなりに本気なんだな」
「ソウデスヨ。ヤッパリアノトキハ信ジテクレマセンデシタカ?」
「ごめん」
 基哉は謝って呉羽の顔色をうかがう。しかし呉羽は気にしている様子は無い。
「ソレハ別ニイイデスヨ。トコロデ、本江サンハ、高校ノ演劇部ノ劇ヲゴ覧ニナラレタ事ハ?」
「一回だけある。三年の学園祭の時に」
「ドンナ内容デシタ?」
「確か事故死した青年の幽霊が葬式に出てくる話だったな……」
 基哉が高校三年の時クラスメイトに演劇部の人がいた。彼とはそれなりに親しかった基哉は学園祭の時にぜひ見に来てくれと誘われたのだ。
 体育館でひっそりと上演されたその劇は、設定こそ暗いものだったが実際の内容はコメディイであり、劇中の登場人物の滑稽な格好は今でも覚えている。
 受験がだんだんと近づき、心に焦りが出てきていた基哉にとってその劇はいい気分転換になった。懐かしさから、また見たくなって来る。
「アア、アレデスカ」
 呉羽は頷く。
「岩波さんも知ってるの?」
「去年、私達モソノ演題ヲ行イマシタノデ」
「その演題を近々やる予定は?」
「残念ナガラ、アリマセン」
「それは残念」
基哉はもう一度見られる物なら見てみたいと思っていた。
「ソレデデスネ、ドウデスカ、本江サン。練習試合ノ時ニ、私達ノ劇ヲ、ゴ覧ニナラレテハ」
「部外者がみてもいいのかい?」
「ハイ。私達トシテモ、オ客サンガイタ方ガ、演技ニ熱ガハイリマス」
「曜日はいつ? 平日は無理だよ。高校は夏休みでも俺は仕事があるから」
「ソコハヌカリアリマセン。練習試合ハ今度ノ土曜日デス」
 休日は安定して暇な基哉である。その日も予定は全く入っていない。
「そう言うことなら見学させてもらおうかな」
 これで休日の時間を持て余すことは無くなる。
「ジャア、約束デスヨ」
「ああ、分かった」
 呉羽は笑う。最近、基哉は呉羽がどんな表情をしているのか、顔の下半分がマフラーで隠れていても、分かるようになっていた。

*八月十一日*
 土曜日。午後。この日はあいにくの雨である。それでも普段と違い、劇場通りは人でにぎわっていた。この日、小劇場で『練習試合』が行われる。
参加する二つの高校は中央高校と、県内で数少ない私立高校の一つである第一高校である。
各高校の演劇部はそれぞれ足早に劇場内へ入っていく。皆、劇に必要な道具類が雨で濡れないように神経をとがらせていた。
 全体でおおよそ三十人程度。基哉より数年しか若くないはずなのに、高校制服を着た姿はとても若々しく見えた。
両校の演劇部ともに顧問の先生は来ていない。そのことに基哉は心底ほっとする。
基哉の在学当時から中央高校演劇部の顧問が変わっていなければ、呉羽たちの顧問は基哉の二年生の時の担任はずである。
その先生の事はよく覚えている。その先生は国語科の教師であるのだが、何故だか理系クラスの担任になっていた。いろいろ世話をかけてもらい、基哉はその先生の事に感謝をしている。だからこそ、このような状況で会いたくは無かった。
 今の自分の現状を見せてしまえば、きっと失望させてしまうだろう。それは心苦しいことであるし、何より失望の眼差しを送られることが怖かった。
 数日前に呉羽と約束をした後に基哉はその事を思い出し、半ば本気で来るのを止めようかと考えるほどだった。
 基哉はそれぞれの部員があわただしく荷物を劇場に入れるのを待って、最後に劇場に入った。
 劇場のステージでは中央高校の演劇部が準備をしている。まずは彼らから演劇を行うようだ。呉羽によると、中央高校の演劇部は昔からこの小劇場をよく使っているらしい。呉羽たちも何度かこの劇場を使った事があるそうで、準備も手際よく行っている。
一方で、第一高校の演劇部はそれぞれ思い思いの客席に腰かけている。
 基哉もどこかに座ろうと客席を見渡す。すると、ステージの近くに派手な髪の色をした女性が座っているのが目に入った。後ろ姿だけでその人物が誰なのか基哉には分かる。基哉にとっては忘れたくても忘れられない人物。劇場通りでスナックを経営しているマダムである。最初に店に引きずり込まれてからも、基哉は何度かマダムに捕まっていた。マダムはいい人なのだが、酔うと酒を強要してくるところが大いに問題である。
 マダムの周りには誰もいない。その奇抜な格好のせいで、高校生たちは少し警戒しているようだった。
 基哉はマダムから一席空けてその隣に座った。
「マダムさんこんにちは」
「あら、本江君。あなたも呼ばれてたの?」
 マダムはにっこり笑って、隣の空席のシートをバシバシと叩く。だいぶボロボロになっている座席から埃や毛くずが飛び出て舞い散る。
「ほら、こちらへどうぞ」
「あ、いえ。遠慮しておきます」
 基哉は速攻で固辞する。
「もう、シャイなんだから」
 マダムはいたずらっぽく笑みを浮かべる。基哉はマダムの近くに座ったことを少し後悔した。
「ところで、マダムさんは演劇とか詳しいんですか?」
「んー。本江君は?」
「俺は全然。だから今日もただ見ているだけのつもりです」
 基哉の答えにマダムもうなずく。
「私もそんなもんよ」
 なぜだかマダムの口ぶりからは、あまりそのようには思えなかった。

それから基哉たちはそれぞれの部の劇を鑑賞した。基哉はあまり詳しいことは分からないが、二校とも演技のレベルは同じ程度に思えた。
 ちなみに基哉がかつて見た、葬式の演劇は今日の二校よりもうまくできていた気がする。ただそれは、完成されたものとけいこ途中の違いや、思い出補正の影響もあるかもしれない。
 双方の演劇が終わるとそれぞれの部員同士で意見交換が行われた。マダムは先ほど詳しくないと言っておきながら、その輪の中に入り、様々な意見をまくしたてていた。その意見はおおよそ適切な物に思えたが、中にはひどく戸惑いを与えるものもあった。
 話し合いの間、基哉は中年女性に翻弄される高校生たちを眺めていた。

 時刻は午後五時。練習試合は終わり、第一高校の演劇部は既に帰ってしまっていた。中央高校の演劇部はもう少し練習しようと言う部長の言葉に従って練習を続けている。マダムは店の準備があるからと既に劇場を後にしていた。基哉は惰性でまだ彼らの練習を眺めている。
 知らない人間が見ているせいか、部員たちの演技少し硬くなっているようだった。
 劇の山場の部分の練習を終えたとき、部員の一人が声を上げた。
「すみません、私この後すぐに用事があるんです。本当にすみません。私もう行かなきゃ」
劇では重要な役回りを演じている一年生の女子部員だ。時間を確認し、少し慌てているように見える。
「そっか、なら仕方が無いね。なんかごめんね。予定を超えて長く突き合わせちゃって。じゃあ、また今度学校で」
 眼鏡をかけた上背のある、天然パーマの男子生徒が答える。彼は今日の劇でも味のある演技をしていた。彼が演劇部の部長である。
 女子部員は自分の荷物を手早くまとめると、慌てて劇場を後にした。
「さてと、今日の練習はこれくらいにしようか」
 部長が自分も時間を確認しながら言う。それを合図に部員たちの緊張がとかれる。
 皆、思い思いの場所に座りこみ、談笑を始め菓子をつまみ始める。
 基哉も席を立ちあがり、劇場を後にする。

 しばらくすると部長が立ちあがり、手を叩く。部員の視線が部長に集まる。
「さて、そろそろ学校に小道具を置きに行きますか」
 部長が皆に声をかける。その声を合図にそれぞれが撤収の準備を始める。道具類を片づけ、劇場内を整理し、自分の荷物と道具の入れられた段ボール箱を持つ。しかしここで一箱余ってしまった。一人先に帰ってしまったからである。
 部員は皆、さて困ったと言った表情になる。
「もうみんなこれ以上持てないか」
 部長は部員一人ひとりを見た末に呟いた。
「どうしようかな」
 部長は思案顔で頭を掻く。
「すみません、部長」
 呉羽が声をかける。
「どうしたの?」
「手伝ってくれる人を、呼んでこようと思います」
「それは助かる、お願いするよ」
「はい」

 別に確信があったわけではない。それでも呉羽は小劇場を出て、そのまま陳の中華料理屋に直行した。開店したばかりではある物の、既に客が何組か入っており、陳は厨房でせわしなく動いている。
 呉羽は店内を見回し、すぐにお目当ての人物を見つけた。
 呉羽は、カウンター席の端に歩み寄り、基哉に声をかけた。
「スミマセン本江サン、学校ニ小道具ヲ持ッテイクノヲ手伝ッテクレマセンカ?」
 ゆっくりと呉羽に顔を向ける基哉。その顔は少し曇っている。
「駄目デスカ?」
「えっとな……そう言う訳ではないんだけど」
 基哉は言葉を濁し、何かを言いかけ、口を閉じ、そして深くため息をついた。
「もう何か注文をされたんですか?」
「そうじゃないんだ」
 基哉は何か逡巡しているように見えた。その様子を呉羽はただ見つめるばかり。しばらくして基哉は席を立つ。
「手伝うよ」
「何カ予定デモ、アルノデシタラ無理ニ、オ願イハシマセンガ」
「いいや、そう言うのじゃないんだ。気にしないでくれ」
 つまらない、個人的な事だからと基哉は付け加えた。

基哉は高校を卒業した際に、一つの誓いを立てた。それは再び高校には訪れないというものだ。
基哉がこんな誓いを立てたのは自らの出身校に複雑な思いを抱いているからだ。
この高校は、超がつくほどの進学校だ。難関大学の合格率は高く、そのブランドは県内に知れ渡っている。先人たちの中には偉大な業績を上げた人も多い。そのためにこの学校には優秀な人材が集まる。生徒教師を問わずだ。
だから基哉はこの高校に在籍していたことに誇りを持ち、そこで知り合った人たちには敬意を持っている。
しかし、優秀な人間の中で過ごした三年間は基哉にとって苦痛でもあった。集団生活の中で様々な事が自然と比較され、自分の力量の無さが浮き彫りにされる。自尊心が傷つけられることもたたあった。だから基哉はこの高校に対して嫌悪の感情も抱いている。
しかしその嫌悪の感情は基哉の逆恨みである。それに気付いたのは高校三年のころ。そして基哉はさらなる自己嫌悪に陥った。
周囲についていけず、それを周りの制にしようとしている自分がただ嫌だった。
卒業を期に、基哉はそのような悩みからは解放された。
再び学校に赴けば当時の苦しい思いにさらされてしまう。だから基哉はもう二度と、高校を訪れないと決めた。

「本江さんは中央のOB何ですよね」
 学校に向かう途中、部長が基哉に話しかけてきた。
「ああ、そうだよ」
「何年ほど前の?」
「えっと、俺は今年で二十一だから、三年前に卒業したのか」
「じゃあ、俺たちとはすれ違いですね」
「そう言うことになるな」
「今は大学生ですか?」
「まあ、一応な」
 その含みのある返答に部長は敏感に反応する。
「どういう事です?」
 基哉は自分の近況を簡単に説明した。大学を休学して働いていることを。
「本江さんも大変ですね」
「まあな、だけど金の問題は仕方が無いところもあるからな。君もできるだけ親に負担をかけないようにした方がいいぞ」
 その言葉に、二人の話を聞いていた他の部員の面々は複雑な表情をする。
「これは変なプレッシャーをかけちまったか?」
「胃の痛くなる話です」
 部長はそう答えるが、基哉には部長が気にかけているようには思えなかった。
「あの」
 遠慮がちに一人の部員が声をかける。先ほどの劇でヒロインの立ち位置にいた子だ。
「なんだい?」
「酒井弘毅を知っていますか」
 その名前は紛れもなく、基哉の友人の名前だ。
「ああ、同級生だったけど」
「私、その妹です」
 酒井の妹はそう言って自分を指さす。
 基哉は驚いた。男と女の違いもあるせいか、見た目の雰囲気が兄とは全然違う。
「そうなんだ。そう言えばあいつ、妹がいるって話してた事があったな」
 基哉はじっくりと酒井妹の顔を見る。
「それにしても、あまり似てないな」
「よくそう言われます」
 酒井妹は軽く笑った。
「ところで、兄とは仲が良かったんですか?」
 基哉はどのように答えようか少し考える。
「そうだな、仲良しというより腐れ縁と言った方がいいかな。中学から同じ高校に行った奴はあまりいなかったからさ、お互いになんか意識しあっていたな」
「それ、なんとなく分かります。廊下で見かけたりすると、特にようもないのに話しかけたりしちゃうんですよね」
「そうそう。よくあったな、そんなこと」
 話しかけてしまった後で特に話こともない事に気付き、結局気まずい雰囲気になってしまうのである。
「本江さんは兄とは違う大学ですよね」
「ああ、まあな」
「大学はどこに行かれたんですか」
 聞かれるのを恐れていた質問だ。基哉は答えるのを少しためらったが、正直に答えた。
 酒井妹だけでなく、基哉の返答を聞いた部員の面々は皆少し困った顔をした。
 基哉の通っている大学は関西にある名の知れた私立大学である。一般的にはその大学の学生であることを恥じることは無いのだが、進学校である中央高校に在籍した者にとっては、その大学は二流、三流の大学であるのだ。
「俺さ、国立に落ちちゃってね」
 基哉は言い訳がましくそう言いながら、部員たちの顔色をうかがった。
 幸い、基哉の事を蔑むような態度を取る者はいない。むしろ皆、自分が受験に失敗したらどうしようと、不安に思っているようだった。
「浪人しようとは思わなかったんですか?」
 酒井妹が尋ねる。
「あの時は思わなかったな」
「どうしてです?」
「あの時俺は、もう逃げたかったんだ」
 思い返すまでもなく基哉は答える。
「逃げる?」
「そう。そんとき俺は、勉強なんてこりごりだったんだ。受験勉強なんてもうやりたくなかった。先生や周りからは浪人したらどうかって言われたんだけどね、俺はもう勉強できる気がしなかったんだ……。だけど、今思うとそれは自分の甘さだったと思う。今は浪人しなかったことを後悔してるんだ」
 いつの間にか皆が基哉の言葉に耳を傾けていた。それに気付いた基哉はこれから受験戦争の過酷さを味わうであろう高校生たちに一瞥をくれる。
「君たちも、逃げるなよ」
「はい、分かりました!」
 部長がことさら元気な調子で返事をする。
 部長の行動でちょっとした笑いが生まれ、緊張気味だった場の空気が緩む。
そんな中で、基哉の心の内は暗かった。
 皮肉だ。基哉は心の内でそう思う。なぜなら基哉自身が今まさに逃げているからだ。未来の選択から。
 自分が出来てもないことを、えらそうに先輩面をして後輩に言っているのだ。
「なんか、成功もしていない奴が偉そうに言ってごめんな」
「いえいえ、そんなことは無いですよ」
 部長が笑って言った。
 そうこうしているうちに、高校のすぐそこまで来ていた。

もう二度と来ない。そう誓った高校の正門は道路を挟んだ向かい側にある。道を渡ってしまえばそこはもう高校の敷地だ。道を渡ってしまうと、基哉は自分の建てた誓いを破ることになる。だが、基哉は既に決心がついていた。
 この誓いは、いわば受験に失敗した当時の、勉強をしたくないと言う気持ちと同じだ。当時感じていた自己嫌悪も結局は自分の甘さであり、その気持ちに拘るのは間違いなのだ。
だから自身の取るべき行動は既に決まりきっている。基哉は何のためらいもなく、足を踏み出した。
土曜日夕方の学校は静寂に包まれている。明かりのついている部屋は職員室といくつかの教室に限られ、校舎の大部分は闇に包まれている。
進学校であるこの高校では休日の部活動も早めに切りあがる。たまに野球部やサッカー部など、この学校内でも比較的熱心に活動を行っている部が遅くまでやっていることもあるが、この日は既にどこの部活も活動を終えてしまっているらしい。
 演劇部の面々は校舎には入らずに、グラウンドの端にある道を歩いて行く。道なりに進めば体育館の裏手まで行く。そこには、小部屋を連ねたコンクリート造りの年季の入った建物がある。この建物の小部屋は各々の部活に割り当てられており、多くの部活はこれらの小部屋を倉庫代わりに使っている。演劇部もそのように使っている。ちなみに、多くの部活はこの小部屋の他に各々の部室を持っている。
 基哉たちは今回の練習試合で使った道具類を倉庫に押し込むと、倉庫のドアを施錠した。
「これでよし。この後どうする?」
 部長が声をかける。
「カラオケにでも行きたいです」
 部員の一人が間髪いれずに発言する。
「カラオケかあ、行く人」
 部長の問いかけにほとんどの部員が手を上げた。手を上げなかった数人は、申し訳なさそうな顔をしながら今日はもう帰りますと部長に伝えている。呉羽もそのうちの一人だ。
「じゃあ、カラオケで決まりだな。僕は鍵を返しに行くついでに先生とちょっと話してくるから先に行っといて」
 部長の発言を合図に皆が移動を始める。
 学校の正門を出たところで、集団は分かれる。カラオケに行く者は正門を出て右に曲がり、帰宅のため駅へ向かう者は左へ曲がる。
基哉と呉羽は道を渡るため、正門の真正面にある信号が青のなるのを待つ。
信号待ちをしている基哉を目に止めた酒井妹は声をかける。
「あれ、駅は左に曲がった方が近いと思いますけど?」
「まあ、そうだけど。ちょっと市役所に用事があってね」
「そうですか、では私はここで」
「ああ、酒井によろしく言っといてくれ」
「わかりました」 
 信号が青に変わる。基哉と呉羽は横断歩道を渡り始めた。
 基哉と呉羽は車通りの無い狭い道を歩く。高校の正門からまっすぐに延びるこの道は、そのままつきあたりまで進むと、この街の目抜き通りに突き当たる。そして、そこからちょうど道の向かいにあるのが市役所だ。ちなみに劇場通りはそこから北上したところにある。
「そう言えば、今日は勉さん見なかったけど……」
 基哉は先ほどから気になっていたことを口にした。
「今日ハ少シオ出カケデス」
「お出かけ?」
「ハイ、実ハ、オ見合イヲシニ」
 呉羽の表情からその発言が冗談であることが分かる。
「それでどこに?」
「サア、ドコニデショウ?」
 その口ぶりからして、呉羽は行き先を知っているようだった。しかし、基哉に教える気は無いらしい。
「まあ、いいか」
 勉がどこに行こうが基哉にはあまり関係は無い。
 学校と市役所の中間辺りに来た時に、基哉はあることを思いつく。
「そうだ、俺はちょっと寄り道するけど……」
「ドコヘ……行カレルンデスカ?」
 呉羽が興味ありげに聞いてくる。
「まあ、すぐそこへ」
「ツイテ行ッテモカマイマセンカ?」
「いいけど、別に面白いものなんて無いよ」
 基哉たちは通りを離れ、住宅地に入る。狭い道を何度か曲がったところで、基哉の目的地にたどり着く。
 そこは基哉が高校時代幾度となく訪れ、先月にもふらりと立ち寄った、小さな神社だった。
「アア、ココデスカ」
「この神社知ってるの?」
「ソレハ、マア。私ハコノ街ニ住ンデイルンデスヨ。ドコニ何ガアルカハ大体知ッテイマス」
 呉羽は自信ありげにそう発言する。
 二人は石でできた鳥居をくぐり、みすぼらしい社殿の前に並ぶ。賽銭を投げ入れると、相も変わらず乾いた木の音しか聞こえなかった。
「私たち以外に、この神社を参拝する人はいるんでしょうか?」
「そりゃ、いるだろう。ここの周辺の人たちはこの神社の加護を受けているはずだからさ、信心深い人なら参拝しているはずだ」
「そうですね」
 そう返事をして呉羽は賽銭箱の前で動きを止める。
「どうかした?」
 基哉の問いかけにも応じない。
「覚エテイマスカ?」
 唐突に呉羽が問いかける。
「何を?」
 基哉が戸惑いの返事をする。それを聞いた呉羽は基哉に顔を向ける。その表情はとても複雑だった。
「ヤッパリ、何デモナイデス」
「ああ、そう」
 呉羽は何か言いたげでもあったが、基哉は尋ねないでおくことにした。
時刻は六時を大きく回っている。日もだいぶ傾き、境内に長い影を作る。
呉羽は社殿の石段に座りこんだ。
「少しだけ、ここにいていいですか?」
「うん、まあいいけど」
 基哉はまたも戸惑いながら答える。
 そうして二人の間にしじまの時が訪れる。聞こえるのはかなたの上空でわめいているカラスの鳴き声だけだ。
 先ほどから少し気になっている事が基哉にはあった。ただそれは聞かないでおいた方がいい事にも思えた。しかし、この静寂の時が基哉に口を開かせる。
「ちょっと失礼なことを聞くかもしれないけれど、いい?」
「何デスカ?」
 呉羽の顔に期待と不安の影がよぎる。
「岩波さんは今日やった劇に満足しているの?」
「ト、言イマスト?」
 呉羽の表情が戸惑いに変わる。
「いや、今回の劇ってさ、結局岩波さんのセリフって無かっただろ。確かに重要な役割ではあったけど、喋ってなかったから、それでいいのかなって」
 呉羽は基哉から顔をそむける。
「仕方ナイデスヨ。私ノ声ナラ。ソレニ他ノ演題デハ多少セリフガアリマス」
 呉羽のいい訳のような答え。
 ここまで聞けば呉羽の気持ちは分かる。しかし基哉はさらに踏み込んで質問した。
「だけど、岩波さんは役者になりたいんだろ? それは喋らない役者でもいいのかい?」
 この時期としてはいように冷たい南風が境内を通り抜ける。
「ソンナノ、ワザワザ口ニ出シテ、言ワナケレバナラナイコトジャナイデショウ」
 呉羽は絞り出すようにそう言った。 
そしてそのことを無理に聞き出そうとした基哉にも腹を立てているようだった。
 ここれはもう何も言わない方がいいかもしれない。頭の中ではそう思っていたが基哉の口は止らない。
「だったら、自分でやってみたらどうなんだ? 例えば自分で自分の演技する台本を作ってみるとか?」
 基哉は自分でもこれはいい加減だなと思った。これは余計に呉羽を怒らせたかもしれない。
 呉羽はうつむいたままだ。
 しばらくの沈黙。
「本江サンガ手伝ウノナラ、ヤッテミヨウトハ思イマスケド」
 予想外の返答。とても小さく、不明瞭だったが、基哉ははっきりとその言葉を聞き取った。しかし、どのように答えてよいか戸惑う。
「ドウナンデスカ?」
 呉羽が催促する。
 ここまでの経緯を思い、基哉は決心した。
「それは、できることはやるよ」
「例エバ、劇ノ役者ナドモ?」
「俺も演じるってこと?」
「ソウデス」
 手伝うと言っても裏方あたりの仕事だろうとたかをくくっていた基哉は一瞬返答に詰まった。
「そ、それは、大丈夫だ。俺は中学生のころ、学園祭で学年の演劇の役者をやったんだ」
 そのことは事実だ。
「デハ、ヤレルコトハスルトイウノヲ信ジテイインデスネ?」
 呉羽は顔を上げ、まっすぐに基哉を見る。呉羽は本気だった。
「ああ、大丈夫だ」
 基哉は深くうなずく。
 呉羽は右手の小指を差し出した。
「指キリゲンマンデス」
基哉は自分の小指を呉羽の小指に絡ませる。基哉も自分から言い出したからには覚悟を決める。
「岩波さん、これから頑張りましょう」
「呉羽デ、イイデスヨ」
「え?」
「他ノ皆サンハ、私ヲ名前デ呼ブノデ、ソチラノ方ガ、シックリ来ルンデス」
 呉羽の顔の下半分はマフラーに隠れてみることが出来ない。それでも基哉は呉羽が満面の笑みを浮かべていることが分かった。

 基哉は薄暗い市役所の中を一人で歩いている。呉羽とは入口のところで別れた。
 実は来なければならない用事は無い。先ほど、酒井の妹に用があると言ったのは方便だった。演劇部の面々と別れるための。
 基哉は東棟三階の廊下を歩く。土地利用課フロアの手前まで来たところで、近くの会議室の扉が突然開いた。
 無人だと思い込んでいた基哉は驚いて思わず声を上げる。
「あれ、本江君じゃないか」
 会議室から出てきたのは吉田だった。
「吉田さん。こんな時間にいるなんて珍しいですね」
「君も人の事を言えたもんじゃないじゃないか」
「そうですね」
 吉田の手にはたくさんの資料が閉じられたファイルがある。
「ところで、今日は何をしていたんですか?」
「ちょっと会議があったんだ」
「会議、ですか」
 土曜日に会議をやるなんて珍しいなと基哉は思った。
「うん。そうだよ。いやー、大変だったんだから」
「原田さんが相手方と大喧嘩してね」
 原田の性格を考えて、ありうるかもしれないという結論に達する。
「話は全然まとまらなかったし、原田さんは怒って帰っちゃうしね。おかげで片づけは僕一人でやるはめになっちゃったんだよ」
 吉田はわざとらしく泣き真似をする。
「それは大変ですね。俺も手伝いましょうか?」
「あいにく、今片づけが終わったところさ」
「そうですか」
「ところで、本江君はどうして市役所へ?」
「まあ、大した理由は無いんですけどね、今日は近くまで来る用事があったんで、帰り際についでに寄っただけです」
 二人は土地利用課のフロアまで来た。吉田は手に持ったファイルを自分の机にしまい、椅子の上に置いてある鞄を手に取った。
「ああ、やっと帰れる」
 吉田は大きく伸びをした。それから、嬉々とした表情を基哉に向ける。
「さあ、本江君、これから飲みに行こうじゃないか」
「え、でも俺、今金持っていないんですけど」
「大丈夫、僕が奢るから」
「いや、でも」
「問題ないさ。それに僕は人に奢ったりするのが好きなんだよ」
「それは知っていますけど……」
 渋る基哉をよそに、吉田は強引に基哉と肩を組むとそのまま強引に市役所を後にした。

*八月十八日*
 この街の中心部には一つの小さな川が流れている。松川と呼ばれるその川は、春には川べりに植えられた桜が咲き誇り、県内でも有数の花見の名所となる。遊覧船も運航されていて、桜が咲き誇る時期には桜並木のトンネル中、ゆったりと川下りをすることが出来る。
 遊覧船の発着所の横には小さな和食料理屋があり、その庵を思わせる佇まいはどことなく浮世離れした雰囲気を醸し出している。
 基哉はその店先で硝子戸の奥に展示されている様々な食品サンプルを眺めている。
 休みの日の午前中、珍しく早起きをした基哉は携帯にメールが届いていることに気がついた。その内容を見てみると、差出人は呉羽からであり、『今日は暇ですか』という短いメッセージが表示された。
 週末の時間をもてあましている基哉はすぐさま暇であるという旨のメールを返信したところ、すぐさまこの場所に来るようにとメールが返ってきた。
 時刻は昼時、朝食を食べていない基哉は空腹感を感じずにはいられなかった。
 色鮮やかな料理から目を離し、基哉は時間を確認する。指示された時間、十二時半をちょうど回ったところだ。
 呼び出した本人はまだ来ていない。
 基哉は辺りを見回した。
 幹線道路を往来する車。人通りの少ない歩道。誰もいないバス停。涼しげに水が流れる松川。そこに木漏れ日を落とす桜並木。蝉の鳴き声が響き、ここにも本格的な夏が訪れた事を感じさせる。
 やがて、道路を挟んだ向かい側の歩道から一人の女性が歩いてくるのが見えた。その女性は全体としては涼しげな恰好をしている物の、季節外れのマフラーを首に巻き、顔の下半分を隠している。
 基哉はその女性が呉羽であることが容易に分かった。
歩行者用信号が青に変わり、備え付けられている小さなスピーカーからカッコウの鳴き声を模した電信音が流れる。幹線道路を走る車は横断歩道の手前で止まり、呉羽に道を譲る。
呉羽が横断歩道を渡り終えたと同時にカッコウの鳴き声は止み、信号が点滅をはじめる。
「待チマシタ?」
「ちょっとね」
「ソコハ、俺モ、今来タトコロダッテ、言ウモンデスヨ」
 呉羽は不満げにつぶやいた。
 二人はそれから料理屋に入る。
店内にはほとんど客はいなかった。十脚ほどのテーブルが並ぶ中、基哉たちは一番奥のテーブルに案内された。
一部の壁がガラス張りになっており、基哉たちの席からは松川の流れがよく見える。
二人が注文を終えると、呉羽は鞄から一冊のA4ノートを取り出した。表紙にはサインペンで全体的に丸みを帯びた可愛げなキャラクターが描かれている。
呉羽は何枚かページをめくり、あるところで指を止め、ノートを机の上に広げた。それからシャーペンを取り出し、今日の日付を記す。
 呉羽はノートに文字を書き、基哉に読むように促す。
『さて、始めますか』
「何を? そしてどうして筆談?」
『なんとなく、この静かな雰囲気を壊さないためです。それに記録にもなりますし』
「じゃあ、俺も筆談の方がいいの」
『いえ、構いません。そしてこれから話し合うのはあの事です』
 あの事。それは先日、神社で約束したことだ。二人で演劇作品を作り、それを劇場で発表する。
「あれか、もちろんちゃんとやるさ」
『後戻りはできませんよ?』
「その言い方、なんか悪いことをしようとしてるみたいだな」
『そうですね』
 呉羽は笑みをこぼした。
 二人で作ると言ってもそれは仕事を二人で分担するという意味ではない。実際は、呉羽が作りたいものを作り、基哉がそのサポートをするという形だ。
 脚本も呉羽が好きなように書くわけであり、そこに基哉の意見はあまり取り入れられないだろう。そして脚本が出来上がるまでは基哉のできることはほぼ無い。
 昼食が運ばれて来る前も、昼食を食べている最中も、昼食を食べた後も、基哉はただ、ぼんやりと呉羽の脚本作りを眺め、時折呉羽がしてくる取りとめのない質問に適当に答えていた。
 昼食を食べ終えて、小一時間が経った頃、呉羽はノートを閉じた。
「今日は、これくらいに、しておきます」
 機械的な音声が呉羽の手元から流れてくる。
「ん、ああ、そう」
 半ばまどろみかけていた基哉は慌てて返事をする。
「それで、本江さん。この後、どうします?」
「どうしますって言われてもね、俺はとくに用事もないし、今日は呉羽に付き合うよ」
「うれしいことを、言ってくれますね」
 呉羽はまんざらでもない表情で答える。
「なら、『大和』にでも行きましょう」
大和とはこの県内で最大規模を誇る地方デパートだ。ちなみに読みはダイワ。その歴史は古く、戦前から営業を行っており、もはや街の象徴の一つと言ってもいいくらいだ。
二人は勘定をすませて店を出ると、松川沿いに歩いて大和へと向かうことにした。
一年を通して比較的気温が上がりにくいこの街も、八月の昼間となれば外の気温は汗が噴き出るほど高くなる。それでも、松川沿いの遊歩道は川の流れと、桜の木々が作る木陰で幾分か涼しく感じられる。
道すがら、とくに話す事もない基哉は以前から気になっていた事を尋ねてみることにした。
「その機械、いつも持ってるの?」
「家から、出るときは、いつも、携帯しています」
「へえ」
 周囲には二人の他に人はいない。
「私は、地声で話すのは、家の近くだけと、決めてるんです」
「それには何か理由でもあるの?」
 呉羽は基哉の問いかけには答えず、川べりに立つ一つの彫刻のもとへ駆け寄る。遊歩道の脇には奇天烈な造形をした現代美術の作品が等間隔におかれている。それら美的感覚が分からない基哉にとって、それらは金の無駄にしか思えない。
「本江さん、これ、何だか、分かります?」
 その彫刻は真っ黒で棒人間のような形をしている。それはまるで両手で自分の首を絞め、苦悶の表情を浮かべているようだった。
「実はこれ、私なんですよ」
 呉羽が自虐的な笑みを浮かべる。その様子を見た基哉は、呉羽に聞こえるかどうかという小さな声で「笑えないな」と呟いた。

それからしばらくして二人は大和についた。近年改装したおかげで店内はまるで新店舗のような雰囲気だ。何もかもが真新しく、年季を感じさせない。
一般のショッピングセンターとは違う、百貨店の独特の雰囲気は出ているが、都会にある百貨店よりは今一つ高級感に欠ける。
 店内には満員とまではいかないが、それなりに人は入っているようだ。
 人口のが減少の一途をたどっているこの街では、休日であっても客の入りがさみしい店は多い。
 そのことを考えるとこの街における大和のブランド力や集客力は称賛に値するものなのだろう。
とは言うものの、さすがに平日は人が入らないようで、休みになることもあるそうだ。それもこの街らしい。
 大和の一階は婦人向けのフロアになっている。若者向けから中高年向けまでの幅広い女性向けの服を売っており、他にも化粧品店や美容に関する商品を扱った店が所せましと並んでいる。売っている商品の中には県内ではここでしか買えないものもある。
 呉羽がここに来たのもこれらの商品を見るためだと基哉は考えていた。しかし、その予想は外れた。呉羽は周りの商品には目もくれず、階上へのエスカレーターへと向かう。
 その時、とても豪奢な衣服に身を包んだ女性が基哉の下に寄ってきた。
「あれ、本江君じゃない」
 基哉はその女性を見て、自信なさげに返事をする。
「えっと、木戸さん、ですか?」
「何よその間は!」
 木戸が不満げな表情になる。
「いつもと服装がだいぶ違うので……」
 基哉は必死に弁明する。普段、市役所で地味な服を着ている木戸を見慣れた基哉にとって、今の木戸は他人のようにも見える。
「そりゃね、市役所で派手な服を着るわけにもいかないでしょ」
 服装が明るくなったせいか、木戸のテンションは普段より高いように思えた。そんな木戸は呉羽に気付くと、基哉に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「おや、その子は本江君の彼女?」
「え、いや」
「違います」
 基哉がうろたえていると、すかさず呉羽が機械を使って返事をした。
「そ、そうです。友達ですよ」
「ふーん」
 木戸はにやつきながら二人を交互に見る。
「邪魔しちゃ悪いわね。じゃあ、私はこれで。本江君、また市役所でね。やっぱ若いっていいわ」
 木戸は大手を振って人ごみの中に消えて言った。
「誰ですか、あの人」
 呉羽は敵意の眼差しを木戸の後ろ姿に向ける。
「同じ職場の同僚。普段は仕事の時はちゃんとした感じなのに」
「人は場所によって性格が変わるものですよ」
呉羽はそう言ってしばらく黙りこんでいた。木戸に会って少し機嫌を悪くしたようだ。
二人はそれからエスカレーターを使って最上階に上がる。最上階はフロアすべてが本屋になっている。
「私は少し探し物があるので」
 呉羽はエスカレーターを降りるなりそう言った。
「三十分後にここに集合しましょう」
「分かった」
「では、また後で」
 呉羽はそう言うなり人ごみの中に溶け込んでいった。
 基哉がこの本屋を訪れたのは今までに数回しかない。この本屋はそれなりの規模があり、どこにどんなジャンルの本が置いてあるかは全く理解していなかった。
 基哉は当てもなく本棚の間を歩き回る。
 そのうちに、一つのコーナーに出くわした。参考書のコーナーである。そこには様々な種類の本が並べられてある。基哉にとって今はもう全く縁のない代物だ。それでもなんとなく見ていると、かつて、自分の受けた国立大学の過去問題集を見つけた。基哉は何気なくそれを手に取り、ページをめくる。本の半ばに自分の受けたテスト問題が載っていた。改めて問題文を読む。試験の時は全く歯が立たなかった問題だ。もちろん解けるはずもない。基哉はさらにページをめくり、その問題の答えを探した。参考書の最後の方に答えが載っていた。基哉はその答えを二三度読んだが、結局なぜそのような答えになるのか理解できなかった。
基哉は時計を確認する。思いの外時間が経っており、基哉は待ち合わせの場所に向かうことにした。
少し道に迷いながら疎な場所に行くと呉羽は既にそこにいた。
手には本屋の袋を提げている。
「何か買ったの?」
「はい、買いましたよ」
「何を買ったの?」
「それは秘密です」
 基哉は何度か何を買ったのか聞いたが、呉羽は結局何を買ったのかは教えてくれなかった。
 二人はそれから大和を後にし、街中を当てもなく歩き回る。特に目的もなく、自由気ままに。途中、この街には珍しい、パンケーキ専門店を見つけ、そこで基哉と呉羽は甘いパンケーキに舌鼓を打った。
そうして数時間が立った後、二人は劇場通りへと向かう。日がだいぶ傾いてきたとはいえ、まだまだ外の気温は高い。
「今日は、ありがとうございました」
 呉羽がそう述べる。
「どういたしまして。でも俺は特に何かしてあげたわけじゃないけど」
「そうでもないですよ。今朝、急に呼びたしたのに、ちゃんと来てくれましたし」
「あれはたまたま、朝早く起きていたから。普段なら寝てたよ」
「そうですか、では次はもう少し遅めにメールします」
「そうしてくれ」
 基哉の返事を聞いて、呉羽は笑う。
「どうした?」
「いいえ、なんでもありません」
 基哉はそんな呉羽の様子を見て不思議に思うと同時に少しほっとした。
「そういえば、もう夕方です。よろしければ、私のお店で何か食ベていきますか?」
 基哉は時間を確認する。思いの外時間が立っていた。
「悪いけど、遠慮しとくよ。最近、親が夕飯は家族みんなで食べようって、うるさくてね」
「そうですか。それは仕方ないですね。では、また今度」
「ああ、今度は近いうちに店に食べに行くよ」
 そうして二人は劇場通りへと続く、狭い路地の所で別れた。

 その日の夜、寿司屋。
 マダムは自分の店を抜け出して勉の店にいた。店から持ち出してきたワインを片手に勉の作る寿司をほおばる。
視線の先では全身フードで身を包んだ呉羽が酔っ払いを相手に占いをしているところだ。
「呉羽ちゃん、最近楽しそうね」
 湯呑にワインを注ぎ、それを一気に飲み干す。
「やっぱりあんたもそう思うか」
 マダムの呟きに勉が反応する。
「そりゃね。見ればわかるわ。で、どうしてそうなのか、あなた知ってるの?」
 勉がかぶりを振る。
「それがわかんねえんだよな」
「使えない親ねえ」
「うるせえ。そう言うあんたは何か知ってるのか?」
 呉羽の気分を明るくさせる出来事。マダムには一つ心当たりがあった。
 最近ここによく来るようになった市役所の青年だ。
劇場通りの店に来る人間は中年の男性が多い。若者や女性は少ないのだ。だから年の若い男性が来ればここの女性陣は多少浮かれた気分になる。マダムもそんな一人だ。
「まあ、心当たりが無いわけじゃないけれど……」
「何だ? 教えてくれよ」
「それは無理な注文ってやつね」
「なんだよ、ケチくさいな。それともあれか、実はあんたも分かってないんじゃないのか?」
「安い挑発ね」
マダムは湯飲み一杯のワインをまた飲み干し、顔を赤く染める。
 ここに若い男性が来るのは珍しい。しかしだからと言って、呉羽が目に見えて態度を変えることはまず無い。
マダムは分かっていた。呉羽があの若者に何か特別な感情を抱いていることを。ただ、このことを勉に言ってしまうと、彼は絶対に勘違いをしてしまう。それはお互いにとってよくは無い。
「まあ、呉羽ちゃんにとっていいことなんだし。温かく見守ってやりましょうよ。余計な詮索は野暮ってやつよ」
 この言葉に勉は憮然とした表情になる。
 マダムは呉羽の方を見やる。酔っ払い相手に占いの結果を伝えているところだった。普段より饒舌になっているのは、やはり呉羽の機嫌がいいためであろう。
呉羽に何を言われたのか知らないが、占いを終えた酔っ払いは有頂天になって、この店で一番値の張る料理を注文した。
呉羽はどのようにして占いの仕方を学んだのか誰も知らないが、しかし、その占いはそれなりに当たると言うのは劇場通りに通い詰めている者ならみんな知っていることだった。。
 寿司屋の入口の引き戸が勢い良く開けられる。そして店内に奇抜な格好をした若い四人組の男が入ってきた。先頭の青年がギターを担いでいるところから見ると、この四人組はバンドなのだろう。
「おっさん、今日も来てやったぜ」
 ギターを担いだ青年が叫ぶ。
「俺はおっさんじゃねえし、お前らに来てほしいと頼んだ覚えは無い」
 勉が無愛想に答える。
「そんなことを言わないでくれよ。俺たちはおっさんに会うのを楽しみにしていたんだから」
「気持ち悪い冗談を言うな。それで、どっちだ? 今日は両方開いてるぞ」
 それを聞いて四人組は相談を始めた。声が大きいのでその内容は容易に分かる。それはマダムにとってはどうでもいいと思える内容だった。
数分ののち、ようやく話がまとまった。
「なら、ステージを使わしてもらおうかな」
「そうか、入口の鍵は開いてる。中の使い方は分かるな」
「ああ、ばっちりだ。それじゃ、遠慮して使わせてもらうぜ」
 四人は店の出口に向かう。
「おい」
 勉は四人の背中に向かって呼びかける。
「何だよ」
「一度くらいは俺の店で飯食ってけよ」
「だってよ、俺たちにしたら高いんだよ。居酒屋の料理は」
「居酒屋じゃない。ここは寿司屋だ」
「なおさら高えじゃねえか」
 リーダー格の青年の言葉に他の二人は笑いながら店を出た。最後の一人。長身で、仏頂面をした青年が、丁寧にお辞儀をして、店の引き戸を閉めた。
「何? あの子たち?」
マダムは青年たちが消えて行った引き戸の方を眺めながら尋ねる。
「最近ここに来るようになった奴らだ」
「変な格好してたわね」
「ロックバンドだそうだ」
「ロックバンド?」
「ビジュアル系とか言うらしい」
「最近の若い子の趣味は私には分からないわ」
「そうなのか? 見た目はあんたもあいつらもさほど変わらないように見えるんだが」
「なんですって?」
 マダムは勉を睨みつける。勉は一本取ってやったという顔つきでマダムを見返した。
 先ほど締められた引き戸が再び勢いよく開く。そして、数人の酔っ払いが勢いよく店の中に流れ込んできた。それはマダムの店の常連客だ。
「マダムさん、俺たちの相手をしてくれよ」
 常連客が店の入り口から哀願の眼差しを向ける。それに勉の店の常連客が反応し、軽い口論を始める。
「あら、私もそろそろお店に戻らないとね」
「さっさと行っちまえ」
 勉が迷惑そうな顔つきでマダムを見る。マダムはワインのボトルにコルクを詰め直すと、席を立った。
「じゃあね、呉羽ちゃん」
 呉羽に向かって手を振った。呉羽がそれに応えてくれたのを確認して、マダムは店を後にした。

::八月十九日
 この日もまた基哉は呉羽に呼び出されていた。お盆休みも開けて、基哉は次の日から仕事である。そのため、最初は断ったのだが、呉羽がどうしても来てほしいと言ってきた。
 普段の呉羽は基哉が断ればすんなりとあきらめる。しかし、その日は違った。
 どうやら呉羽本人も翌日から忙しくなるらしい。
高校の夏休みは思いがけず短いものなのである。
 時刻はちょうど十時を超えたころ。夏の強い日差しが空から降り注ぎ、気温をどんどん上げる。呉羽の家の前に立った時には基哉は額から汗を噴き出ていた。
「呉羽、いるのか?」
 店の前でそう叫ぶ。しかし、返事は無い。
 この建物には入口は二つある。店の入り口にもなっている正面の引き戸。そして裏手の勝手口。どちらにも呼び鈴の類はついていない。裏口からも声をかけたが反応は無かった。
正面に戻り、引き戸をたたく。思いの外、大きな音が辺りに響く。それでも何の反応は無い。
「…おかしいな」
 基哉は携帯電話を取り出し、メールを確認する。ちゃんとこの時間帯に行くと連絡を入れている。呉羽からの確認のメールも届いている。
 どうしたものかと基哉は考える。そして、試しに戸を引いてみた。当然鍵はかかっているだろうという基哉の予測に反して、戸は簡単に開いた。
 照明が落とされた薄暗い店内の様子が目に入る。どうやら勉もいないらしい。
 この建物は一階の大部分が店舗になっており居住スペースはほとんど二階にある。
 基哉はニ階へ通じるドアがどれなのかを知っていた。勝手に人の家に上がるのは少し気も引けたが、このままずっと待っていてもらちが明かないと基哉は感じていた。
基哉は店の中を横切り、奥にある小さなドアから独特のにおいが漂う廊下へと出た。左に曲がり、数歩行ったところで今度は右に曲がり、一歩踏み込むごとに軋んだ音を立てる木の階段を上がる。二階には部屋がいくつかあるらしい。基哉は奥まった部屋の前まで進み、薄く貧弱な作りの木のドアの前で足を止めた。
ドアには『呉羽の部屋』と書かれた年季の入った札がかけてある。とりあえずノックをした。反応は無い。
基哉は迷った。呉羽がいるとしたらこの奥だ。しかし、女性の部屋に勝手に入るのはあまりよろしいことではない。それでもと基哉は思う。もしかしたら呉羽は基哉が入ってくるのを待っているのではないか。
「そんなわけ無いよな」
 基哉は自分のこの発想をばかばかしく感じた。
おそらく呉羽は外出しているのだろう。ならばいったん外へ出た方がよい。しかしその前に一応部屋の中に誰もいないか確認しておいた方がいい。それに、呉羽の部屋がどのような物なのか興味があった。
「呉羽、入るぞ」
あらかじめ宣言しておいて、ドアを開けて中へと入った。
呉羽の部屋は六畳の和室だった。部屋の片隅には勉強机があり、その机の上に型の古いノートパソコンが置いてある。別の角には大きな本棚が置かれており、様々なジャンルの本がびっしりと敷き詰められている。また、壁には皺一つない高校の制服がハンガーでかけられている。
ドアの向かいの壁には小さな窓が付いており、硝子戸が全開になっている。窓の外には古ぼけた小劇場が見えた。
基哉は視線を下に向けた。そして、畳敷きの小さな部屋の真ん中に、一人の少女が横たわっているのに気づいた。
その少女はかわいらしい寝息を立てている。短髪の艶やかな黒髪を乱れさせ、横に向けたその顔はこの時期には暑苦しく見えるマフラーで下半分が隠れている。
 暑苦しいのはマフラーだけで他に身につけているのはシャツとホットパンツだけ。とても涼しげだ。ホットパンツから伸びるその脚に基哉は思わず目を奪われた。
 その場でしばし固まったのち、基哉は、これはまずいと感じた。人さまの家に勝手に入り、さらに年頃の少女の部屋に無断侵入しているのだ。しかもその少女は現在全く無防備な状態である。
 窓から涼しげな空気が流れ込み、それが少女のほほをなで、開けられたままのドアから廊下へと流れ出ていく。
 少女がうめき、体が揺れる。どうやら起きたみたいだ。
 今すぐここから立ち去らなければ。基哉はそう思ったが何故か足が動かない。
そうしているうちに少女は目を擦りながら半身を起こした。
「アラマアイツノ間ニカ寝テシマイマシタカ」
寝ぼけ眼が基哉を捕え、少しばかり不思議そうに見つめる。やがて、それが基哉だと認識した少女は少しばかり目を見開いた。
「オハヨウゴザイマス」
「あ、ごめん」
 呉羽の言葉をきっかけとして、基哉は急いでわびの言葉を入れ、慌てて呉羽の部屋から飛び出し、部屋の扉を閉めた。
 すぐに扉が開く。
「ドウシタンデス、本江サン。中ニ入ッテクダサイ」
 基哉は呉羽の招きに応じて恐る恐る部屋の中に入った。
「ソレニシテモ、本江サンハ思いの外、大胆ナンデスネ」
「ごめん。勝手に部屋まで入ってきたことは深く謝る」
「ソンナ、謝ラナクテモイイデスヨ。別ニ怒ッテルワケジャアリマセンシ、呼ンデオイテ寝テシマッタ私モイケマセンシ」
 それから呉羽も謝罪の弁を述べた。基哉が自分の部屋に勝手に入ってきたことを何とも思っていないようだった。
 呉羽が本当に怒っていないことを知ったようやく落ち着きを取り戻す。改めて部屋の中を見渡す。女子の部屋としては装飾の少ない部屋だと基哉は思った。
「呉羽もあやまらなくていいよ。それで、今日呼び出した訳を教えてくれないか?」
「アア、ソウデスネ。チョット待ッテクダサイ」
 呉羽は立ち上がると、机の引き出しを開けた。整頓された引き出しの中から何かを取り出そうとしている。やがて奥の方から何やら光るものを取り出した。
「それは?」
「見テノ通リある部屋の鍵です」
「どこの部屋?」
「ソノ部屋ニ今カラ行クンデス」

 小劇場の三階にはいくつかの部屋がある。現在、そのほとんどは倉庫として使われているが、一部屋だけ別の目的で使用されている。
「コノ部屋ハ防音ニナッテイルノデ、楽器ヲ演奏サレル方がココデ練習シテイルンデス」
 その部屋だけは小劇場の他の所と違ってさほど古くは無い。
「どうしてここだけ比較的新しいんだ?」
「オ父サンノ話ダト、バブルノ時ニ有志ニヨッテオ金ガ集メラレテ造ラレタノダトカ」
「ふうん」
 基哉は部屋の中を見回す。あまり大きな部屋では無い。空調は完備されているので、部屋の中は快適だ。しかし、どこを見ても味気ない柄の防音壁が目に入るさまはなんとなく独房を連想させた。
「でも、なんでわざわざここでやるんだ? 別に他の所でもできるんじゃない?」
 呉羽の表情が少し曇る。理由を述べるのを少しためらっているようだ。
「ソレハ、ナントナク、他ノ人ニ聞カレタクナインデス。練習シテイル時ノヲ」
 それは何か矛盾しているんじゃないか、その言葉が口から洩れかけた。それを基哉はすんでのところで止める。おそらく呉羽には呉羽にしか分からない気持ちと言うものがあるのだろう。
「そうか。練習場所はどこでも構わないけどな」
「ソウ言ッテクレルト嬉シイデス。後、他ノ人ニハ劇ヲスルコトヲデキルダケ内緒ニシテオイテクダサイ」
「分かったよ」
「ソウデス、セッカクデスカラ、発声練習クライデモシテオキマスカ?」
「じゃあ、そうしようか。俺もここ何年か声を張るようなことはしてこなかったからな」
 そうして二人は呉羽の指導のもと、発声練習を始めた。大声を出すのは慣れてない者にすれば意外と恥ずかしいものである。基哉も最初の内は思い切って声を出すのを躊躇していたが、ここが防音室で、呉羽の他に聞いている人がいないことを意識すれば次第に大きな声が出るようになった。今更だが呉羽が練習場所をここに限定してくれてよかったと感じた。
 そうして練習をしているうちに時間はあっという間に過ぎる。
「最初ハコレクライデイイデショウ」
呉羽がそう言った時、時刻は十二時を過ぎていた。二人は明かりを消し空調を止め、防音室を後にする。夏の蒸し暑い空気が二人を包む。
「暑いな」
「夏デスカラネ、コンナ日ニハ冷タイモノガ食ベタイデス」
「そう言えばもう昼か。昼飯、どこか手ベに行く?」
「アラ、誘ッテクレルンデスカ」
「まあ、せっかくだし」
「ジャア、ソウシマスカ」
 二人は小劇場を後にし、劇場通りの昼場に出る。
「着替エテクルノデ、少シ待ッテイテクダサイ」
 そう言って呉羽は店の中に入って行った。
 待たされること数分、呉羽は出てきた。全体的にフリルがついたかわいらしげな服装になっており、ホットパンツはロングスカートになっている。
基哉は少しがっかりしている自分がいることに気付いた。
「さあ、行きましょうか」
「あ、おう」
 楽しげな呉羽の後を、基哉は慌てて追いかける。

*八月二十八日*
この日、基哉は陳の中華料理屋で夕食を食べていた。先週から始まった劇の練習のせいで喉が少し痛い。辛めの味付がされた坦々麺をすすると、さらに痛む。
するとそこへ呉羽が入ってきた。
「アラ、本江サン、今日ハコチラニイタンデスカ。ウチジャナクテ陳サンノ店ニ居タッテ知ッタラ、オ父サン悲シミマスヨ」
「いや、まあ今日は中華が食べたい気分だったから」
 基哉は坦々麺をすすりながら弁解する。
「ところで呉羽はどうしてここへ?」
「ソレハデスネ……」
 呉羽は少し黙りこむ。
「言ッテシマエバ暇ツブシミタイナモノデスネ」
「暇つぶし?」
「小サイコロカラ夜ノ劇場通リハ私ノ遊ビ場ナノデ」
「その言い方、誤解を招くぞ」
「ソウデスネ。シカシ、コウシテイル時間モ、高校生ニナッテカラハサスガニ減リマシタケド」
「まあ、色々と忙しいからな」
「本当ニソウデス。ソレデデスネ、本江サン。ココデ会ッタノハチョウドイイデス。一ツオ伝エシタイ事ガ」
「何?」
呉羽はひとつ、咳払いをした。
「コレカラ一週間ホド練習ハ休ミデス」 
「何かあるの?」
「ハイ。体育祭ガ」
「ああ」
 基哉は思い出す。中央高校は県内有数の進学校でありながら、何故か体育祭には生徒、教師、父兄、OB達が異様な情熱を注いでいることに。
 そのため、体育祭の準備は八月の後半から夏休みを返上して行われる。各競技の選手決めや応援合戦の準備はもちろんの事、それぞれの出場競技の練習も行われる。
 普段は勉強一辺倒な生徒たちが汗水をたらして体育祭の準備をするさまは物珍しさを感じずにはいられない。
「確かに、体育祭の準備は疲れるからな」
「エエ。ソレニ、私ノ場合ハ喉ノ事モアリマスシ」
「喉?」
「ハイ。私ハコンナ声デスガ、ソレデモ応援合戦ノ時トカハ声ヲ張リ上ゲルコトガ要求サレマス。私ノ喉ハ普通ノ人ヨリ弱イノデ、声ヲ張リ上ゲルトスグニ疲レテシマイマス。ナノデ、応援合戦ヲシタ後ニ、劇ノ練習ヲスル余力ハタブン無イト思イマス」
「そうか、いろいろ大変そうだな。ところで、呉羽はどの団に入ったの?」
「白デス」
 この高校では運動会の組の事を団と呼んでいる。どの団に入るかは一年時に決まり、三年間、団が変わることは無い。その事が同じ団での協調性を高め、体育会に対するモチベーションを高めているのかもしれない。
 各団にはそれぞれ、伝統と言える特色のようなものがあり、ある団は競技優勝をひたすら狙い、またある団は応援優勝をひたすら狙う。呉羽の所属する白団は応援優勝をひたすら狙うのが決まりで、競技の方はめっぽう弱い。ちなみに、基哉の方もかつては白団だった。
「トコロデ本江サンハ体育祭ヲ見ニ来ラレマスカ?」
「いいや、俺は行けないな。確か体育会は平日だろ、仕事がある」
「ソウデスカ。ソレハ残念デス」
 呉羽を残念がらすのは本意ではないが、仕方が無い。
 
その日の夜遅く、酒井からメールが来た。内容は高校の体育祭への誘いだった。基哉はすぐさま丁重にお断りをした。
 確かに仕事はある。それは事実だが、見に行こうと思えば、昼休みの間など、見に行く機会はある。それでも基哉が固辞をしたのは、どうしても行きたくない理由があったからだ。










*九月七日*
 大学の夏休みは大抵九月の終わりまである。基哉の通っていた大学もそうであり、酒井の通っていた大学もそうである。
 この日、基哉は駅の正面入り口で人を待っていた。相手は酒井である。
先日、帰省中の酒井から、基哉にメールがあった。内容は今度二人で飲もうと言うもの。基哉は正直乗り気がしなかったのだが、予定も入っておらず、断る勇気もなかったので了承することにした。
せめてなら他にも、かつての級友を誘おうと基哉は提案した。酒井もそれを了承し、お互いに人を誘ったのだが、都合の付く人は見つからなかった。お互いに人脈が乏しい事が露呈した。
 基哉は時間を確認する。ちょうど六時を回ったところ。酒井の乗る電車も後数分で着く。
 今は帰宅ラッシュの時間。学校帰りの学生や、一日の仕事を終えたサラリーマンが一人また一人と駅構内へと入って行く。一日の中では最も人の往来が激しい時間の一つである。ただ、基哉の通っていた大学の最寄り駅と比べると圧倒的に人は少ない。向こうは都会から離れた郊外の駅。こちらは県内最大の駅にもかかわらず。
 この街は年々人が減り、高齢化は進み、経済は鈍化している。全体的に廃れ、衰退の一途をたどっているのだ。役所の人間もあれやこれやと手を尽くしてはいるのだが、手遅れ感も否めない。
 今思うと、基哉が高校生のころにはもうこの街の衰退はだいぶ進行していた。高校生の時にはそのような実感は無かったが、大学生になり、一度街の外に出ると、この街のどうしようもなさがよく分かった。さみしい話である。
「やあ、もう来てたのか。待たせたか?」
 いつの間にかすぐ隣にまで来ていた酒井に声をかけられ、基哉は考えを中断する。
「まあ、少しだけ」
 本当は三十分以上前に駅に着いていた。
 二人は街の中で飲食店が集中しているところに向けて歩き出す。
「この街も変わったな」
 酒井がぽつりとつぶやく。
「確かにな」
 基哉は通りの側面に立ち並ぶビルを見やる。ビルに掲げてある看板は高校生のころより減っている気がした。
「変わったけど、こんな風には変わってほしくなかったな」
 酒井からの返事は無い。
 やがて二人は目当ての場所にたどり着く。狭い道に小さな店が軒を連ね、古びた看板が夜の道を照らす。
 ここにたどり着くまではよかったが、ここで問題が発生する。お互いにこの近辺の居酒屋には詳しくない。そもそも、一度もこの近辺の店を訪れた事は無い。基哉が行き慣れている居酒屋もすべて劇場通りにある。劇場通りの居酒屋とここの居酒屋はまた雰囲気が違った。
二人は、慣れない雰囲気に委縮する。そして気付いた。そもそも、二人ともあまり酒を嗜む事は無い。ならば、大人びてわざわざ行かなくてもいいではないか。結局二人は引き返し、駅前のファミレスに入った。
店員に連れられ、基哉と酒井はテーブル席に座る。客は二人の他に女子高生三人組がいるだけだ。
基哉はメニューを手に取ると、酒井も見られるように、それをテーブルの上で広げた。メニューに載っているのはスパゲッティやオムライス、ハンバーグと言ったありきたりなメニューだ。
「本江は何にするか決めたか?」
 酒井がメニューを眺めたまま尋ねる。
「俺はこれでいいや」
 聞かれた基哉はメニューのある部分を指さした。そこには『店内一番人気』と表示されたハンバーグのセットの写真が載せてある。
「無難に行くんだな」
「こういう店で冒険はしない事にしているんだ」
中学校からの同級生、旧知の中と言っても、今までこのように一緒に店に行くような事は無いそもそも、同じ学校の友人、クラスメイトとして学校ではよく話をしていたが、学校外で一緒に遊んだりした事はほとんど皆無だった。
それでも、料理が運ばれてくるころには会話はだいぶ弾むようになってきた。そこまで味の良くない食事を進めながら、二人の会話の話題は様々な話題は様々な方面に及んだ。引っ越し先の街について、中学の同級生について、大学でも勉強について……。そして二人が食事を終えるころには話題は将来の職の事に及んだ。
「本江は何か将来、どこに就職しようとか決めているのか?」
「いいや、まだだな」
 大学での専攻によって実質的にはかなり絞られてきているのだが、それでも基哉は決めていない。決める事から逃げている。
「そんなんでいいのか?」
「よくは無いだろうけど、そうは言っても、やりたい事がこれと言ってないからな。就活とかすることになったら、手当たり次第に受けて、内定もらえたところにとりあえず行くんだろうな」
 基哉は数年前の姉の事を思い出しながらそうつぶやいた。
 基哉の姉は、職種にかかわらずありとあらゆる企業を受けていた。
ウェイトレスがやってきて酒井が頼んだ食後のコーヒーをテーブルの上に置いた。
「酒井は昔からコーヒー好きだよな」
「まあな」
 酒井はテーブルの隅に置かれていた角砂糖を数個、カップの中に入れてかき混ぜる。
「でも、昔は恰好つけて飲んでただけだからな」
「そうなのか?」
「ああ、本当に好きになったのは高校になってからだ」
「なんかきっかけでもあったのか?」
「ちょっといい店を見つけたんだ」
「店?」
「機会があったら今度連れて行ってやるよ」
「それは楽しみだな」
 酒井は砂糖を何杯かコーヒーに入れると、それをかき混ぜ、一口啜った。
「話を少し戻すけどさ、酒井は将来やっぱり教師になるのか?」
「無論、そのつもりだ」
「教師になるのなら、ここに戻ってくるのか?」
 酒井は基哉の問いに即答せず、コーヒーをもう一杯すすると、カップの中身をしばらく見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「本江、お前はこの街をどう思う?」
 基哉はなぜ酒井がそのような質問をするのかなんとなく理解できた。
「正直に言っていいか」
「ああ」
「もう駄目だな」
「どうしてそう思う?」
「俺、今市役所で働いているだろ? だから周りの職員はいつもこの街の事について話しててさ、それを聞いていると、いい話はほとんど聞かないな。はっきり言ってもう終わってるなって思うよ」
「そうだよな、この街はもうこの社会の中で必要とされてないのかもしれないな」
 それは言いすぎだろう、とは言えなかった。
「本江、俺は、生まれてからずっとここで育ってきた。だからこの街にはかなりの愛着がある。それに、ここのいいところもたくさん知っている。だけど、それらを差し引いても、俺はここにに戻って来たくない」
 その声は少し震えていた。こんな事を言えば、基哉が批難してくるのだと思ったのかもしれない。しかし、基哉は何も言わず、ただ黙っていた。
基哉も酒井と同じ気持ちだった。

*九月十八日*
 この日、基哉は数週間ぶりに劇場通りを尋ねた。勉や顔なじみになった客から久しぶりだねと声をかけられる。基哉はカウンター席に座ると、適当に料理を注文した。
店の奥の方を見やると、そこでは呉羽が顔まで覆い尽くすドレスを着て占いをしていた。基哉が呉羽の占いをしているところを見るのはさらに久しぶりである。以前と同じように、この日も大盛況だ。
しばらくして注文した料理が基哉の前に出される。
「最近来ていなかったが、どうかしたのか?」
 料理を出すそのついでか、勉が尋ねてきた。
「ちょっと仕事が忙しくてですね、それに大学の方にも色々手続きがありまして」
 基哉はホッケの塩焼きをつつきながら答える。
「そういえば、一応大学生だって言ってたな」
「ええ、まあ」
「だったら、いつか大学に戻るのか?」
 基哉は箸を止める。
「それはそのつもりですけど、まだいつ戻るかまでは決めてないんで」
「ふうん」
 そう呟いて、勉は他に注文された料理を作るために奥へと引っ込んだ。
勉の言葉は基哉に自分の現状を意識させた。将来の選択から逃げているという現状を。気分が沈む。これを棚に上げたままにしておくことが出来ない事はよく分かっている。しかし、決断するのが怖かった。基哉は何気なしに店内を見回す。どこを見ても酔っ払いのオヤジばかりだ。どこにでもいる、全くさえない中年男性。正直言って尊敬の念は無い。
しかし、彼らは自らの人生を確立しているのもまた事実なのである。様々な理不尽や不満を抱え、多くの自由が制限されている。それでも彼らは社会の中でしっかりと生きている。
ふとそんな考えが基哉の中に浮かんだ。そして一瞬、周りの酔っ払い達が遥かかなたの存在のように思えた。
 料理を全て平らげ、空腹を満たした。今日はあまり気分がよろしくない。さっさと帰ってしまおうと席を立つ。そして出口に向かおうとしたところで、ふと視線を感じた。何気なしに振り向くと、呉羽と目があった。今、呉羽の前には誰もいない。呉羽は手招きをして、基哉にこちらへ来るように合図をした。
基哉は小さくため息をつくと、店の端まで歩き、呉羽の机の前に座った。
「やあ、久しぶり」
「本江サン、オ久シブリデス。ドウカサレマシタ? アマリ元気ガ無イヨウニ見エマスケド」
「色々あってちょっと疲れているのさ」
 適当に言い訳をする。
「そっちこそ今日はどうした? 頭の先から全身身を包んで。まるでイスラム教の女の人みたいだけど」
 呉羽は目を伏せると、体を左右に揺らした。それから、普段よりも小さな声で答える。
「コノ前運動会ガアリマシタデショ? ソノ前ノ練習ノ時カラズット外ニイタンデ、ダイブ焼ケテシマイマシテネ、チョット恥ズカシインデス」
 女子高生らしい理由だなと基哉は思った。
「その運動会の結果はどうだったの?」
 基哉は見に行っていないので、もちろん結果は知らない。先日、酒井に会ったときに聞くのを忘れていた。
「私達ノ団ハ応援優勝を取リマシタヨ。何でも五連覇ダソウデ」
「それはすごい。やっぱ応援はがんばるんだな」
「この団の伝統ですからね」
「ちなみに、競技の方は?」
「ソンナノ聞カナクテモ分カルデショウ? 最下位ニ決マッテルジャナイデスカ」
「まあ、そうだよな」
 もう一つの伝統は脈々と受け継がれているようである。
「ソウダ、本江サン。マタ占ッテアゲマスヨ」
 呉羽がうれしそうに提案する。基哉はどうしようかと少し考えた。しかし、特に断る理由もない。
「じゃあ、お願いしようかな」
「ジャア、手ヲ出シテクダサイ」
 基哉は素直に手を出す。初めての時はおっかなびっくりだった自分を思い出して少し恥ずかしくなる。
「前占ってもらったのは初めて会った時か」
「……エット、ソウデスネ」
 呉羽は少し口ごもる。
「トコロデ、ソノ時ノ占イハ当タリマシタカ?」
 その時に言われたこと。それは、「貴方ハ、マタ、ココニ、来ルコトニナルデショウ」だった。今でもはっきりと覚えている。
「呉羽は自分でなんて言ったか覚えてないの?」
「恥ズカシイコトニ、忘レテシマイマシタ」
「そうか」
「ソレデ、結果ハドウデシタ?」
「当たったよ」
「本当デスカ。ソレハヨカッタデス」
「まあ大した占いじゃなかったしな」
「ソノ言イ方ハ少シ悲シイデス。ソレニ私ノ占イノ当タル確率ハ結果ノ大小ニハ影響シマセンヨ」
「そうなんだ。でもまあこの占いも当たれば素直にすごいと思うかな」
「ソウデスカ。デハ、私ヘノ賞賛ノ言葉デモ考エテイテクダサイ」
呉羽は基哉の手をつかむと、左手の生命線を指でなぞる。その感触はとてもこそばゆい。それから呉羽はしばらく両の手のひらを見つめた。そして、初めの占いの時のように微動だにしなくなる。
やがて呉羽は顔を上げた。
「結果ガ出マシタヨ」
「どんな結果?」
 呉羽は軽く咳払いすると、基哉に向かって正対した。
「アナタガ今度行ウ劇ハ見事成功スルデショウ」
 呉羽は真面目な調子で言ったのだが、その結果を聞いて基哉は思わず吹き出してしまった。
「チョット、ナンデ噴キ出スンデスカ」
「だって、その結果は占いでも何でもなくただの願望じゃないか」
「細カイコトハ気にシナクテイインデスヨ」
 顔まで覆うフードでよくは分からないが、呉羽も恥ずかしがっているように見えた。

十月七日
 この日基哉は呉羽の家に呼ばれた。休日に呼ばれるのは、夏休み以来である。
この日の呉羽はちゃんと起きており、劇場通りの入り口のところまで迎えに来ていた。
「やあ、今日はどうしたんだ?」
 基哉は尋ねる。
「ソレハマア、家ニ入ッテカラニシマショウ」
 それだけ言うと、呉羽は自分の家に向かって歩き出す。
「ああ、そう」
 基哉はその後をついて行った。
 二人は勝手口の方から家の中に入ると、呉羽の部屋へ向かった。
 基哉が呉羽の部屋を訪れるのは夏休みの時以来二回目だ。
部屋の雰囲気は以前訪れた時と変わっていない。畳敷きの六畳の部屋。女子の部屋としては装飾の少ない、よく整頓された部屋。
 机に置いてあるノートパソコンがこの日は起動している。
呉羽はパソコンを何やら操作すると、隣にあるプリンタの電源も入れ、プリンタから伸びるコードをパソコンにつなげた。
「本江サンガ来ル前ニ印刷シテオクツモリダッタンデスケド……」
 呉羽はそう言いながらパソコンを操作する。しばらくして脇の方においてある印刷機がうなり声を上げ始める。
 それらを見て、基哉は何故今日呼び出されたのか理解した。
「台本、できたのか?」
「エエ、一応ハ。ですが、コノ先、練習シテイクウチニ、イロイロ変ワルト思イマスケド」
 その声には少し恥ずかしさが混じっているようにも聞こえた。
「別にそれはいいけど、それで、大体どれくらいの量になったの?」
「ソウデスネ、思ッタヨリ長クナッテシマッテ……。大体五十ページクライデスネ」
「五十ページ! 結構あるな」
 それを聞いて呉羽は少し不安そうな顔をする。
「本江サンハ短イ方ガヨカッタンデスカ」
「そう言う訳じゃないさ。ただ、台詞を覚えるのが大変そうだなって思ってね」
「台詞ダケデナク、動キモ色々アリマスヨ」
「そいつは大変そうだ。だけどそっちの方がやりがいもあるな」
「ソウ言ッテイタダケルト嬉シイデス」
 台本の印刷が終わるのには十分ほどかかった。出来上がった台本はそれなりの厚さがある。表紙をめくり始めの方のページを流し読みする。
「ところで、この話は呉羽が一から書いたもの?」
 あまり本や文学に詳しくない基哉にとって、この台本の話が呉羽の創作なのか、原作があるものを劇用の台本にしたものなのか判別がつかない。
「参考ニシタリ、引用シタ部分ハタクサンアリマスケド、一応私ガ作っタ話デス」
 その声は少し自信なさげだ。
「私、チャントシタ台本ヲ書クノハ初メテダッタノデ面白イモノニナッタカドウカ・・・・・・」
 基哉は台本から目を離し、呉羽を見て言った。
「面白いかどうかは役者がなんとかするさ」
 それを聞いた呉羽は少し複雑な表情になる。
「ソレハ、励マシ、デスカ?」
「なんだろな、自分でも何言ってるのかよく分からない」
 基哉はもう一度台本に目を通す。中学の時にした演劇よりは明らかに台詞の分量は多い。
「やっぱ、覚えなきゃだめなんだろ」
「当然ソウデス。台本見ナガラヤレバ、モウソレハ演劇ト言エナイデショウ」
「それもそうだ」
 基哉がうなずきを返したその時、階下から勝手口の音が開く音が聞こえてきた。呉羽の顔に緊張が走る。
「おーいただいま」
 それは勉の声だった。呉羽は素早く立ちあがると、ニ回路廊下に出て、返事を返す。それから、基哉の方に向き直ると、早口でまくし立てた。
「本江さん、台本を閉まってください」
 そう言いながら、呉羽は自分も台本を机の奥にしまう。基哉はとりあえず自分の鞄にしまった。
「おーい。見慣れない靴が置いてあるけど、誰か来てるのか?」
 勉は階段を登り、呉羽の部屋に向かってくる。
「俺、隠れたりした方がいいのか?」
 基哉は小声で尋ねる。
「イエ、ソンナコトシナクテモイイデス」
 呉羽がそう返事を返した時、勉がドアの外に現れた。
「コソコソ話し声が聞こえるぞ」
 勉は半開きのドア時から部屋の中をのぞいてきた。そうして、基哉と目が合う。
「なんだ、お前さんか。不審者でも上がり込んでいるのかと思ったよ」
 そうは言いながらも、勉は警戒するように基哉を見る。
「お邪魔しています」
「それにしても、今日はなんで?」
 なんて答えようか基哉が少し逡巡している合間に、呉羽が答えた。
「チョット勉強ヲ教エテモラオウト思ッテ」
 どうやら呉羽は基哉が来た本来の目的が知られることを避けたいらしい。
「勉強ねえ」
「はい、そうです。結局あまり助けにはなりませんでしたが……」
 基哉は呉羽に会わせることにした。
「そうか、娘のためにすまんな」
 勉はそう言いながら目線を呉羽の机に向けた。
「いいえ、大したことでは」
「そうか、ならくつろいで行くといい」
「あ、いえ。ひと段落ついたところなんで、俺、そろそろ帰ります」
「ナラ、私ハソコマデ見送リマス」
 こうして二人はあたふたと、家の外に出る。その際、勉が不審な目を向けている事を基哉は感じていた。
 劇場通りを抜け、街の目抜き通りまで来たところで基哉は尋ねた。
「なあ、いつまで隠しとくんだ?」
「ソウデスネ、デキルダケ長クデスカネ」
「でも、あんまり長く隠せる気がないな」
「ソウデスカ?」
「さっきだって、勉さんに結構怪しまれただろうし」
「大丈夫ですよ。お父さんは結構鈍感なので」
 呉羽はそう言うが、基哉はさすがに誤魔化しきれてはないと思っている。
「デモ、バレタ時ハバレタ時デス。今、ココデ気ニシテイテモ意味ガ無イデショウ」
「まあ、そうだよな」
 呉羽の言う通りだ。別にやましい事をしているわけではない。勉に何か聞かれる事があれば、素直に答えればいいのだろう。基哉はそう結論づけた。
「ところで、いつまでに覚えてくればいい?」
「ソウデスネ……年明ケ前ニハ」
 基哉の考えていたよりも、期限は長かった。
「年明けか、それでいつこの劇をするつもりなんだ?」
「コノママデスト年ヲ明ケテカラデスネ」
 その十分長い準備期間は呉羽が本当に本気になってこの劇に取り組んでいることを意味していた。

*十月十九日*
基哉は小劇場の観客席に座っている。
普段、呉羽との劇の練習のため三階へ足を運ぶ事はあるのだが、一階の劇場には足を運ぶ事はめったにない。しかしこの日は一種のきまぐれのため、その劇場へと足を運んでいた。この日、劇場で何が行われているのか具体的には知らない。ただ、ライブが行われていると言う事だけは先ほど勉が店で教えてくれた。
「お前らノッテるかー?」
 ステージ上では一人の青年がマイクを使って大声で叫んでいる。いわゆるロックバンドと言うやつだ。
 基哉はそのステージ上の面々に見覚えがあった。小劇場の三階で呉羽と二人で行う演劇の練習などをしている時に、たまに見かけていた人たちだ。
 若者四人組。年齢は高く見積もっても基哉と同じくらいだろう。毎回奇抜な格好をしており、彼らの突っ張った言動も相まって、近寄りがたい印象があった。彼ら自身も、極力、劇場通りの人間を避けているように見えた。ただ、その四人の中で一番背の高い青年だけが唯一、他人に対して礼儀正しくふるまっている。彼は他のメンバーから卓也と呼ばれていた。
 大音響の出るロックバンドの練習をするためには防音設備の整った施設が必要になる。小劇場の三階はこの近辺で一番安く使用できる場所だった。
 バンドの面々が大音量で演奏を始め、ステージ中央にいる青年が歌詞を熱唱し始める。その青年は他のバンド仲間から翔太と呼ばれている。翔太はかなりの大声で歌を熱唱し、がなり立てている。それにも関わらず基哉は翔太が何と言っているのかあまり聞きとれなかった。
 このバンドのライブを聴いているのは基哉の他に基哉と同じくらいの年代の若者が十数人程度。皆チャラチャラした格好をしている。他にはロックバンドの意味を全く理解していないであろう酔っ払いが数人。その中の一人はこんな大音響にも関わらず、すやすやと寝息を立てている。
 基哉が他の観客の様子を見回しているうちに、バンドの曲が一曲終わった。
 基哉はそのタイミングでこっそり席を立ち、出口へと向かう。外へ出る際に翔太の恨めしげな視線を感じたような気がした。
 基哉はそのまま家路に着く。十月も半ばを過ぎ、夜になるとだいぶ気温が下がる。
 もうそろそろ吐く息が白くなるかもしれないと基哉は思った。
 寒さのせいなのか、両耳がジンジンと痛む。

*十月二十五日*
 この日、基哉は勉の店で夕飯を取っていた。普段座っているカウンターでは無くテーブル席に着いている。向かいの席では呉羽が学校の宿題をしていた。
「よくこんなうるさいところで勉強できるな」
 今日もこの店は繁盛していて酔っ払いが大騒ぎをしている。
「慣レテシマッテマスカラネ」
 呉羽はある数学の問題に頭を悩ませている。
「俺なら絶対無理だなあ」
 基哉は少しでも物音がすれば気が散ってしまうタイプである。
「マア、人ソレゾレッテヤツデスヨ」
 呉羽はそう言って視線をノートに戻す。しかし、すぐに顔をしかめると手に持ったシャーペンを投げ出した。
「どうした?」
「コノ問題、意味ガ分カリマセン」
 呉羽は基哉に数学の問題集のあるページを見せた。そこに載っている問題の一つ、問題番号の前に『難』のマークがついた問題に呉羽は手こずっているようだった。大学受験でもよくお世話になる軌跡の問題である。
「本江サンハ解ケマスカ?」
 呉羽の指し示す問題を一目見て、自分にはその問題が解けないことが分かった。すでに、高校で習った数学の知識は半分以上頭から抜け落ちている。それでも一応考えてみることにした。
 基哉が問題に頭を巡らせているうちに、一人の男が呉羽の下に寄ってきた。
「呉羽ちゃん、俺の事占ってくれよ」
 顔を真っ赤にした男は呉羽の前で跪くと、顔の前で手を合わせる。面倒くさそうな表情が呉羽の顔に浮かんだ。
「マタデスカ?」
「だって呉羽ちゃんの占いはよく当たるだろ?」
 おだてられた呉羽は少し嬉しそうだ。
「ソコマデ言ウノナラ。デハ、両手ヲ出シテクダサイ」
 男はすかさず両腕を差し出す。太く肉のついた腕。指はどれも短いが、小奇麗で、血色がいい。差し出された両手を呉羽はじっと眺める。そんな呉羽の様子を基哉は問題も考えずにぼんやりと眺めていた。
「分カリマシタ」
 そう言いつつも、呉羽は目を閉じ、何かを思案するように頭を左右に振る。それから口を男の耳元に近づけ、何かをささやいた。基哉には呉羽が何を言ったのか聞きとれなかったが、占いの結果を聞いた男は有頂天になって去って行った。
 呉羽はそんな男の様子をしばらく目で追っていた。基哉は問題集から目を離し、そんな呉羽の横顔を見つめる。やがて呉羽は基哉が自分の事を見ている事に気付いた。そして何か言い訳をするように口を開く。
「占イノ内容は取ルニ足ラナイモノデアリマスガ、酔っ払ッタ頭デハ、ソレガ良い結果ニ思エルヨウデスネ」
「あの様子を見ているとそうみたいだな」
 男はカウンター席で追加の酒を注文していた。
「ソレデ、問題ハドウデス?」
 その問いかけに、基哉はもう一度視線を問題集に落とす。少しは考えては見たがやはり無理そうだった。
「どうやればいいか忘れてしまったな。思い出せそうもないや」
「ソウデスカ。ソレハ残念デス」
 基哉は参考書を返した。参考書を受け取った呉羽はそれを閉じて鞄にしまう。呉羽もこの問題はあきらめたようだ。他の事をやり始めるのかと思えばそうでもなく、呉羽はただテーブルの上に上半身を投げ出した。
 以前から基哉には気になっていたことがある。取るに足らないことだが、だからこそなかなか切り出せなかった。しかし今なら大丈夫だろうと感じた。
「ところで、呉羽はどうして占いをするようになったんだ?」
「知リタイデスカ」
「教えてくれるのなら」
 呉羽は基哉の顔を見て笑う。
「イイデスヨ。ドウシテソンナ緊張シタヨウナ顔ニナルンデス? 別ニ言イニクイコトナンテナイデスヨ」
「あ、そう。なら聞かせてもらおうかな」
 呉羽は上体を起こし、それから手を組んでそれを机の上に置いた。
「元々は遊びだったんです」
「遊び?」
「ハイ。私ハ小サイコロカラヨク店ニ降リテキテイマシテネ。オ父サンモ目ニ届く範囲ニ私ガイタ方ガ良カッタノカダメトハ言イマセンデシタシ」
 呉羽はそう言って厨房の方を見やる。どんどん注文されるオーダーに対応するために、勉はあわただしく動いていた。
「ソレデアル時、占イガ自分ノマイブームニナリマシテ、初メハ自分自身ヲ占ッタリシテイタンデスケド、ソノウチニオ客サンヲ占ッテ遊ブヨウニナッタンデス」
「ちゃんとした占いだったの?」
 呉羽は首を横に振る。
「モチロン占イノ方法ナンテ適当デシタヨ。デモ、オ客サンモソレヲ知ッテイテ楽シンデタミタイデス」
「ふうん。でも、そんないい加減な占いが今でも続いているのか?」
 基哉にはそれが不思議に思えた。幼児の遊びに付き合うならまだしも、いい年齢になった子供が占いごっこをしていたら、逆に大人はそれを諌めるだろう。それに先ほどの取っ払いは、自分から呉羽に占ってくれるように頼んでいた。
「ソレニハ理由ガアルンデス」
「理由?」
「ソノウチニデスネ、オ客サンガ私ノ占イガヨク当タルト言イ始メタンデス。ソウシテ、オ客サンノ方カラ占ッテクレト、頼ンデクルヨウニナッタンデス」
「そう言えば、さっきの人もそんなこと言ってたな」
「アノ方ハ、特ニ頼ンデクル方デス」
「でもそんなによく当たるって事は呉羽の占いはとてもすごいものなんじゃないのか?」
 その問いかけに、呉羽はわずかばかり思案顔になる。
「ソウナンデショウカ。私ニハ分カリマセン。タダ、私ノ占イノ結果ハ、ヨクヨク考エレバソノウチイツカ起コリソウナモノバカリデスカラ。ソレガヨク当タル所以カモシレマセンネ」
「ふうん」
 その自虐的なコメントが占いのタネであるのだろうと基哉は思った。酔っ払いは気前のいい事を言っていれば勝手に盛り上がってくれるものだ。
「今でも占いの方法は自己流?」
「基本的ニソウデスネ。一応、手相ノ本トカハ呼ンデ、ソレヲ参考ニシテイマスガ、結局ハ自分ノ思ッタコトヲ言ッテイマス。私ノ占イハイイ加減ナンデス」
「それでも、こうして評判になっているのはすごいことだと思うけどな」
「ソウ言ワレルト、何ダカ照レマスネ」
 呉羽は少し顔を赤らめた。
「ところで、今でも占いは好きなの?」
 この問いに呉羽は少し考え込む。
「昔ホドデハナイデスケド、今デモ好キデスヨ。好キデナイト、ヤリマセンヨ」
「それもそうだな」
 好きこそものの上手なれ、なんて諺が基哉の頭に浮かんだ。
「トコロデ、本江サンハ何カ趣味トカ好キナ事トカオ持ちでは無インデスカ」
 基哉にとっては答えずらい質問だ。
「俺はそう言うのほとんど無いんだ。だから、何か好きなはっきりある人がうらやましい」
「そうなんですか。デモ、何カ趣味ガアル人ガ、スゴイ訳デハナイデスヨ」
呉羽はそう言ってから机に広げていた勉強道具を片づけ始めた。
「私、ソロソロ上ニ上ガリマス」
「そうか、じゃあ、俺も帰るよ」
 二人はそう言って別れ、基哉は夕食の代金を払い、家路に着いた。

家に帰ってきた基哉は勝手口から台所を通り抜け、居間へと入った。
そこには姉の柚季がいた。ソファの上で寝そべってくつろいでいる。片手には缶ビールを持ち、テーブルに置いた雑誌をぱらぱらとめくっている。
「おかえり」
 柚季が眠たそうな声を出す。
「ただいま。珍しいな。姉さんが居間いにいるのは。いつもはすぐに自分の部屋に引っ込んでいるのに」
 柚季は昔から食事や風呂の時程度しか自分の部屋を出てこず、そのことでよく由美子と言い合いになっている。
「今は誰もいないからね」
 柚季はビールを一口啜る。
「私は人さまの視線が嫌いなの。それが家族でも」
正と由美子は地域の自治会の会議に出席するために地区の公民館にいる。
 基哉は部屋の隅の方に腰かけると、テレビのリモコンを手にとって電源をつける。特に見たい番組があるわけでもないので、適当にザッピングを始める。それでも面白そうな番組は無く、テレビの電源を消す。
 基哉は大きく背伸びをして、体を反らせた。視界の端に柚季の足が見えた。
「なあ、一つ聞いていいか?」
 基哉はそう尋ねてからしまったと思い、そして体に緊張が走った。本江姉弟は仲が悪いわけではない。しかし、いいのではない。
 彼らはお互いに興味が無い。特に柚季はそれが露骨で、両親に対しても冷めた態度を取る。
 なので、基哉と柚季は互いに込み入った話やプライベートな話をする事はほとんどなく、こうして基哉が質問するのもまれな事である。
「あんたが私に質問なんて珍しいわね」
 案の定、柚季は不審な目つきで基哉を見返してきた。それでも、行ってしまった以上、質問はしなければならない。
「姉さんはどうしてアーチェリーをやり続けているの?」
「どうしたの? いきなりそんなこと聞いて」
「ちょっと気になってね」
 柚季は高校生の時にアーチェリーを始めた。きっかけはなんとなくかっこいいと思ったからだそうである。柚季は自分の好きな事にはかなり熱心になるたちで、アーチェリーの腕も瞬く間に伸びた。高校三年生のころには県大会優勝のあと一歩まで迫った。大学でもアーチェリー部に入り、それなりの活躍をしていた。社会人になってからは、その熱もだいぶさめたようだが、それでも週に一回程度、練習をしに行っている。
「なんでって言ってもねえ、惰性?」
「惰性でできるものなのか?」
 この県ではアーチェリーは別段盛んであるわけではない。現に柚季の勤めている会社にもアーチェリー部なんてものは無い。そのような環境の中で、惰性だけでアーチェリーを続けられるとは基哉には思えなかった。
 柚季は雑誌を閉じると、缶の中身を一気に飲み干した。そして立ち上がる。
「そういえば、あんたって何かに熱中した事ってあるの?」
「そりゃあ、まあ」
「そう。いやね、私が熱中しやすいたちだからなのかもしれないけど、あんたってなんかどっか冷めてるような感じがするのよね」
 柚季はソファから起き上がると、空になったビールの缶をゴミ箱に捨て、そのまま部屋を出ていった。
 そんな彼女の後姿に向けて基哉は苛立ちの視線を向けた。興味があること以外はとことん冷めた態度を取るあんたに、そんなことを言われたくはない。基哉はそう思った。

*十月二十九日*
 月曜日から残業と言うのはそれからの一週間のやる気を著しく低下させる。さらにこの日は呉羽から劇の準備をしましょうと言われ、基哉は劇場通りの三階、防音室で呉羽と向かい合っている。だが、基哉のやる気は既にほとんどない。
 劇の準備と言うのは、何も台詞やふりを覚えるだけでは無い。演劇の際に必要な道具類を準備するのも一つの仕事だ。
 今回の劇は呉羽と二人で行う規模の小さいものだ。それでも呉羽としては様々な小道具を使う予定らしい。その中には購入をしなければ手に入らない物もある。
「これ、購入代金はどうするんだ?」
 基哉は呉羽の作った『必要な小道具リスト』の一か所をよわよわしく指で指す。
「ソレハ私が払イマス。劇ニ関スル事デ本江サンニオ金ヲ求メル事ハアリマセン。私ガ本江サンカラ取ルノハ時間ダケデスヨ」
「そうですか」
 呉羽の答えに、基哉は何故かひどい重圧を感じた。
「トコロデ本江サン、今度、学園祭ガアルンデスガ来テクダサイマセンカ?」
 呉羽は突然に話題を変えた。
「それっていつ?」
「今度ノ金曜日デス」
「劇とかやるんだっけ?」
「ハイ、一時カラ第一体育館デ」
「そうか、じゃあいくよ」
「約束デスヨ」
「うん」
 うれしそうな呉羽とは対照的に、既に気力のない基哉はただ生返事をするだけだった。

*十一月ニ日*
 基哉の高校の文化祭は小規模な物でひっそりと行われる。開催日は十一月の第一金曜日の一日だけであり、そこに至るまでの準備期間はとても短い。クラスの出し物は、模擬店や、遊戯的な物ではなく、学習テーマの発表である。文化系の部活の発表はなされているものの、この学校の文化部はどれもお固いものばかりだ。つまりこの学校の文化祭は、むしろ学芸発表会と呼ぶ方がふさわしい。
 そのようなわけだから、この学校の文化祭はかつて、父兄の参加も認めてはいなかった。外部の来場者を認めたのは基哉が在学中の時である。
 基哉は重い気持ちで高校の正門の前に立っている。高校三年間のあんなことやこんなことがトラウマとなり、高校を卒業した今でも、敷地内に入るのには少しばかり緊張する。
 それでも基哉はゆっくりと足を踏み入れた。数か月前にも一度、高校には訪れたのだが、その時と今では状況が大きく違う。そしてそれが基哉を不安にさせていた。
 今、この学校には基哉の事を知る人物が不特定多数いる。基哉はそれらの人物、特に教師陣に会うのを非常に恐れていた。
 もしも、基哉の事を知る教師と出会ってしまったならば、その教師は基哉に必ず近況を尋ねるだろう。その問いは、『己の恥ずべき秘密を暴露せよ』と言われているのと同じほど、基哉にとっては答えづらい質問である。
 そのため、基哉はマスクで顔を隠し、周りに知人がいないかを注意深く観察しながら、コソコソと目的地である第一体育館に向かった。
 第一体育館では演劇部による公演が行われている。演劇部とはもちろん、以前に劇場で『練習試合』を行った面々の事だ。講演内容もその時に行っていた物。呉羽いわく、夏休みの時よりだいぶ完成度は上がったそうだ。
体育館の入り口では部員の一人が来場者に演劇部の説明と講演内容が書かれた小冊子を配っていた。その部員の顔には見覚えが無い。おそらく以前の『練習試合』には来ていなかったのだろう。基哉はその冊子を受け取ると、体育館に入った。カーテンが閉められ、照明もかなりおとされているので、中はだいぶ暗くなっている。体育館の前より半分にはパイプ椅子が並べられており、そこにまばらに観客が座っている。
基哉は真ん中付近の席を選んで腰を下ろした。開始時間まであと十五分ほど。基哉は先ほどもらった冊子を開いた。暗くてとても読みにくい。最初のページにはこれから行う演劇について書かれていた。
とある裁判の陪審員たちの話し合いを中心としたミステリー調の内容である。正直、世間の話題から少しずれているような気がしないでもない。
基哉はそれから無造作にページをめくる。それぞれのページにはキャストの紹介や脚本した生徒のメッセージが載っていた。そして、最後のページ。そこには部員と顧問の教師の名前が載っている。基哉はそのページを注視した。顧問や副顧問の教師の名前は基哉の知らない人物のものになっていた。
 少しほっとすると同時に、何とも言えない寂寥感がこみ上げてきた。
 基哉は冊子を閉じるとそれを小さく折りたたみ、ジャンパーのポケットに入れた。
 それを合図としたかのように、ステージ上に一人の男が現れた。男がステージの中央に立つと、スポットライトが照らされる。光に照らされた男は恭しくお辞儀をすると、張りのある大きな声で、口上を述べはじめた。
「皆さま、本日はご来場、誠にありがとうございます。私は中央高校演劇部部長、森喜長です」
 そのあいさつで基哉はその男が『練習試合』の時にもいた演劇部の部長である事に気付いた。一度しか会っていなかったのと、髪型が天然パーマから普通の者に変わっていたせいですぐには気がつかなかった。
 森部長があいさつを終え、客席に向かってもう一度礼をする。それと同時にステージ全体が照らし出され、そこにある大きな机と十一脚の椅子があらわになった。ステージの脇からは複数の男女が現れ、それぞれ椅子に腰かける。十一人の陪審員が席に着いたところで、演劇開始のブザーが鳴らされた。
 十一人の陪審員の中に、呉羽の姿は無い。呉羽は彼らとは全く違った役回りで劇の終盤に少しだけ登場する。
ちなみに、呉羽の台詞は無くなったそうだ。呉羽の声は良くも悪くも、演劇の雰囲気を大きく変えてしまうのだ。今回の場合、呉羽の奇怪な声はどうしても劇には合わなかったようだ。
基哉は不安になる。自分たちの劇がうまくいくのかどうか。別に高望みをしているわけではない。大成功を夢見ているわけではない。だが、そもそも最低限の物が出来上がるかどうかが分からないのだ。

 劇は一時間半後に滞りなく終わった。話の展開は非常によくできていて、役者の演技も皆そつなくこなしていた。数ヶ月前、『練習試合』で見た時よりは格段に完成度が増しており、基哉はステージの幕が下りる間、称賛の拍手を素直に送った。
 ステージの幕が降り切ったところで体育館のカーテンが開けられる。体育館上部のはめ殺しの窓から日の光が差し込み、体育館は一気に明るくなる。
 客がそれぞれ席を立ち始め、体育館の出口へと向かう。
 その中で基哉は呉羽に一声かけようと思い、しばらく体育館の中にとどまっていた。しかし、呉羽らしき人物の姿は見つけられない。そうしていくうちに客が一人また一人と体育館を後にしていく。体育館の中にいる人の数がだいぶ少なくなった中、基哉は少し離れたところにマダムがいるのを確認すると、急いでその場を後にした。
 基哉は体育館を抜け出した後、ほとんど人通りの無い階段の踊り場で一息つく。
 この後どうするか、基哉には何も計画は無い。改めて呉羽を探すことや、校内の展示を見て回るのもひつつの手としてあった。しかし基哉はすぐに学校を去ることにした。やはりかつての知り合いや教師に会うのが怖い。
 学校を去る前に、尿意を催した基哉は近くのトイレに入る事にした。トイレに入ってすぐに基哉はこのような場所でも懐かしさを感じる事が出来るのだと知った。
基哉が入った後すぐに、二人の学生が入ってくる。二人ともやせ形で短髪、眼鏡をかけている。この学校ではよくいる風貌の生徒だ。
「それで、お前どこ受けるんだっけ?」
 小便器の前に立つと、黒ぶち眼鏡の学生がフレームなし眼鏡の方に尋ねた。
「それだけどな、阪大にしようかなって思っててさ」
「あれ、お前東大って言ってなかったっけ?」
 黒ぶちが驚く。
「まあ、希望調査とかはそういう風に出してるけどさ、やっぱつらいだろ、東大は」
「そりゃそうだけどさ。お前ならいけるって。お前がんばってるんだからさ」
「いやいや。最近はもう駄目だよ。努力も怠ってるし」
「けど、目標は高くしといたほうがいいぜ」
「なら、そう言う高山はどうなんだよ?」
「俺か? 俺はなあ……」
「何だよ。自分だけ言わないってのはずるいぞ」
 学生二人はそのような会話を続けながら洗面所に向かい、トイレを後にする。
 二人の会話に基哉はかなりの既視感があった。

*十一月十三日*
 この日基哉が市役所を後にしたのは午後の十時を回っていた。木戸が急に休んでしまった事など、色々と物事が重なってしまったためだ。もちろん、ここまで長く残業したのは初めてである。
 基哉は憔悴しきった表情で帰路に着く。
 このような日に限って母親が不在であるので、家に帰ってもまともな夕食は無い。
 基哉は財布の中を検める。外食するのには十分な額が入っていた。
 いくら寂れたこの街にも二十四時間営業のコンビニや牛丼のチェーン店がある。そこに行けば割と簡単に夕食にありつけるのだろうが、基哉は入る気になれなかった。
 基哉はその疲れ切った体を劇場通りへと向ける。
 寿司屋に入ってすぐに基哉は他に客がいないことに気付いた。この店は少なくとも十二時近くまでは営業している。本来ならまだ客がいてもおかしくない時間だ。
しかし、今店内にいるのは基哉と勉の二人だけ。
「おう、いらっしゃい」
 勉の威勢のいい声が店内に響く。
「今日はまだやってますよね?」
「もちろん。どうしてだ?」
「いや、他に客が一人もいないので」
「ああ、そうか」
 基哉に言われて改めて気付いたと言うかのように、勉もまたぐるりと店内を見回した。
「いや、実はな、今劇場で映画を流してるんだ」
「映画、ですか」
 基哉は小劇場に小さなスクリーンとプロジェクターがある事を思い出した。
「それって、もしかして、卑猥な感じの……」
「いや、違う違う。そんな物は流して無い。いたって健全なものだ」
勉は基哉の言わんとした事を即座に否定する。
「ただ、久しぶりに映画を流したからみんな面白がって見に行っちまった」
「なんて言う映画です?」
「『ザ、竜巻』と言う題名の昔のB級映画だ」
「俺の知る物じゃないですね」
「だろうな。それでどうする? お前も映画見に行くか?」
「いえ、今日はもう腹が減ってすぐに何か食べたいです」
 そう言って基哉はカウンター席に座り、あれこれと料理を注文した。

 基哉が注文した料理がすべて出そろってからしばらくして、勉が手に持った皿を拭きながら基哉の方へ近づいてきた。
「一つ聞いていいか?」
「はい、何でしょう」
 勉の眼には何故か少し敵意の眼差しがある。その視線に気づいた基哉は自然と身をこわばらせた。
「お前達、最近劇場の三階で何をしているんだ?」
 やっぱり勉さんは何か気付いていたじゃないか。基哉は内心そう叫び、迷う。本当の事を言おうかどうか。改めて勉の顔をうかがう。熟慮する。そして、本当の事を言おうと結論付けた。
「えっと、劇の練習です」
「劇?」
 勉に驚きの表情が浮かぶ。
「ええ。呉羽から一緒に劇をしないかと言われまして、それで、まあその準備と言うか、なんと言うか」
 それは勉にとっては予想外の答えだったらしい。何度も確認してくる。その都度、基哉は本当に劇の練習をしているだけだと説明した。
「じゃあ、何で言うのをためらったんだ?」
「呉羽にあまり他人に言うなって言われていたからですよ」
 勉に安堵の表情が浮かぶ。
「そうか、まあ、呉羽なら、そう言うか。だとしたらすまないな。娘のわがままに付き合ってもらって」
 勉はようやく納得したようだ。
「構いませんよ。それにこれは俺から手伝うと言ったようなものですし」
 事実、あのときの神社での会話がなかったら、このような事にはなっていなかっただろうと基哉は思っている。
「ところで、いつ頃やるんだ? その劇は?」
「年末ごろの予定です」
「そうか、じゃあ楽しみに待っておく事にする」
 そう言って勉は厨房の奥へと引っ込んでいく。
「あの、俺も一つ聞いていいですか」
普段は騒がしい店内も今日は静かだ。店の隅の方にあるテレビの音がよく聞こえ、少し離れたところにいる相手のも声がよく届く。
「何をだ?」
 勉が再び基哉の前による。基哉は少し緊張しながらも口を開いた。
「呉羽の事です」
 勉の顔が再び曇る。
「呉羽の何をだ?」
「呉羽の声の事です」
勉の表情がまた一段と険しくなる。
「どうして知りたいんだ?」
「その、劇の練習をするときに、あまり無理をさせてないか心配だったもので……」
「それだけか?」
 そう聞かれると、返答に詰まる。だが、素直に答えることにした。
「正直に言って半分興味本位です」
 勉は基哉の顔をじっと見つめる。そして軽く息を吐いた。
「まあ、いいか。あいつももうそこまで気にしてないみたいだしな。だが、あんまり他人に言いふらすなよ」
「はい、分かってます」
 基哉は真面目な表情で答えた。勉は基哉の真剣さを測るかのように基哉の顔を見つめ、それから一つ頷いた。
「そもそも、お前は俺と呉羽が実の子じゃないのを知っているのか?」
「以前にそのようなことを陳さんから聞きました」
「そうか」
 勉は厨房からお茶を入れたコップを持ってきて、それを飲む。
「呉羽は俺の姪、つまり俺の姉の子だ」
 それだけ言って勉は口を閉じた。基哉は先を促す意味も込めて尋ねる。
「そのお姉さんは?」
「もう死んだよ。元々体が弱くてな、呉羽が三歳のころに死んだ」
「父親は?」
「俺は会ったことが無い。姉さんに尋ねた事はあったが、詳しくは教えてくれなかった」
 呉羽の過去は決して普通とは言えない。基哉はそれを遅まきながら実感する。その事はあまり触れない方がいいと感じた。
「それで、呉羽の声があんな風になったのはいつからですか?」
「そうだな、厳密にいえば俺が呉羽を引くとる前の事だな」
「そうですか。なら、原因とかははっきり分からないんですか?」
「いや、そんなことは無い。お前、聞きたいか?」
「はい」
 基哉は即答した。そして、返事を聞いた勉は呉羽の過去を語る。
「呉羽は小さいころ、まだ姉さんの所にいた時に喉にできものが出来たそうだ。そして姉さんは貧乏でそれを治す金がなかった。そうしているうちにだいぶ放置されたそうだ」
「それって、勉さんや他の家族の人は何とかしなかったんですか?」
 基哉のその問いかけを勉は鼻で笑った。初めからそう問われる事を予測していたらしい。
「しなかった。と、言うよりもできなかった。その頃姉さんは俺達家族と疎遠になっててな、関東に住んでいたし、だから実際に連絡を取れるようになったのは姉さんが死ぬ数カ月前だった。その時、姉さんに子供がいるっていうのをはじめて知った。俺たちはとても驚いたさ」
 その慌てふためきようは基哉にも想像できる。
「喉にできものがあるってのもその時知った。もちろんすぐに喉のできものは取らせたよ。だけど、ちょっと遅すぎた」
 呉羽の喉はそうしておかしくなってしまったということらしい。
「ついでにその後の事も少し話そう。姉さんが死んで、喉の手術が終わると、呉羽は最初、俺の親に引き取られた。だけどな、親は呉羽の声を気味悪がったりして、お互いあまりうまくいかなかった。そうして色々もめ事も怒ったりしてな、結局俺が引き取ることになった」
「呉羽も大変だったんですね」
「まあな、だけどそれはもう終わった話だ。間違っても変な同情はするなよ。逆効果になる」
「分かっています」
 呉羽が自分の過去を強く気にかけている事は無い。それは呉羽を見ていれば分かる。しかしである。
「それで、マフラーをしているのは?」
 その問いに勉は少し考え込む。
「喉のできものを取る時に跡が残ってな、見るに堪えないって言うほどでもないんだが、あいつはだいぶ気にしてるようだ」
 それは納得できる理由なのだが、基哉には呉羽がマフラーをしている理由はそれだけではない気がしていた。それは、勉自身も思っているのかもしれない。
「ともかく、あいつの喉が人より弱いのは事実だ。だから、あんまり無理はさせないでくれよ」
「分かりました」
 基哉は勉に向けて強くうなずいた。
「それにしても、あいつが劇をするか……」
 勉が感慨に浸るようにつぶやく。
「どうかしたんですか?」
「何、少し昔の頃の呉羽を思い出してな。今はだいぶ良くなったが、あいつ、昔は家の中でもほとんどしゃべろうとはしなかった。俺が話しかけてもな、いつも手に持っている携帯電話に文章を打ち込んで、それで答えていた。俺に対してだけじゃない。あいつ、人と接する事は厭わないくせに、言葉のやり取りはいつも文字だった」
「そんなに喋らなかったんですか?」
「ああ、本当に強要されない限り、喋ることは無かった。」
「だったら今はどうして喋るようになったんでしょう?」
「さあな。俺が覚えているのは中学のニ年くらいにあいつが、急に家でしゃべりだすようになったことぐらいだ」
 中ニ、思春期の多感なころ。その時に逆に喋る決心がついたのかもしれない。そう考えてその可能性は低いと基哉は思った。
「呉羽にどんな心情の変化があったのかは俺には分からない。初めの方は呉羽も無理をして喋ろうとしていた。だから俺は今まで通りでもいいって言った。するとあいつはそれではだめだって言ったんだ。どうも自分の意思で喋ろうと決心した見たいだったな」
「その時の呉羽に何があったんでしょうね?」
「知らん」
 勉は鼻を鳴らす。
「もう、話すのは疲れた。それに、こんな辛気臭い話はもうやめだ」
 その言葉を合図にしたかのように、店の引き戸が開け放たれる。映画を観終わった人たちが一気に店の中になだれ込む。そうしてこの店は、すぐさまいつも通りの騒がしくてまとまりのない空間に戻った。

*十一月二十日*
 その日、基哉は市役所で思いがけない人物に会った。廊下の向こう側から歩いてくるのは岩波と陳である。劇場通りでしか会っていないせいか、少しばかり二人の雰囲気が違っているように見えた。二人も基哉の事に気づく。
「あれ、岩波さん、陳さん、どうしてここに?」
 基哉がそう言うと、二人は少し驚いた表情を見せた。
「そう言えば、お前、役所勤めだったな。そしてそんなお前は役所が俺たちに何をしようとしてるのか知らんのか?」
 陳の声から少し苛立ちが感じ取れる。それを感じ取った基哉は困惑した。
「え、まあ、俺は正規の職員じゃないんで、あんまり詳しいことは知らないんです」
 言い訳がましくそう言う。
 それを聞いた岩波はため息をついた。
「そうか。まあ、お前にはあまり関係ないことだ。じゃあな」
 岩波の様子もどこかよそよそしい。それよりも、先ほど陳が言った言葉、市役所が劇場通りに何かしようとしていると言うその言葉の方が気になった。
 基哉は行き場のないもやもやとした気持ちを胸に抱きながら土地利用課のフロアへと戻る。
 自分の席に向かう途中、吉田の姿が目に入った。手には大量の書類が入ったファイルを持っている。吉田ならば先ほど陳が言ったことについて、何か知っているかもしれない。そう思った基哉は吉田に尋ねてみることにした。
「あのすみません、吉田さん」
「あ、本江君。ゴメン今ちょっと時間が無くてね、出来れば後にしてくれるかい?」
「何かあるんですか?」
「ああ、会議があるんだ」
 吉田はそう答えると、小走りでフロアを後にした。そんな吉田の後ろ姿を見送った後、基哉は自分の席に座る。
「吉田さん、いつも大変そうね」
 木戸がいつも通りの倦怠感をにじませる声で呟いた。
 それからしばらく経ったのちに、原田が基哉の方へと近づいてきた。木戸が己の存在感を消し去ろうと、小さい体をさらに縮こませる。
「おい、本江。お前暇か?」
「まだ、午前の分が少し残ってます」
 原田は肩越しに基哉のデスクトップの画面を覗き込む。
「それは早急にやらなければならないやつか?」
「いえ、そう言う訳ではないですけど……」
「なら、お前、今から会議に参加しろ」
 原田の思いがけない言葉に思わずキーボードを打つ手が止まる。
「え、それって先ほど吉田さんが言ってたやつですか?」
「まあ、そうだ」
「でも、俺が会議に出ても何の役にも立たないと思います」
 今まで基哉は会議に出たことが無い。そもそも基哉の仕事は単純な事務処理であるので、会議などとはほぼ無縁である。
「構わん。ただ座っているだけでいい。ひとまずさっさと来い」
 原田の有無を言わさない言い方に、基哉は仕方なく席を立つ。
木戸が憐みの表情を基哉に向ける。
 原田は基哉に一瞥をくれることもなく、あるいていく。基哉は仕方なくその背中の後ろについて行った。
 原田の足を向けた先は土地利用課のフロアのすぐ近くにある小さな会議室だった。
 原田はその入り口の扉を勢いよく開ける。
 中の広さはおおよそ八畳ほど。入口の向かい側には大きな窓が一つ。ブラインドが閉められ、外の景色は見えない。さらにその手前にはホワイトボードがある。
 部屋の中には長机が二つ。ホワイトボードとコの字を形成するように並べられている。片方の机には大量の書類、もう片方の机には湯のみが二つ置かれている。
 部屋には男が三人。一人は吉田。書類が大量に置かれた机の前にしてパイプ椅子に座っている。
 そして吉田と向かい合うようにして残りの二人、勉と陳が向かい側の机の後ろに腰かけている。
 基哉が会議室に入ると、三人とも驚いた表情を見せた。
「やあ、原田さん。まさか本江君をこの場に連れてくるとは思いませんでしたよ」
 原田は吉田の言葉には答えず、無言で吉田の横に腰かける。
 部屋には他に椅子が無い。仕方なく基哉は扉のそばで立っていることにした。
 原田は資料の一枚を手に取ると、ざっと流し読みをし、ほぼ睨みつけるような視線を勉に送った。
「よう、明け渡す気になったか?」
 負けじと勉も睨みかえす。
「なるわけ無いだろ。それと何だ。その上からの態度は? 人にものを頼む時は言い方があるだろ?」
「じゃあ俺が土下座して頼めば土地を明け渡すか?」
「渡さん」
「なら俺らも下手に出る理由は無い」
 二人は無言で睨みあい、陳も原田に険しい視線を向ける。
「まあまあ、原田さんそうけんかごしにならずに、ここはちゃんと話し合いをしましょう」
 他の三人と違い、吉田は笑いながら話を進める。
「私達の申し入れは以前と変わりません。市内の再開発のため、貴方達の所有している土地を市に売却してほしいんです」
「わしらの意見も以前と同様、それを受け入れるつもりはない」
 陳が視線を吉田の方に向ける。
「そもそもそんな公共事業、金の無駄だろ。どうせ、中身がすっからかんの不格好なビルがいくつか増えるだけだ」
 勉が付け加える。
「あいにく、ビルを建てるような計画はありません。一応公園を造ることになっています」
「じゃあ、それは公園じゃなくて中身がすっからかんの空き地だ。それに公園なら近くにもういくつでもあるだろ」
 勉がさらに毒づく。吉田は勉や陳の敵対心丸出しの態度身もめげづに、笑顔を絶やさず説明を続ける。
「そんな意地悪を言わないで下さいよ。ちゃんとそれなりの物が出来ますから」
「それは結構なことで」
「ですから、お願いしますよ。土地、譲ってくれはしませんか? 保障ならちゃんとしますよ。立ち退き料も支払いますし、貴方がたの店舗や住居の建て替えにかかる費用もこちらが負担します」
「だから、前から言ってるだろ。あの場所は金が同行っていう問題じゃねえんだよ」
 陳がこぶしで机をたたく。大きな音が響き、机の上の湯のみが揺れ、茶が少しこぼれる。
 それでも吉田は笑顔を絶やさず、そして原田はへ万げな表情を隠そうとはしない。
 結局、話し合いは平行線をたどったまま何も進展しなかった。

 会議が終わり、基哉は吉田から劇場通りが置かれている立場を知った。
 街の中心部の再開発計画のため、市が劇場通りを含めたその周辺の土地を購入しようとしている事。勉や陳をはじめとした劇場通りの店主達が土地の売却を断固拒否していると言う事。
 基哉は全く気がつかなかった。市役所と、劇場通りの面々の間にそんな確執がある事を。両方の側の人間と深く接してきて、その事に全く気がつかなかった。自分が恥ずかしくなった。
劇場通りに非常に足を運びづらくなったのは言うまでもない。しかし、だからと言って劇場通りから遠ざかるわけにはいかない。
基哉には約束がある。そして、その約束を果たすまでに残された時間がさほどないと知った今、基哉には思い悩む余裕は残されていなかった。

「今回も結局話は進みませんでしたね」
「ああ」
「彼らを説得することなんて本当にできるんですかね?」
「ああ」
「……原田さん、聞いてます?」
「……」
「ダメだこりゃ」
 吉田と原田は市役所から歩いて五分ほどの所にある焼き鳥屋で晩酌をしている。
 酒好きな二人はすでに大量のアルコールを摂取している。酒の強い吉田はさらに酒をあおりながらよく回る口で原田に喋りかけている。
「彼らは立ち退きの条件に満足していないみたいですね。我々からすると破格の待遇ですがね」
 一方原田は年のせいもあるのか、既に十分酔いが回っており、呆けたように食べ終わった焼き鳥の櫛を眺めている。
「彼らが心配しているのは立ち退いた先で、今までと変わらずの商売が出来ない事でしょうね。まず、飲食店を構える立地として、立ち退き先が今いる場所よりも悪いのは明らかですね。あそこはあまり人がいませんから」
 吉田は酒をあおり、豪快に豚足にかぶりつき、肉の塊を飲み込んでから、再び聞いているのかどうかはっきりしない原田に語りかける。
「それからあの小劇場ですねあれが無くなるのは彼らにとってとても嫌なことみたいですね。まあその気持ちは足しげくあそこに通った僕も分かりますけど…」
「いいや、分かってはいない!」
 原田は血走った眼を見開き、こぶしをテーブルに叩きつける。
「あれはただの劇場では無い。あの劇場は、あこがれであって、夢なんだ。今も昔も変わらずにな」
「原田さん。当分の間、行ってないじゃないですか」
「行かなくても分かる。あそこは、あの場所は他に移すなんてことはできない……」
「それを僕達が言ってしまってはだめじゃないですか」
「……」
「聞いてないか」
 吉田はポケットから携帯電話を取り出すと電話をかける。相手は原田の奥さんである。
「もしもし、吉田です。……はい、はい。ええ、また酔い潰れちゃって……。すみません。お互いあんまり飲まないようにはしているんですけどね……」
 吉田は店の場所を伝えると電話を切った。それから、会計の準備をする。
「あの場所が大勢の人にとってかけがえのない場所であることは分かっていますよ。しかし、物事には永遠はありませんし、あの場所にはタイムリミットが近づいています。だから、我々の手で終止符を打つべきなんだと思います」

*十二月七日*
馬場清太がヴァイオリンと出会ったのは小学校三年生の時である。演奏会で学校にやってきた女性のヴァイオリニストに一目ぼれをし、それから無性にヴァイオリンを弾いてみたくなった。
そこから親に何度も頼み込み、清太少年はヴァイオリンを習うことになった。彼のセンスは中の上と言ったところ。ヴァイオリンその物に対する情熱は人並み。それでも六年間弾き続けた結果、からの腕はかなり上達した。
清太は、高校に入学したときある選択に迫られた。ヴァイオリンを続けるかどうか。
そう思い悩んでいる時に、彼は一人の男と出会った。
大澤拓。今の相棒である。一学年の時に同じクラスだった。拓は調子ものであり、かつ自慢家だったので、自分の特技を何かと吹聴して回っていた。
そしてある日、清太は拓に向かって言った。自分もヴァイオリンを弾くことが出来ると。それを聞いた拓は、ならば一度、一緒に演奏してみようと言った。
清太はそれを了承し、学園祭の時に二人で二重奏を行った。その演奏を終えると、今までヴァイオリンの音で満たされていた空間が、拍手の音に埋め尽くされた。
この時、清太はずいぶんと久しぶりにヴァイオリンを弾いていて楽しいと感じた。そして、高校の内もヴァイオリンを続けることに決めた。
それから二人は定期的に演奏するようになった。初めは駅前でストリートライブをやっていたが、やがて拓が小劇場の存在を見つけ出してきた。
それからは拓が清太を誘い、小劇場で演奏することが多くなった。
高校生の時は拓の方が積極的だった。
大学生になっても二人はこの活動を続けた。互いに違う大学に入学したが、両方とも地元だったので集まることはたやすかった。
しかし、ここしばらくはそうもいかなくなっている。
拓は何やら学業に時間を取られるようになってきているようだ。
清太の方から誘いを入れても、断られることが多くなった。
 そして清太自身も、金銭的理由から、今は働いている身である。二人は今マダムのスナックのカウンター席に並んで腰かけている。周囲の享楽的な雰囲気とは反するように、二人の周りには重苦しい雰囲気が立ちこめている。
 この日は清太が拓を呼び出した。ある決心を拓に伝えるために。
「なあ、拓」
「なんだい?」
 拓の声はとても落ち着いていた。
「俺、思うんだそろそろ潮時じゃないのかって……」
 その言葉を聞いた拓はたださみしげな笑みを浮かべているだけだった。まるで、初めから清太が何をしゃべるつもりだったのか知っていたみたいに。
「何か、行ってくれないか?」
 拓の返事を催促する。
「なあ、お前はどうしてヴァイオリンをしようと思ったんだ?」
 何故今そんなことをと清太は思った。
「前に言わなかったっけ? 小学生の時、演奏会でヴァイオリンを弾きに来た人に一目ぼれしたんだよ」
「ああ、そうだったな」
 拓はさみしげな笑みを崩さない。そして、囁くように小さな声で言った。
「俺ね、もうヴァイオリンに飽きちゃったんだ」
「飽きた?」
「そう。飽きた」
「いつから?」
「結構前から」
 それを感じていない清太では無かった。だいぶ昔から、拓が楽しそうではない事には気付いていた。しかし、改めて拓の気持ちを知ると気が沈む。
「少ないけれど、俺たちのファンには申し訳ない話だ」
「そもそもファンだったのかな」
「それはファンだったと思う。なんて言うかな、ファンだったと思わせていてくれ。そうでないと、本当に何をしていたのか分からなくなりそうだから」
 拓が清太を見る目はどこか憐れんでいるように見えた。
「それで、一つわがままを聞いてほしいんだ」
清太は拓の方を向き、少し頭を下げて頼む。
「そんな仰々しくされると、緊張するな」
 拓はからかうように言う。
「このまま、フェードアウトしていく感じは嫌だ。きっぱりと、けじめをつけたいんだ」
 清太はさらに頭を下げる。
「分かった。なら年末に最終公演をしようじゃないか」
「ありがとう」
 拓は小さく噴き出した。
「少し違うな。ここは僕がすまないと言うところだ」

*十二月二十二日*
 久しぶりに出た表舞台。ここ数年、舞台裏にも行かずコソコソ隠れるような生き方をしていた基哉にとって、そこはとても眩しかった。
 数か月の準備を経て、呉羽と基哉は小劇場で一夜限りの演劇を行っている。狭い小劇場の客席は半分以上埋まっていた。その中には勉やマダム、陳などの基哉のよく知る劇場通りの店主達もいる。
この劇の役者は呉羽と基哉だけ。衣装や舞台のセット、小道具類もほとんど二人で用意した。まさに二人で作り上げた劇。
いや、正確には呉羽が作り上げた劇。基哉は舞台の上では呉羽と二人並んでいるが、その役割は照明などをわずかばかり手伝っている酒井妹と本質的には変わらない。
かつて、基哉は今この時よりも多くの観客の前に立ち、多くの期待を寄せられた事があった。中学二年生の時の学園祭での演劇。そこで基哉は準主役とも言うべき、重要な役をやった。その時はもう無我夢中で、自分に与えられた役割をただ必死にこなすだけだった。だがそれが逆によかったのかもしれない。何かを考える暇を全く与えてもらえなかったのだから。
基哉は今、物すごく緊張していた。中学の時よりも明らかに観客は少ない。基哉にかけられている期待も圧倒的に少ない。それでも基哉は物すごく緊張していた。
劇も中盤に差し掛かったころ、基哉は台詞が飛ぶなどの、大きな失敗をすることなく、なんとか自分のやるべき事を全うしていた。
それでも、緊張を隠す事までは出来てはいなかった。少し上ずった声にどこか固い動き、小劇場にいる人はみんな基哉が緊張している事に気付いていた。観客も、酒井妹も、そして呉羽も。
 舞台の上で基哉は台本通り、呉羽に背を向け、台詞を放つ。そして、それをうまく言えない自分に腹が立った。
 背後から基哉を見つめるその視線が怖かった。
次の瞬間、基哉は後ろから呉羽に抱きつかれる。これも台本通り、しかしそこで基哉の思ってもみない事が起きた。
「アリガトウゴザイマス」
 それは基哉にしか聞こえないような小さな声でささやかれた、台本にはない台詞。
 それから呉羽は本来の台詞を喋り、そして基哉から離れる。
 基哉は迫真を超えた驚きと戸惑いの表情で、呉羽の方に振り向いた。
 呉羽はとても穏やかな表情をしていた。
 それを確認した基哉は、大きく間をとって、そして台詞を語る。
「僕は、貴方のために、何だってしましょう」
 基哉はもう、緊張してはいなかった。

今回の劇は話の展開として中途半端なところで終わる。呉羽があえてそうしたのだ。
「コノ物語ハ、二部構成デス。何カ月後カ先ニ、第二部を行イマス。ミナサン、ソノ時マデ待ッテイテクダサイ」
 呉羽のその言葉とともに、今夜の第一部は終幕となる。
 最後に、呉羽と基哉と酒井妹の三人が舞台の上に並ぶと、客席から大きな拍手が巻き起こった。









*一月一日*
 今年は新年初日から冷え込みは激しい。午前中には雪が降り、昼過ぎには止んだとはいえそれなりの量が積もってしまった。さすがに正月から働きたくないのか、どこの家も雪かきはしていない。本江家でも、普段は雪が降るとすぐ雪かきをやり始める正が今日ばかりは炬燵に入ってテレビを見ている。
 基哉と由美子も一緒に炬燵に入り、何をするともなしに半ば呆けながら炬燵の快適さに身を任せている。
 ちなみに柚季はスーパーの新年セールのために朝から出勤している。
 時刻は午後三時、基哉は先ほど食べ終えたミカンの皮をゴミ箱に放り込んだ。そしてひと伸びをし、うめき声のような不明瞭な声を発しながら炬燵からはい出た。
「ちょっと出かけてくる」
「どこ行くの」
 由美子がいぶかしむ。
「市役所」
「え、でも、仕事休みでしょ」
「ちょっとやることがあってね」
「わざわざ今日行かなくてもいいんじゃないの?」
「うーん。そう言う訳にはいかない」
 基哉は自分の部屋に行き、防寒具で身を固める。
 リビングに戻ると、正が眠たそうな声でたずねてきた。
「雪かきしようか?」
「いいよ、電車で行くし」
「そうか」
「じゃあ、いってきます。夕飯までには帰ってくる」
ひとたび外に出ると、その寒さに思わずちぢみあがる。いくら防寒着で身を固めても体の奥までしみ込んでくる寒さを防ぐことはできない。すぐさま炬燵が恋しくなる。だが、それはできない。
 基哉は誘惑を振り切ると、雪で歩きにくくなった道を、駅に向かって進み始めた。
 
 基哉がこの日、街にやってきたのは仕事のためではない。
 呉羽に初詣に一緒に行きましょうと誘いがあったためだ。若い女のこと一緒に初詣などと言う事は家族にはいいづらかったため、基哉は仕事関連でやる事があると嘘をついて、家を飛び出してきた。
 駅を出た基哉は劇場通りへと向かう。狂ったように水をまいている融雪装置のせいで歩道は水浸しになっていた。このようなありさまだから、この時期、この街を歩くには長靴が不可欠だ。
 劇場通りへと続く路地への入口の所に呉羽は立っていた。手袋越しに指に吐息を吹きかけ、寒そうにしている。
「やあ、明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
「もしかして、待った?」
 基哉は時間を確かめる。約束の時間には遅れていなかった。
「いいえ、大丈夫です。それよりも、早く行きましょう」
「うん、分かった」
 二人は水びたしの歩道を歩きはじめる。歩きながら、基哉は呉羽に後で何か温かい物でも奢って上げようと思った。

この街の中で一番大きな神社の一つ、山王神社は駅から市役所の方向へ歩き、市役所を通り過ぎ、さらに歩いたその先にある。
何を祭っている神社であるのか基哉ははっきりとは理解していない。ともかく古くからある神社で街の人たちに一番なじみのある神社である事は確かだった。
街の中心部にあるため、普段から少々騒がしい境内は、この日はさらに多くの人が初詣に訪れ、活気と喧噪にあふれている。
本殿の前には長い列が出来ており、賽銭を入れるのにもしばらく待たなければいけない。
「最近、様子が変ですが、何かあったんですか?」
 列に並んでいる時、呉羽がそう尋ねてきた。
「え、そう?」
「ええ、何だか、周りの方々に対する態度が、少しぎこちないように見えます」
 一カ月以上前の小さな会議。そこで基哉は劇場通りの置かれている状況を知った。市が土地の買収を打診していること。そして劇場通りの店主達はそれに応じていない事。つまり市役所と劇場通りの面々が敵対している事。
 その事実を知った後も、基哉は劇場通りに通い詰めた。呉羽との劇の準備があったためだ。
 そして、劇場通りに赴けば基哉は勉達と会わざる終えない。基哉は今までと同じように彼らと接する事が出来るほど器用では無かった。どうしてもわずかばかり緊張してしまう。
「まあ、ちょっと色々あって」
「何が、あったんです?」
「えっとだな、その前に一つ聞きたいんだが、呉羽は知っているのか? 劇場通りと市役所の間で話し合いをしている事」
「私達が、立ち退きを要請されている、件に着いてですか?」
 基哉は頷いた。
「知ってたんだな」
「もちろん、私も、当事者ですから」
 呉羽は何か思いついたようだ。
「本江さん、まさか、その事を知って、お父さんや他の人に、委縮していたんですか」
「うん、そう」
 基哉が肯定すると呉羽は軽く笑った。
「その事を、本江さんが気になさる事はありません」
「でも、少し気まずいんだ」
「そんなの、気にしているのは本江さんだけですよ。劇場通りは、お客さんならどんな方でも、大歓迎ですから」
 呉羽がそうまで言うのならと、基哉の気持ちは少し軽くなった。
 その会話を終えたところで、二人は列の先頭、賽銭箱の前に立った。それぞれ財布を取り出し、小銭を賽銭箱に投げ入れた。
 二人は、賽銭箱の前に垂れている太めの縄をゆする。するとその紐につながった大きめの鈴がガラガラと音を立てる。
 基哉は手早くニ礼とニ拍手をし、目を閉じる。
 鈴の鳴る音、小銭のぶつかり合う音、周りの人の話し声が基哉の周りを渦巻いていた。
 今日は元日。何万という人が、神様にそれぞれの願いを祈ってくる。ひっきりなしに、続けざまに。多くの人の煩悩は、除夜の鐘で払われたにもかかわらず、一日もたたずして復活しているようだ。
列の後ろの人間がどんどんせかしてくるのを感じた。基哉は軽くため息をついた。
 神様、今日は大変ごくろうさまです。そして、願いでは無くねぎらいの気持ちを神に向けた。
お参りを終えた二人は呉羽の提案でおみくじをすることにした。くじ運の無い基哉はおみくじ引くつもりはなかったが、呉羽に頼まれて結局引くことになった。
その結果、呉羽は大吉で基哉は小吉だった。基哉はやはり自分には籤運が無いと思った。
二人はおみくじの結果を、境内わきの気に結びつける。
「すみません、ついでにもう一か所、初詣をしに行きたい場所が、あるんですけど、いいですか?」
 おみくじを結び終えた呉羽が基哉に問う。
「ああ、構わないけど」
基哉はそれを二つ返事で了承した。

 呉羽が言ったもう一か所とはかつて訪れた、住宅街の中にある小さな神社の事だった。
境内は除雪されていない。参道にあるまばらに足跡が、誰かがすでにここで初詣をした事を物語っていた。
小さな本殿にはわずかばかり豪奢に見えるような飾り付けがなされている。そして本殿の手前には木製の奇妙な二等辺三角形の物体が置かれている。高さは三メートルほど、中を人が通れるようになっている。これは神社の屋根に積もった雪の落下に備えたものである。これによって落下した雪が人に直撃することや、道を塞ぐ事を防いでいる。
二人は賽銭箱の前に立つと、それぞれ硬貨を投げ入れた。硬貨が木枠に当たって跳ね返る音が何回か響く。それから二人は鈴を鳴らし、手を合わせる。
 基哉は目をつむり、何を祈るか考える。先ほどは何も祈らなかったから、今度はちゃんと祈ろうと思った。しかし、なかなか決まらない。願い事が無いわけではない。ただ、それらは祈るほどでもない事に思え、そもそもこの場で祈る事でもないようにも思えた。
結局基哉は何も祈らずに目を開けて呉羽の方を見た。呉羽の方は既に目を開けて、基哉の方を見ている。どうやら呉羽の方が一足早く終えていたようだ。
「本江さんは、何をお祈りしたんですか」
 帰路につきながら呉羽が尋ねた。
「言わない。言ったらかなわなくなっちまうからな」
「面白くないですね」
 そうは言われても、祈っていない事を言うことはできない。基哉は呉羽の追及を避けるため、話題を変えることにした。
「そう言えば、呉羽はこの神社、何の神様を祭っているのか知ってる?」
「知りません」
「この神様は防火の神様らしい」
「つまり火の用心の、神様ですか」
「そんな感じ」
「では、私の願いは、叶えてくれそうにありませんね」
「呉羽は何を祈ったんだ?」
「言ったら叶わなくなると、言ったのは、本江さんでしょう?」
 呉羽は半ばからかうように言った。

*一月七日*
 その日、基哉は市役所の食堂で久しぶりに馬場と会った。
「本江さん、お久しぶりです」
「あ、馬場さん、お久しぶり」
二人で並んで昼食をとる。
「聞きましたよ。劇、うまくいったんですって?」
「ええ、まあ。ですが大体は呉羽がやった事ですよ」
 今更ながら、少し恥ずかしくなる。
「そんな謙遜なさらずに。劇場通りの皆さんの中には本江さんの演技を褒めてる人もたくさんいましたよ」
 馬場のその言葉で、基哉は最近馬場と劇場通りでも合ってない事に気付いた。
「それはありがとうございます。ところで最近、会いませんでしたけど、忙しかったんですか」
「ええ、まあ」
「そうですか。今度また演奏を聴かしてください」
「ああ、演奏ですね」
 馬場の表情が曇る。
「どうかしたんですか?」
「僕、もうヴァイオリン止めたんです」
「え?」
 基哉の驚きの表情を見た馬場の顔がさらに曇る。
「どうしてやめちゃったんですか?」
「それは、相方の方も色々と忙しくなったようでね、もう止めようって事になったんです」
「そんな、もったいない」
「そうは言ってもですね、ヴァイオリンじゃ金は稼げないでしょ? 今はそんな無駄なことをしている余裕はないんです」
 馬場が少し声を荒げ言う。周りに座っている職員の何人かが基哉たちの方に顔を向ける。
「すみません。じゃあ僕はもう行きますね」
 馬場はそう言って席を立つなり、足早に食堂を後にした。

*一月十日*
「基哉、ちょっといいかい」
夕食後、自分の部屋に戻ろうとした基哉を正が呼びとめる。
「何?」
「ちょっと話があるんだ」
 その場に緊張が走る。由美子も皿洗いの手を止め正の方を見る。
「話って何?」
 正が重々しく口を開く。
「基哉は、いつまでこの仕事を続けるつもりだい?」
「それは、ちゃんと決めてないって言うか……」
「基哉、四月から大学に戻ったらどうだ」
 普段と違う重く低い声。その声に、基哉は久しぶりに正に父親の威厳を感じた。
「え、でも」
 そこで言葉が詰まる。
「でも、何だ?」
 正は基哉に続きを促すが、基哉は答えない。
「基哉、学校の勉強、最近全くしてないだろ」
「……」
「このままじゃ色々と忘れてしまうだろ。学費の方だってなんとかできる金はある。それなのにこのまま仕事を続けて、せっかく大学で学んだ事を忘れてしまっては本末転倒ではないのか」
 正の言うことはまったくもって正しい。基哉は反論の一つも思い浮かばず、ただ黙っていることしかできない。
正の射るような視線を避けるために目をそらすと、心配そうな顔つきの由美子と目があった。基哉は目をつむり、深くため息をする。
「ところで。基哉、最近家に帰ってくるのが遅くなっているが、いったい何をしているんだ?」
「別に何も、外で夕飯食って帰ってるだけだ」
 自分でも、声に焦りが混じっているのが分かる。
「それだけか?」
「それだけだ。俺ももう子供じゃないんだからあんまり詮索しないでくれよ。それに、誓って言うけど、いかがわしいことは決してしてない」
「別にそんなこと疑っているわけじゃないさ。ただ、この前、同窓会で面白い事を聞いてね」
「面白い話?」
 由美子が尋ねる。
「基哉、お前は劇場通りって知っているか?」
 正の口から『劇場通り』の言葉が発せられたのをきいて基哉は心臓を掴まれたような気分がした。
「まあ、一応。駅前にあるやつだったけ……」
「そう。あそこには小さな劇場があって、それは比較的自由に誰でも使える」
 基哉はには分かった。正は全て知っている。
「そこで今度、高校生と市役所の職員が劇をやるそうだ」
「もしかして、それって……」
 由美子の言葉を制し、正が続ける。
「基哉、これはお節介かもしれないけれどな、今お前がやっていることは、本当にお前の将来役に立つことなのか?」
 役に立つ。その一言は基哉の口からは出てこなかった。そしてそれがいったい何を意味するのか基哉は気付いた。自然と唇が震え、目が泳ぐ。
 その様子を見て正は軽くため息をついた。
「基哉。頼むから来年は学校に戻ってくれないか。父さんの言いたいことはそれだけだ」
 正は椅子から立ち上がるとダイニングの出口へ向かう。
「じゃあ、おやすみ」
 正は基哉の返事を待たず、ダイニングから出た。
 水道の蛇口を開く音、由美子が無言で皿洗いを再開する。
 それからしばらく基哉はその場に棒立ちになっていた。

 基哉の今やっていることは決して無意味なことではない。それは断言できる。しかし、それが基哉自身のためになるのかと問われると、それは答えに窮してしまう。それは周囲のためにはなっても、基哉の将来に良い影響を与えるわけではない。むしろ、逆になるのかも知れない。
 そして基哉は自分がそのような行動を取っていることに納得していない。そのことに今気がついた。
 しかし、気付いたからどうなるのか。基哉はこの状況を変える勇気を持っていなかった。

*一月十七日*
 物事と言うのは全く起きない時期もあれば、続けざまに起こることもある。基哉はこの日、それを実感した。
「そう言えばお前、来年はどうするつもりだ?」
 いつもどおり、パソコンに面と向かって事務処理の仕事をしていた基哉に、原田が唐突に尋ねてきた。
「来年は、まあ、親に大学に行くように言われました」
 それを聞いた原田は眉間にしわを寄せる。
「そうか、でお前はどう思っているんだ」
「俺ですか?」
 そこで基哉は口ごもる。
 自分はどうすればいいのかが分からなくなっていた。
「俺はこのまま大学に戻っていいのか悩んでるんです」
「何故だ?」
「だって、俺の同級生の中にはもう働いているのもいて、なんて言うんですか、大学に行ってていいのかなって」
 基哉の口から出たのはとても曖昧な言葉だ。
「もっとはっきり言え」
 原田がいらだたしげに催促する。
「俺は、このまま大学に行ってて意味あるのかなって思ってるんです」
「お前は甘い!」
 原田が突然、大きな声で怒鳴った。その声に反応して周りの職員が何事かと基哉たちの方を見る。
「お前なあ、大学には親に行かせてもらってたんだろ? 金出したのは親だろ」
 原田は諭すように、そして厳しい口調で基哉に問いかける。
「はい」
「だったらな、大学に言って意味あるのかなんて言うな。お前にはそんな事を言う筋合いはない。お前は大学で何かしら成果を上げなきゃならんのだ。それがお前の義務なんだよ」
 義務と言う言葉が基哉の胸に深く刺さる。
「分かったか?」
「はい」
 基哉はうなだれてうつむき加減に言った。
「本当に分かったのか?」
 原田はそう言って、手に持っていたファイルで基哉の頭をはたいた。
「分かりましたって」
 基哉は顔を上げ、睨みつけるように言った。
「なら、いい」
 原田は基哉に一瞥をくれると、そのまま去って言った。
「原田さん、ああ言ってたけど、あんまり気にしない方がいいわよ」
 先ほどまで最小限に丸まっていた木戸が遠慮がちに声をかけた。
「あの、すみませんちょっとトイレに行ってきます」
 基哉は木戸背を向け、返事を待たずに席を立った。
トイレに入った基哉はそのまま個室に直行し、鍵をかけ、便器に座る。それから人知れず悔し涙を流した。

*一月十八日*
 マダムの店は今日も酔っ払いであふれかえっている。皆が皆、仕事場や家庭での鬱憤を晴らすために大量の酒を流し込み、カラオケマシーンに向かって下手な歌を熱唱し、近くいる者に誰かれ構わず愚痴を漏らす。
 入店した基哉はそんな喧騒を一切受け付けず、店のカウンターの一番端に座った。基哉の姿を確認したマダムが歩み寄る。
「あなたがここに来るなんて珍しいこともあるものね」
「今日は、飲んで忘れたい気分なんです」
 基哉の返事を聞いたマダムは豪快に笑い始めた。その反応に基哉は少し腹を立てる。
「何辛気臭い事を言ってるのよあなたは。そんなことを言っていいのは少なくともあと二十年は経たなきゃだめよ」
そう言ってマダムは小さなグラスに入った透明な液体を基哉の前に出した。
基哉はそのグラスを恐る恐る手に取り、一口すすった。その途端、焼けるような痛みが喉を走る。基哉は咳き込み喘ぐ。
その様子を見てマダムはまた爆笑をする。
「酒に溺れたいって言うのなら、今のを一気に飲めるようにならないとだめよ」
 基哉はどうにか呼吸を整え、涙目になりながらマダムを睨みつける。
 基哉が呼吸を整えたころ、またマダムが問いかける。
「そう言えば、呉羽ちゃんの事、聞いた?」
「呉羽がどうかしたんですか」
 なんとなく、嫌な予感がした。
「呉羽ちゃん、この前勉君と大喧嘩したのよ」
「喧嘩? どうしてです?」
 呉羽が勉に衝突した事は基哉の知る限り今まで一度も無かった。
「何でも、学校の成績が落ちたとか」
「それでケンカですか」
「珍しく言い合いになっちゃったみたい。でも、呉羽ちゃんは中央高校でしょ。そこに行ってる時点で成績はあまり気にしなくていいと思うんだけど。これって勉強できない人の考えなのかな?」
「何とも言えませんけど、たぶん呉羽にしても勉さんにしても色々思うことがあったんじゃないでしょうか」
「そうかもね」
 断定はできないが、呉羽の成績が落ちた原因に基哉は心当たりがあった。
 基哉はカウンター席を立つ。
「今日はやっぱり帰ります」
「そうした方がいいわ」
 基哉はポケットから財布を取り出す。
「あの、お代は」
「いらないわ。サービスしてあげる。ほんのちょっとだけだしね」
「ありがとうございます」
「ただし、ちゃんと大人になったらこのお店でバンバンお酒を飲んでもらいますからね」
 それを聞いた基哉は苦笑いを浮かべた。

*一月二十五日*
 原田との一件以来、基哉は仕事が終わればできるだけすぐに市役所を後にするようになっていた。この日も基哉は五時に仕事を終えると素早く帰り支度をして家路に着く。
 別に大した意味は無い。この事が無意味な意地であることを基哉は自分でも自覚していた。
 市役所を足早に出た勢いをそのままに半ば急ぎ足で駅へと向かう。冬真っ盛りのこの時期では、どうしても足早になる。
しばらく歩いた先に見慣れた人影を見つけた。その人物は歩道の街路樹に身を預け、こちらの方を眺めている。歩くにつれてその人物がはっきりと見えてきた。
「やあ、久しぶり」
 それは酒井だった。
「やあ、こんな時期に帰ってたのか。大学は今頃テストだろ?」
「そうだけど、教職の関係で色々あってな、どうしても帰らなきゃならなかったんだ」
「じゃあ、高校に行ってきたのか」
「そうだよ、久しぶりに先生にも会ってきた」
「どんな様子だった?」
「どんな様子って、まあどの先生も変わらないよ。だけど、結構転任した先生が多かったな」
「なるほど」
「基哉、お前は高校に行ってないのか? ここに戻ってきているんだから行く機会はたくさんあるだろ」
「まあ、そうだけど、なんか気まずくてな」
「俺は別にそんな感じはしなかったんだけどな」
 お前には分からないかもなと基哉は心の中で呟いた。
「ところで、タイミングよく会ったな」
「今回は違うぞ」
 酒井は意味深な言葉を漏らす。
「それはどういうこと?」
「俺はな、お前を待ってたんだ」
「どうして?」
 酒井はその問いには答えず、親指で通り沿いの喫茶店を指示した。
「前、話しただろ。俺がいい喫茶店を見つけたってこと。ここで話すのは寒いからさ、ちょっとその店に入らないか?」
「まあ、いいよ」
 基哉は渋々酒井の後について行った。
 そこは周りから忘れ去られたかのような、古く、小さな空間だった。基哉がこの店に来るのはもちろん初めてだ。一方酒井は慣れた様子で店内を横切って席に着く。
 そして、店の奥にあるテーブル席に着いた。基哉も酒井と向かい合わせになるように座る。
 二人が席に着くと、どこからともなく一人のウェイトレスが現れた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「はい」
 酒井は何やら難しげな横文字を織り交ぜながら注文している。酒井が注文を終えると、ウェイトレスは次に基哉の注文を尋ねてきた。喫茶店に訪れた事もなく、コーヒーについての知識もない基哉は、無難に酒井と同じ物を頼んだ。
 注文を待つ間、二人は一言もしゃべらなかった。やがてウェイトレスがコーヒーカップを二つお盆に載せて現れる。
「ご注文の品、ご用意しました」
 二つのコーヒーカップがテーブルの上に置かれる。酒井はその一つを手に取り、コーヒーを一口啜ると、真剣身を帯びた表情で基哉を見つめた。
「聞いたぞ」
「何を?」
「お前、なんか劇をやるみたいだな」
「そのことか……。妹さんに聞いたのか?」
「まあな。それで、お前はどうしてそんなことをすることになったんだ?」
 どうして酒井はそんなことを聞くのか。その疑問はあった。それでも基哉はその問いにどう答えようか頭をめぐらす。呉羽の事をあまり多く語りたくはない。
「まあ、なんて言えばいいか……。一種の人助けみたいなもんだな」
 この答えを聞いて、酒井は大きくため息をついた。少し呆れた調子で言う。
「お前は本当に優しい人間だな」
「そんなことはないさ、俺は別に聖人君子なんかじゃない。たぶん半分くらいは自己満足のためさ」
 しばらくの沈黙。酒井の方も何か考えながら言葉を選んでいるようだ。やがて酒井は口を開いた。
「お前が、そう思っているのなら言わせてもらうけど、その劇、やる必要があるのか?」
 やっぱりか、基哉はそう思う。
「どういうことだ」
 それでも理由を聞く。
「俺だってあんまり詳しく話を聞いたわけじゃない。だからその劇自体が無意味だとは言わないでおく。だけど、それは今本当にやらなきゃいけないのか? この時期に」
「それは、なあ……」
 分からない。という言葉までは口から出なかった。酒井はさらに言葉を投げる。
「さらに言わせてもらうとだな、基哉、お前また逃げているんじゃないのか?」
「何から?」
 酒井の言葉に、少し苛立ちを覚える。
「昔から見てきたけどさ、お前は何かを人のせいにして逃げようとする悪い癖があるんだ。今回だって、その女の子のためとか言って、女の子のせいにして何かから逃げようとしているんじゃないのか?」
 その言葉にはっとする。基哉は逃げていることの自覚はあった。しかし、逃げる際に、責任を他人に押し付けようとしていることには気づいてなかった。
 これはもう返す言葉が無い。酒井の言っていることは正しい。自分の事は見透かされていた。何故か悔しさが体の底からこみあげてくる。
視線を下におろすと、カップの水面に映った自分の顔と目があった。そのうつろな表情に嫌悪冠を抱く。基哉は目を閉じて大きく息を吐き、気を静めた。
「そうだな、認めるよお前の言っていることは正しい」
 酒井はコーヒーを一口啜る。
「そうか、じゃあこの後どうすべきかも分かるよな」
「心配するな。それに、実を言うと前々からなんとなくそんな気がしてたんだ。だけど、そうだな、お前の言う通り、人のせいにして自分は結論を出すことから逃げてたんだな」
 基哉はもう一度カップを見下ろし、その中に入っている苦い液体を飲み下した。苦かった。
 ただ、これで、大体の決心はついた。
「そう言えば、妹さんは他に何か言ってたか?」
「色々言ってたが、そうだな、最近その子は機嫌が良かったとだけ言っておく」
 そこまで聞けばもう十分だった。
「そうか。何にしても、お前は親切な奴だな。礼を言うよ」
「別に、そんなつもりで言ったわけじゃない」
 酒井は隠そうとしたのかもしれないが、基哉の言葉に照れていたのは明らかだった。

*一月二十八日*
「なあ、呉羽」
「何デショウ?」
 駅へと続く目抜き通り。基哉と呉羽は並んで歩いている。
 この日、基哉は呉羽にメールをした。どうしても伝えたい事があると。今まで基哉の方からそのようなメールをした事はない。仕事が終わり、市役所の前で呉羽と会った時、呉羽の表情は少しこわばっていた。
 それから二人は無言で歩く。そして、信号待ちで立ち止まった時に基哉は意を決して口を開いた。
「言いにくいんだけどな、劇、止めにしないか」
 呉羽の全身がさらにこわばる。
「どうしてです?」
 呉羽は信じられないと言った様子だ。体が小刻みに震えている。
「お互い、もっとほかの事をがんばらなきゃいけないと思ってさ」
「他の事?」
「そう。今は劇をやってるときじゃないと思う」
「ですが、今やらなければ、もうできないんですよ」
「それも分かってる。分かった上で、もう止めにすべきだと思う」
 呉羽は顔を伏せて、しばらく何も答えないでいた。
「アナタモ、」
「え?」
 基哉は耳を疑った。にわかには信じられなかった。
「アナタモデスカ?」
 呉羽は機会を使うのを止め、自らの言葉で基哉に怒りをぶつける。
「アナタモデスカ、コレヲ、下ラナイコトト言ッテ、切ッテ捨テテシマウンデスカ」
 その迫力に圧倒されそうになるが、基哉も呉羽に向けて話す。
「違う、そうじゃない。この劇だってやりがいのあることさ」
「ダッタラナンデ?」
「この劇は大事だ。でも他にも大事なことがあるだろ。それらをないがしろにしちゃいけない」
「何ガ、言イタインデス? ハッキリシテクダサイ」
「呉羽、最近成績落ちてるんだって?」
 呉羽は身を震わせる。
「本江サンニハ関係ナイコトデス。ソレニ、タトエソウダトシテモ今ノ私ニハ劇ノ方ガ大事ナンデス」
「それは違う、それは逃げているだけだ」
「分カッタヨウナ事を言ワナイデクダサイ。人ノ気持チモ知ラナイクセニ!」
 呉羽は叫んだ。
「モウイイデス、サヨナラ」
 呉羽は両手で基哉を突き飛ばし、早足で去っていく。
 押された基哉はよろけて通りの硝子戸に頭をぶつけた。鈍い音がして、鈍痛がもたらされる。
 周りの通行人が何事かと基哉の方を見る。
 基哉はぶつけた頭を手でさすりながら、遠くへ去っていく呉羽の後ろ姿を目で追った。呉羽の姿はだんだんと小さくなっていく。
「大丈夫かい、兄ちゃん」
 硝子戸の開けた先から、初老の男性が話しかけてきた。
「すみません、ちょっと転んでしまって」
 基哉がそう言うと、男は少し不思議そうな表情をした。
「そうかい、何だか喧嘩しているように聞こえたけど」
 基哉はその問いかけには答えず、ゆっくりと立ち上がる。
「けがはしていないみたいだね、まあ、いろいろ気をつけることだね」
 老人は基哉の肩を軽くたたくと、硝子戸を閉めた。
基哉は再び呉羽の歩いて行った方に目を凝らした。もう姿は見えない。
もはや通りの中で基哉に注目している人はいない。基哉は大きくため息をついた。
 基哉は間違いなく呉羽を傷つけた。しかしそれも覚悟の上であった。こうするしかなかった。これでよかったんだと自分に言い聞かせた。

*二月十二日*
 呉羽と喧嘩した日から、基哉は劇場通りに行くのを止めた。きっぱりと。そのために、早い時間に自宅に帰る日が多くなる。その事を、夕食を一緒に食べることが多くなったと基哉の両親は喜んでいた。しかし柚季はそのことについて不思議に思っているようだった。夕食を食べ終えた基哉は二階の自分の部屋へと向かう。そして、自分の部屋へ入ろうとした時に、同じく二階に上がってきていた柚季に声をかけられた。
「あんた、最近早く帰ってくるようになったけど、なんかあったの?」
「別に、何も」
 適当に返事をする。
「そうには見えないんだけど」
「そうだとしても、姉さんには関係ないだろ」
「まあ、私には関係ないことね」
「だったらほっといてくれ」
 基哉は自分の部屋に入り、戸を閉めようとする。しかし、柚季に脚を挟み込まれ、阻止される。
「そうしたいんだけど、今のあんたを見てたらなんか腹立つの」
「じゃあ、見なければいい」
 柚季は基哉を軽く蹴った。
「あんたはどれだけ周りを不快にさせたら気が済むのかしら」
 柚季は足を引っこめると、自分の部屋へと向かう。
 基哉は半開きになっている戸を乱暴に閉めた。

*二月二十一日*
 その青年の特徴的な天然パーマは遠目からでもすぐに分かった。基哉が彼の方に近づいていくと、青年の方も振り返り、基哉を見て顔をほころばせた。
「やあ、貴方は確か『練習試合』の時にいた、本江さんでしたっけ?」
 基哉は頷く。
「そうだよ。一回しか会ってないのに、よく覚えてるな」
「あの時、荷物を運ぶのを手伝ってもらいましたし、それに僕は人の顔と名前を覚えるのが得意なんです」
 中央高校演劇部部長、森喜長は得意げに胸を張る。
「それにしても、こんなところで会うのは奇遇ですね」
「ああ、そうだな」
 二人は今、駅前にいる。毎日のように駅前を歩いている基哉も、森と出くわしたのはこの日が初めてだ。
「そして、ちょうどいいところで会いました」
「どうかしたのか?」
「はい、少し聞きたい事があったんです」
「聞きたい事?」
 基哉には森が何を聞こうとしているかなんとなく予想がついた。
「そうです。うちの部員、岩波呉羽の事について」
 予想通り。それでも基哉は自然と自分の体がこわばるのを感じた。
「呉羽がどうかしたの」
「それがですね、最近、岩波が部活に来ないんです。彼女とおんなじクラスの部員に話を聞いたんですが、何でも授業が終わるとすぐに帰ってしまうとか。常に一生懸命で、部活を休む事はほとんどなかったので、ちょっと気になりましてね。何か心当たりはありませんか?」
 心当たりはもちろんある。自分が原因なのだから。そしてだからこそ、森に説明するのがためらわれた。
 そんな基哉の様子を森は感じ取ったらしい。
「先輩、僕は、部長としてですね、部員の事を知っておきたんです。別に誰かを責めたりしようって気はありません。だから、何かを知っているのなら、話してはくれませんか?」
 森は笑顔を絶やすことなく問いかける。その言葉を信じたわけではない。だが基哉は森に、自分が呉羽に何をしたか、話すことにした。
「君は、俺と呉羽がこの前、劇をした事を知っているか?」
「はい、酒井に聞きました。二人で作ったとか」
「いや、実際は呉羽が作りたい物を作り、俺がその手助けをしていただけだ」
「手助けですか」
「そして呉羽のやりたかった劇と言うのは全開で終わりじゃなかった。続きがあった」
「続きですか」
「呉羽は、その続きを三月ごろにするつもりだった。そのために、この前まで台本のラストの部分を一生懸命作っていた。」
 基哉はそこで一呼吸置く。
「だけど、俺はもう劇は止めにしようと言ったんだ」
「どうしてです?」
「そこはいろいろ理由があって、俺は、お互い今は劇をしている時じゃないと思ったんだ」
 基哉の答えは歯切れの悪い物となった。
「でも、それでしたら何も中止にするのではなくて、延期すれば済むのではないですか?」
 当然その質問をされる事を、基哉も予想していた。
「そうはいかないんだ」
「どうしてです?」
「まず、俺がいなくなる。俺は四月からまた大学に戻る事になったから。でもまあ、呉羽が劇の公演を望むなら、俺の代役を立てればいいことだ」
「では、他にも理由があるんですか?」
 基哉は頷いた。
「呉羽が無理して三月までに劇を行おうとしたのは、劇場通りその物が、何があっても三月で無くなるからなんだ」
 今までほほ笑みを湛えていた森の顔に驚きの表情が浮かぶ。
「どういう事です?」
 本来、仕事場で知った事を部外者に話すなどと言うのはご法度であろう。ただ、今の基哉はそのような事はどうでもよかった。
「劇場通りの周辺の住民は今、市の再開発計画のために立ち退きを迫られている」
「立ち退きですか、でもそれなら断ってしまえばいいのでは?」
「確かにそう。実際、劇場通りの人たちは立ち退きに応じていない。でも、そうしていられるのも三月までなんだ」
 森は納得がいかないと言う表情をしている。
「でも、強制撤去なんてできないでしょう」
「強制撤去されるんじゃない。これはまた別の問題があるんだ」
「別の問題?」
「あの一帯に立つ建物は戦後比較的すぐに建てられた。それから大きな改修などはしていない。そのせいで、どうも色々と防災の基準が満たされていないようだ。そして、基準を満たされていない建物は、三月いっぱいで、取り壊される」
「そうか」
 森は劇場通りが今どのような状況にあるのか理解したらしい。
「つまり、あそこに居座り続けるには、建物を建て替えるか、改修しなくちゃいけない。でも、そのお金が無いんですね」
 基哉は頷く。劇場通りにある飲食店はどれもそれなりの客足はある。しかし、建物を建てなおしたり、大規模な改修をするほど金銭的な余裕のある店はほとんどなかった。
基哉は森に問いかけるともなしに喋りはじめる。
「俺は前、呉羽に約束したんだ。呉羽がやりたいと思っている事が出来るように最後まで手伝うって。だけど、俺はその約束を破った。それだけじゃない。俺のせいで、呉羽はその劇を最後までやる事が出来なくなったんだ」
 森は何か考え込んでいるように黙り込んでいた。
 二人から少し離れた所で、見ず知らずのストリートミュージシャンが下手なギターの演奏を始めている。
 やがて、時折聞こえる不協和音を押しのけるようにして、森が基哉に語りかける。
「先輩、あなたは岩波が練習に来なくなった原因が先輩にあると仰いました。だけど、僕はそれ以前に、これは岩波自身の問題に思えるんです」
「呉羽自信の問題?」
 森は激しくうなずく。
「そうです。岩波の問題です。そして先輩、あなたは彼女をサポートすると約束したのなら、その約束を守らないといけません」
 森は自信気に宣言する。
「何が、言いたいんだ?」
「先輩は、その、劇を止めようと岩波に提案した後、彼女とまた会いましたか?」
「いや、今日まで一度も会ってない」
 基哉はかぶりを振った。
「でしたら先輩、岩波に会いに行ってはくれませんか?」
 森の表情に笑顔が戻る。そして繰り返し呉羽に会うように勧めてきた。
森の言わんとしている事を理解できなかった訳ではないが、結局基哉はその問いかけに明確な返事をする事は出来なかった。

*二月二十六日*
 田舎では、若者文化が発展しにくい。その理由は色々あるのだが、一番の理由は根本的に若者の数が少ない事だろう。人が少なければ何もかもが小規模にならざるを得ず、その存在は常に危うげなものになる。その傾向は特にマイナーな物に強く、例えばビジュアル系のロックバンドはこの街では全くと言っていいほどはやっていない。 その事をこの街では数少ないロックバンド愛好家である翔太は痛切に感じていた。彼は今、小劇場でバンドメンバーとミニコンサートを開いている。
翔太は焦っていた。客のノリが悪い。
それも仕方のないことだ。
自分にそう言い聞かせる。
ここに来る客で音楽に造詣の深い人はあまりいない。皆、酒盛りをし、飯を食ったついでにここにきているのだ。だから、翔太達の音楽を求めてきたわけではあらず、それはすなわち翔太達の音楽を理解できる人物が少ないことを意味している。
力いっぱいにシャウトして、曲を終える。翔太の魂の叫びもあまり観客には届かなかったようだ。パラパラとした拍手がそれを物語っている。
「オーケー、みんな。どうした? 今日はなんか元気ないみたいだな~。 だけど、俺らの曲を聞いてもっと盛り上がってくれよ!」
 翔太はドラムの卓也に目配せをする。卓也がリズムを取り、次の曲を始める。
幸い席を立つものはまだいない。だけど、そろそろ飽きてくる人もいるはずだ。そう計算して翔太は決断する。
この曲が終わったら、あのパフォーマンスをしよう。本当はもっと客入りがよく、客が盛り上がっている時にやりたかった。だがそれも叶うまい。

 翔太達の歌声は小劇場の外にも盛大に漏れている。マダムは彼らの歌声を店から聞いていた。
「あのバンドの子たち、最近よく演奏しているわね」
「ああ、そうだな。金の無い若者にとってはあの劇場は使いやすいところだろうからな」
「それで、あの子たちの実力は?」
 勉は大きくため息をついた。
「言わずもがなだ」
「やっぱりね」
 マダムは店から持ってきた酒をコップに注ぎ一口あおる。それから小劇場から洩れでる騒々しい音に耳を傾けた。

「オーケー、みんな。俺たちの曲を聞いてくれてどうもありがとう」
 翔太の言葉を聞いて卓也が眉をひそめる。「今やるのか?」そう言わんとしているのがありありと分かる。
 何人かの客が席を立とうとした。
「おっと、まだ帰るのは早いぜ。今回、今日ここで、とっておきのイベントをやるからな」
 翔太はあわてて呼び止める。それから肩にかけていたギターを外し、ネックの所を持って高々と掲げた。
「実は、今日は俺の相棒、このギターちゃんの旅立ちの日なのだ!」
 翔太の宣言とともにメンバーははやし立てるような完成を上げるが、客たちは怪訝な表情をしている。
「実は、この前。おニューのギターを買ったのさ。だからこいつとは今日でお別れ」
 翔太はギターの腹をコツコツと敲いた。
「だけどこいつがただ去って行くのはつまらない」
 翔太はギターを床に下ろすと胸ポケットからマッチを取りだす。そして、メンバーが放り投げた、ある液体の入ったペットボトルをうまくキャッチした。
「だから、今日ここで、こいつは華麗に散って行くのさ」
 翔太はマッチとペットボトルを持った手をそれぞれ掲げた。何か奇怪なことが始まるのを察知した観客たちは興味深げに翔太を注視する。
 翔太はペットボトルのふたを開ける。中に入っているのは灯油である。翔太は屈んで、それを床に置いたギターに少しかけた。
 それから立ち上がり、マッチ箱をシャカシャカ振りながら前に掲げ、観客に見せつけた。
「じゃあ、みんな、俺のギターの最後の雄姿を見てくれ!」
 翔太はマッチを擦り、そして火のついたマッチをギターの上に落とした。
 ギターが炎に包まれる。
それと同時に、メンバーはそれぞれギターを掻きならし、ドラムを叩きまくる。観客からは今日一番の歓声があふれ出た。
翔太の思い通りの展開だ。それをほくそ笑むと同時に、何故か、何とも言えないむしゃくしゃした気持ちになった。
翔太はステージの上に手をつき、燃えゆくギターを見つめた。
しかし、それがいけなかった。
翔太は炎に近づきすぎていた。そして彼のジャケットにはギターにかけた際にこぼれた灯油がしみ込んでいた。
 一瞬炎にあぶられたことで翔太のジャケットに引火した。
「うわ、熱っ」
 翔太はギターから飛び退き、慌てふためきながらステージを転げ回る。その際にペットボトルを蹴飛ばした。中身の灯油がステージや床にぶちまけられる。
翔太は無我夢中になって、ジャケットを脱ぎ棄てた。
一瞬空中を漂っていたジャケットは灯油がぶちまけられたステージの上に落ちた。
その火が灯油に引火し、ステージと客席が瞬く間に炎に包まれる。歓声が一気に鎮まる。そして悲鳴と驚声が劇場をいっぱいに満たした。

その日の駅への道のりは普段と違っていた。少し霞んでいるようで、焦げ臭いにおいが辺りを覆っている。基哉は周囲を見回し、その臭いの元が何なのか見つけ出そうとした。
劇場通りの近くに来たころに辺りが不自然な具合に騒がしい事に気付いた。
何人かの通行人が立ち止まって空を見上げている。彼らは何やら話しており、「火事」という単語が基哉の耳に入ってきた。
基哉も足を止め、空を見上げる。すると、星が一つも出ていない真っ暗やみの曇天の中を、大量の煙が街の光を不気味に反射しながら天高く昇っているのが見えた。
「まさか」
その煙の出どころの予想がついた基哉は知らず知らずのうちに駆けだしていた。

基哉が劇場通りに駆け付けると、そこはパニックになった人たちであふれかえっていた。皆、酔いから一気に冷め、炎から離れようとおぼつかない脚を懸命に動かしている。
基哉は流れに逆らって、火元の方へ向かう。途中何度も逃げ惑う酔っ払いにぶつかった。
広場まで来て、燃えているのが小劇場であるのが分かった。炎と煙を噴き出しているその小劇場を半ば放心したように眺めて立ちつくしている陳の姿が目に入る。深い皺の刻まれたの顔が炎の光に照らされていた。
「これは、いったい何があったんですか」
基哉が怒鳴りつけるように言うと、陳は我に返ったかのように体を震わせ、視線を小劇場から引き離す。
「見ての通り、火事だよ」
 その顔には恐怖と、失望感が浮かんでいる。
「消防に連絡したんですか? それに、消火活動は?」
「したよ。したが、もう手遅れだろ」
 その声はとても弱弱しい。もう何もかもおしまいだと言わんばかりに。
「ちょっとあなた達、早く逃げて。危ないわよ」
 二人の後ろから大声が響く。マダムだ。彼女も相当気が動転しているように見えた。背中にはマダムの派手な服装とは全く似合わない大きな旅行カバンをしょっている。
マダムは二人のすぐそばまで来ると、何も言わずに二人の腕をつかみ、信じられないほど強い力で引っ張り始める。基哉はそれに抵抗せず、火もとから離れようとした。その一方、陳はマダムの手を振りほどこうと暴れだした。
「離せ! わしはここでいい」
 陳はもがき、小劇場へ向かおうとする。
「ちょっと、何を言ってるの? 早くここから逃げなきゃ」
「そうですよここは危険です」
 基哉とマダムはどうにかして陳を連れだそうとするが、なかなかうまくいかない。
 その時、寿司屋から勉が出てきた。全身汗だくで、肩で息をしている。傍から見てもかなり焦っているのがすぐに分かる。
「あなたも、早く逃げなきゃ」
 マダムの呼びかけに反応して、勉は三人の方を向く。その顔は血の気が引いていた。
「それどころじゃない。お前ら、呉羽を見なかったか?」
 勉はよろよろと三人の方に寄ってくる。
「見てないわ。でも、もうきっと避難したんでしょ。ここにいないってことは。それよりも、火がどんどん広がっている。早く逃げないと」
 マダムはそう言いながら、梃子でも動こうとしない陳をどうにか引きずって炎から離れようと躍起になっている。
 既に広場はものすごい熱気と煙、それに物の焼ける匂いに包まれている。小劇場から出た炎は周りの建物にも燃え移りはじめていた。身の危険を感じた基哉はここから逃げ出そうと、大通りに続く路地へと足を向ける。しかし、すぐに基哉の足は止った。
とても嫌な予感がした。
基哉は振り返って小劇場を見る。まだ三階には火の手が回っていない。基哉の中で、その予感が確信に変わる。
「まさか」
 基哉は進行方向を百八十度変え、小劇場に向かって駆けだした。後ろから、マダムと勉が呼び止める声が聞こえてきた。

小劇場の一階、ステージ近くは既に火の海だ。灯油がぶちまけられたのだ。もはや消火器などでは手のつけられないほど、炎は大きくなっている。ものすごい熱気が基哉の皮膚をなで、舞い散る火の粉が髪や衣類を焦がし、充満する煙が視界を狭め、呼吸を困難にしている。
小劇場の上へと通じる階段は入口の近くにある。火元となったステージから距離があるため、まだ使用可能だ。それでも、基本的に木造のこの建物の火の回りは早い。この階段もすぐに炎に飲まれるだろう。だからこそ、基哉は迷わずその階段を駆け上がった。
三階は既に煙で覆われていた。この建物には元々明かりが少ない。三階はまだ照明が点いているが、それでも、もう一メートル先も見えるか怪しい。それでも基哉は迷い無く三階の廊下を駆け抜け、一番奥にある防音室の前に立った。防音室の扉は固く閉ざされている。もしこの部屋の中にいたら、火事の事をいまだに気付けていない可能性もある。
 どうかいないでくれ。基哉は心の中でそう念じ、防音室の扉を乱暴に開けた。

照明の点いた防音室。そこの真ん中に立つ少女は防音室への闖入者に驚きと怒り、困惑の表情を向ける。右手に持った劇の台本に自然と力が入る。
「イマサラ何ヲ……」
呉羽の怒気を含んだ声はすぐにしぼむ。ドアの向こうから部屋に流れ込んでくる煙を確認したのだ。それに加え、基哉の表情は呉羽が今までに一度も見たことが無いくらいに真剣なものとなっている。何か緊急の事態が起こっている事が起こっているのだと察しがついた。
「一体、何ガアッタンデス?」
「火事だ」
 基哉の簡潔な答えは呉羽の顔に恐怖の表情を浮かべた。
「ココデ、デスカ?」
「ああ、一階はもう火の海だ。だから早く逃げないと」
 防音室には既に大量の煙が流れ込んでいる。室内の温度も上がり始め、ドアの向こうからは、火のはぜる音も聞こえてくる。それでも呉羽は足を踏み出そうとはしない。恐怖で足が竦んでいた。
「呉羽、早く!」
 基哉の声にも焦りが表れる。
「デモ、私……」
 呉羽が続きを述べようとしたとき、部屋の照明が落ちた。炎の影響でこの建物の電気回路が駄目になったらしい。
 突然の事に、呉羽の心は恐怖で満たされパニックになる。そして叫ぶ。この世のものとは思えないおぞましい悲鳴が彼女の口から洩れる。それから大きくせき込む。苦しさの余り床に手足をつき、うめいた。
幸い、首に巻いているマフラーのおかげで、吸い込んだ煙が最小限にとどまった。
 基哉は部屋の中に足を踏み入れ、咳き込む呉羽の傍らに駆けより、彼女の背中をさする。先ほどまで基哉が支えていた防音扉が音を立ててしまった。
「大丈夫か?」
 呉羽はどうにか息を整えて答える。
「ハイドウニカ」
 呉羽はゆっくりと立ち上がった。

 扉が閉まったせいで部屋はほとんど真っ暗闇となった。それでも基哉は手探りで、防音扉の場所を探し当てる。扉を開けようとした時、呉羽が質問をしてきた。
「本江サンハドウシテワザワザココニ来タンデスカ?」
 何故? 必死になって、そのようなことは全く頭に無かった基哉は一瞬返答に詰まった。だが、考えるまでもなく答えはすぐに思い浮かぶ。
「呉羽を助けるためだよ」
基哉はそれだけ言って、呉羽の手を強く握る。
「さあ、逃げよう」
 二人は防音室の中から飛び出した。部屋にはもはや不要の長物となった劇の台本だけが残された。

三階はもう真っ暗だ。目と鼻の先も見えない。それでも二人は階段に向かって歩く。階段に近づくと、そこから明かりがもれてきているのが分かった。光が漏れているのはありがたいが、その光源が何であるかを考えると、不安と恐怖が一気に押し寄せてくる。
二人は二階へと降りた。そこにはもうすでに炎が回っている。火の光で視界は少し確保できるようになったが、炎に近づいた分、熱風が二人を容赦なく襲う。
二階の床の一部は早くも抜け落ちており、そこから炎が噴き出ている。一階はもはや人が生存できる環境では無くなっているようだ。それは炎の塊と化した一階へ続く部分の階段を見ても分かる。二人は汗だくになりながら、どうにかして炎を避ける手立てを探す。そうしているうちにも、炎が二人を取り囲んでいく。
「私、コンナトコロデ死ニタクナイデス」
 呉羽がささやくように言う。
「大丈夫だ、死なない」
基哉は呉羽を抱き寄せる。しかし、どうにかしないと二人が炎に飲まれるのは時間の問題だ。基哉は必死に考えをめぐらす。そして、あることを思いついた。
「この階に窓のある部屋って無いか?」
 基哉の問いかけに呉羽は黙り込む。
「どうなんだ?」
「確カ、倉庫ニ」
 二人は二階の隅にある小部屋に急いだ。扉を開けて、その中に転がり込む。そこにはまだ火の手が回っていなかった。
その小部屋の中は呉羽が倉庫と言った通り、雑多なものが散乱している。ボロボロの自転車や金属のパイプ、割れた食器類に壊れた看板。この部屋には劇場通りで出た粗大ゴミが押し込まれているようだった。二人はそれらガラクタ類の脇を通り抜け、部屋の一番奥に向かう。呉羽の言った通り、そこには窓があった。大きさは一メートル四方。しかし、窓の三分の二ほどは手前にある金属製の大型ロッカーでふさがっている。
二人は必死になって窓を開けようと試みる。しかし開かない。どうやら鍵がかかっているようだった。
「窓ガ、開キマセン」
呉羽が困惑した表情で言う。窓の鍵を開けようにも、ロッカーが邪魔で手が届かない。
「仕方ない」
 基哉は部屋にころがっていたパイプのようなものを手に取ると、呉羽を脇にどかせ、それからパイプで窓をたたき割った。窓枠に残っているガラス片もあらかた取り除くと、基哉は窓から首を出して下を覗き込んだ。二階とはいえ、それなりの高さはある。地面はコンクリート。そして粉々になったガラスが散乱している。下手に飛び下りれば着地の際に大けがをしかねない。
「ソコカラ、出ラレソウデスカ?」
「なんとか。でも下手をするとけがをするかもしれない」
「ソウデスカ。デハ、コノロッカーヲドケマショウ」
 基哉が脱出するにはまず、このロッカーをどけなければいけない。
基哉と呉羽は目いっぱいの力を込めて、ロッカーを動かそうとした。しかし、ロッカーはびくともしない。押しても、引いても全く動かない。どうやら、ロッカーは床に固定されているらしい。
そうしているうちにも、ドアの隙間から大量の煙が室内に入ってくる。その煙が呼吸を困難にさせ、目に刺激的な痛みを走らせる。その上、部屋の温度はかなり高くなってきている。炎がすぐそこまで迫ってきているのは明らかだ。このままでは、二人とも死んでしまう。
せめて呉羽だけでもここから出さなければと基哉は思う。そして、決心した。
「呉羽」
「何デショウ?」
 呉羽不安げに基哉を見る。
「いざとなったら、呉羽はこの隙間から出るんだ」
 小柄な呉羽ならロッカーに半分以上塞がれた状態でも窓から出る事が出来る。基哉には無理だ。
「デモ、ソウシタラ、本江サンハドウスルンデスカ?」
「俺は、どうにかするよ」
 そうは言うが、何か方策があるわけではない。むろん呉羽もその事は分かっていた。
「無理デスヨ。助ケニ来テクレタ人ヲ置イテ行クナンテ」
「でも、このままじゃ二人とも死んでしまう」
「ダトシテモ、無理ナ物ハ無理デス」
 その口調は厳しく、呉羽の意志の固さを物語っていた。
「分かったよ」
 基哉は呉羽を説得するのをあきらめた。
 視線を部屋の中に向ける。煙が充満しており、視界が悪くなっている。基哉は目を細め、ロッカーをどかすのに役に立ちそうな物を探し始めた。
「アッ」
 窓の外を見ていた呉羽が叫んだ。その顔には安堵の表情が浮かんでいる。
基哉も窓の外を見る。すると窓の下に梯子を持った消防士がいるのが分かった。
基哉と呉羽が助けを求めると、彼らは素早く窓に梯子をひっかけ救出活動を開始した。消防隊員が梯子を登り、窓を塞いでいたロッカーを瞬く間に取り除く。
「大丈夫か!」
部屋に突入してきた消防士は基哉の姿を確認するなり叫んだ。
「はい」
朦朧とした意識の中、基哉はどうにか返事をする。
こうして基哉と呉羽は炎に包まれた小劇場からどうにか脱出した。

小劇場から出火した炎は数時間後、消防士たちの努力によって鎮火した。しかし炎は小劇場と周囲の建物をことごとく焼きつくした。勉と呉羽の住居兼店舗、陳の中華料理屋、マダムのスナックバー、これらすべても灰になってしまった。
劇場通りは消失してしまったのである。
呉羽と基哉は体中にやけどを負っていたものの、幸い重度の物は無かった。その事は基哉自身も大いに安堵した。二人は救出されるとすぐに病院に連れて行かれた。
二人は待合室のベンチに隣同士で座っている。やけどの治療が済んだ後、そこで待つように看護婦に指示された。
お互い無言で何も喋ろうとはしない。
そうして十分くらいが立った頃、待合室に勉が入ってきた。
 勉は無表情で基哉の前に立つと、いきなり平手で基哉の顔をはたいた。乾いた音が辺りに響く。
「ちょっと何やってるんですか」
 そばにいた看護婦が抗議の声を上げる。周りにいた他の患者は何事かと勉の方を注目する。勉はそれを無視して基哉の胸倉をつかむ。それから、勉は目に涙を浮かべて叫んだ。
「おい、お前。自分の命を何だと思ってるんだ!」
 その声が待合室全体に響く。待合室にいる人全員の目が勉に向けられる。そんなことには構うことなく勉は続ける。
「お前は死んでいたかも知れないんだぞ! しかも、犬死していたかも知れないんだ」
「でも…」
「でもじゃない! 自分の命を粗末にするな! たとえそれが人の命にかかわっていようとも」
基哉が行動を起こさなければ、呉羽は死んでいたかも知れない。それは勉も理解している。そして勉は基哉に感謝したい気持ちでいっぱいであった。だからこそ、勉は基哉を怒鳴り、顔をはたく。
勉は基哉から手を離す。
「すまない、ありがとう」
勉は絞り出すように基哉にそう言った。うつむいているので確認は出来ないが、どうやら泣いているようだった。それから勉は、呉羽を力いっぱい抱きしめた。

それからしばらくして、正と由美子が病院にやってきた。二人はもう基哉の取った行動について聞いたらしい。
正はとても複雑な表情をして、基哉から少し離れた所に立って黙っている。一方由美子は基哉に抱きつくなり激昂して怒鳴り散らし、それから涙を流した。

*三月四日*
市役所の中の会議室。そこで勉は原田と面と向かって対峙している。
「あんた、この前は大変だったらしいな」
 原田は上着から煙草を取り出すとそれに火を付けた。市役所の職員らしからぬ行為である。
「それはもう大変だったさ。いや、今もまだ大変な目に合っているな。なんせ、財産のほとんどが焼けちまったからな」
「俺は同情なんかしないぞ」
「そんな物、お前から期待なんてしてないさ。ただ、大けがを負った人がいなかったのは幸いだ」
「それは同感だ。死人なんて出ちまったら、今後の計画とかにも影響が出かねんからな。俺の部下にも軽いやけどを負った奴がいたが、一つ怒鳴っておいたところだ」
「そいつは酷いな、彼がいなかったらうちの娘は死んでいたかもしれないんだ」
 さすがに、勉の声に少し苛立ちがこもる。
「あんまり薄情な事を言っていると、人でなし扱いされて嫌われるぞ」
「構わんさ。俺は仕事第一の男だ。仕事の効率を優先するためなら、人に何と呼ばれようが知った事ではない」
 原田は煙草の煙を大きく吐き出す。勉はその煙を手で払うと少し肩の力を抜いて呟いた。
「お前の意地に付き合うのは疲れるよ」
原田は答える代りに、鋭い視線を勉に向けた。
「で、今日は何の用できた? さっさと用件を言え」
 実は今回、勉の方から市役所にやってきたのだ。原田に会いに来るために。
「その土地の事でだ」
 勉は鞄から数枚の紙を取り出す。それは、劇場通り周辺の土地の所有権を示す証書だ。
「俺らはあそこから立ち退くよ。ほら、権利書だ」
 原田は権利書をひったくるようにもぎ取った。
「これはまた、まだ紙の権利書なんて持ってやがったのか。めんどくせえな」
 原田はその証書を念入りに確かめた。
「それにしても、これはよく燃えなかったな」
「さすがにこれほどの重要書類は家に置いておかないさ。銀行の貸金庫に預けておいたんだ」
「言われてみれば、当然だな」
 原田は内線電話の受話器をつかみ、どこかに連絡した。それから不敵な笑みを勉に向ける。
「さすがに、丸焼けになってしまった土地はいらないってか?」
「まあ、そんなもんだ。それに前から俺たちの間でもそろそろ潮時だろうって言う話はあったからな。どうせ、防災の基準とかで今月にはいられなくなってたんだし、踏ん切りをつけるのにはいい機会だ」
 会議室のドアをノックする音が響く。
「入れ」
 原田が怒鳴るように言うと、会議室のドアがゆっくりと開いた。木戸がびくびくしながら原田のそばによる。
「喜びな、この頑固おやじがついに土地を明け渡すってよ。後の事はお前らに任す。上にもちゃんと連絡しとけよ」
「お前に頑固おやじと言われたくは無い。なあ、お嬢さんもそう思うだろ?」
 突然話を振られた木戸はぎこちない笑みを勉に向けると、テーブルに置いてある権利書を取るや否や二人に素早く一礼し、一目散に会議室を出ていった。
 原田はニ本目の煙草を取り出すとそれに火をつけてゆっくりと煙草の煙を吸った。それから勉を見据える。
「用件がすんだらさっさと帰れ」
 原田は手で追い払うような仕草をする。
「いや、あとひとつ頼みたいことがある」
 勉は面白がるように言う。
「俺たちはな、土地を探してるんだ。もう一回みんなで集まって店を開いたりできる場所をな」
 原田は煙草の灰を灰皿に落とし、それから勉を睨みつける。
「あんたはホントにめんどくせえ奴だな」
「おいおい、俺たちはあくまで立ち退き要請に応じて立ち退くんだぞ。それくらいの面倒は見てくれてもいいだろ?」
「それは承知しているさ」
 原田は煙草の吸殻を灰皿に捨てた。
「仕方ねえ、俺直々いい場所を斡旋してやらあ」
「そいつはありがたい。だが、ちゃんとみんなが集まれる場所を紹介しろよ。俺たちは妥協しないからな」
「くどいな。そう心配せんでもゴミ共やクズ共が集まることが出来る掃除機の中みたいな場所を紹介してやるよ」
「期待しているぞ」
「期待するな。余計に仕事がめんどくさくなる」
そうは言うが、原田の顔は笑っていた。

*三月十日*
 その日の正午前、基哉が携帯電話を確認すると知らないアドレスからのメールが届いていた。詐欺や架空請求の類の物と思い、少し警戒しながらもそのメールを確認する。
 しかしそれは呉羽からだった。
簡潔な文章。半ば強引な内容。久しぶりの呉羽からのメールに懐かしさが感じられる。
 基哉は寝床から起き上がると、外出の準備を始めた。

 駅の北口を出て少し歩いたところにその場所はある。かつて運河だったその場所は時代とともに公園に生まれ変わった。公園の中心には大きな人工池があり、その池は水路で海までつながっている。池の周りには様々な草花が植えられ、緑の多い空間となっている。
呉羽が待ち合わせに指定したのは公園の一角に最近できたコーヒーチェーン店。街中でもよく目にする有名なチェーン店だが、基哉は一度もその店に入った事はない。時刻は昼過ぎ、店内には多くの人が入っている。
店の前まで行くと、入口のそばに顔の下半分をマフラーで覆った少女が立っていた。呉羽とは病院で別れてから初めて会う。基哉は少し緊張を感じながら呉羽の元へ行く。
「やあ、久しぶり」
「オ久シブリデス」
「えっと、やけどの方はもう大丈夫?」
「トコロドコロ痒イトコロハアリマスガ、ソノ程度デス。本江サンノ方ハドウデスカ?」
「俺も、そんな感じだ」
 お互いにぎこちなさが見える。
「トリアエズ、行キマショウカ」
 呉羽は店には入らず、人工池に向かって歩き出す。
「え、店には入らないの?」
「入ラナイデスヨ。本江サンハ入リタカッタンデスカ?」
「いや、俺はコーヒー苦手だし、ああいうこじゃれた雰囲気はなじめないな」
「ソウ言ウト思イマシタ」
 呉羽は軽く笑う。
「でも、そうしたら、なんで待ち合わせの場所をあの店の前にしたんだ?」
「ソレハ単ニ分カリヤスイカラデス」
「なるほど」
 二人は途中の自販機でそれぞれ缶ジュースを買うと、人工池のほとりにあるベンチに並んで腰かけた。
 この日は天気に恵まれ、冷たい風も吹かず、午後の日差しがとても心地よい。
 二人は何かをするわけでもなく、ぼんやりと湖面を眺め、ジュースを啜る。
「場所、決まったんだって?」
「ハイ、街カラスコシ離レタトコロ、大学ノ近クデス」
「大学の近くか。それで、店とかもちゃんと立て直しするの?」
「エエ、店舗ト、私達ノ場合ハ住居モデスガ、ソノ建テ直シ費用ハ市カラモラエルノデ、立派ナ物ガ出来ルト思イマス。オ父サンタチハ新天地デ商売ヲ成功サセルッテ意気込ンデイマスヨ」
「それはよかった。うまくいくといいな」
「ハイ」
 呉羽は小さくうなずいた。どこか不安げある。
「それと、劇場はどうなるんだ?」
「分カリマセン」
 呉羽はさびしげで、それでいてどこか関心のなさそうに答えた。意外にも思える子も知れないが、でもそれは仕方のないことだと基哉は思う。呉羽たちには、今小劇場の事を考えるまでの余裕が無いのだ。
かつての劇場通りが活気にあふれていたのは、ひとえに立地の良さに関係している。街の中心部にあり、駅まで歩いて五分とかからないとなれば飲食店としては最高の立地だった。しかし、移転先はそうとは言えない。
いわば街はずれに移ってしまった訳だから、確実に客は減るだろう。大学が近くにあるので、新しく大学生を相手にすることもできるかもしれないが、それがうまくいくとは限らない。
また、立て直しを行っても、かつての劇場通りの雰囲気。ノスタルジックでどこか儚さがある中での陽気さは出すことはできないだろう。劇場通りの店主達も、そこに通う客達も、その雰囲気を好いていた。それが消えて無くなることによってどうなるか彼らは不安なのである。
特に店主達はそれらの影響が店の売り上げに響かないかを心配している。店の売り上げが自身の生活に直結するからだ。
このように将来の生活に不安を抱えている人が多い中、小劇場の事を気にかける余裕のある人はほとんどいない。
その上、小劇場を立て直すには莫大な金が必要だ。
今回の場合、土地代や店舗建て替えの費用は市が出すのだが、小劇場を建てる費用は市の方からは用意されなかった。劇場通りの店主たちには小劇場を自費で建てるだけの金銭的余裕はない。
「結局、劇ハ出来ソウモアリマセンネ」
 呉羽は独り言をつぶやくように、小さな声で囁いた。
「まだ、怒ってる?」
 基哉は呉羽の顔色をうかがう。
「イイエ、モウ許シテイマスヨ。私ダッテ子供デハアリマセン。タダ、」
「ただ?」
「劇ガ出来ナクテ残念ダト言ウ気持チハ当然アリマス。仕方のなかった事ですが、だからと言って割り切れるものではないので」
 基哉は何と言えばよいのか分からず、黙っていた。呉羽を悲しい気持ちにさせた事に改めて自責の念を感じる。
「ゴ自分ヲアマリ責メナイデクダサイネ」
 呉羽はまた小声でつぶやいた。基哉が呉羽の方を向くと、呉羽は少し慌てたようにして、話題を変えた。
「ソウイエバ、本江サンハコレカラドウスルンデスカ?」
 基哉は呉羽に今後の事をまだ話していない事を思い出す。
「俺は、大学に戻ることにした。ちゃんと勉強するために。だから、三月の終わりにここを離れる」
「ソウ、デスカ。ソレハサミシイデスネ」
 呉羽はどこか基哉がそう言うのを分かっていたようだった。
「でも、年に何回かは戻ってくるんだし、その時には新生劇場通りには足を運ぶよ」
「待ッテイマス」
 そう答えて呉羽は軽く咳き込んだ。
「大丈夫」
「エエ」
「そう言えば、今日は外でも機械使ってないんだな」
 劇場通りの外ではかたくなに地声でしゃべろうとしない呉羽が今日は一度も機会を使っていない。
「ハイ、実ハ普段使ッテイタ機械ハ火事ノ時ニ一緒ニ焼ケテシマイマシテネ、新シイノヲ買ウノニモ、ソレナリニ値を張ル物ナノデ、今ハマダ買ッテナインデス」
「そうなんだ。いっそのこと、買わないでずっと自分の声でしゃべるのは?」
 基哉は軽い気持ちで言ったのだが、呉羽は真剣な表情になって黙り込む。基哉は不安になりながらも呉羽の返事を待つしかなかった。
 やがて呉羽は基哉の方を向き、ゆっくりと答えた。
「ソレハ、マダ、無理デスネ」
 その結論を出す前に呉羽は何を考えていたのか、基哉はすこし気になった。
「少し、昔の話をしようと思います」
 呉羽は唐突に言う。
「昔の話?」
「エエ、ココデ言ワナケレバ、モウシャベル機会ハナサソウナノデ、ドウカ聞イテクダサイ」
「わかった」
基哉の返事を聞いて、呉羽は語りだす。

これは数年前のお話。この街に一人の中学生の女の子が住んでいました。彼女の名前は、ケイコとでもしておきましょう。
ケイコは普通の女の事は少し違っていました。彼女は喉に大けがをしていて、まともに声が出せなかったのです。彼女の喉から出るのは、年相応のかわいらしい女の子の声では無く、ガマガエルのような、聞いているだけで身の毛のよだつ、醜い声でした。
ケイコは自分の声がコンプレックスでした。自分の声を聞くのが嫌いでした。だから、彼女は普段は一言もしゃべりませんでした。ケイコの周りの人間はそんな彼女を優しくしてくれました。彼らはケイコが喋らなくてもいいように色々手助けをしてくれました。筆談を快く引き受けたり、ケイコが何かを言わなければいけない時にはケイコの代わりに喋ってくれたり。もしかしたら彼らもケイコの声が聞きたくなかったのかもしれません。しかしそれは重要ではありません。彼らがケイコに優しく接してくれたそれが重要なのです。
中学生は多感なお年ごろと言われます。ケイコもまさにそうでした。
ケイコの中学生生活は客観的に見れば幸せと言えるでしょう。声の問題はありましたが、周りの同級生や教師たちがそのことについて惜しげもなく手を差し伸べてくれたのですから。
しかし、ケイコ自身はそのことについてかなり負い目を感じていました。周りに気を使わしていることが、耐えられなかったのです。自分が劣っている存在だと感じられずには居られなかったのです。

 その出会いは何の変哲もない日常の一コマでした。本来なら、お互いの記憶に残らない、ちょっとしたすれ違い。人生の中で数えきれないほど経験する中の一回。あったとしても、無かったとしても、どうでもいいもの。
ただし、それはケイコにとっては違いました。なぜなら、そのすれ違いはケイコの人生を大きく変えたからです。

その日の学校の帰り、ケイコは近道をするためにある神社の境内を歩いていました。
その神社はいつも人気が無いのですが、その日は一人の高校生がいました。制服から、その人はケイコの学校の近くにある、中央高校の生徒だと分かりました。その高校生は社の前まで行くと、賽銭を入れて、願い事を言いました。その声は大きく、ケイコにも何と言ったのか分かりました。
「恥を忍んで、がんばる」
 彼はそう言いました。
 高校生は願い事を終えると、体の向きを変えました。
 そして、ケイコと彼の目が合いました。お互い、少しだけ目を合わせたまま固まっていました。
 やがて、その高校生は目をそらすと、そそくさと神社を出て行きました。
ケイコにとってその人はかっこいいとはとても言えませんでした。苦しそうで、追い込まれているみたいで、見ていてとてもかわいそうでした。
でも、がんばろうと、覚悟を決めている事は分かりました。その事がケイコの心を揺さぶったのです。
それからも、その高校生とは何度か神社で見かけました。その人は会う時々で、わずかばかり雰囲気が違いました。
気が抜けていたり、憔悴していたり、嬉しそうにしていたり、憤っていたり。
そのような中で一度、彼が少し興奮気味でいた日がありました。その彼は社の前まで行くと、賽銭を入れて、神前に何やら報告していました。何を報告していたのかケイコは知りませんが、彼は嬉しそうでもありました。
報告を終えると彼はすぐさま神社を去って行ったのですが、その時にケイコは彼が「ついにやった」とつぶやいたのを聞きました。

ケイコはその日から覚悟を決めました。自分の声に自信を持とうと決めたのです。自信は持とうと思って持てるものではありません。ですがケイコは持とうと思って持とうとしました。
まずはじめに、ケイコは家の中で口を開きはじめました。父親からは心配されました。それでもケイコはがんばって口を開き、その醜い声で言葉を紡ぎました。
それはケイコにとって苦痛でした。しかし、止めませんでした。もしここであきらめてしまうと、今後一生しゃべれなくなるような気がしたからです。
しかし、その自信は特定の範囲の中での話でした。
高校入学時に、ケイコは音声入力装置なる物を購入しました。それはケイコにとって画期的な物でした。これがあれば、彼女も普通の声を発する事が出来るのです。これで他人に気を遣わせることが無くなる。ケイコは結局、機械に頼ることに決め、自分の声に対する自信を捨てたのです。
初めの方はそれでも構いませんでした。今まで感じていた劣等感から決別することが出来るようになったのですから。
しかし、ケイコは別の負い目を感じるようになってきたのです。

ケイコはあの神社で出会った高校生の事を思っていました。
あの人は私と違うんだろうな、あの人は挫折して、失敗して、心が折れても、またその場で立ち上がっているだろうから。決して屈服しないだろうから。
ケイコはそう思いましたが、また頑張ろうと言う気にはどうしてもなれませんでした。
その頃にはもう彼は神社には来なくなっていました。

年月は経ち、ひょんなことからケイコは彼と再び会いました。ケイコは喜びました。とても喜びました。しかしその喜びはすぐに終わりました。
ケイコは彼に違和感を覚えました。疲れた感じで、精力的でないのは以前と同じです。しかし、何かが違うのです。
そしてケイコは気付きました。彼もケイコと同じでした。自分に対する自信を捨て、逃げていたのです。

ケイコは彼の知り合いとして、友人としてこの一年過ごしてきました。ただ眺めているだけだった中学生のころと違って、ケイコは彼と話し、接し、互いにより理解しあいました。
そうして今、ケイコは一つの結論を出します。ケイコは彼を嫌いになった訳ではありません。確かに、腹が立ったり、失望したりすることはありました。そもそも、根本的に何か誤解をしていたのかもしれません。それでも彼を嫌いになった事はありません。今も彼の事を尊敬し、好いています。
しかしです。ケイコの恋心はすっかり冷めてしまいました。

呉羽は急にベンチから立ち上がると、急に池に向かって走り出した。池の周りを囲む柵にもたれかかり、水面に映る自分の顔を見つめる。
基哉はゆっくり立ち上がると、彼もまた呉羽を追って池の方に向かって歩き出した。
基哉が呉羽のすぐ後ろまで来たところで呉羽は振り返った。お互いしばらく見つめ合う。
「昔話ハコレデオシマイデス」
 走ったせいなのか、呉羽の顔は少し赤くなっている。
「私ノ話ハ面白カッタデスカ?」
「ええと、何だろうな」
 基哉はどう答えようか必死で考えをめぐらす。
「俺は、勝手に惚れられて、勝手に振られていたのか」
 呉羽は頷いた。
「ソウデス」
「なんか、恥ずかしいな。色々と」
「ソレハ、私モデス」
呉羽は自分の首に巻いたマフラーをきつく握る。
「走ッタカラデショウカ。ナンダカ暑イデス」
 そして呉羽はマフラーをほどいた。
 基哉は軽く息をのむ。
「ドウシタンデスカ」
「いや、呉羽の顔全体を見るのは初めてだったから」
「ソウデシタッケ?」
「ほら、いつもマフラーとかで口元が隠れていたから」
「言ワレテ見レバ、ソウデスネ」
 呉羽はほほ笑んだ。
「ドウデス、私ハ美人デスカ?」
「美人だよ。とても」
 基哉は即答した。そして、基哉の返事を聞いた呉羽はさらに顔を赤らめた。

基哉と別れた後も呉羽はなんとなく公園に残っていた。柵に体を預け、湖面を眺める。
呉羽はポケットから音声入力装置を取り出した。少し焦げたりはしているが、壊れてはいない。普段から肌身離さず持っていたので、あのときの火事で焼失することは免れていた。
 火事でほとんどすべての物を失った中で、数少ない手元に残った物である。
 呉羽は愛おしそうにその機械をなでる。長年使って愛着のこもったこの機会。
 しかし、この機械を使う事はもう無いかもしれない。
 先ほどは基哉に無理だと答えた。しかし、自分の思いを吐露した今、呉羽はもう一度頑張ってみることにした。自分の声に自信がついたわけではないけれど、あのときの、自らを奮い立たせて声を出した時を思い出して、もう一度頑張ってみることにした。
 自分の声を取り戻せるようにもう一度頑張ってみることにした。
水面に映って揺れる夕日があの日の炎を思い出させる。しかし呉羽はこの光をとても美しいと思った。

*三月十五日*
「はい、みんな。ちょっと聞いてくれないか」
 午後五時、この日の終業時間、吉田は土地利用課のフロア全体に呼び掛けた。
「実は今日で本江君はここを去ります。四月からまた大学に戻るそうです。彼は特別労働としてここへきて、無事、大学へ戻ることになったのは僕達としても喜ばしい事です。では、本江君からも何か一言お願いします」
 吉田に急にふられて、基哉は大いに焦った。何を言うかまとまらない中、とりあえず自分の席から立ち上がる。フロアにいる人全員が基哉を注目している。
「えっと、一年間お世話になりました。この一年、市役所で働いて、学生生活の中では決して学べない事が、いろいろ体験することが出来ました。ここで学んだ事を今後に生かしていきたいです。それと、仕事の事を何も分かっていなかった自分に、丁寧に指導してくださった皆さんにはとても感謝しています。ありがとうございました」
 基哉が深々と礼をすると、周囲から拍手が鳴り響いた。

「本江君、ちょっと待って」
 最後のあいさつも終え、市役所から去ろうとしていた基哉は、吉田に呼び止められた。
「何でしょうか?」
「ごめんごめん、チョット大事な手続きをするのを忘れててさ、ちょっと来てくれないかな」
 吉田は申し訳ないと手を顔の前で会わせる。
「ええ、いいですけど」
 吉田が案内したのは基哉が市役所の中で今まで来た事のない部署だった。そこで渡された用紙に、吉田に言われるままに記入する。それからその用紙をそこにいる事務員に手渡した。
 処理が終わるまでの時間を利用して、基哉は吉田に尋ねた。 
「原田さんはどうしたんですか」
 先ほど、土地利用課のフロアにはいなかった。
「さあ、僕は分からないな」
「最後に挨拶くらいはしておこうと思ったんですが……」
 その言葉を聞いて、吉田は軽く笑った。
「原田さん、そう言うの苦手だから、もしかしたら逃げたのかもしれないね」
「原田さんって、そんなことするんですか?」
「するよ、原田さんのあの大雑把な性格はナイーブな性格の裏返しだからね」
「吉田さんは原田さんの事をよく知っているんですね」
「あの人とは長い付き合いだからね」
「それなら、一つ聞いていいですか?」
「なんだい?」
「原田さんって、あの劇場に思い入れでも会ったんですか?」
「どうして?」
「いや、なんかそんな風に見えたので」
 吉田は何故か周囲を確認して、何か秘密を打ち明けるかのように基哉の耳元で囁いた。
「僕も詳しくは知らないんだけどね、原田さんも昔はあの劇場でジャズバンドをやっていたみたいなんだ」
「そうなんですか?」
 いかつい頑固おやじのイメージがある原田とジャズの瀟洒なさまは基哉には結び付けられなかった。
「ほんとだよ。ただ、本人に聞くと怒って何もその事について喋ろうとしないけどね」
「なぜででしょうか」
「原田さんにとっては苦い思いでなんじゃないかな。夢を追いかけて、そして叶わなかったっていう、それか単に恥ずかしいだけか」
 事務員が吉田の名前を呼ぶ。吉田は用紙を受け取り、それをしまった。
「さて、本江君。これですべて完了だ。一年間御苦労さま」
「はい。吉田さんも一年間ありがとうございました」
「大学に戻っても頑張ってくれよ」
 吉田はその大きな右手を差し出した。
「そのつもりです」
 基哉はその手を強く握り返した。

*三月十八日*
 基哉は一人で駅のホームに立っている。約一年ぶりに、自分の大学、本来の生活へと戻るため。見送りはあえて断った。なんとなく、一人で出発したかった。呉羽は当分会えなくなるからと、なかなか折れなかった。だから、出発の日をわざわざ平日にした。
 ホームには基哉の他に数人が次にこのホームに入る電車を待っている。ここを始発として、関西方面に向かう特急列車。もはや時代遅れとなった、古い特急列車である。
 やがてレールの向こうから、一つの車列が近づいてきた。ホームに駅員のアナウンスが伝えられ、列車の到着を告げるベルの音が無い響く。
 その特急列車はゆっくりとホームに進入し、静かに停車した。
 基哉の目の前にあるドアが音を立てて開いた。
 この電車に乗るのも、一年ぶりになる。元々そんなに多く利用していたわけではないが、それでも懐かしさを感じる。
 列車の床はホームから一段高くなっている。基哉はその段差を乗り越え、特急に乗車した。
 左右二席ずつ並べてある座席。その中央に走る狭い通路。少し不快な車内の匂い。どれもこれも懐かしい。
 基哉は財布から特急乗車券を取り出し、自分の座席を確認する。
 前から三番目の左窓側の席。基哉は自分の座席の前まで歩くと、座席の上にある棚に荷物を載せ、座席に深く腰を下ろした。ひじ掛けを倒し、後ろの席に誰もいない事を確認してから座席を倒す。
 列車が大きくひと揺れした。それからゆっくりと走りだし、駅のホームをすべり出す。
 車内にチャイムの音が響き、車掌がこの特急の停車駅とその時刻をアナウンスし始める。
 基哉は窓の外に目をやり、日の光に目を細めた。それからカーテンを閉め、ひと眠りしようと目を閉じた。

 以前、基哉は恐怖していた。自分の将来に。人に誇れるような技能もなく、はっきりした夢や目標もなく、強い意志ももちえない自分に何が出来るのかと悩んだ。悩んで、それらを手に入れたいと思った。羨望した。ただ、本気でそれらを得ようと努力はしなかった。
基哉は夢を持つ人や、特技を持つ人にすり寄った。彼らと接することで、自分に無いものを補完しようとした。彼らに頼ることで自分は楽をしようとした。そうして自分はまた逃げようとした。それがいけないことだと分かっていても、それを止める勇気が無かった。
だが、今は違う。基哉は決めた。がんばることに決めた。自分には技能も、情熱も目標もない事を認め、逃げることを止めて。がんばることにした。そうする覚悟がようやく付いた。
この覚悟がいつまで続くのか基哉にも分からない。これから一生持ち続けるかもしれないし、一カ月で萎れてしまうかもしれない。それは基哉にはどうすることもできない。
しかしこの際、期間なんてものはどうだっていい。覚悟を決めるという行為はそれほど難しく、価値のある行為なのだ。

いらない街の小劇場

いらない街の小劇場

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-18

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著作権法内での利用のみを許可します。

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