路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

石焼き芋屋の半次郎徒然草 (連載)週一です。

田園都市線と国道246号線が平行して走るあざみの駅周辺は田園風景が天空を傘にしたように緑が空間を染めていた。
大きく区画された、田畑には、植木の栽培で緑の絨毯を敷いたように癒しの世界を造る。
縦横のアスハルトの道は碁盤の目のように整備され、畑を仕切る柵が申し訳程度に作られ田園に趣を添えていた。
こどもの国方面を見ると茜雲が遠くの山々を染めていた。
野川が流れる道には学校帰りの女生徒が木々の間から黒髪を揺らしながペダルを踏んでいた。
半次郎はそんな風景のなかに身を隠すようにして、誰もいない畑の一間程の道に焼き芋を焼く釜を中古の軽自動車に載せて焼き芋を売に行く為の準備をしていた。
家路に向かうのか、烏が天空で群れをなして
いた。

半次郎こと山城謙介は東京中野の酒屋の長男として生をうけ、数字に弱いのが難題で、売掛金だの手形など、計算が疎いので、父との確執が絶えないことから、家出二回の実績を、あたかも、自分の勲章のように捉えていて、あげくのはて、家業の酒屋を継がないで、姉婿に任せ、本人は親の面倒をひとまず忘れての自分探しの人生航路をさまよっていた。
本の中味に感動したわけではないが、小田実に著者(何でも見てやろう)のタイトルに魅せられて自分でも何かをしなければと言う衝動にさせられたのは確かであった。
(ベトナムには恐ろしくて行けないが、何かを探さないと道が拓かないと焦っていた時期でもあった。
このころ、やはり親父の跡を継ぐのがベターなのかどうか、自分を試す意味で銀座の酒屋の店員になってはみたが、やはり酒の配達の毎日に嫌気がさして、早々に逃げ出した。
次は中堅どころの劇団養成所に入ったが、台詞が覚えられそうもないので、これもだめ。
とかと言って、合間をみての酒屋の手伝いは貴兄と反りが会わないばかりか、高校の友達がみな、我が路を歩き出しているのを観てて、なにか、自分だけが取り残されていくような哀れさを感じていたから、今の世界から脱出しようとしていた。

焼き芋の屋半次郎の源流を辿ればこんな背景があり、今から思えば計画性のない、行き当たりバッタリの淋しい世界に身を置いていたと言える。逃げても逃げても、親父が半次郎に酒屋の跡を継がせたいと思う心魂が影のように半次郎の脳裏を悩ませていた。
親孝行と親不孝の狭間にいたのだ。

それから、悶々とした日々を重ねて、酒屋の手伝いをしていたが、やはり、俺の進みべき路は酒屋の跡を継ぐことではないと、真面目に考えるようになり、親父様と別れを告げることになる。


えーいと、半次郎は再び家を飛び出し、恐らく母を脅かして、騙して、旅費を捻出て、当てのない旅に出ることにした。
東海道線の夜行にのり、名古屋に着いた。別に名古屋に当てがあるわけではない。

名古屋の街中の公園のペンチにボーッと座り込んでいると、変な親父がきて、パチンコ屋の店員になって、(俺が、座った台に玉を出せ、分け前は出す)という怪しげな話を持ち込んできた。流石名古屋はパチンコのメッカだなーと感心はしたが、聞く耳持たず、その場を立ち去り、残りの金も僅かしかないので、食べていく仕事を探さねばならない半次郎、は、こともあろうに、ヤクザ志願を思いついたのだ。
(この辺りの物語りは別項で記載します。焼きいも屋編なので割愛)


名古屋の旅けら3年、流転の旅は、親父が交通事故にあい、親父自ら退職願いを自衛隊に送り届けたために半次郎は隊長の意見を参考にして除隊を余儀なくされることになったのだ。
自衛隊を辞めて、親父の意見をしぶしぶ受け入れて酒屋に戻るのだが、やはり半次郎は落ち着きを保つ事ができないていた。

それから、数年して酒屋の跡を義兄に譲り半次郎は結婚し独立して、親の力で川崎の繁華街に小さな居酒屋をもらい暮らしを立てたのだが、女房の和子が純で元気でがんばっていた12年続いた店も、謙介の世間知らずとお金の重たさが解らずの、経営力の欠如がもとで、結局最後は暴力団に渡す体たらく。
この頃は既に子供が二人いた。子供たちはすくすくと遊んでいた。
店を畳んで5,6年経ったのが、今の焼き芋の引き売りだ。この間、居酒屋をやめたはいいのだが、一般的に言うと、よく聴く社長の放漫経営が殆どの原因なので、1700万円程の借金が最後に残り、裁判所、暴力団、債権者、などの対策に翻弄される始末。
次の仕事もままならず、新聞配達、掃除屋、焼肉屋のパート、水道工事の手元、など働きに行くのだけれど、なんだかんだで長続きはしない状態が続いていたのである。
謙介自身も
俺は中途半端な男だ。と認めざるを得ない状況だったので、半端な男の代名詞がわりに、
半端男の半次郎と言われることに依存はなかったのである。今の焼き芋屋もその流れの中にあるのだ。


間近に冬が近づいていた。

半次郎は42歳になっていた。
頭には安い野球帽をかぶり、馴染みの濃いクリーンのジャンバーをきて、厚手の木綿の紺色前掛けを腰に巻いている。
辺りには人気が全くない。乗り捨てられた自転車が、朽ちた竹垣に寝転んでいる。
半次郎はむしろこの人気のないひっそりとした田園を選んでいるのである。
理由は簡単だ。街場では、釜から炊きたての煙が音を立てて立ち上がるからだ。それと、この田園風景が今の半次郎には気を許してくれる流れを感じているからだった。

半次郎は、軽自動車の荷台から、ここにくるまでに建築現場や田畑の片隅などから集めた木材の切れ端を、家庭用風呂釜を改良した釜にいれ、新聞紙に火をつけ釜を熱し始めた。

しばらくして、釜の火は勢いをましパチパチと音を立てて白い煙をブリキの焼け焦げた煙突から夕映えの田園にたなびかせた。
焼き芋は半焼きの状態で目的地に向かうのが、タイミングとしては好ましいから、待機時間が必要になる。 こんな時間は新聞を読んだり、お餅を焼いたりして時間をかせいでいるのだが、たまに生活の金の工面方法や、収支を考えたり、休んでいるようで休めない事情が半次郎の脳裡をしばしば襲うこともあった。
釜がほどよく熱くなると、鉄製の釜の蓋を開け、 煤で黒ずんだ小豆大の石がずっしりと引き詰められた釜に芋を軍手をはめて配列よく並べた。数にして20本位だ。売り上げに換算すれば10000円程度のものだ。

芋の仕入れ先は近所のスパーマーケットで購入してくる。その他に、スーパーの野菜担当の伊藤さんが無償提供してくれる芋を使用している。
伊藤さんの提供してくれる薩摩芋は大きめで、売れ残りで日にちが経ちすきて、芋の先端が、ほんの少し腐食し始めて売り物にならない薩摩芋である。
半次郎はその、芋の先端を二センチばかり切り落として焼き芋に仕上げるのだ。
野菜部担当の 伊藤さんは、
(この芋は、焼き芋ならまだ使えるから良かったらもっていきなー)
と気さくに半次郎に無償供与してくれるのだ。
頭に薄毛が残る64,5才に近い伊藤さんは、八百屋一筋のような葉切れのよい声と、愛想のよい顔つきをしている。
自分の 息子のほど離れた働き盛りの半次郎を見て、この歳で焼き芋屋をやっているなんて、なにかの事情があるのではないかと感じたのかもしれない。
半次郎が歳には似合わない、煤避けのための野球帽をかぶり、キッコーマンの印が入った木綿の前掛け姿で、スパーの生ゴミの臭いの消えないごみ処理場の壁際に無造作に積み上げられたシャケの入れてあった薄い空き箱を石焼き芋の燃料として集めているのを見ていて、伊藤さんは哀れみの心に火がついたのかもしれない。

半次郎は焼き芋を売に行く場所を特に、決めているわけではない。昨日は、長津田周辺に行ったから今日はどこにするかと言う、気楽なものだった。

半次郎は今日の目的地を溝の口辺りと決めた。外は夕月夜だ。遠くの家々にポツポツと灯りがともりだしていた。
釜の焼き芋はまだ半焼きまでいっていなかった。ここを出るまで30分は掛かる。

この焼き芋釜を乗せている中古の軽自動車は、まだ、八王子の焼き芋やに歩合制で働いて二つ月位経ったころに手に入れた代物だ。半次郎が溝の口の周辺を車で流しながら焼き芋を売っているときに、畑の脇道で同業者の焼きいも売りの山根さんと出会ったのが切っ掛けだ。
お互いに同業者と言う縁から、道端に焼き芋を積んだ軽自動車を停めて、言葉を交わしたのが切っ掛けだった。めったに同業者同士が話す機会なと殆どない世界だから、情報交換は新鮮なのである。
忙しい?、暇だよ。どの辺りが売れそう?金曜日は売り上げがいい。などと挨拶程度の会話から始まり、段々話が深くなっていくのだ。
黒いハンチングに黒ずくめの姿をした山根さんが切り出した。
(俺、焼き芋屋を辞めて、福岡の実家に帰りたいのだ、昼間は会社勤めで夜は焼き芋のアルバイトしているのだが、親父が戻って来いと言うのだ。いつまでも一人暮らしは止めろとね。誰か心当たりあるらしいのだ、嫁さんのね。それで、この車、安くするから買ってもらえないかなー)と言うのだ。
半次郎勤めている焼き芋屋は、売り子が20名ほどいる会社組織だ。
貸し車代、芋の代、などを考慮すると、独立していた方が稼げるし、拘束されないから、半次郎この話に乗ったのである。
(30万円ね、釜付で。月賦でいいなら)
と言うことで購入したのが今のホンダの軽自動車だったのだ。

半焼きの芋が車を溝の口え押し出す時がきた。
熱く燃える釜の脇にブロック石で仕切りがあり、燃料の木が積まれている。中には、駐車場にある車止めに使用している角材もある。燃料の木が見つからない時に、駐車場へ行けば角材があるので、悪いこととは承知で、安堵する半次郎なのだ。燃料は今時、そう簡単に手には入らない、貴重品なのだ。明日の燃料は、今日のうちに、車を走らせながら目星を着けて置くのが、ゴツだ。
車止めは、殆どコンクリート製だが、街を外れた、小さな駐車場は、まだ木製の車止めが主流だった。

半次郎の軽自動車は246号国道に入り、遠慮するように国道の端をゆっくりと走行して、鷺沼駅辺りから左折して、溝の口周辺の道端のせまい路地に入った。
車の速度は、人が歩く速さだ。ダイナモが壊れる速度である。
ゆっくり走らないと、お客が車に追い付かないからだ。
半次郎は高校に通う息子が嫌々協力して、作らせた吹き込みテープが入った、ラジカセのスイッチをオンにすると、車の上に針金で巻き付けた、拡声器から、半次郎の渋い焼き芋屋の口上が、流れ出した。
拡声器は、一万円位でホームセンターから、買った、性能が分からない安物だった。
(やーきいもーいしやーきーいもーやーきーもー。おいしいやきいもですよー、早く来ないといっちゃうよー)
時には半次郎自前の声でマイクを取って声をだす。
自分の声の方が、お客請けがいいのだと半次郎は信じていた。
販売の道は軽トラ一台が通れる程の狭い裏道が何となく売り上げが上がる。
車が走行している両サイドの家並みより、もう一つ奥まった通りに声が届くように声を出すのがゴツだと。それも、単純な声ではなく、哀愁を籠めた声を出す方がいいと、おもっているのだ。
カラオケの演歌の雰囲気だ。それも北国を想像したようなうら寂しい声だ。
確かに、極寒の寒さの中で焼き芋をほうばれば、絵になる。半次郎の感性が逞しく働いていた。世間から観れば笑い話だ。
今も、東北の出稼ぎは建設業と焼き芋と世間ではそう思っている伏しがある。現に、半次郎も、藤が丘の高級住宅街で夜遅く車を引き回していたとき、
(焼きいもやのおじさんは東北の人?)
と尋ねられたことがある。その時は、
(はい、岩手の山奥で)と、無駄な抵抗を止めてお客様のイメージをこわさなかった事がある。

溝の口や登戸の駅前の周辺はまだ開発が遅れていて、田畑が点在している。半次郎はゆっくりと車を運転しながら、路地を引き回していた。空は6時だと言うのに、すっかり闇だ。天空には星が輝いている。空気は冷たく透き通っている感じだ。駅前の繁華街から僅かに離れただけで、この有り様である。
車は道幅の狭い裏道に入った。
臭うのだ。半次郎には焼き芋が売れる場所の臭いが察知出来る。六感だ。
焼き芋の売れる場所はひと気のある古い住宅が密集する路地が最適地だ。
街路灯がポツンと夜道を照らす、家囲いの木の枝が、所々裏道に顔を出す。
(えー焼きいもーいしやきーいもーおいもー半次郎の低音の声が郷愁を誘うように拡声器から流れている。
古びた家から、雑草のしげる庭を抜けて
路地に二人の姉妹が元気よく現れた。
半次郎は二間程の草むらのある道に車を停めて、運転席から降りて、姉妹に近づいて話しかけた。
(お芋だね)

荷台の縁につかまって、蓋を開けようとする半次郎。
ピンクのセターに赤いジャンパーを着たお金を握っている小学校四年生位の妹が
(おじちゃん焼きいもちょうだい)
と手を開くと50玉が一つあった。同じような服装の六年生位の姉は、妹を見ながら笑っていた。少しは姉さんだから恥ずかしさを覚えているようだ。
半次郎はあきれて声がでない。一つ50円では、売れるはずがないのだ。せめて小ぶりの芋で100円は貰いたい。
古びた狭い木造の家からでてきたからお金に余裕などあるわけないと、勝手に思いこでいた。
(夕御飯食べたの)
と尋ねると
(お母さん達仕事だから、まだです)
(そうか、親は共稼ぎなんた。おなかがへっているね、何時に帰ってくるの)
(九時頃)
(それまでなにもてべないの?、)
(うん)
半次郎は自分の子供を思い出してしまった。こんな寂しい想いをさせた、場面は何度もあったに違いないと。親の歳も自分とたいして差がないはずだ。なきなしの50円を子供たちは、出したのに違いない。
(それじゃね、50円ちょうだい。)
妹はそーっと小さな手のひらを開けて静かに差し出した。
ポツンと立つ、よれた電柱にコードが僅かにたわむ街路灯だけが辺りを温かくしていた。
半次郎は新聞紙を広げ
(どうだ、おまけだよ、)
と言いながら焼きたての大きめな芋二個を個を包んで渡した。
子供たちは礼を言うと、急ぎ足で、庭から消えて行った。
(子供たちから、金は取れないさ。俺のしていたことから、オモエバただでもいい。償いにも値しないさ。頑張れよ子供たち)
と一人脳裡と話ながら、運転席に戻る半次郎だった。

田園地帯仕込み場を夕方の6時頃出て8時頃までは、2000程の売り上げが妥当な線である。夕飯時は売れないのが定番だ。
車をやたらと動かすと燃費が嵩むので、時折、スパーの入り口あたりで、車を停めて、拡声器での音量を下げて、焼き芋を売ることがある。
焼き釜の扉をオープンにして、薪をくべたり、灰を片付けたり、やることはある。
だか、半次郎から言わせれば、車から、外に出て、作業することは、お客様との距離感をせばめることになるので、売り上げが上がると信じているのだ。
確かに、釜の焚き口は真っ赤に燃え盛っているから、夜の暗さと相まって人の感心を呼び込むのだ。薪能か、護魔薪か、火の放す厳かな世界か、解らないが、火は人間を惹き付ける力がある。
そこに、焼き芋を売るチャンスがあると、半次郎は心の置場を勝手に、定めていたのである。
この日は8時30分頃から、スパーをでて、路地裏の狭い道を選んで車をゆっくりと走らせ、転々と焼き芋を売りさばきながら、7000円程の稼ぎ額になっていた。
自宅は、農協の賃貸マンションだ。つくしの駅から、徒歩で10分ぐらいである。

帰り道になる田園都市線の、藤が丘にたどり着いたのは、11時を過ぎていた。
駅の近くにある新興住宅街の一画に高級な住宅の前を通り過ぎようとしたときである。
ケーキのようなハデなデザインの門扉越しに、ピンクのネグリジェ姿の若い奥さんが、
(焼きいもやさーん)
声を出しながら、通り過ぎようとする車を止めた。
半次郎の焼き芋は、15-20センチ位の大きさで、量り売りは面倒なので、一本500円が暗黙の定価であった。一般的には、目方売りが定番だ。半次郎の売り方は強引と言えば強引かもしれないと、本人も思っていた。
だが、彼にも、それなりのわけがあった。まずは、スパーの伊藤さんがくれる芋が大きいので、仕方がない、量り売りは暗闇で見にくい。釣り銭がめんどくさい。金持ちはそれなりに、貧乏にもそれなりに、と言う秤を半次郎は持っていると、決めつけているのである。まぁ、いい加減な売り方だとの批判は受けて立つとの覚悟から、目方売りをしないのであった。
勿論、お客様が列をなすなら、話は別だ、たまにしか売るれないのだから、杓子定規に考えなくてもいいではないかと、半次郎の大まかで、世渡りの物差しを知らないと言うのか、無頓着な性格がそうさせていたのである。
夜もすっかりふけて、皆さんはボツボツねるころだ。周りの家々では、灯りが消えているところもある。

ネグリジェの若い奥さんは、焼き芋くださいと200円を差し出した。
半次郎は、こんな夜更けに200円は、ないだろう!と嫌気が差し込んだ。売るのを躊躇っていた。こんなことは言ってはいけないね、と自答自問しながらも、堰が切れたようにいってしまった。

(今何時だと思っていますか、夜の11じ過ぎですよ。こんな立派なお宅に住んでいて、200円はないでしょう?貴方に売る焼き芋は有りません、よその焼き芋やさんから、買ってくまたさい)
車は、キョトンと呆気に取られる若奥さんを置き去りにして、坂道を一気に下っていった。長津田方面に向かう国道を渡ろうと、信号で車を停めた。半次郎はハンドルに肘を着けて信号まちをしながら、己の心の貧しさを気にしていた。
(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

半次郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は半次郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法行為だから返さなくても、いや、半額にしてもらう方法もあったと思うのだが、半次郎はノミやの負金を踏み倒す事なと、男の顔がたたないと、親から貰った家を売りに出したのだ。川崎の居酒屋だけは残して、両親には1000万円だけ渡し、後の2000万円は高金利、債務、などに充てたのだ。

その時の自分で落ちた地獄を思い出して、若い奥さんに八つ当たりをしたのだ。いい迷惑をかけてしまったと、反省する半次郎だった。
その時の気分はこんな様子だったのだ。
(こんな、りっばな家に住んでいて、200円の焼き芋一つとは、なんて人情の解らないか人なんだ。俺の売る焼き芋は1個500なのだ。こんな夜更けに、けちな家だ。俺はうらないよ、俺の勝手だから、俺はこんな無礼はしたくない。俺だったら最低1000円は買う)
と、意味不明な言葉が行き交いしていたのだ。この言いがかり的な発言は、家を博打でなくした半次郎の自分を攻め立てる讒言なのかもしれなかった。


信号が青になり、246号はまだ車が激しく行き交すき間の信号を通り抜け、長津田の駅裏の路地を抜けると道の外れに小料理屋がある。
ここまで来れば、半次郎の家の近くだ。

この一間間口の小料理屋は、提灯が赤く、ぽつりと人恋しさに灯りを灯している。店の名前は(こぼれ火)という細やかな名前だった。ここは半次郎の固定客なのだ。ここにつくと、半次郎は少し拡声器の音を上げるのだ。俺がきたよ!と言う合図なのだ。
道路を挟んで少し脇に停車する。
しぱらくすると、着物をきたお姉様が暖簾越しに声をかけてくれる。

(今日はお客さん少ないのよ、1000円でね)

(いつも、すいません、ありがとうございます)

半次郎の丁寧な言葉が、暗闇を流れていくのが定番なのだ、いつものお姉さんは、ちょうちん灯りで、少し赤らんでいるように見える。苦労が馴染んでいて、半次郎の好みかもしれない。


暖簾を潜って、中に入りたいが、焼きいも屋がプレーキをかけてくれる。
数年前は、銀座、六本木、歌舞伎町と付き合い名目で飲めない酒を、ふりして飲んでいたのだ。半次郎がクラブのドアを開けると、半次郎のテーマーソングの(京都の夜)が生ピアノで流れた時もあった。
半分ヤクザな行動をしていた時代のことだ。
見栄と虚栄と、恐ろしさと、欺瞞の世界と違って、この小料理屋の暖簾は、半次郎を裸にしてくれる一里塚みたいなものだった。
小料理屋の姉さんは、半次郎の拡声器から流れる何となく侘しく流れる声いに、共感を覚えたのに違いないと半次郎はそう捉えていた。
中に入りたいが入れない。焼きいもが笑っているようだった。

半次郎の帰る家は近い。長津田の駅から脇道を通って五分ばかり。途中に小さい川がある。橋があり、中央に車を停めて、車から、降りて、燃え残りの、火の始末をするのだ。
誰かに見られたら警察に通報されそうだが、やむ絵得ないので橋の上から投げ捨てるしかないのである。
このまま、棟続きのに、車をしまったら、近所から、文句が出るのは必定だ。
煙こそ出ていないが、残り火か釜の焚き口から、漏れてみえるからだ。
女房の和子があきれて放す言葉が、身に染みている。
(いい加減に、焼きいも屋なんか辞めて、みっともないから、あんたは好きでやっているけれど、子供たちがかわいそうてましょう)
親父が焼きいも屋を、しているのは、近所の人はわかっている。何故ならば、車に焼きいもの、提灯も荷台につけた間まで、駐車場にしまうからだ。その提灯もしっかりしたものなら未だしも、荷台にある提灯は、赤い
道路工事現場から、失敬してきたカラコンに電球を組み込んだ代物なのだ。その他、紙の提灯がチラホラ風鈴のように風任せですが、並んでいる。

残り火の残るモクザイは、最後まで残るので、四寸柱擬きの大きさがある。川に投げ込むと、ジューンと軋む音がする。
売れ残りの芋は、自分の、腹の中にいれるのだが、そうは食べれないので、残りの幾つかは、となりの、山越さんのお宅に差し上げるのだが。これも、女房が怒るのだ。
(隣に残り物をあげるなんて、失礼だし、みっともないからやめて)
(なんで、みっともないの、ちゃんと、残り物ですがと言ってあるし、よければ貰ってくださいともいってるよ。もったいないから)
見解の差はどうにもならない。どちらが正しいのかも解らないが、半次郎はその後、隣に上げるのは止めたのである。

確かに考えさせる事にがあった。
友達の紹介でこのところマンションに越して来た頃、今から5年位前のことです。
伜がまだ中学生のころだった。
マンションの前がまだ野原でキャチボールをしたのだ。伜は特別に野球が好きなのではない。半次郎が伜を相手にしたかったのだ。
半次郎は伜の智和とボールの投げ合いをしていて、急に涙が霞んできたのである。
自分の見栄か、女房の見栄か解らないが、ヨウチエンから小学校を途中でやめるまで、澁谷の私立学校に通わせていたのである。少しは名のある学校だった。それを、己の不始末で、退場させてしまったのだ。伜は、笑顔こそ、ミセナイまでも、半次郎の投げる玉を素直に受けていてくれているのだ。
半次郎は、済まない、悲しい想いをさせて。と侘びながら投球を続けていたのである。

そんな頃、半次郎が伜の智和の通う中学校の近くを焼きいもを売りに流していると、伜の智和が友達と、前方を歩いているのが目に入り、思わず(おーい智和)と拡声器で声を張り上げよぶと、智和と友達は、知らん顔をして道からハズれて、見えなくなたのだ。
我にかえった半次郎は怒ることもなく、自分が焼きいも屋であることを忘れている事に気がついたのである。
青春期の伜には、駄目な親父と映っていたのかもしれない。焼きいも屋の拡声器で流れるテープを嫌な顔ひとつせず、作ってくれた、伜は心の中では怒りの渦で、染まっていたのかもしれない。

そう言えば、焼きいも屋を始める一月前の頃だ。
近所の大手スパーから、半次郎に夜8時頃電話がはいり、
(息子さんの修さんが、カセットテープ代金をレジに払わないで、通りすぎた、本人は、床の下に落ちていたのを拾ったと言い張るので、誰か家の人にきてもらいたい)との旨の
連絡があった。若い男性の声だった。
担当者は倅を窃盗者の疑いを抱いているようであった。
半次郎は一瞬、修は、ついにやったなと、脳裏を横切った。
無理もない。電機関係 の興味は半次郎の親父の親父譲りだ。
無理もない。伜には小遣いらしき事は出来ない状態だったのである。
半次郎は伜の窃盗容疑を認めざるを得ないと思いつつも、担当者に電話で反論した。
(倅を泥棒するような子供に育てた覚えはない。なにかの間違いだろう。おとなしい、正直な子供だ。ことの善し悪しの判断はできる子供です。)と、突っ張り通したのです。

担当者は、それでも、窃盗環境を細々と延べ、最後にには、半次郎の突っ張りに業をなし、厳重注意で、事は済んだのである。
半次郎は、この事を修が戻って来ても、聞きだすことは、しなかった。もう、終わったことだと思う一方で、自分のした親不孝に比べれば、小さなことで、怒る資格などないと、思ってあたのである。
あれから、30年の歳月がすぎ、修夫婦は小さな幸せを大切にしながら暮らしている。
あの窃盗容疑の件は、あの時から、こらからも、親子の話題になることはないであろう。
永久迷宮入りだ。

当時、修も、父親が有無言わせず、(窃盗をするような、倅に育てた覚えはない)と言い張る姿を見て、どこかに感謝の気持ちがあったはずだど、半次郎は今でも思っている。
あの経済状態では、倅は窃盗をしたのではないかと今でもそう思っている半次郎なのだ。そして、事の軽重は有るけれど、そこまで追い込んでしまった、罪深い行動を取らせたのは、半次郎自身なのだと、思っている。

修の通う中学校の側で焼きいも屋を流していて、下校途中の友達と修に声をかけたら、路地に逃げた修の姿を、逃げ出すのは当たり前だ、と女房の和子に怒られたのも、窃盗の件が、あったばかりの事だった。

その頃である。たまたま、午前中から降りだした雨が午後になっても止まず、焼きいも屋は休もうと考えていた。夕方近くなり、休みだった妻の和子が、電機炬燵のカバーを取り替えながら言い出した。

和子は、一所懸命、臨時の店員として、デパートの売り子をして、生活費を稼ぎ出していたが、遣り繰りがつかず、明日納める、中学校の月謝が、何だかんだで7000円どうしてもいる。もう、これ以上遅れると、倅に先生が何かしら言って来るはずだ。
倅が、可愛そうだとこぼすのだ。日頃から、焼きいも屋なんか辞めて、どこでもいいから、月々お金が入る仕事をしろと、言うのだが、背中に借金を背負ったハンデはそう甘くない。借金とりが勤め先の電話番号を教えろだとか、そんな怪しい電話や、解決しなければならない債務の、問題やらで、まともな仕事など手につかないのが、半次郎の本音なのだ。
倅の月謝が待ったなしと聞いて、半次郎は開き直ったのか、小雨模様の中を飛びだし、焼きいもを売るために長津田駅の近くにある人影の少ない駐車場の脇に車を止めて、仕込みを始めたのである。
今日は引き売りをしないで一点勝負と決めたのだ。長津田の駅で最終電車が通りすきるまで焼きいも屋をすることに決めたのだ。
夜8時が過ぎても一つも売れない。夕食時で売れない。
毎度の事とは知りながらも、7000円が頭にある。焦らないと言えども、穏やかであるはずがない。子供の月謝だ。親父の面目もある。
そんなこと考えながら半次郎の前で、焼きそば屋が屋台をだしていて、そこの若い職人が、見掛けない半次郎に近寄ってきて、
(お兄さん、ちゃんと、挨拶してきたの)
言う。半次郎は、ヤクザえの挨拶だなと直感的に感じた。まんざら、知らない訳ではない。その道の幹部に、
(山城ちゃんは、多摩川、を渡ってこないほうがいい)とヤクザの世界に訳もわからず首を突っ込むようになっていた半次郎を今時で言う、首にしてくれたのだ。半次郎が余りにも正直で、この世界では役に立たないどころか、危ない存在になりかねないと判断したらしい。

半次郎は焼きそば屋のお兄さんにいった。
(地廻りさんも、こんなちっぽけな焼きいも屋なんて相手にしないさ。相手にするようなら終わりだね)
と言い返したら、スーッと下がっていった。

半次郎の車は勧業銀行の脇に停めてある。
駅のホームに続く階段の下の通路の側だ。違法駐車だ。
警官が来たら、謝って移動させる腹だ。
釜の焚き口に角材を入れ、炎が赤く燃えている。暗い道路に停めてある車から赤い薪が燃えている光景は、人の心を掴まないはずがないと、半次郎は信じていた。
九時半をすきるころから、焼きいもは売れ出した。車の外で、焚き口に頭を近づけ、薪を出したり、引いたりしていると、人が集まるのだ。
人間の心理かな、半次郎はそんなことを考えていた。すると、
65,6才の見かけたことのある男性が最終前の電車から降りてきたのか、半次郎に
(よく、がんはるね、少いか千円ぶんだけくれ)と、愛想よく声をかけてきた。
半次郎その男の顔をほの炎の陰で観ると、
(おとうさんは、新橋駅のローターリの脇で、似顔絵を描いている絵かきさんですね)
と親しげに声をかけた。
(そうだけど、なにか)
(わたしは、新橋のレンガ通りの焼肉屋でアルバイトしていた頃、二年前かな、勤め前に、お父さんの脇で、よく似顔絵絵を観ていたのですよ。この辺りから来てたのですね。これもなにかの縁ですね?はーい、おまけです)

絵かきの親父さんは、そうかい、そうかいといいながら、また来るよといって、闇に消えていった。
半次郎を流転のあかつきに、なのだ。焼きいも屋になったのも、この絵が好きだったことが、全ての始まりなのだ。
大袈裟に写るかも知れないが、純に宗である。新橋の似顔絵さんに惹き付けられたのも、半次郎の魂がそうさせていたのである。いや、焼きいも屋の現在も、売りたいが、売れない絵を描きたいがために、流していた。
焼きいも屋を始めた動機は、自由時間が欲しいためからだった。
だが、半次郎の思惑は見事に外れ、二足のわらじは履けない現実に方向舵を失った飛行機の用に、墜落仕掛けているのだ。
川崎の居酒屋も、職人としては半端者と分かっていたし、それでは、経営はいずれはつまづくと、予想すらしていたのた。
得意先のおばちやんが、小さな画廊をしていて、薦めるまま、誰だか解らない、将来は有望な絵かきだと言い値で買ったりしていたから、店も傾く要因が潜んでいたのだ。
(俺も何時かは、画廊に出せる絵を描きたい)と考えていたいたのである。
その流れの川が、今の焼きいも屋につながっているのだ。
半次郎の運命的な言霊が秘かにうずいているのだ。マグマのように心のどこかで対流をしていりるのだ。

長津田の終電は半次郎が気がつかないうちに姿が消えた。
倅の月謝はなんとかクリアできて、ほっとした半次郎は、カンコヒーを一気に飲み干すと、家路についた。
(ほら、月謝だ。8000円ある。悪いな)
恨めしそうな顔をして、妻の和子はさりげなく受け取った。
月謝を入れる茶封筒が小さな古い仏壇の前に置いてあった。
焼きいも屋は10月から、3月の半年で引き売りは終わる。後の半年は寝て暮らすとはいかない。
(竹や竿竹ー)か、網戸の修理だ。
半次郎は鼻から棹竹やはやらないことに決めていた。
12月になり、寒さも本格化してきた。
シーズンだ。
そんなある日、ガス欠になり、ガソリンスタントを探しなが売りさばいていると、246号の国道にでてしまった。
国道ぞいの、ガソリンスタントに入り、千円文だけ、ガソリンを入れてと、店員に言うと、店員から罵声がどんだ。勢いのある声だ。

(何をするだ、ばかやろう、火事になるだろう、速く立ち退け)

そりゃそうだった。焼き芋釜が熱せられて、釜口から火がこぼれ落ちているのだ。

田園都市線と国道246号線が平行して走るあざみの駅周辺は田園風景が天空を傘にしたように緑が空間を染めていた。
大きく区画された、田畑には、植木の栽培で緑の絨毯を敷いたように癒しの世界を造る。
縦横のアスハルトの道は碁盤の目のように整備され、畑を仕切る柵が申し訳程度に作られ田園に趣を添えていた。
こどもの国方面を見ると茜雲が遠くの山々を染めていた。
野川が流れる道には学校帰りの女生徒が木々の間から黒髪を揺らしながペダルを踏んでいた。
半次郎はそんほな風景のなかに身を隠すようにして、誰もいない畑の一間程の道に焼き芋を焼く釜を中古の軽自動車に載せて焼き芋を売に行く為の準備をしている。

半次郎こと山城謙介は東京中野の酒屋の長男として生をうけ、数字に弱いのが難題で、売掛金だの手形など、計算が疎いので、父との確執が絶えないことから、家出二回の実績を、あたかも、自分の勲章のように捉えていて、あげくのはて、家業の酒屋を継がないで、姉婿に任せ、本人は親の面倒をひとまず忘れての自分探しの人生行路。
その間にすったもんだの挙げ句のはて、恋女房擬きをもらい、親の力で川崎の繁華街に小さな居酒屋をもらい暮らしを立てたのだが、女房の和子が純で元気でがんばっていた12年続いた店も、謙介の世間知らずとお金の重たさが解らずの、経営力の欠如がもとで、結局最後は暴力団に渡す体たらく。
この頃は既に子供が二人いた。子供たちはすくすくと遊んでいた。
店を畳んで5,6年経ったのが、今の焼き芋の引き売りだ。この間、居酒屋をやめたはいいのだが、一般的に言うと、よく聴く社長の放漫経営が殆どの原因なので、1700万円程の借金が最後に残り、裁判所、暴力団、債権者、などの対策に翻弄される始末。
次の仕事もままならず、新聞配達、掃除屋、焼肉屋のパート、水道工事の手元、など働きに行くのだけれど、なんだかんだで長続きはしない状態が続いていたのである。
謙介自身も
俺は中途半端な男だ。と認めざるを得ない状況だったので、半端な男の代名詞がわりに、
半端男の半次郎と言われることに依存はなかったのである。今の焼き芋屋もその流れのくもり中にあるのだ。


間近に冬が近づいていた。

半次郎は42歳になっていた。
頭には安い野球帽をかぶり、馴染みの濃いクリーンのジャンバーをきて、厚手の木綿の紺色前掛けを腰に巻いている。
辺りには人気が全くない。乗り捨てられた自転車が、朽ちた竹垣に寝転んでいる。
半次郎はむしろこの人気のないひっそりとした田園を選んでいるのである。
理由は簡単だ。街場では、釜から炊きたての煙が音を立てて立ち上がるからだ。それと、この田園風景が今の半次郎には気を許してくれる流れを感じているからだった。

半次郎は、軽自動車の荷台から、ここにくるまでに建築現場や田畑の片隅などから集めた木材の切れ端を、家庭用風呂釜を改良した釜にいれ、新聞紙に火をつけ釜を熱し始めた。

しばらくして、釜の火は勢いをましパチパチと音を立てて白い煙をブリキの焼け焦げた煙突から夕映えの田園にたなびかせた。
焼き芋は半焼きの状態で目的地に向かうのが、タイミングとしては好ましいから、待機時間が必要になる。 こんな時間は新聞を読んだり、お餅を焼いたりして時間をかせいでいるのだが、たまに生活の金の工面方法や、収支を考えたり、休んでいるようで休めない事情が半次郎の脳裡をしばしば襲うこともあった。
釜がほどよく熱くなると、鉄製の釜の蓋を開け、 煤で黒ずんだ小豆大の石がずっしりと引き詰められた釜に芋を軍手をはめて配列よく並べた。数にして20本位だ。売り上げに換算すれば10000円程度のものだ。

芋の仕入れ先は近所のスパーマーケットで購入してくる。その他に、スーパーの野菜担当の伊藤さんが無償提供してくれる芋を使用している。
伊藤さんの提供してくれる薩摩芋は大きめで、売れ残りで日にちが経ちすきて、芋の先端が、ほんの少し腐食し始めて売り物にならない薩摩芋である。
半次郎はその、芋の先端を二センチばかり切り落として焼き芋に仕上げるのだ。
野菜部担当の 伊藤さんは、
(この芋は、焼き芋ならまだ使えるから良かったらもっていきなー)
と気さくに半次郎に無償供与してくれるのだ。
頭に薄毛が残る64,5才に近い伊藤さんは、八百屋一筋のような葉切れのよい声と、愛想のよい顔つきをしている。
自分の 息子のほど離れた働き盛りの半次郎を見て、この歳で焼き芋屋をやっているなんて、なにかの事情があるのではないかと感じたのかもしれない。
半次郎が歳には似合わない、煤避けのための野球帽をかぶり、キッコーマンの印が入った木綿の前掛け姿で、スパーの生ゴミの臭いの消えないごみ処理場の壁際に無造作に積み上げられたシャケの入れてあった薄い空き箱を石焼き芋の燃料として集めているのを見ていて、伊藤さんは哀れみの心に火がついたのかもしれない。

半次郎は焼き芋を売に行く場所を特に、決めているわけではない。昨日は、長津田周辺に行ったから今日はどこにするかと言う、気楽なものだった。

半次郎は今日の目的地を溝の口辺りと決めた。外は夕月夜だ。遠くの家々にポツポツと灯りがともりだしていた。
釜の焼き芋はまだ半焼きまでいっていなかった。ここを出るまで30分は掛かる。

この焼き芋釜を乗せている中古の軽自動車は、まだ、八王子の焼き芋やに歩合制で働いて二つ月位経ったころに手に入れた代物だ。半次郎が溝の口の周辺を車で流しながら焼き芋を売っているときに、畑の脇道で同業者の焼きいも売りの山根さんと出会ったのが切っ掛けだ。
お互いに同業者と言う縁から、道端に焼き芋を積んだ軽自動車を停めて、言葉を交わしたのが切っ掛けだった。めったに同業者同士が話す機会なと殆どない世界だから、情報交換は新鮮なのである。
忙しい?、暇だよ。どの辺りが売れそう?金曜日は売り上げがいい。などと挨拶程度の会話から始まり、段々話が深くなっていくのだ。
黒いハンチングに黒ずくめの姿をした山根さんが切り出した。
(俺、焼き芋屋を辞めて、福岡の実家に帰りたいのだ、昼間は会社勤めで夜は焼き芋のアルバイトしているのだが、親父が戻って来いと言うのだ。いつまでも一人暮らしは止めろとね。誰か心当たりあるらしいのだ、嫁さんのね。それで、この車、安くするから買ってもらえないかなー)と言うのだ。
半次郎勤めている焼き芋屋は、売り子が20名ほどいる会社組織だ。
貸し車代、芋の代、などを考慮すると、独立していた方が稼げるし、拘束されないから、半次郎この話に乗ったのである。
(30万円ね、釜付で。月賦でいいなら)
と言うことで購入したのが今のホンダの軽自動車だったのだ。

半焼きの芋が車を溝の口え押し出す時がきた。
熱く燃える釜の脇にブロック石で仕切りがあり、燃料の木が積まれている。中には、駐車場にある車止めに使用している角材もある。燃料の木が見つからない時に、駐車場へ行けば角材があるので、悪いこととは承知で、安堵する半次郎なのだ。燃料は今時、そう簡単に手には入らない、貴重品なのだ。明日の燃料は、今日のうちに、車を走らせながら目星を着けて置くのが、ゴツだ。
車止めは、殆どコンクリート製だが、街を外れた、小さな駐車場は、まだ木製の車止めが主流だった。

半次郎の軽自動車は246号国道に入り、遠慮するように国道の端をゆっくりと走行して、鷺沼駅辺りから左折して、溝の口周辺の道端のせまい路地に入った。
車の速度は、人が歩く速さだ。ダイナモが壊れる速度である。
ゆっくり走らないと、お客が車に追い付かないからだ。
半次郎は高校に通う息子が嫌々協力して、作らせた吹き込みテープが入った、ラジカセのスイッチをオンにすると、車の上に針金で巻き付けた、拡声器から、半次郎の渋い焼き芋屋の口上が、流れ出した。
拡声器は、一万円位でホームセンターから、買った、性能が分からない安物だった。
(やーきいもーいしやーきーいもーやーきーもー。おいしいやきいもですよー、早く来ないといっちゃうよー)
時には半次郎自前の声でマイクを取って声をだす。
自分の声の方が、お客請けがいいのだと半次郎は信じていた。
販売の道は軽トラ一台が通れる程の狭い裏道が何となく売り上げが上がる。
車が走行している両サイドの家並みより、もう一つ奥まった通りに声が届くように声を出すのがゴツだと。それも、単純な声ではなく、哀愁を籠めた声を出す方がいいと、おもっているのだ。
カラオケの演歌の雰囲気だ。それも北国を想像したようなうら寂しい声だ。
確かに、極寒の寒さの中で焼き芋をほうばれば、絵になる。半次郎の感性が逞しく働いていた。世間から観れば笑い話だ。
今も、東北の出稼ぎは建設業と焼き芋と世間ではそう思っている伏しがある。現に、半次郎も、藤が丘の高級住宅街で夜遅く車を引き回していたとき、
(焼きいもやのおじさんは東北の人?)
と尋ねられたことがある。その時は、
(はい、岩手の山奥で)と、無駄な抵抗を止めてお客様のイメージをこわさなかった事がある。

溝の口や登戸の駅前の周辺はまだ開発が遅れていて、田畑が点在している。半次郎はゆっくりと車を運転しながら、路地を引き回していた。空は6時だと言うのに、すっかり闇だ。天空には星が輝いている。空気は冷たく透き通っている感じだ。駅前の繁華街から僅かに離れただけで、この有り様である。
車は道幅の狭い裏道に入った。
臭うのだ。半次郎には焼き芋が売れる場所の臭いが察知出来る。六感だ。
焼き芋の売れる場所はひと気のある古い住宅が密集する路地が最適地だ。
街路灯がポツンと夜道を照らす、家囲いの木の枝が、所々裏道に顔を出す。
(えー焼きいもーいしやきーいもーおいもー半次郎の低音の声が郷愁を誘うように拡声器から流れている。
古びた家から、雑草のしげる庭を抜けて
路地に二人の姉妹が元気よく現れた。
半次郎は二間程の草むらのある道に車を停めて、運転席から降りて、姉妹に近づいて話しかけた。
(お芋だね)

荷台の縁につかまって、蓋を開けようとする半次郎。
ピンクのセターに赤いジャンパーを着たお金を握っている小学校四年生位の妹が
(おじちゃん焼きいもちょうだい)
と手を開くと50玉が一つあった。同じような服装の六年生位の姉は、妹を見ながら笑っていた。少しは姉さんだから恥ずかしさを覚えているようだ。
半次郎はあきれて声がでない。一つ50円では、売れるはずがないのだ。せめて小ぶりの芋で100円は貰いたい。
古びた狭い木造の家からでてきたからお金に余裕などあるわけないと、勝手に思いこでいた。
(夕御飯食べたの)
と尋ねると
(お母さん達仕事だから、まだです)
(そうか、親は共稼ぎなんた。おなかがへっているね、何時に帰ってくるの)
(九時頃)
(それまでなにもてべないの?、)
(うん)
半次郎は自分の子供を思い出してしまった。こんな寂しい想いをさせた、場面は何度もあったに違いないと。親の歳も自分とたいして差がないはずだ。なきなしの50円を子供たちは、出したのに違いない。
(それじゃね、50円ちょうだい。)
妹はそーっと小さな手のひらを開けて静かに差し出した。
ポツンと立つ、よれた電柱にコードが僅かにたわむ街路灯だけが辺りを温かくしていた。
半次郎は新聞紙を広げ
(どうだ、おまけだよ、)
と言いながら焼きたての大きめな芋二個を個を包んで渡した。
子供たちは礼を言うと、急ぎ足で、庭から消えて行った。
(子供たちから、金は取れないさ。俺のしていたことから、オモエバただでもいい。償いにも値しないさ。頑張れよ子供たち)
と一人脳裡と話ながら、運転席に戻る半次郎だった。

田園地帯仕込み場を夕方の6時頃出て8時頃までは、2000程の売り上げが妥当な線である。夕飯時は売れないのが定番だ。
車をやたらと動かすと燃費が嵩むので、時折、スパーの入り口あたりで、車を停めて、拡声器での音量を下げて、焼き芋を売ることがある。
焼き釜の扉をオープンにして、薪をくべたり、灰を片付けたり、やることはある。
だか、半次郎から言わせれば、車から、外に出て、作業することは、お客様との距離感をせばめることになるので、売り上げが上がると信じているのだ。
確かに、釜の焚き口は真っ赤に燃え盛っているから、夜の暗さと相まって人の感心を呼び込むのだ。薪能か、護魔薪か、火の放す厳かな世界か、解らないが、火は人間を惹き付ける力がある。
そこに、焼き芋を売るチャンスがあると、半次郎は心の置場を勝手に、定めていたのである。
この日は8時30分頃から、スパーをでて、路地裏の狭い道を選んで車をゆっくりと走らせ、転々と焼き芋を売りさばきながら、7000円程の稼ぎ額になっていた。
自宅は、農協の賃貸マンションだ。つくしの駅から、徒歩で10分ぐらいである。

帰り道になる田園都市線の、藤が丘にたどり着いたのは、11時を過ぎていた。
駅の近くにある新興住宅街の一画に高級な住宅の前を通り過ぎようとしたときである。
ケーキのようなハデなデザインの門扉越しに、ピンクのネグリジェ姿の若い奥さんが、
(焼きいもやさーん)
声を出しながら、通り過ぎようとする車を止めた。
半次郎の焼き芋は、15-20センチ位の大きさで、量り売りは面倒なので、一本500円が暗黙の定価であった。一般的には、目方売りが定番だ。半次郎の売り方は強引と言えば強引かもしれないと、本人も思っていた。
だが、彼にも、それなりのわけがあった。まずは、スパーの伊藤さんがくれる芋が大きいので、仕方がない、量り売りは暗闇で見にくい。釣り銭がめんどくさい。金持ちはそれなりに、貧乏にもそれなりに、と言う秤を半次郎は持っていると、決めつけているのである。まぁ、いい加減な売り方だとの批判は受けて立つとの覚悟から、目方売りをしないのであった。
勿論、お客様が列をなすなら、話は別だ、たまにしか売るれないのだから、杓子定規に考えなくてもいいではないかと、半次郎の大まかで、世渡りの物差しを知らないと言うのか、無頓着な性格がそうさせていたのである。
夜もすっかりふけて、皆さんはボツボツねるころだ。周りの家々では、灯りが消えているところもある。

ネグリジェの若い奥さんは、焼き芋くださいと200円を差し出した。
半次郎は、こんな夜更けに200円は、ないだろう!と嫌気が差し込んだ。売るのを躊躇っていた。こんなことは言ってはいけないね、と自答自問しながらも、堰が切れたようにいってしまった。

(今何時だと思っていますか、夜の11じ過ぎですよ。こんな立派なお宅に住んでいて、200円はないでしょう?貴方に売る焼き芋は有りません、よその焼き芋やさんから、買ってくまたさい)
車は、キョトンと呆気に取られる若奥さんを置き去りにして、坂道を一気に下っていった。長津田方面に向かう国道を渡ろうと、信号で車を停めた。半次郎はハンドルに肘を着けて信号まちをしながら、己の心の貧しさを気にしていた。
(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

半次郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は半次郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法行為だから返さなくても、いや、半額にしてもらう方法もあったと思うのだが、半次郎はノミやの負金を踏み倒す事なと、男の顔がたたないと、親から貰った家を売りに出したのだ。川崎の居酒屋だけは残して、両親には1000万円だけ渡し、後の2000万円は高金利、債務、などに充てたのだ。

その時の自分で落ちた地獄を思い出して、若い奥さんに八つ当たりをしたのだ。いい迷惑をかけてしまったと、反省する半次郎だった。
その時の気分はこんな様子だったのだ。
(こんな、りっばな家に住んでいて、200円の焼き芋一つとは、なんて人情の解らないか人なんだ。俺の売る焼き芋は1個500なのだ。こんな夜更けに、けちな家だ。俺はうらないよ、俺の勝手だから、俺はこんな無礼はしたくない。俺だったら最低1000円は買う)
と、意味不明な言葉が行き交いしていたのだ。この言いがかり的な発言は、家を博打でなくした半次郎の自分を攻め立てる讒言なのかもしれなかった。


信号が青になり、246号はまだ車が激しく行き交すき間の信号を通り抜け、長津田の駅裏の路地を抜けると道の外れに小料理屋がある。
ここまで来れば、半次郎の家の近くだ。

この一間間口の小料理屋は、提灯が赤く、ぽつりと人恋しさに灯りを灯している。
半次郎の固定客なのだ。ここにつくと、半次郎は少し拡声器の音を上げるのだ。俺がきたよ!と言う合図なのだ。
道路を挟んで少し脇に停車する。
しぱらくすると、着物をきたお姉様が暖簾越しに声をかけてくれる。

(今日はお客さん少ないのよ、1000円でね)

(いつも、すいません、ありがとうございます)

半次郎の丁寧な言葉が、暗闇を流れていくのが定番なのだ、いつものお姉さんは、ちょうちん灯りで、少し赤らんでいるように見える。苦労が馴染んでいて、半次郎の好みの人だ。
暖簾を潜って、中に入りたいが、焼きいも屋がプレーキをかけてくれる。
数年前は、銀座、六本木、歌舞伎町と付き合い名目で飲めない酒を、ふりして飲んでいたのだ。半次郎がクラブのドアを開けると、半次郎のテーマーソングが流れた時もあった。
半分ヤクザな行動をしていた時代のことだ。
見栄と虚栄と、恐ろしさと、欺瞞の世界と違って、この小料理屋の暖簾は、半次郎を裸にしてくれる一里塚みたいなものだった。
小料理屋の姉さんは、半次郎の拡声器から流れる何となく侘しく流れる声いに、共感を覚えたのに違いないと半次郎はそう捉えていた。
中に入りたいが入れない。焼きいもが笑っているようだった。

半次郎の帰る家は近い。長津田の駅から脇道を通って五分ばかり。途中に小さい川がある。橋があり、中央に車を停めて、車から、降りて、燃え残りの、火の始末をするのだ。
誰かに見られたら警察に通報されそうだが、やむ絵得ないので橋の上から投げ捨てるしかないのである。
このまま、棟続きのに、車をしまったら、近所から、文句が出るのは必定だ。
煙こそ出ていないが、残り火か釜の焚き口から、漏れてみえるからだ。
女房の和子があきれて放す言葉が、身に染みている。
(いい加減に、焼きいも屋なんか辞めて、みっともないから、あんたは好きでやっているけれど、子供たちがかわいそうてましょう)
親父が焼きいも屋を、しているのは、近所の人はわかっている。何故ならば、車に焼きいもの、提灯も荷台につけた間まで、駐車場にしまうからだ。その提灯もしっかりしたものなら未だしも、半次郎の提灯は、赤い
道路工事現場から、失敬してきたカラコンに電球を組み込んだ代物なのだ。

残り火の残るモクザイは、最後まで残るので、四寸柱擬きの大きさがある。川に投げ込むと、ジューンと軋む音がする。
売れ残りの芋は、自分の、腹の中にいれるのだが、そうは食べれないので、残りの幾つかは、となりの、山越さんのお宅に差し上げるのだが。これも、女房が怒るのだ。
(隣に残り物をあげるなんて、失礼だし、みっともないからやめて)
(なんで、みっともないの、ちゃんと、残り物ですがと言ってあるし、よければ貰ってくださいともいってるよ。もったいないから)
見解の差はどうにもならない。どちらが正しいのかも解らないが、半次郎はその後、隣に上げるのは止めたのである。

確かに考えさせる事にがあった。
友達の紹介でこのところマンションに越して来た頃、今から5年位前のことです。
伜がまだ中学生のころだった。
マンションの前がまだ野原でキャチボールをしたのだ。伜は特別に野球が好きなのではない。半次郎が伜を相手にしたかったのだ。
半次郎は伜の智和戸、ボールの投げ合いをしていて、急に涙が霞んできたのである。
自分の見栄か、女房の見栄か解らないが、ヨウチエンから小学校を途中でやめるまで、澁谷の私立学校に通わせていたのである。少しは名のある学校だった。それを、己の不始末で、退場させてしまったのだ。伜は、笑顔こそ、ミセナイまでも、半次郎の投げる玉を素直に受けていてくれているのだ。
半次郎は、済まない、悲しい想いをさせて。と侘びながら投球を続けていたのである。

そんな頃、半次郎が伜の修が中学校の近くをくるまで焼きいもを売りに流していると、伜の智和が共だと、前方を歩いているのが目に入り、思わず(おーい智和)と拡声器で声を張り上げよぶと、智和と友達は、知らん顔をして道からハズれて、見えなくなたのだ。
我にかえった半次郎は怒ることもなく、自分が焼きいも屋であることを忘れている事に気がついたのである。
青春期の伜には、駄目な親父と映っていたのかもしれない。焼きいも屋の拡声器で流れるテープを嫌な顔ひとつせず、作ってくれた、伜は心の中では怒りの渦で、染まっていたのかもしれない。

そう言えば、焼きいも屋を始める一月前の頃だ。
近所の大手スパーから、半次郎に夜8時頃電話がはいり、
(息子さんの修さんが、カセットテープ代金をレジに払わないで、通りすぎた、本人は、床の下に落ちていたのを拾ったと言い張るので、誰か家の人にきてもらいたい)との旨の
連絡があった。若い男性の声だった。
担当者は倅を窃盗者の疑いを抱いているようであった。
半次郎は一瞬、修は、ついにやったなと、脳裏を横切った。
無理もない。電機関係 の興味は半次郎の親父の親父譲りだ。
無理もない。伜には小遣いらしき事は出来ない状態だったのである。
半次郎は伜の窃盗容疑を認めざるを得ないと思いつつも、担当者に電話で反論した。
(倅を泥棒するような子供に育てた覚えはない。なにかの間違いだろう。おとなしい、正直な子供だ。ことの善し悪しの判断はできる子供です。)と、突っ張り通したのです。

担当者は、それでも、窃盗環境を細々と延べ、最後にには、半次郎の突っ張りに業をなし、厳重注意で、事は済んだのである。
半次郎は、この事を修が戻って来ても、聞きだすことは、しなかった。もう、終わったことだと思う一方で、自分のした親不孝に比べれば、小さなことで、怒る資格などないと、思ってあたのである。
あれから、30年の歳月がすぎ、修夫婦は小さな幸せを大切にしながら暮らしている。
あの窃盗容疑の件は、あの時から、こらからも、親子の話題になることはないであろう。
永久迷宮入りだ。

当時、修も、父親が有無言わせず、(窃盗をするような、倅に育てた覚えはない)と言い張る姿を見て、どこかに感謝の気持ちがあったはずだど、半次郎は今でも思っている。
あの経済状態では、倅は窃盗をしたのではないかと今でもそう思っている半次郎なのだ。そして、事の軽重は有るけれど、そこまで追い込んでしまった、罪深い行動を取らせたのは、半次郎自身なのだと、思っている。

修の通う中学校の側で焼きいも屋を流していて、下校途中の友達と修に声をかけたら、路地に逃げた修の姿を、逃げ出すのは当たり前だ、と女房の和子に怒られたのも、窃盗の件が、あったばかりの事だった。

その頃である。たまたま、午前中から降りだした雨が午後になっても止まず、焼きいも屋は休もうと考えていた。夕方近くなり、休みだった妻の和子が、電機炬燵のカバーを取り替えながら言い出した。

和子は、一所懸命、臨時の店員として、デパートの売り子をして、生活費を稼ぎ出していたが、遣り繰りがつかず、明日納める、中学校の月謝が、何だかんだで7000円どうしてもいる。もう、これ以上遅れると、倅に先生が何かしら言って来るはずだ。
倅が、可愛そうだとこぼすのだ。日頃から、焼きいも屋なんか辞めて、どこでもいいから、月々お金が入る仕事をしろと、言うのだが、背中に借金を背負ったハンデはそう甘くない。借金とりが勤め先の電話番号を教えろだとか、そんな怪しい電話や、解決しなければならない債務の、問題やらで、まともな仕事など手につかないのが、半次郎の本音なのだ。
倅の月謝が待ったなしと聞いて、半次郎は開き直ったのか、小雨模様の中を飛びだし、焼きいもを売るために長津田駅の近くにある人影の少ない駐車場の脇に車を止めて、仕込みを始めたのである。
今日は引き売りをしないで一点勝負と決めたのだ。長津田の駅で最終電車が通りすきるまで焼きいも屋をすることに決めたのだ。
夜8時が過ぎても一つも売れない。夕食時で売れない。
毎度の事とは知りながらも、7000円が頭にある。焦らないと言えども、穏やかであるはずがない。子供の月謝だ。親父の面目もある。
そんなこと考えながら半次郎の前で、焼きそば屋が屋台をだしていて、そこの若い職人が、見掛けない半次郎に近寄ってきて、
(お兄さん、ちゃんと、挨拶してきたの)
言う。半次郎は、ヤクザえの挨拶だなと直感的に感じた。まんざら、知らない訳ではない。その道の幹部に、
(山城ちゃんは、多摩川、を渡ってこないほうがいい)とヤクザの世界に訳もわからず首を突っ込むようになっていた半次郎を今時で言う、首にしてくれたのだ。半次郎が余りにも正直で、この世界では役に立たないどころか、危ない存在になりかねないと判断したらしい。

半次郎は焼きそば屋のお兄さんにいった。
(地廻りさんも、こんなちっぽけな焼きいも屋なんて相手にしないさ。相手にするようなら終わりだね)
と言い返したら、スーッと下がっていった。

半次郎の車は勧業銀行の脇に停めてある。
駅のホームに続く階段の下の通路の側だ。違法駐車だ。
警官が来たら、謝って移動させる腹だ。
釜の焚き口に角材を入れ、炎が赤く燃えている。暗い道路に停めてある車から赤い薪が燃えている光景は、人の心を掴まないはずがないと、半次郎は信じていた。
九時半をすきるころから、焼きいもは売れ出した。車の外で、焚き口に頭を近づけ、薪を出したり、引いたりしていると、人が集まるのだ。
人間の心理かな、半次郎はそんなことを考えていた。すると、
65,6才の見かけたことのある男性が最終前の電車から降りてきたのか、半次郎に
(よく、がんはるね、少いか千円ぶんだけくれ)と、愛想よく声をかけてきた。
半次郎その男の顔をほの炎の陰で観ると、
(おとうさんは、新橋駅のローターリの脇で、似顔絵を描いている絵かきさんですね)
と親しげに声をかけた。
(そうだけど、なにか)
(わたしは、新橋のレンガ通りの焼肉屋でアルバイトしていた頃、二年前かな、勤め前に、お父さんの脇で、よく似顔絵絵を観ていたのですよ。この辺りから来てたのですね。これもなにかの縁ですね?はーい、おまけです)

絵かきの親父さんは、そうかい、そうかいといいながら、また来るよといって、闇に消えていった。
半次郎を流転のあかつきに、なのだ。焼きいも屋になったのも、この絵が好きだったことが、全ての始まりなのだ。
大袈裟に写るかも知れないが、純に宗である。新橋の似顔絵さんに惹き付けられたのも、半次郎の魂がそうさせていたのである。いや、焼きいも屋の現在も、売りたいが、売れない絵を描きたいがために、流していた。
焼きいも屋を始めた動機は、自由時間が欲しいためからだった。
だが、半次郎の思惑は見事に外れ、二足のわらじは履けない現実に方向舵を失った飛行機の用に、墜落仕掛けているのだ。
川崎の居酒屋も、職人としては半端者と分かっていたし、それでは、経営はいずれはつまづくと、予想すらしていたのた。
得意先のおばちやんが、小さな画廊をしていて、薦めるまま、誰だか解らない、将来は有望な絵かきだと言い値で買ったりしていたから、店も傾く要因が潜んでいたのだ。
(俺も何時かは、画廊に出せる絵を描きたい)と考えていたいたのである。
その流れの川が、今の焼きいも屋につながっているのだ。
半次郎の運命的な言霊が秘かにうずいているのだ。マグマのように心のどこかで対流をしていりるのだ。

長津田の終電は半次郎が気がつかないうちに姿が消えた。
倅の月謝はなんとかクリアできて、ほっとした半次郎は、カンコヒーを一気に飲み干すと、家路についた。
(ほら、月謝だ。8000円ある。悪いな)
恨めしそうな顔をして、妻の和子はさりげなく受け取った。
月謝を入れる茶封筒が小さな古い仏壇の前に置いてあった。
焼きいも屋は10月から、3月の半年で引き売りは終わる。後の半年は寝て暮らすとはいかない。
(竹や竿竹ー)か、網戸の修理だ。
半次郎は鼻から棹竹やはやらないことに決めていた。
12月になり、寒さも本格化してきた。
シーズンだ。
そんなある日、ガス欠になり、ガソリンスタントを探しなが売りさばいていると、246号の国道にでてしまった。
国道ぞいの、ガソリンスタントに入り、千円文だけ、ガソリンを入れてと、店員に言うと、店員から罵声がどんだ。勢いのある声だ。

(何をするだ、ばかやろう、火事になるだろう、速く立ち退け)

そりゃそうだった。焼き芋釜が熱せられて、釜口から火が燃え盛っているのが見えるのだ。半次郎は、はっと驚き急いで
車を移動させ国道の脇に止めた。

(うっかりしていて、悪かった、ごめんごめん)
そう謝りながら、赤いポリのガソリン入れを借りて、自ら入れた。
店員は、あっけに取られて、言葉も少い。
速く出ていってもらいたい表情だった。
これだから、焼きいも屋の新人は怖いのだ。

草競馬のある川崎市で競馬馬を管理する、厩舎が多摩川、沿いにある。
川に沿って県道があり、車の渋滞でこの辺りでは名高い場所だった。半次郎は六号橋をみなから車を流していた。どこかで道路から脇道に入ろうとしていたのた。
すると、後方から、大型の乗用車が追い抜いてきて、半次郎の車に割り込む用にして止まった。

中年の恰幅のいい男性か、半次郎の車のドアを激しく叩きながらいった。
(おい!荷台が燃えているぞ、荷台が!)
半次郎は、えっ!とブレーキを踏みながら道路際に慌てて止めた。
釜が熱せられ、燃料の材木に延焼していたのた。釜と5.6本燃料の材木の間はコンクリートプロックで仕切られているが、数本が車の振動で、倒れ、釜に接していたのだ。
あいにく、釜のなかは火の勢いが増していたのである。
後続の車は珍しそうに燃える荷台を見ながら通りすぎていく。
半次郎は荷台に飛び乗り、巻いていた木綿の前掛けを取り、二、三本の燃え盛る材木を叩いて消しとめた。
火事を知らせてくれた人に丁重に礼をいい、見ていた数人の見学者にも謝りの言葉をかけたのである。
落ち着きを取り戻した半次郎は直ぐ様バンドルを
握り、恥ずかしさから、逃れるように、県道から折れて、住宅街に逃げ込んだ。
そこは古い平屋の県営住宅の片隅だった。
(なんてこった。落ち目の三度笠とはこの事だ)
そう想いながら、植え込みの縁石に座り込みタバコに火をつけた。
人気の無い夕暮れだった。
ここから多摩川沿いにそって僅かな所に嫌な思い出で残る場所があり、そんなことも併せて半次郎の自分で落ち込んだ世間を泳ぎ切ろうとするパワーも萎えていた。
(そう言えば、この先にボクシングジムがあったけなー。四年前位だ。ここの隣に古い家があり、その家のトイレの工事を請けたっけ。コンクリートで修理する一日仕事だった。
臭くて、汚くて往生したな)
発注者はこの家の住人で、金貸しを潜りでしていて、半次郎も世話になったことがある。
川崎の居酒屋を潰したころだ。
この金貸しは半次郎に同情したのか、憐れを思ってか、半日二万円のしごとだった。
それでも、理屈なく、半次郎には有り難い金だった。ヤクザの上手い演技に乗せられて、焼きいも屋の今とたいして変わらないが、どん底と闇の世界をさ迷っていた頃のことだ。
半次郎を借金の方に大阪に連ていいくと、脅しをかけてきたのも、この金貸しの差しがねではないかと、今でも信じていた。

半次郎はタバコを植え込みの土のなかに埋めながら、当時の事を走馬灯のように思い出していたのであった。
火事から、目を覚めした発注者は、釜の中の芋を並べ直し、焼き上がった芋を、保温用の区割りされた網の中にいれ、生芋を並べている。

半次郎が焼きいも屋を始めたのは、新聞の片隅に二行広告に目が止まり、一日二万円以上稼げます、の甘い募集広告に乗せられたのが縁である。
案の定、予想した通り、数字は上がらない。それでは、面倒だから、自分で始めようと、今に至っている。
しかし、二万円は、たまにいくが、ほとんどは、一万チョイだった。
それでも、自由に憧れて、拘束を嫌う世界は、スーツをきて、通勤する生活より、馴染んでいた。それと、スーツでの仕事は、身辺調査や、半次郎自身が、債務の整理などで落ち着かないこともあり、敬遠していたのだ。
自由って、義務が伴うと人は言うが、本当であると実感する半次郎だった。
産んだ子供には罪はない、だから、何でも屋のような生き方しか出来ない自分を卑下してみたり、詰まらない理屈を捏ね回して、正当化してみたり、それなりの苦悩をする半次郎だった。
それでも、匍匐前進のように、前に、前にと一歩一歩歩んでいるようだった。

ちんたら、武蔵小杉に向かう途中だった。
車の背中は西日が傾いていた。
赤いスポーツカーが、スーッと半次郎の車を追い抜いて
少し先に停まった。女ずれだ。
黒眼鏡のお兄さんが、
(焼き芋千円ぶんくれ)
と声をかけてきた。
半次郎は焼きたてだと言って太い焼き芋二本を紙袋に入れて渡した。
計り売りでは無いから、仕事は早い。
お金を貰うと直ぐに焼き芋の車を走らせた。
しばらく国道を走っていると、さっきの
スポーツカーが追い付いてきて、半次郎の前に停めると、お兄さんが
(生だよ、焼けてねーよ)だった。
芋の焼きがげんはそんなに難しいとは、思わないが、生芋は堅くて食べられない。
間違えて半焼きを渡してしまったのだ。
半次郎丁重に謝り、焦げ目のたっぶりついた芋を渡して事なきを得たのである。
こんなミスは始めである。
常に何かしら考えている習性がある半次郎は、地獄の雄叫びに苛まれていたに違いない。

正月が近づいていた。
練馬の親父に年始の挨拶に行かねばならない。
親父は80歳位だ。鬱の弟と二人で暮らしている。
親父に年始の挨拶にともっともらしい事を言っているけど、親父は半次郎を歓迎しているわけではない。むしろ、迷惑かもしれない。
理由を挙げれば切りがない。
強いてあげれば、こんなことがあった。

半分ヤクザの金貸しに期日に返す金が100万円
どうしても足らず、親を脅かしたのだ。
車に親父を乗せて、何処からか、帰る途中だった。

。(100万円貸してくれ、貸してくれないと、この車を壁にぶつける)と、とんだ子供だった。その金は姉と相談して、やむ無く出すことになったのだ。
こんな灰汁の強い金も、その後の半次郎の立ち直りにはなんの役にも立たず、むしろ傷口を広げたのかもしれない。
かいつまんで話せば、高利が高利を産む、よくある話だった。
こんな親不孝の半次郎でも、親から見れば子供である、なんとか立ち上がって貰いたいと願っていたはずだ。
半次郎が正月に挨拶に行くのは理由があった。
兄弟6人いるので、お年玉を上げなければ、半次郎の子供二人が、兄弟から貰えないのだ。子供たちは、叔父や叔母から貰うお年玉を夢見ているのだ。
半次郎も、子供のために、兄弟の子供にお年玉を
あげねばならないのだ。
大晦日は焼きいも屋を休んだ。
子供たちは、狭い部屋でTVの漫画を観ている。
大晦日と言えども、半次郎の家庭は温もりなどあったのか、なかったのか、それすらわからない。
ミカンと、なにがしの御菓子があったのは覚えているはずだが、正確な記憶にない。半次郎は、多分、朝日新聞を時間潰しに漁っていたと思う。
子供たちが、淋しい大晦日を過ごして、眠りに着いた頃、和子は、(明日のみんなに渡すお年玉用意してあるの)と半次郎に尋ねた。
半次郎は貸してくれといってもあるはずはないと思っているから。
(なんとかするさ。)
と返事するしかなかった。
(元日は止めて3日に行くよ)と、返事をした。
元旦は、食べるものがどこの家庭でも豊富だから焼きいもは売れないと判断しているのだ。
それよりも、兄弟の子供に上げるお年玉のお金が無いので、売りながら、お年玉をつくるしか無いのである。引き売りの売り上げをお年玉にするのだ。
半次郎は少しでも正月料理に飽きてくる3日を計算に入れていたのだ。
町田から、練馬まで、スローで走らなければ売り上げが期待できない。三時間か、四時間は覚悟していた。
その日がやって来た。
和子はビックリして言った。
(なに、これから、焼きいも売りにいくの。まだ、お正月よ、売れるはず無いでしょ、美味しいものがあるのだから。焼き芋なんて買わないわよ。第一、近所の人に恥ずかしいから止めてちょうだい)
半次郎は和子の話を他人事のように受け流して、扉をあけて、外に出たのでた。
外は曇天、曇り空。車の置いてある隣接の駐車場にいくと、野良猫達がワゴン車の下に寄り添うように暖をとっていた。
午前10時頃の正月は3日めを迎えていたが、人影はなかった。
TVでは、お笑い番組が華やかなはずだ。
倅とキャチボールをした、野原の脇に車を停めて
焼き芋の仕込みを終えると、町田街道をユルリと北に向かった。
野津田辺りの住宅街で、やーきーいーもーの半次郎の声が流れると、二、三の子供たちが、和服姿で元気よくどびだしてきた。
オジサーンの声に励まされて半次郎も正月だと言うのに、己の馬鹿さ加減も忘れて、元気をもらい、気分よく商売を始めていたのである。
焼き芋は、半次郎の売り上げ予想を上回って昼を過ぎると二万円位になり、青梅街道から、練馬に入る頃は三万近くになっていた。
半次郎にしてみれば、嬉しい悲鳴だ。まさかのまさかなのだ。
一万あればお年玉の格好はつくと判断ていたからだ。
練馬の親父のマンションに着いたのは午後2時頃だった。
3DKの間取りのマンションで、親父は、優しい声で、謙介かー戸との後ろで声をかけてくれた。正月だから嫌な顔をしても意味がないと老いがそうさせていたのかもしれない。
半次郎は、ダイニングキッチンのテーブルに座ると、ビニール製の黒い小さなカバンのチャックを引いて、逆さまにして、ばら銭を出したのである。
お金は10,100,500玉と、千円札がお盆にかなりの重量感をもって盛られたのである。
(じいさんさ、これを千円札に変えてくれ、皆のお年玉にするからさ、俺も出さないと、修や、和歌子が小遣いもらえないからね)
半次郎の今日の目的は子供たちにくれたお年玉を集めて帰ることだったのだ。
(いくらあるのだ、お前もいい加減にまともな仕事についたらどうだ。子供がいるのだから)
(わかっているよ。なかなかないのさ、警備員ばかりさ、そのうち何とかするさ、一万六千円ある。この内、えーと、お年玉をあげる子供たちは六人だから二千円として、一万二千円だ。のし袋に入れておいて)
半次郎は思わぬ売り上げに驚いて悦に入っていた。
隣の部屋に移り、炬燵の上に御節料理が並んでいた。
酒屋の跡を継いだ姉の栄子からの差し入れでだと言う。有名な店の品物で得意先だとも言う。義理で買わされたのだ。五万円もするらしい。
半次郎は御節料理は旨いものなしと思っているので、申し訳程度に、箸を入れ、早々と帰えるタイミンクを探していた。
部屋の住みには、たち膝をした、弟の義正が懐かしげに半次郎の一部始終を観ていた。義正は日本料理の職人である。ホテル勤務の時板長の上林さんが、急逝して、職をやめたと言う。
気の弱い弟は、大黒柱を失った衝撃を受けたのかもれない。。半次郎は弟の気持ちは素直に読み取ることができた。
ハマッタ職人同士は、テコでも離れないと言う意味がぴったりするのだ。
弟の義正の人生を狂わした一端は半次郎にもある。
その事を話すと長くなるのでここでは通り過ぎるが、半次郎が酒屋を継がないことが、姉と酒屋の跡を継いだ義兄との確執で、弟も人生の荒波をうけて行くことになったから、今、ここにいる弟が、自閉症的な鬱にみえるのも半次郎にはよく理解出来ると同時に、兄として謝罪したい気持ちでいたのである。

親父は半次郎の数々の不条理を受けながらも、こんな倅に育てたのは自分だらと、心の隅で思っていたにちがいないと半次郎はそう感じるのだ。親父は不肖な倅の重圧に耐えながら、既に酒屋の会長としての僅かな給付金も義兄によって打ち切られ、僅かな年金で暮らしているから、仕事をしないで、居候を続ける弟にも快く思っていなかった。
ただし、天は上手くしたもので、弟の存在に、大義名分を与えていた。
それは、兄弟六人いるなかで、老いた親父を環視、介護出来ると立場にいるのは弟しかいないので、兄弟からは、仕事しろ、仕事しろと、せっつく割りには、掛け声だけで、本音では、親父の面倒を観てくれる弟に感謝していた。
弟は特別に親父の面倒を見るわけではない。簡単な食事の用意と狭い風呂の掃除ぐらいなのである。兄弟にしてみれば義正が親父の側に居るだけで幸せの一端を享受できているのである。

御節料理を囲みながよもやま話にも厭きがきた。
半次郎は親父を近くのように銭湯に誘った。親父の顔は笑みがこぼれ瞬時の幸せ感がただ
ょっていた。
弟は(風呂のは無理だよ、階段が降りれないし、番台の場ぁさんが嫌な顔をするさ、年寄りは風呂場で糞を足らすらしい。肛門が緩んでいるからね)
(へー、そんなもんかい、薄情だな。でも、仕方ないかな。商売だからなー)
親父は
(だいじょうぶだよ、そこまでいっていないから)
半次郎は親父を背負って銭湯に行くことにした。一番風呂場に近い時間で、湯船を見渡すと、3,4人の老人がゆったりと風呂をたのしんでいた。
番台のおばぁちゃんは、半次郎が付き添っているので風呂代をもらうにも、余裕が有りそうに見えた。
ブクブク泡がたつ湯船に親父は、ゆっくりと身を沈め、
(風呂はいいな、もう、何ヵ月も風呂には来ていないからなぁ、謙介、また連れてきてきてくれよ)
(ああ、いいさ、また連れてくるさ)
湯船からでて、半次郎は親の体を丁寧に洗い出した。
親父は
半次郎に身を任せている。時折首が左右に揺れている。
半次郎は親父の背かに回り、背中を洗い出した。
しばらくすると、半次郎の手元が緩くなり、あらうりずむも緩慢になった。
半次郎は泣いているのだ。目頭があつくなってあるのである。
はっと、さとられないように我に戻り、また、勢いをつけて背中を洗い出した。

半次郎にしてみれば、悪行の数々が走馬灯のようによみがえっていて、親父の背中を洗いながら、お詫びの証の一つにも価しない行動なのだ。
この親父が今、住んでいるマンションも、半次郎の不始末で武蔵小杉、野川の高級住宅を半次郎が売り飛ばし、その残金の一部で、購入したいわくつきのマンションなのだ。
死んだお袋もここから逝った。
(健輔(半次郎)よ、野川の家だけは売らないでくれ)と泣いて咎める母を無惨にも切り捨てた半次郎が、いま、こうして親父の背中を洗っている。
武蔵小杉の一軒家も、早く言えば、博打の担保金で没収せれたようなものだった。居酒屋経営の顛末の流れの一つとは言え、無惨にも両親の小さな幸せを粉々にした半次郎が申し訳程度の孝行面しているが、親父は、騙されても、天は許すはずがない。と半次郎は思っていた。
風呂から上がり、半次郎親父を背負い暖簾を潜って外に出た。親父の剥げた頭に
そっと、のれんが触れていた。
曇り空だった天気も晴れ間がでていた。

近くの道端に違法駐車していた焼き芋車も、半次郎が戻ると、釜の中は残り火が微かに残っていた。木っ端とシンブンで火をつけ直し、残っている焼き芋を温めながら、帰路に着いた。子供たち渡すお年玉は運転席のポックスにしっかりとし舞い込んだ。
帰りの焼き芋流しは、甲州街道から調布に入り、多摩川を渡り、柿生抜け、家に戻った時は日も落ちて、どこでも夕げの時間だった。帰りも焼き芋が売れて半次郎はつかの間の安堵をたのしんでいた。


半次郎の正月はお年玉の落着以外は、普段と変わりはなかたった。

夕方の焼き芋屋の仕込みがま始まるまでは陽当たりの悪い6畳間で、見込みのな油絵をただ、筆の流に任せて時間をつぶしていた。パレットは洋菓子のアルミの蓋、筆は、100均あちで探した。絵具は、世界堂の特売品。キヤンバスは、画材やの特売品だ。
自分の似顔絵を描いていた。f6の小さな絵だ。
半次郎が絵を描きだすと、必ず女房の和子が怒る。
畳みに新聞紙を何枚も重て、汚れ落としの、トイレットペーパーと、使い古したタオルてま汚れを除きながら絵を描いているが、無頓着で、形式にとらわれないから、勢いあまって辺りを汚してしまうからだ。
そればかりではない、半次郎が絵を描きだすと間違いなく収入が減るから、その事も嫌われる理由だった。

半次郎は日本山岳風景画同人会の準会員として、絵描き仲間と少しばかり交流していたので、同人会にだす作品を描かなければならないので、時折、収入源の焼き芋屋を休んでいたのた。
大した腕もないくせに、早く会員になりたい一念で、絵を描き続けていたのだ。
会員になってもならなくてもたいして違わないと気がつくのは後のことだった。
焼き芋屋は陽気が暖かくなると廃棄だ。半次郎はその後の仕事のことは、なんとかなるだろうと、焦っていないばかりか、心を落ち着かせてくれるのはこの時期は油絵しか、なかたったのだ。

焼き芋屋を始めたその年の秋に会の代表さんから、奥入瀬に絵を描きに行こうと誘われて
青森の国民宿舎に一週間ほど、二人で奥入瀬にでかけた。
毎晩、夕食は、一緒に食べたのだか、日が重なるにつれ、食事での会話が辛くなってきた。
代表の話は、株で200万円ほど、儲かった。
家賃収入がいくらだとか、半次郎にとっては、屁みたいな話で、嫌気がさしていた。
半次郎は、技術的な会話を望んでいたからだ。
これを期に仲間意識は、からっと吹き飛んで、会から抜け出すことにした。

それでも、奥入瀬渓谷での一日は、半次郎には忙しい身の回りの雑音を忘れさせて彼なりの開放感を味わっていた。
幾重にも苔むした岩肌を、勢いよく、まるで、先を競うように流れ落ちていく水流。
それを包むように秋の葉が彩り、漆黒に水を含んだ土が遊歩道を染めている。
音がする。辺りの静寂を独り占めして、水が踊る

一日めは、渓流に着いたのか昼を過ぎていた。
半次郎は水流を避けなが岩肌を飛び移り、絵になるポジションを探した。
代表には見せられないような、粗末な道具を足元に置いて描き始めた。
キャンバスにはバランスを考えて、朽ちて、苔むした丸太が、流れを塞き止めるように倒れ、木々と岩肌との隙間を楽しむように流れていく、光景を置いた。
半次郎は絵の基本は構図だと言うことぐらいは経験で知っていた。
重みのある絵を描きたい。渋い絵だ。と想いながらも
上手く描けない。
(ここで描くのはイメージだけだな。雰囲気だ。あとは家に帰ってからだ)
三、四枚は何とか絵にしたが、そんな一日の流れで、予定の一週間は、過ぎて行った。

山岳風景画同士会代表の絵にたいする深い存念を探れた訳でもなく、一例を揚げれば、憧れていた美術年鑑に載せるのも実力だけではなく、掲載料でなりたっているとか、また、掲載自体か自分にとっては無意味なことだと、美術界に疎い自分に絵描きとしての軽さを感じていた。なんといっても、道具一つさえ満足に揃えられないで、絵描きになろうなんて、身の丈をしらない、無謀な事だと気がつき出していた。

半次郎は奥入瀬渓谷を離れて、酒田に向かった。
半次郎にとっては、思いでの詰まる哀愁の地であるからだ。

二年前の夏ごろの話だ。
毎年白鳥が飛来する河口の近くの松林に隣接する、掘っ立て小屋を二万円で借りて、一人で、寝泊まりしていた。
地元で採用した仲間と共に、潰れた零細会社の後片付けに奔走していた思いでのある土地なのだ。半次郎の勢いだけで描いた風景画の100号の八ヶ岳が会社の入り口の正面に飾ってあった。

この地に縁が出来た切っ掛けは、半次郎の友人の山本が、歯科用医療機器販売の会社を酒田に独立してつくったが、業績が伸びず2年で破産状態に陥り、夜逃げ同然で東京に戻ってしまい、そのあとを、半次郎がやる羽目になってしまったのだ。
これにはわけがある。
半次郎と山本は、この医療機器を以前に営業していて、半次郎はその会社を辞めて、山本は二人が勤めていた会社を辞めて、独立して会社を立ち上げたのだ。
半次郎と山本は企画力とか、営業話で、気の合うところがあって、付き合いも長い。
たまたま半次郎は山本が、体が空いていたら、営業を酒田に来て手伝ってもらえないかと言うもので、アルバイト位にはなるだろう、と思い、酒田に出掛けたのである。
当然ながら、この頃は油絵を離していないから、休みには、日本海の寂寥とした光景を、絵にして見たいということもあったから、酒田に興味を抱き、出掛けることにたのだ、
ところが、半年も経たないうちに、山本の会社は、傾き、あげくの果ては、半次郎に印を預けて再建の目処を立てに東京に行ってくると言い残したまま、戻らず、困り果てた半次郎は、残った社員四人と相談しながら、歯医者向けの医療機器を売る羽目になって、家賃の高い市街地の事務所をたたんで、社員の探してきた、海辺の松林に近くの、古い家に住み着くことになったのである。
なにも、倒産寸前の会社に残る必要も、責任もなかった半次郎であったが、帰れない理由を社員の一人がら聞いたからであった。

(森さん夫婦は山本社長に住宅資金、200万円を市から借りらされて、まだ、返済がはじま
ったばかりで、こまっています。謙介(半次郎)さんは友達でしょう)

簡単に言うとこの様なことだ。山本はこの資金を運転資金に回したことになる。
この話を古参の三原さんから、聞いた半次郎は、ここまでやるかと、山本を人間的に疑うばかりか、唖然として、腹を決めざるをえなかったのだ。
(分かった。この器械を売ろう、昔は山本より成績がよかった。だいじょうぶ。売りに出よう。その金で住宅資金の返済を終わらせよう)
まとめて言うとそんなことで酒田には、縁があった。
一年足らずで住宅資金の返済を終わらせ、酒田を後にする最後の夜は、カラオケの宴で終わりを告げたが、集まった四人とのお別れは、半次郎共々、哀愁のある、お別れ会になっていた。

奥入瀬渓谷の帰りに、思いでの酒田に立ち寄った半次郎は、昔の仕事仲間と会いたいと思う気持ちを避けて、山居倉庫の近くにある、ビジネスホテルに泊まり、誰にも連絡をいれなかった。
それにはわけがあった。
金融被害をうけた社員であった森さんの妻、朋子に半次郎は密かに淡い心を抱いていたことが、彼らに連絡を取るのをためらった、理由であった。(半次郎鳥海山の詩編)

気疲れして、絵描きとしての物理的、才能的、忍耐的に今の自分に限界を知らされた半次郎は町田に戻ってきて絵で暮らしを立てようとした、浅はかな夢を捨てることにしたのである。
しかし半次郎の絵心は、その後も生きる心の糧として、息づいている。


まだ冬の2月、焼き芋屋の出番時だ。

半次郎は真冬の二月、杉並区の都営地下鉄 の操作場に近い神田川の人気のない川筋に車を停めた。
グリーンの塗装をした焼き芋屋の軽自動車は、ボーデが所々錆び付いていたり、凹んでいる。荷台には焼き付いた四角い焼き芋釜、燃料の雑木、仕切りのブロック、段ボールには生の芋。
荷台の上に三寸角で立ち上げた囲いがあり、赤い提灯が、四隅にぶら下がっている。
運転席の外側の隅にはカラコンにやきいもと赤の地に黒のベンキで書いた看板が目立つように結んである。
左側には、ホームセンターで一万円で購入した、拡声器が結ばれている。
運転席は、使い古したジャンバー、炭で汚れた軍手、新聞紙、タオル、簡単なタベ食べ物などが無造作に置いてある。

ここは半次郎が通った中学校の側だ。目の前には2階の音楽室が、見える。
(親父が酒屋の隣に経営していた寿司屋の二階で、酔っぱらって、トイレを間違えて放尿してしまった音楽の渡辺先生は、もう、なくなったかもしれない。そういえば、音楽のテストに浜辺の歌を唱わされた。あしたーーはまべーをーさまーよえばー。はーい。渡辺先生、半次郎は今でもさ迷っていますよ!)

そんなことを走馬灯のように思い出しながら焼き芋の仕込みをしていた。
酒屋の跡継ぎを当然のようにして振り切ってきた半次郎はもう、俺には故郷なんかないのだとここに立って実感していた。今は、この近くにある酒屋は義兄が立派に跡を継いで、10年過ぎたが、今では、従業員が70余人もいると言う。半次郎は今でもダッチロールをする人生だか、義兄の発展になにも、感じていなかった。
むしろ、親父には終身給与を幾らだか知らないが、渡してくれるし、自分で跡を継いでいたら、とっくにつぶれて、人手に渡っているはずたど、薄ら笑いしていた。

今日、この半次郎が少年期を過ごした地に焼き芋屋の車をひっさげて、きたのには訳があった。この、発展した姉婿で酒屋の社長の木元から、要請があったのだ。なんでも、半次郎20万円支払うから手を貸してくれとのことだった。

電話ての内容はヤクザ擬きの話だった。
恐らく義兄は、数年前の半次郎を思い出してのことだと思う。
一度、通り掛けに酒屋を訪ねたこどがある。その出で立ちが、澁谷の洋服屋でわけありで作らせた24万円もするブルーカラーの光沢のある、スーツに白いワイシャツは本絹で、薔薇の刺繍があり、頭は五分刈りで、サングラスを胸に挟み、何処からみてもヤクサぽい身なりだったから、こんな、無茶内容話が舞い込んだのだと、半次郎は笑っていた。
女房の和子は、義兄から、電話がきたとき、仕事の話でもあるのかなと感じていた。半次郎も和子の話にまんざら嘘ではないと密かに思っていた。
何をやるにつけても資本が無いから、義兄に期待しても無理のない話であった。
しかし、話はとんでもない、ヤクザまがいの話だった。
半次郎半次郎断ることもできたのだが、20万円の報酬に魅力を感じていて引き受けることにしたのである。それもうまくやれば一日仕事。半次郎は、ワザワザ、スーツに着替える必要はないだろう?着たくてももう、そんなスーツはないし、履いていく靴もない、ないないずくめだから、いっそうこのままの焼き芋屋の姿で相手に会いに行くことにしたのだ。

(Tbsテレビ近くの居酒屋か、五人の板前が店を閉めるのなら補償金よこせだと、それで、辞職を迫っても、辞めないで居候を続けているだと)
芋が半焼きになった。
華を飾れない故郷の学校を鏡に自分を写しながら、ブロレス遊びで廊下に立たされた想いでや、仰げば尊しを卒業式で歌いながら、アイツともお別れかと、青春の宝庫でもあった中学校と別れを告げ、鈍いエンジン音を流しながら赤坂に向かった。
夕方が迫っていた。
半次郎はこの時38才になっていた。この汚れたらジャンバーに野球帽を被り、キッコウマンの前掛けをした焼き芋屋が酒屋のボンボンだったとは誰も想像出来ないと半次郎は想像に耽っていた。
(和泉屋の酒屋の謙介がここにいるぜ、修学旅行に革靴禁止の禁を破ってクラスでただ一人革靴を履いて行った、バカヤロウが懺悔の気持ちで母校を後にしていた。
俺は親父の薦める商業高校など行かないと3年担当の27才になる市川先生を家の玄関先で泣かした事が脳裏に浮かんでいた。市川先生は半次郎が巣だっていった年に嫁にいった。
そういえば、市川先生の国語の授業の時、先生の脇の下に薄毛があって、気になっていたことなど、走馬灯のように思い出しながら道を走らせていた。
五人の板前が仕事に入る時間を計算していた。

車は方南町から、十二社にでて、新宿御苑前を通り四谷から溜め池に向かい、TBSの前につくと、赤坂通の片隅に、焼き芋屋の車を停めた。
正にこの地の派手やかで湧き水のように世の知恵を醸し出す街には最もふさわしくない焼き芋屋の古びた軽トラックが薄い煙をブリキ作りの煙突から吐き出しているのだ。
近代化された街並みに、明治時代の異物が、混入したようなものだ。
道行く人は怪訝な顔つきで半次郎に視線をおくる。
義兄の居酒屋は旭粋と言う店で、華やかな通りに面した地下にあった。
店の広さは60坪もある、大居酒屋である。
この規模なら、板前は五人位必要だ。

半次郎は再び車にもどり、運転して、店の前につけた。駐車違反だ。
荷台の釜から焼き芋を5000円分、新聞紙に包んで、土産がわりにした。
土産は、義兄からの、注文だった。
半次郎は義理買いと解っている。土産は他の従業員に上げるものだった。
階段を降りると、一間ばかりの格子の引き違いの入り口があり、紺の暖簾が開店を知らせていた。
中に入ると紺地の和服をきて、赤い前掛けをした、50前後の仲井さんが応対してくれた。
半次郎の姿は焼き芋屋だ。煤けたグリーンのジャンバーに前掛けをくるんで腰に巻き使い古した運動靴だ。首にはタオルをサラットまいて手には新聞紙に包んだ焼き芋がある。
(どちらさまですか)
たすき掛けをした仲井さんが、怪訝な顔つきで、訊ねた。

(社長の弟です。ここの板長さんと話と、相談があるのですがか)

半次郎は義兄が、こんなことで20万円くれると言うのが
信じられなかった。自分で言えば済むことだろう、何で?
と言う感じて義兄を捉えていた。
半次郎にしてみれば、相手が五人だろうが何人であろうが、話し合いでまとまると考えていたから、暴力沙汰にはならないと踏んでいた。

広々とした客席には誰もいない。夕方だから、これから客が入ってくる時間だ。閑散とした店は、それなりに、落ち着いていて、趣がある。あと一時間もすると、喧騒の宴だ。
半次郎は忙しくなる前にこの件を決着させようと思っていた。
板場の暖簾を潜って、先程の中居さんが出てきて半次郎に言葉を掛けた。
(板前さんからの言付けですが、---話は解りました。あとは、社長と話し合いをします。----それだけ伝えれば、わかるから、と言うことでた。)

何てことはない。話は勝手に板前達で結論を出して、義兄の社長の条件を飲んで解決したのだ。
板前達が、不当解雇だの、何だのと、騒げば、それなりに、対処しようと思っていた半次郎は、内心、これ幸い、と思いながら、義兄に外から電話をいれた。20万円もらえないのかと疑い出したからだ。この店の、ゴタゴタは、関係ない。半次郎が欲しかったのは金だけだったから、呆気ない結末に気が抜けた。
喧嘩擬きの口論は覚悟の上だから、こんな結末でお金が貰えるのかと、心配になる半次郎だった。
この件を切っ掛けに、義兄の社長から、どうだ、お店でもやってみないかと、話がくるかも知れないと、にわかに夢を観てみたが、過去の半次郎の生き方、経済観念などに、相当の抵抗感があるらしく、義兄との仕事の話は、これが最後であった。

路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-18

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  1. 石焼き芋屋の半次郎徒然草 (連載)週一です。
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