路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

石焼き芋屋半次郎の生涯

石焼き芋屋半次郎の生涯

(焼き芋わいさや若いもー焼き芋わぇー焼き芋ー)街路灯が一つ草叢のある路地裏にポツンと小さな灯りをともしている。都心の渋谷方面から二四六号線を下り、多摩川を渡り田園都市線溝の口辺りを超えると木々の彩りが増えてくる。
この辺りが喧騒な都会に別れを告げ緑の多い世界に入る分かれ道だ。
田園都市線と国道二四六号線が平行してる青葉台、田名、長津田駅周辺はとくに植木の栽培なのでで黒土と緑の絨毯を敷いたような田園風景が続く。
今は秋、草木の緑も土に帰ろうとする季節だがこの辺りの木々は常緑樹が多いせいか濃い緑がまだ残っていた。
田園を遮るように小高い丘があり、時折りあかね雲が天空を染めて見事なロケーションを醸し出している。
この広い田園の碁盤の目のような小道を石焼き芋屋の吉岡龍一郎は寒くなる晩秋から春の訪れの短い期間だけ焼き芋釜を載せた軽トラックを運転して芋を焼く準備の為にこの緑地を利用している。
街中の片隅で石焼き芋の薪を燃やすと煙が出るので近所迷惑になるからわざわざこの田園地帯まで来ているのだ。彼に取ってはこの人影の少ない黒い土と緑の風景が焼き芋の仕込みをするには落ち着いて都合がいい場所なのだ。焼き芋屋の龍一郎は働き盛りの四十五歳になるが何故か石焼き芋屋が気に入って四人家族の暮らしを賄っている。と格好よく言いたいが焼き肉ではたらく妻の和子さんの稼ぎの方がいい。
石焼き芋屋の姿は野球帽をかぶり、軍手と使いこんだ作業服を着て厚手の前掛けを締めてタオルを首に巻いた野良着のような姿が定番だから気を使わないで済む。スーツも革靴も要らない気軽な姿は龍一郎の大雑把で凛とした生き方のできない男にはお似合いのスタイルだ。自由奔放で思い込んだら後先見ずの一直線の性分はこの石焼き芋屋を選んだ理由に繋がっているようだ。仕事は難しい職種は学問が無いからだめだし、自ずと絞られてくる仕事は体力勝負と稼ぐ金と拘束時間だ。そう思うと石焼き芋屋は汚れるが龍一郎にとっては適職だと言える。絵が好きだけど絵では食っていけないのは承知の介だ。でも気が向いたら道楽の延長で焼き芋屋の軽トラックを運転して渓流地、夕焼け富士山とか気晴らしに行くことはあった。絵を描いていると金の無いのがくにならないのだ。不思議な現象だ。
 田園都市線のつくしの駅から緑の多い坂道を暫下って行くと川があり橋を渡った道沿いに二階建ての八世帯が住む賃貸マンションがある。龍一郎は一階小さな庭付きのマンションに家族四人で暮らして二年目を迎えていた。この地に来るまでは恥ずかしながら義兄の運営していた居酒屋を訳ありで譲渡してもらったのだか、龍一郎の放漫経営とギャンブルで借金をつくり、夜逃げ同然で家族と転々と放浪してやっと緑が多くて一息つけそうな、つくしの駅に辿り着いて、石焼き芋屋を始めたと言う事になる。個人経営の居酒屋の社長と言えば商売上、交際相手が多いはずだ。龍一郎も若いくせに商店街の役員をやったり商店街の社長さん達と旅行に行って花札をしたり、一人前の扱いを受けていた。それがいけない。商店街の役員は名誉職なのでで若手の働き盛りの男が受けてはいけないと思う。身の程知らずで最後ば足をすくわれのだと痛いほど知った。
居酒屋を潰したのも脚腰が弱くて背伸びばかりしていたと言う事だ。
龍一郎は石焼き芋の売れる秋から春先まで毎日のように緑地の多い長津田周辺の田園に行き焼き芋の仕込みをしてから軽トラックで近郊の街に芋の販売に出かけるのが日課だ。
マンションに隣接して車六台がおける駐車場がある。仕込みに出る夕方までは駐車場の一角に石焼き芋の釜と提灯をぶら下げた中古の色褪せた軽トラックが置いてある。これが龍一郎の愛車である焼き芋売りの軽トラックだ。

今日は田園地帯を出て青葉台の商店街の角で商売開始だ。夕方で駅前は混雑しているので道一本本離れた路地に車を停めた。車から降りて、荷台の後ろから釜の火加減を見て、薪をくべていると五十過ぎの叔母さんが
(少しだけともらえる?)と呼びかけた。
(はい、一つ?二つ。)と蓋を開けて大き目の石焼き芋を見せると(あら大きい罠、一つでいい)
(五百円だけど、オマケだ、口開けだから三百円だ)美人だとおまけしまう悪い癖かでる。何処かで挽回しなくては。なんて.
青葉台からスピーカーのボリュウームを落として(やきーもーしやーきーいも^おいもー、、、、、)の口上を流しながら二四六号線を渡り北上して鷺沼駅の商店街で軽トラックを停めて焼き芋を売り始めた。日も暮れて道路の両側の灯りが目立ち始めていた。長く停めておくと警察がうるさいので気にしながらの商売だ。お客様は女性が多い。女性はお菓子が好きだからスイーツなお芋は魅力なのだ。そんなこと考えながら釜の火を調整していると中年の女性が買いに来てくれた。誰かが買うとそれを見ていた女性が続けて買ってくれる。連鎖反応だ。寒さが一段と冷え込んでくると買いに来る環境は最高だ。客が一度引いても我慢して軽トラックの荷台の火を消さないよう気配りをするのだ。それを見ていて衝動買いをしてくれる人もいるのだ。商売繫盛は根性だけだ。いまの根性を忘れなければどんな商売でもやっていけると思うのだが、失敗して始めて気がつく事が多すぎる男が龍一郎なのだ。そんな失敗を思い出しながら次に売る芋を釜に並べていた。失敗の思いでとは石焼き芋屋を始めた頃だった。
 
 夕暮れ迫るある日、販売地区を移動するので龍一郎はこの軽トラを運転して多摩川の土手沿いにある県道を六郷橋方面に向かって走っていた。
県道の右下には川崎競馬場の競走馬を管理する厩舎があり、その合間を馬の手綱を持ってゆっくりと歩く厩務員の姿が見え隠れしている。車を運転しながら龍一郎は十二、三年前の自分の姿を思い出して苦笑いをした。なぜかと言えばこの川崎周辺は十年近く暮らしていた場所で馴染み深い場所だからだ。
苦笑いの理由はこの川崎駅前の商店街で居酒屋を二十八歳から十一年間経営して世間の評判も良くて順調に業績を伸ばしていたが若くして親の資金の流れで始めた居酒屋だから苦労していないので、うのぼれと金に油断が生まれ、放漫経営となり、やがて経営が苦しくなり地元のヤクザの金に縁ができてやがて断りできずの賭け事に走り店の利益の一部ををこの川崎厩舎にいる競走馬の餌代にしたと思っているからだ。
(馬の餌代にした金は述べ一千万円ぐらいかな、競馬狂いの人間から見れば大した金ではないな)
と当時を回顧していた。
競馬場の特別室で居酒屋の馴染みのお客様とソファーに座って競馬の予想をしたり、馬券買ったり商売そこのけで夢中になっていたのだ。
馬券の違法行為であるノミ屋に傾注して結局店の運営も放漫経営になり十一年ほど続いた店も暴力団の餌食となった。その頃は勝てば勝ったで、地元ではちょっとは有名なキャバレー通い。ナンバーワンのお姉さんの取り合いで競輪選手と張り合い勝ったこともある。挙げ句の果てに妻の目を盗んでは四国高知に競馬場巡りだ。金は留まることを忘れて悪の世界に真っしぐらだった。あの子の名前はレイナと言って、歳の暮れになると忘年会のお客様で居酒屋は大忙しかなる。こんな時レイナは宴会を盛り上げてくれる中居さんの役目をしてくれた。彼女はキャバレーに出る前の時間だからいいアルバイトになった。宴会の女性が足らない時はキャバレーの女の子を連れて来てくれたから店はお客様に喜ばれた。お互いに気心が知れて仲良くなり、レイナは時々お金を貸してもらいたいと言うよになった。例えばキャバレーのお客様な売り上げの貸金をお店にいついつまでに入れないと店長に怒られると
(ねぇマスター、八万円貸してくれない)と言う事だ。そうこうしているうに、閉店の時間がきて居酒屋を閉めてからキャバレーの閉める一時間前を利用して龍一郎は金を使いに行っていた。まるで茶店がわりだ。惚れた女にはとことん尽くすバカ男の片鱗を見せていた時代だった。女に優しくされると断れないバカ男だった。

龍一郎は(あの時に辞めておけばなぁ)と悪の連鎖を断ち切れなかった自分を思いだしながら次に焼き芋を売る場所の溝の口を目指して石焼き芋屋の軽トラックを運転していた。失敗談は恥ずかしながらまだあるあるだ。石焼き芋を積んだ軽トラックの荷台の火災事件だ。詳細は次の通りです。

軽トラはある川崎厩舎付近を離れて六郷橋を目指して次の焼き芋を売るため県道を走っていた。江戸時代の宿場町である川崎宿にある稲毛通りは県道を右折すればもう直ぐだ。夕方に近いせいなのか行き交う車は多い。龍一郎は裕次郎の(夜霧よ今夜も有難う)を口遊ぶながら運転していると後ろから来た赤い車を運転する若いお兄さんが大きな声で、窓から手をあげて
(おじさんよ、荷台から火が出てるよ、車燃えるよ、危ないよ)と言って通り過ぎて行った。
龍一郎は慌てて車を隅に停めて荷台に上がり釜の近くに積み重ねた燃えている端材を腰にまいてる前掛を外して叩いて消した。火は焼き芋釜の際に置いてある燃料にする木材から出ていた。荷台で小さなたき火をしているようだ。ブロックで釜と燃料の木材の間を仕切っているのだが、釜が普段より熱くなっていたのが原因でそばの薪にする角材に燃え移ったのだった。追い抜いて火事を知らせてくれたお兄さんに感謝感激雨あられだ。釜の中の燃えるのなら当たり前だが、荷台で直に薪を燃やすなんてビックリ仰天だ。落語にもならない。追い越して知らせてくれたお兄さんがいないと消防車が来て県道は交通渋滞で大変なことになるところだったのだ。こんな新聞記事になりそうなことを起こすようだと焼き芋屋は失格だなと自分を責めながら急いで県道から離れて土手下の路地に入り車を止めて荷台の焼け焦げた材木を整理して落ち着きを取り戻すと傍らの縁石に座り首に巻いている手拭いで顔を拭いた。
この時期は三十代の初めころだ。一人で落ちこぼれの焼き芋屋をするなんてこの頃は想いもよらない日々だった。
見事に金の取り扱い説明書を読まなかったために金の親方が怒りだして、みせしめのため地獄へ突き落としたのだ。
 また,ある時は、普段は焼き芋を売りに行く準備をする前に軽トラックにガソリンを入れるのだが、引き売り販売中にガソリンが切れそうになりガソリンスタンドがあったので給油しようと場内に入りンドの従業員に合図をすると、ビックリした表情をして両手を降って声をあげて近づいてきた。(あれなんだ)と龍一郎は思って車を止めた。するとスタンドマンは
(危ない・危ない、早く出てくれ)とビックリした顔つきで龍一郎に叫んだのだ。龍一郎は慌てて(そうか。焼き芋屋の車だ)と気がついて道路に出て車を止めた。改めて(悪かった、ごめんなさい)と謝り赤いポリ容器を借りて自分でガソリンを給油したこともある。今思えば恥ずかしい話だ。従業員は(あんな危ない奴見たことない、常識でわかるはずだ。火事にでもなったらガソリンスタンドは爆発をするぞ) と言いたかったと思った。
妻の和子にはこんなみっともないことがばれたら子供を連れて即座に帰国(実家の信州)だ。彼女はそれでなくても夜遅く龍一郎が、ちんたら提灯ぶら下げて帰って来るのが気に入らないでいた。

町田駅の焼肉屋でパートで働く妻の和子は〔焼き芋屋の車なんてここの駐車場に止めないで、よその駐車場を借りてよ〕と龍一郎に毎日のように言っていた。
和子は世間の目を気にしいているのだ。彼女の言い分は、青春真っ盛りの兄の高校生と妹の中学生の子供が、友達から(お父さんの仕事は何しているの)と尋ねられたら(石焼き芋屋)と言うようなるから、子供に恥ずかしい思いをさせるので可哀想だと言うのだ。妻の和子は見栄っ張りなところもあるので解る気もするが龍一郎には過去の地獄のような暮らしから解放された今の石焼き芋屋の仕事は心の安らぐ職場なのだ。
それに加え、焼き芋屋が汚れて疲れる仕事だから敬遠されると言う人もいるが、その人こそ仕事で差別する哀れな人間だと思っていた。龍一郎の落ちぶれても曲げない矜持が垣間見て取れた。
石焼き芋屋の定番は東北地方から出稼ぎに来る男たちで、リヤカーに石焼き芋の釜を載せて売り歩く商売だ。都会のサラリーマンの子供から見れば珍しく興味を持つ職業に映る。和子は夫には平凡な仕事をしてもらいたいと思っているので一言で言えば(みっともないから焼き芋をお店で売るならいいけれど、軽トラックて売り歩くのだけはやめてちょうだい)と言うことだ。
仕事に貴賤はないという考えは大人の都合の良い言葉でしかないと和子は思っているようだった。
和子は体裁が悪いから子供たちには(昼間は敏夫おじさんが経営している水道工事の仕事をして、夜は焼き芋屋さんから頼まれてアルバイトで焼き芋を売っているの、学校にお金かかるからね〕とご誤魔化していた。
和子自身は職業として焼き芋屋さんの引き売りは悪い仕事とは勿論思ってはいない。泥まみれになる水道工事の手元より、一日二万円以上稼ぐ時もある焼き芋屋の方が率がいいからだ。
ただ、子供の目線から見れば(僕はお父さんみたいに将来は焼き芋屋になりたい)とは言わないと思うので良い仕事だとは子供に言えないでいた。
 
 龍一郎は今は石焼き芋屋の引き売りで家族の生活費を稼いでいるが、本来は東京中野区に戦前からある酒屋を継ぐべき長男坊であった。父親の言う通り素直に酒屋を継いでいれば、不安定で稼ぎが少なくて、汚れないですむ石焼き芋屋にならないですんだのに、自らその縁から逃げるようにして酒屋の後継を放棄して、好きな絵でも描いて暮らせたらと甘い気持ちで働いていたが、世間の厳しい波を乗り越えられず、転職は両手の指ほど変えてみたが、たどり着いたのが今の石焼き芋屋だと言うことです。
太平洋戦争が勃発して日本がシンガポールに上陸しようとしたころに龍一郎は東京中野に生まれた。
兄妹は上が女が三人で初めて男が生まれので、甘やかされて育ったと姉達が言っていた。幼少期は戦後間もないのでオモチャは無い時代だから姉たちのお人形で遊んだと言う。
商家は伝統的にほぼ長男が跡目を継ぐのが慣わしとなっていたので龍一郎は酒屋を継ぐ運命だった。しかしこの慣習は今思えば転落人生の序曲の始まりだったのかもしれない。人それぞれ個性があり仕事にも向き不向きがあると龍一郎は親の意見に逆らって青春を過ごしていた時期もあった。特に戦後の民主主義の浸透で基本的人権や戦争放棄など憲法論議が盛んなころ、龍一郎も生意気に1961年国会が荒れた安保闘争に参加して銀座通りを横断幕を持って(安保反対)の合唱をしたこともある。酒屋の後継ぎの男がする行動では無いのを承知で参加したのは親が決めた運命に強く反発をしたい心の捌け口だった。それにボロは着てても心は錦と言う心意気が学生達に共感を呼んでいた。
龍一郎は小学生の頃から算数や理科の成績が悪く中学に行っても英語、数学、国語、まぁ、ほとんどの成績は良くなかった。それにはそれなりの理由があった。
親は酒屋の跡継ぎになる長男坊の龍一郎には酒を配達する体力があればいい思っていたようで教育にはさほど熱心とは思えなかった。龍一郎もそのことをわかっていて勉強に熱が入らなかった。それに加えて龍一郎は絵を描くことが好きで潜水艦ノーチラス号や、鉄腕アトム、飛行機、ロケットなどやジャイアンツの川上哲治のユニホーム姿な日頃から教室で描いてい算数、理科などは勉強しなかった。中学部、高校とも勉強しなくても美術は合格点だった。その我儘な感性が邪魔をして酒屋になるのが嫌で高校卒業して直ぐに旅費を工面して放浪の旅に出て見たり、親の意見を聞かずに心の向くまま行動して警察に保護されたり、挙げ句の果てに酒屋の跡継ぎを放棄して職業を転々とし、一時は暴力団に加わって嫌な地獄めぐりを覚悟したが良き運命のめぐりあわせで今日の石焼き芋の引き売りに至ったということです。
和子と子供達はそんな甲斐性のない父親だけどカルガモの親子の様にあっちこはっちぶつかりながらついてきていた。
龍一郎は石焼き芋屋になって人生の機微を知り、金はないけど身が少しは軽くなったと感じていた。

正月の二日の日だった。龍一郎はつくし野駅に近い自宅のマンションから石焼き芋屋の軽トラックを朝早くから運転して父親の住む吉祥寺のマンションに石焼き芋を売りながらゆっくりと向かったのだ。
正月に父親に挨拶に行くには深い理由があった。父は連れ添った妻を去年亡くして龍一郎の弟と暮らしていた。父は一度は勘当を告げた親不孝者の龍一郎の年頭の挨拶など聞きたくもないと思っていたが血の通った絆は切れそうできれないでいた。龍一郎は父親への挨拶は重ねがさねの親不孝で照れくさくて今更言える身分ではなかったが、子供たちにくれる兄弟姉妹のお年玉を貰いに行くために軽トラックを運転していたのだ。お年玉は子供二人分で二万円程になると弟が予め電話で知らせてくれていた。
お年玉を貰いに行くには龍一郎も姉弟の子供達にもお年玉を持って行かなければ筋が通らないので石焼き芋を売りながらお年玉を捻出しなければならないと言う絶対的なピンチを背負っての引き売りだった。石焼き芋が売れなければ我が子にお年玉が渡せないので引き返すしかないのだ。
お年玉を子供達に渡せないと境遇が境遇だけにガッカリして口も聞かなくなるだろうと龍一郎は必死であつた。
例の長津田近くの緑地で石焼き芋の仕込みを終えて、いい塩梅に焼けたごろ龍一郎は町田街道を走り途中から調布に向かいながら路地に入り例の得意な焼き芋の口上をマイクから流した。お正月二日目だからご馳走にも飽きが来ているのではないかと独り善がりをしながら声をだした。
(はい、新年明けましておめでとうございます。えー石焼き芋でーす。おいしい焼き芋でーす。ほっかほっかの石焼き芋はいかがですかー。早く来て下さいーねー)
お正月は口上も明るく元気よく流していた。流しているといつもの通り路地からきれいな姿の女の子が出てきて石焼き芋を買いに来てくれた。お正月相場ではないけれど目方の量り売りでは無いから威勢よく紙袋に入れて渡して上げるとニコニコ顔で飛び跳ねる様にして松飾の門に消えていった。
軽トラックは多摩川を渡り競馬場に近い宿河原付近を流して甲州街道に入り深大寺に向かい正月で人の出が多い路地の角に軽トラック停めて営業を始めた。和服姿のお嬢さん達が懐かしいそうな顔をして買いに来てくれたおかげで二、三万円に増えていた。やったぞベイビーと龍一郎は声は上げないが心で喜んでいた。
(これでお年玉をあげられる。もらえる。あげられる。もらえる)の繰り返しで心が弾んでいた。
両親が住む西武線武蔵関駅に近い二dkの狭いマンションについたのは午後二時半ごろだった。階段を上がり二階の入口ドア開けて中に入ると父はダインイニングのテーブルに座っていた。この入口のドアは数年前に父が龍一郎が連れて来た暴力団の男に向かって怒鳴りつけた入口だ。白いスーツの男は息子が振だした手形が不渡り手形だったので父に支払ってもらいたいと父親に頼み込んできたのだ。父はその男に向かって(息子はとうに勘当している。親子のが切れている。帰ってくれ)と珍しく声を荒げたのだ。この件は龍一郎が放漫経営の一端として起きた問題で後に平穏に解決した。だが父親が息子に対する信用度は完璧にゼロだったのだ。このドアは親子に取っては好い思い出のないドアなのだ。龍一郎が今日のお正月を迎える迄に、このドアを開けた日は母の亡くなったその日ぐらいだ。
龍一郎はテーブルに座ってお茶を飲んでいる父に正月の挨拶を(おめでとう!今年も元気でいてね)と簡単済ませると石焼き芋を売って稼いだお金の五百円玉。百円玉、十円玉の入った布袋を紐解いてドッサッと鎌倉彫のお盆入れた。父はそれを見て
(なんだそれは)と言う龍一郎は(この金は子供達五人?のお年玉だよ、少ないけど、後で千円札に両替して渡して)と言うと
(お前はまだ焼き芋屋をしているのか、しっかりしろよ)
(仕方ねよーそのうち何とかするよ)
話を傍で聞いていた板前で独身の弟が兄弟姉妹から預かっているお年玉を龍一郎に渡した。暫く歓談した後、近くのカラオケに行った。弟は酒が好きだが歌は苦手だ。龍一郎は大げさに言えば銀座赤坂六本木界隈の空気は多少なりともカラオケと縁がある。二人だけの兄弟カラオケだけどマイクを握って歌った。高倉健の(唐獅子牡丹)だ。歌の二番が好きだった。
(親の意見を承知ですねて 曲がりくねった 六区の風よ 積もり重ねた不幸の数を  なんと詫びようかおふくろに で名で泣いている 唐獅子牡丹)
歌いなが、積もり重ねた不幸、、、、なんと詫びようかおふくろに,,,,と歌った時に龍一郎の目はうるんでいて声も詰まっていた。歌い終わると弟に言った。(俺よ、この歌のなんと詫びようかおふくろに、ここを歌うと本当におふくろに済まないと思って涙がでるのだ)と弟に言った。親不孝は数々あるが言っても始まらないのでこの歌を歌ったのかもしれない。弟は黙って聴いていた。ビールは二杯目だった。それから数か月、一郎は年老いた父を背負って近くの銭湯に連れていった。帰り道で背負っている父が龍一郎の耳元で
(いい風呂だった。ありがとう、今日はお前がついているから大丈夫だった)と丹前を着て両腕を龍一郎の肩にゆるりと落として言った。
(そう。いい風呂で良かったね。また連れて来るから)と言った。
銭湯の番台のおばさんが父に向かってか(年寄りは湯船でそそうをするので来てくれない方がいい)と言ったとか、誰かが言っていたのか忘れたが、気になって父は銭湯には行かなくなったと言う。
龍一郎は父親から親しく言葉をかけられたのは幼少の頃しか覚えていないので
(こんなことで感謝されるとは。情けない男だ)と反省はしていた。

長津田の商店街で石焼き芋を売ったあと一戸建ての建築現場から木屑を集めて荷台に載せた。燃料集めは大変だ。どうしても見つからない時は駐車場巡りや公園に行ったら、庭の杭とか何がなんでも探した。建築現場から木屑を貰ったあとニ四六号線に出て成瀬に向かう県道で軽トラックをスローに落として拡声器から例の口上を言った。ゆっくり車を走らすとダイナモが壊れやすくなると聞いていたので気にしながら走っていると赤いスポーツカーに乗った若いカップルが軽トラックを追い越して止まり、石焼き芋を買って行ったが、しばらくして戻ってきて
(親父よ、焼けてないよこの芋)と突き返された。龍一郎は丁寧に謝り、無事に焼けた芋を選んで手渡した。
過ちは誰にでもあるが石焼き芋が焼けていないとは最低の水準以下だ。因縁つけられても仕方がないと思って釜の芋の配列を並べ替えている龍一郎だった。こんな日はろくなことが起きかねないと思い早めに切り上げ残りの焼き芋を自宅の近くにあるスパーマーケットの駐車場の際に停めて根気よく頑張って売りさばいた。

その日の夜はf6のキャンバスに久しぶりに向かって絵を描いてみたくなった。普段は風景画が多いが今夜は初めての自画像を描いてみた。頭を過ったのは(ムンクの叫び)だ。強烈な印象だけでその叫びの意味は解ろうともしなかった。
狭い部屋に布団を敷くと畳一枚残る隙間に古新聞を広げ、絵の具と紙パレットと使い込んだ二、三の筆とボロ切れが龍一郎の指を待っていた。数時間たって描いた自画像を首を横にしてじっと見つめているうちに龍一郎は(お前はこんな人の良さそうな顔をしていないぞ。嘘つくな)と天からの批評家が嘲笑していた。描いた本人も(その通りだ。俺はこんな素直な男ではない。これは駄作だ。こんな迫力のない絵は面白くとも何ともないな)と思い、筆を置いた。
部屋を汚すと妻の和子さんが怒るので後片付けを済まして仰向けになった。自分の妻にさんづけをするのはその日の気分だ。日頃からお世話になっているので(和子)と呼び捨てにできないのは夫らしい事をしていない重みがそう呼ばせていた。
 龍一郎の青春時代の葛藤は石焼き芋屋になっても不思議ではない原点が潜んでいるのではないかと本人はマジに思っている。
その時代の文化が人間形成に影響を及ぼすのは当然だと思う。龍一郎もまさに時の寵児といえなくもないのだった。
彼の青春時代と言えばベトナム戦争、安保闘争など戦争にまつわる時代だった。その影響もあって世の中は戦争、民主主義、矛盾、属国、資本主義、ヒューマンなどの問題で世相は荒れていたが、深く掘り下げてみると民主主義のうねりの台頭だと龍一郎は思っていた。
龍一郎も保守的な酒屋の跡継ぎだからという発想を心の奥にしまい込んで、自分発見の旅に憧れて何処かに新天地を見つけたいと考えていた。酒屋の跡継ぎから逃げようとする龍一郎の心は大学受験で頑張る友人を羨ましく思っていた。
(同級生の彼らに比べて俺はなんだ、ただの酒屋か)と半分やけ気味で学校に通っていた。その軋轢が行動に現れた事がある。
高校の国語の授業で先生の話を遮って先生に向かって(先生の話を聞くより仲代達矢の映画『人間の条件』を観たほうがためになる)ととんでもない発言をしてしまったのだ。この発言は教師向かっているが本音ではないのだ。
(勉強ばかり教えるな、仕事につく俺もクラスにはいるのだ)
と言葉を変えてやけ気味で言ったのだった。教師に対する無礼行為はそればかりではなかった。教室から抜け出して商店街に行って昼飯を買いに行ったり、黒板に(先生、勉強はグランドで待っています)と教室の授業をやめさせてグランドでソフトボールを皆でしたこともある。先頭に立つて勉強の妨げる行為をさせたのにクラスメートは文句が出なかった。
先生や友人達に迷惑をかけたのはやり場のない心の捌け口だったのだが(あいつは不良だ。落第間違いない)と言う陰口もあった。現に父は担任の先生に呼び出されて卒業が危ないと注意された。両親は商業高校に入れたかったのだが龍一郎が酒屋になるのを嫌って私立の普通高校に行ってしまったのだ。
当時の酒屋は店売り当たり前だけど御用聞きという家庭を訪ねて酒、味噌、油などの注文をもらってくる販売の方法が定着していた。父の経営する泉屋酒店は三人の従業員がいてそれぞれの地区を御用聞きと言う営業をしていた。酒屋の息子だからと言って御用聞き営業を逃れることは出来ない。
龍一郎はこの御用聞きと言う営業方法に超ストレスを感じていて嫌気を指していた。(俺はやだぜ、金儲けのために一軒、一軒、勝手口から注文をもらうなんて出来ない)と思っていた。商人の生き様が分かっていない哀しい男だったのだ。
龍一郎は高校時代は勉強はダメだけどクラブ活動とかスポーツとかで女学生の視線を感じていたので卒業して直ぐに前掛けをして自転車に乗って酒屋の御用聞きをする事など頭の隅にこれっぽちも残っていないのだ。青春時代真っ盛りの彼にしてみれば到底承服できない仕事だった。焼き芋屋になっている今の自分の姿は思い起こせば御用聞き営業と比べてみても利益の追求ということでは遜色ないのだ。今でこそ飯を喰うためには一生懸命働く姿が一番美しいと思うのだが青春時代の恋愛感情は甘いロマンティックの世界だから理解不能になっても仕方ないかもだ。この頃から家出の下準備が芽吹きだしてきていた。
酒屋になるともしかして同級生の彼女の家に訪問営業をしなくてはならない。初恋の彼女に明治時代じゃあるまいし前掛け姿で腰に布袋を下げて耳に鉛筆を挟んだ姿をを見せられる訳はないだろうと思い悩んでいた龍一郎なのだ。
(おはようございます。御用聞きの泉屋です。味噌、醤油、酒、ビール、など如何ですか)と言って立ち寄ることになるのだ。ビューティフルロマンの青春時代に爺臭いキッコーマンの厚手の前掛けをしめに彼女の家の勝手口のドアーをノックして開けて(味噌だの醤油は入りませんか、来月からビールが値上がりします、今のうちにどうですか)とかの口上を言うのだ。超哀しい青春の地獄絵なのだ。さらに、自分の人生は自分で決めると決心しているから酒屋の跡継ぎになるのには抵抗があった。
高校を卒業すると、直ぐには酒屋を継がないで、新聞広告の募集を見て銀座の酒屋に自ら勤め出したのだ。
(俺は酒屋を継いでもいいがその前に酒屋の修行に行く)と言って銀座の酒屋に勤めたが本音は家から出たい気持だったのだ。修行とは名ばかりで銀座の散歩の気分でいた。華の銀座だ。一度は酒と泪と男と女の世界を覗いておくことも必要だと興味をいだいて働き出したが、銀座の蝶々さんの話どころか酒の配達ばかりで嫌気をさし数ヶ月で辞めて実家の酒屋に戻ったのだ。華の銀座だが路地裏の配達は体力勝負でどこも同じだった。でも、外で働く経験ができて新鮮な気分でもあった。

 実家の酒屋にもどっても姉夫婦が親の面倒を見ながら仕事帰りに臨時ながらも店を手伝っていたのです。義兄は経理畑だから商人には適任だ。そのうち酒屋をやりたいと思っているはずだと考え、龍一郎はこれ幸いに(何も俺が跡取りの長男だからと言って酒屋を継ぐことはないだろう。むしろ俺が他に勤めた方が良いだろう)と思うようになって家を出る決心を固めていくのであった。適当に酒の配達しながら悶々としているとクラスメートの布団屋の倅が浪人して勉強し直して大學に進学すると言ってきた。龍一郎の悪友の健二だ。高校時代に新宿歌舞伎町のキャバレーに行って遊んだ仲間だ。遊ぶ金がないとお父さんが蒲田西口に店を構える丸幸布団店の倅だと言って金を借りて来た強者だ。学友の殆どは夢を抱いて大学進学だった。この青春の運命の違いに落胆し学問に励まなかった自分をせめても手遅れだった。
悶々と日々をおくる龍一郎だか、ある時、学生時代の中で印象に残る言葉を思い出していた。
高校時代の校長の訓示の中に(諸君は可能性そのものである)と朝礼で言った言葉が龍一郎の脳裏の隅に残っていて(そうか可能性か、俺も芸術家か新聞記者か、何かの社長でもできるかな、勉強はしないで遊んでばかりいたけれど、奮起一番勉強し直すか)と言う想いが募っていた。龍一郎は学問をし直すために代々木ゼミナールの門を叩いて家庭教師を紹介してもらい貧乏家庭教師の借家と言っても納屋程度の部屋で勉強を始めたが、(俺が勉強をするより先生が勉強した方が世のため人のためだ)とか言って月謝を余分に渡して辞めてしまった。ようは、勉強についていけないので逃げ口上だった。その後も浪人の肩書で友人と予備校に通うのだがレベルが高いのでついていけず、予備校に通う友人に誘わられ、浅草てストリップ見学を見たりしてで遊んでいた。こうなると大学受験は諦めるしかない。程度が低いから話にならないのだ。龍一郎は予備校を辞めて酒屋に戻って次の対策を考えながら酒の配達を手伝っていた。
 
龍一郎が酒屋を継ぐ気持ちが無い事を感じていた父は姉達と相談して商売がやってみたいと前々から言っていた長女の婿である森田さんを大手の会社を辞めて貰い酒屋の継ぎになってもらったのです。
龍一郎は暫く浮遊粉塵のような気持ちで店を手伝っていたが、やはり心は酒屋にあらずで、二度とこの家には帰らないと母親を脅かして家出資金を強引にもらって家を飛び出した。家出したのは夕方で、店の前の京王バス停留所にソニーのロゴが入った小さなバックを持って新宿行きのバスを待っていると母親が白衣姿で(龍一郎、もう二度と帰ってこないなんて言わないで、家を出ていくのはやめられないのか、お父さんにはちゃんと話すから)と龍一郎の袖を掴みながら引き止めたのだが、あいにくバスが来てしまい、振り切る様にバスに乗ってしまった。離れるバスの窓から悲しそうな母の立ちすくむ姿が目に写るのだった。+
後日談だがあの場面で母がもう少し龍一郎の袖を掴んでいてくれたら、家出はしなかったと思うと本人は述懐している。人間の運命は計算外の数合わせのようなもので(なんとかなるだろう)だと思う龍一郎だった。
夜行の東海道線に乗り名古屋についたのは明け方だった。駅前のロータリーには人影も少ない。冬もそこまで来ていたので行き交う人も足早に感じた。
念願の一匹狼になったはいいけれど衣食住つきの職を探して飲食街を主に二、三日うろうろしている内に金がなくなり、駅前の広場にあるベンチて座って途方にくれていると中年の作業服をきた男が(おい、お兄ちゃん、俺と組んでパチンコで稼がないか、お兄ちゃんか店員になって裏から玉を出せばばいい。儲けは山分けた)と悪の道の誘惑があり、龍一郎は一瞬そんな、危ない話にはのれないと思い男を無視してベンチから離れて街中に消えた。
賑やかな商店街を歩いていたらモダンな喫茶店があつた。店の名前はボンソワール。中に入るとヤクザ風の数人の仲間が歓談していた。その日の宿代もない龍一郎は怖いもの知らずというのか、崖から飛び降りるという気持ちというのか、やけくそ半分で腹を固めて、先の運命は考えずに(すいません、私は東京から来たものですが食うにこまりヤクザになりたいので紹介してくれませか)と自分でも驚く、とんでもないことを若いグループのリダーらしき男に話すとしばらく仲間と顔を見合わせ相談を終えると1人が立ち上がりカウンターの電話で(兄貴、ヤクザになりたい男が会いたいとここにきてますが)と電話をした。話はとんとん拍子に進み、三十歳ほどの兄貴分らしき茶色のスーツを着たヤクザさんが来て龍一郎と面談して、ヤクザの就職がきまった。東京の酒屋のボンボンがヤクザの面接試験に合格したのだ。飯代なしは生きるために乞食でもしないと生きられない。ヤクザ面接試験合格発表は冗談としても生き延びる術を掴んだだけでもホットする龍一郎だった。
(お前は良い男だから大通りのキャバレームーンライトでいい女でも見つけてうまくやれ、夕方四時に店にいき、店の前に水をまいて待っていろ、蛇口は左の端にあるから、その時に色々と話そう)といって去っていった。(そうか、綺麗な女と仲良くなってか、東映の映画だな)と落ちていく自分を忘れていた。
龍一郎は時間潰しに花街を散歩してムーンライトについた。名のある店なのか華やかで入り口も広く、ネオン看板も派手だ。夕方四時からの勤務なので早めに店に着いて壁際にある蛇口からホースを取り出しキャバレーの入り口辺りに水をまいてオープンの準備をしていた。

(俺もとうとうヤクザの仲間入りか、喧嘩は好きではないしなーボクシングは勉強を諦めたころ、中野のジムに通ったが、運動が激しくついていけそうもないので三日でやめた意気地のない男だ。でも、やる時は体を張ってやらないと生きていけないな)と明日の我が身に不安を抱えて外水を撒いていた。
すると、目の前の大通りに祭りの行列通っていく。武者行列だ。龍一郎は立ち上がり行列を見て我に帰った。
(何だ俺は、何をやっているのだ。こんなとこでヤクザになろうとなんて。目が醒めた。逃げるのだ。逃げるぞ)辞めると言うと何されるか分からない、何処かに連れていかれこき使われるかも知れない。
龍一郎は有り金で行けるところまで逃げようと奈良まで逃げた。奈良は中学の修学旅行で少しは馴染みがあった。家出のベストテンは修学旅行地らしい、龍一郎もふと頭を過ったのは奈良だった。残りの金千円あるかないかだった。
奈良に着いたは良いけれど街中をフラフラ歩くだけで良い知恵も沸かないでいると、大きな看板に自衛官募集を見つけた。
運命は瞬間に生まれる。自衛隊奈良連絡所に飛び込んだ。明日の飯がないからだ。
大名行列と遭遇しなければヤクザ街道まっしぐらかも知れない。その日は地方連絡所の自衛隊員さんのはからいで私費でコッペパンを買ってくれた。ベッドは近くの隊舎らしい長い二階建ての木造作りの部屋を提供してくれたあ。長い廊下があり、部屋には誰もいない。一人で寝るのは怖かった。その後は隊員さんの計らいで試験を受けて入隊ができた。あとは事務手続きで一旦東京に戻ることになった。身辺検査だと思った。
両親に内緒での入隊したが、家出の身だから東京の実家の酒屋には戻れず、酒屋の得意先で親しい山中さんが経営する中野駅の近くにあるバー里に居候する事にした。山中さんは方南町でラーメン屋も経営している社長さんだ。龍一郎は酒の配達の途中にこのラーメン屋てサボり社長と世間話しなどして親しく付き合っていたから父親に内緒で匿ってくれた、自衛隊から試験に合格しても、入隊まで本人の身辺調査が二月はどかからと言う。その間龍一郎は家出の身だから山中さんにその間お世話にならなくてはならないのだ。
いずれは山中さんは取引先の倅の龍一郎を匿っている事を黙っているわけにいかないので彼の口から父親に連絡が行くと思ってる龍一郎だった。暫くして山中さんから父に此処にいる事を連絡したと言はれた。多分、家出した倅か自衛隊に入隊したことを喜んで安心したのではないかと龍一郎は思っていた。自衛隊勤務調査書みたいな書類があるのか無いのかは知らないが、本人確認のために父親に連絡はあったと思う。
食うに困り、思い切って三食付きの自衛隊に入隊して食うことに心配が無くなったことで何か重石がとれたようで元気な青年に戻っていた。そして楽しく順調に自衛隊の月日を重ねていた。教育隊は四国善通寺で学び富士駒門では戦車を運転して龍一郎はこの時期は輝いていた。中尾エミさんの(可愛いベビーハイハイ)の歌が流行っていたころだった。
北海道で(階級二士)昔の二等兵として戦車隊員として砂塵にまみれたり、道の側溝つくりに汗をかいたりして身体も逞しくなっていた。
その内、龍一郎は自衛隊に勤務しながら夜学の大学か通信教育で学びながら大卒の資格をを取り各種の国家試験にでも挑戦しようと真面目に考えていた。
両親や義兄は龍一郎が二年間の年期を終えたら戻って来て酒屋で共に働き業績を上げていこうと考えていたようだ。
個人商店を株式会社組織にして経理畑の義兄が社長になり龍一郎が専務という筋書きだ。
義兄と長男という立場は将来、会社の方針で確執が起こりお互いに離れていくようになると龍一郎は思っているから自衛隊に長く勤めて自力で運命を開くつもりでいた。
両親や姉夫婦は龍一郎の将来を心配しながら暮らしているのに龍一郎はマイペースで自衛隊員として活躍をしていた。
時には台風が北海道を襲い災害派遣で余市に行き、握り飯を食べながら川の氾濫に備えて土嚢袋を運ぶ作業や災害者の救援活動に従事したこともある。台風が終息して真駒内駐屯地に帰る時、余市町の子供たちから地元産の幅の広くて長い昆布を土産にもらって帰隊したことを嬉しい思い出として今でも脳裏に残っている。また明治時代の屯田兵のように道路建設に汗を流したこともある。

 その頃、実家の酒屋では変化が起きていた。
商才のある義兄は個人商店を株式会社に変更して父が会長で義兄が社長になり酒の業務用販売にも力を発揮し社員も増えて業績も右肩上がりなっていた。
ある日、自転車に乗った父が甲州街道でバックしてきたトラックの下敷きにあうという事故に巻き込まれ腰を手術するほどの怪我を負ってしまったのです。幸いにして入院は長引かなかったが、外に出られない状態が続いたせいか、精神的、肉体的に憔悴していたと姉さんは言っていた。そんな時、昔気質の父は酒屋の跡継ぎを倅にに託したいと言う希望を捨てきれず自衛隊を辞めて酒屋に戻ってもらいたいと義兄夫婦に相談したのだ。義兄も長男の龍一郎に戻って来てもらい人手不足の穴を埋めてもらいたいと思っていた。出来の悪い後継の長男でも、それなりに立てて行かなければならないから義兄も大変なのだ。酒屋の社長になれたのも長女の縁だから義兄は相当気を使っていたはずだ。
相談を受けた姉夫婦は父親の了解を基に龍一郎が勤務する専属隊長に父親が交通事故で障害を負い人手が足らなくなり酒屋の跡継ぎになる龍一郎を退職させてもらえないかとの内容の手紙を隊長宛てに送ったのです。
義兄も跡継ぎの長男の扱いには苦悶しているようだった。本人が自衛隊が好きならそのままでいいと思っていたと思う。その反面父の怪我や姉の心を察して何とか専務として活躍した貰いたいと思っていたはずだ。結局、隊長の意見も加味して龍一郎の意思で自衛隊を退職して東京に戻ることにした。
龍一郎は津軽海峡をわたる青函連絡船のデッキに寄り掛かり、潮風を受けながら、離れたく無かった自衛隊の暮らしを思い出していた。僅か十か月の勤務だったが、せめて国家公務員の最低契約期間である二年間は勤めたかった。
 
 自衛隊を退職して酒屋に戻ってみると義兄が社長になってからの酒屋は社員も増えていて二トン積みの運送用トラックも増えていた。
さすがに古い御用聞きの仕事は時代遅れになっていて電話注文がメインだった。龍一郎は肩書は専務だが酒を配達するトラックの運転手としてビール、酒を積んで東京都内の飲食店に配達を朝から晩まで働いた。
専務としてと仕事は何もなく名前ばかりで問屋さんと打ち合わせをする訳ではないし、銀行、税務署など、一切交渉事はなく、全て社長の義兄がこなしていた。龍一郎自身も経理とか数字にまつわることは得意ではないし、興味もない、寧ろ逃げたい気持ちであったから経営的な意見は聞かれもしないし、聞きもしなかった。義兄も龍一郎の意見を聞こうと思っていても聞く耳持たない男と分かっているのでマイペースで酒屋の経営に励んでいた。
龍一郎は身の入らない仕事だから酒を売ってどれだけの利益があるのかも漠然と分かっているだけで金を儲けることに興味がわかない男だった。数年が過ぎて龍一郎は二十五歳になろうとしていた。
(なにが専務だ、小さな酒屋の専務なんてチャンチャンラスおかしい。ただのトラックの運転手ではないかこんな仕事は俺の性分に合わない。年をとっても、義兄の指示には逆えない。なんのために生まれて来たのか)と自分に対して不満の渦が芽生えていた。逃げ出す術を夜な夜な考えていた。
そこで考えたのが通信教育だった。大卒か専門学校卒業の資格があれば何かに挑戦出来ると考えたのだ。昼間の大学に入ると入学金が必要で酒屋の実権を握る義兄に相談をするのが嫌だし勉強は高校時代から酒屋の跡継ぎだからと諦めていたから受験勉強は皆無に等しいので通信教育に挑むことにしたのだ。本来は目標がはっきりしていれば、中卒、高卒、大卒の学歴は気にしないで良いはずだが、曖昧な龍一郎は学歴は必要と思っている。そんな弱音を吐く自分は弱い男と思っていた。
義兄は通信教育を始めた龍一郎の生活と酒の販売を兼ねて酒屋の隣にある倉庫を改修して十坪程の居酒屋を始めたのです。店の運営は須藤さんと言う板前に任せ龍一郎は手元として働き,焼き鳥、刺身、煮込み,天ぷらなどの料理を手伝い始めたのです。店は夕方開店なのでそれまで間は中野区図書館で勉強をしていた。夕方になると店に出て働いていた。
しかし二年ほど続けていた通信教育は二年で頓挫した。理由は勉強が苦しくなったのだ。本人曰く英語の壁が越えられないのだと。悔しいが英語のレベルは中学生以下で単語、文法は手に負えない代物だった。負け惜しみだが高校がドイツ語必修科目であったことも理由の一つだ。辞めた理由はほかにもある。夜遊びだ。遊び好きな板前の須藤さんと店が終わってから新宿歌舞伎町界隈に夜遊びに行く機会が増えたのだ。高校時代の友人達に負けないように少しでも追いつこうと始めた通信教育だったがその奇特な精神は甘い夜風に吹かれて散った。
龍一郎の身勝手な感覚はその後の人生に影を落として行き、数年後に地獄絵を見ることになるとは気がついていなかった。義兄は通信教育を諦めた龍一郎をコネで大学に入らないか知人に相談したのだか、大学受験の結果は(もう少し点が取れれば合格だった)と仲介者に言われたと言う。龍一郎は義兄の推薦大学は商学部だったので落ちて正解だった。それにしても自ら切り拓いて行く気迫が無いこの男、龍一郎には呆れたもんだ。もしかして裏口入学で大学に入学できると考える男に成り下がっている自分にまだ気が付いていなかった。(俺はは文学部か芸術学部が希望だ)と言いたかったが、なんとか酒屋に留まって貰いたいから商学部を薦めたと義兄は思っていたはずだ。芸術学部なんて言うと(好きな様にすれば、その代わり入学間は出せない)と言うはずだ。
他の大学二校はまともに受験生したが勉強不足で見事に落ちた。龍一郎自身も大学受験は定員不足か地方の私立大学ならなんとか合格出来ると思っていたが、それまでして進学する気力は消えていた。それでも何とか義兄や父の期待に応えようと、大学進学は諦めて、
父と姉夫婦は投げやり気味で仕事に真剣に打ち込まない龍一郎を見ていて嫁を貰えは仕事に身が入るのではと考えたのか、義兄の親戚の女性を嫁にして丸く収めようと見合い写真を見せたが、もともと自由奔放で古い風習を毛嫌いする性格は(俺は自分で見つけるよ)と即座に断った。しかし心の中では写真の女性は和服わ着た小柄で美しく優しいそうな女性だった。
その後、龍一郎は信州から上京して酒屋の店員として働いていたあの女(焼き芋屋は早く辞めて)と龍一郎に言った女がいます苦労しているママ和子なのだ。
結婚式には姉夫婦は出席する気持ちもなさそうなので呼ばなかった。結婚式は明治記念館で友人と親戚だけの小さな結婚式だった。この結婚式を境に義兄と確執の序曲の始まりだった。
結婚後の龍一郎は長男の特権とばかり、酒屋の支配下にあった川崎の駅前商店街にある居酒屋の運営を義兄から経営権を強引に譲り受け、夫婦で独立をして店を切り回していた。
義兄との確執は龍一郎の独立心が原因だった。
龍一郎は(義兄は父と姉で上手く酒屋を切り回せばいい、俺は義兄な世話にはなりたくない)と決めていたので強引に義兄夫婦に独立を詰め寄ったので仕方なく義兄は折れたのだった。金銭的には姉夫婦と父は困り果てて父の財産を会社が買取る形をとり、居酒屋の賃貸契約名義には龍一郎がなり、両親と龍一郎は武蔵小杉に一戸建てに住む事になった。金は社長の義兄が何処からか借り入れ父親名義の土地を買うかたちで出すことで話がついた。
義兄と龍一郎の人生行路はこの時がわかされであった。
独立して居酒屋を経営を十年ほどしていたが放漫経営が命取りとなり、居酒屋の経営権は十一の金貸しに取られ、父親名義の一戸建は競馬の飲み屋の支払にあて、残った金はもともと親のものだから龍一郎の馬鹿さかげんに追い出されて真面目な弟が住む吉祥寺駅の近くにあつた小さいマンションの購入資金に消えていった。親不孝の典型な男になってしまった龍一郎は三人の家族を残して全てを失いどん底生活の道を歩む事になる。
妻の和子は真面目な酒屋の息子との結婚だからと悦になつていたとは思っていないがとんだ男と夫婦になってしまったもんだと思っているはずだ。この頃和子の脳裏は離婚の二文字が踊っていたはずだ。
後で聞いた話だけど信州に戻れば整骨院を経営する彼がいたと言う。人の運命は一寸先は闇だ、杓子定規に行かないのが世間だ。龍一郎は居酒屋のお客様扱いは上手で板前もいて味もそこそこだったので十年近くも商いができけど、人が好いので川崎の駅前商店街の奥庭は堀之内と言う色街だから(ねぇマスター今度お店に来てね、お願い)なんて言われると四人ほどいた従業員を交代で誘っては遊んでいた。人の好い性分を 見透かされヤクザ屋さんと付き合うようになり、盆暮には必ず挨拶にきて絆を深くして行った。その縁で競馬、麻雀にはまり、店をも取られた、全てを失い挙句の果てに生きる道か見えなくなり女房子供を捨てて関西に逃げだしたが、土方や運転手にもなれず、情けなく戻ってきた男が今の焼き芋屋の龍一郎だ。
彼は運の強い男で勝負事は下手くそだが人間復活の勝負には不思議と負けたことがない。子供を捨てる気持ちで関西に逃げたが信楽焼の壺をぼんやりと眺めていると(やはり俺は死んでもいいが生んだ子供たちには罪はない。そうと分かれば子供のために生きるのだ。もう遊び人のような不埒な生き方は止めた)と天からの声を聴いて飛ぶようにして戻り生活と債権者から逃げないと決めて取り敢えず鎌倉の新聞屋で働きながら己を見つめ直すことにしたのだ。。
 あれから二十余年、両親や姉夫婦の龍一郎に対する深い配慮や愛情に泥を塗るように馬鹿な自分を貫き、義兄の努力で大きく成長して行く会社を飛び出してみたけれど、その後の人生は厚い壁に跳ね返えされ、崖から転げ落ちるような暮らしになりやっと止まったところが今の焼き芋屋ということになる。一言でまとめれば(金の使い方を知らないバカ男)と言える。
転げ落ちるには人と違うところがあるものだ。その一例が次の言葉だ。居酒屋を経営者していて、(お客さん、お酒だけ飲まれたらこまるのですよ、何か料理も取ってもらわないと。売り上げが無いから店が潰れてしまうから)と暴言を言う龍一郎社長だから、その方針は知らずしらず深みをますから店の評判は悪くなる。店の経営が苦しくなると、運転資金、高利貸し、挙げ句の果ては賭け事に走り、店は暴力団に取られ、不渡り手形を出し、世間の信用は完全にアウト。これが転落の脚本だ。
家族四人が吹き曝しの闇に放り出された。その後は、新聞配達、焼肉屋、ヒリピンパフマスター、回転寿司、トイレ浄化槽の設置、交通誘導員、暴力団との付き合い賭け麻雀 野球賭博 新聞配達 不動産の地上げ屋、建築の営業社員、・・・・・・まだあるけど思い出せない。悪の道から幸いに逃れてこれたのも妻や子供のおかげだと思います。
転々と職業を変えてきたのも何処かでドツボにはまり、長く働く場所が見つかるだろうと思っていたので転職が多いのだ。この間、龍一郎は空いた日をみつけては富士山、奥多摩、山梨など油絵を描きに行っていた。時には上野の美術館で開催する展覧会に応募するため家族四人でf六の油絵二枚を手に持ってつくし野駅近くの賃貸マンションから坂を登り駅まで運んだこともある。どんなに転げ落ちていく自分でも不思議と絵を描くと愛おしく真面目男に変身できるのなぜだろう。これも絵がもつ何かの因縁かな。と龍一郎は異次元空間にしたっていた。
油絵は上手ではないので落選するのは当たり前だと思っていたが一度は挑戦したかったのだ。坂道を四人で歩く純な家族の姿は今でも忘れない。
引き売りの焼き芋屋は孤独で自己中心でお金もまあまあ稼げる仕事だが、夏は焼き芋は売れないので竿竹売りに変身する人もいると聞く。龍一郎はそこまではやる気はない。
引き売りの焼き芋屋は昔から東北地方からの出稼ぎ労働者が多いといわれている。
龍一郎の焼き芋屋は夜逃げ同然の社会的な制裁を受けたにも関わらず悪の道に行かず、潰される寸前で焼き芋屋と言う縁を掴んだので今が幸せと思っていた。今では好奇心旺盛な龍一郎は引き売りの焼き芋屋をする事で社会の縮図が見えるので人間再発見の勉強をしているのだと思って働いていた。
また、焼き芋を売りながら公園で車を停めて趣味の絵を描いたり自由自在に出来る世界だから焼き芋屋に愛着を持っていた。
親の教育も大事だが本人の我儘で転げ落ちた人間でも時が経ってみると身近なところに幸せがあることに気がつく龍一郎だった。
 夕暮れのスパーマーケットの傍らに車を停めて釜に薪をくべているとその炎に吸い込まれるようにお客さんが集まることがある。
(おじさん焼けてる)と声をかけてくる。薪を燃やしながら汗を拭く芋屋の男と買い物帰りの婦人達と行き交う自動車の騒音は暗くなる夕暮れのひと時に郷愁を誘う人間ドラマのように映る。
(焼き芋ー石焼き芋ー焼き芋 さあー出来立ての焼き芋だよー早く来ないと行っちゃうよーエー焼き芋)軽トラックの荷台の上にあるスピーカーから龍一郎の錆の効いた声が流れる。
昼間は夕方になるまで自室や軽トラックの中で趣味の油絵を描いていることもあった。絵を描いていると不思議に嫌な思いを忘れさしてくれる。いや、心が落ち込んでいる時ほど絵の具がキャンバスにのってくれるのだ。寂しさは龍一郎の絵の主題かもしれなかった。
どこかの本で好きなの絵を描くために夫婦でリヤカーを引きながら物を売り歩いて生活を送っていたと言う話を読んで自分も切磋琢磨してみるかと言う下心は消えないでいた。
 
ある秋の夕暮れだ。
石焼き芋屋の龍一郎は駐車場から軽トラック運転して静かな田奈駅辺りの田園地帯に入り人影のない脇道に入り車を止めた。焼き芋を売りに行く準備をするためだ。
ここの緑地帯は今は漆黒の土の中に常緑樹が点々と植えてあり、植木屋の育てる樹木が殆んどだ。縦横の道は碁盤の目のように整備され、畑を仕切る古びた柵が田園に趣を添えている。
この緑地からこどもの国方面を見ると茜雲が小高い丘を夕暮れを待つように映っていた。
夕暮れのせいかカラスが何処に帰るのか群れをなして飛んでいる。やがて喧しく鳴いていたカラスが小高い森の中に消えていった。
家路につくカラスをみていた龍一郎は世間から疎まれ寂しく生きる自分の姿を見ているようで愛着を感じていた。カラスには迷惑な話かも知れない。
頭に安い野球帽をかぶり、馴染みの紺地のジャンバーを着て、酒屋に勤める弟が龍一郎の焼き芋屋を心配してくれた黒地の前掛けを腰に巻いている。
龍一郎はこの人気のないひっそりとした田園がお気に入りだ。汚れていた過去を少しでもいやしてくれる貴重な時間でもあった。
軽自動車の荷台に積んである燃料にする廃材はスパーのゴミ捨て場や建築現場や田畑の片隅などから集めてきた木材の切れ端だ。焼き芋を焼く釜は軽トラックを安く売ってくれた友人が家庭用風呂釜を改良した特製の釜だ。火をつけ釜を熱し始めた。
しばらくして、燃料の角材火は勢いを増してパチパチと音を立てて燃え出した。釜の蓋を開けて黒づんだ玉石に芋を並べた。ブリキの黒く焼け焦げた煙突から夕映えの田園に一筋の白い煙がなびいている。この煙は二百二十六号線からも見えるはずだ。
焼き芋は半焼きの状態で目的地に向かうのが一番良い。現場に着いたら上手に焼けている状態にするためだ。今日は鷺沼駅を抜けて溝の口周辺で挽き売りをする予定だ。その為半焼きに焼けるまでこの田園地帯の側溝に座り新聞を読んだり、夕食にする餅を焼いたりして時間を潰す。時には生活費の工面方法や、収支を考えたり、自分の将来を探して見たり、女房の機嫌度を測って見たり頭は勝手に因縁に責められて休む暇もなかった。
釜がほどよく熱くなると、鉄製の釜の蓋を開け、 煤で黒ずんだ小石の上に芋を軍手をはめて配列よく並べた。数にして十五。六本位だ。売り上げに換算すれば四千円程度のものだ。釜の温度調整はこまめにしないと焼きすぎるので気を遣う。

芋の仕入れ先は近所のスパーマーケットで購入してくる。大小混ぜて五十個ぐらいだ。時々スーパーの野菜担当の伊藤さんが無償提供してくれる。提供してくれる芋は先端が、ほんの少し傷がついてし売り物にならないのだ。
(この芋は、焼き芋ならまだ使えるから良かったらもっていきなー、先端を少し切ればまだまだ充分使える)
と気さくに無償供与してくれるのだ。
頭に薄毛が残る64,5才に近い伊藤さんは、八百屋一筋のような葉切れのよい声と、愛想のよい顔つきをしている。
息子ほど離れた働き盛りの龍一郎を見て、この歳で焼き芋屋をやっているなんて、なにか深い事情があるのではないかと感じたのかもしれない。情にほだされるわけではないが優しい人柄に機微を感じていた。
ある日のことでした。
スパーのゴミ処理場の壁際に無造作に積み上げられた魚屋さんのシャケが入れてあった空き箱があったので集めて薪にしようとする龍一郎の姿を見ていた伊藤さんは(今日は遅いな、頑張れよ、後で芋を取りにくれば、ダンボールに入れてあるよ)と親しげに声をかけてくれたのだ。(ちゃんと片付けていきます、ありがとうございます)と挨拶を交わした。男の中の男は人の痛みが自分の痛みの様に感じるのだと勝手に思っていた。

 龍一郎は今日の目的地を溝の口辺りと決めていた。そろそろ車を運転して焼き芋を売りに行く時間だ。外は夕月夜だ。遠くの家々にポツポツと灯りがともりだしていた。津田山 久地、登戸、中之島と石焼き芋の軽トラックはゆっくりと引く売りをしていった。府中本町に入り広い田畑にポツンと立つ家々を巡るように小さく呼び込みの口上を言いながら暗闇のを売り歩いた。石焼き芋の注文の声がこないで(いしやーきいもーおいもー早く来ないといっちゃうよー)の声が虚しく暗闇に消えていくと心も自然と寂しくなつてくる。
残り物のパンでもかじりながらアクセルを踏んで夜道を像が歩くような速度でお客様を探していると遠くに家の灯りが寂しそうにポツンポツンともっていた。この闇夜の灯りを見ていて龍一郎は北海道長万部辺りを走る室蘭線の夜行列車を思い出していた。(俺も家出をした青春時代は純粋で不良ではなかった時もあったなぁ)と苦笑いしながらガタンゴトン車輪の音が響く室蘭線の夜汽車を思い出していた。
確か十九歳の頃だ。蒸気機関車の車窓から暗闇を見つめているとぽっんと時折り闇の中に灯りがともっては消えていった。この灯りは今ゆるりと走る溝の口や津田山の田園地帯の家の明かりと同じに見えたのだ。室蘭線の深夜便はレールの響きが主役を演じていた。
この家出列車は高校卒業してまもなくのことだった。。どこか自分が働ける場所があれば働こうと思いながらの家出だ。だが職探しは北海道の壮大な景色に圧倒されていつの間にか北海道景勝地巡りに変わっていた。仕事探しは地の利がないので景勝地では無理で探すとすれば札幌、函館、小樽、ぐらいしか思いつかなかったが就職など思っているだけでその気は全く無かったのだ。家出の身分だから就職しても身分保証の住所なとが必要になる。まだ未成年だから、職場によっては両親の承諾が必要もしれない。そう思うと、その日暮らしの仕事でもいいと思うようになって、考えているうちに就職する事が億劫になり、旅行しているうちに就職の件は消えてしまった。このあたりの曖昧さは真剣に考えていない証拠であった。金が無くなれば母に頭を下げればなんとかしてくれると思っていた。阿寒湖では観光でアイヌ人が熊の木彫を刻んでいたので、龍一郎な腰を下ろして目の前の木彫をじっと見ていた。
北海道一人旅は阿寒湖、摩周湖、を周り函館に向かう深夜列車でした。蒸気機関車は闇のなかをゴトンゴトンと静かに音を後にしながら進む。
龍一郎の前の席には老夫婦が座っていた。しばらくして老夫婦は(お兄さん、駅弁は次の駅で売ってますかねー)と言うので
(さあーどうですかーわかりません、もしよかったら)と言って青いバッグからコッペパンを指しだしたのです。そうしたら(ありがとうお兄さん、気持ちだけ貰いますね。優しいね、)とお婆さんが優しく言った。龍一郎は何も言わず眠りについた。
しばらくしてお婆さんは龍一郎の肩をゆすりお弁当をくれた。長万部だと思うが、高価な駅弁だった。感謝感激雨あられ、という感じで嬉しかったのを覚えている。親切は周り巡って帰ってくる。
そんな昔を思い出させる溝の口の梨畑周辺だった。

釜の焼き芋は程よく焼けていてた。梨畑を抜けると民家が並んでいる。
夕食の支度頃だ。家々に囲まれた路地裏を龍一郎は車をゆっくり走らして一万円程でホームセンターで買って荷台の上に取り付けた小さな拡声器から声を流したた。
(焼き芋ー石焼き芋ー焼き芋ー、甘くて美味しいホクホク焼き芋だよー、早く来ないと行っちゃうよー、さア、いらっしゃい、いらっしゃい)
龍一郎は(俺の声は焼き芋屋になる為に生まれたような声だな。大きな声ではなくて、バリトン級で渋味があり、遠くまでしずかーに届く声だ。その上、寂しくて哀愁があり、人を引き寄せる声だ)と自分で勝手に思っていたようだ。
龍一郎の車は小さな商店街を抜けて電信柱の傍に止まっだ。車から降りて荷台の窯に薪をくべていると白い煙に誘われて買い物カゴを片手に持った五十近い二人の婦人が(叔父さん、焼き芋ちょうだい。二つ)と近づいてきた。
(あいよ、二個でいいの)返事をして龍一郎は大きめの焼き芋を新聞に二つ入れて渡した。
(あら、おじさん、紙袋ないの、目方、計らないの)と婦人達は不思議そうな顔をして言った。
(ああ、秤がないしね、手秤だ。こんなもんだ。大きくてホクホクだ。気前がいいね。俺は、はい、二つで千円だ。おまけだよ)
(小さいお芋は無いのね、どうして秤を使わないの)
(量り売りより、サービスになっていますよ。百グラムいくら、なんて面倒だしね)
(そうなのねー、手秤なんて聞いたことないわ、サービスなら好いわよ。気前がいいのね、叔父さんは)
(俺はね、焼き芋売るしか能がないよ。サービスしてまた来てくれると嬉しいからね。チマチマ商売するのは苦手さ)ご婦人達は納得した様子を浮かべて帰って行った。
(また来るね)
(はい。ありがとう)と機嫌よくお帰りいただいた。石焼き芋は大きい芋ばかりではない。小さな芋もあるけれと、大きい芋の方が売り上げが多くなるから有り難い。なるべく大き目の石焼き芋を売るように心がけているのだ。
車の運転席から降りて荷台な釜に木片をくべながらお客様の来るのを待っているいた。
夕暮れに燃える釜の炎は人を呼び込むパワーがあるのは不思議だ。燃え盛る炎は宗教的匂いもするのかなと龍一郎は思った。その薪の火に誘われて子連れの親子が焼き芋を買いに来てくれて小さ目の焼き芋「二つ買ってくれた。お金は(可愛いお嬢ちゃんだね。はい、美味しいよ)と娘さんに渡すと母親に向かって(三百円でいいですよ)と言うと、(あら、またオマケね。損しないてよ)と笑いながら帰って行った。車の少ない街路灯の下に焼き芋の軽トラックを置いて商売すると、焼き芋屋の雰囲気が出て売り上げが伸びる気がすると龍一郎は思っていた。



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焼き芋の量り売りは焼き芋屋では定番だけど、龍一郎の焼き芋は大きめで小さい芋は仕入れていない。一本三百円から五百円売りが目安で仕入値段に利益をのせて販売していた。量り売りだと釣銭の十円玉も用意しなければならないので面倒な事はしなかった。客商売だから丁寧に客扱いをしなければならないのだが、龍一郎の親しげに笑いを誘う巧みな会話術でそれをカバーしていた。
一日を終えて夜の十二時ごろ帰宅をするのだが、焼き芋を余分に焼いてしまい売れ残ると捨てるわけにはいかないから、隣のマンションに住むヤクザ屋風の若い男と母親の二人暮すマンションの戸口を申し訳なさそうにノックをして(こんばんわ、夜遅くごめんなさい。焼き芋よかったらどうぞ、あまり物で申し訳ありませんが)と言って渡すのですが、隣の人は(あら、どうも、ありがとうございます。遠慮しないでもらいます)と言ってくれるけど、実際は迷惑ではないかと思うのです。なぜならば妻の和子は(余計なことしないで。余りの焼き芋あげるなんて。隣だって迷惑なのよ、それに何時だと思っているの。常識がない人だよ、あんたは)と叱られるだ。善意は全て正しいとは言えないようだ。自分は正しいと思ってやった矜持が迷惑行為だと言うことはよくある話だが龍一郎の性格が早とちりで、落ち着きがなく、せっかちで、良心の押し売りみたいなところがあった。要するに冷静沈着なところが少なく結果を急ぐ直情径行な部分が学生時代から今日まで続いている男だと言えるかもしれない。




この焼き芋釜を乗せている軽自動車は焼き芋屋仲間の山根さんから安く買った車だ。中古な車体の色はグリーンでところどころ錆びついている。焼き芋釜は洗濯機を改良して出来ている。山根さんは昼間は鉄鋼所で働いているので、洗濯機を焼芋釜に作り直したのだ。手の器用な人だ。
この軽トラは龍一郎が八王子の焼き芋屋に雇われで歩合制で働いて二月ほど経ったころに手に入れた代物だ。勤めていた焼き芋屋専門店は歩合給社員だから独立した方が収入が多いのだ。
今乗っている石焼き芋屋の軽トラックラックとの出逢いは龍一郎が溝の口の周辺を車で流しながら焼き芋を売っているときに、畑の脇道で同業者の焼きいも売りの山根さんと出逢ったのがきっかけだ。
お互いに同業者と言う縁から、道端に焼き芋を積んだ軽自動車を停めて、言葉を交わしたのが切っ掛けだった。めったに同業者同士が話す機会なとない世界だから、情報交換は親友と同じで忌憚なく話せる。
忙しい?、暇だよ。どの辺りが売,そう?金曜日は売り上げがいい。などと会話が始まるのだ。少ない仕事仲間だから和やかなもんだ。
黒いハンチングに黒ずくめの姿をした山根さんが切り出した。
(俺、焼き芋屋を辞めて、福岡の実家に帰りたいのだよ。昼間は会社勤めで夜は焼き芋のアルバイトしているのだが、親父が戻って来いと言うのだ。いつまでも一人暮らしは止めろとね。誰か心当たりあるらしいのだ、嫁さんのね。それで、この車、安くするから買ってもらえないかなー)と言うのだ。
龍一郎が今勤めている焼き芋屋は、売り子が20名ほどいる会社組織だ。貸し車代、芋の仕入、紙袋、などを考慮すると、独立していた方が稼げるし、拘束されないから、龍一郎この話に乗ったのである。
(30万円ね、これ以上安くならないかー。よし。釜付で。月賦でいいならもらいます、と言うことで月に五万円の返済で購入したのが今のホンダの軽自動車だったのだ。車体は濃い緑色だった。
荷台に焼き芋釜とずれないようにエル型アングル棒でしっかりと固め、角材で運転席の外側に柱をしっかりと結んでその角材に建築現場に放置されていた交通整理使う赤い円錐形のカラコンに電球を入れて石焼き芋の黒い字を書いて提灯代わりにしていた。熱く燃える釜の脇にブロック石で積ん仕切りあり、釜に近づかないようにして燃料になるも木片が重ねてある。木片が見つからない時は建築現場を探したり、駐車場を彷徨いたり、家の路地を探ったり苦労する。木片も今時、そう簡単に手には入らない、林に入って枯れ木を集めたりする。河原に行く。それほど貴重品なのだ。明日の燃料は、今日のうちに、車を走らせながら目星を着けて置くのがゴツだ。
溝の口周辺の路地に入った。車の速度は、人が歩く速さだ。ゆっくり走るとダイナモが壊れると山根さんが言ってたので心配だ、
ゆっくり走らないと、お客が車に追い付かないからだ。追いついてもらわないと焼き芋が売れないのだ。
龍一郎は高校に通う息子が嫌々作ってくれた焼き芋節の吹き込みテープが入ったラジカセのスイッチをオンにすると、車の上に針金で角材に巻き付けた拡声器から、龍一郎の渋い焼き芋屋の口上が、流れ出した。
このテープは息子がアルバイトで稼いで購入した中古のオーディオシステムから録音したテープだ。息子は迷惑そうな顔をして父親のうなる(やきいもーいしやーきいもーおいもー早く来ないといっちゃうよーあったかく美味しいおいもだよ)の口上をテープに吹き込んでもらったのです。声を出すのに何度も失敗するものだから息子は怒り出しそうだった。息子から思えば(親父よ、焼き芋屋なんか辞めてもう少しまともな仕事をさがせよ)といいたそうな顔つきで録音テープの完成に付き合ってくれたのだ。
拡声器は、一万円位でホームセンターから、買った安物だった。
(やーきいもーいしやーきーいもーやーきーもー。おいしいやきいもですよー、早く来ないといっちゃうよー)
時には龍一郎は生の声でマイクを取って声をだす。息子が作ってくれたテープはエンドレスだから楽なのだが、時には生放送でやってみたくなるのだ。
自分の生声の方が客請けがいいのだと一人で悦になっていた。

引き売りの道は軽トラ一台が通れる程の狭い裏道が何となく売り上げが上がるような気がする。
車が一台やっと通れる道幅て両サイドに家並みが続く道をゆっくり走りながら、声はもう一つ奥まった通りに届くように声を出すのがゴツだ。声を遠くまで届けるためだ。それも、単純な声ではなく、哀愁を籠めた声を出す方がいい。
カラオケの演歌の雰囲気だ。それも北国を想像したようなうら寂しい声だ。(ヒュヒューと冷たい風が肌を刺す吹雪の中、オジサン焼き芋まだありますか)と雪女が出て来るような雰囲気だ。
馬鹿な事言ってんじゃないよと自分に言い聞かせながら、ハンドルに腕を乗せてゆるりと路地を走る龍一郎だった。

東北から出稼ぎに来る人は建設業の手元や焼き芋屋だと世間では今でもそう思っている人が多い。半 龍一郎もが藤が丘の高級住宅街で夜遅く車を引き回していたとき石焼き芋を買ってくれた若い奥さんが(焼きいもやのおじさんは東北の人?)と尋ねられたことがある。その時は、(はい、岩手の山奥で)と、無駄な抵抗を止めてお客様のイメージをこわさなかった事がある。

溝の口や登戸辺りは旧家もあるし新築一軒家もある。小さなさな商店街を抜けて龍一郎はゆっくりと車を運転しながら梶ヶ谷の路地裏を引き回していた。天空には星が輝いている。空気は冷たく透き通っていた。溝の口駅前の繁華車を抜けて道幅の狭い裏道に入った。焼き芋の売れる場所は古い住宅が密集する路地が最適地だ。
街路灯がポツンと夜道を照らす。家を囲むような木の枝が所々裏道に顔を出す。
(えーやきいもーいしやきーいもーおいもーやきたておいもはいかがですかー)龍一郎の渋い声が哀愁を誘うように拡声器から流れている。時は夜の七時半ごろだった。
古びたひ家から、足早に雑草のしげる庭を抜けて小学生らしい二人の姉妹が元気よく現れた。
龍一郎は枯れ草のある道に車を停めて、運転席から降りて、姉妹に近づいて話しかけた。
(お芋だね)
ピンクのセーターを着た小学校四年生位の妹が
(おじちゃん焼きいもちょうだい)
と手を開いて五十円玉が一つを見せた。同じような服装の六年生位の姉は、妹を見ながら笑っていた。少しは姉さんだから恥ずかしさもあるようだ。
龍一郎はあきれて声がでない。一つ五十円では商売にならない。。小ぶりの芋で百円は貰いたいが、あいにく小さい芋は焼いていないのだ。まして姉妹で一つなんて可哀想だし、古くてトタン屋根の家からで出てき来たのでお金に余裕などあるわけないと思った。
(夕御飯食べたの)と尋ねると
(お母さん達仕事でまだ帰って来ないからまだです)と姉が言った。
(そうか、親は共稼ぎなんた。お腹が空いているでしょう、何時に帰ってくるの)
(九時頃)
(それまで何も食べないのだ)
(うん)
龍一郎は自分の子供たちの顔を思い出してしまった。俺もこんな寂しい想いを子供達にさせているのだ。この姉妹の姿を見て、ふと我に帰り俺も子供たちに辛い思いをさせた場面は何度もあったに違いないと感じていた。この幼い姉妹は大事にしてい五十円を出したのに違いないと思う龍一郎だった。
近くにぽっんと立つ街路灯が優しい灯りを醸し出して姉妹と焼き芋屋を囲んでいた。
龍一郎は新聞紙を広げ
(はい、おまけだよ、お金はいいよ、おじちゃんからプレゼントだ)
と言いながら焼きたての大きめな芋二個を個を包んで渡した。
子供たちは頭をぴょんと下げ(おじちゃん、ありがとう)と礼を言うと急ぎ足で庭先から消えて行った。
(純な子供たちから金は取れない。頑張れよ子供たち)
と一人で自分の脳裡と話ながら運転席に戻る龍一郎だった。

田園地帯の仕込み場を夕方の六時頃出て八時頃までは、二千円から三千円程の売り上げが妥当な線だ。夕飯時は流しでも売れないのでスーパーの脇に止めて営業をする。
車をやたらと動かすと燃費が嵩むので車を停めて音量を下げて焼き芋を売ることがある。
焼き釜の扉をオープンにして、薪をくべたり、灰を片付けたり、やることがなくなったら釜の火を見つめてながら適当に身体を動かしてい客待ちをする。
車から降りて作業をしているとお客様との距離感を縮めることになるので売り上げが上がると信じている。
確かに、釜の焚き口は真っ赤に燃え盛っているから、夜の暗さと相まって人の感心を呼び込むようだ。薪能か、護魔薪か、火の放す厳かな世界なのか解らないが、火は人間を惹き付ける力がある。そこに焼き芋を売るチャンスがあるのだと龍一郎は勝手に思っていた。
燃え盛る釜の火のお陰で二、三のお客様が石焼き芋を買ってくれた。
その後、路地裏の狭い道を選んで車をゆっくりと走らせ、転々と焼き芋を売りさばきながら、一万円五千円程の稼ぎになっていた。
20450608午後七時



帰り道の途中になる田園都市線の、藤が丘にたどり着いたのは、夜の十時を過ぎていた。駅の近くにある新興住宅街の一画に高級な住宅の前を通り過ぎようとした時でである。
ケーキのような派手なデザインの門扉越しに、ピンクのネグリジェ姿の若い奥さんの声が聞こえた。
20250529午後九時
(焼きいもやさーん)声を出しながら、通り過ぎようとする車を止めた。
(おじさん、焼き芋一つ。二百円でいい)と言われて(こんな立派な門構えの家から出できて二百円はないだろう)と商人らしくない暴言を言ってしまったのだ。若い奥さんは呆気にとられて立ち竦んでいた。
(焼き芋買いたいなら他の焼き芋屋さんから買えば。こんな夜中に焼き芋一個はないだろう)
奥さんは何も言はず消えていった。暗いからお互いに表情が見えないのが幸いだったと思う。龍一郎は暗い夜道をゆっくりと車を走らせながら猛省していた。(おまえ、川崎の居酒屋と同じ事まやったな。酒だけ飲まられたら困るのだ。料理も取ってもらわないとね。と言った言葉と同じ意味だ。馬鹿者
奢るな)と自分を責めていた。20250530
龍一郎の焼き芋は、十五センチ位の大きさで、量り売りは面倒なので、一本五百円が暗黙の定価であった。一般的には、目方売りが定番だ。龍一郎の売り方は強引と言えば強引かもしれないと。やきあも
だがそれなりのわけがある。まずは、スパーの伊藤さんがくれるサービス芋が大きいので、仕方がないことと、秤り売りは暗闇だと少し眼が悪いので見にくいし、釣り銭が面倒なこともある。裕福な人には少し高く売り、金に苦労している人は安く売ることもある。まぁ、いい加減な売り方だとの批判は受けて立つとの覚悟から、目方売りをしないのであった。
焼き芋行列をつくるほどで売れない。たまにしか売るれないから杓子定規に考えなくてもいいではないかと考えていた。
龍一郎はハンドルに肘を着けて信号まちをしながら、己の心の貧しさを気にしていた。

信号が青になり、246号はまだ車が激しく行き交すき間の信号を通り抜け、長津田の駅裏の路地を抜けると道の外れに小料理屋がある。ぽっんと寂しく構える小さなお店だ。ここまで来れば、龍一郎の家の近くだ。線路際の道をゆっくり走って小料理屋の前で静かに拡声器から焼き芋屋のテープを流した。(やーきーいもーいーしーやーきいもーやーきーいもー)深夜に近いから一度だけで店から誰かが出て来るのを待ってるのだ。
田園都市線の電車が暗闇の中から長い光を照らして現れ余韻を残して消えていった。
この一間間口の小料理屋は、提灯が赤く、ぽつりと人恋しさに灯りを灯している。店の名前は(こぼれ火)という細やかな名前だった。ここは龍一郎の固定客なのだ。拡声器の音は俺がきたよ!と言う合図なのだ。
道路を挟んで少し脇に停車する。
しぱらくすると、着物をきたお姉様が暖簾越しに声をかけてくれる。

(今日はお客さん少ないのよ、千円ね)と焼き芋を注文してくれた。お客さんが多い時は三千円ぐらい買ってくれる常連客だ。
(いいえ、いつも、すいません、ありがとうございます)
二人の会話は要点だけだ。(ありがとう、またね)でおわりだ。
姉さんは、ちょうちんの灯りのせいなのか妖艶だ。暖簾を潜って、中に入りたいが、汚れた身なりの銭なし焼きいも屋だ。壁は厚すぎる。昔だったら万札忍ばせて。なーんて。昔の華の舞台は砂上の楼閣だった。
年前まで数は、銀座、六本木、歌舞伎町と不良仲間と深夜まで飲み歩いたこともある。六本木の小さなクラブのドアを開けると龍一郎の歓迎テーマーソングである(京都の夜)を専属ピアニストが挨拶がわりピアノを弾いてくれる。
川崎の居酒屋を潰してヤケになっていた頃は半分ヤクザな行動をしていた時があった。
赤坂の名のあるクラブにその道の人に誘われてテーブルでレミーマルタンを飲みながら歓談した事がある。女の子もチラホラいた。男五人中の一人が龍一郎だ。世間話を聞いていると早稲田の印刷屋が潰れて債権者が今晩社長の自宅にやって来るので誰か用心棒になってくれる男はいないかと言う話がでたのです。早い話、債権者が高圧的に出ると恐ろしいから傍にいて話を聞いてもらいたいと言うことだ。手当は五万円だと言うので、金欠だった龍一郎は五万円に目が眩み用心棒に行った。芯が臆病者のくせに用心棒をかってでたのだ。地獄を這い回る人間は善悪の道が見えなくなるようだ。別件では、世話になっていたヤクザの誘いで借金の取り立てに同行した事もあった。建設会社の社長にナイフで脅かされたり、苦い思い出は山ほどある。今の焼き芋屋はそれに比べれば桃源郷にいるようなものだった。
見栄と虚栄と、恐怖、欺瞞、裏切の世界と違って、この小料理屋の暖簾は、龍一郎に幸せを運んてくれる一里塚みたいなものだった。
小料理屋の姉さんは、龍一郎の拡声器から寂しそうに流れる声に共感を覚えたのに違いないと龍一郎はそう捉えていた。
暖簾を分けて中に入りたいが入れない。焼きいもが(ざまあーみろ)と笑っているようだった。

龍一郎の帰る家はこの小料理屋から近い。長津田の駅から脇道を通って五分ばかり。途中に川を渡る橋がある。龍一郎は一日の焼き芋屋を終えると橋の中央に車を停めて、車から降りて、燃え残りの薪を始末をするのだ。
誰かに見られないように辺りを確認してから橋の上から燃えている木材を川に投げ捨てるのだ。勿論、沢山投げ込むのではない、ここに来るまでほとんど消し炭状態にしてからだ。
残火を残して駐車場に車を入れるとマンションの十世帯の住人がら非難轟々になると思うので川に捨ててくるのです。
女房の和子は他の駐車場にしてくださいと言っているが背に腹は代えられないので生返事でごまかしていた。
(いい加減に、焼きいも屋なんか辞めて、みっともないから、あんたは好きでやっているけれど、子供たちが可哀想でしょう)と苦言を言う和子だった。

親父が焼きいも屋をしているのは近所の人はわかっている。何故ならば、車に焼きいもの提灯も荷台につけた間まで駐車場にしまうからだ。その提灯もしっかりしたものなら未だしも、荷台にある提灯は、道路工事現場から、失敬してきた赤いカラコンに電球を組み込んだ代物なのだ。その他、紙の提灯がチラホラ風鈴のように風任せで並んでいる。

釜の中の残火は川に投げ込むと、ジューンと軋む音がする。暗闇の川に火の塊が落ちていくのを見ていると、なんとなく侘しくなる。(お前はなんでこんなことをいつまでやっているのだ、この残り火はお前を支えた大切な残り火だ。川に投げ込むなんて、この恩知らず)と言われているようだぅた。
売れ残りの芋は、もったいないので自分の腹の中に多少は入れるのだが毎回は食べれないので隣の山越さんに数回差し上げたのだが和子は
(隣に残り物をあげるなんて、失礼だし、みっともないからやめて)と世間並みの言葉を使った。
(なんで、みっともないの、ちゃんと、残り物ですがよければ貰ってくださいと言っているよ)
隣の住人は母一人子一人の家庭で息子さんは二十歳過ぎのヤクザ屋風の男で昔の自分と似ているので親近感を持っていた。世間の難しい付き合い方など考えないで、で阿吽の呼吸で貰ってくれると思っていたのだ。息子さんも嫌な顔をしないで笑みを浮かべて貰ってくれるのでありがたかった。しかしよく考えてみると隣さんは近所付き合いを考えて断るわけにはいかないので受取しかないのだと気がついてそれからは焼き芋を渡すのにためらいが生まれてやめることにしたのだ。善意も一筋縄ではいかないものだと己の軽薄さを知った
このつくし野駅に近いマンションに越して来たのは丁度今から四年位前のことです。
伜がまだ高校一年の頃だった。



住んでいるマンションの前が野原なので息子とキャチボールをしたのだ。息子は特別に野球が好きではないが龍一郎のほうが息子わ相手にキャッチボールをしたかったのだ。石焼き芋屋を始める前は気に入らなければ転職し、不安定な暮らしをして来たので、子供達と小学生のころから家族で楽しく遊んだことなど皆無に等しいかった。だから、この息子とのキャッチボールは初めて父親らしい行動であったので晴れやかな気分だったのだ。
息子とキャッボールをしようと言っても面食らった表情の息子だった。遊んでやれなかった理由は居酒屋と言う商売が深夜に及ぶ事や放漫経営から経営が苦しくなり、やがてお決まりの高利の金に手をつけ、暴力団とも悪縁ができて徹夜麻雀、野球賭博、競馬等々負けるのはわかっているのに依存症の如く勝負事にはまり子供達と遊ぶ余裕など無かったのだ。そのどん底の暮らしに終止符を打つために、反対する兄弟の意見を聞かず、父親名義の僅かな土地を強引に売却させて、競馬のノミの負けた七百万円の支払いとそのほか、累積債務の支払いを済ませどん詰まりの借金地獄から脱出出来たとい経緯があったのだ。その後,居酒屋と住宅を失った龍一郎は多少の借金を背負いながら家族四人と共に世間に放り出されれたのだ。居酒屋を経営していた割には料理は見様見真似だったし、ささみ包丁の使い分けもろくに知らない龍一郎だから正式な板前として就職は出来ず、焼き肉屋のパートとか土方とかその日暮らしだった。こうなったのも自業自得が原因だと反省してもどうにもならない世間に生かされていた。
居酒屋の放漫経営が原因で資金繰りに困り果て、金がほしくて目が暗みギャンブル依存症になり裸同然で社会に放り出され、稼ぐ居場所が無くなり、パート仕事を転々と渡り歩き、大きな金を掴もうと居酒屋時代に取った宅地建物取引主任者の資格を生かして渋谷の道玄坂の雑居ビルある小さい店の丸徳不動産で働きだしたのだが、お客がつかず悶々としているうちに廊下の前の同じ年頃の東海商事の社長が(この不動産屋で働いてもお客は少ないぞ、俺のところへくれば仕事はある、来ないか)と誘いを受けて、その日のうちに廊下一つまたいだ東海商事に勤めることにしたのだ。丸徳の社長は目の前で社員の引き抜きにあっても文句一つ言わないでいた。丸徳の石川社長はインテリヤクザと知っていたのだ。後でそのことを知ることになるのだが、商事会社の社長さんだから面白い仕事はありそうだと思った龍一郎だった。。
社長の石川さんはラメで光沢のあるブルーのスーツを着こなし遊び人風の持てそうな男た。
龍一郎は石川社長は不動産の仕事は地上げ屋が主だと思っいた。千三つの仕事は直ぐに金にならないと覚悟は決めたが金欠状態だから乗り切れるか心配だった。そのうち大きな取引の話も出てくるだろうと思って勤勉に通ったのだが一向に仕事の話はないのだ。ある時石川社長は(亮さん、俺と同じスーツつくってあげるからな)と言ってくれてその日のうちに渋谷の仕立て屋さんを呼んでくれたのだ。数日経ってから石川社長と同じのブルーのラメの光沢があるスーツが届いた。(着てみたら)というので、自分が着ているよれよれのグレーのスーツを脱ぎ、綺麗な箱からスーツくを取りだした。
龍一郎は絹のバラ模様のあるワイシャツを着てブルーのスーツを着たのだ。石川社長は(似合うよ)と言ってくれたのはいいけれど龍一郎はこれでは映画に出てくるヤクザだなと思った。
二人は同じ服装で六本木界隈を暇つぶしでよく出かけた。高速道路の近くにある名のあるアマンドで二人でチョコレートパフェを二つ注文してお互いに笑いながらストローで顔を観ながら飲んでいると周り女の子が笑っていた。
石川社長は仕事らしい仕事はなく退屈な日々を紛らわすために赤坂六本木界隈でお茶や食事を誘ってくれた。不動産の取引情報は全くなく昼間ブラブラしているのはいいけれど龍一郎は家にお金を入れないと家族が困るので石川社長に給料のことを尋ねてもそのうちに何とかなるからと言うだけだった。
給料を心配したのか石川社長は時々龍一郎を伴いクラブとか茶店とかに行って誰かと話し合いをしていた。話終えるまで外で待っているか、店の外れの席で待たされていた。龍一郎が聞いてはいけない相談なのかもしれない。給料は不動産取引の出来高だから仕事がまとまらないとゼロだ。ゼロを気にしてくれて時々石川社長は三万だ、五万だと渡してくれた。
20450608




広い野原には人影はない。龍一郎は息子とボールの投げ合いをしていていると急に目頭が熱くなり涙が出てきた。息子はこの涙の意味は知らない。龍一郎は今になって初めて息子への深い愛を知ったのだ。
(許せよ智和)と心で叫びながらキャッチボールをしていたのだ。
その涙は父親名義の武蔵小杉にある一軒家に親子六人で暮らしていたころ、親の見栄か解らないが、智和は有名私立小学校に二年間ほど通っていたが親父の体たらくで月謝が払えなくなりから小学校を途中で辞めさせてしまったお詫びの涙でもあったのだ。済まないと
龍一郎は、済まない、ごめんなと侘びながら投球を続けていたのだ。
そんな頃、石焼き芋と息子智和との間に憂う話がある。
智和の通う中学校の近くを焼きいもを売りに流していると智和が友達と二人が下校して前方を歩いているのが目に入り、思わず(おーい智和)と拡声器で声を張り上げて呼んだら、智和と友達は、知らん顔をして道から外れて横道に入り見えなくなったのだ。
我にかえった龍一郎は自分が焼きいも屋であることを忘れている事に気がついたのである。(そうか、親父が石焼き芋屋と知られるのが嫌なのだ。声を上げた俺が配慮がないのだ)と自分の常識と息子の常識が違うことに気が付いたのだ
青春期の伜には、駄目な親父と映っていたのかもしれない。焼きいも屋の拡声器で流れるテープを嫌な顔ひとつせず、作ってくれた伜は心の中では怒りの渦で染まっていたのかもしれない。
ある日、午前中から降りだした雨が午後になっても止まず、石焼き芋屋の引き売りを休もうと考えていた。外は暗くなり雨も小降りになっていた。休みだった妻の和子は炬燵のカバーを取り替えながら横になってテレビを見ていた龍一郎に声を掛けた。
和子はパートの店員として町田のデパートで生活費を稼ぎ出していたが、夫の不定期な稼ぎと合わせても遣り繰りがつかず悩んでいる時だった。和子は(明日までに納める中学校の月謝が何だかんだで七千円どうしてもいる。もう、これ以上遅れると先生が何かしら言って来るはずだ。何とかならないの)と詰め寄ってきたのだ。
息子が可愛そうだとこぼすのだ。その日暮らしの焼き芋屋なんか辞めてどこでもいいから月々お金が入る仕事をしろと言うのだが妻に言えない悩みが龍一郎にはあったのだ。
まともな仕事といっても年齢的に途中採用は難しのだ。年齢ばかりではない学歴。職歴もない、技術もない、あるのは妻には言えない借金があり、社会的な信用はゼロだ。銀行取引は手形を貸したことで不渡手形を出しているし、まだ解決していない問題があるのである。
例えば借金とりが勤め先の電話番号を教えろだとか怪しい電話が来たり、解決しなければならない債務の問題やらでまともな仕事など手につかないのだ。もし採用されて借金取りが会社にたずねてきたら面倒になるだけだ。過去に自分もやけ気味になり、暴力団の人と仲良くなり借金取りに関わった事があるのでまともな仕事を出来るようになるには着いた汚れを落とす時間が必要だと思っていたいたのだ。この歳で技術も要らない仕事といえば交通誘導する警備員か身体をはった建築現場の作業員ぐらいだ。石焼き芋屋は龍一郎考えた末の仕事なのだ。時によっては売れすぎて困る時もあるし、雨こんこんで寝てた方がよかつたという事もあるが頑張れば成績が上がるので魅力がある仕事なのだ。

息子の月謝の支払が待ったなしと聞いて、龍一郎は開き直って小雨模様の中を飛びだした。焼きいもを売るために長津田駅の近くにある人影の少ない駐車場の脇に車を止めて仕込みを始めたのである。焼き芋釜から小雨をついて白い煙が立ち込める。商店はここから離れているし人影も少ないから煙が収まる時間ぐらい苦情は出ないだろう。
今日は雨ふりで休む予定だったが息子の月謝を稼がないといけないので、引き売りをしないで一点勝負と決めたのだ。長津田の駅で最終電車が通りすきるまで焼きいも屋をすることに決めたのだった。
小雨のせいではないと思うが夜八時が過ぎても売れないのだ、焦らないと言えども、穏やかであるはずがない。子供の月謝だ。親父の面目もある。
そんなことを思いながら小雨の降る夜を運転席で客待ちをしていた。すると狭い道を挟んだ向こう側に立ち食いラーメン屋が屋台をだしていて、そこの若い職人が、見掛けない龍一郎に近寄ってきた。
(お兄さん、ちゃんと、挨拶してきたの)と言われたのだ。龍一郎は縄張りの組への挨拶だなと直感的に感じた。ラーメン屋のお兄さんに言った。
(地回りの人はこんなちっぽけな焼きいも屋なんて相手にしないでしょう。相手にするようなら大した人ではないでしょう)と言い返したら、スーッと下がっていった。兄さんはみかじめ料でも取ろうと思ったのかもしれない。
龍一郎は理屈が通らない事には反発する性分だ。大方な人は同じ考えだろう。暴力でくれば暴力も厭わないが無駄な喧嘩はしたくないのが本音だ。
十年ほど前は放漫経営が源で金がほしくて目が暗みギャンブル依存症になり裸同然で社会に放り出され、やけくそ半分で居酒屋時代に取った宅地建物取引主任者の資格を生かそうと渋谷の道玄坂の雑居ビルある小さい店の丸徳不動産で働きだしたのだが、お客がつかず悶々としているうちに廊下の前の同じ年頃の東海商事の社長が(この不動産屋で働いてもお客は少ないぞ、俺のところへくれば仕事はある、来ないか)と誘いを受けて、その日のうちに廊下一つまたいだ東海商事に勤めることにしたのだ。
社長の石川さんはラメで光沢のあるブルーのスーツを着こなし遊び人風の持てそうな男だった。
龍一郎はこの会社の仕事は地上げ屋だと思っていたので大きな取引の話も出てくるだろうと思って勤勉に通ったのだが一向に仕事の話はないのだ。そのうち石川社長は(亮さってからんよ、俺と同じスーツつくってあげるからな)と言ってくれてその日のうちに渋谷の仕立て屋さんを呼んでくれたのだ。数日経ってから石川社長と同じのブルーのラメの光沢があるスーツが届いた。(きてみたら)というので、よれよれのグレーのスーツを脱ぎ、もらった絹のバラ模様のあるワイシャツを着てブルーのスーツを着た。(似合うよ)と言ってくれたのはいいけれど龍一郎はこれでは映画に出てくるヤクザだなと思った。二人は同じ服装で六本木界隈を暇つぶしでよく出かけた。角のアマンドで二人でチョコレートパフェを二つ注文して周り女の子が笑っていたこともあった。
石川社長は退屈な日々を紛らわすために赤坂六本木界隈でお茶や食事を誘ってくれた。不動産の取引情報は全くなく昼間は銀座、六本木、赤坂と不良仲間と深夜まで飲み歩いたこともある。六本木の小さなクラブのドアを開けると龍一郎の歓迎テーマーソングである(京都の夜)を専属ピアニストが挨拶がわりピアノを弾いてくれる。
川崎の居酒屋を潰してヤケになっていた頃は半分ヤクザな行動をしていた。銀行取引停止、身内からは勘当で出入り禁止友人からも嫌われ者だ。行くところないのだ。だから半分は流れによってはヤクザになろうと思って行動していた。
赤坂の名のあるクラブにその道の人に誘われてテーブルでレミーマルタンを飲みながら歓談した事がある。女の子もチラホラいた。男五人中の一人が龍一郎だ。世間話を聞いていると早稲田の印刷屋が潰れて債権者が今晩社長の自宅にやって来るので誰か用心棒になってくれる男はいないかと言う話がでたのです。早い話、債権者が高圧的に出ると恐ろしいから傍にいて話を聞いてもらいたいと言うことだ。手当は五万円だと言うので、金欠だった龍一郎は五万円に目が眩み用心棒に行った。芯が臆病者のくせに用心棒をかってでたのだ。地獄を這い回る人間は善悪の道が見えなくなるようだ。別件では、世話になっていたヤクザの誘いで借金の取り立てに同行した事もあった。建設会社の社長にナイフで脅かされたり、苦い思い出は山ほどある。今の焼き芋屋はそれに比べれば桃源郷にいるようなものだった。

 石焼き芋屋の車は駅の改札口に近い銀行の脇に停めてある。違法駐車だ。警官が来たら、謝って移動させる腹だ。
釜の焚き口に角材を入れ、炎が赤く燃えている。暗い夜道に停めてある石焼き芋屋の車の釜から赤い薪が燃えている光景は人の心を掴まないはずがないと龍一郎は信じて根気よくお客を待っていた。
九時半をすきるころから焼きいもは売れ出した。車の外で、焚き口に頭を近づけ薪を出したり、引いたりしていると、何故か人が集まるのだ。売上も五千円は超えていた。もう少しで七千円に近づく。赤い炎は救いの神に思えるのだった。すると、
六十五、六の見かけたことのある男性が最終前の電車から降りてきた。
(よく、がんはるね、少いか千円ぶんだけくれ)と、愛想よく声をかけてきた。龍一郎その男の顔を炎の陰で見ると
(おとうさんは、新橋駅のローターリの脇で、似顔絵を描いている絵かきさんですよね)
と親しげに声をかけた。
(そうだよ)
(私は新橋のレンガ通りの焼肉屋でアルバイトしていた頃、一年前ごろかな、焼肉屋に勤める前にお父さんの脇でよく似顔絵絵を描くのを見ていました。私も絵心が多少あるので興味を持ってみていました。はいどうぞ、おまけです)と言って笑顔でわたした。
絵かきの親父さんは、笑顔でそうかい、そうかい、といいながら、また来るよといって、闇に消えていった。
龍一郎の流転人生のきっかけは。若い時からの夢で、出来る事なら絵を描く仕事で飯が食えたらいいなぁと思う気持ちが心の底辺でうごめいていたことも原因としてあげられる。大袈裟に言えば矛盾しているようだが、悪の道に染まらなかったのも絵が好きだったからとも言えるし、また反対に転落人生の始まりだったといえなくもないのだ。流転は今も静かに継続中だ。流しの焼き芋屋を始めた動機も誰にも拘束されず生活資金が稼げて時々絵を描く自由時間があるからだった。
油絵は二十歳ごろから好きで時々気の向くままに時間を作り写生に行ったり児童劇団の営業をしながら日本国中の名勝地を訪ねたり、暴力団と付き合っていた時でも描いてた。龍一郎の場合は絵を描く時はどういうわけか生活が厳しい時に描き始めている。何年に一度は展覧会に応募したこともあるが落選ばかりだった。絵描きになる夢は儚く消えたが絵心は消えず今でも石焼き芋屋の車に乗せて楽しんでいる龍一郎だ。絵心は只今冬眠中といってもよい。2045063

川崎の居酒屋も、職人としては半端者と分かっていたし、それでは、経営はいずれはつまづくと、予想すらしていたのた。
得意先のおばちやんが、小さな画廊をしていて、薦めるまま、誰だか解らない、将来は有望な絵かきだと言い値で買ったりしていたから、店も傾く要因が潜んでいたのだ。
(俺も何時かは、画廊に出せる絵を描きたい)と考えていたいたのである。
その流れの川が、今の焼きいも屋につながっているのだ。
龍一郎の運命的な言霊が秘かにうずいているのだ。マグマのように心のどこかで対流をしていりるのだ。

長津田の終電は龍一郎が気がつかないうちに姿が消えた。
倅の月謝はなんとかクリアできて、ほっとした龍一郎は、カンコヒーを一気に飲み干すと、家路についた。
(ほら、月謝だ。8000円ある。悪いな)
恨めしそうな顔をして、妻の和子はさりげなく受け取った。
月謝を入れる茶封筒が小さな古い仏壇の前に置いてあった。



本の中味に感動したわけではないが、小田実に著者(何でも見てやろう)のタイトルに魅せられて自分でも何かをしなければと言う衝動にさせられたのは確かであった。
(ベトナムには恐ろしくて行けないが、何かを探さないと道が拓かないと焦っていた時期でもあった。
このころ、やはり親父の跡を継ぐのがベターなのかどうか、自分を試す意味で銀座の酒屋の店員になってはみたが、やはり酒の配達の毎日に嫌気ふほがさして、早々に逃げ出した。
次は中堅どころの劇団養成所に入ったが、台詞が覚えられそうもないので、これもだめ。
とかと言って、合間をみての酒屋の手伝いは貴兄と反りが会わないばかりか、高校の友達がみな、我が路を歩き出しているのを観てて、なにか、自分だけが取り残されていくような哀れさを感じていたから、今の世界から脱出しようとしていた。

焼き芋の屋龍一郎の源流を辿ればこんな背景があり、今から思えば計画性のない、行き当たりバッタリの淋しい世界に身を置いていたと言える。逃げても逃げても、親父が龍一郎に酒屋の跡を継がせたいと思う心魂が影のように龍一郎の脳裏を悩ませていた。
親孝行と親不孝の狭間にいたのだ。

それから、悶々とした日々を重ねて、酒屋の手伝いをしていたが、やはり、俺の進みべき路は酒屋の跡を継ぐことではないと、真面目に考えるようになり、親父様と別れを告げることになる。


えーいと、龍一郎は再び家を飛び出し、恐らく母を脅かして、騙して、旅費を捻出て、当てのない旅に出ることにした。
東海道線の夜行にのり、名古屋に着いた。別に名古屋に当てがあるわけではない。

名古屋の街中の公園のペンチにボーッと座り込んでいると、変な親父がきて、パチンコ屋の店員になって、(俺が、座った台に玉を出せ、分け前は出す)という怪しげな話を持ち込んできた。流石名古屋はパチンコのメッカだなーと感心はしたが、聞く耳持たず、その場を立ち去り、残りの金も僅かしかないので、食べていく仕事を探さねばならない龍一郎、は、こともあろうに、ヤクザ志願を思いついたのだ。
(この辺りの物語りは別項で記載します。焼きいも屋編なので割愛)


名古屋の旅けら3年、流転の旅は、親父が交通事故にあい、親父自ら退職願いを自衛隊に送り届けたために龍一郎は隊長の意見を参考にして除隊を余儀なくされることになったのだ。
自衛隊を辞めて、親父の意見をしぶしぶ受け入れて酒屋に戻るのだが、やはり龍一郎は落ち着きを保つ事ができないていた。

それから、数年して酒屋の跡を義兄に譲り龍一郎は結婚し独立して、親の力で川崎の繁華街に小さな居酒屋をもらい暮らしを立てたのだが、女房の和子が純で元気でがんばっていた12年続いた店も、謙介の世間知らずとお金の重たさが解らずの、経営力の欠如がもとで、結局最後は暴力団に渡す体たらく。
この頃は既に子供が二人いた。子供たちはすくすくと遊んでいた。
店を畳んで5,6年経ったのが、今の焼き芋の引き売りだ。この間、居酒屋をやめたはいいのだが、一般的に言うと、よく聴く社長の放漫経営が殆どの原因なので、1700万円程の借金が最後に残り、裁判所、暴力団、債権者、などの対策に翻弄される始末。
次の仕事もままならず、新聞配達、掃除屋、焼肉屋のパート、水道工事の手元、など働きに行くのだけれど、なんだかんだで長続きはしない状態が続いていたのである。
謙介自身も
俺は中途半端な男だ。と認めざるを得ない状況だったので、半端な男の代名詞がわりに、
半端男の龍一郎と言われることに依存はなかったのである。今の焼き芋屋もその流れの中にあるのだ。


間近に冬が近づどうか、自分を試す意味で銀座の酒屋の店員になってはみたが、やはり酒の配達の毎日に嫌気がさして、早々に逃げ出した。
次は中堅どころの劇団養成所に入ったが、台詞が覚えられそうもないので、これもだめ。
とかと言って、合間をみての酒屋の手伝いは貴兄と反りが会わないばかりか、高校の友達がみな、我が路を歩き出しているのを観てて、なにか、自分だけが取り残されていくような哀れさを感じていたから、今の世界から脱出しようとしていた。

焼き芋の屋龍一郎の源流を辿ればこんな背景があり、今から思えば計画性のない、行き当たりバッタリの淋しい世界に身を置いていたと言える。逃げても逃げても、親父が龍一郎に酒屋の跡を継がせたいと思う心魂が影のように龍一郎の脳裏を悩ませていた。
親孝行と親不孝の狭間にいたのだ。

それから、悶々とした日々を重ねて、酒屋の手伝いをしていたが、やはり、俺の進みべき路は酒屋の跡を継ぐことではないと、真面目に考えるようになり、親父様と別れを告げることになる。


えーいと、龍一郎は再び家を飛び出し、恐らく母を脅かして、騙して、旅費を捻出て、当てのない旅に出ることにした。
東海道線の夜行にのり、名古屋に着いた。別に名古屋に当てがあるわけではない。

名古屋の街中の公園のペンチにボーッと座り込んでいると、変な親父がきて、パチンコ屋の店員になって、(俺が、座った台に玉を出せ、分け前は出す)という怪しげな話を持ち込んできた。流石名古屋はパチンコのメッカだなーと感心はしたが、聞く耳持たず、その場を立ち去り、残りの金も僅かしかないので、食べていく仕事を探さねばならない龍一郎、は、こともあろうに、ヤクザ志願を思いついたのだ。
(この辺りの物語りは別項で記載します。焼きいも屋編なので割愛)



間近に冬が近づいていた。


(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

龍一郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は龍一郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法龍一郎は42歳になっていた。


す東急 田園都市線と国道246号線が平行して走る青葉台、田名、長津田、駅周辺はその名のとおり田園風景がしばらく続く癒しのルートでもある。
大きく区画された田畑は植木の栽培で緑の絨毯を敷いたようだ。
賑やかな渋谷方面から246号線を下り、二子玉川駅を超えると木々の彩りが増えてくる。この辺りが喧騒な都会に別れを告げて緑の多い世界に入る分かれ道だ。
今は秋、草木の緑も土に帰ろうとするころだ。
この辺りの木々は植木を育て販売するために植えられた常緑樹が多い。夕方になると田園の遠くに見える丘には時折りあかね雲が天空を染めていて見事なロケーションを醸し出している。
この広い田園の小道を石焼き芋屋の四十五歳になる吉岡良太は寒くなる晩秋から春の訪れの短い期間だけ焼き芋釜を載せた軽トラックを運転して焼き芋を売りに行く準備の為にこの緑地を利用する。
街の片隅で石焼き芋の薪を燃やすと煙が出るので近所迷惑になるからわざわざこの田園地帯を選んで焼き芋を売りに行く準備をするためだ。彼にしてみればこの人影の少ない、黒い土と緑のあるこの風景が焼き芋の仕込みをするには都合がいい場所だ。他人に気遣いしなくて済むからだ。焼き芋の仕込みで街中で白い煙を出すと(あの焼き芋屋さん常識がない人ね)と白い目で見られると思うからだ。
身につける服と言えば背広はいらないし、革靴なんて気取らなくてもいい。引き売りの焼き芋屋の身なりは大方、野球帽をかぶり、使いこんだ作業服で紺地の前掛けを締めて、タオルを首に巻いた野良着のような姿が定番だから気を使わないで済む。この焼き芋屋の気軽な姿は堅苦しくなく良太の様な気楽な男にはお似合いだ。自由奔放で思い込んだら後先見ずの一直線の性分はこの石焼き芋屋にもいかされいるようだ。

東急田園都市線のつくしの駅から緑の多い坂道を暫下って行くと川があり橋を渡った道沿いな二階建ての八世帯が住む賃貸マンションがある。良太はこの小さな庭付きのマンションに家族四人で暮らしている。このマンションの駐車場から石焼き芋屋の良太は石焼き芋の売れる秋から春先まで毎日のように長津田周辺の田園に行き焼き芋の仕込みをしてから軽トラックで焼き芋の販売に出かけるのが日課だ。
マンションに隣接して車六台がおける駐車場がある。仕込みに出る夕方までは駐車場の一角に石焼き芋の釜と提灯をぶら下げた軽トラックが置いてある。r良太の愛車である焼き芋売りの軽トラックだ。

石焼き芋屋を始めた頃だった。夕暮れ迫るある日、良太はこの軽トラを運転して多摩川の土手沿いにある県道を六郷橋方面に向かって走っていた。
県道の右下には川崎競馬場の競走馬を管理する厩舎があり、その合間を馬の手綱を持ってゆっくりと歩く厩務員の姿が見え隠れしている。車を運転しながら良太は十二、三年前の自分の姿を思い出して苦笑いをした。なぜかと言えばこの川崎周辺は十年近く暮らしていた場所で馴染み深いところで、川崎駅前の商店街の片隅で二十坪ほどの居酒屋を経営していた場所だからだ。苦笑いの理由は居酒屋の利益の一部ををこの厩舎にいる競走馬の餌代にしたと思っているからだ。(馬の餌代にした金は五百万円ぐらいかな、競馬狂いからすれば大した金ではないな)と当時を回顧していた。競馬場の特別室で居酒屋の馴染みのお客様とソファーに座って競馬の予想をしたり、買ったり商売そこのけで夢中になっていた。
馬券の違法行為であるノミ屋に傾注して結局店の運営も放漫経営になり十一年ほど続いた店も暴力団の餌となった。その頃は勝てば勝ったで、地元ではちょっとは有名なキャバレー通い。ナンバーワンのお姉さんの取り合いで競輪選手と張り合い勝ったこともある。挙げ句の果てにキャバレーの彼女と妻の和子の目を盗んでわ四国高知に競馬場巡りだ。金は留まることを忘れて悪の世界に真っしぐらだった。
良太は(あん時辞めておけばなぁ)遊び人紛いの自分と悪の連鎖を断ち切れなかった自分を思いだしながら石焼き芋屋の軽トラックを運転していた。

軽トラは嫌な思いでのある川崎厩舎付近を離れて六郷橋を目指して次の焼き芋を売るため県道を走っていた。江戸時代の宿場町である川崎宿にある稲毛通りも県道をもう少し走り右折すればもう直ぐだ。夕方に近いせいなのか行き交う車は多い。良太は
裕次郎の(夜霧よ今夜も有難う)を口遊ぶながら運転していると後ろから来た赤い車を運転する若いお兄さんが大きな声で、窓から手をあげて
(おじさんよ、荷台から火が出てるよ、車燃えるよ、危ないよ)と言って通り過ぎて行った。
良太は慌てて車を隅に停めて荷台に上がり釜の近くに積み重ねた燃えている端材を腰にまいてる前掛を外して叩きいて消した。火は焼き芋釜の際に置いてある燃料にする木材から出ていた。荷台のでたき火をしているようだ。ブロックで釜と燃料の木材の間を仕切っていたけど、釜が普段より熱くなっていたのが原因だった。追い抜いて火事を知らせてくれたお兄さんに感謝感激雨あられだ。釜の中の燃えるのなら当たり前だが、荷台で直に薪を燃やすなんてビックリ仰天だ。落語にもならない。こんな新聞記事になりそうなことを起こすようだと焼き芋屋は失格だなと自分を責めながら急いで県道から離れて土手下の路地に入り車を止めて荷台の焼け焦げた材木を整理して落ち着きを取り戻すと傍らの縁石に座り首に巻いている手拭いで顔を拭いた。
またある時、焼き芋を売りに行く準備をする前に軽トラックにガソリンを入れるのだが、引き売り販売中にガソリンが切れそうになりガソリンスタンドがあったのでで給油しようと場内に入りスタンドマンに合図をすると、ビックリした表情をして両手を降って声をあげて近づいてきた。(あれなんだ)と良太は思って車を止めた。するとスタンドマンは
(危ない・危ない、早く出てくれ)とビックリした顔つきで良太に叫んだのだ。良太は(そうか。焼き芋屋の車だ)と気がついて道路に出て車を止めて、改めて(悪かった、ごめんなさい)と謝り赤いポリ容器を借りて自分でガソリンを給油したこともある。今思えば恥ずかしい話だ。
妻の和子にはこんなみっともないことがばれたら子供を連れた即座に帰国(実家の信州)だ。彼女はそれでなくても夜遅く良太が、ちんたら提灯ぶら下げて帰って来るのが気に入らないのだ。

町田駅の焼肉屋でパートで働く妻の和子は〔焼き芋屋の車なんてここに止めないで、よその駐車場を借りてよ〕と半次郎に毎日のように言っていた。
世間の目を気にしいているのだ。妻の言い分は、青春真っ盛りの兄の高校生と妹の中学生の子供が、友達から(お父さんの仕事は何しているの)と尋ねられたら(石焼き芋屋)と言うようなるから子供に恥ずかしい思いをさせるので可哀想だと言うのだ。妻の和子は見栄っ張りなところもあるので解る気もするが良太には過去の地獄のような暮らしから解放された今の石焼き芋屋の仕事は心の安らぐ職場なのだ。
それに加え、焼き芋屋が汚れて疲れる仕事だから敬遠されると言う人もいるが、その人こそ仕事で差別する哀れな人間だと思っていた。
石焼き芋屋の定番は東北地方から出稼ぎに来る男たちで、リヤカーに石焼き芋の釜を載せて売り歩く商売だ。都会のサラリーマンの子供から見れば驚きであり、不可思議にうつるから、和子は平凡な仕事をしてもらいたいと思っているのだ。一言で言えば(みっともないから焼き芋をお店で売るならいいけれど、軽トラックて売り歩くのだけはやめてちょうだい)と言うことだ。
仕事に貴賤はないという考えは大人の都合の良い言葉でしかないと和子は思っているようだった。
和子は体裁が悪いから子供たちには(昼間は敏夫おじさんが経営している水道工事の仕事をして、夜は焼き芋屋さんから頼まれてアルバイトで焼き芋を売っているの、学校にお金かかるからね〕とごまかしていたようだ。
和子自身は職業として焼き芋屋さんの引き売りは悪い仕事とは勿論思ってはいない。泥まみれになる水道工事の手元より、一日二万円以上稼ぐ時もある焼き芋屋の方が率がいいからだ。
ただ、子供の目線から見れば(僕はお父さんみたいに将来は焼き芋屋になりたい)とは言わないと思うので焼き芋屋が良い仕事とは言え無いのだ。
半次郎は今は石焼た。の引き売りで家族の生活費を稼いでいるが、本来は東京中野区戦前からある酒屋を継ぐべき長男であった。太平洋戦争が勃発して日本がシンガポールに上陸しようとしたころに良太は生まれた。兄妹は上が女が三人で初めて男が生まれので、甘やかされて育ったようだ。幼少期は戦後間もないのでオモチャは無い時代だから姉たちのお人形で遊んだと言う。
商家は長男が跡目を継ぐのが慣わしとなっていたので良太は酒屋を継ぐ運命だったのだ。しかしこの慣わしが今思えば転落人生の序曲の始まりだった。
良太は小学生の頃から算数や理科の成績が悪く中学に行っても英語、数学、国語、まぁ、ほとんどの成績は良くなかった。商人だから親も勉強より酒を配達するから体力があればいい思っている節もあるので教育にはさほど熱心とは思えなかった。良太は少年の頃から絵を描くことが好きだった。中学部、高校とも勉強しなくても美術は最高点だった。その感性が邪魔をして酒屋になるのが嫌で母親に噓をついて旅費を工面して放浪の旅にでたり、職を求めて家出したりして親を困らせていた。挙げ句の果てに酒屋の跡継ぎを放棄して転々と職業を変え、時には暴力団の餌食になり、挙句の果てに身を滅ぼし今日の石焼き芋の引き売りに至ったということです。
和子と子供達はそんな甲斐性のない父親だけどカルガモの親子の様にあっちこはっちぶつかりながらついてきていた。

良太の青春時代と言えばベトナム戦争、安保闘争など戦争にまつわる時代だった。その影響もあって世の中は戦争、矛盾、堕落、疑問、国体などで世相は荒れていた。良太も保守的な酒屋の跡継ぎだからという発想を心の奥にしまい込んで自分発見の旅に憧れて何処かに新天地を見つけたいと考えていた。酒屋から逃げようとする良太の心は大学受験で頑張る友人を羨ましく思っていた。それに比べて俺はなんだ、ただの酒屋かと半分やけくそで学校に通っていた。その軋轢が行動に現れた事がある。
高校の国語の授業で先生の話を遮って先生に向かって(先生の話を聞くより仲代達矢の映画『人間の条件』を観たほうがためになる)無礼をしでかしたのだ。教師に対する無礼行為はそればかりではなかった。教室から抜け出して商店街に行って昼飯を買いに行ったり、黒板に(先生、勉強はグランドで待っています)と教室の授業をやめさせてグランドでソフトボールを皆でしたこともある。先頭に立つて勉強の妨げる行為をさせたのにクラスメートは文句が出なかった。
先生や友人達に迷惑をかけたのはやり場のない心の捌け口だったのだが(あいつは不良だ。落第間違いない)と言う陰口もあった。現に父は担任の先生に呼び出されて卒業が危ないと注意された。

酒屋の跡継ぎになると当時の酒屋の販売の方法として御用聞きという家庭を訪ねて酒、味噌、醬油などの注文をもらってくる仕事が多かった。良太はこの御用聞き営業に超ストレスを感じていて嫌気を指していた。
高校時代は勉強はできなくてもクラブ活動とかスポーツとかで女学生からも関心を持たれていたので卒業して直ぐに前掛けをして自転車に乗って酒屋の御用聞きになるなんて屈辱の極みなのだ。
酒屋になるともしかして同級生の彼女の家に訪問営業をしなくてはならないのだ。初恋の彼女に明治時代じゃあるまいし前掛け姿で腰に布袋を下げて耳に鉛筆を挟んだ姿をを見せられる訳はないだろうと思い悩んでいた良太なのだ。
(おはようございます。御用聞きの泉屋です。味噌、醤油、酒、ビール、など如何ですか)と言って立ち寄ることになるのだ。ビューティフルロマンの青春時代に爺臭いキッコーマンの厚手の前掛けをしめに彼女の家の勝手口のドアーをノックして開けて(味噌だの醤油は入りませんか、来月からビールが値上がりします、今のうちにどうですか)とかの口上を言うのだ。超哀しい青春の地獄絵なのだ。さらに、自分の人生は自分で決めると決心しているから酒屋の跡継ぎになるのには抵抗があった。
高校を卒業すると、直ぐには酒屋を継がないで、新聞広告の募集を見て銀座の酒屋に自ら勤め出したのだか、配達ばかりで嫌気をさし数ヶ月で辞めて実家の酒屋に戻ったのだ。華の銀座だが路地裏の配達は体力勝負でどこも同じだった。
 実家の酒屋にもどっても姉夫婦が親の面倒を見ながら仕事帰りに臨時ながらも店を手伝っていたのです。義兄は経理畑だから商人には適任だ。そのうち酒屋をやりたいと思っているはずだと考え、良太はこれ幸いに(何も俺が跡取りの長男だからと言って酒屋を継ぐことはないだろう。むしろ俺が他に勤めた方が良いだろう)と思うようになって家を出る決心を固めていくのであった。適当に酒の配達しながら悶々としているとクラスメートの布団屋の倅が浪人して勉強し直して國學院大學に進学すると言ってきた。良太の悪友だ。高校時代に新宿歌舞伎町のキャバレーに行って遊んだ仲間だ。
学友の殆どは夢を抱いて大学進学だった。この青春の運命の違いに落胆し学問に励まなかった自分をせめても手遅れだった。
悶々と日々をおくる良太だか、ある時、学生時代の中で印象に残る言葉を思い出していた。
高校時代の校長の訓示の中に(諸君は可能性そのものである)と朝礼で言った言葉が良太の脳裏の隅に残っていて(そうか可能性か、俺も芸術家か新聞記者か、何かの社長でもできるかな、勉強はしないで遊んでばかりいたけれど、奮起一番勉強し直すか)と言う想いが募っていた。良太は学問をし直すために代々木ゼミナールの門を叩いて家庭教師を紹介してもらい貧乏家庭教師の借家と言っても納屋程度の部屋で勉強を始めたが、(俺が勉強をするより先生が勉強した方が世のため人のためだ)とか言って月謝を余分に渡して辞めてしまった。ようは勉強についていけないので逃げ口上だった。その後も浪人の肩書で友人と予備校に通うのだがレベルが高いのでついていけず、浅草で遊んでいたのだ。こうなると大学受験は諦めるしかない。程度が低いから話にならないのだ。良太は予備校を辞めて酒屋に戻って次の対策を考えながら酒の配達を手伝っていた。
 
良太が酒屋を継ぐ気持ちが無い事を感じていた父は姉達と相談して商売がやってみたいと前々から言っていた長女の婿である森田さんを大手の会社を辞めて貰い酒屋の継ぎになってもらったのです。
良太は暫く浮遊粉塵のような気持ちで店を手伝っていたが、やはり心は酒屋にあらずで、二度とこの家には帰らないと母親を脅かして家出資金を強引にもらって家を飛び出した。家出したのは夕方で、店の前の京王バス停留所にソニーのロゴが入った小さなバックを持って新宿行きのバスを待っていると母親が白衣姿で(半次郎、もう二度と帰ってこないなんて言わないで、家を出ていくのはやめられないのか、お父さんにはちゃんとはなすから)と良太の袖を掴みながら引き止めたのだが、あいにくバスが来てしまい、振り切る様にバスに乗ってしまった。離れるバスの窓から悲しそうな母の立ちすくむ姿が目に写るのだった。+

後日談だがあの場面で母がもう少し良太の袖を掴んでいてくれたら、家出はしなかったと思うと本人は述懐している。人間の運命は計算外の数合わせのようなもので(なんとかなるだろう)だと思う半次郎だった。
夜行の東海道線に乗り名古屋についたのは明け方だった。駅前のロータリーには人影も少ない。冬もそこまで来ていたので行き交う人も足早に感じた。
念願の一匹狼になったはいいけれど衣食住つきの職を探して飲食街を主に二、三日うろうろしている内に金がなくなり、駅前の広場にあるベンチて座って途方にくれていると中年の作業服をきた男が(おい、お兄ちゃん、俺と組んでパチンコで稼がないか、お兄ちゃんか店員になって裏から玉を出せばばいい。儲けは山分けた)と悪の道の誘惑があり、良太は一瞬そんな、危ない話にはのれないと思い男を無視してベンチから離れて街中に消えた。
賑やかな商店街を歩いていたらモダンな喫茶店があつた。店の名前はボンソワール。中に入るとヤクザ風の数人の仲間が歓談していた。その日の宿代もない良太は怖いもの知らずというのか、崖から飛び降りるという気持ちというのか、やけくそ半分で腹を固めて、先の運命は考えずに(すいません、私は東京から来たものですが食うにこまりヤクザになりたいので紹介してくれませか)と自分でも驚く、とんでもないことを若いグループのリダーらしき男に話すとしばらく仲間と顔を見合わせ相談を終えると1人が立ち上がりカウンターの電話で(兄貴、ヤクザになりたい男が会いたいとここにきてますが)と電話をした。話はとんとん拍子に進み、三十歳ほどの兄貴分らしき茶色のスーツを着たヤクザさんが来て半次郎と面談して、ヤクザの就職がきまった。東京の酒屋のボンボンがヤクザの面接試験に合格したのだ。飯代なしは生きるために乞食でもしないと生きられない。ヤクザ面接試験合格発表は冗談としても生き延びる術を掴んだだけでもホットする良太だった。
(お前は良い男だから大通りのキャバレーマリアンでいい女でも見つけてうまくやれ、夕方四時にマリアンにいき、店の前に水をまいていろ、蛇口は左の端にあるから)といって去っていった。(そうか、綺麗な女と仲良くなってか、東映の映画だな)と落ちていく自分を忘れていた。
良太は時間潰しに花街を散歩してマリアンについた。名のある店なのか華やかで入り口も広く、ネオン看板も派手だ。夕方四時からの勤務なので早めに店に着いて壁際にある蛇口からホースを取り出しキャバレーの入り口辺りに水をまいてオープンの準備をしていた。

(俺もとうとうヤクザの仲間入りか、喧嘩は好きではないしなーボクシングは勉強を諦めたころ、中野のジムに通ったが、運動が激しくついていけそうもないので三日でやめた意気地のない男だ。でも、やる時は体を張ってやらないと生きていけないな)と明日の我が身に不安を抱えて外水を撒いていた。
すると、目の前の大通りに祭りの行列通っていく。武者行列だ。半次郎は立ち上がり行列を見て我に帰った。
(何だ俺は、何をやっているのだ。こんなとこでヤクザになろうとなんて。目が醒めた。逃げるのだ。逃げるぞ)辞めると言うと何されるか分からない、何処かに連れていかれこき使われるかも知れない。
半次郎は有り金で行けるところまで逃げようと奈良まで逃げた。奈良は中学の修学旅行で少しは馴染みがあった。家出のベストテンは修学旅行地らしい、良太もふと頭を過ったのは奈良だった。残りの金千円あるかないかだった。
奈良に着いたは良いけれど街中をフラフラ歩くだけで良い知恵も沸かないでいると、大きな看板に自衛官募集を見つけた。
運命は瞬間に生まれる。自衛隊奈良連絡所に飛び込んだ。明日の飯がないからだ。
大名行列と遭遇しなければヤクザ街道まっしぐらかも知れない。その日は地方連絡所の自衛隊員さんのはからいで私費でコッペパンを買ってくれた。ベッドは近くの隊舎らしい長い二階建ての木造作りの部屋を提供してくれたあ。長い廊下があり、部屋には誰もいない。一人で寝るのは怖かった。その後は隊員さんの計らいで試験を受けて入隊ができた。あとは事務手続きで一旦東京に戻ることになった。身辺検査だと思った。
両親に内緒での入隊したが、家出の身だから東京の実家の酒屋には戻れず、酒屋の得意先で親しい山中さんが経営する中野駅の近くにあるバー里に居候する事にした。山中さんは方南町でラーメン屋も経営している社長さんだ。良太は酒の配達の途中にこのラーメン屋てサボり社長と世間話しなどして親しく付き合っていたから父親に内緒で匿ってくれた、自衛隊から試験に合格しても、入隊まで本人の身辺調査が二月はどかからと言う。その間半次郎は家出の身だから山中さんにその間お世話にならなくてはならないのだ。
いずれは山中さんは取引先の倅の良太を匿っている事を黙っているわけにいかないので彼の口から父親に連絡が行くと思ってる良太だった。暫くして山中さんから父に此処にいる事を連絡したと言はれた。多分、家出した倅か自衛隊に入隊したことを喜んで安心したのではないかと良太は思っていた。自衛隊勤務調査書みたいな書類があるのか無いのかは知らないが、本人確認のために父親に連絡はあったと思う。
食うに困り、思い切って三食付きの自衛隊に入隊して食うことに心配が無くなったことで何か重石がとれたようで元気な青年に戻っていた。そして楽しく順調に自衛隊の月日を重ねていた。教育隊は四国善通寺で学び富士駒門では戦車を運転して良太はこの時期は輝いていた。中尾エミさんの(可愛いベビーハイハイ)の歌が流行っていたころだった。
北海道で(階級二士)昔の二等兵として戦車隊員として砂塵にまみれたり、道の側溝つくりに汗をかいたりして身体も逞しくなっていた。
その内、良太は自衛隊に勤務しながら夜学の大学か通信教育で学びながら大卒の資格をを取り各種の国家試験にでも挑戦しようと真面目に考えていた。
両親や義兄は良太が二年間の年期を終えたら戻って来て酒屋で共に働き業績を上げていこうと考えていたようだ。
個人商店を株式会社組織にして経理畑の義兄が社長になり良太が専務という筋書きだ。
義兄と長男という立場は将来、会社の方針で確執が起こりお互いに離れていくようになると良太は思っているから自衛隊に長く勤めて自力で運命を開くつもりでいた。
両親や姉夫婦は良太の将来を心配しながら暮らしているのに良太はマイペースで自衛隊員として活躍をしていた。
時には台風が北海道を襲い災害派遣で余市に行き、握り飯を食べながら川の氾濫に備えて土嚢袋を運ぶ作業や災害者の救援活動に従事したこともある。台風が終息して真駒内駐屯地に帰る時、余市町の子供たちから地元産の幅の広くて長い昆布を土産にもらって帰隊したことを嬉しい思い出として今でも脳裏に残っている。また明治時代の屯田兵のように道路建設に汗を流したこともある。

 その頃実家の酒屋では変化が起きていた。
商才のある義兄は個人商店を株式会社に変更して父が会長で義兄が社長になり酒の業務用販売にも力を発揮し社員も増えて業績も右肩上がりなっていた。
ある日、自転車に乗った父が甲州街道でトラックの下敷きにあうという交通事故に巻き込まれ腰を手術するほどの怪我を負ってしまったのです。幸いにして入院は長引かなかったが、外に出られない状態が続いたせいか、精神的、肉体的に憔悴していた。そんな時、昔気質の父は酒屋の跡継ぎを倅にに託したいと言う希望を捨てきれず自衛隊を辞めて酒屋に戻ってもらいたいと義兄夫婦に相談したのだ。義兄も長男の良太に戻って来てもらい人手不足の穴を埋めてもらいたいと思っていた。出来の悪い後継の長男でも、それなりに立てて行かなければならないから義兄も大変なのだ。酒屋の社長になれたのも長女の縁だから義兄は相当気を使っていたはずだ。
相談を受けた姉夫婦は父親の了解を基に良太が勤務する専属隊長に父親が交通事故で障害を負い人手が足らなくなり酒屋の跡継ぎになる良太を退職させてもらえないかとの内容の手紙を隊長宛てに送ったのです。
義兄も跡継ぎの長男の扱いには苦悶しているようだった。本人が自衛隊が好きならそのままでいいと思っていたと思う。その反面父の怪我や姉の心を察して何とか専務として活躍した貰いたいと思っていたはずだ。結局、隊長の意見も加味して半次郎の意思で自衛隊を退職して東京に戻ることにした。
半次郎は津軽海峡をわたる青函連絡船のデッキに寄り掛かり、潮風を受けながら、離れたく無かった自衛隊の暮らしを思い出していた。僅か十か月の勤務だったが、せめて国家公務員の最低契約期間である二年間は勤めたかった。
 
 自衛隊を退職して酒屋に戻ってみると義兄が社長になってからの酒屋は社員も増えていて二トン積みの運送用トラックも増えていた。
さすがに古い御用聞きの仕事は時代遅れになっていて電話注文がメインだった。良太は肩書は専務だが酒を配達するトラックの運転手としてビール、酒を積んで東京都内の飲食店に配達を朝から晩まで働いた。
専務としてと仕事は何もなく名前ばかりにで問屋さんと打ち合わせをする訳ではないし、銀行、税務署など、一切交渉事はなく、全て社長の義兄がこなしていた。半次郎自身も経理とか数字にまつわることは得意ではないし、興味もない、寧ろ逃げたい気持ちであったから経営的な意見は皆無だった。。
酒を売ってどれだけの利益があるのかも漠然と分かっているだけで金を儲けることに興味がわかない男だった。数年が過ぎて良太は二十五歳になろうとしていた。
(なにが専務だ、小さな酒屋の専務なんてチャンチャンラスおかしい。ただのトラックの運転手ではないかこんな仕事は俺の性分に合わない。歳をとっても、義兄の指示には逆えない。なんのために生まれて来たのか)と自分に対して不満の渦が芽生えていた。逃げ出す術を夜な夜な考えていた。
そこで考えたのが通信教育だった。大卒か専門学校卒業の資格があれば何かに挑戦出来ると考えたのだ。昼間の大学に入ると入学金が必要で酒屋の実権を握る義兄に相談をするのが嫌だし勉強は高校時代から酒屋の跡継ぎだからと諦めていたから受験勉強は皆無に等しいので通信教育に挑むことにしたのだ。本来は目標がはっきりしていれば、中卒、高卒、大卒の学歴は気にしないで良いはずだが、曖昧な良太は学歴は必要と思っている。そんな弱音を吐く自分は弱い男と思っていた。
義兄は通信教育を始めた良太の生活と酒の販売を兼ねて酒屋の隣にある倉庫を改修して十坪程の居酒屋を始めたのです。店の運営は須藤さんと言う板前に任せ良太は手元として働き,焼き鳥、刺身、煮込み,天ぷらなどの料理を手伝い始めたのです。店は夕方開店なのでそれまで間は中野区図書館で勉強をしていた。夕方になると店に出て働いていた。
しかし二年ほど続けていた通信教育は二年で頓挫した。理由は勉強が苦しくなったのだ。本人曰く英語の壁が越えられないのだと。悔しいが英語のレベルは中学生以下で単語、文法は手に負えない代物だった。負け惜しみだが高校がドイツ語必修科目であったことも理由の一つだ。辞めた理由はほかにもある。夜遊びだ。遊び好きな板前の須藤さんと店が終わってから新宿歌舞伎町界隈に夜遊びに行く機会が増えたのだ。高校時代の友人達に負けないように少しでも追いつこうと始めた通信教育だったがその奇特な精神は甘い夜風に吹かれて散った。
半次郎の身勝手な感覚はその後の人生に影を落として行き、数年後に地獄絵を見ることになるとは気がついていなかった。義兄は通信教育を諦めた良太をコネで大学に入らないか知人に相談したのだか、大学受験の結果は(もう少し点が取れれば合格だった)と仲介者に言わらたと言う。良太は義兄の想いを素直にありがたく思った。受験学科は商学部だったので落ちて正解だった。(俺は文学部か芸術学部が希望だ)と言いたかったが、なんとか酒屋に留まって貰いたいから商学部を薦めたと思う。芸術学部なんて言うと(好きな様にすれば、その代わり入学間は出せない)と言うはずだ。
他の大学二校も勉強不足で見事に落ちた。良太自身も大学受験は定員不足か地方の私立大学ならなんとか合格出来ると思っていたが、それまでして進学する気力は消えていた。
父と姉夫婦は投げやり気味で仕事に真剣に打ち込まない良太を見ていて嫁を貰えは仕事に身が入るのではと考えたのか、義兄の親戚の女性を嫁にして丸く収めようと見合い写真を見せたが、もともと自由奔放で古い風習を毛嫌いする性格は(俺は自分で見つけるよ)と即座に断った。しかし心の中では写真の女性は和服わ着た小柄で美しく優しいそうな女性だった。
その後、良太は信州から上京して酒屋の店員として働いていたあの女(焼き芋屋は早く辞めて)と良太に言った女がいます苦労しているママ和子なのだ。
結婚式には姉夫婦は出席する気持ちもなさそうなので呼ばなかった。結婚式は明治記念館で友人と親戚だけの小さな結婚式だった。この結婚式を境に義兄と確執の序曲の始まりだった。
結婚後の良太は長男の特権とばかり、酒屋の支配下にあった川崎の駅前商店街にある居酒屋の運営を義兄から経営権を強引に譲り受け、夫婦で独立をして店を切り回していた。
義兄との確執は良太の独立心が原因だった。
良太は(義兄は父と姉で上手く酒屋を切り回せばいい、俺は義兄な世話にはなりたくない)と決めていたので強引に義兄夫婦に独立を詰め寄ったので仕方なく義兄は折れたのだった。金銭的には姉夫婦と父は困り果てて父の財産を会社が買取る形をとり、居酒屋の賃貸契約名義には良太がなり、両親と良太は武蔵小杉に一戸建てに住む事になった。金は社長の義兄が何処からか借り入れ父親名義の土地を買うかたちで出すことで話がついた。
義兄と良太の人生行路はこの時がわかされであった。
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独立して居酒屋を経営を十年ほどしていたが放漫経営が命取りとなり、居酒屋の経営権は十一の金貸しに取られ、父親名義の一戸建は競馬の飲み屋の支払にあて、残った金はもともと親のものだから良太の馬鹿さかげんに追い出されて真面目な弟が住む吉祥寺駅の近くにあつた小さいマンションの購入資金に消えていった。親不孝の典型な男になってしまった良太は三人の家族を残して全てを失いどん底生活の道を歩む事になる。
妻の和子は真面目な酒屋の息子との結婚だからと悦になつていたとは思っていないがとんだ男と夫婦になってしまったもんだと思っているはずだ。この頃和子の脳裏は離婚の二文字が踊っていたはずだ。
後で聞いた話だけど信州に戻れば整骨院を経営する彼がいたと言う。人の運命は一寸先は闇だ、杓子定規に行かないのが世間だ。良太は居酒屋のお客様扱いは上手で板前もいて味もそこそこだったので十年近くも商いができけど、人が好いので川崎の駅前商店街の奥庭は堀之内と言う色街だから(ねぇマスター今度お店に来てね、お願い)なんて言われると四人ほどいた従業員を交代で誘っては遊んでいた。人の好い性分を 見透かされヤクザ屋さんと付き合うようになり、盆暮には必ず挨拶にきて絆を深くして行った。その縁で競馬、麻雀にはまり、店をも取られた、全てを失い挙句の果てに生きる道か見えなくなり女房子供を捨てて関西に逃げだしたが、土方や運転手にもなれず、情けなく戻ってきた男が今の焼き芋屋の良太だ。
彼は運の強い男で勝負事は下手くそだが人間復活の勝負には不思議と負けたことがない。子供を捨てる気持ちで関西に逃げたが信楽焼の壺をぼんやりと眺めていると(やはり俺は死んでもいいが生んだ子供たちには罪はない。そうと分かれば子供のために生きるのだ。もう遊び人のような不埒な生き方は止めた)と天からの声を聴いて飛ぶようにして戻り生活と債権者から逃げないと決めて取り敢えず鎌倉の新聞屋で働きながら己を見つめ直すことにしたのだ。。
 あれから二十余年、両親や姉夫婦の良太に対する深い配慮や愛情に泥を塗るように馬鹿な自分を貫き、義兄の努力で大きく成長して行く会社を飛び出してみたけれど、その後の人生は厚い壁に跳ね返えされ、崖から転げ落ちるような暮らしになりやっと止まったところが今の焼き芋屋ということになる。一言でまとめれば(金の使い方を知らないバカ男)と言える。
転げ落ちるには人と違うところがあるものだ。その一例が次の言葉だ。居酒屋を経営者していて、(お客さん、お酒だけ飲まれたらこまるのですよ、何か料理も取ってもらわないと。売り上げが無いから店が潰れてしまうから)と暴言を言う良太社長だから、その方針は知らずしらず深みをますから店の評判は悪くなる。店の経営が苦しくなると、運転資金、高利貸し、挙げ句の果ては賭け事に走り、店は暴力団に取られ、不渡り手形を出し、世間の信用は完全にアウト。これが転落の脚本だ。
家族四人が吹き曝しの闇に放り出された。その後は、新聞配達、焼肉屋、ヒリピンパフマスター、回転寿司、トイレ浄化槽の設置、交通誘導員、暴力団との付き合い賭け麻雀 野球賭博 新聞配達 不動産の地上げ屋、建築の営業社員、・・・・・・まだあるけど思い出せない。悪の道から幸いに逃れてこれたのも妻や子供のおかげだと思います。
転々と職業を変えてきたのも何処かでドツボにはまり、長く働く場所が見つかるだろうと思っていたので転職が多いのだ。この間、良太は空いた日をみつけては富士山、奥多摩、山梨など油絵を描きに行っていた。時には上野の美術館で開催する展覧会に応募するため家族四人でf六の油絵二枚を手に持ってつくし野駅近くの賃貸マンションから坂を登り駅まで運んだこともある。どんなに転げ落ちていく自分でも不思議と絵を描くと愛おしく真面目男に変身できるのなぜだろう。これも絵がもつ何かの因縁かな。と良太は異次元空間にしたっていた。
油絵は上手ではないので落選するのは当たり前だと思っていたが一度は挑戦したかったのだ。坂道を四人で歩く純な家族の姿は一生忘れることないだろう。

今は引き売りの石焼き芋屋だ。
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注)  焼き芋屋の話を忘れているのではありません。引き売りの焼き芋屋は孤独で自己中心でお金もまあまあ稼げる仕事だが、夏は焼き芋は売れないので竿竹売りに変身する人もいると聞く。良太はそこまではやる気はない。
引き売りの焼き芋屋というと、出稼ぎ労働者が相場だと思われていますが良太に取っては破天荒に生きて夜逃げ同然の社会的な制裁を受けても悪の道に行かずに潰される寸前で焼き芋屋と縁を掴んだと思っているので今が幸せなのだ。今では好奇心旺盛な良太は引き売りの焼き芋屋をする事で小さな社会の縮図が見えるので人間再発見の勉強をしているのだと思って焼き芋を売りながら、途中で休んで趣味の絵を描くことも出来るし、人の多い日曜日は公園で車を停めて商売が出来るしそれこそ社長は彼だから自由自在に出来る世界だった。百々のつまり焼き芋屋に惚れた男の過去を話したのは子供の教育によって転げ落ちた人間でも幸せを感じる時が必ず来ると。半次郎の生い立ちを少々の肉付けとして書いてみました。。

夕暮れのスパーマーケットの傍らで車を停めて釜に薪をくべていると薪が周りを飲み込むように炎が赤く染まる。その炎が吸い込むように時にはお客さんが(おじさん焼けてる)と声をかけてくる。このような夕方の石焼き芋屋さんは郷愁を誘ってくれるので絵になると思う半次郎だった。

(焼き芋ー石焼き芋ー焼き芋 さあー出来立ての焼き芋だよー早く来ないと行っちゃうからねーエー焼き芋)軽トラックの荷台の上にあるスピーカーから良太の哀愁のある錆の効いた声が流れる世界が好きだ。昼間は夕方になるまで自室のマンションや、軽トラックの中で趣味の油絵を描いては楽しんでいたから焼き芋屋は相性がいいのだ。
どこかの本で好きなの絵を描くために夫婦でリヤカーを引きながら物を売り歩いて生活を送っていたと言う話を読んで自分も切磋琢磨してみるかと言う下心は消えないでいた。
 ある秋の夕暮れだ。半次郎は夕方になると自宅を出て焼き焼き芋釜を積んだ軽自動車を運転して二百二十六号線を走り、田園風景の田奈駅辺りで左折をして広々とした田園地帯の脇道に入り車を止めて焼き芋を焼くの準備を始めた。
ここの緑地帯は今は漆黒の土の中に常緑樹が点々と植えてあり、植木屋の育てる樹木が殆んどだ。縦横の道は碁盤の目のように整備され、畑を仕切る古びた柵が田園に趣を添えている。
この緑地からこどもの国方面を見ると茜雲が遠くの山々を染め始めていた。田園風景に沿った道には学校帰りの女生徒が黒髪を揺らしなが足取り軽くペダルを踏んでいた。
良太はそんな風景のなかに身を隠すようにして、誰もいない畑の一間程の道に焼き芋釜を載せた中古の軽自動車を止めた。辺りには人影はない。ここで焼き芋の仕込みをすると誰にも迷惑はかけなくてすむのでお気に入りの場所だ。
夕暮れのせいかカラスが何処に帰るのか群れをなして飛んでいる。やがて喧しく鳴いていたカラスが小高い森の中に消えていった。
かラスをみていると半次郎は世間から疎まれ寂しげに見えるので、どこか今の自分を映しているような気がして愛着を感じていた。既に四十歳の半ばを過ぎていた。この歳になると就職も学歴、技術、経験、信用などは脱線組でハンデ負っているから比較的簡単な肉体労働しか見つからないのが現実だ。その肉体労働をタオルとすると絞って生まれたのが石焼き芋屋とも言える。
今日は頭に安い野球帽をかぶり、馴染みの紺地のジャンバーを着て、酒屋に勤める弟が半次郎の焼き芋屋を心配してくれた黒地の前掛けを腰に巻いている。
辺りには人気が全くない。乗り捨てられた自転車が、朽ちた竹垣に寝転んでいる。
半次郎はむしろこの人気のないひっそりとした田園が好きだった。この人里離れた孤独感が過去の罪深い自分を解放させてくれていた。。
軽自動車の荷台に積んである、ここにくるまでにスパーのゴミ捨て場や建築現場や田畑の片隅などから集めてきた木材の切れ端を家庭用風呂釜を改良した釜にいれ、新聞紙に火をつけ釜を熱し始めた。
しばらくして、釜の火は勢いを増してパチパチと音を立てて燃え出した。ブリキの黒く焼け焦げた煙突から夕映えの田園に一筋の白い煙がなびいている。広い田畑の一筋の煙は二百二十六号線からも見えるはずだ。
焼き芋は半焼きの状態で目的地に向かうのが一番良い。現場に着いたら上手に焼けている状態にするためだ。今日は鷺沼駅を抜けて溝の口周辺で挽き売りをする予定だ。その為半焼きに焼けるまでこの田園地帯の側溝に座り新聞を読んだり、夕食にする餅を焼いたりして時間を潰す。時には生活費の工面方法や、収支を考えたり、自分の将来を探して見たり、女房の機嫌度を測って見たり頭は勝手に因縁に責められて休む暇もなかった。
釜がほどよく熱くなると、鉄製の釜の蓋を開け、 煤で黒ずんだ小石の上に芋を軍手をはめて配列よく並べた。数にして十五。六本位だ。売り上げに換算すれば七千円程度のものだ。釜の温度調整はこまめにしないと焼きすぎるので気を遣う。

芋の仕入れ先は近所のスパーマーケットで購入してくる。大小混ぜて五十個ぐらいだ。時々スーパーの野菜担当の伊藤さんが無償提供してくれる。提供してくれる芋は先端が、ほんの少し傷がついてし売り物にならないのだ。
(この芋は、焼き芋ならまだ使えるから良かったらもっていきなー、先端を少し切ればまだまだ充分使える)
と気さくに無償供与してくれるのだ。
頭に薄毛が残る64,5才に近い伊藤さんは、八百屋一筋のような葉切れのよい声と、愛想のよい顔つきをしている。
息子ほど離れた働き盛りの半次郎を見て、この歳で焼き芋屋をやっているなんて、なにか深い事情があるのではないかと感じたのかもしれない。情にほだされるわけではないが優しい人柄に機微を感じていた。
ある日のことです。スパーのゴミ処理場の壁際に無造作に積み上げられた魚屋さんのシャケが入れてあった空き箱を集めて薪にしようとする半次郎の姿を見ていた伊藤さんは(今日は遅いな、頑張れよ)と親しげに声をかけてくれたのだ。(ちゃんと片付けていきます、ありがとうございます)と挨拶を交わしたこともありました。
男の中の男は人に痛みが自分の痛みの様に感じるのだ、と勝手に思っていた。
良太は今日の目的地を溝の口辺りと決めていた。そろそろ車を運転して焼き芋を売りに行く時間だ。外は夕月夜だ。遠くの家々にポツポツと灯りがともりだしていた。この夕暮れの灯を見て北海道長万部辺りを走る夜行列車を思い出していた。(俺も純粋で不良ではなかった時代もあったなぁ)と苦笑いしながら思い出していた。
確か十九歳の頃だ。家出をして室蘭線の深夜のことだった。
蒸気機関車の車窓から暗闇を見つめているとぽっんと時折り闇の中に灯りが灯っていた。この灯りも溝の口や登戸の灯りも静寂て郷愁を誘う夜だった。
深夜をレールの響きだけが主役を演じる室蘭線だった。
高校卒業してまもなくの家出だった。どこか自分が働ける場所があれば働こうと思いながらの家出だ。だが職探しは北海道の壮大なな景色に圧倒されいつの間にか北海道一人旅に代わっていた。それに酒屋になったとしたら北海道の旅など行けないと思うから北の果て北海道は憧れの地でもあった。景勝地では無理で探すとすれば札幌、函館、小樽、ぐらいしか思いつかなかった。それに放浪癖があると言われる男のレッテルを貼りたかった。

北海道一人旅は阿寒湖、摩周湖、を周り函館に向かう深夜列車でした。蒸気機関車は闇のなかをゴトンゴトンと静かに音を後にしながら進む。
良太の前の席には老夫婦が座っていた。しばらくして老夫婦は(お兄さん、駅弁は次の駅で売ってますかねー)と言うので
(さあーどうですかーわかりません、もしよかったら)と言って青いバッグからコッペパンを指しだしたのです。そうしたら(ありがとうお兄さん、気持ちだけ貰いますね。優しいね、)とお婆さんが優しく言った。良太は何も言わず眠りについた。
しばらくしてお婆さんは良太の肩をゆすりお弁当をくれた。長万部だと思うが、高価な駅弁だった。感謝感激雨あられ、という感じで嬉しかったのを覚えている。親切は周り巡って帰ってくる。
そんな昔を思い出させる溝の口の梨畑周辺だった。
釜の焼き芋は程よく焼けていてた。梨畑を抜けると民家が並んでいる。
夕食の支度頃だ。家々に囲まれた路地裏を半次郎は車をゆっくり走らして一万円程でホームセンターで買って荷台の上に取り付けた小さな拡声器から声を流したた。
(焼き芋ー石焼き芋ー焼き芋ー、甘くて美味しいホクホク焼き芋だよー、早く来ないと行っちゃうよー、さア、いらっしゃい、いらっしゃい)
良太は(俺の声は焼き芋屋になる為に生まれたような声だな。大きな声ではなくて、バリトン級で渋味があり、遠くまでしずかーに届く声だ。その上、寂しくて哀愁があり、人を引き寄せる声だ)と自分で勝手に思っていたようだ。
良太の車は小さな商店街を抜けて電信柱の傍に止まっだ。車から降りて荷台の窯に薪をくべていると白い煙に誘われて買い物カゴを片手に持った五十近い二人の婦人が(叔父さん、焼き芋ちょうだい。二つ)と近づいてきた。
(あいよ、二個でいいの)返事をして半次郎は大きめの焼き芋を新聞に二つ入れて渡した。
(あら、おじさん、紙袋ないの、目方、計らないの)と婦人達は不思議そうな顔をして言った。
(ああ、秤がないしね、手秤だ。こんなもんだ。大きくてホクホクだ。気前がいいね。俺は、はい、二つで千円だ。おまけだよ)
(小さいお芋は無いのね、どうして秤を使わないの)
(量り売りより、サービスになっていますよ。百グラムいくら、なんて面倒だしね)
(そうなのねー、手秤なんて聞いたことないわ、サービスなら好いわよ。気前がいいのね、叔父さんは)
(俺はね、焼き芋売るしか能がないよ。サービスしてまた来てくれると嬉しいからね。チマチマ商売するのは苦手さ)ご婦人達は納得した様子を浮かべて帰って行った。
(また来るね)
(はい。ありがとう)と機嫌よくお帰りいただいた。石焼き芋は大きい芋ばかりではない。小さな芋もあるけれと、大きい芋の方が売り上げが多くなるから有り難い。なるべく大き目の石焼き芋を売るように心がけているのだ。
車の運転席から降りて荷台な釜に木片をくべながらお客様の来るのを待っているいた。
夕暮れに燃える釜の炎は人を呼び込むパワーがあるのは不思議だ。燃え盛る炎は宗教的匂いもするのかなと半次郎は思った。その薪の火に誘われて子連れの親子が焼き芋を買いに来てくれて小さ目の焼き芋「二つ買ってくれた。お金は(可愛いお嬢ちゃんだね。はい、美味しいよ)と娘さんに渡すと母親に向かって(三百円でいいですよ)と言うと、(あら、またオマケね。損しないてよ)と笑いながら帰って行った。車の少ない街路灯の下に焼き芋の軽トラックを置いて商売すると、焼き芋屋の雰囲気が出て売り上げが伸びる気がすると良太は思っていた。



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焼き芋の量り売りは焼き芋屋では定番だけど、良太の焼き芋は大きめで小さい芋は仕入れていない。一本三百円から五百円売りが目安で仕入値段に利益をのせて販売していた。量り売りだと釣銭の十円玉も用意しなければならないので面倒な事はしなかった。客商売だから丁寧に客扱いをしなければならないのだが、良太の親しげに笑いを誘う巧みな会話術でそれをカバーしていた。
一日を終えて夜の十二時ごろ帰宅をするのだが、焼き芋を余分に焼いてしまい売れ残ると捨てるわけにはいかないから、隣のマンションに住むヤクザ屋風の若い男と母親の二人暮すマンションの戸口を申し訳なさそうにノックをして(こんばんわ、夜遅くごめんなさい。焼き芋よかったらどうぞ、あまり物で申し訳ありませんが)と言って渡すのですが、隣の人は(あら、どうも、ありがとうございます。遠慮しないでもらいます)と言ってくれるけど、実際は迷惑ではないかと思うのです。なぜならば妻の和子は(余計なことしないで。余りの焼き芋あげるなんて。隣だって迷惑なのよ、それに何時だと思っているの。常識がない人だよ、あんたは)と叱られるだ。善意は全て正しいとは言えないようだ。自分は正しいと思ってやった矜持が迷惑行為だと言うことはよくある話だが良太の性格が早とちりで、落ち着きがなく、せっかちで、良心の押し売りみたいなところがあった。要するに冷静沈着なところが少なく結果を急ぐ直情径行な部分が学生時代から今日まで続いている男だと言えるかもしれない。

この焼き芋釜を乗せている軽自動車は焼き芋屋仲間の山根さんから安く買った車だ。中古な車体の色はグリーンでところどころ錆びついている。焼き芋釜は洗濯機を改良して出来ている。山根さんは昼間は鉄鋼所で働いているので、洗濯機を焼芋釜に作り直したのだ。手の器用な人だ。
この軽トラは良太が八王子の焼き芋屋に雇われで歩合制で働いて二月ほど経ったころに手に入れた代物だ。勤めていた焼き芋屋専門店は歩合給社員だから独立した方が収入が多いのだ。
今乗っている石焼き芋屋の軽トラックラックとの出逢いは良太が溝の口の周辺を車で流しながら焼き芋を売っているときに、畑の脇道で同業者の焼きいも売りの山根さんと出逢ったのがきっかけだ。
お互いに同業者と言う縁から、道端に焼き芋を積んだ軽自動車を停めて、言葉を交わしたのが切っ掛けだった。めったに同業者同士が話す機会なとない世界だから、情報交換は親友と同じで忌憚なく話せる。
忙しい?、暇だよ。どの辺りが売,そう?金曜日は売り上げがいい。などと会話が始まるのだ。少ない仕事仲間だから和やかなもんだ。
黒いハンチングに黒ずくめの姿をした山根さんが切り出した。
(俺、焼き芋屋を辞めて、福岡の実家に帰りたいのだよ。昼間は会社勤めで夜は焼き芋のアルバイトしているのだが、親父が戻って来いと言うのだ。いつまでも一人暮らしは止めろとね。誰か心当たりあるらしいのだ、嫁さんのね。それで、この車、安くするから買ってもらえないかなー)と言うのだ。
半次郎が今勤めている焼き芋屋は、売り子が20名ほどいる会社組織だ。貸し車代、芋の仕入、紙袋、などを考慮すると、独立していた方が稼げるし、拘束されないから、半次郎この話に乗ったのである。
(30万円ね、これ以上安くならないかー。よし。釜付で。月賦でいいならもらいます、と言うことで月に五万円の返済で購入したのが今のホンダの軽自動車だったのだ。車体は濃い緑色だった。
荷台に焼き芋釜とずれないようにエル型アングル棒でしっかりと固め、角材で運転席の外側に柱をしっかりと結んでその角材に建築現場に放置されていた交通整理使う赤い円錐形のカラコンに電球を入れて石焼き芋の黒い字を書いて提灯代わりにしていた。熱く燃える釜の脇にブロック石で積ん仕切りあり、釜に近づかないようにして燃料になるも木片が重ねてある。木片が見つからない時は建築現場を探したり、駐車場を彷徨いたり、家の路地を探ったり苦労する。木片も今時、そう簡単に手には入らない、林に入って枯れ木を集めたりする。河原に行く。それほど貴重品なのだ。明日の燃料は、今日のうちに、車を走らせながら目星を着けて置くのがゴツだ。
溝の口周辺の路地に入った。車の速度は、人が歩く速さだ。ゆっくり走るとダイナモが壊れると山根さんが言ってたので心配だ、
ゆっくり走らないと、お客が車に追い付かないからだ。追いついてもらわないと焼き芋が売れないのだ。
良太は高校に通う息子が嫌々作ってくれた焼き芋節の吹き込みテープが入ったラジカセのスイッチをオンにすると、車の上に針金で角材に巻き付けた拡声器から、良太の渋い焼き芋屋の口上が、流れ出した。
このテープは息子がアルバイトで稼いで購入した中古のオーディオシステムから録音したテープだ。息子は迷惑そうな顔をして父親のうなる(やきいもーいしやーきいもーおいもー早く来ないといっちゃうよーあったかく美味しいおいもだよ)の口上をテープに吹き込んでもらったのです。声を出すのに何度も失敗するものだから息子は怒り出しそうだった。息子から思えば(親父よ、焼き芋屋なんか辞めてもう少しまともな仕事をさがせよ)といいたそうな顔つきで録音テープの完成に付き合ってくれたのだ。
拡声器は、一万円位でホームセンターから、買った安物だった。
(やーきいもーいしやーきーいもーやーきーもー。おいしいやきいもですよー、早く来ないといっちゃうよー)
時には良太は生の声でマイクを取って声をだす。息子が作ってくれたテープはエンドレスだから楽なのだが、時には生放送でやってみたくなるのだ。
自分の生声の方が客請けがいいのだと一人で悦になっていた。

引き売りの道は軽トラ一台が通れる程の狭い裏道が何となく売り上げが上がるような気がする。
車が一台やっと通れる道幅て両サイドに家並みが続く道をゆっくり走りながら、声はもう一つ奥まった通りに届くように声を出すのがゴツだ。声を遠くまで届けるためだ。それも、単純な声ではなく、哀愁を籠めた声を出す方がいい。
カラオケの演歌の雰囲気だ。それも北国を想像したようなうら寂しい声だ。(ヒュヒューと冷たい風が肌を刺す吹雪の中、オジサン焼き芋まだありますか)と雪女が出て来るような雰囲気だ。
馬鹿な事言ってんじゃないよと自分に言い聞かせながら、ハンドルに腕を乗せてゆるりと路地を走る良太だった。

東北から出稼ぎに来る人は建設業の手元や焼き芋屋だと世間では今でもそう思っている人が多い。半 良太もが藤が丘の高級住宅街で夜遅く車を引き回していたとき石焼き芋を買ってくれた若い奥さんが(焼きいもやのおじさんは東北の人?)と尋ねられたことがある。その時は、(はい、岩手の山奥で)と、無駄な抵抗を止めてお客様のイメージをこわさなかった事がある。

溝の口や登戸辺りは旧家もあるし新築一軒家もある。小さなさな商店街を抜けて良太はゆっくりと車を運転しながら梶ヶ谷の路地裏を引き回していた。天空には星が輝いている。空気は冷たく透き通っていた。溝の口駅前の繁華車を抜けて道幅の狭い裏道に入った。焼き芋の売れる場所は古い住宅が密集する路地が最適地だ。
街路灯がポツンと夜道を照らす。家を囲むような木の枝が所々裏道に顔を出す。
(えーやきいもーいしやきーいもーおいもーやきたておいもはいかがですかー)良太の渋い声が哀愁を誘うように拡声器から流れている。時は夜の七時半ごろだった。
古びたひ家から、足早に雑草のしげる庭を抜けて小学生らしい二人の姉妹が元気よく現れた。
良太は枯れ草のある道に車を停めて、運転席から降りて、姉妹に近づいて話しかけた。
(お芋だね)
ピンクのセーターを着た小学校四年生位の妹が
(おじちゃん焼きいもちょうだい)
と手を開いて五十円玉が一つを見せた。同じような服装の六年生位の姉は、妹を見ながら笑っていた。少しは姉さんだから恥ずかしさもあるようだ。
良太はあきれて声がでない。一つ五十円では商売にならない。。小ぶりの芋で百円は貰いたいが、あいにく小さい芋は焼いていないのだ。まして姉妹で一つなんて可哀想だし、古くてトタン屋根の家からで出てき来たのでお金に余裕などあるわけないと思った。
(夕御飯食べたの)と尋ねると
(お母さん達仕事でまだ帰って来ないからまだです)と姉が言った。
(そうか、親は共稼ぎなんた。お腹が空いているでしょう、何時に帰ってくるの)
(九時頃)
(それまで何も食べないのだ)
(うん)
良太は自分の子供たちの顔を思い出してしまった。俺もこんな寂しい想いを子供達にさせているのだ。この姉妹の姿を見て、ふと我に帰り俺も子供たちに辛い思いをさせた場面は何度もあったに違いないと感じていた。この幼い姉妹は大事にしてい五十円を出したのに違いないと思う良太だった。
近くにぽっんと立つ街路灯が優しい灯りを醸し出して姉妹と焼き芋屋を囲んでいた。
良太は新聞紙を広げ
(はい、おまけだよ、お金はいいよ、おじちゃんからプレゼントだ)
と言いながら焼きたての大きめな芋二個を個を包んで渡した。
子供たちは頭をぴょんと下げ(おじちゃん、ありがとう)と礼を言うと急ぎ足で庭先から消えて行った。
(純な子供たちから金は取れない。頑張れよ子供たち)
と一人で自分の脳裡と話ながら運転席に戻る良太だった。

田園地帯の仕込み場を夕方の六時頃出て八時頃までは、二千円から三千円程の売り上げが妥当な線だ。夕飯時は流しでも売れないのでスーパーの脇に止めて営業をする。
車をやたらと動かすと燃費が嵩むので車を停めて音量を下げて焼き芋を売ることがある。
焼き釜の扉をオープンにして、薪をくべたり、灰を片付けたり、やることがなくなったら釜の火を見つめてながら適当に身体を動かしてい客待ちをする。
車から降りて作業をしているとお客様との距離感を縮めることになるので売り上げが上がると信じている。
確かに、釜の焚き口は真っ赤に燃え盛っているから、夜の暗さと相まって人の感心を呼び込むようだ。薪能か、護魔薪か、火の放す厳かな世界なのか解らないが、火は人間を惹き付ける力がある。そこに焼き芋を売るチャンスがあるのだと半次郎は勝手に思っていた。
燃え盛る釜の火のお陰で二、三のお客様が石焼き芋を買ってくれた。
その後、路地裏の狭い道を選んで車をゆっくりと走らせ、転々と焼き芋を売りさばきながら、一万円五千円程の稼ぎになっていた。
20450608午後七時



帰り道の途中になる田園都市線の、藤が丘にたどり着いたのは、夜の十時を過ぎていた。駅の近くにある新興住宅街の一画に高級な住宅の前を通り過ぎようとした時でである。
ケーキのような派手なデザインの門扉越しに、ピンクのネグリジェ姿の若い奥さんの声が聞こえた。
20250529午後九時
(焼きいもやさーん)声を出しながら、通り過ぎようとする車を止めた。
(おじさん、焼き芋一つ。二百円でいい)と言われて(こんな立派な門構えの家から出できて二百円はないだろう)と商人らしくない暴言を言ってしまったのだ。若い奥さんは呆気にとられて立ち竦んでいた。
(焼き芋買いたいなら他の焼き芋屋さんから買えば。こんな夜中に焼き芋一個はないだろう)
奥さんは何も言はず消えていった。暗いからお互いに表情が見えないのが幸いだったと思う。半次郎は暗い夜道をゆっくりと車を走らせながら猛省していた。(おまえ、川崎の居酒屋と同じ事まやったな。酒だけ飲まられたら困るのだ。料理も取ってもらわないとね。と言った言葉と同じ意味だ。馬鹿者
奢るな)と自分を責めていた。20250530
半次郎の焼き芋は、十五センチ位の大きさで、量り売りは面倒なので、一本五百円が暗黙の定価であった。一般的には、目方売りが定番だ。半次郎の売り方は強引と言えば強引かもしれないと。やきあも
だがそれなりのわけがある。まずは、スパーの伊藤さんがくれるサービス芋が大きいので、仕方がないことと、秤り売りは暗闇だと少し眼が悪いので見にくいし、釣り銭が面倒なこともある。裕福な人には少し高く売り、金に苦労している人は安く売ることもある。まぁ、いい加減な売り方だとの批判は受けて立つとの覚悟から、目方売りをしないのであった。
焼き芋行列をつくるほどで売れない。たまにしか売るれないから杓子定規に考えなくてもいいではないかと考えていた。
半次郎はハンドルに肘を着けて信号まちをしながら、己の心の貧しさを気にしていた。

信号が青になり、246号はまだ車が激しく行き交すき間の信号を通り抜け、長津田の駅裏の路地を抜けると道の外れに小料理屋がある。ぽっんと寂しく構える小さなお店だ。ここまで来れば、半次郎の家の近くだ。線路際の道をゆっくり走って小料理屋の前で静かに拡声器から焼き芋屋のテープを流した。(やーきーいもーいーしーやーきいもーやーきーいもー)深夜に近いから一度だけで店から誰かが出て来るのを待ってるのだ。
田園都市線の電車が暗闇の中から長い光を照らして現れ余韻を残して消えていった。
この一間間口の小料理屋は、提灯が赤く、ぽつりと人恋しさに灯りを灯している。店の名前は(こぼれ火)という細やかな名前だった。ここは半次郎の固定客なのだ。拡声器の音は俺がきたよ!と言う合図なのだ。
道路を挟んで少し脇に停車する。
しぱらくすると、着物をきたお姉様が暖簾越しに声をかけてくれる。

(今日はお客さん少ないのよ、千円ね)と焼き芋を注文してくれた。お客さんが多い時は三千円ぐらい買ってくれる常連客だ。
(いいえ、いつも、すいません、ありがとうございます)
二人の会話は要点だけだ。(ありがとう、またね)でおわりだ。
姉さんは、ちょうちんの灯りのせいなのか妖艶だ。暖簾を潜って、中に入りたいが、汚れた身なりの銭なし焼きいも屋だ。壁は厚すぎる。昔だったら万札忍ばせて。なーんて。昔の華の舞台は砂上の楼閣だった。
年前まで数は、銀座、六本木、歌舞伎町と不良仲間と深夜まで飲み歩いたこともある。六本木の小さなクラブのドアを開けると半次郎の歓迎テーマーソングである(京都の夜)を専属ピアニストが挨拶がわりピアノを弾いてくれる。
川崎の居酒屋を潰してヤケになっていた頃は半分ヤクザな行動をしていた時があった。
赤坂の名のあるクラブにその道の人に誘われてテーブルでレミーマルタンを飲みながら歓談した事がある。女の子もチラホラいた。男五人中の一人が半次郎だ。世間話を聞いていると早稲田の印刷屋が潰れて債権者が今晩社長の自宅にやって来るので誰か用心棒になってくれる男はいないかと言う話がでたのです。早い話、債権者が高圧的に出ると恐ろしいから傍にいて話を聞いてもらいたいと言うことだ。手当は五万円だと言うので、金欠だった半次郎は五万円に目が眩み用心棒に行った。芯が臆病者のくせに用心棒をかってでたのだ。地獄を這い回る人間は善悪の道が見えなくなるようだ。別件では、世話になっていたヤクザの誘いで借金の取り立てに同行した事もあった。建設会社の社長にナイフで脅かされたり、苦い思い出は山ほどある。今の焼き芋屋はそれに比べれば桃源郷にいるようなものだった。
見栄と虚栄と、恐怖、欺瞞、裏切の世界と違って、この小料理屋の暖簾は、半次郎に幸せを運んてくれる一里塚みたいなものだった。
小料理屋の姉さんは、半次郎の拡声器から寂しそうに流れる声に共感を覚えたのに違いないと半次郎はそう捉えていた。
暖簾を分けて中に入りたいが入れない。焼きいもが(ざまあーみろ)と笑っているようだった。

良太の帰る家はこの小料理屋から近い。長津田の駅から脇道を通って五分ばかり。途中に川を渡る橋がある。半次郎は一日の焼き芋屋を終えると橋の中央に車を停めて、車から降りて、燃え残りの薪を始末をするのだ。
誰かに見られないように辺りを確認してから橋の上から燃えている木材を川に投げ捨てるのだ。勿論、沢山投げ込むのではない、ここに来るまでほとんど消し炭状態にしてからだ。
残火を残して駐車場に車を入れるとマンションの十世帯の住人がら非難轟々になると思うので川に捨ててくるのです。
女房の和子は他の駐車場にしてくださいと言っているが背に腹は代えられないので生返事でごまかしていた。
(いい加減に、焼きいも屋なんか辞めて、みっともないから、あんたは好きでやっているけれど、子供たちが可哀想でしょう)と苦言を言う和子だった。

親父が焼きいも屋をしているのは近所の人はわかっている。何故ならば、車に焼きいもの提灯も荷台につけた間まで駐車場にしまうからだ。その提灯もしっかりしたものなら未だしも、荷台にある提灯は、道路工事現場から、失敬してきた赤いカラコンに電球を組み込んだ代物なのだ。その他、紙の提灯がチラホラ風鈴のように風任せで並んでいる。

釜の中の残火は川に投げ込むと、ジューンと軋む音がする。暗闇の川に火の塊が落ちていくのを見ていると、なんとなく侘しくなる。(お前はなんでこんなことをいつまでやっているのだ、この残り火はお前を支えた大切な残り火だ。川に投げ込むなんて、この恩知らず)と言われているようだぅた。
売れ残りの芋は、もったいないので自分の腹の中に多少は入れるのだが毎回は食べれないので隣の山越さんに数回差し上げたのだが和子は
(隣に残り物をあげるなんて、失礼だし、みっともないからやめて)と世間並みの言葉を使った。
(なんで、みっともないの、ちゃんと、残り物ですがよければ貰ってくださいと言っているよ)
隣の住人は母一人子一人の家庭で息子さんは二十歳過ぎのヤクザ屋風の男で昔の自分と似ているので親近感を持っていた。世間の難しい付き合い方など考えないで、で阿吽の呼吸で貰ってくれると思っていたのだ。息子さんも嫌な顔をしないで笑みを浮かべて貰ってくれるのでありがたかった。しかしよく考えてみると隣さんは近所付き合いを考えて断るわけにはいかないので受取しかないのだと気がついてそれからは焼き芋を渡すのにためらいが生まれてやめることにしたのだ。善意も一筋縄ではいかないものだと己の軽薄さを知った
このつくし野駅に近いマンションに越して来たのは丁度今から四年位前のことです。
伜がまだ高校一年の頃だった。



住んでいるマンションの前が野原なので息子とキャチボールをしたのだ。息子は特別に野球が好きではないが良太のほうが息子わ相手にキャッチボールをしたかったのだ。石焼き芋屋を始める前は気に入らなければ転職し、不安定な暮らしをして来たので、子供達と小学生のころから家族で楽しく遊んはだことなど皆無に等しいかった。だから、この息子とのキャッチボールは初めて父親らしい行動であったので晴れやかな気分だったのだ。
息子とキャッボールをしようと言っても面食らった表情の息子だった。遊んでやれなかった理由は居酒屋と言う商売が深夜に及ぶ事や放漫経営から経営が苦しくなり、やがてお決まりの高利の金に手をつけ、暴力団とも悪縁ができて徹夜麻雀、野球賭博、競馬等々負けるのはわかっているのに依存症の如く勝負事にはまり子供達と遊ぶ余裕など無かったのだ。そのどん底の暮らしに終止符を打つために、反対する兄弟の意見を聞かず、父親名義の僅かな土地を強引に売却させて、競馬のノミの負けた七百万円の支払いとそのほか、累積債務の支払いを済ませどん詰まりの借金地獄から脱出出来たとい経緯があったのだ。その後,居酒屋と住宅を失った良太は多少の借金を背負いながら家族四人と共に世間に放り出されれたのだ。居酒屋を経営していた割には料理は見様見真似だったし、ささみ包丁の使い分けもろくに知らない良太だから正式な板前として就職は出来ず、焼き肉屋のパートとか土方とかその日暮らしだった。こうなったのも自業自得が原因だと反省してもどうにもならない世間に生かされていた。

ヤクザ石川さん、

居酒屋の放漫経営が原因で資金繰りに困り果て、金がほしくて目が暗みギャンブル依存症になり裸同然で社会に放り出され、稼ぐ居場所が無くなり、パート仕事を転々と渡り歩き、大きな金を掴もうと居酒屋時代に取った宅地建物取引主任者の資格を生かして渋谷の道玄坂の雑居ビルある小さい店の丸徳不動産で働きだしたのだが、お客がつかず悶々としているうちに廊下の前の同じ年頃の東海商事の社長が(この不動産屋で働いてもお客は少ないぞ、俺のところへくれば仕事はある、来ないか)と誘いを受けて、その日のうちに廊下一つまたいだ東海商事に勤めることにしたのだ。丸徳の社長は目の前で社員の引き抜きにあっても文句一つ言わないでいた。丸徳の石川社長はインテリヤクザと知っていたのだ。後でそのことを知ることになるのだが、商事会社の社長さんだから面白い仕事はありそうだと思った良太だった。。
社長の石川さんはラメで光沢のあるブルーのスーツを着こなし遊び人風の持てそうな男た。
半次郎は石川社長は不動産の仕事は地上げ屋が主だと思っいた。千三つの仕事は直ぐに金にならないと覚悟は決めたが金欠状態だから乗り切れるか心配だった。そのうち大きな取引の話も出てくるだろうと思って勤勉に通ったのだが一向に仕事の話はないのだ。ある時石川社長は(亮さん、俺と同じスーツつくってあげるからな)と言ってくれてその日のうちに渋谷の仕立て屋さんを呼んでくれたのだ。数日経ってから石川社長と同じのブルーのラメの光沢があるスーツが届いた。(着てみたら)というので、自分が着ているよれよれのグレーのスーツを脱ぎ、綺麗な箱からスーツくを取りだした。
良太は絹のバラ模様のあるワイシャツを着てブルーのスーツを着たのだ。石川社長は(似合うよ)と言ってくれたのはいいけれど良太はこれでは映画に出てくるヤクザだなと思った。
二人は同じ服装で六本木界隈を暇つぶしでよく出かけた。高速道路の近くにある名のあるアマンドで二人でチョコレートパフェを二つ注文してお互いに笑いながらストローで顔を観ながら飲んでいると周り女の子が笑っていた。
石川社長は仕事らしい仕事はなく退屈な日々を紛らわすために赤坂六本木界隈でお茶や食事を誘ってくれた。不動産の取引情報は全くなく昼間ブラブラしているのはいいけれど良太は家にお金を入れないと家族が困るので石川社長に給料のことを尋ねてもそのうちに何とかなるからと言うだけだった。
給料を心配したのか石川社長は時々半次郎を伴いクラブとか茶店とかに行って誰かと話し合いをしていた。話終えるまで外で待っているか、店の外れの席で待たされていた。半次郎が聞いてはいけない相談なのかもしれない。給料は不動産取引の出来高だから仕事がまとまらないとゼロだ。ゼロを気にしてくれて時々石川社長は三万だ、五万だと渡してくれた。
地上げ屋もどき暮らしも情報も少なくうんざりと東横線に乗って東海商事に通っていたが、ある日、石川社長の友達が会社に来て中野に出かけることになり、龍一郎が車を運転して行くことになった。後ろには二人が難しいそうな話をしていた。その後から急ちパトカーのサイレンが聞こえた。どうやらこの車を追っているようだ。後の席にいた石川社長が逃げろと言った。逃げろと言っても根が良い龍一郎は信号機の先で止まった。三人は別々の警察署に連行され龍一郎は新宿警察署で取り調べを受けた。彼らがどうして連行されたはサッパリわからないが龍一郎を調べた担当者か二時間後に
(武部さんはこの人達と付き合わない方がいい)と言われて家に帰れた。ここでも天は龍一郎を救ってくれていた。


キャッチボール




広い野原には人影はない。良太は息子とボールの投げ合いをしていていると急に目頭が熱くなり涙が出てきた。息子はこの涙の意味は知らない。半次郎は今になって初めて息子への深い愛を知ったのだ。
(許せよ智和)と心で叫びながらキャッチボールをしていたのだ。
その涙は父親名義の武蔵小杉にある一軒家に親子六人で暮らしていたころ、親の見栄か解らないが、智和は有名私立小学校に二年間ほど通っていたが親父の体たらくで月謝が払えなくなりから小学校を途中で辞めさせてしまったお詫びの涙でもあったのだ。済まないと
半次郎は、済まない、ごめんなと侘びながら投球を続けていたのだ。
そんな頃、石焼き芋と息子智和との間に憂う話がある。
智和の通う中学校の近くを焼きいもを売りに流していると智和が友達と二人が下校して前方を歩いているのが目に入り、思わず(おーい智和)と拡声器で声を張り上げて呼んだら、智和と友達は、知らん顔をして道から外れて横道に入り見えなくなったのだ。
我にかえった半次郎は自分が焼きいも屋であることを忘れている事に気がついたのである。(そうか、親父が石焼き芋屋と知られるのが嫌なのだ。声を上げた俺が配慮がないのだ)と自分の常識と息子の常識が違うことに気が付いたのだ
青春期の伜には、駄目な親父と映っていたのかもしれない。焼きいも屋の拡声器で流れるテープを嫌な顔ひとつせず、作ってくれた伜は心の中では怒りの渦で染まっていたのかもしれない。
ある日、午前中から降りだした雨が午後になっても止まず、石焼き芋屋の引き売りを休もうと考えていた。外は暗くなり雨も小降りになっていた。休みだった妻の和子は炬燵のカバーを取り替えながら横になってテレビを見ていた半次郎に声を掛けた。
和子はパートの店員として町田のデパートで生活費を稼ぎ出していたが、夫の不定期な稼ぎと合わせても遣り繰りがつかず悩んでいる時だった。和子は(明日までに納める中学校の月謝が何だかんだで七千円どうしてもいる。もう、これ以上遅れると先生が何かしら言って来るはずだ。何とかならないの)と詰め寄ってきたのだ。
息子が可愛そうだとこぼすのだ。その日暮らしの焼き芋屋なんか辞めてどこでもいいから月々お金が入る仕事をしろと言うのだが妻に言えない悩みが半次郎にはあったのだ。
まともな仕事といっても年齢的に途中採用は難しのだ。年齢ばかりではない学歴。職歴もない、技術もない、あるのは妻には言えない借金があり、社会的な信用はゼロだ。銀行取引は手形を貸したことで不渡手形を出しているし、まだ解決していない問題があるのである。
例えば借金とりが勤め先の電話番号を教えろだとか怪しい電話が来たり、解決しなければならない債務の問題やらでまともな仕事など手につかないのだ。もし採用されて借金取りが会社にたずねてきたら面倒になるだけだ。過去に自分もやけ気味になり、暴力団の人と仲良くなり借金取りに関わった事があるのでまともな仕事を出来るようになるには着いた汚れを落とす時間が必要だと思っていたいたのだ。この歳で技術も要らない仕事といえば交通誘導する警備員か身体をはった建築現場の作業員ぐらいだ。石焼き芋屋は半次郎考えた末の仕事なのだ。時によっては売れすぎて困る時もあるし、雨こんこんで寝てた方がよかつたという事もあるが頑張れば成績が上がるので魅力がある仕事なのだ。



月謝




息子の月謝の支払が待ったなしと聞いて、半次郎は開き直って小雨模様の中を飛びだした。焼きいもを売るために長津田駅の近くにある人影の少ない駐車場の脇に車を止めて仕込みを始めたのである。焼き芋釜から小雨をついて白い煙が立ち込める。商店はここから離れているし人影も少ないから煙が収まる時間ぐらい苦情は出ないだろう。
今日は雨ふりで休む予定だったが息子の月謝を稼がないといけないので、引き売りをしないで一点勝負と決めたのだ。長津田の駅で最終電車が通りすきるまで焼きいも屋をすることに決めたのだった。
小雨のせいではないと思うが夜八時が過ぎても売れないのだ、焦らないと言えども、穏やかであるはずがない。子供の月謝だ。親父の面目もある。
そんなことを思いながら小雨の降る夜を運転席で客待ちをしていた。すると狭い道を挟んだ向こう側に立ち食いラーメン屋が屋台をだしていて、そこの若い職人が、見掛けない半次郎に近寄ってきた。
(お兄さん、ちゃんと、挨拶してきたの)と言われたのだ。半次郎は縄張りの組への挨拶だなと直感的に感じた。ラーメン屋のお兄さんに言った。
(地回りの人はこんなちっぽけな焼きいも屋なんて相手にしないでしょう。相手にするようなら大した人ではないでしょう)と言い返したら、スーッと下がっていった。兄さんはみかじめ料でも取ろうと思ったのかもしれない。
半次郎は理屈が通らない事には反発する性分だ。大方な人は同じ考えだろう。暴力でくれば暴力も厭わないが無駄な喧嘩はしたくないのが本音だ。
十年ほど前は放漫経営が源で金がほしくて目が暗みギャンブル依存症になり裸同然で社会に放り出され、やけくそ半分で居酒屋時代に取った宅地建物取引主任者の資格を生かそうと渋谷の道玄坂の雑居ビルある小さい店の丸徳不動産で働きだしたのだが、お客がつかず悶々としているうちに廊下の前の同じ年頃の東海商事の社長が(この不動産屋で働いてもお客は少ないぞ、俺のところへくれば仕事はある、来ないか)と誘いを受けて、その日のうちに廊下一つまたいだ東海商事に勤めることにしたのだ。
社長の石川さんはラメで光沢のあるブルーのスーツを着こなし遊び人風の持てそうな男だった。
半次郎はこの会社の仕事は地上げ屋だと思っていたので大きな取引の話も出てくるだろうと思って勤勉に通ったのだが一向に仕事の話はないのだ。そのうち石川社長は(亮さってからんよ、俺と同じスーツつくってあげるからな)と言ってくれてその日のうちに渋谷の仕立て屋さんを呼んでくれたのだ。数日経ってから石川社長と同じのブルーのラメの光沢があるスーツが届いた。(きてみたら)というので、よれよれのグレーのスーツを脱ぎ、もらった絹のバラ模様のあるワイシャツを着てブルーのスーツを着た。(似合うよ)と言ってくれたのはいいけれど半次郎はこれでは映画に出てくるヤクザだなと思った。二人は同じ服装で六本木界隈を暇つぶしでよく出かけた。角のアマンドで二人でチョコレートパフェを二つ注文して周り女の子が笑っていたこともあった。
石川社長は退屈な日々を紛らわすために赤坂六本木界隈でお茶や食事を誘ってくれた。不動産の取引情報は全くなく昼間は銀座、六本木、赤坂と不良仲間と深夜まで飲み歩いたこともある。六本木の小さなクラブのドアを開けると半次郎の歓迎テーマーソングである(京都の夜)を専属ピアニストが挨拶がわりピアノを弾いてくれる。
川崎の居酒屋を潰してヤケになっていた頃は半分ヤクザな行動をしていた。銀行取引停止、身内からは勘当で出入り禁止友人からも嫌われ者だ。行くところないのだ。だから半分は流れによってはヤクザになろうと思って行動していた。
赤坂の名のあるクラブにその道の人に誘われてテーブルでレミーマルタンを飲みながら歓談した事がある。女の子もチラホラいた。男五人中の一人が半次郎だ。世間話を聞いていると早稲田の印刷屋が潰れて債権者が今晩社長の自宅にやって来るので誰か用心棒になってくれる男はいないかと言う話がでたのです。早い話、債権者が高圧的に出ると恐ろしいから傍にいて話を聞いてもらいたいと言うことだ。手当は五万円だと言うので、金欠だった半次郎は五万円に目が眩み用心棒に行った。芯が臆病者のくせに用心棒をかってでたのだ。地獄を這い回る人間は善悪の道が見えなくなるようだ。別件では、世話になっていたヤクザの誘いで借金の取り立てに同行した事もあった。建設会社の社長にナイフで脅かされたり、苦い思い出は山ほどある。今の焼き芋屋はそれに比べれば桃源郷にいるようなものだった。

 石焼き芋屋の車は駅の改札口に近い銀行の脇に停めてある。違法駐車だ。警官が来たら、謝って移動させる腹だ。
釜の焚き口に角材を入れ、炎が赤く燃えている。暗い夜道に停めてある石焼き芋屋の車の釜から赤い薪が燃えている光景は人の心を掴まないはずがないと半次郎は信じて根気よくお客を待っていた。
九時半をすきるころから焼きいもは売れ出した。車の外で、焚き口に頭を近づけ薪を出したり、引いたりしていると、何故か人が集まるのだ。売上も五千円は超えていた。もう少しで七千円に近づく。赤い炎は救いの神に思えるのだった。すると、
六十五、六の見かけたことのある男性が最終前の電車から降りてきた。
(よく、がんはるね、少いか千円ぶんだけくれ)と、愛想よく声をかけてきた。半次郎その男の顔を炎の陰で見ると
(おとうさんは、新橋駅のローターリの脇で、似顔絵を描いている絵かきさんですよね)
と親しげに声をかけた。
(そうだよ)
(私は新橋のレンガ通りの焼肉屋でアルバイトしていた頃、一年前ごろかな、焼肉屋に勤める前にお父さんの脇でよく似顔絵絵を描くのを見ていました。私も絵心が多少あるので興味を持ってみていました。はいどうぞ、おまけです)と言って笑顔でわたした。
絵かきの親父さんは、笑顔でそうかい、そうかい、といいながら、また来るよといって、闇に消えていった。
半次郎の流転人生のきっかけは。若い時からの夢で、出来る事なら絵を描く仕事で飯が食えたらいいなぁと思う気持ちが心の底辺でうごめいていたことも原因としてあげられる。大袈裟に言えば矛盾しているようだが、悪の道に染まらなかったのも絵が好きだったからとも言えるし、また反対に転落人生の始まりだったといえなくもないのだ。流転は今も静かに継続中だ。流しの焼き芋屋を始めた動機も誰にも拘束されず生活資金が稼げて時々絵を描く自由時間があるからだった。
油絵は二十歳ごろから好きで時々気の向くままに時間を作り写生に行ったり児童劇団の営業をしながら日本国中の名勝地を訪ねたり、暴力団と付き合っていた時でも描いてた。半次郎の場合は絵を描く時はどういうわけか生活が厳しい時に描き始めている。何年に一度は展覧会に応募したこともあるが落選ばかりだった。絵描きになる夢は儚く消えたが絵心は消えず今でも石焼き芋屋の車に乗せて楽しんでいる半次郎だ。絵心は只今冬眠中といってもよい。2045063

川崎の居酒屋も、職人としては半端者と分かっていたし、それでは、経営はいずれはつまづくと、予想すらしていたのた。
得意先のおばちやんが、小さな画廊をしていて、薦めるまま、誰だか解らない、将来は有望な絵かきだと言い値で買ったりしていたから、店も傾く要因が潜んでいたのだ。
(俺も何時かは、画廊に出せる絵を描きたい)と考えていたいたのである。
その流れの川が、今の焼きいも屋につながっているのだ。
半次郎の運命的な言霊が秘かにうずいているのだ。マグマのように心のどこかで対流をしていりるのだ。

長津田の終電は半次郎が気がつかないうちに姿が消えた。
倅の月謝はなんとかクリアできて、ほっとした半次郎は、カンコヒーを一気に飲み干すと、家路についた。
(ほら、月謝だ。8000円ある。悪いな)
恨めしそうな顔をして、妻の和子はさりげなく受け


ガソリン火事



そんなある日、ガス欠になり、ガソリンスタントを探しなが売りさばいていると、246号の国道にでてしまった。
国道ぞいの、ガソリンスタントに入り、千円文だけ、ガソリンを入れてと、店員に言うと、店員から罵声がどんだ。勢いのある声だ。

(何をするだ、ばかやろう、火事になるだろう、速く立ち退け)

そりゃそうだった。焼き芋釜が熱せられて、釜口から火がこぼれ落ちているのだ。

小田実に著者(何でも見てやろう)のタイトルに魅せられて自分でも何かをしなければと言う衝動にさせられたのは確
次は中堅どころの劇団養成所に入ったが、台詞が覚えられそうもないので、これもだめ。
とかと言って、合間をみての酒屋の手伝いは貴兄と反りが会わないばかりか、高校の友達がみな、我が路を歩き出しているのを観てて、なにか、自分だけが取り残されていくような哀れさを感じていたから、今の

名古屋の街中の公園のペンチにボーッと座り込んでいると、変な親父がきて、パチンコ屋の店員になって、(俺が、座った台に玉を出せ、分け前は出す)という怪しげな話を持ち込んできた。流石名古屋はパチンコのメッカだなーと感心はしたが、聞く耳持たず、その場を立ち去り、残りの金も僅かしかないので、食べていく仕事を探さねばならない半次郎、は、こともあろうに、ヤクザ志願を思いついたのだ。


名古屋の旅けら3年、流転の旅は、親父が交通事故にあい、親父自ら退職願いを自衛隊に送り届けたために半次郎は隊長の意見を参考にして除隊を余儀なくされることになったのだ。
自衛隊を辞めて、親父の意見をしぶしぶ受け入れて酒屋に戻るのだが、やはり半次郎は落ち着きを保つ事ができないていた。

それから、数年して酒屋の跡を義兄に
店を畳んで5,6年経ったのが、今の焼き芋の引き売りだ。この間、居酒屋をやめたはいいのだが、一般的に言うと、よく聴く社長の放漫経営が殆どの原因なので、1700万円程の借金が最後に残り、裁判所、暴力団、債権者、などの対策に翻弄される始末。
次の仕事もままならず、新聞配達、掃除屋、


間近に冬が近づいていた。


(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

半次郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は半次郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法半次郎は42歳になってい
本の中味に感動したわけではないが、小田実に著者(何でも見てやろう)のタイトルに魅せられて自分でも何かをしなければと言う衝動にさせられたのは確かであった。
(ベトナムには恐ろしくて行けないが、何かを探さないと道が拓かないと焦っていた時期でもあった。
このころ、やはり親父の跡を継ぐのがベターなのかどうか、自分を試す意味で銀座の酒屋の店員になってはみたが、やはり酒の配達の毎日に嫌気がさして、早々に逃げ出した。
次は中堅どころの劇団養成所に入ったが、台詞が覚えられそうもないので、これもだめ。
とかと言って、合間をみての酒屋の手伝いは貴兄と反りが会わないばかりか、高校の友達がみな、我が路を歩き出しているのを観てて、なにか、自分だけが取り残されていくような哀れさを感じていたから、今の世界から脱出しようとしていた。

焼き芋の屋半次郎の源流を辿ればこんな背景があり、今から思えば計画性のない、行き当たりバッタリの淋しい世界に身を置いていたと言える。逃げても逃げても、親父が半次郎に酒屋の跡を継がせたいと思う心魂が影のように半次郎の脳裏を悩ませていた。
親孝行と親不孝の狭間にいたのだ。

それから、悶々とした日々を重ねて、酒屋の手伝いをしていたが、やはり、俺の進みべき路は酒屋の跡を継ぐことではないと、真面目に考えるようになり、親父様と別れを告げることになる。


えーいと、半次郎は再び家を飛び出し、恐らく母を脅かして、騙して、旅費を捻出て、当てのない旅に出ることにした。
東海道線の夜行にのり、名古屋に着いた。別に名古屋に当てがあるわけではない。

名古屋の街中の公園のペンチにボーッと座り込んでいると、変な親父がきて、パチンコ屋の店員になって、(俺が、座った台に玉を出せ、分け前は出す)という怪しげな話を持ち込んできた。流石名古屋はパチンコのメッカだなーと感心はしたが、聞く耳持たず、その場を立ち去り、残りの金も僅かしかないので、食べていく仕事を探さねばならない半次郎、は、こともあろうに、ヤクザ志願を思いついたのだ。
(この辺りの物語りは別項で記載します。焼きいも屋編なので割愛)


名古屋の旅けら3年、流転の旅は、親父が交通事故にあい、親父自ら退職願いを自衛隊に送り届けたために半次郎は隊長の意見を参考にして除隊を余儀なくされることになったのだ。
自衛隊を辞めて、親父の意見をしぶしぶ受け入れて酒屋に戻るのだが、やはり半次郎は落ち着きを保つ事ができないていた。

それから、数年して酒屋の跡を義兄に譲り半次郎は結婚し独立して、親の力で川崎の繁華街に小さな居酒屋をもらい暮らしを立てたのだが、女房の和子が純で元気でがんばっていた12年続いた店も、謙介の世間知らずとお金の重たさが解らずの、経営力の欠如がもとで、結局最後は暴力団に渡す体たらく。
この頃は既に子供が二人いた。子供たちはすくすくと遊んでいた。
店を畳んで5,6年経ったのが、今の焼き芋の引き売りだ。この間、居酒屋をやめたはいいのだが、一般的に言うと、よく聴く社長の放漫経営が殆どの原因なので、1700万円程の借金が最後に残り、裁判所、暴力団、債権者、などの対策に翻弄される始末。
次の仕事もままならず、新聞配達、掃除屋、焼肉屋のパート、水道工事の手元、など働きに行くのだけれど、なんだかんだで長続きはしない状態が続いていたのである。
謙介自身も
俺は中途半端な男だ。と認めざるを得ない状況だったので、半端な男の代名詞がわりに、
半端男の半次郎と言われることに依存はなかったのである。今の焼き芋屋もその流れの中にあるのだ。


間近に冬が近づいていた。


(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

半次郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は半次郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法半次郎は42歳になっていた。


今日の午後1時頃、このマンションの所有者である、農協の担当者が訪ねてきて
(もう、家賃が三ヶ月も未納になってます。これ以上待てないから)と家賃交渉にきた。担当者は強い口調で催促してきた。喋りも亢進してきていた。
その場は考えながら言い訳をして帰ってもらった。
相変わらず家庭の資金繰りはたいへんだった。お互いに収入を教えほど仲の良い夫婦ではないが妻の和子の収入パートで一六万位だと思う。二人合わせ三十五満位だから、家賃払うとギリギリだった。焼き芋屋もいざ始めてみると、厳しい世界で、雨が降ったり、車が故障したり、体調が悪かったりして売り上げが上がらない日もあり月三十万目標だったが、思うようにいかず家賃に皺寄せがいっていたのだ。その後分割払いで事を納めたが、いっとき、弁護士まで出てきて退去して欲しいと言われた事もあった。農協な家主は駐車場の焼き芋屋の提灯かふわら下がる軽トラックを見て、マンションの住人として疑問符を持っていたに違いない。借金の催促や脅しなどの綱渡りは何度も経験しているので驚か無いし、令状持って差し押さえにもきた弁護士も来たことあるので丁寧に怒らないで帰って貰う事に慣れていた。
催促があったその日は、農協の担当者と話し合いが済んで、少し早いが焼き芋の仕込みを兼ねて家を出た。仕込みに出る途中、前から見つけておいた相模原駅のホームの奥に寂しくぽっんと立つ柿の木の枝に今にも落ちそうな柿の実が可愛いから水彩で描いてから夕暮れの焼き芋街道に向かった。水彩は筆の水加減で楽しく描けるのが面白いなと思いながらハンドルを握っていた。
二四六号線から折れて田奈駅に向かった。丘陵に沿って田畑があり道は直線でこどもの国方面を見ると茜雲が遠くの山々を染めていた。
学校帰りの女生徒が木々の間から黒髪を揺らしながペダルを踏んでいた。
慎之助は夕暮れの風景の小道に身を隠すように軽トラックを止めてし石焼き芋の仕込みを始めた。釜に古新聞を入れて薪になる古材を入れて火をつけると煙突から白い煙が出てくる。碁盤のような田園地帯に一本の白い煙が立ち込める風景は国道から、いや、田園都市線の車窓からも見えるはずだ。


新聞読んだり
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焼き芋は半焼きの状態で目的地に向かうのが良い状態だ。生の芋を半焼きになるまで待機時間が必要になる。 こんな時間は新聞を読んだり、夕飯にするお餅を釜で焼いたりして時間をかせいでいる。たまに生活の金の工面方法や、収支を考えたりして休んでいるようで休めない。高校の友達の顔も時々出てくる。
(俺は今、石焼き芋屋だと友達に言ったら、あいつならやりかねない。高校時代からキャバレーで山内と遊んでいたし、東京の私立の進学校を卒業して就職先が自衛隊に憧れて行った奴だ。そう言われて変人のレッテルを貼るだろう。まぁ仕方ないな).と寂しく苦笑いをしたこともある。兎に角高校時代は水を得た魚のように自由自在に動き回り諸先生方はじめ友達に悪ガキの心象を与えていた。
この反抗行動は酒屋を継がなくてはならない宿命に反発していたとも言える。と慎之介は思い浮かべていた。


芋の仕入れ伊藤さん


芋の仕入れ先は近所のスパーマーケットで購入している。その他に、スーパーの野菜担当の伊藤さんがサービスしてくれる芋を使用している。
伊藤さんの提供してくれる薩摩芋は大きめで、売れ残りで日にちが経ちすきて、芋の先端が、ほんの少し傷があるので売り物にならない薩摩芋だから持っていって良いよと言ってくれるのでありがたく貰い受けていた。
龍一郎はその、芋の先端を二センチばかり切り落として焼き芋に仕上げるのだ。大きめの芋だから傷はほとんど無いのと変わらない、まして焼き芋にするから傷など気にならい。
伊藤さんは
(この芋は、焼き芋ならまだ充分使えるから良かったらもっていきなー)
と気さくに半次郎に無償供与してくれるのだ。
頭に薄毛が残る64,5才に近い伊藤さんは、八百屋一筋のような葉切れのよい声と、愛想のよい顔つきをしている。キリッとした江戸っ子風だ。
伊藤さんは自分の 息子のほど離れた歳に見える働き盛りの龍一郎を見て、この働き盛りの歳で焼き芋屋をやっているなんて、なにかの深い事情があるのではないかと思っているのかも知れない。
事実はその通りで居酒屋をパンクさせ、反社会的人物と付き合って、行き場所を見失っていた男がやっと見つけた宿り木がこの石焼き芋屋だからだ。
龍一郎の姿は野球帽をかぶり、キッコーマンの印が入った木綿の前掛け姿で、生ゴミの臭いの消えないごみ処理場の壁際にからも無造作に積み上げられたシャケの入れてあった薄い空き箱を石焼き芋の燃料として集めているのを見ていて、伊藤さんは哀れみの心に火がついたのかもしれない。あの優しい笑みから零れる言葉は苦しい時ほど熱く感じるのだ。
焼き芋を売に行く場所を特に決めているわけではない。昨日は、長津田周辺に行ったから今日はどこにするかと言う気楽なものだ。ハッキリと売れる場所があるのであれば別だが、それはわからないから運否天賦の綱渡りになる。



釜の買取り
この焼き芋釜を乗せている中古の軽自動車は、まだ、八王子の焼き芋やに歩合制で働いて二つ月位経ったころに手に入れた代物だ。半次郎が溝の口の周辺を車で流しながら焼き芋を売っているときに、畑の脇道で同業者の焼きいも売りの山根さんと出会ったのが始まりだ。
お互いに同業者と言う縁から、道端に焼き芋を積んだ軽自動車を停めて、言葉を交わしたのが切っ掛けだった。めったに同業者同士が話す機会なと殆どない世界だから、情報交換は新鮮なのである。
忙しい?、暇だよ。どの辺りが売れそう?金曜日は売り上げがいい。などと挨拶程度の会話から始まり、段々話が深くなっていく。
黒いハンチングに黒ずくめの姿をした山根さんが切り出した。
(俺、焼き芋屋を辞めて、福岡の実家に帰りたいのだ、昼間は会社勤めで夜は焼き芋のアルバイトしているのだが、親父が戻って来いと言うのだ。いつまでも一人暮らしは止めろとね。誰か心当たりあるらしいのだ、嫁さんのね。それで、この車、安くするから買ってもらえないかなー)と言うのだ。
龍一郎が勤めている焼き芋屋の社員は二十名ほどいる会社組織だ。
貸し車代、芋の仕入れ代、などを考慮すると、独立していた方が稼げるし、拘束されないだけでも気が楽だ。売り上げがないと貸車代が高いので自分でやった方が率がいいのだ。
龍一郎は値切らないで
(三十万円ね、釜付で。月賦でいいなら買うかな)
と言うと山根さんは了解してくれた。その車が今乗っているホンダの軽自動車だ。中古で何年使用しているか聞いていないがボディの錆具合を見れば、まずまずだ。それに石焼き芋の釜も付いている。慎之介はこの車は数年持てばいいと思って購入した。石焼き芋の釜は街の製鉄所で製作するのでお金がかかると彼が言うので釜付きだから買ったのだ。それと、石焼き芋屋に社員として勤めているのが嫌になっていたので、早く自分で石焼き芋屋をしたい気持ちがあったので渡りに船だった。

田奈駅から近い田園で仕込みを終えると慎之助は溝の口方面に向かって軽トラックを運転しながら路地裏を探して販売を始めた。焼き芋屋は露天商ではないので元気で大きな声での口上はいらない。寧ろ寂しそうに優しく話す方がお客様の受けがいいと思っている。また、後ろに目をつけて運転しろと勤めていた時の仲間が教えてくれたがその通りだ。バックミラーに手を挙げて近づいてくるお客様の姿が写るのだ。

数人に石焼き芋を買って頂いてから適当に路地裏を見つけてはゆっくりと軽トラックを運転している龍一郎だった。さて次は何処へ行くか・・町田の繫華街にでもいってみるかーてな感じだ。

熱く燃える釜の脇にブロック石で仕切りがあり、燃料の木が積んである。だ。燃料は今時そう簡単に手には入らない貴重品だ。木造の新築現場か、材料置き場か、ゴミの集積場ぐらいだ。
明日の燃料は、今日のうちに、車を走らせながら目星を着けて置くのが、ゴツだ。



(石やーきーいもーえー石やーきーいもーお芋ー)の口上は高校に通う息子が嫌々作ってくれたテープだ。




ラジカセのスイッチをオンにすると、車の上に針金で巻き付けた、拡声器から、半次郎の渋い焼き芋屋の口上が、流れ出した。
拡声器は、一万円位でホームセンターから、買った、性能が分からない安物だった。
(やーきいもーいしやーきーいもーや
時には半次郎自前の声でマイクを取って
車が走行している両サイドの家並みより、もう一つ奥まった通りに声が届くように声を出すのがゴツだと。それも、単純な声ではなく、哀愁を籠めた声を出す方がいいと、おもっているのだ。
カラオケの演歌の雰囲気だ。それも北国を想像したようなうら寂しい声だ。
確かに、極寒の寒さの中で焼き芋をほうばれば、絵になる。半次郎の感性が逞しく働いていた。世間から観れば笑い話だ。
今も、東北の出稼ぎは建設業と焼き芋と世間ではそう思っている伏しがある。現に、半次郎も、藤が丘の高級住宅街で夜遅く車を引き回していたとき、
(焼きいもやのおじさんは東北の人?)
と尋ねられたことがある。その時は、
(はい、岩手の山奥で)と、無駄な抵抗を止めてお客様のイメージをこわさなかった事がある。

溝の口や登戸の駅前の周辺はまだ開発が遅れている所があり木々や田畑が点在している。慎之介はゆっくりと車を運転しながら、路地を引き回していた。天空には星が輝いている。空気は冷たく透き通っていた。
車は道幅の狭い裏道に入った。
慎之介には焼き芋が売れる場所の臭いが察知出来る。六感だ。
焼き芋の売れる場所は屋敷ではなく三十坪ほどの木造住宅かま並ぶ裏通りだ。慎之介の軽トラックは溝の口から宿河原に向かう路地裏を進んでいた。すると、暗い雑草のしげる庭を抜けて二人の姉妹が元気よく現れた。
慎之介は二間程の草むらのある道に車を停めて、運転席から降りて、姉妹に近づいて話しかけた。
(お芋だね)
荷台の縁につかまって、蓋を開けようとすると
ピンクのセターに赤いジャンパーを着たお金を握っている小学校四年生位の妹が
(おじちゃん焼きいもちょうだい)
と手を開くと50玉が一つあった。
同じ服装の六年生位の姉は、妹を見ながら笑っていた。少しは姉さんだから恥ずかしさを覚えているようだ。
慎之介は浮かぬ顔して姉妹を見ていた。一つ50円では、売れるはずがないのだ。せめて小ぶりの芋で100円は貰いたい。
古びた狭い木造の家からでてきたからお金に余裕などあるわけないと、勝手に思いこでいた。
(夕御飯食べたの)
と尋ねると
(お母さん達仕事だから、まだです)
(そうか、親は共稼ぎなんた。この時間だとお腹も減るよね、何時に帰ってくるの)
(九時頃)
(それまでなにもてべないの?)
(うん)
半次郎は自分の子供を思い出してしまった。この姉妹を見て我が子も寂しい想いをしているのだろうと思った。
姉妹はなきなしの50円を出したのに違いない。と思い
(おじちゃん、50円の一つちょうだい。)健気な声だ。
妹はそーっと小さな手のひらを開けて静かに差し出した。
暗い路地裏をポツンと灯りをともす街路灯が寂しく思えた。
半次郎は新聞紙を広げ
(おまけだよ、二つあるから仲良く食べな)
と言いながら焼きたての大きめな芋二個を包んで渡した。
子供たちは礼を言うと急ぎ足で路地裏から消えて行った。
しばらく今の所でお客様が来るのを期待して待っていた。
荷台から釜に薪を焚べながらあの姉妹を思い出していた。
(息子達にろくすっぽ小遣いもあげていない、俺は親らしい事一つ出来ない哀れ無い男だ)と反省しながら運転席に戻る半次郎だった。

車をやたらと動かすと燃費が嵩むので、時折、スパーの入り口あたりで、車を停めて、拡声器での音量を下げて、焼き芋を売ることがある。
焼き釜の扉をオープンにして、薪をくべたり、灰を片付けたり、やることはある。
釜の焚き口は真っ赤に燃え盛っているから、夜の暗さと相まって人の感心を呼び込むのだ。薪能か、護魔薪か、火の放す厳かな火の塊は人間を惹き付ける力がある。
そこに、焼き芋を売るチャンスがあると勝手に定めてい類慎之介だ。
路地裏の狭い道を選んで車をゆっくりと走らせ、転々と焼き芋を売りさばきながら、一万七千円ほどの稼ぎになっていた。

帰り道になる田園都市線の、藤が丘にたどり着いたのは、11時を過ぎていた。
駅の近くにある新興住宅街の一画に高級な住宅がある。その前を通り過ぎようとしたときである。
ケーキのようなハデなデザインの門扉越しに、ピンクのネグリジェ姿の若い奥さんが、
(焼きいもやさーん)
声を出しながら、通り過ぎようとする石焼き芋の軽トラック車を止めた。量り売りは面倒なので、一本500円が暗黙の定価であった。一般的には、目方売りが常識だが、。慎之介の売り方は秤がな無いので一個いくらで売る。強引と言えば強引かもしれないと本人も思っていたが、それなりのわけがあった。
まずは、スパーの伊藤さんがくれる芋が大きい。量り売りは暗闇で見にくい。釣り銭が面倒だ。それに加えて、金持ちはそれなりに、貧乏にもそれなにと言う人情秤を持っていた。高額納税と非課税との差だ。
勿論、お客様が列をなしているなら話は別だ。列をなして焼き芋の値段を見ているのだから、誤魔化しは出来ない事になる。
たまにしか石焼き芋が売るれない時は杓子定規に考えなくてもいいではないかと考えていた。
慎之介の大まかで、世渡りの物差しを知らない男で無頓着な性格がそうさせていだとも言える。





ネグリジェの若い奥さんは、焼き芋くださいと200円を差し出した。
半次郎は、こんな夜更けに200円は、ないだろう!と嫌気が差し込んだ。売るのを躊躇っていた。こんなことは言ってはいけないね、と自答自問しながらも、堰が切れたようにいってしまった。

(今何時だと思っていますか、夜の11じ過ぎですよ。こんな立派なお宅に住んでいて、200円はないでしょう?貴方に売る焼き芋は有りません、よその焼き芋やさんから、買ってくまたさい)
車は、キョトンと呆気に取られる若奥さんを置き去りにして、坂道を一気に下っていった。長津田方面に向かう国道を渡ろうと、信号で車を停めた。半次郎はハンドルに肘を着けて信号まちをしながら、己の心の貧しさを気にしていた。
(何て言うことをお前は言うのだ。お客に向かって、イチャモン着けて、悲しい男だよ、お前は)

半次郎は数年前に死んだお袋さんが住み慣れていた家を売りにだし、とてつもない不幸をしていた。足の悪い母は半次郎にすがるように泣きながら、(家を売ることどけは止めてくれ、なんとかならないのか)と泣かれたのである。
家を売る事になった原因は、放漫の結果、行き着いた金が博打だったのだ。
法律的には、競馬のノミやの負けた金は不法行為だから返さなくても、いや、半額にしてもらう方法もあったと思うのだが、半次郎はノミやの負金を踏み倒す事なと、男の顔がたたないと、親から貰った家を売りに出したのだ。川崎の居酒屋だけは残して、両親には1000万円だけ渡し、後の2000万円は高金利、債務、などに充てたのだ。

その時の自分で落ちた地獄を思い出して、若い奥さんに八つ当たりをしたのだ。いい迷惑をかけてしまったと、反省する半次郎だった。
その時の気分はこんな様子だったのだ。
(こんな、りっばな家に住んでいて、200円の焼き芋一つとは、なんて人情の解らないか人なんだ。俺の売る焼き芋は1個500なのだ。こんな夜更けに、けちな家だ。俺はうらないよ、俺の勝手だから、俺はこんな無礼はしたくない。俺だったら最低1000円は買う)
と、意味不明な言葉が行き交いしていたのだ。この言いがかり的な発言は、家を博打でなくした半次郎の自分を攻め立てる讒言なのかもしれなかった。


信号が青になり、246号はまだ車が激しく行き交すき間の信号を通り抜け、長津田の駅裏の路地を抜けると道の外れに小料理屋がある。
ここまで来れば、半次郎の家の近くだ。

この一間間口の小料理屋は、提灯が赤く、ぽつりと人恋しさに灯りを灯している。
半次郎の固定客なのだ。ここにつくと、半次郎は少し拡声器の音を上げるのだ。俺がきたよ!と言う合図なのだ。
道路を挟んで少し脇に停車する。
しぱらくすると、着物をきたお姉様が暖簾越しに声をかけてくれる。

(今日はお客さん少ないのよ、1000円でね)

(いつも、すいません、ありがとうございます)

半次郎の丁寧な言葉が、暗闇を流れていくのが定番なのだ、いつものお姉さんは、ちょうちん灯りで、少し赤らんでいるように見える。苦労が馴染んでいて、半次郎の好みの人だ。
暖簾を潜って、中に入りたいが、焼きいも屋がプレーキをかけてくれる。
数年前は、銀座、六本木、歌舞伎町と付き合い名目で飲めない酒を、ふりして飲んでいたのだ。半次郎がクラブのドアを開けると、半次郎のテーマーソングが流れた時もあった。
半分ヤクザな行動をしていた時代のことだ。
見栄と虚栄と、恐ろしさと、欺瞞の世界と違って、この小料理屋の暖簾は、半次郎を裸にしてくれる一里塚みたいなものだった。
小料理屋の姉さんは、半次郎の拡声器から流れる何となく侘しく流れる声いに、共感を覚えたのに違いないと半次郎はそう捉えていた。
中に入りたいが入れない。焼きいもが笑っているようだった。

半次郎の帰る家は近い。長津田の駅から脇道を通って五分ばかり。途中に小さい川がある。橋があり、中央に車を停めて、車から、降りて、燃え残りの、火の始末をするのだ。
誰かに見られたら警察に通報されそうだが、やむ絵得ないので橋の上から投げ捨てるしかないのである。
このまま、棟続きのに、車をしまったら、近所から、文句が出るのは必定だ。
煙こそ出ていないが、残り火か釜の焚き口から、漏れてみえるからだ。
女房の和子があきれて放す言葉が、身に染みている。
(いい加減に、焼きいも屋なんか辞めて、みっともないから、あんたは好きでやっているけれど、子供たちがかわいそうてましょう)
親父が焼きいも屋を、しているのは、近所の人はわかっている。何故ならば、車に焼きいもの、提灯も荷台につけた間まで、駐車場にしまうからだ。その提灯もしっかりしたものなら未だしも、半次郎の提灯は、赤い
道路工事現場から、失敬してきたカラコンに電球を組み込んだ代物なのだ。

残り火の残るモクザイは、最後まで残るので、四寸柱擬きの大きさがある。川に投げ込むと、ジューンと軋む音がする。
売れ残りの芋は、自分の、腹の中にいれるのだが、そうは食べれないので、残りの幾つかは、となりの、山越さんのお宅に差し上げるのだが。これも、女房が怒るのだ。
(隣に残り物をあげるなんて、失礼だし、みっともないからやめて)
(なんで、みっともないの、ちゃんと、残

確かに考えさせる事にがあった。
友達の紹介でこのところマンションに越して来た頃、今から5年位前のことです。
伜がまだ中学生のころだった。



キャッチボール

マンションの前がまだ野原でキャチボールをしたのだ。伜は特別に野球が好きなのではない。半次郎が伜を相手にしたかったのだ。
半次郎は伜の智和戸、ボールの投げ合いをしていて、急に涙が霞んできたのである。
自分の見栄か、女房の見栄か解らないが、ヨウチエンから小学校を途中でやめるまで、澁谷の私立学校に通わせていたのである。少しは名のある学校だった。それを、己の不始末で、退場させてしまったのだ。伜は、笑顔こそ、ミセナイまでも、半次郎の投げる玉を素直に受けていてくれているのだ。
半次郎は、済まない、悲しい想いをさせて。と侘びながら投球を続けていたのである。

そんな頃、半次郎が伜の修が中学校の近くをくるまで焼きいもを売りに流していると、伜の智和が共だと、前方を歩いているのが目に入り、思わず(おーい智和)と拡声器で声を張り上げよぶと、智和と友達は、知らん顔をして道からハズれて、見えなくなたのだ。
我にかえった半次郎は怒ることもなく、自分が焼きいも屋であることを忘れている事に気がついたのである。
青春期の伜には、駄目な親父と映っていたのかもしれない。焼きいも屋の拡声器で流れるテープを嫌な顔ひとつせず、作ってくれた、伜は心の中では怒りの渦で、染まっていたのかもしれない。



息子の通う高等学校の側で焼きいも屋を流していた。友達と下校途中の息子に石焼き芋の軽トラックの拡声器から声をかけたら、二人とも路地に逃げたのだ。逃げ出した息子を見て
(あれ!アイツ逃げ出した。なんでだ)と逃げ出すのは当たり

その頃である。たまたま、午前中から降りだした雨が午後になっても止まず、焼きいも屋は休もうと考えていた。夕方近くなり、休みだった妻の和子が、電機炬燵のカバーを取り替えながら言い出した。

和子は、一所懸命、臨時の店員として、デパートの売り子をして、生活費を稼ぎ出していたが、遣り繰りがつかず、明日納める、中学校の月謝が、何だかんだで7000円どうしてもいる。もう、これ以上遅れると、倅に先生が何かしら言って来るはずだ。
倅が、可愛そうだとこぼすのだ。日頃から、焼きいも屋なんか辞めて、どこでもいいから、月々お金が入る仕事をしろと、言うのだが、背中に借金を背負ったハンデはそう甘くない。借金とりが勤め先の電話番号を教えろだとか、そんな怪しい電話や、解決しなければならない債務の、問題やらで、まともな仕事など手につかないのが、半次郎の本音なのだ。
倅の月謝が待ったなしと聞いて、半次郎は開き直ったのか、小雨模様の中を飛びだし、焼きいもを売るために長津田駅の近くにある人影の少ない駐車場の脇に車を止めて、仕込みを始めたのである。
今日は引き売りをしないで一点勝負と決めたのだ。長津田の駅で最終電車が通りすきるまで焼きいも屋をすることに決めたのだ。
夜8時が過ぎても一つも売れない。夕食時で売れない。
毎度の事とは知りながらも、7000円が頭にある。焦らないと言えども、穏やかであるはずがない。子供の月謝だ。親父の面目もある。
そんなこと考えながら半次郎の前で、焼きそば屋が屋台をだしていて、そこの若い職人が、見掛けない半次郎に近寄ってきて、
(お兄さん、ちゃんと、挨拶してきたの)
言う。半次郎は、ヤクザえの挨拶だなと直感的に感じた。まんざら、知らない訳ではない。その道の幹部に、
(山城ちゃんは、多摩川、を渡ってこないほうがいい)とヤクザの世界に訳もわからず首を突っ込むようになっていた半次郎を今時で言う、首にしてくれたのだ。半次郎が余りにも正直で、この世界では役に立たないどころか、危ない存在になりかねないと判断したらしい。

半次郎は焼きそば屋のお兄さんにいった。
(地廻りさんも、こんなちっぽけな焼きいも屋なんて相手にしないさ。相手にするようなら終わりだね)
と言い返したら、スーッと下がっていった。

半次郎の車は勧業銀行の脇に停めてある。
駅のホームに続く階段の下の通路の側だ。違法駐車だ。
警官が来たら、謝って移動させる腹だ。
釜の焚き口に角材を入れ、炎が赤く燃えている。暗い道路に停めてある車から赤い薪が燃えている光景は、人の心を掴まないはずがないと、半次郎は信じていた。
九時半をすきるころから、焼きいもは売れ出した。車の外で、焚き口に頭を近づけ、薪を出したり、引いたりしていると、人が集まるのだ。
人間の心理かな、半次郎はそんなことを考えていた。すると、
65,6才の見かけたことのある男性が最終前の電車から降りてきたのか、半次郎に
(よく、がんはるね、少いか千円ぶんだけくれ)と、愛想よく声をかけてきた。
半次郎その男の顔をほの炎の陰で観ると、
(おとうさんは、新橋駅のローターリの脇で、似顔絵を描いている絵かきさんですね)
と親しげに声をかけた。
(そうだけど、なにか)
(わたしは、新橋のレンガ通りの焼肉屋でアルバイトしていた頃、二年前かな、勤め前に、お父さんの脇で、よく似顔絵絵を観ていたのですよ。この辺りから来てたのですね。これもなにかの縁ですね?はーい、おまけです)

絵かきの親父さんは、そうかい、そうかいといいながら、また来るよといって、闇に消えていった。
半次郎を流転のあかつきに、なのだ。焼きいも屋になったのも、この絵が好きだったことが、全ての始まりなのだ。
大袈裟に写るかも知れないが、純に宗である。新橋の似顔絵さんに惹き付けられたのも、半次郎の魂がそうさせていたのである。いや、焼きいも屋の現在も、売りたいが、売れない絵を描きたいがために、流していた。
焼きいも屋を始めた動機は、自由時間が欲しいためからだった。
だが、半次郎の思惑は見事に外れ、二足のわらじは履けない現実に方向舵を失った飛行機の用に、墜落仕掛けているのだ。
川崎の居酒屋も、職人としては半端者と分かっていたし、それでは、経営はいずれはつまづくと、予想すらしていたのた。
得意先のおばちやんが、小さな画廊をしていて、薦めるまま、誰だか解らない、将来は有望な絵かきだと言い値で買ったりしていたから、店も傾く要因が潜んでいたのだ。
(俺も何時かは、画廊に出せる絵を描きたい)と考えていたいたのである。
その流れの川が、今の焼きいも屋につながっているのだ。
半次郎の運命的な言霊が秘かにうずいているのだ。マグマのように心のどこかで対流をしていりるのだ。

長津田の終電は半次郎が気がつかないうちに姿が消えた。
倅の月謝はなんとかクリアできて、ほっとした半次郎は、カンコヒーを一気に飲み干すと、家路についた。
(ほら、月謝だ。8000円ある。悪いな)
恨めしそうな顔をして、妻の和子はさりげなく受け取った。
月謝を入れる茶封筒が小さな古い仏壇の前に置いてあった。
焼きいも屋は10月から、3月の半年で引き売りは終わる。後の半年は寝て暮らすとはいかない。
(竹や竿竹ー)か、網戸の修理だ。
半次郎は鼻から棹竹やはやらないことに決めていた。
12月になり、寒さも本格化してきた。
シーズンだ。
そんなある日、ガス欠になり、ガソリンスタントを探しなが売りさばいていると、246号の国道にでてしまった。
国道ぞいの、ガソリンスタントに入り、千円文だけ、ガソリンを入れてと、店員に言うと、店員から罵声がどんだ。勢いのある声だ。

(何をするだ、ばかやろう、火事になるだろう、速く立ち退け)

そりゃそうだった。焼き芋釜が熱せられて、釜口から火が燃え盛っているのが見えるのだ。半次郎は、はっと驚き急いで
車を移動させ国道の脇に止めた。

(うっかりしていて、悪かった、ごめんごめん)
そう謝りながら、赤いポリのガソリン入れを借りて、自ら入れた。
店員は、あっけに取られて、言葉も少い。
速く出ていってもらいたい表情だった。
これだから、焼きいも屋の新人は怖いのだ。

草競馬のある川崎市で競馬馬を管理する、厩舎が多摩川、沿いにある。
川に沿って県道があり、車の渋滞でこの辺りでは名高い場所だった。半次郎は六号橋をみなから車を流していた。どこかで道路から脇道に入ろうとしていたのた。
すると、後方から、大型の乗用車が追い抜いてきて、半次郎の車に割り込む用にして止まった。

中年の恰幅のいい男性か、半次郎の車のドアを激しく叩きながらいった。
(おい!荷台が燃えているぞ、荷台が!)
半次郎は、えっ!とブレーキを踏みながら道路際に慌てて止めた。
釜が熱せられ、燃料の材木に延焼していたのた。釜と5.6本燃料の材木の間はコンクリートプロックで仕切られているが、数本が車の振動で、倒れ、釜に接していたのだ。
あいにく、釜のなかは火の勢いが増していたのである。
後続の車は珍しそうに燃える荷台を見ながら通りすぎていく。
半次郎は荷台に飛び乗り、巻いていた木綿の前掛けを取り、二、三本の燃え盛る材木を叩いて消しとめた。
火事を知らせてくれた人に丁重に礼をいい、見ていた数人の見学者にも謝りの言葉をかけたのである。
落ち着きを取り戻した半次郎は直ぐ様バンドルを
握り、恥ずかしさから、逃れるように、県道から折れて、住宅街に逃げ込んだ。
そこは古い平屋の県営住宅の片隅だった。
(なんてこった。落ち目の三度笠とはこの事だ)
そう想いながら、植え込みの縁石に座り込みタバコに火をつけた。
人気の無い夕暮れだった。
ここから多摩川沿いにそって僅かな所に嫌な思い出で残る場所があり、そんなことも併せて半次郎の自分で落ち込んだ世間を泳ぎ切ろうとするパワーも萎えていた。
(そう言えば、この先にボクシングジムがあったけなー。四年前位だ。ここの隣に古い家があり、その家のトイレの工事を請けたっけ。コンクリートで修理する一日仕事だった。
臭くて、汚くて往生したな)
発注者はこの家の住人で、金貸しを潜りでしていて、半次郎も世話になったことがある。
川崎の居酒屋を潰したころだ。
この金貸しは半次郎に同情したのか、憐れを思ってか、半日二万円のしごとだった。
それでも、理屈なく、半次郎には有り難い金だった。ヤクザの上手い演技に乗せられて、焼きいも屋の今とたいして変わらないが、どん底と闇の世界をさ迷っていた頃のことだ。
半次郎を借金の方に大阪に連ていいくと、脅しをかけてきたのも、この金貸しの差しがねではないかと、今でも信じていた。

半次郎はタバコを植え込みの土のなかに埋めながら、当時の事を走馬灯のように思い出していたのであった。
火事から、目を覚めした発注者は、釜の中の芋を並べ直し、焼き上がった芋を、保温用の区割りされた網の中にいれ、生芋を並べている。

半次郎が焼きいも屋を始めたのは、新聞の片隅に二行広告に目が止まり、一日二万円以上稼げます、の甘い募集広告に乗せられたのが縁である。
案の定、予想した通り、数字は上がらない。それでは、面倒だから、自分で始めようと、今に至っている。
しかし、二万円は、たまにいくが、ほとんどは、一万チョイだった。
それでも、自由に憧れて、拘束を嫌う世界は、スーツをきて、通勤する生活より、馴染んでいた。それと、スーツでの仕事は、身辺調査や、半次郎自身が、債務の整理などで落ち着かないこともあり、敬遠していたのだ。
自由って、義務が伴うと人は言うが、本当であると実感する半次郎だった。
産んだ子供には罪はない、だから、何でも屋のような生き方しか出来ない自分を卑下してみたり、詰まらない理屈を捏ね回して、正当化してみたり、それなりの苦悩をする半次郎だった。
それでも、匍匐前進のように、前に、前にと一歩一歩歩んでいるようだった。

ちんたら、武蔵小杉に向かう途中だった。
車の背中は西日が傾いていた。
赤いスポーツカーが、スーッと半次郎の車を追い抜いて
少し先に停まった。女ずれだ。
黒眼鏡のお兄さんが、
(焼き芋千円ぶんくれ)
と声をかけてきた。
半次郎は焼きたてだと言って太い焼き芋二本を紙袋に入れて渡した。
計り売りでは無いから、仕事は早い。
お金を貰うと直ぐに焼き芋の車を走らせた。
しばらく国道を走っていると、さっきの
スポーツカーが追い付いてきて、半次郎の前に停めると、お兄さんが
(生だよ、焼けてねーよ)だった。
芋の焼きがげんはそんなに難しいとは、思わないが、生芋は堅くて食べられない。
間違えて半焼きを渡してしまったのだ。
半次郎丁重に謝り、焦げ目のたっぶりついた芋を渡して事なきを得たのである。
こんなミスは始めである。
常に何かしら考えている習性がある半次郎は、地獄の雄叫びに苛まれていたに違いない。

正月が近づいていた。
練馬の親父に年始の挨拶に行かねばならない。
親父は80歳位だ。鬱の弟と二人で暮らしている。
親父に年始の挨拶にともっともらしい事を言っているけど、親父は半次郎を歓迎しているわけではない。むしろ、迷惑かもしれない。
理由を挙げれば切りがない。
強いてあげれば、こんなことがあった。

半分ヤクザの金貸しに期日に返す金が100万円
どうしても足らず、親を脅かしたのだ。
車に親父を乗せて、何処からか、帰る途中だった。

。(100万円貸してくれ、貸してくれないと、この車を壁にぶつける)と、とんだ子供だった。その金は姉と相談して、やむ無く出すことになったのだ。
こんな灰汁の強い金も、その後の半次郎の立ち直りにはなんの役にも立たず、むしろ傷口を広げたのかもしれない。
かいつまんで話せば、高利が高利を産む、よくある話だった。
こんな親不孝の半次郎でも、親から見れば子供である、なんとか立ち上がって貰いたいと願っていたはずだ。
半次郎が正月に挨拶に行くのは理由があった。
兄弟6人いるので、お年玉を上げなければ、半次郎の子供二人が、兄弟から貰えないのだ。子供たちは、叔父や叔母から貰うお年玉を夢見ているのだ。
半次郎も、子供のために、兄弟の子供にお年玉を
あげねばならないのだ。
大晦日は焼きいも屋を休んだ。
子供たちは、狭い部屋でTVの漫画を観ている。
大晦日と言えども、半次郎の家庭は温もりなどあったのか、なかったのか、それすらわからない。
ミカンと、なにがしの御菓子があったのは覚えているはずだが、正確な記憶にない。半次郎は、多分、朝日新聞を時間潰しに漁っていたと思う。
子供たちが、淋しい大晦日を過ごして、眠りに着いた頃、和子は、(明日のみんなに渡すお年玉用意してあるの)と半次郎に尋ねた。
半次郎は貸してくれといってもあるはずはないと思っているから。
(なんとかするさ。)
と返事するしかなかった。
(元日は止めて3日に行くよ)と、返事をした。
元旦は、食べるものがどこの家庭でも豊富だから焼きいもは売れないと判断しているのだ。
それよりも、兄弟の子供に上げるお年玉のお金が無いので、売りながら、お年玉をつくるしか無いのである。引き売りの売り上げをお年玉にするのだ。
半次郎は少しでも正月料理に飽きてくる3日を計算に入れていたのだ。
町田から、練馬まで、スローで走らなければ売り上げが期待できない。三時間か、四時間は覚悟していた。
その日がやって来た。
和子はビックリして言った。
(なに、これから、焼きいも売りにいくの。まだ、お正月よ、売れるはず無いでしょ、美味しいものがあるのだから。焼き芋なんて買わないわよ。第一、近所の人に恥ずかしいから止めてちょうだい)
半次郎は和子の話を他人事のように受け流して、扉をあけて、外に出たのでた。
外は曇天、曇り空。車の置いてある隣接の駐車場にいくと、野良猫達がワゴン車の下に寄り添うように暖をとっていた。
午前10時頃の正月は3日めを迎えていたが、人影はなかった。
TVでは、お笑い番組が華やかなはずだ。
倅とキャチボールをした、野原の脇に車を停めて
焼き芋の仕込みを終えると、町田街道をユルリと北に向かった。
野津田辺りの住宅街で、やーきーいーもーの半次郎の声が流れると、二、三の子供たちが、和服姿で元気よくどびだしてきた。
オジサーンの声に励まされて半次郎も正月だと言うのに、己の馬鹿さ加減も忘れて、元気をもらい、気分よく商売を始めていたのである。
焼き芋は、半次郎の売り上げ予想を上回って昼を過ぎると二万円位になり、青梅街道から、練馬に入る頃は三万近くになっていた。
半次郎にしてみれば、嬉しい悲鳴だ。まさかのまさかなのだ。
一万あればお年玉の格好はつくと判断ていたからだ。
練馬の親父のマンションに着いたのは午後2時頃だった。
3DKの間取りのマンションで、親父は、優しい声で、謙介かー戸との後ろで声をかけてくれた。正月だから嫌な顔をしても意味がないと老いがそうさせていたのかもしれない。
半次郎は、ダイニングキッチンのテーブルに座ると、ビニール製の黒い小さなカバンのチャックを引いて、逆さまにして、ばら銭を出したのである。
お金は10,100,500玉と、千円札がお盆にかなりの重量感をもって盛られたのである。
(じいさんさ、これを千円札に変えてくれ、皆のお年玉にするからさ、俺も出さないと、修や、和歌子が小遣いもらえないからね)
半次郎の今日の目的は子供たちにくれたお年玉を集めて帰ることだったのだ。
(いくらあるのだ、お前もいい加減にまともな仕事についたらどうだ。子供がいるのだから)
(わかっているよ。なかなかないのさ、警備員ばかりさ、そのうち何とかするさ、一万六千円ある。この内、えーと、お年玉をあげる子供たちは六人だから二千円として、一万二千円だ。のし袋に入れておいて)
半次郎は思わぬ売り上げに驚いて悦に入っていた。
隣の部屋に移り、炬燵の上に御節料理が並んでいた。
酒屋の跡を継いだ姉の栄子からの差し入れでだと言う。有名な店の品物で得意先だとも言う。義理で買わされたのだ。五万円もするらしい。
半次郎は御節料理は旨いものなしと思っているので、申し訳程度に、箸を入れ、早々と帰えるタイミンクを探していた。
部屋の住みには、たち膝をした、弟の義正が懐かしげに半次郎の一部始終を観ていた。義正は日本料理の職人である。ホテル勤務の時板長の上林さんが、急逝して、職をやめたと言う。
気の弱い弟は、大黒柱を失った衝撃を受けたのかもれない。。半次郎は弟の気持ちは素直に読み取ることができた。
ハマッタ職人同士は、テコでも離れないと言う意味がぴったりするのだ。
弟の義正の人生を狂わした一端は半次郎にもある。
その事を話すと長くなるのでここでは通り過ぎるが、半次郎が酒屋を継がないことが、姉と酒屋の跡を継いだ義兄との確執で、弟も人生の荒波をうけて行くことになったから、今、ここにいる弟が、自閉症的な鬱にみえるのも半次郎にはよく理解出来ると同時に、兄として謝罪したい気持ちでいたのである。

親父は半次郎の数々の不条理を受けながらも、こんな倅に育てたのは自分だらと、心の隅で思っていたにちがいないと半次郎はそう感じるのだ。親父は不肖な倅の重圧に耐えながら、既に酒屋の会長としての僅かな給付金も義兄によって打ち切られ、僅かな年金で暮らしているから、仕事をしないで、居候を続ける弟にも快く思っていなかった。
ただし、天は上手くしたもので、弟の存在に、大義名分を与えていた。
それは、兄弟六人いるなかで、老いた親父を環視、介護出来ると立場にいるのは弟しかいないので、兄弟からは、仕事しろ、仕事しろと、せっつく割りには、掛け声だけで、本音では、親父の面倒を観てくれる弟に感謝していた。
弟は特別に親父の面倒を見るわけではない。簡単な食事の用意と狭い風呂の掃除ぐらいなのである。兄弟にしてみれば義正が親父の側に居るだけで幸せの一端を享受できているのである。

御節料理を囲みながよもやま話にも厭きがきた。
半次郎は親父を近くのように銭湯に誘った。親父の顔は笑みがこぼれ瞬時の幸せ感がただ
ょっていた。
弟は(風呂のは無理だよ、階段が降りれないし、番台の場ぁさんが嫌な顔をするさ、年寄りは風呂場で糞を足らすらしい。肛門が緩んでいるからね)
(へー、そんなもんかい、薄情だな。でも、仕方ないかな。商売だからなー)
親父は
(だいじょうぶだよ、そこまでいっていないから)
半次郎は親父を背負って銭湯に行くことにした。一番風呂場に近い時間で、湯船を見渡すと、3,4人の老人がゆったりと風呂をたのしんでいた。
番台のおばぁちゃんは、半次郎が付き添っているので風呂代をもらうにも、余裕が有りそうに見えた。
ブクブク泡がたつ湯船に親父は、ゆっくりと身を沈め、
(風呂はいいな、もう、何ヵ月も風呂には来ていないからなぁ、謙介、また連れてきてきてくれよ)
(ああ、いいさ、また連れてくるさ)
湯船からでて、半次郎は親の体を丁寧に洗い出した。
親父は
半次郎に身を任せている。時折首が左右に揺れている。
半次郎は親父の背かに回り、背中を洗い出した。
しばらくすると、半次郎の手元が緩くなり、あらうりずむも緩慢になった。
半次郎は泣いているのだ。目頭があつくなってあるのである。
はっと、さとられないように我に戻り、また、勢いをつけて背中を洗い出した。

半次郎にしてみれば、悪行の数々が走馬灯のようによみがえっていて、親父の背中を洗いながら、お詫びの証の一つにも価しない行動なのだ。
この親父が今、住んでいるマンションも、半次郎の不始末で武蔵小杉、野川の高級住宅を半次郎が売り飛ばし、その残金の一部で、購入したいわくつきのマンションなのだ。
死んだお袋もここから逝った。
(健輔(半次郎)よ、野川の家だけは売らないでくれ)と泣いて咎める母を無惨にも切り捨てた半次郎が、いま、こうして親父の背中を洗っている。
武蔵小杉の一軒家も、早く言えば、博打の担保金で没収せれたようなものだった。居酒屋経営の顛末の流れの一つとは言え、無惨にも両親の小さな幸せを粉々にした半次郎が申し訳程度の孝行面しているが、親父は、騙されても、天は許すはずがない。と半次郎は思っていた。
風呂から上がり、半次郎親父を背負い暖簾を潜って外に出た。親父の剥げた頭に
そっと、のれんが触れていた。
曇り空だった天気も晴れ間がでていた。

近くの道端に違法駐車していた焼き芋車も、半次郎が戻ると、釜の中は残り火が微かに残っていた。木っ端とシンブンで火をつけ直し、残っている焼き芋を温めながら、帰路に着いた。子供たち渡すお年玉は運転席のポックスにしっかりとし舞い込んだ。
帰りの焼き芋流しは、甲州街道から調布に入り、多摩川を渡り、柿生抜け、家に戻った時は日も落ちて、どこでも夕げの時間だった。帰りも焼き芋が売れて半次郎はつかの間の安堵をたのしんでいた。


半次郎の正月はお年玉の落着以外は、普段と変わりはなかたった。

夕方の焼き芋屋の仕込みがま始まるまでは陽当たりの悪い6畳間で、見込みのな油絵をただ、筆の流に任せて時間をつぶしていた。パレットは洋菓子のアルミの蓋、筆は、100均あちで探した。絵具は、世界堂の特売品。キヤンバスは、画材やの特売品だ。
自分の似顔絵を描いていた。f6の小さな絵だ。
半次郎が絵を描きだすと、必ず女房の和子が怒る。
畳みに新聞紙を何枚も重て、汚れ落としの、トイレットペーパーと、使い古したタオルてま汚れを除きながら絵を描いているが、無頓着で、形式にとらわれないから、勢いあまって辺りを汚してしまうからだ。
そればかりではない、半次郎が絵を描きだすと間違いなく収入が減るから、その事も嫌われる理由だった。

半次郎は日本山岳風景画同人会の準会員として、絵描き仲間と少しばかり交流していたので、同人会にだす作品を描かなければならないので、時折、収入源の焼き芋屋を休んでいたのた。
大した腕もないくせに、早く会員になりたい一念で、絵を描き続けていたのだ。
会員になってもならなくてもたいして違わないと気がつくのは後のことだった。
焼き芋屋は陽気が暖かくなると廃棄だ。半次郎はその後の仕事のことは、なんとかなるだろうと、焦っていないばかりか、心を落ち着かせてくれるのはこの時期は油絵しか、なかたったのだ。

焼き芋屋を始めたその年の秋に会の代表さんから、奥入瀬に絵を描きに行こうと誘われて
青森の国民宿舎に一週間ほど、二人で奥入瀬にでかけた。
毎晩、夕食は、一緒に食べたのだか、日が重なるにつれ、食事での会話が辛くなってきた。
代表の話は、株で200万円ほど、儲かった。
家賃収入がいくらだとか、半次郎にとっては、屁みたいな話で、嫌気がさしていた。
半次郎は、技術的な会話を望んでいたからだ。
これを期に仲間意識は、からっと吹き飛んで、会から抜け出すことにした。

それでも、奥入瀬渓谷での一日は、半次郎には忙しい身の回りの雑音を忘れさせて彼なりの開放感を味わっていた。
幾重にも苔むした岩肌を、勢いよく、まるで、先を競うように流れ落ちていく水流。
それを包むように秋の葉が彩り、漆黒に水を含んだ土が遊歩道を染めている。
音がする。辺りの静寂を独り占めして、水が踊る

一日めは、渓流に着いたのか昼を過ぎていた。
半次郎は水流を避けなが岩肌を飛び移り、絵になるポジションを探した。
代表には見せられないような、粗末な道具を足元に置いて描き始めた。
キャンバスにはバランスを考えて、朽ちて、苔むした丸太が、流れを塞き止めるように倒れ、木々と岩肌との隙間を楽しむように流れていく、光景を置いた。
半次郎は絵の基本は構図だと言うことぐらいは経験で知っていた。
重みのある絵を描きたい。渋い絵だ。と想いながらも
上手く描けない。
(ここで描くのはイメージだけだな。雰囲気だ。あとは家に帰ってからだ)
三、四枚は何とか絵にしたが、そんな一日の流れで、予定の一週間は、過ぎて行った。

山岳風景画同士会代表の絵にたいする深い存念を探れた訳でもなく、一例を揚げれば、憧れていた美術年鑑に載せるのも実力だけではなく、掲載料でなりたっているとか、また、掲載自体か自分にとっては無意味なことだと、美術界に疎い自分に絵描きとしての軽さを感じていた。なんといっても、道具一つさえ満足に揃えられないで、絵描きになろうなんて、身の丈をしらない、無謀な事だと気がつき出していた。

半次郎は奥入瀬渓谷を離れて、酒田に向かった。
半次郎にとっては、思いでの詰まる哀愁の地であるからだ。

二年前の夏ごろの話だ。
毎年白鳥が飛来する河口の近くの松林に隣接する、掘っ立て小屋を二万円で借りて、一人で、寝泊まりしていた。
地元で採用した仲間と共に、潰れた零細会社の後片付けに奔走していた思いでのある土地なのだ。半次郎の勢いだけで描いた風景画の100号の八ヶ岳が会社の入り口の正面に飾ってあった。

この地に縁が出来た切っ掛けは、半次郎の友人の山本が、歯科用医療機器販売の会社を酒田に独立してつくったが、業績が伸びず2年で破産状態に陥り、夜逃げ同然で東京に戻ってしまい、そのあとを、半次郎がやる羽目になってしまったのだ。
これにはわけがある。
半次郎と山本は、この医療機器を以前に営業していて、半次郎はその会社を辞めて、山本は二人が勤めていた会社を辞めて、独立して会社を立ち上げたのだ。
半次郎と山本は企画力とか、営業話で、気の合うところがあって、付き合いも長い。
たまたま半次郎は山本が、体が空いていたら、営業を酒田に来て手伝ってもらえないかと言うもので、アルバイト位にはなるだろう、と思い、酒田に出掛けたのである。
当然ながら、この頃は油絵を離していないから、休みには、日本海の寂寥とした光景を、絵にして見たいということもあったから、酒田に興味を抱き、出掛けることにたのだ、
ところが、半年も経たないうちに、山本の会社は、傾き、あげくの果ては、半次郎に印を預けて再建の目処を立てに東京に行ってくると言い残したまま、戻らず、困り果てた半次郎は、残った社員四人と相談しながら、歯医者向けの医療機器を売る羽目になって、家賃の高い市街地の事務所をたたんで、社員の探してきた、海辺の松林に近くの、古い家に住み着くことになったのである。
なにも、倒産寸前の会社に残る必要も、責任もなかった半次郎であったが、帰れない理由を社員の一人がら聞いたからであった。

(森さん夫婦は山本社長に住宅資金、200万円を市から借りらされて、まだ、返済がはじま
ったばかりで、こまっています。謙介(半次郎)さんは友達でしょう)

簡単に言うとこの様なことだ。山本はこの資金を運転資金に回したことになる。
この話を古参の三原さんから、聞いた半次郎は、ここまでやるかと、山本を人間的に疑うばかりか、唖然として、腹を決めざるをえなかったのだ。
(分かった。この器械を売ろう、昔は山本より成績がよかった。だいじょうぶ。売りに出よう。その金で住宅資金の返済を終わらせよう)
まとめて言うとそんなことで酒田には、縁があった。
一年足らずで住宅資金の返済を終わらせ、酒田を後にする最後の夜は、カラオケの宴で終わりを告げたが、集まった四人とのお別れは、半次郎共々、哀愁のある、お別れ会になっていた。

奥入瀬渓谷の帰りに、思いでの酒田に立ち寄った半次郎は、昔の仕事仲間と会いたいと思う気持ちを避けて、山居倉庫の近くにある、ビジネスホテルに泊まり、誰にも連絡をいれなかった。
それにはわけがあった。
金融被害をうけた社員であった森さんの妻、朋子に半次郎は密かに淡い心を抱いていたことが、彼らに連絡を取るのをためらった、理由であった。(半次郎鳥海山の詩編)

気疲れして、絵描きとしての物理的、才能的、忍耐的に今の自分に限界を知らされた半次郎は町田に戻ってきて絵で暮らしを立てようとした、浅はかな夢を捨てることにしたのである。
しかし半次郎の絵心は、その後も生きる心の糧として、息づいている。


まだ冬の2月、焼き芋屋の出番時だ。

慎之助は真冬の二月、杉並区方南町にある都営地下鉄操作場に近い神田川の人気のない川筋に車を停めた。中野区立第一中学校がその傍にある。慎之介の母校だ。当時はこの辺りには今のように家がなく緑の丘で、赤い土が崖をつくっていて木々が茂っていた。小学校の頃はここによく遊びに来た。ワイズミーラのターザンごっこをした懐かしい場所だ。(あーあっあー)懐かしい声を思い出す。
いつものように、荷台には焼き付いた焼き芋釜、燃料の雑木、仕切りのブロックがあり、ダンボールの中には生の芋が入っている。これから石焼き芋も仕込みが始まる。
運転席の外側の隅にはカラコンに石焼き芋と書いた看板が目立つように結んである。
助手席には使い古したジャンバー、炭で汚れた軍手、新聞紙、タオル、簡単な食べ物などが無造作に置いてある。
今車が止まっている所は慎之介が通った中学校だ。二階に音楽室が見える。
そういえば、音楽のテストに浜辺の歌を唱わされた。あしたーーはまべーをーさまーよえばー。はーい。(渡辺先生、半次郎は今でもさ迷っていますよ)と二階の音楽教室を見上げて苦笑していた。
今で言うカラオケレッスンのようだ。楽しかった。
慎之介は走馬灯のように当時を思い出しながら焼き芋の仕込みをしていた。
酒屋の跡継ぎを振り切ってきたからもう(俺には帰る故郷は無いのだ)と神田川の土手に立って幼き頃を懐かしく思っていた。
義兄が父の跡を継いだ酒屋はこの近くにあり今では立派に跡を継いで従業員が七十余人もいると言う。
父には終身給与を渡してくれているし慎之介とは雲泥の差だ。
(俺が酒屋を継いでいたらとっくに潰れていただろう)と想像していた。
今日、少年期を過ごした故郷にきたのには訳があった。

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ここに来る数日前に義兄の酒屋の社長から要請があったのだ。なんでも、慎之助に二十万円支払うから手を貸してくれとのことだった。
電話を受けたのは和子だった。(何の話かしらー、仕事でも紹介してくれるのかしら)と慎之介に言ったが、
(そんな事あるわけ無いだろう)
と和子に応えたが、でもね、の期待は少しあった。
電話の内容は赤坂の経営する居酒屋後楽を閉店するのだか厨房の板前六人が団結して退職金を貰いたいと要求しているので払えないから話を付けていて欲しいとの事だった。(こんな危い話が俺に来るのには訳があるな)心当たりはあった。
恐らく義兄は、数年前のヤクザ風の慎之介の姿を見て依頼してきたと思うのだ。
ある時、通り掛けに義兄が経営する酒屋を訪ねたこどがある。義兄は居酒屋を潰した慎之介が自暴自棄になり、金のある義兄を金銭でもせびりに来たのかと勘違いして、番頭の男が何しに来たのかと威勢よく尋ねてきたが、慎之介は自分の姿がヤクザ風でブルーカラーの光沢のある、ラメのスーツに白いワイシャツは本絹で、薔薇の刺繍があり、頭は五分刈りで、サングラスを胸に挟み、何処からみてもヤクサぽい身なりだったから、脅しに来たと勘違いして番頭を代わりに出してきたと思った。
話はヤクザまがいの話だった。
慎之介はこの話を断る事もできたが二十万円の報酬に魅力を感じていて引き受けることにしたのである。それもうまくやれば一日仕事だ。スーツに着替える必要はないだろう?着たくてももう、そんなスーツはないし、履いていく靴もない、ないないずくめだから、いっそうこのまま焼き芋屋の姿で相手に会いに行くことにしたのだ。
二十万と言えば一月分の稼ぎに相当する。金のない時は少しぐらい危険でもやるしか無い。何でもこの時期は命がけだった。
(Tbsテレビ近くの居酒屋か、六人の板前が店を閉めるのなら補償金よこせだと、それで、辞職を迫っても、辞めないで居候を続けているだと)
芋が半焼きになった。
故郷の学校でブロレス遊びで廊下に立たされた想いでや、仰げば尊しを卒業式で歌いながら、仲良しだったおさげのアイツと別れた青春の宝庫でもあった中学校と別れを告げ、鈍いエンジン音を流しながら赤坂に向かった。煙突から薄い煙が出ていた。
夕方が迫っていた。
慎之助はこの時四十三歳になっていた。この汚れたジャンバーに野球帽を被り、キッコウマンの前掛けをした焼き芋屋が酒屋のボンボンだったとは誰も想像出来ないと想像に耽っていた。
(和泉屋の酒屋の慎之介がここにいるぜ、修学旅行に革靴禁止の禁を破ってクラスでただ一人革靴を履いて行った、バカヤロウが赤坂で見窄らしい姿でいしやきの車に乗っている)哀しいけど、現実だ。
俺は親父の薦める商業高校など行かないと、当時の担任だった女の先生を市川先生を家の玄関先で泣かした事が脳裏に浮かんでいた。(私の指導が悪くて)と父親に謝っていたが、それだけ純粋な良い先生だった。

車は方南町から、十二社にでて、新宿御苑前を通り四谷から溜め池に向かい、TBSの前につくと、赤坂通の片隅に、焼き芋屋の車を停めた。
正にこの地が華やかで、湧き水のように日本の知恵を醸し出す街に最もふさわしくない焼き芋屋の古びた軽トラックが薄い煙をブリキ作りの煙突から吐き出してい赤坂の道に止まっているのだ。周りから珍しのか、視線を浴びた。


近代化された街並みに、明治時代の異物が、混入したようなものだ。
道行く人は怪訝な顔つきで慎之介に視線をおくる。
義兄の居酒屋は旭粋と言う店で、華やかな通りに面した地下にあった。
店の広さは六十坪もある居酒屋である。



荷台の釜から焼き芋を五千円分新聞紙に包んで土産がわりにした。
土産は、義兄からの注文で店の従業員にあげるみやげだ。
階段を降りると、一間ばかりの格子の引き違いの入り口があり、紺の暖簾が開店を知らせていた。
中に入ると紺地の和服をきて、赤い前掛けをした、五十前後の仲井さんが応対してくれた。
慎之介の姿は焼き芋屋だ。煤けたグリーンのジャンバーに前掛けを腰に巻き使い古した運動靴だ。首にはタオルをまいて手には新聞紙に包んだ焼き芋がある。
(どちらさまですか)
たすき掛けをしたリダーらしき仲井さんが、怪訝な顔つきで、訊ねた。

(社長の弟です。ここの板長さんと退職金の事で話があるのですがか)
と、おとなしく気品を持って言うと
(しばらくお待ち下さい)といって調理場に入って行った、
慎之介は義兄が、こんな交渉で二十万もくれると言うのが信じられなかった。自分で言えば済むことだろう、何で?と言う感じて義兄を捉えていた。
慎之介は相手が五人だろうが何人であろうが、話し合いでまとまると考えていたからだ。

広々とした客席には誰もいない。夕方だ。これから客が入ってくる時間だ。閑散とした店は、それなりに落ち着いていて趣があった。あと一時間もするとお客様で喧騒の宴だ。
慎之介は店が忙しくなる前にこの件を決着させようと思っていた。
板場の暖簾を潜って、先程の中居さんが出てきて言葉を掛けた。
(板前さんからの言付けですが、---話は解りました。あとは、社長と話し合いをします。----それだけ伝えれば、わかるから、と言うことでした)

何てことはない。話は勝手に板前達で結論を出して、義兄の社長の条件を飲んで解決したのだ。
板前達が、不当解雇だの、何だのと、騒げば、それなりに、対処しようと思っていた慎之介は内心、これ幸いと思いながら、義兄に外から電話をいれた。もしかしたら相手の顔も見ていないし、トラブルもなく終わったから二十万円もらえないのかと心配した。
この店の、ゴタゴタは、関係ないし、慎之介が欲しかったのは金だけたから、呆気ない結末に気が抜けた。
喧嘩擬きの口論は覚悟の上だから、こんな結末でお金が貰えるのかと、心配になる半次郎だった。
この件を切っ掛けに、義兄の社長から、どうだ、お店でもやってみないかと、話がくるかも知れないと、にわかに夢を観てみたが、過去の半次郎の生き方、経済観念などに、相当の抵抗感があるらしく、義兄との仕事の話は、これが最後であった。
雨が降っていた。早めに石焼き芋を仕込んで水郷田名に向かった。県道をそれて相模川の河原に出た。祭日のせいで河原には乗用車が所狭しと並んでいた。雨なのにご苦労な事だと思うのだか、この百台ばかりの乗用車は若いアベック達だ。龍一郎はなるほどと手をたたいた。
雨の夕方で河原

路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

路地裏の灯り (半次郎焼き芋や屋編)

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-18

Copyrighted
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  1. 石焼き芋屋半次郎の生涯
  2. 2
  3. 3