秘密は月がご存知
秘密は月がご存知
卒業式は午前中に終わり、両親は日暮れと共に謝恩会に出かけて、里奈はひとりぽっちだった。
午後からずっと一緒だった親友の河本結衣は、同級生の新谷洋右と最後のデート中だ。
最後の、と言ったのは卒業するからではない。新谷洋右は、父親の仕事の都合でイギリスに行ってしまうからだ。
「新谷くん・・・」
ふいに涙があふれて里奈はあわてた。洋右を思って泣くのは初めてだ。
もう明日からは会えない。遠いところへ行ってしまうのだ、という思いが、里奈の心を開いたのだろうか。
(それなら・・・)と、里奈は思った。
それなら、いっその事、教室の彼の席をもう一度見たい。自分の席のすぐ後ろなのに、一度も振り返って見た事がない。
今まで抑えてきた衝動が、急に抑えきれないものになって、里奈は立ち上がった。
「見るだけよ・・・」
外はもうすっかり闇の中に沈んでいた。
学校まで、自転車で十分ほどかかる。もし、学校がもう少し遠かったら、出かける気持ちになっていなかったかもしれない。
しかし、高校生活のなかで、一度も感じた事のない強い衝動に駆られて、里奈は風を切ってペダルを踏んだ。
まもなく、新谷洋右の家の灯りが見えた。
(こんなに近かったんだ・・・)
軽い動機と戸惑いを覚えながら、その門の前を通り過ぎると、里奈は、顔をまっすぐに立てて闇の向こうの学校を凝視した。
この道を三年の間、毎日言い切れない絶望感に後押しされながら通ったのだ。
それも、これで最後にしよう。
(そうよ、なにも悪い事じゃないわ、誰も見やしないんだから。誰も聞きやしないんだから。ただ、彼の机に触ってみるだけよ。今までずっと我慢してきたんだから、それくらい結衣だって許してくれるわよ・・・)
職員玄関にはまだ灯りが点いていた。暗証番号は覚えている。
(まるで泥棒になったみたい・・・)
忍び足で廊下を渡り、懐かしい教室へすべりこんだ。
月の光がやわらかく射し込んでいる。
昼間、この教室をあとにしてからまだ数時間しか経っていないのに、遠い過去の思い出の中にいるような、甘くやるせない空気が満ちている。
新谷洋右の席は、窓際の一番後ろで、その前は里奈の席だ。
そばへ寄ってみると、まるで誘うように椅子が退いてある。
里奈は恐る恐るそこへ腰かけると、机を抱くような格好でうつ伏せた。
涙が自然に流れて机を濡らした。
新谷洋右が、里奈の親友の結衣を好きだとわかった時、里奈はあっさりと自分の恋をあきらめた。
まだそれほど真剣に彼の事を思っていた訳ではないし、まわりの友人たちのように、自分にも新しい彼が次々と現れるものだと思っていた。
それになにより、結衣との友情の方が何倍も大切なものだったのだ。
里奈は、洋右への気持ちをまだ誰にも打ち明けていなかった事を神に感謝して、洋右と結衣の関係を応援する事を決心した。
だが、それは大きな誤算だった。
洋右への気持ちが変わらなかったのだ。いや、それどころか日増しに強くなってしまった。
それでも、里奈は今日までその気持ちを抑えてきた。周りには決してそんなそぶりをみせなかった。
大好きな結衣のために、自分自身をもだまし続けてきた。
里奈は今、今度こそ本当に洋右を諦めなくてはいけないと思っている。彼は行ってしまうのだ。
里奈の気持ちを知らないまま、遠くへ行ってしまうのだ。
気持ちを伝えたい。
でも、それはできない事だ。
そんな事をしたら、自分の三年間の苦しみが無駄になる。洋右は困るだろうし、なにより大切な結衣を失ってしまう。
「新谷くん、あんたは何も知らないだろうけど、私・・・あんたが好きだったんだよ・・・」
その時、突然人の気配がして、里奈は顔を上げた。
教室のドアの前に、新谷洋右が立っていた。
月の光を浴びながら幻のように立っていた。
「やっぱりそうだったんだね。どうして言ってくれなかったの?」
「新谷君・・・どうしてここに・・・結衣はどうしたの?」
里奈はあわてて席を立ち、あたりを見渡した。
結衣に聞かれたかもしれない。結衣に知られたかもしれない!
「結衣とは二時間前に駅で別れたよ。俺、家の前をお前が通るのを見て、追いかけて来たんだ。イギリスに行く前に、どうしても話しておきたい事があって」
「じゃあ・・・ずっとそこにいたの?」
「ああ・・・俺はね、結衣の事が好きだ。いや、好きだと思い込んでいた、と言った方がいいのかな。だけど、付き合い始めてから間もなく、俺はお前の事が気になり出したんだ。お前はいつも結衣の陰に隠れて俺の事を避けているようだった。はじめは嫌われていると思ったよ。だいたい、俺が付き合っていたのは結衣だから、お前に嫌われたからって俺が気にする事ないんだけど、どうした訳か日増しに心に引っかかって・・・そのうち俺はお前の事が好きなのかもしれないって思うようになって・・・」
「ちょっと待ってよ! あんた、自分の言ってる事わかってんの? 結衣の事、裏切る気?」
「最後まで聞けよ。そんな事、考えるべきでないって何度も打ち消したさ。だけどそのうち、もしかしたらお前も俺の事好きなのかもしれないって考えが生まれてきた。お前がそういう素振りを見せた訳でもないのに妙な話さ。一度、そんな事を考えだしたら、お前の事が気になってしょうがない。俺は頭が変になったのかと思ったよ」
里奈は全身に鳥肌が立つ思いがした。
なぜ、なぜこの人は里奈の気持ちに気付いたんだろう。あんなに必死で隠していたのに。自分自身にさえ嘘をついてきたのに・・・
「で・・・その事、結衣は知ったのね・・・」
絶望的な気分だった。
「言ってない・・・知らないと思う。ずるいと思われるかもしれないけど、結衣を傷つける事はしたくない。ずっと好きだったし、結衣との事は大切だった。ただ、俺は結衣を見ているのか、結衣の向こうのお前を見ているのか、わからなくなっていたんだ・・・」
「結衣は知らないのね、ほんとに結衣は知らないのね」
「うん・・・お前がちょっとでも何かのサインを出していたら、言ったかもしれないけど・・・お前は俺を寄せ付けない様子だったし」
洋右は言葉を切って里奈を見た。里奈は黙っていた。
どんなに頑張っても洋右への思いが断ち切れなかったのは、洋右の気持ちを心のどこかで感じていたからかもしれない。
断ち切れなかったんじゃなくて、断ち切らなかったんだ、と、里奈は思った。
辛くて長い片思いの間、心の奥に仕舞い込んでいたこの「秘密」
里奈はこの「秘密」を知らず知らずに温めていたのだ。
そして、洋右もまた里奈の思いの種を拾い、自分の中に植えていた。
二人は「秘密」を共有していたのだ。
でも・・・と里奈は考えた。
この種は芽を出してはいけない。
里奈は言葉を選んで、迷った。
「でも私・・・」
洋右が里奈の向かいの席に座った。そこは里奈の席だった場所だ。
窓から射し込む月の光が、時折、ゆらりとゆれるのは、校庭の桜の影だろうか。桜はつぼみを膨らませ、咲く日を待っている。
二人の間に不思議な時間が流れた。
すでに、制服を脱いで、この教室での生活を終えてしまった二人が、今、小さな机を挟んで座っている。
辛く、さみしかった日々をお互いに埋めあうように、無言で見つめあっている。
夢のようにゆったりと時がながれていく。
そうして、二人は結論を出した。
「でも、私は新谷くんを好きだったとは、これからも言うつもりはないわ」
それを聞いて洋右は立ち上がって窓を眺めた。
そこには、春にしては珍しいほど月が澄み渡って輝いていた。
「俺は、なんでもかんでも、はっきりさせないと気が済まないたちなのかな・・・まだ若すぎるせいかもしれないな。そのくせ、はっきりさせた後の事は何も考えちゃいないんだ・・・」
「帰るわ」
「待って、別れの握手くらいさせてくれよ」
差し出された手は思いもかけないほど大きな手だった。
初めて洋右の手をこんなに間近に見た。もう大人の手だ。
里奈は少し微笑んで言った。
「言ったでしょ。私、新谷君との関係を今までと違うものにする気はないのよ。肌に触れるのは、たとえ軽い握手でも、私たちの関係が全然違うものになってしまうわ・・・」
「・・・うん、そうだな、わかるような気がするよ」
洋右も明るく笑い返して手を引っ込めた。
二人は入ってきた時と同じようにこっそりと学校を抜け出した。そして、門の陰に隠しておいた自転車に乗った。
そこまで、二人は一言も口をきかなかった。
通りに出た時、洋右は里奈の脇へ寄ると
「ありがとう」
と、一言いって、自宅とは反対の方向へ走り去った。並んで走るのを避けたのだろう。
里奈は、校舎を振り返り、ぼんやりとした幸福感を味わった。
月はいつの間にか霞がかかり、空気もしっとりと湿気を帯び始めている。
(私たち、ずっと結衣を騙していたんだわ・・・それなのに、こんなに暖かい気持ちになるのはどうしてかしら。)
洋右の家を通り過ぎた辺りから、里奈の中の凍っていた部分が静かに融け始めた。
融けた液体は、じわりじわりと体に染み込んでゆく。
「秘密って罪だわ・・・でも、とても甘い・・・」
秘密は月がご存知