超人旋風記 (5) その3
異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。
結構な長編になります。おつき合い願えれば幸いです。
ブラックペガサスを目の前にして、遂に剣吾は藤堂誠治と遭遇する。2人の超人の頂上決戦が始まる。
そして瓜生は、ブラックペガサス陽動のために、とんでもない方法を用いようとしていた。
4人の超人たちの〈賢者の城〉での決戦も、最終局面を迎えていた。
第5章もクライマックスに突入します。しかしまだまだ物語は終わりません。
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第5章 賢者の城 その3
(11)
…沈む。
沈んでいく。俺の身体が沈んでいく…。
意識が、戻って、何分になる?
何時間になる…?
腋の下から胸を斬り上げられ、切断されてからすぐに意識が遠ざかった。遠くでユンの声を聞いたような気もするが、それも定かではない。
これで俺の人生も、終わったか…、そう思った。
好きなことを好き勝手にやってきた俺だ。この島に連れて来られ、改造を受けてからの生活は本当に楽しかった。誰にも気兼ねせず、心の裡の黒い影の命に従い、暴力と殺戮の日々に身を置くことが出来たのだ。まあ、思い残すことがないと言えなくもなかったが。
何よりもこの生活に別れを告げねばならないというのが寂しかった。
だが、それは杞憂だったようだ。
俺たちのゴッドは、俺程の兵士を、そう簡単に手放す積もりはないらしい。
お前は我の玩具だ、などと吐かしやがった。
切断された脊髄の1本1本に絡みつき、接続されたのは、ヤングたちの開発した生体化学素子かと思われた。チクチクと刺すように蘇ってくる神経の感触に覚えがあった。どうやらクローンか再生細胞技術かによって造られたらしい血管やリンパ腺が、これまた素子の助けを借りて繋げられているのもわかった。素子の1本1本が繋がる度に、半ば混濁していた意識がはっきりしてくる。切断された胴体や下半身の感覚が戻ってくる。身体の中を再び、新鮮な血液が巡り始めたのがわかる。
急に息苦しくなったのは、呼吸中枢が復活したためだろう。気管が新しい肺に接続されたらしい。ゴボッと咳き込み、固まりかけた血と、この水槽とを満たす培養液とを吐き出すと、ロボットアームが伸びてきて、口にマスクが当てられた。新鮮な空気が口と気管、新しい肺とに満ちていく。
いろんなものに繋がれる度に、俺の身体が重くなる。
だから沈んでいく…。
だが、これで俺は死なずに済む。
また殺戮の日々に戻ることが出来る。
水槽のガラス壁面に映った己の姿を見た時には、正直ぞっとした。俺は形状すら人間ではなくなってしまったな…。しかしあの日々に戻れるのであれば、大した代償ではない、そう自分に言い聞かせることにした。そう、食欲もセックスも、殺戮の楽しみに比べれば…・
3度目だ。
最初は腕を落とされ、2度目では命を失う寸前まで追い込まれた。
確かに貴様は凄腕だ。賞賛に値する。けどな、見ているがいい。
3度目はこうは行かない。行かせはしない。
次に血を流し、引き裂かれるのは、貴様の方だ…。
…近接迎撃用バルカン砲マーク15ファランクスが、20ミリ口径の劣化ウラン弾を吐き出し続けた。劣化ウラン弾の貫通威力は凄まじい。しかし同時に、発射、或いは命中時に飛び散るウラン粒子が、周辺にいる兵士の身体に与える影響も凄まじい。湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾の後遺症に、数多くの米兵が苦しんでいる事実を見てもわかる。
しかし彼らは今ばかりは、兵士たちの健康に留意などしている余裕はなかった。3隻の艦から毎秒40発という速度で張り巡らされる弾幕に、接近してきたASクリプトンミサイル2発は空中で爆破された。
だが3発目は弾幕をくぐり抜けた。急降下とともに速度を上げ、イージス艦レイク・エリーの後部甲板を直撃する。ヘリポートと追尾レーダー塔が吹っ飛ばされ、ヘリポート周囲にいた整備兵や兵士たちが巻き込まれる。四散した死体群が海に落ちていく様子は、隣の艦からもはっきり見て取れた。
レイク・エリーのエメット艦長から通信が入った。“ミサイル発射台損傷! 攻撃に加われない!”
空母エイブラハム・リンカーンでそれを聞くブロデリック少将が言った。「了解したレイク・エリー。後退しろ」
返信が来る前に、2発目のクリプトンミサイルがレイク・エリーに命中した。
“駄目です司令官!”返信が届いたのは、それから丸1分経った後だった。“電気系統をやられた模様! 前進も後退も出来ません!”
「耐えろレイク・エリー。援護は出来ない」
エイブラハム・リンカーンのクロフォード艦長が怪訝な顔でブロデリックを見遣った。どの艦も無傷とは言い難いものの、動けるものもあった。その間をなぜ、レイク・エリー援護に回せないのか? このままではレイク・エリーは、弾幕を突破して飛来するミサイルに狙い撃ちされるだけだ。
それなのに司令官は、一塊になったミサイルフリゲート艦の一団ばかりを気にしていた。
「弾幕を絶やすな! 持ちこたえろ!」ブロデリックは怒鳴った。「イージス艦は何をしている! さっきから撃たれる一方だぞ!」
平静な顔を装おうとしているものの、怒鳴り声の端々が上ずっていた。顔は脂汗まみれだ。眉や頬が幾度も痙攣を繰り返す。
戦闘機との連携攻撃により、島のかなりのハードポイントを叩いた筈だった。ところが敵基地からの攻撃は、衰えるどころか止む気配がなかった。対してこちらの被害は増える一方だ。イージス艦5隻のうち2隻、ミサイルフリゲート艦6隻のうちこれまた2隻が既に撃沈されていた。未だ健在のフリゲート艦4隻のうち2隻も複数のミサイルを食らい、半分傾いているという体たらくだった。
空母の被害も甚大だった。ブロデリックの踏ん張るエイブラハム・リンカーンも離着陸甲板に大穴を空けられ、戻ってくる戦闘機を受け容れられない状況だった。航空機タイを2班に分け、残る1隻J・F・ケネディでの離発着回数を増やすことで何とか回転させてはいたが、やがて燃料や弾薬の補給に支障を来すのは明らかだった。しかもその戦闘機も、21機中7機が墜とされている。
視界の隅で、巨大な炎と水柱が上がった。エイブラハム・リンカーン艦橋の強化ガラスに、衝撃波が亀裂を走らせた。
動けなくなっていたレイク・エリーが、案の定、爆沈させられたのだ。
艦橋も揺れる中、レーダー管制担当員が振り返った。「航空機隊第2班、7機中5機が撃墜された模様!」
何も答えないブロデリックの横で、クロフォード艦長が怒鳴った。「何が起きた!」
「島東部の山を掃射している最中、今度は西の山から、フェニックスで攻撃を受けた模様! 緊急離脱も間に合わなかったと!」
糞っ…、クロフォードは唸った。AIM54Cフェニックスミサイルは、近接距離では速度マッハ5を叩き出す。空母1隻で自転車操業を強いられたのも確かだが、やがて対空砲火が薄くなると高を括り、調子に乗って4回目の攻撃を命じたのも失敗だった…、クロフォードはブロデリックを見つめた。どうして時間稼ぎに走る? 解決策がないのか?
それとも、解決策を持っているにも関わらず、出せないでいるのか…?
何なんだ、出せない解決策というのは…。
ブロデリックは次の指令も出せないまま、ひび割れた窓の外、ミサイル攻撃を耐え続けるフリゲート艦隊を見つめていた。
正しくは眼前のイージス艦モービル・ゲイに護られている、ミサイルフリゲート艦ブーンを。
国防長官直々の命令による発射時刻は4時だった。現在2時35分。
しかし今のままでは…、エイブラハム・リンカーンの斜め前にいたミサイルフリゲート艦ロドニー・M・デイビス艦上が炎に包まれた。
今のままでは4時になる前に、艦隊は全滅する。
そうなると、ブロデリックに突きつけられている選択肢は1つしかなかった。
時間通りであろうがなかろうが、命令の遂行は絶対であった。ブラックペガサス本拠の完全なる殲滅。〈エノラ・ゲイ〉乗組員をその後半世紀に亘って苦しめた命令を、今度は自分が担うことになろうとは。
今、司令官室に1人だったら、ブロデリックは衝動的に銃口を口に咥えたかも知れない。指令は彼をそこまで追い込んでいた。せめてもう少し時間をくれ。
配下の兵士たちが島にいる間は待ってくれ。
このまま指令を実行に移せば、自分は配下を残したまま究極の攻撃を許した司令官の汚名を着ることになる。半世紀、或いは1世紀後に公表されるであろう機密文書の中に、その記述が見つかれば、妻も、父さんは家族の誇りだとさえ言ってくれた息子たちも、その頃にはいるであろう孫たちも、半永久的に白い目で見られることになるのだ。それだけは…。
ふと顔を上げると、周囲は妙に静寂だった。隣のクロフォード艦長が窓の外の、相変わらず抜けるように晴れた空を見上げていた。艦橋にいる他の乗組員たちもだ。
茫然とするブロデリックの横で、クロフォードが顔を輝かせた。「攻撃か止んでる…」
「………」
「成功したんですよ。奴らが敵基地の電源を切ったんです!」
「こ、航空機隊…」茫然から覚めやらぬ顔のブロデリックが呟いた。自分の声が妙に遠くから聞こえた。「航空機隊第1班、出撃。全艦、一斉射撃を再開せよ」
クロフォードが復唱するのを聞きながら、ブロデリックは思っていた。これでもう少し時間を稼げる。
もう少しだけ、最後の指令を先送りできる…。
…基地内の照明が落ちた。
SEALSがメイン原子炉の電源を落とした以外、あり得なかった。
「凄えな」ランスキーたちが歓声を上げる中、瓜生が口笛を吹いた。「マッケンジーだったっけ、SEALSの隊長? やるじゃねえか」
全くだ、相馬が頷いた。「お前のあの計画で、よくやってのけたもんだ」
「ああ、大したもんだ。あいつら並のニンゲンだけで辿り着けたわけだな」
「お前、大して邪魔なんて入らねえとか言ってやがったよな。カタパルトに御同輩が誰もいないわけないだろ。騙されちまって、気の毒に」
「まあ、上手くいったんだから良しとしようぜ。戻れたらマッケンジーに一杯奢るぜ」
「奴が生きていれば、な」
その言葉に、はしゃいでいた海兵隊員たちの意気はたちまち萎んでしまった。考えてみればその通りである。原子炉停止と引き換えに、SEALSが全滅している可能性もあるのだ。通信が途絶している今、彼らの安否は確かめようがない。
壁に伝わる震動が僅かに激しさを増した。原子炉の停止は、遂に迎撃システムの作動も停めた。それに乗じた沖合の艦隊が、攻撃を強めたと見える。艦隊の無事は、瓜生の周囲に残る特殊部隊混成軍の面々を、大いに安心させたのだった。
しかし、残った混成軍メンバーも15人しかいなかった。
レンジャーは既に全滅させられた。フィルビーやオーエンスの無残な死体を、相馬が確認してきた。SEALSとも合流のしようがない。原子炉は止まったが、基地内部の通信はまだ遮断されたままであった。
「それは壁のせいだな」クルーガーが言った。「3重の遮断材が使われておるようだ。電気系統を止めても電波自体が通らん。儂らが通信できるのは、通廊のあちこちに中継ポイントが仕掛けてあるからだ。まあ、今となってはそれも通じるかどうか知らんがな」
ランスキーたち海兵隊員は顔を見合わせた。非常用の間接照明がぼんやりと周囲を照らすだけの室内で、彼らの目だけがギョロギョロと光っていた。
瓜生が相馬にそっと言った。世界最強と謳われたアメリカ特殊部隊の精鋭が、今や闇の襲来に怯える小動物だな…。
電源は落ちた筈なのに、と言えば、あの監視ロボットは未だあちこちを動き回っていた。狂った挙句に医療室の前をウロウロしていた1台は、剣吾の刀の一閃が片づけた。しかし他の監視ロボットたちまでもが、出食わす度に瓜生たちに銃弾を浴びせるようになっていた。発狂が伝染したものか、最初からそうなるようにプログラムされていたのか。
剣吾や瓜生たちはまだしも、他の面々の手には余った。だから医療室から移動する際、クルーガーは瓜生と相馬に、作業員や技術者たちの死体から、認識票を兼ねたピンバッジを集めさせていた。しかしピンバッジをその場で配る真似はしない。
「この認識票には、ちっこい中に、持ち主の色んなデータを読み取る仕掛けがあってな」瓜生がスミスたちに説明した。「持ち主以外のニンゲンがつけたらバレるってわけよ」
「監視ロボットにか」
「あれはモチロン、親玉であるあの出来損ないマシンにもな」
「これから奥に行こうというお前さんたちには、そっちの方が問題だろうて」クルーガーが言った。「しかし小さい分、細工もし易い」
そして今、彼らはクルーガーのラボに辿り着いていた。
昔ながらの点眼鏡を付けたクルーガーが、ブラックペガサスにリンクしていない自前のコンピューターを3台駆使して、ピンバッジの細工に勤しんでいた。このラボは原子炉からの電力以外にも、非常用電源を使えたため、コンピューターだけは立ち上がることが出来たのだ。もっとも間接照明以外までは電気を回せなかったため、クルーガーは海兵隊員たちの備品であるマグライトミニで手元を照らしながらの作業を強いられた。
会話が途絶え、周囲の音が急に間近に聞こえ始めた。地下4階の壁にまで伝わる震動は止まなかった。どこからか漏れた水が、床のタイルを打つ音が、開け放った扉の向こうから聞こえていた。
両切りのペルメルを咥えた相馬が、ラボの隅の冷蔵庫から、勝手にヴィッテルのペットボトルを抜いた。休憩用のソファにドロシーと座る瓜生が言った。「俺にもくれ」
「水か? 煙草か?」
「両方だ」
相馬がミネラルウォーターの500ミリリットル壜と煙草とを1本ずつ投げた。オハイオブルーチップのマッチも1本だけ、器用に飛ばす。瓜生は文句も言わず、両切りのペルメルに火を点けた。水とともに旨そうに味わう。その瓜生の横で、ドロシーが身を屈め、上目遣いに相馬を窺っていた。巨大な銃口を突きつけられた恐怖だけは、大量の精神安定剤でも拭い去れなかったのだ。
相馬も煙草に火を点けたのを見た海兵隊員たちの数人が、装備品から各々の煙草を取り出した。あちこちで上がった紫煙に、パイプを味わう暇のないクルーガーが顰めっ面になる。
アメリカンスピリッツのレギュラーを吸っていたスミスが、ふと周りを見た。「レンジャーは全員、殺られたんだよな。デルタの連中もか?」
黙って首を振ったホフマンの代わりに、相馬が応えた。「あいつらは逃げた。別の任務があったらしい」
「別の任務だと?」ホフマンがきっと相馬を睨んだ。「何だそれは?」
「知らん。訊こうと思ったが、逃げられた。そもそもお前さんが知らんものを、俺が知るわけがないだろう」
鼻を鳴らした相馬の台詞に、ホフマンは黙り込んだ。特殊部隊全体の指揮を任され、作戦の全容――あの最終作戦も含め――を知る筈の彼にも、デルタの別行動のことは知らされていなかったのだ。率いるグリーンベレーはろくな活躍も出来ず、足を引っ張ってるとまで言われ、レンジャーやデルタを掌握できていなかった彼は、すっかり面目を失っていた。力なく腕時計に目を遣る。
ホフマンを冷たく睨んでいた相馬は、顔を上げたクルーガーと目が合い、肩を竦めて見せた。開発実験室での出来事をここで明かす積もりはなかった。デルタの連中は今頃秘密裡に任務を終えた気になっているだろう。この島から戻るまでは、取り敢えず静観を決め込んでおいてやる。しかし何か動きを見せたその時には…。相馬はいずれデルタのスコットに再会することを誓っていた。
人道的見地とか何とかとは全く別のところで、〈R〉だか何だか知らないが、金持ち連中とその手先どもが許せなくなり始めていた…。
床に腰を下ろす海兵隊員たちやグリーンベレー兵士のそのまた向こう、一際暗い壁際に、左肘を押さえた若林が座り込んでいた。
医療室の奥部屋で、妻との“再会”を果たしてから、若林は一切口を開かなくなっていた。涙は乾いていた。照明の当たらない虚空を見つめる彼の目は、暗がりなど比べ物にならないくらい暗かった。
言葉を掛けることが出来ない剣吾は、ただ黙って、彼の横に座るだけしか出来なかった…。
「早くしろい爺」ヴィッテルをラッパ飲みする瓜生が言った。「日が暮れちまわあ」
ホフマンがピクリと身体を震わせ、嫌な顔で瓜生を見た。
「まあ、待て。もうすぐ済むわい」
しかしよ…、ランスキーが若林を見た。質問できるような状態ではないようだと察し、質問の矛先を瓜生と相馬に切り替える。「電源が落ちたのに、ブラックペガサス自体は未だに動いてんのはどうしてだ?」
「本隊の収まってる中央ドームは、もう1つ別の、小型原子炉が受け持ってるんだ」
相馬の台詞に、瓜生が頷いた。「まあ、第2原子炉の位置もマッケンジーには教えてあるけどな」
「しかしよ、SEALSは全滅してる可能性もあるわけだろ? だとすりゃ、俺たちの誰かがそっちに回らなくちゃならないんじゃないのかい?」
「まあ、原子炉に回す頭数は、もういねえわな…」
「電源だけじゃない。あのイカレ機械は独自の脱出手段も持っておる」瓜生に続けてクルーガーが言った。「あやつがこの島を脱出する時は、この島全部が吹っ飛ぶ仕掛けが作動する時でもある。儂らがまだ無事だということは、奴がまだ逃げ出していない証拠だな」
「どうして脱出しないんだろう…」
「まだ勝てると思っておるのさ。実際、ミサイル攻撃程度じゃ、忌々しいコンピューターの踏ん反り返るあの中央ドームはビクともせんよ」
「ってことは、やっぱり原子炉に向かうメンバーを選抜した方がいいな」
スミスの言葉にクルーガーは首を振った。「いや、これ以上、人員を分けるのは上策とは言えまい」
「しかし、電気を止めなくては奴に脱出の手を残すことに…」
「それは儂の方でどうにかしよう。お前さんたちが行かなくても済む、ちょっとした考えがある」
へえ、と猛禽類の目を見開いた瓜生の横で、相馬が笑い出す。「瓜生の馬鹿が頭を絞るより、あんたのちょっとしたアイディアの方が絶対信頼に足るよな」
「うるせえよ」
「それにはあの気取り屋コンピューターが逃げ出したくならないように、しっかり惹きつけておいてくれなきゃ困るぞ禿坊主」
「へっ、何とかやってみらあ。乞うご期待、ってとこだ」
「それは最初からしとらん」クルーガーは点眼鏡を外し、大きく伸びをした。自分のコンピューターに直結されたインストールボックスに収まっていたピンバッジを卓上に並べた。「出来たぞ。襟か胸につけろ。監視ロボットだけは避けられる」
海兵隊員の1人がバッジを覗き込んだ。「だけは、ってのは何なんです?」
「あの冷血機械自体を護る防衛システムは、そのバッジじゃ避けられんということだ。何しろ奴の近くに、防衛システムの妨害なしに近づけるのは、この…」クルーガーは自分の白衣の襟についた、色の違うピンバッジを示した。「幹部用の特別仕様が要る」
「後は、藤堂を避ける方法も欲しいよな」
「まだあいつに遭遇してないか」相馬も瓜生に頷いた。「どこかで流れ弾に当たっててくれたら有り難いんだが」
「あいつに限って、それはねえな。流れ弾も避けていくだろよ。ところで糞爺、俺たち用のピンバッジもくれよな」
「お前らには必要ないだろう。防衛システムくらい自分で避けろ」
「あのなあ、俺はあの腐れコンピューターを牽制しにいかなくちゃならんのだ。それもヤツのすぐ側までな。あんたのバッジを寄越せ」
「ふざけるな。儂だって命は惜しいわ」
そう言ったクルーガーは、髭の唇をへの字に曲げた。「側に行く? お前一体、奴に何を仕掛ける積もりだ?」
「内緒だよ。まあ見てな。あのコンピューターの視線を、まさに釘付けにしてやっからよ」
瓜生は器用にウィンクした。隣の相馬も首を振るしかない。作戦のその部分だけは、瓜生はどうしても明かそうとしなかったのだ。
仕方ないな…、クルーガーはポケットから、自分のものと同じ色のピンバッジを取り出した。相馬がああ、と言った。「ヤングのバッジか」
「ああ、取っておいて正解だった。こいつなら儂のものと同様、奴の近くにまで行けるには行けるだろう」
「1つしかないのか?」
「1つあれば充分だろう。禿坊主にくっついて歩けば…」
こいつにくっついて歩くのは嫌だ、と言いかけた相馬に、瓜生が言った。「バーカ、お前のは必要ないんだよ」
「俺に囮役を押しつける積もりだな?」
「お前は行かねえの。作戦を思い出せ。今の若林に、海底での作業を任せられっか」
相馬は精一杯の顰め面を作った。あの仕事が俺に振られたってわけか…。「しかしそれならお前がやれよ」
「バーカ、俺がカナヅチなのはお前も知ってっだろうが。それに、お前にドロシーを扱えるのかよ」
「お前、ブラックペガサスのところにこの女を連れてく積もりか?」
「瓜生、もう一度ちゃんと説明してくれないか」ガスの後遺症ですっかり嗄れ声になってしまったスミスが言った。「お前さん、最後の方に関しちゃ、全然明らかにしてくれなかったじゃないか」
まあ、不測の事態って奴に備えて、いろいろユルくしといたからな…、瓜生は3本眉を吊り上げ、笑った。「そろそろ種明かしもやっといた方がいいかもな。しかしその前に糞爺、あの勘違いコンピューターの脱出経路って奴を、この連中に教えてやってくれ」
…ブラックペガサスの、この島からの脱出経路は2つ。
1つは中央ドームの真上、東の山の頂上から発射できるロケットに己の本体を載せて飛び去るというもの。上空数万メートルから、自分のデータを無線で転送する。
もう1つは、海底に敷いてあるケーブルを伝って、己のデータだけをどこかに転送するというものだ。ここに来た時と同じ方法だな。
1つ目に関しちゃ、阻止は大して難しくはない。東の山に収まるロケットを破壊すればいいだけの話だ。それは儂の方でやろう。管制室からコンピューターをハッキングして、山の周囲を固めているミサイル群を発射前に爆発させてしまえば、ロケットも発射台も丸ごと破壊できる。いちいち第2原子炉を止めに、人数を割かなくてもよい。
どうせ前々から、ハッキングの仕掛けはしておいたんだろうって? フフン、どうかな。
それより問題は、2つ目だ。
ケーブルは海底の相当深い場所に設置されている。建設の際も難所中の難所だったそうだ。誰も行きつけないように敷かれたという話だからな。少なくとも行き着くまでに、相当の時間を要する筈だ。
禿坊主、お前があの間抜け機械の注意をどれだけ長く惹きつけられるか、どれだけの時間が稼げるか、それがこの作戦成功の鍵だ。
「…任せとけよ。絶対、釣ってみせるさ」
中央ドームに繋がる通廊を、ドロシーの手を引いて走りながら、瓜生は呟いた。
第2原子炉が健在のためか、通廊は眩しいくらいに明るかった。明るさはともかく、この基地のこの区画を通るのは、瓜生にとっても初めてだった。引きずられて走るドロシーの顔は見るからに青褪めていた。照明のためだけではなかった。ドロシーは最初、瓜生に同行するのを嫌がったのだ。不吉な予感がしたらしい。しかし、
“ブラックペガサス本体を撮らなきゃ、スクープ映像にならねえだろ。”
と、言葉巧みに言いくるめられ、彼の猛禽類の眼差しに抵抗する力も奪われたドロシーは、結局瓜生の手を払いのけられなかったのだ。
背後に海兵隊とグリーンベレーの生き残り全員が続いた。そして瓜生とドロシーのすぐ前を、剣吾が走っていた。作務衣の袖を肩近くまで捲り上げ、眺めの髪を額に巻いたバンダナで留め、腰に差した刀はいつでも抜けるよう、走っている今も左手で軽く押さえていた。
上体を揺らさない古武道独特のその走りに、瓜生は思わず苦笑を浮かべる。こいつ、走り方にまで堅物ぶりが出てやがるな。
しかしその堅物の戦いぶりには感嘆もさせられていた。素人にしちゃ、とんでもなくよく戦う。古武道ってのは大したもんだ。
しかしこの堅物、何のためにここまで本気で頑張るのやら。あのマリアちゃんのためってんならお笑い草だが。だが、それにしても…、
こいつなら藤堂と本当に渡り合えるかも知れない。
だとすれば俺たちにも充分に勝機はある。
その剣吾が、走りながら言った。「水の音がする」
「ああ、聞こえるか。床からだ」瓜生が言った。「あの馬鹿コンピューターの冷却水を循環させるぶっといパイプが、この床の数センチ真下を通ってるんだ」
「すぐ下をか」
「ああ、この通廊はそのパイプの真上を通ってるわけよ。つまり、カラクリ機械の御本尊も近いと」
「それにしては敵と遭遇しない」
「ロボット以外はな。御同輩が50人はいたんだが、俺と相馬だけでもかなりの数を片づけたからな」瓜生は笑った。「お前さんも相当数を切り刻んだらしいじゃねえか。ほとんどが片づいちまっ…」
言葉が終わる寸前、一歩前に進んだ剣吾が、抜く手も見せず刀を一閃させた。
通廊角に潜んでいた監視ロボットが、1発の銃弾も打ち出す暇もなく、ものの見事にその樽に似た胴体を両断されていた。
「あのなあ」瓜生は本当に苦笑した。「これで3体目じゃねえか。バッジつけてりゃ、こいつらはやり過ごせるんだぜ」
わかってる…、と頷いた剣吾の作務衣の襟にも、クルーガー細工のバッジは付けられていた。刀を鞘に収めながら、「確かめておきたいことがあったんだ」
「へえ。で、確かめられたのかい?」
剣吾はもう一度頷いた。「やっぱりまだ遅い」
なんだよその遅いってのは…、そう訊こうとした瓜生の前で、走る剣吾の肩が僅かに強張った。コンマ数秒遅れて瓜生にも、目の前に迫る広い角の向こうから発せられる異様な気配が察知できた。空気をも歪ませる濃密な陽炎のようであり、息さえ凍りつきそうな極限の冷気でもある。気配を感じるだけで、背筋からも腰からも力が抜けそうになる。
水の音が、並の人間にも聞こえるくらいに大きくなった。集まってきた冷却水のパイプが、目の前の角の足元の下で、1つに繋がっているのだ。その角を曲がると、冷却水パイプも通廊も、ブラックペガサス本体の待つ中央ドームまで真っ直ぐだ。
角の向こうに立つのは、あの藤堂誠治以外にあり得なかった。
やっぱりいたか…、舌打ちした瓜生は海兵隊、グリーンベレーの面々をその場に制止した。剣吾の背に向け、口笛を吹く。打ち合わせ通りに頼む、の合図だ。振り向きもせず頷いた剣吾は刀を引き抜きざま、角の向こうに飛び出した。
アポロキャップに白のTシャツ、黒いベスト姿の藤堂は、ベストのポケットに両手を突っ込み、退屈そうな顔で侵入者たちを待ち受けていた。その藤堂が、眼鏡の下の眉を僅かに吊り上げた。聞こえてきた複数の足音が消え、飛び出してきたのが剣吾1人だったからだ。せっかく退屈を凌げそうだったのに…、瞬時失望が表情をよぎった。
しかし藤堂クラスの武道家ともなれば、一呼吸の体捌きだけで相手の実力も読み取れるものだ。一瞥で剣吾のほぼ全てを察し得た藤堂の肉厚の頬が、嬉しげに歪んだ。
刀身を肩に担ぐ柳生流独特の上段から、音速を遥かに超えた剣吾の刀が、藤堂の左肩口を狙って疾走った。
まだまだ遅い。かつて何度も聞かされた師の言葉を、剣吾は幾度も心で反芻していた。今の彼には反芻するだけの余裕があった。常に直線の動きで刀を振るうことだけを心掛けた。気力も充実し、刀の速度はヨハンソンを斬った時以上だった。ヨハンソンのバックステップも、今度は間に合わないだろうという速さだった。
藤堂はバックステップさえ踏まなかった。
まっしぐらに首の付根に向かってきた刀の軌道を驚くべき視力で見抜き、前に1歩を踏み出したのである。
瞬間的に剣吾の懐に入り、密着した藤堂の拳が、剣吾の脇腹に押し当てられていた。
寸勁。
脇腹に撞木を叩きつけられたような衝撃に、剣吾は身体をくの字に折って後退った。しかし下がりながらも刀を逆袈裟に斬り上げる。切っ先が藤堂の胸をかすめた。Tシャツが裂けた。
白いTシャツに赤い染みが広がった。ほんの数ミリの浅い傷だった。藤堂の顔がますますの歓喜に輝いた。遂に自分に傷を負わせる敵が現れた、その歓喜だった。
両肩から空気が歪む程の気合を滲ませ、藤堂が軽くステップを踏み始めた。その寸胴からは信じられない軽やかなフットワークだった。右、左、右、左…、小刻みな、テンポの良いリズム。引き込まれるまでは行かないが、剣吾の意識に刷り込まれるリズムだった。
と、揺れていた身体がそのリズムを不意に崩した。剣吾はつい、その誘いに乗りそうになる。瞬時前のめりになった剣吾の喉を狙い、電光の貫手が突き出される。
体を捻る間もなかった。刀の峰で弾くのがやっとだった。その目の先に、左右の正拳突きが繰り出されてくる。頬の先をかすめただけで、衝撃波が目眩を呼んだ。拳の残像が残っているうちに右回し蹴りが飛んできた。疾風のような爪先が、剣吾の左肩口を作務衣毎えぐった。
「………!」
右脚がまだ作務衣の袖をはためかせる中、藤堂の身体は既に宙を飛んでいた。左胴回し蹴りが剣吾の頭上に振り下ろされる。最初の貫手から僅かコンマ5秒。
剣吾は咄嗟に半身の姿勢を取り、振り上げた刀を背負っていた。新陰流奥義三ツ太刀『飛変』の受け太刀。
剣吾の頭に振り下ろされた藤堂の足を、丸めた背中と刀が待ち受けていた。左足首に刃が食い込んだ。着地と同時にバランスを崩した藤堂に、剣吾の土壇斬りが見舞われる。しかし藤堂は猫のように前転し、床のタイルを切り裂いたその攻撃を躱した。
剣吾の脇の下をくぐり抜けざま、下腹に掌底を打ち込むというオマケ付きで。
その一撃は、レンジャーの2人に使われた纏絲勁であった。
衝撃は膀胱から腎臓までを震わせた。肉までえぐられた左肩から血が迸る。しかも脇腹にはかつて感じたことのない激痛が残っており、剣吾は次の攻撃に移れなかった。
2度の発勁の衝撃だ。筋肉に守られた筈の内臓奥までが悲鳴を上げていた。胃が裂けでもしたものか、こみ上げてきたものに、僅かに血の味が混じっていた。
床上で片手だけで身を翻し、膝をついた藤堂は、嬉しげな顔でベストからブーツの靴紐を取り出した。血の溢れる左足首を縛る。その間も眼鏡の下の眼差しは剣吾を捉えて離さない。
ゴボッという音を立て、土壇斬りに切り裂かれた床のタイルから、多量ではないものの冷却水が噴き出した。
角の陰からこちらを窺う海兵隊員たちに動揺が走っていた。M16を撃とうにも、剣吾も視界に収まる今、引き金も引けない。彼らが飛び出してくると察した剣吾が叫んだ。「来るな!」
叫んだ瞬間、喉にこみ上げていた血が口の周りに散った。
若林や相馬、瓜生がこの男を畏れる理由がわかった。技量、豪胆さ、どれを取っても今まで出会ってきたどの戦士より抜きん出ていた。特に技の速さは凄まじい。フル回転をしている剣吾の動きを遥かに凌駕していた。
それが証拠に、僅か数秒の戦いながら、剣吾は素手の藤堂に一太刀しか浴びせられていない。それも蹴りを避けるための防御がたまたま負わせた傷だ。
対して、刀を振るう剣吾の方がダメージが重かった。多くの武術を研究する機会にも恵まれていた剣吾には、最初の拳の技は寸勁だとわかった。2つ目の掌底はわからない。しかしどちらの威力も凄まじい。もう1度、身体のどこかに食らえば、最早勝負は見えていた。
単純な怪我なら数多く負わされてきた。だがそれは敵が圧倒的な物量なり人員なりを動員してきた結果であった。さっきのガスがいい例だ。しかしこのようなダメージを負わされたのは初めてだ。それもたった独りの、寸鉄1つ帯びない相手にである。まだいろんな内臓が痙攣していた。吐気を腹の底に押し込めるのに一苦労だった。感じざるを得ない。
紛れもなく、こいつは最強だ。
ブラックペガサス軍団の中、というだけではない。これまで剣吾が出会ってきた兵士、軍隊を全て超越する最強の男だ。
この男に比べ、僕はまだ遅いのだ、と。
対峙していても隙1つなかった。今度ばかりは危ないかも知れない。
そう思った瞬間、視界に浮かんだのは、絹のような髪を掻き上げ、小首を傾げて彼を見上げる、マリアの面差しだった。
剣吾の身体がカッと熱くなった。腰が落ち、その身が低く地を疾走った。
同時に藤堂も宙を跳んだ。剣吾が来るのを待ち受けていたのだ。後の先の呼吸だった。全身脱力し、傷を負っていない右足から腰までの筋肉を無駄なく駆使した跳躍。突き出された右拳は優に音速を超えた。世界中の戦場の手練、腕自慢の特殊部隊兵士、本物の格闘家たちを屠ってきた超音速の拳だ。剣吾の刀を優に凌ぐ速さが空気を破裂させた。その音がボンッ、と響き、衝撃波が通廊の壁を震わせた。
しかし剣吾の、肚の座った面打ちが、顔に向かって稲妻のように打ち出された拳を弾いた。柳生流〈合撃打ち〉の一撃。速さに関しては柳生流最大の奥義でもある。剣先がそのまま藤堂の頭に向かって伸びる。しかし藤堂も空中で正中線をほんの少しばかりずらした。剣吾の刀身は数ミリ差で届かない。
互いの攻撃を躱し合った2人の位置が入れ替わった。
必殺の拳を外されたことに僅かな驚きを表情に浮かべた藤堂だったが、その足で、通廊角にて戦いを見守る特殊部隊混成軍の間に飛び込んだ。恐怖に耐え切れなくなったグリーンベレーの2人がCAR15を構えた。フルオートで乱射される前の銃を軽く弾き、1歩踏み込んだだけで2人の前に立った藤堂は、正拳突きで1人の肋骨を防弾ベスト毎粉砕し、離れざま足刀の一閃でもう1人の頸骨を砕き折った。
振り返った藤堂が再度剣吾と向かい合った。心から楽しげな顔をしていたものの、その背は尚も、背後の特殊部隊兵士たちを牽制し得ていた。今度も銃口の延長線上に剣吾がいるために、ランスキーたち海兵隊員は引き金を引けないままだ。そのランスキーに、剣吾は首を振ってみせた。手を出すな。
藤堂の右手がブラリと下がった。たちまち回復したらしい左足が深く踏み締められる。次の手が来る…、剣吾は確信した。恐らくこいつには、まだまだ必殺の引き出しがあるのだ。対して奥義を出した剣吾には、もう次の手がなかった。どんな手が来ても、合撃打ちで立ち向かうしかない。
と、剣吾を睨む藤堂の眉が吊り上がった。
何の誘いだ? 一瞬そう思った。だがその直後、覆い被さってくるような殺気を背中全体に感じた。重量のある金属がタイルを擦る不快な音と同時だった。
通廊の奥の方から、巨大な影が、物凄い勢いで走ってきた。通過した後の通廊の壁や天井を傷だらけにしながら。尖った金属の爪が、セラミックのタイルを深く抉っているのだ。
剣吾の目の前に立ち塞がったそいつの全高は、3メートルを超えていた。胴体だけは人間のものを模してあったが、下肢から2本ずつ、両肩から2本ずつの鋼鉄の脚が生えていた。計8本。装甲がきちんと為された胴体に比べ、8本の脚はシリンダーからシャフトから皆剥き出しだった。骨とも言えるチタンベースらしい合金製の脚は先端が削られ、鋭利な爪になっていた。まさに機械仕掛けの蜘蛛だ。
こいつも監視ロボットの一種か?
振り下ろされたその脚を、剣吾は間一髪のところで避けた。しかし1本を躱しても、残る7本の脚が立て続けに攻撃を仕掛けてくる。
呆気に取られていた藤堂が叫んだ。「ヨハンソンか!」
これには剣吾も仰天した。見上げた蜘蛛の、人型の胴体に、人間の顔がついていた。歯を剥き出して笑うその顔は、確かに見覚えのあるヨハンソンのものだった。思わず剣吾の足捌きが止まった。その顔と胴目がけて、合金の刃3本が襲いかかった。
同時に、蜘蛛の下腹に飛び込んだ藤堂の蹴りが、その胴体に炸裂した。
「手を出すなヨハンソン!」
「うるせえ!」
大きくよろめきはしたものの、8本脚の蜘蛛はそう簡単にバランスを崩さない。剣吾に向けられていた脚先が、すぐさま藤堂に矛先を変える。「貴様こそすっこんでやがれ! こいつは俺の獲物だ!」
常人の目では捉え切れない速度で繰り出される3本の脚先を、全て流し受けで捌いた藤堂が、右手を下げた。1歩踏み出しざま腰からつきだした拳を蜘蛛の胴体に食い込ませる。同時に両足から駆け上った勁力が、腰を支点に2重螺旋を描いて注ぎ込まれた。纏絲勁。
特別な速さもなく、特別な足捌きを用いたわけではなかった。だが、あの1歩は避けられまい…、剣吾にはわかった。何千、何万の実戦で体に覚えさせてきた呼吸の生むタイミングだ。恐らくは剣吾にも避けられなかっただろう。
そしてあれが藤堂の、剣吾に向けられる筈だった次の一手だ。
爆発を食らったにも似た衝撃に、遂に蜘蛛も横転した。それでも藤堂と剣吾に向かって、8本の脚を振り回し続ける。
「逃がさんぞサムライ野郎!」機械仕掛けの胴体に妙に不自然にくっついているヨハンソンの頭が怒鳴った。「貴様に会うために地獄から舞い戻ってきたんだ!」
思ったより伸びてきた脚先の攻撃を刀で払い、剣吾が飛び下がった。同時に特殊部隊混成軍の面々が射撃を開始した。弾倉の残弾も気にする余裕なく、猛然と撃ちまくる。
合金製のボディや脚には跳ね返るだけの銃弾だったが、生身の顔には食い込んだ。頬に穴を空けられ、変形した耳を千切られたヨハンソンが吠えた。2本の脚が顔を庇い、残り6本がジタバタと床を引っ掻き、傷だらけにして、立ち上がる。剣吾や藤堂を放ったらかしに、兵士たちに向かって走る。機械化されたくせに、逆に冷静さは失われてしまったらしい。
それを目で追った藤堂が、怪訝な顔をした。角にいた兵士たちの中に、見知った顔がいなかった。こいつらが角に近づいてくるまでは確かにいた。確かに感じ取っていた。
あの瓜生鷹の気配を。
しかし今、ヨハンソンに向かって銃を撃つ兵士たちの中に、赤いベレー帽は見えなかった。藤堂は顔を歪め、天井を振り仰いだ。また換気口か…。
剣吾は特殊部隊の面々を救うために、ヨハンソンに向かっていた。藤堂はその背に瞬時、名残惜しげな目を向けた。必殺の超音速突きを躱すでなく逃げるでなく、正面から弾き返された時に感じた。こいつはまだまだ強くなる。藤堂にはそれがわかった。
まあ、この男がこんな場所でむざむざ死ぬとは思えない。より強くなったこいつを、自分の手で嬲り殺しにする機会は、いずれやってくるだろう…、藤堂は自分にそう言い聞かせた。
その場を離れ、中央ドームに通じる通廊の奥に走り出す。
…藤堂の遠ざかる気配は、ヨハンソンと斬り結ぶ剣吾にも伝わった。自分の役目は瓜生の警護だ。追わねば。しかし海兵隊の面々を見捨てても行けなかった。
生身の顔を2本の脚で庇ったままのヨハンソンは、床に踏ん張る脚4本を入れ替わりに繰り出し、剣吾と丁々発止を繰り広げながら、残る2本で特殊部隊兵士たちを蹂躙し始めた。弾丸の尽きたCAR15を振り回し、銃剣を突き立てようとしていたグリーンベレー兵士は上半身を引き裂かれた。噴水のように血が噴き上がる中、スミスの前で彼を護っていた1人が、ヘルメット毎頭を潰された。
「うおおっ、ラミレス!」
M16を撃ちながら叫んだスミスの右肩を、金属の脚先が貫いた。そのまま通廊の壁に縫いつけられる。天井からの強い照明に、血塗れの顔のあちこちに隈を作ったヨハンソンの顔は悪鬼そのものだった。脚の1本がスミスを引き裂こうと振り上げられた。
それを含めた脚4本を一刀で弾いた剣吾が、その胴体の下に転がり込んだ。その時、
「………!」
床が水浸しになっていることに初めて気づいた。
自分の土壇斬りが斬り裂いたタイルから、ゴボゴボと水が溢れているのが目に飛び込んできた。そうか、通廊の下は冷却水の通り道だと言っていたな…。
しかも轟々と流れる水の音が、近い。
追ってきた蜘蛛の脚2本を、刀の一閃が薙ぎ払った。チタン合金程度では、本気の剣吾の斬撃に敵う筈もない。鋭利な爪先が刈り払われる。地摺り下段から逆袈裟に斬り上げられた刀は、スミスを縫いつけた1本をも切断する。
残る5本が次々と襲ってきた。しかし藤堂との戦いからアドレナリン全開になっていた剣吾の身ごなしは、機械の出せる速度を完全に上回っていた。右肩に抱えられた刀が旋回し、その5本の、ある脚は半ばから、ある脚は鋭利な爪先を斬り落とした。
タイルを咬む爪を失ったヨハンソンは、水に濡れた床で遂に横転した。
重量ある蜘蛛の横転は通廊を揺るがせた。長短に切断された8本の脚をジタバタともがかせるヨハンソンの上を剣吾は跳び越した。またぎ越えた下から、口の端に泡を飛ばすヨハンソンの怒号が聞こえた。剣吾の降り立った場所に、先端を落とされた脚を伸ばす。しかしその場で刀を一閃させた剣吾は、脚が届く前にその場を跳び離れていた。
剣吾の跳び去った跡の床に、新たな水が溢れ出してきた。
一閃、また一閃。剣吾はヨハンソンの脚を避けながら、土壇斬りを振るい続けた。ガクン、と身体が傾いだ瞬間、ヨハンソンが何だ、という顔で機械の身体を見た。一瞬、イカれたかと思ったらしい。床を見遣り、ようやく剣吾の意図を悟る。脚3本がセラミックのタイルを引っ掻いた。
だが、先端を失っている脚は、タイルの継ぎ目を咬むことも出来なかった。
床が綺麗な十角形の大穴を空けた。
刀の最後の一閃が、大穴の縁に掛けられていた蜘蛛の脚2本を切断した。機械製の蜘蛛を載せた床が、見事にスポンと、地下に落ち込んだ。入れ替わりに凄まじい水流が噴き上がった。高い天井を直撃した水柱は四方に雪崩落ち、周囲にいた特殊部隊兵士たちをなぎ倒す。そして兵士たちまで穴の中に引き摺り込もうとする。
ゴボッ、という音とともに、水が引いた。
海兵隊員、グリーンベレー兵士たちがどうにか立ち上がった。剣吾が壁に縫われたスミスの肩から、蜘蛛の脚を引き抜いているところだった。海兵隊員1人が近づき、止血バンドで傷を縛り上げるのを手伝った。
ランスキーたちが冷却水のパイプを覗き込んだ。眼下を轟々と水が流れていた。相当に太かった。巨大なヨハンソンの体はどこにも引っ掛かることなしに、流されていってしまったようだ。痛みを堪え、スミスが訊いた。「この水は?」
「確か瓜生が、冷却水とか言ってましたぜ」ランスキーが言った。剣吾も頷いた。
「確実にブラックペガサス本体に近づいてはいるってことだな」
そう言ったスミスの肩を支えたランスキーが剣吾を見た。「しかしよ、よくあの怪物を、叩き込もうなんて思いついたな」
「床が思ったより薄いってわかったからさ」剣吾は言った。「それより、藤堂の阻止が出来なかった」
「さっきの奴が、噂のトードーか。凄い奴だった」
「凄えを通り越してますよ。この剣吾と互角に戦ったんですぜ」
いや…、剣吾は首を振った。「互角じゃない。あのまま戦っていたら、多分僕の方が危なかった」
「マジかよ…」
スミス、ランスキー、生き残った隊員たちが半ば怖々と、藤堂の去った通廊の奥を見遣った。
「行こう」回復が始まったらしい胃や脇腹が熱くなってきた。その熱を感じながら、剣吾は刀を鞘に収めた。「瓜生が追いつかれてしまう」
「お前さん、まだあいつとやり合う気かよ?」
「相馬とクルーガー博士が成功するまでは、何とか瓜生に陽動して貰わなくちゃならない。藤堂を近づけさせないようにしないと」
そう、勝てないまでも、足止めだけは…。
とすると…、スミスが言った。「あんたのもう1つの任務は、俺たちが引き受けた方がいいってことになるか?」
そう。相馬たちの行動と並行して、瓜生をブラックペガサス近くまで護衛し終えた後の剣吾には、もう1つ、役割が振られていた。
ブラックペガサスの中枢を、今や誰も近づけなくなったメインコントロールシステムを破壊するという任務が…。
特にSEALSが全滅していた場合、予備の第2原子炉が作動を続けようものなら、ブラックペガサスはこの先も生き延び、どこかに脱出する機会を自ら作り出さないとも限らなかった。
そうでなくとも後顧の憂いを断つためにも、ブラックペガサスの息の根は完全に止める…、それがクルーガー、瓜生、相馬の意見だった。
そして、瓜生を警護した後に動けるのは、剣吾しかいなかったのである…。
剣吾は頷いた。自分が再び藤堂と相まみえ、斃れることになったとしたら、それしか手はない。
「頼む」
分かった、と頷いたスミスが生き残った頭数を数えた。
グリーンベレー兵士が3人、海兵隊が5人のみだった。この場で斃れた兵士たちの死体が冷却水パイプに流されてしまったせいもあろうが、仲間を失った実感が薄かった。そしてもう、死した仲間を悼んでいる余裕もなくなっていた。自分たちが合衆国軍を代表するエリート部隊であるという意識などとっくに吹き飛んでいた。
剣吾が走り出した。海兵隊の3人、グリーンベレーの2人がつき従った。剣吾が藤堂と再会したら、そのまま奥に進むメンバーだ。傷を負ったスミスはランスキーに支えられ、のろのろと後を追った。歩きながら手持ちの手榴弾を数える。ホフマンが殿を務めた。
そのホフマンがまたしても腕時計を気にした。顔が自然に強張り、歪む。今すぐこの場から逃げ出したいという思いと必死に戦っているからだ。
何しろ後1時間半しかない…。
「…上手く近づけておるかな」
自分のラボでコンピューターに向かうクルーガーが呟いた。
暗がりにマグライトだけが灯る中、コルト・キングコブラを右手に、蹲った若林が僅かに顔を上げた。机を照らすマグライトの灯りでは顔色はわからなかったが、復調には程遠い表情だった。目はまだ腫れていた。泣き腫らす、と言うのは生易しい、尽きる頃には涙が赤く染まる程に絞り出したのだ。しばらくこの腫れは引かないだろう。
何も言わない若林をちらと見遣ったクルーガーは、聞こえない程の溜息をついた。
ヤングの隠れ部屋で見た、水槽に浮かんだおぞましい群れの眺めは、瞼の奥に焼き付いてしまっていた。目を背けたくなる光景も様々に経験してきたクルーガーですら、この先悪夢に苛みそうな眺めだった。
若林に妻がいたこと自体、初耳だった。その妻が、ヤングの毒牙に掛かった女たちの中に混じっていたなど、知ろう筈もない。
何事にも執着を抱かずに生きてきたクルーガーだった。妻も持ったが、どれも長続きしなかった。そんな彼に若林の気持ちはわからない。生死もわからぬ妻を探すためだけに、命の危険を犯してまでこの島に舞い戻ってきた若林の気持ちなどわかりようがない。
だから彼には、若林を慰める言葉の1つも掛けることが出来なかった。
「…多分、大丈夫だろう」若林は言った。「剣吾がついてる」
「それ程信用できる男か、あのサムライは」
ああ…、若林は頷いた。「今、俺にとって、世界中の誰よりも信用できる男だ」
「確かに、禿坊主の護衛をした後で、メインコントロールシステムの破壊をしてくれという話にも、嫌な顔一つしなかったな」
「何でも一つ返事で引き受けるからな、あいつ。俺が行くべきだった」
「いいや、今のお前じゃ藤堂の相手も無理だし、コントロールルームの防御システムも躱せんよ。それを見越したからこそ、あのサムライ君は自分でやると言ったんだろう」3つのキーボードを自在に扱うクルーガーの表情がふと和んだ。「随分と短い間に、素晴らしい相棒を手に入れたようだな」
「人間同士が解り合うのに、時間を掛ければいいってもんじゃないんだな」若林は呟いた。不思議だよ、最初はこの基地に帰るのに利用できそうな奴だとくらいにしか思ってなかったんだ。それがいつの間にか、瓜生や相馬を超える存在になっちまってた…。「人には出逢うタイミングというものがあるんだな。それがわかったよ」
「羨ましくてお前を蹴飛ばしてやりたいわい」クルーガーは鼻を鳴らした。「55年生きてきて、儂にはそんな出会いもタイミングもなかったからな」
若林はようやく小さく笑えた。「それより、心配なのは相馬だ」
「そうだな。禿坊主はともかく、あやつは独りで行くしかなかったからな」クルーガーはキーボードを叩く手を休めず言った。「しかも作業だけで言うなら、この作戦最大の難関だ」
若林は頷いた。
「儂の方ももう少し掛かりそうだ」クルーガーは忌々しげに言った。「あの傲慢機会め、流石に簡単な障壁は作っておらん。少なくとも後7つの壁を越えねば、だ。それでも迎撃システムへの侵入がやっとだがな」
「俺が行けばよかった…」
「まだ言っとるのか」
「俺の方が海には慣れがある。海底での作業だって…」
「さっきも言ったがな、その怪我と今の精神状態のお前に何が出来る」クルーガーはディスプレイから目を離さず、珍しく厳しい顔を浮かべた。「お前に今出来るのはな、祈っていることくらいだ。禿坊主と相馬が上手くやることをな」
若林は黙って頷く以外になかった。キングコブラを右手に握り、じっと守りの姿勢を取り続ける。
その若林に、クルーガーが言った。「この作業が終わったら、お前にいいものをやる。左腕の傷を見せろ」
(12)
…島には武器庫が3つあった。
それらの内、島の最下層にある武器庫は、海底での作業準備所も兼ねていた。周囲に張り巡らされた水中レーダーの管理や整備、ブラックペガサスがその膨大なデータをこの島に送り込み、もしもの場合には脱出するためにそのままに放置されている海底ケーブルの点検・整備に出るための拠点だ。壁一面を覆う分厚い防弾・耐衝撃ガラスの向こう、水中ドックには数種の作業用潜水艇が繋がれてあった。
そこを守っていた7人の作業員と管制員、2人の超人兵士が、ズタズタにされて転がっていた。
殺し方には容赦がなかった。特に超人兵士2人は、セーフティ・スラッグ弾を2発ずつ食らい、頭を粉砕されていた。不死身の超人兵士であろうと、まずは回復の望めない状況と言えた。
ロッカーに7着架けられていた潜水服――ドレイガ―LAVV――が1着なくなっていた。代わりにガリルARM自動小銃が立て掛けられ、銃の収まったホルスターがその上に引っ掛けられていた。
そして、ドックに出て潜水艇に乗り込むための、或いは海底に出るための、床のハッチの安全弁が外れたままになっていた。ハッチは内側から安全弁を閉じると、外からの開閉が出来ないのだ。血の海になっていた床だが、ハッチ付近に流れていたものは既に乾き始めていた。
…剣吾がちょうど藤堂と遭遇していた時分。
相馬は1人で、ハッチから海中に出ていた。
海底ケーブルの真上までは、マークⅦ水中兵員輸送艇の改造型を使った。第2次大戦中、日本が作り上げた人間魚雷を彷彿とさせる形状のその小型潜水艇は、米軍でも使用されているものをブラックペガサスが購入後、改造したものだ。速度、堅牢性とも申し分ない性能だが、深海に潜れないことが唯一の難であった。
深海にまで潜れる潜水艇もドックにはあるのだが、そいつだと嵩張り過ぎるのだ。いずれにせよケーブルの敷かれた場所には、小さなマークⅦでも入れない。だからケーブルの敷かれた真上に来た相馬は、マークⅦを捨てざるを得なかった。牽引してきた水中スクーターで海底に向かう。
潜水スーツの下にはサラトガスーツも着たままだった相馬だったが、ラブラドル海流は二重のスーツを通して尚も冷たかった。深さ150メートルを超えると、魚1匹見えなくなる程の水温となった。相馬は心拍数が下がってくるのを感じていた。おまけに流れも随分急だ。ジェット燃料JP5を使用するとは言っても、所詮水中スクーター、たかだか20馬力しか出せず、前に進むにも難儀する有様だった。そろそろ水圧もきつくなってきた。ヤングに撃たれた頭は、傷は塞がったものの、頭蓋骨には穴が空いたままだ。念のために潜水スーツのフードの下にヘルメットを被ってはきたが、水圧が上がり過ぎたらどんな影響が出ることやら。
フロートを入れ、水中での重量を軽減してはいたが、携える防水バッグは200キロの重さがあった。その重量とサイズも、水中を進む上で邪魔になって仕方なかった。
水深200メートルを超えた頃に、ようやく海底が見えてきた。
島に続く斜面に黒い線が走っていた。クレヴァスだ。相馬も実際に目にするのは初めてだった。深いところでは水中500メートルにも達するらしい。
ケーブルはそのクレヴァスの中に敷かれているのだ。
水中ゴーグルの下で、相馬は眉を顰めた。話にだけは聞いていた。この基地建設の最大の難所。本来ならケーブルを海底に固定する筈だったのが、それが出来ず、クレヴァスの中に放り込むしかなかったとも。
島の南から北に流れ、水中スクーターの直進を阻む海流が、クレヴァスの淵に当たり、溝の中でとんでもない奔流を作っていた。近づくにつれ、その奔流が見た目を裏切らない、尋常ではないことがわかってきた。高速洗濯機も真っ青の勢いだ。相馬はうんざりさせられる。点検・整備の度に無人潜水艇を使うしかなく、しかも1回の任務に必ず2隻はぶっ壊れるという話は、本当だったんだな。
あの中じゃ水中スクーターも使えない。念のために予備の酸素ボンベもバッグに入れてはいるが、今使っているものと併せても4時間分しかない。常人より酸素消費量の多い超人兵士相馬だと、3時間、いや、2時間保つかどうか。
まあ、この作業が2時間以上掛かるようなら、作戦全体が失敗に終わるだろう。全く、若林の野郎、大変な時に大怪我してくれたもんだ。海底での作業など手馴れた、元船員のあいつなら…。
苦笑が顔を歪ませた。他人の尻拭いなど真っ平御免だった。だからこそ独りで行動もしてきた。しかし逃げ回ってきたツケだろうか、この土壇場で、作戦の成否に関わるような作業を任され、全責任を負わされれる羽目になろうとは。
比較的奔流のぶつからない海底の岩の裏に、スクーターをワイヤーで固定した相馬は、マウスピースをぐっと噛み締めた。冷たい海流が途方も無い速度で渦巻くクレヴァスの中に身を躍らせる。流れに洗われ、丸くなりかけた崖の角をまずしっかりと掴み…。
…剣吾と特殊部隊兵士5人は、急に暗くなった通廊に飛び込んだ。
灯りは減ったが、通廊の幅と高さは急に増した。通廊は常に自動車道路4車線分はあったのだが、今彼らの走る道はその1.5倍近かった。その広さが、ゴールの近いことを予感させた。
見通しのよくなった500メートル彼方に、星が散りばめられたような数百数千の光点が見えた。それぞれが点滅していなければ、実際の星にも見えたことだろう。あれが瓜生や相馬の言っていた、数億ものデジタル信号を重層的に複合し、限りなくアナログに近づけた人工シナプスの群れ…。
ブラックペガサス本体の一部だ。
藤堂には追いつけなかった。この通廊のもっと奥に、ヤンキースタジアム並の広さのドームがあり、そこに出るとブラックペガサスと対面できるらしいと瓜生は言っていた。どうやら藤堂はすでにそこにまで達してしまったものらしい。だとすれば、そこで派手にブラックペガサスの注意を惹きつけてやると豪語していた瓜生は、既に…。
いや…、剣吾は内心で首を振った。まだ望みはある。
ヨハンソンに邪魔された立ち合いの直後、藤堂が自分に向けた名残惜しげな一瞥に、剣吾は気づいていた。もし藤堂が瓜生を血祭りに上げ終えていたとしたら、彼は必ず自分の前に戻ってくる。決着を着けるために。何の根拠もなかったが、それは確信に近かった。こんな時と場合、そして敵たる相手でありながら、剣吾は藤堂と、通じ合う何かを掴んでいた。その彼がまだ戻ってこないということは…、
瓜生はまだ生きている。事によると、思いもよらぬ方法で藤堂を出し抜いているかも…、
その瞬間、視界の奥で赤い文字が明滅した。
意志の力で意識の真相に押し込めた筈の警報だった。それが蘇った。意味するところは1つしかなかった。
これまでとは比べ物にならぬ危機が迫っている。
藤堂、よりも?
開けた通廊の先、人工シナプスの光の海の僅か手前、細長いアームに繋がった何かが壁から顔を出していた。3本。
「………!」
アーム先端の、一眼レフにも似た機械の中心部が光った。
赤紫色の光の棒が、急停止して身を捩った剣吾の左脇の下をえぐっていた。
藤堂との戦い以降、剣吾の肉体は機能全開の状態が続いていた。今の彼には、どんな高速弾も、それがどれだけ連射されても、VTRのコマ送り程度の速度にしか見えなかった。その剣吾の目が、追いつくことすら出来なかった。
レーザー!
身を捩るのだけで精一杯だった。心臓を狙ったと思われる光線を、僅かに逸らせるだけで全身の力を振り絞らねばならなかった。灼熱の火箸が身体を貫く感触。続いて途方もない激痛。
呻く間もなく2発目が発射された。
危機察知の本能が、剣吾の反射神経を限界まで研ぎ澄ました。光速に匹敵する速度で、脳の命じた回避運動を各神経が伝達する。身体のあちこちが異様な熱を帯びた。各所の神経に、焼き切れんばかりの負荷が掛かったのだ。心臓目がけて突き進んでくる赤紫色の光の棒の先端が、今度は見て取れた。避けられる。剣吾は身体を翻そうとした。
しかし、神経の伝達は光速並だったが、それに従う筈の肉体がついていかなかった。そこまでの速さを叩き出したことのない筋肉が、脳の命じた無理に悲鳴を上げた。しかも空気もが、異様な抵抗となって手足に纏わりついてきた。やったことはなかったが、水中で居合の稽古をさせられたら、このような重さだろうと思われた。
剣吾の筋力をもってしても、身体を半身に捻り、刀を引き抜くまでが、何と重く感じられたことか。
刀を抜き切ることは出来なかった。
2本目の光線は左胸の筋肉を灼き、左肩に抜けた。
2つの傷からは1滴の血も流れなかった。高熱が瞬間的に、灼いた血管まで塞いでしまったのだ。それでも剣吾はガクッと膝をついた。
何事だ? 後方から追いついた海兵隊員とグリーンベレーの5人が、静止画像となって剣吾に怪訝な顔を向けていた。彼らの目にはレーザーと剣吾の攻防など見えなかったのだ。
先頭を走っていた海兵隊員グローバーの心臓を、2本の光線が貫いた。
残る4人には、グローバーが突然倒れたようにしか見えなかった筈だ。ガスか? それともまた見えないワイヤーか何かか? そんな顔で立ち止まりかけた彼らに、剣吾は怒鳴りつけるのがやっとだった。
「伏せろ! 角まで下がるんだ!」
レーザーの軌跡は今度もよく見えていた。やろうと思えばグローバーを突き飛ばすくらいは出来たかとも思われた。
動けなかったのは、この身体になって初めて感じた恐怖に、萎縮したためだ。
この僕が、恐怖に萎縮するとは!
恐怖をねじ伏せ、重力と空気の抵抗に逆らい、悲鳴を上げる筋肉を極限にまで酷使すれば、もしかしてレーザーを刀で打てたかも知れなかったのに。
――そんなに力を入れなくても、刀は振るえる。最速でだ。
師の言葉が耳に蘇った。
――まだまだ剣が、腕が、体が、弧を描いているせいだ。
先生!
次いでグリーンベレーのシーガルが撃たれた。何が起きているのかおぼろげながら理解したらしい生き残り3人は、文字通り床に転がり、後方に下がり始めた。妙に間延びして聞こえる海兵隊員たちの声を受け、赤紫の鉄芯がまっしぐらに向かってくる中、剣吾は床に倒れ込み、壁材の継ぎ目から覗く柱の陰に逃げ込んだ。
レーザーが壁や柱を真っ赤に熱するのを見ながら、思った。
自分の神経は光ファイバーに匹敵する伝達速度を持つと聞いた。しかし所詮は神経。光ファイバーとは違い、伝達の際の抵抗も大きい。しかも筋肉は、脳からの伝達を受けて初めて動くのだから、反応がより遅れるのは当然だ。つまりは超人兵士であっても、レーザーを凌駕することは不可能なのではないか、と。
いや、それは我慢できない。
例え無謀な試みだとわかっていても、最初から諦めて手をこまねくというのは剣吾の料簡にはない。困難があっても、いつもそれを正面から跳ね返してきた。その剣吾が誓った。
必ず、レーザーに、勝つ、と。
その速度に近づこうとするなら、神経の伝達から筋肉から、最初から鍛え直さねばならず、尚且つ動きから一切の無駄を排する訓練もしていく他はない。師の言葉の意味が身に沁みてわかった。厳しく教えられた、線の動き。井筒先生とて剣吾がレーザーと戦うことを想像したわけではあるまい。しかし道を極めるというのは、全てに通じるということでもあるのだ。何よりレーザーを恐れ、グローバーを見殺しにした己の不甲斐なさが剣吾には許せなかった。いつか必ず光の速度に追いつく。その速さを身につける。
生きて戻れたなら、修行のやり直しだ、と。
なぜかその時、彼の脳裏にはマリアの面影が欠落していた…。
…その15分前。
CAR15の銃弾が、溶接された換気口を吹っ飛ばした。
顔を覗かせた瓜生が、白衣姿のドロシーを抱きかかえたまま、鋼鉄製のステップに飛び降りた。
例の監視ロボットがステップの端にいたのだが、近づいてこない。ここに近づくと自動的に作動するという防衛システムも、瓜生とドロシーに銃弾をばら撒くなり襲い掛かってくるなりすることはなかった。細工をして貰ったヤングの幹部用ピンバッジはちゃんと働いているようだ。
眼下に、数百数千もの光が四方八方に流れていた。瓜生も実は初めて目にする、ブラックペガサスの人工シナプス。なかなか綺麗な眺めじゃねえか。小さく口笛を吹こうとした。失敗した。唇が乾き過ぎていたからだ。
この俺が緊張で口笛をしくじるとはな…、小さく苦笑した瓜生はドロシーの尻を叩き、鉄階段を上り始めた。
人工シナプスの光の海は、鋼鉄製の張り出し廊下の真下まで延々と続いていた。見上げると、バベルの塔を思わせる円筒が聳えていた。塔のすぐ前にまで、渡り廊下が延びていた。
「さあ、着いたぜ」
ドロシーは頷いた。遂にブラックペガサスの、世界中を恐怖に陥れたテロリスト軍団の親玉本体の前に立ったのだ。しかもその親玉は人間ではない。ハリウッドのSF映画がまさに現実のものとして、彼女の前に登場した。
「おい、カメラだ。しっかり撮れよ」
瓜生はもう一度、ドロシーの尻を叩いた。ビクンと体を跳ねさせたものの、ドロシーは座り込むことはなかった。妙に上気した,、しかし恨めしそうな顔で、瓜生を見つめ返す。白衣も裾やら胸元やらがしどけなく乱れており、恐怖に怯えてはいるものの、濡れた目は物欲しげだ。
その筈である。換気口から降りてくる直前まで、瓜生はドロシーを愛撫していたのだ。震える彼女を抱き竦め、嫌がるその股間に手を差し入れ、亀裂を指で可愛がっていたのだ。抗ったドロシーだが、キスで唇を塞がれるとすぐに屈した。次第次第に昂奮が高まってくると、眉間に縦皺が寄り、鼻息は荒くなった。亀裂はぬかるみのように潤み、受け入れ体制万全となったドロシーは、自らも瓜生の股間をまさぐった。瓜生が硬くなっているのを察し、サラトガスーツのジッパーを下ろそうとしたまさにその時…。
瓜生は彼女を抱えたまま換気口から飛び降りたのだ。
そう、こんな状況下でドロシーが失禁しなかったのは、瓜生によって別の導火線に点火されていたからだった。
さあ…、無毛の頭をいつも以上にテカらせた瓜生は大きく深呼吸した。準備は整ったぞ。
その時。
――待っていたぞ。
抑揚のない、人工的な女性の声がドーム中に響いた。天井の数箇所で、灯りが点った。ピンスポットライトとなって、瓜生とドロシーの姿を浮かび上がらせた。さすがにこの時ばかりはドロシーも、口に握り拳を突っ込み、悲鳴を堪えた。瓜生の腕にしがみつく。流石の瓜生も背筋を駆け上る痙攣を止められない。
――誰がこの場に、我を破壊しに来るか、予測を立てていた。そのプログラムを実行する度に、回路のあちこちが加熱を起こすのだ。
「そいつはな、人間で言うところの、“楽しみにしてた”って感情だよ」
――そうか。これがお前たちの言う、“楽しみ”か。記録しておくことにする。その楽しみにしていた来訪者が、やはりお前だったと言うことか。
「俺が来るのも予測出来てたわけかい」
――我の造り上げた兵士の中で、お前だけが常に、我の計算外のところにいた。我の予測を覆す何かをしでかすとすれば、お前以外にはいない。
「光栄だぜ。俺のことをそんな風に評価してくれてたなんてな」
瓜生は笑顔で応えながらも、猛禽類の目で周囲を探るのだけは怠らなかった。
スポットライトのせいで細かくは見えなかったが、本体から3本、壁から5本、何かのアームが伸びていた。先端についたモノが、照準を自分に向けているのもわかった。こいつはヤングのバッジじゃ防げねえかもな…、直感がそう告げた。下手な動作1つで、たちまち蜂の巣にされかねないってことだな。自動の防衛システムに任せっきりにしない用心深さは、機械の分際でなかなか大したものだ。
しかし…、「勘違いして貰っちゃ困るぜ。他の奴は知らねえが、俺はあんたをぶっ壊しに来たんじゃねえ」
――お前の言っていることは全く整合性を欠いている。
「本当さ。あんた、前に俺に言ったよな。ワレはまだまだ進化し続ける存在だ、ってな。その進化がどこまでのものか、どこまで進んだか、確かめに来てやったのよ」
――口を慎め。我は人間などより遥かに優れた存在だ。
「へえ、そうかい。じゃあ、あんた、この感覚がわかったんだな? 理解できるようになったんだな?」
瓜生は脇に吊ったモーゼル・ミリタリー拳銃をホルスター毎外し、渡り廊下の手摺に掛けた。サラトガスーツのベルトを緩め、胸のジッパーを下ろす。
渡り廊下の上で、アップルベレーを除き、素っ裸になった瓜生の痩せた体が、スポットライトに浮かび上がった。痩せてはいたが貧相さは微塵もなかった。無駄なものを一切削ぎ落とした、筋繊維の1本1本まで浮かび上がって見える、まさに極限まで研ぎ澄まされた肉体だ。そして瓜生の股間の武器は…、
天に向かって、そそり立っていた。
意図を掴めないブラックペガサスは、沈黙するしかない。ドロシーも同様だ。しかしドロシーの目は本能の命じるまま、屹立した瓜生の武器に吸い寄せられてしまう。その硬さは充分味わい、知っているドロシーだったが、灯りの中で改めて見ると、その大きさに身震いさえ覚える。何よりも凄いのはその先端だ。エリマキトカゲの鎌首を思わせる鰓の張り方だ。
黒人兵士オーエンスが生きていたら、別の意味で今度は瓜生を敵視したであろう。女に関しては、瓜生は軍団随一のハンサムだったオルセンの追随を許さない凄腕ぶりを見せつけてきた。並外れた人懐っこさと他の追随を許さぬ経験値、そしてこの武器とで、数百人の女たちを虜にしてきたのだ。
その瓜生がドロシーに向き直った。彼女の白衣の胸元を掴み、一気に引き裂く。
手にしていたカメラがステップの足元に転がった。豊満な乳房が揺れた。驚きに固まった彼女を、瓜生は背後から抱き竦める。
「あんた、前に言ってたよな。人間とは単なる生殖行為になぜここまで夢中になるのか、なぜここまで必死になるのか、ってな」
瓜生はドロシーの乳房を激しく、しかし芯は優しく揉みしだいた。ドロシーはほとんど抗えなかった。乳首を摘まれた瞬間、早くも鼻息が荒くなる。この反応を得るために、瓜生はさっきドロシーを不完全燃焼のまま放っておいたのだ。
ついでに瓜生は保険も掛けた。先の愛撫の際に、ドロシーの亀裂の奥、子宮口の手前に、ヘロインの結晶を押し込んでおいたのだ。覚醒剤は性感を増幅させる。粘膜から吸収されようものなら効果は覿面だ。子宮から、或いはヘロイン付きの粘液が染み込んだ花芯から、脳に達した欲望の奔流は、ドロシーをすぐさま呑み込んだ。それはブラックペガサスに感じる恐怖より遥かに強烈だった。痙攣が身体を駆け上り、膝がガクガクし始める。
そして瓜生自身はと言うと、塩酸シルディナフィルを少々服用して、ここに臨んでいた。クルーガーが興味本位で覗いたドイツの製薬会社のコンピューターの実験データに、狭心症の治療薬開発の副産物として、この成分が勃起薬になるとあったのだ。試しに服用してみたら、すごい結果だったと言う。半信半疑で試した瓜生だったが、痛い程の勃起が丸3日続き、滞在していたブルガリアで17人の女を昇天させるという離れ業をやってのけるに及んだ。今回は久々の服用となる。ビビってしまって使い物にならなかった場合を想定してのことだったが、クスリは見事に瓜生の武器に活力を注ぎ込んだ。
怒張は背後からヌルリと吸い込まれた。奥まで迎え入れたドロシーは絶叫を上げた。僅か2突きで最初の絶頂に達してしまう。
「でもなあ、セックスってのは単なる生殖行為じゃないんだぜ。生きるってことの根源なんだ。だからみんな、プロセスの段階から必死にもなるのさ」
すぐに忘我の状態から舞い戻ったドロシーが、手摺を掴み、尻を突き上げ瓜生を見た。2度目を求める。
瓜生はそれに応え、腰の筋肉をしならせた。豪快とも言えるピストン運動が始まった。
「どうだい、全開だ」ドロシーのリクエストに、その顔を捻じ向けさせながら唇を貪るように吸った瓜生が、横目でブラックペガサスを窺った。「気持ちいいぜ。わかるか?」
ブラックペガサスは沈黙を保ったままだ。
「あんたは人間を超えた存在なんだろ? そのあんたになら、この快感がわからねえわけねえよな? え?」
尚も沈黙。その意味を量りかねる瓜生は、腰を動かし続けるしかない。ドロシーのよがり声が辺り構わぬ絶叫と化す。2度目の絶頂も近そうだ。
…ブラックペガサスが人間のセックスに異様な興味を抱いているのは知っていた。軍団にいた頃、宿舎に連れ帰った女と楽しんでいる最中をずっと覗かれていたのに、瓜生は気づいていた。監視と呼ぶには執拗な程の時間の長さと頻度だった。その気配は他人の情事を覗き見して興奮する中学生を思わせた。後で他の連中の情事も、或いは攫ってきた女たちとの乱交も、覗かれていることを知るに至り、瓜生の頭にある仮説が浮かんだ。
こいつ、セックスに興味があるのか?
それとももしかして、セックスを経験してみたいのか…?
頻繁に会話したわけではなかったが、その後ブラックペガサスが瓜生にしてくる質問や話題は、セックスのことしかなかった気がする。若林が女に触れようとせず、ヨハンソンの趣味が他の人間と違うのはなぜかと訊かれたことすらある。瓜生の仮説は確信に変わった。
やはりこいつはセックスを味わいたいんだ。
人間を侮り、見下すだけのこいつに、唯一経験できない楽しみだからだ。
そう、こいつには肉体がない。ヤングに感化されたのか、人間の肉体の脆弱さを嘲笑っていただけのこいつが、実は誰よりも、肉体に憧れていたのだ。
肉体から生み出される快感を味わえないがために。
正直、沈黙は恐ろしかった。ブラックペガサスが己のコンプレックスに突然逆上しないとも限らない。いつ撃たれるかも知れないと思うと、気が気ではなかった。クスリを飲んでおいて正解だったと思う。しかしこの沈黙が延々と続くのであれば、それはそれで構わない。この沈黙がブラックペガサスの好奇心の賜物であり、他の面々に向くはずの注意が少しでも疎かになってくれていたら…、
俺の陽動作戦は成功だと言える。
相馬、早いとこ終わらせろよな! クルーガーも!
それにメインコントロールシステムに向かってるなら、那智剣吾、お前もだ…!
…鍛冶屋のフイゴにしか聞こえなかった。
もちろん自分の呼吸音が、だ。LAVVとサラトガスーツの下は汗まみれだ。しかしフンボルト海流はすぐに汗を冷やし、体温を容易に上げてはくれなかった。体温を上げようと必死に鼓動する心臓が、強いられた無理に悲鳴を上げ始めた。
おまけに水圧で締め付けられる頭が痛かった。ヘルメットは正解だった。被っていなかったら海水が潜水服の帽子毎皮膚を突き破っていたかも知れない。
ほんの小さな岩の突起を見つけては指を掛け、虫の這うような速度で、相馬はクレヴァスの中を進み続けていた。
酸素消費量は思った以上に激しかった。クレヴァスに入って20分で、1本目のボンベの60パーセント近くを使い切っていた。何が1本2時間だ。
クレヴァス内部の奔流の抵抗が、これまた予想以上に凄まじい。ぶつかってくる水流の圧力は、時折数トンにまで上がった。岩を掴む指、手首、上腕各所の筋肉ががブチ切れそうに張り詰めた。持参した水中バッグの嵩が鬱陶しいことこの上ない。ハーネスで背中に固定した200キロが奔流に引っ張られ、数倍の重さとなって両肩に食い込んでくるのだ。
少しはトレーニングをやってきてよかったと思う。他の連中と同じ、自堕落な生活をしていたら、恐らくここまで耐え切れなかった。
しかし、自分が今までやってきたトレーニングなど、大したことがないと思えて仕方がない。ずっとそう思ってきた。人間が生まれ持った個人の生命力の差を縮められないのと同様、自分がトレーニングで身につけられるものなどほんの僅かなのではないか。超人になる前から武道に耽溺してきた藤堂や、肉体労働に従事してきた若林などは、元から持っていた力が一層増幅されたのだろうが、相馬の力は超人兵士になった後に無理矢理身につけたものに過ぎない。軍団有数の兵士に数えられるようになった筈の相馬に、そのコンプレックスは常につき纏ってきた。
数トンの海流に耐える前腕の感覚はほとんど残っていなかった。丈夫さが売りの革製グラブはとっくに破れ、岩を掴む指の皮膚はボロボロだ。骨近くまで達した傷から、フンボルト海流の冷気が身体の内側に滲み込んでくる気がした。クレヴァスの中で相馬は限界を迎えようとしていた。もう手が動かない。すぐ目の前の突起が掴めない。
ここで死ぬのか、その思いが再度頭をかすめた。糞っ、煙草が吸いてえ。
痺れてしまった手を放せば、奔流に流され背中から岩に叩きつけられ、大爆発とともに自分の身体は四散するだろう。それで全ては終わり。作戦は失敗だ。こんな難局を俺に任せたりするから、作戦すべてを水泡に帰させることになっちまったわけだ。これだけの犠牲を払っても、結局ブラックペガサスを取り逃がすことになったんだ…。
ちょっと待て、それじゃあ作戦の失敗原因は俺ってことで終わるじゃねえか。
少なくとも瓜生や若林にそう思われたまま死ぬのは面白くないぞ。あいつなら失敗すると思ってたぜ…、などと自分を嘲笑う瓜生のしたり顔が容易に想像できた。突然腹が立ち、下腹に力が湧いてきた。
ここで俺が成功しなくちゃ、瓜生や若林もくたばっちまうわけで。だがそれでも、死ぬ間際まであいつらに馬鹿にされ、嘲られたままだというのは我慢ならない。あいつらより先に死んで堪るか。
そのためには今、ここだ。この難局を何としても乗り切る。生き延びなくちゃ、あいつらをせせら笑い返すことも出来ずに終わっちまう。必ず生き延びる。あいつらより1日でも長く。
おかしなものだ。必ず生き延びる、だと?
まるで明日に希望を抱いてるみたいな言い草じゃないか。
自分すら信用していない俺が、実は心の奥底に希望を眠らせていたなんてな。相馬はゴーグルの下で苦い笑みを浮かべた。しかし彼は、初めて本気で生きていたいと思った。初めて見つけた。
自分のやりたいことを。
手が動いた。力強いとはとても言えない握力ながら、突起を掴めた。さあ、行くしかないぞ。まずは俺自身が生き延びるために。相馬はほんの少し蘇った感覚を頼りに、腕を前に伸ばした。虫の這う速度での前進を再開する。
煙草が吸いてえ…。
…かすれ始めた絶叫とともに、ドロシーが背筋をのけ反らせた。
6度目の絶頂だった。
回数を重ねる毎に、ドロシーは達するまで時間を食うようになってきた。しかし相反するように、そのエクスタシーは深いものになっていった。涎を垂らし、ほどけた髪を振り乱しながら、瘧のように全身を痙攣させる。
それでもまだ反応できた。15秒の休憩後、瓜生が1突きすると、哀れっぽい声を出しながら首を反らせた。ヘロインの効き目は大したものだった。あれだけ達して、まだドロシーの泉は枯れなかった。次から次へと涌いて出る。左手は手摺を掴んだままだが、右手は瓜生の尻を必死に掴もうとする。少しでも瓜生の男根を咥え込み、最も感じる子宮口にまで迎え入れようとする努力だった。彼を包む肉襞は蠕動に近い動きで、射精を促そうとする。女性の身体とは、いや、オンナってのは本当に凄いな。
目映い光の筋に照らし出される自分たちが、ベルギーやオランダのストリップクラブの、或いは日本のブルーフィルムの出演者にも思えてきた。いや、最近はビデオ撮影の方が主流なんだっけ。強烈なスポットライトの熱が肩や胸を炙る。喉が渇いて仕方がない。
ブラックペガサスの沈黙はまだ続いていた。
全てをわかり切った積もりでいるらしいこの機械が、実は自我を持った個としては、5歳児に過ぎない。クルーガーは言っていた。だから瓜生も勝負を賭けた。
沈黙してはいたが、ブラックペガサスが2人を見ているのはわかっていた。ドームの全監視カメラがこちらに向いていたからだ。今まで覗き見しか出来なかった男女の交合を、ちゃんと眺められるのだ。ヤツを支配しているのが5歳児の感性なら、息を潜めてこの光景を見つめていると言ったところか。
しかし5歳児なら飽きるのも早いだろう。その時が、俺とドロシーが撃たれる時でもある。気にし始めるとクスリで怒張させている武器も、張りを保っているのが難しくなる。クソっ、急げよ相馬!
その瓜生の男根が、遂に萎む瞬間がやってきた。
僅かな気配に首を回した瓜生の視界に、藤堂の姿が飛び込んできたのだ。
通廊からの渡り廊下の真正面から現れた藤堂は、一見のんびりとした歩調で近づいてきた。ほんの少し身を低めたと思った瞬間、階段を使わず3メートルはあるステップに跳び上がる。その重そうな体が、羽毛が落ちるような静けさで降り立った。
その肩から、かつてない殺気が放たれているのを感じた瓜生の武器が、ドロシーの膣から抜けた。噴き出したお漏らしで足元をビショビショにしながら、ドロシーが不満の声を上げた。尻が嫌々をするように振られる。しかし脚にもう力が入らず、そのままステップにペタンと尻餅をついてしまう。
手摺に架けたモーゼルを取る暇もなかった。蹴り込まれた藤堂の足刀を、裸の瓜生は間一髪で避けた。続く貫手を、首を貫かれれる寸前で躱す。ベレー帽を押さえて頭を下げたすぐ上を、まさに空気を切り裂く音を立てて、太い指が往復した。そら恐ろしい速さだった。跳び下がりたいのは山々だったが、ドロシーを置き去りには出来ない。愛情や愛着が湧いていないでもなかったが、それ以上にドロシーはこの作戦のキモなのだ。
「まだ鈍ってはいないようだ」藤堂がずれた眼鏡を直した。「その動きには相変わらず感心させられる」
「ほざけ」瓜生は脇腹をさすった。かすめただけの足刀が、赤い痣を作っていた。貫手を躱した頭も熱かった。「どうせ手加減しやがったくせに」
「ここまで辿り着いたお前を褒めてやろうと思ってな」
「そいつはアリガトよ」
藤堂のTシャツやズボンに刀に斬られたと思しき傷が見て取れた。こいつは間違いなく、那智剣吾と戦ってきたのだ。糞っ、あいつでも敵わなかったか!
だとすると、俺たちに残された手は尽きた…。
「しかし、アメリカ軍を引き連れての里帰りとはな。小賢しいことを思いつくと言えば貴様だったが」
「俺はな、人間様をとことん侮ってるこの精密機械の親玉に、ささやかな抵抗を見せに帰ってきたのさ」
「ふざけたことを。貴様のその小賢しさのために、折角世界の新秩序を打ち立てる寸前まで行った我々の大仕事も、最初からやり直しだ」
「なーにが新秩序だい。偉そうに」瓜生はせせら笑って見せた。しかし藤堂の前から動けない。ドロシーを見捨てられないからだけではない。どこに逃げようと、或いは逃げなくても、その攻撃を躱せない距離にまで藤堂の接近を許してしまっていた。「所詮テメエらは、世界を勝手にしたいってだけじゃねえか」
「あれだけ長い間軍団にいながら、貴様には何も見えていなかったようだな」藤堂は言った。「我々の行動が単なる気紛れなテロ活動だとでも思っていたのか」
「さーてねえ」
得意のおトボケか、それとも本当に理解していないのか…、藤堂は唇だけで薄く笑った。「我々が襲った企業や施設は、世界の金融市場を支配している連中の支配下にあるものだ」
金融市場だけではない。いずれは世界そのものを牛耳ろうとしている、いや、牛耳っている気になっている連中だ。
金儲けのためなら、どんなことにも手を出すし、どんな手段をも用いる。自分たちに利益をもたらすためなら、誰を踏みにじり、誰の運命を弄ぼうが構わない連中だ。我らがゴッドの開発に資金を提供し、脱出に力を貸したのも奴らなのだ。
理由は簡単だ。奴らは世界の軍需産業をも支配している。冷戦終結後、冷え込んでしまった自分たちの利益を盛り返そうとしているのさ。何しろ大きな戦争が起こらなければ奴らの懐は枯渇する。世界に新しい敵を作ることで、世界が新たな金を出さざるを得なくなる状況を作り出す気だったのだ。
その敵とはもちろん我らがゴッド。そしてそれを退治するために売り出される筈だったのが、俺たち超人兵士と言うわけだ。
そうだ。超人兵士とは元々奴らが生み出したものだったのさ。途方もないカネになる新たな売り物として、な。
奴らはいずれ実験に適合し、超人兵士になりそうな人間を、世界中から狩って回ったことだろう。ゴッドに捕まっていなくとも、貴様も俺も奴らに捕まり、商品にされ、奴らの自作自演によるウォーゲームの駒にされていたことだろう。
だが、我らがゴッドには奴らの当て馬になる気など毛頭なかった。
超人兵士製造のマニュアルを奪い、売り物ではない超人兵士の軍団を作り上げ、奴らに戦いを挑んだのだ。先進国に奴らの暗躍を止める力は最早ない。首脳陣の大多数が奴らの手先だからだ。そんな現在、奴らを止められるのは、我々しかいないのだ。
「お前はそんな我々を排除する計画に加担しているわけだ」
「………」
「それが実は、奴らの思う壺だと気づかなかったのか? 我々がようやく築き得た世界の新しいバランスを、貴様の小賢しさが崩す。貴様は結局、この世界を好きなように操れると思っている連中の片棒を担ぐことになるんだ」
新しいバランスか。超人兵士を最初に造り出したのは合衆国だ、という説を、若林がしてたよな。ブラックペガサスが抑止力になる、って話を、相馬もしてたっけ。だからこの腐れ機械を破壊するのは妙に気が進まない、などと。馬鹿なことを言うもんだと思ってたが、実は的を射てたのかもな…、と考える瓜生に向かって、藤堂が足を踏み出した。拳を構えもせず、ただ自然体での歩み。だが瓜生は知っていた。こいつのこの姿が一番恐ろしいんだ。
閃いた拳と脚は、瓜生の猛禽類の目を以ってしても見えなかった。全身の筋肉を総動員した瓜生は真上に飛んだ。躱すだけで寿命が10年は縮まった。腕に血が滴った。かすりもしなかった拳が、衝撃波だけで肩の肉を削っていったのだ。
4メートル近く跳ね上がった瓜生はブラックペガサス本体を蹴り、ドームの天井に向かってゴムボールのように飛んだ。しかし藤堂はもっと速かった。天井に貼り付いた瓜生の目の前に、既に拳を構えた藤堂がいた。
やっべえ!
流石に駄目だと思った。走馬灯のような思い出は、なぜか巡ることはなかった。視界の下方で、立てないままのドロシーが瓜生を探し求めていた。
瓜生の頭蓋骨を狙った拳が、まさに音速を突破しようとした時。
――止めろ藤堂。
ブラックペガサスが沈黙を破った。
――そいつの邪魔をするな。
拳は瓜生の顔面すれすれで止まった。瓜生はベレー帽を押さえ天井を蹴り、渡り廊下に降り立った。ドロシーを犯していた時とは別の汗が全身を濡らしていた。心臓の鼓動がかつてない程激しい。恐らくクスリの副作用も混じっているのだろう。超人兵士である自分でなければ、心臓に異常を来していたかも知れない。今更ながらに震えが背中を駆け上がっていった。しかし瓜生は思った。勝った。
ブラックペガサスの好奇心は、俺を生かす方を選んだのだ。
ドロシーがそんな瓜生を見つけた。這うように近づいてくる。「何してるのよウリュー、続きよ。早く続きをやって!」
同じく渡り廊下に降りた藤堂が、珍しく苛立った様子で振り返った。馬鹿なことを、と呟く。「こいつはあなたを破壊しにやってきた一味なんですよ」
――我はその男のしていることに興味がある。
「ただの生殖行為じゃないですか。生まれて初めて他人のセックスを見せつけられたティーンエイジャーじゃないんだ。何をムキになっているんです」
――我もただの生殖行為に過ぎないと認識していた。我の認識は誤っていた。我は認識を改める。
「何ですって…?」
――その男は人間の新たな可能性を我に見せつけたのだ。我は観察中だ。邪魔をするな。
「あなたがそんなものに夢中になっている間に、こいつの一味は着々と、あなたを破壊する作業を進めているんだ。それがわかってないんですか?」
――慎め。誰に向かって口を利いている。この男以外に我に危害を与え得る場所にいる者は、現在この基地の中にはいない。
「いますよ! 少なくともこいつなんかより遥かに優れた男が1人、侵入しているんです。スキャンし直してみて下さい!」
――我に指図をするな。我のやっていることに間違いはない。これ以上の邪魔をするようであれば、藤堂、お前を排除する。
藤堂はブラックペガサス説得を諦めた。瓜生に再び向き直る。構えが取り直された瞬間…、
暗がりからシュッ、と、紫色の閃光が走った。
瓜生にはすぐにわかった。レーザー! しかもあの太さ! 明らかにその用途は医療ではない!
防衛システムが自分を狙って、いつでも何かを発射できるだろうとはわかっていたが、レーザーだったとは。クルーガーの爺め、何がこれまでとは違う仕掛け、だ。わかってたんなら最初から教えろよな。
しかも藤堂は、クルーガーやヤングと同種類の認識票をつけている。危惧した通りだ。ブラックペガサスは認識票などお構いなしに、攻撃を仕掛けられるのだ。
1発目は藤堂の足元、鋼鉄のステップに命中した。威嚇らしく、照射は2秒で終わった。ステップの金網部分が真っ赤に熱せられていた。
しかし歩き出していた藤堂は止まらない。そのまま瓜生に向かってくる。その彼に、レーザーは躊躇なく射ち出された。
驚くべきは藤堂の反射神経であった。自分の胴体を狙ったレーザーの2撃目、3撃目を、必要最低限の身ごなしで躱してみせたのである。紫の光線は2本とも、彼の背にしていたブラックペガサス本体に命中した。1箇所、見事な穴が空いた。
それがブラックペガサスを怒らせた、らしい。
複数の光線が放たれた。本体周囲をウロウロしていたアームからだけではない。壁のあちこちからも、赤紫色の光の棒が優に10本以上、藤堂に向かって伸びた。さしもの藤堂も、今度は全てを避け切れなかった。右足、腹、左肩に、瞬間的に火が点いた。銃弾と違い血が流れることはなかった。傷が瞬間的に灼けているのだ。だが光線は確実に貫通していた。藤堂はきりきり舞いしながら体勢を崩した。
瓜生はその光景を、ほとんど茫然と眺めているしか出来なかった。思えばこの場で自分を照らしたスポットライトと同じ速さで、あのレーザーは襲ってくるのだ。あのライトが自分を照らす瞬間に、光の筋を避けられただろうか。藤堂はそれを10本近く避けたのである。レーザーの脅威以上に、やはり藤堂の方が恐ろしい。俺たちはこんな化物を相手にしようとしていたんだ。
ブラックペガサスが邪魔に入ってくれたことを、瓜生は心底感謝した。
その場で崩れ落ちると思った藤堂が、手摺を掴み、踏み堪えた。眼鏡の奥の目が瓜生を捉えた瞬間、顔がニヤリと歪んだ。次の一瞬にはその体が宙を舞っていた。無事な左足が螺旋を描きながら、瓜生に向かってきた。
身体に3つ穴を空けられているとは思えない素早さ、跳躍の高さだった。瓜生は本気で、脚にしがみついて尻を振るドロシーを盾にしようかと考えた。何とか思い留まり、頭のベレー帽を初めて脱いだ。庇から1本だけ飛び出た黒い糸を引く。
パンッ、という破裂音とともに、リンゴのヘタに当たる部分から、黄色いネットが飛び出した。投網のように広がり、空中の藤堂に絡みつく。パーティクラッカーの原理で火薬とともに仕込んでおいた、ケブラー製のネットだ。
細いながら撚り合わせた防弾繊維だ。藤堂とて空中にいる今、簡単には引き裂けない。体に絡むネットがその落下速度を僅かに鈍らせた。
10数本目の光線が、眉間に命中した。
セラミックを凌ぐ頭蓋に穴を空けた超高熱の光線は、脳の大半を蒸発させ、後頭部に抜けた。そのまま瓜生を越え、手摺も越え、人工シナプスの海に真っ逆様に落下していく。瓜生の耳には遥か下方で、肉体の潰れるグシャッという音が聞こえたのみであった。
ブラックペガサスの生んだ不世出の戦士、藤堂誠治はあっさりと死んだ。生みの親の手に掛かって。
剣吾との再戦を果たせぬまま…。
瓜生は今度こそステップの床に座り込んだ。微かな火薬の臭いの残る中、2つに折れた藤堂の眼鏡が、目の前に落ちていた。片方のレンズがレーザーの熱で溶けていた。
ようやく自分の側に戻ってきた瓜生に、ドロシーが陶然とした表情で抱きついた。
――さあ、続きを見せろ。
感情のない筈のブラックペガサスが、焦れたような口調で命じた。
――先程、その女の数々の生体エネルギーが、異常な程の数値にまで上がった。ここに来た時に遠隔で測定した、この女の持つ平常値からは考えられない数値の上昇だ。
――そしてその変化は、瓜生鷹、お前にも起ころうとしていた。その原因が何なのか、我は知りたい。
「簡単におっしゃいますがねえ」ベレー帽を冠り直した瓜生は、苦笑交じりに股間を見下ろした。肩の傷は塞がっていたが、藤堂という最凶の災厄をやり過ごしたばかりの瓜生の武器は縮み上がり、濃くない陰毛の中に引っ込みそうだった。
――出来ないというのであれば、お前も我にとって無益な存在と見做す。
つまり、いつでも藤堂と同じ目に遭わせてやるぞという脅しのようだ。罵声を漏らした瓜生は中腰になった。ドロシーが頼みもしないのに、その瓜生の武器に吸いついた。舌と唇、指を総動員して、瓜生のイチモツを奮い立たせようとする。クスリの効果はまだ残っていた。本調子とは言えないが、何とか半勃ち状態にまで持っていけた。手摺からサラトガスーツを取り、床に敷いた瓜生は、狂喜するドロシーを仰向けに寝かせ、両脚を限界まで広げさせた。ドロシーは片手の指で亀裂を開き、もう一方の手で膨れ上がった花芯を自ら可愛がり始めた。「そうよ、ウリュー、早く…、早く来て!」
抜けてから時間が経っていたが、ドロシーの亀裂は半勃ちの瓜生を、実にスムーズに瓜生を受け容れた。喉も裂けるばかりに絶叫する。彼女の昂奮具合は尋常ではなかった。もちろんヘロインのせいもある。しかし何より、生命の保証さえないこの場で、瓜生にすがりセックスにすがり、異常なテンションに自分を追い込んでいなければ、発狂するかも知れなかったのだ。
問題は今後だな…、瓜生は思った。このオンナ、ここから無事に帰れた後、果たしてまともなセックスが出来るものやら。
――そうだ。それでいい。
ブラックペガサスは言った。
――我は人間の性行動に関する様々な文献やデータを調べてきた。数値を羅列しただけのものから、明らかに科学的見地から逸脱しているものもあった。神に出会える門が開くなどと述べた文献までもだ。我はそれらを、信用に値しないものだと決めつけていた。
――しかしお前たち人間が、ここまで性行動にこだわり、必死になる理由も知りたかった。その謎の一端が、この女の身体の中で生じている、大きなエネルギーの生成と関わっているのだとしたら、我はそこに迫りたい。解明したい。
――その糸口を掴んだら、我は自ら実践に及ぶ。我は近日中にこの機械の本体を棄て、人間の肉体を模した器に移る予定だからだ。
本気かよ…、瓜生は思わずブラックペガサス本体を振り返って見ていた。同時にヤングのあの隠し部屋の光景が脳裏に蘇る。
ヤングにはもう無理だが、ヤツに代わる優秀な誰かがあんな研究してたら、いつかはブラックペガサスの膨大なデータなり演算能力を収められる器も出来るかもな。人間の脳ってのはとんでもないシロモノらしいし。しかしそれにしても、瓜生の憶測は当たっていた。いや、それどころの話じゃない。
こいつ、セックスの快感を味わいたいためだけに、ヒトの身体まで手に入れる積もりでいやがったんだ。
「あんた、やっぱり、人間になりたいんだな」
――口を慎め。我は人間などより優れた存在なのだ。
またそれか。ホントに頑是ない幼児だな、こいつ。
――我は黒い天馬だ。我の未来にあるのは輝かしい飛翔だけだ。
あ~あ、喩え話まで持ち出してきやがったよ。幼児は幼児でも、頭でっかちのガキだなこりゃ。
藤堂に迫られ、今はレーザーに狙われ、緊張が先に立っている今、あのヤングの部屋でのおぞましい記憶は蘇ってこなかった。瓜生は顔を見ながらドロシーを抱くことが出来た。そのドロシーがまたも絶頂に近づいた。瓜生に抱きつき、濃厚に唇を求め、脚が彼のしなやかな腰に巻き付いた。下がってきた子宮が、武器の先端を包み込もうとする。その微妙な肉の収縮は、半勃ちの男根には効き過ぎる刺激となった。声まで漏れてしまう。それがドロシーを喜ばせた。締めつけが強まる。
ヤバい!
普段なら1人頭4回5回平気でこなせる瓜生だが、今日ばかりはこの緊張の中、1度射精したらもう2度と勃たせる自信がない。
相馬! クルーガー! まだか!
俺はもう限界だ!
…通廊を震動が揺るがした。強かった照明灯が明るさを弱めたように思えた。
錯覚だった。正しくは天井中央に並ぶ照明が消え、その左右の非常灯に取って代わられたのだ。
柱の陰にて中腰になっていた剣吾は顔を上げた。
レーザーに穿たれた傷跡が回復を始めていた。かなりの時間を隠れて無駄にした気がした。奥の中央ドームの方から、瓜生と誰かの会話が聞こえてきた気がするが、定かではない。その後、小さな破裂音もしたようだったが。動けないまま苛々するしかなかった剣吾は立ち上がった。角の向こうに下がった海兵隊とグリーンベレーの3人、どうにか追いついてきたスミスとランスキーも変化に気づき、天井を見上げていた。
「照明が、落ちた」
ランスキーに支えられるスミスが呟いた。剣吾を見遣る。
そうだ、クルーガー博士や相馬の言葉が正しければ、ここに電力を供給していたのは第2原子炉だった筈だ。それが、予備電源に、切り替わった…?
「お、おい!」
ランスキーの慌てた声も構わず、剣吾が柱の陰から歩き出た。
奥の壁から覗くアームは反応しなかった。動きもしない。レーザーも射ち出されてこない。恐らく予備電源では防衛システムを稼働させられないのだ。続いて通廊に飛び出した海兵隊員が叫ぶ。「来ねえ! レーザーが来ねえぞ!」
スミスが天井を振り仰いだ。「SEALS、か?」
ランスキーが叫んだ。「あいつら、生き延びてたんですか!」
「それしか考えられまい。奴ら、地下に辿り着いてたんだ」
凄え…、表情を輝かせたランスキーが雄叫びを上げた。同僚と拳を打ち合わせる。「これでブラックペガサスの脱出は封じ込めたも同然だ!」
「いや、まだだ」
剣吾の台詞に、その場にいた全員が動きを止め、彼を見た。
刀を鞘に収め、腰に差し直し、剣吾は言った。
「クルーガー博士も言っていたじゃないか。後顧の憂いを断つためにも、ブラックペガサスの息の根は完全に止めなくちゃならないって」
そうだ。もう瓜生を藤堂から守る必要もなくなった。ここまで待って、藤堂が現れないのだ。瓜生は何とか藤堂を出し抜けたのだろう。
残るはメインコントロールシステムとやらのみだ。
「そこまでやる必要が、あると、思うか?」
剣吾は頷いた。その揺るぎない瞳を見たスミスはランスキーと顔を見合わせた。
ランスキーが言った。「お前さん、つくづく大した奴だぜ」
「そう、かな」
「ああ、あんたとこの任務に就けたことを、誇りに思うよ。握手して貰えるか」
剣吾は照れたように小さく笑った。「メインコントロールシステムを破壊し終えたら、喜んで」
「ってことで、隊長」ランスキーがM16を構えた。「ちょいと最後の仕上げに出かけてきますわ」
スミスが硬質な笑みを浮かべた。「行って来い。死ぬんじゃないぞ」
「了解です!」
ランスキーは叫びざま、2人の海兵隊員とM16を撃ちまくった。動きを止めているレーザー発射装置を破壊する。剣吾が走り出した。ランスキーたち3人、グリーンベレーの1人が続いた。中央ドームの方には向かわず、人工シナプスの群れのそのまた下方に降りる階段を探す。その剣吾たちの眼前で、人工シナプスの数千、数万という光が、点滅しながら消えていった。星の海を嵐の黒雲が覆い隠す様にも似ていた。この世の叡智という叡智を収めた光の1つ1つが、いとも簡単に闇に飲まれていく。しかもこの雲は、2度と晴れることはない。
闇は、剣吾たちの行く手を塗りつぶそうとしていた…。
ドームの下方に抜ける階段を見つけた。そこを走り下りる際、剣吾は遥か頭上にある渡り廊下とステップとを見上げた。ちらりとだが、赤いベレー帽が見えた。瓜生はやはり無事だった。
しかし、彼が裸で立っているように見えたのは気のせいか…?
…クルーガーのラボのモニターの1つが、例のクレヴァスから激しく噴き上がる水煙を映した。
高性能爆薬HXMの起こした爆発だ。ホルムアルデヒドとアンモニア水を混ぜて作るヘキサミンを原料とするHXMは、実用爆薬中、最大の威力を持つ。本来はミサイル弾頭の炸薬として使われ、爆速は毎秒9200メートルにも及ぶ。この伝播速度はニトログリセリンの1.6倍にもなる。
相馬が傭兵としてアフリカに赴いていた時分、使い方はおろか作り方まで、傭兵仲間から教えられたのだ。たった500グラムで戦車すら引っ繰り返し、15キロで20階建てのビルを倒壊させたその威力に仰天し、何かに転用できないかと考えていた相馬は、軍団に戻った時、クルーガーに進言してHXMを使った多種の爆弾を作らせたのだった。思えばそれが相馬がクルーガーと親しく話すきっかけでもあった。
その一部は国連本部ビルを爆破する時にも使われることとなった。
強化プラスチックの防水ケースに空気とともに密封されたHXMは、1個の重量が10キロ。それを相馬は防水バッグに20個突っ込んでいた。1個で10フィートの鉄筋コンクリートに穴を空ける代物だ。水中とは言え、たかだか直径2メートルのケーブルなど、爆発がちゃんと起こりさえすれば敵ではなかった。
水煙から数秒遅れて、海水を伝わった衝撃波が周囲を震わせた。クレヴァス監視のために設置されていたカメラも激しく揺れ、崩れ始めた崖を映したのを最後に、画像を送るのを止めた。
しかしラボのモニターの1つは、赤い警告の文字とともに、ケーブルが確実に切断されたことを教えていた。
それを確かめたクルーガーは小さく鼻を鳴らし、30分前にようやくありつけたパイプを叩いた。灰は実に綺麗にパイプからスポッと抜け、一片の燃え残しもなく灰皿に落ちた。右手指はキーボードの実行キーを叩く。
彼の正面に置かれたディスプレイが、『ミサイル発射』の文字を浮かび上がらせた。画面の一角に『警告』の赤い文字も出たが、クルーガーはそれを無視した。既に彼の施した細工は、その事実を基地全体やブラックペガサス本体に伝えることを予め防いでもいたのだ。
中央ドームの真上に聳え立つ東の山の、頂上周囲に据えつけられた迎撃ミサイル群の2基が、向きを変えた。基地内部、それも山頂真下にて発射の時を待つ、ブラックペガサス本体の脱出用ロケットに向けて。
この近距離で外すわけがなかった。2発のフェニックスミサイルはロケット毎、東の山の頂上を吹っ飛ばした。
数秒遅れて、そこに電力を供給していた第2原子炉が停止した…。
…床のハッチは無事に開いた。
相馬はどうにか海中から体を引き摺り出した。
潜水服も脱がず、ヘッドギアとゴーグル、中に被ったヘルメットも外さないまま、武器庫の床に転がる。マウスピースだけは何とか吐き出し、肩どころか全身で息をする。床で乾きかけた血の臭いが鼻をくすぐり、相馬は咳き込んだ。
大袈裟でなしに全身の力を振り絞っての作業となった。咳も止まり、満足気な吐息を漏らした瞬間…、
脇腹を激しく蹴り上げられた。
相馬の息は絞り上げられた。肋骨が折れた。2発、3発、呻いて身をくの字に折った相馬に、蹴りは容赦なく浴びせ続けられた。サッカーボールキックだ。
顔に硬いものが押しつけられた。目を開けた相馬は、頬に見慣れたガリル自動小銃の銃口が食い込んでいるのを知った。ロッカーに立て掛けておいた、自分の銃だった。
これも黒いサラトガスーツに身を包んだ黒髪の男が、相馬を見下ろしていた。
一瞬若林かとも思ったが、違った。両腕がちゃんと揃っていたし、若林がいきなり彼を蹴る理由もないだろう。霞みそうになる目を凝らし、そいつが超人兵士の1人フェルナンドだと確認する。同じ作戦に従事した覚えばないが、顔くらいは見知っていた。「お前か…」
似ているのは黒髪と彫りの深い顔だけ、その顔を若林が決して見せないであろう凶暴さで歪めたフェルナンドは、相馬を見下ろしていた。その背後に、HK・MP5サブマシンガンを抱えた作業員2名が控えていた。銃を持つ手つきも腰つきも安定しないその姿は、無理矢理連れてこられたことを物語っていた。
「よくもやってくれたな、この裏切り者」
「ああ、どうにか、上手く、行ったよ」相馬は疲れ果てた声を出した。へたばっていたとは言え、この連中が待ち受けていた気配に気づかなかった己を内心で罵る。「この基地は、もう、終わりだぜ。お前も、早く逃げた、方が…」
「どこへ逃げろってんだよ。え? 俺たちの帰る場所を、貴様らが奪おうとしてる最中だ」
「そんな、大袈裟な、話かよ」相馬は言った。「帰る、場所なんて、どこにでも、作れる」
「貴様はな」フェルナンドの声が震えた。「貴様は、俺たちの神を奪おうとした。俺たちに生きる指針を与えてくれた唯一絶対の存在を、俺たちから取り上げようとしてるんだ!」
こいつもか…、相馬はうんざりさせられた。〈四鬼〉もそうだったが、不死身の肉体を誇る筈の軍団の連中大半が、実は己の存在意義をブラックペガサスに依存しているだけだと、彼は気づいていた。「ブラックペガサスが、ぶっ壊れたくらいで、俺たちの人生、変わりゃしないって」
「黙れ!」
フェルナンドはガリルの銃口を離し、ベイツ社製ブーツの爪先を相馬の顔に叩き込んだ。鼻が折れ、唇が切れた。「貴様だ。貴様が奪ったんだ。貴様が俺たちの生きる拠り所を奪ったんだ!」
顔を血塗れにした相馬は頭を抱えた。まだ回復し切っていない頭蓋骨を庇いつつ、ロッカーに目を走らせ、マグナムを置きっ放しにしたことを後悔した。苦悶しながら床を逃げ、哀願する。「止めてくれ」
「情けない奴だ」息を荒らげたフェルナンドは相馬に唾を吐き掛けた。「銃を持たせりゃ軍団一だったそうだが、丸腰だとそんな程度か、貴様は」
フェルナンドがガリルの銃口を相馬の頭に向けた瞬間だった。
天井を揺るがす震動とともに、武器庫の照明が落ちた。第2原子炉が停止させられたのが、ちょうどこの時だった。
灯りの消えたことで、無理矢理連れてこられていた作業員2人がパニックを起こしかけた。フェルナンドが忌々しげに2人を叱咤した。
その隙を衝いて、相馬はサラトガスーツの左袖口から、ハイスタンダード・デリンジャーを転がり出させていた。
実は蹴られながら逃げ回る最中、ぼろぼろになった水中グラブは外していた。フェルナンドが視線を相馬に戻した瞬間、相馬はガリルの銃身を掴んでいた。ガリルが数発の5.56ミリ弾を吐き出したが、床のタイルを穿っただけに終わった。ハイスタンダード・デリンジャーが2回吠え、22マグナム弾がフェルナンドの右目に命中した。マグナム弾は眼球を貫き、間脳に達し下垂体と視床下部を破壊した。フェルナンドは絶叫を上げ、自動小銃を放り出した。
それを奪って瞬時に構え直した相馬は、フェルナンドの頭部を3点射で破壊、背後の作業員2人も1発ずつで撃ち殺した。
こいつらが中からハッチを閉鎖するなんて知恵を持っていなくてよかったぜ…、フェルナンドに1弾倉分の残弾を撃ち込み、止めを刺した相馬は思った。中から閂を掛けられていたら、ボンベの酸素がなくなった後、海中で悶えていなければならなかった。俺の力じゃここの外郭を壊せない。水中で厚さ50ミリの耐衝撃ガラスを割るのは、藤堂の拳か那智の刀でも簡単ではないだろう。
しかしいくら空手や柔道を習ったところで、咄嗟且つ肝心な場所で出やしねえ。所詮、俺の武術など付け焼刃、藤堂や那智のようには行かないもんだ…、ようやくM29カスタムの収まるホルスターに腕を通した相馬は、今度こそその場にへたり込んだ。ゴーグルを引き毟って目を閉じ、心置きなく溜息をつく。折られた肋骨に激痛が走った。回復はまだ始まっていなかった。海底での作業は相馬が超人になって以来、冗談抜きに最大の重労働だった。あまりの疲労に、回復速度が落ちているのだ。
肉体の酷使が超人兵士の肉体機能に影響を与える…、それは新発見だった。
武器庫に若林が現れたのは、それから10分後のことだった。
無事な右手にコルト・キングコブラを構え、入り口から武器庫を覗き込む。相馬がどうやら息をしているらしいと知り、油断なく周囲を窺いながら近づいた。
「ひどい顔してるぜ」
相馬は億劫そうに片目を開けた。「元からだ。放っとけ」
「凄い爆発だったな」若林は唇だけで微笑んだ。「吹っ飛ばされたんじゃないかと思ってた」
相馬は僅かに顔を上げ、死体の転がる彼方を見遣った。クレヴァスでの爆発の起こした衝撃波は、潜水艇の並ぶドックの分厚い壁を歪ませていた。潜水艇2隻が牽引ロープを千切って引っ繰り返っていた。一面が強化ガラスとなっている壁にも、1箇所亀裂が入っていた。
折れた鼻を引っ張って真っ直ぐに直し、相馬はポケットからペルメルのソフトパックを抜き取った。奔流に揉まれた挙句、何度もクレヴァスの岩に叩きつけられたせいで潜水服もグラブ同様傷だらけとなっており、浸入した海水で煙草は全滅していた。気づいた若林が2本のキャメルに火を点け、1本を相馬の傷だらけの指に挟ませた。
1服目で大きく咳き込んだ相馬だったが、2服目から味がわかり始めた。4口でフィルターまで灰にしてしまう。若林が控所から探してきた冷えたペリエで口を濯ぎ、1壜を飲み干し、やっとのことで上体を起こす。
その背を支えた若林が言った。「大丈夫か? 顔が真っ青だ」
「俺は元々、色白なんだよ」
「手伝えなくて済まなかった」
相馬はもう1本キャメルを受け取り、煙を深々と吸い込んだ。顔のあちこちを腫らせ、見た目にも蒼白な顔ながら、首を振って見せる。
「大したことはなかったぜ」
と、若林の左腕を見た相馬が、目を丸くした…。
「…いく、またいくよウリュー」ドロシーが顎をガクガクさせながら、譫言のように言った。「これ以上いったら、死んじゃう。死んじゃうよお」
仰向けで瓜生を受け容れるドロシーは、ひん剥いた目で彼を食い入るように見つめ、首に両腕を巻きつけてきた。
震動は中央ドームの上下から伝わってきた。
――止めろ! どこからそこに入った!
ブラックペガサスの人工音声が叫んだ。
――我の脱出を邪魔する積もりか!
ブラックペガサスの意外な程の狼狽と、それに伴う大音声とが、ドロシーの体を跳ねさせた。中が信じられない圧力で締まる。限界近かった瓜生には致命的な締めつけとなった。遂にドロシーの中に大量に注ぎ込む。奥にて瓜生の暴発を受け止めたドロシーも、同時にこれまで最大の絶頂を迎えた。白目を剥き、背中を反らせ、ビクビクビクッ、と痙攣する。注がれた後も彼女の内部は微妙な収縮を繰り返し、あまりの快感に瓜生の気も遠のきそうになる。
ドロシーが力の限り瓜生にしがみつき、唇を求めてきた。応えてやりながら、瓜生もドロシーを抱き返した。セックスというのは実に不思議だ。心身ともにいいセックスが出来たと実感し、しかも達するタイミングが絶妙に合ったりしようものなら、こんな女でもどういうわけか愛おしく思えてしまう。
これも愛ってヤツの、1つの形なのかもな…。
我に返ると、自分たちを照らし上げていたスポットライトが消えていた。ドームの天井から、錆やコンクリートの破片が降ってきていた。自分たちが通ってきた換気口が炎を噴き出した。煙混じりの熱風が動けない2人の体を撫でた。半分気を失ってしまったドロシーは、その熱風にも反応できない。
未だ快感の余韻残る瓜生も、火傷しそうな熱風に尻を撫でられながら動けなかった。
そして、思った。成功しやがった。相馬も、クルーガーも…。
――止めろ! そこで何をしている!
ブラックペガサスの声に瓜生は顔を上げた。すぐに気づく。こいつ、俺たちに喋ってるんじゃねえな。
やっぱりそうだ。こいつ、俺たちのセックスにかなりの監視網をつぎ込んだんだ。結果、どこかの監視に穴が空いた。
俺の陽動はドンピシャ、成功したのだ。
苦労した甲斐があった…。
――どうやってそこまで接近した! そこを弄るな! 許さんぞ!
人工音声は悲鳴に近いニュアンスを示し始めた。
――止めろ! お前は自分のやろうとしていることがわかっているのか! 我は完全無欠の生命体なのだ。これまで存在しなかった、誰も生み出し得なかった、全く新しい生命なのだ! 我を停止させることは、世界の、宇宙の損失なのだ! クルト・ゲーデルの成し得なかった完全方程式を、全宇宙の定理を解明できる完全方程式を創造できるのは、我しかいないのだ!
片方の3本眉を吊り上げた瓜生はようやくドロシーから抜いた。瞬間、放屁のような音とともに、ドロシーの亀裂から精液がドロリと溢れ出た。最後の痙攣とともに、敷いたサラトガスーツを大量のお漏らしでびしょ濡れにする。ブラックペガサスを見上げながら、瓜生はまだ身体のあちこちのヒクつくドロシーの頭と肩とをしばしの間、無意識の裡に優しく撫でていた。大抵の男は射精の後、このいたわりが出来ない。瓜生にこれが出来るのは優しさからではない。数千数百の女たちとのカラダの逢瀬による経験値の賜物だ。だから瓜生は女たちから愛される。それもベッドを共にする前から、女たちにはそれがわかるのだ。
ドロシーを撫でながら瓜生は思っていた。
何て必死な声を上げやがるんだ、こいつともあろうものが。
――世界の新秩序を打ち立てられるのは我だけだぞ! 淘汰しなければ、種として弱くなり続ける人間は、やがて滅びの道を辿るだけだ! 人類を進化させ、新たな世界に向かわせるのに、我の力こそが必要なのだ!
怖がって、いるのか? これって、もしかして、こいつの命乞いなのか?
ドロシーから離れ、立ち上がった瓜生は、奇妙な感慨に囚われた。
高尚を気取り、人間を侮蔑し、感情を軽んじ、自分こそが人間を超えた存在だなどと嘯いていた間は、ただ思っていた。
機械風情が何を言ってやがる、と。
その機会風情の中に、初めて感じた。人間らしさを。こいつ、やっぱり、人間になりたかったんだ。
そのためにこいつに必要だったのは、機能を停止させられることへの畏れ、つまり“死”への恐怖を抱くことだった。
残念ながら、お前に飛翔する未来はなかったよ。
可哀想にな…、そう思った瓜生は自分でも驚いた。
金持ちどもの目論む戦争ごっこの敵役として生み出され、傲慢に振る舞いながらも、実は限りなく人間に憧れていたんだな、お前は。そして必死に悪戦苦闘していたんだ。そんなお前を、人間どもが寄ってたかって、殺そうとしている。お前が積み重ねてきたものを、謂わば努力を、水泡に帰そうとしている。
相馬や藤堂が言っていた、抑止力という話を思い出した。そうだな、お前は変な方向に向かう人間たちの抑止力にもなれた。真っ当に育てられてさえいれば、お前は人類を正しい方向に導けた可能性だってあった。
だが、人間の身勝手は、お前の進化を許さなかった…。
――お前たちは自分たちの未来を摘み取ることになるのだぞ!
ああ、多分その通りだと思うぜ。
相馬が言ってた。ブラックペガサスがいなくなっちまったら、科学技術は暴走とも言える進歩を始め、俺たちでも手も足も出なくなる超兵器がいずれは出現するかも知れない、みたいなことを。わかっている。これは俺の単なる予感に過ぎないが、ずっと思ってきた。
この世はこれからもっと悪くなって行くだろう、と。
俺たちは、それを阻止するチャンスの1つを、自ら摘んじまうわけだ…。
ようやく落ち着いたドロシーが目を覚ました。もっとも、まだ立ち上がるのは無理のようだ。開いた脚を閉じることも出来ない。焦点の合っていない目で、きょろきょろと瓜生を探す。
「目覚めたかい?」瓜生は振り返らずに言った。「カメラを拾えよ。ブラックペガサスの最期が撮れるぜ」
ブラックペガサスはまだ叫んでいた。
…天井の人工シナプス群が最後の光を消した。
複雑な配電盤が並ぶ壁は真っ暗だった。侵入者を狙い撃つレーザーのアームも動きを止めていた。コントロールパネルを操作する人工触手は、キーボードを叩き続けているところを剣吾が黙らせた。点るのは数個のマグライトと、海兵隊員たちの構えるM16のレーザーポインターの発する赤い光、僅かに床に残るシナプスの瞬きだけだ。
しかし剣吾の目には、薄暗がり程度にしか感じられなかった。
恐らく今のブラックペガサスには、剣吾の姿も見えていない筈だ。それでも剣吾たちの動きなり何なりを察知し得たのは、発達を続けるうちに手に入れた何らかの賜物なのだろう。
もっとも剣吾には、それに関して何の感慨もなかった。ブラックペガサスの声も聞き流し、ランスキーたちに、マグライトを消して背後に下がるよう言った。最も奥まった区画にある、最も大きなパネルの前まで進み、抜身の刀を両手で持った。腰を落とし、刀身を肩に担ぐように抱え、左足を半歩、前に出す。柳生流入身八相の型。
さっき、人間を進化させたとか言っていたな。
僕を進化させたのはお前じゃない。
そもそも僕は進化などしちゃいない。
化物にされただけだ。
その、化物だった僕を、人間に戻してくれたのは…、
前に出した左足が、ついともう一歩踏み込まれ、腰がより低く落ちたかと思われた瞬間、刀が右上から左下に流れた。
パネル、その奥の配電システム、そして最奥の太いケーブルが、まとめて切れた。
同時にどこかで、ガクン、という、何かが落ちる音が響いた。
ブシューン…。
剣吾たちの頭上にそびえている筈のブラックペガサス本体が、溜息にも似た熱風を換気口から吐き出した。背後に点っていた非常灯さえ消え、全ての換気扇が止まった。足元を僅かに走り回っていた人工シナプスの光点も、今度こそ全部消え去った。
3度の火花とともに、完全に沈黙したパネルを見つめるランスキーが、肺の底から絞り出すような吐息を漏らした。横にいた海兵隊員が壁にもたれて胸の前で十字を切り、後ろでグリーンベレー兵士がその場にへたり込む。今回は誰も快哉を叫ばなかった。打ち合わされる拳もなかった。使い果たしてしまったのだ。
剣吾だけが背筋を伸ばし、作務衣の袖口で刀身を拭った。ゆっくりと鞘に納める。
終わったよ、マリア。
君との約束を守れそうだ。
鍔が静かに鳴った。
(13)
…瓜生、相馬、若林、ドロシー、海兵隊員4人、グリーンベレー2人、そして剣吾は、クルーガーの案内で、西側第7ゲートに向かった。
途中でSEALSの生き残り4人と出会う。最後の最後まで諦めず、第1に続き第2原子炉まで停止させた面々だ。4人はこちら以上にぼろぼろだった。仲間に支えられる1人は腿から片足を失っていた。そして、出世するだろうと瓜生、相馬に言わせた隊長マッケンジーは戦死していた。旧知の仲らしい海兵隊隊長スミスが形見の認識票を受け取り、しばしの間黙祷した。流石に瓜生も軽口を叩かなかった。
16名は、照明が完全に消え去った通廊を急いだ。怪我人スミスや足を失ったSEALS隊員は無事な面々が交替で支えながら走る。
グリーンベレー隊長ホフマンだけが、ワイヤーで後ろ手に縛られていた。首にも同じワイヤーが巻き付いている。1本で150キロを引っ張れるタングステン製の繊維を20本縒り合わせて作ったワイヤーだ。両手の利かないホフマンは走りにくいことこの上ないのだが、転んだら首が切れるぞと脅されているため、必死についてくるしかない。
「何とか間に合いそうかな」ドロシーを引っ張りながら走る瓜生が、手首のGショックを見遣った。「4時まではまだ40分あらあ」
その左手には銀色の平らな金属ケースが握られている。耐衝撃製のアルミケースの中には、4本の小型注射器が収まっている。ホフマンの隠し持っていた代物だ。
ウレタンのクッションに固定された4本の注射器には、GB――神経ガスを液化した緑色の液体が詰まっていた。
国防省の人間から預かった品だと、瓜生の尋問にホフマンは白状した。作戦終了後、隙を見て4人にこの注射を打てという命令だったとも。超人兵士と言えど、濃縮された神経ガスを体内に注入されればひとたまりもあるまい。ガスを食らった若林と剣吾の瀕死の姿は、瓜生たちの記憶にも新しかった。その場でくたばらなくとも、そこを襲われれば防ぎようがなかっただろう。
作戦終了に気を抜いていた瓜生たちは、ホフマンの動きに気がつかなかった。
阻止したのは剣吾だった。
若林の背後に忍び寄ろうとした彼の首筋を、刀の鞘が強打した。あっさり昏倒したホフマンを、瓜生が締め上げた。自分が昔に食らったと言う、ワイヤー1本で指を十字に縛り上げる拷問だ。猿轡を噛まされたホフマンはいとも簡単に折れた。彼の心は、この島で徹底的な敗北を味わった時から半ば萎えていたのであろう。
ケースをホフマンに渡したのは、国防省のタイラー何某だとも聞き出した。それが筆頭補佐官の副官、あの威張りくさったアレン准将でなかったことには、相馬が大いに残念がった。ついでに艦隊に出されている極秘指令とやらも白状させた。何でもホフマン以外には、艦隊司令官ブロデリックしか知らないのだと言う。
そこで使われる予定の兵器の存在を知った時には、瓜生よりスミスたちの方が激怒した。彼らにしてみれば祖国から裏切られた気分だったろう。帰還した後、軍人を続けていけるかどうかさえ考えさせられる裏切りなのは間違いなかった。
ホフマンを直ちに射殺しようとした相馬を、瓜生が止めた。
「ホントにお前は血を見ることしか考えてねえな。アタマを使えよ。こいつに証言させりゃ、報酬の吊り上げも可能なんだぜ」
へし折られた手指3本を紫色に腫らし、手首を背中で縛られ、追い立てられるように走るホフマンの、首に巻かれたワイヤーを引っ掛けるのは、若林の左手首だった。
そう、失った筈の左手だ。
黒い金属の地肌を剥き出しにしたその手は、クルーガー製作の義手だ。ヨハンソンから頼まれていた義手を、実は彼は2種類造っていた。そしてヨハンソンには、出来の悪い方を渡していたのだ。
その若林が、すぐ背後を小走りに走るクルーガーに言った。「義手の接目がチクチクする」
「生体化学素子が、神経の、1本1本を、繋ぎ直している、最中だからだ」クルーガーは息を切らしながら言った。彼は開発実験室からヤングの目を盗み、生体化学素子ユニットを1つ盗み出していたのだ。「じき慣れる。そうすれば、指だろうが、何だろうが、お前の思うままに、動かせる」
「俺の手にしちゃ小さいし、指も手首も少し細い」
「相馬の、サイズに、造ったものだからな。文句を言うな。体つきの、割に、手のデカい、お前が悪い」
「ひどい言い草だなあ」
「性能は、保証するぞ。儂の、造ったものの、中でも、最高傑作の、1つだ」
「その言葉は信用するよ」
…西側第7ゲートは本来、軍団の主要メンバーがこの島を脱出するための出口だった。幹部クラスしか入れないドックに、イタリア製バルチノ・クルーザーを改造・大型化した高速艇3隻が繋留されている筈だった。
管制員2名の死体が転がり、高速艇の1隻が消えていた。
「デルタの連中の仕業だろうな」
そう言った相馬を瓜生が見た。「お前、あいつらが何しにここに来たのか、知ってたのか」
「知ってたわけじゃない。あとで教えてやる。それより今は俺に近づくな、この変態」
「ヘンタイたあ、何だよ」瓜生は隣に立つドロシーの肩を抱き寄せようとした。「俺たちは誰憚ることなく愛し合っただけで…」
ドロシーは瓜生の手を、これ以上はないという嫌悪を込めてはたいた。ぶつぶつと独り言を呟きながら、海兵隊員たちに続き、バルチノ・クルーザーにぎくしゃくと乗り込む。裂かれた白衣の前を押さえる両手には、しっかりとビデオカメラを握り締めていた。目は完全に据わっていた。今や握り締めるビデオカメラだけが、彼女の精神の均衡を保つ唯一の御守となってしまったのであろう。
唇をへの字に曲げた瓜生の背後で、相馬が追い打ちを掛けた。「見ろ。お前の変態ぶりに愛想を尽かしちまったんだ。だからこっちに来るな変態。自分の臭さに気づいてないな?」
ひっでえ言い草だなあ、と言いながら、瓜生は自分の衣服を嗅いだ。確かにサラトガスーツからは、ドロシーのお漏らしの臭いが立ち上っていた。
「わかっただろう。ひどいのはお前の臭いだ」
軽口を浴びせつつも、相馬の思いは帰還した後に向いていた。ここに来るのは正直迷ってはいた。だが身を削る思いで帰ってきた甲斐はあった。何しろ300億ドルだ。しかし問題はこれからだ。
ホフマンの行動1つ見ても、合衆国が俺たちをタダで金持ちにする気はないのは明らかだ。監視衛星が復活する前にカネを回収しなければならない。それ以前に今から合流する艦隊が、俺たちをファランクスで撃ちまくる可能性だって大いにある。持ち弾も少なくなった今、もう1戦やらなくちゃならんとなると途轍もなく気が重い。
それに味方内にも心配の種はある。瓜生の馬鹿は間違いなく俺たちを出し抜き、報酬の独り占めを図るだろう。こいつの一挙一動には細心の注意を払わなくちゃな。瓜生が本当に裏切った際には、相馬は何の躊躇もなくマグナムの餌食にする積もりだった。
若林の方は大丈夫だとは思うが、額も額だ。いつ心変わりを起こさないとも限らない。取り敢えず用心だけはしておこう…。
…ドックの出口は開きっ放しだった。
疲れた身体を引きずるだけで精一杯だった特殊部隊の生き残りたちは、最後の力を振り絞って、手分けして高速艇1隻の出港準備を整えた。
剣吾がドックのフロアのテーブルに掛けてあったクロスを引っ剥がし、ふわりと羽織った。風に筋肉を冷やされると動きが鈍る気がして、パリから始めた習慣だが、今やすっかり癖になってしまった。
「さあ、早いとここんなけったくそ悪い島からおサラバしようぜ」
バルチノ・クルーザーはイタリア軍特殊部隊コムスビンや海兵サンマルコ部隊の使用する高速艇だ。最高速度はLCACの出す40ノットとほぼ等しい。しかしブラックペガサス軍団に改造されたこの艇は、水上ジェットエンジンの取り付けにより、時速65ノットまで叩き出せるようにしてあった。全長と全幅も元のものよりサイズアップされている。
全長15メートルの高速艇は、西に傾いた太陽が空と海とを燃えるような色に染め上げ始めた中、ドックから滑るように飛び出した。
出港と同時に、船の真ん中近くに置かれた長椅子にクルーガーがへたり込んだ。多少の運動はしていたとは言え、55歳の喫煙者にはきついランニングだったのだ。
特殊部隊の生き残りたちも、防弾樹脂で出来た船体の隅々にて、各自がそれぞれ楽な姿勢を取る。ドロシーはカメラを握り締め、艇の中央近くに座り込んだ。目を見開き、歯を食いしばり、ともすれば中空を彷徨い遠ざかろうとする己の正気を繋ぎ留めるのに必死という表情だった。へたばっていたクルーガーがぎょっとした顔を上げる程だった。
瓜生も流石に疲れたのだろう。相馬が持ってきたエヴィアンのボトルを受け取り、船首の近くに腰を下ろした。口笛を吹こうとして、顔を顰める。何が自分の音楽だ…、と呟き、大きく鼻を鳴らす。
珍しくその顔には笑みがなく、3本眉が作る沈鬱が眼差しに影を落としていた。
高速艇の後部にある簡単な操縦席には若林が座った。兵士たちはもう動くのも辛そうだったし、彼にはこの艇の操縦経験もあった。未だ使えるのは右手だけだが、慣れた手つきで高速艇を操り、島から遠ざけていく。
「やっと出られたわい」エヴィアンのボトルを手に、クルーガーが操縦席にやってきた。副操縦席に深々と腰掛ける。実はドロシーの近くから逃げてきたのだ。
テーブルクロスをマント代わりに肩から羽織り、それを風にはためかせた剣吾が、若林の横に立った。
「心配させたな」
なにか言おうとしては言葉を飲み込む剣吾に、若林は顔を前方に向けたまま、頷きだけを返した。「俺はもう大丈夫だ」
「いいのか? このまま行って」
「いいも何も、もう戻ってきやしないしな」
本当に、そう思ってるのか…? 剣吾はその言葉をやはり口には出せなかった。
左手首のGショックを見ながら、エヴィアンのボトルを提げ、相馬が操縦席に近づいてきた。けたたましいジェットエンジンの音に顔を顰めつつ、大声を出す。「4時になった」
「変化はないな」若林もこれまた大声で応じた。船首近くに座る瓜生の、少しばかり手前に縛られたまま転がされたホフマンを見る。「奴の話、ガセかな」
そのホフマンが僅かに顔を上げていた。舷側にいる最後の部下に向かって、頷いたように見えた気がした。
「或いは艦隊司令官とやらが、命令を躊躇しているとか、な」
と言った相馬が若林の胸ポケットから、キャメル1本とジッポーとを勝手に拝借していった。タバコに火を点け、夕陽の眩しさに目を細めながら島を眺める。「ま、どっちでもいいが、ちゃんとしたメシが食いたいぜ」
と言う相馬は出港準備の最中、ドックの冷蔵庫から頂戴したハムやソーセージを密かに平らげていた。ようやく身体にエネルギーが行き渡り、頭蓋骨の回復も再開された。
「そうだな。俺もだ」
相馬はジッポーを若林のポケットに返し、「南米くんだりまで来て、アサドも食えねえとはなあ」
「ここに来る輸送機の中で、俺も剣吾に同じことを言ったんだ」
「ああ、肉食いてえ」
それと、同じ肉でも、女も食いたい。股間が突っ張って、サラトガスーツの中が窮屈だ。生命の危機を伴った仕事の後は、必ずこうなる。合衆国に戻ったら、あのコリンにでも連絡を入れてみようか。彼女の腋臭の匂いを思い出し、ますます股間が熱くなる。
しかし今は、若林の前でそれを言うのは憚られた。
そんな思いに気づかず笑い出した若林の横から、相馬がふと操縦席のスピードメーターを覗き込んだ。「45ノット? 遅くねえか?」
「そうなんだ。こいつ、今日は妙に調子が出なくて」
「だよな。前に乗った時は、立ってなんかいられなかったぜ」
エンジンの不調か、それとも何か引っ掛かっているのか、咥え煙草のまま高速艇の最後尾にまで歩き、海を見下ろした相馬ぐうっと息を詰まらせた。その声に思わず振り返った若林とクルーガー、そして剣吾は愕然とした。
相馬の背中から何かが生えていた。
正しくは腹に突き刺さった何かが背中にまで抜けているのだ。金属製の脚だ。しかも鋭利な刃物並だったその先端が斬り落とされていた。斬り落とした当人、剣吾が茫然と呟いた。「ヨハンソン…」
若林がぎょっとした顔で剣吾を見た。
防弾樹脂製の船縁を掴み、機械製の蜘蛛が、その巨大な体躯を海中から持ち上げた。
全身に水垢をこびりつかせ、夕陽と、燃えるような色の海を背にしたその姿は、地獄の炎を従えた悪鬼そのものだった。海面から持ち上がった人間の――ヨハンソンの顔が、それに相応しい笑みを浮かべていた。
剣吾に地下の排水路に追い落とされたヨハンソンだったが、流れ着いた海中で逆襲の機会を狙っていたのだろう。剣吾たちが脱出するとすれば第7ゲートしかないと踏んで、待ち伏せていたのだ。恐ろしいばかりの執念ではあった。
2トンを搭載できるバルチノ改造型高速艇だったが、後尾に懸かったヨハンソンの重量に船首が持ち上がりそうになる。立ち上がろうとしたクルーガーが副操縦席に叩きつけられた。前方にいる特殊部隊の生き残りたちはあまりのことに反応さえ出来ない。瓜生ですら、だ。
思わず操縦桿から手を離し、ホルスターのキングコブラ銃把を掴んだ若林の耳元で、剣吾の声がした。
「あんたは操縦に専念してくれ。僕がやる」
返事をする間もなかった。若林は瞠目した。振り向いた時には剣吾は既にヨハンソンの前にいた。何という動き、そして速さだろう。速さを見越して、彼の進む方角に先に目を向けた積もりだったにも関わらず、剣吾はその遥か以前に辿り着いてしまっていた。パリでコルサコフを倒した剣吾の速さに若林たちは驚愕したものだったが、今の剣吾の動きはその比ではなかった。この突入の数時間だけで、剣吾は信じ難い程の進化を遂げていた。数値上の性能だけなら優れる筈の若林たちを、遙か後方に置き去りにしかねない進化を。
こいつはマリアとの約束を守る、ただそれだけのために、ここまで自分を高めたのだ。マリアを守りたいという意志だけが、こいつをここまで鍛え上げたのだ。若林は思わず胸が熱くなるのを感じた。
俺は、モニカを、守れなかった…。
「てめえ、ヨハンソン! 何だその姿は! 死神ヤングの遺産か!」
「知らんのか? これが生物としての最も機能的な姿だ!」
「悪趣味なだけだ! 今のてめえじゃ、ユンも寄ってこねえぞ!」
高速艇最後尾の甲板に膝をついた相馬が、腹に突き刺さった蜘蛛の脚を両手に掴み、怒鳴った。船縁から高速艇に乗り込んでこようとしているヨハンソンの顔が笑っていた。両手の塞がる相馬に向け、もう1本の蜘蛛の脚を振り下ろす。
それを剣吾の刀が受け、払っていた。
続く一振りで、相馬の腹を縫い付ける1本を切断する。その姿を認めたヨハンソンが歓喜の叫びを上げた。
勝負は一撃でついていた。
刀が蜘蛛の、複雑なシステムの集中する8本の脚の付け根を刺し貫いた。蜘蛛の脚が痙攣とともにビン、と突っ張り、動きを止めた。その時既に、ヨハンソンの生身の顔は、額から顎までを斬り割られていた。額から1筋の血を滴らせたヨハンソンの顔に、相馬や若林が見たこともない、穏やかな笑みが浮かんだ。
テーブルクロスのマントがはためく中、機械製の蜘蛛は派手な水柱を立てて水中に没した。呻き声を上げて甲板に転がる相馬に、クルーガーが駆け寄った。同じく駆け寄ろうとした若林に向かって、剣吾が振り返らず、大声で言った。
「急ぐんだ!」
その顔は上空を見上げていた。ほとんど真っ赤に染まる上空の彼方を、薄い筋を曳きながら1発のミサイルが飛んでいるのが見えた。筋の先には、〈賢者の城〉があった。
若林は操縦桿を握り締め、スロットルを全開にした。まだ自由にならない義手も、今ばかりはさすがに言うことを聞いた。高速艇のスピードは一気に上がった。海面を割るかのような水飛沫を上げて突っ走る。
空での乱気流に匹敵する揺れに、特殊部隊生き残りたちの悲鳴が上がった。海の上に慣れているSEALS隊員たちでさえ、身動きが取れなかった。唯一立ち上がっていたグリーンベレー兵士、ホフマンの最後の部下が大きくよろめいた。その手から、銀色に光る注射器がすっ飛んでいった。
中空を見上げたままのドロシーを庇うように前に出ていた瓜生がモーゼル・ミリタリーを抜き、その額を撃ちぬいた。乾いた銃声とともに、空薬莢が舞う。グリーンベレー47人目の兵士は、注射器に続いて海に消えた。
甲板に転がるホフマンが、がっくりと首を垂れた。
傑出したバランス感覚の持ち主瓜生も、揺れの激しさに船縁にしがみついた。自棄糞気味に怒鳴る。
「スピードを上げる時は一声掛けろよな! 俺はカナヅチなんだ!」
若林の右背後で、ヨハンソンの脚をまだ抜けないでいる相馬が咳き込みながら笑い出した。「お前、それでも元船乗りかよ!」
高速艇は真っ直ぐに、合流海域へ向かっていく…。
…夢ってのはな、最後には醒めるものなんだ。
だが、醒めたとしても、俺はここで死んじまうんだから、大した痛手は感じない。夢を砕いたサムライに、最後の一撃も食らわせることが出来なかった。しかしそれも仕方なかろう。あいつは俺より強かった。それだけだ。
問題はお前たちだぜ。
お前たち、だけに、なっちまうんだぜ。
この先、お前たちは追われ続けることになるだろう。
お前たちは怪物だ。
その怪物を、お前たちとして受け容れてくれる者はいない。場所もない。お前たちの唯一帰れる場所を、お前たちは自らの手でぶっ壊したんだからな。
この先、お前たちは最早、人としては生きていけない。人と混じって生きていくことなど出来はしないのだ。
考えてみれば、俺はただのヒトである頃から異端児だった。お前たちだってそうじゃないのかい。だから俺たちは、超人に選ばれたんだと思ってる。
ヒトじゃないものに人は冷たい。この先お前たちがどのような夢を抱こうが、それがどんなささやかなものであろうが、絶対に叶わない。全ての普通の人間どもが、お前たちの夢を潰し、お前たちを徹底的に狩り立てることだろう。軍団が失くなった今、お前たちを、お前たちの夢を受け容れてくれる場所は永遠に失われた。
可哀想に、な。
カワイ、ソウ、ニ…。
…ミサイルフリゲート艦ブーンから発射された、200キロトンのW80核弾頭を装備したトマホーク109Aミサイルは、すさまじい閃光とともにチリ沖、太平洋上の名も無き島をこの世から消し去った。
沈む夕陽より赤く、そして眩しい光球が海の上に膨れ上がった。爆風は周囲数十キロの海面を荒れ狂わせ、引き起こされた津波は沿岸の定置網に大損害を与えた。直後、この海域はチリ政府と合衆国軍によって厳重に封鎖された。ペルーとチリはこの先しばらく、漁獲高の激減に見舞われることとなる。漁業が国の大きな柱であるこの2国の赤字国債は、その後合衆国が大量に買い付けた。もちろんマスコミはその裏側の片鱗さえ、世界に伝えることはなかった。
…光球が太平洋上に巨大なキノコ雲を作っていた頃、合衆国某所に設けられたオフィスにて、ジェームス・カサンドラがロンドンの〈R〉と直通電話で話していた。
自分が用がある時はいつだろうと勝手に電話してくるくせに、こちらが架けた際には勿体ぶって散々待たせる――今回もそうだった――〈R〉の態度は実に横柄だった。
――終わったのか?
「はい。無事に」
――あれだけの大掛かりな作戦を組んだんだ。成功して当然だろう。
「そうですね」
――全く、大損害を被ったぞ。それも世間に公表できない損害だ。
カサンドラは冷笑を浮かべた。何が損害だ。連中はこの先、必ず自分たちの傘下が被った害を、何らかの形で合衆国やその他の国々に押しつけるだろう。合衆国などは既に、自国の海軍まで動員させられた挙句、金と手間をかけて育てた特殊部隊兵士たちを相当数失う羽目になった。
憂き目を見るのは何も知らされず、それを税金で補填させられる各国の国民だ。
しかも連中は、ブラックペガサス随一の超人兵士のデータを手に入れた。それもこちらには内密にした積もりで。何年か後には国連に師のセールスマンを配置し直し、超人兵士を商品として完成させた暁には、各国に執拗な売り込みを始めることだろう。結局この連中は、自分の出したどんな損害をも他人に贖わせるし、それに何の痛痒も感じないのだ。
冷笑をおくびにも出さず、カサンドラは言った。
「しかしこれで目の上の瘤も取り除けました。最早この先、我々の邪魔をするものはいませんよ」
――だが、世界の新たな敵を創造するという計画も、最初からやり直さなくてはならなくなった。次は突発的事故とやらが起こらない方法を立案しろ。さもないと…、
「わかっています。お任せ下さい」カサンドラは明るい声で言った。「次の計画は既に始まっているのです。順調に進行中ですよ」
…まさに同じ時刻、ニューヨークでは。
太平洋上で起こっていることなど知る筈もない男が、うとうとしていた自宅デスクの椅子でビクン、と身体を痙攣させた。
キッチンから顔を覗かせた女が、エプロンで掌を拭いながら、いたわるように声を掛けた。「ネイサン、窓くらい閉めたら? 風邪引くわよ。それにもう暗くなるわ」
「ん、ああ…」
シークレットサービス特務員、ネイサン・オーツは半分寝惚けたような顔で口の端の涎を拭い、のろのろと立ち上がった。
1年前の彼とはすっかり別人になってしまっていた。気にしていただけの頭髪は今やすっかり禿げ上がり、残った髪も真っ白になってしまった。スマートだったウェストにも肉がつき、鈍重な歩みをますます目立たせる。
脊柱筋を貫いた銃弾は、オーツの右足の自由を奪った。以来、彼はデスクワークに縛られざるを得なくなった。シークレットサービスの花形たる大統領警備になど当たれる筈もなかった。何よりもあの現場――国連本部ビルで遭遇した、人間を超えた男たちの記憶が、未だオーツから安らかな眠りを奪い続けていた。射撃訓練場にいる時でさえ、見えない影に怯える彼に、担当局長は暗に退職を勧めてもいた。
仕方ない話か…、最近オーツもそう思い始めていた。財務省職員とは言え、現場に出られないシークレットサービス特務員など一生うだつは上がらない。このままこの職場でくすぶっていてはいけない、まだ幼い息子のためにも。
しかし、見えない悪夢に追い掛けられ続ける今の自分に、一体何が出来るというのか。
そんな不安を抱えたまま、出そう出そうとしていつも辞表を提出できず、この1年半余りを過ごしてきたオーツだった。
ところが…、
窓とカーテンとを閉める前に、バルコニーから入ってきた肌寒い夜風を浴びた瞬間、何とも言えぬ気分がオーツを満たした。
気分が一瞬で軽くなった。爽快、では言い表せない何かだった。もちろん原因など知り得よう筈がなかったけれども。ただわかるのは、窓の外の暗がりにも怯えかねなかった自分がいなくなったということだけであった。
痛いじゃねえか、ええ?
目の前でそう言っては、浅い眠りから彼を幾度も叩き起こした悪夢を、恐らく2度と見ないで済むだろうという安堵だった。
「どうしたのあなた?」
「何でもないよ」オーツは後ろに立った妻に言った。妻の顔がほっと和むのがわかった。言葉にしなくとも、夫の変化は彼女にも伝わったのであろう。
「それよりキャサリン、前に君が言ってた、伯父さんの…」
「警備会社顧問の件? 考えてくれたの?」
ああ、オーツは晴れ晴れとした顔で頷いた。「どうしたわけかな。やっと何か出来そうな気分になってきたんだ」
オーツは隣に並んだ妻の肩を抱き、バルコニーの彼方に広がり始めた市の中心街の夜景を見つめた。明日は妻と息子を連れて、退役軍人のパレードでも見物に行こうか…。
超人旋風記 (5) その3
長くなりましたが、まだまだ続きます。