ナルキッソス

2013年度秋部誌に掲載したものです。

 僕の妹は、生まれつきナルシシストの気質があった。妹は僕より十歳下で、名前を愛那(あいな)という。美しい顔立ちの父に似て生まれた愛那は、小さいころからとても愛らしい容姿で、両親(特に母)に大層可愛がられた。もちろん、僕だってすごく可愛がった。愛那の希望は大抵叶えられたし、欲しいものもなんでも手に入れた。僕の家庭は愛那中心に廻っていたと言っていいだろう。まるでお姫様のように、蝶よ花よと育てられた。母は愛那を可愛く、お姫様のように育てるのに努力は惜しまなかった。常に、ワンピースかスカート。愛那がズボンをはいているところはみたことがない。母は髪を毎日丁寧にケアしてやり、言葉遣い、礼儀作法から芸術まで、様々なことを教え込み、完璧な姫に育てていった。そんな育て方をされた愛那は、小学校に上がるころには上品で気位の高い、浮世離れした少女になっていた。母は入学式の後、満足げに、そして自慢げに僕に話した。
 「久斗(ひさと)(僕の名前だ)。貴方の妹は世界一よ。見た?入学式の女の子たち。下品で気品の欠片もない。美しさなんて、愛那の足元にも及ばない。及ぶはずもない。あの子たちと愛那は根本から決定的に違うのよ」
 母は特別美しいわけではなかった。だから、美しい愛那に執着したのかもしれない。母は愛那に決して安っぽいものは与えなかった。テレビも映画以外はほとんど観ない。
 愛那は、歳を重ねるごとに美しくなっていった。白い肌、黒く艶やかなロングの髪、卵型の小さな顔と、少し釣り目の大きな瞳。ほっそりとはしているが、きちんと女性らしい体つきだ。きっと、魔法の鏡が存在したなら、世界一美しいのは間違いなく愛那だと言うだろう。家族の贔屓目などではない。誰から見ても愛那は美しかった。
 愛那は男の子には人気があったが、女の子の友達は結局一人もできなかった。少女たちは愛那の美貌に、気品に嫉妬し、常に敵視していた。しかし、直接危害を加えられたことはなかったらしい。愛那には、手を出せない、汚してはいけないという不思議な雰囲気があった。愛那に怖いものはなかった。友人も、さして欲しいわけでもなかったらしく、それに、家族仲は良かった。
 愛那は、鏡や写真など自分が写るものが異常なほど好きだった。愛那の美しさは写真にしてもよく映えた。母も愛那の写真を撮ることを好んだため、僕の家には愛那の写真が収められた写真が大量にある。 
 僕は普段から愛那の部屋には入らない。いや、僕だけでなく母も父も愛那の部屋には滅多に入らない。家具などは母か父に頼んで買っているらしいが、僕がそんなもの知っているはずもない。だから、僕があの日、愛那の部屋に入ったのはほんとに久々で、おそらく五年ぶりくらいだった。愛那はもう十五歳で、そのせいもあったのかもしれない。僕は、愛那に頼まれて、新しく買ったらしい大きななにかを運び込むことになったのだ。それは、横に長い長方形をしていて、大きい割に厚さはあまりなく、割れ物であることからして、おそらく鏡だろうと推測できた。
 愛那の部屋に入ったとき、久々とはいえかなり驚いた。豪華なロココ調のベッドや三面鏡台、大量のぬいぐるみや洋服は想定内、なにも驚きはしない。僕が驚いたのは鏡の量だ。大小様々で、手鏡やコンパクトミラーなども含めると軽く百は超えているように思える。僕は、僕が運んできたものは鏡だと確信した。そして、それはやはり鏡で、かなり大きく、他のものと比べ物にならないほど大きい。
 「驚いたでしょう、兄さん?」
 部屋の女主は、ソファに長い足を放り出し、分厚い本を開いて優雅に寝そべっていた。お気に入りの真っ黒なワンピースから出た白い足をピンク色のふんわりとしたソファに投げ出されている。美しい黒髪を三つ編みにして、襟首までぴっちりとボタンをしめた姿は、優等生然とした清楚さのなかにも、妙な色気を放っている。こんな十五歳がほかにいるだろうか?
 僕が唖然としているのを見て、愛那はいたずらっぽく微笑んだ。
 「ああ。驚いたよ」
 僕は正直に答えた。
 「なぜこんなに鏡を?」
 「これだけあれば、いついかなるときでも、どんな位置でも私を見られるでしょ?」
 なるほど、愛那らしい考えだった。愛那のナルシシストは徹底している。愛那は誰よりも己を愛している。そう、誰よりもだ。
 「鏡はね、今の一番美しい私を見せてくれるの。写真も嫌いじゃないわ。でもね、写真は過去の私なのよ。私は毎日毎秒、そう、この瞬間も美しくなり続けているのよ。過去の私は今の私に勝てない。今この瞬間、生まれて死んでいく私こそが最も美しいの」
 愛那は手近のかけ鏡の中の自分を、さも愛おしそうにゆっくり撫でた。
 「その大きな鏡はね、天井に取り付けたいの。そのベッドの真上よ。これで私は眠りにつくときも目覚めたときも私をみていられる」
 「僕が取り付ければいいのかな?」
 「できるなら、お願いしたいわ」
 あの鏡を取り付けるのはなかなか大変な作業だった。まず、ベッドをどけなければいけないし、なにより大きすぎる。一人ではかなり難しい作業だったが、今は父も母もいないし、愛那の手を借りるわけにもいかない。僕一人でするしかなかった。僕は、何度も鏡を落としそうになって、愛那に怒られながら二十分掛かりでやっと取り付けた。
 「ありがとう」
 取り付けが終わると愛那は僕を部屋の中央にあるピンクのソファに座らせてお菓子や紅茶を出してくれた。ソファは見た目通りフカフカだった。普段、愛那の隣になんて座らない僕は、妹だと言うのに少しドキドキした。愛那からはなにか甘い、けれど気品のある香りがして、それが一層落ち着かなくさせた。
 「兄さんとゆっくり話すのは久々だわ」
 「そうだね」
 「なんだかドキドキする」
 「うん」
 「ねえ、兄さん」
 「なに?」
 「私ね、この家で兄さんは私の次に、二番目に美しい人だと思うの」
  部屋中の鏡で、まるで僕と愛那が沢山いるみたいに見える。真正面の鏡をふと見ると、鏡越しに愛那と目があった。いきなり愛那は何を言っているのか。まるで鏡の中の愛那と話しているようだと思った。鏡の中の僕と愛那はよく似ていた。
 「そんなことない。父さんの方が」
 「父さんはもう歳よ」
 遮った声は、少し今までよりキツイ口調だった。
 「いいえ、そんなことは関係ない。兄さんは生まれたときから、父さんより美しかったのよ」
 僕は鏡から目を逸らすことが出来なかった。鏡の中の愛那はどこまでも真剣だ。僕は、鏡の中の僕をじっと見つめる。彼も僕を見つめ返し、僕たちはじっと見つめあった。本当に、目の前に違う人間がいるようだ。
  こんなにじっくり自分を見つめるのは初めてだ。
 「兄さん。兄さんが今まで彼女どころか女友達も出来なかったのは自分に魅力がないからだと思ってた?」
 愛那の言うとおり、昔から僕は女子に避けられがちだった。女子と話したことも数える程しかなく、普段話すのは母か、もしくは愛那くらいだった。幼いころからそうだったため、僕は自分がよっぽど女子に好かれない容姿、性格をしているのだと勝手に納得していた。
 「そんなわけないじゃない。母さんは、兄さんの美しさに気付いてなかった。私がいたからよ。それに、兄さんが男の子だから。でもね、他の女の子は違う。兄さんみたいな美しい人に耐性はないの。兄さんがいままで女の子に避けられてきたのは、兄さんが高嶺の花だったからよ。兄さんは神に祝福を受けた、普通の女の子なんかには近寄れない美しさがある。女の子はそれに、兄さんに出会った瞬間から直観で分かっている」
 愛那はそこで言葉を切ると優雅に紅茶を一口飲み。
 「そのうえ、兄さんのそばには私がいるんだもの。平凡な彼女たちには到底追いつけないような私が。近くにそんな女の子がいて、本人も美しいときたら、なすすべもないと思うでしょ?」
 愛那は、もう鏡を見ていなかった。爪を暇そうにいじっている。けれど、僕はやはり鏡から目を逸らすことはできない。何故知らぬ間にこんな話になったのか?
僕は鏡の中の僕をじっと見つめていた。愛那が言ったことは、わかるような、わからない気がした。いや、感覚では、本能では僕自身の魅力を理解しながらも、理性ではとても納得できなかった。はたして、僕にそこまでの魅力があるのだろうか?
 僕の頭はだんだんと混乱し、愛那の部屋にいることも、鏡をじっと見つめていることも忘れてしまった。僕は、鏡の中の僕を、あたかも他人のように思い出した。僕は声には出さず彼に問いかける。
 僕は一体、今までの認識は間違っていたのか?愛那の語る僕は僕が思っているような人間ではなく、周りの環境も考えていたものとかけ離れている。目の前にいる彼は、今まで毎日毎日繰り返し、飽きるほど見てきた顔のはずなのに、初対面の、まったく別人にさえ思えた。
 愛那の部屋にいると気が狂いそうだ。愛那の話を聞いてからはなおさらだ。僕と同じ顔をした別人が、四方八方に、無数にいるのだ。真向いの鏡の僕は、口元に笑みを浮かべて僕を馬鹿にする。そんな気が、した。
 「兄さん。そろそろ夕飯じゃない?」
 僕を現実に連れ戻したのは愛奈の声だった。僕は、愛那が隣にいることを思い出し、じっと鏡の自分に魅入っていたことに赤面した。

            ***
 
 愛那は今年受験だ。成績がいい方なので、近くの進学率もある程度高い近所の公立高校を薦められていたが、愛那も母もあまりその高校は気に入っていないようだった。母の希望としては、少々遠いが名門の私学の女子高に進学させたいらしい。愛那はそこに関して異論はないようで何も言わなかった。自分から志望校も言うことはないし、受験事態に興味はないようだった。
 そんなことで、ここ最近の食卓はその話で持ちきりだった。母の言う私学はかなり金額がかかり、今でも愛那には、習い事、洋服や趣味の物などかなりお金をかけている。僕の家は大して裕福でもないため、この上私学に通うとなると父の負担はかなり大きい。それもあって、愛那の進学は大きな問題だった。
 当の本人は自分の進学の話なのだが、素知らぬ顔でシチューを口に運んでいる。今夜の夕飯はシチューとサラダだった。母の少し薄味なシチューは僕たち兄妹のお気に入りだ。せっかくの好物だというのに、食卓のムードは暗く落ちている。愛那は気にならないようだが、僕としてはかなり気まずく、満足に味わえない。
 「愛那の進学のことなんだが」
 沈黙のなか、はじめに口を開いたのは父だった。黙々と食べていた母のスプーンが止まる。
 「私立は無理だ」
 「どうして」
 母の声は低かった。
 「実はな」
 父はそこで言葉を切った。僕と母はじっと父を見つめた。母の眼は怒りが籠っていて、責めるような目つきだった。愛那だけは、やはり興味がないようだった。
 「実はな、部下がちょっとやらかしてな」
 母の表情がサッと青ざめた。次の言葉は大体予想できる。
 「リストラされた」
 弱弱しい、ため息を吐くような声だった。母は食べることを忘れて呆然と父を見ている。父は申し訳なさそうに俯いたままだった。
 「嘘でしょ」
 暫くして、母がやっと出した言葉はかすれていた。
 「本当なんだ」
 重い空気が食卓を包んだ。父は、この世の終わりのような顔で何も言葉を発しない。
 「どうしろっていうのよ、そんな」
「兄さんがいるわ」
 今まで黙っていた愛那が言った。食べ終わったらしく、皿は空だった。
 「兄さん、来週から社会人、働きにでるじゃない」
 確かに愛那のいう通り、僕は来週から仕事が始まる。やっと決まった入社先で、アパレル系の会社だ。給料もそこそこで、希望以上にいい仕事だった。
 「でも、久斗だけじゃ」
 「パートでもアルバイトでも、父さんも仕事を見つけたらいい。それでもダメなら、私も進学せずに働くわ」
 「そんなのだめよ」
 母の口調が強くなった。けれど愛那は気にせずに続ける。
 「私なら、働くっていったってアルバイトなんかしなくてもモデルの仕事があるわ」
 確かに、愛那はある雑誌からモデルの誘いを受けていた。しかし、いまどきなティーン誌のモデルで、母は反対していたし、愛那も乗り気ではなかった。が、おそらく、愛那がモデルの仕事をすれば当分は家計も楽になるだろう。
「でも」
 母はそれでも食い下がった。どうしても、愛那には高校に行ってもらいたいらしい。
 そこからはもう、誰も言葉を発さなかった。
 
            ***

 その日から、家庭内の空気はかなり重いままだった。リストラされたのは、父の責任ではない。それでも母は父を責めた。父は最初こそ、負い目を感じていたのだろう、何も言わずにただじっと母の小言に耐えていたが、それも二、三日目には耐えきれず、大喧嘩になってしまった。愛那は喧嘩が始まった途端、部屋へ逃げて行った。僕はどうすることもできずに、ただそれを眺めていた。
 「どうしてこんな時期にリストラなんて」
 「僕はきちんと働いたし、今だってどうにかしようと頑張ってる!」
 「大体、あなたは前から」
 「そもそも、君は愛那を甘やかしすぎなんだ。習い事に高い服だのなんだのって、これじゃリストラされてなくたって破産する!」
 母は父の不甲斐なさを責め、父は母の考えの浅さ、愛那への異常な執着を責めた。ついにはリストラも進学も関係ない、ただの罵り合いに変わり、母は大泣きし、ヒステリーを起こして父に物を投げつけた。怒り狂った父は、家を飛び出し、エンジン音を鳴らしてどこかへ消え去ってしまった。父がいなくなると、母はその場に泣き崩れた。僕はいたたまれなくなって、二階へ逃げた。
 「兄さん?」
 僕の足音を聞きつけて、愛那がドアを少し開け、隙間から顔をのぞかせた。自室へ向かおうとしていた僕は足を止めた。愛那がドアを大きく開けて手招きするので、僕は愛那の部屋へ入った。
 愛那の部屋は、相変わらず奇妙だった。この前のようにソファに並んで座ると、また僕が真向いに現れた。鏡とわかっているのだが、やはり不気味で仕方ない。
 「母さんと父さんは?」
 「母さんは下で泣いてる。父さんは、車で出て行ったよ」
 「そう」
 愛那はそっと目を伏せた。一体妹は何を感じているのだろう?と今更に感じた。
 鏡の中の僕は、大分やつれている。ここ数日、あまり寝付けないのだ。僕はとてつもなく嫌な予感を感じていた。これ以上の災難が起こるような、そんな予感だ。
 「こうなったら、この鏡たちや家具も売ってしまって家計の足しにしないとね」
 だって、ここにあるものはきっと高くうれるでしょ?
 ああ、そうだ。確かにその通りだ。父のリストラで家計はかなり苦しくなる。もう愛那はお姫様ではいられないのだ。僕は、なんだかそれを悲しく感じた。
 「鏡も売るのか?」
 「仕方ないもの、全部売ってしまうべきだわ」
 「仕方ないか」
 「ええ、寂しいけれど」
 僕は深いため息をついた。
 「仕方ない、か」
 僕はもう一度そう呟いて、立ち上がった。愛那は黙ったまま僕を見送った。
 振り返ると、愛那と目があった。愛那の後ろにある、鏡の中の僕とも。
 お前はこの部屋の中ならどこでもついてくるんだな。僕は心の中で皮肉っぽく言って苦笑いした。奴も苦笑した。まるで同意するかのように。

           ***


父が自殺したのを知ったのは、その翌日だった。郵送で遺書が届いた。おそらく死ぬ前に書いてポストにいれたのだろう。遺体は、近くの林で見つかった。首を括っていたそうだ。
 僕たちは、大慌てで葬式などの準備をすることになった。これからのことも相談した。家計は僕と、母がアルバイトをして稼ぐことになった。愛那は、担任が進めていた近くの公立校を受験することになったらしい。葬式が終わり次第、父の遺品を整理し、売れるものは売ってしまう。愛那の部屋のベッドなどの高く売れる家具も売ることになった。習い事もやめてしまったし、愛那はついにお姫様ではなくなったのだ。
 それでも、愛那はやっぱり気にしていない様子だった。
 それからというもの、僕は毎日愛那の部屋に通った。普通はつまらない話を、たまに愛那は深い、僕には理解しきれないような話をした。愛那は、学校を休んで部屋に引きこもっていた。もうすぐお別れの家具たち(とくに鏡たち)との残り少ない日々を惜しむように。
 「兄さん、公園へ行きましょう」
 そう誘われたのは、確か父の遺品整理が終わった日の午後だった。白い、裾や胸元に細かなレースのあしらわれたワンピースに、赤いシンプルだが、袖がゆったりとしており、袖口にレースのついたカーディガン。髪は涼しげなポニーテールで、ゴムには大きな赤いリボンがついている。愛那は、すでに黒い、お気に入りのパンプスを履いて玄関に立っていた。
 「なにしにいくの?」
 「お散歩」
 僕はすることもとくになかったので、付き合うことにした。外にでると、暖かな日差しがほんのり熱く、夏の始まりを告げていた。公園は、家から五分ほどのところにある。わりかし大きな公園で、春には桜が綺麗で人気のお花見スポットだ。
 愛那は散歩が好きだった。人の多いショッピングモールや駅前は嫌ったが、この公園は人もあまりいないし、静かでお気に入りのようだった。ただ、気になったのは隣の林は父が自殺した場所だということだ。だから、母には行先は告げずに出てきた。愛那はそのことを踏まえたうえで来たのだろうか、それとも、そんなことは全く気に留めていないのか。僕には分からなかった。
 公園、とは言っても遊具などはなく、噴水や、花畑なんかがあるお散歩コースのような場所だ。だから、子供はあまり見かけない。いるのはお年寄りや、ジョギングをしているような人くらいだ。その日は特に人が少なかった。
 僕たちはなにも話すことなく公園内をとぼとぼと歩いた。日差しが家を出た時よりきつく、肌が焦げてしまいそうな気さえした。生い茂った草木の緑、色彩様々な花たちは平和の象徴のように思えた。僕たち一家が不幸の中にいても、世間は幸福で溢れている。まるでここ最近の不穏な出来事など無かったように、外には平和があった。
 僕たちは公園を三周して、さすがに疲れたのでベンチに座って休憩した。自販機でジュースを購入して二人で飲みながらのんびりした。僕はミルクティーで、愛那はオレンジジュースを選んだ。
 「父さんが死んだなんて嘘みたいだ。今はこんなに穏やかなのに」
 言うつもりのなかった言葉が、思わず口から洩れた。横目で愛那を見ると、いつもと変わらない興味なさげな顔でオレンジジュースを飲んでいた。口が滑ったと少し焦ったが、気にしていないように見えた。
 「全部消えたわ、あの林に」
 僕はもう一度愛那を見た。やはり興味なさげな、つまらなさそうな表情だ。一体彼女は何を思っているのだろうか。
 「それは」
 「お手洗いにいってくるね」
 愛那の言った言葉の真意を聞こうと発した僕の言葉を遮って愛那はそう言うと、僕にオレンジジュースを持たせて立ち上がった。
 「ここで待っててね」
 笑顔でそう言って駆けていった。
 僕は仕方なく、ジュースを隣に置いて、持ってきていた本を開いた。僕は、しばらく本を読んで愛那を待った。しかし、三十分たっても愛那は帰ってこない。愛那も僕も携帯を持っていないから連絡の取りようもない。僕は、もう十分待っても帰ってこないので、嫌な予感がして探しにいくことにした。
 まずはトイレに行って、女子トイレには入れないので、外から大声で名前をよんだが返答はなかった。これはやばい。ぼくは焦って公園中を探し回った。噴水の近くにも、公園内にある公民館も探しに行ったが愛那は見つからない。
 のこるは、あの林しかない。
 僕は正直、そこに近寄りたくなかった。けれどもうそこしかないのだ。暗くならないうちに見つけなければ。僕は意を決して雑木林へと入った。昼間なのに中は薄暗く、不気味だ。父がここで死んだのだと考えるとなおさらだった。僕は「愛那!」と名前を叫びながら探し回った。カラスがバカにするように鳴いている。そこは静かで、草を踏む足音がよく聞こえた。大分きたようなきがするが、愛那は見当たらない。ずっと歩いていくと、湖に突き当たった。危ないので、湖は立ち入りを禁止されている。まあ、そもそも雑木林自体入る人間は少ない。
 僕は、湖に沿って歩いていくことにした。湖の周りは、木が少ないため日が差し込んで心地いい。
 「あっ」
 丁度、中間あたりまで来たところで、見覚えのある物を見つけた。白と赤と黒。愛那の着ていた服と靴が、綺麗にそろえて置かれていた。
 僕は駆け寄ってそれを拾い上げた。紛れもなく、愛那の物だ。
 僕はそれを持ったまま、湖を見つめた。湖には、僕の姿が揺らいでいた。

           ***

 愛那の遺体は見つからなかった。母はショックのあまり引き籠り顔を見せなくなった。
 僕は、愛那の死に何とも言えない不思議な気持ちを感じた。何故か悲しいとは思わなかった。愛那はきっと、湖に映った自らの姿に触れようとしたのだ。
 まるでその場にいたかのような風景が、僕の頭に浮かんだ。
 裸の愛那が湖を覗き込み、うっとりとしている。水面に触れてみたり、語りかけたりしながらじっと見つめている。そして、突然に、愛那は湖へ、水を、映った己の分身を抱き締めるように飛び込んだ。すぐに愛那の姿は見えなくなり、服だけが取り残されている。
 僕は今、愛那の部屋にいる。全て家具はそのままだ。無数の僕が僕を取り囲んでいる。僕はソファに座ってじっと考え込んでいた。愛那の遺影の写真と、僕の顔は全くと言っていいほど似ていなかった。
 愛那は鏡の中の自分と融合したのだ。彼女は、だれより彼女自身を愛していた。常にともにあることを望んでいた。そして、触れたかった。自らの城(部屋)が消え去ることを悟ったとき、きっと愛那は決意したのだろう。僕はこれを自分の憶測ではなく、事実だと確信している。一つわからないのは、なぜ僕を連れて行ったのかだが、それはそこまで気にならなかった。
 愛那は美しいままに、望を叶えてしんだのだ。それを理解している僕は、愛那の死を祝福するべきだ。きっと、遺体はみつからなくてよかったのだろう。
 水底で、美しいまま安らかに眠られるよう、僕は祈ろう。

ナルキッソス

ナルキッソス

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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