闇を感じて

即興小説のものを2014年度秋部誌用に編集したものです。

由美子は雨にうたれ汚れた窓から、また今日もあの車が入ってくるのを、喜びと虚しい気持ちの混ざった複雑な思いで見ていた。黒のダサい軽四。ナンバープレートの意味は、由美子以外は誰も知らない。降りてきたのは、ストレートで茶髪（ 上の方から少しくろい髪が出てきてしまっている）、薄い化粧でUNIQLOかどこかのシンプルな服を着た四十すぎの女性である。加藤沙由。母の高校時代からの親友だ。娘が一人いる。由美子と同じ歳の可愛らしい女の子だ。笹子と同じ高校で、たまに話もするし、お昼を一緒に食べたり、母達と四人で出掛けたりもする。特別仲の良い友人ではないが、知らない仲でもないという微妙な関係だ。由美子は笹子が嫌いではなかったが、好きでもなかった。おそらく、相手もそう思っているだろう。だから、そこまで深入りはしないのだ。
沙由は、年齢のわりにはスマートで、若かった。肌も綺麗で、笑うととても素敵だった。年相応と言えるのは目尻に少しある小皺くらいである。若く見えるが、幼いわけではなく、顔立ち的には由美子の母よりも年上に見える。三十ほどだと言われても、四十すぎだと言われても頷ける容姿だった。
リビングへ行くと、丁度玄関の扉の開く音がした。母と沙由は本当に仲が良く、よく夕飯を食べに来た。沙由が仕事で忙しい時は、笹子を預かったりもする。もう高校生なのだから、心配することもないとは思うが、家に一人残しておくよりは、信用できる人の家にいてもらうほうが安心なのだろう。そういうときは、高校から一緒に帰ってくるようにしていた。
「お邪魔します」
沙由の声は母のように甲高いものではなく、少し低めで耳に心地よい。
「さっちゃん、いらっしゃい」
母は沙由のことをさっちゃんと呼んでいる。同じように、沙由は母のことをりっちゃんと呼ぶ。母の名前は律子だ。
「今日は笹子ちゃんは？」
「置いて来たわ。なんでも彼氏ができたらしくって。デートに行ってて、食べてくるらしいから」
彼氏という単語を聞いて、母は「まあ！」と嬉しそうに声を上げて、由美子を見た。
「いいわねえ、もう高校生だものね。早くうちのにも彼氏ができないかしら」
いかにもおばさんの対応である。由美子と沙由は顔を見合わせて苦笑した。
「嫌よ、学校の男の子みんな馬鹿みたいだし」
「そうよ。由美子ちゃんは笹子と違って大人っぽいから。高校生の男の子なんて、相手じゃないのよ」
「この子が大人っぽいねえ」
母は由美子も見て笑った。母親にとっては、娘はまだまだ子供なのだ。
「それでも、早く彼氏でも作って、紹介してほしいよ」
「いやよ。もしできたって、お母さんには教えない。絶対すぐちょっかい出してくるもの」
「しないわよ、そんなこと」
「嘘つかないでよ」
沙由は二人のやりとりを見てクスクスと笑い声をあげた。
「いいわね、仲が良くって」
それから、由美子達は夕飯の話に入った。色々忙しい日だったので、夕飯の準備は何も出来ていない。時計は七時を指したところだった。
「食べに行く？」
母が提案し、二人は賛成した。今から用意をして作るのも面倒だったし、笹子はデート、由美子の父は出張中で三人だけだったので、それが一番だろう。
悩んだ末、近くの蕎麦屋に行くことにした。由美子の家の車は、父が出張に乗って行ってしまったので、沙由の車である。
由美子は沙由の車に乗るのが好きだった。二人きりなら助手席に乗るが、今日は母がいたので後部座席に乗った。なんだか、違和感があった。
「お母さん遅いわね」
「いつもだよ」
母は出かけると決まって、服が部屋着だの化粧してないだのと準備をしはじめた。母の出かける準備は長いのだ。由美子と沙由は、先に車に乗っていた。
二人だけなら、助手席なのに。由美子は後部座席なのが気に食わなかった。ミラー越しに見える沙由の目は、由美子を見ていた。いつもなら、横から見える顔だ。
「由美子が後部座席って、変な感じだわ」
「私も思ってた」
沙由の手が由美子の手に触れた。冷たくて、すべすべだけど、仕事や家事のせいで所々皮がめくれたりしている沙由の手。由美子は不満な気持ちを忘れて嬉しくなった。
「どうせなら二人がよかった」
沙由は少し苦笑して、由美子の手を、母が娘にするように、優しく撫でた。
「そんなこと言ったら、お母さん怒るわよ」
「そもそも、私たちが付き合ってるのがバレたら終わりよ」
由美子は前に乗り出して、膨れつらを座席からにょきっとのばした。沙由の顔がすぐ隣にある。沙由はちらっと見ただけで、前を向いたままだ。
「そうね」
目を伏せる沙由を見て、由美子はしまったと後悔した。由美子が思う以上に、沙由はこの関係を不安に思っているのだ。親友の娘に手を出すなんて、人間として間違っているのではないか、と。
由美子はその気持ちが痛いほどわかったが、同時にそれは間違いだと思っていた。沙由が気に病む必要がどこにあるのだろう。人を愛することに制限などあるのだろうか。それも、私も貴女を愛しているのに。愛し合うことが間違いなはずはない。と。
随分前に、由美子がこの思いを述べたとき、沙由は寂しそうに笑っていた。「そうかもしれないわね」と言ったきり、その話はしなかった。
そうかもしれない、なんて思ってないのだ。由美子にはわかった。彼女は、ずっとその背徳感を背負っている。由美子よりふた周りも長生きな分、その闇は深く重いのだ。
それでも。由美子は沙由と一緒にいることを望んだ。そして、沙由も同じ気持ちだと信じていた。
「ごめん」
由美子が謝ると、沙由は笑って頷いた。
家の電気が消えた。そろそろ母が来るだろう。由美子は座席に腰をかけた。ミラー越しに沙由を見ると、沙由もこちらを見ていた。
「火曜日あいてるかしら？」
「うん」
「じゃあまた、公園まで迎えに行くわ」
「うん」
二人は同時に微笑んだ。一人は喜びに満たされた、一人は悲しみを宿した顔で。