きれいな魂の「あやかなちゃん」と魂の汚いあたしの美しい蛇
1
蛇の卵があたしのものになった。
お父さんが非合法スレスレの努力をして、むりして手に入れてくれたのだ。
そうまでして娘の歓心を買おうとするお父さんがキライだったけど。
でも、蛇の卵だけはべつ。
なぜかって?
だって、それって刷り込みがされてない卵なわけだから。
刷り込みっていうのは、おもに鳥類がそうなんだけど、卵から孵ってすぐベイビーが見たものをお母さんだ、って認識することね。刷り込みが成功すれば、親だと思ってうしろからくっついて歩いてくれたり(蛇に足はないけど)、慕ってくれたりするわけで、あたしが蛇の赤ちゃんのお母さんになれることを意味してる。
そんなことをイメージとして思い浮かべたものだから、もうすっかりうっとりしちゃって、あんなに大嫌いなはずだったお父さんに思わず抱きついてしまったくらい。刷り込みが可能な蛇の卵は、ものすごおくインパクトがあって、みんなが欲しがったし、あたしだって手に入れることなんて到底むり、って思っていたんだから。
刷り込みなしの蛇の卵を手にいれるのは、ほんとうにむずかしい。というのも、卵は神さまから魂のきれいな人に対してだけ、恩寵として特別にもたらされるからだ。
やっぱり貧しい人の方が何かと得をする時代なのかもしれない。富裕層が天国に行くのは駱駝が針の穴を通過するよりむずかしいっていうじゃない。
そうしてもちろん、あたしの魂はひどく汚れている。
もう一度、いう。しつこいけどもいう。
うん、あたしの魂は、ひどく汚れている。
たましい、っていう言葉からあたしがイメージするのは、その響きのうちに、きらきらした澄んだ水、あるいは、みづ、というふうに書きたくもなる、とても新しくて鮮やかなものの印象だったりする。
それから、まるいしずく。
あたしの魂は、そういうのとはずいぶん違う。あたしのは汚れているから、魂のきれいなあやかなちゃんみたいな女の子がほんっと羨ましかったりする。
そう、あやかなちゃんだ!
クラスで唯一、というか、あたしが通学している小学校じゅうで卵から孵した蛇を飼っているのは、あやかなちゃん、ただひとりだけだった。
それにしても、お父さんがどんなテクニックでもって卵を手にいれたのかは、すごい謎だったりする。
でもね、正真正銘、これって紛れもなく蛇の卵だ。偽物だったらすぐにわかるし。
あたしらの一族がもっている正邪を識別する邪眼の藪睨的能力は、自分でも怖くなるくらいすぐれている。
だから、他人より千倍冷静でいられるし、やろうと思えばかんたんにライバルを出し抜くことだってできる。そうやってあたしらの家系は代々、サバイバルしてきたんだから。
ともあれ、卵は専用の孵化器に入れた。
円盤状の金属のボードに半円の穴がなめらかに穿たれ、そこに卵を入れておきさえすれば自然と孵化するしくみらしい。もっともこうした器具に依存して手抜きをやらかすのは、あたしらの家系の悪いくせで、代々怠け者だったりするんだけどね。
あやかなちゃんは小学校にまで卵をもってきて腕に抱いてあっためて、小さな蛇を孵化させたのだ。さすが、あやかなちゃんだ。魂のきれいな人はやることがちがう。あたしには、とてもそんな真似はできない。
卵に胎教っていうのもおかしな話だけど。でも、あたしはスティーブ・ライヒが好きだから、エンドレスでライヒのテヒリームって曲をかけてあげた。
あたし、このライヒの音楽が好き。
ビートはあるっていうのに鎮静作用があって、これをかけていると眠りながら起きていられるっていうか、しずまりながらも心が活性化しちゃって、明晰夢の空をどこまでも滑空してゆくことができたりするわけで、なんだかとても不思議な気分になったりする。
ライヒは鎮静化しながら活性化する、そういう音楽なのだ。
蛇の卵にどんな影響を与えるかは知らないけど、あたしは孵化器のそばにスピーカーを置き、音楽を流しつづけた。
2
そうそ、――あやかなちゃんの蛇についても話しておかなければ。
それはみずみずしい草の色をした小さな蛇だった。
少しくすんだ草の色だけど、見ているだけで心が朗らかに明るく変化してゆく、そんな自然な浄化作用があるようで、さすが神さまから魂のきれいな人だけにもたらされた蛇のことだけはある。
あやなかちゃんが学校に持ってきてくれたおかげで教室の雰囲気が洗ったみたいにぴかぴかになり、蛇がいるおかげでとてつもなく慰められる思いがした。
あやかなちゃんの蛇は、草色のクサという名前だ。
クサは黒いつぶらな瞳で、いつも愛おしげにあやかなちゃんのこと、みつめている。
腕に何かのアクセサリーみたいにからみついていたし、コップの水に舌をちろちろさせ、呑むすがたもキュートで、あいくるしかった。
あやかなちゃんの吹くリコーダーのメロディにあわせ、くねくね踊っているすがたをみたことがある。時にあやかなちゃんはクサとキスをしていたし、小さな牙で彼女の指を甘く噛んだりしていた。
さすがに刷り込みをした蛇だけあって、クサはあやかなちゃんのことをお母さんだと思っていたし、あやなかちゃんが命じる大抵のことは大人しくしたがっていた。
あやかなちゃんがあたしに、ちょっとのあいだクサを貸してくれたことがあったときも、クサはいやがるそぶりなんてみせなかった。それもこれもあたしのことが好きだからじゃなくって、あやかなちゃんの命令がクサにとって絶対、ということの証明なんだろうな、と思うけど。
あたしはクサのひやりとし、すべすべとした鱗に覆われたからだにおそろおそるふれてみる。けっして噛み付いてきたりはしない。賢いんだ、とても。
クサはあたしの右の手くびに巻きつく。あたしは彼の瞳に魅了される。黒くつぶらな球体のなかでは燦めく星の雨が降っていて、その斜めに降っている雨を見つめていると、なんだか、きゅ、と好きな人に抱き竦められたみたいな気持ちになる。どきどきと息が浅くなり、憧れの感情とよろこびでとでいっぱいになるのだ。
いずれにしても、あやかなちゃんは学校に蛇を持っていったりしても誰からも咎められることはなかった。なぜなんだろう?
先生はもとよりクラスメイトからも。
それはやっぱりみんな、あやかなちゃんの魂が清い、と思っていたし、蛇はやっぱり神さまがくださるもので貴重だったし、希少性の点からもみんながあやかなちゃんのことをリスペクトしていたからなんじゃないかな。
たいして勉強ができるわけでもない。ちょっぴり可愛いところもあるけど、あやかなちゃんはけっして美少女というわけではなかった。
でも、あやかなちゃんは光輝く純なる魂をもっている女の子だったから、彼女がその場所にいるだけであたりの空気が澄み切って底光りしてくる。
彼女の指はすべての人にやさしくふれ、みんなの心をやすらぎと慰めで満たした。あやかなちゃんの唇からは花びらがあふれてこぼれだしてくるんじゃないかと思うくらい、すてきな香りがしたし、彼女に言葉をかけてもらった子らはうっとり、恍惚の世界を彷徨ったりもしたのだ。
3
さて、あたしの蛇のことだった。
ちなみにあたしが孵化させたのは、眼もさめるような鮮やかなコバルトブルーの色をした蛇だった。
孵ったことをしらせる孵化器のブザーが鳴り、あたしはふだん起きたことのない早朝だったけど、ベッドから跳び起きた。
いちはやく刷り込みをしなきゃいけなかったしね。
アオ、と呼んでいたけれど、ほんとの名前を「プシコパニキア」っていうの。
こんな奇妙な名前、あたしがつけるわけがない。それって昔の西洋のお坊さんが書いた本のタイトルらしくて、なんでも「魂の完全な夜」って意味らしい。プシコパニキアだと長ったらしい感じがするから、ちぢめてプシコにした。プシコはお父さんが付けてくれた名前なんだよね。
で、――その意味するところなんだけど、
人の魂はたとえ死んでも起きている、
ということなんだそうだ(どゆこと?)。お父さんが何を意図してこんな名前をくれたのかは、あたし的には絶体絶命的に意味わかんない、っていうか、最初っから興味ないしね。
プシコなんかより、もっと可愛らしい名前をつけたかったんだけど、しかたがない。他でもないお父さんの頼みなんだし、魂がきれいじゃなきゃ手に入らない卵をプレゼントしてくれんだから無下にすることなんてできっこないでしょ。
だからお父さんのいるまえではプシコって呼ぶことにして、外にいるときはアオって呼ぶことにした。
でもね、じつはアオって呼んでた期間はいやになるほど短かったよ。
プシコ、えっと、あたし的にはアオなんだけど、アオは、あやかなちゃんのクサ以上に変わっている、というか、かなり独特の蛇だった。直感とでもいうのかな。さわったらすぐにわかってしまう。だって、その瞬間、刷り込みが起こってあたしはアオのお母さんになったんだし。
アオの色、それはコバルトブルー。
とても濃厚な青で、空にむかってくるくる螺旋にまわりながら墜落してしまいそうな恐怖さえ感じさせる、深いふかい色でもあって。
そして。
どこまで歩いていっても辿り着けない際限のない感じ、があった。そうしてアオが何より怖ろしい、と感覚させられるのは、彼女という存在が蛇なのに、――そう、言葉をいっさい喋ろうとしないのに、深いところから「ただしさ」を送り届けてくれる、そんな蛇だったからだ。とするなら、アオの前でただしくなければシンプルに怖れるしかない、ということになる。
いつものあたしだったら、アオを学校には持っていかなかっただろう。あたしにだって危険を事前に察知するだけの分別っていうか、サバイバルを生き延びてきた一族の血がみゃくみゃくと流れているわけで、アオを学校に持っていくことのリスクは、それとはなしに認識できていたはずなのだ。
だけど、あたしは愚かにも舞い上がっていた。
さすがに生まれたばかりのアオは小さかったから、すぐに学校に持って行くのは憚られた。だいたい半月くらい成長するのを待っていたかと思う。
そしてやっと小学校にアオを連れてゆく日が訪れた。
とにかく、アオのこと、自慢したかったんだ、あたし。クラスメイトの仲良しの子にも内緒だった。何事もサプライズがかんじんだ。誰よりもあやかなちゃんを驚かせたかった。その日、腕にアオをまきつけ、鞄を背中に背負い、あたしは学校にむかった。
4
通学のバスのなかでもアオは、あまりにも美しいブルーだったから羨望と憧れの対象となった。
みんなの視線を集めるアオ。
褒められているのはアオだというのに、まるでバスに乗ってる女の子たちがみんな、あたしと話しをしたがっているみたいに勘違いしてしまう。
教室に入っていってもその状況はいささかも変わりはしなかった。腕にアオを巻きつけ、得意満面になったあたしのもとにクラスじゅうの女の子たちがわらわらと駆け寄ってきた。
「こんなきれいな蛇、いまの今まで見たことがないよ。すごいね。名前はなんていうの?」
早速の問いかけにあたしは押し合いへし合いしながらこたえる。クラスメイトに取り囲まれるなんて、はじめての経験だ。あやかなちゃんにでも、なったみたいな気分。すごく嬉しい!
「プシコパニキアっていうの。お父さんが付けた名前なんだけど、変てこな名前だからアオって呼んでる」
あたしは胸を張り、堂々とした態度でいった。弾んだ声が少しだけ、上擦っていたけどね。
「ごめんね」
いきなり謝ってくる女の子がいて、面喰らってしまう。
「なにが?」
「あたし、これまでさ、ちびくろちゃんの魂ってものすごく汚い、と思ってたんだけど、こんなに素敵できれいな蛇を飼ってるんだね。すごいよ」
やっぱり飼い主が褒められている。賛同する声があちらこちらから上がった。もちろん、あたしの魂がすぐにきれいにならないことぐらいあたし自身がよく知っていること。だから、口々に浴びせかけられる賛辞を認めることは自分にたいし、嘘をつくことにひとしいということもわかっていた。けど、あたしはすでに酩酊したみたいになり、頭が芯から痺しびれてふらふらしていた。すっかり有頂天になってしまっていたということね。
ちなみにあたしの渾名、ちびくろという。どういう意味かはわかるよね。ちっこくて皮膚の色が浅黒いから、ちびくろだ。まるであたしの魂そのものみたいに。
「ねぇね、それよりもさ、あやかなちゃんはもう学校にきてる?」
あたしは訊いた。
「う。あやかなちゃん?」
うしろから、「あ、あやかなちゃんならもうきてるよ」と声がかかる。
「呼んでこようか」
こういうとき、お節介さんがいてなにかと世話を焼いてくれるので助かる。あたしは言った。
「うん。お願い」
「あやかなちゃーん」
誰かが呼んだ。そしてそれに一拍遅れて、みんなが唱和する。
「あやかなちゃーん」
これだけあたしを中心にして人だかりができていたのだ。あやかなちゃんが気づかないわけがなかったが、彼女の姿はここからでは見えなかった。
誰よりも先にアオのこと、あやかなちゃんに見てもらいたかった。そしてあやかなちゃんに褒めてもらいたいかった。あやかなちゃんがあたしのお母さんになり、結局はアオではなく、あたしのことだけを褒めて欲しいと願ったのだ。
あたしは信じていた。いや、疑いすらしなかった。あやかなちゃんがあたしの願いをかなえてくれないはずはないってことを。
「あやかなちゃーん、ちびくろちゃんが蛇をもってきたんだよ」
女の子たちがあやかなちゃんの背中を押し、輪の中心にいるあたしのところへと押し出した。びくびくおどおどしながらも、あたしは期待を込め、あやかなちゃんのこと、みた。最初、戸惑いながらも微笑んでいるのはいつものあやかなちゃんだった。でも、アオのすがたをみた瞬間、あやかなちゃんはひどく驚いた表情をした。たぶん、それがほんものの蛇ではなく、あたしがいつもそうしているみたいな、いわばビジネス的なしかけでもってきたフェイクの蛇だと思っていたようすなのだ。けれど、アオはそうではなかった。草色のクサとおなじく神さまから賜った蛇であり、しかも魂がきれいでなければ、その蛇のオーナーにはなれないのだ。そのことは、あやかなちゃんにもわかったようだった。そしてアオがさらにクサとちがっている点は、アオがただひたすらに「ただしい」蛇だということなのだ。
5
あたしは待った。あやかなちゃんの口から美しい花びらとなってあふれだす言葉を。かぐわしい言葉でもってアオを褒めそやし、そしてアオのオーナーであるあたしの腕にしずかに手を添え、やさしく慰め、賞賛を奏でる言葉のかずかずを。
しかし、でも。
あやかなちゃんは、隠しようもなく驚いていた。この時点であたしのなかに風が吹き込んできた。いやな感じのする、時に砂礫さえも混じっている風がざらざら吹き込んできたのだ。ざらざら、ざらざら。でも、これがこれからどんな事態を招こうとしているのか、あたしにはまるでわかっていなかった。
あやかなちゃんはすでに見抜いていたんだろうと思う。アオがほんものの美しい蛇であることに。そして魂のきれいなあやかなちゃんをさしおいて、よりにもよって汚れ切った魂のあたしが蛇を持ってきたことに。
あやかなちゃんは黙っていた。ひとことも言葉を発しようともせず。
あたしだって声がでない。緊迫した空気がみなぎり、まるで教室の大気圏上層に雷雲が発生でもしたのか、皮膚がちりちりして痛い。あたしたちを取りかこんでいるギャラリーも固唾を呑んで見守るしかない。ここからは動けないし、逃げだすことだってできない。
アオがあたしの腕に巻きついた状態で闘争本能をみなぎらせているのがわかった。だって、アオの小さな心臓がドキドキとはやい脈を刻んでいることが、彼女のひんやりとした鱗ごしに伝わってくるんだもの。でも、なぜ闘おうとしているのかわからなかった。
いや、ほんとうはわかっていたのだ。でも、いまから起こる惨劇を認めたくない気持ちは遥かにおおきかった。だって、あたしは依然としてあやかなちゃんに褒められたかったのだし、彼女をお母さんみたいにして甘えてみたかったのだ。
だけど、あやかなちゃんからはすでにしてこれまであったような、――かりそめだったのかもしれなかったけど、友情も、クラスメイトである慕わしさも感じられなかった。
彼女は命じた、草色のクサに。クサははじめ命じられた内容を理解できないふりをしていた。あたしだってそうだ。そんなこと、あやかなちゃんがするはずないじゃない。クラスメイトのみんなもそうだった。あのあやかなちゃんが、そんなことをするはずないんだって、絶対に。だから、これから起こる事態をただしく、冷静にみつめていたのは、あたしの青い蛇、アオただひとりだけだった。
あやかなちゃんがひそやかにクサに目配せをし、命じていた。あたしはすでに、あやかなちゃんが彼女の美しい草色の蛇に何を命じているのか悟っていた。これから眼前に展開する光景が酸鼻のきわみであったとしても、あたしはアオに逃げろ、と合図してやることさえできなかった。指すら動かせない。ただ見ていることしかできない。
事態はじつにスローモーに進んで行った。クサはあきらかに戸惑っているようすだった。しかし、クサはあやかなちゃんによって刷り込み完了した蛇なのだ。あやかなちゃんに逆らえるわけがない。そしてこの一連の流れを、ただしい青い蛇であるアオは驚くほど冷静に見つめていた。
行け。
と声にこそ出さなかったけれど、あやかなちゃんの唇がかすかに動いた。それは花びらを生みだす、みすみずしさを湛えた可憐な唇ではなかった。まがまがしさを孕んだ気息が、あろうことかあやかなちゃんの口から腐臭混じりの言葉となり、何の躊躇もなく漏らされたのだ。
クサはアオに噛みついた。ちょうどアオの喉にあたるところだ、と思う。
牙は深く抉るように喰い込んでいた。鮮血があたしの腕につたわり、床へとしたたり落ちる。血は生温い、というより、火傷しそうなくらい熱い。アオからは、しゅうしゅう、空気が漏れるような、おかしな音がする。あたしはどうしたら良いのか、わからない。クサは噛み付いたままだったが、その濡れたつぶらな黒い瞳は、哀しげにあたしを見つめ、侘びているふうでもあった。とんでもない過失を犯した、とクサ自身が思っている、とあたしは咄嗟に思ったけど、だからといってどうすることもできない。
アオはといえば、もうあとは死が待っているだけだというのに、とても落ち着いていた。このようになることをきっと、彼女は予見していたのだと思う。そして、ただしさを満々とたたえた瞳でアオは、あやかなちゃんを見据えていた。憎しみも、怒りもなかった。ただ静かなただしさだけが、アオにはあった。
叫んだのは、あやかなちゃんだった。彼女はクサとアオとをあたしの腕から毟り取り、モスグリーンの色をしたリノリュウムの床に力任せに叩きつけた。床には絡み合った、ふたつの蛇が血だまりの中に浮かぶように横たわっていた。あやかなちゃんが激しく叩きつけたものだから、アオもクサもぴくりとも動かなかった。
ギャラリーから悲鳴が上がったのは、この直後だった。金縛りから解放され、彼女らはパニックになった。人垣が崩れ、みんなこの場から逃げだした。蒼白になり、膝から崩れ落ちた子や、失神した女の子もいた。
あたしはみた。あやかなちゃんの怒りを滾らせ、真っ赤に充血した眼を。
あやかなちゃんは黙って唇を噛んでいたけれど、悔し涙は血のように赤く染まった眼からどくどくと流れて止まらなかった。
蛇からはおびただしい血が流れつづけ、あたりはまるで血の水たまりがどんどんひろがるかのようだった。
あたしもそこから離れようとした。だって、あやかなちゃんの怒りに狂った真っ赤な眼があたしを追いかけてきたからだ。
だけど、その瞬間だった。足を血だまりの中で滑らせた。あやかなちゃんが伸ばす指から逃れようと、身を翻した。
ふ、……と天井の蛍光灯が視界をよぎった。
――と思ったとたん、後頭部をしたたかに床に打ちつけ、眼からは火花が散った。あたしは気を失ったのだ。
この日はながいこと、眠っていた。
目覚めたのは夜になってからで、気がつくと家のベッドにいた。
あやかなちゃんは、学校からいなくなっていた。あたかも最初っからそんな女の子なんていなかったかのように。
それからはもう、あやかなちゃんと二度と会うことはなかったし、学校でも誰もあやかなちゃんについての噂をすることもなかった。
そして神さまから魂のきれいな子どもだけにもたらされるという蛇についても、それはあたしたちの現実とはいっさい関わりをもたないお伽話めいたこととしてみなされ、あんなに美しかったクサのことも、アオのことも忘れ去られてしまった。
6
アオが死んでからだいぶたったあとのことだったかと思う。誰も神さまがくださった蛇の話なんてしなくなっていたから、休日の朝、久しぶりにお父さんと一緒に朝食をとっているときに、突然、そんな話をするものだから、あたしはひどく驚いてしまう。
この頃、あたしはトマトのジャムづくりに精を出していて、トーストにたっぷり塗って頬張るのをたのしみにしていた。トマト嫌いのお父さんはいやそうな顔をした。あたしはお父さんのことが好きではない。というより、お父さんが顔を顰めたくなるようなことをするのが、今は何よりも大好きになってしまっている。
涼しい夏の朝のことだった。グラスに檸檬を輪切りにした水をそそぎ入れ、想像力の力で檸檬水の湖面に雲を浮かべてみる。あとは蜂蜜を混ぜてからごくごく呑むのだ。この檸檬水にしてもお父さんはきらいみたいで、そんなお父さんをみているとあたしはすこぶる心地がよくなってくる。
戸外の緑を通過した風がカーテンをふくらませたり、かと思えば窄ませたりする静かな時間、しかめっ面をしながら、それでも至福を噛みしめているらしいこのひとときを、お父さんが愛しているということはわかる。
「神さまがいるかも、ってことは、この歳になると、なんとなくわかってくる。むしろ、いないとする方が何かと不合理だということも、同じくらいわかってくる」
何の話だろうと思い、グラスに浮かべた雲の観察はひとまずやめることにして、あたしは輪切りにしたひとひらの檸檬のスライスをつまみ、口にふくむ。と、お父さんをみつめた。お父さんは困惑した表情を浮かべながらも話をつづけた。
「神さまがどんなものであるかはいえないけれど、神さまは魂の汚い人にも、きれいな人にも平等に存在している。きれいな人にだけ恩寵があるのだとしたら、それは狡いことだと思う。神さまはズルはしない。いい人にも悪い人にも、ひとしく雨は降るのだから」
「蛇のこと、いってるの?」
「そう、蛇のこと。プシコパニキアのことは残念だったけど」
「そうだね」
あたしは、にっこり笑ってうなずいた。お父さんの言うとおり。お父さんは間違っていない。もうお父さんのことは好きでも嫌いでもなかった。
あたしはいまでもアオや、草色のクサのことを考える。
そうして、あやかなちゃんの眼が依然として怒りとなって大気圏を震わせているのを目撃することだってあるのだ。あれからあやかなちゃんは消息不明になってしまったけど、怒る眼として空中を浮遊し、あたしのこと、絶対に許してくれないのだ。
でも、あたしは怒りの眼を見つけると、
「あ、あやかなちゃんだ。ねぇね、元気してる? そういえばさ、この前、ばったり田口と会ったよ。あの子、ずいぶん痩せちゃっててさ、それでもって、あやかなちゃんのこと、懐かしがっていてさ」
なんて話しかけながら空中にむかって手なぞを振ってみせたりするのだ。
思いだしたり、想像してみたりする。
あの頃のあたしの気持ちを、あやかなちゃんの心を。
きれいな魂の「あやかなちゃん」と魂の汚いあたしの美しい蛇