君の手を 第1章

たゆたう棺

ビー、ピー、ピー、ピー、……。

 甲高いサイレンのような音で、僕の意識はまどろみの中から引きずり出された。まぶたの裏で違う色の黒がチカチカしている。薄く目を開けるとカーテン越しでも凶悪な光が差し込んでいた。ぼやけた意識の中で音のする方に手を伸ばし、それのテッペンを叩くように押した。するとそれは叱られた子供みたいに静かになった。でも知ってる。また5分もすれば騒ぎ出す。それでもいい。5分だけでもいい。

 眩しさから逃れるように寝返りをうった。まぶたの裏のチカチカがだいぶマシになった。これでもう少しだけ落ち着いて眠れる。あと少し、あと5分だけ……。

 3度目に目覚ましが鳴ってから、2分位した頃だろうか。微かにギ、と軋む音と、ト、ト、ト、という足音が聞こえてきて、来たな、と身構えた。足音に注意し、相手の位置を探る。来た。ドアの前。ガチャ、とノブが回る。微かに軋んだ音を立てドアが開いた。

「あんた、いつまで寝てんの?」

 遅れても知らないよ、と言いながら部屋を横切り、窓の前に立った。カーテンがシャッ、と勢いよく開けられ、その瞬間殺人的な日光が僕の部屋に照射された。僕はそれをまぶた越しの光と背中で感じる。一気に2度位部屋の温度が上がった気がする。背中が暑い。今ならトースターの中のパンと心を通わせることができるかもしれない。

「さっさと起きてこないと、ご飯片付けるよ」

 そう言い残して部屋を出て行った。閉じられたドアの音が思いのほか大きく響き、ほんの少しだけビックリして、頭を上げゆっくりと振り向いた。もちろん母さんの姿はなく、差し込む日光の白さに目を細めた。

(……朝っぱらからなにキレてんだよ)

 僕はしぶしぶな感じで起き上がり、部屋を出て一階の洗面所へ向かった。顔を洗い、寝癖を直し、キッチンに入る。テーブルには既に目玉焼きや納豆のパック、味噌汁用のお椀や引っ繰り返ったお茶碗などが並んでいた。僕の分だけだ。

「姉ちゃんは?」
「あの子がこんな時間に起きてくるわけないでしょ」

 ……そりゃそうだ。

 父さんは既に仕事に行っている。夏休みじゃなければ一緒に食べるけど、今はそうじゃない。部活があるけど、それは9時からだ。学校に行くときより30分遅い。僕は朝は少しでも多く寝ていたい。そのために少しでも早く起きるなんて気にはなれない。母さんが一緒に食べてるから、ダイジョブだろ。姉ちゃんは高校一年。夏休み中。部活には入っていない。当然、普段はこの時間も寝てる。よほどの気まぐれか、用事でもない限り。僕もバカな質問したもんだ。

 ちゃちゃっと朝食を済ませて、歯を磨き、部屋に戻った。ギリギリまで寝てたから、あまり時間がない。ちょっとヤバイ。すばやく部活の準備を済ませ、ジャージに着替えバッグを持った。8時41分。うーん……。結構ヤバイ?

 ダダダダっと勢いよく階段を駆け下り、靴に足を突っ込みトントン、とつま先を詰めてかかとを引っ張り中に納める。両足分で約20秒? タンッと足の裏が付くと同時に前へ進み、ドアノブをビーチフラッグスの旗のように掴んで回し、その勢いのまま開けた。

 扉を開けた瞬間、むわっとした空気に襲われた。じめっと肌にまとわりついてくる。その不快さに思わず顔を引いた。うわー。行きたくねー。でも、躊躇してるヒマはない。

「行ってきまーすっ!」

 やけくそ気味に叫んで僕はそこに飛び出した。勢いに任せて手を振ると、少し強すぎたらしくバタンッ、と大きな音を立てて扉が閉まった。思わず振り向いたが、家がゆっくり倒壊していったりはしなかった。怒鳴り声も聞こえてこない。心の中で舌を出し、視線を前方に向けた。すでに焼けたアスファルトが熱を放っている。僕は目を細め右手を日除けにして空を睨んだ。遠く高くわずかに雲は飛んでいるが、太陽を遮るほどのものはない。

 ……暑い。

 今年の夏は記録的な暑さらしい。ここ何年か、天気予報は夏になるたびそんな事を言ってる気がする。はいはい、温暖化温暖化。このままじゃそのうち50度だって超えるんじゃね。

 自転車のグリップを握ると掌の内側からじっとりと汗が滲んでくる。体中から今にも汗が吹き出しそうだ。だから夏は嫌なんだ。ただでさえ汗かきなのに。脇とか首とかシミになる。もし教室で女子から「臭い」とか言われたら立ち直れないよ?
 たぶん。

 まー今は夏休みだから部活に行くだけなんで、そんな心配不要なんですけど。女っ気の欠片もない。女子マネージャーなんてものは幻想でしかない。

 自転車にまたがり、ペダルを踏んだ。スピードに乗っても爽快感は無い。受ける風は生暖かく、地面からの熱気で蒸し焼きになりそうだ。街路樹の作る木陰は意味が無く、そこにたむろしているセミの鳴き声が不快なだけだ。

 信号待ちをしていると中野がやってきた。

「よお。今日もあちーな」

 僕も「ホント、地獄だな」などと返す。すぐに信号が変わっって、僕たちは自転車を漕ぎ出した。

「なあ、このまま行くと俺ら遅刻じゃね?」
「あー。まあ、結構ヤバイかも」
「急ぐか?」
「ま、ダイジョブじゃね? もし遅れたとしても竹本どうせ今日も途中からしか来ねーんだろうし」
「……だよな」

実はは少し急ごうかと思っていんだけど、今の会話でこのままダラダラと行くことに決めた。

 ただ、一応言い訳を考えておく必要がある。竹本がいなくても香川がいる。ま、アイツのことだからあんまりネチネチ言われることはないだろうけど。

 中体連の予選にあたる地区大会で負けてしまったので、3年は夏休みの前に引退してしまった。だから僕らが一番上。正直、気が緩んでいた。いまいちやる気も出ない。こんな調子でずっと行く気はないけど、今は先輩のいない開放感を味わいたい。もう少しだけだから。たぶん。

 何より、暑すぎる。そりゃ、やる気も溶けるって。

 学校までは自転車だと15分くらい。急げば10分以下で着くこともできる。部活は9時からで、僕が家を出たのが8時45分前。だから準備を終えてグラウンドにジャスト9時に出られたのは、僕らが無意識に急いでいたことを意味する。なんだかんだいっても真面目なんだよな。僕も中野も。


 それでも香川がいい顔をしなかったのは、もちろん僕たちが一番最後だったからだ。
「遅れなきゃいいってもんでもないんだぞ」

 その言葉はもっともだったので、僕らは素直に「以後気をつけます」と殊勝な言葉を返した。ただのポーズだが、時にはそれで物事が円満に解決するということはもう知っている。

 予想通り香川はそれ以上説教じみた事は言わなかった。その代わり、

「お前ら、ランニング追加5週な」

 そう言ってニヤッと笑った。僕らは抗議したが聞き届けられなかった。

 不満を垂れ流しながら追加分を走り、4周目で終わろうとしたら「あと5周追加しようか?」と言われて僕らは全力で残りの1周を走った。ストレッチしてたのに、まったく、よく見てやがる。

 ま、こういう奴だから、新キャプテンを決めるときも満場一致だったんだけど。

 練習はいつも通り進んだ。まずは基礎連。止まった状態でのパスとかシュートとか。次にこれに動きをつけてやる。自分が動いたり、ボールが動いたり。状況をいろいろ変えてこれを一時間。後は人数を増やして少し複雑な動きを付けたり、もっと戦術的な練習をやって、最後はミニゲーム。そしてクールダウンして終わり。大体30分ごとに5分くらいの休憩があって、正午までの合計3時間。基本的にどの部も夏休みは9時から正午までだ。大会が近い部はそれ以上やったりもするけど、ほとんどが文化部だ。運動部は、もたない。暑すぎて。竹本は朝6時くらいからやりたいらしい。まあ、そのほうが涼しいからいいんだろうけど、そうすると今度は朝起きるのがキツイから誰も賛成しない。何が悲しくて夏休みに学校があるときより早く起きなくちゃならないんだ。

 竹本は基本基礎連が終わった後、大体10時半過ぎにしか来ない。さして強くもない公立中学に専属コーチなんているわけもなく、竹本はただのサッカー好きな数学教師だ。昔サッカーをやっていたわけでも無い。曰く、「俺はモウリーニョで、お前らはポルトだ」だって。

 そんなことを言われちゃうとシラけるんだけど、僕らは竹本が嫌いじゃない。監督、コーチとしてはしっかりしてるし、ユースの監督と知り合いらしくて、かなり勉強してるらしい。実際、竹本が顧問になるまではてんでダメだった。それこそ一回戦敗退常連って感じで。それが今では県大会でも結構いいところまでいっている。だから竹本が遅れてきても、口ではブーブー言いながら練習はしっかりやっていた。

 時には「ほら、お前ら、やるよ」なんて言って練習が終わった後クーラーボックスを持ってきて、ジュースやアイスをくれた。僕らはそれに飛びついた。そして食べ終わる頃には今までの不平不満をすっかり忘れていた。

 もしかしたら僕らはとても扱いやすいのかもしれない。


 帰りに中野と学校近くのコンビニでアイスを買った。すぐに袋から開けて店先で噛り付く。道路のアスファルトがゆらゆらしていた。そういうの、止めてほしい。ホントに。暑いのはわかってるから。

 中野の棒つきアイスはあっという間に溶けて雫が伝い始めた。それが手につかないように、本体が落っこちないように気をつけながら、

「お前、宿題やってる?」
「まさか」

 僕はソフトクリームなのでその心配は少ない。ただ、やはり溶けるスピードは速いのでなめる、というよりも吸う、という感じだ。てっぺんから啜る。

「だよな」

 満足げに中野がつぶやいた。

 アイスを食べ終え、中野と別れるとそのまま家に帰った。スーパーのパートが休みだったらしく、家には母さんがいた。部活が終わってすぐに帰れば12時半には家に着くが、1時前だったので「何してたの?」って聞かれた。最近やたらと小言がうるさい。些細なことでも口出ししてくる。案の定、「空きっ腹に冷たいものは良くないのよ」だって。そんなのはこっちだってわかってる。わかっててやってるんだから煩わしいことこのうえない。「へーへー」と答えてそれ以上何か言われる前に風呂場に逃げ込んだ。

 風呂場の洗面台の前に姉ちゃんがいた。これからどこかに出かけるのか軽く化粧している。最近外出が多いから彼氏でもできたのかもしれない。僕が入ってくると、スンスンと鼻を鳴らした後に顔をしかめた。

「うわ。あんた、くさーい」

 そして鼻をつまんで右手で僕をパタパタと扇いだ。ムカついたので僕も言い返した。
「姉ちゃんは化粧くさい」

 なっ、と目を剥いて何か言おうとしたが、僕がTシャツを脱ぐと、「げっ」と呻いて出て行った。「おかーさーん。変態、露出狂がいるー」って声が聞こえてきたのでやれやれ、とため息を吐いた。

 シャワーを浴びていると姉ちゃんが戻ってきた気配がした。何考えてんだ、アイツ。僕が出ていくこと、考えてないのか?

 ちっ、と舌打ちをして、とりあえずそのままシャワーを浴びた。浴び終わるまでに出て行かないかと思った。でもダメだった。だからシャワーを止めてみた。それで察して出て行かないかな、と思った僕が浅はかだった。微塵もそんな気配が無い。仕方なく「出るよ」と声を掛けると「もうちょっと待って」と返ってきた。僕は再び舌打ちをする。この人の「ちょっと待って」が、ちょっと、だったためしはない。

「もう出るよ」

 そう言って浴室のドアを少し開けると、「えっ、ちょ、ちょっと、まって!」と慌てて出ていった。

 着替えを終えてリビングへ行くと、ソファーに座っていた姉ちゃんがむっつり顔で立ち上がり、僕とすれ違いざま

「 へんたい 」

 とささやいて出ていった。僕は気にせずキッチンのテーブルに座り、手を合わせてから塩さばをつつき始めた。

「ねえ、お姉ちゃん最近遊びに行くこと多くない?」
「さあ」
「彼氏でもできたのかしらね」
「さあ、そうなんじゃないの」

 ごまかす必要もないだろうと思って素直にそう言った。「やっぱりそうなのかしらねぇ」とどこか他人事のようにつぶやくこの人を盗み見る。僕が気付いたんだから、気付いていて当たり前なのかもしれないけど。小言がうるさくなったのもそのせいかもしれない。僕もそうなったら気を付けよう。

 ――今のところ気を付けるようなことは何もないんだけど。

 昼飯を食べ終えると暇になった。本当はこの後ゲームでもしようかと思っていたんだけど、家に一台しかないリビングのテレビでは母さんが昼ドラを見ている。

「それ、いつも見てるの?」
「何言ってんの。いつも見れるわけないでしょ」

 呆れたようにそう言われて、少しカチンときた。

「じゃあ、なんで見てんだよ」
「おもしろいらしいのよ、これ」

 でもよくわかんないわ。そう続いた言葉に、そりゃそうだろう、と心の中だけでツッコミを入れた。連続ドラマをいきなり途中から見て、それでも面白いと思えるものなんて滅多にない。

 しばらく待ってみたが、見るのを止める気はないらしい。僕は諦めて自分の部屋へ向かった。

 階段を上り、ドアを開ける。中はサウナ寸前だった。東向きの部屋は必要以上に温められていて、窓を開けていても何の意味もない。ドアを閉めずに入り、扇風機のスイッチを押した。

 ありえないことに僕の部屋にはエアコンが無い。というかこの家でエアコンがあるのはリビングと両親の寝室だけだ。「そのうち付けるから」という約束はいまだに果されていない。今後果されるのかどうかも疑問だ。

 部屋の空気が流れるように扇風機をブンブン回しても涼しくはならない。ベッドの上で舌打ちをした。やはりどうにかして母さんをテレビの前から退かしてゲームをするべきだったか。

 しかしそんなことができるのなら実行している。かといって一緒にリビングにいるのも嫌だ。それならこの部屋で暑さに耐えているほうがマシだ。けど――。

 もともと何か目的があって部屋にいるわけではないから、そう長く不快な場所に留まる気にはなれない。Tシャツが体に張り付く感覚に耐え切れなくなって、僕は部屋を出た。

 キッチンに入り冷蔵庫を開ける。そこから麦茶を取り出しコップに入れた。リビングではまだ母さんがテレビを見ていた。姉ちゃんの姿はなかった。やはりデートにでも出かけたらしい。

 コップの中身を一気に飲み干し、もう一度そこに麦茶を注ぎ、氷を3個入れてテーブルに付いた。もし母さんがテレビを見てなかったらゲームをするつもりだったが、まだしばらくは動きそうにない。手に持ったコップはすぐに汗をかき、僕の手を濡らした。飲みながら、どうしたものかと考える。勉強をする、なんてものは元から選択肢にはない。

 中身をすべて飲み干し、氷をほおばった。奥歯でガリッと噛むと、キンっとわずかに痛んだ。虫歯か? ……歯医者はヤだな。別に治療が嫌なわけではない。何度も通わなくてはいけないのが嫌なんだ。一度で済ませてくれよ。こっちだって暇じゃないんだ。

 しばらく時間を潰していれば、母さんがテレビを見るのを止めるんじゃないかと期待していたが、そんな気配はまったくない。声を掛けると、結局宿題しなさいよ、なんて話になるので余計なことは言いたくない。時計の針は2時を指そうとしていた。

(あっ……)

 今日って、何日だっけ? カレンダーに目を向けた。8月4日、か。ちっ。やっぱり。マンガの新刊が出る日だった。部活の帰りに買うはずだったのに。

 中野のせいだな。あいつがアイス買おうなんて言うから。

 などと理不尽な言いがかりをつけながら、頭の中では計算していた。塾の帰りに買ってもいい。でも塾と本屋は反対方向。明日でも、いいか……。

 もう一度時計を見た。さっきから2分も経っていない。当然だ。それは儀式みたいなもので、時間が知りたかった訳じゃない。

 本屋までは自転車で5分くらい。雑誌でも立ち読みすれば暇潰しにもなる。涼むこともできる。帰ってくるのは3時すぎ、か? ちょうどいいな。

 5分後、僕は玄関で靴を履いていた。Tシャツにハーフパンツという部屋着そのままの格好。母さんには声を掛けなかった。ちょっとそこまで買い物に。掛けるまでも無いと思った。若干面倒くさかった。それでもそのまま黙って出て行くのは気が引けて、少し大きな声で「行ってきます」と言ってすぐに玄関の扉を閉めた。少し乱暴に閉めた。これでたぶん僕が外に出たことは伝わったはずだ。

 相変わらず外は暑かった。っていうか一番暑い時間帯じゃないか。もう、この時間の空気は拷問に近い。息苦しさを感じるくらいだ。うへ、と犬のようにだらしなく舌を出し、外に出たことを後悔しつつ、あきらめに似た気持ちで自転車を道路へ押し出した。

 ……。

 あー。あちぃ。だりぃ。

 そう思うのに100mもかからなかった。ペダルに左足を乗せて右足でトントン、と蹴り、推進力を得てから右足を上げサ
ドルにまたがる。そのまま慣性に任せて進み、やがてスピードが落ちて、再び推進力を得るためにペダルを踏み込む。理不尽に太陽を怨むには、それだけの時間があれば充分だった。

 間延びした昼下がり。蒸した空気。焼けたアスファルト。彼方の陽炎。輪郭の定まらない、やたらぼんやりした見えないもやみたいなものが僕を包んでいた。セミの声に洗脳される。思考力が奪われていく。

 何てこと無い十字路だった。住宅街によくある、狭くて、交通量の少ない、信号の無い交差点。まして今は平日の昼過ぎだ。そして僕の通っている道は停止線が無く、そこを横切る左右の道には停止線も標識もあった。

 だけど、だからこそ気をつけなければならないことはほとんど毎日この道を通っている僕が一番よくわかっていた。いろんなものは無視される。人にも、車にも。

 気づいたときには差し掛かっていた。

(あ、やべ)

 そう思ったのは一瞬で、(まあ大丈夫か)がその後ろに隠れていた。

 右を見た。問題なかった。

 左を見た。

 このとき僕はその十字路の中ほどまで来ていた。

 だから、問題があったとしても、どうなるものでもなかった。


 問題が、あった。

 何も聞こえなかった。

 何も聞こえなかったんだ。

 僕には聞こえなかったんだ。エンジン音も、タイヤが地面をこする音も、車体が風を切る音も。何もかも。

 それなのに、視覚は覚醒したみたいに鮮明で、何もかもが見たくもないのによく見えた。よく、危機的状況に陥るとスローモーションに見えるって言うけど、本当だった。


 車がいた。僕は車には詳しくないから、車種なんかわからない。軽みたいだけど、少し大きくて、やたら角ばっていて、黒かった。

 このタイプに乗ってる奴は運転が荒い気がする。きっとヤンキーみたいなチャラい奴が乗ってるに違いない。

 ほら、やっぱり。

 運転席に座っている奴は長髪で茶髪で髭が生えててサングラスをしてて、いかにもな感じだった。助手席にいた女もそんな感じ。やたら大きなサングラスが虫みたいだった。

 やけにハッキリ見えるなって、思ったんだ。

 そりゃそうだ。

 だって、目の前にあるんだもん。

 車のフロントが、僕の自転車に当たるのが見えた。



「――べ」



 一瞬だけ、音が聞こえた。2メートルくらいある風船が割れるような音だった。その後は、また何も聞こえなくなって、妙な感覚があって、空が見えて、景色が下にあって、それが、何度か続いて。

 あれ? これって、もしかして僕、今飛んでるんじゃね?

 そう思った瞬間、地面が目の前に見えて。

 あれ?

 これ――


 その後は、わからない。ただ――、なんとなく、切れた電話をずっと聞いているような、そんな感覚だった気がする。

君の手を 第1章

 ≪第1章 完≫

君の手を 第1章

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-14

Copyrighted
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