凛瞳歌(仮)
プロローグ
—男が泣いている。
視界はボヤけ、認識出来るのは唯一その男の視界いっぱいに迫った顔のみなのだが、どうやら深い悲しみに暮れている。男はみっともないくらい顔をくしゃくしゃにし、涙やら鼻水やらよだれやら顔面から出しうる水分を垂れ流していた。
—誰だお前は。何を泣いている。
そう言ったつもりであったが口は半開きのまま動かない。その時身体の自由がきかないこと、そして視界がボケているのは溢れ出る涙によるものと気付く。
—なんなんだこの状況は...
状況把握に努めた。身体の自由はきかず、涙は溢れ、眼前には見知らぬ男が女々しく泣いている。視界左下に見えるのは男の手。どうやら私の手を握っているようで、私は男に身を任せるようにもたれかかっているようだ。しかし、それ以上は解らなかった。ボヤけた視界に加え、首を思うように動かすことすら出来ない。それどころか、勝手に動いているではないか。
そうこうしているうちに、男の表情に変化が見られた。少し笑顔になっている。それに何かしゃべっているようだが何も聴こえない。というより、ずっと何も音がしていない。ただ、あたたかいものをずっと感じている。
そのとき、周りが一瞬にして光に包まれた。同時に激しい四肢の痛みと目眩いを感じる。
—あぁ、これか...
何度も何度も見ている夢だった。いつも痛みと目眩いは一瞬だった。これから先はいつもの通りだろう。しかし、さっきの男は一体...
その後はいつも通り、まばゆい光の中身体は浮いて上昇していき、いつも通り、上で浮いて待っている案内人(勝手に思っている)の少年の手を取り、天井にある大きな扉をくぐれば夢は覚める。
しかし、ここもいつもと違い、扉をくぐった先には闇が広がっており、同時に”声”が脳内に響いた。
「準備は整った。終わりの始まりだ。」
Ⅰ-Ⅰ 女
赤ん坊が泣く声が聴こえる。
意識が深い井戸の底からゆっくり昇ってくるように、目を開き完全に目覚めるまでのわずかな夢現つなこの瞬間がたまらなく好きだった。夢なのか現実なのか、意識が混在するなか目をもったいぶって開く。意識がはっきりしたときには既に赤ん坊の声は聴こえない。
起きてからの行動は決まっていた。歯磨きをしてシャワーを浴び、栄養を摂ることのみを目的とした質素な朝食をものの数分で済ませる。食事に対しての興味は薄い。
—年々味覚が薄くなっている気がする。
食事を終えた後は着替えのために別室へ。パスコードロックがかかったこの部屋には大切なものをまとめてしまっている。お気に入りの服やアクセサリー...ではなく、戦闘用のスキンスーツにブーツ、そして大きな鎌のような形状をした武器。刃の部分が三日月のようになっていて、切っ先は柄の三分の一辺りまで伸びている。鎌とは違い、刃は外側についており、全体的に細かい彫刻が施され、光の加減で表情を変える不思議さにほんの不気味さも感じていた。
スキンスーツに着替え、準備を済ませたところで家のチャイムが鳴り、同時にスキンスーツに内蔵された通信システムから男の声がした。
「お時間です。ご準備は整いでしょうか。本日は大会初日ゆえ、努々遅刻なさらぬようローバル様より言付かっております。」
男が言い終える前にうんざりした様な口調で「分かっている。」と一言。
心の中の悪態は眉間のシワと舌打ちで済ませた。とはいえ、ローバルは国内でも有数の資産家であり、彼女のスポンサーでもあったため表面上は繕ってなくてはならない。でなければ“舞い”で生活していくのはこの国ではまだ到底無理だった。
ふとテーブルの端の見慣れた写真を見直すも、丁度朝日の反射で幼い彼女の手を取った人物は見えない。
—覚悟を決めなきゃ。
飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、夜が明けて間もない午前五時、彼女は舞う為に家を出た。
もう、二度と戻らない覚悟をして。
凛瞳歌(仮)