瑠璃に沈んだ番人
どこ見てんの。俺の目、見れない?
見れないよ。
なんで。
今日は多分、泣いちゃうから。
◇
「ばか、ばか、ばかあーっ!なんで持ってんのよ!」
「いてて」
間抜けな声はセミの合唱に掻っ攫われて、瞬発的な痛みはすぐに皮膚の裏側に散漫した。ひとの汗が染みついた肩をちらりと見る。よそ見してんじゃないわよ、とまた叩かれた。
「いたいなあ。ごめんって言ってるじゃん」
「ごめんじゃない!せっかく私が街まで行って手に入れたのに!」
「ごめんってば。しょうがないじゃない、もらったもんは」
両手に、ふたつのフィルムカメラの重みをずっしりと感じた。あれだけ欲しかったものが、いざふたつも手に入ると、どうして欲しかったんだっけ、なんて、失礼な思考が脳裏をよぎったりする。
「売店のおじさんが搬入んとき買って来てくれたんだ。まさかお前が言ってくれてるとは思わなかったんだよ。まじで、ごめん」
でもさ、ふたつもゲットしちゃって、すっげえ嬉しい。そう笑うと、心底呆れた彼女の溜め息が、俺の顔をねっとりと撫でた。
ふと、いつフィルムカメラが欲しいなんて言ったっけ?という疑問符が浮かんだ。いつだか無意識に漏らしていたのだろうか。
家から最寄りの港を出て船に揺られること約三十分。そうしてやっと、俺たちは生活という生活に触れることができる。この島には小さな売店と、漁場と、似たような民家。この三点の往復という選択しか存在しないのだ。なにもない島。俺たちはこの島の未来を半強制的に背負わされた、数少ないいわゆる『次世代の若者』だ。
「あーあ。あんたはいっつもそう。そうやってへらへらしちゃってさ」
「ごめんって」
「そんなことしてるからだめなのよ。いっつもいっつもばかするんじゃない。世の中舐めてんじゃないの。わかってんの。ねえ、ドンヘ。あんたそのままじゃ一生ひとりぼっちなんだからね」
今俺たちは、地球上で一番太陽に近い面にいるにちがいない、と思う。そう思わせるほど痛い日差しにも負けじと、俺の大好きな幼馴染は言葉を連ねた。世の中。君のいう世の中って、この島のこと?だとしたら、すっごく笑える。俺は思うだけで、口にはしなかった。
「あたし、もう絶対に助けてやんないんだからね。あたし、あんたのことだいっきらいだもん」
「うん。そうだね」
すこし口角を動かすだけで、汗が流れた。とがらせた彼女の唇をつまむと、むきーと言って(ほんとうに言った)、小さく並んだ白い歯をめいっぱい噛んで、ぎりぎりと、威嚇した。かわいいな、と俺は思ったけれど、思うだけで、やっぱり口にはしないのだ。
「・・・思ってんでしょ」
「なに?」
「どうせ、つまんないって思ってる」
小麦色の肌に、黒いさざ波がこぼれる。触れたいと思ったときにはもう、その波は引いて、手の届かないところに消える。
「こんな女、こんな家、こんな島。ぜんぶぜんぶ、つまんないって思ってるんだわ」
消えた波はかならずまたやってくる。サイダーみたいにぱちぱちと音を立てて、波は、夏は、やってくる。やってくるものは、拒むことはできない。俺たちはただ、ぼうっとその訪れを待つことしかできない。
「達観してるのね」
俺の言葉に、彼女は笑った。
「ちがう、諦めてるだけだよ」
言うと、彼女は妙に納得した顔で、世捨て人ぶる犯罪者ほど悪質なものはないわ、というのだった。
犯罪よりも、もっと罪深いもの。逃亡よりも、もっとずるいもの。島の滅亡が、俺の目標。そんな凶悪な顔を隠しながら、俺は縁側で呑気に西瓜を齧りながら漁場の事務仕事をしていたりする。なんて奇怪で危ないやつだ。そんなふうに自分を馬鹿だと思うことが、もう半分趣味と化していた。
島は、俺が生まれる何百年も前からずっとずっとここにあるのに、簡単に消えちゃえばいいと思ってる。俺が今隣にいる女の子の黒い髪の毛を引っ張って、レバーみたいに、どっかーん。そんなふうに一瞬で、消えちゃえばいいと思ってる。いたい、という彼女の声を、すこしだけ我慢すればいいんだ。そんなふうに、思ってる。
「・・・もう、あんたと話してても時間の無駄だわ。あたし行くね。彼、待たせてるし」
「うん」
「鍵、締めとくわよ」
「うん・・・あ、ねえ」
「ん」
ガシャコン。
このボタンで世界は変わる?
「・・・へへ。記念すべき一枚目だよ」
少し期待をした。でも島の呼吸はなんの乱れも揺れもなく、ただ平たんに続いていた。
「なに、撮ってんのよう」
セミはまだ鳴き続けている。そしてやっぱり彼女はかわいい。かわいくてかわいくて、ごめんねなんて言うのだって、本当はいやだった。
「ごめんごめん。現像して、ポスト入れとく」
手をひらひらと振ると、彼女も同じように振ってくれた。美人でびっくりするわよ、と照れくさそうにはにかんだ。
俺にとってこの島は牢獄だ。逃げ道のない迷路だ。音波も届かない真空の暗闇だ。いつまでも殺したい、滅亡させたい唯一の存在だ。そして俺は、ここで果実を齧ってのうのうと暮らしていくと決めた。
君を待つ、ために。
君を映した俺の瞳が腐るまで、ここにいて、君を待つ。
遠くで汽笛の音がする。君の乗る船が来たのだろうか。そんな妄想をやめることができないなんて、俺は多分、まだ傷ついているんだ。
かわいさもいとしさも、全部捨てて走りだせるくらい、君を愛していた。
◇
ドンヘ、と呼ぶ声がした。今日は街で花火大会がある。
「待って!あとちょっとで準備できるよ」
「おっせえなあ」
そう言って呆れ顔で笑うウニョクは、玄関の姿見でじっと自分を見ていた。
「おまたせっ」
「おー」
ふたりして、同じような格好をしている。背丈から宿題の進度まで、俺たちはなにもかも似ていた。ウニョクは小学校の時に母親の養生のためにこの島に引っ越してきた。屈託がなく溌剌としたウニョクはすぐに島になじんだ。
「俺昨日おんなじの乗った」
「え?どっか行ったの」
「ちょっとこれ、買いに行ってたの」
そう言って開かれたウニョクの手の中には、媚びるような色彩のシールが張りつけられた、フィルムカメラがあった。
「カメラじゃん」
「そー。今日使おうと思ってさ」
ウニョクは自慢げにカメラの丸い角を撫でた。心臓の端っこがなんだかくすぐったくて、俺はウニョクを見つめることでそれを消化した。
「ん?」
「いや・・・そうだ。俺、街出るの一週間ぶりくらいなんだよね」
街に出る。それはこの島の住民にとって肩に力が入る出来事なのに、花火大会という響きがそのどきどきをわくわくに変えた。船に乗りこむとぼんやりとした熱帯夜の空気が俺たちを襲った。
「あいつは?また置いてかれたとか言って泣かれねえ?」
「あー。なんか、彼氏と行くんだってさ」
「なんだよあいつ、節操ねえなあ。こないだ別れたばっかりだろ。幼馴染として、心配じゃないわけ。俺だったら一発喝入れちゃるけど」
ウニョクはどうでもよさそうに言う。昨日おぼえたばかりの言葉みたいだった。
「どうでもいいよ」
どうでもいいんだ、そんな話。俺は蝋燭の灯を消すみたいに呟く。
「は?薄情な奴」
「どっちが」
俺はウニョクの手を握った。それは一瞬のできごとで、次の瞬きのころにはその熱は空気に変わっていた。
「やめろ」
「なんで。俺、ウニョクと手つなぎたいよ」
「もうすぐ街に着くだろ」
揺れたウニョクの黒い瞳にぴかぴかと発光するかたまりが映った。宝石にも見えるし、ごみみたいにも見えた。
「このまま、どっか逃げちゃいたい。花火なんて見たくない。俺、学校やめたい。島民やめたい。街行って、列車乗って、飛行機乗って・・・どこでもいい。二人で暮らそう」
ウニョクの手の甲に触れる。細い血管が彼の命を象っていた。
「あんな海ばっかでおせっかいで地味であっつい島、なくなっちゃえばいいよ。俺たちを歓迎してくれない。あの島の人たちは、俺たちが本気だって、信じちゃいない」
「お前、本気なの」
「本気だよ。本当のこと・・・言うとね。本当は、俺、もっとね。恋人みたいに、したい。ふつうの恋人みたいに・・・したいの」
声が震えた。はずかしくて、泣きそうだった。
あいつらは、言った。ただ心が惹かれていることが、嘘だと言った。そんなの幻想だ。早く目を醒ましなさい。そう、あの島の人間は言ったのだ。
「俺はウニョクが好き。ウニョクも俺が好きでしょ?なのに、どうして触ることもしちゃいけないの?」
「ドンヘ、」
ウニョクは悲しそうに微笑んで、見上げる俺の額に唇を寄せた。
「ほら、こうして触れられるだろ」
俺の喉は呼吸をすることも声を出すことも忘れた。心臓の奥がきゅうっと収縮していく。その力がやがて限界を訴えたとき、見計らったようにウニョクのもう一つの手のひらが、俺の髪を静かに包んだ。それだけで、俺の心臓はまんまとやさしく、やさしくなってしまった。
「・・・お前は俺の、恋人でしょ」
「うん」
「泣きごと言うなよ。俺もお前と同じぶんしか生きてないから、なんて言っていいかわかんないし。それに、俺はあの島が好きだ」
好き。この言葉に嘘はないんだとすぐに分かった。あのとき、俺に言ってくれた「好き」と似ていた。
でもね。
好きなものは好き。それと一緒でさ。
きらいなものは、きらいなんだ。俺は、島を出たい。ウニョクへのきもちを大事にしたい。誰かに奪われたくない。守りたいんだ。
形容できない寂しさや悔しさが込み上げて声をつぶした。
「ドンヘ?」
口に出したら、もう永劫撤回することはできないから。中途半端に偉ぶる自尊心と、最後の一歩が踏み出せないこの自分の弱さが相反して、結局俺はどこにも行けなかった。
「ん。なんでもない。そうだね。ごめん。ごめんね」
今のは忘れて。俺は顔を上げてほほえんだ。ウニョクはなにか言いたそうだったし、俺にはその言葉が容易に想像できたけれど、あえてお互いに問うことはなかった。この船が意思もなく人を街から島へ、島から街へと運ぶように、俺たちの言葉や感情も、自分の思いとは離れたところで意思もなく動いていたりする。望んでも、求めても、どうにもならないことだってあるのだ。島が教えてくれたことは、それくらいだった。
「お前さ、書いたんだって?進路調査票に俺の名前」
「書いたよ。だって他にやりたいことなんてないし。街に出たいけど、大学なんて死んでも行きたくないし」
「だからって志望校・就職先に俺の名前を書くなよ。俺、呼び出されちったよ」
なにを話したの?またへんなこと言われたんじゃないの?俺の質問に、ウニョクはただ笑って首を横に振るだけだった。
好きだ。この、半分に割れた真っ白のチョークみたいな、夏の終わりの積み重なった宿題みたいな、なんてことない、けれどどこか愛おしくてくすぐったい感情が。苦しみにも似た痛烈な絶景が。まぼろしみたいに光っては消える、儚い君の笑顔が。
「あ。」
夏の花が夜空に散った。結局、街は俺たちには遠すぎるのだ。
「間に合わなかったね」
「ちきしょー」
この地響きも、なんの助けにもなってくれない。かわいい幼馴染でさえ、気を遣って俺たちを二人っきりにしてくれたり、このおんぼろの船でさえ、俺たちを灯りの灯る街に運んでくれるというのに。手を伸ばしても届くはずがない。遠く、遠くで爆発する炎。記憶のユートピアに葬ろうか。いや、いっそ見なかったことにする。嘘にする。このばけものは、嘘の虚像だ。
俺は、はっとした。
もしかしたら。
悪い夢だと、若気の至りだと、そう名付けられた俺たちの思い。暗黒の中で無我夢中に弾け飛ぶ花火。これらはこの世で最も遠い位置で咲いて、そして限りなく相当に等しい境遇にあるのではないか。だとしたら、残された運命は、乱れ散る、そのひとつだけ。灰色の残骸だけを残して、また来年、と消える運命。ウニョクと俺の、抗えない運命。その真相を確かめるには、今夜の夜空はあまりに遠い。
「きれいだな」
全然きれいじゃない。誰も、ウニョク以外にきれいじゃない。なにも、感じない。ウニョク。俺のそばにいて。
「きれいだね」
目を開いて、瞳を綴じた。フィラメントのごとき縮れた残像が、まぶたの裏に軽蔑のまなざしを残した。
「ドンヘ。なに考えてんの?」
簡単に答えなんて出せないことを知っているくせに、意地悪だなあ、と俺は思う。何を考えてるか?島を出たい。君が好きだ。それだけを考えてるよ。そう言ったらウニョクは信じてくれるだろうな。だから、俺は言えなくなるんだろうな。
「どこ見てんの。俺の目、見れない?」
「見れないよ」
「なんで
「今は多分、泣いちゃうから」
え?と訊き返したウニョクの声さえ蜃気楼のようにぼんやりと霞んだ。当然、ウニョクの耳には俺の声は届いていないのだろう。二度目に真実は薄すぎる。映らないさ、《ほんとう》なんて、きっと。
「着いた。ほら、降りよ」
「ん~。おまえって、変なやつだよ」
「だから、どっちが」
「ま、いっか。せっかくだからちょっと買い物して帰ろうぜ。ほら」
なんとも自然に差し出された手は、上からの光を吸い込んで月みたいに見えた。この手のひらが必要条件であって絶対条件ではないことは、このときの俺にだってよく分かっていた。分かっていながら背中を向けたのは多分、若さなんて甘ったるい言葉だけでは言い表せないほどの熱が、俺たちの心臓を渦巻いては離さなかったからなんだろう。この島と俺たちとをぐるぐるに結び付けて離さないのとほとんどおんなじように。
俺は、この月光を翳らせないようにその光にそっと触れた。そしてこの光が次に離れたときには、これを抱きしめて離さない勇気、そしてその力さえも、俺のなかからはあまねく消えてしまっていた。
ウニョクが俺の前から消えたのはそれから一週間後のことだ。
しばらくして、街に出て、フィルムを現像してもらった。返ってきた写真はたったの一枚だった。あの日、花火を見上げる俺の横顔だけが、かそけき夏の幻の中にぼんやりと浮かんでいた。
◇
風に押された自転車がキイと鳴いた。そう遠くない追憶の世界から引き戻されて、しばらく眠っていたことに俺は気がつく。眠っていたというよりも、気絶みたいだな。俺は心の中で少しだけ笑って、また空を見上げた。
「暑いなあ」
潮の匂いに乗って子供たちの声が鼓膜を揺らす。こんな島、きらいだ。
ウニョク、どこにいるのかな。なにを食べているのかな。どうして俺の前から消えたのかな。どうして俺をひとりにしたのかな。
わからないことはわからないままで、地面に埋めて植物に還せば、またいつか俺の口の中にすうと入ってくるのだろうか。呼吸みたいに、ひとは悩み続ける。
ウニョク、どうして俺をひとりにしたの?
世界の終わりが明日だと知ったとき、人間の行動はふたつの種類に分類されるという。暴動するもの、静観するもの。俺はどうするだろう。
ふと、手元に転がる二つのカメラが目に入った。写真。そうだ。写真を撮ろう。
ウニョク、こっちを向いて。
なんだよ。俺、写真撮られるのきらいなんだよな。
思い出つくろうよ。ほら。
いやだ。お前も一緒に映れよ。
俺はいいんだ。ウニョク。ウニョクを撮りたいんだ。ねえ、お願い。
・・・わかったよ。
いくよ?はい、チーズ。
たとえその写真を現像したとして、それがかすにもならずにこっぱみじんに燃えてしまうと分かっていても、いい。レンズ越しに愛する人を見たい。きれいな水晶に映る彼の栗色の髪の毛、サンゴ礁のような色白の肌、ビー玉の瞳、手のひら、笑顔。あの笑顔が大好きなのだ。あのとき、どうしてウニョクは俺の姿を映そうとしたのだろう。
「・・・なにしてんのよ」
「うわあっ」
彼女が立っていた。
「忘れものした。今から花火するのに、ろうそく置きっぱなしにしちゃったわ」
「ああ」
縁側の隅に転がっていたマッチ箱とろうそくを取ってやった。
「ありがと。あ、あんた寝てたわね?痕、ついてる」
「ちょっとだけだよ」
もう、ドンヘったら。彼女は諦めたように笑った。
「花火か。いいな」
「ドンヘもやる?」
「俺はいいや」
「ほらね。どうせはなからやりたくなかったくせに」
「はは。全部わかっちゃうんだな」
「わかるわよ。あんたと何年一緒にいると思ってんの。全部わかってんのよ。・・・ねえ、忘れろとは言わない。けど・・・あいつは戻ってこないよ。待ったって無駄なんだよ。もう、べつの幸せ、見つけていいんだよ」
彼女の影があのときの夜空を発起させた。あの花火は、本当にきれいじゃなかった。今まで見た花火のなかで、一等醜かった。初めて愛した人と過ごす、最後の夏の夜だったというのに。
「もう俺のことはいいから。ほら、行けよ。彼氏、待ってんだろ」
「・・・はいはい。行きます、行きますよーだ」
絵の具を広げたような青が俺たちを抱えている。もうすぐ、この島に呪われて二十年になる。君が消えてから、いくつの呪文を唱えただろうか。
「じゃあね」
「うん」
俺はこの呪いから逃れることはできない。
星形に砕けた西瓜。解れた綿の毛羽立ったサドル。遠くで止んだ蝉の鳴き声。
俺に残ったものはなに?
本当に、君が好きだった。心から君を、守りたかった。
夏が、やってくる。消えた波はかならずまたやってくる。サイダーみたいにぱちぱちと音を立てて、波は、夏は、やってくる。
やってくるものは、拒むことはできない。
俺たちはただ、ぼうっとその訪れを待つことしかできない。
それが今俺にできる、最大の犠牲であり、悦びだ。
君のいない夏は、絶望的に美しい。
瑠璃に沈んだ番人