非屈服論

平瀬敦

心臓病と俺

3度の手術で俺は変わっちまった。俺はすでに三回死んだんだ。心臓を止めているんだから。そんなやつが「常人」なわけないだろ。誰かの言葉を借りれば、俺もzombie・・・・なんだよ。

俺は助かると同時に使命を背負わされたんだ。

何度も何度も、心臓病なのにマラソンに出ろと言われたりしていた。つらかった。本当は、走りたかった。元気よく滑走したい。それもできずに、学校の近くの山を往復するのが関の山だ。

マラソンなんてできやしなくても、中学校の時は、町内を歩ききった。でも、あいつらは、その後も「誰もができるだろう」と思って俺を睨んだ。

そいつらの中で脱落した者たちがいた。彼らは、俺が絶対に歩ききることはないだろう、卒業することはないだろうと宣言していたのだ。そんなやつらは、俺が歩ききったことをただ茫然と聞いているしかなかった。

健常者気取ってる連中とは一生噛み合わない、そう感じる。俺は、苦しみながら生きながらえたってのに。でも俺は世界を恨まなかった。

あいつらを恨まなかった。恨む暇があればあいつらを超えてやる、そう誓った。

そんな決意のやつしか世界を変えられないことも知っているさ。

俺の心臓病が好きな人に迷惑をかけることはわかってるから、俺は恋に関して高望みせん。その代り、世界数十億の命がたった一人の犠牲で助かるなら、いつでも俺が志願するので呼んでくれ。それ以外は俺の命を無駄にしたくねえ。

世界を変え、世界を動かし、世界を創造し、世界を繋ぎとめる、それができるのは、一度「死の淵を経験した者」だけだ。誰にでもその資格はあるのに、みんな気付いていないだけだ。だったら気づいている奴が先行するしかないだろ。

自分の為に、誰かの為にではなく

自分の為に、誰かの為に、そう考えている間は誰のためにもなっていない。人は所詮、知性を制御しきれない。小者は理性という名の仮面をかぶって活動するしかねえんだ。

俺は、自分の為に、誰かの為にではなく、本能のままに誰かを助けるし、本能のままに自分を救う。本能って奴はそんなに悪くはないさ。本能は、人間が生まれつき持っているものとされる。

その生まれつき持ってる本能は「人によって差がある」が、差があるからこそ時に理性を本能が越えてもいいだろう?本能のままに動いてそれで成功するなら、誰かを巻き添えにしないなら、本能のままに俺は動く。

理性も知性も本能も、すべては似て非なるものだ。しかし、人々の感覚は、「本能」に関しての抵抗を持っている。その点俺は、本能も理性もすべて受け入れて活用する。

本能にも理性にも抵抗せず、「すべての自分を受け入れる」ことができれば、人はもう一つ上の段階に昇華することができる。ある行動へと駆り立てる性質を理性で抑止しても、何も得られやしないのだから。

非屈服論

非屈服論

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-14

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 心臓病と俺
  2. 自分の為に、誰かの為にではなく