青の世界。
ある事業の文学部門に応募して佳作だった作品です。
タイトルは忘れてしまったので、さっきつけました。
近々推敲した後、他のサイトに載せさせていただきます。
無邪気な子供の声が聞こえた気がして私は目を覚ました。
白に覆われた無機質な空間に、頬を撫でる優しい風が入り込んでくる。
ふと目を向ければ、私のすぐ横にある窓は開け放たれていた。
正方形のそこから、世界のすべてが見えた。
「晴香ちゃん、お注射打ちますよー」
私がすごく小さかった頃から変わらないその呼び名。
もうすぐ十六歳になるのに、さすがに“ちゃん”は恥ずかしいと思う。
「それ、打たなくていい。」
細身の本体に透明の液体が入っているそれは、決して痛そうには見えない。だからこそそれが効きそうだと思えなかった。
「どうして?これ打ったら晴香ちゃん、よくなるのに。」
「……いらない。」
何度も聞かされてきた言葉。
“これを打ったらよくなるよ”。
その言葉が真実だったためしは一度となくて、その証拠に私は検査と手術以外にここを出たことはない。
馬鹿みたいに素直にそれを聞き入れていた時代はとうに終わったのだ。きっと私は何をどうしたってよくならない。
「でもねぇ、これ打たなくちゃいけないのよ?」
看護師さんの困ったような声。
お医者さんが決めたんだから、抵抗なんてほとんど無意味だということは分かっていた。
分かっていたけど。
だから私は黙って腕を差し出す。何度と繰り返されたやり取り。負けた気すら起きなかった。
私の目に、消毒の匂いが染みついた白と、ここから見える青以外の色が映ったことはない。
気づいた時からずっとここにいた。誰も何も言わないけれど、生まれてから一度もここを出たことがないのだろう。
お父さんが持ってくる小説を何百冊と読んだ。そこから想像ですべてを作り上げた。
私の知らない世界にはたくさんの高いビルが建っていて、人々はいかにも忙しそうな早足で、無表情をはり付けて歩いているらしい。
正方形の窓から見える雲ひとつない青空。ここからの景色は、外の世界よりよっぽど綺麗で美しいはずだ。
それでも私は叶わない夢を絶えず抱く。外に出てみたい、と。
ここではない世界に生きたい、と。
珍しく、窓のふちに小鳥がとまっているのを見つけた。スズメにも見えるのに、その体には藍色の綺麗な曲線が描かれている。
まるで絵画のような濁った美しさに引き込まれそうで、鈍ってしまった身体をおこすと窓に寄った。
しかし手を伸ばした瞬間小鳥はパタパタと飛び去ってしまう。
初めてだった。正方形より広い世界を見るのは。
眼下には芝生と大きな木があった。ベンチに道に、たくさんの人がいた。
車椅子にのっている人、点滴装置をつけて歩いている人。それなのに、楽しそうな笑顔を浮かべているのはなぜ?
それは、疎外感に近いようで、憎しみにも似ていた。自分が得ることのできない幸せを壊してやりたい。
そんな醜い感情を抱く自分が分からなかった。私はベッドに座りこむ。
次の瞬間、ガラスの割れる音と甲高い悲鳴が聞こえた。
あまりに非日常的な雰囲気ばかりが漂うものだから、気になって再度立ち上がる。人の匂いに眉を顰めた。
案の定廊下にはたくさんの人がいて、その光景を見つめていた。
ただ花瓶が割れただけなら、なんでもないのだろう。中央には、背が高く細い男の子が立っていた。
私と同じくらいの歳だろうか。
サラサラの黒髪からも、白い肌からも健康的な印象は受けない。
看護師さんの静止の声を聞かずに、彼は点滴装置を雑に引っ張って歩く。彼がやったのだろう。
「ねぇ。」
ちょうど私の目の前を、彼が横切ろうとした瞬間呼びとめる。立ち止まると、目だけをこっちに向けた。
「花はどこにやったの?」
不自然な空気は、花瓶の破片と飛び散った水からだ。そこにあるはずの花がない。
「自由にしてやっただけだ。」
悪気のなさそうにいった彼は、私とは明らかに違う。この人は、誰にも何にも縛られずに自分で生きているんだ。
きっと、醜い感情も抱かずに。
惹かれてしまった。
近づかないほうがいいと点滅する新号を無視してまで、私は…
その日から、私の欲求は極度に高まった。
外に出たい。
外に出たい。
外に出たい。
連れだしてほしい。
「外出許可出してよ。」
初めてそう頼んだ私に、看護師さんは目を丸くした。白い手を口元に当てて考え込むように俯く。
「晴香ちゃん、まだよくなってないからダメじゃないかなぁ……?」
「一生よくならないんでしょ? だったら外に出たい。」
好きなようにやりたいよ。今まで我慢していたこと、今まで感じられなかったこと。
どうせずっとここで生かされているだけなら、精一杯遊んで死んだ方がマシだ。
「そんなこと言ってちゃ、治るものも治りませんよ。」
退屈だ。“自由”に出会ってしまった私は、今の生活じゃ満足できない。
十分に動かない身体をどうにか動かしたくて私は窓に向かう。そこにはやっぱり、楽しそうな世界が広がっていた。
どんなに願おうとどんなに足掻こうと、きっと私は触れられない。
「あれ? あの子……」
骨折で入院している大学生の三好さんが目を細めて向こうを見ている。
お見舞いに来ていた三好さんの友人も私も、つられてそっちを見た。
「この前花瓶割った子じゃない? 看護師さん呼んだ方がいいかな……。」
三好さんがナースコールに手を伸ばすから、私は急いで廊下に出る。
初めて走ったせいか病気のせいか定かでないけどとりあえず苦しくて、私はその場にしゃがみ込んだ。
彼が振り向いた。
「何?」
冷たくて、どこか落ちついた声が何故か心地よく響く。
すぐに向こうから看護師さんがやってくるのが見えた。三好さんがナースコールを押したのだ。
早く、早く言わなきゃ。今は私を迎えに来てくれた白馬の王子様にさえ見える彼を。
「……私も、自由にして。」
正方形がオレンジ色に染まる瞬間を、初めて綺麗だと思えた。
それもこれも約束があるからだ。やっと、外に出られる。そう思うと胸が躍って、一人で笑ってしまいそうになるくらい。
そして私は初めて普通の服を着た。いつもは全然可愛くない病衣を纏っていたけど今日は違う。
これから数時間は、病人なんかじゃなくてただの自由な女の子だ。お母さんが自身の楽しみで買ってくる服を、自分で包装紙から出した。
白いワンピースに淡いピンクのカーディガン。普通の女子高生が普通にやっているオシャレを、ぎこちなく始めた。
今まで興味のなかった事がこんなに楽しいなんて。全身鏡などないから、似合っているか分からないままに病室を出た。
そこにはすでに来ていた彼が立っていた。
「あ、」
読んでいた文庫本を閉じると、私のほうを見もしないでさっさと先を歩く。追いつかなくてはと私も早足で歩いた。
何も言わせない雰囲気に、どこに行くのかすら聞けない。もっと喋りたいという希望は、そっとしまいこんだ。
自分の足でロビーに出たのも初めてだったのに、ついに病院の外に出てしまった。
一日にたくさんの“初めて”を経験してしまい少し混乱する。でもその混乱すら気持ちよさを与えるほど、私は嬉しかった。
それに、そんなことをいちいち考えいてる暇はない。ここから先は芝生だ。
私が嫉妬した、あの楽しそうな世界……。
その光景を焼きつけるように、一歩一歩を正確に歩いた。足の下で芝生が潰れる感触が、少しだけ気持ちいい。
大きな木が見えた、そこを取り囲む人々の笑顔も。私がさっきまでいた病室も。正方形の窓も。
そこから見える空は、私の全てだった。
でも、反対に窓から見えてしまった私の病室は、酷くつまらないものでしかない。無意識に咎められている感覚に陥る。
あの部屋から、私が覗いているのではないか。そして、きっと責めている。
美しいと信じた世界を、あっさりと捨てたことを。
「灰色だ……」
愕然とした。想像で作っていたビルも、地面も、全て灰色。
時々見える看板は、奇抜で目に痛い。これが、外の世界……?
お世辞にも美しいなんて言えない世界にめまいさえ覚えた。急に、自分の元々いた場所に戻りたくなって振り返る。
でも、ここからは既に病院は見えない。私の世界は見えない。
「ここは、嫌い?」
静かな声が問う。私は素直に頷いた。
確かに歩く人々は無表情で不満気に道を行く。一瞬でも外は楽しそうだと幻想を抱いた私は馬鹿だ。
「……もっと落ちついた場所ならあるよ。」
長い長い階段を登り終えると、彼と違って私は息を切らしていた。
「こっち。」
何故だか、彼はすごく楽しそうだった。木々に覆われた神社はの壁には蔦がはっている。
「もう使われてない場所なんだ。」
柱に触れながら、彼は懐かしむように言った。
「どうして?」
全く人の気配のしない、清らかな雰囲気の漂う空間。それは神聖というより、何か禍々しいものを感じるほど。
何も知らない人間を寄せ付けない空気を放っている。つまり私に来るなと言っているよう。
彼は私の質問に答えてくれたけど、それは風の音にかき消された。
お賽銭箱の前に二人で座った。階段の奥に見えるのは、小さくなった灰色の街。さっきの場所からこんなに歩いてきたなんて。
「ここ、友達とよくきて遊んだんだ。」
彼は笑って足元の石を蹴った。私には、友達なんて存在していた記憶がないから
どういう反応をしたらいいのか分からなかった。とりあえず笑ってやり過ごそうと思った私を知ってか知らずか、彼は話を続けた。
「友達って言っても、いつも同じ子なんだ。近所の同い年の女の子なんだけどね。」
私が、丈夫な身体だったら。病院になんかにいなかったら、この人ともっと早く会えていたんだろうか。
それは無理だったかもしれないじゃない、と浮かんだ理想を潰した。
だっていまさら何を思ったところで、過去に何一つ変わるものはない。分かっているのに。
「最初で最後の恋の相手なんだ、あの子は。」
その時、胸の奥の奥の方で何かが痛むのを感じた。
擦り傷に似た、気のせいだと紛らわせるほどの微かな痛み。
そういう感情を持ったことはなくて、動揺しているのを知られたくなくて、私は俯いてきつく目を閉じる。
「あの子はいつもピアノを弾いてたんだ。」
ピアノの音色を私は知らない。何も知らない私はまたその女の子に嫉妬する。彼に出会ってから、私はこんなにも醜い。
「よく遊んでたのに。レッスンがあるって、途中からあまり遊ばせてもらえなくなって……」
彼の声が微かに悲しみを帯びていた。
「本当に好きで、もっと一緒にいたかったのに…っ」
どんどん苦しさを増す彼の声に耐えられなくて私はやっと顔を上げる。彼は両手で顔を覆っていた。
分からない、私には全てに関しての経験がない。全てを構成しているのは本から得た知識だけ。
ヒロインは悲しみにくれる愛しき人を抱きしめるのだろう。そして言う。
「だいじょうぶ、私がいるから。」
彼の表情が一瞬歪んだ。その意味を私は悟れずに、抱きしめようとした手を引っ込める。
ただ単に火照る全身がそれを拒んだからだった。
「ありがとう……。」
照れたように彼は笑う。それだけで、さっき傷んだ部分は揺れる。
もう何も聞きたくなかった。
自分の気持ちに気づいたのに、彼の好きな子のことなんて。
それでも好奇心はグチャグチャした感情に勝って、彼を止めようとしない。
「最後にあの子に会った日、あの子は自由になりたいって言ったんだ。」
自由に、なりたい。
その言葉はあまりにもさっきの私に似すぎていた。
子供が抱く感情としては、あまりに残酷でつり合わない。
でも作り話だなんて思わせない程、彼は真剣な目をしていた。
もしかしてその子と私を重ね合わせているの?
そうだとしたらあまりに私は惨めすぎる。口に出せば全てが壊れてしまいそうで、怖くて飲み込んだ。
「……それで、最後ってどういうこと?」
「あの子、記憶喪失になっちゃったんだ。」
あまりに不自然な軽い口調で、この場に似つかわしくなかった。
「なんで……」
「可愛いあの子が、汚い世界で大人たちの理想の為に動いてるの、嫌だったから。」
何かがおかしい。
これ以上踏み込んじゃいけない。
分かっているのに、どんどん引きこまれるように私は何も考えずに
深く深く、後戻りできないところまで来てしまう。
「それは、つまり」
「あぁ……うん、僕が、」
無邪気な、子供の声が
「僕が、自由にさせてあげたから。」
「会えたときは、嬉しかったよ。」
虚ろな目に、私が映ってるなんて思えなかった。
それでも差し出されたその手は、私の知らない手じゃない。
「忘れたなんて言わないよね?まーくんだよ、藤谷昌樹だよ。」
いつの間にか、私は走ろうとしていた。
もと来た道を戻れば何処かに人がいるはずだ。
狂ってる。これはきっと悪い夢だと考えたところでもう遅い。
砂利につまづいて転んでしまえば、もう立てないのだから。
余裕を持って、ゆっくりと近づいてくる足音。
「晴香ちゃんを必死になって探してたら、病院に辿り着いたんだ。」
これは、危険信号を無視した罰だ。
「記憶なくして生きてるって噂は本当だったんだって、嬉しかった。」
違う。
これは
「まさか病気なんかでまた縛られてるなんて予想外だったけど。」
貪欲に自由を求めた私への戒め…。
動作が鈍くなって、それでもやっとの思いで振り返る。
笑顔のまーくんがいた。
「これでやっと、願いを叶えてあげられるね。」
伸びてくる白い腕を見るのは初めてじゃなかった。
点滅しながら浮かんだ正方形の窓に手を伸ばした。
でもどんどん遠ざかるそれは、私を嘲笑うように消える。
幸福だった正方形の世界が消えた。
青の世界。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。