雨は、やまない
あたしは、あなたが、すき、だった。
『雨は、やまない』
うす暗くて、生ぬるいお風呂に浸かっているみたいな、変に心地よくて、涙にも汗にも気付かない、そんな空間。あたしにとってのレイの家は、まさしくそんな空間だった。レイは、目に映るすべてのものを愛すること、それを自分の使命のように生きている祈祷師の青年だった。世の中から浮いていたり、蔑まされている人々に手を差し伸べては、すかれたり、厭われたり、そして、殺されたりした。
レイの家はそれから、あたしを唯一肯定する場所となった。レイの居た頃は、レイと居ればいつだってそこは、あたしを肯定する場所だったけれど。レイの居ないレイの家で、あたしは動けなくなって、ひたすら眠ったり踊ったりした。
あたしの心には、雨が降り出した。
レイの本当の名前は、あたしに何の意味も与えない。レイという音を彼に当てはめたのは、他でもないあたしで、それはレイに初めて出会ったときに、彼の話し方と顔立ちと、全体の雰囲気で、あたしが第二の名付け親となった。
レイはよく、変な食べ物をつくった。創作料理だと言っていた。またお酒がすきで、よく飲んでいた。あたしのすきなミルク割りを、たまに得意げな顔でつくってくれた。あたしにできることなんて、踊ることと、ただそこに生きていることくらいだったから、何でもこなしてしまうレイを見て、たまに居心地が悪かった。だけどあたしが踊ると、レイはよく目を細めて眩しそうな顔をしながら、笑っていた。それはレイが、煙草を吸うときによく似ていた。
あたしは、レイのことが大すきだった。例えば目がすきだった。広い世界を見渡せる、凛とした目がすきだった。例えば声がすきだった。深く祈りを捧ぐ、落ち着いた声がすきだった。例えばその声で発せられる美しい言葉たちがすきだった。それらはあたしたちに向けられたり、神に向けられたりした。何者をも傷つけることのない、美しい言葉たちだった。
レイが殺されたのには、レイがつまんないキレイゴトがすきで、世の中のすべてを愛するために生きようとしたからだ。レイは毅然とした美しい祈祷師だったけれど、お酒がすきで煙草も吸うから、確かに目立っていた。他にレイには、数々の仲間たちが居て、それは世界から離れて生きたいと考えている者たち、即ちレイのようにすべてを愛せず、愛しようともしていない、はみ出し者の仲間たちが大勢居た。だからレイは、祈祷師たちの中でも、一際目立っていたのだ。
だけどレイは、非常に優れた祈祷師であった。レイが所属していたのは、王のために祈りを捧げるチームだった。この世界はおかしかったのかもしれない。崇めるべきものがありすぎた。この世界はレイにとって、生きにくかったのかもしれない。あの美しい人の祈りが、王のためにだけ存在しえるはずがなかったのだ。しかし王はそれを求めた。だけどレイには、他に祈るべきこと、大勢のはみ出し者の仲間たちのこと、世界のこと、たくさんのことを抱えていた。祈りは自由であるべきであった。しかし王はそれを拒んだ。レイの祈りは美しかった。何よりも神と対話し、神の望むことを望んでいた。
しかし王は。
レイのお葬式の話をしよう。それは、鮮やかなお葬式だった。参列者は色とりどりの美しい服を着ていた。レイのすきだった音楽が華々しく鳴り響き、あたしは踊り、仲間たちは笑っていた。レイの生前からの願いであったからだ。あたしは美しい花をたくさん摘んできて、式場のいたるところに飾った。レイの写真は、写真家に引き伸ばしてもらって、レイの気に入る風に置いた。そしてみんな、笑うことに必死で、恨み言や自らの苦しみをひけらかすような真似をする奴はひとりも居なかった。
みんながレイを褒め称えるような、きれいな言葉を吐いて、その煌めきは、お葬式というよりも、結婚式や、バースディパーティのようだった。あたしは確かに、それに満足した。
だけどあたしは、どこかで何かが変わってきていたのだ。レイをこの世界から奪った誰か、へ、あたしは、どんな感情を抱いて、何、を、すべきなの、か。
レイは怒ったり、悲しんだり、ましてや人を恨んだり、人のせいにしたり、決してしない人だった。だけどあたしたちに必要な、その人は、居ない。鮮やかに、確実に居ない。神は、レイを、呼んだのか。また、レイは、それを、望んだのか。
何も考えたくなくて、想いたくなくて、心の雨はずっと在って。ただ、今望むことは、レイの望むことを知りたい。レイは今、神の傍で微笑んでいるだろう。そこからあたしを見て、一体どう感じているだろう。レイの家で眠ったり、踊ったりすることにも疲れ果てて、いつしかあたしは声も出さずに泣くようになった。ずっとこうしていたかったのだ。あたしは、ずっとレイのために泣きたかった。それが、レイの望まないことであっても。あたしは泣きながら、部屋中を歩き回って、レイの影を探していた。レイの座った椅子に座り、レイのグラスで甘いミルクを飲んだ。そうやって、レイの影を探していた。
そして、見つけたのだ。レイの願いを。レイの願いは、真っ白な紙に、少し右上がりで、少し癖のある文字で、淡々と書かれていた。
“神の御名を賛美します。どうか、僕の居なくなった世界へ。死者である僕のために、祈りを捧げないでいてください。朝には、あなたが大切 に想う者たちのために、夜には、あなたが憎しみ恨む者たちのために、それぞれ祈りを捧げてください。僕が殺されたなら、その首謀者のために、祈りを捧げてください。すべてのことに感謝をしてください。僕は、あなたに出会えたことを、感謝しています。あなたにはやるべきことがあります。あなたの生きることで、舞うことで、あなたの存在によって、しあわせになる人が居ることを覚えていてください。できるだけ多くを思い、閉じこもらずに生きてください。これが、僕の願いです。”
真っ白な手紙を読み終えたあと、心の中にあったいろんなものが、突然に踊りだしたような気がした。レイの望んでいること、それが今、あたしの手の中にあった。そしてそれは、決して簡単なことではなかった。
あたしは、レイのはみ出し者の仲間たちに連絡を取って、この家に彼らを集めた。レイが死んでから、この家にはあたしひとりしか居なかった。あたしの連絡を受けて、レイのお葬式ぶりに、仲間たちが集った。
陽が沈んでゆくのを見つめながら、あたしたちはそれぞれに心に想った。その気持ちを素直に祈りにした。あたしたちは、必死だった。レイを殺した者への怒りが、憎しみが、それらがあたしたちを、どうにか支配して、ぐちゃぐちゃにしようとしたけれども、あたしたちは、必死だった。
至らない点はたくさんあった。どうして今、一番大切な人を奪った人のために、時間を割いて、想って祈れるだろう。だけどあたしたちは、そうしなければならなかった。これから少しずつ、できるようになるべきだった。それが、あの優秀な祈祷師の願いだから。そして、あたしの生きていく道だからだ。
心の中にあるあたしの雨は、ずっとやまない。だけど雨は、あたしに潤いを与える。あたしの醜さを、呪いの気持ちを、洗い流す。もしかしたらずっと、レイのようにはなれないかもしれない。だけど、あたしは祈ることをやめないし、踊ることをやめない。
あたしは前を向く、できるだけ多くを思い、祈りを捧げる。
例え、雨はやまなくとも。
完
雨は、やまない
大学生のときに「ひとが死ぬという条件を満たす小説を書きなさい」という課題がでました。
当時、この作品のあとに
「殺人小説」と聞いて、書きたい!とはどうも思えませんでした。元々、爽やかなきれいな物語がすきだったのと、自分には、人の深いところにある憎しみや、悲しみ、苦しみを表現する技術がないと感じていたからです。
と書いている。
若いころは1人称が「あたし」だった。
今はすこしはずかしい。若さの特権!
無国籍的な雰囲気は、完璧に小川洋子さんの影響だと思う。
これが、きちんと形でのこっている、いちばん古い作品。