徒然なるままに
徒然なるままに
坂井京助がトイレから戻った時、同じ席に座っていた友人の立花晴香は、すっかり自分の世界に入り込んでしまっていた。両手で一冊の文庫本を持ち、眠そうな目をそれに滑らせている。淡い色の光の中で読書にふける彼の姿は存外絵になっており、京助はそれを壊してしまわぬようにと、足を忍ばせて席についた。
パラリ、と、紙が擦れる音がする。京助が戻ってから十分程が経過していた。晴香がこちらに気づく様子は無い。京助が頼んだコーヒーは、既に半分ほどになっていた。もちろん砂糖もミルクも入っていない。晴香の前には、ふんわりと生クリームの浮かんだココアが置かれている。晴香は読書に集中はしながらも、時折その甘いカップを口に運んでいた。
京助は何をするでもなく、ただ彼を観察していたのだが、ふいに何か思いついたように目を大きくさせ、そして、ニヤリと悪く笑った。上目遣いに晴香の様子をうかがいながらも、二つのカップを手に取る。そして、音をさせないように注意しながら、それらを入れ替えた。京助には甘すぎる香りが鼻をつき、思わず眉をしかめる。
しばらく京助は頬を緩めながら晴香の様子を見ていた。そして、晴香が本から目をそらさずにカップを手に取ったのを見て、息を殺す。ゆっくりと持ち上げられるそれを目で追い、隠しきれない笑みを浮かべる。晴香はそのカップの中身がなんであるかより、文字で描かれる世界に興味があるようだ。一切中身を気にすることなく、それを口に含んだ。
「っ、うぐっ! な、げほっ、ごほ! にが! な、え!?」
「ひはははははは! 飲んだ飲んだ飲んだ!」
「うぇ、なに、なになに! げほっ、うあああ苦い!」
「ひはは! マジで気づかねえとか! ははは、おもしれえ!」
「これ、っ、この、京助え!」
落ち着いた時間が流れていた喫茶店が、とたんに騒がしくなる。京助は遠慮なく晴香を指さして、声を高くして笑った。晴香は口を押えながらも、目の前の男を睨みつけて、低い声で叫ぶ。京助は晴香の恨みがましい視線もものともせず、前かがみになり、腹を抱えて笑い続ける。そして自分を落ち着かせようとか、目の前のカップに手を伸ばし、口に運んだ。一拍おいて、吹き出した。晴香の非難するような悲鳴が、店内に広がる。
「馬鹿だろ、お前」
「胸焼けする……」
「自業自得だ。馬鹿」
それぞれのカップを取り戻した二人は、先ほどまでの騒がしさから一変し、落ち着きを取り戻していた。策略ははまったものの、自爆した京助は、悔しそうに机に額を押し付けている。ココアを飲む晴香は、呆れかえった表情だ。
「だって、ちょっとトイレ行っただけなのに、晴香ってば完全に自分の世界に行ってんだもん」
「だって京助、好きなことしてていいって言ったじゃん」
「言ったけどよ。俺のトイレなんて二分やそこらだよ? 対してお前の読書、約十分!」
「悪かったよ」
晴香ははいはいとでも言いたげに、文庫本をカバンへしまった。京助は頬杖をつきながらそれを見る。薄い唇を尖らせて。
「そんなんだからモテないんだぞ」
ぽつりと、まるで独り言のようにつぶやかれた言葉に、晴香は動きを止めた。機械のように不自然な動きで京助を見やり、悔しげな笑みを浮かべた。対する京助は、にっこりとした満面の笑顔だ。
晴香は強く両手を握りしめ、はっ、と鼻で笑って言う。
「お前みたいに不特定多数に無駄にモテるのが偉い、みたいな勘違いは恥ずかしいぞ」
「モテない男の僻みは醜いぜー? コツ、教えてやろうか」
晴香は余裕を瞳に映す京助を睨みつけた。二人の間に緊張した空気が流れる。心なしか喫茶店の空気が硬直しているようだ。手に汗を握り、固唾を飲み込む緊張感。その雰囲気を壊すように、晴香が両手を机についた。そして、
「お願いします!」
勢いよく、頭を下げた。
京助は堪え切れないように高い笑い声を上げる。晴香はそんな声を聴きながらも、悔しそうに顔を上げた。顔が赤い。
「何、お前もモテたいとか人並みに思うもんなんだ」
「逆に、なんで思わねえと思うんだよ。仙人か、俺は」
「和希ちゃんいるじゃん」
「和希をそういう話題で出すんじゃねえ! 殺すぞ!」
だん、と音を立てて、晴香は机に拳を打ち付けた。立花晴香には妹が一人いる。名前は和希。自他共に認めるシスコンであるのは、彼の反応からも見て取れる。その反応すら予想通りで面白いのか、京助は肩を震わせた。
一通り笑って満足したのか、京助は目元を拭って姿勢を正した。下品な笑顔を崩さずに、晴香に人差し指を突きつける。
「いいか、晴香。お前は顔は悪くない。シャキッと立って、眼を開けば上々だ」
「いつも目は開いてる」
「半分な。全開にするんだよ。お前の問題は性格だ」
「おい、致命的な問題点だぞ、それ」
「お前は女の子の扱い方がなってない。どうせ、図書館に来た女の子相手に冷たい態度取ってるんだろ?」
すべてお見通しだ、とでも言いたげな京助の視線に、晴香は目を反らした。思い当たる節は溢れんばかりに存在する。カウンターに来た利用者の女性に、ニコリとも笑わずに対応したり、単語のみで対応を済ませたりするのはよくあることだった。
「女の子相手じゃなくても、接客失格だ。いいか、まずは笑顔! そして褒める! はい、Repeat after me」
「笑顔! 褒める!」
京助の無駄に発音の良い英語には突っ込まず、晴香は復唱する。その表情はいつもの眠たげで無感情な物であり、本当に理解しているのかと問いたくなるほどだ。京助は苦笑いを浮かべて、それを指摘する。
「晴香、笑顔だって。ほらにっこり」
「にっこり」
「笑えよ!」
今度は京助が机を強く打った。
「……京助、考えてもみろ」
晴香はあきれ果てたようにため息をついて、頬杖をついた。ヘアピンで止めきれない茶髪がふわりと揺れた。晴香は一度言葉を切り、放っておいたココアを一口飲む。ほう、と一息ついてすぐ、鋭い視線を京助に向けた。
「目の前にいるのがお前なのに、どうして笑おうと思えるんだ」
「そういうことか!」
はっとしたような表情をした京助に、晴香はだろ、と誇らしげに笑って見せた。それだ、それじゃないけど、それだ、とでも言いたげに、京助は晴香を指さすが、すぐに元の無表情に戻ってしまう。京助はがっくりと首を垂れた。
「もうお前には無理だ。諦めろ?」
「そんな……」
「ほんっと、光は当然として、雄一もモテるのに、なんでお前だけ……」
京助の言葉に、晴香は何度も頷いた。京助はため息をついて、カップを口に運ぶ。お前のせいで、俺の一生分のため息が出て行ってしまう、と、また息を吐いた。
「京助も光も、顔が良いからな。京助はともかく、光は性格も、ちょっと短気でガキってだけで問題ないし……」
「俺はともかくってどういうことだよ!」
「お前、軽いんだよ。来る者拒まず、去る者追わずでさ。高校は男子校だったはずなのに、噂はよく耳に入ったもんだぜ。坂井京助が中学生に手を出した、年上をからかって泣かせた、あーあー、世の女性は可哀想だ」
いつもより饒舌になる晴香に、京助は苦笑いを浮かべた。
「ちょ、晴香、あること無い事でかい声で」
京助が晴香の口を塞ごうと手を伸ばすが、無駄に長い手はするりと避けられ、逆にとらえられてしまう。
「こんな薄情な奴より、雄一がモテるのも頷ける。見る目のある子は、きっと京助じゃなくて雄一を選ぶ」
その言葉に、京助は眼を見開いた。心外だ、信じられないといった表情だ。勢いよく捕えられた腕を払う。
「な、なんだと! 俺よりもあんな潔癖症で眼鏡オタクな理系男のほうが良いっていうのか!」
「そりゃそーだろ。雄一、機械強いし。さりげなく女の子に優しい。綺麗好きで真面目だし、お前よりはクールだしな」
「こっちは英語教師だぞ!」
「それになんのプラス要素が……」
「あいつただのサラリーマンじゃん! 特殊要素は俺のほうが」
「サラリーマン馬鹿にすんなよ。それに、特殊要素っつったら光のほうがでかいだろ。喫茶店経営だぞ」
「ああ! そうだった! よく考えたら、あいつ俺よりスペック高い……いや、でも俺のほうがイケメンだし背高いし頭いいし運動できるし」
「性格はお前のほうが悪いけどな」
「なんでだよ! 光だって相当だろ!」
「光は短気なだけで、誠実だよ。女嫌いだから、彼女は出来ないだろうけど……人気はある、だろ。むかつくけど……すっげえむかつくしぶん殴りたいことに和希も光の事は気に入ってるしな。あと料理が出来る」
「くっそ……身長と顔しか勝てねえ……ま、晴香には圧勝だけど」
「あ?」
「だってそうだろ? 俺のほうが顔良いし、背高いし、頭いいし、女の子の扱いは心得てるし、運動だってできる。それから晴香タバコ吸うじゃん。最近はマイナスだぜ、それ」
「別に女受けが良いから吸ってるんじゃない。てか運動できるってなんだ。俺のほうがお前より強い」
「へえ、言うねえ。高校三年最後の体育、ドッヂボールで勝ったのは俺だったぜ」
「……ん? ちょっと待て。違うだろ、それは俺が勝った」
「はあ? 何言ってんだよ。俺が勝った」
「いや、最後一騎打ちになって、俺がお前の顔面に当てたじゃん」
「顔面セーフだろ。ってか、最後俺が光狙って、光が弾いたボールがお前にあたって終わっただろ」
「それは夏の話だろ!」
「はああ!? よしわかった。じゃあ今から決着つけようじゃねえか!」
「望むところだ! どっちが上かはっきりさせてやる!」
「いつものバッティングセンターでいいな!」
「なんでドッヂの代替案がバッティング……まあ構わない!」
「よっしゃ行くぞ! 先にホームラン外したほうの負けだ!」
「上等!」
強く机に手をついて、二人は立ち上がった。カップに残った飲み物をそれぞれ喉に流し込み、伝票を掴んでカウンターへ向かう。困ったように二人を見る店員の前でどちらが代金を払うかでひと悶着。結局京助が払い、晴香が負けたら全額返す、ということになった。喫茶店を出て目的地に向かう間も、二人の言い争いは絶えない。晴香が京助を見上げる形になるため、しばらくして首が痛い、と晴香が文句を言う事はもはや日常茶飯事だ。
数時間後、あるバッティングセンターでは、膝に手をついて息を乱す二人の成人男性の姿が見られた。
「なあ、京助……」
「なんだよ、晴香」
「今思い出したんだけど、高校最後のドッヂボール、俺ら二人対その他じゃなかったか」
「……そう、だったな」
「勝ったな」
「ああ、勝った」
流石に年には勝てない二人の勝敗は、神のみぞ知る。
END
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