赤毛布の娘 1

Mii

クリスティは毛布を手放せない。
 

 クリスティはもうすぐ十二歳になる少女である。
 腰まで伸びる長い金髪は、光の加減では少し白っぽく見え、巻き毛なので支柱にくるくると絡まるアサガオのつるように絡まっている。水で濡らしてブラシで梳いてもなかなか直らないその癖毛は、年頃になりつつあるクリスティの悩みの一つ。
 肌は白く、頬はぷくりと丸くてピンク色に染まっている。産毛の生えているその頬は、まるでモモのような甘い瑞々しさに溢れている。
 小さな薄い唇は、頬と同じでピンク色。その唇から出てくる声は、生まれたてのカナリアのヒナのように高くて、本当はおしゃべり好き。キイチゴも好きな、アヒルのような口である。
 丸くて大きな目は青色で、瞬きをするたびに長い金色のまつ毛が輝いた。
 そんなクリスティはもうすぐ十二歳だが、どこか幼女めいた容姿を残していて、そして毛布が手放せない。
 クリスティは、その父親が語るところによると、赤ん坊の時から毛布を手放せないでいるそうだ。
 もともとは白い毛布だったのが、長い間使ってきたせいできちんと洗っても少し黒っぽい汚れがある。おまけに、クリスティがもっと幼い頃その毛布に包まりながら、大好きなキイチゴを食べていたせいで赤いシミがぽつぽつと残ったままなのだ、と父親はクリスティに話したことがある。
 クリスティの父親は何度もその汚れてしまった毛布を捨てようとしていたが、そのたびにクリスティが酷く泣くので、いまだにクリスティは毛布を手放せない。
「ほら、クリスティ。そんな汚れた毛布はもう捨てなさい。真っ白できれいな毛布を代わりに用意してあげるから」
「いやよ、いや。わたしはこの毛布がいいの。どうしてもこれがいいの」
 クリスティは幼い頃からそう言うばかりで、父親も今では半分諦めてしまっている。
 一人で留守番をしているときは、ずっと毛布にくるまって。
 天気がよくて少しだけ外へ出られる日は、頭から毛布を被ったまま遊ぶのである。
 夜寝るときは、すっぽりと全身を毛布で覆い『夜の音』から、身を守っている。
 夜も仕事に出ている父親が、クリスティが小さな頃言い聞かせてくれた『毛布を被れば安全だよ。毛布を被って。何にも見ないで。聞かないで。そうすれば怖いことなんてないよ。怖いことなんてないよ。クリスティ』
という言葉を思い出しながら、クリスティは『夜の音』に耐えている。
 そんな毛布の手放せない、もうすぐ十二歳になるクリスティは、父親と森の奥で二人だけで暮らしている。
 クリスティの母親は、クリスティがまだ三歳だった頃に病気で死んでいる。
「白い金髪の素敵な人だったよ。ピアノを弾くのがとても上手だった」
 母親のことを語る父親はいつも寂しく辛そうなので、クリスティはあまり母親のことを聞かない。
 クリスティはあまり母親のことを覚えていないので、父親と二人きりでも寂しくはないと思っている。
 たとえ、深い森の奥。小さな小屋の中。父と娘。たった二人の世界でも。


 クリスティの朝は早い。
 お日様が上り始めると同時に起きて、くしゃくしゃの髪を一生懸命整えるのだ。いくら整えてもまっすぐになってくれないけれど。
 顔を洗って、ようやくはっきり目が覚める頃には、父親がテーブルにその日のパンと町で買ってきた果物などを並べ終わっている。
 クリスティの朝の役目は、牛乳瓶の中身が足りるか確認してコップに二人分のミルクを注ぐことだ。
 そして、クリスティと父親。二人そろっての朝食が始まる。
「今日は帰るのが遅くなるよ、クリスティ。戸締りはしっかりしておけよ」
「はい、パパ」
 これが、朝食が終わるころのお決まりの言葉であった。
 父親が早く帰ってくることは滅多にない。あったとしても嵐で早く帰ってくるしかない時ぐらいだった。
 クリスティの父親は、猟師である。
 クリスティは見たことがないが、いつも猟銃で森の中の動物を殺している。殺した動物は食べ物にすることもあれば、町の肉屋に売りに行くこともある。そうやって生計を立てている。
 珍しく猟犬は使わない、自分の銃の腕だけで猟師をやっている父親だった。
 獲物の少ない冬の時期は、斧で森の木を切って薪にして、それを小屋の暖炉で使うこともあれば町まで薪を売りに行くこともある。冬はそうやって生計を立てている。
 つまり、春から秋までずっと父親は猟師をしている。
 つまり、クリスティは大嫌いな『夜の音』を春から秋までずっと聞いているしかないということでもあった。
 クリスティは、猟銃の音を嫌っている。
 パーン、と甲高く鋭く空気を切る音。
 同時に、飛び立つたくさんの鳥の鳴き声。
 木々のざわめくような音。
 昼間はまだ平気だが、何故か夜になるとその音がいっそう怖かった。
 パーン。
 パーン。
 パーン。
 今日も、一人きりの夜。少し遠いところで、空気を伝って銃声が届いてくる。
 クリスティの幼い耳の中に、胸の中に。
 クリスティは、ぎゅっと目を閉じて、毛布にくるまる。
 毛布があればとても安心することができるのだ。
『毛布を被れば安全だよ。毛布を被って。何にも見ないで。聞かないで。そうすれば怖いことなんてないよ。怖いことなんてないよ。クリスティ』
そう言ってくれた父親の言葉を胸の中で繰り返しながら、クリスティは今日も無理矢理眠りにつくことになる。クリスティは、安心して眠れる夜を知らない。
「…大丈夫よ。パパはここにはいないけど、ここにいるもの」
 毛布をきつく握りしめて、その日の夜もクリスティは『夜の音』に耐える。


 クリスティに、人間の友達はいない。
 クリスティは、独りぼっちだった。森の奥で暮らしていて、今まで一度も町へ行ったことがないのである。母親が死ぬ前は町で暮らしていたそうだが、クリスティ自身はそのことを覚えていないので、この森での生活がクリスティの全てであった。
 父親はおそらく町で暮らしていると死んだ母親を思い出して辛いので、森の奥に越したのだろう。森の奥の。この、暖炉と台所と部屋が二つあるだけの小屋へと。娘のクリスティと二人きりで。
 当然、学校へも行ったことがないクリスティだったが、文字は父親が教えてくれていたし、本もあったのである程度の知識はそこから得ていた。けれど、もちろん、町で生きてる人々より知らないことは多く、しかし、知らないということを知ることもできなかった。
 クリスティは世間のことを何も知らない。そして、自分がいかに世間から外れた存在なのかそれを知ることもできないでいる。
 そのためクリスティは、普通の子供がすぐに脱ぎ捨ててしまうような純真さと無垢を、それ故の無知と愚かさをいつまでの捨てることのできない子供であった。
 頭の中は空想に満ちていて、現実をよく知らず。
 何かを疑うことも怖れることもわからずに。
 深い、緑の森の奥で、もうすぐ十二歳になろうとしていた。


 ちゅん。ちゅん。

 朝食が終わると父親はすぐに小屋を出る。戸締りはしておけよ、と言うのを忘れない。
「いいか、クリスティ。外へ出るのはいいが、決して小屋の見えない奥まで行くんじゃないぞ。森には怖いオオカミがいるんだ。おまえみたいな子供では、一口で食べられてしまうのだからな」
「はい、パパ。森の奥には行きません。いってらっしゃい、パパ」
 これは父親が出かける際にいつも必ず交わされる言葉だった。
 心配性な父親は、決して森の奥に行くな、といつもクリスティに言い聞かせている。森の奥には怖い怖いオオカミがいるのだと。
「オオカミって見たことないけど、絵本で読んで知ってるわ。真黒で大きな口をしていて、人間をぺろりと食べちゃうお化けなの」
 クリスティは、何度も読んだ絵本を広げながらオオカミの挿絵を見て、独りごとをつぶやいた。
 父親はもうとっくに猟に出かけている。小屋の中。独りぼっちのクリスティ。
 こうして、午前中は本を読んで過ごす。寂しいけれど、どうしてそれが寂しいのかクリスティには、はっきり理解することもできなかった。
「私にはパパがいるし、そして小鳥さん達もいるわ」
 クリスティは絵本を閉じると、台所に置いてあるパンを一切れだけ持ってやっぱり頭から毛布を被ったまま、小屋の外へ出た。これはお昼頃のクリスティの習慣だ。
 厳しい冬を超え春が訪れた森は『夜の音』があること以外を除けば、クリスティの一番好きな季節だった。
 シロツメクサのじゅうたんが広がり。
 たんぽぽは黄色い花を咲かせ、綿毛を飛ばす。
 さまざまな形と色の花をつける低木が、小屋の周りを囲っている。
 大きな桃色の花を咲かす低木もあれば、鈴のような黄金色の小さな花、マシュマロのような白色の花を咲かすものもある。
 それらは本来、深い森の奥にあるものではないのだがクリスティの母親はそのような庭木を育てるのが好きだったらしく、これらはここに越してくるときに父親が母親の庭から持ってきて植えたものだ。
 それらは茨のように絡まって、クリスティの住む小屋の周りを覆っている。
 その小さな庭から一歩でも外へ出れば、そこは深い森の奥となる。クリスティはこの庭から外へ出たことがない。出ていく必要性も感じてはいなかった。
 木の靴は足が痛くなるので、いつも裸足で外へでる。
 足の裏をくすぐるひんやりとしたクローバーの感触が、くすぐったくて気持ちがいい。
 今日はとても天気がよかった。あまり木々の密集しないこの小屋の庭には、春の木洩れ日も眩しいぐらいだ。
 しかしクリスティは頭から毛布を被っているので、眩しいのは気にならない。

 ちゅん。
 ちゅん。

 かわいらしい小鳥の鳴き声が響く。

「ちゅん、ちゅん」

 クリスティもその愛らしい唇を尖らせて、ヒナのように鳴きまねをする。
 そうすると不思議なことに、色んな形と色をした小鳥達が集まってきてくれるのだ。
 世間知らずで想像力豊かなクリスティはあまり不思議に思ったことはないが、集まってくる小鳥達は少々変わった姿をしていた。
 羽が赤くて足から四葉のクローバーを生やしている鳥。
 羽が青くて頭から綿毛のような花を咲かせている鳥。
 羽が緑で鳴くたびに口からぽろぽろと桃色の花びらを吐く鳥。
 皆、かわいらしい小鳥だが、どこかに植物を生やしている。
それらは例えば、町にいる「普通の人々」に見せれば「異形」としか言いようがないだろう。けれど、クリスティにはそれがわからないのである。この森に来てからの記憶しかないクリスティは、このような異形の小鳥達しか見たことがなくて、また父親に話すことはあっても父親はクリスティの空想癖の一つだとまともに考えてみたこともなかった。
「小鳥さん、小鳥さん。パンを持ってきたわよ。今日もたくさんおしゃべりしましょう」
クリスティは自分がお昼に食べるパンの半分を、いつも小鳥達にあげている。父親には内緒の遊び。本当はおしゃべりが大好きなクリスティにとって小鳥達とのおしゃべりの時間は、とても大事で大好きな時間だった。


 クリスティ。
 クリスティ。
 いつまでもデッケ(毛布)を手放せないかわいい子。
 今日もたくさんおしゃべりしましょう。


 ちゅんちゅん。
 小鳥達は、本当にそのように喋っている。クリスティにはそれがはっきりと聞こえていて、けれど違和感を覚えたことはなかった。それがクリスティの世界では普通であった。
 クリスティは持ってきたパンを細かくちぎって地面に投げる。たちまち小鳥たりは集まってそれらをつつくのである。
「おいしい?小鳥さん」

 クリスティ。
 クリスティ。
 いつまでも純真無垢のデッケを手放せない子。
 今日もおいしいパンをありがとう。


 赤い鳥は足から咲くクローバーに白い花をも咲かせ。
 青い鳥は頭の綿毛のような花を、空まで飛ばし。
 緑の鳥は、口から虹のように七色の花びらを吐き出す。

 
「ねえ、小鳥さん、今日も森の奥のお話を聞かせて」
 クリスティが指を差し出せば、赤い鳥がその指の上にとまり、ぴーぴーぴーちく、と鳴きはじめる。クリスティも知らない、森の奥。小屋の庭より先の世界の話。それは、クリスティが丁度十歳になった時からの何よりの楽しみだった。
 独りぼっちだったクリスティが十歳になった時、小鳥達の方から話しかけてきたのがこの習慣のきっかけである。
 それから今日までずっとクリスティと小鳥達の秘密のおしゃべり会は続いている。
 本当はおしゃべりが大好きなクリスティにとって、これはとても楽しい時間であった。
 小鳥達がクリスティに話して聞かせるのは、主に森の奥の話である。
 確かに森の奥は暗いけれど、何百年も生きた木々の息遣いがたくましく、そして空気がもっと清涼で深いということも。
 この庭とはまた違う、小さな色とりどりの花が咲いているということも。
 クリスティの大好きなキイチゴのたくさん生えている場所があることも。
 そのキイチゴの側にはそれは美しく澄んだ小さな湖があることも。
 その湖にはスイレンという花が浮かんでいることも。
 すべて小鳥達から聞いたことだ。
 そして小鳥たちはいつも必ず自分達の「主人」についての話をする。

 クリスティ。
 私達の主人はあなたに会いたがっている。
 純真無垢のクリスティ。
 私達の主人はあなたにとても興味がある。
 清らかな心を持つ稀有なクリスティ。
 だから、会いにくればいい。

 小鳥達はいつもクリスティに「主人」に会うよう誘ってくるのだ。
 しかし、クリスティはいつも少しだけ迷うけれど、首を縦に振ったことはなかった。
「パパの言いつけがあるもの。私はやっぱりお庭の外へは行けないわ」

 残念ね、クリスティ。
 あなたの知らない世界は残酷だけれど、とてもきれいで、あなたを美しくするのに。

 ぴい、ぴい。

 小鳥たちは残念そうに鳴くと、残りのパンをつつきだした。
 クリスティはそんな小鳥達の姿を見つめながら、実は森の奥に思いを馳せている。
 
 この庭とはまた違う、小さな色とりどりの花が咲いているということも。
 クリスティの大好きなキイチゴのたくさん生えている場所があることも。
 そのキイチゴの側にはそれは美しく澄んだ小さな湖があることも。
 その湖にはスイレンという花が浮かんでいることも。
 本当はこの目で見てみたかった。
 そして、クリスティを「待っている」という小鳥達の「主人」。
 いったい誰が待っているのだろうか、とクリスティの好奇心は膨らむ一方である。
 

 あら、クリスティ。
 あなたのパパのお弁当がここにあるわよ。

 まだ見ぬ世界に思いを馳せていたクリスティの肩に青色の小鳥が止まり、つんつん、とクリスティの頬をクチバシでつついた。
「あら、本当だわ。パパったらお弁当を忘れてる」
 言われて見てみれば、いつも仕事にいくとき父親が持っていくお弁当の入ったバスケットが切り株の上に置いたままだった。今までお弁当を忘れていくといったことはなかったのだが、そういえば今日は町に行くとも行っていたので、慌てていたのかもしれない。
「うーん…これがなければパパはお昼にお腹がすいてしまうわね。届けたほうがいいのかしら?」
 しかし、届けるにしてもどこで仕事をしているのかわからない。クリスティは庭より先の道のことは本当にわらかないのだ。

 クリスティ。
 それならわたしたちがパパのところまで案内してあげるわ。

 クリスティが悩んでいると、緑色の小鳥がクリスティの頭に止まって言った。

 わたしたちは空を飛べるもの。
 パパがどこにいるかなんてすぐわかるわ。

 赤い小鳥が飛びながらクリスティの毛布の端っこを引っ張りだし、クリスティは迷ってしまう。
「でも、パパが森の奥には行くなって」

 でもお弁当がなければパパはお腹がすいてしまうわ。かわいそうよ。
 そうよ、かわいそうよ。
 ちょっとだけなんだからいいのよ。きっとパパは怒らないわ。喜んでくれるわ。

「……」
 クリスティは、庭より先を見つめた。
 行ったことのない世界。
 ここにはないものが存在する世界。
 残酷だけれどきれいだという世界。
 そして、誰かがクリスティを待っている。

「そうね…ちょっとだけなら」
 ついにクリスティは毛布をしっかり被りなおすと、小鳥達の導くままに一歩踏み出すことにした。



 

 チチチチ。
 ざわざわざわざわ。

 小屋の庭より先の道。
 そこはそれまで聞いたこともない、鳥なのか他の動物なのかもわからない鳴き声が響き、風に吹かれて揺れる木々のざわめきが絡みあって耳に届く。
 日当りのよかった庭と違って足元はじめじめしたコケに覆われていた。
 その初めての感触に、クリスティの小さな裸足の足が震える。やっぱり木靴は履いていくことにした。毛布の隙間から入ってくる風の流れでさえどこか違う。
「…空気が濃いなあ」
 大きく太く成長した木々が絡まり合いもたれかかるようにして密集し、地面にもびっしり根を張っている。それは複雑にまじりあい、絵本で見た蛇のように見えた。そして、木々の吐き出す濃厚な空気。それは清々しくけれど、どこか湿り気があって被っている毛布が重たくなった気がすれば、肌にしっとりと霧がかかったような感触さえある。
 木々が上まで密集して、より多くの日光を得ようと枝葉を伸ばしているせいだろう。森の中は昼間にも関わらずどこか薄暗かった。
 クリスティは時々、後ろを振り返っては小屋が見えるか確認したが、庭から出て百歩も進んだあたりから完全に小屋は見えなくなった。
 クリスティ自身も不思議だったのは、小屋が見えなくなって不安になるどころか、どこかほっとした気持ちがあったことだ。
「私はやっぱりずっと外へ出たかったんだろうなあ」
 クリスティは独り言ちる。
 

 クリスティ。
 クリスティ。
 

「小鳥さん達、パパはどこ?」
 クリスティの周りを飛んでいる小鳥達に尋ねれば、小鳥達はこう言った。

 パパにパンとハムとチーズとミルクを届ける前に、お花を摘んでいってはどうかしら。
 きっと、あなたのパパは喜ぶわ。

「え、でもそれじゃあ森のもっと奥に行っちゃうわ。寄り道になっちゃうわ」

 いいのよ、クリスティ。そんな遠い場所じゃないわ。
 おしゃべりの時に聞かせてあげたお花畑があるのよ。

「でも、」

 クリスティは迷ったが、道案内するはずの小鳥達はどんどん先に行ってしまう。小鳥達がいなければクリスティには道がわからない。
「わかったわ…じゃあちょとだけ」
 しかし、クリスティの心は少し踊っていた。
 小屋が見えなくなってからずっと心臓が跳ねていて、それは決して不快なものではなくむしろどこか心地がいい。
(知らなかった。知らない道を歩くことがこんなに楽しいなんて知らなかった)
 小鳥達に導かれるままに進めば、少し奥に開けた場所があった。深い森の奥で日当りのいい場所。そこから降り注ぐ日光を受けようと、身を寄せ合っている花々。そして小屋の庭にはなかった少し背の高い花を咲かせる木々。
「うわあ」
 白っぽいピンクの花をつける木々は咲き誇り、まるで花のトンネルのようであり。
 足元にはたんぽぽだけでなく、クリスティがそれまで見たこともない花でも溢れていた。
 花びらが細長く白や紫や黄色に色づいているもの。
 小さくて丸いまるで鈴のような白い花を一本の茎からたくさん咲かせているもの。
 青っぽい紫色をした可憐な花も。
 クリスティは夢中になってそれらを眺め、息を大きく吸い込む。
 ほのかに甘いような、瑞々しい香りが胸いっぱいに広がる。
何も知らないクリスティのために小鳥達が花の話をしてくれた。

 白い鈴のような花はかわいらしいけれど、毒があるからそれは触ってはダメよ。
 あの白っぽい花はとても香りが強いからお部屋のベッドのあるところに飾るといいわ。
 その紫の可憐な花は、色が強いから真っ白なハンカチを染めるのにもきっと役に立つわ。

 クリスティはそれらの言葉を聞きながら、夢中になって花を摘む。お弁当の入ったバスケットに押し込めればあっという間にバスケットはいっぱいになった。
一番欲しかった白いピンクの木の花は、しかし、背が足りなくて届かなかった。仕方がないので諦めて、代りにその強い芳香をたっぷり吸い込んでおく。
バスケットの半分を花でいっぱいにして、クリスティはいつの間にか足取りも軽くその場を後にすることにした。
「とってもステキだった!あんなにきれいでかわいいものがあるなんて、私、知らなかった!」
 さらに先に進めば、小鳥達は歌うようにこう言った。

 

 クリスティ。
 クリスティ。
 パパにパンとハムとチーズとミルクを届ける前に、キイチゴを摘んでいってあげてはどうかしら。
 おしゃべりの時に聞かせてあげた、キイチゴがたくさん生えてる場所があるのよ。
 あまずっぱくておいしいキイチゴ。
 きっとあなたのパパは食後に喜んで食べるわ。
 そしてあなたも大好きなキイチゴを食べられるわ。

「うん、行ってみたい!」
 クリスティは少し駆け足で小鳥達の後を追う。どんどん森の奥に入っていることには気づかずに。また気づいていても、今のクリスティは足を止めることはできなかっただろう。
「うわあ」
 薄暗い森の奥に行けば、またお花畑のように開けた場所に出た。
 そこも日当りがよく、そしてクリスティが今まで見たこともない、大きな水たまりが広がっていた。
「これが湖ね!」
 風もなく。水面は静かで。
驚くほど透明度の高い青色で澄んだ水がたっぷり広がっている。
降り注ぐ日光に照らされてキラキラ輝いていて、そのきらめきの一つ一つがまるでダイヤモンドのよう。
 思わずかがんでみれば、水の水面にまるで鏡のようにクリスティの顔が映った。
 映ったクリスティの顔は今までにないぐらい頬が赤く、目が輝いていた。
「私ってこんな顔もするのね」
 クリスティは驚きながら、湖の水を少し手ですくってみる。
 さらりとした水が小さなクリスティの手から逃げていく。
「冷たい」
 一口飲んでみた。
「おいしい」
 それは父親が町から買ってくる牛乳よりもお水よりも、おいしい。

 クリスティ。あれがスイレンよ。

 水に夢中になっているクリスティが顔を上げれば、湖の向こうの方に純白の美しい花が浮かんでいた。
「お花なのに水に浮かんでいるわ」
 何も知らないクリスティから見れば、それはとても不思議な光景だった。
 水に浮かんでいるように見える、花びらが鋭く白い花。
 それと一緒に浮かんでいる円形で深い切れ込みのある葉っぱ。
 土に根をはるのではなく、まるで水の表面から生まれてきているよう。

 湖の底に根を張っているのよ。
 でもあそこは深いから行ってはだめよ。
 
 小鳥達は口々にそう警告する。クリスティも泳いだことすらないので、とてもあそこまで行ける気はしていない。
(でも、欲しいなあ)
 クリスティはその時、生まれて初めて強く何かを欲した。
 今まで父親に与えられるばかりだったものを受け取るのとは違う。
 明らかな欲。
 
 クリスティ。
 クリスティ。
 あなたの大好きなキイチゴがここにあるわよ。

 小鳥の呼びかけでスイレンに夢中になっていたクリスティは、その足元に真っ赤なキイチゴがたくさん実っていることに気づいた。
「わあ、おいしそう!」

 好きなだけ食べていいわ。
 クリスティ。あなただから特別よ。

 父親が町から買ってくるものとは違って、ぷっくり太った真っ赤なキイチゴ。
 クリスティはさっそく一粒手に取って口に含んだ。
 ぷつり、と口の中で噛み潰せば甘酸っぱい汁が広がっていく。町のものより酸っぱかったが、とてもおいしいとクリスティは感じた。
「おいしい!」
 もう一粒、口に含む。
 もちろん、父親にもあげようといくつかはバスケットに詰めておいた。先ほど摘んだ花とキイチゴでバスケットはすでに一杯になっている。
 クリスティはもうお昼が過ぎていることにも気づかず、ここが深い森の中なのだということも忘れて、毛布を被ったままキイチゴを食べていた。

「おや、おや。マグノーリエ(モクレン)の花びらを乗せたデッケがキイチゴを食べているな」
 
 その時。
 声がした。
 父親のものでもない。これまでクリスティが聞いたこともない。低く歪んだ声だった。
 クリスティは被っていた毛布を少し上げて、声のした方を確認してみるも、そこには何もいないように見える。
 きょろきょろ周りを見渡しても、何もいない。

「こちらだ。クリスティ。もう少しこちらに来てみなさい」

 クリスティはキイチゴのことも忘れて立ち上がる。まるで、蝶々につられる子猫のように、声のする方へ向かっていった。
 恐る恐る、木々の影になっている部分を覗いてみる。

「初めまして、クリスティ」

 そこにいたのは、大きな黒い獣だった。
 その大きさは小さな牛ほどもあり。
黒くて長い毛で覆われ、背中には緑のコケが生えていた。
それが異様に大きな獣の姿をより異質に見せている。
長い尾はゆらゆら揺れていて、耳は鋭く尖っていて油断なく音をとらえようとしている。
長く尖った口からは鋭い牙が覗いていて、それは薄い黄色に染まっていた。
そして、爛々と輝く金色の目。
その双眸は、まっすぐ意志を持ってクリスティを見つめている。

(オオカミだ)

 クリスティが読んでいた絵本に載っていた「オオカミ」。父親がいつもクリスティに警告していた「オオカミ」。そうとしか言いようのない獣がそこにいる。
 心臓が痛いぐらい早く打つ。
 ひんやりとした感覚が皮膚の上を走る。
 この感情がなんであるのか、クリスティは知っているような知らないような、そんな不思議な感覚だった。
 のそり、と獣が起き上がる。
 太くたくましい四肢で、のそりのそり、とクリスティに近づいてきた。爪がぞっとするほど鋭い。
 金色の目は決してクリスティから逸らされない。
(逃げなきゃ?)
 クリスティはそう考えたが、足が動かなかった。
「そんなに怖がることはない。ワタシはおまえに何もしない。今のところはな」
 口を動かしたようには見えないのに、まるで頭の中に直接響くように声がした。
 気が付けば、鼻先が触れるほどに獣の顔が近くにあった。
 ふん、と鼻息がかかる。不思議とそれは清涼な雨の後の森の香りがした。
「…私を食べるの?」
 やっと出てきた言葉はそれだったが、思ったより震えずはっきりと言えた。獣は、ふん、ともう一度鼻を鳴らすとぐるりとクリスティをその巨体で取り囲む。
「今は食わないさ」
「じゃあ、いつか食べるのね」
「まあそうかもしれないな。それより、おまえ、怖がっているのに大した度胸だな」
 クリスティはぎゅっと毛布を握る。
「たぶん、私は怖いのね」
「…参ったな。小鳥達から相当な無垢だと聞いてはいたが、それもよくわからないか」
 獣はクリスティの首筋に鼻を寄せ、息を吸い込んでいた。
「私のことを知っているの?」
「ああ、知っている。クリスティ。おまえが十歳になった時からワタシはお前を知っている」
 クリスティは思わず毛布を深く被った。
「おや、おや。その顔をもっとしっかり見せてくれないか、クリスティ?」
「いやよ。オオカミさんは私を食べるんでしょう?」
「オオカミか…確かに姿は少しばかり大きいオオカミだが、そうだな、それとは少し違うな」
 くつくつ、と笑う声がした。クリスティはそっと毛布の隙間から、獣をうかがう。鋭い金色の瞳には、クリスティが映っていた。映っているクリスティの顔は、頬は赤いがこの獣のことをどう感じたらいいかわからない、そんな戸惑いを覚えているように見えて、実際、クリスティがそうだった。

 クリスティ、クリスティ。
 私達の主人にそのかわいいお顔を見せてあげて。
 だいじょうぶよ。主人はあなたに何にもしないわ。
 たぶん、今はね。
 たぶん、今はね。

 小鳥達が毛布に止まりそのクチバシで毛布をひっぱりだした。
「…あなたが、小鳥さん達の言っていた「私を待っていた主人」なの?」
 クリスティは恐る恐る、毛布を少しあげる。少し開けた視界には、やっぱりオオカミとしか言いようのない獣が目の前にいた。獣は、裂けた口の端をあげる。
「その通りだ。クリスティ。ワタシはおまえを待っていたよ」
「なぜ、私を待っていたの?あなたはオオカミじゃないの?私を今すぐは食べないの?」
「質問が多いなクリスティ。おいおい答えてあげるとも。それよりも、本当は好奇心旺盛なクリスティ。おまえは、もうあまりワタシのことを怖くは思っていないだろう」
「わからないわ。だってオオカミさんのことなんて絵本とパパの話でしか知らないもの」
「ふむ。人や本から伝わった知識だけでは判断できないか。素晴らしい、クリスティ。それは真におまえを惑わすものからおまえを守る何よりの手段だ。おまえは賢いな」
 クリスティを囲っていた獣は、少し体を離したかと思えばその場に座り込んだ。大きな尾がふさふさと揺れている。それに触ってみたいな、とクリスティは思った。絵本と父親の話でしか聞いたことがない「オオカミ」。けれど、その「オオカミ」とは少し違うと自ら告げる獣。
(あなたは、何なのかしら?)
 むくり、と。
 純真無垢な好奇心が身を起こす。
 それは何も知らない少女の一歩であった。
「…さあ、まずはワタシに触れてみようか、クリスティ」
 狡猾そうな双眸が光り、まるでクリスティの好奇心などお見通しと言わんばかりに、いたずらっぽく尾を振る。
(この大きなオオカミさんは、何なのかしら?)
 心臓が痛いほどに打つ。
 しかしそれは先ほどとは違って、どこか高揚するものであった。
 一歩一歩。獣に近づき、まずは揺れる尾に触れた。
 少し硬くて、けれど滑らかな毛の感触。
 残っていた恐怖というものが少し解けてなくなっていくのを感じた。
「さあ、今度はおまえの触れたいところに触れてみればいい」
 尾から次は、胸に触れてみる。尾と違いふわりと柔らかさがある黒い毛。
 その次は、顔。
 濡れた黒い鼻を撫で、音をとらえる耳に触れる。
 金色に輝く目の周りは少し毛が薄くてごわごわしていた。
 ゆっくりと、獣の顔を撫でていく。
 そのたびに、クリスティは溢れる気持ちを止められなかった。
 膨れ上がり満たされる好奇心。未知のものに触れているという、妙な達成感。そしてまた溢れる何かを知りたいという気持ち。
(私、こんな気持ちになれるのね)
 その頃にはすっかり未知のものに対する恐怖はなくなっていた。
「…あなた、とってもキレイね」
 ほう、と息を吐いてそう告げれば、獣は少し目を丸くしていた。
「驚いたな、ワタシのことをそう言ってくれたのはおまえが初めてだよ。しかし、これでいいなクリスティ。これでおまえと私の間に恐怖はなくなった。あるのは抑えきれない知りたいという気持ちだけだ、違うかなクリスティ?」
「すごいわ、何故わかるの?」
「それはおまえの心臓の音を聞けばわかる。今も早いがそれは気持ちが高ぶっているからだ」
 さあおいで、と言われるように獣はその前右腕でクリスティの後頭部を引き寄せた。クリスティの小さく軽い体はあっという間に、その獣の体に引き寄せられる。
 耳をその胸に当ててみる。毛布越しでもとくとくとその奥で動くものがわかった。
「すごいわ」
「そうかい。その毛布を脱げばもっとよくわかるよ」
 獣はそうささやいたが、クリスティは首を横に振った。
「それはできないわ。パパが、これを被っていれば何にも怖くないよと言ってくれたの。だから私はこれを脱がないわ。そうしたらまだあなたに慣れていないから、あなたを怖いと思うかもしれないもの」
「…ふむ。すぐに誘いには乗らない、か。いい子だ、クリスティ。やはりおまえはなかなか賢い。本当におまえを想っての言葉をよく覚え、そしてその言葉を守っている」
 獣はくつくつ笑うと、クリスティから身を離した。
「…あなたは何なの?」
「ただのオオカミではないということはわかってくれたな。いいだろう、クリスティ。今日はその質問にだけ答えてあげよう。一度にすべてを知ろうとするのはよくないのだよ。好奇心は時に魔物だ」
 獣はのそりと動くとその場に腰を下ろした。クリスティも少し迷ったが、少し離れた場所に腰を下ろす。微妙な距離が開いているが、今はきっとこの距離で正しいのだ、とクリスティには確信めいたものがあった。それを見て獣は、賢明だな、と一人頷いている。
「まず、ワタシのことを簡単に言うと、ワタシはここに縛られた左腕のないものだ」
 獣は首を逸らした。毛に覆われて気づかなかったが、その首には赤い紐が結ばれていた。一見なんの変哲もない、しかし不思議な編み目をした紐だった。
「なぜ、縛られているの?」
「…今の質問は「ワタシが何であるのか」というものに含めた質問として、答えてあげよう。…紐の後を追ってみなさい」
 言われて、その首を縛っている紐の先はどこかへ続いているのに気付いた。しかし、不思議なことにその紐の先は上へ上へ伸びている。あんまりに上へ伸びすぎて、木々よりもずっと上に先があるようだ。
「この通り、ワタシは上に縛られている」
「誰に縛られているの?どうして縛られたの?」
 クリスティは思わず身を乗り出したが、獣は首を傾げるようにクリスティを見つめると、目を細めた。
「ああ、知りたがりなクリスティ。おまえがそんなに知りたがるのは無理もない。今までおまえは閉ざされていたのだからな。しかし、クリスティ、先ほども言ったが好奇心とはおまえに真実を教える元ともなるが、時に魔物なのだ。知りたい時にすべてを知ろうとして、話したいことを思うままにすべて話すのはおまえの身に危険を及ぼすだけだろう。時がくるまで、機会がくるまで。あるいは、誰かに聞くのではなく自力でどうにかするのもいいことだ。ただし、時と場所と加減を間違ってはいけない。ワタシから言えるのはそれだけなのだよ、クリスティ。つまり、あと答えられる質問は、ワタシが何であり誰に縛られているかということだが、まず」
 獣は上を見た。クリスティもつられて上を見る。
「ワタシを縛っているのはそうだな、おまえ達、人間にもわかりやすくいうと神様みたいなものだ」
「知ってるわ。白い服を着て奇跡を起こしてくれる人のことね。絵本で読んだわ」
「まあ、そんなようなものだな。そしてワタシだが、元々はその神の世界にいて、飼われていたようなものだ。今はここで落ちぶれているがね」
 では何故今は縛られているのかここにいるのか、とクリスティは聞きそうになったが先ほど言われた言葉を思い出してぐっと唇を噛んでこらえた。
「ふむ、いい子だクリスティ。それが加減だ。覚えておけ。ではクリスティ。今日はここまでにしておこう。もう日も傾いているようだしな」
 言われて初めてクリスティは気が付いたが、もう周りが夕焼け色に染まっていた。キイチゴをさらに赤く染め、湖の水も染めている。クリスティの影が長く伸びていた。
「大変、すっかりお昼が過ぎてる!パパにお弁当を渡すはずだったのに!」
「ふふふ、いいかね、クリスティ。小鳥達に誘われたとはいえ言われるままに好奇心のままに行動するのは失敗のもとでもある。そのおかげでこうして得られるものもあるわけだがな」
 クリスティは慌てて立ち上がるが、しかし名残惜しそうに獣を見つめた。獣は、クリスティのその様子に喉を鳴らす。
「そう惜しそうにするなクリスティ。知りたければまたここに来ればいい。何度も言うが、知りたいという気持ちは時と場所と加減が大事だ。今日はここまでなのだ、とワタシが決めればここまでなのだよ、わかったね。それに、今日は質問に答えただけでなく、花とキイチゴをお土産にしている。今日は少し多いぐらいだが、初めておまえに会えた記念だ。おまけだよ」
 知りたければまた、来なさい。
 獣がそう言うと同時に、いつの間にかクリスティの目の前から獣の姿が消えた。湖も消えた。キイチゴも消えた。目の横をかすれるように、昼間に訪れた花畑が横切った気がしたがそれは一瞬で。
 気が付いた時には、クリスティは小屋の見えるところに立っていた。
「……」
 周りを見渡しても、やっぱり少し先にクリスティの住んでいる小屋が見えるだけで、湖も獣もない。
 足元がふらふらしている気がする。
 心臓がまだ早く打っている気がする。
 背中に汗が流れている気がするし、どこかでクリスティを呼ぶ父親の声もした。
 これは怒られるのだろうな、とクリスティはぼんやり思ったが。
 けれど、決して不快ではなかった。
 あるのは清々しいほどの高揚感だけだった。

 おかえりクリスティ。
 おかえりクリスティ。
 また行きましょうね。
 私たちの主人のところへ。

 どこかで小鳥達がそう鳴いている。



「クリスティ!いったいどこへ行っていたんだ!」
 案の定、クリスティは父親に怒鳴られることになった。しかし、クリスティが想像していたものよりもそれは酷いものだった。
 父親は今までにないぐらい怖い顔をして、そして今にも泣きだしそうな不安定な顔でもあった。いつもは優しい目も眉もいきり立ち、これは本当にあのパパなのだろうか、とクリスティは恐怖した。
それは、獣に出会った時とは違う、明らかに形がある恐怖。
 お弁当を届けたかったのだと言っても、お土産があるのだと花とキイチゴを見せても、父親は許してはくれなかった。
「なんて危ないことをしたんだ!森の中のケモノに襲われたらどうなってたか!おまえは俺を捨てる気なのか!」
 そんなつもりはもちろんないし、あの「獣」は襲ってなんてこなかった、と言いたかったが何故だか今の父親にはあの獣のことを話してはいけない気がして、クリスティはもう何も言えなかった。
 狂ったように怒鳴る父親の言葉に耐え、やがて父親が静かに泣き出すと、クリスティも泣きたくなった。
「ああ、クリスティ。俺のただ一人の娘。おまえを失いたくないだけなんだ…だからもう二度とこんなことはしないでくれ」
 クリスティは、もうしないわ、と言おうと考えたがそれも頭のどこかが止める。何故か言葉で答えてはいけない気がして、ただうなずくだけにしておいた。幸い父親はそれで納得したようで、結局、その日の罰としてクリスティは夕食を食べられなかった。


 パーン!
 パーン!
 パーン!

 その日の夜。
 再び夜の猟に出かけた父親の銃声がより一層怖かった。
 クリスティは必死に毛布を被り、耳をふさぐ。
 昼間摘んできた花やキイチゴがあれば少しは慰めになったかもしれないが、それらは激怒した父親に捨てられてしまっていた。とても悲しいみじめな気持になった。
 その日、クリスティは一度も眠りに落ちることができなかった。

赤毛布の娘 1

赤毛布の娘 1

赤ずきんを題材にした少女と不思議なオオカミの物語です。赤ずきんの原型はあまりありませんが。 なんとなく昔のドイツをイメージしています。続きます。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-12

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