雪月花

第一話 『私の原風景』

 現地調査(フィールドワーク)はいつだって思うように進まない。
 携帯電話の路線検索ではバスが走っているはずだった遥かな山道を、僕は一人とぼとぼと歩いている。しかもこれは復路、帰り道である。本来であれば、蒐集(しゅうしゅう)した体験談を反芻しながら解釈を試みる調査の醍醐味とも言うべき時間のはすが、僕の足取りは実に重い。緑のトンネルに差し込む暖かな太陽の光も、春の訪れを予感させる鳥の囀りも、僕の心を慰めてくれはしない。
 現地調査(フィールドワーク)は失敗に終わったのである。
 ため息混じりに遥かな道を歩きながら、僕は自分の身に降り掛かった不幸について、本日三回目の反芻を行うのであった。



 僕は民俗学を専攻する学生である。
 民俗学者が行うところの現地調査(フィールドワーク)とは怪異譚の蒐集(しゅうしゅう)を指す。

 民俗学者に対する世間のイメージは「妖怪変化を研究する変わり者」と言ったところだが、それは概ね正しい。西に怪談話があると聞けば親戚の結婚式をすっぽかし、東に妖怪が出たと聞けば上司との食事会を無断キャンセルする、我々がそういった人種であることは否定出来ない。
 僕が大した計画も立てずにかような深山に分け入ったのも、そこに怪異譚があったからに他ならない。

「あの山には雪女の伝説がありまして――」

 図書館で調べ物をしていた折、偶然発見した地方紙の記事。『私の原風景』と名付けられたその企画は、かつての美しい風景を今に伝え、地域の自然についてもう一度考えてみよう、という趣旨で始まった地域の連続インタビューである。

 その第四回、某村の村長を務めた老人が語るところの雪女伝説は、僕の興味を惹きつけるのに十分な、とてもユニークなものであった。



――雪女ですか。お化けの。

「お化けというか妖怪です。お化けは、柳の下にゆらりとしている人間の亡霊でしょう。雪女は妖怪。妖怪変化です」

――その"妖怪"の雪女の伝説があったと?

「そうです。我々の村には昔から冬になると雪女が山から降りてくるなんて伝承がありまして。雪女というと、山中で男を騙して氷漬けにするような悪いものを想像するでしょうが、我々の雪女はそれとは異なります。優しい妖怪とでも言いましょうか」

――優しい、ですか?

「そう、雪女は優しいのです。私の祖父の頃まで、村には(ろく)な道路がありませんでした。隣村との往復にしても、獣道と言うんですか、動物と同じ道を使っていたような有り様でした。目の効く夏場はそれでも良かったのでしょうが、冬場は駄目です。一度雪が降ってしまうと、獣道なんてものは使いものになりません。ですが、小さくて貧しい村のことです。一生懸命蓄えをしていても、何日も雪が続くと、食べ物とか燃料とか、そういったものが足りなくなってくる。喰い尽くし、使い尽くせば村は死に絶える他ありません。だから、そんな時は村の若者衆の中から腕利きの者を一人選んで、獣道を越えさせるのです。冬場は獣も通らんような"獣道"を」

――それは、危険ではなかったのですか?
 
「危険どころではありません。冬場に獣道を行くということは、死ににいけというのに等しい。実際、昔は行ったきり帰ってこなかった者も多かったそうです。私の祖父も、何度もそのお勤めを果たしましたが、最後の最後、こんかいで引退というところで、とうとう文字通り帰らぬ人となりました。雪が止んだ後、村まであと一歩というところで躯が見つかりました。何とか守りぬいたんでしょう、荷物は無事だったそうです。祖父のお陰で、村は全滅を免れたのです」

――それと、雪女とどういう関係が?

「祖父が死んで、次の年から私の父が雪道を往くようになった。父親が死んだばかりだからと、村の皆は必死で止めたそうですが、父様は頑として聞き入れなかったそうです。親父の死を無駄にしたくなかったから意地になっとったと、後で笑っていました。その父様が、一度だけ、こりゃあ駄目だと思った年があったそうです。猛吹雪で方角は愚か、自分が今どこにいるかも分からない。雪はどんどん勢いを増して、瞼はだんだん落ちてくる。もう駄目じゃと思うた時、見えたそうです」

――見えた? 一体何が?

「赤い着物を来た女ですよ。笑顔を浮かべて、こっちへ来いとでも言うように手招きをする。猛吹雪に着物姿で道を歩ける人間が居るはずがありません、父様にはすぐにあれは人間ではない、雪女だと直感したそうです。しかし、これは父の言葉そのままなんですが、その雪女の笑顔があんまり素敵だったから、取って食われるなんてことは思わなかったそうです、笑ってしまうような話ですが」

――そしてお父上は。

「助かりました。もう駄目だ、倒れてしまおうと思う度に雪女が現れて手招きをする。あそこまで行こうあそこまで行こうと思って歩く内に、村についていたそうです。それ以来、お勤めを果たすものがいよいよ諦めようとする度に雪女が現れて手招きをしたそうです。だから、父の後に村に帰ってこなかった者は一人もおりません」

――だから、雪女は優しいと。

「そうです。でも、私は思ったのです。この文明開化の世に雪女なんかに頼っていたら世間の物笑いの種だ、どうにかしなければなるまい。自分たちの力で雪山を克服してみせると。だから、私は村長になって車が通れる道路を引きました。荷物を運べるようにバスを通しました。これで、未来のある若者が寒くて暗い雪山で死ぬ思いをすることもなくなると信じていたのです」

――立派な志だと思います。

「ありがとう。小さい村でしたが、がむしゃらに村長をやってきて、ようやく祖父の命を奪った山を克服出来た事が私の誇りでした。でも、村長を引退してふと思ったのです。雪女はどこに行ってしまったんだろうと。思えば、道を通して以来、雪女を見たというものは居なくなってしまいました。私は道を通しましたが、それと引き換えに何か大事な"繋がり"のようなものを壊してしまったのではないか、そう思えてならないのです」



 僕は是非ともこの老人から話を聞いてみたいと思った。

 道案内をする雪女というのが雪女伝説の珍しいケースであることは勿論、寒村に道を拓いたことで怪異に幕を降ろし、雪女を消し去った老人が何を思うのか知りたくなったというのが大きかった。

 アポイントを取るのは容易であった。まがりなりに村長を務めた人物だ、それなりに有名らしく、連絡先を突き止めるのにそれほど労力を割かずにすんだ。『私の原風景』が十数年前の記事であるから、かなりの高齢であることが予想されたが、電話口での語り口調は矍鑠(かくしゃく)としており、訪問の依頼についても「楽しみにしております」と色よい返事がもらえたのは助かった。こういった場合、怪しげな民俗学者もどきの学生に対するアレルギー反応は強く、けんもほろろに断られるというケースもしばしばある。

 先方の了解を取り付け、僕は指定された住所に向かうことにした。東京から新幹線、在来線、ローカル線と乗り継ぎ、隣町から件のバスで村を訪ねよる積りであったが、ここで一つ予定が狂った。


――✕✕線は昨年末をもって廃線となりました、長い間のご愛顧頂きありがとうございました。


 バスは廃線になっていた。全国で起こっておるのと同じような過疎化、人員の流出が抑え切れなかったのだろう。統廃合の結果、老人が人生を掛けて生み出した路線バスは、採算が取れないという理由から、あっけなくこの世から消滅したのである。
 
 比較的時間に余裕のある旅であったことので、ここで僕はバス路線を踏破し、一山超えることにした。
 徒歩で山を越えるという選択が容易に出て、それを十分吟味しないままに実行するというのは、民俗学を志すものの心の欠陥であるとともに、矜持である。かつて若者が死に物狂いで往復したという道のりを、逆順ではあるが、追体験してみたいと思ったというのもあったのだが。



 道がきちんと舗装されていたからであろうか、幸いにして僕は命を落とすということはなかった。
 ある程度行った所で、徒歩という選択に若干の後悔の念が起こり、ヒッチハイクなども考慮にいれたのだが、結局一台の車ともすれちがうことはなかった。唯一のバス路線を廃線にするほどの過疎である。車など通るはずもないのだろう。

 そして、ほうほうの体で村に辿り着いた僕を待ちうけていたものは、


 老人の葬儀であった。

 現地調査(フィールドワーク)はいつだって思うように進まない。
 

第二話 山中妖怪考

 老人が亡くなったのは、一昨日のことであるという。夜半急に体調を崩したかと思うと、そのまま眠るように息を引き取ったそうだ。

 
 小じんまりとした葬儀であったが、参列者は一様に目を涙で濡らし、部外者である僕にも、雪山に道を切り開いた老人が、如何に惜しまれつつこの世を去ったかということは良く分かった。

 受付で来訪の経緯を伝え、非常識ではあるが、これも何かの縁なのでお悔やみだけでも伝えたいと申し出たところ、老人の娘という恰幅の良い五十歳程の女性が現れ、唐突に「今日は泊まっていって下さい」と言った。
 物見遊山でやって来た見知らぬ学生が葬儀に顔を出すだけでも非常識な話なのに宿泊などもってのほかと固辞したのだが、夜になると山道は暗く事故も多い、無理に引き返して大切な客人にもしものことがあっては父に申し訳がたたないからと言う。
 確かにこのままあの山道を引き返すのは少々気が重く、あまり意固地に断るのも逆に失礼だろうかなどと考え、僕は申し出に甘えさせてもらうことにした。

 

 奥座敷に敷かれた布団に身を横たえ、僕は老人の死と失われた物語のことを思った。

 雪女伝説の始まりと終わり、唯一の当事者である老人は死んでしまった。
 老人は『私の原風景』で語ったのを最後に、雪女については多くを語らなかったという。
 寒村に道路を通し雪女を消し去ったことが、老人の誇りであり、同時に心残りでもあったのだろう。矛盾する二つの感情の間で、誇るべきか悔やむべきか、沈黙の内にひとり雪女のことを思い続けていたのかもしれない。

 
 食事の折、それとなく老人の家族に雪女の伝承について訪ねてみたものの、収穫はなかった。"道案内する雪女"の話を知っている者は何人かいたが、いずれも不完全な伝聞であり、実体験が綴られた『私の原風景』以上の価値を見出すことは出来なかった。

 そもそも老人の家族でさえ雪女の存在を信じておらず、こちらが熱心に質問するほどに今時分学生さんはそんなものを信じているのかと嘲笑の視線を送られる有り様であった。


 道路の建設をきっかけに雪女を見るものは居なくなった。
 科学技術のさらなる発達により雪女を信じるものが失われた。
 そして、老人の死を最後の(わら)として雪女の記憶が消え去るすることにより、緩やかに、だが確実にこの地の雪女伝説は終焉を迎えるであろうことを僕は予感した。

 雪の中に浮かぶ上がる赤い着物と無垢な笑みを湛えた女の顔が次第に薄ぼんやりとしていくさまを幻視しながら、僕は眠りに落ちていった。


 現地調査(フィールドワーク)の失敗を確信した僕は、翌朝早々に村を後にした。



 
 翻って、山の中。
 永遠に続くかのように思われる緑のトンネルを行く僕の足取りは相変わらず重い。



 現地調査(フィールドワーク)が成功に終わることは稀な話である。

 直前に先方の都合が悪くなることは日常茶飯事だし、酷い場合には当日になって話す気が失せたなどと言われることもある。妖怪の"呪い"というヤツだろうか、天候不順や体調不良によるキャンセルも思いの他多い。期待通りの行程で、期待通りの怪異譚を蒐集(しゅうしゅう)することが出来る方が、稀な話なのである。
 だが、こうした"失敗"についてはリカバリーが効く場合が多い。

 待てばよいのだ。

 先方の都合が良くなるのを、気が変わるのを、天気や天候が回復するのを、ただ待てば話は終わる。怪異譚は変わらずそこにあるからだ。


 しかしながら今回は、考えうる中でも最悪のケースである。
 老人が自身の抱く物語を誰に語ること無くこの世を去ったために、物語そのものが逸失してしまったのだ。
 妖怪は物語の中に生み出され、物語から立ち現れる、物語と不可分の存在である。だから、物語の消失は妖怪の死に他ならない。妖怪が死ねば、民俗学者は存在意義を失う。だから、最悪のケースである。
 
 妖怪と物語の関係については、些か説明が必要だろう。


 そもそも妖怪とは何か。
 数多の民俗学者が様々な仮説をもって取り組むテーマであり、百者百様の答えがあるのだが、ここでは私見を披露したい。

 
――妖怪は、現実を理解するために脳が用いる理屈である。


 雨が降る。という現実がある。
 この現実に対する理解について述べるなら、気化した水分が上空で冷やされて雨粒を形成し地面に降り注ぐというのが、一般的であろう。

 では、専門家と幼稚園児と弥生人に同じ質問をした場合、答えは同じだろうか。

 知識や想像力や信仰心の度合いにより"雨が降る"という事実の解釈は異なってくる。妖怪はそういった解釈の隙間に入り込んでくるのである。

 分かりやすいように、貴方の脳の隙間に潜む妖怪を一匹呼び出してみよう。

 
 晴れているのに、雨が降る。


 この現実をどう解釈するだろうか。
 雨粒が地面に到達する前に雨雲が移動するという"科学的見地"で解釈する人間はどれほど居るだろうか。

 "狐の嫁入り"が行われたから――

 貴方の意識せぬ内に、貴方の現実の解釈の隙間に潜み、ある刺激を契機に我々の眼前に踊り出てくるのである。
 白無垢をした着物姿の狐を幻視すること、それが妖怪を"見る"ということだ。狐の嫁入りが行われたので、天気雨が降った。貴方が思い描いたその理屈こそが、物語なのである。

 こうした物語を紡ぐためには、狐の嫁入りの話をどこかで聞いたことがなかればならないし、そういうことがあるのかもしれないという認識がなければならないのだが。

 
 さて。


 この理屈を今回の"道案内をする雪女"の事例に当てはめてみる。

 雪女を見たという老人の父親が直面した現実は、"猛吹雪の獣道で『着物きた笑顔を浮かべる女らしきもの』に導かれ、無事に村まで辿り着いた"というものである。
 彼は"優しい雪女に助けてもらった"という理屈を用いてこの現実を解釈し、一つの物語が生まれた。

 民俗学において、科学的解釈という"正解"はあまり意味を持たない。僕が知りたかったのは、彼や老人が何故"雪女"という理屈を持ちだしたかというところだ。
 専門家が専門知識を持ち出すように、脳の引き出しのどこからその理屈を捻り出したのか、人生におけるどういう経験が、教育が、言語が、信仰が、その理屈を形成したかを知ることにこそ、意味があるのだ。


 だからこそ、今回のケースは最悪なのである。

 当事者の死亡により、理屈の保持者が消滅した。
 道路の敷設により、体験が生み出された環境が消滅した。
 そして、時代の進捗が、科学的な理屈の浸透が、理屈の再現を不可能にした。
 雪女が潜む理屈を逆算するに足る物語を生成する環境は失われ、僕が民俗学者としてこの怪異譚にアプローチする手段は全く失われてしまったのであった。



「ゲームオーバー、かな」

 僕は自嘲気味に独りごちる。緑一色の景色に変化はなく、僕の沈んだ気持ちもまた変わることはない。
 何時間も歩き通しだったからだろう、ずきずきとした足の痛みはいよいよ思考を阻害する。沈思黙考(ちんしもっこう)というこれまでの逃避活動は敢え無く脳に却下され、味気ない現実の景色を直視し、もくもくと歩を進めることを強制されるのである。
 ようは、足が痛くて何も考えられないので、とりあえず一生懸命歩くしか無いというところである。
 

 ぽつり、と。


 頬に何かが当たるような感覚があったと思うが早いか、空をひっくり返したかのような酷い雨に見舞われた。穏やかな山の景色は一変し、ざーざーという耳障りな轟音と視界を遮断する圧倒的な量の雨粒が僕に襲いかかってきた。
 どこか雨宿り出来るをと周囲を見回すと、100メートルほど先にバス停があるのを見つけた。町中によくある無機質なコンクリートの棒ではない、待合所と表現するようのが適切な屋根付きの立派なバス停であった。雨合羽を羽織る時間は無かったので、たまたま持っていた(出発時、小雨が降っていたのだ)ビニール傘を広げ、一気にバス停まで走った。


 酷い雨だった。雪にならないだけマシだとも言えるが、すっかり濡れネズミである。ベンチに腰掛け、濡れた髪をタオルで吹きながら、僕はすっかり気が滅入ったしまった。一服でもしようかと、ポケットから煙草の箱を取り出してみたが、すっかり湿気ている。
 本当に、散々な現地調査(フィールドワーク)である。



 
 暫く、ぼうっと雨を眺めていた。

 すると、雨の音に混じってからからと音がする。木切れがコンクリートにこすれる様な音。からから、からからと、一定のリズムを刻む音は、次第にこちらに近づいているようだった。同じように山道を徒歩で歩こうなどという酔狂なものがいるのだろうか。
 しかし、このからからという音は。

――下駄だ。

 僕がそう気づくというのと同時に、音の主がバス停に入り込んできた。

「全く、嫌になっちゃう。こんな大事なときに雨なんて。って、あれ?」

 僕の目は、その女に釘付けになっていた。煙草がするりと手からこぼれ落ちるのにも全く気が付かなかった。

「先客が、いらっしゃったんですね」

 ゆっくりとこちらを振り向く声の主。森の緑によく映える赤い着物と、ちょっとはにかんだ笑み。

 この現実をどう解釈するべきか。急速に回転する僕の脳が持ちだしてきた理屈に、一匹の妖怪が潜んでいたことは想像に難くないだろう。

第三話 その花の名は

 見間違いと切り捨てるには、彼女の風貌は余りにも雪女伝承に酷似していた。

 透き通るような白い肌、肩まで伸びた黒黒とした艶のある髪、流麗な花の意匠が縫い込まれた真っ赤な着物、そして――
 
「貴方も雨宿りですか?」

――微笑みだ。

 それは、雪山で遭難しかけていた男が「余りにも可愛らしかった」と間の抜けた表現をするのも頷ける程に浮世離れした無垢な笑顔であった。
 男を虜にする蠱惑的(こわくてき)な笑みをどこかで想像し身構えていた僕であったが、「にこり」という音が聞こえてきそうな程に(うらら)らかなこの笑顔に、すっかり毒気を抜かれてしまった。


「あ、あの」

 僕は口を半開きにしてまじまじと彼女の顔を見つめてしまっていた。彼女は顔を真赤にして、もじもじと恥ずかしそうに言った。

「そんなに見つめられると、照れてしまいます」
 
 閉じるどころか、口がぽかんと開いた。

「もしかして、貴方ゆ…」

 雪女ではありませんか!? と言いかけて僕は気付いた。もし彼女が雪女ではなく、何らかの理由でたまたま雪女に似た風貌をしている女性だったら、間違いなくこちらの正気を疑われる。
 雨は一層激しさを増しており、これから暫く《しばらく》一緒に雨宿りをしなければならない二人だ、出会って数分で関係性を破綻させ、気まずい思いをすることはあるまい。

「ゆ? ゆ、何です?」

 彼女は小首を傾げて、こちらの目を真っ直ぐに覗きこんでくる。雪女とはとてもじゃないが、言えない。

「い、いや、何でもありません」

「変な人」

 彼女はクスクスと笑う。僕は一旦深呼吸をして、彼女は普通の人間だ、などと意味不明の言い訳を何度か頭のなかで繰り返し、雪女"らしい"女性に向き直った。

「貴女は、この辺りのご出身なのですか」

「うーん。そうといえば、そうですね。村に暮らしているか、というとちょっと違うのですけれど……」

 いちいち発言が僕の疑念を刺激するのはさて置き、努めて平常心を心がけ、僕は会話を続ける。

「里帰り旅行か何かですか?」

「うん、そんな感じです。貴女はここに何をしに来たんですか」

 土砂降りの山道を着物姿で貴女こそ何をしているのですか? という質問が鎌首をもたげるが、僕はその鎌首を切断し、火にくべてしまう。
 努めて、平常心を保つ。

 僕は自身が民俗学を専攻する学生であり、怪異譚を調査するためにこの地を訪れたが、残念ながら先方の不幸があり、何の成果もなく帰るところだということを彼女に伝えた。"雪女"という表現は敢えて使わなかった。

「民俗学ってどんな事をするんですか?」

 またしても顔を近づけてそんなことを聞いてくる。他人との距離が近い女性である。
 僕は自分の顔が赤くなるのを感じて、どうしようもなく恥ずかしくなってしまう。平常心が聞いて呆れる。思考がぐるぐると暴走して、呂律が回らなくなっていく。

「その、民俗学とはつまり、妖怪とか怪奇現象の類を研究して、対象者、この場合怪異に行き遭った人ですね、それを取り巻くどんな要素が怪異を見せるのかを(つまび)らかにしようという学問でして…」

「ええと、どうして人は妖怪を見ちゃうのかってことですか?」

「平たく言えば、そうです」

 それまで僕の目を真っ直ぐに見ていた彼女だったが、この時始めて僕の目から視線を外すと、何やら考えこむような仕草を見せた。
 豪雨が木製の屋根を打ち付けるばらばらという音を、僕は漫然と聞く。冷えていく山中の空気が、熱暴走を起こす僕の思考を徐々に鎮めていくのを感じた。


 暫くすると、彼女は絞りだすようにこう言った。

「貴方は、妖怪を信じているのですか?」

 それは民俗学者が現地調査(フィールドワーク)において幾度と無く投げかけれ、辟易しているものだった。
 自然の摂理は科学により解明され、精神の構造にも医学のメスが入り、不思議や不条理が解体されつつある現代社会において、いるはずもない妖怪なんてものを追いかける意味はあるのか。
 そんな嘲笑とも哀れみとも取れる、無邪気で下らない、そんな質問の――はずだった。

 僕を見つめる彼女の目を見てしまうまでは。



 彼女の目は真剣そのもので、そこにはほんの少しの嘲笑も憐憫の色もなかった。ただ、真っ直ぐに僕を見つめ、僕の答えを全身で待ち構えているのが見て取れた。


 だから、僕は、正直に答えた。


「僕は妖怪を信じてはいません」

 彼女の目にうっすら失望の色が浮かんだ。
 僕は彼女がそうしたように、彼女の目をまっすぐに見つめ、続ける。

 「ただ――いたら、楽しいだろうな。というのが僕の民俗学のスタート地点でした。この気持ちは、今も変わっていません」

 彼女に対して、始めて心からの笑顔を見せられた気がした。彼女は少し驚いたような表情を浮かべた後、またふっと笑った。

「本当に、変な人」

「よく言われます。民俗学者というのは、得てして変わり者なのです」

 そう言って僕たちは笑いあった。歯車はかちりとかみ合い、まるで氷が溶けるように、僕たちを包むちぐはぐとした緊張が解れていく。

「雨はまだ止みそうにありませんね。もし宜しければ、これまでにどんなお話に出会ったのか、聞かせてもらっても良いですか」

 それから僕は彼女にこれまでに蒐集したいくつかの怪異譚を語って聞かせた。
 北国の村で出会った月を消すという笛の伝説。化猫に呪いをかけられた一人の僧侶の人生。自分の人生が書かれた本を見つけてしまった男の物語。その一つ一つに、彼女は驚き、怒り、笑い、時には眼に涙を浮かべながら熱心に聞き入った。彼女がくるくると表情を変えるのが面白くて、僕は時間が立つのも忘れて、怪異譚を語り続けた。


「ところで」

 五つ目の物語を語り終えたところで、彼女は僕に尋ねた。

「貴方はここに、どんな話を聞きにきたのですか」

 僕が話に夢中になっている間に、雨は、すっかり止んでいた。雲の暮れ間から再び顔をのぞかせた太陽は、時雨に塗れた緑の一葉一様に拡散され、山中にキラキラとした光を注いでいた。
 正直に打ち明けるべきか悩んだが、雨宿りもお仕舞いだ、最後にきちんと彼女に伝えてからここを去ろうと思った。

「僕は――」

 まっすぐに僕を見つめる彼女の目の輝きに、真白の微笑みに、僕は誠実でありたかったと思った。

「雪女の伝承を捜しに来たのです」


「雪女――ですか」

 しばしの沈黙の後、彼女は独り言のようにそう言うと、山道に差し込む柔らかな光を見つめ、眩しそうに目を細めた。

「初対面の方に失礼とは思いますけれど」

 彼女は僕に向き直る。着物に縫い付けられた"花"がひらりと揺れる。

「一つ、私のお願いを聞いてくれますか」

 予想外の展開に僕は二の句が継げず、ただ彼女を見つめることしか出来なかった。この山奥の小さなバス停で何かが始まる予感を確かに感じて。

「私は――貴方がたの言うところの雪女です」

 彼女はそう言うと着物の袖に舞う一片の花弁に優しく触れた。僕は相変わらず、何も言うことが出来ない。ただ、彼女のその一連の仕草を、夢見心地で眺めていた。

「この花を――」

 赤く紅い彼女の着物を彩る花、春の象徴であるその美しい花。

「桜を、見てみたいのです」

 それは冬の終わり。春の始まり。
 一旦終わりかけた僕と雪女に纏わる物語は、こうして再び幕を開けたのだった。

第四話 巡る季節を求めて

「誰かと一緒に道を歩くなんて初めての経験です」

 彼女はそう言うと道の真中に躍り出て、両手を広げその場でくるりと一回りした。柔らかな雨後の陽光が差し込む山道に、彼女の下駄が発する音がからころと軽快に響いた。
 そうして彼女は跳ねるように僕の隣に戻ってくると、僕の耳元でこう囁いた。

「実は、人と話したのも、今日が初めてです」

 僕は今、雪女と連れ立って遥かな山道を歩いている。赤面をしながら。



 何故、彼女の申し出を受けようと思ったのか、自分でも良く分からない。

 不条理に、不都合に、不釣合に立ち現れた怪奇の気配に()てられて、正常な判断が出来なかっただけなのかもしれないし、怪異譚の当事者たりたいという僕の民俗学者としての欲求が心の奥底で作用したからかもしれない。
 自分の衝動に論理的な裏付けを見いだせぬままに、僕は桜が見たいという彼女の申し出を受け入れたのだった。



 さて。

 僕が了解の旨を伝えた際の彼女の喜びようは凄まじかった。目を丸くして一瞬沈黙した後「やったぁ」と叫ぶやいなや、僕の手を引いて山道に飛び出していった。バス停に僕の荷物を置き忘れていることにも気付かず、小走りに先へ進もうとする彼女の手を解くのには少々難儀した。

 詰まるところ、僕が彼女に対して十二分の警戒心をもって身構えていたのと同様に、彼女の方も理不尽な"お願い"を胸に抱き、相当の勇気をもって僕の前に相対(あいたい)したということらしい。
 本来の彼女は、かように天真爛漫な見た目通りの少女なのである。



 赤面した顔を覗き込まれるのに耐えかねて、僕は一歩前に出る。

「桜を探す前に、聞かなくちゃならないことが、たくさんあります」

 僕は宣誓するかの如き声音を用いて、弛緩しきった空気を引き伸ばし、適度な緊張を取り戻すように努めた。

 空気の変化に敏感なのは、彼女が妖怪故(ゆえ)か。背後で彼女が姿勢を正すのを感じながら、馴れない厳格な口調を崩さぬよう注意を払いつつ、僕は彼女に質問をぶつける。
 それは怪奇と物語を探求する民俗学者としての立場を保ち、僕自身がこれから始まるであろう旅路に自分なりに折り合いをつけるため、必要な儀式であった。
 


「貴方は、自分を雪女だと言った。まずそこに嘘はありませんね?」

「はい」

「それを証明できますか?」

「いいえ」

「何故ですか?」

「特別な力が無いからです。私には吹雪を巻き起こすことも出来ませんし、男性を氷漬けにすることも出来ません。雪山に生まれ、雪山に在り続ける。それが私であり、雪女ですから」

 明朗な回答であり、正直に言えば比較的予想通りでもあった。
 自身を雪女だと証明できる特殊能力なり性質があるのなら、バス停で偶々行き遭った見ず知らずの男に唐突に秘密の暴露(カミングアウト)を行う必要がない。物理的法則を無視した"奇跡"を起こせば事足りる。
 付け足すなら、この地に伝わる伝説においても、雪女はただ手招きをするだけの、拍子抜けな程に"普通"の妖怪であったことも、僕の推測を裏付けるものであった。

 矛盾は無いと判断した。



「雪女というのは他にはいないのですか?」

「いません。というか、知りませんという方が正しいですね。生まれた時から山に一人で、他の雪女に出会ったことが無いんです。いるかもしれないし、いないかもしれない、私には判断できません」

「しかし"生まれた"というからには、その、親兄弟みたいな方が居たのではありませんか?」

「いいえ、いません。私は私としてある吹雪の日に生まれました。説明をするのが難しいんですが、今と同じ姿形で突然パッと現れたという感じです」

「では、誕生以前の記憶はありますか」

「ありません、気が付いたら雪山にパッと一人、面白いでしょう」


 確かに、興味深い話だ。彼女の言を信じるならば、雪女は今この瞬間の姿形のままに突然にこの地に"発生"したらしい。
 彼女の語る雪女の生態により、僕が(つたな)い経験から作り上げた妖怪像の根幹が蹂躙(じゅうりん)されていくわけだが、不思議と気分は悪くなかった。尋問めいた問答は、いつの間にか僕の民族学的情熱をちりちりと刺激し始めていた。

 ようやく、理性の危険信号(アラート)が解除される。
 だから、それは世間話のような気軽さで、何気なく発した当たり前の質問だったと思う。分かるでも、分からないでも済む本当に気軽な質問のつもりだった。



「貴方が生まれたのは、何年前のことか、覚えていますか?」



 ――ひやりと、山の空気が凍りついた様な緊張感のある寒気を覚え、僕は思わず立ち止まった。
 質問は虚しく山中に掻き消え、返答の代わりに無言で歩を進める彼女の背中にただならぬ気配を感じ取り、僕は何かが彼女の琴線に触れたであろうことを理解した。


「女性に年を聴くなんて、酷い人ですね」


 振り返った彼女の笑みは、先刻とは明らかに異なる、見ているこちらが辛くなってしまうような(つたな)くて切ない"作り笑い"だった。


 (しば)しの静寂の後、彼女は呟くように言った。

「その"(ねん)"という感覚が、私には良く分からないんです」

 "(ねん)"が分からない? 僕が鸚鵡(おうむ)返しに聞くと、彼女はそのままの姿勢で軽く頷いた。

「年、という概念は分かります。冬が終わったら、春と夏と秋がやってきてまた冬が来る。それを永遠に繰り返す。違いますか」

「その通りですが、貴方は一体――」

 何を言っているのか、という僕の言葉を遮るように彼女は言葉を継ぐ。

「私、冬が終わると消えてしまうんです」

 彼女は天を仰ぐ。

「雪山に暦はありませんから、具体的に何月何日かは分かりません。冬の終わりともに、私はふっと消えてしまうのです。突然体から意識だけが飛び出して、暗い穴の底に閉じ込められてしまうような、寂しくて心細い、そんな感覚です」

 その感覚を思い出したのだろう。彼女は自分の肩を掴み、小さく震えるような素振りを見せた。

「そして、ある日また、生まれた時と同じようにこの山に立ち現れるのです。いつ消えてしまうかと震え、もう目覚めないのではないかと怯える。永遠に巡り続ける冬のなかで、私はずっとそんなことを繰り返してきました。春の暖かな日差しも、夏の空に浮かぶ雲も、秋の夕日の美しさも、私は知らない。私には巡る季節の感覚が分かりません。未来永劫変わることのない雪景色だけが、私の知る時間の全てなのです」

 彼女の表情は、その言葉通り今この瞬間消えてしまうのでないかと思う程に儚げであった。彼女を彩る美しい模造の桜吹雪が酷く皮肉めいていて見えた。
 彼女はその袖口にそっと触れ、まるでそこから花びらが舞い落ちてきたかのように、じっと手のひらを見つめた。

「だから、私、この目で桜を見たいって思ったんです。この着物の柄にどんな意味があるかはわかりませんが、雪の季節にしか生きられない私が、こういう格好で生まれてきたことにはきっと何かの意味があると思うんです」

 彼女が掴んだこの世ならぬ一枚(ひとひら)(さら)っていくように、一陣の風が山道を吹き抜け、空へと駆け上がっていった。

 僕たちは、暫く黙ってそれを見上げていた。




「ところで」

 気が付くと、小首を傾げた彼女は意地悪な笑みを浮かべて、僕を見つめていた。顔の近さは生来の癖なのだろう。女性に免疫のない僕は顔に熱っぽくなるのを押さえられない。

「尋問は済みましたか? 民俗学者の卵さん」

「え、ああ、はい」

「一緒に桜を見に行こうって言ってくれた後に、慌てて質問責めにし始めて。男らしくないです!」

 そう言うが早いか、彼女は僕の鼻を(つま)んでニ三度ぐりぐりと動かした。とっさの事で対応出来なかった僕は赤面を晒したまま、彼女のされるがままになっていた。

「行きます! 行きますから! やめて下さい!!」

「よろしい」

 ようやく鼻を解放しても貰い、僕はほっと一息を付く。

 理屈や論理的に拘泥(こうでい)して、目の前の人(雪女というべきか)を見ていなかったのがいけないかった。いや、寧ろ、これがそもそもの――
 一つの仮説に行き着いたが、余り深く考えないことにした。
 
「また難しいことを考えているんですか」

 彼女の手がまた鼻に伸びる気配を感じて、先んじて手で鼻を覆い隠す。不満面の彼女に僕は、

「桜、綺麗だと良いですね」

 と言った。
 
 彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべると、

「やっぱり変な人だ」

 そう言ってくすくすと笑ったのだった。 

第五話 春の気立つを以って也

 山道の中程には登山者のために設けられた展望台があり、僕たちはそこで一旦休憩を取ることにした。
 雪女に"疲れ"という概念が存在するかはさておき、僕はといえば二日連続で過酷な山道を歩き続けてわけで、疲労はピークに達しつつあった。

「少し、今後について相談をしませんか」

 足をマッサージしながら僕は少し離れた所にいる彼女に声を掛けた。
 長年山に暮らし、山の景色などとうに見飽きている雪女は、僕から取り上げた安物のビニール傘を弄っている真っ最中であり、傘が開く度に「おぉ…」などと目を丸くしていた。
 僕の呼びかけに気づくと、ぎこちない手つきで傘を閉じ、子犬が飼い主の呼びかけに応じて走り寄って来るように、とてとてと僕の許に戻ってきた。

「はい。相談をしましょう」

 彼女はにっこり笑って僕の隣に座る。僕は水筒のお茶を紙コップに入れて彼女に差し出した。文明の利器が珍しくてしょうがない彼女の目が再び輝くのが分かったが、ここは敢えて黙殺し、本題に入ることにした。

「実のところ、桜を見に行くのは、そう簡単なことではありません」

 僕は彼女に見えるよう、二本の指を立てた。

「解決すべき問題は大きく分けて二つあります。第一は、桜の開花時期の問題です。一般的に、桜はいつ頃咲き始めるか知っていますか?」

 目を反らし、気まずそうにお茶を(すす)る雪女。答えを察した僕はそのまま話を続けることにした。

「ソメイヨシノ、最もポピュラーな桜の品種ですが、開花時期は本州の最も早い地域で三月末頃だと言われています。今が一月末ですから、大体ニヶ月程度の開きがあります。しかしながら、僕たちには二ヶ月間を待つ時間的余裕はありません。その間に冬が終わって――」

 ――貴方が姿を保てなくなる可能性があります。
 僕は敢えて直接的な表現を用いた。
 もしかしたら、また彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったが、根本的に異なる存在である妖怪と人間が一緒に旅をしようというのだ、変な遠慮こそ最終的には彼女を不幸にする。そんな思いを込めた。

「どうして、それまでに冬が終わると言い切れるのですか?」

 こちらの意図をきちんと諒解して、対応してくれたのだろう平素と変わらぬ彼女の声音。
 雪女が"優しい"というのは、(あなが)ち的はずれな表現では無かったのかもしれない。

「確証があるわけではありませんが、仮説を立てることは出来ます。暦には立春、つまり春の始まりとされる日があります。一年に二十四回存在する区切りの一つであり、江戸期に発行された暦の解説本、暦便覧(こよみびんらん)おいては『春の気立つを以って也』と記載されています。"春の気配が立ち現れることによって立春とする"とでもいった所でしょうか。春の始まりは、すなわち冬の終わりと解釈することが出来ます」

「つまり、この日が最終期限ということになるわけですね」

「はい。無論僕の想像であり仮説の域を出ませんが、一先(ひとま)ずこの"立春"までに桜を探し出すということを当面の目標にしたいと思います」

「うん、それで良いと思います。ちなみにそれは大体どれくらい先の話なのですか?」

「……大体、一週間弱といったところです」

 案外、短いんですね。そう言うと、彼女は草むらに寝そべった。陽光に目を細め、両の手を天にかざすその姿はやはりどこか淋しげであった。

「桜、見つかるでしょうか?」

 彼女は心細げな視線を僕に向ける。時間的感覚に疎い彼女にも、この時期に桜を見つけ出すことの難しさは十分に伝わったようだった。

 展望台の先に広がる空に目を向けると、先ほどの雨雲だろうか、大きな積乱雲が急速に移動していくのが見て取れた。

「そこで僕に一つ、案があります」

 都会では見ることの出来ない巨大な雲が次々と流れていくのを見ていると、自分にも何か大きな事を成し遂げられるような根拠の無い自信がむくむくと膨らんでいくのを感じる。

「カワヅザクラという桜があります。ソメイヨシノ程一般的な桜ではありませんが、早咲きの桜として有名で毎年二月上旬に花を咲かせます。この桜ならば、立春までに咲いている姿を見ることが出来るかもしれません」

 僕は空中に"河津桜"という文字を書いてみせた。

「カワヅザクラの主な分布地は、その名の通り静岡県河津町(かわづちょう)であり、伊豆半島の大体真ん中位に位置しています。決して近いとは言えない距離ですが、電車を乗り継げば、まぁ二日あれば十分にたどり着ける距離だと思います」

「凄い!」

 彼女は突然跳ね起きると、僕に抱き付いてきた。持っていた水筒が弾き飛ばされ、中のお茶が中を舞うのが見えた。ああ、貴重な水分が、などと考えるのは状況に全くそぐわないのは重々承知していたが、目の前の状況が状況なだけに、僕は僕の冷静を保つため、敢えてその"その他"的な情景に目を向けることに努めていた。

「ああ、お茶が……」

 情けない僕の呟きに耳を貸すことなく、彼女は凄い凄いと連呼しながら僕の頚椎をへし折らんかの勢いで僕を抱きしめ続けた。

「私、桜を見れるんですね!本当に、見れるんですね!」

 ようやく僕を解放してくれた彼女は、手を叩いながら辺りを跳ね回ったかと思うと、今度は先ほどのビニール傘を抱きしめ「やったよ、やったよ」などと言っている。ここまで喜んでくれると僕も話した甲斐があるものだと誇らしくなってしまう。クリスマスに娘にプレゼントを上げた父親はこんな気分になるのだろうか、などと感傷に浸りながら、僕は彼女の様子を眺めていた。
 すると、暫く辺りで小躍りをしていた彼女がハッと何かに気付いたような素振りを見せると、今度は悪戯がバレた子犬が飼い主の許にやって来るような弱々しさで、再びとてとてと戻ってきた。

「もう一つの問題について、聞くのを忘れていました」

「賢明な判断で何よりです」

「意地悪」

 彼女が頬を膨らませる。その様子が面白くて、僕はさらりと"二つ目の問題"を彼女に伝えてみた。彼女は一瞬驚いたような表情を見せると、青空に向かって大きな笑い声を上げ「それは大問題ですね」と言った。
 そして、芝居がかった口調でこう続けた。

「それで、君はどうするつもりなのかね」

「へぇ、来月末までには何とか」

 演技が絶望的に苦手な僕には、平坦な口調で台詞めいた言葉を淡々と話す。何故か彼女は満足な笑みを浮かべ「へたくそ」と言ったかと、僕の隣に腰掛けた。

「それは困りましたね」

「ええ、全く」

 そう言うと、僕らは目を合わせて笑いあった。雨雲は、もうどこかへ行ってしまっていた。




「お金がありません」

 僕は彼女にそう言った。
 旅は道連れ、世は情け容赦なし。河津の桜は、まだ遠い。

第六話 ラピスラズリ

 妖怪は生活に優先する。

 変人の集団たる民俗学者の中にあって、その変人性でもって頭ひとつ抜きん出ていると名高い私のゼミ教官は高らかにそう宣言した。敬虔(けいけん)な学生であり民俗学者予備軍である僕も、その影響下にあるから、生活は必然妖怪中心となっていった。

 金が入れば、本を買う。金が無くても、旅に出る。 

 そんな生活を二年ほど繰り返した結果、僕の財政状況と危機意識は完全に破綻を(きた)しており、会計管理はもはや自転車操業とも言えず、坂道を転がり落ちる石ころのように赤字を積み上げていっている状況だ。
 早晩訪れる破綻の足音を感じながら、霞を喰って生きる方法を古書の失われた知識に求めるのである。

 僕の掌中に帰りの切符はない。
 未だ買っていないという訳ではない。そもそも買う金が無いのである。
 怪異譚を蒐集した後のことは、その時に考えれば良い。
 そんな風に考えていた僕は、雪女に遭遇するという重大事にこそ出会わなければ、()()()()()()()()()()()のだから。

 そんな事情は、彼女に言えるはずもない。



瑠璃(るり)くんは、貧乏な学生さんなんですね」

「修飾語が余計です。学生とは元来貧乏なものなのです」


 鍋島瑠璃(なべしまるり)。それが僕の本名である。

 彼女は僕を"瑠璃(るり)くん"と呼ぶようになった。その響きに少しだけ兄貴風もとい姉貴風を感じるのは、ふとした会話の拍子から僕の年齢が二十二歳であると知れたためである。少なくともあの老人の祖父の代から雪女で在り続けた彼女にとっては、僕などは小僧に過ぎないのかもしれない。
 僕は、過ごした季節が冬だけなのだから、正確な年齢というのなら四分の一をして然るべきであり、再計算すれば僕と年齢はそう変わらないはすだ、と主張したところ、頭をポカリとやられ「生意気」と言われてしまった。

 こうした話題が出来るようになったのも、ある意味関係が深まった証なのかもしれない。
 


瑠璃(るり)くん、一つ聞いても良いですか?」

「はい、なんでしょう、(ゆき)さん」

 僕は彼女を"雪さん"と呼ぶようになった。雪山にすっと一人ぼっちであった彼女に、名前を付けてくれるものは居なかったから"(ゆき)"という名前は自分で付けたらしい。
 雪女だから雪なんて安直ですよね、彼女はそういって笑ったが、僕は笑うことが出来なかった。永遠とも思える冬の連続を一人ぼっちで過ごさざるを得ない孤独と不安がその素直な名に込められているような気がして、彼女の名を呼ぶ度に僕の心はちくりと傷んだ。


「瑠璃くんの名前の由来って」

 彼女は僕の目を真っ直ぐに見て言う。

「やっぱりその目の色が由来なんですか?」

 僕の目は青い。
 先天的に虹彩の色素が薄いらしく、僕の目の輝きは平均的な日本人の黒黒としたそれとは大きく異なっている。小さな頃はこの目の色でよくいじめられたものだ。今では何とも思わなないが、子どもには無邪気な残酷さがある。「化物」と言われ、石を投げられたことさえあった。

「そうです。瑠璃色の瞳だから、瑠璃。安直ですよね」

「良い名前だと思いますよ。ご両親の愛情が伝わってくるようです」

 瑠璃(ラピスラズリ)。それはこの国では産出されない、遠い国の宝石の名前。

「僕には――」

 博物館で一度、その宝石を見たことがある。
 青の中でも特に深く鮮やかな煌めきを湛えたその宝石を見ていると、不思議と心が落ち着くのを感じたのを覚えている。人間に魂というものがあるかは僕には分からないが、魂を吸い込んで浄化してくれるような神々しさが、その石にはあった。

「両親がいないんです」

 彼女が息を呑むのが分かった。

「この名前は僕を拾って育ててくれた男性が付けてくれたんです。その人はお坊さんでして、瑠璃は仏教で七宝(しっぽう)と呼ばれる宝物の一つだから、お前の目はこの世の何よりも尊いんだと言っていました」

 その言葉に僕は救われたのだった。父もなく母もなく、普通ですら無かった僕が道を逸れずに生きてこれたのは、その言葉ゆえだ。こんな僕にたった一つでも、誇れるものをくれたその言葉のためだ。
 思えば、僕が民俗学に傾倒したのはその辺りがきっかけだったように思う。

 この世は、どうしようもない現実を作り替えてくれる素晴らしい物語に満ちている。

「瑠璃くん」

 彼女の一声で、僕は過去から立ち戻る。現実へと舞い戻る。
彼女の目が僕の瞳の色を映し出す。彼女の瞳が湛える瑠璃色に、僕の魂が吸い込まれていく。

「素敵なお父さんですね」

 それはたった一言の、本当に短な物語。その物語が、僕の現実を作り変えていく――
 僕は本当の父を知らない。
 けれど、この目に込められた"父"の思いを知っている。

「はい」

 山道に差し込む光は、色素の薄い僕の目には少し眩しすぎたようだ。



「例えば、この目を抉り出して売り払えばある程度の資金を獲得するが出来ると思いますか?」

「瑠璃くん。あのいい感じの話のあとによくそんな言葉が出てきますね」

「なにせ変人ですから」

 すっかりペースが狂ってしまった。
 余り感傷的なのは好きではないし、せっかくの旅路だ、笑って行きたいというのが望みでもある。少しだけ気恥ずかしかったのというのは、彼女には秘密。
 身を削りこぼれ落ちた自虐というスパイスを振りかけつつ、僕は目下の問題に舵を切り直すことにした。

 カワヅザクラという指針は立った。
 立春のタイムリミットまであと一週間あるとは言え、"歩き"というのはやはり現実的な手段ではあるまい。何かしらの交通機関を使わねばならないが、今の僕らは殆ど無一文である。資金の捻出は必須であった。
 雪さんは自分の着物を売ったら良いなどと言ってくれたものの、女性の身ぐるみを剥いで金に換えたとなると、資金を得た瞬間人間として大事なものを失うことは目に見えているので、丁重にお断りさせて頂いた。 
 
「瑠璃くん、瑠璃くん」

 雪さんが僕の袖を引っ張る。何か思いついたらしい。

「これ、私に頂けませんか」

 そう言って雪さんは、僕のビニール傘を指差す。一本350円のみずほらしいビニール傘が何の役に立つものだろうか、訝しみつつ僕は傘を差し出した。
 傘を受け取った彼女は、雨も降っていないのに傘を広げたかと思うと、嬉しそうな様子でくるくると回し始めた。そうして僕の方に向き直ると、

「瑠璃くんには、これをあげます」

 一本の和傘を僕に差し出した。

「交換です」

 僕は伝統工芸品に詳しくはないが、一見してこれが"良い"品であることは分かった。彼女が生まれた時から持っていたものの一つだろうから、恐らく100年近く前のものであるはずなのに、骨組みに歪み一つなく、匂い立つような傘部分の赤色も全く色褪せていない。一体どれだけの価値があるのかは分からないが、少なくともビニール傘一本に釣り合うものではあるまい。

「受け取れない、なんて言わないで下さいよ」

 今度はスムーズな手つきで傘を閉じくるくると巻くと、彼女は大事そうにビニール傘を抱えて言った。

「どうして突然にこんなことを?」

 先を越されてしまった僕は、不承不承和傘を受け取ると、彼女に尋ねた。

「その傘は、貴方のものです。だから」

 売ってお金にして下さい、と彼女は言った。

「案外、ズルいことをしますね。雪さんは」

「だって、そのまま渡しても瑠璃くんは受け取ってくれなさそうですから。それに、私がこの傘を気に入ったのは本当ですから、返せなんて酷いことを言わないて下さいね」

「分かりましたよ、全く」

 

 隣町まで、もうすぐという所に迫っていた。
 遠くに見える町並みはたった一日前に見たのとなんら変わりない風景であったが、僕は酷く懐かしい気分になった。
 老人の死。雪女との出会い。
 一生に一度も経験できないはずの様々な出来事が一度に去来し、この山を越えた二日の出来事が僕には何年のことのように思われたのだ。

 僕の隣には、雪女が居る。
 雪女を桜を見に行くという奇妙な旅路がこれからどんな結末を迎えるか。すっかり晴れ渡った空を見上げ、僕はまだ見ぬ桜に思いを馳せた。



「取り敢えず、歩いて帰る羽目にはならなくて済みそうです」



 感傷に浸り、思わず口をついで出た安堵の言葉。
 口を出した瞬間に、呪いの文句に様変わりすることを、僕は知るべきだった。

「歩いて帰るってどういうことですか?」

 雪女は、ピタリと足を止める。

「お金も持たずどういう計画を立てていたのか、聞かせてもらいましょうか」

 ニコリと笑う(ゆき)さんであったが、体の底が真から冷えるのが分かった。
何とか誤魔化そうと、民俗学者は変人云々、妖怪は生活に優先云々などともごもご言ってみたものの、彼女は笑顔を崩さず、山の気温はどんどん下がっていくように感じられた。

 歩いて帰るつもりでした、という僕の一言をきっかけに、"姉貴風"は最大風速に達し、彼女が静かに発した「正座をしましょうか」との言葉から、僕らの旅路には第一歩目から一時間のロスが生じたのであった。

雪月花

雪月花

民俗学者の卵の「僕」は、怪異譚の蒐集のためある村を訪れる。 収穫は、無いはずだった。 冬の終わり、僕が出会ったのは失われた物語の残り香であった。 これは、雪と月と花の物語である。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-11

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第一話 『私の原風景』
  2. 第二話 山中妖怪考
  3. 第三話 その花の名は
  4. 第四話 巡る季節を求めて
  5. 第五話 春の気立つを以って也
  6. 第六話 ラピスラズリ