夏のジャイアントスイング

北関東の小さな駅前のロータリーを、木戸先生が運転するぼやけたような銀メタのミラージュが、ゆっくりと回った。
 ラジオでは大沢誉志幸が「ぼくは途方に暮れる」と何度も歌っていた。
 有料駐車場は駅に近いほど料金が高く、無料の駐車場は駅から数百メートルも離れている。
 一通り駐車場の料金を確かめてから「田舎のくせに」と木戸は柄にもなく毒づいて車を引き返した。
 「ちょっと遠いけど、無料の駐車場でいいだろ」
 木戸はたばこを灰皿でもみ消しながら言った。灰皿はルパン三世のフィアットみたいに、吸い殻が山盛りになっている。
 「はあ」
 「なんだよ、歩くのもトレーニングだぞ」
 木戸は僕の気のない反応が気に入らないらしく、教師特有の恩着せ口調だ。
 車を降りると、いたる所で蝉がひっきりなしに啼いていて、それが小さな町工場の作業音のように、僕のあらゆる意欲を萎えさせた。
 時計はまだ十時なのに、太陽はテノール歌手が絶叫したようなコロナで地上を支配していた。
 柔道部員という人種は、いつも薄暗い所にいるせいか、直射日光には極端に弱い。僕は荷物を背負ってから、近くの喫茶店の窓際の席に座るまでの記憶がほとんどなかった。
 馬鹿律儀な木戸が歩き出す前に、ズボンの尻のポケットから取り出したメモを開いて何か言おうとしたような気がするのだが、結局何も言わなかったのは、僕がよほど嫌そうな顔をしたからかもしれない。
 「チョコレートパフェでいいだろ」
 木戸は僕の返事も待たずに、チョコレートパフェを二つ注文してしまった。
 変な大人だった。全てがアンバランスだ。
 やや小太りの体つきに白いポロシャツと背広の下だけ穿いてきたような、灰色のズボンは、いかにも真面目な公務員風のくせに、車の灰皿はいつも、だらしないてんこ盛りになっていて、まるで絵に描いたような「だらしないオジサン」でありながら、女子高生みたいに甘党なのである。
 歳は三十一とクラスの女子から聞いたことがあるが、運動経験が無いためか、同い年の体育の先生よりもずっと老けて見えた。
柔道部の監督。
というよりは付き人みたいだった。
木戸が再びメモを開くのを僕はげんなりした気分でながめていた。これから明日にかけてのことを考えると、気が重いなどというものではない。
ただでさえ場違いなインターハイに行くのに、僕はこの数学教師とずっと一緒にいることになるのだ。
「まず天教高校の山下だが、四十キロのダンベルを片手でグルグル振り回す怪力の持ち主で…」
「はあ」
「中仙大武蔵の大木の寝技は大学生並みだ。あの学校は伝統的に寝技が強くて…」
「そうですか」
「だがなんと言っても優勝候補筆頭は世良ヶ谷学園の甲賀利彦。昭和の三四郎の背負いは超高校級で…」
「すごいっすね」
――早くパフェこねえかな――
「あとは国臣館高校の…」
――今日夕やけニャンニャン見れるかな――
「…おい」
「はい?」
「聞いているのか、片山おまえ?」
「はい?ああ。はい。聞いてます」
木戸はメガネレンズの間を中指で、何かのスイッチを押すように押し上げた。
「どうせ僕には技術的なアドバイスなんてできないと思ってな。だからせめてライバルのことくらいは調べておいたんじゃないか」
一流大学を出ているくせに、この木戸という男にはどこかいじけた感じがあり、僕はそんなところが嫌いではなかった。
本当は写真が好きで、写真部の顧問をやりたかったらしい。
「ライバルだなんて、無理っすよ」
中学時代から個人戦でベスト4には何度か入ったことはあった。
だが、実質飛びぬけて強いのは他の三人で、その他大勢はどんぐりの背比べのため、頑張れば四位にはなれるが、逆にどんなに頑張ってもそれ以上にはなれなかったのだ。
ところが、今回その三人のうち二人も予選を欠場したのだった。
一人は怪我で、もう一人は他の部員の暴力事件で、その学校ごと辞退したのである。
もう一人の優勝候補は、チャンスと思い力んだのか、三回戦で僕の体落しにあっさりひっくり返った。僕の体落しがそいつに決まったのは初めてだった。
かくして僕は不本意ながら、県の代表選手になってしまったのである。
一方、僕の高校の他の部員達は、進学高校弱小柔道部の面目躍如たる小活躍ぶりで、一回戦で堂々と役目を終え、今頃は海に山に青春を謳歌しているのだった。
「なあ、片山」
木戸はアライグマがエサをいじくり回すような仕草でバッグの中をかき回して、小さなアルバムを一冊引っ張り出し、僕は露骨に嫌そうな顔をしてみせるのだった。
「あった、これだよ、これ」
木戸は僕の顔を見ずに満足げに一人頷き、アルバムをテーブルに広げて、僕に向けて回してよこした。
目が小さいため、下を向くと黒縁メガネのフレームで目が隠れて、まるで目がないみたいで、ちょっと気味の悪い顔になった。
「ほら、これ見てみろよ」
開かれたページには、三回戦の相手を体落しで投げたところがきれいに写っている。
「ま、またその話ですか」
「素人の僕が言うのもなんだけどな。お前の体落しは、この半年くらいで間違いなく進歩してるぞ」
「はあ」
木戸は理数系の人間らしく、僕の反応などお構いなく、僕の体落しの「見た目」がきれいになったという持論を、中指でメガネのスイッチを押しながら展開し始めた。
親切な教師なのだ。
そのくせ僕はこの、根拠があるんだかないんだかよく判らない話をされると、いつも惨めな気分になるのだった。
幸い木戸は話に熱がこもってくると、相手の顔をあまり見なくなるので、僕は窓の外に目をそらして、外をながめた。
駅前通りに面したこの店の大きな窓からは、通りの向かいに並んでいる古臭い床屋や食堂や、田舎臭い洋服屋が、真夏の強烈な太陽に深い陰影を刻んで建っていた。
その食堂の引き戸が中から開いて、バケツを持った小柄な女の人が出てきて、入り口の前に水をまき始めた。
僕はその女を見て「あっ」と言った。
見覚えがある人だった。
その中年の女は恐ろしく早い身のこなしで店を開ける準備をしているらしい。今度はほうきを持って出てくると入り口の前をリズミカルに掃き始めた。
その冬眠を目前にしたリスのような、小気味の良い動きは、僕の記憶の中にある軽い痛みのような疼きを蘇らせるのだった。
木戸先生は、上機嫌で自説を主張し続けていた。

その年の夏。小学校六年の夏。僕は入院していた。
自動車にはねられて、大腿骨という太ももの骨を骨折したのだ。
入院した最初の丸一日くらいの出来事は、救急車に乗ったことも含めて、ほとんど憶えていなかった。
お母さんが僕を覗き込んで、押し殺した悲鳴のような声を何度も何度もしぼり出して泣いていたらしい記憶が、途切れ途切れにあるだけだった。
僕をはねたのは、小型トラックだった。
信号機のない小さな交差点で、サザンカの垣根の死角から僕が自転車で飛び出したのだ。
「よく足の骨折だけですんだな、死んだって不思議じゃなかったぞ」
整形外科担当の先生が、脳波や心電図に異常がないことを告げたあとで、ほとんどお母さんの方ばかり見ながらそう言ったのは、僕の意識が回復してからだった。
お母さんの喉が笛のような音をたてて、空気を吸い込んでから「ありがとうございます」と一気に吐き出した。
「成長期だし、治りは早いですよ」
医者は得意そうにお母さんに言った。
「じゃあ、臨海学校いけるの?」
と僕は訊いた。
「臨海学校っていつですか?」
医者はお母さんに訊いた。
「八月十日」
僕が応えた。
「それは無理だよ」
医者は僕の顔を見てそれだけ言うと、またお母さんに向かって上機嫌に、
「なんといっても体の中で一番大きくて太い骨ですからね。かわいそうだけど学校が始まるくらいまでかかっちゃいますね」
医者はまるで、それが楽しいことみたいに太った肩を揺らしてクククと笑った。
僕にはそれが、時代劇の悪代官のように見え、腹が立ってくると考えるより先に動く方の足で、足もとにある物を蹴っていた。
「うわっ」「きゃあ」
僕はだいたいの見当で、毛布を蹴ったつもりだったが、ちょうどその場にあったリヒカと呼ばれる、足を保護するためのドーム型のフレームを蹴ってしまったのだ。
蹴られたリヒカはベッドの足下のパイプの柵に当たって、変な角度で跳ね返り、置いてあった花瓶を蹴散らしたのである。
「なにすんのこの子は」
隣にいた看護婦さんの、甲高い怒鳴り声が聞こえた時には、僕はすでに表紙の硬いノートのようなもので頭を叩かれていた。
僕が見上げると、度の強そうなメガネをかけた看護婦が見下ろしていた。
「あなたが自転車で飛び出したりするから悪いんでしょう」
「うるせえ、口裂け女」
部屋中のあちこちで、クスクスと笑い声が聞こえた。
「どうもお騒がせして、すいません皆さん」
お母さんが部屋中を歩き回って、謝った。
「おいおい、力、余ってんなあ」
医者が困った顔で僕に言ってから、看護婦に向かって、
「君も、もうベテランなんだからたのむよ、病院で怪我させたんじゃシャレにならないぞ」
と言ったが、顔はそれほど困った感じではなかった。
看護婦は医者に向かって、「申し訳ありません」と、形だけ謝ってから、
「ごめんね、満くん」
と感情を込めずに、ベルトクイズQ&Qのコンピューターみたいな早口で僕に謝った。
胸の名札には橋本と書いてあった。
小さなオッパイだ。と僕は思った。オッパイだけじゃない、体全体の作りが小柄で、小学生の僕とほとんど変わらないくらい、背も低かった。
橋本さんがプイと病室から出て行くと、医者も頭を掻きながらそれに続き、最後にお母さんが謝りながらそれを追いかけて行った。
そのコントみたいな一幕がおかしかったのか、病室中に笑い声が響きわたった。
「ごめんなさい、本当にきかない子で」
もどってきたお母さんが再び病室中を謝って回ろうとすると、
「いいんだよ、奥さん」
と、僕の向かいのベッドの、おばさんというよりはおばあさんに近い女の人が、メガネを額に上げながら笑った。
枕元の名札には、高田茂子と書いてあった。
ベッドを椅子のように起して座り、膝の上には分厚い本が乗っていた。
笑顔でお母さんに手招きをすると、黄色い箱のキャラメルを差し出した。
「お母さんも疲れたでしょう。坊やもずいぶん元気になったみたいだから、一度帰って寝たらいいですがね」
恐縮して何度も頭を下げるお母さんに、高田さんは教え諭すように言った。
病室には僕が寝ているのを入れて六つのベッドが、部屋の真ん中を通路のようにして、三つずつ向かい合わせて置いてあった。
僕と高田さんのベッドは、最も入り口寄りの壁際だった。
高田さんの隣のベッドの痩せた中年の男が「クックック」と笑いながら話しかけてきた。
「坊主、あんなスケはな、尻でもなでて、パイオツでも揉んでやりゃ、おとなしくなっちまうんだよ」
そう言って楽しそうに一人でゲタゲタと笑い転げた。名札には藤原明と書いてあった。
「うるさいねチンピラ、子供に妙なこと教えるんじゃないよ」
前田さんにそう言われ藤原さんは子供のように「ふん」と鼻を鳴らして、背中を向けて寝転がってしまった。
「あっちもね、看護婦だったから解るんだよ。キミちゃんはね、真面目なのさ、一生懸命だからムキになるんじゃないか」
前田さんは自分のことを「あっち」と呼んだ。まるで時代劇の渡世人みたいだと、僕は思った。
藤原さんの向こうのベッドで、仰向けに横になって本を読んでいるピンクのパジャマの女の子は僕をびっくりさせた。
年齢は僕と同じくらいのようだったが、起き上がったら肩の下くらいまでありそうな長さの真っ直ぐな髪を簡単に後ろで束ねてあり、仰向けで本を読んでいたので顔はよく見えなかったが、肌の色が日焼けだけとは思えないくらい真っ黒だったのだ。
 名札も僕の所からは良く見えなかったが、穂積アンドリーナというどこかの外国の人とのハーフなのだと後で知った。
僕の隣は髪の長い若い男で、やはり名札は見えなかったが、名前は坂口辰吉といった。
坂口さんの向こうの窓際のベッドは、誰も使っていなかった。
坂口さんは僕がそれまで見たことのない小さなヘッドフォンを頭に被り、目を閉じて首を振りリズムをとっていた。それは、この年に発売された、ソニーのウオークマンだった。
「ところで、お父さんがまだ一度も来てないようだけど、出張でも行ってるのかね」
僕がウオークマンに見とれていると、高田さんがお母さんに訊いてきた。
お母さんは疲れきった顔で、「はあ」とだけ返事をした。
「まあ、どこの家でも忙しい時代だよ、困ったことがあったら何でも言うんだよ」
前田さんは、お母さんの様子でだいたいの事情を察したように、話を切り上げた。
確かにいろんなことが忙しい時代だった。
農道のガタガタ道は、どんどんアスファルトになり、川はコンクリートの溝になり、畑は住宅街へと変わっていった。
そして、この年は僕の家もめまぐるしく変わっていった一年だった。
僕の父親、章雄が突然いなくなったのだ。
半年ほど前、「会社に行く」と出て行ったきり、夜になっても次の日になっても、戻ってこなかった。
警察に連絡しても見つからなかった。
同じ会社の女性と失踪したのではないかと、同僚の人が言っていた。その女性もお父さんと同時にいなくなったらしい。お父さんの部下で、大卒の若い女性だったそうだ。
僕もお母さんも最初は信じられなかった。
いつも背広にネクタイ姿で、会社と家を往復するだけの、真面目を絵に描いたような父親だったのだ。
毎晩、冷奴をつまみに、お銚子一本だけの晩酌をする他、趣味や道楽らしい遊びなどほとんど持たず、たまに家族で旅行に行った時の写真も、ワイシャツにネクタイ姿で写っているような父親だった。
変わっていったのは家族だけではなかった。
学校の同級生が、その父親のことで僕をいじめるようになったのもこの年からで、僕の気持ちもこのころはひどく荒んでいた。
本来、父親に似ておとなしいはずの僕が、自転車で交差点を飛び出すなど、ありえないことだったのだ。

「彼」が運ばれてきたのは、それから数日ほど経った頃だった。
車の付いたベッドで運ばれてきたその男は、ベッドから足首がはみ出すほどの大男だった。
僕が入院していたのは二階だったが、三階の看護婦まで動員され、医者を先頭にピアノでも運ぶような騒ぎで、病室のベッドに移し替えたが、長さ二メートルのベッドがいかにも窮屈そうだった。
男は意識がなく、丸太の幹のような首には、それをひと巻きするような真っ赤な痣が一本入っていた。
「杉山雷蔵だ」
坂口さんが一人興奮して、感嘆の声をあげたが、看護婦の一人が慌ただしく入れた名札には、杉山春夫と書いてあった。
「春夫ってのは本名ですよ」
坂口さんが誰も聞いていないのに、みんなに説明するように言った。
「誰だいそいつは?」
藤原さんが不機嫌そうに尋ねた。
「プロレスラーですよ」
「へえ、プロレスラーっつうと、アナコンダ馬場とかアンセルモ桧垣の仲間かい?」
「桧垣の弟子ですよ」
坂口さんはなぜか得意げに言った後、「すげえや」とつぶやいた。
「そんな有名人が、なんだってこんな田舎の病院に担ぎ込まれてくるんだよ?」
藤原さんが小指で耳の穴をほじくりながらブツブツと言うと。
「田舎の病院にゃ、時々訳あり患者がくるんだよ」
今度は前田さんが応えた。
「この町出身なんですよ、ほら、この人ですよ」
自分の荷物入れに積んである、雑誌をごそごそ探していた坂口さんが、中から一冊のプロレス雑誌を出してきて、広げて見せた。
そこには今ベッドに横たわっている杉山春夫とは、とても同一人物と思えないような悪役レスラーの顔の写真がアップで載っていた。
金髪で顔を歌舞伎役者のように白と赤に塗って、額から血を流しながら、こちらを指差して何かを叫んでいる写真だった。
「見たことねえぞ、こんなやつ」
藤原さんは何故か、面白くなさそうである。
「三年くらい前までは、時々テレビにも出てましたよ、セミファイナルで」
「セ…セミ、なんとかって、何だ?」
「メインイベントの前の試合です」
「そりゃあ、相撲でいうと十両くれえか」
「三役くらいですね。稲妻ヘッドバットの杉山って呼ばれてました」
「ヘッドバットってなんだ?」
「頭突きですよ」
藤原さんが「ケッ」と言った。
「チョーパンくれえ、俺だってできるぜ。俺あこれでも中学高校時代は、ちったあ鳴らしたクチでよ」
「うそ言うんじゃないよ、高校出てないくせに」
前田さんが鋭くさえぎった。
「まるで西部劇の喧嘩みたいに、相手の攻撃をよけないし。額から流血しながら、何度も何度も頭突きをやるんですよ。結構かっこいいですよ」
藤原さんはすっかりいじけて、
「どうでもいいけどよ、この部屋のジンクスで、あの窓際のベッドに入ったやつは死んじまうんだぜ、みんな」
と毒づいた。
「いいかげんなこと言うんじゃないよ」
前田さんが間髪入れずやり込めた。
「身長百九十八センチ、体重百四十キロ、でかいや、やっぱり」
坂口さんはまるで聞いていなかった。

「なにこれ満くん、またこんなに残して」
橋本さんが僕の朝食の残りを見て、顔を曇らせた。
「あなたねえ、食べ盛りなんだから、これくらい全部食べなさいよ」
僕は返事もせずに、窓の外を見たり、下を向いたりしていた。すると藤原さんが横槍を入れた。
「こんなまじい飯、食えねえってよ」
「内臓には異常ないんだから、全部食べるまで置いとくからね」
橋本さんは藤原さんの声に耳を貸さずに言うと、杉山さんの方へ足早に歩いていき、
「杉山さんもずいぶん残しているんですね。そんなに大きいのに、死んじゃいますよ」
と気遣った。杉山は「はあ」と小さく返事をしたが、窓の外と自分の手を見比べたりして、それ以上何も言わなかった。
「まるで、でかい満だな」
藤原さんが皮肉っぽく呟いた。
杉山さんのおとなしさは、この病室でも驚異の的になっていた。
とても、あの雑誌の写真の顔からは想像できない性格で。現に本人と直接会っても、熊のような巨体と傷だらけの顔はあの写真のままの迫力だったが、普段はひどく無口で、たまに口を開いても「はい」とか「いやー」などと、蚊の鳴くような小声でささやくだけなのである。
「確かに病院食では、あなたがお腹いっぱいになるほどは出せませんが…」
「いや、まあ、その、それは全然…」
元々の性格がおとなしいこともあるのだろうが、何より生きる気力のようなものが感じられないのだ。
「おいおい、なんか辛気くせえな、おい」
そう言う藤原さんは一人どこか楽しそうである。
「だいたいこんな、ハムと卵と海苔だけの飯が毎朝毎朝続くんじゃ、誰だって嫌になっちまうぜ、たまにゃビフテキでも、だな…」
「朝っからそんなもん出せるかい」
前田さんがいつものように、さえぎった。
「そういうあんたは、一番よく食べるじゃないか」
「俺はさっさと退院してえから、まずくても栄養はとるんだよ」
藤原さんはある意味、この病室でも重症の部類だった。
プレスの仕事で、右手の小指を挟んで潰したのである。小指はもう、一生元には戻らなかったが、本人は、
「プレスってのは、指がねえくれえが一人前なんだよ」
などとうそぶいて見せるのだった。
前田さんは脊柱管狭窄症という腰の病気で、坂口さんはバイクで転んでやはり僕と同じ大腿骨骨折。アンドリーナはほとんどしゃべらないので、はっきりとは判らなかった。
「先日、あなたの会社の社長さんから電話があって、よろしくお願いします、って言われたのよ」
藤原さんと前田さんが漫才をしている間も、橋本さんはテキパキと杉山さんの体温をノートに書き込んだりしながら、言って聞かせていた。
「社長っていうと、桧垣寛治さんって人じゃないですか?」
ずっと黙って本を読んでいた坂口さんが、急に顔を上げて目を輝かせた。
「そうね、そういう名前の人だったかしら」
藤原さんを無視し続けていた橋本さんが、坂口さんには返事をした。
「すごいな、アンセルモ桧垣と電話で話すなんて、どんな話をしたんですか。他に何か言ってましたか?」
「何かって…そうね、足の治療もお願いしますって」
坂口さんは「ええっ」っと、さらに驚いて。
「足っていうと、右膝ですか?アブドゥル・ボッチャにやられたんですよね」
坂口さんが一人上機嫌で杉山さんに聞いても、杉山さんは「え?ああ、うん」と言うだけだった。
「まだあてにされてるってことですよね。よかったじゃないですか杉山さん、また復帰できるかも知れませんよ」
杉山さんは何故か泣きそうな顔でいつものように「え?ああ、うん」と言うだけだった。

「ぼく、二年前のその試合テレビで観てましたよ」
藤原さんはスペース・インベーダーに夢中で、坂口さんの話に、「そうかい」と無愛想に相槌をうつだけだった。
藤原さんは右手の小指を切断しているにも関わらず、全く懲りたようすもない。橋本さんが休みの日は、僕も入れた三人で、病院の近くの、この駄菓子屋に羽を伸ばしにくるようになってしまっていた。
藤原さんは缶ビールを二本だけ飲むのを楽しみにしていたが、一人で飲むのはつまらないのだろう。松葉杖で歩けるようになった僕と坂口さんを誘って、当時一世を風靡していたインベーダーゲームを五百円ずつおごって遊ぶのだった。
坂口さんと僕はビールを飲まなかったが、三人で仲良く不良グループを結成していた。
「あの試合、杉山雷蔵とビリー・ファングの試合だったんですが、突然ボッチャが乱入してきたんですよ」
ゲーム台から「チュドーン!」と爆発音がして、藤原さんが「ぐわああ」と両手で頭を抱え込んだ。間のぬけた音楽が流れ、今度は坂口さんが構えた。
藤原さんはふてくされたように、ビールをぐいっと飲み、坂口さんはかなり手馴れたようすで、ゲームをしながら喋り続けた。
「ビリーがスピニング・トウ・ホールドをかけている最中に、ボッチャが杉山さんの膝にエルボー・ドロップを落としたんです」
藤原さんは返事をする代わりに、
「おめえの順番は長えんだよ」
と毒づいた。
「杉山さんはタンカで運ばれて、半月盤が断裂したって、新聞には書いてありました」
僕は隣の鉄板で、もんじゃ焼きを焼いて食べながら自分の順番を待っていた。
「三ヶ月くらいして復帰したんですが、それ以来膝が爆弾になっちゃって、大事な試合は全部負けちゃって。この一年くらい、試合に出てなかったんじゃないかな」
「この暑っちいのに、なにも鉄板の隣にゲーム台置くことねえだろ、この店も」
藤原さんが僕の前の鉄板を恨めしそうににらんだ。
杉山さんの入院の理由は病室でも何となくタブーになっていたが、どうやらそれが自殺未遂らしいということは、子供の僕にも、そして誰にも理解できた。
この一年の間に奥さんにも離婚されて、その際払った多額の慰謝料の借金がまだ残っているらしいことを、坂口さんがみんなにこっそり話していた。
「どっちにしても杉山雷蔵にとって、本当の勝負は、あのビリーとの試合だったんですよ。メインイベントに上がれるかどうか、あの試合の結果と内容次第だったんでしょうけど、ボッチャのつまらない抗争に巻き込まれて。ボッチャにしてみれば、ファイトマネーが少ないことへの不満を、ぶちまけたかっただけなのに…」
「おい」
急に藤原さんに話の腰を折られて、坂口さんは視線を上げた。
僕も釣られて店の外を見ると、アンドリーナが、いつものパジャマ姿にツバの広い白い帽子を目深に被り店の前を歩いて行くのが見えた。
そのピンクのリボンのついた帽子は、あまり日本の女の子が被るとは思えないような。映画の中でヨーロッパの貴婦人が被りそうな大人おとなした感じだが。彼女が足を踏み出す度にリボンや広いツバや、長い髪が風を受けて、ひらひらと揺れるさまは、絵になった。
「また今日も散歩に行くみたいだぜ」
この店の前の道は、車もほとんど通らないような狭い道だったが、店の前を通り過ぎて数十メートルほど行くと、信号機もないくらい小さな交差点があり、それを右に曲がるとその先は川の土手に突き当たっていた。
その川は向こう岸の土手まで一キロくらいはありそうな大きな川で、アンドリーナは雨の日以外は、毎日のようにその土手に歩いて行くのが日課のようになっていた。
アンドリーナの父親がどこの国の人なのかは誰も知らなかったし、その人は今日本にいないのか、一度も見舞いに来たことがないと藤原さんは言っていた。
母親は一週間に一度だけ見舞いに来るが、すぐに帰ってしまう。
日本人だが田舎では目立つくらい、派手な服を着て厚化粧をした女性で、いつもサングラスをしていて、顔はよく分からなかった。
顎や頬の輪郭はすっきりしていて、鼻筋も通っていたから、サングラスをとったら案外美人なんじゃないかと、想像できた。
「キャバスケだろ」
と藤原さんが言っていた。
キャバスケとはキャバレーで働く女性のことなんだそうだ。
アンドリーナはいつも感情を表に出さず、病室や病院のスタッフの誰とも、親しげに喋ることなどほとんどなかったので、いつも何を考えているのか解らなかったが、僕は偶然彼女が泣いているのを見てしまったことがあった。
病院の二階の一番西の部屋は、物置にでもなっているのか、開かずの扉のようになっていて、その部屋の前は普段誰も通らないのだが、その廊下の突き当たりの所で、彼女と母親が何か言い合っているところを、僕は偶然見てしまったのである。
二人が何を話していたのかは解らなかったが、普段感情を顔に出さないアンドリーナが、押し殺すような声で突然泣き出したのだ。

「おい」
と僕は後ろから声をかけた。
アンドリーナはよほど驚いたらしく、弾かれたように体ごと振り返って、いぶかしそうな目でツバの奥から僕を見返して「なあに?」と返事をした。
その声と顔つきは、相変わらず感情を出していなかったが、とりあえずあまり僕を歓迎していなそうであることは僕にも解った。
まつ毛の長い真っ黒な二重の大きな目にじっと見据えられると、僕はなにかを責められているような気分になり、気安く声をかけたことが悔やまれてくるのだった。
「何を見てるんだよ?」
僕は決まりの悪さに、つい乱暴な訊き方をしていた。
僕が声をかけるまで、アンドリーナは土手の上に立って、向こう岸、というよりもっと遠くの空をながめていたのだ。
「何だっていいでしょ」
彼女はそっけなくそう応えると、頭の帽子を両手で押さえながら、またさっきと同じところに視線を向けてしまった。
アンドリーナの日本語は、普通の日本人とたいして変らなかった。顔を見ずに言葉だけ聞いていたら、完全に日本人と間違えるくらいだったろう。
僕は内心結構傷ついていたのだが、アンドリーナにそれを感づかれるのがもっと辛かったので、しばらく黙って彼女と同じようにながめてみるのだった。
広い川で、向こう岸の土手は地平線のように、陽炎の彼方に揺れている。
台風の時などは、この土手の端から端まで川の水が増えるのだと、誰かから聞いたことがあったが、今の季節は水が少ないらしい。それでも川幅は、百メートルは越えているように見えた。
今ではほとんど使われていると思えない渡し舟が、それでも朝と夕方くらいは往復するのか、所在なげに川岸につながれて浮かんでいた。
土手の向こうは、何本か煙突が立っていて、高架線の列が見えなくなるくらい遠くまで連なって、入道雲の中に消えて行っていた。
その先、はるか遠くにある東京に、僕は一度も行ったことがなかったが、その高架線の列は未来都市につながっているように思え、僕はそれを見ているといつもちっぽけな自分が惨めに思えてくるのだったが、この時にはもっと居たたまれないような、逃げ出したいような気分に襲われてくるのだった。
僕は松葉杖を引き寄せて、振り返った。
クラスでは女の子に話しかけることもできず、男たちからは毎日いじめられているくせに、そのことを知らない女の子には、わざわざ追いかけてきてまで頭から乱暴な話し方をする自分がひどく卑屈に思えたのだ。だが。
「うわっ」
松葉杖が草にひっかかり、僕は無様にも転んでしまったのである。
僕はこの時まで松葉杖では、病院の床とかアスファルトとかの平らな所しか歩いたことがなかったのである。
「いってえ…」
「何やってんのよ」
アンドリーナはあきれたような顔で、僕を抱え上げようとしてくれたが、これ以上醜態をさらしたくなかったので、「大丈夫だよ」と慌てて杖にしがみついて立ち上がった。
それまで気づかなかったが、彼女のピンクのパジャマは近くで見ると、色あせていて、あちこち綻びて、袖口や襟のあたりが垢染みていた。
日本人離れして綺麗な顔に大人びた帽子と、そのボロを纏ったお姫さまみたいなアンバランスさが、僕には妙に痛々しく思え、僕は少し気が楽になるのだった。
「大丈夫?」
アンドリーナは、今度は意外と優しく、僕のパジャマについた草や土埃をはたいてくれながら、僕の足に巻かれたギプスをしきりに気にしていた。
「足の骨、また折れたんじゃない?」
「大丈夫だよ」
僕は必死になって否定した。
「それよりお前…」
「お前じゃないよ、アンドリーナ」
アンドリーナは、僕の言葉をさえぎるように言い放ち、ほっぺたを膨らませて僕をにらんだが、すぐにクスッと笑った。
アンドリーナが怒ったことも、笑ったことも僕の気持ちを爆発的に明るくさせた。
誰に対しても仮面を被ったようだったアンドリーナの豊かな表情を、僕だけが独り占めしたような気分になったのだ。
「アンドリーナ」
僕にはまるでそれが催眠術の呪文の言葉で、自分が術にかけられているように復唱していた。正直いって、呼びやすかった。
「アンドリーナ」
僕はそれが本当になにかの呪文のような気がして、もう一度呼んでみた。アンドリーナには悪いけど、何だか人の名前じゃないみたいでいい。
「なあ、インベーダーやらないか?」
僕は調子に乗って、ついそんな風に誘ってみたが、アンドリーナは「ええっ?」と顔を曇らせた。
その表情もすごく豊だった。
「いいよ、お金ないし」
「お金ならあるよ」
僕はポケットから百円玉を二枚出して見せた。藤原さんはいつも、僕と坂口さんに五百円ずつくれるのだが、坂口さんが上手すぎていつまでも終わらないため、僕も坂口さんも全部使い切ったことなどないのだ。
アンドリーナは「うーん」と考えてから、にっこりと笑って「行こう」と言った。
僕たちはゲーム台に向かい合って座り、先ず僕が先にやってみせた。
坂口さんほど上手ではなかったが、三面くらいまではクリアーできるようになっていたので、お手本には丁度いいと思ったのだ。
アンドリーナは、この画面自体を初めて見るらしく、「これ何?」と敵キャラのインベーダーや基地のバリアーを指差していちいち訊いてきた。
「うわっ、UFO。UFOでしょ、これ?」
アンドリーナが何故かUFOを見て、ひどく興奮してはしゃいだせいで、僕はすっかり気が散ってしまい、二面の途中でやられてしまった。
「も、もうちょっと静かにしてくれよ…」
アンドリーナは突拍子もない声で「あいようっ」と返事をしたが、完全に上の空のから返事で、腰を浮かせそうな勢いで画面に集中していた。
いつも病院でしているあの無表情からは信じられないほどの変りようで、特にさっき川原で、すまして空をながめていた時の大人びた少女とは、まるで別人みたいで僕は可笑しかった。
「あっ、UFOUFO…きゃああっ」
アンドリーナは、大方の予想通り一分もたたないうちにUFOに気をとられ、ビーム砲を直撃されて、倒れこむように椅子に腰を落とした。
「暑い、暑い」
汗ばんだ褐色の頬を帽子で扇ぎ、そのうちパジャマの一番上のボタンを外して、その襟元も帽子で扇いだ。
目の前でそんな格好をされて、僕は完全にゲームどころではなくなり、今度は一面目でやられてしまうのだった。
「なにやってんの?もっと頑張ってよ」
「いや、だって」
「UFO撃ってよ、UFO」
アンドリーナは勢いよくそう言って、また画面に集中したが、今度は最初からUFOばかり待っていて、またすぐにやられてしまうのだった。
そんな風にして、結局二人合わせて十分ほどしかできなかっただろうか。
それでもアンドリーナにとっては、かなり面白かったらしく帰り道では僕の前を、時々スキップなどを踏みながら歩いた。
「いつも土手の上で何やってんだよ?」
僕はさっき転んだ汚名挽回に、ちょっといいところを見せようと思ったのに、すっかりあてがはずれて落ち込んでいた。
「散歩と日光浴に決まってるじゃない、他に何があるの?」
「何って…」
確かにそう言われると、訊いたこっちがバカみたいだ。
「でも、確かにながめがよくっていい所だよな。あんな風に土手から川をじっと見たのなんて、初めてだよ」
アンドリーナは松葉杖でもたもた歩く僕の回りを、踊りを踊るようにくるくる回りながら、「うふっ」と悪戯っぽく笑った。
「あんた病室で暴れたりとか面白いから、教えてやってもいいわ」
「あんたじゃないよ、片山だよ」
僕はさっきのお返しに、そう言ってやった。
「カタヤマ…」
アンドリーナは掛け算九九を諳んじるみたいに何度も「カタヤマ…カタヤマ…」とつぶやいて、「呼びにくい」と眉間にシワを寄せた。
「下の名前は?」
お返しをするのは僕のはずだったのに、逆にやり込められたような気分で、僕は「満」と放り投げるように言った。
「ミツル」
アンドリーナは、今度は目を輝かせた。
「呼びやすい、ミツル」
「あ、ありがとう」
「ありがとう」が正しいのかどうか解らなかったが、仕方がないのでそう言っておいた。
「ミツル、誰にもいわないなら、教えてあげてもいいわ、ミツル」
もう、完全にアンドリーナのペースだった。僕は彼女のこの言葉に、今まで味わったことのない興奮を覚えてしまったのである。かつて同じくらいの年の女の子に「何かの秘密」を打ち明けられたことなどなかったのだ。
暑いせいもあったが、喉が急に渇き「いわないよ」という声が自分でも震えているのが判った。
「UFOを待ってるのよ」
「UFO?」
彼女から返ってきた、とんでもなく突飛で場違いな言葉は、僕をひどくがっかりさせた。
もっと、思春期の女の子らしい、乙女チックな言葉を期待していたのだ。
「UFOなんて待って、どうするんだよ?」
「それはいえない」
アンドリーナは長いまつ毛の目を閉じて、芝居がかった顔でとぼけて見せた。
今思えば、学校の女の子たちなどより充分面倒臭い少女なのだろうが、このアンドリーナに関してだけは、その面倒臭さが心地よかったのかもしれない。
また、僕と同じで同級生の友人が誰も見舞いにこないところにも、強い連帯感を抱いていたのは間違いなかった。
僕は毎日、このエキゾチックでどこか不思議なところがある少女と二人で、「散歩」と称して土手に立ちUFOを待つようになるのだった。
  

「どうしたの満くん、すごいじゃない全部食べるようになって」
 橋本さんが僕の病院食を覗いて驚いた。
 僕は相変わらずこのおばさんが苦手で、顔を見るのも嫌だったので、空っぽになった茶碗と皿を覗きながら「はい」とだけ返事をした。
 斜向かいのベッドで藤原さんが、こちらに背を向けたまま「ククク」と卑屈に笑った。
 「ここんとこ、いいお友達ができたからよ。食もすすむんだろ」
 橋本さんの眼鏡の上の眉毛が、何かの検査の計器の針のようにピクリと動いた。
 「どういう意味ですか、藤原さん?」
 藤原さんは首だけ回して、杉山さんを見ながら「大喰らいの用心棒ができたもんな」と言って可笑しそうに笑った。
 橋本さんは本当に驚いたらしく、青ざめ引きつった顔で、杉山さんの脇に歩み寄り、杉山さんの空になった食器と杉山さんを何度も何度も見比べて「杉山さん」と声をかけた。
 杉山さんは真っ赤な顔でうなだれ、頭を掻いたりして、もじもじしていた。
 「杉山さん?」
 橋本さんはもう一度、今度は少しきつい感じで、杉山さんの名を呼んだ。
 「もしかして、本当に食べたんですか?満くんの分まで」
 橋本さんの、気持ちが悪いくらいの静かな口調が、嵐の前を予感させた。
 こんな時に限って前田さんはトイレに行っているらしく、隣の坂口さんはウオークマンを聴きながら知らん顔をしている。
 アンドリーナは、今日の午後は母親と外出するとかで、朝からじっとしていられないのか、食べ終わるとすぐにどこかに行ってしまっていた。
 このころの彼女は、病院の外ではあの調子で僕と明るく喋るくせに、病室では相変わらず仮面を被ったままで、僕にはその理由は解らなかったが、返って僕にとってそれはありがたく、また、秘密めいた感じが心地よく、得意でさえあった。
 「いや、あの、まあ…いらないっていうから」
 杉山さんは頭を掻きながらボソボソと白状した。
 「あきれた…」
 橋本さんは、その言葉通りの顔でつぶやいた。
 「あなたみたいな大人が、この世の中にいるなんて…子供の食事を食べちゃうなんて、信じられない」
 「あげたんだよ俺が、杉山さんが勝手に食べちゃったわけじゃないよ」
 橋本さんの顔つきや言い方が、あまりにも杉山さんに侮蔑的だったので、僕も黙っていられなくなり、杉山さんを弁護した。
 橋本さんの眼鏡が、キラリと僕に向かって冷たく光った。
 「つまりあなたも共犯ってわけね、被害者じゃないわけね。あなたこそ育ち盛りなんだから、あのくらい全部食べなきゃ怪我だって治らないでしょう」
 そして再び杉山さんに向きなおり、
 「確かにあなたの体格にあの量は少ないでしょうけど、病院食というのは、カロリーや栄養を計算しているんです、食べたかったら退院してから好きなだけ食べればいいでしょう、患者どうしで勝手にあげたりもらったりしたら、他の人の栄養が偏るんですよ」
 「あの、僕もあげたんですよ」
 坂口さんが堪えかねたように、ヘッドフォンを外して話に加わってきた。
 「杉山さん、最近少し元気が出てきたんですよ、また復帰できるみたいで」
 「まったく、何なのよ。この部屋の人たちは、こんなの初めてだわ」
 橋本さんはついに甲高い声で叫んだ。
 「みんなそんなに治りたくないなら、さっさと退院しちゃえばいいのよ」
 「なに言ってやがる」
 今度は藤原さんがかみついた。
 「この暑さと退屈でみんなげんなりしてんだよ、あんな不味い飯誰だって食いたくねえよ」
 「なんですって?」
 「おめえは何様のつもりだ?少しくれえ残したり、人にやったりしたくれえで、ガミガミ言うんじゃねえよ、このアマ」
 橋本さんの眼鏡の奥の目がかっと見開いたその時、廊下を小走りに走る音が聞こえ、若い看護婦が病室を覗いて「橋本さん」と呼んだ。
 橋本さんは、まだかなり未練があるらしく、部屋のメンバーをじろりとひとにらみして後について出て行った。
 藤原さんはその背中を見送りながら「嫌だねえ」と、卑屈に笑った。
 「今夜の花火大会に、一緒に行く男がいねえもんだから、イラついてんのさ」
 僕もイライラしていた。
 入院して十日もたち、痛みはもう全くないのに、相変わらず足はギブスで固定されていて自由に動けず、お母さんは仕事がパートから正社員になれるかどうかの大事な時期だとかで、病院には夜しか来なかった。
 何より、今夜の花火大会は、アンドリーナといつもの土手にでも行こうかと思っていたのに、こんな日に限って母親と外出するのだとかで、僕はひどくがっかりしていたのだ。
 しばらくすると、前田さんが橋本さんとさっきの看護婦さんに運ばれて入って来た。
 トイレでしゃがんだら立ち上がれなくなって、ナースコールを押したらしい。
 橋本さんと顔を合わせにくかったのか、今度は杉山さんがふらりと出て行ったが、このころから杉山さんは病院の階段でリハビリのトレーニングを始めたのだった。

翌日、僕はいつものように、アンドリーナと土手の上でUFOを待っていた。
 どういうわけかアンドリーナは、いつもよりひどく口数が少なく、僕がゆうべの花火の話をしても、「うん」とか「そう」としか返事をしなかった。
 「インベーダーでもしようか?」
 僕はなんだかつまらなくなってきてそう誘ってみた。もともとUFOが来るなんて、本気で信じていたわけではないのだ。
 「なあ?」
 アンドリーナが返事もしないので、僕はもう一度訊いてみた。
 「ねえミツル、あれに乗らない?」
 アンドリーナがそう言って指差したのは、渡し舟だった。
 「あれに、か?」
 アンドリーナが突拍子もないことを言い出すのは、確かに初めてのことじゃなかったが、僕がためらったのは、彼女の言葉にいつものように力が入っておらず、どこか投げやりな感じに嫌な予感がしたためだった。
 「どこか遠い所に行きたいんだけど、やっぱだめだよね?」
 アンドリーナはそう言って、今日はじめての笑顔で髪をなで上げた。
 僕はそのおとなっぽい淋しげな仕草を、初めてここで声をかけた時のことを思い出しながらながめていたが、ふと彼女の頬の一点が目に留まり「アンドリーナ」と声に出そうとしてやめた。
 元々肌が褐色なためもあるが、今まで帽子を目深に被っていたので見えなかった頬の痣のようなものが、髪をなで上げた瞬間、見えたのである。
 「ちょっとだけ、乗ってみようか」
 僕はつい、そう言っていた。
 はじめての入院生活が退屈でたまらなかったし、ゆうべの花火を一緒に見られなかった悔しさもあったが、何より僕は、それまで生きてきた中で最も自分の無力さに苛立ちを感じていたのである。
 船に近づいてみると長い竹竿のような櫂が、船の中に横たわっていた。
 船の長さは数メートルくらいで、幅は、一番広いところで一メートル以上ありそうだった。
 僕は松葉杖を片方先に船に乗せると、その空いた手で舟の後部をつかんで、体操の鞍馬の選手のように、ヒラリと船に乗ってみせた。   
このころには松葉杖の使い方がとても上手になっていたし、松葉杖のおかげで腕の力が鍛えられていたので、自分でも驚くほど軽い身のこなしだった。
何より、アンドリーナが後ろから僕の体を支えようとしたのが、余計に僕をムキにさせていた。
逆に僕は船の縁につかまりながら、余裕しゃくしゃくでアンドリーナに手を差し伸べた。
 船は、公園のボートなどと違って、船底が平べったく、船体の半分くらいが砂浜の上にあったので、とても安定していた。
 アンドリーナは「ちょっと待って」と手を振りながら、船と杭を繋いでいるロープをほどいてしまい、それを船に投げ込んで船の後部を一押ししてから片手で帽子を押さえながら乗り込んできた。
 彼女の喜々としたこのはしゃぎ方は、僕を戸惑わせた。
 実のところ、彼女の方から「やっぱり止めよう」といってくれるのを、僕は密かに期待していたのだ。
 広い河原に見渡す限り人影が見えない孤独感は、僕をひどく不安にさせていたが、あえて勇ましく僕の方から船に乗り込めば、アンドリーナの方が不安になると思ったのだった。
だが、結果は逆になってしまった。
僕は炎天下にも関わらず、背中にうすら寒いような恐怖を感じながらも、船の後部に腰掛けて、いかにも楽しそうな笑顔をつくり、竹竿の櫂で砂浜を恐る恐る押してみた。
推進力の弱い船は、ふらふらとたよりなく広い川へ乗り出して行った。
船は揺れながら船首を川下へと向け、十メートルほど下ったところで、再び川岸へもどり接岸してしまった。
どうやら川の船というのは、放っておくと勝手に岸に近づくらしく、そしてこれが僕に変な勇気を与えたのだった。
僕は、今度はさっきよりずっと力を入れて、船を川の真ん中へと押し出した。
落ち着いてよく見れば、川は底が見えるくらい浅いし、船の向かう川下は、波ひとつない穏やかな流れが果てしなく続いていた。
なでるように船体を優しく叩く波の音に混ざって、名前も知らない小鳥のさえずりや、蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
遠くの浅瀬では、川鵜や鷺がじっとこちらの様子を伺っていた。
僕は船底に座り直して、船首の手前で船の進行方向を夢中で見入っているアンドリーナの後ろ姿をながめた。
よほど機嫌がいいのか、片手にマイクを持つ仕草で、どこかのアイドル歌手が歌って踊る振り付けをまねているらしかった。
波に反射した強い日差しが、彼女の背中で揺れていて、僕にはそれが小さな翼で小刻みに羽ばたいているように見えた。
不意にアンドリーナが「きゃあっ」と叫んで振り返ったので、僕とつい目が合ってしまった。
「魚、魚が跳ねた」
満面の笑顔で、僕に教えた。
「えっ。ど、どこ?」
僕は慌てて目をそらし、大げさに身を乗り出して川面をながめ回した。
「ほら、すぐそばだよ、ほら」
アンドリーナは夢中で指を差す。
僕は、そんなにタイミングよく魚が何度も飛び跳ねてくれないだろうとは思いながらも、気恥ずかしさと、女の子と二人っきりでいることの興奮を紛らわそうと、わざと夢中で探すふりをしてみるのだった。
「だめかな、なかなか跳ねないね」
僕が、沈黙に耐え切れずにつぶやくと、不意に今度は二人の背後で、大きな石を川に放り込んだような音が轟いた。
アンドリーナは驚いて、再び「きゃあっ」と叫び、すぐ後ろにいた僕にしがみついてきたが、船の縁につかまりながら片足で立っていた僕は、あっさり尻餅をつき、しがみつこうとした支えを失ったアンドリーナは、僕に重なるように倒れこんできた。
「痛ててて…」
「ごめん、大丈夫?」
僕は大げさに、重症患者がうめくような声で「だ、大丈夫だよ」と返事をした。
本当は痛かったわけではなく、ただ決まりが悪い時とかびっくりした時などに「イテテテ」と言ってしまう癖が事故を起こしてからついてしまっていたのだが、実際、この時ほど決まりの悪いことはなかった。
生まれて初めて女の子と重なり合うほど、体をくっつけ合ったのである。
「鯉が跳ねたみたいだね。ずいぶん大きな鯉だったみたいだ」
僕は何もなかったように起き上がって、背後に視線をめぐらせ、さっき音がした場所をながめながら言った。
アンドリーナも僕の視線の先をながめながら。
「魚っていいな…」
と溜息をついた。
「え?」
「自由に跳ねたりして、なんだか楽しそうじゃん」
僕はこの時の自分が何を考えていたのか、正確に思い出すことはできない。
だが確実に言えることは、同い年の少女の、少女らしい気まぐれで繊細な気持ちを汲み取ることなど、到底できなかっただろうということだ。
だが、僕は僕でアンドリーナが、そんな夢見がちな話をする相手が僕だけに限定されているという自負があり、僕は調子よく「そうかな」と曖昧な返事で次の言葉を誘ってみるのだった。
「今度生まれてくる時は、魚に生まれたいな」
 「今度生まれてくる時?」
 これは、僕にとっては驚天動地の言葉だった。
 「アンドリーナって、次も生まれてくるのかい?」
 アンドリーナは、「知らないの?」と、ジロリと僕を一瞥して、
 「生き物って、みんな生まれ変わるのよ、何度も」
 と、遠い目をした。
 僕はすっかり頭が混乱してしまい、アンドリーナの次の言葉を待ったが、彼女はぼんやりと川の流れを見下ろし、しばらく沈黙が続いた。
 僕は仕方がなく、魚に生まれた自分を想像してみたが、どうにもしっくりいかず、今の自分もそれほど幸せとも思えないながら、まだ今の方がましだと思った。
ふと、アンドリーナが何か言ったような気がしたので、顔を上げると「ママが…」と言っていた。
「ママがね。もう一度結婚するんだって」
「結婚って、アンドリーナのパパじゃない人と、ってこと?」
「日本の人」
アンドリーナは今にも泣き出すのではと思うほど、悲しそうな目で応えた。
「きのうご飯一緒に食べて、花火見たの」
「そうなんだ」
ようやく僕にも理解できた。
アンドリーナの悲しそうな目と、頬の痣が僕の中で一本の糸でつながったような気がしたが、それだけに僕は余計に返事に困って、言葉を探しながら船の進行方向をながめ、そして愕然とした。
船の向かう先はいつの間にか川の波が高くなってきていて、百メートルほど川下では、白いしぶきを上げるほど川は波立っていた。
その波のさらに百メートルほど向こうで川は大きく左に曲がっていて、突き当りの岸はコンクリートで護岸されてテトラポットが重そうな水圧に耐えながら頭を出しているのが見える。
そのテトラポットにぶつかり激しく砕け散る波が、その場所の水深の深さと流れの強さを教えていた。
左側の岸は、対照的に石がごろごろして水深も浅そうで流れもゆるやかに見える。
僕は左の岸に船を寄せようと、竿の櫂で川を突いてみた。
――うわっ――
僕は自分の顔から血の気が引くのが判った。
すでに僕たちのいる場所は、櫂が底に着かないくらい深かったのだ。
「船につかまれアンドリーナ」
アンドリーナは僕に言われて初めて振り返り、凍りついたようになってしまった。顔は見えなかったが、縁をつかもうとした手が、何度も空振りをして、蝶のように宙を舞っていたのが、彼女の狼狽ぶりを物語っていた。
僕は震える手で櫂を手繰り、何度も川底を突いてみたが、手ごたえはなかった。
船首は最も進みたくない、波の一番高い所へ、吸い込まれるように近づいて行った。
僕は恐怖で叫びだしたくなるのを抑えながら、なおも櫂で川底を探り続けてみたが、無情にも波は、あっというまにすでに僕らの目の前に迫っていた。
波頭が座っている僕らの目の高さくらいある波が立て続けに三つ、続いていた。
「アンドリーナ伏せろ」
僕が叫んだ直後、船の舳先がものすごい力で上へ跳ね上げられ、船底に座っていた僕のお尻は宙に放り投げられるようにバウンドした。
その際僕は、まるで大量の水に顔を殴られたように顔に水を浴び、そしてやっと目を開けられた時には、舳先はすでに次の波に呑み込まれているのが見えた。
最早なす術などなく、なるようになるしかなかった。
船は僕とアンドリーナを力点にしたシーソーのように暴れ、それはまるで、激しくのたうち回る巨大な龍の背中に乗っているようだった。
三つ目の波は最も激しく、船は水面から一度投げ出されて宙に浮いたのではと思うくらい大きく飛び跳ねた。
三つの波でことごとく頭から水をかぶり、やっと目を開けた時には船はすでに、普通の状態で流されていた。
アンドリーナは左手で帽子を押さえ、右手で船の縁をつかんで恐る恐る伏せていた顔を上げて、前方を覗き込んでいたが、やがてくるりと振り返って満面の笑顔で、「やったあ」とガッツポーズをして笑った。
僕は放心状態で、本当は余裕などなかったのだが、負けずに拳を上に挙げて笑ってみせるのだった。
――助かった――
波は今の三つが最も大きく、川下に続いているのは大きなものでせいぜい今の波の半分くらいだった。
ほっとしながら櫂で川底を突くと、底の砂利を突く手ごたえがしっかりと感じられた。
僕は船の舳先を左の岸に向けようと、櫂を右に向かって押し込んだ。
だが、これが返って良くなかった。
流れに横腹を向けた船は、さっきの三つよりずっと小さな波で、びっくりするほど簡単に横転してしまったのだった。
僕もアンドリーナも油断していたので、悲鳴をあげるひますらなかった。
真っ暗な闇の中でゴーッという地鳴りのような音が聞こえ、目を開けると、ぼやけた視界に無数の泡と水の中の不気味な薄暗がりが見えた。
バカでかい洗濯機で揉まれるように、体は縦にも横にも何度も回転して、ギブスの内側の隅々まで冷たい水が浸食する感覚が、気持ちが悪いのを通り越して、久しぶりに水で洗ってもらったようで、妙に清々しくさえあった。
何度も水中で転がされ上下の感覚もなくなっていたが、明るい水面と船の影が見えたので、手を伸ばしたらつかまることができた。
船は底を上にして浮いていた。
僕は死に物狂いでそれをよじ登り、なんとか腹ばいに乗ることができた。
「アンドリーナ」
何度も呼びながら、回りを見回したが、アンドリーナはどこにもいなかった。
船のすぐ横を櫂が並んで浮いて流れていたので、僕は思い切り身を乗り出してそれを拾い上げた。
「アンドリーナ」
急激に体が冷えたのと、極度の不安で体中が別の生き物のようにぐにゃぐにゃと震えだして、逆に何かを叫び続けていないと、そのまま全身が動かなくなってしまいそうだった。
――いた――
だがそれは違った。
それはアンドリーナが被っていた、あの帽子だった。
この船から数メートルほど先を、半分沈みかけながら、水の流れに漂っていた。
僕にはそれがひどく不気味で不吉に思われ、涙があふれてきた。
だが、次の瞬間、船からほど近いところに何かが浮いてくるのが見えた。
「アンドリーナ」
アンドリーナはさっきの僕と同じように、水の中で揉みくちゃにされながら、ゆっくりと水面から顔だけ出して、また沈んだ。
顔が出た際、大きく口を開けたから、意識はあるようだった。
僕は急いで櫂を伸ばし、彼女の体を軽く突いてみた。
アンドリーナの顔が再び水面から出た時には、彼女の手はすでに櫂を握っていた。
僕は船に馬乗りになって、力いっぱいそれを引き、彼女のパジャマの袖を引き、船に引っ張り上げた。
アンドリーナの目は恐怖のためかしばらく虚ろになっていたが、すぐに光をとり戻し両手で自分の頭を触り「帽子」とつぶやき、川面を見回した。
「帽子、パパの帽子」
「パパの帽子?」
見ると帽子はまだ、かろうじて浮かんで流れていた。
アンドリーナも僕の視線に気づいて見つけ「あった」と嬉しそうに叫んだ。
だが、櫂を伸ばしても、とても届く距離ではない。
「お願い、なんとかして、パパにもらった帽子なの」
アンドリーナは僕の襟にしがみついて、大きく揺さぶるように引っぱったが、船底を空に向けてひっくり返った船は、子供が操れるような状態ではなかった。
帽子はピンクのリボンをなびかせながら、蝶が力つきるようにゆっくりと暗い川底に沈んでいった。

「杉山さんの試合が決まったよ」
 坂口さんが部屋に入ってくるなり、興奮しながら教えてくれた。
 僕は病室を替えられてしまっていた。
 あの後すぐに川上から、消防署の救助艇がやってきたのだ。
 土手を散歩していた人が、子供が二人で、船で川を下っているのを見つけ、不審に思って連絡したらしい。
 地元の新聞に載るほどの大騒ぎになり、僕とアンドリーナはいろんな人たちからひどく叱られて、「もう、二人を会わせるわけにはいかない」と、僕は独房のような一人部屋に移されてしまったのだった。
 かわいそうだったのは、お母さんだ。
 泣きながら僕に、お説教というよりは哀願に近いような叱り方をしたかと思えば、お巡りさんや消防署の人や院長に必死で謝り続け、三日ほどは大忙しだったようだ。
 最も大変だったのは、アンドリーナの母親で、ひどく剣のある言い方で、怒鳴ったり泣き叫んだり、一方的に僕とお母さんをなじり続けたが、僕もなにも言い返さず、こんな時にも外そうとしない彼女のサングラスの黒いレンズに映った自分の顔に向かって、黙って謝り続けるしかなかった。
 「そうですか」
 僕は上の空に返事をした。
 坂口さんには悪いが、数日たってかなり落ち着いたとはいえ、僕にとってはどうでもいい話題だった。僕はあれ以来アンドリーナと会っていないのだ。
 坂口さんの話では、まだ彼女は入院しているらしいが、見たところどこも痛くなさそうだし、すぐに退院してもおかしくなさそうだった。
 住所くらい聞いておけばよかった。
 情報の窓口は、今や坂口さんだけだった。
一方、坂口さんにとっても僕は意外と貴重な話し相手だったのかもしれない。
あの部屋で坂口さんより若いのは、僕とアンドリーナだけだったが、アンドリーナは女の子である。
同じ部屋にいた時は、一人でウオークマンばかり聴いていたくせに、気を使わず話せる相手がいなくなって淋しいのか、坂口さんが最も頻繁に訪ねてくるのだった。
「でも相手がなあ…」
坂口さんは話題に乗って欲しいのか、何度も一人そうつぶやいて首を捻ってみせた。
「相手は誰なんですか?」
僕が仕方なく訊くと坂口さんは嬉しそうに顔を輝かせ「それがびっくりなんだよ」と今度は逆にもったいつけた。
「それがさあ、相手はあの、ベニー・ウイリアムスなんだよ、熊殺しの」
これには僕もさすがにびっくりした。
「だってベニーは、アンセルモ桧垣と試合するんでしたよね?」
僕もこれくらいは知っていた。
実戦空手として有名な極直流空手のアメリカ人チャンピオン、ベニー・ウイリアムスとプロレスのチャンピオン、アンセルモ桧垣。
空手とプロレスで試合をしたら、一体どちらが強いのか?
知っていたというより、当時の少年漫画雑誌などはこの話題で持ちきりだったのだ。
「ベニーは所詮アマチュアで、プロ格闘技の実績はないから、まずは実力を見せろ、って桧垣がクレームをつけたらしいよ」
「それで、杉山さんが選ばれたんですか?」
坂口さんは「それなんだけどさ」と無意味に回りをきょろきょろと見回し、声をひそめて続けた。
「大きな声じゃ言えないけど、杉山さんなら再起不能になっても、会社は損失をこうむらないし、ベニーが景気良く勝つほど桧垣との決戦のチケットは売れるだろうからね」
「ひどいな、そんな理由なんですか」
「いや、僕の想像だけどね」
坂口さんは否定したが、僕には信憑性があるように思われた。
この試合の件はかなり前から噂になっていたのだが、どういうわけか、この一年ほど桧垣選手の方から試合を先送りし続けてきたのだ。
「でも、それでわざわざ桧垣社長直々に電話までかけてきたわけなんだろうね」
「杉山さんはもう退院したんですか?」
「いや、まだだけど、かなり熱心に階段でトレーニングしてるよ」
「ご飯が少なくて大変でしょうね」
「いや、それがさ」
坂口さんはいかにも面白そうに含み笑いをしてから、
「橋本さんが毎日、内緒で手作りの弁当持ってきてるみたいでさ、みんな見て見ないふりして面白がってるよ」
と笑った。
だが、このころの僕には、まだ男女のなんたるかなど解るはずもなく、病室のみんなが何故「面白がっている」のかほとんど理解できなかったし、それこそこの時の僕にはどうでもいい話題だった。
そんなことよりも、少年雑誌に載っていたでかい黒豹のようなベニー・ウイリアムスの写真と、病室で僕のご飯を物欲しげに覗いていた杉山さんの病人然とした顔を頭の中で並べてみようにも、どうにも釣り合いがとれないアンバランスさに、僕は心底杉山さんに同情するのだった。
ベニー・ウイリアムス。
身長二メートル五センチ。
何年か前の空手の世界大会では、四回戦までの試合の合計時間が三分以下で全てKO勝ちだったそうだ。
準決勝で当たった日本人選手が最も善戦したが、試合後救急車で運ばれ、肋骨が五本も折られていたらしい。
雑誌には熊に回し蹴りをする写真が、見開きで載せられていた。
いくらプロレスラーでも、あんな回し蹴りをまともに喰らったら、死んでしまうだろう。
桧垣選手だって、まともにやり合いたくないから、試合を延ばし延ばしにしているのだ。
だが、この話ですら、この時の僕にはどうでも良かったのだ。
坂口さんが帰ると、僕はふらりと廊下に出てみた。
トイレに行くのが目的だったが、誰にも見つからなければそのままふらふらと、気晴らしに屋上にでも行ってみようと思ったのだ。
いや、もっというなら、廊下や階段で偶然アンドリーナと会えるのではないかという期待もあった。
僕の足には新しいギブスが巻かれていた。
チェンソーのような恐ろしげな機械が、凄まじい音をたててギブスを切り裂き開いた時にはショックだった。
僕の足は筋肉がなくなってふた回りも細くなっていたのだ。
先生は「リハビリすればすぐに元に戻る」と言っていたが。血色も悪く、まるで別人の足のようで不気味だった。
「あれ?」
声につられて見上げると、階段の踊り場から大きな影が僕を見下ろしていた。
杉山さんだった。
――そうか、階段でトレーニングしてるんだっけ――
正直僕は杉山さんが少し苦手だった。
有名人ということもあるが大きくて無口で、恐かったし、憧れも手伝ってどこか近寄り難かったのだ。
「なんだお前、また脱走するのか?」
 試合が決まったせいか、杉山さんは前とは違って覇気に満ちている感じだったが、それでも子供の僕にまではにかんだような笑顔で冗談を言い、そんな笑顔が僕を少し楽にさせた。
「屋上へ行こうかと思って…」
三階建ての病院の屋上には洗濯をした包帯や、ベッドのシーツや、その他、入院患者のシャツなどが熱気をはらんだ風に揺られて踊っていた。
僕と杉山さんはその脇を通って、柵のところから外をながめた。
そこからは、例の川が眼下に見渡せた。
僕とアンドリーナがいつも立ってUFOを待っていたあの土手も見えたし、あの渡し舟も何ごともなかったように岸につながれていた。
病院の駐車場では外来の患者や、お見舞いにきた人の車がゆっくりと出入りして、中にはパトカーも混ざっていた。
「お前、面白いな」
「え?」
「冒険したかったのか?」
「そういうわけじゃないですよ、アンドリーナが遠くへ行きたいって言うし、俺も退屈だったから」
「じゃあ、心中したかったんじゃないか?あの女の子は」
「え?」
僕は驚いて、今まで見上げたことがないくらい高い所にある、杉山さんの顔を見上げた。
杉山さんはすぐに目を川の方に向けたが、傷だらけの額の下の目が哀れむように細くなったのが一瞬だけ見えた。
首の痣はもう消えていた。
「お、俺と、ですか?」
「俺には解るんだよ。あの子はそういう目をしてるよ時々」
「そうなんですか?」
「なんたって経験者だからな」
そう言って杉山さんは自嘲するように嗤ったが、「経験者だから」などと言われて僕は何て応えていいのかわからなくなってしまった。
確かに断片的に聞いたアンドリーナの複雑な事情や顔の痣のことなどを、パズルのように組み合わせて並べてみるとそんな風に思えなくもなかった。
「顔の痣」「母親の再婚」、そして「UFO」。
正直、この時にはUFOについてあまり深く考えなかったが、あのくらいの年の女の子がUFOを待っているなんて、今考えると変な話だ。
ずっと後になってから考えたことだが、もしかしたら、アンドリーナはUFOが来て自分をどこかにさらって行ってくれるのを望んでいたのではないか。
だが、今となっては解らないことだ。
「試合、決まったんですよね?」
「なんだ、もう知ってたのか」
「恐くないんですか?」
僕は口に出してから、しまったと思った。
前に桧垣選手がインタビューで同じことを聞かれて、「恐いと思ってリングに上がるやつがいるか」と、インタビュアーの人を張り倒していたことを思い出したのだ。
――殴られる――
だが杉山さんは「ははは」と軽く笑い、「そりゃ恐いよ」と意外にも照れくさそうに応えた。
「でも、仕事だからな」
「どうしてプロレスラーになったんですか?」
「そりゃ強くなりたかったからだよ」
「だって、そんなに大きいんだからプロレスラーにならなくても最初から強いでしょう?」
杉山さんは両手で柵につかまりながら、ゆっくりと確かめるように膝を曲げていった。
「いや、おれはいじめられっ子だったよ」
杉山さんは顔をしかめながら独り言のようにつぶやいた。
右膝は左と比べると目に見えて曲がる角度が浅く、杉山さんは一番深く曲がるところを何度も確かめるように曲げては伸ばした。
「ほんとですか?」
「うちは親父が、俺が子供のころ出て行っちまったから、貧乏だったし、俺は体だけでかくて目立ったから、よくいじめられたよ」
僕はこれまで杉山さんのことを、どこか遠いところの人だと思って、自分の方から距離をおいていたのだが、なんだか急に近くなったような気分になった。
「強くなりたくて、中学の柔道部に入って、県大会で優勝したら、でかい体が親方の目にとまって相撲部屋からスカウトがきて、俺は金が稼ぎたかったから、誘われるまま入ったんだよ」
「最初からプロレスラーじゃなかったんですか?」
杉山さんは、こんどはレスラーがよくやる「ヒンズースクワット」という、立ったりしゃがんだりを繰り返す運動をしながら「まあな」と言った。
僕はこの暑いのに必死に頑張る杉山さんの気持ちが全く理解できず、ただ黙って見ていた。(もっと満を冷淡で可愛くなく反抗的にする)
「ところが、相撲部屋の稽古はきついし、いじめもひどくてな、最初の一年くらいは一日おきくらいに部屋を逃げ出してたよ」
「そんなにすごいんですか?」
杉山さんはまだ、汗びっしょりになりながら、スクワットをやり続けていた。
「逃げ出して、他に行く所もないから仕方なく駅に行くんだけど、いつも駅で親方が待っていてな。俺も道がよくわからなかったから駅に行くしかなくって、でも、行くと親方がいるから、さんざん時間を潰してから行ったらやっぱりいるんだよ。もしかしたら、ずっと待ってたんだろうな、いい人だったよ」
「どうして相撲やめちゃったんですか?」
「俺が十両になったころ、その親方が死んじゃったんだよ。跡を継いだ若い親方と俺は馬が合わなくてな、ちょうど社長に誘われてたから」
杉山さんは話ながら、ずっとスクワットをやり続けていた。
スクワットでしゃがんだ状態になっても、まだ僕の身長より高かった。
僕は「でも」と一度ためらってから、思い切って言ってみた。
「でも、ひどい社長ですね、あんな強い人と自分の代わりに試合をさせるなんて」
杉山さんがスクワットをしながら、じろりと僕をにらんだ。
この病院にきてから初めて見せる鋭い目に、僕は思わず息を呑んだが、杉山さんは「そうかい」といつもの優しい声だった。
「社長はチャンスをくれたのさ、これでいい試合をすればまた試合に出してもらえるし、そうすれば借金だって返していけるようになるからな」
――だって、この試合で殺されるかもしれないじゃないですか――
僕は喉もとまで出かかったが、さすがにそれは言えなかった。だが、杉山さんもそれは解っているようだった。
「俺は世話になった親方の部屋を見捨てたからな、一度や二度は命がけの試合をしなきゃ、あの世にいる親方に合わせる顔がないんだよ。ずっとこんな試合をしてみたかったよ」
杉山さんはスクワットを止めると、何故か僕の所に歩いてきて、僕の後ろに立った。
「な、なんですか?」
僕が訊いても返事をせず、僕の杖を奪い取ってコンクリートの床に置いて、僕の腋の下に手を入れた。
「な、なにを…」
僕は一瞬で、赤ちゃんの「高い高い」のように、杉山さんの頭上に挙げられていた。
杉山さんは「ちょっと軽いな」と独り言をつぶやき、
「バーベルの代わりになってくれないか?」
と訊いたが、僕が返事をする前にはすでに僕の体は三回ほど、胴上げのように宙を舞っていた。
「確かにベニーは恐ろしく強いやつだけど、一度死んだ人間に恐いものなんてないよ、人間本気で死ぬ気になれば、なんだってできるさ」
杉山さんは僕を胴上げしながらうそぶいたが、僕はそれどころではなかった。
身長約二メートルに加え、三階建ての屋上での「高い高い」はそのへんの遊園地の遊具などより、よほどスリリングだった。
だだっ広く開けた視界が、何度も何度も大きく縦に揺れた。
空も入道雲も、あの川も船も、遠くの畑も送電線も、何度も上になり下になった。
病院の駐車場から出て行こうとしている、さっきのパトカーも何度も駐車場を出たり入ったりしているように見えた。
「あれ?」
はるか遠くの入道雲の脇で、なにかが光ったように見えた。
「ちょっと、杉山さん降ろしてくれる?」
杉山さんはいかにも楽しそうに「なんじゃい」と言いながら降ろしてくれた。
「ほら、あれ…あの光」
杉山さんは「ん?」と顔をしかめて、僕が指差す方を見て「飛行機か?」とつぶやいた。
光はゆっくりと水平に飛びながら、時折上下に急降下したり急上昇したりして、ジグザグに飛んでいた。
「UFOだよ」
僕が杉山さんに訴えると杉山さんはなにやらにやにやしながら。
「ああ、そうみたいだな…」
と応えた。
「アンドリーナを呼んでくるよ」
僕は杉山さんに杖を取ってもらい、大急ぎで二階の、前に僕がいた病室に向かった。
何度も転びそうになりながら、僕は夢中で杖で駆けるように階段を下り廊下を急いだ。
「アンドリーナUFOが…」
僕は叫びながら病室に駆け込み、そして棒立ちになって固まった。
アンドリーナの寝ていた窓際のベッドは、空っぽどころか、蒲団やシーツすら片付けられていたのである。前田さんや坂口さんなど、他の人たちも、どこか呆然とした感じだった。
「アンドリーナは?」
僕が尋ねると、前田さんは一度大きく悲しげな溜息をついて「たった今、ついさっきだよ」と言った。
「警察の人がきて、連れて行かれたよ」
そう言うとまた、溜息をついた。
「警察?なんで」
「アンドリーナのお父さんが、今度お母さんと結婚する人を殺したんだってさ」
前田さんは我慢できなくなったように、ハンカチを目に当てて泣き出した。
「こないだ船の事故が新聞に載ったのを仕事場の同僚から聞いて、心配してお母さんの所へ行ったらしいんだけど、そこで相手の男の人と鉢合わせしてもめたんだって」
坂口さんも沈痛な面持ちで言った。
夏だというのに僕は全身に鳥肌が立ち、震えるほどの寒気を感じた。僕が彼女を船などに乗せなければ、こんなことにはならなかったのだ。
「あの母親の、因果応報ってやつだぜ」
藤原さんが吐き捨てるようにつぶやくのを、前田さんが「よしなよ」とさえぎったが、声は泣いていていつもの迫力はなかった。
「てやんでえ、俺だってかわいそうだよ、一ヶ月も一緒の部屋にいれば、誰だって情はうつるってもんだ」
藤原さんの声もやり場の無い怒りと悲しみに震えていた。
「あの子はねえ、多発性硬化症っていう、難しい病気だったんだよ。放っておくとだんだん手足が動かなくなる重病なんだよ」
前田さんがしゃくり上げながら言った。
「とりあえず託児所の病院に移されるらしいんだけど、どうなっちゃうんだろうね、あの子…」
前田さんはアンドリーナの将来を案じ、藤原さんは自分のなくなってしまった指をじっと見ながら、人類全員に向けながらも誰に対するでもない憤懣を時折ぶちまけていたが、僕には誰が何を言ったのか、全く記憶にない。
ただぼんやりと、アンドリーナがさっきまでいたであろうベッドをながめていたら急に視界が真っ暗になり、気がついたら自分の個室のベッドに寝かされていたのである。

杉山さんの試合は、それから一ヶ月ほど後。空の高さにそろそろ秋の気配が漂いはじめた八月の末だった。
 場所は日本武道館。サマーファイトシリーズ最終戦のセミファイナルだった。
 そのころの僕は足のギブスもはずされ、すでに退院していたが、病院を通じて、杉山さんからチケットと招待状が届いたのだった。
 招待状には杉山さんの直筆らしい文字で、「一宿一飯の恩義」という言葉が書かれていた。
 チケットはお母さんの分も入っていたので、僕たちは慣れない東京の地下鉄に乗り、後に爆風スランプが歌ったように、九段下という駅を降りて人の流れに乗り、堀の中に入った。
招待された席はなんと南側のリングサイドで、つまり、正面のステージに設けられたスクリーンも見える特等席だった。
僕は元々気が乗らなかったせいもあり、武道館の大きさと、お客さんの人数の多さにすっかり圧倒されて呑まれてしまい、すでに先にきていた前田さんをはじめ、同室だった人たちや橋本さんほか病院のスタッフの人たちとも、ほとんど挨拶くらいしかできなかった。
もしかしたらアンドリーナもきているのではないかという密かな期待も、連絡がつかなかったとかで見事に外れ、それが僕の気持ちを余計に重苦しくさせるのだった。
同室だった人たちもすでに全員退院していて、あれからまだ二週間もたっていないのに、僕を除いた人たちはまるで同窓会のように、思い出話でひとしきり盛り上がっていた。
試合は前座の若手から始まったが、坂口さん以外は全員、生でプロレスを見るのは初めてだったので、みんな大喜びだった。
坂口さんは興奮しながら、技の名前などを解説してくれた。
杉山さんの試合が近づくにつれ、僕はまるで自分が試合をするような気分で、体が震えてくるのだった。
考えてみれば子供のころの僕は、楽しかった思い出より、何かを心配したり不安を抱えたりしていたことの方が圧倒的に多かっ
アンドリーナと毎日川原の土手でUFOを待っていた日々が、僕にとっては珍しく楽しい毎日だっただけに、余計にそんな風に思えたのかもしれない。
だが、いよいよ杉山さんの出番になってしまった。
会場には和太鼓と鼓を基調にした、歌舞伎を思わせるような音楽が鳴り渡り、そのばかでかい音量は、僕の神経を目の粗い紙ヤスリで擦るように逆撫でするのだった。
「杉山雷蔵のテーマだよ」
坂口さんがどこか誇らしげに言った。
西の入り口に、以前に坂口さんが見せてくれた、あの雑誌の写真と同じメイクをして、首からタオルだけを下げた杉山雷蔵が姿をあらわした。
会場は割れんばかりの歓声。いや、大部分はヤジと怒声だった。
桧垣とベニーの試合を期待していたファンの怒りは、何故か杉山さんに向けられていたのだ。
ひどい罵声だった。
「今さらのこのこ出てくるんじゃねえ死にぞこない」「ほんとに殺されちまえ杉山」
気丈な橋本さんでさえ、両手で顔を覆って下を向いている。
藤原さんは、きょろきょろと後ろを振り返って「ふざけやがって」と毒づいた。
「今度生まれてくる時は、魚に生まれたいな」
僕はふとアンドリーナの言葉を思い出していた。
誰からも歓迎されずに入場してくる杉山さんに、何故か自分とアンドリーナの姿が重なって見えて、ひどく悲しい気分になるのだった。
だが、当の杉山さんは全く意に介さない様子で、時々両手を高々と挙げて、入場口からリングサイドまでの花道を悠々と歩いてくる。その姿は僕と屋上でトレーニングをした時よりも、ずっと生き生きとしていて、どこか楽しそうでさえあった。
「一度死んだ人間に恐いものなんかないよ」
僕は、今度は杉山さんの言葉を思い出し、もしかしたら、杉山さんは「生まれ変わった」んじゃないかなどと、とりとめもないことを考えるのだった。
杉山さんがリングに登ると、罵声とブーイングは頂点に達した。
杉山さんの入場曲が途切れて、一瞬の静寂に会場がざわついた後、ロックともポップスともつかない軽快なアメリカ風の曲が流れた。
「ビリー・ファングの曲だよ、ベニーはプロじゃないから借りたんだな」
坂口さんが解説した。
東の入り口に空手着姿のベニーが姿を現すと、会場は総立ちになって、今度は本当に割れんばかりの歓声に包まれた。
それは第三者の僕にも耐えられないほど、残酷な絵だった。
本来ならアメリカ人で空手家のベニーの方が、完全にアウェーのはずなのに、何故こんなことにならなければならないのか。
歓迎されない人間は、この世に生まれ変わることすら許されないとでもいうのか。
「で、でかい、な」
藤原さんが呆気にとられて唸った。
ベニーの身長は二メートル五センチ、体重こそ百二十キロと杉山さんより二十キロも少ないが、その黒光りした躰は道着の上から見ても、まるで筋肉の鎧を纏っているように見える。
藤原さんはすぐに「けっ」と空笑いした。
「両手にグローブ着けてるじゃねえか、こっちは素手なんだからよ、思いっきりぶん殴ってやりゃいいんだよ」
「メキシコ製の十オンスです、前に桧垣選手がボクシングのヘビー級チャンピオン、カシアス・レイ・レナードと、このグローブを着けて試合をした時、まるで鉄アレイで殴られているようだった、って言ってましたから、レスラーでも一歩間違えれば、再起不能にされますよ」
坂口さんが冷静にきり返した。
「おめえは、どっちの味方なんだよ」
ベニーが大きな体に似合わず、トップロープをひらりと飛び越えた時、僕たちは信じられないものを見せつけられ息を呑んだ。
ビユンと一回転、飛び後ろ回し蹴りをして見せたのだ。風斬り音が僕たちの所まで聞こえ、同時にその長い脚にかき回されたつむじ風が、座席に座っている僕らの顔をひゅるりと切り裂いたような気さえしたくらいだった。
観客が「おおっ…」と大きくどよめいた。
「あんなのが当たったら、首がすっ飛びそうだぜ」
藤原さんが、さすがに穴のような目をして息を漏らした。
「別名、黒いコンコルドって呼ばれてるんです」
と坂口さんが言った。
両者がリング中央に呼ばれた時は、さらに絶望的だった。
道着を脱いだ「黒いコンコルド」はまるでサイボーグみたいだった。一方杉山さんは明らかに練習不足で、体の線こそ太いが、手足には張りがなく、どこかぶよぶよしていた。
現に会場からは失笑さえ聞こえてきた。
そして。会場一杯にベニーコールが響き渡る中、絶望的なゴングが鳴った。
ゴングと同時にコーナーからダッシュしたのは杉山さんの方だった。
「ぶちかましだ」
と坂口さんは叫んだ。
だが、ベニーはまるで闘牛士のようにそれを軽々とかわしてしまい、そして杉山さんが振り向きながらロープではね返ったところに、さっきの後ろ回し蹴りを炸裂させ、会場には大きな石がぶつかり合うような「ゴツン」という生々しい音が響いた。
それは、さっきまでの前座の試合では聞かれなかった、人間の骨と骨がぶつかり合う殺伐とした悲鳴のような音だった。
会場の「おおっ」というどよめきに混じって、橋本さんの悲鳴が聞こえてきた。
杉山さんはトップロープから一回転して、リングの東側場外に落ちていった。
「相撲のぶちかましで奇襲を狙ったんだろうけど、とにかくスピードじゃぜんぜん敵わないよ」
坂口さんは悲痛な声で言った。
レフェリーが数えるカウントの合い間に、「なんだ、もう終わりかよ」「金返せバカヤロウ」という野次が聞こえてきた。
カウントが十五になったところで、杉山さんはやっと、一番下のロープをつかんで顔を出したが、その額は早くも血に染まっていた。
ようやくリングに転がり込み、レフェリーが「ファイト」と言った時、杉山さんはまだふらふらしているようだったが、今度はベニーの方が容赦なく杉山さんに突進していた。
ベニーは独楽のように前後の回し蹴りでクルクルと回り、杉山さんはおぼつかない足取りで後ろに下がりながらそれを避けたが、あっという間にコーナーに追いつめられてしまった。
ベニーは機関銃のように、杉山さんの顔や腹に正拳突きを叩きつけ、杉山さんは堪らず尻餅をつき、再び場外へ落ちてしまった。
会場中からブーイングが聞こえてきた。
「やっぱりだめだ、一方的だ」
坂口さんが叫んだ。
杉山さんはなす術がないのか、まるでビデオの再生を見ているように、それから三回、同じことをくり返し、場内には完全にしらけた空気が支配しているのが判った。
後ろの席から「ここまで実力に差があったとはね、最低の試合だよ」という客の声が聞こえ、藤原さんがチラと振り返り舌打ちをした。
だが四回目のことだった。杉山さんをコーナーに追いつめ、正拳突きをくり出そうとしたベニーが、がっくりとリングに膝を着いたのである。
杉山さんが血だらけの額で、ベニーに頭突きをしたのだった。坂口さんは「そう、これだよ」と手を叩いた。
「空手の試合では頭への頭突きは禁止されているし、ベニーは自分の顔に頭がぶつかるほどの大型の選手と試合をしたことがないんだ。杉山さんは頭突きが得意技だし、この試合はこれが鍵を握ると僕も思ってたんだよ」
だが観客からは悲鳴のような溜息が漏れてくるのだった。
ベニーはカウント七で立ち上がったが、鼻が潰れ視点も定まっていなかった。
杉山さんは立ってきたベニーに再び頭突きをしたが、今度はベニーが両手で顔をガードした。
「いいぞ、嫌がってる、嫌がってる」
坂口さんは興奮して叫び続けた。
杉山さんは両手を挙げているベニーの空いた腋に手を入れ、腰に乗せて投げた。
「すくい投げだ、ざまあみろ空手野郎」
今度は藤原さんが嬉しそうに叫んだ。
投げたベニーの背後から、杉山さんのスリーパーホールドが完全にベニーの首を一巻きした。
だがベニーも必死だった。ベニーの蹴り上げた長い脚はなんと、彼の頭上の、杉山さんの顔に届いたのである。
杉山さんは堪らず技を解いて立ち上がったが、再び立ってきたベニーのガードの上から何度も頭突きをした。
そしてベニーが怯むと今度はその腕を取って脇に固め、うつ伏せに肘と肩を捻り上げた。
「上手いぞ、うつ伏せにしてしまえば蹴りもこない」
ベニーはよほど痛かったらしく、悲鳴を挙げながらロープに逃げた。
それは、会場にいた誰もが想像もしなかった光景だったに違いない。いつも山のように悠然としているベニーがまるで必死で逃げ回る巨大なゴキブリのように、動く方の手と足でリングを這い回り、ロープにしがみついたのだ。
その奇妙な素早さは返って憐れというより、どこか面憎い往生際の悪さとして観客を苛立たせたらしく、客席のあちこちからは、先ほど杉山さんが浴びたようなしらけた溜息が渦を巻いているのだった。
「面白いじゃないか、すごいな杉山って」
後ろの席のさっきの男が、今度は感動の溜息をもらした。
僕がその声にふと会場を見回すと、客席のあちこちから「杉山コール」が、遠慮がちに聞こえ始めていた。
「頭突き」「脇固め」「ロープエスケープ」それはプロレスとして、実に華がなく地味というより無様だったが、確率的にきわめて少ない突破口をこじ開けた杉山さんの、魂のスペシャルフルコースで、それを何度かくりかえした時には、会場にははっきりと杉山コールが聞こえてくるようになっていた。
だがすでに、両者ともに立っているのも危なっかしいほど、ふらふらだった。
こうなると練習量の差が致命的で、ベニーは執拗に杉山さんの故障している右膝をローキックで攻め立てた。
杉山さんはそのほとんどをまともに受け、右足は最早リングに着くことすら苦痛らしく、左足一本でケンケンをしながら力なく歩き回る姿は、浮揚能力のなくなった大きな風船が行き場も判らず漂っているようだった。
――ベニーが怪我した足を攻めている――
会場の空気が目に見えて変わり始めていた。
日本人以上に侍の精神を持った黒人といわれた武道家が、なりふり構わずロープに逃げ、相手の弱点につけ込んでいるのだ。
杉山さんがほとんど左足一本立ちになったころ、ベニーが突如距離をとり、左手を上前方に突き出し、右手を腰のあたりに落として、腰を深く沈めた。
それはまるで戦闘機のパイロットが、標的に照準を合わせているかのような間合いだった。
「天地二刀の構えです、極直流創始者大木達蔵氏が、宮本武蔵の二刀流からヒントを得た、あの流派独特の構えですよ」
坂口さんがすかさず解説した。
「ベニーは勝負に出るみたいですよ、最後の勝負ですかね」
今となってはベニーも気の毒なくらいだった。咬ませ犬相手の前哨戦のつもりが、予想外の大苦戦に狼狽を隠しきれず、鼻は潰れ道着のズボンを鮮血で真っ赤に染めながら、「黒いコンコルド」の最後の意地で、空手の構えをとったのが痛々しくさえあった。
一方、杉山さんはさらにひどかった。
メイクのほとんどは汗と血で流れ落ち、顔のあちこちはすでに目に見えて腫れあがり変形している。
死んだ血の色をして化け物のようにふくらんだ瞼と、おびただしい流血のため視界がとれないのか、手のひらでしきりに目のあたりをさすり、その痛々しさに、観客の中には涙声で杉山さんの名前を呼び続ける若者までいた。
ベニーが構えていたのは、ほんの一呼吸ほどの間だった。
そのつかの間にロック・オンを完了した「黒いコンコルド」は、全身を大きなバネのように弾ませて、大胆で予測不能でそのくせ風を斬るほど鋭いスクランブルに出たのである。
ベニーは大きく一歩踏み出し、柔道の前回り受け身のように大きな体でくるりと回ると、長い脚で武士の刀のように弧を描き、杉山さんの顔に振り下ろしたのだ。
「浴びせ蹴り…大車輪キックですよ」
だが、それは顔に当たらなかった。
どういうわけか、杉山さんはそれを紙一重でかわし、肩でベニーのふくらはぎを受けただけですませてしまったのである。
いや、恐らく杉山さんが偶然ふらついただけだったのかもしれない。
杉山さんはうつ伏せになったベニーの腰に両腕を絡め、エビ反りに後ろに投げつけた。
「バックドロップだ、すごいや、初めてプロレスらしい技が出た」
会場をどよめきの波が寄せては返した。
ベニーはリングの中央で完全に大の字になってしまった。
「フォールだ、フォールだ」
坂口さんだけでなく、会場のあちこちで叫ぶ声が聞こえた。
杉山さんはナマケモノのように、のそのそと仰向けのベニーの所に這い寄り、そこで力つきたように覆いかぶさった。
「ワン…ツー…」
レフェリーのカウントがもどかしいのか、観客はその手の動きに合わせて叫ぶ。
だが、次の瞬間、それは悲鳴に変った。
ベニーが杉山さんの首を肘で打ったのだ。
ベニーは最後の力で何度も何度も杉山さんの首や後頭部を肘で打ち続けた。
杉山さんはもう、意識がないのか、避けようとも逃げようともせず、ベニーの体にぐったりと乗ったまま動かなくなっていた。
「打ちおろしの肘打ちは反則のはずだ、汚いぞベニー」
坂口さんが、まるで杉山さんのセコンドのように、珍しく色をなして怒鳴った。
僕は知らなかったが、異種格闘技戦という特殊なこの試合の特別ルールで、予め決められていたらしい。他の観客もそれを知っている人が多いらしく、「ずるいぞ」「やめろ」と叫ぶ声があちこちから飛び交った。
ベニーは興奮しすぎたのか、あるいはダメージで判断力がなくなってしまったのか、レフェリーが止めようとしても、それを突き飛ばして打ち続け、他のレスラーが数人リングに上がって押さえ込まれ、やっと動かなくなるのだった。
しかも、極直流のセコンド陣も黙ってはいられなかったようで、やはり数人の空手家がリングに上がりこみ、レスラーたちと小競り合いを演じたものだから、リングは一時騒然とした無法地帯と化すのだった。
そんな中で、杉山さんがタンカで運ばれて行くのが人垣のすき間から見えると、橋本さんは真っ青になって、席を立って駆け出して行き、僕たちはただ、それらを呆然と見ているしかなかった。
お揃いのTシャツを着た何人もの若手のレスラーに支えられ、あるいは付き添われて、タンカに納まりきらない手足がだらりと下がった杉山さんの姿がひっそりと西の出口から運び出される姿に、会場中から拍手が降り注いでいた。
僕はその、葬送曲が似合いそうな、そして生涯忘れることのできない、哀れで無様で、そして誇らしい勇姿にただ呆気にとられ、気がつくと口の中がしょっぱい涙でいっぱいになっているのだった。
しばらくすると、リングアナウンサーがマイクと小さな紙切れを持ってリングの中央に立ち、しらじらしく試合結果を読み上げた。
「この試合は参考試合としてドローといたします」
この無粋な裁定は完全に観客の怒りに火をつけ、床が震えるほどの怒号が響き。リングには空き缶やジュースの紙パックや何故か生卵が、嵐のように投げ込まれ、ようやく起き上がったベニーは呆然とその中で立ちつくしていしているのだった。

アンドリーナとはあれ以来、会っていない。
警察の取り調べが終わった後、すぐにどこか遠くへ母親と一緒に引っ越してしまったのだと、前田さんが教えてくれた。
前田さんは、自分が退院した後、本気でアンドリーナを探し回ったらしい。
「あんな母親と一緒に、治ることのない病気を抱えて、これからどうするんだろうね」
と本気で心配して、泣いていた。
前田さんとは、家族のような付き合いをするようになり、それは去年まで続いていた。
本当に親切な人で、僕の高校の費用まで貸してくれて、僕がグレもせず柔道にばかり没頭できたのは、杉山さんのあの試合と、前田さんの優しさのおかげと言っていいだろう。
ご主人に先立たれ、元々子供もいなかった彼女は、僕を本当の子供のように思ってくれたようだったが、去年、癌で亡くなってしまった。
坂口さんは大学を卒業して、県庁に勤めているらしい。
藤原さんは、すぐに工場の仕事に戻り、三年後に今度は薬指をプレスの事故で失ったらしいが、なんとか定年まで勤め上げ、今は釣りばかりしているそうだ。
「杉山食堂」
食堂の看板にはそう書いてあった。
――あの時、僕が見たのは本物のUFOだったんだろうか?――
僕は店のクーラーの音を聞きながら、漠然とそんなことを考えてみた。
恐らくあれは普通の飛行機で、ジグザグに飛んでいるように見えたのは、杉山さんに散々「高い高い」をされたための目の錯覚だったような気もするし。多分、杉山さんもわけが解らないまま僕に合わせてくれたのではないか。
やがて食堂の引き戸をくぐるようにして、暖簾よりもはるかに背の高い男が腰を屈めながら出てきて、度の強そうな眼鏡をかけた女の背中に、頭をかきながら何か話しかけると、女は男の大きな尻を叩いていかにも幸せそうに、豪快に笑い転げるのだった。
「だからな、お前の体落しは…」
木戸先生のレクチャーは、さらに熱を帯び始めていた。
「先生…」
「なんだ?」
「大会が終わったら帰りに、あの食堂でラーメンとカツ丼の大盛り、おごってくれませんか?」
このころの僕は、あの子供のころからは信じられないくらい、大食いになっていたのだ。
木戸先生が「ん?」と首を回した時には、二人はもう、店に入っていた。
「あそこ、いつから食堂になったんだ?」
木戸先生は眼鏡のフレームを指でつまんで、焦点を合わせるように上下させながら見ていたが「お前」と振り返り、「俺は今、新しいカメラ買う金貯めてんのに…」と苦い顔で嘆いて見せた。
「死ぬ気になればなんだってできる」という杉山さんの言葉とあの試合が、僕の人生を変えた、というほど、その後の僕の人生はドラマチックでもなかったが、この夏の全国大会での僕の活躍を前田さんは終生、自分の息子のことように自慢してくれたのである。             
                 了

夏のジャイアントスイング

夏のジャイアントスイング

小学校6年の夏、僕(片山満)は入院していた。 同じ病室に入院していた少女アンドリーナに対する淡い想いや、自殺未遂で担ぎ込まれてきた引退寸前のプロレスラーとの交流を通じて成長してゆく「僕」とそれを取り巻く人々の、ひと夏の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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