屋上にあるもの
1
校舎の三階に、屋上へ続く階段がある。
階段をのぼった先にはいかにも重そうな鉄の扉があり、そこには鍵がかかっている。屋上に出るためには職員室から鍵を持ってこなくてはならない。もちろんその時に屋上の使用目的を明確に述べる必要がある。「なんとなく屋上に行ってみたいから」なんていう理由では当然ながら駄目だ。
ではどんな理由なら大丈夫なのか?
入学した時からずっと屋上を気にし続けてきた新城勇也だが、卒業を間近にした今になってさえ、その問いの答えは見つかっていない。
おそらく、天体観測をする部活などに入れば、簡単に屋上に上がることはできるのだろう。しかしそもそも、この高校にそういう部活は存在しない。話によれば以前はあったようなのだが、何年か前に人数不足で廃部になってしまったようだ。
「……」
勇也は一日の授業が全て終わった放課後、校舎の三階にやってきていた。既にホームルームが終わってから随分と時間が経っており、廊下を歩いている生徒はほとんど見られない。
彼は三階からさらに階段をのぼり、屋上への入り口に向かった。
相変わらず分厚く冷たいドアがそこにある。
試しにドアを開けてみようとするが、やはり鍵がかかっていてびくともしない。
「でも、」
勇也はちらりと視線をずらした。
そこには大きな窓がある。
「ここからなら、多分、行けるよな……」
窓を出たらすぐに屋上に出れる、というわけではない。窓から身を乗り出せば、そこはただの校舎の壁である。あとはただそこから落ちて骨折するか、あるいは死んでしまうかのどちらかだ。
が、実際に窓から外に顔を出してみると、その下に足場になりそうなでっぱりがあることが分かる。そこは十分に広く、人間一人くらいなら普通に歩けるくらいに見える。
つまり、窓から外に出て、その足場をつたっていけば、屋上に行くことができるのだ。
さらに言うと、そうやって移動をする距離はそんなに長いわけではない。せいぜいニメートル。長くても三メートルほどだろう。
ちょっと高くて恐ろしいが、きちんとした足場を三メートルほど歩けば、すぐに屋上にたどり着く。
よっぽど運が悪くない限り、変なことにはならないだろうと勇也は思う。
「行ってみようかな……」
そんなことを一人呟いてみるが、実際のところ、本当にやろうとは欠片も思っていなかった。
入学してすぐに、この校舎に屋上があることを知った。そしてそこに行ってみたいと思ったが、鍵がかかっていた。その時にこの窓を見てからずっと、ここから移動すれば難なく屋上に行ける、ということは分かっていた。
そして何度か想像もしていた。自分がこの足場を伝って屋上に行く。意外とあっさり行けてしまい拍子抜けしているところに、爽やかな風が吹くのだ。……なんとも青春らしく、面白そうな話だった。
だけど、想像しただけだ。
それから三年間、そんな想像を時々しながらも、決して実行にはうつさなかった。
だって、危ないじゃないか。
いくら丈夫そうな足場に見えても、足を滑らせたらそれまでなのだ。
それにこの場所は、生徒たちの駐輪場から丸見えだ。人の居ない時間帯を狙えばいいとも思うが、それでも絶対に見つからないという保証はない。……現実的に考えれば考えるほど、わざわざその想像を実行にうつすのが馬鹿らしくなってくる。
この日も勇也は、そのまま踵を返して屋上から去ることにした。
「……屋上、出てみたかったなあ」
一人ぼんやりと呟き、それでそのちょっとした冒険への未練を断ち切った。
勇也は放課後になるといつも図書室に行って勉強をする。
大学の二次試験がすぐそこにまで迫っている。自分の学力ならまず落ちることはないだろうと勇也は確信していたが、それでも受験生らしく、毎日の勉強を怠ることはなかった。
図書室が閉まる時間になると、もう外は随分薄暗くなっていた。
鞄を持ち、下駄箱に向かう。
靴を履き替えて外に出ると、そこに見慣れた一人の女子生徒がいた。
「あ」
彼女もまた勇也の存在に気付き、声をあげる。
「新城くん」
柔らかい声で名前が呼ばれる。会いたくない人に出会ってしまった、と勇也は思う。
「今帰りなの?」
「うん。結城も?」
「そうだよ。さっきまで自習室で勉強してたから」
勇也とその女子生徒、結城瀬里奈は並んで歩き出す。勇也は内心にかすかな緊張を抱えていた。
「こうして歩くの、久しぶりだね」
「そりゃそうだよ。帰るタイミングが偶然重なるって、なかなかないから」
「でも懐かしいな」
彼女は目を細めた。勇也には瀬里奈が何を考えているのか、漠然とながら分かっていた。
以前は何度もこうして一緒に歩いたことがある。今よりもずっと遅い時間。外はもう真っ暗になっていて、自分たち以外に生徒は見当たらない。そんな中、二人で下駄箱から校門に歩いて行ったことを勇也は思い出した。
「そういえば――――」
二人はそれから他愛のない雑談を始めた。
勇也はこの高校から歩いて十五分程度のところに住んでおり、いつも通学は徒歩で行っている。対して彼女の住んでいる場所は遠く、通学にはバスと電車に乗る必要がある。だから彼女と一緒に歩けるのは、校門を出てすぐのところにあるバス停までだ。
その短い距離を、勇也と瀬里奈は一緒に話しながら歩いた。
「え? 新城くんは地元の大学にしちゃうの?」
「うん、そうだけど」
「もったいないよ。だって、成績すごくよかったじゃない。私知ってるんだから。もっと上の大学に行けばいいのに」
「そういう結城はどうなのさ」
「私? 私はすごく頑張ってるよ」
そう言いながら瀬里奈があげたのは、東京の有名私立大学だった。想像していたよりもずっと上のレベルの大学が出てきて、勇也は少しひるんでしまう。
「それ、大丈夫なの?」
記憶している限りでは、彼女の成績では届かなかったと思う。
しかし瀬里奈はにやりと笑い、
「大丈夫! さすがにヤバいと思ったから、思いっきり勉強してるんだ。そしたら少しずつ成績が上がってって。このまま行けば、なんとか合格しそうだよ」
なんとか合格しそう、という頼りない言葉のわりに、彼女の声には自信が溢れている。もしかすると、もう随分いいところまで行っているのかもしれない。
地元の大学に行く自分と、東京の私立大学に行く彼女。きっともう、高校を卒業してしまえば、会う機会はまったくといっていいほど無くなるだろう。
バス停まで近くなってくると、唐突に彼女は、何かを思い出したような素振りを見せ、
「あのさ」
「え?」
「あの、ね。えっと。山西くんのことだけど」
「――――」
勇也は驚きと同時に思い出す。
山西一馬。瀬里奈と同じ文芸部に所属していた男子生徒だ。
「前に、その、私、告白しようとしたじゃない?」
「……ああ。そういえばそんなこともあった」
瀬里奈は彼に恋をしていた。
「だけど結局、最後まで勇気がでなくて、そのままになってたから……」
「……」
「だから私、卒業までになんとか、彼に告白してみようと思ってるの。今度こそ勇気を振り絞って」
ぐっと手を握りしめるような動作をしながら彼女は言う
「そっか。卒業したら、もう会えないんだもんな」
「うん。だから頑張る」
「ああ、頑張れ」
そう返事をしながら、勇也は彼女から目をそらした。今度こそは絶対にやってやる、と意気込んでいる彼女を、勇也は直視することができなかった。
「それじゃあね」
バス停に到着すると、彼女は軽く手を振った。勇也もそれに手を振り返す。
そして彼女と別れると、勇也は小さく息を吐いた。
2
学級委員、というものがある。
これは誰もが知っている通り、クラスの代表のような位置にある役職だ。学級委員になった人は、何か行事があると率先してクラスをまとめたり、全体の方針を決めたりしなくてはならない。さらには定期的に委員会が開かれ、それに出席する必要もある。
そしてそんな、良く言えばやりがいのある、また悪く言えばひどく面倒なその仕事は、一般的に自分からなりたいという人はいない。
場合によっては率先してなろうとする人がいることもあるが、少なくとも、新城勇也のいるクラスでは、そういう人は一人もいなかった。誰もがその学級委員という役職を忌避し、他の仕事につこうと思っていた。
そうして、仕方なくくじ引きをすることになった。
その結果学級委員になってしまったのが、新城勇也と結城瀬里奈の二人だった。
なんて面倒なことになってしまったんだ、と勇也は思った。しかしくじだろうがなんだろうが、決まってしまったのだから、せめて皆から文句を言われない程度には責任を持って頑張らなければならない、とも思った。
二人共今までに学級委員などやったことがない。わけもわからない状態の中、互いが互いを頼りにするようになっていくのは普通のことだった。
文化祭の時などは二人で遅くまで残り、外が真っ暗になってから帰宅するなんてこともよくあった。
そうした中、自分が瀬里奈に惹かれていったのは、すごく当たり前のことなのかもしれないと勇也は思う。
最初は特に意識しないその他大勢の女の子だったのに、いつからかその横顔が他の子よりも綺麗に見えた。
なんとなく、恋愛というのはもっと劇的なものかと思っていた。フィクションなんかでよくあるような、何かのきっかけがあって急に全てが変わるような、そんなドラマチックなものを漠然と想像していたのだ。
しかし違う。人を好きになるというのはもっと自然で、日常の中に溶け込んでいる感情だった。すごく現実的なものなのだ。
そうして彼女のことが好きになってしまった勇也だが、彼女に思いを伝えることは最初から諦めていた。……そういう部分もまた、ひどく現実味があると、勇也は思う。
結城瀬里奈は文芸部に所属している。そして彼女は、その部員である山西一馬という人に恋焦がれていた。
他でもない本人が、話のはずみで言ってしまったことだ。間違いない。それを聞いた時、勇也の胸の中をよぎったのは落胆ではなく、安心だった。もしかしたら自分は、告白しなくてもいい理由を探していたのかもしれないと、勇也は思った。
そうしてそのまま時間は過ぎていく。
受験が近づいてくる頃には、学級委員の仕事もほとんどなくなっていた。委員会に出席する必要もないと言われた。そうなれば自然、彼女と接する機会もなくなっていく。
だけどそれでいいと勇也は思っていた。
このまま会話らしい会話をすることなく、自然のまま、記憶の底に埋もれさせていくのが最善であると、そう考えていた。
土曜日の昼。朝から受験生らしくずっと勉強をしていた勇也だったが、少し息抜きをしようと思って家を出た。
凍えるように風が冷たい。上を見上げれば分厚く重たい雲がある。雪でも降り出しそうな気配を感じる。まだ二月なのだから十分考えられる。
勇也は駅に向かって歩き出す。適当にふらふらと歩けば、それだけでもいい気分転換になる。
そうして歩いていると、ふと見慣れた看板が目に入って来た。ゲームセンターだ。
以前はよくゲームセンターで遊んでいたのだが、三年生になって勉強をしなくてはいけない状態になってからは、そこに足を踏み入れる機会はめっきり減っていた。
久々に寄っていこう。そう思って勇也はゲームセンターに足を向けた。
「勇也」
突然横から聞き覚えのある声がして、勇也は驚きながらそちらを向いた。
「ああ、河野か」
高校の同級生。勇也にとって仲の良い友達である河野和人がそこにいた。
「久しぶりだな、お前をここで見かけるのって」
「まあ、時期が時期だから」
以前は高校が終わった放課後、二人で一緒にここに足を運んで遊ぶ、という習慣があった。最近ではそういうことはまったくなくなってしまったが。
「でもいいのかよお前」
「何が?」
「お前、進学するんだろ? こうして遊んでて大丈夫か? 余裕ぶっこいてると落ちるぞ」
「多分落ちないよ。そんなレベルの高いところに行くわけじゃないから」
「ふーん……」
河野は納得したような声をあげてから、
「でもお前、前から成績結構いいほうだっただろ? 上の方に進学するのを目指すことだってできたんじゃないのか? いや、進学しない俺は詳しいことはわからないけどさ」
「……進路指導の先生に、まったく同じことを言われたよ。頑張れば一流のところにいけるって」
「じゃあどうして?」
「なんか、行く気にならなかった」
勇也が返すと、「なんだそりゃ」と河野は笑った。
「頑張るのって疲れるし、それにそんなところを受けたら、ひょっとしたら落ちるかもしれない。そうなったら嫌だろ?」
「……ほんと、お前って前々からそういうところあるよな。別に良いんだけど」
そういうところ、の内容については、勇也は前々から自覚していた。
安全志向。意欲を持って前に進むということが無い。どんなことにも一歩引いて考えてしまう。冷めている、とも言う。
「まあ、俺のことはいいんだよ」
勇也は頭を振ってそう言った。
「そんなことより、お前は?」
「俺?」
「やっぱり旅館か?」
「ああ。そりゃもちろん」
河野は頷く。
彼の家は、このあたりで一番古くからある旅館である。
それほど大きな建物ではないのだが、その佇まいから感じる風格はかなりのもので、宿泊客は途絶えない。
「俺もあそこは好きだからな」
それに勉強するのは嫌いだ、と河野は続けた。だから進学したいなんて思わないし、就職するにしても変な企業に行くよりは、普通に家業を継いだほうが気が楽だ。
そんなことをひと通り二人は話し終えると、一緒にゲームをすることにした。
そのまま夕方頃までそこで過ごしてから、二人は別れた。
ふと目が覚めた。
目の前に広がる暗闇。カーテンの隙間から差し込んでくる月光が、闇に鋭い切れ込みをいれている。その黒と白のコントラストに見とれながら、勇也は熱のこもった息を吐いた。
何か、夢を見ていたような気がする。
内容は覚えていない。だけどその夢には、彼女、結城瀬里奈が出ていたのは間違いない。目を覚ました今でも、その姿ははっきりと意識に焼き付いてしまっている。
「なんだよ、これは……」
勇也は戸惑う。
自分は、どこか冷めている人間だと思っていた。心惹かれるものがあっても一歩引いてそれを見てしまう。そういうある種の欠点のようなものがあることを勇也は自覚している。
しかし、ならばどうして。
瀬里奈という存在に、恋をしてしまったのだろう。
告白はしないと決めた。このまま何も言わず、卒業まで過ごそうと、もう決めているのだ。それなのにどういうわけか、胸の奥に燻る感情は無くならない。
勇也は目を閉じ、再び眠りにつこうとした。眠って朝になってしまえば、この不思議な感覚はもう残ってはいないだろう。
完全な闇が勇也を包み込んだ。
昨日と同じく、午後には勉強の息抜きのために外に出た。
相変わらず風が冷たかった。
特に目的地も設定せずに歩いていると、やがて駅前にたどり着いた。大きな道路があり、車の通りも非常に多い。
「……?」
そんな駅前の広場に、見たことのある男の人が立っていた。
しかし、その姿が記憶に残ってはいるものの、誰だったのかは思い出せない。
彼は誰かを待つような素振りでちらりと時計を見る。ただそれだけの動作なのに、どこかやわらかく優しそうな印象をうける。そしてようやく彼のことを思い出した。
山西一馬だ。
結城瀬里奈と同じ文芸部に所属している男子生徒。そして、彼女が近いうちに告白しようと思っている人間でもある。
勇也は彼のことを少し見て、そのまま目をそらそうとした。彼とは別に顔なじみというわけではない。外で出会ったからといって、声をかけようとは思わない。
しかし、彼のもとに小走りに近づいていく一人の女性が目に入り、勇也は彼から外しかけた視線を戻した。
その女性は彼と親しげに話し始める。
友達だろうか?
いや、それにしては少し違和感がある。二人の間に漂う親密な雰囲気は、友達のそれを超えているように見える。
恋人だ。
おそらく間違いない。
二人は何か話をしながら並んでどこかに向かって歩いて行く。今日はこれからデートでもするのだろうか。
「……」
結城瀬里奈は彼に告白しようとしている。おそらくは、彼に恋人がいることなど知りはしないだろう。
既に恋人がいる人に告白する場合、それが上手くいく可能性はどれくらいだろう。……分からないが、決して高い確率ではないと思う。
このままだと、彼女は何も知らずに告白をして、傷つき、惨めな思いをするだけで終わってしまう。
彼女に、伝えなければ。
瀬里奈に一馬の恋人のことを伝えよう。
そういう使命感のようなものを抱えて登校した勇也だったが、それは思っていた以上に難しいことだった。
いったい、どのタイミングで話しかければいい?
それにまず、どこで話せばいいのかも分からない。クラスメイトが大勢いる教室で、彼女のプライベートな話について話すわけにはいかないだろう。だからまずは、場所を変えなくてはならない。
瀬里奈の席は勇也からかなり離れている。対角にあると言ってもいい。わざわざ離れた場所に座る瀬里奈のところまで歩いて行き、話があるからと言って教室から連れ出す。……その行動は、あまりにも難易度が高すぎるように勇也は思う。
昼休みに彼女が一人にならないかと様子を伺ったが、友達と机をくっつけて弁当を食べ始めるのを見て、勇也は軽く絶望した。
そして最後のチャンスである放課後もまた、話しかけるタイミングを完全に逃し、彼女はいつもの自習室に向かってしまっていた。
「……はあ」
なんとも情けない。
まず、自分が彼女の連絡先を知らないということからして既に情けない。連絡先を聞きたいと思ったことはあったが、結局その時もまた、どういうタイミングで言えばいいか分からずに断念してしまったのだ。
思い切って踏み込む勇気が無い。
きっと、一番の原因はこれだろう。
「……明日、また機会をうかがおう」
明日になればチャンスがあるかもしれない。
情けないと思いながらも、勇也はそうして問題を先送りにすることしかできなかった。
勇也はそこで意識を切り替え、普段自分が自習に使っている図書室に向かった。そしていつもの席に座り、問題集を解く。
やがてそのまま時間は過ぎ、図書室が閉まる頃合いになる。荷物をまとめて部屋を出て、そのまま下駄箱に向かったところで、意図せずしてチャンスはやってきた。
結城瀬里奈が一人で下駄箱で靴を履き替えていた。既に時間は遅く、まわりに人はほとんど見えない。
もし話すチャンスがあるとしたら、今を置いて他に無いだろう。
「結城」
彼女の名前を呼ぶ。ふと唐突に、彼女と出会ったばかりのころは後ろに「さん」をつけていたことを思い出した。いつからか、そのまま名字だけで呼ぶようになった。その呼び方が変わった境目がいつだったのかを思い出すことができないことが、勇也は少し残念に思った。
瀬里奈は振り返る。
「ああ、新城くん」
彼女は笑みを浮かべた。
それから二人は一言二言、簡単な挨拶を交わす。それからタイミングを見て、山西一馬の話を切り出した。
唐突に彼の話題になり、結城は恥ずかしいような困ったような顔をした。しかし勇也の話が進むにつれ、次第にその顔から表情が失せていく。そして全てを伝え終えた頃には、彼女は完全に俯いてしまっていた。
「……やっぱり、恋人がいるって、知らなかった?」
「…………うん」
「……それは、残念だね」
なんだか白々しい言葉だと勇也は思った。
だけど、伝えたこと自体は間違いではないはずだ。あのままだったら何も知らずに告白し、勝ち目のない戦いをして、その結果、無意味に傷つくことになってしまっていただろう。
長い沈黙が二人の間に漂った。いつもより歩調はずっと遅くなっている。のろのろと亀みたいにゆっくりと歩いて行く。
やがてバス停にたどり着く。
瀬里奈は俯いていた顔をあげた。そして勇也に対して微笑んだ。
「教えてくれてありがとう」
「うん……」
「だけど、やっぱり、告白はしてみるよ」
「え?」
それは勇也にとって予想外の反応だった。
「ど、どうして?」
「どうしてって、それは。だって私、まだ気持ちを伝えてないんだから」
勇也は軽く混乱した。それが質問の答えになっているとは、到底思えない。
「相手には恋人がいるんだよ? そこに告白して、受け入れてもらえると思うの?」
「ううん。そんなことはない。……一馬くんはそういうことはしっかりしてる人だから、きっと、受け入れてもらえない」
「じゃあどうして? 思いを伝えても、無駄に傷つくだけだ。惨めな思いをするだけだ。そんなこと、わざわざやらなくてもいいだろ?」
瀬里奈ははっきりと首を横に振った。
「それでいいんだよ」
そして続ける。
「傷つかないより、傷ついた方がいい。惨めな思いをしないより、惨めな思いをしたほうがいい」
「……」
勇也には彼女の言葉の意味が分からなかった。
痛みがあったほうがいい、と彼女は言うのだ。それは勇也には今までにしたことのない考え方だった。
「それじゃあね。――教えてくれてありがとう、新城くん」
そして彼女は、笑顔で勇也に手を振った。
3
何もできないまま、ただ時間は過ぎていく。
卒業式まであと一週間になったその日、勇也は前々から考えていたそれを実行することに決めた。
放課後になり、少しだけ時間を潰してから、校舎の三階に向かう。廊下に人気がないことを確認してから、彼は階段をのぼった。
閉ざされている屋上。一年生のころから漠然と、この重たい扉の向こうを想像していた。そして、そこにたどり着く方法も、すでに考えてあった。あとはただ実行するだけだ。
窓を開けると、冷たい風が頬をなでた。下を見ると、地面がかなり遠いところにある。想像していたよりも高く感じ、勇也は息をのんだ。そして覚悟を決める。
視線を動かし、自分を見ている人が誰も居ないことを確認する。
行こう。
勇也は深呼吸をした後、窓から乗り出した。
うっかり落ちてしまったら大怪我だ。場合によっては死ぬ。そうでなくとも、誰か先生に見つかりでもしたらそれだけで大変な事になるだだろう。
足場にしているでっぱりは思っていたよりも広い。そして、これは実際に窓を越えてみてはじめてわかったのだが、ちょうど自分の腹部あたりに何かのパイプが通っている。その手応えはしっかりしており、勇也はそのパイプを手すりのようにしてゆっくりと歩くことができた。
落ちてはならない。見つかってはならない。
そんな極度の緊張状態にあったが、その足取りはぶれることなく、気づけばもう屋上の縁に到着していた。そのまま段差を乗り越ると、そこはもう、普通なら入ることができない屋上だった。
「……なんだ」
たしかに緊張した。だけどこれは、
「思っていたより、ずっと簡単じゃないか」
屋上には何もなかった。ただ広い空間があるだけで、面白そうなものはなにも見当たらない。勇也はその空間を歩いて行く。
それから彼は顔を上げた。
ちょうど、夕日が沈むところだった。
鮮やかなその輝きと、青色の空との綺麗なグラデーション。そして地平線から照らすその強い光が勇也の目に飛び込んでくる。
それは特別珍しい景色ではなかった。ここでなくても、どこにいても見ることのできる光景だった。……しかし、勇也がそれを見て得た感情は、おそらくここでしか得ることのできなかったものだ。
もうすぐ、冬が終わる。そしてそれと同時に、この、高校で過ごす時代も終わる。
瀬里奈と話してからずっと、彼女の言葉の意味を考え続けてきた。そしてだんだんと、その意味が分かってきた。
だとすれば、全てが終わる前に、やらなくてはならないことがあった。
「あれ? 新城くん?」
勇也が、下駄箱から出てきた瀬里奈に近づいていくと、彼女は驚いたような顔をした。
「もしかして、待ってたの?」
勇也が頷くと、
「だったら、そう言ってくれれば良かったのに。ごめんね」
「いや」
別に瀬里奈があやまる必要はない。その意思をはっきりと伝えようと思ったのだが、うまく言葉にすることができなかった。喉の奥がカラカラになっている。どうやら俺は緊張しているらしい。
「でも、どうして?」
今まではどっちかがどっちかの帰りを待つなんてことは一度もなかった。恋人ではないのだから、無理に時間を合わせて一緒に帰ろうとするのは少しおかしい。それにバス停はすぐそこだ。
「俺は、」
声がどこか震えていることに気付き、仕切りなおす。
「俺は、瀬里奈に伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと?」
「うん。…………そう言えば、ちょっと話は変わるけれど、結城はもう、あの人に告白しちゃった?」
唐突にその話を出され、瀬里奈は驚きと羞恥が混じったような顔で、
「う、ううん。まだだけど」
「よかった」
勇也は内心でほっとする。
彼女が告白した後では駄目なのだ。彼女が思いを告げる前に、自分は言わなくてはならない。
「そ、それで、伝えたいことって?」
「うん。えっと、」
心臓の音がうるさい。
恐怖なのか、緊張なのか、変な冷や汗が出てきている。誰かに思いを伝えるなんてのはこれが初めてだ。恋人がいる人は皆、こんな凄まじい感情を乗り越えているのか?
油断した瞬間に踵を返そうとする足を、必死に押し留めながら、勇也は口を開いた。
「俺は、結城のことが――――」
思いを告げると、彼女の両目は、驚きに見開かれていった。
勇也はそんな瀬里奈の様子を見て、胸の奥に火が灯ったような暖かさを覚えた。
<了>
屋上にあるもの