黄色い花
悪気はなかったんだよ。
実家の裏山を登る。細い道はゆるやかだ。
ここはもう手入れがされていないから、歩く度に靴底が枯れ枝などを踏んで、晴れた空に乾いた音だけが響く。
「裕くんストップ!」
僕の動きを止めたあと、千尋がまたしゃがんだ。
さっき、蟻の行列を見つけた時もそうしたし、その前に団子虫を見たときにもそうした。
「ほらぁ、足に踏まれないように、もっともっと咲がないどない。元気にずっどずっど大きくだぞい」
保育園の良い先生だ。誰もが見逃しがちな、小さな黄色い花をしゃがんで見ている。
千尋の長靴はお袋から借りて、僕の長靴は親父から借りている。
小山の中程であるが、水が斜面から染み出す所だ。
ここに昔は、猫のひたいほどの畑があったのだけれど、今は背丈のある雑草が生い茂っている。
「すっかりお袋の口調が移っちゃったのな」
千尋を実家に連れて来て、今日で4日め。
親戚や旧友に挨拶まわりを終えて、明日の昼前にはこの地を発つ予定。
晴れた日で良かった。
9月も、もうすぐで終わる。
小山の中腹に、今の僕の目の高さあたりで、それほど太くもない幹を大きく横に曲げる梅の木がある。
この木を見ると軽い耳鳴りがする。
そして、山の上の方から聞こえてくる、ホトトギスの不器用な鳴き声。
「ぼっとぶっつぁげだぞう……」
「えっ? 何それ、呪文?」
千尋が笑ってくれるから、少しだけ救われる。
「ホトトギスの鳴き声さ。このへんに住む人にはそう聞こえる。悪気は無いんだ、ちょっとした拍子で破けちゃつたんだってね」
《ぼっと》とは妙な言葉で、標準語でこれを表すには苦労がいる。
僕の生まれた土地では、悪気無く他人の足を踏んでしまったような場面でこの言葉を使う。
〈ぼっとない。ぼっとだぞい〉
「千尋、山の上まで行かないか?」
僕には確かめたい事がある。
この土地を離れてから止まない耳鳴りの理由。
淡い記憶に間違いがなければ、その答えは土の中にある。
〈ぼっとぶっつぁげだぞう〉
ホトトギスが、また鳴いた。
中腹の梅の木には思い出がある。
おそらく僕は小学校1年生だった。その木に登って、降りる事が出来なくなった。
幹にしがみついた腕の力が無くなる頃に、ようやく思い出したように泣きながら助けを求めた。
蝉がうるさい季節だった。太陽がとても眩しかった。
僕の声を聞きつけ、山道を駆け上がって来てくれたのは、いとこの直くんである。
直くんは長い腕を伸ばすと、梅の木の幹に蝉のようにしがみついていた僕を優しく草の上に降ろしてくれた。
僕が見上げた直くんの顔は、眩しい太陽の光だけをを背にしていた。
「裕ちゃん‥‥」
僕はどうしてか、直くんの言葉から逃げた。
駆け下る坂道の途中で、何度か転んだ。
この土地を離れて、ずいぶんと年月は過ぎている。
そして何故だか、記憶の中の直くんの顔はぼやけたままだ。
いつもいつも夏の太陽を背にして、僕に何かを話し掛けようとしている。
故郷はなだらかな山が続きその間を小川が縫い、そのまわりを小さい田んぼと、これもまた小さな畑が取り巻いている。
今は路線バスも廃止された道を、忘れた頃に乗用車が通る。
「良い景色ねぇ」
そうだろうか?
以前はもう少し人の姿が見られたものだし、放課後の時間は山あいに子供の遊ぶ声が響いていたはずだ。
「バス停の標識がそのまま在るのね」
そう、そのままある。
東京から親父に連れられて来た直くんは、あそこのバス停に立った日から、この地での生活を始めた。
直くんの父親つまりは親父の弟は、東京で小さな会社を経営していたらしい。
けれどもバブル経済が弾けた後、直くんの父母は多額の借金を抱えてどこかへ消えてしまった。
1人取り残された直くんは、親父に引き取られて、僕の家に来たらしい。
直くんは兄弟のいない僕に優しくしてくれた。
僕の我が儘をすべてきいてくれたような気がする。
そう、とても優しかった。
裏山の頂上は桑畑である。
祖父母の代まで、僕の家は養蚕をしていたのだが、ずいぶん昔の話なので僕には当然その記憶は無い。
「まるでジャングルね」
千尋は髪にへばりついた蜘蛛の巣に困り果てた顔をして、僕は自分で秘密基地と名付けていた1番大きい桑の木を捜している。
直くんが僕の家にいた頃もこの場所はジャングルだったし、今と同じように至る所に蜘蛛の巣があった。
日曜の午後とかには、直くんとよくここで遊んだのだが、僕は密かに直くんを恨んでいた。
時々直くんに、いけない言葉を吐いていたのは間違いない。
そしてまた、ホトトギスの鳴き声が聞こえる。
厳格な僕の親父だったが、彼が直くんを叱っていた記憶はない。
親父に叱られるたび当時の僕は悩んだ。綱引きのロープに引きずられている気持ちだった。
ロープの引かれて行く先に、直くんが立っている気がしていた。
だから堪らずに、僕は直くんに嫌な言葉を吐いた。
北国である。
夏に置いて行かれた山々である。
──ボットブッツァゲダゾウ──
「嫌な鳴き声だよ‥‥」
「え?」
伸び放題になった桑の木の枝を掻き分けて進むと、半ば枯れた太い幹があった。
小さかった時の僕が、目印のために刺した玩具の剣が、色褪せた姿で土に刺さっている。
足元に転がっている手頃な枯れ枝を握り、僕は剣を土から抜いて捨てると、それが指し示している物を探した。
枝を突き立て、黒い土を掘る。
──ボットブッツァゲダゾウ──
「お袋の昔話の持ちネタは1つでさ、何度もこの話を聞かされた」
「ねぇ、どんな話なの?」
土を掘り返す僕の隣に、千尋は行儀良くしゃがんでいる。
「この鳴き声の主の話さ」
「ホトトギス?」
「うん……」
もうじきあれに辿り着く。
寒くなる頃に結婚を予定するこの人には、僕の嫌な部分をはっきりと見せようと思った。
「むかしむかしの話だがんない‥‥」
お袋の決まった語り出しである。
「この辺りの山にね、ホトトギスの親子が暮らしていたらしいんだ。父さん鳥と母さん鳥、それから、最近ようやく飛ぶ事を覚えたお兄ちゃん鳥と、甘えん坊のどう仕様もない弟鳥」
「うん」
どう仕様もないとかは勝手な付け足し。僕は土を掘る作業を続けながら物語を継いだ。
「幸せに暮らしていた家族だけれども、ある日突然、親鳥が帰って来なくなった。兄弟鳥は不安と寂しさのなか親鳥を待ったけれども、親鳥達はいつになっても帰って来ない。次の日の朝には、我が儘な弟鳥は我慢しきれずに、巣から落ちそうな位に暴れて、大声で叫んだのさ。《お腹が空いたよ! お腹が空いたよ》……さ」
スコップ代わりの枯れ枝の先から、固い何かの感触が僕の掌に伝わる。
やっぱり埋めたのは此処だ。
「兄さん鳥はどうしても優しかった。飛ぶことは出鱈目にヘタだったけれども、弟鳥の喜ぶ顔が見たかったんだろうね。勇気をふりしぼり、いや違う。無意識に羽ばたいたんだろう。高い場所から夏の空へ」
直くんも、ホトトギスの兄さん鳥のように優しかった。
僕が流行りのベーゴマが欲しいと駄々をこねた時には、自転車で片道3時間は掛かる大きな町に行き、皆が晩御飯を食べ終える時間に、僕の欲しかった物を大切に抱えて帰って来た。
「その日の夕方には、蝉を大切にくわえた兄は、ワガママな弟が待つ家に無事帰って来た。《お兄ちゃんは食べないの?》蝉をついばむ弟が尋ねると《俺はもう食べた》と、兄はこたえる。そんな日が幾日か続いたのだけれど、自分の事をしか考えない馬鹿な弟は、常識外れな、嫌な考えを持った。今、自分の隣で寝ている兄の寝顔はどうだ、余りにも満足気じゃないか? 僕の知らない所で、翔べない僕の行けない場所で、美味しい木の実を鱈腹食べて来たに違いない。ワガママな嘴(くちばし)は、無意識のうちに、すやすやと眠る兄の腹を裂いていた。そしてワガママな嘴に絡み付いたのは、優しい兄の腹の中で、消化されないでいたパサパサでゴリゴリでアリさえも棄てる蝉の羽……」
巣を逃げて飛び立った弟ホトトギスは、それからずっと今に至るまで、この北国の狭い空で、喉から血を流しながらボットブッツァゲダゾウを繰り返している。
そして僕が探していた物は、案外浅い場所に埋められていた。
今と同じ季節だったと思う。タイムカプセルとは言いながら、七夕の短冊気分で書いた手紙を直くんと2人で此処に埋めたのだ。
スーパーのビニール袋で何重にも包んで埋めたそれは、小さい2つの錠剤の瓶である。
ひとつは僕の手紙の瓶で、別のひとつが直くんの瓶。
僕は泥だらけになった手で、呼吸を荒げながら、片方の瓶の蓋を開けた。
覚えている通りなのだけれど、僕はそこに収められた拙い平仮名の手紙を読んで、目の前が暗くなった。
──なおくんいなくなれ──
とだけ書いてある。
「僕は、本当は嫌な奴なんだ」
震える手でその紙切れを摘まんで、ホトトギスの話で目を赤くしている千尋にそれを渡した。
後悔を分けるとかの気分ではなくて、気の効いた責めの言葉を彼女が口にする事を期待しただけ。
けれども、彼女は事情を知らない。
黙ってその、嫌な文字を読むことしかしない。
僕は、直くんの瓶も開けなければならない。
耳鳴りの理由は、おそらく、その中にあるのだから。
茶色の瓶から取り出した直くんの手紙は、綺麗に4つにたたんである。
丁寧な文字。
──ぼくの幸せ全ては、裕君にあげて下さい──
力が抜けた。
しゃがんだ形のまま、僕は土臭い地面に転がった。
そうしたら……次から次へと涙が湧いてくる。
仙台の夜学に進んだ直くんと、連絡がとれなくなって久しい。
それは、おそらくは僕のせいだ。
「裕くん‥泣くのは全然構わないけれど、お願い……それ以上は転がらないで……」
千尋の言葉の理由は、とても簡単である。
この場所にも、小さい黄色い花が、ぽつんぽつんと咲いているから。
完
黄色い花