F熱
他所で書いた短編です。
色が骨です。
F熱
──月は物分かりが良い。藍色の弱い光で僕を照らしてくれるから──
◇◇◇
「煙草、部屋で吸って良いんだよ。私、そういうの気にしないから」
ベランダからの夜景は似ている。
が、ここは僕の家ではない。
高級ベッドの訪問販売で、親戚はもとより古い友人にもたくさん迷惑を掛けた。
その挙句、すがるように、僕はこの気まずい場所へ転がり込んだ。
「救われた……のか?」
風通しの良いベランダで油断をした。
タバコの灰が、風に乗って飛んでゆく。
灰が飛んてゆくさき、200m程ほど離れた高速道路は、おそらく昨日もそうだったはずだ。
おだやかにのんびりと、赤いテールランプの帯が、視界の端から端まで続いている。
光の帯は、去年の暮れから長さを増してきた。
電車もバスも、今は時刻表の存在を忘れている。
「翔くん、口座番号間違えちゃった」
僕が見上げる民間機が飛ぶ事を止めた空では、月だけがポカリと輝いている。
「2本線を引いてハンコを押してもらえる?」
網戸越しにそう答え、僕はコーヒーの空き缶に吸い終わった煙草を捨てて、寒い場所と暖かい場所を区切るカーテンをくぐった。
だらしない格好だ。
少し腰を屈めている。
和室の隣にリビングがある。
カタログが散らかるロングソファーと、テーブルの上に広げられた契約書に、すこぶる顔を近づけている美咲。
彼女の眼鏡は僕が壊した。
フレームの曲がった銀縁のそれは、彼女の座る椅子の後ろの床の上にある。くしゃくしゃになった白いブラウスの上にある。
「寒くはないのかい?」
「服を着るよりサインが先よ。9時までにファックスすれば間に合うんでしょう?」
髪の先端をテーブルにつけ、目を細めなからペンを走らせる美咲は美しい。
その契約書である。ベッド3台分の営業成績が加われば、僕は会社に捨てられずにすむ。
部長の罵声と道路の渋滞が原因かもしれない。
やっとのこと営業車で辿り着いたのは、僕が生まれ育った町だ。
もう、幼なじみの美咲を頼るしか、僕に方法は残されていなかった。
「結婚式には行かないわよ」
彼女が判を押してくれた契約書の数字は200万。
「分かってる、紗智も気まずいだろうからね」
美咲は下着姿のまま立ち上がり、カウンターに置かれたファックスで、契約書を僕の営業所へ送ってくれた。
ゴホッ
そして小さい咳をする。
「明け方には道もいくらかは空くでしょう? ゆっくりしていきなよ。なに飲む? ビール? ワインは赤なら冷えているわ」
「始めにビール、次にワイン」
僕はこたえた。図々しい。
グラスを食器棚から取り出す美咲を横目に、僕はカタログをまとめて革のソファーに腰を沈めた。
目の前にある硝子製のセンターテーブルにはテレビのリモコンだけが乗っている。
僕はリモコンを手にした。
「テレビをつけたって、どうせ謎の病気のニュースだけだろうけどさ」
道路が渋滞するのも民間機が空を飛べなくなったのも、教師が授業を放棄したり医者が患者を放置したりするのも、昨年の暮れからこの国に広がり出した新種の伝染病のせいだと世間は言う。
「ワガママ病だって? へっ、ワガママなんて病気じゃないよ。マスコミが面白おかしく煽りたてるから、心の弱い連中がそれを真似をしているだけさ」
「そうかしら?」
美咲は缶ビール2本と2個のグラスをトレイに乗せてテーブルへ運ぶと、僕の隣に下着姿のままで座った。
美咲は僕の手からリモコンをとりあげテレビの電源を入れ、僕がそれをまた取り返して唯一報道番組ではないフィギアスケートの試合を中継するチャンネルを選ぶ。
「F熱……」
「え?」
報道番組ではないが、画面のスケート選手の映像は左下に押し下げられている。
空いた空間には新型病の発症者数の棒グラフと、関連事件のテロップが動いている。
どうしてもその数字に目がいく。
きのう1日の新型伝染病の疑いのある者の純増数273人。
症例で共通していることは、善悪の区別がつかなくなっている点と軽い風邪のような症状が長く続いていること。
「さっき……F……何て言ったの?」
美咲は細長いグラスにビールを注いでくれたが、泡の量には頓着が無いらしい。
ほとんどが泡で占められたグラスを呆れ顔の僕へ渡した。
「ええと、何に乾杯しようかしら。翔くんの契約成立? それとも私と翔くんの再会を祝して?」
美咲の肌が、また僕に触れた。
少しだけの後悔と、無作法な欲情。
「仕方ないわ、アナタ達の結婚を祝ってあげる」
美咲は僕の頬にキスをしたあと、顔を離すことをしないで僕の左の耳たぶを噛んだ。
甘い香りと赤い唇。
僕と婚約者の紗智、そして今隣にいる美咲は中学から高校まで、学校もクラスも一緒だった。
頭の良い美咲は国立の大学へ進み、僕と紗智は3流の大学を選んで今日がある。
「二人の結婚を祝して」
僕が力なく握っているグラスに、美咲のグラスが重なった。
コツンという鈍い音がしたあと、美咲の赤い唇の端が少しだけつり上がったように見えた。
世間が浮き足立っている中で、最低価格が40万のベッドなど訪問販売で売れる訳がないから、僕はどうにも疲れている。
グラスに美咲がビールを足そうとする。
僕は美咲の手からビールの缶を取り上げて、先ず彼女のグラスを満たし、次いで僕のグラスに美しい琥珀色の泡を作った。
「小さいワガママ……」
美咲の言う言葉の意味が解らない。
だから彼女は細い喉を動かして、小さな不満を飲み干した。
テレビ画面の左下では、今年のスケートランキング1位が息を切らして演技の採点を待っている。
その映像は何故だか更に下へ押し下げられ、わざとらしい報道フロアと原稿が手につかないアナウンサーが画面を占領した。
『臨時ニュースです。非常事態宣言が出されました。昼夜を問わずの外出禁止令です』
へぇ。
「ビールって、どうしてこんなに苦いのかしら」
美咲がソファーから立ち上がったときである。テレビは消え部屋も暗くなった。
そして慌てて立ち上がった僕の右腕に、美咲の両腕がからまる。
「次はワインだったよね」
彼女の体温が、柔らかく伝わってくる。
◇◇◇
「ライター貸して」
「いいよ、僕が火をつける」
スマートフォンのライトを頼りに、美咲は赤ワインとロウソクを用意した。
「F熱‥‥見つければ簡単」
「F熱?」
僕は尋ねながら、おそらくは海外の土産であろう緑色の妙な形の蝋燭に灯を灯した。
炎が揺れるから、何もかもが動いて見える。
「あ!」
去年の夏の同窓会を思い出した。証券会社に勤めている林が、美咲の新しい仕事場を国立細菌学研究所と言っていた。
彼女は院を出た後、暫くは大手の製薬会社にいたはずである。
「さぁ、慌てても始まらないわ。飲みましょう」
美咲のマンションのリビングは飾り気が無い。
だからいっそう淡い色に照らされた女の肢体が美しい。
ロウソクの火は橙色。
極々の近場しか照らさない。
「普通の風邪なのよ、ただ37℃を越えないくらいの微かな熱が続いて、そう……何年も続いて、発症者は心の良心を少しづつ失って行く」
ビールとは真逆である。
上等なワインを上品なグラスへ、ロウソクの橙色を混ぜ込みながら、美咲が静かに注いでくれる。
蝋燭の灯りに照らされた赤ワインの色はどうだ?
化粧をしていない、美しい美咲の肌の色は?
「赤い色……」
美咲の行動に僕は抵抗しない。
「F熱はね、潜伏期間が1年。発症した後あと自然に治癒を待つなら2年がかかるわ。他のウイルスとの合併症がなければだけれど」
ときどき美咲の髪が僕の顔を覆い尽くすから、くすぐったくてうっとおしい。
「貴方の初めての人は?」
美咲はグラスをつまんだまま僕の上にいる。
「君じゃないか……」
分かりきった事を聞かれるのは、良い気持ちでは無い。
だから僕は紗智を選んだのかもしれない。
「あ、聞こえた。貴方は私と紗智を秤にかけていたのね」
唯一の灯り。土産物の蝋燭は出鱈目だった。
早々と芯が倒れ、それが蝋の池に沈もうとしている。
反論はしないよ。今日は本当に助けられたんだから。
「この国はボロボロになるわ。外出禁止令は少なくとも2ヶ月は続くでしょうから」
終わり間近の蝋燭の炎が、一瞬だけ大きく明るく輝いた。
「あのさぁ……」
僕は唇を美咲に塞がれて、次の言葉を飲み込んだ。
それからの時間は淫らに過ぎた。
ようやく服を着た美咲はスマートフォンの灯りを頼りに、箪笥の引き出しを開け何かを探している。
「翔くん、ロウソクをちょうだい」
「もう消えちゃうよ、これ」
青い縞模様のティーカップの中で、か弱く揺れている小さな炎。
なので真っ白い壁では、僕の形が影絵をする。
「貴方と紗智への結婚祝いよ」
近眼の美咲は3段目の引き出しを覗き込み、僕とロウソクの炎もそこを覗いた。
沢山の写真がある。
球技大会、修学旅行、合唱コンクール、水泳大会、遠足……
その全ての写真の中に僕がいる。
「難儀をしたのよ」
美咲の指先が茶色い硝子のアンプルを見つけた。
「新型の病気はね、F熱に感染した体に風邪のウイルスが入る事で進行するの。F熱だけのワクチンなら2年も前に試作されていたわ、それがこれ」
美咲はアンプルを僕のズボンのポケットに入れた。
「外出禁止令と言っても、帰宅や食料の買い出しは許されるだろうからワクチンは紗智にあげて。C組の田中さんが看護師をしているから私が接種を頼んどいてあげる」
「あのさ……」
僕の疑問を、美咲の唇がまた塞いだ。
美咲の唇が離れると、疲れたロウソクは燃え尽きた。
和室の窓から月の光が射し込んで、一筋の細い煙は藍色に染まる。
「大丈夫、F熱が進展しても死ぬことはそんなにないから」
「だから……」
乱れ始めた僕の呼吸が、美しい煙の糸をかすかに揺らす。
ゴホッ
美咲がまた低い咳をした。
不快な響き。
「あのさ、アンプルって1つだけ?」
その問いに、美咲はくるりと背中を向けた。
細い背中。
「1つだけよ。当たり前じゃない、貴方にはもうワクチンなんて不必要な物なんだから」
僕は何かに合点した。
指の先から全ての力が抜けるようで物悲しい。
「少しだけワガママになるだけよ。食べて寝てを繰り返せば良いの」
───こういう時、頭の中が白くなるとは本当のようだ。
そして成る程、月はやはり物分かりがいい。
透明な光が全ての音を消して、僕の心が後悔を始めることを止めてくれている。
ゴホッ
おそらく寝室へ行ったのだろう。
美咲の低い咳の音がまた、淡い月明かりをすり抜けて届いた。
完
F熱
余白も文字だと考えます。