ミチノクノ華
ミチノクノ華
7:30pm
待っていた市バスがようやくロータリーの向こうに現れる。
並んでいた人たちが、次々とバスに乗り込んでいく。
あんなこと、言わなくてもいいじゃないか。
田中愛美はさっきからずっと同じことを考えている。
あんな、あんなひどいこと。
バスに乗り込む。
運よく一人掛けの席が空いていたので、
そこに腰をおろす。
バスが発車する。
観光シーズンなので京都駅はいつもより人が多い。
バスがゆっくりとロータリーを回って、
烏丸通りへと向かう。
あんな、あんなひどいこと、なんで言うんだろう。
愛美は鞄の中からごそごそと音楽プレーヤーを取り出す。
イヤホンのコードがぐちゃぐちゃに絡まっている。
もうっ。
ひとつひとつ丁寧にそれをほどいていく。
バスが有名な大きな寺の前を通過する。
この辺になると、人はまばらだ。
「愛美ちゃん、よく聞いて。
君とはもうエッチできない。
勃たないんだ」
さっき言われた言葉が頭の中でオーバーラップしてくる。
屈辱的だった。
悔しい。悔しい悔しい悔しい!
確かに去年より5キロも重くなった体重のことは認める。
お腹まわりもやばいことになっている。
でも・・・・
バスが五条通りへと入っていく。
でも、でも、あんなひどい言い方って、あるだろうか。
ほどけきらないコードをそのままに、
愛美は音楽プレーヤーで志麿参兄弟を探し出す。
もう一人の彼氏に奨められたアルバムに、
この1曲は入っていた。
「超渋いんだよだから!俺、前からファンだけど、
何気なく家具屋に行ったらその人達のCD置いてあって。
で、あ、いいっすよねこれー。て言ったら
まさかのご本人でさ!」
興奮気味に浅野雄一はそう話していた。
「ふーん。でも私、レゲェとかヒップホップはもう
卒業したしなぁ」
「この人たちは違うから!まなみー1回聴いてみろって!」
「えー時間があったらね」
「んだよ感じ悪いなぁ。じゃあ俺聴こ」
・・・バスの中はとても静かだ。
みんなスマートフォンを片手に、能面みたいな顔で
なにかを見ている。
本を読んでいる人もいる。
窓の外を眺める。
多くの車が、みな同じ方向に向かって走っていっている。
みんな、家に帰るのだ。
それぞれの家族が待つ、家へ。
そんなことを思う。
曲を「ミチノクノ華」に合わせる。
静かなイントロが流れ出す。
ふいにこみ上げるものがあって涙が静かに頬をつたう。
あんな言い方。しなくってもいい。
傷つけるつもりはないからと前置きはしたけど、
私は十分に傷ついている。
人は自分の考えもしないところで
他人を無意識に傷つけてしまっている。
私もそうしないように努めてはいるが、
傷つけてしまうこともある。
・・・のり君とはもう終わりだ。
6つ年上の彼はとにかく優しかったが
いつも子どものことを考える、優しいパパだった。
ギターが好きだった。
別れよう。
曲が終わってしまったので1曲リピート設定にし、
もう一度再生ボタンを押す。
静かなイントロが流れ出す。
【今日も安らかに眠れますように。
今日昇ったおてんとさんと、
今日食った飯と、
今日出会ったあなたに感謝します。
おおきに】
涙が流れ出す。
今度はうまくいくと思ったのに。
バツイチでもいい。
結婚できると思ったのに。
こんな風に終わりがくるとは思わなかった。
こんな風に屈辱を受けるとは思わなかった。
雄一からラインの通知が届く。
「今日家いっていい?」
運転手が次のバス停をアナウンスする。
降車ボタンを鳴らす。
静かにバスが降りる停留所に到着する。
自分のすぐ目の前に座っていた老人が
杖を軸によっこいしょと立ち上がる。
ゆっくとした動作にやや苛立ちを感じながら
愛美はじっと座って老人が立ち上がりきるのを待っている。
その脇を乗客がすり抜けながらバスを降りていく。
やっと立ち上がった老人の脇を愛美もすり抜けていく。
いつまでも待てないの、人は機嫌でできているところもあるから。
そう老人に心で詫びながら愛美はバスを降りる。
むっとした暑さを全力で体に溶かしながら
愛美はスーパーの光の中へ吸い込まれていく。
ミチノクノ華
ツイッターで志麿三兄弟のミチノクノ華で小説書けるわーてつぶやいたらご本人公式からまさかのリプがきて、じゃあ書いてくださいって言われて出来た作品。
ツイッター神だわ。
夜のバスで私はいつもこんなことを考えながら乗ってます。