ペチカの黒い羊

「今日はもう寝なさい」

 そう母親に言われてとりあえずベッドにもぐりこんだものの、ペチカは目が冴えてとても眠れそうにありませんでした。

「たぶん、まだ大丈夫だから」

 父親はそう言いました。でも、ペチカには予感があったのです。だからは眠るわけにはいきませんでした。怒られるかもしれない。そう思いながらも、ペチカはジッとしていられず、そっとベッドから抜け出しました。すでに真夜中。真っ暗な家の中はいつもなら怖くてとても一人では行動できませんが、今はそれも気になりません。一目散に羊小屋へと駆けていきました。

 羊小屋にやってきたペチカを見て、父親も母親も目を丸くしました。まさかこんな真夜中にまだ起きているなんて、一人でここまでやってくるなんて思ってもみなかったからです。しかし彼らはそんなペチカを叱りはせず、やさしく抱き寄せました。

「予感がしたの」

 胸に抱かれたペチカは、その温もりを感じながら母親の顔を見上げました。

「絶対今日、この夜に生まれるってわかったの」
「そうか。ペチカは賢いな」

 父親はそう言ってペチカの頭を撫でました。視線の先には一頭の羊がいます。ペチカの予感は当たっていました。彼らは羊の出産を手伝うためにここに来たのです。

「父さんは明日だと思っていたよ。でも寝る前に見に来たら今にも産まれそうだったんだ。だからあわてて準備したんだよ」

 ペチカは得意げに笑いました。そしてもう一度言いました。「私にはわかっていたの」と。

 そのとき、ペチカのそばにやってきたものがいました。牧羊犬のウォルターです。全部で5匹いる牧羊犬の中で一番ペチカに懐いていました。

「お前も心配なの?」

 ウォルターの頭を撫でるとクゥン、と甘えた声を上げました。ペチカはウォルターを抱え込むように抱き、側に座りました。

「いつ生まれるの?」
「もうすぐだよ」

 ペチカの問いに父親が答えました。ペチカはウォルターを撫で、ペチカの頭を母親が撫でました。母親の柔らかい手の温もりを感じ、ペチカはとっても幸せな気持ちになりました。

「本当に眠たくないの?」
「うん。全然!」

 そう答えたペチカでしたが、母親に抱かれ頭を撫でられているとなんだかいい気持ちになってきて、いつの間にか寝てしまったのでした。


「ペチカ、起きて。もうすぐ生まれるよ」

 体を揺すられ、目を開けたペチカは自分がどこにいるのかわかりませんでした。寝ぼけまなこをこすっていると、ようやくどこにいるのか、なぜここにいるのか思い出しました。そして思わず「あっ!」と大きな声を出してしまい、唇の前に人差し指を立てた両親から「シーっ」とたしなめられ、あわてて口を塞いだのでした。

「おとうさん、もう生まれちゃった?」

 なるべく小さな声でペチカは尋ねました。もしもう生まれていたら、そう考えるとペチカは今にも泣きそうになりました。でも、

「大丈夫、まだだよ。でも、もうすぐ生まれるだろうから、静かにね」

 父親にそう言われたペチカは再び口を塞ぎ、こくこくとうなずきました。それを見て両親ともニッコリと笑いました。

(よかった。まだ生まれてないんだ)
 
ペチカは心底ホッとして、そうすると力が抜けてきて、母親に寄りかかりました。まだ眠気が残っていたのです。母親はペチカの肩をそっと抱きました。心地良い温かさにまたまぶたが重たくなってきました。

「ペチカ、いよいよ生まれそうだよ」

 頭がカクン、と落ちたときでした。父親が小さく、でも興奮した声で言いました。ペチカは一気に眠気が吹き飛び、輝く瞳で羊のほうを見ました。

「どこっ?」

 興奮を抑えきれず、つい大きな声が出てしまいました。叱られるかと思いましたが、どうやら父親も母親もそれどころではないようです。本当に出産が近づいていました。ペチカも息を呑んで見守ります。

 羊のお母さんは先ほどから立ったり座ったりを繰り返し落ち着きがありません。周りの羊たちも心配そうに鳴いています。ペチカも心配でたまりません。

 真剣に羊の様子を見ていた父親が立ち上がり、そっと羊に近寄りました。横から支えるように羊を抱き、おしりのほうを確認します。

「がんばれ。もう少しだ」

 父親の声に、ペチカも祈りました。がんばれ。がんばれ。がんばれ。がんばれ。

(あっ)

 そうペチカが思った時には鼻の先が出ていました。それからすぐに頭と前足が見え、そしてするりと全身が抜け出てきました。

(生まれた!)

 思わず出そうになった声をどうにか押さえ、ペチカは母親に抱きつきました。母親もペチカを抱きしめます。見上げると微笑み返す顔が見えました。

 父親が子羊の鼻の辺りを拭いてあげます。お母さん羊も子羊をぺろぺろと舐めてその体を綺麗にしていきます。

 生まれてから10分くらいでしょうか。なんと子羊が立ち上がろうとしています。生まれてからこんなに短い時間で立ち上がるなんてできるわけがない、とペチカは思いました。実際、子羊は立ち上がろうとしては何度も転び、今にも怪我をしてしまいそうです。心配で、父親を見ましたが、父親は何もしようとはせず、見守っているだけです。

「おかあさん・・・」

 心配そうに見上げてくるペチカに母親はニッコリと笑いかけました。

「大丈夫よ、ペチカ」

 二人ともまったく心配している様子はありません。そんな二人を見てペチカも少し安心しましたが、心配が消えたわけではありません。けれどもペチカには心の中で応援し、見守ることしかできませんでした。

 何度目の挑戦だったでしょうか。ついに子羊が立ち上がりました。前足と後ろ足を懸命に突っ張って、震える足に力を入れてどうにかそのままの姿勢を保ちます。

(がんばれ、がんばれ、がんばれ!)

 ペチカは何度も心の中で叫びました。その祈りが通じたのでしょうか。こんどは倒れることなく、それどころか歩き出したのです! 不確かな足取りでしたが確な一歩を踏み出しました。

「!」

 ペチカは父親の、母親の顔を見ました。どちらの顔もうれしそうに微笑んで、静かにうなずき返します。

 しかし父親はすぐに視線を子羊に戻しました。母羊が優しく寄り添います。子羊はそのお腹の下に頭を潜り込ませ、おっぱいを飲み始めました。それを見て、父親がほっと息を吐き出しました。

「これで一安心だよ、ペチカ」

 父親の手がペチカの頭の上に乗せられました。

「よかったわね、ペチカ」

 母親がペチカの手を握りました。どちらも、じんわりと温かく、やさしい手でした。

「あらあら、ペチカったら」

 気がついたときには、ペチカは大粒の涙をこぼしていました。もちろん、悲しかったわけではありません。子羊の出産に感動したのか、自分に添えられた手に安心してしまったからなのか、本当のところはペチカにもわかりません。
 涙で滲んだ視界の中の寄り添う二匹の羊を見ていると、涙は止めどなく落ちてくるのでした。

 春を間近に感じさせる太陽の光の下で、子羊はすくすくと育っていきました。子羊は健康そのもので、ほとんど毛の生えていなかった体も徐々に羊らしい体毛に覆われていきました。ペチカは時間さえあればその子羊に寄り添い、一緒に昼寝をし、牧場を駆け回りました。

 ただ、ペチカには気がかりなことがありました。その子羊は他の羊とは少し違っていました。他の羊の毛は白いのに、その子羊の毛は黒かったのです。

 そのことに気がついたのは子羊が生まれてから4日目くらいだったでしょうか。普通なら毛が生え始めるころから徐々に白っぽく見えてくるはずの体が、いつまで経っても黒いままでした。そのことに疑問を感じたペチカが父親に告げ、発覚したのです。

 父親は大層落ち込み、また恐れました。ペチカたちの住む村では黒い羊は悪魔の生まれ変わりと言われ、すぐに殺さなければ災いが降りかかると言い伝えられていたのです。

 父親は悩みました。本当ならすぐにでも殺してしまいたかったのですが、ペチカは黒い羊のことをかなり気に入って、片時も離れようとはしません。もしその羊を殺した、なんて知ったらどんなふうに思うでしょうか。それが心配で、なかなか踏ん切りがつきませんでした。

 ある夜、父親は母親に相談しました。「どうすればいいと思う?」

 母親の答えはこうでした。「かわいそうだけど、殺すしかないでしょう?」

 人に知れたらどんな目にあうかわかりません。

「そうだな・・・。やはりそうするしかないか」
「ええ。でもペチカにはなんて言ったらいいのでしょう?」
「……うん。病気で死んだことにでもするよ」
「そうね……。そうするしかないでしょうね」
「ああ。そうと決まれば、早いほうがいい。明日の朝早く、ペチカが起きる前に」
「ええ。そうね」


 偶然扉の影で話を聞いていたペチカは、いても立ってもいられず部屋の中へ飛び込みました。驚く父親に駆け寄り、涙ながらに訴えました。

「止めて、お父さん。あの子を殺さないで」

 ペチカに見つめられ父親は苦しげに顔を歪めました。父親も、ペチカの気持ちは痛いほどよくわかっています。しかし、だからといって止められるほど軽い問題ではなかったのです。

「ペチカ、かわいそうだけど、それはできないんだよ」

 それを聞き、ペチカは泣き、怒り、父親の胸を両手で何度も叩きました。お父さんのバカ、嫌い、嫌い、大っ嫌い!

 やがて泣きつかれたペチカをベッドに連れて行き、両親とも明日に備えて眠りにつきました。


 目が覚めたとき、ペチカはひどく慌てました。父親に、あの子を殺さないように頼んでいたはずなのに、今は布団の中にいました。いつ眠ったのか全然思い出せません。

 結局父親は、殺すのを止めるとは言ってくれませんでした。「明日の朝、ペチカが起きる前に」そう言っていた声がよみがえります。幸い窓の外はまだ暗く、朝が来た様子はありません。

 急がなきゃ。

 まだ暗い部屋から寝間着のままペチカは羊小屋へと向かいました。夜の闇も怖くはありませんでした。それよりも怖いことがあるからです。急がなければ、その怖いことが起きてしまいます。おじけている時間はありませんでした。

 外に出たペチカの足元をそっと冷たい風が撫でていきました。暖かくなってきたといっても、夜と朝の境目のこの時間は冬の気配を色濃く残していました。ブルッと震える体を励まして、そっと家の扉を閉め、羊小屋へと駆けていきます。彼方の景色が、わずかに光で縁取られていました。

 もしかしたら――。

 そんな考えが頭をよぎり、泣きそうになるのをこらえて走りました。


 羊小屋の中はまだ暗く、羊たちも眠りについていました。父親が来ている様子はありません。そのことにホッと息を吐くと、緊張まで一緒に解けてペチカはぺたんとその場に座ってしまいました。そのときのわずかな音に気づいたのでしょうか。近くにいた羊が起きて、鳴き声をあげました。すると他の羊たちも起きだしてどんどん鳴き声をあげ始め、たちまち大合唱になりました。これでは家のほうまで鳴き声が聞こえてしまいます。すぐに父親が来てしまうでしょう。座り込んでいる場合ではありません。ペチカは疲れた体に力を入れて立ち上がり、あの黒い羊を探しました。しかしまだ暗い中、黒い羊を見つけるのは容易ではありません。

「グレタ、どこ?」

 名前を呼んでみても返事はありません。いや、返事をしているのかもしれませんが、他の羊の鳴き声に紛れてしまって聞き取れません。どうしたらいいのかわからず、おろおろと周囲を見渡すペチカの手の甲に、何か生暖かい感触がありました。

「きゃっ!」

 びっくりしてそちらを見ると、なんとそこには黒い羊、グレタの姿がありました。グレタは落ち着いた様子でペチカのほうをクリクリした目で見つめています。

「グレタ! いい子ね」

 グレタの首をやさしく撫でるとグレタもペチカに擦り寄ってきました。いつまでもそうしてじゃれ合っていたかったのですが、そんなことをしている場合ではありません。

「グレタ、時間がないの。とにかく私についてきて」

 グレタを柵の出入り口まで誘導し、すばやくそこを開け、グレタだけを導きました。グレタは素直にそこから出てきました。すばやく柵を閉め、ペチカはグレタを伴って羊小屋を抜け出しました。家のほうを見ると、部屋の灯りが点いていました。今にも玄関の扉が開く気がして、ペチカは走り出しました。

「行くよ、グレタ」

 そう言って走り出したペチカの後を、グレタと、もうひとつ、影が付いてきました。

「ウォルターっ」

 思わず声が大きくなるのをどうにか押さえ、ペチカはもう一度つぶやきました。

「ウォルター。来てくれてありがとう」



 程なく夜が開け、太陽が顔を出しました。朝の風が草花のさわやかな風を運んできます。春の匂いがありました。程よく冷たい風がペチカの火照った頬を冷やしていきます。さすがに走り疲れて、ペチカはその場に座り込んでしまいました。

 家から程近い小山の中腹の手前、牧場の様子がよく見える開けた場所から少しだけ草木を分け入ったところに洞窟がありました。今、ペチカたちはその前にいます。洞窟といっても、直径2メートル、深さは5メートルほどの、洞窟というよりは洞穴と言った感じの場所でした。
以前からペチカはここでよく遊んでいました。子供なら誰でもひとつは持っている秘密の隠れ家です。だからグレタを隠すことを考えたとき、一番にこの場所のことを思い出しました。

 洞穴の中からペチカはぼんやりと外を見ていました。丸く切り取られた景色は明るく、太陽の光を浴びて暖かそうでした。体が徐々に冷えてきて、最初は心地よかった地面のひんやりとした感触も今はただ冷たいだけでした。


 なんてことをしてしまったんだろう。


 ペチカは怖くなって、自分のひざを抱きしめました。もしかしたら自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないだろうか。扉の向こうの両親の姿。話し声。何か重大なことを話していた、というのはペチカにもわかりました。ただあの時は、グレタが殺されると思い、それどころではなかったのです。他の事を考える余裕なんてありませんでした。

 しかしこうして少し時間が経って、改めて思い出してみるとなんだか取り返しがつかない過ちを犯してしまったのではないか、という不安や恐怖がどんどん大きくなって、体が震えだすのを止めることができませんでした。

 クゥン、とウォルターが鳴き、ペチカの顔をペロリとなめました。それから自分の体をペチカの体にしっかりと寄せました。その温もりが、ペチカの体をじんわりと励ましていきます。

 メエェ、と鳴き声がしました。そちらを見るとグレタがいました。グレタも心配そうにペチカを見つめています。ペチカは少しだけ微笑を返しました。

 ペチカの胸の内からとんでもないことをしてしまった、という思いが消えたわけでも、恐怖が消えてわけでもありません。しかし、“悪いことをしてしまった”という気持ちはまったくありませんでした。むしろ、“それでも自分は間違っていない”という気持ちが強くありました。グレタの姿を見て、それがハッキリとわかったのです。

 なんとしてもグレタを守りたい。

「ねえグレタ」

 ペチカはグレタに語りかけます。グレタはペチカをジッと見つめています。
「ねえグレタ。グレタはここにいて。出てきちゃダメよ。誰かに見つかってしまったら、あなたはきっと捕まって、」

「――捕まって、殺されてしまうから。だからグレタ。いい子だから、ここにいて。ね?」

 グレタがペチカの言葉を理解したかどうかはわかりません。それでもグレタは小さく「メエ」と鳴きました。ペチカにはそれで充分でした。

「うん。いい子ね。じゃあ、ここにいてね。私は戻らなくちゃいけないの。そうしないとお父さんや、お母さんが探しに来てしまうから。いいグレタ。お父さんお母さんが来ても、出てきてはダメ。誰が来てもここにいて隠れているのよ。ここなら、この暗闇がお前を守ってくれるから。絶対に出てきてはダメよ」

 グレタはまた「メエ」と鳴きました。

「いい子ね。グレタ」

 そしてペチカは立ち上がりました。早く帰らないと本当に両親が探しに来てしまいます。

「また来るわ、グレタ。それまでおとなしくここで待っててね」

 返事を待たずにグレタは歩き出しました。洞穴の入り口まで行ったところで振り返ると、グレタはちゃんと洞穴の奥にいました。ウォルターもなぜかグレタのそばにいました。

「ウォルター。あなたは私と一緒に帰るのよ」

 本当は、グレタだけをおいていくのは心配なのですが、ウォルターがいなくなってしまうと、今度はウォルターを探しに誰かが来てしまいます。そうなっては意味がありません。グレタだけなら探されることはない。ペチカはそう考えていました。

「ウォルター!」

 ペチカがもう一度呼ぶと、ウォルターはタタッ、とペチカのそばに駆けてきました。
「行くよ。ウォルター」

 そして洞穴から離れていくペチカの後を、今度は素直についてきました。その様子を洞穴の奥でグレタはジッと眺めていたのでした。

「ペチカ! どこに行っていたの?」

 昼前に戻ってきたペチカを母親が見つけ、抱きしめました。

「心配したのよっ! どこに行っていたの?」
「……ごめんなさい」

 ペチカに言えるのはそれだけでした。どれほど強く抱きしめられ、涙を見せられても、それ以上のことは言えませんでした。

 足音が聞こえました。見上げると、そこには父親が立っていました。その顔を見た瞬間、ペチカはぶたれる! と思い目を閉じました。しかし、いつまで経ってもその気配はなく、恐る恐る目を開けたときに大きな手がそっと頭の上にのせられました。

「心配したんだぞ、ペチカ」

 もう一度ペチカが見上げると、困ったような笑みがありました。

「ごめんなさぁい」

 ペチカの髪の毛をくしゃくしゃっとかき混ぜてその手は離れていきました。

「もう、勝手にどこかへ行ったりするんじゃないぞ」

 ペチカが「うん」とうなづくと、「よし」と笑って父親はその場を離れていきました。その先にはデニスの父親、この村のまとめ役がいました。父親と何かを話した後、その人は帰っていきました。父親はその後ろ姿に深々と頭を下げていました。その姿はなぜかペチカの胸に深く刻まれました。


 その後の昼食のときにペチカは父親から尋ねられました

「ペチカ、グレタはどうしたんだい?」

 その問いは、当然投げかけられるものとペチカも覚悟していましたので、

「・・・逃がした」

 そう答えました。隠した、と答えるとその後に「どこに?」と追及されることはわかっていました。でも、これなら大丈夫。そう思ってのことでした。

「逃がした?」

 父親の顔が、目がペチカを疑うように覗いていました。ペチカはその目から逃げることができませんでした。ドキドキと心臓が激しく鳴って、今にも胸が張り裂けそうでした。

「本当に?」

 そう聞かれて、思わずペチカは息を呑みました。バレてる! そう感じました。溢れてきそうになる涙をこらえ、懸命に口を閉じ、ペチカはどうにかうなづきました。そんなペチカを父親はしばらくジッと見ていましたが、やがて「そうか」とつぶやきました。

「ペチカがそう言うのなら、そうなんだろうね」

 その瞬間、ペチカの心にとめどない罪悪感が押し寄せてきました。今すぐ「ごめんなさい!」とすがりつき、泣き出したい衝動にかられました。でも、そうするとグレタの居場所を言わなければなりません。そうすれば、グレタはやはり殺されてしまうでしょう。それだけは、絶対に避けなければなりません。ペチカは、グレタを絶対に守ると決めたのです。だからペチカは涙が出ないようにジッとこらえ、それらが過ぎ去っていくのを待ちました。

 父親も、母親もそんなペチカにそれ以上声を掛けず、静かに昼食は終わったのでした。


 しばらくはグレタのところに行かないほうがいい。両親に心配をかけた後ろめたさや、嘘がバレしまうのを恐れてそう考えたペチカでしたが、時間が経つにつれてどんどん気になってしまいます。ちゃんとあそこにいるだろうか。お腹を空かせていないだろうか。誰かに見つかっていないだろうか。狼や野犬に襲われていないだろうか。心配事は後から後から湧いてきます。

 そして3時の鐘がなったときでした。とうとうペチカは耐え切れなくなって、そっと家を抜け出しました。誰にも見られないように慎重に、哺乳瓶を抱きかかえ小走りにかけていきます。 

 そして、その後姿を見守る視線があることにペチカは気がつきませんでした。

「ウォルター、行け」

 その声に、ウォルターは確認するように仰ぎ見た後、そっと駆け出したのでした。


 その日の夜、ペチカが眠りについた後のこと。

「あれなら、大丈夫だろう。あんな場所ではそう長く無事ではいられない」
「でも、その前に誰かに見られたりしたら」
「うん……。でも、それも大丈夫だろう。普段誰かがあそこに行くようなことはほとんどない」
「それなら、いいのですけど……」

 ランプの炎が二人の足元に影を落としていました。どちらも黙ってうつむいていて、その間に中のロウソクはジリジリと燃えていきます。

「ペチカは――」

 母親がポツリとつぶやきました。

「ペチカは、悲しむでしょうね」
「そうだね……」

 二人の姿は、そのまま闇に飲み込まれてしまいそうなくらい沈んでいました。

「でも、しかたがないんだ。どちらにせよ、黒い羊は死なせる他ない」
「そうですよね……。しかたがないんですよね」

 そうだ、しかたがない。しかたがない。しかたがないんだ。

 二人の胸の内にはペチカの泣き叫ぶ姿が浮かんでいました。その姿に向かって、何度も何度もそうつぶやいたのでした。



 翌日、家から抜け出し周囲をうかがいながら小走りに駆けていくペチカの姿がありました。


 その翌日、やはり家から抜け出しかけていくペチカの姿がありました。それを見つけた父親が眉間にしわを寄せた険しい表情で見つめていました。昨日の夜遅く、父親は狼の遠吠えを聞いていました。

 戻ってきたペチカの様子を観察していた父親は、また眉間にしわを寄せました。なぜなら、ペチカの様子に変化がないからです。青ざめ、泣きはらして帰ってくると思っていたのに、そうではなかったのです。

 父親の胸の内をザラリとした不安が撫でました。

 このまま放っておいてもいいのだろうか、と。


 その予感は的中してしまいました。

 ここ数日のペチカの様子を見ていたものがいたのです。村のまとめ役の息子、デニスでした。羊用の哺乳瓶を隠すように持って山を出入りするペチカの姿を不審に思っていたのです。この日、デニスは山に入っていくペチカの後をつけていきました。そしてペチカが洞穴に入ったのを見て、そこに何かがあるのだと確信しました。

 ペチカが帰った後、デニスは洞穴に入ろうとしました。初めは暗くて中の様子がよくわからず怖じけていたのですが、やがて目が慣れ、中の様子がぼんやりとでもわかるようになり、抜き足差し足、そっと奥へと進んで行きました。
そしてその奥で、デニスはグレタを見つけたのです。

 黒い羊は悪魔の生まれ変わり。デニスは短く悲鳴を上げ、その場から逃げ去るように駆けていき、すぐさま父親に報告しました。

 そのことはあっという間に村中に知れ渡りました。すぐに主だった村の有力者がデニスの父親の元に集まりました。話し合うまでもありません。皆の意見は「早くそいつを殺そう!」ということで一致していました。有力者たちはそのままペチカの家へと向かいました。


 大勢の大人たちがペチカの家へとやってきました。その中にはデニスの姿もありました。そして乱暴に扉を叩いてペチカの父親の名前を呼びました。その声は自分の部屋に居たペチカの耳にも届きました。ペチカはすぐにグレタが見つかったのだと悟りました。

 そっと扉を開け、外の様子を伺います。漏れ聞こえる言葉からペチカは自分の考えが正しいことを知りました。迷っている余裕はありません。村人たちに連れられて父親が出て行ったのを見て、ペチカも裏口から外へ飛び出しました。そして秘密の近道からグレタの元へと急ぎました。小さな獣道のようなもので険しく、グレタに会いに行くときには使っていませんでした。だからデニスは知りません。大人達も、ペチカの両親ですらもしかしたら知らないかもしれません。この道を使えば普通にあの洞穴に行くよりもかなり早く着きます。大人達の先回りができるはずでした。


 案の定、ペチカがそこに着いたときにはまだ誰の姿も見えませんでした。

「よかった……」

 間に合った。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、すぐにグレタを移動させないと見つかってしまいます。

「グレタ、私よ」

 ペチカはグレタを呼びました。しかし返事がありません。不安に駆られ、洞穴の奥へと進もうとしたとき、足元からすべり出るようにペチカの前へやってきた影がありました。

「ウォルター! あなた、いつの間に――」

 本当に、いつの間にここに来ていたのでしょうか。名前を呼ばれたウォルターはペチカのほうを振り返り、側によって来
ました。そしてその手をぺろりとなめます。

「もう、ウォルターったらっ」

 ペチカの張り詰めた心が少しほぐれました。ウォルターの頭をそっとなで、グレタは洞穴の奥へと進みました。
グレタはそこに確かにいました。闇に溶け込むように静かに体を横たえ、寝ているように見えました。

「グレタ、寝てるの?」

 ペチカの声にグレタが反応しました。顔を上げ、何事かと問うようにペチカの顔を見ました。

「早くここを出ないといけないの。でないと――」

 そのとき、ウォルターが何かに反応しました。洞穴の明るいほうをジッと睨んでいます。何事かとペチカもそちらを見ます。

遠くでざわめく気配がしました。村人たちがやってきたのです。

「グレタ、急いで。早く!」

 しかしグレタは焦るペチカの気も知らず、のっそりと立ち上がり、メエ、と一声鳴きました。

「シーっ! 静かに」

 唇にピンと立てた人差し指を当ててグレタをたしなめます。グレタはわかったのかわからないのかわからない顔でただペチカを見つめ返すばかりでした。

「ほらっ。急いでっ」

 グレタの首の辺りを抱きかかえるようにしてペチカは歩き出しました。ウォルターはその先を先導するように歩いています。一刻も早く遠くへ行きたいペチカと、自分のペースを崩さな
いグレタ。二人の気持ちはちぐはぐなままで、一向に歩み寄りを見せません。そんな二人をウォルターが時折心配そうに振り返ります。

「ねえグレタ、もっと早く歩いてよ。そうしないと大変なことが起こるんだから」

 それでもグレタはのんきなもの。近くをひらひら飛んでいる蝶が気になる様子。ペチカは一人でやきもきしていました。

 でも、それは仕方のないことでした。グレタにはこれから起ころうとしていることなど知る由もないのです。

 それはちょうどペチカたちが洞穴からお日様の下に出てきたときでした。

「いたぞっ!」

 鋭い声に振り向いたペチカの目に大勢の大人たちが飛び込んできました。その雰囲気は幼いペチカでもわかるほど異様に殺気立っていて、つま先から頭の先へとムカデが這っていくような恐怖がペチカを襲いました。足がすくみ、すぐにでも逃げ出さなくてはいけないのに足がいうことを利いてくれません。

 そんなペチカを守るようにウォルターが進み出ました。頭をやや下げて、鋭い唸り声を上げています。

「ウァウウァウ!」

 その声に、村人たちの動きが一瞬止まりました。逆に、ペチカには勇気になりました。

「グレタっ。走って!」

 ペチカは勢いよくグレタのおしりの辺りを叩きました。グレタが「メエェェェェ」と雄叫びを上げ走り始めました。グレタもそれに続き懸命に走りました。しんがりをウォルターが勤めます。

 グレタも、ウォルターも山道をあまり苦にしませんでした。しかし、ペチカは違います。デコボコとした道は容赦なくペチカの体力を奪いました。追ってきているのは大勢の大人です。「逃がすな!」「急げ!」「捕まえろ!」そんな声がペチカたちを捕らえようと迫ってきます。その恐怖はただでさえ多くないペチカの体力を、水面につけた新聞紙のように吸い取っていきました。逃げ切れるはずはありません。

「あっ!」

 声を上げると同時にペチカは木の根に足を取られてこけてしまいました。倒れた拍子にあちこち擦り剥き、あごの辺りにも傷ができて血が滲んでいました。すぐにウォルターが駆け寄り、心配そうに鼻先を近づけました。

「ペチカっ!」

 悲鳴のような声は父親のものでした。しかしそれを遮るように村人たちがペチカと父親の間に壁を作りました。村人たちはペチカとウォルター、その少し先のグレタを取り囲むように移動していました。ペチカはあちこち痛むのも気にせずにグレタのそばへ這っていきました。そして立ち上がり、村人たちに向かってグレタを庇うように両手を大きく広げました。

「いやっ! 止めて! 来ないでっ!!」

 ペチカの悲鳴のような叫びがこだましました。ウォルターもペチカの足元で唸り声を上げています。村人たちがその気迫に押されたように動きを止めました。

「ちょ、ちょっと、通してください」

 村人の間を掻き分け、父親がペチカの前までやってきました。よく見ると、その少し後ろに母親の姿も見えます。

「ペチカ、馬鹿なことは止めてこっちに来なさい」
「いやよ!」

 迷いなくペチカは叫びました。

「だって、グレタ、殺しちゃうんでしょ!?」
「ペチカ、そんなことしないから、こっちに来なさい」
「いや! そんなのうそに決まってる。私ちゃんと聞いたんだもん!!」
「ペチカ!」

 父親が鋭く叫び、ペチカの腕をつかもうとしました。しかし、その間にすばやくウォルターが立ちふさがりました。
「ウォルター! お前まで――」
「どきなさい」

 それはどちらかといえば静かな声でした。しかし、地響きのように底から迫ってくるような迫力がありました。ペチカが怯えた目で声のしたほうを見ると、デニスの父親が歩いてきていました。彼が歩く少し先の村人がサッと道を開け、その間を悠々と進んできます。

「グレゴールさん。大丈夫です。貴方の手を煩わせるような――」

 デニスの父親、グレゴールにちらりと視線を向けられると、父親はそれきり言葉を失ってしまいました。グレゴールはペチカの前に進み出ました。二人の間にはウォルターがいました。威嚇するように低く唸るウォルターをグレゴールは何の躊躇いも無く蹴り飛ばしました。ウォルターの悲鳴に、ペチカの悲鳴が重なりました。運悪く岩にぶつかったのか、ウォルターはそれきりピクリとも動きませんでした。

「ペチカ、とか言ったかね?」

 名前を呼ばれ、目の前のグレゴールを見ました。ペチカの体は恐怖で震えていました。

「君の後ろにいるのが何か君は知っているのかね?」

 鉛の玉のように冷たく鈍く光る目に見据えられ、ペチカの体は容易に動いてはくれませんでした。それでもペチカはなんとか首を縦に振りました。グレゴールは「ほう」とため息のような声を上げ、その口元を蔑むように歪めました。

「ではそれは何かね? 答えなさい」

 ペチカは必死に答えようとしました。恐怖で強張った口元は声を出すどころか息をするのも
苦しいほどでした。しかしペチカは負けたくありませんでした。溢れ出しそうになる涙をこらえ、震える奥歯をかみ締めて一度息を呑み、そしてグレゴールの目をしっかりと見据えました。

「シツ、シツ、――ヒ、ツジ、よ」

 それを聞き、ピクリ、とグレゴールの眉が跳ねました。いえ、ペチカの態度を見て、でしょうか。口を硬く引き締め、睨みつけるようにペチカをしばらく見ていましたが、不意に表情を緩め、グレゴールは大声で笑いました。そして村人のほうへ向き直りました。

「聞きましたか皆さん。この少女はどうやらまるでわかっていないようだ。あれのことを、まるでわかっていない。羊? あれが? まさか! あれがただの羊のわけがないでしょう! あれは紛れもなく悪魔。悪魔なのです! それは歴史が証明しています。それは皆さんもよく知るところでしょう。悪魔は退治せねばなりません!」

 それまで静まり返っていた村人が、この言葉を機にまた地響きのように声を上げ、口々に「殺せ」「殺せ」と叫び始めました。

 それを背に、再びペチカと相対したグレゴールの顔は勝ち誇ったように歪んでいました。

「さあ、退きなさい」

 その声は、その場の雰囲気を纏い、子供に抗えるはずのない強制力を持ってペチカを襲いました。それなのに、いや、それでもペチカは動きませんでした。もしかしたら、動けなかっただけなのかもしれません。しかし、涙や汗や、その他の体液にまみれながらも、ペチカは懸命に両手を広げ、グレタを守っていました。

 その態度にグレゴールが激高しました。ただの移民者の子供、それも女が自分の命令を無視し立ちはだかるなど絶対に許しがたい行為だったのです。

「どけと言ってるだろう!!」

 怒鳴りつけると同時にペチカを押しのけるように弾き飛ばしました。ペチカの小さな体が飛ばされ、ウォルターの側の地面に叩きつけられました。父親と母親、それにデニスの悲鳴が重なりました。父親と母親は村人の目も気にせずすぐにペチカの元へ駆け寄りました。

「どうやらあの娘はすでに悪魔の手先になっていたようだ。残念だが、仕方がない。こうするしかなかったのだ。だがそれもあの悪魔を倒せばすべてが終わる! さあ、今こそ力を合わせあの悪魔を打ち滅ぼすのです!」

 成り行きを見守っていた村人たちが雄叫びを上げ、グレタを包囲するように移動を始めました。もう誰もペチカのことなど気にしていません。それどころか、ペチカのそばにいた父親や母親も邪魔だとばかりに押しのけていきます。二人はペチカとウォルターを抱え、どうにかその狂乱の影響のない範囲まで移動しました。

 グレタを中心に半径約4メートルほどの距離を置いて円形の人垣ができるのにそう多くの時間はかかりませんでした。太陽は西に傾き、それを背にしたグレタの正面にグレゴールがいました。その両脇には屈強そうな男が銃を持って立っています。グレタは怯えているのか、まったく動こうとしません。鳴き声すら上げません。その様子を見て、グレゴールは、

「さあ、悪魔も観念したようだ。後は我々の手で裁きを下すだけだ」

 勝ち誇ったような声を上げたあと、スッと右手を上げました。すると、左右の男たちがグレタに向けて銃を構えました。グレタに向けているとはいえ、後ろにいる人々に弾が当たる可能性はあります。にもかかわらず、村人は誰一人としてその銃口から逃れようとするものはいませんでした。外さないと信じ、当たらないと高をくくっているのか。それとも、それを覚悟で、黒い羊を逃すまいとしているのか――。いずれにせよ、異常な精神状態であるのは間違いありません。

 グレタがその斜線上、自分の後ろを振り返り、それからまるでやれやれ、とでもいうように軽く頭を振りました。それからまた正面を向いたとき、グレゴールと目が合いました。

 その目に何かを感じたのでしょうか。グレゴールがいきり立ち、上げた手を振り下ろそうとした瞬間――、

『まったく、君たちはどうしようもない生き物だな』

 声が聞こえました。グレゴールのものでもその両隣の男でも、ましてやペチカの声でもありません。

『改めて確かめるまでもなかったかな』

 それはなんとも不思議な声でした。どこから聞こえてきているのか、方向がわかりません。まるで直接頭の中に響いているような、森の梢のざわめきよりも捉えどころのない声でした。

『本当にまったく救いようがないね』

「だ、誰だ!」

 たまりかねたようにグレゴールが声を上げました。しかしその問いに答えるものは村人の中にはいませんでした。黙って互いの顔を見合わせ、首を振るばかりです。

「は、早く名乗り出ろ! 今なら悪いようにはせん!」

 グレゴールは誰かが名乗り出てくるのを期待し、周囲を見回しました。でも結局、誰もその場から動くものはいませんでした。

 そのとき、クツクツと笑い声が湧き上がりました。そこにいる人達の足元を這い上がってまとわりつくような響きがありました。。

「何がおかしいっ!」

 グレゴールがヒステリックに叫びました。ペチカと対峙していたときのような威圧的な態度は消え、何かに怯えるように狼狽していました。

『私が誰だか、お前はとっくに気づいているだろう?』

 スッと、グレタの体が動きました。確かに足元の草を踏み分けているはずなのに音もなく、一歩、一歩、一歩。あっという間にグレゴールの目の前に移動していました。

『私だよ、グレゴール』

 グレタの口が動いていたわけではありません。しかしその場にいたものはそのとき確かにその声がグレタの声であることを確信したのです。

『愚かな人間達。とりわけ愚かなグレゴール』

 グレゴールの眉がピクピクと動きました。額には血管が浮き出て、そこから今にも血液が吹き出しそうな真っ赤な顔をしています。

『私を殺すのだろう? さあ、やるがいい』

 やれるものならやってみろ。グレタは不敵に笑っているようでした。グレゴールにも村長としての傲慢な自尊心があります。このまま何もせずに黙っているわけにはいきません。

「撃て!」

 左右の男達がグレゴールを見ました。それから互いに顔を見合わせました。その、躊躇うような仕草が感に触ったのか、グレゴールは右隣の男から強引に銃を奪い、グレタの眉間に銃口を突きつけました。

『どうした? 震えているのか? 銃口が定まっていないようだが?』

 グレタの挑発するような言葉にグレゴールは激昂しました。

「くそっ! 死ねぇ!」

 バンッ、と火薬が破裂する音が辺りに響き渡しました。誰もが起きた出来事の顛末を見守りました。

 しかしグレタはいつまで経っても倒れません。ようやくおかしい、と思い始めた村人が少しずらした視線の先でグレゴールがしりもちをついていました。銃の衝撃に耐えられず、しりもちをついたのです。銃弾は上へと逸れていきました。

『命拾いをしたな。もしその弾が当たっていればここに居るものすべてが死んでいた』

 肩で息をするグレゴールの目が見開かれて行くのを見下ろし、グレタは続けます。

『まさか、悪魔を殺して無事で済むと思っていたわけではあるまい?』

 グレゴールや村人の様子を見て、グレタは笑いました。

『本当に、おめでたい連中だ。まあもっとも真実を何も知らずにただ迷信を信じているような連中だ。仕方あるまい』

 グレタの言葉にグレゴールの表情が強張りました。うろたえた、と言ってもよいかもしれません。

「迷信? 真実? 何のことだ」

 グレタは意外そうに『もしかしてお前は知っているのか?』と聞き返しました。それに対しグレゴールは何も返しませんでした。しばらくの沈黙の後、グレタの羊の顔に蔑むような笑みが浮かびました。

『まあいい。ひとつ、聞きたいことがある。なぜお前たちは黒い羊を殺す?』

 グレタは周囲の村人たちに向かって言いました。村人たちは顔を見合わせ、その中の一人が当然のことだとばかりに言い放ちました。

「黒い羊は悪魔の化身。村に災厄をもたらすからだ」

『なぜそう考えるようになった? きっかけがあったはずだ』

「黒い羊が生まれたことは過去三度あった。そのいずれのときもその後によくないことが起こっている。一度目は水不足。
二度目は落雷による大規模な火災。三度目は竜巻。どれもこの土地の気候からは考えられないことだ。悪魔の呪いというほかあるまい?」

『それは黒い羊が生まれたから起こったことなのか?』

「そうとしか考えられまい?」

『黒い羊を殺したから起こった、とは考えられないか?』

 グレタの言葉に村人たちがざわめきました。しかしグレゴールはその意見を鼻息で吹き飛ばしました。

「そんな馬鹿なことが、あるはずない。第一最初の水不足は黒い羊が生まれた後、それを放置しておいたために引き起こされたのだぞ。殺したから、などと。馬鹿げている」

『最初の水不足は、黒い羊とは関係がなかった、としたらどうする?』

 その言葉にグレゴールの表情が凍りつきました。しかしすぐに何事もなかったかのように、

「馬鹿な。ありえない!」

 ことさら大きな声で叫びました。しかし村人の中にはグレタの言葉に耳を傾け、疑問を抱いた人もいました。そして追い討ちをかけるようにグレタは続けます。

『今、お前たちが信じている伝承は真実ではない。ある男の手によって捻じ曲げられたものだ』

「悪魔のたわごとだ! でまかせだ! 耳を貸すな!」

 グレゴールの叫びがこだましましたが、ざわめきは大きくなるばかりでした。

『私が真実を語ろう』



 昔、この村に一人の男がいました。妻と娘と三人で羊飼いとしての慎ましくも幸せな暮らしを営んでいました。

 そんな家族に試練が訪れました。日照りが続き、村は水不足に陥ってしまいました。村の多くの羊飼いたちは羊の飲み水よりも自分たちの飲み水を優先しました。その結果多くの羊が死にました。しかしそれは仕方のないことだったのです。

 しかしあの羊飼いの男、あの家族は、自分たちの飲み水を減らしてでもすべての羊が助かるようにしていました。

 その姿を見て感動した神様は、その家族にプレゼントをしました。それは世にも珍しい黒い羊でした。

 男は黒い羊が生まれたことにたいそう驚きました。そして少しがっかりしました。黒い羊の毛など売り物にならないと思ったからです。しかし、男は黒い羊も他の羊たちと同じようにかわいがりました。

 やがて雨が降り、水不足も解消されました。苦しみに耐えた男の元には多くの羊たちが生き残りました。もちろん黒い羊もです。しかし他の羊飼いたちは自分の欲望を優先したためほとんど羊が生き残りませんでした。そしてそんな村人たちは、多くの羊が残っている男のところへ「羊を分けてくれ」と頼みに来ました。男はそれを断りませんでした。個人の利益より、村の利益を優先に考えたからです。

 多くの羊がもらわれていき、何十頭といた羊は十頭程度まで減りました。それは家族がどうにか生活できるぎりぎりの数でした。そしてその中にあの黒い羊もいたのです。
 
 夏になり、他の羊と同じように黒い羊の毛を刈り、整毛作業をしていくうち、その毛の質がとても優れていることに気がつきました。そして他の羊の毛と同じように売り出したのです。

 最初の数年は黒い毛はまったく売れませんでした。それでも何度もその毛を売りに行く男は村の嘲笑の的でした。中には村の評判が悪くなるから止めろというものもいました。男は彼らに黒い羊の毛の品質の良さを説明しましたが相手にしませんでした。それでも男は諦めず信じて売り続けました。

 そしてあるとき、珍しい黒い羊毛を売っている、というのを聞きつけた物好きな貴族が男を呼びつけ、その品質を確かめました。貴族は面白半分でその黒い羊毛を買うつもりでいたのですが、その質の良さに驚き、そのとき男の持っていた黒い羊毛のすべてを買い取りました。

 それをきっかけに貴族の間で黒い羊毛は大流行し、羊飼いの男はあっという間に大金持ちになりました。

 それを見た村人たちは、手のひらを返し、男に黒い羊を譲ってくれと頼んできました。しかしこのときばかりは羊飼いの男も首を縦には振りませんでした。黒い羊は、黒い羊同士の子供でも出生率が低く貴重なこともありましたが、何よりも、それ以前にあまりにひどい扱いをしておきながら謝罪もせずずうずうしく頼んでくる村人たちにさすがに腹を立てたからでした。

 すると、なんと言うことでしょう。「あの男はケチだ」と村人たちは口々に言い、男とその家族を迫害するようになりました。そしてある夜、羊飼いの家の黒い羊が、なんとすべて殺されてしまいました。それは明らかに村人たちの犯行でした。

 身の危険を感じた羊飼いとその家族はついに村から逃げ出したのでした。

 その日の夜。その村は季節外れの雷雨に見舞われ、多くの家が落雷の被害にあいました。それはすべて羊飼いの黒い羊を殺したものたちの家でした。


 その後も、その村では大切に羊を飼っている家で黒い羊が生まれることがありました。しかしそのころにはもう、「黒い羊が生まれると村に災いが訪れる」という迷信が浸透していました。ですから黒い羊は生まれてすぐに殺されてしまいました。

 グレタが話し終えると、周囲に静寂が満ちました。小鳥のさえずりや、虫の音、草が風になびく音が爽やかに流れています。しかし、それをグレゴールの醜い笑い声が吹き飛ばしました。

「はっはっはっは。なるほど、面白い。面白い作り話だ。悪魔の与太話だ。そんなものに、私は騙されない。賢い皆はだませんぞ! そのような話を聞かせて皆を惑わせようとしても無駄だ。その話の根拠はなんだ? 無いだろう。そんな作り話を聞かせて、生き残ろうとしたって無駄だ。賢い者は騙されない。ここにいる者はだませんぞ!」

 その言葉に、村人たちが再びざわめき始めました。そうだ。騙されない。俺たちは騙されないぞ! そんな声が湧き上がりました。その様子を眺めていたグレタが静かにため息を吐きました。そう見えました。

『ならば早く私を殺すがいい』

 諦めに似た言葉を村人たちはグレタが、悪魔がついに観念したのだと受け取り、湧き立ちました。

『そしてお前たちは滅ぶのだ』

 冷や水を浴びせられたように村人たちが静まり返りました。グレタは続けます。

『もとより、私はお前たちを滅ぼすためにここに来たのだ。それを今までしなかったのはあの少女、ペチカがいたからだ。あの娘は私を生かそうとした。だから成り行きを見守っていただけだ。しかし、結局はこの仕打ち。もはや生かしておく価値は無い』

 クククク、と笑い声がしました。それはまさに悪魔の声と呼ぶにふさわしい声で、それまでのグレタの声とも違っていました。

『そうだ、もう殺してしまおう。私の、この羊の命が消えればお前たちの命も消えるが、それを待つまでもない。みすみす羊の命を消してしまう必要も無い。その前に、私がお前たちを殺してしまおう』

 グレタの黒い体が膨れ上がり、2倍、3倍に大きくなりました。いや、そう見えただけで実際には変わりなかったのですが、その気配、存在感がそこにいるものにそう感じさせたのです。村人たちもグレゴールも、そのときになってようやく自分たちが対峙しているモノの本当の恐ろしさに気づいたのでした。

“殺される”

 そこにいる誰もがそう思いました。そのときです。

「ダメよ、グレタ」

 誰もが声のしたほうを見ました。そこにはペチカが立っていました。服には泥が付き、頬が少し擦り切れて赤くなっていました。

「ダメよ。グレタ。そんなことしちゃダメ。だって、そんなことしたら、本当に悪魔になっちゃうよ?」

 そしてグレタのそばまで来るとその首を抱き、柔らかな羊毛へ顔をつけました。

「私なら、平気。大丈夫だから。ね?」

 ペチカにやさしく撫でられながら、グレタはやれやれ、というように軽く頭を振りました。

『まったく、お前はどうしようもないお人好しだな』

 グレタは、あっけにとられて固まっているグレゴールを見ました。

『彼女がこう言っているんだ。私はその意見を尊重してもいい。ただし、彼女と彼女の家族の今後の安全が保障されれば、だ。もちろん私も彼女とともに暮らす。そして馬鹿げた習慣を止めると今ここで誓え。そうすればこれまでのことすべてを水に流そう』

「な、何をバカな! そんなこと――」

『できなければ、やはり殺すしかあるまい。ペチカには悪いが』

 困惑を浮かべていた村人たちの中の誰かが、「このままで、いいんじゃないか」そう呟いたのをきっかけに、うん。そうだ。何も、殺さなくても。そうだ。このままでいい。そんな雰囲気が広まっていきました。それはそうしなければ自分たちが殺されるという恐怖からきたものでしたが、グレタには関係のないことでした。

『お前は、どうする?』

 グレタの問いかけに、グレゴールは呻きました。そして周囲を見回しました。村人の視線がグレゴールに集中しています。その、非難するような視線に耐え切れなくなってグレゴールは叫びました。

「コイツは悪魔なんだぞ! そんなヤツの話を信じるのか? この先コイツを生かしておいてもろくなことにはなりはしないぞ! 騙されるな! 目を覚ませ!!」

 グレゴールの言葉に、村人たちの中には迷いを見せるものもいました。

『ならば私を撃て。それですべて終わる』

 そう言ってグレタはペチカの前に出ました。心配そうに見守るペチカにうなづいて見せてからグレゴールをまっすぐに見つめました。

『さあ、お前が決めろ』

 それが最後通告でした。村人たちの視線が再びグレゴールに集中します。グレゴールの左右に控えている男たちも困惑顔で見つめていました。グレゴールは眉間にしわを寄せ、頬を引きつらせながらグレタを睨んでいます。その口からは獣のような低い呻き声が漏れていました。その胸中に渦巻いていたものがなんなのかはわかりません。時が止まったように長い、そしてわずかな時間が流れました。

「ぐああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 咆哮と共にグレゴールは落とした銃を拾い、再びグレタに向けました。そして――。



――数日後――


ペチカはいつものように朝食を食べた後に羊小屋へ向かいました。

「グレタ、おはよ」

 グレタはメェーーー、と元気よく返事をし、ペチカのそばに寄ってきました。ペチカはその体をやさしく撫でます。

 あの後、グレタが言葉を話すことはありませんでした。ペチカが何度話しかけても、メェ、としか返ってきません。ペチカはそれが少し残念でしたが、こうしてグレタとまた暮らすことができるのです。それだけで幸せいっぱいでした。

「じゃあね。また来るね」

 そう言って駆けていくペチカを見送るグレタの元に、ウォルターがやってきました。ウォルターの意味ありげな視線にグレタは苦笑するように、

『見張ってなくても彼女に危害を加えるような真似はしないよ。いい加減警戒を解いてもらえないかね』

 ウォルターはそれに対し「ワン」と一声鳴いて、ペチカの後を追って出て行きました。その後ろ姿をグレタは苦笑いを浮かべて見守るのでした。

ペチカの黒い羊

ペチカの黒い羊

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-06

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