かなたとひょう

  水色の空には雲一つない。沿道にはぼくらよりも背の高い向日葵が、太陽に向かって咲いている。
今日は夏休みに1日だけある登校日だった。授業は行われないけど、代わりに、近所のお年寄りが呼ばれて、戦争の話を毎年聞かされる。でも、初めて聞いたときは心に遺るものがたくさんあったのだけど、語り部のおじいさんが毎年変わらないせいで、話の内容も代わり映えしない。おじいさんは80歳を超えていると言っていたけど、僕のおじいちゃんとは大違いで、絹のように綺麗な真っ白の髪がフサフサと頭には生えていて、いつもきっちりと撫で付けてオールバックにしていた。服は、うっすらとストライプが入った紺色のスーツで、上着のジャケットは小さな皺や埃一つ見当たらず、スラックスには丁寧な折り目が入っていた。暑くないのかなと心配だったけど、おじいさんはまるで自分だけ冷房の効いた部屋にいるみたいに、たまに用意された水を飲むだけで、汗一つかかず涼しい顔をしていた。ぎょろりと目が大きいのに、鷹のように眼光が鋭く、おじいさんが語っている時にぼくらを見渡して、黒々とした瞳から伸びる視線を感じると少し怖かったけれど、日本のヤクザというよりは、外国のマフィア映画に出てくる俳優さんみたいで格好良かった。

 ただ、話の内容も相まって、学校の皆にはこのおじいさんは怖すぎるらしく、講演会場の体育館におじいさんが入ってきて、ぼくらの整列の正面に置かれたパイプ椅子にドカッと腰を下ろしただけで、うっすら涙を目に貯める女の子もいた。こうして、面倒だからだけじゃなくて、おじいさんが苦手という理由で登校日が憂鬱な人もいた。
 友達が登校日をお母さんが殺された日だと言わんばかりに嫌っていた一方で、けれどもぼくはその日が毎年楽しみだった。かなたちゃんと会える日が増えるからだ。前に、お父さんがぼくに「登校日は面倒だろう、一緒にお父さんと船に乗って釣りに行かないか」と言ってきたことがあったけど、ぼくはこの理由を付けて断ったことがある。

 すると、お父さんがぼくに「このマセガキめ」と言ったきり、下唇を突き出して新聞に集中してしまった。"マセガキ"という言葉の意味が分からずに困ってお母さんを見ると、ニコニコしながら僕を見てたから、きっと悪い意味ではないんだなと思っている。後で、お父さんの部屋で埃をかぶっていた、馬鹿みたく分厚い国語辞典を引っ張り出した。
 
 【籬垣】①竹・木などで作った、低く目のあらい垣。ませ。
      ②杭(くい)の両側から黒もじ・柴などを当てて結った垣。

 せっかく必死にページを捲って、"マセガキ"という言葉を調べたのに、てんでお父さんが言った意味とは違う言葉しか載っていなかった。学校でも使わないような大層な辞書に載っていないなんて、そんなに難しい意味の言葉なのかと、それともこれは何かの陰謀で、どこかの誰かがわざと隠そうとしているのかと思った。

 アブラゼミがミンミンガシャガシャと騒ぎ鳴き、歩いていると汗が止まらず、時々額から流れた滴が目に入ると目に滲みた。帰り道、ふとこのことを思い出して、ぼくはかなたちゃんに"マセガキ"という言葉の意味を聞いた。
 「ねえ、かなたちゃん、"マセガキ"ってどういう意味なの?ぼく、この前そんな風にお父さんに言われたんだけど」
 「それって、ひょうちゃんがませてるってこと?変なのー」

 かなたちゃんはぼくより半年も早く生まれてて、運動も何でもできてたくさんのことを知ってる。反応からして、どうやら"マセガキ"という言葉の意味も知っているようで、ぼくは答えに期待した。
 「ありえないと思うんだけどなー」かなたちゃんはぼくの目をじっと見て、首を右に傾げた。それと一緒に、頭の後ろでひとつに纏められた髪が揺れる。「何かお父さんに言ったの?」

 「えっとねー、夏休みの登校日は、かなたちゃんと会える日が増えるから、ぼく嫌いじゃないよ、って言ったんだ」
 僕としては何も変なことを言ったつもりはなかったけど、ぼくの言葉を聞いた瞬間、かなたちゃんは暑さで赤く染めた頬を、熟れきったトマトみたいにもっと赤く染めた。かなたちゃんは、太陽が沈んですぐの空みたいな青色に、みかんほどの大きさの白い水玉が散らばったワンピースを着ていたから、白波の立つ海の上に急にギラギラとした太陽が出たみたいだ。そんなかなたちゃんの変化を、今度は僕がまじまじと顔を覗き込んでいると急に、 「ひょうちゃんのバカっ!」と大声で叫ばれて、耳がキンキンした。

 「えっ」

 言うが早いか、かなたちゃんは地響きがしそうな勢いで地面を蹴って、新品のスニーカーに、プリントされていた魔法使いの女の子の顔がひしゃげるのも構わずに、線路沿いの一直線を駆け出してしまった。訳が分からずにぼくは間抜けに口を開けたまま、波間に激しく揺れる白玉を見送るしかできなかった。

 なんだかわからないけど、とりあえず、これからかなたちゃんの家に謝りに行かないといけないことだけはハッキリしていたから、ぼくはかなたちゃんの背中が見えなくなってからようやく、歩くのを再開した。かなたちゃんの家までは、この線路に沿った車一台がやっと通れるくらいの一本道を抜けて、Y字に分かれた道の左の方を歩いて20分くらいで着く。僕の家へは右の道を行かなければならないから、方角としては同じなのだけど、辿らないといけない道は全く別なのだ。

かなたとひょう

かなたとひょう

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-05

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