僕が俺を殺した日

プロローグ:俺亡き墓への墓参り

 ここでは葉桜に残る薄い色をした花びらだけがはらはらと舞い散る。人はいない。僕たち以外には。それはあの日も同じだった。あの日もこうやってあいつを掴もうと手を伸ばすと――。
「……センハは――」
「……もういない。どこにも。こんなところになんか、いない。埋まってなんか、いない」
 僕はしゃがみこんで手を合わせている小出奏良にそう答えた。その答えを聞くと、彼女はその幼さの残る透き通った青空みたいな表情を曇らせた。悲しみをこらえて涙を落とすまいと必死に唇を噛みしめるこの姿を、僕はこの三年間どれだけ見たことだろう。
「そうなんだよね。遷波はもう、いないんだよね。……どこにも。そうなんだよね……?」
 書かれるべきものが何も書かれていない墓石に向かって奏良はやはりそう零す。年に二度ここに来るそのたびに彼女は、この小さく頼りなく傾いた石に哀しい息を吐きかける。
「うん。どこにも。このお墓の下に眠っているわけでもないし、僕の中で眠っているわけでもない。遷波は……死んだんだから」
 そう。死んだ。時海遷波は死んだんだ。もういない。
「……そんなこと言わないでよ。遷波は……遷波は――」
「死んだんだ。三年前の今日。二〇七一年五月八日。ここで、この場所で、遷波は死んだんだ」
「違うっ! 遷波はっ! 死んでなんか――」
「ソラっ!」
 僕とあいつが大好きだった彼女の目に溜まっていた水溜りからは、立ち上がった勢いでぽろぽろと小雨が降り始めた。僕はこんな奏良を見たかったわけじゃない。僕たちは、こんな奏良を見たかったわけじゃない。僕たち二人が大好きだった奏良は、満面の笑みを僕らに向けてくれる小さな可愛い女の子だ。同い年なのに、他の子よりもちょっとだけ小さくて、ちょっとだけ幼くて、でも見ていて思わず微笑みたくなる女の子だ。側にいるとその温かさが感じられて心地よくって幸せだった……。僕はここに来るたびに思う。僕らはそんな奏良をこんな風に泣かせたかったわけじゃないんだ。
「でも……でもっ、遷波は……。エイハは――」
 僕は耐えきれなくなって彼女の口をそっと手のひらで覆った。彼女の形の良い小さな口と鼻が僕の手の中に納り、湿った温かい息が彼女の言葉を押し返す。こうすると彼女が何も言わなくなることを僕は、僕たちは知っている。それは僕ら二人と彼女奏良が生まれてまもなくから一緒の景色を見て、一緒の体験をして同じ時間を多く過ごしてきたから。
「奏良。遷波は死んだんだよ。もういないんだ。もう、僕しか、永波しかいないんだ」
 僕がそっと彼女の上からそう零すと、必死に僕を見上げてくる奏良の瞳からは大粒の涙がボタボタと零れて墓石を濡らした。僕はそんな彼女の姿を見たくなくて、でも守ると決めた、守るとあいつに誓ったから、逃げるわけにはいかなくて……。だから、空いている左手でそっと頭を撫でた。ゆっくりと、子供のころ眠り歌を聴かせた時のようにゆっくりと撫でた。あの頃は僕らと奏良はほとんど同じ身長で、同じ目線で生きていた。だけど、今じゃ僕たちだけがまるで彼女を置いてけぼりにするように大きくなってしまった。僕たち……いや、もう、僕だけだ。この身体にはもう、僕しかいない。
「人が死ぬと必ずその後に身体が残っていたのは、五十年前までなんだ。二〇二〇年以降に生まれた人類は皆、多重人格……。だから、あいつには、死んだ後に残る身体はない。この墓の下に埋まるべきだとされていたあいつだけの骨はないんだ」
 ひっくひっくと肩を震わす彼女は黙って僕の話を聞いている。それは半ば僕が強制的にそうしているところもあって、心苦しくなって仕方ない。だけど、それは今やっている口止めの術だけじゃなくて、彼女に話せていない真実のせいでもある。あいつが死んだこと。……時海遷波が死んだ事実は奏良も知っている。だけど、真実は知らない。
「この墓の下に埋まるべきあいつの身体は、今ここで僕として動いているから。……だから、いくらこのお墓に参りに来ても、あいつはいないんだ。あいつの人格は僕の中から風に吹き飛ばされるみたいに消えていった。もう、どこにもあいつの名残なんて残ってないんだ」
 本当はある。だけど、それは絶対に言えない。それが死んだあいつとの最後の約束だから。いや、僕の誓いだから。いくら奏良であってもそれだけは言うことができない。言ってはいけないんだ。そんなことをしてしまえば、彼女は……もっと苦しむ。もっと悲しむ。もっと止めどない雨を降らせる。そんなことを僕たちは望んでなんか――。
「どうした? 奏良? ……ああ、ごめんね」
 ぷはっと僕の手をそっと外して新鮮な乾いた空気を吸う彼女は愛おしい。僕らがずっと好きだった彼女がそこにはいた。涙の跡を除けば。
「そんなこと……言わないでよ。永波も遷波もここにいる。ここにいるよ……。あたしの前にいるよ。あたしの前からいなくなってなんかないよ……。そんな悲しいこと言わないでよ」
「ごめんね、奏良。でも、事実なんだ。僕の副人格だった遷波はもう――」
 そう。遷波は死んだ。それが僕と彼女、そして世間における事実。だけど――。
「……帰ろうか。奏良。次はまたお盆に来よう」
 彼女は返事をしない。いつもそうだ。ここに来たら、何かを必死にこらえているようにして足をてこでも動かさなくなる。まるで彼女がこの墓石の主になったように動かなくなる。僕はそんな彼女に申し訳なくなって、いたたまれなくなって、いつも彼女が疲れて倒れてしまうまで待つ。奏良は生まれつき身体が弱い。疲れが来てしまうとばたりと気を失ってしまう。
 だから、僕はいつもいつもここに来るたびに奏良が倒れるのを見届けないといけない。それは心臓を悪魔に売り渡すようで辛くて辛くてたまらないけれど、逃げられない。当然だ。僕が真実を隠し続ける限り、逃げちゃいけない。この先何年も何十年も……決して逃げられない。僕はこの長くて終わりが見えないこの時間を、真実を辿ることで過ごさないといけない。これが僕にできる唯一のことだから。事実と真実は違うのだから。
 そう。二〇七一年五月八日。あの日僕は、時海永波は、『俺』を……『時海遷波』を殺した。

僕が俺を殺した日

僕が俺を殺した日

約50年前――2020年。加速度的に少子高齢化が進行し、出生率が全世界平均で0.5を下回った。両親という人間二人から0.5人しか子供が生まれない世界。危機に瀕した人類は滅亡の土壇場で『恒常的解離性同一性』を獲得した。これは、出生率の低下で0.5の人間の身体しか望めなくなったが、この新気質により、人類は0.5の身体に1.0以上の精神を宿して生まれてくるようになったということである。つまり、新しく生まれてくる人類が多重人格になってきたということだ。 単人格最終世代がすでに50歳を超え始めた現在、単人格の人間は全人類の20%にも満たなくなってきている。複数人格が当然となった世では、物事の基盤は複数人格者を基本とされ、単人格者は淘汰されてきている。すでに単人格は障害と化している。 そんな世の中で、彼女小出奏良だけは――。

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更新日
登録日
2014-07-05

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