指輪屋さん

指輪屋さん

 接客用の笑顔だって、嫌々しているわけではない。笑顔でいることはきっと良いこと。何より気分が軽くなる。
 今日も綺麗に磨き上げたショーウィンドウがそんな笑顔を映しているのをしっかり確認して、さぁ、客が来る。

「綺麗ですよね、指輪って」
「もちろんです。すべて自信を持ってお売りしている品ですから」
「でも、全て同じように見えてしまうのは僕だけでしょうか」
「そうですねぇ……。私は親からこの宝石店を受け継いだ関係で、子どもの頃から宝石類とは親しかったのですが、なかなか一つ一つの評価を区別するのは難しいですね。でも、同じ種類、同じ形の宝石なんてこの世にはありません。その宝石はあなたのための宝石であるはずです」
「なるほど……」
 今日最初の男性客は爽やかな服装をしている。休日でも客が少ない宝石店に、今は店長である自分と客のたった二人。
 宙ぶらりになったような笑顔をしている男性客は、おそらくプロポーズのための指輪を買うつもりなのだろう。
「何カラット以上なら成功率何パーセント、みたいな統計資料ってありませんかね?」
「うちにある最高のものなら、百パーセントを保証しましょう。今なら返品可です」
「ちなみにお値段は……?」「ゴニョゴニョ」「うわぁ」
 男性客は思わず一歩後退りする。それもそうだろう。お金では買えない価値がある。問題は客の懐の深さだ。
 男性客は不安そうに口を曲げて、どこか楽しそうにピカピカのショーウィンドウを眺めていた。ここに来る男性客のほとんどはそうだ。幸せの真っ只中にいながら、大きな不安に駆られている。指輪を売る人間は彼らのそんな不安に蓋をせず、幸せをより感じられるようにするのが仕事だ。
 指輪なんてただの飾りなのだから。
「ちなみに、店員さんはご結婚の方は……」
「えぇ、それが私の、指輪を売る者として至らない点だと常日頃から感じております。具体的なアドバイスができればいいのですが」
「……すみません、失礼な質問でした」
「いえいえ、ですから私はいつもお客様から学んでばかりなのです。お客様が本当に幸せそうにしていらっしゃるものですから、我々としてもやる気とより一層の力をいただいているのです。お客様は神様、とはまさにこのことだと私は考えています」
 さっき確認したとおりの笑顔に、男性客の顔がほころぶ。ほんの少し頬を赤らめて、目の前にあった指輪を指した。
「これください。サイズは7号でお願いします」
「はい」
 男性客が店を後にすると、襟を直しながら店の奥から一人の女性店員が出てきた。髪は鬱陶しくない程度に切り揃えられ、ブリオーニのスーツが膝丈スカートのせいか、少し動きづらそうだ。
「店長ってちょっと気持ち悪いですよね」
「なんだ、藪から棒に。給料を下げてほしいのか」
「いやっ、冗談ですよ。ただなんか、よくそんな商売上手なセリフが思いつくなぁって」
「吉岡さん、俺より五つ下だったよね?」
「歳とかは関係ないです。単純に、人間としてどうかっていう話で」
「本当、可愛げない」
 吉岡さんは見た目、落ち着いた可愛らしい顔つきをしているのに、身内に遠慮がない。接客となれば彼女もなかなかの営業スマイルを見せるが、日常生活でさえ足りない気遣いが客に対して発揮できるわけがない。さらに若干の猫背でもある。イメージ重視の宝石業にとって従業員の確保では、印象を取るか内面を取るかが頭を悩ませる問題だ。
 もちろんその両方を持ち合わせた人材を採用することが望ましいが、こんなお転婆娘を採用してしまったのは印象重視で採用してしまったせいだ。
「私、店長はもう少しお客さん一人一人のことを考えるべきだと思います」
 生意気もこのくらいにさせてもらおう。
「じゃあ吉岡さんはいちいち客のプライバシーに踏み込んで、それなら勇気を出してこの大きいの買っちゃいましょう! とか言うのか? こちとら悪徳商売じゃないんだ。クーリングオフは御免だよ」
「そんなことしませんよ!」
 吉岡さんが牙を見せた時、店の自動ドアがゆっくり開く。
「いらっしゃいませ」
 吉岡さんは一瞬遅れてから、営業スマイルを発動する。

 今日二人目、三人目の客は良い歳の取り方をしている、五十代前後の夫婦。女性は柔和な笑顔を見せ、男性は店内をしきりに見回している。
「どうぞ」
 なかなか入りにくそうな雰囲気の二人に声を掛け、ようやく自動ドアが閉まる。外の雑踏が消えた。
「丁度良い。吉岡さん接客して」
「私ですか」
「はい、さっさとする」
 小声でやり取りを交わして、ポンと肩を叩く。それで大方この若者はスイッチが入る。
「いらっしゃいませ。本日はどういったご用件で」
 笑顔は良い。が、声の掛け方を間違えている。ここへ来たのだから、指輪を見に来たに決まっている。
「実は指輪を見に来たのですが……」
 女性が答える。
「何かお探しの品はありますか?」
「いえ……」
「う、えっと」
 吉岡さんは話題の少なさに早くも困っている。助け船を出す気はない。自然な振る舞いでそっと離れていく。耳は客と吉岡さんへ向いている。
「今日はプレゼントでしょうか。お子さんかお孫さんへの」
「いえ、あのぅ、言いにくいことなのですが私たち、実は籍を入れたばかりでして……」
「ご結婚ですか!」
「こんな歳なのですが……」
「いえいえ! 私は、とても素敵だと思います!」
 吉岡さんは客に対して感情的に接する癖がある。それを悪いことだとは思わない。が、それが裏目に出ることだってある。
 ピカピカに磨いたショーウィンドウには至極真面目そうな顔が映っていた。
 ──ここにはあまりにも多くの「愛情」と「希望」と「幸せ」があるから、気安く触れると、きっとあてられる。だからなるべく素知らぬふりをして、関わらないようにする。
 幸せはいつも皆を幸せにするわけではないのだ。
「私も、歳を気にせずに恋愛がしたいです。元気でいたいです。いつまでも幸せでいたいです!」
 吉岡さんが客へ振りまく笑顔は、彼らに勇気を与えることもあれば、逆に勇気を削ぎ落すこともある。希望と不安の狭間にある彼らにそんな物を押しつけることこそ、残酷だ。
 そう、考えている。
「おまえ」
 それまで店内をしきりと見回してばかりいた男性が、自らの妻を平坦な声で呼んだ。
「やはり、私たちのような人間がこんな場所にいるのは筋違いではないか」
「まだそんなことを言うのですか」
「どうにも落ち着かない。こんな娘のような年齢の店員さんに事情を話すことも居心地が悪い。彼女を悪く言うつもりはないが、ただな……」
 男性客は困ったようなしかめっ面のまま黙ってしまった。
「……!」
 吉岡さんは男性客の言葉に一瞬にして声を失ってしまった。
 取り返しがつかなくなる前にゆったりとした動作で吉岡さんに近付いていく。
「私は、」
 強張りきった肩はまだ懸命に上下していたが、子犬に触れるような優しさで、その肩をポンと叩く。
「お気に障るようなことでしたら、申し訳ありません。よろしければ、あちらの席の方でごゆっくり」
 小奇麗な机と椅子を掌で示してみせると、女性は不安そうに、男性は店内をしきりに見回して、席に着いた。
「店長、私……」
「吉岡さんは店番。あのお客様は、僕が接客する」
 突き放すような言葉にはもちろん意図がある。でもともすれば彼女の頭を優しくなでてしまいそうになっていた。
 だから逃げるようにして、客のもとへ。
「先程は失礼しました。私、店長の加藤といいます」
「いえいえ、主人もたぶん、怒って言っているわけではないと思います。ただこの人、物言いが厳しくて」
「今度は君が接客してくれるのか」
 男性客は冷静な声を発した。
「はい」
「君、歳はいくつだ」
「先週で三十になりました」
 男性は視線を鋭くする。それはまるで、こちらの内面まで見透かされているようだ。
 年齢を聞かれることに抵抗はない。しかし相手の意図不明な行動は、怪訝さを感じるには充分だ。
「……それが、何か?」
 不意に出来た、沈黙から逃れるために発した言葉に込められた苛立ちは、それまでの余裕を持った態度では隠しきれない。女性客はさらに不安を募らせ、眉間に皺を寄せた。
 今、瞳孔が開いていると自分でもわかる。
 しかし自分には店長としての責任がある。そう考えると、少し気分は楽になった。
 とそこへ、店内の不穏な空気も知らない一人の若者が、自動ドアにぶつかりそうな勢いで、店内に飛び込んできた。

 本日、四人目の客である。
「い、いらっしゃいませ」
 虚を突かれた様子の吉岡さんは、梟のような丸い目をしている。
「指輪をくれ」
 唐突に発せられる言葉は、やや高圧的だ。
「どういったものをお探しでしょうか」
「何でもいい」
 ヨレヨレ、クタクタのスーツを身に着けた男性客は三十前後に見える。
 店内の空気が乱れるのを肌で感じ、つい額の皺が濃くなる。
「何も、ご希望はありませんか?」
「いいからっ、早く!」
 若い男が声を荒げる。そして彼以外誰も口を開けなくなる。
「……ああいや、悪い。別に脅かそうとしたわけじゃないんだ。事情があって急いでる。怪しい人間じゃない。だから頼む、俺に指輪をくれ」
 耳に残る違和感は、吉岡さんも感じていたらしい。
「お客様、それだとまるで、指輪を買うのではなく、貰っていくというような意味に聞こえるのですが」
 若い客はそこでようやく自分の立場に気付いたように店内を見回す。
視線がぶつかるが、若い客はすぐさま目を逸らした。
 するとおもむろに安物の財布を手にし、中からたった三枚の千円札を引っ張りだした。
「今はこれしかない」
「なっ!」
 気付けば、若い客を睨みつけて立ち上がっている。
 それは怒り以外の何物でもない感情だ。
「この店から出ていけ。これ以上この店関わるな。もうそっとしておいてくれ」
 それが言葉になる直前、
「どこへ行くんだ、加藤くん」
 目前に座る男性が、低い声を発していた。
「どこって」
「君の客はあの方ではない。私達だ」
「……ここは、僕の店だ」
「いいから、座って少し見ていなさい」
 その言葉を聞いて、男性の、吉岡さんを見つめる瞳を見て、足は出なかった。驚いて、どうしようもなくなって、諦めて、力なく椅子に座る。
「これだけでは、指輪はお売りできません」
「だから、俺にくれと、そう言ってるんだ。何も別に本当に貰おうとは思ってない。いつか、倍にして返す。だけど、今は、これしかない」
 若い客はさらに吉岡さんへ三千円を近付ける。
「やめてください」
「これは俺の愛する人に渡す。あいつは、今日俺以外の男と結婚する。それを止めたい」
「やめて……」
「三十になってはじめて、やっとこんな簡単なことに気付いた。彼女が好きだって気付いたから、もう俺は彼女に告白するしかない。こんなヨレヨレのスーツとツラで行っても、彼女を取り戻せるわけがないだろ……!」
 支離滅裂で、感情を剥き出しにした言葉は言うまでもなくこの冷え切った心には響いてこない。どこまでが本当でどこからが嘘かなど、若い客の目を見ても考えるだけ無駄なのだ。
 あれはもう、吉岡さんの客だ。あの人にとっての店員は吉岡さんなのだ。
 早くに亡くなった両親から受け継いだこの店の中には、今や何故だか、足場がない。
もともと「指輪なんてただの飾り」とは父親の言葉なのだ。彼に見られた確固たる信条に憧れ、真似をした。子どもが親の真似事をするのはよくあることだが、この真似事は最終的に実にはならなかった。
 そんな本質も何もない信条を貫き通して、外面良く踏ん張っていたから、本当に客と向き合った時、信条に装飾を施すものたちが剥がれ落ちていったのだ。
「急に、何なんですか……」
「……」
 若い客は石像のように、眉ひとつ動かさない。
「あなたは、それでいいですよ。指輪を貰って彼女を取り戻して、お金を稼いで、いつかこの店に恩返しをする。そのための最初の段階なんだって、思ってるんでしょう?」
 吉岡さんは猫のような仕草で手を丸め、髪をはらう。
「でもあなたはあなたが思うよりもいっぱい、いろんな人を傷つける。いろんな人に迷惑をかける。それでいいと思ってるんですか?」
 若い客の瞳は、ただただ実直だ。
「知らないふりをして、気付かないふりをして、分からないふりをして、それでみんな幸せでいられると本当に思ってるんですか?」
 手が震えた。
「まるで、店長みたい」
 何より、彼女の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。年下の、精神年齢で言えばもっと下の女の子だと思っていたのに、上背は頭ひとつ分の差もあるのに、吉岡さんへ抱いた親気分はどこまでも的外れだったのだ。
「ここの店長はそんなにスーツがヨレヨレなのか」
「……そこじゃ、ないですよ」
 若い客の言葉は本気なのか、そうでないのか。吉岡さんならもう充分理解しているのだろう。
「……」
 おもむろに、吉岡さんはピカピカのショーウィンドウへ向かい、白い手袋をはめて、大事そうに一つの指輪を選んだ。
「こちら、今ならなんと、三千円です!」
「買った!」
 跳び縋るようにして、若い客は指輪と三千円とを交換した。そして店に入って来た勢い同じく、今度は駆け出していった。
 取り残された者達の空気も知らずに。
「あのぅ」
 その中、口を開いたのは意外にも女性客だった。
「あの人、追わなくていいのですか?」
 心の中がざわつく。上手く言葉に表現できないもやもやが次第に大きくなっていく。
 もしも今、あの男を追ったら、それは現状からの逃避に他ならない。まだ親気分が抜けていない、もしくは、自分自身の変化があまりになかったことに耐えられないでいるということだ。
 亡くなった親の店を継いでいる。聞こえはいいが、これは単なる自己満足なのだ。
 自立を志した青年の泥臭い努力ではない。こうしていれば、どこかで二人が見守ってくれているはずだという惨めな期待なのだ。
「違う。それは違う」
 男性の力強い言葉は、そのもやもやを綺麗に形取ってくれた。違うものを否定し、正しいものを肯定する勇気を与えてくれた。
 男性は彼の妻に向けた鋭い目を、その色をより黒くして正面に向かわせる。彼の言いたいことは、理解しているつもりだ。
「わかるよな。息子よ」生前の父がそう言っていたときのそれと、まるで瓜二つなのだ。
 自分が今、何をすべきかを考えると、まずこの宝石店の店長としての役目を果たさなければならないことに思い至った。
 体が重いかと思ったが、想像したより膝はすんなり立った。そして店の真ん中で一人ぽつんと立つ吉岡さんへ近付く。
「店長、すいません。私また、取り返しのつかないことを……」
 そんな顔はしないで欲しい。
「いいよ。……いや、良くはないけど、吉岡さんなりの理由あっての行動だろ?」
「はい」
「それなら、仕方がない。あの変なお客さんを、信じるしかない」
 あの客のことはもう終わり。これ以上触れようものなら、さらに自分自身で傷口を広げるだけだ。
 片を付けて、待たせっ放しのお客二人の方へ行こうとした。
「……」
 すると、吉岡さんが無言のままスーツの襟の後を引っ張ってくる。なんて止め方だ。女の子らしさの欠片もない。
「うっ……。何をするんだ」
「怒らないんですか?」
 実は、吉岡さんが引き止めるだろうということは、概ね予想が付いていた。彼女の中では、あの客に指輪を渡すことが正しかったとは思えないのだ。
 店で勝手なことをした。だから怒られる。それは当たり前の話だ。
「怒らない。吉岡さんは悪くないから」
 そこでようやく彼女は手を放す。夫婦に視線を送ると、男性は落ち着き払った様子を、女性はまだ状況が飲み込めないような不満そうな表情をそれぞれしている。
「大変、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる。
「帰るよ」
 男性客はあっさり言った。しかし女性の方は納得がいかない。
「あなた、何を言ってるの。これだけ待たされて、何もせずに帰るっていうの?」
「いいから帰るんだ。散々言っただろう。今日は気が乗らない」
 そして男性客は妻に有無も言わせずに帰ろうとする。自動ドアが開く位置まで行って、彼は立ち止まって言う。
「昔、ここは良い宝石屋だったよ。店主の口癖は確か、『指輪なんてただの飾り』──でも加藤は、宝石と嫁さんの好きな、心優しい男だった。……また来る」
 夫婦は、店を後にした。

「なんで、あの人に渡そうと思ったの」
 夫婦が店を後にしてからしばらく、吉岡さんは店の雑務をしながら待っていてくれた。
 心の整理が着くまで時間がかかったのだ。
 ようやく落ち着いてから尋ねると、吉岡さんは「怒らないでくださいよ」とわざわざ前置きをしていった。
「……あの人が、店長にすごく似てたから」
 どんな答えが来ても笑っていようと思っていた。でも吉岡さんの言葉は許容される範囲を優に超えていた。
「どこが、似てるんだよ」
「あ、ほら、怒ってますよ、いま!」
「怒ってない怒ってない。言えって」
 吉岡さんは不機嫌そうにしているが、それもどこか可愛らしい程度だ。観念して言うことには、
「店長はみんなが幸せになれるようにって、深入りしないで、優しく受け止めて、お客さんの背中を押すんです。それは優しくてずるい店長だからできることですけど、やっぱり私にはお客さん一人一人と向き合うことを避けているようにしか見えないんです」
 またも吉岡さんに驚かされる。
「あの人も同じです。結局自分が傷つかない方法を一番に考えてる。もしかしたらあの人の思う彼女は、あの人のことを憎んでいるのかもしれない。彼女の結婚相手もあの人を憎んでいるのかもしれない」
 吉岡さんはひどく沈痛な表情を見せ、顔を伏せる。それは彼女があの客と深く関わってしまったことによるものだが、誰も吉岡さんを責めることはできない。
 彼女の、客一人一人と向き合う接客は失敗した。彼女自身の信条が揺らぎ、最も敏感になった時にあの客は来たのだ。
 そして誰も求めていないのに、勝手に胸の内をさらけ出す。
 その強烈すぎる想いにあてられてしまったのは、吉岡さんではない。自分自身だったのだ。
「でも店長もあの人も自分の決めたことと言うか、自分の信条にとっても真っ直ぐなんです。だから私は、あの人に指輪を売っちゃった、なんて……」
 へへへ。と照れくさそうに笑う吉岡さんの頭に、またも手を乗せてしまいそうになる。
 そんな自分に気付き、また途方もなくやるせない。
「吉岡さん」
 彼女とは目を合わさず、入口の方を見つめたままそっと胸に手を当てる。両親が残したものは、思い出として傷として、確かに存在している。
 これが、彼女に対する精一杯の誠意だと思う。
「当たり前だけど、僕と吉岡さんのやり方は違う。どんなに卑怯だって言われても、僕は深入りしない。深入りは僕だけじゃなく、赤の他人も不幸にするから」
「……」
「でも僕のそれは吉岡さんが言う通りに、逃げなんだ。やり方が分からないから、上手くはぐらかして核心を避けてるだけ」
 肩の力を抜く。
「父さんの言葉の意味はたぶん、客一人一人と向き合って、彼らの幸せと不安を大切にするってことだと思う」
 それはまるで二人の中間のような。
「だからこれから、僕は誠実にならないといけない。僕の父さんがやってたように、誰からも信頼されるような宝石屋にしたい」
 拳に力がこもる。
「吉岡さんにはその、手伝いをしてもらいたい」
 吉岡さんを見ると、口をすぼめて俯いていた。
「なんだ、その口は」
「店長って、やっぱり気持ち悪いです」
「な」
「気持ち悪いんですけど、素直に言うのは、悪くはないと思います……」
 吉岡さんの頬は赤い。
 その様子を見ていると、なんだか無性にムズムズして、居ても立ってもいられない。これは照れ隠しだ。
「た、ただしっ、次に指輪を値切ったら、一か月タダ働きだ」
「ゆ、許してくれたんじゃなかったんですか!」
 吉岡さんの悲鳴の数秒後、店に今日五人目の客が訪れる。
 結局、一言「ごめん」とは言えず仕舞いになってしまった。

 やっぱり大きい宝石のついた指輪ほど、相手の心を掴めるのだろうか。
 逆説的に、恣意的にそんなことを考えてみる。
 ピカピカのショーウィンドウを通して見る指輪たちが、いつもより輝いて見えた。

指輪屋さん

 削除、加筆の可能性が高い作品です。

指輪屋さん

「幸せの真っ只中にいながら、大きな不安に駆られている。」 指輪を買いに来る客の表情は複雑だった。しかし彼らは何かを変えようと宝石店を訪れる。 そんな思いにあてられていては、客商売は成り立たない。 「指輪なんてただの飾りなんだから。」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-05

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著作権法内での利用のみを許可します。

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