誰もいない夏

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 強い日差しが人のいない町を焼いていた。
 遠くの景色は陽炎で揺れている。日傘を差しているはずなのだが、ぽたぽたと汗が頬を伝って落ちていく。
 瀬能飛鳥は乱暴に汗を拭った。
 長く伸ばした髪に熱が篭っている。髪を切る機会がなかったため、ここ半年ほどずっと放置してきたのだが、いい加減なんとかしなければならないのかもしれない。これから本格的な夏が始まるというのに、これはあんまりだ。
「ばっさり、適当に切ってやればいいかな……」
 飛鳥は呟く。
 どうせ誰かと会ったりはしないのだから、見た目を気にする必要などない。――そう分かっているのだが、髪を無造作に切り落とすというのは抵抗があった。
 飛鳥は日傘を差したまま歩いて行く。
 とにかく暑い。
 日数を数えていないから今日が何日かは分からない。しかし、梅雨にまだ入ってさえいないということだけは分かる。
 が、その割には暑すぎた。今年は梅雨の時期が遅れているのだろうか?
 そんなことを考えながら足を動かしていると、やがて目当てのスーパーに到着した。
 ひしゃげたシャッターの隙間から店内に入り込む。中は真っ暗だ。持ってきた懐中電灯を点け、その明かりを頼りに歩いて行く。やがてすぐに、目指していた棚の前に到着した。
 そこは缶詰などの、長期間保存できる食料が並んでいるコーナーだった。
 しかし、
「……ここも、少なくなっちゃった」
 初めて見た時はずらっと並んでいた商品が、今ではもう残り僅かになっている。自分以外にここに人が来ることはないだろうから、そのほとんどを自分が食べたということだ。
 そろそろ、次の場所を探さなければならない。
 しかし半年という時間で、飛鳥はこの近辺の食料をほとんど食べてしまっていた。ここが食料の残された最後の場所であったのだ。
 つまり、食料を得るためには他の町に移動しなくてはならないということになる。
「面倒くさいな……」
 残っていた缶詰を全て鞄に放り込むと、飛鳥はスーパーを後にした。
 照りつける日差しにうんざりしながら町を歩く。地方都市とはいえ、もともとはそれなりに人通りのあった大通りも、今は誰もいない。
 この半年間、彼女は自分以外の人を見たことがない。
「――みんな、どこに行っちゃったのかな」
 そうして呟き、ふと思った。
 この半年間で私の独り言は随分と増えてしまった、と。

 自宅の庭。そこで火を起こして調理をする。
 水道やガス、電気などはもう通っていないため、半年ほど前からずっとこのスタイルだ。毎日がキャンプのようなものだが、楽しいとは思えない。文明というものがいかに人間の生活を支えていたのか、再確認し続ける毎日だった。
 缶詰の中身を鍋に放り込み、適当に調理をする。そうしてできたものと、あとは保存食として有名な乾パンのみ。日によって缶詰の中身が変わったり、乾パンの代わりに米を食べたりすることもあるが、基本的にはこうした質素な食事ばかりだ。
 食べ飽きたそれを特に感想もなく食べ終えると、薬局から無断で拝借してきた栄養サプリメントを摂取する。こんな食事だけでは、栄養の偏りを避けることはできない。栄養は食材から摂った方がサプリメントよりも効果的なのは分かっている。しかし、食材自体が無いのだから仕方がない。
 飛鳥が夕食を食べ終える頃にはもう、太陽は沈み、あたりは薄暗くなっていた。
 もう寝よう。
 電気がなくなってから、眠るのがぐっと早くなった。日没と同時に眠り、日の出と同時に起きる。太陽が沈んだ以降に起きていても、ただ闇の恐怖があるだけで、何もいいことなどありはしないのだ。
 飛鳥は自室に行き、窓を開けた。そうして中に篭った熱気を外に逃がしながら、一人ベッドに横になる。
 静かに目を閉じた。
 何かを考えることもなく、ただ意識は眠りの底に落ちていった。

 1

 ある日の朝。瀬能飛鳥が目を覚ました時には、もう世界から人は消えていた。
 リビングに行っても朝食を作る母の姿は無く、寝室を覗いても眠っている父はいない。そして、普段なら外から聞こえてくる人の移動する音が、まったくない。あまりにも静かすぎた。
 飛鳥は家から飛び出した。
 外にも誰もいなかった。歩行者はもちろん、自動車も、自転車も無い。駅まで行っても誰にも会わず、電車でさえも完全に止まっている。
 携帯電話を取り出し、知り合いに電話をかけようとする。しかしどういうわけか、電波がまったく通じていなかった。
 家に戻ってテレビをつけるが、どのチャンネルも見ることができない。パソコンを開いてみるも、インターネットに接続することができない。
 この辺りになって、飛鳥の脳裏にある思いが浮かんだ。
 世界は何らかの理由で終わってしまったのかもしれない。
 その突拍子もない考えに自分でも笑いそうになったが、実際のところ、その考えは正しかったのだ。
 世界は確かに終わっていた。自分以外の全ての人間が、この世界から消えていたのだから。
 飛鳥は最初、これは夢なのかもしれないという希望を抱いた。ある日突然人間が消えるなんて、あまりにも現実離れしすぎている。夢にしては異常なくらいリアルなのが気になるが、しかし、これが夢でなくていったいなんだというのだろう?
 しかし次の日になっても、その夢は覚めなかった。
 飛鳥は気が狂いそうになりながら、自転車に乗って遠くの町を見に行くことにした。もしかしたら人が居なくなったのは地元だけで、他の場所では普通に生活している人達がいるかもしれないと思ったからだ。
 それから二週間ほど、彼女は自転車であちこちを移動した。かなりの距離を進み、隣の県まで見て回っても、誰も居なかった。ただの一人の人間も存在していなかった。
 そうして自分が世界に一人だけ取り残されてしまっているということを、実際の経験から理解した。
 最初の一ヶ月はその孤独感に押しつぶされそうになっていた。しかしなんとか生活していくうちに、次第にその孤独にも慣れていった。やがて二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎて、冬を越し、気づけば半年が経過していた。
 今でも時々、すさまじい焦燥感に駆られて夜中に飛び起きることがある。しかし基本的にはもう現実を受け入れ、静かな生活を送ることができるようになっている。
 きっと私はこれからも一人で生き、そして誰に知られることもなく死んでいくのだろうと、そう漠然と思っている。

 人間がいた時よりもずっと、世界は平和になったんじゃないかと、時々飛鳥は思う。
 他者というものがあるから、戦わなければならなくなる。自分以外の人間が全て消えてしまったら、そこにあるのは完璧な平和だ。争いなどあるはずがない。世界のどこかにあった紛争も、完全に無くなる。人が殺し、殺され、憎みあうような状況を作ることはもはや不可能だ。
 平和だ。だが、あまりにも空虚すぎる。
 かつては煩わしいと思っていた人間が、今では心の底から恋しく思う。不自然な理由で夜遅く帰宅してくる父も、その理由を執拗に追求する母も、以前はうっとおしくて仕方がなかったのに、今では会いたくて仕方がないのだ。
 誰かの声が聞きたい。それが罵声でも悲鳴でも構わない。
 とにかく他者というものに触れたい。
「……あー」
 飛鳥は呻きながら本を放り出した。
 窓の外では雨が降っている。空は灰色で、全てを薄暗く包み込んでいた。
 さっきから頭にちっとも文字が入って来ない。なんだか今日は悪い日だ。自分が孤独でいることを無意識のうちに再確認してしまう。そんなことをしても、気が狂いそうなくらいの圧迫感に襲われるだけだというのに。
 飛鳥は先ほど自分が放り出した本を眺めた。かつて書店に平積みされていた人気の小説だ。
 ――本を読んで、どうする?
 誰もいない世界で知識を増やし、創造力を豊かにして、それでどうする?
「ダメだ」
 飛鳥はそれ以上余計なことを考えないように、今日はもう眠ることにした。
 ベッドに横になると、雨が降る音が聞こえてくる。この雨音を聞いてるのが自分だけだと思うと、少しだけ不思議な感じがした。

 雨の中、傘を差して外に出た。
 昨日は土砂降りだったが、今は少し落ち着いてきている。しかし止む気配は無い。おそらくこのまま数日間は降り続けるのだろう。
 傘を叩く雨粒を感じながら、飛鳥は町を歩く。
 途中で誰もいない薬局に足を踏み入れ、切れかかっていた栄養サプリメントを無断で鞄に入れる。ついでに歯ブラシの予備も貰い、外に出た。
 ぽつぽつと降る雨の中を、ただ一人歩いていると、
「……?」
 奇妙なものが見えて、飛鳥は足を止めた。
 とある家の敷地の中。庭に面している大きな窓が割れていた。
 その割れ方はひどく、人一人くらいなら余裕で入ることができるくらいの大きさだ。
 いや、それだけなら何も不思議なことではない。半年という時間は長く、誰の手入れもされていない建物なら、すぐに劣化していくというのは経験から分かっていた。
 しかし問題なのは、そのガラスの割れ方だ。
 まるで何か硬いものをぶつけられ、砕かれたように見える。少なくとも、自然に劣化したようには思えない。
 少し前にここを通った時は、そんな不自然に割れた窓を見ることはなかった。ただ単に見落としていただけという可能性もある――が、今はそれよりも面白い想像をしたかった。
 飛鳥はその家に向かった。途中で次第に早足になっていき、たどり着いた頃には小走りになっていた。
 彼女はそのまま窓から中に踏み込んだ。
 きっと、この穴は人間が開けたものなんだ。
 そんな想像を抱きながら、飛鳥は部屋の中を見渡した。そこはリビング。物は散らばっているが、特におかしなところはない。
 飛鳥は廊下に出て、そのまま部屋を一つ一つ確認していく。書斎、子供部屋、そして最後に覗いたのは、寝室。
 扉を開くのと同時に、嫌な臭いが鼻先で爆発した。それは何かが腐ったような臭いだった。
 そしてベッドの上に視線をやって、飛鳥は目を見開いた。
 一人の男が、仰向けになって死んでいた。
 服はボロボロで、肌は黒ずんでいる。よく見ればベッドのまわりには血が飛び散っている。どこかを怪我していたのか、あるいは何かの病気だったのかは分からない。
 ただ、あまり楽な死に方ではなかったように見える。
「あ」
 声が出ない。喉の奥がつっかえて、うまく息ができない。
 半年ぶりだ。
 自分以外の人間の姿を見ること自体が、半年ぶりだ。たとえそれが死体であったとしても、これは飛鳥にとって、奇跡のような出来事だった。
「ああ――」
 飛鳥の口からは、ただ感嘆の声が漏れた。

 2

 その男の死体をそのまま放置しておくのは躊躇われた。墓を作ることはできなくとも、どこかに土葬するくらいのことはするべきかもしれない。
 しかし自分一人の力では、その男の死体を移動させることはできなかった。だから仕方なく、彼の死体はそのまま部屋に置いておくことにした。部屋自体を一つの棺桶だと考えれば、そう悪いことではないような気がする。人がいない今、自分が不用意に部屋に入ったりしない限り、誰かにその眠りを妨げられることもないだろう。
「ごめんなさい」
 飛鳥はその男に謝り、それからベッドの横に置かれている荷物を探り始めた。
 死んだ人間の荷物を漁るなんて、いったいどこの国の話なんだろう。
 さほど重要そうでない物をどかしながら探っていると、奥の方から一冊の手帳が出てきた。黒い表紙で、中をぱらぱらとめくると文章が書かれている。
 飛鳥はその手帳に目を通した。

 34日目。
 大阪に到着した。あちこちを見て回っていたせいか、ここに来るまでに随分と時間がかかった。
 かつては賑わっていた町は完全にゴーストタウンになっている。
 数日ほど滞在し、他に人間がいないかどうかを確認してから、次に向かいたいと思う。

 37日目。
 結局誰も見つけることはできなかった。
 もう俺しかこの世界にはいないのだろうか? 世界から全ての人間が消えてしまったのか?
 狂っている。そんなことはありえない。
 きっとどこかにいるはずだ。俺と同じように孤独を感じている人間が、どこかに。

 40日目。
 風邪を引いてしまった。先ほどから咳がひどい。
 適当な家にあがって休ませて貰っている。どうやら熱もあるようだ。
 熱があるときはどうして悪夢ばかりを見るのだろう。
 気分が悪い。吐きそうだ。
 俺はここにいる。誰か気づいてくれ。

「……」
 飛鳥はその手帳を閉じた。
 そして目を閉じてじっと考える。
 どうやら彼は、私と同じように、たった一人で世界に取り残されていたらしい。しかしその考えに納得することができず、他の人間を探し始めた。
 彼女は彼に手を合わせてから、その手帳を自分のポケットに入れた。そして手帳以外の荷物をもとに戻すと、そのまま部屋を後にした。
 雨の中、傘を差して自宅に向かって歩いて行く。
 胸が痛い。肋骨の内側が軋み、呼吸をすることが難しくなる。
 彼は私と同じだった。
 私と同じで、孤独の中で恐怖に震えていた。この終わってしまった世界の中で、たった一人で居続けることに怯え続けていた。
 しかし、私と彼との間には、ある一点、決定的な違いがあった。
「――――」
 なんだか頭が痛い。今は早く帰って休みたい。少し、疲れてしまった。

 静かな雨音が部屋の外から聞こえてくる。
 ひどく蒸し暑く、窓を開けようが閉めようが、この暑さを和らげることはできない。
 ランプの明かりを頼りに、飛鳥はその日記帳に目を通した。
 彼はどうやら、ここよりも西のほうに住んでいたらしい。そして生きている人間を探すために、そこから東に移動を始めた。そしていくつかの県を越え、やがてここにたどり着いた。
 途中で彼は病気になった。最初はただの風邪だと思っていたのだが、咳が何時まで経っても止まらなかった。そしてやがて肺がひどく痛むようになり、彼は自分が風邪とは違う病気にかかっていることに気がついた。
 しかし医者はいない。なんとか風邪薬でごまかしていた彼は、やがて喀血するようになった。
 完全に肺がやられている。しかし彼にはどうすることもできない。
 彼はせめて生きている間に誰かに会いたいと願い、体を引きずるようにして必死に移動をしていた。しかしやがて動くこともまともにできなくなった。そして民家に入り、休憩することにした。
 その辺りで、日記の記述は終わっている。
 最後のほうでは文字がずいぶんと乱れており、体力的にも精神的にもかなり疲労していることが伺えた。
 結局彼は、自分以外の人間に会うことができないまま、孤独の中に死んだ。
 彼が肺を患ってからの文章には、現実に対する嘆きがあちこちに現れていた。
 孤独のまま死にたくない。自分がここにいるのだと誰かに伝えたい。
 しかし彼は、一人で死んだ。
 飛鳥はその日記を最初から最後まで何度も読み返した。そして気づけばもう夜は明け、外は少し明るくなり始めていた。
 彼女はランプの明かりを消し、日記帳を閉じた。そしてそのままベッドに横になった。
 意図せずしてしまった徹夜のせいで、脳の奥にしびれているような感覚がある。そして半ば麻痺したような頭の中を、沢山の言葉が駆け巡っている。判然としないその無数の言葉は、心の底にゆっくりと降り積もっていった。

 3

 雨は降り続いていた。
 きっとこの雨が止んだ時、季節は完全に夏に切り替わるのだろう。
 飛鳥は一日中ベッドの上で過ごした。
 天井を眺めながら、彼女は色々なことを思い出していた。人が居なくなってから、自分はどうやって生きてきたのか。そして居なくなる前はどうだったのか。
 孤独だったのか。苦しかったのか。
 どんな悲しいことがあったのか。また、楽しいことは何があったのか。
 今までどんな人間と出会ったのか。彼らは自分にとってどういう存在だったのか。
 そして、そんな人生に希望はあったのか。
 自分の今までの人生を何度も回想し、そして沢山のことを考えた。そして気づけばその一日は終わっていた。

 雨は止んだ。
 天気が良くなり、雲の隙間から太陽が覗いている。その輝きに思わず目を細めてしまう。
 そしてどういうわけか、微かに涙が溢れた。それを拭い、飛鳥は顔をあげる。
「よし」
 そして彼女は準備を始めた。
 かつて繁華街だった場所に行き、あちこちから必要そうなものを集めていく。そしてそれらを大きな鞄に詰め込んでいった。
 ――私は今まで、この世界にはもう私しかいないと思い込んでいた。
 そう思い込み、絶望し、すべてを諦めていた。このまま一人で生きて、一人で死んでいくしか無いのだと、そう信じきっていた。
 まったく同じような境遇に置かれた彼との唯一の違いが、ここにある。
 私は他の人間を探そうとは思わなかった。しかし彼は、人に会うために旅に出た。人を探し始めた。それが絶望を再確認することにしかならないかもしれないと思いながらもなお、それを選択した。
 彼は結局、誰にも会うことができずに孤独の中で死んでいった。
 だが――、と飛鳥は思う。
 彼の願いは、最後の最後で叶っている。
 他の人間に会うという願いは、彼が死んだ後に、叶ったのだ。彼の死体は私に発見された。もう自分一人しかいないのではないかと思っていたこの状況で、それはもはや、奇跡に等しい出来事なのだと思う。
「……これで十分かな」
 旅など今までしたことがない。とりあえずそれらしいものを鞄に詰め込んだだけだ。
 行こう。
 彼は進んだ。嘆きながら、絶望しながらも進み続けた。そしてそのおかげで、私はきっと救われたのだ。ならば行かねばならない。
 顔を上げると強い陽光が目に飛び込んできた。
 ジリジリと焼くような強い光。それは間違いなく真夏のそれだった。
 どこか懐かしい夏のかおりが鼻先に漂っている。それを小さく吸い込み、瀬能飛鳥は一歩を踏み出した。

  <了>

誰もいない夏

誰もいない夏

ある日、世界から人が消えた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-04

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